「1960年代と私」は、重信房子さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章である。この「1960年代と私」は三部構成となっており、第一部は明大入学の1965年から1966・67年の明大学費闘争まで、第二部は1967年から1969年にかけての砂川闘争、10・8羽田闘争、神田カルチェラタン闘争など、第三部は「赤軍派時代」として1969年の赤軍派結成から赤軍派崩壊、そして連合赤軍への道が描かれている。
「1960年代と私」の第一部は、既に私のブログで公開しており、2017年5月に公開を終えている。
現在、第一部に続き第二部を公開中であるが、第二部も文字量が多いので、10回程度に分けて公開する予定である。今回は、第二部第二章(4)と(5)である。
なお。(4)「御茶ノ水・神田カルチェラタン闘争へ」については、2018年の10月にブログに掲載しているが、その後、重信さんによる加筆・訂正があったので、新しい写真も加えて再掲した。
現在、第一部に続き第二部を公開中であるが、第二部も文字量が多いので、10回程度に分けて公開する予定である。今回は、第二部第二章(4)と(5)である。
なお。(4)「御茶ノ水・神田カルチェラタン闘争へ」については、2018年の10月にブログに掲載しているが、その後、重信さんによる加筆・訂正があったので、新しい写真も加えて再掲した。
1960年代と私 第2部 高揚する学生運動の中で(目次)
第2章 国際連帯する学生運動
1.高揚する街頭行動と全学連 (2019.9.13掲載)
2.三里塚闘争への参加 (2020.1.24掲載)
3.68年 高揚の中の現思研 (2020.1.24掲載)
4.初めての御茶ノ水・神田カルチェラタン闘争へ 1968年6月(今回掲載)
5.三派全学連の分裂―反帝全学連へ(今回掲載)
6.ブントの国際反戦集会
7.全国全共闘の波
8.現思研の仲間 遠山美枝子さんのこと
9.現思研・社学同とML派の対立
10.69年 東大闘争
11.新しい経験と4・28闘争
1960年代と私 第2部 高揚する学生運動の中で
第2章 国際連帯する学生運動
1.高揚する街頭行動と全学連 (2019.9.13掲載)
2.三里塚闘争への参加 (2020.1.24掲載)
3.68年 高揚の中の現思研 (2020.1.24掲載)
4.初めての御茶ノ水・神田カルチェラタン闘争へ 1968年6月(今回掲載)
5.三派全学連の分裂―反帝全学連へ(今回掲載)
6.ブントの国際反戦集会
7.全国全共闘の波
8.現思研の仲間 遠山美枝子さんのこと
9.現思研・社学同とML派の対立
10.69年 東大闘争
11.新しい経験と4・28闘争
1960年代と私 第2部 高揚する学生運動の中で
第2章 国際連帯する学生運動
4.初めての御茶ノ水・神田カルチェラタン闘争へ 1968年6月
67~68年のベトナム反戦を求める闘いが米政府を追い詰め、米国内でも学生・市民の反戦運動が広がっていました。また、欧州でも反戦闘争と労働運動・学生運動が結びつき、革命をもとめる新左翼潮流の活動が汎欧州レベルに広がっていきました。このころのこうした海外の動きは、日本の新聞の国際面でも大きなニュースとなって私たちの興味を引いていたのです。毛沢東の言葉を借りれば、「国家は独立を求め、民族は解放を求め、人民は革命を求める」60年代を体現し、ことに資本主義国においては、その闘いの質の同時性を表現していました。これまでのソ連型の共産主義・社会主義にとってかわる闘いが各地で討論となり各国共産党批判となっていました。資本主義にとってかわる社会主義計画経済は、資本主義を揚棄する道に進んでいるのか?否。プロレタリアートの独裁とは、プロレタリアートが例外なく社会成員を解放する能力を持つこと、つまり人間解放が故ではなかったのか?それが党独裁の官僚機構へと変質しているのではないか?チェコスロバキアではドプチェク第一書記のもとで改革が始まり、ソ連との矛盾があきらかになっていました。ソ連中心の国際共産主義運動は「平和共存」の名で各国の階級関係の現状固定をのぞみ、人民の闘いに連帯する国際主義を失っているのではないか?などなど。当時の欧米の新左翼運動や人種差別に反対する運動は、ラジカルな変革を求めていました。5月にパリでは、学生運動と労働運動が結びついた「5月革命」と呼ばれる闘いが始まろうとしていました。
私たち社学同・現思研は神田・御茶ノ水の大学同士の助け合いの「闘いの季節」の中にいました。現思研の67年68年の活動は、いわば全盛時代で、学生運動の盛んな時代と重なります。
