野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2020年11月

「1960年代と私」は、重信房子さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章である。この「1960年代と私」は三部構成となっており、第一部は明大入学の1965年から1966・67年の明大学費闘争まで、第二部は1967年から1969年にかけての砂川闘争、10・8羽田闘争、神田カルチェラタン闘争など、第三部は「赤軍派時代と私」として1969年の赤軍派結成から赤軍派崩壊、そして連合赤軍への道が描かれている。
「1960年代と私」の第一部は、既に私のブログで公開しており、2017年5月に公開を終えている。
現在、第一部に続き第二部を公開中であるが、第二部も文字量が多いので、10回程度に分けて公開する予定である。今回は、第二部第二章(8)と(9)である。

【1960年代と私  第2部 高揚する学生運動の中で】
第2章 国際連帯する学生運動
1.高揚する街頭行動と全学連 (2019.9.13掲載)
2.三里塚闘争への参加 (2020.1.24掲載)
3.68年 高揚の中の現思研 (2020.1.24掲載)
4.初めての御茶ノ水・神田カルチェラタン闘争へ1968年6月(2020.4.17掲載)
5.三派全学連の分裂―反帝全学連へ(2020.4.17掲載)
6.ブントの国際反戦集会(2020.9.18掲載)
7.全国全共闘の波(2020.9.18掲載)
8.現思研の仲間 遠山美枝子さんのこと(今回掲載)
9.現思研・社学同とML派の対立(今回掲載)
10.69年 東大闘争
11.新しい経験と4・28闘争

第2章 国際連帯する学生運動
8.現思研の仲間、遠山さんのこと
67年の春から、私を含む数人の社学同メンバーが作った現代思想研究会(現思研)は、「社学同や、社学同シンパの会」と、他の党派の人々から認知されていたし、私たちもそれを肯定して出発してきました。活動の中心は、自治会、研究部活動に参加したり、イニシアティブを持つ者もいましたが、学外では社学同の集会やデモに参加して来ました。67年には初の新入生を勧誘し、その新入生たちが、68年には活動の柱になっていました。
ここで、連合赤軍事件で犠牲となった現思研の仲間、遠山美枝子さん(1946年8月21日生)については、特にふれておきたいと思います。
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遠山美枝子さんは、既に述べたように、66年12月に私が学苑会中執に入っていったので、研連執行部の欠員を補うべく「法学研究会」(法研)から研連執行部に推薦されて立候補して来た時から意気投合していました。当初は、法学部は民青系が学部自治会を掌握していたので、民青のシンパかも知れないと警戒する人もいました。私が研連執行部として遠山さんと面接して立候補の意図を探る事になりました。
66年の12月のある日のことです。法研の幹事長と一緒に学生会館3階の研連事務局室にグレーのオーバーを着た小柄で真面目そうな髪の短い女性が入って来ました。それが、私と遠山さんとの初対面です。何故研連執行部に立候補したのか、幹事長が説明しました。「いつも研連執行部から誰かやる奴はいないか、と言われていたので、法研のメンバーに尋ねたら、やっても良いと本人が言うから頼んだ」と言う主旨と真面目さは、折り紙つきだと推薦理由を説明しました。遠山さんからは、「就職しているので、あまり時間は取れないと思いますが、せっかく大学に入ったのですから、色んな事をやってみたいのです」という話をされました。礼儀正しい感じの良い人で、私の職場のOL仲間のような印象を受けました。幹事長は紹介だけして席を立ち、私と遠山さんとで話をする事になりました。私はすぐ彼女をとてもいい友達になれそうだと思いました。
私が「会社は何処ですか?」と聴くと「キリンビールです」と答えたので「あらキリンビールなら、私の高校時代の友人F君も入社したけど知ってる?」と言うと「え?!Fさんなら同じ課です!」と言うので、たちまち枠を取っ払ったように話が弾みました。F君のキリンビールのエピソードに笑い、私がキッコーマンに勤めていた事や、職場の話を語り合いました。
当時は製造会社は、三井系と三菱系に交流が分かれていたようで、年に一度か二度三井系会社員の会社を超えた交流があって、キッコーマンとキリンビールは、同じ三井系グループに属していました。
そんな話をしながら、会社からどのように夜間大学を目指したのか、私も職場で大学に入れる道があると知り、家の負担にならないように、自分の貯金で大学に入った事を告げました。
遠山さんも話してくれました。キリンビールの労働組合委員長だった父親が事故で、子供3人と妻を残して死んでしまった事、父親の友人たちの勧めて母親はキリンビールに勤めている事、そんなコネもあって遠山さんもキリンビールに入社した事、姉は大学の昼間部に学んでいるので財政的にも家計が大変なので、自分は働きながら夜間部に通うことにした事、などを話してくれました。
自分の力で、大学生活を賄おうとする姿勢が私と同じでしたし、遠山さん自身は進歩的な人で、誠実でまた、気が合いそうだと思いました。
年は私より一つ下で、入学年は66年です。ずっと、法学を勉強し、弁護士は難しいかも知れないけど、そういう方面にチャレンジしたいと話していました。
この一回目の話し合いで、すぐ研連の仕事を引き受けてもらいました。
66年12月から67年には、ちょうど学費闘争もクライマックスを迎えて、連日の団交やストライキ中の泊まり込み、会議など多忙な中、仕事も会議もこなしながら、遠山さんは横浜の自宅から通うしっかり者でした。アルバイトや遠距離通学の大変さもお互い同じでした。
67年の現思研創設にも一緒に参加し、68年になると遠山さんも、さすがに正社員の義務は果たし切れないと、キリンビールを辞めてしまう事になりました。
奨学金を私も受けていましたので、奨学金や生活協同組合の理事になるよう勧めました。よく、理事手当6000円だったかを2人で受け取りに行きました。
当時は、手当や給料は、銀行振込み方式では無く、現金で支給されていました。
御茶ノ水駅の並びの山水園と言ったか、朝鮮料理店が夜12時近くまで開いていて、時々、皆でワイワイと話しながら夜食を食べていました。
当時現思研の仲間たちは、10人位で深夜大学に泊まって、立て看板やビラ作りをした後に、山水園に食事に行ったりしました。そこでは、いつものように大っぴらに、デモやカルチェラタンの闘いなども商店街の人と話す事もありました。
大学周辺のそういう店主たちは学生に寛大で、仕事を紹介してくれた事もあったし、警察の捜索が入りそうという時には、「重要書類」のカバンを預かってくれる事もありました。
「オレは町内会の防犯担当だよ」と笑いながら助けてくれたものです。
山水園に、夜遅く行くと二階でよく見かけるベレー帽を被り、一人で食事をしながら私たちのうるさい話をニコニコ笑って聴いている人がいました。その人が、オーナーだとある時知りました。このオーナーが私に「新宿で、スナックカウンターのバーを開くので会計係をやってくれないか」と声を掛けて来ました。新宿の末広亭の数メートル先のビルの地下に、新規開店した「ロス・アマンテス」という広いスナックバーで、楕円形のカウンターの中に女性15人から20人くらいが立ってサービスし、客はカウンター外側の椅子に座って飲むという、新しい大衆バーという作りです。
その会計レジを頼まれました。客はカウンター越しに話をするのです。好奇心で私はOKして働き始めました。様々なサラリーマンや学生、商売人が飲みに来ます。当時としては高額では無く、目新しい大衆的なバーでした。会計と言っても、私もカウンターの中に入って接客しましたが、アルバイトとして悪く無いので、遠山さんも誘いました。でもこういう職業は、遠山さんには疲れるようでした。酔客にも真面目に応えようと、対応するからです。「いなす」というのが出来ないので、「難しいわ」と言うので、二人共辞めることにしました。
このバーのアルバイトの女性たちも、ほとんど学生アルバイトでした。その後、私の友人の伯母が銀座でバーをやっているのでアルバイトに誘われ、私の方は卒業論文ゼミや活動の融通がきく時に通い始めました。アルバイト料が良かったので、遠山さんも誘った事があり、バーに遊びに来ました。でも、友人の伯母は、遠山さんには勧めませんでした。「この子には、そんなことムリよ」と、断られてしまったのです。友人からも、遠山さんと私は、正反対の性格では?と言われたこともあります。遠山さんは真面目で固そうだし、私は何でも楽しんじゃうし、柔らかいと言う事でした。
でも今振り返って見ると、66年12月頃の出会いから、ずっと肉親のように彼女とは過ごしました。姉妹のように互いに気を使う事も無く、お互いの前では素のままに振舞いました。
学生会館に泊まった時には、現思研の集団で近所の銭湯に入りに行き、私と遠山さんは女湯、男性たちは終わる頃、口笛でインターナショナルを吹いて知らせ、みんな一緒に戻ったものです。
横浜の彼女の家にも泊まりに行き、お母様も一緒に話し、枡酒の飲み方を教わったりしたものです。(お母さまは京塚昌子によく似た「肝っ玉かあさん」で、娘たちと一緒によく笑う楽しい人でした。遠山さんが亡くなった後、3月、「美枝子は死に、貴女は生きている」と、やりきれない辛さをベイルートにいた私に手紙を送ってきました。私は、遠山さんはお母さんを幸せにする夢を求めていたことを分かってあげて下さい、と返信をしました。「奇しくも納骨の日に貴女の手紙が届いたので、一緒に葬送します」とお母さまからお便りを頂きました。でもその後は、こちらもリッダ闘争で国内と通信不可となり、ご無沙汰したままになってしまいました。)
68年後半か69年になると電車に乗って帰らなくても良いように、大学から歩いて通える所に二人で部屋を借りて暮らしました。そういう仲でした。あまりに何時も一緒に居たので、逆に集会やデモで遠山さんがどうしていたか、思いだすのが難しい位です。私自身の行動と同一になってしまうためです。
67年から68年は、私たち現思研の最も楽しい活動の時代です。サルトル、ボーボワール、ルソーやブントの政治的話や学習会や集会、互いの人生相談まで多くの仲間たちと共に過ごした日々には、必ず遠山さんがいました。
でも、食事のことで、遠山さんとよく喧嘩したのを思い出します。
私は活動の忙しい時には、近所でラーメンを出前してもらって、かき込もうとするのですが、彼女は違います。
「食事に行こう、すぐそこ、美味しいから。フー(彼女は私をそう呼んでいました)は絶対私に感謝するはず」と延々と歩かされるのです。「付け出しに、美味しいい塩辛が出て、天ぷらが美味しいから、すぐそこよ」と、また延々と歩いて食事を選ぶのです。
食事をめぐるこんな喧嘩は、いつもの事です。妹のいない私にとって、掛け替えのない人だったのです。ああ、アラブに呼べば良かった・・・と、特に70年代に何度も思い出す度に、そう思ったものです。また、現思研の男性たち、一人ひとりも肉親のような仲間で、一人ひとりのキャラクターを書き出したら、きりがありませんので略します。

