野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2020年05月

今回のブログは、去る4月25日に亡くなった、故山村貴輝氏の「私の高校時代の闘争」である。山村氏が通っていた高校は、東京・杉並区の國學院大學久我山高校である。
山村氏の訃報を知ったのは5月9日。山村氏のFB(フェイスブック)に以下のようなお知らせが載った。
「兄・山村貴輝が去る4月25日(土)に急逝いたしました。
死因は虚血性心疾患と診断され、前日までの本人の行動や様子などから、新型コロナウイルス感染症によるものではない、という医師の見立てでした。
あまりに突然のことでいまだに信じられません。
時節柄、親族だけで直葬にて送りました。
誠に勝手ながら諸々のお心遣いはご辞退させて頂きます。
長年に渡る皆さま方のご厚情に心よりお礼申し上げます。」
山村氏は当日の朝までFBに書き込みをしていたので、突然訪れた死だったのだろう。

山村氏との関わりについて少し書いてみる。
山村氏と初めて会ったのは、確か2008年の「日大930の会」だったと思う。前年に「明大全共闘」のホームページを開設した縁で、他大学ではあったが会に参加させていただいた。その日は挨拶はしなかったと思うが、その後、このブログを開設すると、山村氏は折にふれて記事へのコメントを寄せてくれた。
高校時代の卒業式闘争のこと、69年の11月決戦に参加した時のことなどである。

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写真の左から2人目、「反戦」のヘルメットを被っているのが山村氏。1969年11月佐藤訪米阻止闘争。本人も別人のようだと書いていたが、確かにそうである。(山村氏のFBより)

2011年の3・11以降は、明大と日大、芝浦工大、専修大の4大学の全共闘派で「四大学共闘」を結成し、反原発集会やデモに参加するようになるが、山村氏も一緒に参加していた。

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写真は2012年7月16日に東京・代々木公園で行われた「さようなら原発10万人集会」のものである。山村氏は右から3人目の半ズボンでサンダル履きの人。山村氏は日大文理学部出身で考古学関係の発掘調査などの仕事をしていたとのことであるが、その発掘現場でのスタイルみたいである。(筆者撮影)

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これは2013年6月2日に東京・芝公園で行われた「つながろうフクシマさようなら原発集会」後のデモの様子。右側の「再稼働反対」のノボリを持っているのが山村氏。山村氏に写真を撮ってくれと言われて撮ったもの。ノボリを太鼓腹の上に乗せてポーズを取っている。(筆者撮影)

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山村氏は経産省前の脱原発テントでも、一時期、座り込みを行っていた。その時の写真。(山村氏のFBより)

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その後、山村氏は私も事務局を務めていた「10・8山﨑博昭プロジェクト」の事務局に加わる。賛同人への資料の発送作業や、集会での受付など担当していただいた。写真は、2017年6月17日、大田区の福泉寺で行われた山﨑博昭君の記念碑の建碑式のもの。写真右で手を合わせているが山村氏。写真左は山﨑博昭君の兄建夫さん。(筆者撮影)

山村氏は体調不良(脊椎管狭窄症)で治療のため、今年に入ってから多摩地区の病院に入院していた。4月14日から自宅療養に移り、4月25日に自宅で急逝した。
今回の原稿は4月1日に山村氏からメールで届いたものである。「続・全共闘白書」のサイトでの「知られざる学園闘争」の原稿募集の案内を読んで送ってきたと思われる。
「前略
日大全共闘の山村と申します。小林哲夫さんに参考まで、と言うことで私の手記を送信します。取り扱いは一任します。
2020.4.1」
この日、山村氏からも同じ趣旨の内容で電話があった。山村氏には小林哲夫さん(教育ジャーナリスト)に原稿を送るとともに、「続・全共闘白書」のサイトの「知られざる学園闘争」に掲載することを伝えた。山村氏が「原稿は一任する」と何度も私に言っていたのが気になったが、まさかこの数週間後に亡くなるとは思いもしなかった。
山村氏は「個性的なキャラクター」の方だったので、話が合う人は少なかったようだが、長年、私のブログを読んでいただき、コメントを数多く寄せていただいたこともあり、山村氏を追悼する意味で、この原稿を全文掲載することにした。
山村氏は私と同学年である。同学年の方が亡くなるというのは寂しいことではあるが、今はご冥福を祈るしかない。
合掌。

【私の高校時代の闘争】 山村貴輝                           
                                                
 私は父の仕事の関係で高校一年生は広島県呉市の高校でした(1966年)。それが、高校二年生の時これも父の仕事の関係で東京都杉並区に引っ越してきました。それに併せて高校を國學院大學付属久我山高校(以下「久我山高校」とする)に編入しました。元々私は東京都杉並区には中学生の頃ほぼ三年間通学し、クラスの10人ぐらいは隣にある都立西高に進学しいているというウルトラ進学校でした。当時の高校進学は学校群システムではなく、通常の進学希望校を選択しそこを受験する,と言うシステムでした。そう言うことで久我山高校は第二次志望校(滑り止め)と受験生に位置付けられており、実際に久我山高校に編入すると都立西校に落ちた中学時代の同級生も何人かおり、編入生によくある孤独感・疎外感はありませんでした。因みに67年度までは男子校でしたが68年度からは隣接する岩崎通信(株)の中卒女子労働者の夜間高校となり、現在は男女共学です。
1,編入後の私
 久我山高校に1967年に二年生で編入し、所属サークルは中学時代から興味があった考古学部である。当時の久我山高校考古学部は親大学の國學院大學考古学研究室との関係が密接であり、土日は必ず遺跡の発掘調査参加か博物館・有名遺跡巡りなどをしており、平日は大学の考古学専攻課程の教科書で考古学の学理を学ぶと言う「考古学漬け」である。
 さらに、68年5月に入ると戦前・戦後を通じて考古学の泰斗である山内清男先生(成城大学教授)から直接考古学を教わるという幸運に恵まれた。授業が終わりサークル活動も終わる16時頃成城大学の山内先生の研究室に出向きそこで考古学のレクチャーを受けて、さらにそこから先生のご自宅がある喜多見に先生とご一緒し,ご自宅でレクチャーを受けると言う日々を送るようになった。帰宅時間は22時頃である。もちろんこれは毎日ではなく、先生から課題を出されその課題を自習する日もあり成城大学に行くのは週2・3日である。先生から学んだものはオーソドックスな考古学研究方法論と、学問に必要な「批判的精神」であった。
2,67年10・8羽田闘争
 私は、中学時代からアサヒグラフでベトナム戦争の写真を見て本をクラスに持ち込んで議論をする一方(ベトナム戦争の問題を掘り下げることはなく)、「日の丸」を国旗として政府は法制化すべきだ,と言うどちらかと言うと体制派であった。そして、10・8羽田闘争をテレビで見ていて「どうしてあそこまで激しいことをするのか」と言う疑問を抱き、翌朝高校の級友と話をして「よほどの強い決意・考えがあるのだろう」と言うことで一致した。さらに後日山内先生にも聞くと「あのような闘争こそが正しいのです」と言われる。さて、11月12日には第二次羽田闘争が起きる。また級友と議論をする中でそれらの闘争が「ベトナム反戦闘争」だと認識できた。68年1月には佐世保エン・プラ闘争、2月には三里塚闘争、王子野戦闘争として連続して闘われる。マスコミは「暴徒・暴力学生」と喚き立てるがそう言うレッテルに迎合する気はなく、逆に王子闘争を「見学」することにした。実際に王子闘争を見ていると全学連の学生が機動隊の凄まじい弾圧にもめげず,断乎として実力闘争を貫徹するのを見て“感動”した。それと同時に私の弟の家庭教師が都立大Hさんという学生であり、10・8,11・12共に参加したらしく闘争の後日私の家に訪れる時頭や腕に包帯を巻いており、おとなしい感じの学者肌の学生も激しい闘争に参加しているのだと感心した。
 そして王子闘争の現場で中核派の機関紙「前進」を購入したが、読んでも内容は理解できなかった。そこで「前進」販売の担当者に「難しい」旨を伝えて、私が杉並区に住んでいることを告げると「杉並革新連盟」の事務所が西荻窪駅近くにあることを教えられた。そこから私の自転車で約15分の距離である。その後時々事務所に訪れるようになる。そして68年4月の初め頃久我山高校に反戦高協の支部があることを伝えられ、支部のメンバーと連絡が取れた。私の驚きは全学連と共に闘う高校生の組織があったことである。
3,その後
 私は4月からクラス委員になり生徒会活動にも参加した。その中で当局の「週番制度反対」運動を行った。そもそも週番は旧軍の軍隊管理であり、高校おいては「生徒が生徒を管理する」と言う反動的とも言える制度である。私は、週番責任者として生徒会会議で週番制度廃止の決議をとった。その旨を生徒会担当者教師に伝えると柔道場に呼び出され、柔道有段者である教師からいきなり寝技で首を「このアカ野郎」と罵られつつ首を締められた。そして教師の生徒会に対する恫喝で週番制度廃止の決議は覆られた。このような弾圧に怯むことなく民主化闘争は続く。具体的には当局の生徒管理のための御用組織である生徒会から、生徒の自立した生徒会への転換である。
 私の高校は「忠君愛国」を高校のモットーにする右翼高校である。そして、前に記した反動教師もいる。しかし、多くの教師はヒステリックな右翼ではなくおとなしい。生徒会は御用組織とはいえある程度自主的な雰囲気があり、先に述べた週番制度廃止闘争も生徒会にかけてから行えば生徒全体に波及したと反省した。生徒会活動は監理教師の解任を求める運動を提起したが、ここで立ちはだかったのが民青である。我々反戦高協は非合法組織とは言え複数のサークルをおさえ、クラス委員にもかなりの賛同者がいた。それに比べて民青は生徒会役員に複数いるが目立って存在性はなかった。しかし、民青は生徒会での監理教師解任運動は当局を刺激すると言う。民青の対案は「生徒会活動の実効支配」と言う具体性がなく、無方針とも言える対案である。
 そうこうしているうちに6・15ベトナム反戦・反安保集会があり反戦高協のヘルメットを初めて被り参加した。私の高校からは4名の参加で、反戦高協の隊列は100人以上いた。隣に北園高校の茶色のヘルメットが2・30名ぐらいいて「他の高校でも頑張っているな」という感じを得た。デモは日比谷公園から明治公園までであり機動隊とのトラブルもなく、高揚感と軽い疲労感を感じた。
 デモには初めて参加し高揚感を得たが、高校では民青との方針を巡り消耗な感じを得るが、考古学の学習には山内先生からの刺激のある指導を定期的に得ていた。それと、日大・東大闘争の情報も入り「時代的認識=革命の現実性」と言う中核派の方針が納得できる情況にいた。だが、今思えば当時全学連運動と全共闘運動の位相と内実の違いを理解できず、党派の機関紙のみを情報源としていた私の問題として反省したい。そして7月立川基地反戦闘争に参加し、8月前半には1泊2日で反戦高協の合宿が都内でなされそれに参加する。そこで中核派の理論的・組織的原点である63年三全総および66年三全大の綱領的文書を学習した。問題はマル学同中核派高対部担当者の理論的レベルが低く、例えば「沖縄奪還論は分かるが北方領土はどうするのか」という高校生の質問に対し「それは北方領土奪還だ」と安易に答える始末である。やがてその理論的レベルに低さに反発し、失望した反戦高協のメンバーの一部が反戦高連に行く遠因となる。
 そして9月3日にはソ連のチェコ侵略に反対するための緊急動員があり、全学連300名、反戦高協30名の部隊はソ連大使館に向かった。その部隊数が少ないことから機動隊のサンドイッチ規制を受け,その規制の中で機動隊によるテロ・リンチを徹底的に受け初めて国家権力の暴力を物理的に受けた。高校では民青との不毛な対立が続き民青から我々は「トロッキスト」というレッテルを貼られる。街頭闘争は10・8一周年にお茶の水駅から代々木駅に電車で移動し、そこから徒歩で新宿駅構内に入った記憶がある。だが、10・21新宿駅米タン阻止闘争の記憶が鮮明であり、10・8闘争の記憶は何故か薄い。10・21闘争は新宿駅東口に高校生は集まり、300名ぐらいの隊列ができたが全学連・反戦青年委員会の巨万の結集で、高校生はデモをする隙間もなく座り込むだけであった。その日の7時30分ごろ「騒乱罪適用が政府内で決まった。高校生はただちに帰宅せよ」との指示で私は帰宅した。
 その後11・7騒乱罪適用粉砕!首相官邸包囲・突入闘争に参加し不当逮捕される。私は3泊4日で釈放されるが、心中「学校には漏れているな、最悪退学だ」と思いつつ登校した。多くの学友が心配する中で担任から校長室に呼ばれる。多くの学友も授業を放り出して後に続く。校長室では校長以下当局の指導担当の面々が座っている。そこで、校長が警察からの私の不当逮捕時の写真を見せ「君も立派な全学連だ。こう言う運動には有名高校の生徒が参加するのだが、我が校も有名高校の仲間入りだ」と言って笑う。そして「君はこれだ」と言い、頭に軽く拳を当てる。処分は無だ。形として「厳重注意」だろうか。
 校長室から出ると心配そうな学友が集まっている。私が「処分はなかった」と告げるとやんやの喝采だった。後で聞いた話だと、「停学・退学」の処分だと校長室占拠の構えだった、それも当局に漏れていたとのことである。
 その後11月から69年1月まで東大闘争に参加する。学内では民青と怠い緊張感である。69年2・11には清水谷公園で「紀元節粉砕!」闘争に参加する。参加の前段集会でプロ軍、ML派などの20名の高校生が西高生徒会室を襲撃して反戦高連のへルメットを押収し、そのメットを旗棹にぶらさげて威風堂々と公園に来る。何故襲撃をしたのかと問うと「あいつらは気にくわない」という政治的には?の返事だった。
 3月卒業式闘争は「会場をバリケードで占拠せよ」と言うのが反戦高協指導部の方針だが、決意した5・6名が占拠をしても教師4・50名で寸時もなく解除される。それよりも拠点校支援闘争に行くべきだと異議を申し立て都立大附属高校の卒業式闘争に参加する。
 
以上宜しくお願いします。
(終)
【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」好評発売中!