私が、まだ卒論作業に意欲的なころにパリの5月革命の闘いがニュースになりました。「すごい!労働者と学生が一体になって蜂起している!」と新聞、テレビのニュースから学館の仲間たちは沸き立っています。「パリのカルチェラタンの機動隊との攻防はすごいな。あれは学生街だぞ!御茶ノ水街・神田街でも戦えるんじゃないか?!」と大いに話題になりました。
6月には、7日全学連統一行動、6月15日共産主義者同盟の政治集会や6月21日全学連集会が街頭行動としても続きます。東京の社学同の中心として明大も「2・2協定」をのりこえて再び力を増し、中大や医科歯科大、専修大と共にラジカルに活動していたころです。私たちの仲間ばかりか、いろいろな友人たちが御茶ノ水から神田一帯のカルチェラタン闘争を、いつかやろうと言い出しました。明大が地理的にも重要な場所にあります。御茶ノ水駅から明大前通りの駿河台下まで解放区にできるからです。
パリの5月、カルチェラタン闘争から1ケ月もたたない頃です。6月のある日、当時社学同の委員長だった早大の村田さんが現思研に来ました。早大の村田さんと医科歯科大の山下さんが、私の社学同加盟の時の推薦人でした。「おいカルチェラタンやらんか?!パリのカルチェラタンみたいなの。やれるのは、やっぱり明治だろ。中大で全学連の社学同集会をやって呼応させるから」と。全学連統一行動の中で、当時ブントはアスパック(アジア太平洋閣僚会議)反対闘争を、日米によるアジア政治経済支配として重視していて、中核派とは違う党派性として主張していました。「4・26の国際統一行動は、機動隊に御茶ノ水駅で封じ込められたから、今度はゲリラ的に闘って、解放区を作ろうぜ」と村田さんは気軽に言います。
「でも、とっかかりがないと・・・。どうやってカルチェラタンのような解放区が出来るかな」みんなで語り合いました。「やったら何とかなるって」といつものブントの官僚的な説得ですが、実は現思研のみんなもやりたいのです。昼間部に頼まず、夜間部に頼んできたのは、昼間部は中大全学連社学同系集会に参加動員のためだったかもしれません。
とにかくみんなでワイワイ話し合って、「やってみよう」ということになりました。社会的な影響や責任は問われるな・・・と思いつつ、新宿駅のヒッピーやフォークソングの広場まで制圧しようするこの間の警察の強権や、日大を含めた街頭抗議も続いていて、「4・26闘争のお返しとして駅前交番を占拠して赤旗を立てよう」などと、ゲリラ戦術になると、みんな次々とアイディアが浮かびます。二部の学生が授業の始まる直前の5時ころには、御茶ノ水駅から明大前通りは、昼間の学生あわせて歩道をはみ出すほどの人でいっぱいになります。その時を狙おうということにしました。それに、私たちの多くは、仕事をもって勤めていて、昼間から参加できる人は少ないのです。中大で行われる全学連社学同の決起集会も夕方には呼応できるし、5時半の授業開始前に闘いを始めることにしました。

4.初めての御茶ノ水・神田カルチェラタン闘争へ 1968年6月
67~68年のベトナム反戦を求める闘いが米政府を追い詰め、米国内でも学生・市民の反戦運動が広がっていました。また、欧州でも反戦闘争と労働運動・学生運動が結びつき、革命をもとめる新左翼潮流の活動が汎欧州レベルに広がっていきました。このころのこうした海外の動きは、日本の新聞の国際面でも大きなニュースとなって私たちの興味を引いていたのです。毛沢東の言葉を借りれば、「国家は独立を求め、民族は解放を求め、人民は革命を求める」60年代を体現し、ことに資本主義国においては、その闘いの質の同時性を表現していました。これまでのソ連型の共産主義・社会主義にとってかわる闘いが各地で討論となり各国共産党批判となっていました。資本主義にとってかわる社会主義計画経済は、資本主義を揚棄する道に進んでいるのか?否。プロレタリアートの独裁とは、プロレタリアートが例外なく社会成員を解放する能力を持つこと、つまり人間解放が故ではなかったのか?それが党独裁の官僚機構へと変質しているのではないか?チェコスロバキアではドプチェク第一書記のもとで改革が始まり、ソ連との矛盾があきらかになっていました。ソ連中心の国際共産主義運動は「平和共存」の名で各国の階級関係の現状固定をのぞみ、人民の闘いに連帯する国際主義を失っているのではないか?などなど。当時の欧米の新左翼運動や人種差別に反対する運動は、ラジカルな変革を求めていました。5月にパリでは、学生運動と労働運動が結びついた「5月革命」と呼ばれる闘いが始まろうとしていました。
私たち社学同・現思研は神田・御茶ノ水の大学同士の助け合いの「闘いの季節」の中にいました。現思研の67年68年の活動は、いわば全盛時代で、学生運動の盛んな時代と重なります。