9.現思研・社学同とML派の対立のこと
67年、68年の4月には、新入生の新しいメンバーを加えて現思研の仲間たちは、社学同東京の一つの役立つ力として、重宝されるようになっていました。ことに関西から派遣されて来た人々にとっては、明治大学学生会館に出入りし、時には寝泊まりしてる事もあり、気軽に頼める仲間と見なされていたようです。
昼間部の人々は、デモに300人の時もあれば数人しか参加しない事もありましたが、現思研は20人から30人がいつも参加していました。ブントの人たちから声を掛けられたら、カンパも協力します。
ブントの人々は、時には「少年マガジン来た?」と現思研に顔を出します。「偉そう」なリーダーたちの素顔は、私たちとあまり変わらない仲間だなと思ったものです。ブントの幹部と言っても、社会経験に於いては、正社員や契約社員として苦労して時間をやりくりしている現思研の仲間たちの方が、大人だな~と言うのが率直な当時の評価です。
そんな私たち現思研・社学同に危機感を持ったのが、ML派の学外の指導部でした。

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ML派の明治大学の仲間は、私たちと反日共で政治活動を共同しているし、学苑会中執も共同して構成しており、一緒の場で立て看板作業をしたり、敵対意識は私たちばかりか、彼らも持っていなかったと思います。ML派の中には、人間的に友人として語り合う仲間もいました。でも、67年の「会計不正問題」で、ML派のやり方に反発した私は財政担当を辞める際に、ML派ではなく現思研の女性に引き継いだのは、私がML派は不満だったせいでもあります。友人から、「次の学生大会で、社学同がML派を追い出すとML派が警戒しているよ」と聴きました。
私たち現思研には、いい加減さもあった分、人が気軽に集まっていてML派としては気になっていたようです。でも、私たちはML派と競う考えはありませんでした。文学部自治会のML派の拠点には、すでに解放派の影響力のある者が増えていて、ML派としては学苑会委員長を始め中執の多くをML派で握っておきたいと考えていたようです。私はML派の人が、リーダーシップを取るのに反対ではありません。友人もいたし、外人部隊の寝泊まりや急に毛沢東主義化したのは気に入りませんでしたが、ブントも関西上京組は泊まっていたし、中執人事はML派とブント・現思研の仲間で仲良くやって行けばいいと考えていました。私たちの仲間が、彼ら程熱心にリーダーシップを取ってやって行けるとも思えません。彼らに続けて欲しかったのです。
ある事件が起きたのは、68年学生大会の一、二か月前の、ある夜のことだったと思います。夜間の授業が終わった夜10時過ぎから現思研の仲間たちは、学生会館前広場の所で、大きな立て看板を作成していました。昼間部の社学同や文学部のML派の人たちも、解放派の人たちも学生会館前広場では、スペースを譲り合って、翌日のための立て看板を作成するのが通常の事だったので、その日も何組かが立て看板作業をしました。
夜12時か1時を過ぎ、一段落したので、私たち現思研は夜食を食べに神保町の中華料理店に皆で向かいました。零時を過ぎると御茶ノ水駅のレストランは、もう締まっていて、午前4時までやっている神保町の中華料理店に行く事になります。そこはタクシーやトラックの運転手や夜間道路工事で働く人たちの便利な食堂で、値段も手頃です。学生会館からそこに行くまでに、日本共産党神田地区事務所があり、その脇をグループで通りながら、いつも食べに行っていました。食べながら置いてある新聞を読んだり、打ち合わせしたり、食べ終わると急いで、学生会館に戻ります。戻ったら、4階にある現思研の部屋か和室で、みんな横になって寝ます。
この明け方、現思研の部屋に突然の怒号と共に、殴り込みを掛けられました。
「え?!民青か?!」と一瞬思ったのですが、現思研の部屋に5~6人の男たちが押し入って、入口近くで寝ていたA君に殴りかかっていました。いつも見かける横浜国立大学のML派のリーダーMが外人部隊を引き連れてゲバルトを掛けてきたようでした。
「何するんだ!」A君は、頭を守りつつ大声を挙げています。
私は、奥のソファーから跳ね起きて、「何する!M!」と怒鳴りました。「ここは、あなたたちの大学では無い。話すなら3階の会議室でしよう。卑怯な真似は止めなさい。明治大学のML派はなぜ居ないんですか?!」と私が声を上げると、A君に対して無言でリンチを続けながらMは、「何?!重信がいるのか!いい根性してるな、お前のために、お前のために、でかいツラしやがって!」と、私が居たのは計算違いだったのか、私めがけて襲い掛かって来ました。「卑怯者!どっちがデカイ面か!女に何をするんだ!」私も「女性」を武器に大声をあげ、蹴られつつ、一つしかないドアの方に逃れながら口撃。A君も「やめろ!何だ!理由を言え」「明治大学のML派らはどうしたんだ!」と大声で騒いでいます。「Mさん!」、攻撃の仲間が私に掛かり切りになって息まいているMをたしなめています。Mは、我に返ったように「いいか?!お前らがさっき我々が仕上げた立て看板をひっちゃ破いた。その報復だ!」と叫んだのには呆れました。
殴られつつA君が「何だと?!そんなの言いがかりだ!証拠をみせろ!我々はそんな卑怯な事はしない!」と叫んでいます。私はすり抜けて和室に走って、「みんな起きて!ML派が卑怯な襲撃してきた」と叫びました。Mの「よし引き上げろ!そいつを連れて行け!」と、A君を拉致して引っ張って行こうとします。
「何するんだ!」怒号と共に、引きずられて行くA君。追いかけようとする私や和室から飛び出して来た仲間より早く、襲撃隊は4階からA君をかついで、3階へ行こうとしています。和室にいた現思研の仲間たちは、「民青じゃなく、ML派だって?!」と驚きながら続きます。
その間ほんの4、5分くらいの事でしょう。強引に連れ去る一団に、現思研の2年生たちが、3階の学苑会室前で追いつき、A君を奪い返そうともみ合いました。ML派の人々は、二部中執の学苑会室に逃げ込みました。追いかけたB君がもみ合って引っ張り込まれてしまい二人共人質にされてしまいました。
B君は、67年入学式前のデモでも仲裁に入って逮捕されたように、身を賭して正義に燃えてしまう青年です。現思研の合宿を67年夏休み、彼の故郷の新潟のK町でやった事もあります。東京生まれの私には、周り一面畑や山並みや稲穂が続く風景は初めてで、思わず「わあ~、銭湯の絵みたい!」とはしゃいで笑われてしまいました。御家族総出で歓待してくれ、使っていない一軒家に案内され、そこで3食世話になりながら、合宿を楽しみました。傍に西瓜畑があり、誰かが「お、西瓜泥棒やってみたいな」と言いながら、家に戻ると冷えた西瓜を届けてくれて、私たちを恐縮させたものです。B君の友人の土地の青年団の仲間もその時出会い、後に上京して赤軍派で一緒に活動するようになります。
そんな中心メンバーである、B君もやられてしまいました。
学苑会室の中で、A君、B君を殴る怒号が聞こえます。「内ゲバには手を出さない、逃げるが勝ち」と現思研では話してきたし、そう思っていても、こうなったら仲間を力づくで、取り戻さなければ行けない!と思いました。現思研の仲間のB君のクラスメイトの仲間は「Bまで拉致された!」と殺気だっています。見渡すと、皆突入に役立ちそうな角材や壊れた椅子、木刀で、今にも攻撃しそうな戦闘体制にあります。「ちょっと待って、とにかく、外人部隊のML派を叩き出し、二人を奪還しよう。これは党派問題を仕掛けられたのだから、明治大学の問題じゃない。明治大学のML派は攻撃に一人もいなかったの。とにかくブントに救援を頼もう」。
私たちは、3階の学苑会の対面にある昼間部中執学生会を陣地にして対決する事にしました。
この学生会は、いつも社学同仲間がいるのですが、夜は不在でした。騒ぎで和室に寝ていた藤本敏夫さんも学生会室に来ましたが、彼には頼れません。私は、学生会中執の電話で、すぐ中央大学に電話をして援軍を頼みました。当時は、社学同同士、中央大学での紛争にも駆けつけたりしているので、お互い助け合っています。すぐに荒岱介さん(当時は、荒君と呼んでいました)先頭に、中央大学学生会館に泊まり込んでいた仲間たちが駆けつけて来ました。