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定価3,500円(税別)
情況出版刊
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『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
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【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
zenkyoutou.com/yajiuma.html

【お知らせ その2】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」

1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。  2019年8月
●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
 呼びかけ人 ・ 賛同人  (いずれかに○で囲んでください)
氏 名           (ペンネーム           )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話  086-242-5220  FAX 086-244-7724
メール  E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)
●基金振込先
<銀行振込の場合>
みずほ銀行岡山支店(店番号521)
口座番号:3031882
口座名:糟谷プロジェクト
<郵便局からの場合>
記号 15400  番号 39802021
<他金融機関からの場合>
【店名】 五四八
【店番】 548 【預金種目】普通預金  
【口座番号】3980202
<郵便振替用紙で振込みの場合>
名義:内藤秀之 口座番号:01260-2-34985
●管理人注
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は6月12日(金)に更新予定です。

今回のブログは、2012年に集広舎から発行された「チベットの秘密」という本に掲載された劉燕子(リュウ・イェンズ)さんの文章である。
劉燕子さんは現代中国文学者で、神戸大などで非常勤講師として教えつつ日中バイリンガルで著述・翻訳、劉暁波氏や亡命作家などの中国では発表できない作品を紹介している。劉燕子さんとは1月の「続・全共闘白書」出版記念会で初めてお会いしたが、2月11日の「高校闘争から半世紀シンポジウム」でも第二部で香港問題について発言されている。劉燕子さんに「チベットやウイグルの問題、中国国内の人権問題などの文書があれば、私のブログに掲載させて下さい」とお願いしたところ、今回の文章を寄稿していただいた。
この「チベットの秘密」の著者はチベット出身の女性詩人ツェリン・オーセルさん。王力雄「チベット独立へのロードマップ」及び編訳者である劉燕子さんによる「雪の花蕊─ツェリン・オーセルの文学の力」を併録している。

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Ⅳ 雪の花蕊―ツェリン・オーセルの文学の力―
                      劉燕子
一、はじめに―「亡命」の詩学―
 チベット女流詩人のツェリン・オーセル(茨仁・唯色、Tsering Woeser/Oser)は、中国共産党の独裁体制下で出版を禁じられ、日常的に様々な制約や圧力を受け、さらに何度申請してもパスポートを取得できず、その不当性を提訴しても受理されないため自分を「国内亡命者」と呼んでいる。
 かつて、「二〇世紀ロシア最大のミューズ」と呼ばれるが、ソ連共産党の独裁体制下で夫の銃殺や息子の逮捕など数々の苦難を体験した女流詩人アンナ・アフマートヴァは「あなたは生き残らず/雪の上からも立ち上がらない/二十八の銃剣と/鉄砲五丁/痛ましい新しい衣を/友のために私は縫った/血が好きでたまらない/ロシアの大地」と詠い、レフ・トロツキーにより「国内亡命者」とされた。その後、トロツキー自身が国外に亡命するほどスターリンは独裁を強め、アフマートヴァは退廃的詩人という烙印を押されて言論の自由を奪われた。
 時代が異なる二人の詩人が「国内亡命者」であることは決して偶然ではない。国家全体が牢獄となるような独裁体制下で自由を求めるならば、内であろうと、外であろうと「亡命者」とならざるを得ない。たとえ身は国内にあっても、その存在は現実的かつ内在的な意味で「亡命」である。それ故、オーセルの文学について考えるためには「亡命」の詩学という観点が求められる。

二、オーセルのプロフィール―永遠の輝き―
 オーセルは文化大革命が始まった一九六六年にラサで生まれた。「オーセル」はチベット語で「永遠の輝き」を意味する。また、彼女の中国名は程文薩(チョン・ウェンサ)で「文革のラサ(拉薩)」を表している。
 オーセルの父は漢民族とチベット民族の血をひき、十三歳で人民解放軍に入隊した軍人であり、母はチベット人であった。そして、文革のさ中の一九七〇年に一家は四川省のチベット民族居住地域へ移った。
 文革が起きたとき、オーセルの父は副連隊長クラスの将校で、軍事管制委員会が成立するとその宣伝組に配属された。文革が激化すると、チベットでは「ラサ革命造反総司令部(造総)」と「プロレタリア大連合革命総指揮部(大連指)」の二つのセクトが対立し、革命の情熱にあふれていた父は「大連指」の立場にいたが、幾多の死戦を経験し、革命に貢献した軍人たちを尊敬しており、「実権派」と糾弾することなどどうしても納得できなかった。それが「心の奥底からの革命運動」であるとは思えなかった。
 ところが、一九六八年に自治区革命委員会が成立し、「造総」の側のチベット軍区司令員が主任となると、軍隊内の対立において均衡が崩れ、父を含む一〇〇余名がパージされた。そのため、父は故郷の四川省甘孜(カンゼ)チベット族自治州道孚(タウ)県の「人民武装部(民兵の組織や訓練を所管し、略称は人武部)」に配置転換となり、これに伴い一家はラサを離れた。
 その後、オーセルは少数民族幹部育成を主要な目的とした西南民族学院(現在の西南民族大学、四川省成都市)に入学し、漢語文(中国語・中国文学)を専攻した。一九八八年に卒業すると、彼女は『甘孜報』の編集者兼記者となった。そして一九九〇年に一家はラサに戻り、オーセルはチベット自治区文学芸術連合会が漢語とチベットの二言語で刊行する『西蔵文学』の漢語編集者となった。しかし、二〇〇三年に出版したエッセイ集『西蔵筆記』には「政治的誤り」があるとされて発禁処分を受け、また彼女自身も「辞職」の名目で解職され、医療保険や年金は取り上げられ、官舎から出され、生活基盤を失った。
 それでもオーセルは不屈の精神とともに澄んだほほえみをもって不当な現実や深刻な問題に取り組み続けた。そして、官製言論界から独立し、漢人としていち早くチベット問題で警鐘を鳴らしていた王力雄と運命的ともいえる出会いを果たし、彼との愛を育みながら、チベット文革の写真証言集『殺劫』や『西蔵記憶』(いずれも大塊文化出版社、台北、二〇〇六年)、『鼠年雪獅吼―西蔵大事記』(允晨出版社、台北、二〇〇八年)など次々に出版した。それらは内外から高く評価され、海外の文学賞なども受賞したが、しかし、パスポートを幾度申請しても「我が国のイメージを損なう」という理由で受理されず、国外の授賞式には出席できない。
 それどころか、彼女の著書は中国本土では出版できず、ブログまで何度も閉鎖されるなど厳しく統制され、その上、ネット愛国者の非難やサイバー攻撃を繰り返し受けている。さらに監視や尾行は常態で、頻繁に召喚、訊問、自宅軟禁を強いられている。しかし、彼女は挫けず、沈黙を迫る圧力を忍耐強くはねのけるとともに繊細で審美的な感性やユーモアをもって「著述は遍歴、著述は祈祷、著述は証言」と執筆に励んでいる。繊細さと強靱さという容易には両立できない資質を、オーセル(永遠の輝き)はしなやかに統合し、その名のとおり文学的な表現で輝かせているのである。

三、オーセルの照らし出す「チベットの秘密」
 オーセルは雪国チベットに可憐に咲く純白の花蕊のような詩心と確固たる信念をもって「チベットの秘密」を詠いあげる。この「秘密」とは、いかなるものなのだろうか。
 「チベット」は、輪廻転生、活仏、慈悲と不殺生などの神秘的な仏教国というイメージで語られることが多い。これにジェームズ・ヒルトンが『失われた地平線』で描いた「シャングリラ」という幻想的な理想郷が加わる。
 このようなノスタルジックでミステリアスなイメージは、かつては険しい山々を踏破しなければ行けない高原の国という地理的条件に加えて厳重な鎖国体制が敷かれていたために形成されたと言える。しかし、オーセルの詠う「秘密」は、そのようなものではない。
 今日のチベットでは、前述のイメージとは裏腹に、言語(母語としてのチベット語)、信仰(チベット仏教)、それらに基づく民族固有の文化、慣習、価値観、生活様式などが否定され、また環境が汚染し、資源が枯渇するなど全般的に危機が深刻化し、チベット人は極めて困難な状況に置かれている。ところが、その現実は、治安当局の厳重な取締り、徹底的な情報統制、圧倒的なプロパガンダ、急速な経済成長などで覆い隠され、文字通り「秘密」とされている。しかし、オーセルは繊細な感受性と強靱な精神に裏打ちされた文学の力により、闇に隠された「秘密」に澄明な光を当て、広く国際社会に知らせてきた。
 ただし、その道のりは困難であった。オーセルはチベット人と漢人の間で困惑し、葛藤し、試行錯誤を繰り返さなければならなかった。