私が、まだ卒論作業に意欲的なころにパリの5月革命の闘いがニュースになりました。「すごい!労働者と学生が一体になって蜂起している!」と新聞、テレビのニュースから学館の仲間たちは沸き立っています。「パリのカルチェラタンの機動隊との攻防はすごいな。あれは学生街だぞ!御茶ノ水街・神田街でも戦えるんじゃないか?!」と大いに話題になりました。
6月には、7日全学連統一行動、6月15日共産主義者同盟の政治集会や6月21日全学連集会が街頭行動としても続きます。東京の社学同の中心として明大も「2・2協定」をのりこえて再び力を増し、中大や医科歯科大、専修大と共にラジカルに活動していたころです。私たちの仲間ばかりか、いろいろな友人たちが御茶ノ水から神田一帯のカルチェラタン闘争を、いつかやろうと言い出しました。明大が地理的にも重要な場所にあります。御茶ノ水駅から明大前通りの駿河台下まで解放区にできるからです。
パリの5月、カルチェラタン闘争から1ケ月もたたない頃です。6月のある日、当時社学同の委員長だった早大の村田さんが現思研に来ました。早大の村田さんと医科歯科大の山下さんが、私の社学同加盟の時の推薦人でした。「おいカルチェラタンやらんか?!パリのカルチェラタンみたいなの。やれるのは、やっぱり明治だろ。中大で全学連の社学同集会をやって呼応させるから」と。全学連統一行動の中で、当時ブントはアスパック(アジア太平洋閣僚会議)反対闘争を、日米によるアジア政治経済支配として重視していて、中核派とは違う党派性として主張していました。「4・26の国際統一行動は、機動隊に御茶ノ水駅で封じ込められたから、今度はゲリラ的に闘って、解放区を作ろうぜ」と村田さんは気軽に言います。
「でも、とっかかりがないと・・・。どうやってカルチェラタンのような解放区が出来るかな」みんなで語り合いました。「やったら何とかなるって」といつものブントの官僚的な説得ですが、実は現思研のみんなもやりたいのです。昼間部に頼まず、夜間部に頼んできたのは、昼間部は中大全学連社学同系集会に参加動員のためだったかもしれません。
とにかくみんなでワイワイ話し合って、「やってみよう」ということになりました。社会的な影響や責任は問われるな・・・と思いつつ、新宿駅のヒッピーやフォークソングの広場まで制圧しようするこの間の警察の強権や、日大を含めた街頭抗議も続いていて、「4・26闘争のお返しとして駅前交番を占拠して赤旗を立てよう」などと、ゲリラ戦術になると、みんな次々とアイディアが浮かびます。二部の学生が授業の始まる直前の5時ころには、御茶ノ水駅から明大前通りは、昼間の学生あわせて歩道をはみ出すほどの人でいっぱいになります。その時を狙おうということにしました。それに、私たちの多くは、仕事をもって勤めていて、昼間から参加できる人は少ないのです。中大で行われる全学連社学同の決起集会も夕方には呼応できるし、5時半の授業開始前に闘いを始めることにしました。

(8号館)
明大前通りとマロニエ通りの角に立つ8号館は学生会館の旧館で、各学部自治会室、生協事務室、それにサークル部室が入っていて、ちょうど、明大前通り側に小さなドアがあります。この8号館のドアの内側に5時ごろ集合することにしました。それまでに、このドアの近くに長椅子と長机をできるだけ多く集めて積んでおくことにし、昼間部の仲間も手伝ってくれることになりました。学館旧館(8号館)の明大前通りに面した小さなドアは、すぐ歩道から車道に続いているので、5時になったら一斉にそのドアから机と椅子を車の通行を止めるために車道に並べて、バリケードにしようということにしました。この明大前通りも車の往来はひっきりなしです。それには、たくさんの椅子と机がいるな・・・などと話していました。
6月21日、初のカルチェラタン闘争が始まりました。この日、現思研や居合わせた社学同の仲間や政治的には関係ない友人たちも、午後のうちに、教室から長椅子と長机を持ち出して、学館旧館ドアの内側にきれいに積み上げました。入り口は狭いけど奥行があり、いくつも積むことはできたし、通路も確保しているので、出入りの邪魔にはなりません。「正門のバリケード封鎖もこんなもんだった。これくらいで大丈夫だろう」と話しながら準備を終えました。