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荒君は「まかしとけ!どうしたんだ?!」と言うので、Mら、明治大学ML派でない連中が、私たちがML派の立て看板を破いたと、いちゃもんをつけて、殴り込みを駆けてきた事、A君とB君が、対面の学苑会室に拉致されている事、学苑会室には多分明治大学のML派もいると思うが、彼らはこうしたやり方で大学内の平和共存が壊される事をきっと恐れている事、次の学生大会で、社学同に執行部委員長ポストを要求されるとか、過半数人事を要求されると危機感を持っている事などを説明しました。
荒君は、社学同の都の代表か社学同委員長になったかなる予定の頃です。いつも現思研に来て「いいなぁ、明治は。おれら亡命政権だよ」と言いながら、早稲田大学で活動基盤を作り得ていない事を自嘲的に語ったりしていました。「よ~し、ブント・社学同が怒ったら、どんなもんか。知らせてやろうじゃないか」と荒君が言うと、みんな「異議なし!」とあっと言う間に、荒君を先頭に意志一致。「お~ぃ魔女(荒君は私をこの仇名で呼ぶ)学苑会中執、ぶっ壊してもいいか?」と聞くので、「二人の仲間を取り戻すまでは、壊れるのは仕方が無い」と答えました。
荒君は、おもむろにデモで使うハンドマイクを持って演説を始めました。五、六歩しか学生会室と学苑会室は離れていず、肉声でももちろん届くのですが、「ML派の諸君!ムダな抵抗は止めなさい。社学同の学生を直ちに解放しなさい。卑怯な襲撃を自己批判しなさい、言うことを聞かないならば、我々は正義の教訓を行使する!」と荒君は怒鳴りました。
その口調は、いつも「こちら麹町署、学生諸君ムダな抵抗は止めなさい!」と警察が襲いかかる前の警告を真似したものだったので、みんなニヤリと笑いまいた。多分、現思研の仲間をリンチして怒鳴っていたであろう学苑会室内の怒号が止切れました。そして一瞬あってから「バカヤロー!」「ナンセンス!」などと返って来ました。それを聞くと、荒君とB君の親友たちが、まず飛び出してガンガンガンガンと、学苑会の両開きの扉を攻撃し始めました。観音開きの上の方は、天井まで20~30センチ程のガラス張りになっています。すぐにガラスは吹き飛んでしまいました。内部のML派は10人位で、人数が少ないので突破されないように学苑会室のロッカーや机で内部からバリケードを築いている音がします。自分の自治会室の扉を破壊するとは、何と情けないことになってしまったのだ・・と思いつつ、仲間を取り戻さなくては!とこちら側は焦っています。大変頑丈に作ってある分、壊れません。私たちの陣地にしている学生会中執の電話は度々鳴り、その度に私が取ると、中央大学、専修大学、医科歯科大学の社学同仲間が夜中に聞きつけたらしく、援軍に来るというのです。でも、何メートルも無い学生会と学苑会の間のフロアには、社学同の攻撃部隊がひしめいています。荒君に聞くと「攻撃部隊はもう十分だから」と言うので、私が事態の攻撃状態を電話で説明しました。「じゃあ、ドリルを持っていくか?」と言います。「う~ん、自分たちの自治会室だし、あまり壊したくないのでいいよ」と答えていると、その内誰かが金具類を探して来て、ドアに小さな穴を開けました。「もうすぐだぞ!」と、こちらは気勢を挙げてインターナショナルを歌い、代わる代わる演説し「A君とB君を返せ!」と攻め立てました。人質を放したら、自分たちが殴り返されると思ってか、ML派は人質を返そうとしません。もう空は明るくなって来ました。
その内、ブントの戦旗社から電話が入りました。「どうしたのか?」と言うのです。「今、ML派から戦旗社に連絡があって、社学同が学苑会を包囲し、三里塚闘争に出発する仲間が阻止されて闘争妨害だと、抗議があった」とブントの人は言うではありませんか。
私と荒君は「とんでもない!ML派が、社学同に襲撃を掛けて、現思研の仲間が拉致されたまま、学苑会室に逃げ込んで立てこもっているんだ!」と戦旗社のリーダーたちに訴えました。
「え?!そうなの?ちょっと待って!」とガチャンと電話が切れました。荒君は「何寝とぼけてんだ!ブントは」と怒っています。
私は「Mがデモゴーグで正当化したに違いない。いつもの詭弁よ」と言い、現思研の仲間も益々怒り一杯です。「もうすぐ突破出来るぞ!」との声。
生活協同組合の友人達が、下からコーラやファンタを差し入れてくれました。順番に休憩を取りながら、更にガンガンやりました。現思研の仲間たちも「自分たちの自治会室を壊すのは、本当にいやだな。明治大学の左翼同士のゲバルトはしないと決めていたのに。明治のML派はどうしてるんだろう、中にいるんだろうなあ・・・」と怒りと戸惑いです。
その内また、戦旗社から電話「ML派に自己批判させて、Aら二人を解放させるから、それで手を打ってくれないか。奴らは、ブントの闘争妨害と騒いでいて、実際今日は小さな集会でブントは動員をかけていないが、三里塚闘争の日だ。口実かも知れないが、呑んでくれないか。とにかくAらを解放させ自己批判させるから」と言うのです。
荒君が「どうする?それでいい?」と私に言うので首を横に振りました。荒君はまた、戦旗社の人と話をし「しょうがない、判ったよ、ML派の奴らちゃんと自己批判してAたちを解放するんだな」と言って、電話を切った後、「何か、全学連の貸借のいろんな事が、ML派や解放派ともあるみたいだな。とにかくML派に貸しを一つ作る事になるらしいな。もう疲れちゃったし、完全勝利じゃないか。手をうつぞ」と言います。攻撃隊指揮は荒君だし、戦旗社には「判ったよ」と納得合意をしたので、私たちも自分の感情的な対応を収めることにしました。感情的になると判断力を失ってしまいます。
「内ゲバをしない」と現思研で言って来たのは、私たち自身なのです。
「わ~」と声がするので、荒君と学生会中執のドア口の方を覗くと解放されたA君とB君が、社学同仲間に抱えられるように学生会室に入って来ました。解放されたのです。
でもA君は、顔を殴られて眼は潰れ風船のように腫れあがって、血とアザのひどい顔です。B君は、唇と頬に血が流れていましたが、「僕はそれ程殴られなかったよ」と言いました。とにかく、解放されたのです。
荒君は、再びハンドマイクを手に「我々は勝利した。ML派の諸君、社学同に対する自己批判書はどうなったんだ。まだやる気なら我々も受けて立つ気はある」と演説し、みんなでインターナショナルを歌って景気づけました。静かだった学苑会室からもインターナショナルの歌が聴こえます。
それから学苑会室の扉の上のガラスが割れて無くなった空間からピュっと紙飛行機が飛んで来ました。「お!何だ、これは」ML派は「自己批判書」を紙飛行機に折って飛ばして来たのです。「何だ、これは、ちゃんと手渡して謝るべきじゃないか!ふざけやがって!」と現思研の仲間たちが怒りの声を挙げました。「どれどれ」と、荒君が紙を広げて「まあ『自己批判書』ではある。学生会館内で暴力をふるって社学同の人間に怪我をさせた事は自己批判すると、書いてある。ひどい自己批判書だけどな」と、私にその紙を渡しました。私も読んで「威張って、自己批判してやると言う内容じゃないか!」と文句を言いつつ、現思研の仲間が戻って来たのだから、ホっとした気分です。
だいたい自己批判書なんて本当に変えようという心掛けより、左翼同士のやりとりでは、その場の窮地脱出の方便が多いのを知っています。
荒君は、現思研の仲間にも殴られた仲間にも確認して、これで終わりにしていいなと、念を押し皆合意しました。そこで荒君は、再びハンドマイクを取り「我々ブント・社学同は完全に勝利したぞ!ML派が再びふざけた暴力を行使したら、次はブントが黙っていない。この学生会館から叩き出す。よく覚えておくべきだ。我々は、完全に勝利した」「異議なし!」「我々は戦うぞ!」と唱和して「以上戦闘は終了する」と宣言しました。
