「1960年代と私」は、重信房子さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章である。この「1960年代と私」は三部構成となっており、第一部は明大入学の1965年から1966・67年の明大学費闘争まで、第二部は1967年から1969年にかけての砂川闘争、10・8羽田闘争、神田カルチェラタン闘争など、第三部は「赤軍派時代」として1969年の赤軍派結成から赤軍派崩壊、そして連合赤軍への道が描かれている。
「1960年代と私」の第一部は、既に私のブログで公開しており、2017年5月に公開を終えている。
現在、第一部に続き第二部を公開中であるが、第二部も文字量が多いので、10回程度に分けて公開する予定である。今回は、第二部第二章(6)と(7)である。
【1960年代と私 第2部 高揚する学生運動の中で】
第2章 国際連帯する学生運動
1.高揚する街頭行動と全学連 (2019.9.13掲載)
2.三里塚闘争への参加 (2020.1.24掲載)
3.68年 高揚の中の現思研 ((2020.1.24掲載)
4.御茶ノ水・神田カルチェラタン闘争へ(2020.4.17掲載)
5.三派全学連の分裂(2020.4.17掲載)
6.ブントの国際反戦集会(今回掲載)
7.全国全共闘の波(今回掲載)
8.現思研の仲間 遠山美枝子さんのこと
9.現思研・社学同とML派の対立
10.69年 東大闘争
11.新しい経験と4・28闘争
第2章 国際連帯する学生運動
6.ブントの国際反戦集会 - 1968年8月3日
当時の私に「新しい変革の時代」を知覚させたのは、67年の「10・8闘争」であり、生涯を教育の場で社会活動を続けていくことを考えさせました。そして、また、そうした考えに、より明確に世界、国際的な闘いの必然性を自覚させたのは、68年の8月3日に行われた「国際反戦集会」です。
世界各地で闘っている仲間が集い、語り合い、世界の一翼として私たちの闘いがあるのだと、海外参加者らと共にインターナショナルを歌いながら強く刻まれ、感動したのです。この「8・3国際反戦集会」は、三派全学連の分裂を早くから予測していたであろうブント指導部によって、情勢を切り拓く大切な節目だったに違いありません。
68年の春ころ、専修大学の前沢さんから「今度、我々ブントの力で、時代のオピニオンリーダーたる一般誌を出すので、協力してくれないか」と、突然誘われました。5月頃にも「フランスのカルチェラタンの闘いに示されるように、学生・労働者は政治闘争ばかりではなく、いまでは、文化・芸術含め、変革のための総合誌が問われている。8月の国際反戦集会の前には、その創刊号を出すつもりで準備している。君は、文芸サークルで編集長もやっていたので、よっちゃん(松本礼二ブント前議長)と話して、君に加わってもらいたいと思ってさ。考えといてくれないか」と言われました。確か、学館の現思研の部屋に訪ねてきたのです。その本のタイトルが、すでに『情況』と決まっていたのかどうかは思い出せません。「無理です。ちょうど卒論執筆を計画しているところだし、文学雑誌と、ブントのイニシアチブの本では、まるっきり違うし、関わりたくても無理です」と即答しました。松本さんとも会い、誘われましたが、左翼雑誌の編集には興味が湧きませんでした。そのころ京大のブントの小俣さん中心に、明大ですでに8・3集会のための様々な準備が始まっていました。
68年、「8・3国際反戦集会」は、中央大学の講堂で行われました。この国際会議は、「国際反戦会議日本実行委員会」として6団体(共産主義者同盟、社会主義労働者同盟、社会主義労働者同盟ML派、社会主義青年同盟解放派、社会主義青年同盟国際主義派、第四インター日本支部)このうちのML派や解放派は、7月に小競り合いの末、ブントの反帝全学連が結成されていたので、その後のいきさつを詳しくはわかりませんが、共同していました。日本実行委員会は機能し、東京の「8・3集会」ばかりか、他のいくつかの都市でも行っています。
8月4日には、国際反戦関西集会も共産同関西地方委員会、日本共産党解放戦線(上田等さんら)、社青同国際主義派、第四インター、解放派、ML派、毛沢東思想学院など、広い共同行動の中で大阪厚生年金会館に約1,000名を集めて開催されています。また、海外からの参加者らは、ヒロシマ8・6の原水禁集会や、ベ平連の京都ティーチイン集会にも参加しています。
