今回のブログは、8月7日(土)に開催した明大土曜会での平野靖識氏(三里塚歴史考証室代表)の報告である。
明大土曜会で三里塚問題を取り上げるのは、代島監督の「三里塚に生きる」の上映会以来だと思う。
【三里塚の今 ―なお続く成田空港問題 市東さんの農地取り上げ】
三里塚歴史考証室代表:平野靖識氏
司会:三里塚の平野さんから、三里塚の時代を思い出して「三里塚の今」という報告を聴きたいと思います。
平野
初めまして。三里塚から来ました平野靖識(きよのり)と言います。よろしくお願いします。
私は1945年12月生まれで75歳です。学校卒業と同時に、69年に三里塚の戸村一作委員長を訪ねて、リュック一つで、どこの党派にも属していませんでしたが、三里塚の支援者として入りました。
1971年という年が大変な年で、皆さんも覚えておられると思いますが、第一次(強制)代執行、それから9月に小泉よねさん、現地では大木よねさんと言う方が多いんですけれども、そのお婆さんの家が田んぼが奪われるという代執行がありました。
その第一次代執行の時に、今日紹介して下さったNさん(明大土曜会)と知り合いまして、丁度50年ずっと世話になっていて、特に最近では第一次執行の統一被告団の事務局をずっと引き受けてくれていて、年末には懐かしい戦友たちと会うということをやっています。
反対同盟というのは、残念なことに1983年に分裂しちゃったんですよ。その結果、私たちが世話になっていた大恩人の弁護士さんが、私は熱田派というグループで、もう一つ北原派というグループがあるんですけれど、北原派をずっと支援している弁護士さんになったもので、交流が途絶えていたんですけれども、Nさんの尽力で、その葉山さんという弁護士さんに声をかけて、私たちの毎年やっている忘年会に大変に喜んで参加してくれて、その時に僕はNさんの力はすごいな、人を結び付けるパワーはと思いました。いつも半分以上酔っぱらってますけど。
今日の話のポイントですが、私はついこの間まで「三里塚物産」という漬物工場をやっていました。その漬物工場は、若い人に引き渡しました。75歳になって、会社の期も終わるところで、完全退職しまして、つい先だって、6月に「三里塚歴史考証室」という別の取り組みを、同じ会社の場所でやることになりました。今、それが動き出したばかりです。何か具体的な成果や語るほどのものを持っているわけではありません。
今日、こういう機会があれば是非お話ししなければいけないと思っているのは、もう世間では「成田闘争」というのは収束したんだと捉えられているかもしれません。
実際、1991年から1994年の間に「成田空港問題シンポジウム」というのと、引き続いて「成田空港問題円卓会議」というのが、学識経験者5人の先生を審判員のようにして檀の上に上がっていただいて、それで成田空港問題が起こった原因とか、今後どうするかということについて話し合いが行われました。その結果、調査団を代表して隅谷先生が、成田空港問題の一つの決着の方向として所見というのを出しました。
それは、整備出来ている滑走路が1本あったわけですけれど、その状況で「成田空港問題円卓会議」があったわけですけれど、2本目の滑走路、二期工事の用地問題の解決にあたっては、いかなる状況の下でも、あらゆる意味で強制的な手段は使わないこと、という最終所見が出されまして、国も私たちもそれを受け入れたんです。
その円卓会議の終結をもって成田空港問題は終結した、という受け止めが、世間一般にありまして、また、それ以降、成田空港と周辺地域は共生の道を歩んでいるんだというふうな歴史理解と言いますか、歪曲だと私は思いますが、そのように語られることがマスコミでも多くて、芝山町にあります「空と大地の歴史館」という成田空港問題の歴史を展示しているところでは、やはり成田空港と地域は和解して、今は共存共栄の道を歩んでいるというような記述になっているんです。
でも実は違うよね、というのが現地で闘いを維持している私たち、非常に限られた人数になりましたが、の認識です。
その最たるものが二つあって、一つは、今、市東孝雄さんという、私は熱田派、市東さんは北原派ではありますけれど、そこのお宅の土地の二つの畑が国によって収奪されようとしているということです。
位置関係を知っていただくために、資料を見ていただくと、このグレーで彩られているのが成田空港です。そして下側にあるのがA滑走路と私たちが呼んでいる第一滑走路です。四千メートルあります。そして上側に赤くABCと書いてありますが、ここのところが平行滑走路、B滑走路です。二千五百メートルあります。この二千五百メートルの滑走路の南端からほど近いところにこのABCがあるわけですけれども、Aというのが私が仕事をしてきた三里塚物産、地元では「らっきょう工場」と言われています。まったく空港の飛行航路の真下と言っていいような場所です。BCというのが、今、国に取られようとしている市東孝雄さんの農地です。