四、心の分裂を乗り越えて―チベット人と漢人の隘路を遍歴し―
 人間の心理と言語は密接に関連している。オーセルがチベット語に親しんだのはチベット人の乳母との間だけで(四歳まで)、家庭で使う言葉、また小学校からの学校教育における言語はすべて漢語(中国語)であった。つまり、オーセルは誕生して言葉を学び始めたときに早くも言語の分裂を体験したのである。
 両親は家庭でも四川方言のなまりが強い標準語(北京官話)を使い、チベット語は二人の間の「耳打ち」で使われる程度であった。家庭でも漢語を使ったのは、父は人民解放軍の将校で、母はラサの「蔵学校(チベット人幹部養成学校)」に学び、北京の中央政法学校(警察、検察、裁判所関係の幹部養成学校)」に内地留学したように、二人とも中国共産党が入念に育成したエリートであったためである。新しい時代の新しいチベットにふさわしくという思いの余りからであった。
 ところが先述したように、一家は道孚(タウ)に移らなければならず、そこでは故郷の徳格(デルゲ)よりも方言のなまりが強いため、チベット語を使うことができなかった。それでは何故、転任先が故郷にならなかったのだろうか? この点について、オーセルは「父は余りにも愚直で、頑固で、要領が悪いので、自分の故郷に戻るとは申請しなかったのです」と説明している。
 また、母は祖父が旧チベット政府の内閣(カシャ)の大臣(カロン)を務めたラル家の執事であったため、出身階級が悪いとされて警察や司法関係の仕事には就けず、県で唯一の新華書店(国営書店)で働くようになった。しかし、そのおかげで彼女は少女時代を母の傍らで読書にふけることができた。しかも、倉庫の奥にしまわれた「禁書」もこっそりと読むことができた。オーセルは「本棚に囲まれた小さな空間は、私だけの世界で、本にひたることができました」と語った。
 そして民族学院では漢語文を専攻し、卒業後は漢語担当の編集者となった。ところが、時代が変転し、父は望郷の念を断ち切れず、一家はラサに戻ることになった。このことについて、オーセルは母に「ラサに戻るとチベット語ができなくて、ばつが悪かったわ」と話したことがある。これに対して、母はラサに戻ることなど全く「予測」できなかったからと説明した。一家みな激動の現代史に翻弄され、傷つけられたのである。そして、帰郷後一年余りで父は病没した。
 ラサでは言語だけでなく名前、故郷、記憶、生活習慣、価値観など生き方に関わることが全面的に「置き換え」られたと、オーセルはいう。彼女は「私は唐詩、宋詞を熟読し、よく知っているが、ミラレーパ(一〇五二~一一三五年。カギュ派の創設者の一人で詩人)の詩については無知でした。秦の始皇帝や万里の長城は詳しく知っているが、ポタラ宮に凝縮されるチベットの歴史はほとんど知りませんでした。雷峰などの革命烈士をよく知しているが、一九五九年の侵略に抵抗したプゥパの勇者は知りませんでした」と述懐してる。そして、このような「置き換え」のプロセスでオーセルは漢人とチベット人の間を遍歴し、葛藤するものの、それを通して「母語としてのチベット語」が「心の深層において復活した」という。彼女は「たとえ血が置き換えられても、心は置き換えられない」と述べている。
 また、シガツェ出身で、一六歳から漢語を習い始めた母親は、年を取るにつれて標準語から遠ざかり、今では四川なまりというよりもチベットのなまりが強くなり、いわば「不標準語」の漢語を話すようになり、言葉だけでなく、食生活も一六歳前に戻ったという。ソシュールのラングとパロールやチョムスキーの生成文法について考えるうえでとても意味深いと思われる。そして、このような母と、オーセルは次のような会話を交わしている。歴史とアイデンティティにおける母語の位置の大きさがうかがえる。
 オーセル「お母さん、夢の中でしゃべるのはチベット語、それとも漢語?」
 母(はっきりと)「夢の中ではしゃべらないわよ」
 オーセル「普段はチベット語で考えるの、それとも漢語?」
 母「漢人と話すときは漢語で、チベット人と話すときはチベット語で考えるわね」
 オーセル「一人でいるときは?」
 母「うーん、そんなこといちいち考えてないわよ。チベット語かしら、たぶん。」
 二〇一一年の秋、オーセルはドラマチックと言えるような経緯で西蔵文聯から自分の「档案」を手に入れることができた。この「档案」は所属する職場、機関、団体などの人事部門が所管する個人の身上調書や行状記録で、独裁政権を支える統治方法の一つである。それは旧東ドイツの秘密警察シュタージの記録に類似している。
 ところが、中国では市場経済化がこの部門にまで浸透し、「档案」の一部が「商品」として自由市場や廃品購買所などに流出し、社会に出まわるような状況が現れている。特に、文革期の「档案」は一部の関係者の間で人気が高く、密かにオークションにかけられ、高価な金額で売買されている。
 オーセルがどのような経緯で「档案」を入手できたかについては、関係者の安全のために、ただ「ドラマチック」としか表現できないが、北京郊外の通州の「宋荘芸術村」にスタジオを構える独立プロダクションが、その歴史的かつ個人史的な価値に注目し、ドキュメンタリー映画を制作し始めた。その中で、オーセルはカメラを前にして、高校三年生から二〇〇三年に公職を追放されるまでの一八年間、学校や職場で実施された政治的キャンペーンのたびに求められた「民族分裂主義者の暗い」罪状を暴いて糾弾する告発や共産党への忠誠を誓う決意表明を、肉声で延々と読みあげ続けている。
 もちろん、その内容はどれも官製メディアが使った決まり文句を繋げたものである。それでも、見方を変えれば驚くほど膨大で詳細な「個人の政治思想史」と言える。官製の決まり文句を繋げた文章の行間や紙背には葛藤や苦悩で分裂した心理、重大なアイデンティティ・クライシスが秘められている。従って、これを読むことは当時の記憶を呼び覚ますことになり、強靱な精神でなければ果たし得ないが、オーセルはこれを確実に遂行した。彼女は果敢に内奥へと分け入り、心の分裂による葛藤や苦悩を剔抉し、乗り越えたのである。
 さらに、心の分裂はオーセルだけでなく、ポストコロニアリズムが議論される現代において植民地化されたチベット人の民族的な問題でもある。確かに、表面的にはGDPが加速度的に伸び、インフラの整備も進み、チベット人は経済成長の恩恵に大いに浴している。また政府は大規模な記念行事や祝典を次々に開催し、「中華民族」による「民族大団結」を誇示し、「国民国家」、「国民文化」の成立を演出している。しかし、少しでも水面下に視点を向けると、「民族大団結」は漢民族化(漢化)であり、アイデンティティを支える母語は軽視され、また華やかな経済成長の裏では鉱物資源の乱掘、森林資源の乱伐、環境破壊が進み、さらに至る所で兵士や警官が監視し、密告が蔓延している。
 このように民族性が否定され、経済的な利益誘導と軍事的政治的な圧政の下で生きなければならないため、チベット人は心が荒み、分裂した状態に追いやられている。聖地を巡礼したり、寺院に参拝したりする毎日を送る文革期の「積極分子」や密告者。性の「解放」に溺れ、エイズに感染した患者が急増して「時限爆弾を抱えるほどひどい」とまで語られる、「聖都」から「性都」に変わり果てたラサ。さらにアルコールや麻薬の中毒、ギャンブル、賭博の依存症。具体例を挙げれば枚挙にいとまがない。
 また、当局は賭博、売買春、麻薬への取締りを全国的に強化しているが、ラサは「完全公開合法化」の「娼婦とやくざの楽園」と化しているという。このような放任、黙認、追認は、当局の陰湿で悪質な意図からではないかという危惧が出されている。娼婦が内地から次々に押し寄せる規模は、「一九軍」(チベットに進軍した「第一八集団軍」の次の「軍」を指す)と称される程であり、その背後には娼婦の大集団と、これに伴う大量の麻薬をチベットに浸透させ、仏教に基づく社会や生活を根底から腐らせて、チベット文化を崩壊させようという意図が観測できるためである。
 このため、破滅的な享楽主義に逃避する一方で、来世を恐れ、精神的指導者としてダライ・ラマ一四世)に畏敬の念を抱くという二重人格的な分裂がチベット人に広がっている。例えば、二〇〇八年「三・一四」抗議事件後の「粛清」で軍隊や警察が民家に乱入し、逮捕・連行する映像がインターネットに流出しているが、それは軍隊や警察の中のチベット人が良心の呵責に耐えられず、密かに漏洩したためかもしれないと語り伝えられている。
 そして、このような状況において、オーセルは自分の「档案」を用いて思春期からのライフストーリーの繊細で微妙なところまで正視し、その内奥を探り、分析し、そこから圧制下で分裂している民族の心性を推し量り、深く憂う。このような意味で、心の分裂との闘いは、自分自身のためであると同時に民族的な課題でもある。だからこそ、オーセルはドキュメンタリー映画で、自分の「档案」を朗読するのである。彼女は、これによりチベット人が体験してきた様々な苦難を分かちあい、ともに乗り越えることを願っているのである。

五、アイデンティティを求めて
  ―程文薩(チョン・ウェンサ)からツェリン・オーセルへ―
 「私は何者なのか?」
 オーセルは、自分の「頭をコツコツと叩き」ながら、このように問い返し続けてきた。漢人とチベット人の間を遍歴するような体験は、彼女に自分自身のアイデンティティを探求させ、その結果、言語と民族の問題に突き当たった。
 そもそも母語は人間存在の根幹的な要素であり、従って、その言語環境の喪失は、重大な問題となる。ウィリアム・シェイクスピアが、終身追放刑を宣告されたノーフォーク公モーブレーに「イギリスの国語を、いま私は捨てねばなりません。/私の舌はもはや無用の長物となりはてました。(中略)陛下は無言の死を宣告されたのです。私の舌から/使い覚えた母国語を吐く息を奪われたのですから」と訴えさせたことには、根源的な意味がある。そして、チョムスキーは生成的な言語や文法が人間としての存在意義にとって極めて重要であることを明らかにした。だからこそオーセルは繰り返し「自分は何者なのか?」と問い返さざるを得なかったのである。以下は二〇一一年一二月に交信したメールをまとめたものである。
 私は七歳から正規の学校教育を受け、チベット本土と関係を持てなくなりました。とても荒唐無稽な状況は、高校の三年間と民族学院の予科で終わりました。「実験的な意義がある」と言われ、私たちチベット族、そしてイ族の予科生は、漢族以外の「民族」の大学生と起居を共にしました。しかし「民族」と言っても、名ばかりでした。皮肉なことに、「民族学院」でありながら、各民族の独自の歴史や固有の民族的アイデンティティについてまったく教えませんでした。
 それでも、その中で私は出自が少数民族であるという自覚を取り戻せました。一九八四年、まさに西南民族学院の漢語文系で学ぶうちに、民族的アイデンティティが芽生えました。私が得たチベットの歴史、地理、文学、民俗などの知識はすべて独学によるもので、学校教育から得たものは一つもありません。
 一八歳、大学一年生のとき、私はクラスの大半を占める漢人の同級生と論争し、その差別視、少数民族の固有性の尊重が希薄なことに憤慨し、中国語(漢語)で黒板に詩を書きました。
 印(しるし)―一部の偏見を持つ者へ―
 軽蔑という汚水を君の若い瞳から流さないで
 バター茶とツァンパの味のしるしが私の心に深く焼きついている
 私は決して意気沮喪しません
 そして、君の冷淡に蔑む一瞥を拒絶します
 もしかしたら
 優越感を当然視して
 君の人生にそれが浸透しているのでしょう
 でも、私はお追従の笑顔など咲かせません
 この青い地球で
 私たちはみな平等です
 すると、漢人の同級生は「チベット人でありながら中国語で現代詩を書けるなんて、大したもんですねえ。文明社会へと一歩前進したわけだ」と、大げさに驚嘆した口調で言いました。そこに差別的な白眼視が含まれていることが、はっきりと分かりました。
 私は執拗に両親に問いかけ、苦しめました。なぜチベット語を教えてくれなかったのか? 私は漢人なのか、チベット人なのか? チベットが抑圧されてきた歴史が外国では伝えられているけれど、その歴史は本当なのか?
 両親はとても悩み、苦しみ、沈黙しました。それは微小な個人ではどうしようもない、ただ翻弄されるしかなかった激動の時代にあって、自分自身傷つきながらも私を育ててくれた両親をさらに傷つけ、苦悩の淵へと追いつめることでした。
 父は私に、二本の足で人生を歩き通すのだと語りました。それは、泥沼の間の二筋の道を、左足は個人の意志を持って歩き、右足は漢人政府が期待するように歩くというものでした。
 また、ある漢人の詩人は、私に「君はチベット人でも、漢人でもない。君のアイデンティティ・カードには詩人と書くべきだ」と言いました。でも、一九九〇年、わが家が二〇年も離れたラサに帰ると、すっかり「漢化」された自分は故郷では異郷人であることに気づかされ、痛いほどの喪失感や深い孤独感にさいなまれ、葛藤に苦しみました。
 私の故郷、私の母語、私の記憶、私のライフスタイル、私の名前、私の民族的な出自、すべてが置き換えられ、ちぐはぐにされてしまいました。
 こうして一生、チベット人と漢人との間でどちらにもなれず、荒涼たる周縁という隘路を彷徨し続けなければならないのでしょうか? どちらに行ってもはじき出され、寄る辺のない人生を送らなければならないのでしょうか? 出口の見えない状況で得体の知れない感覚に襲われ、心が分裂し、絶え間ない鈍痛が私の内心を巣くっているようでした。父から教えられた道を全力で突き進んできましたが、両足とも折れて、倒れそうになりました。
 一九九一年、父が亡くなり、母といっしょに父の遺骨の一部を、父の故郷の徳格(デルゲ)に持ち帰りました。故郷の純朴な親族、印経院(デルゲ・パルカン)〔古くから経典の印刷で知られ、現在は文化遺産〕、各寺院、蒼穹、天空に瞬く星々、悟りをもたらす川、静謐な山々などを無心に散策しながら……、とうとう、ある僧院で私は泣き崩れてしまいました。そして、ラサに帰り、漢族の名前の「程文薩(チョン・ウェンサ)」を、父がつけたチベット族の名前に改めました。父は「長男が欲しかったけれど、風に吹かれて長女が授かった」と笑いながら話したものでした。
 チベットでは、子どもが生まれるとラマ〔師〕、リンポチェ〔高僧〕に名前を授けていただくという習慣があります。輪廻転生の考え方では、誕生は流転する霊のしるしです。あたかも音もなく流れる川のようであり、その流れの根源をたどれば、自分の本当の故郷に至れます。恩師のラマたちから教えていただいた真理は心に染み入るようでした。
 まことに奇特なことに、私が授けられたいくつかの名前にはみな、お寺で静かに燃えるチューメ(バター燈明)の意味が含まれています。私は生まれ変わったという自覚を得ることができました。私はとうとう自分は誰なのかが分かりました。内心の暗い影が一掃され、澄みきった快晴の青空となりました。そして、次第に私は自分の故郷がどこなのかも分かるようになりました。えんじ色、最も美しい色彩のデルゲ、ラサ、いいえチベット全土です。
もし、私が一本のチューメなら、消えることなく燃え続けさせてください……
これが、私の願い祈ること
チベットよ、私が転生を重ねている故郷よ
もし、私が供えられた一本のチューメなら、
あなたの傍らで消えることなく燃え続けさせてください
もし、あなたが一羽の飛翔する鷹ならば
どうぞ、私を光り輝く浄土へと連れて行ってください!
 このようにしてオーセルはチベット語と漢語の隘路で苦悩した経験を、詩人、作家ならではの文学の力に転化した。チベット語からも、漢語からも周縁に位置することは、いずれからも適度の距離を保つことを可能にした。また、これにより彼女は大規模な亡命、ディアスポラ(離散)、文革(殺劫)、抵抗、抗議焼身自殺などを個人の記憶とともに民族の記憶としてアイデンティティに組み入れ、それを通して根無し草(デラシネ)になるのではという痛切なクライシス(危機)から抜け出すことができた。
 そして、このアイデンティティ形成から獲得した文学の力は、少数民族の問題においても鍵となる。中国では少数民族の言語は根本において大漢民族主義により蔑視され、今や母語を使える言語環境を剥奪されようとしているからである。
 岡本雅亮は「文化大革命では『民族語無用』論が席巻し、各地にあった民族文字による出版機関はほぼすべて廃止され、民族語による教科書の編さんもほとんどできなかった。(中略)文革以降、各民族のオリジナリティを反映させられる部分が若干広げられたが、(中略)チベットなどではいまだに教科書の内容が現地の生活とかけ離れている」と指摘した。そして今日では、愛国主義教育や経済的利益誘導で実質的に漢語が唯一の公用語になり、少数民族の言語環境はますます狭められている。二〇一〇年一〇月一九日、青海省同仁県で数千人のチベット族の中高生が民族の平等とチベット語の使用拡大を訴えてデモ行進を行ったのは、そのためである。

