野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2021年10月

全国学園闘争の記録シリーズ。今回は京都府立医大である。
大学のホームページによると、京都府立医科大学は1872年(明治5年)に設立された140年の歴史がある公立医科大学で、1921年に医学専門学校から京都府立医科大学となったとのことである。河原町、広小路、花園にキャンパスがある。
略年表を見ても京都府立医大闘争のことは何も書かれていない。

東大全共闘機関紙「進撃」に闘争の記事があるので見てみよう。
【進撃】東大全共闘機関紙1969.3.10
京都府立医科大学
暴露した蜷川民主府政
新校舎問題で京都府と対決
京都府立医科大学では2月10日以来、無期限ストライキが闘われているが、2月26日、府立医大では初めての本館封鎖が決行され、新たな質の運動が展開されようとしている。府立医大の運動の中心軸は青医連公認問題と臨床学舎建設案問題の2点にあるといえよう。
臨床学舎建設案は昭和39年から昨年12月までの5年間の間に京都府と大学=当局の2者の間で一方的に大要が決定された。
これに対して日共の一元支配下にある京都府職員労働組合―京都府立大支部は、例によって新学舎建設準備会を“民主的”に運営するため“学内諸階層の参加を認めよ”との主張をかかげてきたが、実体的には何らの運動も展開できず完全に京都府と大学当局の路線にまきこまれていった。
一方青医連と府大学生自治会はこの新校舎増設問題が、大学=当局と京都府の一方的な決定にもとづくものであること、また現行の医療体系の矛盾の根源である医局―講座制にはまったく手をつけず、この矛盾の拡大再生産を目指すものであることなどラディカルな批判活動と運動を展開してきた。
この教授会独裁体制の背景には大学の自治=教授会の自治、あるいは“学問の自由”といった現在の教育理念の欺瞞性と同時に、蜷川京都“革新”府政の強権性があることを見逃してはならないだろう。
それは府立医大運動中の“暴徒が(府立医大の)ガラス1枚でも割ったなら、私は断固とした措置を取る”といった蜷川発言、あるいは“すべては京都府議会=蜷川の決定だ。教授会は何もできない”といったきわめて無責任な教官の発言からも読み取れる。
このように京都府立医大の闘いは国家権力による教学体系、医療体系の矛盾をあばき出す過程で、社―共による既成左翼の正体を暴露したことが一つの特徴となっている。
また青医連運動も府立医大では医学連の成果をふまえつつ、41青医連以来の長い歴史を持っている。しかしながら42青医連が青医連ルームを勝ち取った以外、43青医連は大学=当局の圧殺策動のため多くの要求項目はなしくずし的に拒否されていった。このような過去の経験をふまえ、今回の闘争が取り組まれていることを考え合わせるなら、府立医大で運動がどれほど根強いものかが理解できるだろう。
このような青医連、学部学生を中心とした府大全共闘の強靭な闘いに呼応して皮膚科、神経科、整形科、泌尿器科などの医局の若手医師が全共闘に呼応して無期限ストライキに立ち上がろうとしている。
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「進撃」に記事か掲載された数日後、京都府立医大に機動隊が導入された。導入の様子を伝える新聞記事がある。

【毎日新聞 1969.3.22】(引用)
京都府医大を当分閉鎖
機動隊で学生排除 47人逮捕
京都府警は21,22日の両日機動隊延べ1,050人で京都府立医大(京都市上京区河原町広小路)本館、花園分校など学内十数ケ所を不法監禁、建造物侵入などの疑いで捜査、大学自治会役員、青医連幹部ら合計47人を同容疑と不退去罪などで逮捕した。京都の大学紛争で学校側が警察に出動を養成したのはこれが初めて。
21日は午後4時から機動隊が教授十数人の立合いで学内を捜索、令状の出ている7人を逮捕、本部会議室で行われた学生と大学側との団交の録音テープ9巻、ビラ250枚を押収した。
22日は午前6時10分、制私服警官700人で大学本館、花園分校など9ケ所の捜索、大学病院前でジグザグデモをした学生40人が不退去罪で逮捕された。
大学当局は同日朝、声明を出し、「今後、数ケ月間大学の閉鎖、休業を行う。この期間中ストを続けている学生、青医連、無給医は学長の許可なく大学構内に立入ることを禁止する。これから大学を守るため、教授会は警察力の導入をためらうことなく決定し、暴力学生を排除したい」と強い姿勢を示した。
府医大では全共闘派学生が青医連の公認など6項目の承認を求めて、大学側に団交を要求、大学側が拒否を続けたため、学生は学舎を封鎖、2月10日から無期限ストに突入していた。
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京都府立医大全共闘は、「バリケード」という機関紙を発行していた。機動隊導入とその後の闘争についての記事を見てみよう。