来日したのは、まずSWP(米国の社会主義労働者党)委員長のブレッド・ハルテットさん。彼は7月28日羽田空港に到着した折、日本の通関当局より「原水禁、べ平連への参加はかまわないが、8月国際反戦集会への参加は認められない。参加の場合には、強制退去を命ずる」と、入国時にその条件付の書類に署名させられました。この事実は、8・3国際反戦集会の中大講堂の席上、ハルデットさん自身が暴露し、抗議しました。それほど、三派系のラジカルな闘いと、米国のラジカルな運動の接触に、公安関係者は神経質になって、妨害を企てたのです。他の参加団体は、米国からはSNCC(米国・学生非暴力調整委員会)、前委員長のカーマイケルは、当時日本でもよく知られていました。ブラック・パンサー党、当時黒人の間に絶大な人気があり、黒人の権利を闘いによってかちとっていた団体です。OLAS(ラテン米人民連帯機構)、この組織は、67年7月にキューバを中心に創設され、チェ・ゲバラが当初名誉総裁で、ハバナに本部があります。SDS(米国・民主社会学生同盟)、SNCCが黒人中心の組織なのに対し、SDSは白人組織で、反戦反徴兵、ベトナム反戦闘争を中心に学生パワーを発揮し、カリフォルニア・バークレー校が拠点で、本部は、シカゴのイリノイ大学といわれていました。以上は米国からの参加団体です。仏からはJCR(仏・革命的共産主義青年同盟)、1966年4月に創設されています。JCRは50年代のアルジェリア解放闘争支援、キューバ革命支援を行い、65年大統領選時に、仏共産党の共産主義学生同盟を除名されたメンバーの他、トロッキストのメンバーを含む組織で、5月パリ革命の先頭で闘った組織です。その結果、ドゴール政権によって非合法化されたため、ブリュッセルに本部を置き、地下活動を続けていると、この会場で代表の女性が発言していました。
ドイツからはSDS(西独・社会主義学生同盟)、西ドイツの社会民主党の学生組織ですが、ドイツ社民の大連立に反対し、中央に従わず、ベルリンで1万5千人のベトナム反戦集会を開いたといいます。北大西洋条約機構(NATO)の粉砕を訴えています。理論的には、マルクーゼ、ローザルクセンブルグ、ルカーチの影響が強いといわれていて、委員長のドチュケは銃撃被害に遭っています。
以上のような海外からの参加団体を加え、実行委団体や学生、市民参加のもと、8月3日、東京集会が開催されました。この東京集会は、中央大学講堂で2時10分に開会宣言され、日本実行委員会委員長松本礼二さんが開会の挨拶と経過報告を行いました。その後、海外からの参加団体の紹介があり、この時、SWPの代表のハルテットさんから、すでに述べた国外追放の制約を受けながら参加したことが語られると、拍手は講堂を揺るがすほどでした。
その後、仏代表の女性が、パリ5月革命がいかに闘われてきたか、今も非合法化でいかに闘っているか、5月に労働者の一千万人ゼネストがいかに行われたか語ったのが、私には強い印象として目に焼き付いています。同世代のふっくらとした体型の女性が、舌鋒鋭く、ゼスチャーも交えて語る時、通訳がもどかしいくらい共感しつつ、他の誰よりも印象深かったのです。集会には、日本の闘う団体も招かれていて、戸村一作三里塚反対同盟委員長が、連帯をこめて演説したのを覚えています。また、ML派の畠山さん、解放派の大口さん、ブント議長の佐伯さん(佐野茂樹)ら、6団体トップの人々が、それぞれ自分たちの政策を表明していました。
その後、SNCC、SDS、SWP、JCRなどが参加し、「NATO・日米安保粉砕共同闘争」を呼びかけ、全国各地で反戦集会を行っています。そして、国際連帯の絆を、新しいインターナショナルの形成として呼びかけました。