六、遍歴から抵抗へ―何故、当局は恐れるのか?―
 オーセルは二〇〇三年に『西蔵筆記』を出版したが、数カ月後、中国共産党中央統一戦線部と中央宣伝部は「宗教の社会生活における積極的な役割を誇張し、美化し、一部の文章ではダライ・ラマへの崇拝と敬慕が表現され、ひいては狭隘な民族主義や、国家統一と民族団結に不利な認識を表明した文章さえある。さらに、一部の内容ではチベットの改革開放以来勝ちとってきた巨大な成果を見ず、不確かなうわさ話で旧チベット(一九五一年五月のチベット平和解放に関する十七条協議締結以前)へのノスタルジーに耽溺している。従って、価値判断を誤り、政治原則から乖離し、一人の作家として担うべき社会的責任と先進的文化を建設する責任を放棄した」という理由で「重大な政治的錯誤がある」として発禁処分を下した。
 この時、オーセルは北京で魯迅文学院の定期刊行物の責任者として高級研究班に所属し、『西蔵文学』編集長への昇格が内定していたが、ただちにラサに召還され、「思想教育」を受けさせられ、「自己批判」と「過関」を求められた。「過関」は自己を否定して新しい人間になるという名目で、心底からの屈服と忠誠を表明させる手続きである。そのために家族、友人、同僚も動員され、人間の弱さにつけ入り個人の独立した思考や抵抗を窒息させる洗脳工作の「車輪戦(次々に新しい相手が現れて攻撃を繰り返す)」が続けられた。さらに、青蔵鉄道の工事現場で「教育」を受けることさえ命じられた。それは、工事現場を謳歌する文章を書き、その「手柄」で罪を償うという意味であった。オーセルは一貫して青蔵鉄道の建設に批判的だったため、まさにこれは「踏み絵」であった。
 そのため、オーセルはラサを離れることを決意した。彼女は党組織に「私は永遠に一仏教徒のチベット作家です」という表題の手紙を送り、その中で以下のように述べた。
 私に「過関」を強制するということは、私の仏教信仰も、自分の目で見たチベットの現実もまちがっているということを認めさせることです。しかも、これからの著述では、信仰を放棄し、チベットの現実を伝えるときは政府側の規制を守らなければならないのです。これに対して、次のように私の意志を表明します。このような「過関」を通ることはできません。通り抜けたいとも思いません。私は、この「過関」は作家としての天職と良心に背くものです。
 こうして、オーセルは職場を失い、故郷を追われ、遍歴、流浪を強いられた。それは「亡命(漢語で流亡)」に比し得る運命である。もっとも、一九五九年にダライ・ラマ一四世がインドに亡命し、数万人のチベット人がそれに続いたように、あくまでもチベット人であろうとするチベット人にとって「亡命」は宿命となる。
 確かに、亡命(流亡)は本土(メインランド)、本流(メインストリーム)、中心からの排除であり、亡命者は周縁的(マージナル)な存在となる。これにより生まれ育ってきた「根(ルーツ)」を引き抜かれ、「根無し草(デラシネ)」とされる。しかし「境界人(マージナル・マン)」には中心を客観的に捉える立場を獲得でき、中心に埋没した者にはなし得ない根本的な問題提起を行うことができる。
 そして、オーセルもまた独裁体制下で自ら選び取った「亡命(流亡)」の生き方を通して根本的な問題を提起し、それがまた抵抗となっている。前掲『鼠年雪獅咆―二〇〇八年西蔵事件大事紀―』(七~八頁)で、カナダ・ブリティッシュ・コロンビア大学教授茨仁夏加(Tsering Shakya)氏は、次のように述べている。
 共産党にとって、オーセルの著述はとくに我慢ならないものである。何故なら、彼女は党が人民に語ってほしくないディスクールを語ってしまっただけでなく、それを統治者の言語〔漢語〕で著述するからである。中共は統治の初期に特別な目的をもって中国語で著述するチベット人を育成した。それは「解放された農奴」の「喉」で、党のご恩に感謝し、それに報いようとする言葉を発するようにさせるためであった。(中略)中国語で著述する若い世代のチベット人作家は自分を党の代弁者と見なさず、統治者の言語で書いた作品を統治者への抵抗の道具としている。(中略)オーセルは漢語を自分のものとし、党のいう真理に抵抗し、反論するのである。だからこそ、中国政府にとってオーセルの著述はとりわけ面倒になる。彼女は中国で蔑視され、軽蔑される「蛮夷の原住民」の声を代表しているからである。
 また、王力雄は「チベットの直面する二つの帝国主義―オーセルの事件を透視する―」(ネットで発表)において、以下のように述べている。
 漢語で著述するチベット人の作家や詩人は数百人にものぼり、チベット人「漢語作家群」と称されている。(中略)確かにその状況を見ると、植民地主義の色彩がかなり鮮明である。まず「漢語作家群」の多くが「四省チベット地区」から育成されている。この「四省チベット地区」は、中国政府の意図的なチベット分割統治の所産であり、チベットと中国の境界地域を青海、甘粛、四川、雲南の四省に分割して併合したものである。そして、「四省チベット地区」では漢族化の程度が高く、チベット語教育は遅れている。(中略)問題は、単純にチベット人「漢語作家群」を恥と見なすのか、それとも、民族の財産であり、抵抗の武器と見なすかというところにある。
 これらは中心と周縁の評価を逆転させ、それにより否定を肯定に転換させている。事実、オーセルは苦難と危機(クライシス)を乗り越えて「統治者の言語で書いた作品を統治者への抵抗の道具」、「抵抗の武器」へと転化し、繊細な感性と強靱な精神をもってチベット人の尊厳を詠いあげている。まさに、それは抵抗の文学(protest literature)であり、チベット「民族の財産」と呼ぶにふさわしい。

七、野蛮に対峙して輝く詩
 かつてテオドール・アドルノは「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」、「アウシュヴィッツの後ではもはや詩は書けない」と提起した。確かに、これは重く受けとめなければならない。アウシュヴィッツの残酷かつ悲惨な事実を知りながら、メルヘンやロマンを歌うような詩は問われなければならない。そこにはナチ党員であったハイデガーが戦後にアウシュヴィッツの実態が明らかにされてもなお全く反省を表明せずに詩を論じていたことも含まれると言える。
 しかし、オーセルの詩は、そのようなものではない。チベットの悲惨な現実を正視し、それを乗り越える「リアリティとヒストリーを詠う叙事詩」(本書序文)である。半世紀以上も暴力が繰り広げられ、流血の恐怖の下で詩を書くには、絶えず詩とは何かと問い続けなければならない。しかも、オーセルは遍歴する中で繰り返し自分は何者だと問い返し、それを突き抜けた詩人である。
 私たちは、彼女の詩やエッセイから廃墟となった古刹、町中にあふれる兵士や警官、地響きを立てて進む装甲車、狙撃されて倒れる少女、背後に光る目、連行、拷問、投獄、処刑、逃走、抵抗、抗議の焼身自殺等々を読みとることができる。そして、読後には加害者の凶悪な姿か、抵抗者の尊厳ある偉大な姿か、人間としていずれを選ぶべきかと考えさせられる。
 このような意味で、オーセルの詩は「野蛮」な暗黒の現実を突き破る輝きを発していると言える。それはロマンチックなメルヘンでも、さらに政治的な告発でもなく、「野蛮」な暴力の前で余りにも脆く儚い人間を愛惜しつつ、なおまた人間にとって何が大切なのかを照らし出す柔らかで奥深い輝きである。

八、詩人による証言と記録の意義
 オーセルは自分の著述を「証言」として発信するが、その客観性や信頼性を問う議論がある。これに対して、王力雄は「語られざること、書かれ得ないことを、書き、伝えるという点で、厳密に根拠を問う学術研究は大きな限界を持っている。作家や詩人は、この限界を補うという点で極めて重要である。その上でなお、学術研究として問いたいのであれば、その対象は生、あるいは生の存在となる」と述べている(本書序文)。人間のいのちは有限であるが、「生、あるいは生の存在」は無限であり、無限を対象とし得るのは文学、思想、哲学である。この点について、さらに考察を加えていく。
 まず、詩人と歴史家について見ると、ゲオルグ・ヘーゲルは『歴史哲学講義』の序論で「歴史のとらえかた」として「事実そのままの歴史」、「反省をくわえた歴史」、「哲学的な歴史」をあげ、歴史家が「他人の報告や談話をも活用」するのは、詩人が「既成の洗練されたことばを自家薬籠中のものとして大いに活用するのに似てい」ると述べている。歴史は時々刻々の変化でつくられ、その情報は膨大だが、そこから何を選び「活用」するかという点で、歴史家の力量が問われ、その選択において否応なく歴史家の主観が作用する。完全な客観性を主張するとしたら、それ自体が客観主義という主観性に囚われている。他方、オーセルは自分が詩人であることを隠していなく、自覚し、表明している。それは客観主義という主観性に制約され、自分の限界を認識できていない者よりもはるかに優る反省的な自己認識である。そして、歴史家は詩人に「似てい」ると言うヘーゲルの捉え方は、視点を変えれば、詩人もまた歴史を書き記す力量も、資格もあるということを意味している。
 また、「理性が世界を支配し、したがって、世界の歴史も理性的に進行する」ことを「確信」し、そのレベルまで「洞察」することを「哲学的な歴史」と提起したヘーゲルの歴史観には、主観主義も客観主義も乗り越える統合的な観点がある。これに対して、マルクスをはじめ多くの批判があるが、その意義を軽々に看過すべきではない。ヘーゲルは「理性の具体的内容を明確にとらえることが、第一に重要」であり、「わたしたちが、民族の幸福や国家の知恵や個人の徳を犠牲に供する屠殺台として歴史をながめるとき、当然のことだが、このおそるべき犠牲は、だれのために払われ、どんな最終目的のために払われたのか、という問いを思いうかばざるをえない」とも述べており、彼が現実の認識に努めたことは確かである。そして、彼の「問い」は、中国共産党統治下のチベットの歴史にも投げかける必要がある。
 次に、ソシュールの言語学やポストモダンの議論によりディスクール(言説)の意義が広く知られるようになっても、口述資料(証言)は文献資料に比べて低い評価しか与えられないことが多いが、それでは出版や印刷が厳しく統制されている中国の調査研究は十分にできない。むしろ、四千年の王朝、帝国の支配(東洋的専制)で上から下への一方的な通達、伝達の歴史を通して民衆が用いてきた「口コミ(小道消息)」という伝達手段が中国社会では大きな位置を占めてきた。今日でも、ほとんどの庶民は官製メディアが伝える「公式発表」や保身に汲々としている御用学者の「解説」など信じていない。
 確かに、口コミでは不確実な情報が伝播し、根拠のないうわさが流れ、甚だしくは造言飛語が飛び交う。それでも、ネットの広がりにより様々な方法、ツールで情報が共有され、淘汰されることで確実性を増している。たとえ口コミでも、以前より広範で多数のチェックや批判を経るようになっている。確かに群集心理の作用にも注意しなければならないが、注意は官製メディアがプロパガンダのために発行する文献にも向けなければならない。
 そして、オーセルは資料批判に努めつつ、口述資料だけでなく、写真やビデオの目撃資料も活用し、事実に基づいて信頼できる情報を伝えようとしている。それは、声を発することができない者の声を代弁するためでもある。一瞬の光と影を結晶化した映像は、言葉よりも雄弁に思念を伝えることができるときもあり、オーセルは詩人の感性で、このような映像を活用している。
 さらに、チベット人のオーセルがチベット人の問題に取り組む点でも客観性を問う議論がある。この点は、歴史人類学者でマイノリティのモンゴル人の楊海英が内モンゴル自治区の自民族を調査する場合でも同様であるため、彼の「ジェノサイドへの序曲」という論考から、以下を引用する。
 異文化をフィールドワークする人類学者には自ずと「第三者」という免罪符が付与されるのに対し、自文化、それもマイノリティの場合だと「非客観」や「意識的に被害者の声のみ集めている」との批判を受けやすい。しかし、そのマイノリティが被害を経験した歴史を有し、現在でも国民国家から「分離独立者」と見なされ、弾圧されている以上、安全な「第三者」からの「非客観」という批判は、ともすれば独裁者側を擁護するイデオロギー的攻撃につながるのではないか。
 「第三者」であることが無条件で客観性を保障することにはならない。「第三者」であるという観点そのものに一つの主観性があり、それへの自覚がなければ、大勢に影響され、その頂点、あるいは中心に位置する「独裁者」を意識しないまま「擁護」してしまうのではないかという問題提起である。インフォーマント(情報を提供する者)が語ることを、ひじ掛け椅子にふんぞり返って記録するという「ひじ掛け椅子の人類学者」は姿を消しただろうが、形を変えて独裁体制の植民政策を擁護する者として現れていないかと注意しなければならない。

