野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2021年11月

2021年10月9日、東京・四谷の主婦会館で10・8山﨑博昭プロジェクト主催による秋の東京集会が開催された。

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集会は二部構成で、第一部は「東大闘争と福島原発事故―ベトナム反戦・全共闘から飯館村まで」と題して田尾陽一氏の講演があった。第二部はシンポジウム。小林哲夫さんをコーディネーターに、2人の大学生がそれそれの問題意識や行動、取り組んでいることについて語った。
今回のブログは、このうち第二部の内容を掲載する。山﨑プロジェクトのサイトから転載させていただいた。

【シンポジウム「高校生と大学生が語る―いまやっていること、やりたいことー」2021年秋の東京集会 第二部の記録】
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▲秋の東京集会での若者シンポジウム

「18歳」という共通項で時空を超える
司会::佐々木幹郎
 第二部を始めさせていただきます。第二部は小林哲夫さんの司会で若い人からの発言をやります。よろしくお願いします。

小林哲夫 「ベトナム反戦から福島の今へ」という今日の集会の第二部をこれから始めたいと思います。
 テーマは、「高校生と大学生が語る」ということで、今日は高校生と大学生に声かけまして話を聴くことになりました。
 大学4年生の伊集院さん、大学1年生の宮島さんです。今日はよろしくお願いいたします。
 「ベトナム反戦から福島の今へ」というこのシンポジウムの中で、高校生、大学生が今やっていること、やりたいこと、高校生、大学生が今日登壇することについて、若干の説明をしたいと思います。
 山﨑博昭さん、1967年に京都大学に入る前に大阪府立大手前高校に通ってらっしゃいました。山﨑博昭さんと伊集院さん、宮島さんには共通項があります。54~55年の差はありますけれど、この3人は高校生、18歳だった頃に社会と向き合っていたこと、社会の出来事に対してこれでいいのだろうか疑問を覚えていたことです。
 それがたまたま高校生だったからなのか、いろんな見方ができると思います。
 今でも昔でも、中学生、高校生が社会に疑問を覚える活動をされる、発信される方はいます。
 だからと言って、その方がものすごく頭がいいとかということではありません。もちろんそういう方もいますけれど、それだけではなくて、私たちが生まれてから物心がついて、いろんな事を学んで、いろんな事を疑問に覚えて、それで社会ってどうなんだろう、今の政治ってどうなんだろうということを考えるようになったのが、早い方でたぶん小学校中学年、高学年くらいだと思います。
 中学生くらいになると社会科を勉強しますから、今どうなっているんだろうと考える。高校生になると受験ということがあるにしても、こんな世の中、なんで俺たちこんなに貧しいんだろうといろいろ考えるようになります。
 私たち人間が生まれてから大人になる過程の中で、初めて社会と向き合った。それが高校生ぐらいの年齢だと思います。
 伊集院さんは高校時代、2015年に国会前の安保関連法案反対の集会、デモに参加されていました。それから宮島さんは最近ですが、入管問題、スリランカ人のウィシュマさんの問題で、入管法の改悪というか改定に反対する声を高校3年生の時に上げました。
 そのあたり、高校生として、まず何がきっかけで、どうして声を上げたのかというところからお話をしていただいて、それが自分たちが今どのようなことに取り組んでいるのか、それが今やっていること、やりたいことに繋がっていくのかなと考えております。
 これは強引に繋げているわけではないと思いますけれども、山﨑博昭さんも半世紀以上前の高校生の時、18歳の頃、社会と向き合っていました。
 この18歳という共通項で、宮島さん、伊集院さんにお話をしていただこうかなと思っております。
 まず宮島さんから入管問題について、何となくウィシュマさんの問題は報道では分かるという方がいらっしゃると思いますが、わかりやすく説明していただくとともに、自分がなぜ入管問題に関わったか、このあたりをお話していただきたいと思います。
 よろしくお願いします。
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▲宮島さんが呼びかけたウィシュマさんの死の真相究明を求める
スタンディングには2人の妹さんが参加(2021年7月30日、
東京・法務省前)

高校生として入管法反対で国会前アクション
宮島 国際基督教大学1年生の宮島と申します。本日はよろしくお願いします。
 入管から一時的に収容が解かれる仮放免というものがあります。わたしの父が2009年からこの入管の仮放免の保証人をしていることもあって、入管について知ることができました。
 入管における人権侵害などについて知ったのは、今年からで、高校の卒業論文で入管問題について調べたことがきっかけです。入管における外国人の人権侵害や難民認定率の低さなどを知り、とても衝撃を受けました。そして、今年3月に入管法の「改正案」があって、その入管法改悪反対のために国会前でアクションを自ら主催し、それが活動する始まりになりました。そこから記者会見などにも登壇させていただきました。
 入管問題というと、外国人の問題なので「日本人だから私たちの問題ではないでしょう」と思う人が多いでしょう。けれど、わたしは日本に住む市民として、外国人の問題と言っても、日本社会にいる人って全員日本人ではなく、すでに多様な社会になっていると思っています。それは在日韓国人だったり、ミックスの方だったり、多様なバックグラウンドの方々が、この日本社会にいるので、そういう意味でも外国人の問題だからと目を背けてはいけないと思います。