この時のブントの呼びかけた「8・3集会論文」は、プロレタリア国際主義を掲げるブントの新しい旗印となりました。「8・3論文」と呼ばれるもので、「世界プロレタリア統一戦線・世界赤軍・世界党建設の第一歩をー8・3国際反帝反戦集会への我々の主張」というタイトルの論文です。第一章は「現代過渡期世界と世界革命の展望」というもので、これを塩見孝也さん、のちの赤軍派議長が執筆しました。第二章は「70年安保・NATO粉砕の戦略的意義」で、のちにブント議長となる仏(さらぎ)徳二さんが執筆し、第三章は「8月国際反戦集会と世界党建設への道」で、旭凡太郎(のちの共産同神奈川左派)によって執筆されました。これは、8月5日の機関紙「戦旗」に発表され、この8・3論文を、2つのスローガンにまとめました。
「帝国主義の侵略・反革命と対決し、国際階級危機を世界革命へ!」「プロレタリア国際主義のもと、全世界人民の実力武装闘争で70年安保・NATOを粉砕せよ」と。
8・3国際反戦集会に結集した組織と共に、新しいインターナショナルの潮流形成をブントは目指していました。そして、第一に69年には、NATO・70年安保粉砕を共に闘う。第二に、日米安保・沖縄・ベトナム闘争を、環太平洋諸国の武装闘争・ストライキ・デモで闘う。第三に佐藤訪米を、羽田・ワシントンで共同して阻止する。第四に、来る10・8、また10・21を国際共同行動で闘う。第五に、国際共産主義インターナショナルへ向けて、協議機関設立の準備、国際学連の再建を目指す、とする方針を主張しました。
国際社会に触れ、国際的に各地で闘う主体と直接に出会い、この出会いに国際主義のロマンを抱いたのは、私ばかりではなかったでしょう。ブントの指導部から一般メンバーまで、ブントのプロレタリア国際主義が、世界の闘争主体とスクラムを組んで闘っていくという、誇りの実感を強くしたのです。
最後に各国語で一つの歌,インターナショナルを歌いながら、感激した私は胸にこみあげるものがありました。この8・3集会のために、現思研の仲間たちもいろいろな実務を手伝ってきました。英文タイピストのSさんは、集会まで徹夜の作業を続けたりしまた。
現思研の仲間たちが、私も含めて、ブント・社学同に対して、自覚や愛着を持ったのは、この集会の影響が強かったと思います。
国際反戦集会は、分裂して生まれたばかりの反帝全学連にとっても有利に作用していました。国際的な各国闘争主体との出会いは、日本を代表して、ブントらが実践的に国際主義を実体化する条件をつくりました。この国際反戦会議の決定として、新しいインターナショナル創設の協議機関設立や、来年69年8月の再会を約し、闘いの連帯の継続の方法も語り合いました。
しかし、ブント自身は激動の68年の中で、69年内部論争を先鋭化させ、この晴れやかな国際反戦集会を境にして、矛盾と分岐を拡大させてしまうのです。1年後の69年に米国からのSNCC.ブラックパンサーの訪日に彼らの受け入れの矛盾は哀しい現実となるのですが、それは、「7・6事件」の後だったからです。
7.全国全共闘の波
全国に、全共闘運動、学園闘争の波が広がっていったのは、いくつもの要因がありました。
第一に、日本の資本主義の戦後の成長政策によって、経済的、社会的に歪みが出来、再編成が問われていた事です。インフレや企業の海外進出など、これまでと違った社会、経済的必要が、教育の場に立ち現れていました。大学は産業に見合った教育を求められ、マスプロ教育に向かいました。大学は学究よりも経営論理を優先し、60年代は学費値上げ、学生会館や寮の管理の強化、カリキュラムの改編などが行われるようになると、大学における「学問の自由」「自治」の侵害、教育の危機に敏感に反応した学生、教職員の中から、それに反対する意志と行動が育ちました。
第二は、こうした変化の時代の中で、各大学において民主的手続きに則って、学生大会でストライキ権を確立して、自治し自衛する学費値上げ反対や学生会館の管理運営権を巡って戦ってきました。しかし、多くの大学で、大学当局による機動隊導入などの強権的やり方もあって、それに抗議しながら運動は、ラディカルに成らざるを得ない環境がありました。
戦後民主主義の中で、「全員加盟」による形式的民主主義の自治会を「ポツダム民主主義」として質的に否定しつつ、より主体的な参加方法であり、直接民主主義の原初的な意志表示として、自治会と相対的別個の闘争機関の設置が求められるようになりました。いわゆる「全共闘方式」です。この闘い方は、再建された65年12月の全学連大会でも闘争機関を設置して闘うことを方針化し、早大、明大の「学費闘争」でも闘われています。