5時ごろ、現思研の仲間ははりきっていたけれど、職場からまだ戻ってこれない人もいました。どうしようか。入学して間もない法学部のKクンが、「決めたとおりにやりましょう」と主張したので、彼を見直して、そうだね、そうしよう、と、そこにいた10人くらいの者たちで2人1組になって、まず長机を運べば道路に5つの机を横に並べられるというので、じゃあ、始めようと決断しました。Kクンらが、まず、少し場違いな感じて恥ずかしそうに長机を道路に運びだして、明大前通りの真ん中に置きました。途端に激しいクラクションが鳴りわたりました。一人が赤旗を横にして、工事現場のストップのような合図をして笛を吹き、車を止めようとしました。怒った車の運転手は徐行し、クラクション鳴らしながら次の机が運ばれる同じころ、最初の机に前進して接触し、机を倒しました。本当にアッという間でした。ピ-ッと笛と共に、あちこちから学生たちが道路に飛び出してきて運転手の車を囲み、もたもたしている私たちの机を奪うと、さっさとバリケードを作り始めたのです。そして赤旗に誘導されて車は中華料理「味一番」のある狭い通りへ迂回し通行するよう学生たちが采配しています。

明大前通りとマロニエ通りの角に立つ8号館は学生会館の旧館で、各学部自治会室、生協事務室、それにサークル部室が入っていて、ちょうど、明大前通り側に小さなドアがあります。この8号館のドアの内側に5時ごろ集合することにしました。それまでに、このドアの近くに長椅子と長机をできるだけ多く集めて積んでおくことにし、昼間部の仲間も手伝ってくれることになりました。学館旧館(8号館)の明大前通りに面した小さなドアは、すぐ歩道から車道に続いているので、5時になったら一斉にそのドアから机と椅子を車の通行を止めるために車道に並べて、バリケードにしようということにしました。この明大前通りも車の往来はひっきりなしです。それには、たくさんの椅子と机がいるな・・・などと話していました。
6月21日、初のカルチェラタン闘争が始まりました。この日、現思研や居合わせた社学同の仲間や政治的には関係ない友人たちも、午後のうちに、教室から長椅子と長机を持ち出して、学館旧館ドアの内側にきれいに積み上げました。入り口は狭いけど奥行があり、いくつも積むことはできたし、通路も確保しているので、出入りの邪魔にはなりません。「正門のバリケード封鎖もこんなもんだった。これくらいで大丈夫だろう」と話しながら準備を終えました。
5時ごろ、現思研の仲間ははりきっていたけれど、職場からまだ戻ってこれない人もいました。どうしようか。入学して間もない法学部のKクンが、「決めたとおりにやりましょう」と主張したので、彼を見直して、そうだね、そうしよう、と、そこにいた10人くらいの者たちで2人1組になって、まず長机を運べば道路に5つの机を横に並べられるというので、じゃあ、始めようと決断しました。Kクンらが、まず、少し場違いな感じて恥ずかしそうに長机を道路に運びだして、明大前通りの真ん中に置きました。途端に激しいクラクションが鳴りわたりました。一人が赤旗を横にして、工事現場のストップのような合図をして笛を吹き、車を止めようとしました。怒った車の運転手は徐行し、クラクション鳴らしながら次の机が運ばれる同じころ、最初の机に前進して接触し、机を倒しました。本当にアッという間でした。ピ-ッと笛と共に、あちこちから学生たちが道路に飛び出してきて運転手の車を囲み、もたもたしている私たちの机を奪うと、さっさとバリケードを作り始めたのです。そして赤旗に誘導されて車は中華料理「味一番」のある狭い通りへ迂回し通行するよう学生たちが采配しています。

中大中庭で、社学同のアスパック粉砕・東大闘争支援の全学連集会を行っていた1,000人近い全学連部隊がタイミングに合わせて行動を開始したらしい。中大では午後から、全学連副委員長の中大の久保井さんや、同志社大の藤本さん、明大学生会中執委員長米田さん、東大全共闘、160日ものストライキ中の医科歯科大など、全学連の社学同系の部隊が、独自の集会を開いていました。機関紙「戦旗」によるとヘルメット部隊1,000人、集会3,000人とのことです(当日の毎日新聞では500人とのこと)。それによると、集会を終えて4隊に分かれてジグザグデモで街に繰り出したのです。それにあわせて、私たちのバリケードが解放区がはじまったのです。

あたりを見まわすしと、「待ってました!」とばかり、学生たちや勤め帰りの人らしい人々も、バリケードを補強して、どんどんその机・椅子を担いで御茶ノ水の駅の方へと移動して解放区の陣地を押し上げて広げています。ふりかえると、駿河台下では、正門よりずっと向こう側にむかって交差点のところまで机を運んでいる人もいます。工事用の看板なども集めてきて、たちまち御茶ノ水駅から駿河台下まで、またたく間に解放区が出来上がってしまいました。車の通らない「歩行者天国」の道路をジグザグデモがあちこち繰り出しています。さっそく立看に「解放区」・「反安保反戦の砦神田カルチェラタン戦闘中」など、御茶ノ水駅近くの通りの真ん中に立てました。あたりは万を超える人々が道路でデモしたり、踊ったり楽しんでいました。当時の「戦旗」には、こんな風に当日のことを記しています。


「6・21全学連駿河台で2万余のバリケード集会。
