1969年の東大安田講堂攻防戦から51年目となる2020年1月18日、東京・神田の学士会館で「続・全共闘白書」出版記念会が開催され、100名を超える参加者があった。
この「続・全共闘白書」とは本の「まえがき」によると

「(前略)あれから50年、私たちには伝え遺したいことがある。
 『続全共闘白書』へのご協力のお願い
全共闘運動から50年、みなさんいかがお暮しでしょうか?
全共闘運動の頂上決戦となった安田講堂攻防戦から四半世紀が経過した1994年の前年、全共闘運動 にかかわった有志により、『今こそ語りはじめよう全共闘世代』と銘打って以下の呼びかけがなされました。
 『それぞれが自らでさえ持て余しぎみの情熱をぶつけあいながら、世の中の枠組みを変えようと した私たちの「思春期」から、二十余年の星霜が流れました。(中略)そして、今、私たちは「思秋期」――自らの“行く末”がおおよそ見えてくると同時に、何事かをなすには体力の限界を感じるたいへん悩ましい時期――にさしかかっています。私たちは「巨大な塊り」であるがゆえに、つねに社会の矛盾を集中的に受けると同時に、社会に矛盾を生み出す素でもあり続けてきました。公的年金を支え続けてきたのに、当の私たちが過労死と失業をなんとか潜りぬけて退職しても、私たちの年金を支えてくれる国民は圧倒的に足りないことが、象徴的な事例でしょう。私たちの「明日」は決して明るくはありません。だからといって私たちの「明日」を誰かにゆだねるのは、かつて私たちがもっとも嫌った道でした。それは今も私たちがもっとも嫌う道です。私たち自身が私たちの未来の当事者でなければなりません。(中略)もちろんこの20数年で私たちはそれぞれ大きく変わったことを認めなければなりません。その違いと変化を認めあう中から、新しいネットワークのありようを展望していきたいと考えます。』
その第一歩として、収入から年金・介護問題、政治参加の意思など73項目のアンケートを実施したと ころ、発送総数約5千に対して、全国86大学・高校全共闘体験者から526通の回答を得て1994年 夏に『全共闘白書』(新潮社)として刊行。この種の硬派系としては破格の4万部超を売り上げ、これが 契機となって『日大930の会』をはじめ、様々な『再会』が実現、『全共闘運動の歴史的意義』をめぐる議論にも資することができました。
あれからさらに四半世紀が経過、時代状況はますます悪化と劣化に向かうなか、私たち全共闘世代もついに後期高齢者に仲間入りします。このまま『社会のお荷物』として座して消えゆくわけにはいきません。
私たちならではの『社会的けじめ』をつけ自覚と覚悟をもって旅立ちたい。そのためにアンケートを実施、前回同様出版化して社会に発信します。おそらくこれが私たち全共闘世代の『遺言』となるでしょう。
前回回答された方はもちろんのこと、今回本企画を初めて知った方にも、ご協力をお願いいたします。
2018年12月
(中略)
以上の『呼びかけ文』につづき、収入から年金・介護問題、政治・社会制度への問題提起など前回を上回る75の設問のアンケート(詳細は12~18ページ参照)を実施したところ、2019年8月の最終締切までに450超もの回答が寄せられました。
 出身大学はのべ96校(短大、附属専門学校等を含む)、高校からものべ22校、中学生から1校、他に校名を秘匿した回答もあり、往時の全共闘運動がいかに地域と学園を超えて闘われた多種多様な運動であったかを物語っています。
 また日大・東大闘争の被告、さらに獄中からは重信房子氏、和光晴生氏、北朝鮮からは「よど号」当事者からも回答が寄せられました。
 着目すべきは、前回にくらべて“思いのたけ”が濃密に書き込まれていることです。
 おそらく、50年前、社会の諸制度に対する異議申し立ての運動を起こした全共闘運動経験者も、いまや『後期高齢者』を目前にして、これが“社会的遺言”になると自覚されてのことだと思われます。
したがって、本書を歴史的レポートとすべく、回答は基本的にほぼそのままの形で掲載することにいたしました。(後略)」