第三には、国際的な反戦運動の広がりと高揚の中で、日本でも戦い方に変化が生まれた事です。その戦いの変化の一つは、67年10・8羽田闘争によって飛躍した街頭行動の実力闘争化、ラディカル化であり、これは党派間の競合もあって、先鋭化して行きました。もう一つの戦い方の変化は、ベ平連運動に示されました。これは、作家の小田実ら当時の人々の唱えた戦い方で「我々」では無く「私」から出発し、自分たちの自主的な参加で自分たちのやり方で好きにベトナム反戦と平和を訴えたスタイルです。フォークソングや文化・芸術的な広がりも、ラディカルな学生たちと連動しつつ意志表示されて行きました。
学内の問題を解決するために、各大学で闘争機関(共闘会議や闘争委員会)が設置されて行きます。大学、高校で自発的に戦う学生は、党派やベ平連運動を踏まえつつラディカルでかつ自発的な学内の課題を戦い抜く活動スタイルを全共闘運動として作り上げて行きました。それは、瞬く間に全国の学園闘争のスタイルとなって、68年から69年、もっとも高揚して戦われました。
68年の東京大学での処分撤回闘争、日本大学での巨額の使途不明金への糾弾など、とくに全国に、「全共闘方式」の戦いが広がって行きます。
大学で少数派グループであっても、自治会の多数決原理による「ポツダム自治会」の代行主義を脱した戦いが生まれて行きました。
これらを「全共闘運動」と総称して呼ぶようになります。直接民主主義にもっとも近い形で、自発的な戦いの場として積極的に位置づけられたのです。学生の大衆運動を集約する闘争委員会の主張が大学当局によって不当に弾圧される分、学生の支持は広がり続けます。
68年5月27日に結成された日本大学全共闘は、大衆団交を掲げてストライキ戦を戦い、東京大学では、医学部全闘委、医学連による6月15日から17日の安田講堂占拠に対し、大学当局は機動隊を17日導入して戦いを終わらせようとした事で、逆に全共闘運動が広がります。最高学府と言われる東京大学と、日本一のマンモス大学である保守の牙城日本大学の首都圏の戦いが、全国の全共闘と呼応して広がりました。
9月4日から6日、日大全共闘は、経済学部校舎へのバリケード破壊・機動隊乱入と激しく戦っています。9月4日、強制執行で経済・法学・本部のバリケードが破壊され、132人が逮捕されると、2,000余名の学生が抗議集会を開き、ただちにバリケードを再構築しました。翌日には早朝機動隊が再度破壊しましたが、再度5,000名が抗議デモを開始し、7,000名で再びバリケード構築と、生産工学部もストに突入します。9月6日には法・経4度目の占拠・バリケード構築と激しい闘いが続きます。日大・東大を軸に全国の学園闘争は「闘争委員会」「共闘会議」等を結成して連帯しつつ、自分たちの学校の闘争課題も掲げて戦います。
9月30日には日大全共闘は、両国講堂で大衆団交を行う事を古田会頭ら大学当局に約束させました。当時の状況は、日大闘争ドキュメントの中で次のように記されています「『古田は大衆団交に出て来い』の声は、両国講堂を揺り動かし、全共闘の断固たる決意の前に、3時30分、古田会頭を始め理事、学部長20名が姿を見せた。全共闘は、抗議集会を続行し、度重なる弾圧と分断工作に抗議した。(中略)この日スト突入後百十三日目にして、古田理事会は、10万学生の前に姿を現し、自己批判し、自治権確立の諸政策を確約したが、それは日大闘争の新しい序幕であった」(『叛逆のバリケードー日大闘争の記録』三一書房1969年)
まさにその通りでした。両国講堂には4万人を超える学生が抗議に詰めかけていました。
官憲と一体となった日本大学は、一方で右翼・ヤクザ・暴力団を雇って、学生の抗議行動に対する破壊工作を行い、他方で法の悪用によって闘争指導部を非合法化し、運動潰しに乗り出して行きます。ことに、日本大学に関しては、時の佐藤首相までが10月1日に「日大の大衆団交は認められない。政治問題として対策を講ずる」と発言すると、翌10月2日、日大当局は「9月30日の確約破棄」を宣言しました。
最早、各個別の学園闘争は、政局として日本の政治情勢の反動化の分水嶺をなす事態を示したのです。この大学・政府一体の露骨な弾圧は、10月4日、日大全共闘秋田明大議長以下8名に逮捕状を出したのです。
