今年の10月8日は、1967年10月8日に佐藤首相の南ベトナナム訪問に反対する学生・労働者が、羽田空港周辺で阻止闘争を繰り広げた第一次羽田闘争から53年目となります。また、この闘争の中で羽田・弁天橋の上で亡くなった京大1年生山﨑博昭さんの命日でもあります。
10月8日に10・8山﨑博昭プロジェクト主催の「53年目の山﨑博昭命日の集い」が現地で開催されたので行ってきました。
京急「天空橋」駅を降り、改札を出て長い通路を歩き階段を上がると、外は雨でした。
弁天橋に向かう橋の上から弁天橋方面を眺めると、雨に煙って遠くまで見えません。10分ほど歩くと、雨の中に弁天橋が見えてきました。
弁天橋の「鳥居」前が集合場所でですが、少し早く到着したので誰もません。「鳥居」前の広場からしばらく沖合を眺めていると、ポツリポツリと参加者が集まってきました。
山﨑プロジェクトの発起人である詩人の佐々木幹郎さんも弁天橋を渡ってやってきました。
佐々木さんのフェイスブックには、この時の様子が次のように書かれています。
「どなたかの手で、橋の東詰めの柱に、追悼の文字と花束がくくりつけられ、西詰めの柱には白菊がひっそりと置かれていました。全員が、静かに感動しました。プロジェクトの活動が始まって7年目、初めてのことでした。」
その後、弁天橋の近くにあるお地蔵さんにお参りしました。
お地蔵さんもマスクを付けてコロナ禍の終息を願っているようでした。
「福泉寺」の墓地に「山﨑博昭」の名を刻んだ墓石と、1967年10月8日の第一次羽田闘争と反戦平和を祈念する文章を刻んだ墓誌を併設し、この墓石と墓誌をモニュメントとすることにしました。
墓石の文字は大手前高校の同期生である書道家の川上吉康紙により、中国古代の漢字書体「金文(きんぶん)」で揮毫したものです。
墓誌には以下の文章を刻みました。
(墓誌文章)
「反戦の碑」
1967年10月8日 アメリカのベトナム戦争に加担するために日本首相が南ベトナムを訪問 これを阻止するために日本の若者たちは羽田空港に通じる橋や高速道路を渡ろうとし デモ禁止の警察と激しく衝突 重傷者が続出し 弁天橋の上で京都大学1回生 山﨑博昭が斃れる 享年十八歳 再び戦争の危機が高まる50年後の今日 ベトナム反戦十余年の歴史をふり返り 山﨑博昭の名とともに かつても いまも これからも 戦争に反対する というわたしたちの意志を ここに伝える
2017年10月8日
10・8山﨑博昭プロジェクト
代表・兄山﨑建夫 建立
福泉寺での墓参の後、萩中公園集会所の中の食堂で昼食(ビールも)を取りながら懇談をしました。
初めて参加した方もいたので、参加者が各々自己紹介と「10・8」についての思いを語りました。
その中から何人かの方の発言を紹介します。
長野県から参加した夫婦。(初めての参加)
1954年生まれです。10・8の時は中学2年生でした。10・8ショックがありました。その後、大学に入った時は内ゲバの時代で学生運動に関わることはありませんでした。生まれも育ちも横須賀だったので、ずっと市民運動で反戦運動をやっていました。自分の原点を作ったのは10・8でした。
当時明治大学の学生 Iさん(ML派)
10・8は前日に法政大学に泊り込んでいて、誰がどういう風に分けたか分からないけれど、校舎を隔てて中核派がいた。当日は京浜急行の「大森海岸」駅で電車を降りて、一番近い高速のランプから高速道路に入って、最初は障害物がないからスイスイ走って行った。ML派の東間(とうま)が指揮して道を間違えた。現場の指揮は東間だったらしい。本人に聞かないと分からないけれど。(注:中核派を除く三派全学連の部隊は鈴ヶ森の高速の出口から入って東京方面に行ってしまった。羽田空港とは逆方向。)
当時川崎に住んでいいたので、羽田空港の方向は分かる。だけど指揮者が「こっちだ」と言うので、迷わず行った。何故かと言うと「陽動作戦」をやっていると思った。今日は相当大きなことをやるので、機動隊を引き付けて分散させるのだろうと思った。指揮者に「空港はこっちだ」と素直に言えばよかったけれど、大きな闘争だから「陽動作戦」と思い込んでしまった。最初は機動隊がいなかった。阻止されると思って覚悟して入ったけれど誰もいない。だけど機動隊に慌てて追いかけられて、後ろから警棒で殴られてそのまま気絶した。気が付いたら牧田病院(注:山﨑博昭さんの遺体が運ばれた病院)で寝ていた。その時、同級生(注:救対だと思う)が助けてくれた。もし彼女がいなければ僕はどうなっていたか分からない。牧田病院には1週間くらいお世話になった。
だから山﨑君の死亡の件は後で聞いた。
11・12(第二次羽田闘争)の時は復活して、「このやろう」と思って、大鳥居に行ってずいぶん暴れた。
当時横浜国立大学の学生 Kさん
私は大学3年生で、当日弁天橋の上にいました。羽田空港に向かって弁天橋の左から半分落ちかけて運よく助かって、だから今生きています。泳げないので、落ちそうになった時に「死ぬ」と思いました。もしかしたら私も当日亡くなっていたかもしれないと思って、ずっと運動から離れていましたが、ご縁があって、プロジェクトの手伝いをさせていただいています。
福島泰樹さん(山﨑プロジェクト発起人)
53年前の10月8日は寺の修行僧として関西におりました。たまたまその日は休みでラジオを聞いていて山﨑博昭の死を知りました。夜、塀を乗り越えて新聞を買いに行ったりテレビにかじりついたり情報収集をしていましたが、こういう形でしか連帯できないのかという思いがあり、それが「バリケード・1966年2月」という歌集になってきました。
爾来53年経ちまして、改めて「何も終わっちゃいない。何も終わっちゃいない」そんな思いで、今、死者との共闘、「死者は死んではいない」という思いの下に、経産省前で毎月祈祷会をやっております。
山﨑博昭さんの高校の同級生
山﨑博昭君とは高校2年時の同級生で、10月8日は予備校にいました。
「山﨑が死んだ」というニュースが一斉に予備校の中に知れ渡りまして、「あいつが死ぬはずがない」ということで急に腹が立ちまして、その日だったと思いますが、扇町公園のデモに生まれて初めて参加しました。
その時以来、山﨑君の影を背負って、山崎君は死んで自分は生きているという思いが残っていました。
「集い」が終了して帰宅。
その夜、福島泰樹さんから参加者の皆さんへ、ということで、次の一文が送られてきました。
「1967年10月8日」から数えて53年!
第一次羽田闘争の若き戦死者、京大生山﨑博昭を偲び、当時の学生たちが、雨の弁天橋に集い、反戦平和の祈りを捧げた。
生きていれば君も71歳。
「死者なれば君らは若く降り注ぐ時雨のごときシュプレヒコール」
※ 次回のブログで10月4日に開催された10・8山﨑博昭プロジェクト2020秋の東京集会『「きみが死んだあとで」上映とトークの会』の午前の部の報告を掲載予定です。
(終)
【お知らせ その1】
『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』12月刊行!
(「続・全共闘白書を読み解く」のタイトルを改めました)
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『続全共闘白書を読み解く』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。
執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男
定価1,800円(税別)
情況出版刊
(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com
【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。
【お知らせ その2】
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社
本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp
【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は11月13日(金)に更新予定です。