過酷な入管の仕打ち――期限がない長期収容
宮島 入管問題は、すごく複雑な問題ですが、一番大きな問題が長期収容の問題です。
 入管に収容されている人の在留資格を失った外国人が強制送還されるまで収容される施設で、その中で収容される期間の制限が日本にはありません。欧米の国を見てみると、短くて6ケ月だったり、最高でも2年とか1年という国があります。ところが、日本は収容の制限がないので、長い人では3年や一番長くて7年と収容が長期化してしまいます。なかでも私がひどいなと思っているのが、収容されている間に、いつ出れるかわからないという、精神的な苦痛があって、家族とも引き離されていることです。
 子どもがいる外国人だと、自分の子どもといつまた会えるか分からないという、精神的に不安定な状態で、その影響で「うつ病」に苦しんだり、自ら自分を傷つけてしまったり、最悪なケースでは自殺に至ってしまいます。2017年以降入管によって記録された中では、すでに17人の方が入管施設の中で亡くなっていて、その内の5人が自殺なんです。その数からもわかるように深刻な問題です。
 私の父が仮放免の保証人をしていたので、小さい頃から仮放免の方と親密な関わりもありましたし、仮放免の方とイベントなどでお会いしたりする機会もありました。今年1月にカメルーン人女性が亡くなったんですけれども、彼女は私の英語の家庭教師をしていました。わたしは彼女が亡くなった経緯を調べたんですけれども、難民申請をしていたのですが、在留資格はありませんでした。最終的に今年1月に乳がんで亡くなったんですけれども、入管には3回ほど収容されており、何度か仮放免になったんですが、一度収容されていた時に乳がんを患っていました。この間、「胸が痛い」と職員に訴えても適切な医療を施されず、やっと仮放免になった時には乳がんが深刻になっていました。
 仮放免になっている時、保険はききません。仕事もできない、保険もきかない、移動の制限もかかっているという、自由が制限されている状況の中で、支援者のお陰でやっと乳がんの治療が受けられたんですけれども、その時はもう手遅れで亡くなってしまったんですけれども、私にとって衝撃的だったのは、在留資格が出たのは、亡くなった3時間後だったんです。
 だから、もっと早く在留資格が出ていれば、もっと早く乳がんの治療が受けられて、もっと長く生きられたのではないかと思い、すごく胸が苦しくなりました。
 それが一つ、私が入管の問題に気付かされる大きなきっかけです。そして今年、高校の卒業論文で入管問題を調べたことも大きなきっかけでした。

コロナ禍のなかで強まった学費負担
小林哲夫 わかりやすく説明していただき、ありがとうございました。
 続いて伊集院さんから、大学の問題として、昨年コロナ禍で授業がオンラインになってしまった。多くの学生が学費の問題で、これはどうなのと疑問を呈したと思いますけれども、授業料の返還等、伊集院さん取り組まれたということなんですけれど、そのあたりからまずお願いしたいと思います。

伊集院 伊集院と申します。昨年の3月、コロナ禍が日本に来て全面的に感染が拡大しました。そうした状況で大学がどういう措置を取ったかと言うと、一旦まずほとんどの大学が休校にするような形になります。キャンパスに学生も教職員も入れない、わずかな職員だけが入れるという風になった大学が多かったと思います。
 その後、大学が講義を再開しようとなりました。だけど、それも完全な形ではなくて、オンラインという形、パソコンを使って画面の向こうで講師の方が喋る、もしくは文章や動画、それから音声が送られてくるかたちでした。こうした中で、大学生がコロナ禍の中で困窮している、お金を払った分の教育を受けられていないんじゃない―――。この2つのことを理由として、大学の学費を下げてくれ、半額にしてくれという動きが全国のほとんどの大学で始まりまして、署名活動という形で広がりました。
 私もこの運動に関わりまして、実際にそれをやってみますと、個々の皆さんが大学生活を過ごされた時代から現在に至るまで、ものすごい額の変動が起きている。
 具体的には、私立大学では年間100万円以上のお金がかかるのが普通になっている状況で、学生が非常に困窮しているということがあります。
 それから入学金というものの(納付)期限が非常に早く設定されているので、2つ以上の学校を受けたりすると、受けた学校の発表が全部ある前に、最初に受かった学校の入学金を払わなければいけない、他にも休学している間にも学費を払わなくてはいけない、という現状があります。
 例えば私の大学だと、休学している時の学費の減免措置というのはほとんどなかったので、昨年くらいまでは休学中もほとんど同じような額を払わなければならないという状況がありました。
 こういった学費のいろいろな矛盾に気付かされながら、署名運動や減免を求める活動をします。基本的に署名を集めて国に提出して、国の力で大学に補助をしてくれということだったんですが、残念ながら力及ばず、一部の政党の皆さんがしっかりと動いてはくれましたが、政府与党自民党、公明党が動かない、そういう対策はしない、国会自体開かないという形で、あまりうまくいかなかったというのが現状です。
 ただ、この運動を通して見えてきたのが、大学というものが、皆さんが過ごされた時代から大きく変わってしまった。学生自治というもの、それから教職員の方が大学の運営に関わっていくという本来のあり方がだいぶ変わってしまって、一部の理事の方だけで大学の運営が決まっていく、それによって、大学の運営の中にもより営利という形が強くなってきている、という実態だったかなと思います。
 私は4年生でまもなく卒業しますが、これを次の世代にどう継承していくか、次の世代がどうやって変えていくか、を考えるのが私の役割かなと思っているんですが、様々な学費が関係した署名運動では、そういうことが分かったかなと思っています。

ウィシュマさんたち外国人支援には勇気が問われた
小林哲夫 ありがとうございました。宮島さん、3月に初めて国会前で抗議行動をされたということなんですけれども、その時の緊張感ですとか、どういう思いだったんですか?
 周りに高校生はほとんどいなかったと思いますが、自分が高校生として主催する中で、一番心掛けたこと、その辺りを思い出して話していただければと思います。