【バリケード】京都府立医大全共闘機関紙1969.4.10
3・28全学奪還―4・1ロックアウト突破闘争総括
3・21機動部隊乱入不当逮捕、それに引き続く3・22我々の全学バリ封鎖への再度の機動部隊導入大量不当逮捕と、大学閉鎖―ロックアウトという矢つぎ早の弾圧は、国家権力―蜷川―教授会の連携の見事さと、日共―民青反革命の登場を我々の脳裏に深く刻印した。我々を面通しする中で同志を国家権力に売り渡していった教授たちは、教授会独裁―医局体制温存(近代化されつつも)という自らの独自利害を貫徹せんとし、また、蜷川―日共民青路線の、その存立基盤を府立医大闘争によって掘り崩されつつあるという危機意識とが重層される中で国家権力の総弾圧が行われたのである。
府立医大闘争が、全人民の医学医療の実現という普遍的な鋭い質を有していたが故に、我々は「革新」の欺瞞をも暴かざるを得なかったし、国家権力の暴力との直接対決へと上昇発展してきたのだ。
3月25日、この弾圧に対して不屈の闘いを再度開始することを固く決意した我々は、圧倒的に立入禁止の構内デモを貫徹し、3・28ついに全学奪還、バリケード再封鎖闘争を貫徹した。大学当局の3度目の要請に基づき、機動隊は正門バリを乗り越え構内に乱入し、病院内をも制圧する中で、20名の学生青年医師が不当逮捕された。日共府職労執行部は、機動隊制圧下をバリケードを取り除き、またもその反革命としての姿を露呈した。教授たちは、病院を“聖域”と称し、そのヒューマニズムという体制イデオロギーの下、医療労働者の正当な闘いを弾圧し続けてきたが、ここでは、最早、彼ら自らが病院内に機動隊を導入することによって、その無差別の弾圧を開始し、権力者以外の何者でもないことを白日の下にさらしたのである。
我々は再度学外へ排除されたが、3・31、300名を超える圧倒的府庁デモを医学連・京大医の学友とともに勝ち取り、無給医、助手、看護婦をも結集させる中で、4月1日以降の完全ロックアウトを医局占拠、病院内徹夜集会の貫徹で粉砕し、再び闘う陣地を拡大し、今後の闘争の方向を明確に病院ストライキとして確定したのである。
我々はこの10日間の闘争が、権力の凶悪な弾圧への圧倒的大衆の対決と緊張関係の持続のもとで闘われたという自然発生性に拝跪しつつも、むきだしの権力を追い詰め、日共民青の反革命を孤立化させ、一定の前進を勝ち取ったことを評価しなければならない。同時に、4月1日以降緊張関係の一時的喪失と同時に結束の鈍化もたらした原因が、蜷川―教授会のファッショ的弾圧への反ファッショとしてしか闘われなかったこと、さらにこの10日間の闘いが、府医大闘争にとって、さらには全国学園闘争、国内階級情勢の中で明確に位置付けされていなかったことを自己批判的に総括しなければならない。
(後略)
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当時、朝日ジャーナルに「学園ハガキ通信」というコーナーがあり、ニュースを中心に闘争の現状などのハガキでの投稿を募集していた。その中に京都府立医大のものがあるので、見てみよう。