さきほど言いましたけれど、Aというのが三里塚物産。今その中で私は「三里塚歴史考証室」を始めています。右下に東峰という字が書いてありますけれど、この地域は東峰区という地区です。東峰区はこの場所と、さらに東側に広がっていて、東峰区の西側半分が成田空港の敷地予定地に組み込まれていた。しかし、まだB滑走路が出来ていない時に「成田空港問題シンポジウム」と「成田空港問題円卓会議」がありまして、みんなB滑走路の建設には反対していました。ですので、今後、二期用地の取得のためには、いかなる状況の下でも、強制的な手段は用いない、ということでしたから、三里塚物産も、東峰区の他の農家も強制収用の恐怖から解放されたわけです。なので、結果的に滑走路の飛行コースの真下になってしまったんだけど、ここに三里塚物産も他の農家も、追い立てられることなく、空港闘争を堅持しているという形です。
さきほど言いました市東孝雄さんのところは、東峰区ではなくて天神峰という行政区の端にあたるんです。市東さんのところには、BとCと言いましたが、Bは細かく見るとB1という今度執行の対象になっていない市東さんのお宅があります。細い道、この細い道は昔三里塚に来たことがある人は知っているかもしれないけれど、天神峰から十余三(とよみ)という北に抜ける「団結街道」の残りですが、その道をはさんで反対側に市東さんの畑があります。
それでC, 天神峰と書いてあるけれど全体が天神峰で、Cは南台という字名が付いていますけれど、南台のCの土地、これがよく成田空港のB滑走路の誘導路が「へ」の字型に変形していると、欠陥成田空港の一つの象徴として語られる地点ですけれども、それを形作る原因となっているのが、市東さんのCの南台の土地です。ですから(成田)空港会社としては、何としてもこのCの土地を取り上げたいと、今は考えていると思います。
ところが、このCの場所の由来を調べると、すごく空港会社、かつての空港公団のやり方が、守るべき農民の農地、これは農地法というので守られている訳なんだけど、それを数々に違反した上で、今、争いの結果最高裁での判決も出てしまって、もう空港会社が裁判所に執行を要請すれば、裁判所は強制執行を許すかもしれない、というところまで来ているという状態です。そのことを皆さんに伝えたいという思いで今日は来ました。
資料の「三里塚トピック」の中で、市東孝雄さんの農地が、強制執行可能な状態になってしまった、と書いてありますが、市東さんの畑は、一つは市東さんのお宅に近い天神峰の畑で46a、それから「く」の字型に誘導路を曲げている南台の畑は27a。この土地は実は2ケ所とも借地です。市東さんは、戦後農地解放があった時に、ビルマ戦線に二度目の招集で中国からビルマに転戦していて、そこで終戦を迎えた。軍事裁判もあって(日本に)帰ってくるのが昭和22年になってしまった。その時に農地解放は終わっていた。それで農地解放を受けることができなかった。日本国中、同じような例があって、残存小作地という名称で、自作地と同じように取り扱うということになっていました。ですから、小作地と言っても、限りなく自作地に近い土地だったんです。
ところが1988年に空港公団は、元の地主から底地権をこっそり買ったんです。これも農地法違反。小作地を転売しようとするときには、小作地を買って欲しいということを耕作者に伝えなくてはいけない、という定めになっています。耕作地を他の人に売る場合は、耕作権はまだ貴方に続いてあると言って、地面の公図を作って、ハンコを付いて、承諾を得てやらなければいけないというのを、こっそりとやった。これも農地法違反。
それから、その当時空港公団というのは虎ノ門の共同通信ビルの中に本社を置いていました。不在地主、つまり農地を買っても、同じ市町村内に居住していないものは不在地主ということになりますよね。不在地主は認めないということも農地法にあって、ここでも農地法違反。というような状態で、1988年にこっそりと底地権を旧地主から買った。それを2003年になって初めて登記した。登記して、それが新聞に出たことによって、初めて市東さんは「あれ?うちの土地が空港会社に売られちゃったのか」と知ることになったわけです。その間、市東さんは2人の元の地主に地代を払い続けていました。ですから、これはいかさまの多い取引だったんです。
その後、そのような市東さんの土地の手続きを進めた成田市の農業委員会そして千葉県は、農地から他の用途に転換する時に県の許可が必要なんだけれど、空港会社の言い分を認めてOKしてしまった。