宮島 そうですね。やはり緊張していて、この問題に関わって気付かされたのが、ユーチューブやSNSなどでこの問題について検索してみると、コメント欄に外国人嫌いの人のコメントが多く見られることです。私は正直それが怖くて、この問題に対して声を上げることに勇気が必要だと思いました。支援者の方や、何十年もこの問題に関わってきた人たちと話しをしていると、やはり勇気づけられて背中を押されました。
 私の高校はインターナショナルスクールだったんですけれども、高校でも先生方が背中を押してくれてこともあって、勇気づけられたということが大きかったと思います。

小林哲夫 学校から何か言われたというか、応援してくれた言葉で印象的なものはありますか?

宮島 この入管法の改正案で大きな問題だったのが、難民申請を3回以上した難民申請者は強制送還が可能になってしまうことです。もしこれが通ってしまうと、難民申請していて、母国で迫害や殺されてしまう、あるいは刑務所に入れられてしまう恐れのある難民の人を母国に強制送還してしまうという可能性が出てしまいます。
 これは国際法のノン・ルフールマン原則に違反しています。国連の恣意的拘禁作業部会からも指摘を受けていたにもかかわらず、この法案が通ろうとしていたので、その事を先生に話した時に、先生は「これはアクション起こすしかないんじゃない」と話してくれて、私もその時は自分が何か行動したいと思っていたので、そういう風に背中を押してくれたのは、すごく勇気づけられました。

若者一人ひとりが社会問題に声を上げてこそ
小林哲夫 ありがとうございます。入管の中で多くの方が亡くなられた、これは入管の対応のひどさというかダメさというか、これは言葉を変えると「国の犯罪」なのかなと思っています。
 原発の問題もそうなんですけれども、国家というのを、今回の問題で国、政権というものに対して、宮島さんは「なんで入管法みたいなひどいものを作っているんだろう」ということに対して、国に対する思い、怒りというか、その辺りをお願いしたいと思います。

宮島 やはり日本社会というのは民主主義社会なので、政府がすべて悪いというよりかは、私たちこの社会を築きあげている市民一人ひとりには選挙権があって声があるということを忘れないことです。今シルバーデモクラシーとも言うように、私たち若者の投票率がとても低いので、若者だったり、市民一人ひとりが積極的に社会問題に声を上げていって、それを国会に届けることも大事なことだと思いますし、その声を誠実に国会議員が受け止めて、実際に政策などに反映させていくという、そういう本当の民主主義の姿勢が大事だと思います。

小林哲夫 ありがとうございます。秋入学で大学に入られて、これから通われている大学でどういうことに取り組んでいきたいか、お願いします。

宮島 大学というのは、本当に自由というか、高校と全然違うなと感じていて、やりたいと思えばすぐに行動に移せるような機会があふれていると思います。今は難民と移民の支援をするサークルを始めたいですね。
 そのほかに、ウイシュマさんの死亡事件の動画開示による真相究明と再発防止の徹底を求めていきたいと思っています。他のジェンダー問題だったり人権問題だったりとかの社会問題にも積極的に声を上げていけたらいいですね。

小林哲夫 ありがとうございます。ウイシュマさんの問題も、入管の問題でいろんな学生さんが声を上げるようになりました。もし分かるようでしたら、他大学の活動などを教えていただだきたいのですが。

宮島 この問題で皆が口を揃えて言うのは、学生が多いということです。BOND(バンド)という学生中心の入管問題に取り組むグループもあります。「ウイシュマさんの真相究明と再発防止を求める市民・学生の会」というグループが結成されて、私も一緒に活動しています。そのグループが法務省前のデモをやったり、この前は全国一斉のアクションデモを起こして、北海道から四国あたりまで、同じ日にデモをするという企画があります。東京だと200人近く集まって、本当に大きなムーブメントになっているんだなと感じています。今SNSもありますし、やはりこの問題というのは学生にとって関わりたいと思う問題なのかなと感じています。

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▲安保法制反対で伊集院さんら高校生が呼びかけて代々木公園
から渋谷デモ3000人参加(2015年8月2日、渋谷)

多様なテーマで持続する大学生・高校生の運動
小林哲夫 ありがとうございました。学生、高校生の社会活動というと、伊集院さんはずいぶん長くかかわっています。彼は2015年安保、当時高校2年生の頃から国会前に通って抗議活動を行っていました。2015年から2021年の今日まで、学生、高校生はどんな動きをされたのか、概論的に教えていただけますか。