70年の新局面切り拓くASPAC(アスパック)粉砕第二波機動隊を圧倒。
全学連集会は中大中庭で1,000人のヘルメット、3,000人の大集会として行われた。2時45分、久保井司会で開始、藤本基調報告、東大時計台占拠で全学ストを喚起した東大全学闘争委員長、160日スト中の医科歯科大、熊本大の原島委員長、明大中執からの決意表明。4時半に4隊に分かれて中大を出発。神田駿河台一帯をジグザグデモし、一梯団が医科歯科への支援デモを敢行する最中、その三梯団はバリケードを駿河台通りの街頭に進出させる。パリのラテン区に比すべき学生の街神田一帯は、まさに反戦闘争の砦として出現する。5時半、機動隊は御茶ノ水駅、駿河台下の両方向から全学連の部隊を挟み撃ちしようと攻めてくる。激しい投石の雨を降らすが、機動隊はバリケードをトビで破壊して迫てくる。一進一退、数千の学生・市民・労働者もバラバラと投石。機動隊後退。再びバリケードが出現し、御茶ノ水駅まで押し返す。機動隊はいったん、御茶ノ水橋を渡り、順天堂大横まで総退却。この時、医科歯科大5階の学生・研修医が占拠している医学部長室辺からスピーカーでバリケード戦に結集し、連帯の呼びかけ。機動隊は態勢を立て直し聖橋口から御茶ノ水橋に配置し、横と正面からバリケードの破壊。『突如』出現した街頭バリケードがASPAC、70年安保粉砕の新たな戦術であることを理解して、万余にふくれた大衆は『機動隊帰れ!』のシュプレヒコール」と興奮気味に記録しています。

実際、当日は、みな、新しい闘い方に大興奮でした。いったん、バリケードで解放区ができると、あちこちからうっぷん晴らしの野次馬含めて、万余の学生たちがバリケードと投石で陣地を広げます。御茶ノ水駅前交番も避難し、無人となったのです。すかさず明大の仲間が赤旗をその交番に掲げました。広々とした明大前通りにフランスデモで道いっぱい手をつないでワルシャワ労働歌や国際学連の歌を歌いながら行進しては機動隊へと投石。今ではあの一帯の歩道はアスファルトで固められてしまいましたが、当時はレンガや正方形の敷石で歩道がおしゃれだったのです。この敷石をみんなで掘り起こしては、車道で力いっぱい落として割り、礫(つぶて)にして抵抗しました。ポケットいっぱいにつぶてを抱えては、最前線から機動隊へ投石を繰り返しました。機動隊もいたちごっこを止めて遠巻きにし始めたので、その間、赤ヘルメットの大衆集会、歌やジグザグデモが夜まで続きました。8時半すぎには、社学同部隊は撤収したのですが、野次馬や一般の人たちは、機動隊との攻防に普段のうっぷん晴らしもあってか、ずっと闘っていました。夜学授業が終了する10時にも、学生会館内には勝利の戦術に「やった!やった!」と喜ぶ人々でいっぱいでした。
これ以降、カルチェラタン闘争のスタイルは、何度も御茶ノ水駅のこの明大前通りから駿河台下までを「解放区」として戦う戦術を繰り返しました。今からは考えられない「騒乱」ですが、当時の私たちは街頭戦の新しい闘い方を提示する一翼を担ったことで、現思研としては達成感で意気揚々でした。今から見れば無謀の謗りを免れない行為といわれるでしょうが、当時はこういう楽しい開放感と、一つの戦術の小さな勝利感と、人々との連帯感が、学生運動の拡大をつくりだしていったと思います。東京における社学同の拠点は、この地域、明大、中大、医科歯科大、専修大、東大、慈恵医大など、御茶ノ水と神田にありました。その分、社学同仲間は何かあるたびに、中大と明大の学館に集まって語り合ったものです。
68年は、このように、反戦闘争が社会的にも日常化していたので、佐世保の住民や、王子野戦病院に反対する住民、三里塚の農民と共同し、国会の社会党、共産党などの野党勢力の力もあって、正義感を持って闘いを続けえたのだと思います。公正・正義を求める闘い、その一員として参加できることが喜びであり、闘争は楽しいと実感していた時代です。全面的に肯定しえない点もありますが、当時は非暴力直接行動の中で、様々な野党勢力と共闘しながら戦おうとする、謙虚さがありました。
しかし問題は、その後、私たち社学同や三派系勢力が「図に乗って」いき、佐世保や王子、三里塚など、住民の支援と連帯に支えられて闘いえたことを、自分たちの力と自惚れて、運動の急進化へとまっしぐらに進んだことです。党派による戦術の急進化の競合は、後の分裂や運動の否定面を広げていきました。その苦い後の教訓とともに、68年の朗らかな闘いを思い返します。
5.三派全学連の分裂―反帝全学連へ
冷静に社会全体から捉えれば「大学生」は、当時一部の比較的余裕のある世帯の者か、向学心の強い苦学生で、就学率は今のように高かったとは言えません。
その分、学生運動がラディカルに問題提起し、街頭で激しく戦っても革命のような「社会全体を揺るがす力」があった訳ではありません。
