全国学園闘争の記録シリーズ。今回は京都府立医大である。
大学のホームページによると、京都府立医科大学は1872年(明治5年)に設立された140年の歴史がある公立医科大学で、1921年に医学専門学校から京都府立医科大学となったとのことである。河原町、広小路、花園にキャンパスがある。
略年表を見ても京都府立医大闘争のことは何も書かれていない。
東大全共闘機関紙「進撃」に闘争の記事があるので見てみよう。
【進撃】東大全共闘機関紙1969.3.10
京都府立医科大学
暴露した蜷川民主府政
新校舎問題で京都府と対決
京都府立医科大学では2月10日以来、無期限ストライキが闘われているが、2月26日、府立医大では初めての本館封鎖が決行され、新たな質の運動が展開されようとしている。府立医大の運動の中心軸は青医連公認問題と臨床学舎建設案問題の2点にあるといえよう。
臨床学舎建設案は昭和39年から昨年12月までの5年間の間に京都府と大学=当局の2者の間で一方的に大要が決定された。
これに対して日共の一元支配下にある京都府職員労働組合―京都府立大支部は、例によって新学舎建設準備会を“民主的”に運営するため“学内諸階層の参加を認めよ”との主張をかかげてきたが、実体的には何らの運動も展開できず完全に京都府と大学当局の路線にまきこまれていった。
一方青医連と府大学生自治会はこの新校舎増設問題が、大学=当局と京都府の一方的な決定にもとづくものであること、また現行の医療体系の矛盾の根源である医局―講座制にはまったく手をつけず、この矛盾の拡大再生産を目指すものであることなどラディカルな批判活動と運動を展開してきた。
この教授会独裁体制の背景には大学の自治=教授会の自治、あるいは“学問の自由”といった現在の教育理念の欺瞞性と同時に、蜷川京都“革新”府政の強権性があることを見逃してはならないだろう。
それは府立医大運動中の“暴徒が(府立医大の)ガラス1枚でも割ったなら、私は断固とした措置を取る”といった蜷川発言、あるいは“すべては京都府議会=蜷川の決定だ。教授会は何もできない”といったきわめて無責任な教官の発言からも読み取れる。
このように京都府立医大の闘いは国家権力による教学体系、医療体系の矛盾をあばき出す過程で、社―共による既成左翼の正体を暴露したことが一つの特徴となっている。
また青医連運動も府立医大では医学連の成果をふまえつつ、41青医連以来の長い歴史を持っている。しかしながら42青医連が青医連ルームを勝ち取った以外、43青医連は大学=当局の圧殺策動のため多くの要求項目はなしくずし的に拒否されていった。このような過去の経験をふまえ、今回の闘争が取り組まれていることを考え合わせるなら、府立医大で運動がどれほど根強いものかが理解できるだろう。
このような青医連、学部学生を中心とした府大全共闘の強靭な闘いに呼応して皮膚科、神経科、整形科、泌尿器科などの医局の若手医師が全共闘に呼応して無期限ストライキに立ち上がろうとしている。
【毎日新聞 1969.3.22】(引用)
京都府医大を当分閉鎖
機動隊で学生排除 47人逮捕
京都府警は21,22日の両日機動隊延べ1,050人で京都府立医大(京都市上京区河原町広小路)本館、花園分校など学内十数ケ所を不法監禁、建造物侵入などの疑いで捜査、大学自治会役員、青医連幹部ら合計47人を同容疑と不退去罪などで逮捕した。京都の大学紛争で学校側が警察に出動を養成したのはこれが初めて。
21日は午後4時から機動隊が教授十数人の立合いで学内を捜索、令状の出ている7人を逮捕、本部会議室で行われた学生と大学側との団交の録音テープ9巻、ビラ250枚を押収した。
22日は午前6時10分、制私服警官700人で大学本館、花園分校など9ケ所の捜索、大学病院前でジグザグデモをした学生40人が不退去罪で逮捕された。
大学当局は同日朝、声明を出し、「今後、数ケ月間大学の閉鎖、休業を行う。この期間中ストを続けている学生、青医連、無給医は学長の許可なく大学構内に立入ることを禁止する。これから大学を守るため、教授会は警察力の導入をためらうことなく決定し、暴力学生を排除したい」と強い姿勢を示した。
府医大では全共闘派学生が青医連の公認など6項目の承認を求めて、大学側に団交を要求、大学側が拒否を続けたため、学生は学舎を封鎖、2月10日から無期限ストに突入していた。