伊集院 私が社会運動といいますか、こういったものに参加するようになったのは、2015年の8月です。どういった時期だったかと言いますと、安保法制が成立するということで、国会前に連日市民が集まって抗議活動をするといった状況でした。8月30日に10万人とも言われる多くの市民が集まった頃に、私はこういった運動に参加しました。
 参加した理由としては、若い世代が連日そこで中心にやっていることがありまして、私の祖母は90代の戦争経験者で、平和の大切さとかそういったことを繰り返し教えられていたものです。それゆえ、戦争に加担するような国家になって欲しくないということと、戦争の被害に会うような国になって欲しくないということがありまして参加しました。
 この時に中心になっていた団体が、SEALDs(シールズ)という団体です。2015年は主導して安保法制を廃止にするという動きをされていました。このグループは、それ以前にも特定秘密保護法案の時に、SASPL(サスプル)という名前で14年くらいから活動をされていて、それ以前は脱原発でTaz(タズ)というグループをつくっていたんですが、2015年は安保法制を廃止にする、あるいは政権を退陣に追い込むんだということで、若い世代が中心になって活動をされていました。
 この時に話題になったのは高校中心でしたが、ハンンガーストライキで追い込むということをやったグループもありましたし、ノンセクトと言われるような、多数の団体や個人も同時に活動していました。これが15年、2016年くらいのシーンです。
 私はSEALDsと一緒に活動していたT-nsSOWL(ティーンズソウル)という高校生団体にいました。高校生が最初はシールズと一緒に活動していました。だが、個人情報とかの関係で、ネット右翼と言われる方から繰り返しパッシングを受けたりとか、個人情報を晒されたりですとか、画像を改変されて流されるとか、そういうことがありました。そこで、高校生を分離という方針が出された時に、分けた人たちがそれでも運動をやりたいと作ったグループになります。基本的にT-nsSOWLはSEALDsと協調して行動していました。
 2016年、T-nsSOWLとSEALDsは解散して、一部は市民連合として野党共闘の方に関わるという動きをします。ReDEMOS(リデモス)というシンクタンクで政策的に訴えていくなどもしました。
 私自身は、SEALDsの後発団体として、共謀罪の問題に関わるようになり、「未来のための公共」で活動するようになります。
 これが主に2017年から2018年で、高校生、大学生の運動の中では「FREEー」という団体が学費のことをやったり、その他「直接行動」ですとか、もともとあったNGOにも高校生、大学生が多く入って、この頃から2015年ほどの盛り上がりはなかったんですけれども、いろんな運動に幅広く高校生、大学生が少しずつ入っていくような空気が出てきたかなと思っています。
 2018年、2019年の頃からジェンダーに関する運動ですとか、環境に関する運動ですとか、そういったものが少しずつ盛んになってきまして、Fridays For Future(フライデイズフォーフュチャー)とかVoice Up Japan(ボイスアップジャパン)とか、今メディアの中で結構取り上げられたり注目されることが多い団体ができ始めます。
 そこにも高校生、大学生を中心に人が集まっていくという構図が現在も続いていまして、「未来のための公共」は2019年に活動停止をするんですが、そういうような推移をたどりました。
 長々と流れを話してきましたが、現在はどうなっているかと言うと、SEALDs、「未来のための公共」を担ったグループはそれぞれ別々の現場、例えば新聞社に就職された方もいますし、新しく社会運動を立ち上げて署名サイトですとかネット署名のサイトに就職された方もいます。ユーチューブで社会運動に関するシンポジウムですとか動画を編集されたり企画されたりする方もいます。
 それ以外に、学費の運動に関しましては、オンライン授業の中で話題になったことがありまして、そこが続いているということと、NGOとかそういった運動に関しましては、以前と変わらず続いていくという状況がありました。「直接行動」というハンストをやるグループもノンセクトはノンセクトで続いていくという形で、かなりバラバラの団体に、それぞれ少しずつ人数が集まって、それぞれ20~30人ずつで高校生、大学生が活動しているというのが現状だと考えています。

戦争の歴史を語り継ぐことの大切さ
小林哲夫 ありがとうございます。伊集院さん、90代の戦争体験者の祖母からいろいろ平和の大切さについて教えられたとお話がありましたが、宮島さんはお爺さんからその辺の話を聴いたことがありますか?

宮島 私のお爺ちゃんが、長崎に原爆が落ちた時に長崎に住んでいて、原爆が落ちた場所から遠い山の中だったらしいんですけれども、原爆が落ちたのを目撃したというのを父から聞いています。

小林哲夫 最後のお尋ねなんですけれども、今日のテーマが「反戦」ということなので、戦争についての捉え方、考え方について宮島さんからお願いしたいと思います。

宮島 私が小さい頃から父に、戦争に関する映画を観させられて、私にとっては怖かったので、「観たくない、観たくない」と拒否していました。「白旗の少女」という映画だったり、いろんな第二次世界大戦の日本の沖縄だったり、長崎、広島だったり、朝ドラの第二次世界大戦中の空襲のシーンだったり、そのようなものを観て育ってきたので、「私は観たくない」とお父さんに言っても、お父さんは「これは忘れてはいけないことだから観ないといけないんだよ」と言われて育ってきました。
 今、戦争を経験した方々がいつかはいなくなってしまう社会で、平和ボケ、今の私たち同年代って平和ボケしていると思っています。なので、ずっと平和ボケしていないで、語り継がれている戦争の歴史を忘れず、ドキュメンタリーだったり映画だったり残されている資料を自分で調べて、忘れないで次世代にも残していく義務が私たちにもあると思います。

どのような社会を創っていくのかを問う
小林哲夫 ありがとうございました。伊集院さん、一部で田尾陽一さんの話を伺いましたが、その感想についてお願いします。

伊集院 一部でお話を伺いましたけれど、田尾さんが学生の時にされた運動ですとか、そういった実践もさることながら、原発事故以降の飯館村ですとか、最近の実践ですとか、そういったところが、全く私自身、今現在飯館村がどうなっているのかということを知りませんでした。
 きょうの話から、どういう形で文明と自然が向き合っていくのか、暮らしていくのか、私たちはどういうように生活していけばいいのか、また、あのような悲惨な事故が起きたということがあったにも関わらず、その後のその地域に関して私自身目を向けて行くことができていなかったということに気付かされました。
 これから社会人として(社会に)出て行くんですけれども、そういった中で、どのような社会を創っていくのかというところに、非常に大きな課題をいただいたように思いました。