しかし時代は、反戦・平和を強く求めていて、自民党政権の政策には反対する市民も少なくありませんでした。社会党、共産党、公明党も安保反対・ベトナム反戦を掲げていて、国会でも野党の力は強かったのです。そして社・共・公を支える労働者、学生の中には、ラディカルな学生たちの戦いに共感する者たちも、この68年には多くいました。
ベ平連、全学連と三里塚闘争でも学生たちのラディカルな戦いは、社会的に孤立していた訳ではありませんでした。
でも10・8羽田闘争を経た三派全学連は「我々こそが、権力に対峙してきた」という自負と共に、自己評価が高く、他勢力を批判する事で自らの立場を固めるような風潮であり、傲慢でした。個々はどうあれ、「組織」の立場になるととても柔軟性はありません。こうした在り方が、「一国一党」のボルシェヴィキの主張したコミンテルンの加盟条件の教条からか、「唯一性」神話に拘り他党派を認めず、自らの党の「無謬性」を主張する競争に、党派闘争を落とし込めて行きました。後知恵と言われるかもしれませんが、当時の私たちの運動は、人の認識能力は可変であり、誤りを犯す事を前提とするような開かれた思考を取らず、「正しさ」と自己正当化の論理を繰り返す、日本型マルクス・レーニン主義の悪習があったと言えるのではないでしょうか。
日本共産党も例外では無く、当時はその「唯一の党」の「正しさ」によって、反対派を排除して来た歴史の中心を、むしろ成していました。「党」を名乗る他の集団は認めず、排除するのは戦前からの共産党の負の側面ですが、それは戦前の国際共産主義運動の基本的考え方でした。
それを引き継いだ三派全学連も日本共産党批判ばかりか、三派内での権力闘争―正しさを主張し合い、運動、人事面での優位性争いーが絶えなかったと思います。
ラディカルな戦い方、動員人数、理論、全てにおいて話し合い、同志的な切磋琢磨よりもヘゲモニー争いは、暴力で決着をつけようとする、およそ「指導される人民」から見たら、理解しえないやり方につながって行きました。
こうした暴力を取り入れたヘゲモニー争いは、結局分裂に結果します。ブントは中核派に対して、中核派はブントに対して対抗意識が支配していたと思います。
68年7月に第19回全学連大会が予定されました。中核派は、7月14日からの大会を主張していましたが、反中核派の社学同らはその前に全学連中執会議を求めており、秋山委員長の罷免を要求していました。その理由は、6月に中核派が拠点としていた東京工業大学、東洋大学(自治会)で民青系に敗れ執行部を中核派は失っていました。つまり主流派中核派の実際の自治会数は減っていて、主流派たり得ない事、それを隠して会議を開かなかったというのです。
反主流派の要求する全学連中執会議を中核派は拒否しました。中核派は、7月14日には全学連の中核派のヘゲモニーを維持する事を最優先して、妥協せず単独で全学連大会を強行する事になったようです。
当時全学連大会のために、私たちは中央大学学生会館に待機していたのですが、人事での妥協が成立せず、一方的に中核派が全学連を分裂したと聞かされました。そしてこの中核派の独走に対してブントは、7月17日に社学同第8回大会を緊急に開きました。

冷静に社会全体から捉えれば「大学生」は、当時一部の比較的余裕のある世帯の者か、向学心の強い苦学生で、就学率は今のように高かったとは言えません。
その分、学生運動がラディカルに問題提起し、街頭で激しく戦っても革命のような「社会全体を揺るがす力」があった訳ではありません。
しかし時代は、反戦・平和を強く求めていて、自民党政権の政策には反対する市民も少なくありませんでした。社会党、共産党、公明党も安保反対・ベトナム反戦を掲げていて、国会でも野党の力は強かったのです。そして社・共・公を支える労働者、学生の中には、ラディカルな学生たちの戦いに共感する者たちも、この68年には多くいました。
ベ平連、全学連と三里塚闘争でも学生たちのラディカルな戦いは、社会的に孤立していた訳ではありませんでした。
でも10・8羽田闘争を経た三派全学連は「我々こそが、権力に対峙してきた」という自負と共に、自己評価が高く、他勢力を批判する事で自らの立場を固めるような風潮であり、傲慢でした。個々はどうあれ、「組織」の立場になるととても柔軟性はありません。こうした在り方が、「一国一党」のボルシェヴィキの主張したコミンテルンの加盟条件の教条からか、「唯一性」神話に拘り他党派を認めず、自らの党の「無謬性」を主張する競争に、党派闘争を落とし込めて行きました。後知恵と言われるかもしれませんが、当時の私たちの運動は、人の認識能力は可変であり、誤りを犯す事を前提とするような開かれた思考を取らず、「正しさ」と自己正当化の論理を繰り返す、日本型マルクス・レーニン主義の悪習があったと言えるのではないでしょうか。