私もこの編集作業のお手伝いをさせていただいた関係で、この出版記念会に参加した。以下、その報告である。
出版記念会の司会はジャーナリストの二木啓孝氏である。

【「続・全共闘白書」出版記念会】
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二木
「只今より『続・全共闘白書』出版記念会を始めたいと思います。(拍手)
51年前の今日、1969年1月18日・19日というのは東大の安田決戦の日でした。もちろん占拠で闘った方もいます。外で御茶ノ水で神田カルチェラタンを闘った方もいらっしゃるということで、この日に皆さんと『続・全共闘白書』の記念会を開催するというのは、ありがたく思っています。
最初に、この『全共闘白書』を作ったいきさつと苦労話を、編纂実行委員会の前田和男さんから報告していただきたいと思います。」

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前田「今回の目的は、51年前に安田講堂の攻防戦がありまして、あれから半世紀が経ちました。多くの人たちが古希(70歳)を越えて、後期高齢者にもなる。先に亡くなられた方もいますが、その人たちのためにもしっかりけじめをつけて、私たちのやり残したことを語り継いでいきたいというのが今回の願いです。
25年前に私たちは『全共闘白書』を作りました。これは全共闘運動から四半世紀ということで、この時は73項目に渡ってアンケートを取りまして、526人の方が回答されました。それから25年経ったので、もう1回やろうかということで前回の回答者に郵送したところ、届いたのは200通くらいでした。かなりの人たちが亡くなられている。そのような状況の中で、今回この本が刊行されました。
25年目に比べて違うのは、最後に『今だから話せる当時のこと、今こそぜひとも伝え遺したいことを自由にお書きください』という設問があるのですが、25年前に比べると圧倒的に回答が多い。たぶんこれはある意味で私たちの『遺言』になるだろう。それも回顧というのではなくて、『何かを語り継ぎたい』ということが濃厚にある。全共闘運動が何であったのかということを、25年後にもう一度定点観測したことによって、深く浮かび上がってくるものがあると思います。是非お買い求め下さい。」

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<クロス・トーク>
二木「全共闘白書で回答を寄せた方2人に、現役の東大3年生の方が質問していただきます。回答者はこちらで指名させていただいたMさん(東大)とWさん(明大)、東大3年生はNさんです。
Nさんはどういういきさつで今日来たんですか?」

「東大3年のNと申します。よろしくお願いします。東大に『ビラ研究会』という昔のビラ、今のビラもありますが、学生運動に関わるビラを蒐集して、かつ学生の文化を研究しようというサークルがありまして、そこで活動しています。実際に当事者の方にお話しを伺うという活動をやっていますが、ご縁をいただいて、今回このような場所に来させていただきました。よろしくお願いします。」

二木「回答者の2人の方から、アンケートに答えられたことと、学生運動に関わった後、どういことをされたのか短くお話いただきたいと思います。」

「私は1947年生まれです。浪人などして東大に入り、駒場で全共闘に参加しました。最初は穏健な立場だったので、必ずしも全共闘寄りでもなかった。暴力はあまり好きではなかった。ところがクラス討論でいろんな討論をやるうちにだんだん変わって全共闘に参加するようになりました。69年の安田講堂攻防戦の前後で社会全体がもっと盛り上がる、フランスの5月革命のようになると思っていましたが、そうはならなず、がっかりして自宅にこもり、何で社会を動かせなかったのか考え続けました。社会を動かすという意味で、いろんな人を巻き込むために、地域でベ平連を作りました。また、地元の環境問題の運動にも関わりました。就職して組合活動をしましたが、組合のひどさにもがっかりして、革新系全体に対する不信感が生まれました。その後アメリカに留学。帰ってきてから企業や大学に勤め、今は沖縄の基地問題を中心にジャーナリストとして活動しています。」

「69年明大入学です。高校の時に民青系のサークルに入りましたが、67年10月8日の羽田闘争に大きな影響を受けました。東京に行って大学で学生運動をやるんだという気持ちでした。大学に入ってすぐストライキがあって、それからずっと毎日闘争に明け暮れるという生活を送りました。授業にはほとんど出ませんでしたが、大学にいる時間は長かった。学館に泊まったりする生活を送っていました。71年6月に逮捕されて72年に出てきたら、内ゲバばかりやっている。それで生協に入った。政治的課題を追いかけていても限界があると思っていたので、地域からもう1回社会を見ようと思って、ずっと生協活動を続けてきました。生協の理事長をやって、8年前に退任して今日に至っています。退任後は、差別問題とか社会的連帯経済を広める活動をしています。」