京都府立医大全共闘は、「バリケード」という機関紙を発行していた。機動隊導入とその後の闘争についての記事を見てみよう。
【バリケード】京都府立医大全共闘機関紙1969.4.10
3・28全学奪還―4・1ロックアウト突破闘争総括
3・21機動部隊乱入不当逮捕、それに引き続く3・22我々の全学バリ封鎖への再度の機動部隊導入大量不当逮捕と、大学閉鎖―ロックアウトという矢つぎ早の弾圧は、国家権力―蜷川―教授会の連携の見事さと、日共―民青反革命の登場を我々の脳裏に深く刻印した。我々を面通しする中で同志を国家権力に売り渡していった教授たちは、教授会独裁―医局体制温存(近代化されつつも)という自らの独自利害を貫徹せんとし、また、蜷川―日共民青路線の、その存立基盤を府立医大闘争によって掘り崩されつつあるという危機意識とが重層される中で国家権力の総弾圧が行われたのである。
府立医大闘争が、全人民の医学医療の実現という普遍的な鋭い質を有していたが故に、我々は「革新」の欺瞞をも暴かざるを得なかったし、国家権力の暴力との直接対決へと上昇発展してきたのだ。
3月25日、この弾圧に対して不屈の闘いを再度開始することを固く決意した我々は、圧倒的に立入禁止の構内デモを貫徹し、3・28ついに全学奪還、バリケード再封鎖闘争を貫徹した。大学当局の3度目の要請に基づき、機動隊は正門バリを乗り越え構内に乱入し、病院内をも制圧する中で、20名の学生青年医師が不当逮捕された。日共府職労執行部は、機動隊制圧下をバリケードを取り除き、またもその反革命としての姿を露呈した。教授たちは、病院を“聖域”と称し、そのヒューマニズムという体制イデオロギーの下、医療労働者の正当な闘いを弾圧し続けてきたが、ここでは、最早、彼ら自らが病院内に機動隊を導入することによって、その無差別の弾圧を開始し、権力者以外の何者でもないことを白日の下にさらしたのである。
我々は再度学外へ排除されたが、3・31、300名を超える圧倒的府庁デモを医学連・京大医の学友とともに勝ち取り、無給医、助手、看護婦をも結集させる中で、4月1日以降の完全ロックアウトを医局占拠、病院内徹夜集会の貫徹で粉砕し、再び闘う陣地を拡大し、今後の闘争の方向を明確に病院ストライキとして確定したのである。
我々はこの10日間の闘争が、権力の凶悪な弾圧への圧倒的大衆の対決と緊張関係の持続のもとで闘われたという自然発生性に拝跪しつつも、むきだしの権力を追い詰め、日共民青の反革命を孤立化させ、一定の前進を勝ち取ったことを評価しなければならない。同時に、4月1日以降緊張関係の一時的喪失と同時に結束の鈍化もたらした原因が、蜷川―教授会のファッショ的弾圧への反ファッショとしてしか闘われなかったこと、さらにこの10日間の闘いが、府医大闘争にとって、さらには全国学園闘争、国内階級情勢の中で明確に位置付けされていなかったことを自己批判的に総括しなければならない。
(後略)

当時、朝日ジャーナルに「学園ハガキ通信」というコーナーがあり、ニュースを中心に闘争の現状などのハガキでの投稿を募集していた。その中に京都府立医大のものがあるので、見てみよう。
【学園ハガキ通信】朝日ジャーナル1969.4.20(引用)
落首の語る歴史
今こんと言いしばかりに蜷川の
有明の府警を 待ちいずるかな
教授会
今は只思い耐えなんとばっかりに
名をも地位をも恋しかるらん
助講会
団交の後の心にくらぶれば
昔は弟子をおそれざらまし
吉村学長
巡り会いて みしやそれともわかるまに
雲隠れしにし教授会かな
全共闘
この歌のあと、大学に機動隊(自治警察)が教授会の手によって入れられ、教授会の手によって首実験がなされ、全国でも珍しい教授会の破廉恥ぶりが披露され、その後闘争は日増しに激化しています。教授会(蜷川路線)も強い態度で出てきました。
(附属病院・匿名希望)