同世代や大人世代と連帯して
小林哲夫 ありがとうございました。最後に宮島さんから若い世代に、これから自分たちは何をしたらいいのか、何を考えたらいいのかをお願いしたいと思います。自分たち世代の役割というか責任というか、難しい問題ですみません。

宮島 一人ひとり、今の世代って課題感というか使命感というのは違うと思うので、私の同世代全員を代表して言えるわけではないんですけれども、社会を見ると、社会問題というのは、入管とかもブラックボックス化されていて、今年までは本当に明るみになっていない問題とかもたくさんあります。
 今でもまだ明るみに出ていない問題がたくさんあるので、そういう風にブラックボックス化されていたり、隠蔽されている社会問題に気付いて、積極的に自分から、「本当にこの社会は平和なのか」と問い続けることが大事だと思います。
 このように問い続けて、自分にできることは何だろうと考えた時に、周りの同年代の方だったり、今まで社会問題に向き合い続けてきた大人の方々にも一緒に連帯して、これからの日本社会がもっと平和に近づけるように活動していけたらいいのかなと思います。

小林哲夫 どうもありがとうございました。「連帯して」ということがありました。
 今の話を締めとして「高校生と大学生が語る」のシンポジウウを終わりにしたいと思います。
 どうもありがとうございました。(拍手)


【お知らせ その1】
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『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
ティエフネットワーク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。


【お知らせ その2】
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
2020年11月13日刊行 社会評論社
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本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp

【お知らせ その3】
ブログは概ね隔週で更新しています。
次回は12月3(金)に更新予定です。

重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センター(昭島市)での近況などが載っている。私のブログの読者でこの冊子を購読している人は少ないと思われるので、この冊子に掲載された重信さんの近況をブログで紹介することにした。
当時の立場や主張の違いを越えて、「あの時代」を共に過ごした同じ明大生として、いまだ獄中にある者を支えていくということである。

今回は「オリーブの樹」155号に掲載された重信さんの獄中「日誌」の要約版である。(この記事の転載については重信さんの了承を得てあります。)
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<独居より 2021年5月1日~2021年8月27日>

5月1日 5月1日にアッバス大統領が5月22日の選挙を延期すると表明したという囲み記事を朝日新聞の国際面で読みました。マルワン・バルグーテイらと話し合いがつかなければ、利権第一のファタハ・アッバス派が選挙を取りやめるのは目に見えていたので、やっぱり……です。それよりも驚いたのはその朝日の「エルサレム支局」名の記事の内容です。「~5月22日に予定されていた自治評議会選挙を延斯すると発表した。イスラエルと領有権を争う東エルサ レムでの選挙の実施が保障されない限り行わないとしている。」(アンダーラインの部分はシオニストのかねてからの主張です。)東エルサレムは、占領地として国際的に認め、匡連安保理・国連総会でも「領土を争う“係争地”とは認めていません。「係争地」は占領という事実をごまかすためにシオニストが展開してきた論理。これまでの朝日の記事でも初めてでは?……。

5月6日 メイのFBによると、レバノンではワクチンを優先的に受ける人は、医療、教育分野の人々の他にジャーナリストも新たに加えられたとのこと。メイが驚いたことに、ネットでメイのワクチン接種の日のスケジュールを伝えてきたのですって。それで、すでに4月21日に第一回の接種を行ったとあります。日本より機動的。レバノンは人口が少ないとしても、日本はまだ高齢者の摂取は1%未満。医療従事者も終わっていない。再びの緊急事態延長が知事から求められて、菅政権の頼りないこと!
今日届いた中に「泉水国賠つうしん」終刊号があります。丁度去年から一年を過ぎて、ずっと泉水さんを支えて下さった方々が編集して下さったものです。心から感謝しています。私やJRA関係者は心で支えるしか出来ませんでした。日本赤軍との関係が「争点」となり公判を不利にして来たからです。「泉水さんと同じくダッカで超法規的措置で出獄した人は何人かいる。その中で日本へ送還された人たちで、日本赤軍との関係云々として判決で断罪された人はいない。ひとり泉水博さんのみである」とAさんは「後記」で記し、彼を奪還対象者としたことの是非はどうなのだろうかと考えさせられた、とあります。私たちは熟慮する余裕も当時なかったし、国内からの力強い推薦もあったかもしれません。今から思うと長期的な見通しを持てないままに「共に」と、どの対象者にも応じてもらったことに対して、厳しい条件を(結果的に)強いてしまったと、反省すること多々あります。ただ、確実に言えることは泉水さんが革命の道を喜びを持って共に歩み、みんなと一つになって国際主義的な仕事も担い、夫人とも心から愛し合い、有意義で素晴らしい人生(と本人の弁)に間違いはないと思います。共に活動できたことを喜びとしつつ、当時の私たちの限界もまたとらえ返しています。憎むべきは検察のひどい差別の仕打ちです。

5月11日 今日は、4月の報奨金を告げられました。一時間20.9円。77時間で1、609円です。当初の一時間7.3円からは増えましたが、受刑者が社会復帰資金にするには程遠い。世界では受刑者の出所後の生活も考え、韓国やシリアまで労働者平均賃金並みか、8割と言われているのに……。