そして、11月8日になると日本大学の江古田に右翼「関東軍」が殴り込みをかけ、激しい死闘が続きました。日大芸闘委(日本大学芸術学部闘争委員会)は反撃し、6時間の激闘の末に、暴力団を撃退したのは、当時の学生運動の中で語り草となっていました。
佐藤政権の強権的な姿勢は、全国の大学当局を勢いづけましたが、日大のようなあそこまで、教育の場にヤクザや右翼暴力団を使った知性の欠片も無い暴力は、他にそう多く無かったように思います。
しかし、又戦いの攻防が激しくなると、日本共産党・民青系の勢力は「大学の正常化」を掲げ、当局と一体になって全共闘運動に対決しました。
この東大、日大闘争の激しい攻防の68年には、6月の神田御茶ノ水のカルチェラタン闘争以降、神田、御茶ノ水一帯に、度々解放広場の空間を出現させました。東京医科歯科大学も160日を超えるストライキを決行中であり、日大、東大、明治大学、中央大学、専修大学その他、御茶ノ水、神田の学生たちが闘争の度に「カルチェラタン闘争―解放区」を作り出しました。
全共闘運動が、報道などで全国に知られるようになると、都内、全国の高校でも高校全共闘の戦いが広がりました。そして、高校生が大学に見学応援に参加したり、大学生が高校生を助けたりしました。こうした高揚は又、各党派が更にラディカルに戦う方向へと影響を与えたと思います。
68年10.21の国際反戦デーは、各党派が自らの政治主張に則して実力デモの体制を取りました。
中核派・ML派・第四インターなどは、新宿駅を占拠して大勢の群衆と共に、深夜まで機動隊と渡り合っていました。新宿の商店街では、駅周辺の敷石をアスファルトにして欲しいと陳情していたように、正方形の敷石を掘り起こして割り、投石の武器としていました。
同じ頃、社青同解放派は、国会突入を目指し、ブント・社学同は、防衛庁突入闘争を戦いました。
10.21国際反戦デーは、私たちと同輩の仲間たち、早稲田大学の花園紀男さんや中央大学の前田祐一さんらの指揮で、突撃隊として防衛庁に突入すると知らされました。この闘争で火炎瓶を投げるかどうか、前日まで検討され、結局使わないことにしました。代わりに、直径30センチ長さ10メートルの丸太棒20本を用意して突撃・突入を図ることになりました。
10.21の計画は、大学を出る所から規制されないよう三々五々、六本木の防衛庁の集合地点に集まり、そこでデモの先頭に丸太部隊を配置して、正門を打ち破って10.21闘争を戦うと意気込んでいました。新宿、国会、防衛庁と、戦いを分散して機動隊の力を分散させる戦術かと思ったのですが、そうでは無く、ブントによると中央権力闘争を位置づけるブント・社学同は防衛庁を選び、新宿闘争は、「自然発生性への拝跪」なのだと、中核派批判をぶっていました。
前田さんによると、最精鋭部隊を率いて御茶ノ水聖橋口から正面突破で国電に乗って信濃町で下車、明治公園間から乃木坂を経て防衛庁前正門まで何事もなく到着。別ルートの部隊も着いて、一斉に正門鉄扉に丸太棒を担いで体当たり。庁内から高圧の放水と、攻防を1時間以上繰り返し、花園さんが正門をのりこえて庁内に入り、数人が続きました。そして、バリケードを築きインターナショナルを歌ったのですが、敵が押っ取り刀で駆けつけるには、時間が掛かったとの話でした。
10.21当日には、私たち現思研も指示されたように、三々五々、六本木のどこかに向かう事にしました。旗を巻いて、九段方面から地下鉄に向かったのですが、振り返ると巻いた旗を持つ私たちの後に、明治大学の学生がぞろぞろ付いて来て、50人以上になってしまいました。現思研の仲間が付いて、小人数に分けて、六本木へと急ぎました。
メトロの六本木に近い出口は封鎖されていて、遠まわりして地上に出ました。「やってる、やってる」先頭の丸太部隊は、突入した後だろうか、私たちは、大通りを蹴散らされながら、何度も防衛庁へと接近を試みました。夕方には反戦労働者部隊も増え、青山通りで攻防をくり返しつつ、阻止線を突破出来ず、結局押し戻され、どこかの公園に集まりました。