それは成田空港という大国家的な事業のためには、個人の権利よりも公共事業の方を優先すべきだという、法律を守るということよりも、そっちの方に判断が逃げるというか、そういう時代相があったからだ思う。ただ、市東さんの裁判の過程で、成田市の農業委員会でたった一人「これはおかしい」と言った人がいて、その人が裁判の中で「このような農地法違反がありながら、農業委員会が転用手続きとか底地権の売買をこのまま認めるのは聞いたことがない」と発言する、そういう気骨のある人もいたようでした。でも残念ながら最高裁まで行ってしまった。
それに対して、もう一つ、これは北原派ではなくて熱田派の方が、さきほども言いましたように1990年代前半、91年から94年の間にシンポジウムや円卓会議をやった。その中で国は、この空港の位置決定とか、それ以降の機動隊を全面に立てた代執行などの進め方が民主的とは言えないものだったということで、謝罪をしまして、謝罪の証として、土地収用法で空港会社が「明け渡し収用裁決申請」を出していたのを全部取り下げたんです。三里塚物産の土地も、そのようにして強制収用裁決の申請から取り下げられました。それと同じ時に、市東さんの二つの土地も収用裁決申請が出されていたものが取り外されたんですよ。なおかつ、円卓会議の最後の出口のところで、この二期工事、B滑走路に関する工事ですけれど、その用地問題のためには、いかなる状況の下でも、あらゆる意味で強制的な手段は使ってはいけない。同意しましょうということで、皆で同意した。空港会社も千葉県も国も同意したはずなんです。だから空港会社から裁判所に、最高裁まで行って取り上げOKとなった土地についての執行の許可申請が出されたとしても、熱田派が進めたシンポジウムや円卓会議の結論が出ている。その結論に照らせば強制収用というのはしてはいけないはずだということでもって、もう1回執行請求異議訴訟というのを起こしました。
しかしそれも千葉地裁、高裁、そして最高裁が再度空港会社側の要求をOKとしてしまった。ですので、今、市東さんのところが「まな板の上に乗せられた鯉」のような状態で、いつ料理されるか分からないというような状況になっています。
地元の空気は、東京オリンピックをやっている時は、まさかそんな国内の内輪もめはやらないだろう、もう一つは秋の衆議院選挙の前には、そんな強権を振りかざすことはやらないだろう、と観測しているわけだけど、私もそんなものだろうと思いますけれど、それらが終わった後、空港会社がいつでもやれるという状態になっています。
この市東さんの生活がかかっている土地というのは、二次代執行で大木よねさんが代執行された土地よりもずっと広い面積ですから、あの時の時代の雰囲気であれば、全国からたくさんの目が注がれて、たくさんの人たちが「けしからん」と言ってそこに押し寄せたはずでしょうけれど、今は残念ながらそういう状況ではない。
裁判所も「包括補償方式」とか言って、昔だったら一坪の土地でもそれを行政的に取り上げようとする時に、国側の理屈、公共の利益に対して、農業の公共性というものも、公共性論というもので結構議論ができた。ところが今は「包括補償方式」とか言って、これは八王子なんかの古いマンションの中で、大半の人が建て替えに賛成して同意した、しかし2人か3人、わずかな人が行くところがないとかで残ってしまう、そうするとマンションの建て替えができないというような社会の他の現象の中で考えられたことなんだけど、事業者には、残った人たちに対して十分な補償をする能力がある、それから補償金も世間が納得できる高額なものである、そしてその補償金というものは、建て替えをした時に得られる利益、建て替えをすれば価値が上がるので、その価値に照らしてお金で補償するんだから何が文句があるのか、という補償方式なんです。
それをこういう農地に対しても持ってくるという、法理論の流用というか、これはきっと新自由主義の考え方の法廷版だと私は思うんだけど、それでもって市東さんに迫っている。市東さんのところには、1億何千万円という離作補償、市東さんの毎年の収入の100年分以上の離作補償があるんだから、そして空港会社にはそれを払う能力がある、そして額も十分である、そうした場合は退くべきだという法理論です。
今、三里塚でまかり通っていて、熱田派の団結小屋とか土地も、その前にことごとく敗れていたんですよ。ですので、さきほど地図でご紹介したように、三里塚物産や歴史考証室と市東さんの土地は非常に近接した場所です。ですから。もしも市東さんのところで、これが成り立ったのであれば、三里塚物産や歴史考証室だって安閑とはしていられない。だから私は今、必死になって市東さんの問題について闘っているわけです。
質問:市東さんの問題について、大きな運動の広がりというのはあるんですか?どうやって広げたらいいのか?