5月12日 今日の新聞で、ラーム・エマニュエル前シカゴ市長で、オバマ大統領初当選時大統領主席補佐官だった人物がバイデン政権の駐目大使らしいとの記事。ラーム・エマニュエルは、シュテルンだったか、ハガナだったか忘れましたが、イスラエルテロ機関で活躍した父をもつイスラエル人シオニストでもあります。大統領首席補佐官に指名された時イスラエルに居た父親は、「息子は、イスラエルのために働いてくれる」と大喜び。でも1年で辞してシカゴ市長へ。日本で、イスラエル・米・日の戦略同盟のためいろいろやりそうです。注視する必要ありです。
(中略)

5月28日 “監視にも独房にも慣れ二十余年来年の今日自由を浴びる”
思わず今朝、点呼起床前のペッドから隙間に覗く青い空をみていたら零れた一首です。気概はあったけれど望みは薄いと思っていた満期までの命がつながりそうそうです。まだ一年ありますが“判決は終わりにあらず始まりと服わぬ意志ふつふつと湧く”と詠んだ第一審判決からも15年が経ったのですね・・・‥・。

5月30日 リッダ闘争の日。現地時間で夜10時半頃と報道されていたので、日本時間では31日の明け方になります。「訓練した我々三戦士が、計画どおり警備兵を撃ち、慌てた警傷兵が旅行客に向かって無差別に撃ち返した。その結果、戦場に巻き込まれた人々が、多数死傷した。しかし、今僕がそう証言しても、自己弁護にしかならない」。これは、85年に捕虜交換で解放された岡本さんの回想の一部ですが、72年の事件当時はこの無差別か否かの論戦が、アルハダフPFLP事務所を中心にありました。戦士らが自ら決死するまで、何も出来なかったイスラエル警備兵は何をしたのか?殺されたイスラエル兵以外のイスラエル兵らは日本人戦士をわからず、乱射したはずだと。欧米のジヤーナリストやシンパの人々ですが、調査を求めようと討論。勿論、イスラエルは調査拒否。そして、ガッサン・カナファーニが殺されて、その件もそれまでに。そんな当時を思い返します。勿論、戦術形態から非難されても日本では当然だったかと思います。戦士たちと対話しつつ、いつもこの日を過ごし、また、パレスチナの人々と宴を催して国際主義を記念していました。
今日は静かに作歌しつつ、5・30シンポジウム、昨日の丸岡さんの命日その他を考えています。
“戦死後に届きし文に誓いたり戦士らの理想孕みて進む"
“標的を違えず敵兵撃ったろう無差別乱射と歴史は言うが"
“草原を駆け抜ける風になり鳥になり夜空に向かってオリオンとなる"
(中略)

6月16日 視察委員会(第三者機関)の「もくせいの杜通信」4月号通巻2号が届きました。視察委が収容者の声を聴き当センターヘ提言する内容です。「一ケ月に一度購入できる菓子代が高すぎる」というのもあります。「起床前に読書可にしてほしい」という要請に、当センターの回答「医療上の制約等個別に判断する場合を除き、原則として禁止していない」とあり初耳。確認すると、そうなったとのこと!いつから?周りの誰も知らなかったし、「生活心得」にもない。でもありがたい。早速起床前読書しました。読むものは書籍のみ可で、資料新聞はダメとのこと。
今日工場から戻って診察。大腸内視鏡のポリープの病理検査絡栗を教えて下さいました。1~5までの管状腺腫のうち、3とのこと。5が癌、1が正常。5ミリでしたが大きくなれば癌。でも切除出来てOKです。ワクチンもまだ不明とのことでした。
昨日、新しく教育指導担当官(若い女性)から、出所まで一年を切ったので「改善教育指導」を週一回行うと言われました。被害者への反省など、被害者団体の方との対話もあるそうです。どんな教育指導か、これから興味を持って関わっていきたいです。今後の為にも。

6月21日 (中略)今日から当センターも夏暦本格化で、今秋から9月まで週3回の入浴です。
Kさんからの久しぶりのお便りで、とても貴重な資料を送って下さいました。一つはKさんのお兄さんが豊橋空襲のことを調べていて、杉田有窓子という人の本に出ていた漢詩をコピーして送って下さったことです。この人は、1907年生まれ、1985年に亡くなられている昭和期の新聞人だとのこと。私の父が1903年生まれで、それに祖父は漢学者で、父も漢詩をやる人でしたから、未知の方ですが漢詩にする心がなんとなくわかります。
ふたつの漢詩(「赤軍ヘルメットヲ凝視シテ感アリ」と「重信房子ノ放映二感アリ」)を頂いて読んでいます。放映とは、山口淑子さんとのインタビューのこと、との補記がありました。知らない人と出合い直したようで嬉しいです。山口さんや父を思い出しています。(中略)
 パルシスデムのカタログや「UR住宅ガイド」UR賃貸住宅カタログ。都内2DK、8万~16万位……。うーんです。入居資格も定収入や家賃の100倍の貯えのある人。すみにくい世界を学習中です。都営住宅カタログも前に送ってもらいました。いろいろのものを読みつつ、生活するイメージを取り戻そうとしています。
(中略)