【学園ハガキ通信】朝日ジャーナル1969.4.20(引用)
落首の語る歴史
今こんと言いしばかりに蜷川の
有明の府警を 待ちいずるかな
教授会

今は只思い耐えなんとばっかりに
名をも地位をも恋しかるらん
助講会

団交の後の心にくらぶれば
昔は弟子をおそれざらまし
吉村学長

巡り会いて みしやそれともわかるまに
雲隠れしにし教授会かな
全共闘

この歌のあと、大学に機動隊(自治警察)が教授会の手によって入れられ、教授会の手によって首実験がなされ、全国でも珍しい教授会の破廉恥ぶりが披露され、その後闘争は日増しに激化しています。教授会(蜷川路線)も強い態度で出てきました。
(附属病院・匿名希望)
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京都府立医大の闘争は、その後も続く。69年9月の朝日ジャーナルの記事を見てみよう。

【苦悩する個別学園闘争】朝日ジャーナルーナル1969.9.21(引用)
蜷川“革新“に挑戦  京都府立医大
こんどいくつかの大学をまわってみて、学生にとっていちばんしんどいなあと感じたのは、この京都府立医大です。蜷川知事から野良犬と罵倒されたのは、ここの全共闘の諸君ですが、その100匹をこす野良犬たちが、拠点を奪われ宿無しとなりながらも、教授会に、府知事に、機動隊に対しほえたりかみついたりしているのです。忠実な飼犬になるくらいなら、まだ野犬収容所に放り込まれる方がましだと思いながら......。
8月末までに逮捕されたもの延べ74人 (実人数72人)。起訴されたもの8人。その後、9月1日、授業再開の日、さらに10人が逮捕されています。この数字だけでも、単一の大学闘争としてはかなり大きなものですが、さらに全学生数が青医連を入れて約700人、つまり9人に1人が逮捕されたと聞けばK君も驚くでしょう。まさに“大衆的規模”でクサイめしをくっているのです。学生、無給医の諸君の話が、ともすれば暗くなりがちなのもムリはないと思いました。もっとも、教授会が出している「京都府立医科大学の再生のための教授会試案」をめくっているうちにこんな文章にぶっかりました。
―(府立医大の)学生運動の方向は実にねばっこく、陰湿で、ひどかった。こういう方面に知識の深い人たちも、府立医大の闘争には学生らしいカラッとした性格が全く欠如していることを指摘した。....こうした陰湿で猜疑心のつよい学生が生れたことについては、われわれも責任を感している。....3月22日、40名の逮捕者が出た。警察は繰り返して退去命令をつたえた。しかし、これらの学生を指導する数名の医師は、あらかじめ逮捕を予定し、いかにねばり、いかに大学に混乱を与えようかと計画していたのである。―
それほど練達のリーダーがいたら、もっとスマートな闘い方をみせるのでしょうし、「権力について僕達の討論の全体確認が深化せず、闘争が未成熟な段階で、権力はその鋭い牙をつきたててくる」(『府医大8』第一号)という反省は出てこないでしょう。
3月22日の機動隊導入直後、教授会は大学を長期休校・閉鎖して、学生・靑年医師、無給医の学内立入りを禁止しました。上智大で行われた方式で、学生が「大学治安立法の先取り」と叫ぶゆえんです。
その後臨床研究棟にきずいたバリケードも7月30日、5度目の機動隊導入によって解除され、それ以後現在まで、学生たちが学内で活動する余地はほとんどなくなってしまいました。
9月1日、大学側は子定通り授業を再開しました。学生たちにいわせれば“勝手に門を開いた”ということでしょうが。全共闘側は教養部を中心に200人のデモ、また説得部隊もくり出しました。新入生のほぼ全員が受講、また旧六回生の約三割が卒業試験を受けた他は、各学年とも2、3人ずつしか出席しなかったそうです。しかし、いずれ各学年とも留年かどうかのタイムリミットが迫ったとき、全共闘がその“壁”を突破できるかどうかは、彼ら自身も楽観はしていません。教授会も従来の強硬路線を再確認したようです。 
もっとも無給医が一切働いていない付属病院は相変らず部分的にマヒ状態。現在、入院300人、外来一日600人と平時の半分くらいに減っており、赤字は増すばかりだそうです。 
しかし大学側としては、なんとかして10月、来年の入試を決めるころまでに“正常化”をしたいでしょう。なぜなら入試の行われる来年3月は京都府知事選の真最中であり、そして府立医大の設置者は蜷川知事なのですから。蜷川知事としては当然それ以前に府立医大の問題は決着をつけておきたいでしょう。 
府立医大闘争が、学生にとってしんどいのは、単に教授会が相手でなく、蜷川「革新」府政およびそれを支える共産党(物理的には学内をパトロールする共産党系の府職労青行隊)と真向から対決しているからです。 
全共闘の六項目要求の中に医局解体とならんで臨床研究棟計画白紙撤回という一項目があります。現在のオンボロの臨床研究棟を建てかえてくれるのだから  けっこうな話じゃないかと思うかもしれませんが、この一項目が入るについてはやはり深刻なイキサツがあったのです。
昭和39年、老朽化した基礎校舎の改築が問題になったとき、府と大学は西構と (基礎医学)、花園(教養)の土地を財産処分して、基礎校舎を建てる計画が決定されました。これに対して、学生側はただでさえ厚生施設がない狭い大学なのに、土地を切売りして校舎を建てるとは何ごとかと抗議、結局、当局は西構には学生会館を、花園にはグラウンドと体育館を建てるということを約束 (府、大学は約束したとは言っていない)したとして、一応ホコをおさめたことがあるそうです。
ところが現在、西構には府立文化芸術会館が建築中、また花園には公明党対策といわれる府立体育館の建築が予定されてます。そのかわり? 府立医大には臨床研究棟を建てようというのです。これに対して学生側は「要するに府立医大は蜷川の選挙対策のダシに使われているのにすぎない。蜷川体制を維持する一機構に堕してしまった」と激しく反発しているわけです。
京都では革新と名乗るものが、蜷川府知事にタテつくのはむずかしいという空気があります。府立医大闘争は、その蜷川府政の「革新」性に、足元からはじめて挑戦状をたたきつけたといえるかもしれません。