それから10分以上たちました。20分くらいだったかもしれません。ML派は、攻撃されないか、こちらの様子を伺っていたのか、それとも学苑会のバリケードを解除していたのか、すぐには扉を開けませんでした。私たちは全員、学生会室側に立って監視していました。
明治大学ML派のK君が、そっとドアを開けてあたりを見回したかと思うと、首を引っ込めMら立てこもっていた連中がヘルメットとタオルで顔を隠してぞろぞろと10人程出てきました。
そこでMは、「我々は妨害に屈せず三里塚闘争を戦いぬくぞ!」「我々ML派は、いかなる時にも戦い抜くぞ!」とシュプレヒコールを叫びました。全員がシュプレヒコールに唱和し、小さな隊列を組み「我々ML派は戦うぞ!」「戦うぞ」「戦うぞ」と気勢をあげて、隊列のまま、3階の階段を駆け降りて行きました。
現思研には、学苑会中執メンバーもいるので、すぐに学苑会室に入りました。あちこちに椅子や机が散乱したままです。「研連の連中が来たら大変だ。彼らは原則的で内ゲバなんて絶対許さないから」と言いながら、学苑会室と床のガラスなどを掃除を始めました。
研連執行部は、現思研の仲間もいますが、みんな真面目な教育研のSさんの委員長のもと、党派的なやり方は、排除してきました。私自身も、それを実践して来た上で、Sさんや遠山さんらに研連執行部を任せて来ました。
67年の学苑会による「投票箱不正開票事件」の時にも、研連は学苑会を厳しく批判していました。とにかく頑丈に出来ていたので、結局ガラスくらいしか壊れなかったのでホッとしました。上の方のガラス代は何千円でしたが、のちまでそのままでした。以降も毎日通る度に、あの事件を思い出し気がとがめたものです。
A君の殴られ腫れた姿は、人前には当分出られません。友人たちに何があったか説明するのもはばかれます。こちらは被害者と言っても通用するものではありません。それにML派と社学同は一緒に学苑会を運営しているのです。
「現思研は甘い。明治のML派をちゃんと批判して、外人部隊を追い出せ」と、他の解放派の友人たちも騒ぐでしょう。
どの党派も、学生会館を根城にしているので、民青と同じ論理で追い出すのも、どうかという考えもあります。「とにかく今後、こうした言いがかりで暴力を振うなら、我々は一切ML派と共同しない。そういうけじめはきちんと付けるべきだ」と現思研で話し、学苑会中執の社学同の仲間たちがML派と話を付ける事にしました。
その後、学生大会がありました。結局、これまでと同じ様に、社学同とML派系の組んだ中執人事となりました。財政は、私の後はずっと社学同の仲間が担当し、これまで同様の人事です。
二部の要は研連です。サークルとサークルの連合である研連執行部を握っていれば、どの学部自治会の大会や、学苑会の全学学生大会にも代議員として立候補し、共同して貰えるし、真面目な二部の学生の研究や向上に欠かせない場だからです。
研連無しには、学苑会執行部が勝手な事は出来ません。
ML派としては、きっと、この一件で内部で矛盾があったのではないかと思います。後の話になりますが、69年のブントの内部対立で、私を含め現思研の中心メンバーが赤軍派に参加し、大学内を離れた後、ML派が解放派を襲うなどで学苑会は党派矛盾で荒れたようです。70年に研連の下級生たちが、相談に来て、党派の非民主的な御都合主義を何とか解決したいとの事でした。私は、すでに赤軍派の活動で大学とは直接には関わっていませんでしたが、自分たちが民青執行部に対案を出した時の教訓を伝え、ノンセクトでも、やれば出きると思うと勧めました。
その作戦会議にも一度参加し、相談に乗り励まし対案を提出する大会には、私もオブザーバーとして出席すると約束しました。実際70年6月だったか、政治研のKさんらを中心にしてノンセクト中心の研連は、対案を提出し大会の過半数を制して、学苑会執行部を掌握する事になりました。執行部を握ると、それからが大変です。
頑張れ!と励ましに大会の当日、私が会場に入るとオブザーバー席には、ちょうど赤軍派と対立した側でリーダーシップを発揮していた荒さんも座っていて、大会のなりゆきを注視しているところでした。私が「久し振りね」と言うと「魔女、お前、何か企んだろう!」などと言っていました。
この頃、解放派も伸張し、後にノンセクトやML派を抑えて、解放派は明治大学二部も昼間部も独占するようになるのは、私がアラブで活動していた頃のようです。解放派が当初上手くやったのは、意図的に有能な活動家を配置したせいだと思います。
確か68年に、現思研に入りたいと脊の高い新入生が来た事があります。
どうぞ、どうぞと参加を歓迎しましたが、ちょっと「粋がった活動家」スタイルの青年は、荻野君と言い、他の新入生と違って活動慣れしていました。
政治の話や各党派の話をしている内に、本人も反帝高評の活動をして来たと話しました。
現思研が、ブント・社学同系と知って加入戦術で、まだ文学部にほんの数人しかいなかった解放派を強化するために来た事を、後に本人は告白して現思研を離れました。
彼曰く、現思研は間口は広すぎて、その割りに皆社学同のゴリだし、自分はやっぱり学部から強化すると率直に話してくれました。「気取り過ぎ」「格好つけ」と私は、彼をからかいましたが、「いい奴」でした。
それから何十年も経って、私が帰国し2000年に逮捕された後、警視庁の取り調べ室でのことです。刑事としては話の糸口にしようと、明大学生だった荻野君の話を持ち出したのでしょう。荻野君が、解放派のリーダーとなり、解放派の「内ゲバ」で命を奪われたと刑事が話すのを聴き、彼が死んでいたのを知りました。また、あの時暴力を仕掛けてきたML派の外人部隊のMは、のちに僧侶となり、連合赤軍の死者たちの弔いに尽力し、すでに亡くなられたと知りました。みな当時の過ちを自らの問題としてとらえ返したのだと思います。Mもそうだったことを、私自身の反省と共に思い返し感じるものがありました。
そんな風に現思研は、山あり谷ありの、どちらかと言えば「社学同同好会」と揶揄されるような、家族的、義理人情のコンミューン共同体だったと言えます。
ところが、私のような先輩が、様々な条件からルビコン川を渡るように赤軍派に突き進んだ事で、多くの仲間も、当然のように当初は、赤軍派に加わり、みんな消費されるように様々な岐路に放り出されつつ、各々が活動したり、止めたり自らの道を進みました。
私は現実の赤軍派に70年に見切りをつけ、71年初頭にはアラブへと出発し、田中さんは、それ以前に「よど号」に参加して平壌(ピョンヤン)に行き、遠山さんは連合赤軍で殺されました。その他何人もの仲間たちが、苦渋の選択を強いられ「自己責任」のように、自らの人生を切り開いて生きていきました。
社学同・現思研やその周辺にいたかっての友人たちに、私自身の在り方―最後は誰の面倒も見ず、海外に発ち、何の責任も取らなかった事、遠山さんに厳しい道を結果として選ばせた事を含めて、心から謝罪します。
と同時に、そうした条件を越えて、30年を経て「窮鳥」として私を暖かく支えてくれている旧友たちに感謝しています。
本当に、ありがとうございます。
その上、「自分の人生は、現思研の仲間同士の在り方が、お、今も拠って立つ自分の思想的出発点になった」と、かつての現思研仲間のTさんのように、今も当時の大切な人間の在り方の学びの場として、心に刻んでいる仲間を見ると、私も感謝と勇気一杯で、いい人生を過ごして来たと噛みしめるのです。
そして今も、この流れを汲む明治大学時代のML派も含む旧友たちは、私の裁判などの救援を「土曜会」として継続してくれました。公判後には、特に3.11以降「土曜会」としての社会政治活動を続けている事を嬉しく誇りにしています。
もちろん、昔の党派的な活動やあり方を否定し、かっての全共闘運動の原則的な自発性を継承して、平和的な社会の変化を求めているようです。