「今ごろ新宿では大騒乱が始まるぞ、行こう」と、多くは戦い足らず、新宿へ回ると言います。私たちは、学生会館に戻る事にしましたが、その日の新宿は多くの野次馬的群衆も含めて大騒乱だったと、現思研の仲間も明け方歩いて帰って来ました。このように、当時の私たち学生運動の戦い方は、如何に攻撃目標に接近して戦果を上げるかという戦い方、いわば政治プロパガンダとしての実力闘争です。
8.3国際反戦集会で語った世界革命や日本革命を具体的にどうするか?議会を議会主義と一方的に否定し、全力を街頭戦に賭けるだけでいいのか?革命の実現についてブントの先輩たちに聞くと、ロシア革命やボルシェヴィキ綱領を語り、一国綱領の時では無いと言うけれど、現在の日本政府の法の支配による延命を反転させる戦いが街頭戦のみでいいのか?と疑問はいつもありました。
この頃、社会党員を父に持つ現思研の真面目な下級生の仲間が、社学同集会の後で「これって、人民のためになる戦いなのか?選挙に行く事もナンセンスなのかな」と私に問いかけて来ました。私はぐっと詰まってしまいました。
「『人民のため』なんて口幅ったくて言えない・・・『つもり』は世の中を良く変えたいと戦いの道へ入り、今もそれを出来る最善を尽くすしかない。だから選挙に行ったっていいのよ」と答えながら、どぎまぎしていました。
戦いと社会を結びきれていない、教師になって戦うまでは、こうした戦い方しかないのか・・・。教師になったらどうな風に戦えるのか?尊敬していた『教育原理』を教えてくれた三木教授が、「教師になったら文部省の方を向いて教えるな、組合の方を向いて教えるな。生徒の方を見て教えろ」と、事ある毎に学生に説いていたのを思い出したものです。
この68年10・21は1000人を超える逮捕者を出しました。山﨑博昭さんの虐殺から一周年の羽田闘争も200名弱が逮捕され、11月7日の沖縄闘争も500人弱の逮捕者が記録されています。
権力は、党派ばかりか日大、東大を始めとする大学闘争のノンセクトの指導者たちにも、逮捕状によって非合法化し、運動を破壊しようと企てていました。
68年11月22日は、全共闘運動が全国の学園闘争に希望のようにその存在を刻印した日です。10・21闘争の「新宿騒乱」に見られたように高揚した反戦政治街頭行動を背景に「東大・日大闘争勝利全国学生総決起集会」が、東大の安田講堂前で開かれたのです。
当時、全国から党派をも含む2万人もの学生たちが集結しました。
正面に時計台の安田講堂、高く青い秋の空、色づいた銀杏の並木、そこはむんむんする程の熱気でした。各党派のカラフルなヘルメット、赤、白、青などです。それに後方から見ると、ヘルメット以外に真っ黒なヘルメットの無い頭と暗色のジャンバーやコートの上衣を着た壮観な学生たちの後姿の群れ。この日、弾圧の始まった日大闘争への支援と、11月1日ついに辞任した大河内東大総長に代わって加藤一郎総長代行就任によって東大闘争がこれから更に厳しい戦いに立ち向かうという決意を示す総決起集会でした。
10・21には、騒乱罪が適用され、既に日大全共闘議長に対する逮捕状も出ていました。
迫りくる権力の妥協を許さない弾圧を覚悟し、決戦を戦い抜く「造反有理」が宣言された日でもあります。既に占拠闘争を戦っていた東大も又決戦を迎えようとしていました。
秋田明大議長と共に、全共闘運動を牽引した東大全共闘の山本義隆代表は、後の69年9月5日の「全国全共闘連合結成大会」に向けた発言で全共闘について次のように述べています。
山本義隆代表自身は、この全国全共闘連合結成大会のために日比谷公園に入ろうとしていました。しかし、機動隊は公園の1ケ所を除いて封鎖し学生たちは機動隊の人垣の列の間をヘルメット脱がされて歩かされています。この日、明治大学全共闘の隊列の中にいて見破られ、山本代表は逮捕されてしまいました。そのため、当日は山本代表の代理が基調報告しました。
「10・8以降の実力闘争の質は、東大―日大―教育大を先頭とする学園闘争に継承され、その限界も克服されて行く。ここに於いて、最も特筆すべきは『党派軍団』と『ポツダム自治会』の矛盾を大衆運動としての“全共闘運動”と言う形で止揚し、同時に大衆運動の次元で『帝国主義』大学の批判を通じて自己の社会的存在様式を全面的に対象化し得る契機を掴み取ったことである(中略)これまで闘争を進展せしめ得たのは、世論調査的多数派が普遍的意志を僭称する全員加盟制の形式民主主義に無前提的に捉われることのない〈闘争委員会―全共闘〉による闘争のヘゲモニーが体現されていったからに他ならない(中略)〈全共闘〉は、学園内において運動の党派的分断を克服し、大衆運動と討論を通じた党派闘争という正しい党派関係を復元し、同時に『自治会内左翼反対派』としての位置を離れ、左派の実体的ヘゲモニーを確立し、学生層の特殊階層的利害に拝跪することなく闘争を運動的にもイデオロギー的にも領導していった」と、全共闘運動を評価しています。