九、文学の力―抵抗の文学(protest literature)―
 詩人は語られざることを表現できるだけでなく、その微妙な細部のディテールを捉える感受性や、それを短い詩句に結晶化する表現力は、だらだらと事実を列記するだけの歴史に優る。特に選択を誤り、あるいは意図的に隠蔽しようと、価値の低い事実を書き連ね、重要な事件をその中に埋没させるような歴史に対して、詩人が鋭く本質を洞察し、剔抉し、活写することは、極めて重要である。
 歴史は時間の経過によって構成される。光陰とも表現される時間は、さわやかな風のように過ぎ去ることもあれば、ぬかるんだ泥のように滞るときもある。マンデリシュタームは「詩――それは、時間の地層の深部、その黒土が地表に現れるよう、時間を掘り起こす鋤である。しかし、人間が今日という日に満足せず、耕作者のように、時間の地層の深部に想いこがれ、時間の処女地を渇望する時代があるものだ」と述べている。また彼は、詩を遭難の危難にある航海者が海に投じる投瓶通信にたとえている。
 詩は歴史的瞬間を結晶化し、その本質を提示する。確かに、大国の中国に対して、マイノリティの一詩人の声は投瓶通信のようなものかもしれない。しかし、それを受け取る者は実際にいて、しかも次から次へと伝えられて、広がっている。そこには、武力、暴力に優る文学の強靱な力が認められる。
 もちろん、暴力として見るならば武器と言葉では比較にならないほど武器は圧倒的に強い。しかし、暴力は破壊であり、それは「生」の対極にある。人間が人間らしく生きようとすれば破壊ではなく「生」を選ばなければならない。そのためには、暴力、武器を乗り越えていかねばならない。このような意味で「ペンは剣よりも強し」の警句はまさしく現実的である。
 一九九五年にノーベル文学賞を受賞したアイルランドの詩人シェイマス・ヒーニーは「ある意味で詩の効果はゼロに等しい。今まで一台の戦車を阻止できた詩は一篇もない。だが、別の意味では詩は無限だ」と述べている。彼の受賞講演の演題は「詩への信頼(Crediting Poetry)」であった。それは詩の擁する文学の力への信頼であり、これはオーセルでも同様である。
 オーセルは痛切な無念や無力感に苛まれながらも、文学の力を信じて詩を書き続ける。二〇一一年三月一六日のロプサン・プンツォ僧の抗議焼身自殺、三月二五日夜のロサン・ツェパク上人の「被失踪」を念じ、彼女は次の詩を書いた。
 私の両手には何もありません。
 でも右手にペンを握り、左手で記憶をつかみ、
 この時、記憶はペンの先から流れます。
 さらに行間には、踏みにじられた尊厳と
 尽きない涙があふれます。
 そして、これは彼女のアイデンティティと密接不可分であり、チベット人としての「生」に関わっている。この点について考察を深めるために、改めて楊海英に注目すると、彼は、日本人学者が「大モンゴル」や「モンゴルの時代」と「楽々に表現できても」、モンゴル人自身がそれを口に出すことは、いかに「客観的」にしても「危険」であり、「マイノリティであるがゆえに、中国では『分裂指向』のある『民族主義者』とされるし、日本では『自民族中心的』で、『非客観的』と見られるかもしれない。したがって、モンゴル人の私がモンゴル学者として、モンゴルを対象に、生き方を追求することは慎重でなければならない」と自覚した上で、「それでも、私は生き方の探求こそ人類学の目的のひとつだと認識し」、自民族の調査研究に取り組む。
 確かに、自民族が対象であれば、自民族の価値から自由な立場で、十分に「客観的」な調査研究を行うことは難しい。しかし、他民族ではどうしても入りきれない内部の情報を得ることはできる。自民族であるという立場を一概に否定せず、絶えず自己分析して、この点を活用することが有効であり、研究の発展に資する。
 特に言葉では表しきれない「生き方」は、内部に深く入り込むことによってこそ洞察することができる。それ故、「客観的」根拠を求める余り文献資料を偏重し、文書で記録し得ない「生き方」を捨象しては、それだけのレベルの調査にしかならない。だからこそ文化人類学、民族学、社会学などは実践にまで研究を広げるのである。
 そして、以上からオーセルの詩人としての「生き方」を通した証言(記録)の意義が分かる。ガストン・バシュラールはウイリアム・ブレイクに倣い「想像力は状態ではなく人間の生存(existence)そのものである」と概括した。existenceは「実存」とも訳せ、語源的には「出で来て在る」という意味がある。そして、「実存」の次元に立つならば、「世界」に無関心であることはできず、「出で来て」言葉を発せない無告の民の想念をすくい上げ、隠された真実を明らかにするという「想像力」が求められる。そのような「想像力」による詩は、レトリックを弄び、思考を「偽装」(ウィトゲンシュタイン)するようなものではなく、あくまでも真実に迫ろうとする「生き方」の表現である。オーセルの詩人としての「生き方」は、この点で西洋思想の最高・最良の部分と共通・共鳴していると言える。

一〇、一人のメディアとして
 改革開放で言論の自由が広がっているように見えるとしても、それは表面的であり、中国における言論の自由はあくまでも一党体制の枠内でのみ許容されている。中国のメディアは「党の喉と舌(代弁者)」であり、事実を伝えるというジャーナリズムの本旨からはかけ離れている。
 この現状に抗して、オーセルは一人のメディアとして情報を発信し続けている。それが大きな反響を呼び起こしたのが、二〇〇八年のチベット抗議事件に際し、チベット自治区だけでなく四川省など周辺部の現場からも生の情報を広く収集し、インターネットで次々に発信し続けた時であった。そして、ブログ「看不見的西蔵」を中心に発表した記録を時系列に従って整理した『鼠年雪獅吼―二〇〇八年西蔵事件大事紀―』は、現時点でチベット抗議事件に関する最も詳細な文献で、研究資料としても貴重であると注目されている。
 さらに二〇〇九年九月から、オーセルがツィッターも始めると、またたく間に彼女をフォローする者が数千人にものぼった。しかも、その反応は早く、ダイレクトであった。現場からの実況中継のような情報発信が、瞬時に世界中に広がり、それがまた情報の共有や支援運動の拡大につながった。
 そして、このような言論活動が高く評価され、オーセルは、二〇一〇年四月、国際女性メディア基金(The International Women's Media Foundation)が勇気ある女性ジャーナリストに贈る「ジャーナリズムの勇気(Courage in Journalism)」賞を受賞した。以下は、その時のスピーチである。
 私は伝統的な意味では、ジャーナリストでも、メディアの人間でもありません。でも、インターネットの時代において、私は自分の著述、ブログ、ツィッター、フェイスブック、ラジオの解説、カメラ、ビデオカメラ、マスメディアのインタビューなどを通して、それらを総合的に活用して、新たなメディアとして、一人のメディアとして存在しています。
 私がこのように新たなメディアとして存在しようと意識したのは、二〇〇八年三月のはじめでした。当時、私は帝国の首都の北京に身を置いていましたが、伝統的な通信手段や現代的なコミュニケーション・ツールを利用し、ネットを駆使し、チベット各地を結びつけ、それぞれの現場にいる知人や知らない人を通じて情報を収集し、ブログなどで毎日発信し、血と炎のチベットの実状を世界の人々にリアルタイムで伝えました。あの時期、私は域内〔中国本土〕においてチベット人が声をあげる唯一のルートになり、私のブログへのアクセスは数百万にものぼりました。一人の力で巨大な覇権主義国家のプロパガンダ機関に対抗していると支援していただきました。
 私は友人たちに感謝します。その安全のためにお名前を発表することはできませんが、心から感謝しております。苦難に満ちた日々のなかで、私たちはお互いに支えあい、励ましあっています。私たちは異なる場所で、この歴史の重要な局面において、証人と記録者になろうと努力しています。
 抗議勃発の前夜、友人のチベット青年が、ラサから次のように伝えてきました。
 「我々は常に“民族”や“チベット”などと大言壮語しているが、いまこそ危急存亡の時だという状況になると、往々にして最下層の民衆が命を惜しまず一番先頭を走っている。我々よりずっと勇敢だ。」
 この友人は抗議の現場をカメラで撮ったため、五〇日以上も身柄を拘束されました。
 私も、パスワードが解読され、ハッカーに攻撃されました。情勢が激しく変転する戦場のような毎日でしたが、サポーターの支援により修復し、さらに危機的な状況を次々に切り抜けることができました。常に治安当局から脅迫されていたので、私は投獄のときに必要な持ち物を手が届くところに用意し、いつその時が来てもいいように待機していました。
 それ以来、私はチベット各地を歩き回り、調査し、記録し、撮影しました。そのなかで私は尾行され、阻止され、取り調べられました。また、私に応対し、あるいは交流したチベット人は警察に呼び出され、多くは取り調べられました。当局はあらゆる手段を用いて私を「アンタッチャブル」としました。
 ラサに帰ると、私は実家に乱入した警官に拘束され、家宅捜査により資料は押収されましたが、北京オリンピックが開催されていた期間であったため、ようやく釈放されました。でも、私が体験したことは、全体主義独裁体制に統治されているチベットにとって日常茶飯事にすぎません。今日のチベットでは、相も変わらず非人道的で不当な出来事が次々に発生し、多くの優秀なチベット人、無実のチベット人が逮捕され、判決を言い渡され、想像を絶する虐待を受けています。
 私は一人のメディアという存在を堅持していくつもりです。これは、権力を持たない者の武器だからです。言葉で制作する非暴力不服従の武器です。その源泉は、私たち自身の宗教や伝統文化にあります。また、今日、私たちが虐げられている境遇から生み出されたものなのです。これらすべてが圧政に抵抗する力となっていて、また、決して諦めず、妥協しない理由なのです!
 このスピーチの結びで表明された「非暴力不服従の武器」は、マハトマ・ガンディーやマルチン・ルーサー・キング牧師の「戦闘的非暴力」の思想と実践を継承するものである。だからこそ国際社会で高い評価を得られるのである。
 また、翌五月、王力雄はダライ・ラマに、ツィッターを通したネット・ユーザーとの対話を提案する書簡を送り、ダライ・ラマは中国国内に一〇万人いると言われているツィッターのユーザーと対話を行った。これはダライ・ラマと中国国内の一般市民との初めての対話で、七月にも再び行った。いずれもすぐに封鎖されたが、それでも千人以上が参加し、このようなインターネットによる「対話」を通して「意識化」が進み、双方にとって有意義な相互理解や解決策を考える上で重要な成果となった。
 ところが一一月に、オーセルは、タクシーの中から軍隊や警察の写真を撮っていたという目撃者の証言を理由に八時間も繰り返し執拗に訊問された。その上、警察は家宅捜査し、オーセルだけでなく王力雄のノートパソコンまで調べ、パスワードを解読し、ファイルを削除し、軍隊や警察に関係する写真を消した。
 しかし、いくら国内で取締りを強めても、国外まで及ぼすことはできない。オーセルは国際的に栄誉あるオランダのクラウス王子基金会から「勇敢なチベット人作家」として表彰された。しかし、またも中国政府はパスポートを出さないため、オランダで開催される授賞式に出られず、二〇一一年十二月、北京のオランダ大使館で彼女のために特別に授賞式が行われることになった。それに対して中国政府は執拗に強い圧力をかけ続け、基金会会長は中国に入国できず、このため大使の自宅でささやかな受賞パーティーを企画したが、それも阻止された。さらに、オーセル・王力雄夫妻は、翌年三月になり事実上の自宅軟禁状態に置かれた。
 しかも、これは一例にすぎず、統制は全面的に強化されている。それにも関わらず、知る自由や言論の自由を求める動きは止められず、今やネット空間を超えて現実の空間にまで広がる様相を呈している。「防民之口、甚于防川(民の口をふさぐは、川をせきる止めことと同じで、最後は氾濫し大きな災いをもたらす。国語・周語・上)」という警句がいよいよ現実味を帯びるようになっている。