6月29日 工場でワクチン接種について「希望します」に○印をつけて書類提出。でも『接種券』は自分で準備する必要があるとのこと。また、役所に問い合わせねばと……。

6月30日 堂山道生さんの訃報が届きました。
6月27日に逝去されたそうです。肝癌だったとのこと。赤軍旅時代、右も左も判らない私を、書記局長として7・6前いろいろ教えて頂きました。書記局員は藤本敏夫さんと私です。
6月に知り合い、10月にはもう逮捕され、その後70年6月~12月保釈後の活動に尽力し、精根尽きて闘いから去って行った堂山さん。当時自分たちの「武装闘争路線」の無理が行き詰まったのに、その路線を問えず、「個人の弱さ」で活動を続けられなくなった……最高責任者なのに、きちんと会議もせず、一人で抜けるのは無責任だと思ってしまいました。堂山さんの後を森恒夫さんが担いました。武闘路線が赤軍旅の前提だったので、この路線を下すことが出来なかったし、またそういう考え方は「日和見」として発想できなかったのです。様々の良心を持った「革命家」の多くが、今も有効に活動しえていたら……と思ったりします。当時の仲間を思い出しつつ、堂山さんの逝去を哀悼します。
(中略)

7月7日 今日初めて出所に向けた「教育プログラム」というのを受けました。教育のタイトルを尋ねたところ「被害者の視点を取り入れた教育」というもので、12回にわたって毎週一時間行われるそうです。次回から9回は外部の講師による教育です。今日は2人の女性教育官から、前回から何か考えたことは?自らの事件に対する考え、被害者の対象は?被害者という概念から何が頭に浮かぶか?図式的に次々と示すマインドマップなどを記したりしました。私はこれまでも拘留理由開示法廷、公判で述べてきたことを中心に、自らの考えを表明しました。
(中略)

7月11日 短歌学習。歌誌「月光」のバックナンバーを学ぶ。好きな歌人も多いし、良い歌はとっても刺激になります。(中略)
福島師の歌の多面的な詠み方も学んでいます。お題の「橋」を考えると、やはり山崎クンの殺された弁天橋が真先に浮かびます。あの事件で、運動のあり方も変わり、自分の参加姿勢も変わったので。10・8です。でもうまく詠めない。
“夢の形象(かたち)数多(あまた)我らの声聞こゆ弁天橋に君を悼めば“
“落暉浴び血潮に染まりし弁天橋悼みの白花(びやっか)赤く燃え立つ“
“弁天橋悼み置かれし白百合に無数の我らの夢の像(かたち)見ゆ”
納得できるまで詠めない・・・。語彙が不足している感じです。

7月14日 今日は午後一時間、教育プログラムの受講がありました。外部の講師は新聞で存じ上げている人でした。息子を事故で亡くされ、被害者に何の情報も与えられず、被害者の人権に父として立ち上がった人です。私が名前を気に留めていたのは、この人が他の人と違って死刑廃止の立場で発言していたからです。話しているうちに、大谷弁護士や太田さんのペル--の子供基金(永山則夫)で、大谷弁護士とも知り合いであったことがわかり、気持ち的にも姿勢にも信頼できる人だな、と思いつつ、今日は私が話すことが多く、次回からもっと話を学びたいと思っています。

7月15日 今日は久しぶりの青空。まだオリーブの樹154号は届かず、待っているところです。
2時半から早めに工場を出てコーラスの講堂ヘ。マスクとフェイスシールドの発声練習も慣れました。「七夕」「川の流れのように」「古里」「花は咲く」。今日、ピアニストは「乙女の祈り」を奏でて下さいました。
もう高橋和己は読み終えました。「革命運動、変革運動には、その担い手である人間とその人格というのが非常に重大な要素」と述べています。そうだ、こんな風だった……と当時を回想しながら。
知りたかった「うっせいわ」の歌詞も届きました。

7月16日 東京は梅雨明けです。工場作業中、新しい処遇統括より面接で現状と今後の希望や見通しなど聞かれました。また、今日出した手紙が検閲でひっかかってしまいました。「教育プログラム」の講師の名前削除しました。
Tさんの暑中見舞も受け取っています。受け取った資料を見て驚きというより怒りも。一ケ月前までモサドの長官を務めていたヨシ・コーヘンが「ソフトバンク・ビジョンファンド2」の現地事務所長に任命されたそうです。投資ファンドの所長になったが、金融・投資の分野での経験は多くないが、ソフトバンク側はコーヘンのイスラエル企業や科学技術専門家とのコネをいかして、シオニスト政権との協力に新しい道を開拓することを期待していると、ロシアのスプートニク通信が伝えているようです。
岡本公三さんを捕虜交換で解放させたPFLP・GCのアハマド・ジブリル議長の死亡が7月7日発表されたという。83才だったそうです。パレスチナ人を父に、シリア人を母にもつジブリルは後継者の長男ジハードを2002年ベカー高原地域でモサドの手のものに殺されています。常に民族主義原則に立つ強固な意志のリーダーでした。ご冥福を祈ります。

7月19日 夏らしくなって真夏日が猛暑日になっているようです。でも昭島の居房はいつも寒い。冬の少し寒い房がずっと続いている感じです。工場の方は快適なのですが、房に戻るとズボン下をはき、カーディガンが必要です。起床時も。気温上昇でベランダ運動もないので、八王子時代のように夏が実感出来ない。あの頃はクラクラする灼熱下、麦わら帷子かぶってトラック3周位してたのに今はもうそんな体力もないし。
「情況」誌はとても面白かった。若者たち、高校生、大学生の別々の座談会が載っていた中で、アクティブなこうした人たちが何を考えて行動しているのかわかります。田中駿介さんが一番全共闘センスに近い発言をしています。また、「北園高校現代史」のドキュメンタリー作成過程の制作日記がとても面白い。