(終)

【お知らせ その1】
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『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
ティエフネットワーク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。


【お知らせ その2】
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
2020年11月13日刊行 社会評論社
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本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp

【お知らせ その3】
ブログは概ね隔週で更新しています。
次回は11月5日(金)に更新予定です。

このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)や、差し入れされた本への感想(書評)を掲載している。
今回は、差入れされた本の中から「女子学生はどう闘ってきたのか」の感想(書評)を掲載する。
(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)
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【「女子学生はどう闘ってきたのか」(サイゾー刊)】
「女子学生はどう闘ってきたのか」(小林哲夫著・サイゾー刊)を読みました。
この本の帯に上野千鶴子さんの言葉「女子学生はは怒ってよい!」と大書きされていますが、この本を読みながら、まさにその通りだ!と思いつつ読みました。
序章の「女子学生は世界中で闘っている」で著者は、「2019年は闘う女子学生にとって記念すべき年かもしれない」と語り、グレタ・トゥーンベリさんの行動に共感した163ケ国、400万人以上の世界の若者たち、また香港、韓国など女子学生が先頭で闘ってきたこと、日本国内も女子学生が闘ったことにまず焦点を当てています。日本でも反戦、環境、反原発、モリカケ、レイプ、セクハラ、医学部入学女性差別、就職差別など、理不尽はあまりにひどいから闘わざるを得ないのです。
著者は「本書では戦後女子学生が生きてきた歴史をさまざまなアングルから追い(中略)そこで理不尽なことに直面した時、彼女たちはどう闘ってきたのか」を描いています。
「女子学生」を対象、テーマとした理由は、第一に女子学生が入試、教育、就職で不利益を被ってきたからであり、第二は、最近女子学生が闘う姿を多く見かけるようになり、彼女たちを描きたいと考えたとのことです。つまり、「女子学生は差別され不利益を被った。そして女子学生は闘っている。これは本書を貫く大きなテーマである」とまず述べています。
本の構成は、第一章で「2010年代後半、女子学生の怒り」で現在の社会で起きた問題に、いかに各大学の女子学生が闘っているのかを具体的に実名で示しており、本全体のインパクトがまず明瞭に記されています。その例は印象的で注目に値するので後に記します。第二章では「女子学生怒りの源泉=『女子学生亡国論』の犯罪」60年代の社会、教育者、マスコミがいかに女性蔑視の封建思想かが示され、第三章から第十章までは、さまざまなアングルー戦後の学生運動、社会運動参加、男社会で生き抜いた著名人たちから70年代のキャンパスやスキャンダル事件、80年から90年代の「女子大生ブーム」「オールナイトフジ」への現役学生登場、女子学生急増、ミスコン、読者モデル、就職での闘いから女子学生の小説、映画、音楽など文化創造の担い手たちの紹介までー 歴史的に社会現象を振り返りつつ解説しています。