一一、文化的ジェノサイドへの抗議
  ―「我に自由を与えよ。さもなければ死を与えよ」という限界状況で―
 二〇〇八年のチベット抗議事件は統制強化の帰結であるが、中国政府はそれを反省しないどころか、さらに強化を加えている。それは第二の文化大革命が吹き荒れると言われるほどであり、様々な物理的暴力に加えて、文化全体を否定する文化的ジェノサイドが進行している。まさに革命=殺劫(サルジェ)の再来である(本書序参照)。
 これはチベットに限らず少数民族地域全体で進行しており、楊海英は「現在、開発と発展という圧倒的な政治力と経済力で最後の完成、すなわちあらゆる民族の中華化=文化的ジェノサイドの完成に向けて中国は突進している」と指摘している。そして、王力雄は前掲「チベットの直面する二つの帝国主義」で「政治的帝国主義の文化的圧政と文化的帝国主義の唯我独尊」を批判し、それは統治者の傲慢さの現れであり、この傲慢さは集団であれ、個人であれ、自覚的、あるいは非自覚的に様々な場に浸透していると述べている。だからこそチベット人は自分たちの「生」を守ろうと必死に抗議するのである。
 しかし、それを中国政府は「暴力、略奪、放火事件」と規定し、さらに「ダライ集団との闘争は生きるか死ぬかの闘争だ」と宣言し、ラサを中心にチベット人居住地区で大規模な取締りを行い、職場、学校、寺院などでダライ・ラマへの批判を強要する愛国主義政治思想教育(洗脳)を押し進める。また、それに利益誘導を絡めて、政府主導で寺院の観光施設化が進められるとともに、寺院の定員制が強められ、転生ラマ(活仏)の認定を政府の許可制にするという条例まで制定された。治安当局は、携帯電話のユーザーに「三・一四騒動」の容疑者の情報を提供した者には二万元もの「報酬」を与えると密告まで奨励した。
 このようなアメと鞭の統治により、中国憲法第三六条に宗教信仰の自由が明記されているにも関わらず、僧院と僧侶は、公然と、また秘密裏に、常設および臨時の様々な「関係部門」により管理・統制されている。僧侶の一挙一動すべてが何重もの監視下に置かれ、抗議する僧侶が一人でも出れば、僧院全体が懲罰を受けるという連座制の規定もある。そのため、僧侶は、本分である修行自体が極めて困難とされるばかりか、思想教育(洗脳)を受けさせられ、ダライ・ラマへの非難まで強制される。その苦しさと怒りは計り知れない。
 さらに、二〇一一年一二月以降、チベット自治区の寺院、学校、企業などに歴代指導者(毛沢東、鄧小平、江沢民、胡錦濤)の肖像、国旗、道路、水道、電気、テレビ、ラジオ、映画上映設備、読書室、人民日報や西蔵日報の官製新聞の九つを備えさせるという「九有政策」が開始され、それとともに一〇〇万枚以上のポスターを寺院、学校、企業、そして家庭にまで貼らせるキャンペーンが展開された。こうして、統制が強められ、それに対して抵抗が強まり、それに対してさらに統制が強められるという悪循環で問題が深刻化し、チベット人を恐怖で支配するという段階にまで至っている。その中で起きたのが抗議の焼身自殺である。オーセルはブログ(二〇一二年二月一四日)に「幹部が尼僧院に派遣、二人の尼僧が焼身自殺」という文章を発表し、次のような実状を訴えた。
 二〇一一年一〇月と翌年二月、四川省ンガパ県の僧院で二人の尼僧が相次いで抗議焼身自殺したのは、性急で強制的な思想教育の結果です。党と政府の幹部が千人余りも各地に派遣され、その一人に『ンガパ日報』の党幹部であるツエリン・ワンムがいました。彼女は、二〇〇九年一二月、尼僧全員を集め、ンガパの歴史で初めて尼僧院に婦女連合会〔共産党の翼賛組織〕を成立させました。そして、尼僧たちは真実が分からないまま少数の分裂主義者に脅迫されてデモ行進や暴動に参加したのであり、このような尼僧を婦女連合会という党の大衆組織に団結させ、それを通して、党の声を伝え、党と政府の尼僧への思いやりを教え、五星紅旗を尼僧院の青空で高く掲げようなどと宣伝しました。それから陰に陽に、硬軟とり混ぜた様々な思想教育が尼僧たちに行われました。
 まったく相容れない考え方を繰り返し注入されるという心理的なプレッシャー、苦痛は耐え難く、しかも逃れようがない。その結果、二人が抗議焼身自殺に踏み切ったのである。尼僧は、僧侶とともにチベット文化の根幹でありながら、このような苦境に追い込まれているのであり、文化的ジェノサイドと言わざるを得ない。
 この文化的ジェノサイドについて考えるために、ブルデュが提出した象徴的暴力という概念は重要である。象徴的であろうと、暴力の機能作用に変わりはない。そして、彼は「認知されるための、社会的に認知された社会的存在にアクセスするための、要するに人間性にアクセスするための象徴的闘争で敗北した者の状況以上に悲惨な剥奪状態、貧窮状態はない」と指摘している。この上ない「悲惨な剥奪状態、貧窮状態」をもたらす者への文字通り必死の抵抗が抗議焼身自殺なのである。
 だからこそ、チベットが「解放」され、農奴たちが「翻身」したとされてから半世紀以上も過ぎているにもかかわらず、これ以上は耐えられない、むしろ勇気を奮い起こし義によって進まなければならないとチベット人が次々に立ちあがり、それが抗議焼身自殺にまで至ったのである。これはチベット人として生きるためにやむを得ず用いる最後の手段であり、まさにぎりぎりの限界状況にまで追いつめられているのである。
 そして、オーセルはこの点を十分に理解しているが、また同時に、生と死が背中合わせになるような限界状況でも生き抜くようにと呼びかけている。二〇一二年三月八日に、彼女はアキャ・リンポチェ(元中国仏教協会副主席)やカデ・ツェラン(詩人)たちと連名で緊急声明を発表し、「圧政はいかに大きくとも、どうか命を大切にしてください。(中略)二六人が我が身を炎と化したことは、十分にチベット人の意志を表明しています。しかし、これは最終的な目的ではありません。希望を現実にすることが、私たちの最終的な目的です。(中略)不死鳥のごとく立ちあがるチベット人こそ、私たちの民族の血脈を継承することができます。(中略)チベットを見守ってくださる国際社会の良識ある人々にもお願いします。チベットの現状と、チベット人の意志に注目し続けてください」と訴えた。
 抗議焼身自殺を理解し、かつ、その停止を呼びかけることは矛盾ではない。限界状況が現れるほど危機が深刻化しており、それに真摯に対処するため、このようになるのである。
 この時期、王力雄も「焼身自殺以外に何ができるのか」と問題提起し、開催中の全人代が現行の民族政策を反省し、是正することを訴える声明を発表し、それとともに広東省烏坎村の村民自治を参考にしてチベットの村民自治も提唱した。
 そもそも、限界状況に置かれた者が自由を求めて死を選ぶことは、現在のチベットに限らない。「我に自由を与えよ。さもなければ死を与えよ(Give me liberty, or give me death)」と、かつてアメリカ独立戦争を指導したパトリック・ヘンリーは演説で表明した。これは時代を超えて、ファシズム、ナチズムに抵抗するレジスタンスたちによっても表明された。その中で、ジャン=ポール・サルトルは「私は自由であるべく運命づけられている」、「われわれは自由へと呪われている/われわれは自由の刑を宣告されている」と提起した。さらに、歴史を遡れば「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(「ヨハネ福音書」一二章二四~二五章)があり、これは「一粒の麦」として知られている。
 チベット人の抗議焼身自殺は、チベットにおける危機の深刻さとともに、これらを十分に踏まえて考えなければならない。

一二、日中の狭間でマージナルな私にとって―結びに代えて―
 私は子どもの頃「チベット人を農奴制から解放してくれた毛主席に感謝」という、中国では広く知られている歌を聞きながら育った。また、チベットの娘が解放軍兵士の軍服を洗濯してあげる情景を歌った「洗濯の歌」では、「翻身農奴」に扮して、色鮮やかな紙で作ったパンデン(前掛け)の衣装を身につけ、「誰が私たちを生まれ変わらせてくれたのか?/誰が私たちを解放してくれたのか?/同じ身内の解放軍だ/救いの星の共産党だ」と歌いながら踊った経験もある。歌詞はさらに、チベット人を農奴制から解放し、自動車道や橋を建設し、裸麦の収穫や新しい家の建築を手伝ってくれた解放軍に感謝し、「私たちの生活は一変した/私たちは限りなく幸福だ/同じ身内の解放軍に感謝する」と歌い終わる。
 この「洗濯の歌」は、文革が発動される二年前の一九六四年に発表され、広く歌われた。作曲者も作詞者もチベット人ではなく、漢人だが、そのようなことなど知らずに、私たち漢族の子どもは、教えられるままにグループで踊りながら合唱した。一九六九年三月から、ラサ近辺のニェモ県やチャムド地区のペンバー県など各地で惨烈な抗議事件が続発したことなど、もちろん全く知らなかった。
 その後、一九九一年に日本に留学し、中国の地下文学や亡命文学の調査研究を進めるうちに教えられた内容とは違うチベットの状況を知るようになったが、その時はまだ抽象的な概念に止まっていた。そして、二〇〇五年夏、ストックホルムで、天安門事件亡命者の茉莉・傅正明夫妻と会った。北欧の抜けるような青空から降りそそぐ透明な夏の日ざしを浴びながら傅正明は消息不明のチベット人の手書き原稿の詩を紹介し、朗読した。
雪山よ
もし君が人間のように立ち上がらなければ
たとえ世界の最高峰でも
ただその醜さをはっきりとさらすだけだ
最高峰として寝ているよりも
むしろ最底辺でスクッと立つべきだ
兵士よ
もしどうしてもぼくを撃たなければならないのなら
ぼくの頭を撃ってくれ
ぼくの心臓は撃たないでくれ
ぼくの心には愛する人がいるから
 この朗読を聞き、私は衝撃のあまり涙がこみ上げ、抑えようとしてもできなかった。さらにその時、一九五九年には一〇万人という規模の亡命者が出たという離散(ディアスポラ)も知り、強烈なショックを受けた。
 亡命したチベット人は身体と精神の二重の苦痛を体験し、その上、母語が使えず、中国語、英語、ヒンドゥー語、サンスクリット語など様々な異邦の言語の中で亡命生活を送る者も多い。現在ではインターネットで亡命チベット人が中国本土の親族や友人と通信できるようになったが、中国で広く使われているチャットのQQは、その発音から「哭哭(泣く泣く)」とも表記されている。その内容が悲嘆に満ちているためである。
 こうして、チベット人の苦境を知れば知るほど、私は義憤を覚え、漢人の一人として良心の呵責に苛まれ、道義的な責任を感じた。さらに、楊海英の「内モンゴルが中国領にならなかったら、ジェノサイドもなかった、とモンゴル人は認識している」という指摘が、痛烈に突き刺さった。そして、私はこのことを私自身の「生」に関わる課題と受けとめ、なお一文学者として改めて何をなすべきかと考えた。私は自分自身を振り返り、向きあった。その時、自分は日中の狭間でマージナルな存在であることを省察し、ここにオーセルと「生き方」をともにする立脚点があるのではないかと考えた。オーセルたちに自由がなければ、私にも自由はない。オーセルたちが泣くならば、私もともに泣こう。このような意味で、本書は謂わば共感共苦(compassion)によるものである。
 「炎にあえば御影石も溶ける」という。我が身を炎と燃えがらせる抗議は、盤石に見える独裁体制も溶かすだろう。その思念や行動を記録し、伝えるところに文学の使命があり、また文学の真価が問われる。