(つづく)

【お知らせ その1】

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白書副読本チラシ_ol_1105_page0001_3_1

『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』12月刊行!

全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
情況出版刊
予約受付中(チラシ参照)

(問い合わせ先)

『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  


【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。



【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。

http://zenkyoutou.com/gakuen.html


【お知らせ その2】

「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社

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本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp


【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は12月11日(金)に更新予定です

10月4日、東京・渋谷の「ユーロライブ」で、10・8山﨑博昭プロジェクト主催による秋の東京集会「きみが死んだあとで」上映とトークの会が開催された。今回のブログはその会の午前の部の概要である。
「きみが死んだあとで」は、「三里塚のイカロス」の代島治彦監督の最新長編ドキュメンタリー映画である。
コロナ禍の中ということで、感染予防対策を講じた上ての開催だった。

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【「きみが死んだあとで」上映とトークの会】
2020.10.4 渋谷ユーロライブ
午前の部 10:00 ~14:45

<主宰者挨拶>
司会:佐々木幹郎
本日はどうもようこそおい出下さいました。2020年秋の山﨑博昭プロジェクトの集会、本日は代島治彦監督の「きみが死んだあとで」の完成披露上映会です。
最初に、当プロジェクトの代表山﨑建夫から挨拶を申し上げます。

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山﨑建夫
おはようございます。朝早起きして大阪から飛んできました。
2014年にプロジェクトを立ち上げてから、記念碑を建てよう、ベトナムに行こう、それから記念誌を作ろう、これはちょうど50周年の2017年の10月にすべてやり遂げることができました。本当に応援して下さった皆さまのお陰です。本当に感謝しております。ありがとうございます。
今日は代島監督の映画ですけど、プロジェクトで第1回目に「現認報告書」というのを上映して山本さんのお話を伺いました。その「現認報告書」に関わった大津さんとも親しい関係であられた代島さんが、今回50年目にして新たな映画を作られた。


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ある時はカメラなしで、ある時はカメラマンをご一緒させて、僕は3日間取材を受けたんですけど、めちゃくちゃ3日もおったら(生活)全部写されるのではないかと恐れていたんですけども、そこまではなっていないようで安心しました。それで映画の題名が「きみが死んだあとで」、本当にそうなんですね。弟が死んだ後で三里塚闘争、佐世保闘争、大学闘争も起こっているわけで、彼はその後どうなったかは何も知らない。死んだ後での人たちが、もちろん映画にも出てくるわけですけれども、先週すごくうれしい話が飛び込んできたのでご紹介しておきます。
2年前に中央大学の学生さんが取材したいということでお話したんですが、それを基に卒業論文を書かれて、それが認められて中央大学出版局から出される冊子に載ることになった。すごくよかったねと、頼まれて推敲していたんです。そこにメールが入って、関西大学の学生が大阪のプロジェクトの活動や、私たちのことを取材して、これは映像で卒業制作された。これが「地方の時代映像祭」で入賞したと、2つ嬉しいことが重なって、ちょっと嬉しくてクラクラしました。そういう若い人たちが50年後になって、それなりに興味を持ってやって下さる。すごく嬉しいです。
最後に一つお願いです。もし賛同人にまだなってない方がおられましたら賛同人になって下さい。お願いします。それから記念誌も、映画に出てくる人間はほとんど記念誌に投稿しています。記念誌もよかったら買って下さい。
最後にお願いして挨拶に代えます。(拍手)

<上映>


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<午前の部トーク>
代島治彦監督と映画出演者登壇
司会進行:佐々木幹郎(大手前高校同学年/詩人)
登壇者
代島治彦監督
1958年埼玉県生まれ。「三里塚のイカロス」(2017年監督)で毎日映画コンクール・ドキュメンタリー映画賞受賞。他の映画作品に「パイナップルツアーズ」(1992年製作)、「まなざしの旅」(2010年監督)、「オロ」(2012年製作)、「三里塚に生きる」(2014年監督)がある。著書に「ミニシアター巡礼」など。
山﨑建夫 (山﨑博昭の兄)
黒瀬 準 (大手前高校同学年/10・8羽田闘争参加者)
向千衣子 (大手前高校同学年/10・8羽田闘争参加者)
山本義隆 (大手前高校先輩/元東大全共闘代表)

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佐々木
長い映画でございました。お疲れ様でございます。
これから、東京の今日の午前部に来ておられる出演者と代島監督とのトークを行いたいと思います。
午前の部、そして午後の部もあるんですけれども、遠方から来られる出演者の方は午前は間に合わないので、午後の部の方でトークに出演していただきます。今日は会場の皆さんとも、本当はこのトークの会でいろいろ質問とかそういうことでやりとりをやりたかったんですけれども、どうしても今のコロナ禍の現状ではそのことは禁止されていますので、申し訳ありませんけれども、トークが終わった後、お帰りになる時にアンケートに詳細なメモを書いていただければとても助かります。どうぞよろしくお願いします。
それともう一つ、これからもこの映画の上映の製作実行委員会はカンパを求めております。上映するためにいろいろお金が必要なんですけれども、トークが終わった後、会場の出口でカンパ袋を持った人間がいますので、どうかよろしくお願いいたします。
代島さん、これ撮影が始まったのは何月でしたっけ。