日本共産党も例外では無く、当時はその「唯一の党」の「正しさ」によって、反対派を排除して来た歴史の中心を、むしろ成していました。「党」を名乗る他の集団は認めず、排除するのは戦前からの共産党の負の側面ですが、それは戦前の国際共産主義運動の基本的考え方でした。
それを引き継いだ三派全学連も日本共産党批判ばかりか、三派内での権力闘争―正しさを主張し合い、運動、人事面での優位性争いーが絶えなかったと思います。
ラディカルな戦い方、動員人数、理論、全てにおいて話し合い、同志的な切磋琢磨よりもヘゲモニー争いは、暴力で決着をつけようとする、およそ「指導される人民」から見たら、理解しえないやり方につながって行きました。
こうした暴力を取り入れたヘゲモニー争いは、結局分裂に結果します。ブントは中核派に対して、中核派はブントに対して対抗意識が支配していたと思います。
68年7月に第19回全学連大会が予定されました。中核派は、7月14日からの大会を主張していましたが、反中核派の社学同らはその前に全学連中執会議を求めており、秋山委員長の罷免を要求していました。その理由は、6月に中核派が拠点としていた東京工業大学、東洋大学(自治会)で民青系に敗れ執行部を中核派は失っていました。つまり主流派中核派の実際の自治会数は減っていて、主流派たり得ない事、それを隠して会議を開かなかったというのです。
反主流派の要求する全学連中執会議を中核派は拒否しました。中核派は、7月14日には全学連の中核派のヘゲモニーを維持する事を最優先して、妥協せず単独で全学連大会を強行する事になったようです。
当時全学連大会のために、私たちは中央大学学生会館に待機していたのですが、人事での妥協が成立せず、一方的に中核派が全学連を分裂したと聞かされました。そしてこの中核派の独走に対してブントは、7月17日に社学同第8回大会を緊急に開きました。

中央大学学館での社学同大会では、今後の社学同方針、つまり反スタ中核派と訣別して、ブントは解放派やML派、第四インターの組織と共に、反帝全学連の結成に進む事を決定しました。
こうして、中核派の大会に対抗して、社学同・社青同解放派・ML派・第四インターなどが、中核派の大会を認め無い方針で別個に「第19回全学連大会」を開催するとの事でした。


私たち現思研も、この新しい第19回全学連大会に参加しましたが、中央大学の講堂で行われました。この7月19日の会議に中核派が暴力的に大会破壊に来ると、防衛隊を立てて、何度も「来たぞ!」と会議を中断する騒然とした中で、大会が行われました。
私たちには、まったく理解出来なかったのですが、この「反中核派連合」で今度は揉め始めました。全学連大会前の都学連大会から、社学同と解放派・ML派で揉めていたようです。


私たちは、中央大学の講堂から対立に対応すべく行動するよう指示されました。相手は中核派と聞いていたのに、今度は反社学同で解放派とML派が野合して襲ってくるというのです。それで、数十メートル離れた中央大学学生会館に社学同だけ引き揚げる事になりました。「何なんだ?どうして解放派やML派と争わないとブントや全学連が成り立たないのか、さっぱりわからん」と、現思研は皆呆れて「今後はこういうゲバルト戦には、我々は参加しないことにしょう」と決めました。明治大学に引き上げる者もいました。今でも当時の事情は、良く判りません。人事をめぐる争いや手続き上の問題での対立が収拾がつかなくなっていったのでしょう。
私たちは、意味も判らず、明治大学に戻ろうとしましたが、とにかく中央大学学生会館に集まってくれというので、学生会館に入りました。
当初は、中核派に対する防衛についていたはずで、今度は解放派・ML派と対決になったというので、中央大学学生会館に入ると、またすぐ防衛体制が取られました。
既に私たちが中央大学の講堂から学生会館に移動する後方から「ブント粉砕!」と叫ぶジグザグデモが近づいて来ましたが、これは中核派では無く、解放派だというのです。会場を出てみると、青色のヘルメットが見えました。それで何故か「引き揚げろ!」と言う緊急指示がどこからか来て、デモの隊列を組みながら、私たちも中央大学学生会館へ引き揚げました。
これは7月19日だったと思います。緊張し、バタバタしている一方で、昼から食べていない缶詰状態にいたので、みんなお腹を空かせていました。全学連書記局の人や藤本敏夫さんは、自分たちの食糧の調達をして来て欲しいと言うのです。解放派やML派が攻めて来るというのに、のんびり食事していていいのか?しかも、自分たちの分は、調達しても他の大勢の人たちの食事はどうするのか?