京都府立医大の闘争は、その後も続く。69年9月の朝日ジャーナルの記事を見てみよう。
【苦悩する個別学園闘争】朝日ジャーナルーナル1969.9.21(引用)
蜷川“革新“に挑戦 京都府立医大
こんどいくつかの大学をまわってみて、学生にとっていちばんしんどいなあと感じたのは、この京都府立医大です。蜷川知事から野良犬と罵倒されたのは、ここの全共闘の諸君ですが、その100匹をこす野良犬たちが、拠点を奪われ宿無しとなりながらも、教授会に、府知事に、機動隊に対しほえたりかみついたりしているのです。忠実な飼犬になるくらいなら、まだ野犬収容所に放り込まれる方がましだと思いながら......。
8月末までに逮捕されたもの延べ74人 (実人数72人)。起訴されたもの8人。その後、9月1日、授業再開の日、さらに10人が逮捕されています。この数字だけでも、単一の大学闘争としてはかなり大きなものですが、さらに全学生数が青医連を入れて約700人、つまり9人に1人が逮捕されたと聞けばK君も驚くでしょう。まさに“大衆的規模”でクサイめしをくっているのです。学生、無給医の諸君の話が、ともすれば暗くなりがちなのもムリはないと思いました。もっとも、教授会が出している「京都府立医科大学の再生のための教授会試案」をめくっているうちにこんな文章にぶっかりました。
―(府立医大の)学生運動の方向は実にねばっこく、陰湿で、ひどかった。こういう方面に知識の深い人たちも、府立医大の闘争には学生らしいカラッとした性格が全く欠如していることを指摘した。....こうした陰湿で猜疑心のつよい学生が生れたことについては、われわれも責任を感している。....3月22日、40名の逮捕者が出た。警察は繰り返して退去命令をつたえた。しかし、これらの学生を指導する数名の医師は、あらかじめ逮捕を予定し、いかにねばり、いかに大学に混乱を与えようかと計画していたのである。―
それほど練達のリーダーがいたら、もっとスマートな闘い方をみせるのでしょうし、「権力について僕達の討論の全体確認が深化せず、闘争が未成熟な段階で、権力はその鋭い牙をつきたててくる」(『府医大8』第一号)という反省は出てこないでしょう。
3月22日の機動隊導入直後、教授会は大学を長期休校・閉鎖して、学生・靑年医師、無給医の学内立入りを禁止しました。上智大で行われた方式で、学生が「大学治安立法の先取り」と叫ぶゆえんです。
その後臨床研究棟にきずいたバリケードも7月30日、5度目の機動隊導入によって解除され、それ以後現在まで、学生たちが学内で活動する余地はほとんどなくなってしまいました。
9月1日、大学側は子定通り授業を再開しました。学生たちにいわせれば“勝手に門を開いた”ということでしょうが。全共闘側は教養部を中心に200人のデモ、また説得部隊もくり出しました。新入生のほぼ全員が受講、また旧六回生の約三割が卒業試験を受けた他は、各学年とも2、3人ずつしか出席しなかったそうです。しかし、いずれ各学年とも留年かどうかのタイムリミットが迫ったとき、全共闘がその“壁”を突破できるかどうかは、彼ら自身も楽観はしていません。教授会も従来の強硬路線を再確認したようです。
もっとも無給医が一切働いていない付属病院は相変らず部分的にマヒ状態。現在、入院300人、外来一日600人と平時の半分くらいに減っており、赤字は増すばかりだそうです。
しかし大学側としては、なんとかして10月、来年の入試を決めるころまでに“正常化”をしたいでしょう。なぜなら入試の行われる来年3月は京都府知事選の真最中であり、そして府立医大の設置者は蜷川知事なのですから。蜷川知事としては当然それ以前に府立医大の問題は決着をつけておきたいでしょう。
府立医大闘争が、学生にとってしんどいのは、単に教授会が相手でなく、蜷川「革新」府政およびそれを支える共産党(物理的には学内をパトロールする共産党系の府職労青行隊)と真向から対決しているからです。
全共闘の六項目要求の中に医局解体とならんで臨床研究棟計画白紙撤回という一項目があります。現在のオンボロの臨床研究棟を建てかえてくれるのだから けっこうな話じゃないかと思うかもしれませんが、この一項目が入るについてはやはり深刻なイキサツがあったのです。
昭和39年、老朽化した基礎校舎の改築が問題になったとき、府と大学は西構と (基礎医学)、花園(教養)の土地を財産処分して、基礎校舎を建てる計画が決定されました。これに対して、学生側はただでさえ厚生施設がない狭い大学なのに、土地を切売りして校舎を建てるとは何ごとかと抗議、結局、当局は西構には学生会館を、花園にはグラウンドと体育館を建てるということを約束 (府、大学は約束したとは言っていない)したとして、一応ホコをおさめたことがあるそうです。
ところが現在、西構には府立文化芸術会館が建築中、また花園には公明党対策といわれる府立体育館の建築が予定されてます。そのかわり? 府立医大には臨床研究棟を建てようというのです。これに対して学生側は「要するに府立医大は蜷川の選挙対策のダシに使われているのにすぎない。蜷川体制を維持する一機構に堕してしまった」と激しく反発しているわけです。
京都では革新と名乗るものが、蜷川府知事にタテつくのはむずかしいという空気があります。府立医大闘争は、その蜷川府政の「革新」性に、足元からはじめて挑戦状をたたきつけたといえるかもしれません。
(終)
【お知らせ その1】

『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。
執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男
定価1,980円(税込み)
世界書院刊
(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
ティエフネットワーク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com
【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。
【お知らせ その2】
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
2020年11月13日刊行 社会評論社

本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp
【お知らせ その3】
ブログは概ね隔週で更新しています。
次回は11月5日(金)に更新予定です。