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代島監督
え-とですね、2019年の1月から5月くらいにかけて皆さんのところを回って撮影をしました。
何故作ろうと思ったのか、短く言います。山﨑プロジェクトの記録係として2015年くらいからイベントとかいろいろ撮影してきたんですけれども、映像にもありましたけれども、ベトナムへのツアーですね、それに参加して記録したんですが、その時に結構皆さんと触れ合えたんですね。2018年が1968年から50年だったんですね。それでもう一度あの時代を検証するとか、メディアを含めていろんな人たちが、ということがもっと起こるのかなと思っていたら、意外と民博(国立歴史民俗博物館)で展覧会があったりとかしましたけれども、後は当事者が日大闘争だったら日大闘争の当事者が皆で集まるとか、そういうことしか起こらなくて、あれ?何か寂しいなと。僕が憧れた運動はそんなにもう忘れられた存在なのかということで、何かすごく学生運動をやった世代の皆さんが、どっちかと言うと可哀そうに思えてきて、それでちゃんと残そうじゃないかと。それで山﨑博昭プロジェクトに関わっていましたし、山﨑さんの死というものを語る人にいっぱい出会ってきたので、そこから始めて、もう絶対に騒乱というのは表現できないので、山﨑さんの周りにいた人、それから山﨑さんが死んだ後の時代、あるいは山﨑さんが死ぬ前の育った時代を含めて、あの時代っていったい何だったのだろうというのを、その周りの人たちから何かそれを繋げて表現できたらいいなと思って、こんな長い映画になりました。今日はありがとうどざいました。(拍手)

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佐々木
実は代島監督が最初編集した時は4時間半という長時間でした。

代島監督
僕はそれで出来たと思っていたんですけれども、佐々木さんも含めて何人かに観ていただいたら、「いや~切れるぜ」という感じで・・・。

佐々木
4時間半観客が持たないということで、ここまでになりました。
時間がありませんので次のお話を聴いていきます。黒瀬さんは今日わざわざ大阪から来ていただいてありがとうございました。映画で2回も歌っていますね。(笑)

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黒瀬
あれは監督に言われたんです。

代島監督
いやいや、歌いたいって仰っていたので・・。(笑)

黒瀬
監督はやっぱりインタビューの達人なので、殺し文句をいっぱい皆に言ってうまく喋らせたと思うんですけども、僕には何と言ったと思いますか?
「この映画は黒瀬さんの歌で持っている」と。(笑)それに乗せられて歌った次第です。(拍手)

代島監督
そんなこと言いましたっけね。でも実際そうですよね。(笑)

佐々木
本当に音程がズレていないところが大したもんだと思った、さすが劇団四季にいた。(笑)
山﨑建夫さん。

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山﨑
短くなっても2時間超えるのを聞いて、すごく心配だったんです。

佐々木
貴方の体調が?

山﨑
いや、映画の長さが。それで試写会を先に観た黒瀬さんから「あっという間に過ぎるよ。退屈なんかしている暇ない」と言われた。僕は今日初めて観たんですけれども、退屈する暇ないですね。しっかり観せてもらって。
僕が思ったのは、やっぱり監督という仕事というか小説家もそうなんだろうけども、取材することって、すごい体が動くでしょ。必要なところ全部行って、さっき黒瀬さんも言ったように、上手に話を引き出される。だから本当はあの人に会っていろいろ聴いておきたいんだけどなと思う人、僕が果たせていない人がいましたけどね、たくさん彼が取材されて、本当にこちらが教えてもらうこともたくさんありました。監督や作家だとか大変なんだな、すごい人なんやな、すごい仕事なんだなと思いました。(拍手)

佐々木
ありがとうございます。じゃあ向さん、向さんも歌を歌っていただきました。

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私は取材、撮影の第1号だったものですから、まだあまりプランが出来ていらっしゃらない頃に、ヒントを与えたり、導きの糸になったりした意識はあるんですけど、大体導きの糸というのは出来上がった時には消えて無くなるものなので、6時間も長々と喋りましたけれども、ほとんど私が出てないと、「向さん悪けどね、あんまり出ていないよ」と言われると思って安心して観ましたらとんでもないことになっていて、ちょっと恥ずかしいです。以上です。

代島監督
もっといいお話いっぱいありましたもんね。大学時代とかね。

採用されたのが高校当時の話だけなので、私はまた赤松さんに付いて行かない方でいろいろやって苦労したりしたことはお話しましたけども。また急死した時なんかには特別に何かまとめて下さい。(笑)

代島監督
はい。

佐々木
山本さん。山本さんは昔の東大闘争の頃の映像をわざわざ見せられて、その顔を映されて、大変でしたね。

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山本
いやあ、正直言って自分の映っている映画というのを、特に若い時の映像を見せられて、ものすごい恥ずかしかったです。(笑)ものすごい照れ臭いというかあれですけど。
あのね、一番僕の印象は、ここに居る向さんにしろ黒瀬君にしろ、山﨑君もそうだけど、大手前高校というところ、大手前高校というのは、大阪のちょうどお城の前にあるんです。元旧制の女学校です。それを67年に卒業しているんです。僕はその7年前の60年に卒業しているんです。たった7年で高等学校の雰囲気がものすごい変わっている。僕らの時の大手前高校では考えられないですよ。佐々木さんが65年頃は変化の時代だと言ったけど、やっぱり60年代というのはすごい変化の時代なんだなと、それは改めて思いました。

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それはあれなんだと思うんだな。60年安保の時に、僕は60年安保の最後の日、6月20日の晩、国会前で徹夜した口だけども、その時に総評の幹部なんかが「10年経ったらまた闘いましょう」みたいなこと言っているわけだ。安保条約というのは10年後に、日米両方から廃棄を通達できると。それを学生は真に受けたんだよ。言っちまえば。それを真に受けたのが三派全学連なんだよ。(笑)だからね、60年安保を超える。60年安保は負けたんだからそれを超えなきゃいけないということが一つあった。もう一つは、これは僕はあまり考えていなかったんだけど、その時に、60年の共産主義者同盟、ブントがやった役割をどの党派がやるかということが、みんな頭の中にあったみたいだと思う。結局、そういうことだったと思うんだよ。僕なんかそんなこと全然考えなかったけれど、ただ70年は何かやらきゃいけないというのはすり込まれとったんだね。考えてみたら10年先の政治課題が決められている時代なんてありゃせんですよ。今の2020年に、2030年に何があるか誰も分からんですよ。来年のことだって分からん。それが10年先の安保闘争をやらなきゃいけない。それは60年安保を超えなきゃいけない、そういうことが始めからあったんだね。それで若い学生はそれを真に受けたんだよ。偉い人たちは知らないよ。俺たち大学に入ったばかりでほとんど何も知らないような(若い学生は)、「ああそうか、10年先にやらなきゃいけないのか」と(思った)。それがずっとあって、僕の高校の頃なんか、例えば政治党派が高校にオルグに来るなんて考えられないですよ。信じられないですよ。そういう変化があの10年間、特に65年からの間にあったんだなと、それは本当につくづく思いました。
それから救援会のことも言いたいんだけど、打ち合わせの時に「午前の部と午後の部があって両方ともトークがあるけど、同じ話をするのか」と聞かれて、それは芸がないから、救援会のことに関しては午後にします。(拍手)

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佐々木
どうもありがとうございます。山本さんは山﨑プロジェクトが始まるまでは、こんな話はどこにもされていなかったわけですよ。このプロジェクトが始まってから堰を切ったようにいろんな本を書かれ、そしてこういう場所でいろんな話をして下さるようになりました。
大手前高校という名前が出ましたけれど、この映画にもたくさん出てきて、その同窓生、同期生が登場しているわけですけれども、可哀そうな高校で、我々が暴れすぎたお陰で、翌年から教育委員会からものすごい締め付けが来まして、今の大手前高校は全くかつての雰囲気はありません。単なる進学校・受験校になっているのは、本当に申し訳なく可哀そうに思うんです。去年、実は大手前高校に僕が同窓会の会館に呼ばれて、同窓生への講演会をさせられたんですけど、その時に、僕は専門が詩ですので、中原中也の詩について講演するという名目で行って中也の話を前半しまして、後半は全て山﨑博昭の話に結び付けました。しかし、同窓生の中で、あるいは大手前の若い卒業生もいましたけれども、誰も知らなかった。抹殺です、この50年の間に。それで大手前高校の図書館に10・8山﨑博昭プロジェクト編集の「かつて10・8羽田闘争があった」(寄稿篇・記録資料篇)2冊本を寄附してきましたので、無理やり今の在校生はその背表紙を見るだろうと思います。
時間、まだある?大丈夫?じゃあゆっくり行こうよ。
黒瀬さん、もうちょっと喋ってよ。

(「歌ったらいいじゃない」の声)