二木「Nさん、『続・全共闘白書』を読んだ印象と2人の自己紹介の感想などお話いただけますか。」

「『続・全共闘白書』は全部は読んではいませんが、感想として、最後の自由記述欄に詳細に書いている方が多くて、僕らから見れば50年以上前の先輩方ということで、そろそろ後期高齢者に入られる方が多いと思いますので、老い先短いというか、半ば遺言のような感じで僕たち語りかけるような内容がかなり多かったかなと感じました。それからお2人の自己紹介について、学生時代に大規模な社会変革を志した方だと思いますが、その意志というのを何らかの形で後の人生に持ち続けて実践しておられたというがすごいと思いますし、個人的にも尊敬できると思います。
質問ですが、全共闘運動というものが当時何故可能だったのかということをお聞きしたい。というのも、最近の社会変革をめざす運動というのは、安保法制反対の国会前の集会がありましたが、国会前ではやるが大学ではあまりやっていない、国会前の場ではやるが大学という場ではやらない。今とは質的に全然違う運動が、あの時代に何故起こることができたのか、お聞きしたいと思います。」

「難しい質問で何故だかよく分からないところもあります。ただ、背景としてベトナム戦争があった時代なんです。正義に反する戦争が行われ、政府がそれに協力している、企業も一部協力しているという、それに対する怒りみたいなものは全般的にあったと思います。それからもう一つは、高度成長の時代でしたが、その反面、水俣病などの公害がたくさん出ていて、学者たちが政府・企業に協力する、それでいいのかというのがあった。潜在的に背景として政府、企業というのは悪く見えた。アメリカも非常に悪く見えた。反発する対象というのが非常にクリアだった。東大の医学部闘争の時に教授たちは権威主義をかざした。それに対する反発があった。全般的には反体制運動というよりは、こんなに問題があっていいのかという疑問に対して教授たちは権威主義で対応した、ということが背景にあったと思います。セクトだけでなくノンセクトや一般の学生も含めて、今の社会はおかしいじゃないか、大学の在り方はおかしいじゃないかということがかなり共通の気分としてあって、戦闘的に闘った人はごく一部だったかもしれないけれど、それを心情的に支持する人はたくさんいたんです。ある世論調査で、東大の場合は6割が全共闘を何となく支持するというデータがありました。それはその時の実態を表したものだと思います。」

「やはりベトナム戦争が心に突き刺さるものがあったと思います。もう一つは60年安保世代の人たちが、闘争がなくなっていく中で、日韓闘争とか学費闘争で頑張って、それなりに社会を何とかしなくてはいけないという形でやっていて、それを67年10・8闘争みたいな形で表現していった。僕らは、体を張って角材を持って機動隊に向かっていく姿を見せられた時に、それば何故なのかという憧れみたいなものもあったと思います。一方ではピッピーとかフーテンみたいなものもあって、僕らの世代はピッピーをやるのかフーテンをやるのか学生運動で突っ張るのか、どこにどういう価値観をもっていくのか、高度成長の中で問われた時代だった。そういう背景があった。
それと大学で何故できたのかというと、それなりに大学の先生でも支持する人たちがいて、意外と寛容に見てくれていたということがあります。今は大学は立て看も出せない、ビラ撒きもできない。当時は戦争を経験した人たちが大学側にもいて、そういった運動にも寛容な雰囲気があって、我々を助けてくれた。
それと今は授業料が高すぎる。僕らの時は生活費を含めて何とかなった。今は1回やると社会復帰できないみたいな雰囲気があるような気がするけれど、僕らの時はそれはなかった。」

二木「先週の東京新聞でジャーナリストの鎌田慧さんが『続・全共闘白書』についてコラムに『内ゲバと爆弾闘争がなければ、着実の運動は拡大していたはず』と書いていました。セクトとノンセクトでは運動の風景の見え方が違っていたのではないか。Wさん、党派から見て風景の違いはありましたか。」

「僕は運動をやる時に、組織的にやることに魅力を感じていた。組織された暴力という立場で運動を考えていました。内ゲバはやりました。内部抗争で党は鍛えられるとか、『ロシア共産党党内闘争史』など読んでいました。」

二木「この『続・全共闘白書』のアンケートで『運動をやめた理由』として内ゲバというのが結構出てきます。Mさん、セクトが先鋭化することで運動を引っ張っていったけれども、その功罪はノンセクトの方にどのように見えましたか。」