あとがきにかえて―海内存知己、天涯若比隣―
 「涙ほど早く乾くものなし」(キケロ)といいますが、悲しみや痛みが癒えず、涙が乾くひまもないうちに、チベットから次々に悲しいニュースが伝わってきます。私は泣きながらオーセル・王力雄ご夫妻と励ましあい、ようやく本書を世に送り出すことができました。感無量です。振りかえれば脳裏に様々な思いや姿が浮かびあがりますが、特に昨年の一二月二八日、突き刺すような寒風が吹きすさぶ北京で語りあったことは忘れられません。
 私たちはアジア大会選手村近くの雑居ビル一階にある四川料理レストラン「食?湯(スゥチョンタン)」で会いました。寒風や黄砂を防ぐためのぶ厚い綿布やビニールのカーテンをくぐり、テーブルの間を通って、奥まで行きました。
 この日は、獄中の劉暁波さんの誕生日で、オーセル・王力雄ご夫妻の他に、余傑・劉敏ご夫妻、市民運動家の周鴻陵氏、人権派弁護士の夏霖氏、青海省から駆けつけてきた李軍・劉燕ご夫妻(テント製チベット語学校建設やオーセルさんの文章の英訳などの支援者)、そしてレストランのオーナーの周忠陵氏が集い、激辛の四川ラーメンで劉暁波さんの誕生日を祝いました。長寿を願って長い麺を食べる習慣からです。
 レストランの壁には翰墨(かんぼく)の額があり、力強い筆で「義気」と書かれていました。それは、元中国社会科学院歴史研究所研究員で自由と民主の思想家の包遵信(一九三七~二〇〇七年)氏の書です。彼は天安門事件では「ごくごく少数の陰謀家」と名指しされて逮捕され、五年の刑を受けました。包氏を劉暁波さんは「包包(バオバオ)」という愛称で呼び、二〇〇八年一〇月二八日の追悼会では弔辞を読みあげました。
 オーナーの周忠陵氏は、一九八〇年代には前衛小説を書き、天安門事件以後はマージャンの博徒として名を馳せるとともに「書商(書籍ブローカー)」として活躍し、長江文芸出版社の編集長を大金を使って抱き込み廖亦武の『中国低層訪談録』を出版させました(直後に発禁処分)。また、彼は激辛四川料理のレストランを経営しながら、批判的知識人、体制に異議を唱える市民、官製文壇から独立した作家、人権派弁護士、党内の改革派たちと交流し、そこには詩人の北島、小説家の王朔、史鉄生たちも登場しました。
 「〇八憲章」作成のための議論は、この「食?湯」で行われました。まさに「食?湯」は中国民主化の苦闘を見続けてきています。他方、治安当局は危険人物の巣窟と見なしています。
 「食?湯」の店内にはユニークな「布告」がいくつも掲げられています。それは周忠陵氏が劉暁波さんたちと相談して決めたものです。例えば「本店巧取不豪奪(本店は巧みに取るが強奪しない)」、「謀財不害命(財をなすことを謀るが命は害さない)」など、ブラック・ユーモアや風刺が込められています。
 ところで、劉暁波さんは周忠陵氏に「〇八憲章」の署名を思いとどまらせました。他の声明や公開書簡でもそうでした。それは「食?湯」の存続や周忠陵氏への人情味あふれる配慮のためでした。それでも、周氏は「〇八憲章」発表後に連座で身柄を拘束され、訊問を受けました。しかし、周氏は「いつものことで、朝めし前だ」とジョークをまじえて語り、治安当局の凶暴さや一党独裁の病巣を痛烈に批判しました。
 この日も、誕生祝いの最中、「国保(グォバオ)」が「ご挨拶」と顔を出しました。でも、さすが周氏は百戦錬磨の強者(つわもの)です。「お前の出る幕じゃない」と一蹴しました。
 この日の集いは、アメリカに亡命する余傑ご夫妻の送別会も兼ねていました(二週間後の一月一一日に出国)。余傑さんは、劉暁波氏不在のノーベル平和賞授賞式の前日に黒いマスクをかぶせられて連行され、裸にされて気を失うまで激しい暴行を加えられ、政府批判の文章を書く「指を折ってやる」などと恫喝されました。かつて小林多喜二は実際に指を折られて殺害されましたが、言論の自由を抑圧する者は同じことを考えるものだと思わされます。
 また、「国内亡命者」のオーセルさんには監視や嫌がらせが強まり、三月には王力雄さんとともに自宅軟禁となりました。国外に追われるか、国内で閉じ込められるか、枷(かせ)のかたちは異なりますが、いずれも専制体制により自由が制約されているのです。権力に飼い馴らされず、粘り強く批判や問題提起を発し続ける者は、どこにいようとも永遠に亡命者であり続けなければならないのでしょうか。
 ですから、一二月二八日に私たちは歓談することができましたが、次はいつになるかまったく分かりません。しかし、寒気が張りつめた夜空の下で、私たちの心の琴線に清冽で暖かな光が寄り添いました。
 これから離散(ディアスポラ)の運命が試されることでしょう。それでも「海内存知己、天涯若比隣(世界に分かりあう友がいて天の果ても隣のようだの意で、唐代の王勃の詩句)」です。また逢える日まで。「再見(ツァイチェン)」。
 日本語を母語とせず、チベット研究者でもない私が勇気をふるって、大胆にも翻訳に取り組んだのは、不屈、孤高の精神で人間の生を叙述するオーセルさんの文学の力を日本の読者に伝え、冷淡な無関心に共感や共苦の輪を広げたいという願いからです。私たちは、数えきらないほどメールや国際電話で相談しました。北京に滞在した時は、夜を徹して話しあいました。王力雄氏さんも助言してくれました。ですから、文字通りこの翻訳は三人の共同作業なのです。
 相談しながら公刊や公表された文章も加筆修正しました。そして、直訳ではなく、日本の読者が読みやすいように意訳を基調にしました。
 チベット語に限りませんが、外国語の発音を日本語のカタカナに忠実に表記することは限りなく不可能に近いことです。オーセルさんの発音を繰り返し聞き、いくつもの例を参考にしつつ、チベットの人名や地名などの表記や意味について手塚利彰氏、馬場浩之氏、そして楊海英教授から貴重なご助言をいただきました。また、懐徳堂研究会の子安宣邦先生、宮川康子先生、三馬忠夫先生には、学問的な啓発から著述や翻訳への励ましまでとても支えられています。ダラムサラを拠点に内外チベット人の喜びや悲しみを即時に発信するウェブサイト「ルンタ」の中原一博氏、雲南太郎氏からも貴重な情報を得ることができました。志を持って出版不況でも物心両面で支えてくださる川端幸夫社長、細かな訂正などでもいとわずに応じてくださる玉川祐治氏に大変お世話になりました。心から感謝いたします。
 このように学識、学徳を備えた多くの先生、学兄、学姉からご指導、ご教示をいただき、精魂込めて翻訳しましたが、まだまだ十分ではないでしょう。親愛なる読者からのご批評、ご叱正を請うばかりです。
 自由のために我が身を炎と化すチベット人は続いています。五月二七日には、ラサのジョカン寺の前で二人が抗議焼身自殺を行いました。今では四一名にのぼっています。
 オーセルさんは毎日、名前を三名ずつ呼びあげて、念珠をつまぐりながら祈祷しています。私は悲しむ者とともに涙を流します。そして、涙は、それを流す人を強くすることもできるでしょう。
(終)

【「チベットの秘密」】

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著:フェリン・オーセル、王力雄
編著:劉燕子
発行:集広舎(2012年11月15日発行)

【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は5月29日(金)に更新予定です。

2020年4月4日、東京・御茶ノ水で明大土曜会の定例会が開催された。
新型コロナウイルスの感染拡大による外出自粛要請の中、会場の換気や人と人との間隔をできるだけ開けるなど、三密を避ける形での開催となった。
さすがに電車はすいていた。普段の土曜日の3分の1くらいだろうか。電車の中での感染リスクは低いだろう。
御茶ノ水駅前もガラガラ。ここは学生の街だが閑散としていた。
さて、今回のブログは明大土曜会での小林哲夫さん(教育ジャーナリスト)のお話を掲載する。2月11日に「高校闘争から半世紀シンポジウム」が御茶ノ水の連合会館で開催されたが、その第三部で小林哲夫さんの司会進行で高校生や大学生など若い世代の方から話があった。小林哲夫さんには、その集会を踏まえて、2010年代の高校生の社会運動について語っていただいた。
今回の定例会には2月11日のシンポジウムに参加した若い世代の方も参加して、いつもとは違う明大土曜会となった。
なお、「高校闘争から半世紀シンポジウム」第三部については、4月3日のブログに概要を掲載している。
<小林哲夫さんプロフィール>
1960年生まれの小林さんは、2012年に『高校紛争1969ー1970「闘争」の歴史と証言』を著しています。
今年の2月11日、「高校闘争から半世紀シンポジウム」が御茶ノ水の連合会館で開催され。300人を超える参加者がありました。
小林さんが司会したシンポジウム第三部では、現役の高校生・大学生10人が登壇し「今、高校生はどう社会と向き合っていくか」で話し合われましたした。
小林さんに、現在進行形の高校生の運動について話していただきます。
【小林哲夫さんの著作】
・『理系就職・転職白書』丸善 2005
・『ニッポンの大学』講談社現代新書 2007
・『東大合格高校盛衰史 60年間のランキングを分析する』光文社新書 2009
・『高校紛争1969-1970 「闘争」の歴史と証言』中公新書 2012
・『中学・高校・大学最新学校マップ グループ・系列から進学・資格実績まで1冊でわかる』河出書房新社 2013
・ 『シニア左翼とは何か 反安保法制・反原発運動で出現』朝日新書 2016
・ 『早慶MARCH 大学ブランド大激変』朝日新書 2016
・ 『神童は大人になってどうなったのか』太田出版 2017

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小林「小林哲夫と申します。よろしくお願いします。フリーのジャーナリストで、教育関係の記者をやっています。ずっと雑誌記者をやっていまして、今、編集兼ライターをやっています。
1960年生まれです。高校入学が76年になります。中学の時に高校闘争に憧れて、高校に入ったら運動をやろうと思ったんですが、なにせ76年なので、前進社に電話して『反戦高協に入れてください』と言ったら『お前革マルだろ』と言われて、そういう時代だったので、一人で三里塚に行くしかなかった、そんな世代です。そのころから高校闘争の記録をまとめたいなと思っていました。
2012年に『高校紛争』という本を出しました。もう8年前になります。私も社会運動のフォローは全然していなくて、2011年の反原発運動から、高校生が反原発運動に関わっているというところもあって、できるだけ国会前とかにぎやかな集会に行くようにしました。2010年代の高校生、大学生ってどんなものなんだろうということで、できるだけフォローして、2010年代の若い10代の社会運動というのが今こんな状況なんだというのを、2月11日の集会で前ぶりで話しました。それが今日お渡しした資料ですが、その時と同じ話をざっとします。
2011年の原発事故、その年に行われた抗議集会には大学生や高校生が結構来ていました。ただ、受け皿がなくて、本来なら受け皿になってしかるべき民青が機能しなかった。機能しなかったというより、もう30年くらい大衆運動というか街頭運動というのが地区が分断されすぎて無かったということもあるんですけれども、高校生。大学生が集まる空間というのが2011年の原発事故の時は無かった。年輩の方に紛れて高校生、大学生が居たというのがあります。ただ、それ以前に、大学生というのは70年代80年代90年代、どの時代でも活動しています。それが個別の大学であったり、個人であったり、グループ同士が学生・高校生の運動体としては成りにくかったというのはありました。
2011年以降、13.14年に特定秘密保護法の反対運動の中で、シールズの前身となるサスプルというのが出来ます。この時にも結構高校生がいるんです。2013年の12月、女子高校生が3人、国会前デモというのをやっているんです。誰も知らないんですけれども、もちろん報道されていない。とにかく『こんな秘密保護法できたらまずいよね』という高校生たちはいたんです。サスプルが解散してシールズが2015年の5月に出来ます。当初、高校生はサスプルとかシールズにくっついて行ったという状況でした。でも、シールズはシールズで学生グループとして、高校生の面倒まで見られないというので、シールズは学生の緊急活動の集まりということで、高校生は入れない、高校生は独自でやってくれ、あるいは他の市民運動と一緒にやってくれと。それで2015年の6月か7月に高校生がティーンズソウルというグループを作りました。東京と大阪にほぼ同時に出来ました。関東と関西のティーンズソウルの高校生グループは特徴があって、党派的な話になってしまうんですけれども、シールズが登場した頃に、あれは民青の別動隊なんじゃないかと一時言われていた時期があるんですけれども、確かに親和性が高い部分があります。民青同盟員がシールズというのは聞きます。でも、民青が何か動かしたということは全くなくて、集会で民青の人たちと一緒にやるとか、国会前で共産党系の組合の車を借りるとか、そんなことで、シールズ=民青とか、シールズが出た時そう言われました。シールズの学生からすると『民青はうざいな』と言いながら、彼らを利用しようとか、一緒にやって損はないよね、当時国会前に来ていた中核派よりいいよね、というのがたぶんシールズの判断。高校生はどうしたかというと、高校生独自のグループを作りたいということでティーンズソウルを作ったんですね。関東のティーンズソウルというのはバラバラというか自主独立というか自分勝手な人が多かった。関西のティーンズソウルは、面倒を見ていた人が共産党の大阪府委員会の人だったんですね。それがいい意味でも悪い意味でも結構統制がとれていたんですよ。関東のティーンズソウルは高校生ですから、女性問題とかお金の問題とかグチャグチャしたところがあった。関西のティーンズソウルは民青が締め付けたところがあって、そんな面倒くさい事は起きなかった。