代島監督
「北上夜歌」の替歌なんですよね。

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黒瀬
(映画の中で)「北上夜歌」の替歌を歌ってましたけれども、あれは2018年の関西の秋の集会の打ち上げの二次会の時に、当プロジェクトの辻恵さんが、普通の集会の時でも出席者全員に意見を言わせたがる人で、集会が長引く傾向にあるんですけれども、二次会でも一人ずつコメントを言えと。二次会ですから飲食しながらですから別に時間が長くなるということはないんですけれども、僕は困りまして、全然理論的じゃないものですから、皆みたいに理路整然としたきちんとした話は出来ないので、歌でも歌おうかと。それでさっきの歌をそのまま歌ったんですね。そうしたらちょうど真向かいが代島監督で、僕が歌い終わったら、立ち上がってビックリして「初めて聞きました!」と驚かれていたんです。当たり前です。僕は初めて歌ったんですから。(笑)

(注:「北上夜歌」の替歌
♪僕は生きるぞ 生きるんだ
君の面影胸に秘め
思い出すのは 思い出すのは 
弁天橋の青い空)

代島監督
その時、いい歌だなと思いました。

黒瀬
本当にビックリされていたんで、ちょっと困ったなと思っていたんですけれど、心の中では一人でずっと前から歌っていたんですけど、本当に音にして言葉にして歌ったのはあの時が初めてだったんです。だから泥縄のお陰と言いますか、まあそんなところです。

佐々木
向さん、映画に出てこなかったところで、あれを残しておいて欲しかったというシーンはどんなところですか?

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私は早稲田大学文学部を69年の10・21が終わった時に、それから休学しまして運動から引いたんですが、それでいわゆる革マル派と思われているんですが、私は組織に入ったことがなくて、同盟員候補生くらいでちょっとヤバイかなと辞めちゃったんですけど、その前に反革マルだとキツイと、親革マルではないけど、間のクッションみたいな運動を作ってくれと、あんたしか出来ないと言われて、「口挟まないで勝手にやらせてくれるんだったらいいですよ」と言って、クラスデモというのをやったんですね。それは私のクラスが呼びかけ人になって、各クラス。各個人で参加する。それで結構当たりまして、最後は日比谷野音で全都クラスデモというのをやったりしたくらいで、それは上からの指示があってやったことじゃなくて、結構やりたい放題というか「黙っていて下さい、話は付いているんだから」という感じでやりたい放題やったんですね。それが楽しかったので、そういうことも生き方としたら内ゲバがひどくなる前で、ちょうどいい頃に引いたと言えばそうなんですけれども、そういう楽しい思い出もあの頃にはあったということが、ちょっと伝えたかったなと思いました。

佐々木
なるほどね。

代島監督
早稲田の文学部の自治会の情宣部長をやってらっしゃったんですよね。

一応肩書は新聞部長でした。新聞会にも居たし、学部新聞の新聞部長という肩書はありましたけども。

佐々木
大手前の時も新聞部に居なかった?

居ました。ちょかい出しに行っただけですけど。私はだから大手前では社研とそれから弁論部で文化祭とかで一席ぶつ権利があるというので、そちらの方の活動を主にしていました。

代島監督
4時間半ヴァージョンの時は、その早稲田でのエピソードも入っていたんですよ。20分くらい。どうしてかというと、同じ年、1968年4月に向さんと三田誠広さんが文学部に同時に入るんです。それでKクラスとLクラスという隣りのクラスになるんです。

一緒に写った入学写真があります。

代島監督
三田さんから見た向さんの運動の感じというのも、結構三田さんが喋ってくれて、当時の69年の早稲田闘争の感じが生き生きと描かれて、あともう一つは、向さんが辞める決断をして、その後、組織がそれをなかなか許してくれなくて、それで京都に1回東京から離れるんですよね。離れてくれと言われて。それが「よど号」のハイジャックが起きた1970年3月31日に東京を出て、その間に「海老原君事件」があって、内ゲバで殺された人がいて、それで向さんが京都から71年に帰ってきた頃には状況が変っていて、それで大学を中退するんですよね。

佐々木
あなた詳しくなったね。(笑)

皆さんご存知の事情により登校できなくなったので休学します、という風に休学届を出しましたし、その事態はずっと続いていて、勉学出来ないので退学いたしますと。そういう書面については学校当局も考えて下さい、と書いて出しました。

代島監督
その後、恋愛の話から、結婚というか同居人の話から、その看取りの話まで聴いたんですよ。全部(カメラを)回しています。それで全部書き起こしています。どこを使うか分からないから。

佐々木
あのね、この映画を作るにあたって、編集するにあたって、全部喋っている人の語っている内容を全部文字起こししているんですよ。編集するに際して。それでそれぞれの人間に話を聴いて、別々のシ-ンで別の場所で聴いているんだけど、同じ話が出てきた時に何を語ったか、その語りの内容と全然別のところで別の人に聴いた語りの内容をつなぎ合わせて、それで物語が出来るかどうかという風な、ものすごく克明で丁寧な編集をされております。ただ、語った言葉、文字そのもの、文字起こしだけで繋げていっても映画にはなりませんから、映画の映像のシーンと合わせて、またそこでピックアップするもの、いろんなものをまた選んで編集されている。大変苦労されていると思います。
実は岡龍二というのがダラムサラに居るんですけれども、岡が踊っているシーンは延々と撮っているんですよ。

代島監督
岡さんが、僕が「日本からダラムサラに取材に行きます」と言ったら、3日空けてくれて、全部プログラムを組んでくれていたんです。「全部撮ってくれ」と言われて。単なるインタビューじゃなくて、そこまで準備されていたら(カメラを)回すしかないじゃないですか。

佐々木
岡君は間違って自分の自伝映画を撮り来てくれたと思った。(笑)50年経ってもトンチンカンなことはいっぱい我々は起こしております。
この映画を観て、一番最初の北井一夫さんの(写真の)ベタ焼きのカットがず~と・・。

代島監督
あれは金山敏昭さんです。

佐々木
金山さんか。

代島監督
ベタ焼きは金山さんで、中で使っている1枚物の写真が北井一夫さんです。

佐々木
金山敏昭さんというのは、もう亡くなられました。彼が本当にベタ焼きがずっと続いて行く貴重な写真がたくさんあるんですけれども、あの中に唯一弁天橋の上の山﨑博昭が写っている。3コマだけ写っているんですね。ものすごくボヤけた感じで。我々はそれを非常に貴重なものとして発見するんですけれども、その金山さんは最終的には報道写真家として沖縄で活動され、亡くなられておりました。私たちがあの写真の持ち主を著作権のためにずっと探し続けて、最後にそのことが分かりました。ご遺族から許可を取って記念誌にも載せさせていただきましたし、映画にも使わせていただきました。

代島監督
僕は「まな板の上の監督」なので、批判も含めて何でも言って下されば・・。

佐々木
山﨑さんは、山﨑博昭、弟が生まれてから死ぬまでどこで過ごしたかという場所をずうっと点々と巡られて紹介されましたけれども。

(山﨑さんの発言、マイクなしで聞き取れず)
(「マイク持って」の声)

山﨑
3日間、大阪で泊まって勤務みたいに自宅に通って下さったんです。

代島監督
ラブホテルから。(笑)

山﨑
ラブホテルに(カメラマンと)男2人で泊まって。

代島監督
安宿で。

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山﨑
俺ちょっと始めはやっぱりビビリましたよ。3日もおったらもう、大体家に居てると、皆だらしないところ全部出すでしょ。外に出るとちょっと頑張ってやるけどね。生活が染み込んでいるところに来られて3日もインタビューされたら、どうしようもないところがいっぱい出てくると思って、ちょっと辛かったですよ。(笑)ただ、映画には使って欲しくないような場面もあったけど、そこはちゃんと使ってなかった。

代島監督
たぶんつい言っちゃったんですよね。

佐々木
でも建夫さんね、記念誌2冊本を編集している時に、山﨑博昭の残した文章、文献を全部集めて下さったんですけど、あの中に、映画の中に出てくる加盟書とか・・。

山﨑
大事なのは出してなかったな。

佐々木
その時は見つかっていなかたんですよ。記念誌を出してからああいうものが出てきたんですよね。

山﨑
ほんまは前から分かってたんよ。

佐々木
本当!ひどい。(笑)