「最後まで私がセクトに入らなかった理由は、一つは暴力です。それともう一つは言葉が硬直しているという印象がありました。普通の人間の感覚と全く違う世界に行って頑張っている人たちみたいで、頑張っているけれどちょと違うなという感じがあった。それとノンセクトの場合は、全く一般学生で、一部は極めて保守的な人まで全共闘に入ってきた。これはクラス討論などで蓄積されて、いろんな人が変わっていったということがあると思う。セクトの場合は初めから理論があった。その違いはものすごく大きかった。ただセクトを全く否定している訳ではなくて、セクトがあったから切り拓いたという面がずいぶんある。先鋭的な人たちと、それを支える、理解を示す人たちが膨大にいた、そういう関係にあったのではないかと思います。ただ、闘争が終わった後、どう振る舞うかという面ではセクトの人はセクトに依っていくわけで、セクトの理論でいくか迷いがあったのでしょうが、ノンセクトの場合は個人に還元されたということがあって、それぞれがそれぞれの道を選んで、いろんな形で社会の中に入って社会の中でどう貢献するのか、何をやったら全共闘の中で得たものを活かせるのかと考えた人は非常に多かったと思います。全部が全部、目的意識を持って生きてきたかどうかは別ですが。」

二木「セクトとノンセクトの違いは、社会主義とか共産主義とか革命を目指すのか目指さないのかということだと思います。Nさんにとって社会主義とかマルクス主義はどう見えますか。」

「古典化されたものとしては終わりつつある。研究方面では新しい読み方も出てきたようですが、個人的にはどうかなと思います。」

二木「最初のクロストークはこれで終わらせていただきます。」

<参加者からの挨拶>
二木「中国から留学してこられて、現在は神戸大学で講師として教えていらっしゃる劉燕子さんから発言をお願いします。」

「みなさん今晩は。私はリュウ・イェンズといいます。インターネットで今日の集会を知り大阪から参りました。私は若い世代の一人として、記憶を継承することの大切さを思っています。『続・全共闘白書』は送っていただき、新幹線の中で読みました。資料集としてとても大切だと思います。25年前の『全共闘白書』も読みました。私は日本戦後の歩んできた歴史、社会運動にとても興味を持っています。私は大学で中国語を教えながら、日本語で伝えようとしています。忘れられた声、抹殺された声をすくいあげて日本の読者の伝えようとしています。私は天安門世代です。1989年の天安門事件は、まだ皆さんの記憶にありますでしょうか。去年、30周年になりました。皆さんの(全共闘運動と)同時期に中国で文化大革命がありました。数千万人が命を落としました。この文革も、天安門事件も今日の中国ではタブーで一切伝えることができません。記憶するどころか抹殺しようとしています。どうやって記憶を次の世代に伝えるか、私は学生に教える時も、やはり『おかしいことはおかしい』と気づく感性とそれを支える知性を教えたいです。また、『おかしいことはおかしい』と言う勇気とともに、実践することを続けることの大切さを伝えたいと思っています。
皆さんに質問がたくさんありますが、一つだけ質問させていただきたいと思います。さっき、運動に参加するきっかけが時代の雰囲気とか不正義な戦争、ベトナム戦争とか、またパリの5月革命など仰っていました。この本の中で、同時代の中国の文化大革命、『造反有理』についてあまり語っていないなと思っています。当時のセクトはたくさんの言葉、『粛清』『粉砕』そういう言葉をそのまま使っているんですけれども、この本の中に中国の影響についてあまり語られなかったので質問したいと思います。戦後の中国は、日本の思想史、精神史に大きな影響を与えたと思いますが、どう思いますか?また、もう一つは、25年前に出した『全共闘白書』では、中国に対するイメージは好きな国というのが多かったのですが、今回は中国が嫌いが増えていますので、質問したいことがたくさんあります。時間がありましたらよろしくお願いします。」

二木「劉さんの質問は全員答えられると思います、懇親会でお願いします。劉さんは翻訳の本をいっぱい出しています。ご存知の劉暁波さんの本もあります。今日も持ってきています。是非買ってください。」
(劉燕子さんのプロフィール:中日新聞記事より)
1965年生まれ。中国湖南省で育つ。祖父は文化大革命で牛小屋に拘禁されて死去。父は北京大学に在籍していた時に「準右派分子」とされ、除籍後に鉱山で労働改造を続けさせられた。師範専門学校を卒業後、地元の教育委員会に勤務していた89年に天安門事件が発生。来日して関西の大学院などで学び、現在は神戸大などで非常勤講師として教えつつ日中バイリンガルで著述・翻訳。2003年に日本国籍を取得。劉暁波氏や亡命作家などの中国では発表できない作品を紹介。天安門事件の30年に合わせて「『〇八憲章』で学ぶ教養中国語」(集広舎)を出版するなど著作多数。
(劉さんからの補足)
1.同時代の中国文化大革命、そこにおける「世界革命」や「造反有理」が全共闘のみなさんにどのような影響を与えたのか、日本の戦後の精神史にどのように位置づけられるのか、知りたいと思いました。
2.みなさまの努力や記憶を継承し、おかしいことはおかしいことと気づく感性とそれを支える知性をもって、「おかしい」と言い、行動する信念や勇気を持ち続けたいと存じます。
このことをバイリンガルの執筆活動や授業を通して一所懸命に若い世代に伝えようとしています。