その考えは、当時高揚の68年を経た69年東大安田講堂攻防を超え、9月5日山本議長の逮捕状逮捕直前の評価であり、党派よりもより戦略的に現状を見ていたと言えます。私は、それを理解しつつも、当時批判され「ポツダム自治会」と揶揄された「民主主義」を大切にしたいと思ったものです。全学生に責任を負う、枷こそ大切にしたいし、大学の自治は自主管理を目指しつつも、枷を捨てては党派の介入など「暴走」してしまう危険もあると思ったためです。
私が明治大学で活動していた時代には、学費闘争のために66年12月1日の学生大会決議に則って作った闘争機関「全二部共闘会議」がありました。私たち反日共系はいわばポツダム自治会の学苑会の「主流派」を形成していたために、党派勢力が反対派的な位置から大衆運動的に自治会介入する必要はありませんでした。むしろ自治会と別個に学費値上げという中心課題の闘争機関を「全二部共闘会議」として持ち闘うことによって、自発的な闘争参加者が中心を担えたのです。同時に自治会活動に制約させずに闘うことができ、また、自治会自身を防衛する有効な方式であったといえます。
こうした全共闘運動は、しかし権力の非合法化策動と機動隊導入などの弾圧と戦いながら敗れざるを得ない力関係の中で、ラディカルに戦い抜かれました。ラディカルに戦えば戦う程、孤立を余儀なくされ、大学当局は厳しい退学を含む処分を科し、戦いのイニシアティブを取った者たちほど自己犠牲的に責任を突き付けられて行く時代になって行きます。
(続く)
【お知らせ その1】
「きみが死んだあとで」上映会のお知らせ
長編ドキュメンタリー映画
きみが死んだあとで
2021年公開予定
製作・監督・編集 代島治彦
撮影 加藤孝信
音楽 大友良英
制作 スコブル工房
企画・製作 きみが死んだあとで製作委員会
日本/2021年/4K撮影/204分(予定)
2020年山﨑プロジェクト秋の東京集会
長編ドキュメンタリー映画「きみが死んだあとで」上映とトーク
◆日時:2020年10月4日(日)
◎午前の部=10:00開場/10:30開始(14:45終了)
主催者あいさつ/「きみが死んだあとで(上)」上映/休憩/「同(下)」上映/トーク
◎午後の部=15:00開場/15:30開始(19:45終了)
主催者あいさつ/「きみが死んだあとで(上)」上映/休憩/「同(下)」上映/トーク
※ 新型コロナウィルス感染防止のため、会場の定員(178席)を考慮し、同じプログラムを「午前の部」「午後の部」二回に分けて開催します。
◆会場:渋谷ユーロライブ
http://eurolive.jp/access/
渋谷駅下車、Bunkamura前交差点左折
〒150-0044渋谷区円山町1-5KINOHAUS2F TEL:03-6675-5681
◆入場料金:1500円
◆参加申し込み:下記のフォームから〈午前の部〉〈午後の部〉を選んで、お申し込みください。
http://yamazakiproject.com/application
【お知らせ その2】
「続・全共闘白書」好評発売中!
A5版720ページ
定価3,500円(税別)
情況出版刊
(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com
【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
http://zenkyoutou.com/yajiuma.html
【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。
【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は10月2日(金)に更新予定です。