その内、「ワッセイ、ワッセイ」というデモの響きと「ブント粉砕!」と叫びながら、学生会館入口の所で激しい衝突になりました。


解放派は、早稲田大学学費闘争の時の議長だった剣道の達人という大口昭彦さんを先頭に、ML派は新左翼で一番強いと噂されていた畠山(嘉克)(東海大学)さんを先頭に樫や桑の棒や竹竿で襲いかかって来ました。中央大学学生会館はまだ新しいのに、たちまち入口のガラスは叩かれて割れ、ヒビが入ってしまいました。

襲撃隊が来ると、同志社大学や中央大学、明治大学のゲバルトに慣れた者たちが迎え撃つのですが、私たちががっかりしたのは、みんなに「突っ込め!」と檄を飛ばしている高原浩之さんと藤本敏夫さんは、後から叫んでいた事です。
私や遠山さんも、安全な後方に逃れつつ評論しているに過ぎないですが、「文句が出る筈ね、解放派もML派もリーダーが先頭で突っ込んで来るのに、こちらのブントのリーダーたちは全然ダメ。後から進め進めじゃ、やる気しないわねぇ」などと言い合っていました。私たちも当事者意識に欠けて無責任なのです。
久保井(拓三)さんら中央大学ブントは、先頭にいるのが見えました。動員されて前方で防衛していた何人かの現思研の仲間も、「ブントはどうなってるんだ」と不満を述べていました。本当にゲバルトを止めるのに身体を張らず、ゲバルト指示にも身体を張らないのですから。
その後何度かの電話交渉でやっと襲撃が終わったらしく、夜遅くまで続いた襲撃は一旦止み、書記局の人に催促されて、私たち数人の男女は、食事調達に行くことにしました。
もう夜中で、調達出来るのは、神保町のいつも行く中華料理店で焼きソバを箱に詰めてもらう事です。何十食分か詰めてもらい戻って来て、それを皆で分け合って食べたのを思い出します。
私たちは夜更け、一旦明治大学に戻りましたが、翌日の交渉で解放派もML派も、第19回全学連大会をやると合意したらしいのですが、結局ボイコットされてしまいました。その結果、7月21日、ブントだけで第19回全学連大会を開催する事にしたようです。こうして、ブントだけの「反帝全学連」結成の為の第19回全学連大会が21日と22日にわたって開かれました。
私自身は、熱心なブント路線の信奉者でも無いかったせいか、当時の内容の事は、あまり覚えていません。
「戦旗」によると「21日午後10時40分170代議員中、101名が出席して第19回全学連大会が行われた。途中緊急事態が発生し、大会防衛を強化し午前1時20分に再開。委員長藤本敏夫、副委員長久保井拓三、書記次長に村田恒有(医科歯科大学)らが執行部となった。閉会に際して、ブントの松本礼二が挨拶した」と記録しています。
こうして68年7月の間に、「中核派全学連」と「反帝全学連」に分裂していった訳です。
もともと路線的には「反スタ戦略」の中核派とは、上手くいくはずが無かったとしても、大衆機関である以上、暴力を排した統一戦線を構築する戦略的な組織方針を持ち得ない、双方の未熟な指導が原因としてあったと思います。
当時「内ゲバは逃げるが勝ち」だと思ったものです。争いの当事者以外の非当事者をどう味方に引き付けるか政治戦でこそ、非暴力的に党派闘争を示して欲しかったものです。
この分裂で、「反帝プロレタリア国際主義」を中心に据えようとするブント・社学同の路線・反帝戦略は、これまでのような中核派との「消耗な」論争やゲバルト戦に制約されずに進む事になりました。
しかし、戦術のラディカルな街頭闘争スタイルは、中核派もブントも、三派全学連時代同様、むしろそれ以上に競合しあって、運動的突出に価値を置く戦い方に、組織力量を傾けていくことになっていきます。
(つづく)
A5版720ページ
定価3,500円(税別)
情況出版刊
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(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com
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【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
zenkyoutou.com/yajiuma.html
【お知らせ その2】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」
1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。 2019年8月
●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
呼びかけ人 ・ 賛同人 (いずれかに○で囲んでください)
氏 名 (ペンネーム )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話 086-242-5220 FAX 086-244-7724
メール E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)
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※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
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メール E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)
●基金振込先
<銀行振込の場合>
みずほ銀行岡山支店(店番号521)
口座番号:3031882
口座名:糟谷プロジェクト
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口座名:糟谷プロジェクト
<郵便局からの場合>
記号 15400 番号 39802021
<他金融機関からの場合>
【店名】 五四八
【店番】 548 【預金種目】普通預金
【口座番号】3980202
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<他金融機関からの場合>
【店名】 五四八
【店番】 548 【預金種目】普通預金
【口座番号】3980202
<郵便振替用紙で振込みの場合>
名義:内藤秀之 口座番号:01260-2-34985
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●管理人注
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
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【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は5月1日(金)に更新予定です。