7月21日 今日は工場刑務作業3時までの間の13時半から14時半、教育プログラム受講がありました。前回、講師が私の考え方を理解するのに、私のどの著書を読んだら良いか?と聴かれて「日本赤軍私史」と由井さんの「情況新書」をあげました。「私史」は分かりずらいし、生い立ちを補うものとして由井さんの本をあげたのです。今日は講師がしっかりその本を持参し、読んで、レジュメまで準備していて、圧倒されました。本「私史」は長いので、まだ全部読み終えていないが、読んで感じたのは、まじめに思索していること、本当は平和主義者ではないかと思う、と言って下さって、少し驚きましたが、とても暖かい真摯な姿勢で読んでおられます。そして「私史」の本の後に「支える会」の裁判報告があるのですが、それを胱んで「状況証拠しかない。状況証拠だけで有罪にするのに私は反対です。これはひどい。20年は長すぎる。旅券法だけが罪ではないですか」とおっしやった。レジュメでは山口淑子さんや寂聴さんのインタビューやMBSのTV番組など、私の知らないものもあり、寂聴さんの話や、ネットで「オリーブの樹」「オリオンの会」も見つけ、「オリーブの樹」は151号を読んだそうです。
報道されている私と違う私を公正に見て、報道の一方的なことを感じている、と語るなど、獄に入って弁護士以外で初めて人権を尊重し、弁護士と同じような視点で語る人と対話出来、学べてありがたいことです。アラブでのアラブ人や政府の反応、パレスチナのこと、聞かれるままに語りつつ一時間はあっという間です。反省の機会ですが講習を楽しく有意義にとらえています。真面目で常に謙虚で、対等に受刑者と対話する良い人に巡り合えたと思っています。

7月28日 今日の教育プログラム講習では、検察の批判で講師と私は一致して盛り上がりました。被害者に対する検察の対応のあり方、苦い経験を話して下さり、「99.9%の起訴有罪率は、民主主義国家ではありえない」というので、私も自身の経験一検察のシナリオにあわせて被告の無罪証明となる資料隠匿や取り調べの「生きて獄から出すな、と上から言われている」etc.-から「海外から見ると99.9%は全体主義国家です」と話しました。メイの著書も読んでくださって、私に対しても、世の中を良くしたいと、率先してやるべきことをやってきたと思うし、とくに悪いところは見当たらない、と感想を述べつつ励ましてくれています。もちろん「被害者」の立場の講師の受刑者の私への授業なのです。でも講師は、自身被害者として、これはおかしいと怒りから行動を起こし、学習を通して団体を形成し、社会の不正を正そうと被害者の立場から司法の分野でずっと活動してきました。常に一つの情報でなく、いくつもの情報を分析し対策を立てること、また、行政や立法に係わってきた具体的な前進を学びました。私たちは司法や政府に言ってもムダと一挙的に変革を目指してきましたが、一つ一つ体制の中で矛盾の改善を求め、立法まで動かし作り上げていくやり方を学びます。現時代の闘い方の一つで、それが有効な分野の活動を知る思いです。死刑制度反対を含めて。
(中略)

7月30日 去年、刑務作業開始してから1年が経ちました。チームワークで楽しみつつ、有意義に民芸品(ダルマ)作りをしています。「人生でこんなにいい時は無かった」と言う年配の人もいて、びっくりしましたが、お互いを思いやり、ダルマをより良いものにと皆張り切っています。「報奨金」は、去年のはじまりは、1時間7.3円でしたが、今年7月は、20.9円で、7月までで、累計12,299円になりました!「ちりも積もれば」ですか?しかし、これでは受刑者が社会復帰する手元金には程遠いです。「犯罪者」が罪を償っても「敗者復活」の乏しい日本社会で生きていかなくてはなりません。出所後の人びとにとって再犯率を下げ、社会復帰の一助としても、労働者の平均賃金の50%くらいの労賃は支払われる必要があります。特に若い人たちが将来の希望を描くことができるように。刑務労働に対する国連の調査でも日本は飛びぬけて劣悪です。敗者復活社会を!と願いつつ。

8月15日 敗戦目。ヒロシマ・ナガサキに続くこの八月、コロナ・大雨・台風・洪水と「人新世」紀を終わらせようと地球が大奮闘しているような八月です。お盆でもあり写真を飾り、送られた「月光68号」を読みはじめています。初めのページ、福島先生の月光庵目録の中に「重信房子父」とあり、こんな一首みつけました。
“世界のために生きよ信義をつらぬけよ!昭和維新を夢みし父は“
「12人の女たちへの人物ルポ、島崎今日子『だからここに居る自分を生きる女たち』を読む。圧巻は元日本赤軍リーダー重信房子。懲役20年の刑期を医療刑務所の独房で戦う彼女の支えは父の存在であったのか」とあります。このお盆、対話している父が心の中に居ます。矢澤重徳さんの香港の雨傘運動の友を詠んだ歌の中にも“捨てられた傘にも似たる胸の中十指ひらいて確かめている“の次にこんな一首。“黄の花粉ワイシャツ染めて「菜の花の果てなき視界」重信房子よ”と。前号の私の一首を受けて下かったものでしょう。励まされ学習しつつ「月光」を読んでいます。私の分は凡作ばかり載っていて、ちょっと自分でがっかりなのですが…。(後略)

(終)

【お知らせ その1】
9784792795856

『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
ティエフネットワーク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。


【お知らせ その2】
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
2020年11月13日刊行 社会評論社
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本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp

【お知らせ その3】
ブログは概ね隔週で更新しています。
次回は11月19(金)に更新予定ですが、1週間延期になる場合があります。

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