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(中日新聞記事)

二木「続いて元総理、菅直人さんがお見えになっています。」

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「私は本来なら1969年に卒業予定でした。東工大はあまりストライキのないところなんですが、その直前にストライキになりまして、ちょっと首を突っ込んだら首が抜けなくなって1年間留年をして、その時に『全学改革推進会議』というセクトとは関係のないグループを作って、今でもその仲間と会っています。ストライキの翌年に機動隊が入っていわゆる正常化が行われた翌日から、学生が全部出てきて授業が始まった。私は4年生で卒業していたので授業に出ていませんでしたけれども、あまりにもあっけなかったので、その時『全共闘運動に対する共感と批判』という論文を書きました。持ってきましたので、関心のある方はご覧ください。

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もう一つ言いますと、せっかくあれだけの運動がありながら、その後の日本の政治、一般的な意味での政界に、ヨーロッパでは多くの方が出て来られたと聞いていますけれども、日本では例えば東大全共闘だった今井さんだとか、亡くなった仙谷さんとか、そういう何人かの方は政界に出てこられましたが、政界に出てきた方が少ないのが、私としては残念です。その原因は、さきほど二木さんが言われていましたが、内ゲバの延長上にいろいろな問題があって、がんばった方ほどやはり挫折感があったのではないか。挫折感があったので、立候補しようという話にはならなくて、私みたいに能天気な人間の方が、市民運動を通してそういうところに入っていったら、何かそういうことになっちゃったということなんですが、そういうことで今日はメールが来たものですがら、ちょっと顔を出してみようかなと思ってやってまいりました。
『全共闘運動に対する共感と批判』という論文を持ってきましたが、今読んでどうということはないんです。あえて一言いえば。私は全共闘運動というのはマルクス主義の運動とは全然見ていません。つまり疎外だとか文明批判だった。『共感』と書いたのは文明批判の部分が『共感』なんです。『批判』は古典的マルクス主義は当時から論理としても成り立っていないと思っていましたので、そんなことを書きました。」
(注:「全学改革推進会議」は「全共闘」とは別のグループです。詳しくは記事の最後に掲載した「全国学園闘争アーカイブス」の「全国学園闘争東京工業大学編」を参照して下さい。)

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(『全共闘運動に対する共感と批判』)

二木「菅さんありがとうございました。今日来られないということで、何人かからメッセージをいただいています。」

<メッセージ>
「この度は『続・全共闘白書』をお送りいただきありがとうございます。拝読いたします。
鳩山由紀夫」
「集えば50年という歳月が一瞬に吹き飛んでしまうような気がします。でも確かに半世紀生きてきたそれぞれのその後の人生があると思います。今回の出版の労をお取り下さった皆さまにただならぬご苦労をおかけしました。記録として残していただいたことに感謝します。
阿部知子」
「れいわ新選組代表の山本太郎です。
『続・全共闘白書』の出版、おめでとうございます。
『続・全共闘白書』の設問中『もっとも好きな政治家』『好き嫌いは別にしてもっとも注目する政治家』では、私、山本太郎がダントツの1位、また『もっとも注目する政党』でも、私が代表をつとめる『れいわ新選組』が立憲民主党についで2位と伺いました。
誠に光栄です。
また、『もっとも注目する言論人』では白井聡さんが1位とのこと。古稀をこえた元全共闘のみなさんが、私や白井さんのような若い世代との連携を求めていることは大変心強いことです。
50年前に日本と世界を変えようとしたみなさんの熱い闘いを、私たち下の世代がしっかりと引き継ぎたいと思います。
本日はぜひとも駈け付けてご挨拶かたがた、皆さまからエネルギーをいただこうと思っておりましたが、この土日は、安倍一強政権を打倒するため全国キャランバンに出かけます。
ご盛会をお祈りすると共に、これからも、共に闘い続けることをお誓いしたいと思います。
れいわ新選組代表 山本太郎」