 敗戦後、女子学生の学生運動への参加もありますが、まだまだ「良妻賢母教育」や「女子学生亡国論」等男性中心の社会が続いていきます。それをかいくぐり、闘いながら、80年~90年代の男女雇用機会均等法が施行され、女性が社会進出を果たしていきます。しかし、男性中心に歴史的に構造化された日本社会とその思想的根本が変革されない限り、女性差別やセクハラは、より商品化され値段が付けられ、あるいは隠然とした差別や排除が今も「王道」のごとくまかり通っていることを本を読みつつ実感します。
1955年には18歳人口が168万2239人で、大学進学率は男子13.1%、女子は2.1%です。大学数は228校で女子大は32校の1万5千人という超上流エリート。2010年代の今では、マスプロ教育を経て、大学生数260万948人のうち、女子学生は118万3962人、45.4%に達しているそうです。
 私自身はいったん1964年に高卒で社会人として就職し、その後、1965年に教師を目指して夜間大学に入学し、働きながら大学に通いました。
会社の女性差別を含む社会の矛盾は根本的に社会政治革命抜きには変わらないと考え、革命を目指したので、「女子学生」というアイデンティティは私にはきっと薄かったと思います。
でも、第一章にあげられている女子学生たちの理不尽には屈しない、まっすぐに闘う姿勢は、自分の初心を振り返りつつ、とても共感しました。しかも、当時の野党を含む政治的な反政府勢力の広がりの中で闘うよりも、今の個人から出発した主体的な行動の難しさを乗り越える勇気ある行動に今後の可能性を見ます。
 その一例が第一章の国際基督教大学の山本和奈さんの怒りと行動です。
「週刊SPA!」2018年12月20日号の「ヤレる女子学生RANKING」として、大学の実名をあげてセックスしやすい女子学生を紹介した記事に対して「いてもたってもいられなかった」と衝撃を受けたのです。
すぐにSNSを駆使し、同記事の撤回と謝罪、女性軽視や差別用語の使用をやめることを要求する署名を、3日間で2万6千筆以上集めたとのことです。 
あわてた「SPA!」編集部の「煽情的表現のお詫び」に対し、山本さんと賛同者は「論点がずれている」と編集部に面会を求めます。「編集部の一人を説得することも出来なければ、社会を説得することは出来ない。逆に一人が説得できたらみんなに伝わるんじゃないでしょうか」と語っています。
編集部は完全に説得され、逆に海外在住経験のある彼女らからセクシャルな記事のアイディアを提案されたと話しています。
国際基督教大学同窓会は、この山本さんの行動に「大学および同窓会の魅力度、知名度を高めることに貢献した」として表彰しています。
2015年にも国際基督教大学は、安保関連法案反対でSEALDsとしてスピーチした女子学生にも大学側は、「民主主義、平和、人権を尊重する本学のリベラルアーツの理念を体現し、賞賛に値する」と賞を贈ったそうです。国連の原則に通じた大学側の姿勢は、今のソフトにファッショ化する日本で大切な堡塁の一つと言えます。
後にこの学生、山本さんはチリに滞在し、昨年10月のチリの大規模抗議デモの様子を伝えつつ、「日本は安全ですか?幸せですか?」と日本も同じ格差社会と問うています。
「日本でどれだけ大企業が税金を払っているのか。なぜ原発が世界で4番目に多いのか。なぜこんなにもギリギリで生きている人が多いのか考えてみて下さい。長年私たち日本人が茹でガエルのようにゆっくりと茹でられてきたからです。(中略)もし今の生活にまったく違和感がないのであれば、あなたは恵まれています。その分、あなたの行動、あなたの発言は何か変化をもたらす可能性があります。だからどうか声が届かない人の声に耳を傾けて下さい」と地球の向こう側からまっすぐな眼差しで訴えています。
若い日本人のそうした主体的な力は、やはり国際的な交流や国外から日本をとらえた時「日本の常識」のいくつもの非常識を知ることが出来ることから生まれています。自らの感性を深く問う誠実さが、日本の非常識を破る強じんな変革の兆しを育てているように思います。
 自分たちの60年代、70年代の「異議申し立て」のあり方との時代・社会の違いを振り返りつつ、これからの希望を描きつつ読みました。日本の女性、女子学生の歴史を分かりやすくまとめており、学ぶことのできる1冊です。
(2020年6月5日記)