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(新聞記事①)
お配りした新聞の記事。ティーンズソウルが、2015年8月2日に独自のデモをやりました。メディアの書き方もいかがなものかなんですが、まず高校生5,000人も集まっていません。高校生などです。学生や社会人含めて全体で5,000人はいたけれど、僕が目測で数えても高校生は100人はいなかったな。高校生独自のデモというのがすごく久しぶりだったと思うんです。40何年ぶりかな。
2015年の9月か10月に高校生の政治活動を条件付きで容認しようとなった。ティーンズソウルの高校生が安保関連法案でデモを始めた頃は、まだ政治活動の禁止の時代だったんです。これは1969年70年の高校闘争の時に、文部省や教育委員会から高校生の政治活動禁止の通達が出された。それから45.6年経ってから、政治活動を条件付きで認めようと。これも明らかに自民党の18歳に選挙権を引き下げることとリンクしているものだろう。

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(新聞記事②)
新聞記事2枚目の『あゆみちゃん』という女の子。当時都立高校の子で、メディアに出たりスピーチしたりしていました。がんばってやっていた女の子です。

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(新聞記事③)
ちょうど同じころ、新聞記事3枚目、『首都圏高校生ユニオン』というのが出来ます。当時。雇止めですとか、高校生をむちゃくちゃこき使っていた状況にあって、高校生のアルバイトをちゃんと認めようという運動を、ティーンズソウルの高校生の運動とともにやっていました。

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(新聞記事④)
新聞記事4枚目。さきほど申し上げた政治活動についてですけれども、実は学校が非常に困ってしまった。現役の高校教師で69年を知っている人は誰もいない。高校生が政治活動をする、デモをするというのが、高校の先生からすると、これまでの教師経験からなかなかイメージが湧かなかった、というのがあります。この頃、教職員組合も弱かったので、そもそも政治活動って何だという定義づけもよくされないうちに、政治活動は校内では駄目だと。つまり69年の時の教室で集会をやったり、バリケード封鎖をやったり、そんなことは絶対駄目だよと、あくまでも高校生が街頭に出て集会に出る分にはいいよと、校内で安倍打倒や制服自由化のビラを配ってはいけないよと、校内の政治活動は駄目ということになりました。ただ、69年と比べて決定的に違うのは、SNSがあることです。SNSは校内も校外もないので、『今度集会あるよ』という発信をすれば、オルグなので政治活動ですが、どこでやろうがどこでキャッチしようが場所を問いませんので、高校の中では駄目で高校の外ではいいというような話はほとんど現実的でないということです。

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(新聞記事⑤)
新聞記事5枚目。高校の先生がもっと困ったのは、18歳選挙権で何の政治家だったらいいのか、高校の先生からすると言いたいことはある。安倍はいい、安倍は悪い、でも一応中立が大前提になっているので、本当に高校の先生は困った。18歳選挙権に向けて政治を議論しようと、元々自民党が言ってきたわけですが、現場からすると何を語らせるべきなのか、ということで非常に困ってしまった。討論の時に結局自分のところに回ってくるのではないかというので困ってしまった。そういう実情があります。

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(新聞記事⑦)
新聞記事7枚目。政治活動届出制。これは、都道府県によっては、政治活動する場合は学校に届けないといけない。つまり地域によって届出をしたりしなかったりする。届け出ること自体が、高校生にすると『思想信条の自由じゃないか、何で言わなければいけないのか』当然そういうロジックは成り立つ。学校からあるいは教育員会からすると、それは政治活動である以上はちゃんと届けなさいという話。ティーンズソウルはこれに対して反対を掲げていました。政治活動届出反対運動をやったのは、唯一ティーンズソウルだけです。シールズは大学生ですからやっていません。高校生の運動として唯一独自のスローガンということで彼らが掲げたということがあります。

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(新聞記事⑥)
話を戻しますが、新聞記事6枚目。3年くらい前の記事ですが、東京新聞が高校生の政治活動を記事にしたいので、高校生の活動家と昔の高校生の活動家を引き合わせたいという企画を立てたわけです。ティーンズソウルのM君と、都立青山高校がバリストした時の青山高校全共闘のメンバーが対談することになって、あまり話がかみ合わなかったみたいですけれども、そういうことをやったということがありました。この頃、割とメディアが高校生の政治活動とか、高校生がどう政治に関心を持つのかとか、いろんなところで伝えるようになりました。僕が最初にM君に会ったのは2015年、彼が中学2年の時、国会前に来ていました。2月11日の集会でも発言していましたが、彼が何で中学2年生で三里塚闘争に興味を持っていたのか、すごいなと思っていました。

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(新聞記事⑧)
新聞記事8枚目。これは『Fridays For Future Tokyo』、気候統一デモ、温暖化反対の政策を訴えるデモ、いろんな言われ方があります。9月に渋谷の国連大学前から日比谷公園までデモをしました。このデモは圧倒的に年齢層が低かった。たぶん平均年齢20歳くらいじゃないか。高校生が非常に多かった。この写真は2019年の高校3年生。2015年の高校3年生とやっぱり感覚が違うんです。2015年のティーンズソウルの高校生というのは、どこかこれまでの社会運動、学生運動に対して、遠慮というかリスペクトしながらも気を遣うとか、手探りだった。こういうことをやっていいのかなと、いろんなことを考えたというのと、もう一つはシールズという面倒くさいのがいた。これは69年の高校生の時の全学連がウザいなと思った感覚に近いと僕は思っています。69年の高校生運動は当時のいろんな党派や全共闘からいろいろ来るんですよ。それが結構面倒臭くてウザくてうるさくて、眼の上のたんこぶ的なところがあったらしいんです。全共闘世代と括られるということが、69年の高校闘争世代からすると非常に違和感があるという方が結構いらっしゃる。つまり1947年から49年生まれの全共闘世代、団塊の世代のど真ん中、69年70年の大学3・4年生と、1951年52年生まれの69年70年の高校3年生は断絶があると思います。2015年のティーンズソウルの高校3年生と、シールズの大学4年生はやっぱりちょっと違う。ティーンズソウルからすると、シールズはウザいなと、兄貴面してああだこうだ言ってくる、そういう話はずいぶん聞きました。
この女の子たちと、2015年の高校生のどこが違うかというと、2015年の高校生はまわりに既にいろんな運動体があって、いろんな社会運動グループがある中でのティーンズソウルの立ち位置を考えなければならなかった。シールズの弟分みたいな言われ方をするのも嫌な感じだったけれども、シールズと一緒にやらざるを得ないというところもあった。ところが去年の彼女たちというのは、そういうまわりに対する気遣いとか忖度とか一切ない。話していてそう思いました。自分が好きなようにやる、まわりに遠慮しない。昔だったら絶対こんな写真は撮らせないですよ、対権力からするとマズイということで。今だったら『は~い』という感じで、いい意味での脳天気さというのがある。15年のティーンズソウルというはまだ緊張感があったんじゃないか。19年の『Fridays For Future Tokyo』の女の子たちというのは、全然そういう意味では違った。彼女たちに15年安保のことを聞いたら全然知らない。もっと言うと、安倍政権がどうなるかあまり興味がない。まずは『気候』が問題だと。安倍さん打倒とか私たちは言わない、私たちは政治運動ではない、社会運動だと、そこまでも言わないですが、明確なメッセージとしてとにかく『気候』だと。彼女たちは都立国際高校。彼女たちに聞いたら高校から100人は来ていると言っていました。都立国際高校というのは、普通の日本語の授業と、英語だけの授業があります。これは帰国生とか外国人向けの授業があります。ある意味で安倍政権が進めている教育のグローバル化というのが、回りまわって、気候デモの中で高校生のグローバル化が体現したんだなと思っています。つまり、グレタさんとか欧米の中高生がストライキをやる、そういう情報が帰国生からどんどん入ってくる。国際高校というのは、他の高校と比べると海外の情報が入ってくる。じゃあ私たちもやろうねと、私たちが日本で何をやれるというところからどんどん盛り上がっていく、こうなると高校の先生は止めようがないので、やってはいけないという話にはならない。それで100人くらい来てしまった。この時に特徴的なのは、こういう国際系の学校は、都立国際高校とか東京学芸大附属国際高校とか、そういう高校とインターナショナルスクールとかシュタイナー学園とか日本の文科省に定まっていない自由な感じの学校があって、特にインターナショナルスクールの学生はすごく多かったし、シュタイナー学園は高校内でデモがありますと貼っていたし、先生が連れてきた。これは15年安保とも違うし、まして69年とも違うし、60年安保の安保阻止高校生会議とも違うし、52年のメーデー事件の高校生とも違うし、19年の気候デモの高校生というのは、見ていてすごいというのが私の印象でした。

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(新聞記事⑨)
新聞記事9枚目。これが一番驚いたのが、浜松開誠館中学という私立の中高一貫校です。ここから気候デモに約400人くらい行っている、野球部が全員来ているんです。『暑さから野球を守ろう!』『気候は変えず私たちが変わろう』というプラカードを持ってデモをした。これは学校ぐるみです。校長や教員が『デモに行こうぜ』ということで、野球部、体育会系がデモに行くというのはあり得ないですから。そもそも学校って体制側ですから。でも『暑くて野球やってられないよ、こんなに暑くなっているのは政策のせいじゃないか』というので、運動部員が起ち上がってデモをしたというような話が昨年の12月にあって、これは全然私ついていけないなと思うくらい高校生の社会運動というのは大きく変動していると思いました。

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(新聞記事⑩)
最後に新聞記事10枚目。2月11日の集会に声をかけたのですが、忙しくて来なかった人です。大学入学試験で英語の民間試験導入に反対する高校生が文科省前で気勢を上げた時期がありました。この写真の高校生のスピーチが本当に論理的で、こうだからいけないと入学試験制度に対してNoを突きつけていた。これは私もどう分析解釈していいか分からない。彼は安倍政権よくないということを言っているんですけれども、旧制中学を含めて、明治の初期から学校制度が出来てから、生徒が入学試験制度に反対する運動が起きたのかな?と思いました。戦後の高校生運動の中で入試制度反対の運動というのは、たぶん受験戦争反対というは50年60年でも起こっているはずです。僕は共通一次の最初の世代なので、当時『共通一次反対』というプラカードを持って文科省の前でデモをして追い出されたことがありましたが、高校生が大学入試制度反対というがあったんだろうか?と、69年当時、駿台高等予備校に浪人共闘というのがありましたが、ベトナム戦争とか佐藤訪米阻止闘争とか政治的なものが強かった。浪人共闘は大学立法粉砕は言ったが、さすがに入試粉砕は言えなかったというのがあった。
以上が2010年代のティーンズソウルから気候反対デモまで高校生が何をしたかの全体的な流れになります。個別には、いくつかの都立高校や京都の府立高校で制服が復活している動きがあります。京都の洛北高校では戦後ずっと私服だったのが、府立高校が人気がなくなったことから制服を入れようと。制服を入れる理由が進学実績を高めるためというロジック的には分からないですけれども、そういう話になっている。
最後に、2月11日の集会に高校生、大学生が10人ほど来ていただきました。感謝しています。当初『僕たちの失敗』というタイトルで当時の高校生の話を語り合おうということだったんですが、どうせなら今の高校生、大学生に語ってもらいたいという思いがあって、69年の高校闘争をどう思うかという話から、今の高校生が置かれている立場とか、何を考えているのか話してもらいたいと思って呼びました。僕としては細い糸をたどりながらお願いして、みなさん来てくれたことに感謝しています。
(終)

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」好評発売中!

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A5版720ページ
定価3,500円(税別)
情況出版刊
(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com 

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。

【お知らせ その2】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」

1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。  2019年8月
●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
 呼びかけ人 ・ 賛同人  (いずれかに○で囲んでください)
氏 名           (ペンネーム           )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話  086-242-5220  FAX 086-244-7724
メール  E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)
●基金振込先
<銀行振込の場合>
みずほ銀行岡山支店(店番号521)
口座番号:3031882
口座名:糟谷プロジェクト
<郵便局からの場合>
記号 15400  番号 39802021
<他金融機関からの場合>
【店名】 五四八
【店番】 548 【預金種目】普通預金  
【口座番号】3980202
<郵便振替用紙で振込みの場合>
名義:内藤秀之 口座番号:01260-2-34985
●管理人注
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は5月15日(金)に更新予定です。

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