第一部はこれで終了し、会場設営後、第二部の懇親会に移った。

<乾杯>
「皆さまの益々のご健勝と、日本社会が少しでも良くなるように、また、トランプなどを許さず、香港の若者たちに連帯して乾杯!」

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懇親会では何人かの方から発言があったが、発言は省略する。(会場内が騒がしく発言がよく聞き取れない。)

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懇親会の最後はやはりこれ。全員でインターナショナルの斉唱で締めた。

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懇親会の後は近くの店に移動して二次会。出版記念会参加者の半数近くの方が参加して盛り上がった。

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(終)
【全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」では、高校・大学合わせて約120校の方からアンケートが寄せられた。
東大・日大闘争以外の学園闘争は記録もほとんどなく、いわば「知られざる学園闘争」となっているが、この「白書」をより深く読むためには、それぞれの闘争の内容を知る必要がある。
このブログでは「全国学園闘争の記録」として、今まで、大学では明治大学、明治学院大学、青山学院大学、東洋大学、東京工業大学、竜谷大学、上智大学、立命館大学、慶應大学、関西大学、国士館大学、拓殖大学、国際基督教大学、関西学院大学、大阪市立大学の闘争について掲載してきた。
また、高校では都立青山高校、都立日比谷高校、都立立川高校などの闘争も「高校生たちの闘い」として掲載してきた。
ホームページ「明大全共闘・学館闘争・文連」では、各大学の大学新聞やビラなど資料も公開している。
今後も出来るだけ「知られざる学園闘争」を掘り起こしていきたいと思っている。
さて、今回の「出版記念会」での菅直人氏の発言の中にあった「全学改革推進会議」とは何であったのか、以下の東工大の記録をご覧いただきたい。

1968-69全国学園闘争 東京工業大学編その1
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2009-10-23.html
1968-69全国学園闘争 東京工業大学編その2
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2009-10-30.html
1968-69全国学園闘争 東京工業大学編その3
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2009-11-06.html
【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」好評発売中!

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A5版720ページ
定価3,500円(税別)
情況出版刊
(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com 

【お知らせ その2】
「高校闘争から半世紀」~私たちは何を残したのか、未来への継承~

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日時:2月11日(祝)13:00~17:00
会場:連合会館 2階大会議室
(千代田区神田駿河台3-2-11 東京メトロ「新御茶ノ水」駅 B3出口すぐ
JR中央線「御茶ノ水」駅 聖橋口徒歩5分
【プログラム概要】
Ⅰ部 1968 年は我々に何をもたらしたか ―自己否定を巡って― 山本義隆(東大全共闘)+高校全共闘(都立青山高校・麻布学園高校・教育大付属駒場高校・県立仙台一 高・慶應高校・灘高校・都立日比谷高校・県立掛川西高校・都立竹早高校など)が登壇予定 司会:高橋順一(武蔵高校・早稲田大学教育学部教授)
Ⅱ部 運動の現場から ―香港の学生・日本の高校生の闘い―
香港の闘う学生+日本の闘う高校生+高校全共闘+全中共闘などが登壇予定 司会:初沢亜利(ドキュメンタリー写真家、東北・沖縄・北朝鮮・香港などの現場撮影取材)
Ⅲ部 ぼくたちの失敗 ―僕たちは何を失い何を獲得したのか―
高校全共闘(都立上野高校・都立九段高校・新潟明訓高校・県立旭丘高校・県立千葉高校・都立北高校・ 府立市岡高校・都立立川高校など)+全中共闘(麹町中学・日本女子大付属中学など)が登壇予定 司会:小林哲夫(高校紛争1969‐1970「闘争」の歴史と証言 著者)

【お知らせ その3】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」
1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。  2019年8月
●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
 呼びかけ人 ・ 賛同人  (いずれかに○で囲んでください)
氏 名           (ペンネーム           )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話  086-242-5220  FAX 086-244-7724
メール  E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)
●基金振込先
<銀行振込の場合>
みずほ銀行岡山支店(店番号521)
口座番号:3031882
口座名:糟谷プロジェクト
<郵便局からの場合>
記号 15400  番号 39802021
<他金融機関からの場合>
【店名】 五四八
【店番】 548 【預金種目】普通預金  
【口座番号】3980202
<郵便振替用紙で振込みの場合>
名義:内藤秀之 口座番号:01260-2-34985
●管理人注
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

【お知らせ その4】
ブログは隔週で更新しています。
次回は2月21日(金)に更新予定です。