【内容紹介】
早大教授(暉峻康隆)と慶大教授(池田彌三郎)が主張した『女子大生亡国論』から50年経って、はたしてそれがどのような道をたどったのか、女子大生&女子学生の(被差別の)歴史を追いかけた集大成。
大学生活、課外活動、社会運動、学生運動、メディアでの発信、ミスコンや読者モデル、芸能活動などをとおして、女子学生が社会とどう向き合ってきたか、そこで理不尽なことに直面したとき、彼女たちはどう闘ってきたか。その全貌をはじめてあきらかにする。

【目次】
序章 世界中で女子学生は闘っている。
第1章 2010年代後半、女子学生の怒り
第2章 女子学生怒りの源泉=「女子学生亡国論」の犯罪
第3章 女子学生、闘いの歴史――社会運動
第4章 女子学生の歴史①(1950年代、60年代圧倒的男社会のなかで生き抜く)
第5章 女子学生の歴史②(1970年代、事件はキャンパスでも市街でも起こった)
第6章 女子学生の歴史③(1980年代、90年代「女子大生ブーム」の光と影)
第7章 女子学生の歴史④(2000年代~、女子学生急増。その背景と神話)
第8章 ミスコンと読者モデル 華麗な舞台の実像と虚像
第9章 女子学生、就活での闘い
第10章 女子学生が文化を創造する

【著者プロフィール】
小林哲夫(コバヤシテツオ)
1960年神奈川県生まれ。教育ジャーナリスト。1994年から『大学ランキング』(朝日新聞出版)編集者。教育、社会問題を総合誌などに執筆。『神童は大人になってどうなったか』(太田出版)、『高校紛争 1969-1970』(中公新書)と『反安保法制・反原発運動で出現――シニア左翼とは何か 』(朝日新書)が大きな話題に。ほか『東大合格高校盛衰史』(光文社新書)、『ニッポンの大学』(講談社現代新書)、『早慶MARCH 大学ブランド大激変』(朝日新書)など著書多数。

価格 \1,980(本体\1,800) サイゾー(2020/05発売)

【お知らせ その1】
9784792795856

『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
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【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。


【お知らせ その2】
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
2020年11月13日刊行 社会評論社
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本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp

【お知らせ その3】
ブログは概ね隔週で更新しています。
次回は10月22日(金)に更新予定です。

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