山﨑
持って行くべきかどうかを、僕は加盟決意書なんかというのは公開するのがいいのか悪いのかとかね・・。

佐々木
ああ、そういうことがあったのか。

山﨑
小さい時の日記なんかは、見ても何の価値もないと言われそうな気もするし、だけど彼が来て3日間通ってくれるから、家にある、こんなものあったよ、こんなものあったよと・・。

佐々木
どんどん出させる、ずるずると。

山﨑
家にそのままあったわけよ。置いてあるわけ。そんなもの記念誌を作る時に必要あるかないかというのは、必要ないやろなと。

黒瀬
僕は山﨑博昭君の小学校の文集で、ローマ字の勉強がはかどっている時にお父さんが帰ってきて、「大家さんのところに家賃を払いに行ってくれ」と言われて、仕方なく行くんですけれども、大家さんに「ちょっと高いところにある電球を替えてくれないか」と言われて、梯子を上って電球を替えてあげたら、アーモンドチョコレートをお礼にも貰ったと。それを持って帰って家族で食べたいうエピソードは本当にジーンと来ましたね。何か貧しさとか貧乏とかいうものが底流に流れている上での昭和の家族の、暖かい、貧しいながらにも結束した、それこそ昭和の家族のいいエピソードだなと思いました。今も年号なんて本当に意味がなくて、今はもう使っていないですけれども、我々は昭和というものにどっぷり浸かっていますから、やっぱり昭和という意味でも、あのエピドードには感動しました。

佐々木
そうですね。僕も何か「三丁目の夕日」みたいな物語だなと思って、(笑)いかにも山﨑らしいなと思って。
お葬式のあった日の写真も出てきましたけれど、近くの会館での。お葬式の列の真ん中あたりに僕がいるんですよ。あれは俺だと僕にしか分からない。あの頃は本当に会館の周り、それから住んでおられた家の前なんかでは、本当に実りの秋の稲穂がずらっとまっ黄色で、それが全部垂れているんですね。それが目の底に焼き付くような感じで、今でもありありと覚えています。それからお葬式の場所に参列したことが、この映画を観たら蘇ってきました。
ただ、僕にしてもそうです、黒瀬も向さんもそうでしょうけれども、大手前高校の同期生、同窓生というのは、50何年経っても10・8のこと、それから高校時代のことというのは、山﨑の名前と共に、本当に近い過去として身体に焼き付き、焼き付かれてこれまで過ごしてきたように思います。皆の話を聴いていて、皆そうだったんだと。その角度はちょっとずつ違うけれども、でも身体が焼き焦がされるようにして、53年前のあの日を通過して行ったんだと。それ以降、いろんなことがあったにしても、言葉にしない時期が、出来ない時期が何十年も続く人たちが、この映画中でもそして記念誌の中でも50年を越えて語り始めるということをやっているわけです。お前たちは何をしているのか、という風に問う人もいると思います。でも、はっきり言います。「言葉を残したいんだ」と。死者を追悼し続けることによって言葉を残す。我々が生きる、生き続けていくということの言葉を残したい。
この映画の中で、僕はやっぱり冒頭に代島さんが、僕らの世代より下ですけれども、世代が下の人間としてこの映画を作るというスタンスを、自らが雨の弁天橋の上に立って、橋の真ん中で山﨑博昭の写真をずっと掲げながら立っている、そして最後の締め括りもそのシーンで終わり、そして最後に山﨑博昭の雨に濡れた顔が映る。この映画のスタンスというものは、はっきりしていると思います。喋られた内容、そして聞かれた中で、俺は違う、あそこのところ違うじゃないか、いろんな思いを持たれたと思う。でもね、それは全員が持っていいと思うし、この50数年というのは、その50数年だったと思います。あの時代を生きた人間にとっては。初めて観る人にとっては、これはいったいどう観るでしょうか。そのことが、とっても聴きたい。
本当は今日の皆さんとの、この中でいろんな質疑応答があったりしたら、僕はそのことを一番聴きたいですけれども、残念です。アンケートに絶対書いてね。我々と同世代の言葉も欲しいけれど、もっと若い人たちの言葉も欲しい。
ここから始まるんだよというその思いでいます。
出口にカンパ箱を持った人間が立っております。その中にカンパを入れると同時にアンケートを提出していただければということです。カンパしないとアンケートは入れられない(笑)、そんなことはないです。
どうも皆さん、長い間ありがとうございました。(拍手)

代島監督
この映画はたぶん来年の2021年の4月、ゴールデンウイークくらいから、ここの1階上のユーロスペースで公開し、その後全国の映画館で公開していく予定ですので、またその時はご支援お願いします。
今日はありがとうございました。(拍手)

佐々木 
どうぞ映画の宣伝もよろしくお願いします。

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●代島監督のフェイスブックより
10/4(日)に渋谷・ユーロライブで開催した「10・8山﨑博昭プロジェクト2020秋の東京集会」の映像報告(ダイジェスト版4分)をYouTubeにアップしました。
長編ドキュメンタリー映画「きみが死んだあとで」とはどんな作品なのか?ちょっとだけわかってもらえるかもしれないのでぜひご覧ください。

合わせて、当日集まったアンケートから「きみが死んだあとで」感想を抜粋しました。(ちょっと長くなりますが)以下にご紹介しますので、ぜひ読んでみてください。
「きみが死んだあとで」は2021年4月下旬GWに渋谷・ユーロスペースで封切!その後、全国でミニシアターを中心に公開していく予定です。

◎2020秋の東京集会「きみが死んだあとで」感想抜粋
正直なところ、多くの犠牲者があった当時の運動のなかで、なぜ10・8の山﨑さんの事件が重要で、クローズアップされるのか理解できてはいませんでした。しかし、映画を通じて事件がひとつの権力の弾圧による悲劇ということを超えた、学生運動というものの歴史的な意義を表す鏡でもあると感じました。また「学生運動とは何だったのか」と漠然と感じている多くの若者に当時のリアルな当事者の姿を伝えることができる、すばらしい映画だと思いました。来年の全国公開が楽しみです。
(K.M 男性 上智大学生)

私は1969年に大手前高校に入学したが、この時に映画(前半)で描かれた事実(山﨑さんたちが行ったこと)を知っていればと痛切に感じた。
(T.T 男性 大手前高校同窓生)

生きる上で、いままでの原点(50年前)の意味をみなさま(登場人物)がよく考えておられ、教えられました。心優しいみなさまに感動しました。
(M.M 男性)

私は現在大学2年生ですが、当時同じ年齢くらいの学生らが各々の志のために闘う姿に感銘を受けました。
(S.M 女性 聖心女子大学生)

とても感動的な映画でした。2回泣きました。トークの会も素晴らしかったです。
(T.I 男性 元革共同全国委員会同盟軍)

よかったです。山本義隆さんの話(内ゲバに関しての話)、佐々木幹郎さんの話(天草の漁師の話)、山﨑建夫さんの話(博昭さんの子どもの頃の話)、水戸喜世子さんの話(救援センターの話)などが印象に残っています。
(N.H 男性)

セクト、それも関西地区の高校からの活動、同世代であっても知らなかった「物語」であったが、理解できた。個人的には東大核研で学生(大学院生)として世話になった水戸巌さんのカラー写真が多数紹介されていて感激した。
(M.K 男性)

感銘を受けました。当事者たちの肉声を聴くことによって、いままでベールに包まれていたことが立ち現れました。ありがとうございました。
(M.A 女性)

とてもわかりやすく編集されていた。
(K.T 女性)

目から「ウロコ」。高校社研などから大学入学→中核派へ。青年のほんとうの純粋な考えが伝わってきた。セクトの気色に染まらず「純」に生きた高校の同級生を知って感動。
(S.H 男性)

大変感動いたしました。山﨑博昭さんが提示した問題群はいまもあるものだと思いました。
(H.F 男性)

映画の中で語られた内容についてどうとらえるか、これからじっくり考えてみたい。出演者すべての方の人生を映した発言の重さをしっかりと受け止めたいと思っています。
(K.M 女性)

(終)


【お知らせ その1】
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白書副読本チラシ_ol_1105_page0001_3_1

『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』12月刊行!

全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
情況出版刊
予約受付中(チラシ参照)

(問い合わせ先)

『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  


【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。



【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。



【お知らせ その2】

「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社

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本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp


【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は11月27日(金)に更新予定です。

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