平野
北原派は北原派で、熱田派より元気よく活動は続けている。1回(集会を)やると300人から350人くらいの人たちを全国から集める。でも北原派にしろ熱田派にしろ、地元農民とか住民の闘争時代からの?がりが生きて現在あるかというと、まったく無いです。孤立状態。反対同盟結成時は1千家族あったらしいけど、今は熱田派、北原派を含めて6軒くらいですから、0.6%です。
それから歴史考証室のやりたいことの一つでもあるんですけれども、シンポジウムや円卓会議が終わった後、反対同盟の中の相当な闘士たちが、ごっそり闘争の舞台から去った。もうこれで自分たちの闘いは終わったんだ、終わりたいんだと。それはいいでしょう。でもね、彼らは地域づくりに戻ったわけです。反対、賛成で分断された地域、分断されているが故に全然他所と比べて開発も遅れた地域に戻って、地域づくりに戻ったんだろうと私は理解している。でも、その地域づくりなるものが、もうその時点で空港の開発利益のおこぼれにすがるしか道が無いような中に入った。だから率先して、今度の第三滑走路を受け入れるという立場で、今、走っている。
円卓会議のあと、もうこれで自分たちは非国民の汚名を被せられることなく一般人として生きていける、だからもう闘争は止めるんだという、そこはいいんだよ。ところが、その後、空港に代わる地域づくり、オールタナティブというかもっと別の地域づくりの道を進むのではなくて、空港政策を先導して空港機能強化に力を貸す存在になっていった。そこのところが何故なのか。百姓というもののDNAの中にそういうようなのもが含まれているのかなんて非科学的なことを考えたこともあるんだけど、何故そういうふうになっていくのかというところを、よく話を聴いて解き明かしたい。
円卓会議のあと、もうこれで自分たちは非国民の汚名を被せられることなく一般人として生きていける、だからもう闘争は止めるんだという、そこはいいんだよ。ところが、その後、空港に代わる地域づくり、オールタナティブというかもっと別の地域づくりの道を進むのではなくて、空港政策を先導して空港機能強化に力を貸す存在になっていった。そこのところが何故なのか。百姓というもののDNAの中にそういうようなのもが含まれているのかなんて非科学的なことを考えたこともあるんだけど、何故そういうふうになっていくのかというところを、よく話を聴いて解き明かしたい。
三里塚闘争というのは支援の失敗だったということだろうか。そういう人たちに方針を乗っ取られて、敵路線で行ってしまっているということは。そうすると、一体支援者というのは何だったのかという、今後どこかでこのような事が起こった時のために、支援というはどういうものを教訓化していかなくてはいけないのか、ということも考えたいと思っています。
(終)
【お知らせ その1】
『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』2021年1月19日刊行!
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。
執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男
定価1,980円(税込み)
世界書院刊
(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
ティエフネットワーク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com
【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。
【お知らせ その2】
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社
本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp
【お知らせ その3】
ブログは概ね隔週で更新しています。
次回は10月8日(金)に更新予定です。