野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2021年12月

全国学園闘争の記録シリーズ。今回は駒澤大学である。
「続・全共闘白書」Webサイトの「学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録」コーナーに寄稿された陳内洋介氏の記事と写真(写真提供:岡村透純氏)を掲載する。駒澤大学(東京・世田谷区)は大学のホームページによると、1882年開校の仏教系の大学である。

【駒澤大学で勝利したバリケードストライキ(陳内洋介)】
(本稿は戦いに参加した学生の個人体験をもとにした報告である)

駒澤大学では1966年、自然発生的に民主化闘争が起こった。蜂起した学生たちが結成した初期段階の「全学学生協議会」はゆるやかな連合組織であり、「言論・出版・集会・結社の自由」「学生自治会創設」等の要求を掲げて戦っていた。
既存の学生組織「学友会」は大学当局との密接な関係のもとに、事実上、サークルの予算配分機関にすぎず、大学の矛盾と向き合う姿勢はなかった。
同年12月8日、戦う学生たちは学友会が主催する学生大会で議事運営や方針について執行部を追及。議長選出方法。学友会人事の実相を白日の下にさらすことによって、学友会は非民主的な組織であることが明らかとなった。
学生大会をボイコットして学友会と完全に決別した学生たちは、独自に運動を展開することになる。学友会は大学改革運動に敵対する組織となった。
学生大会翌日(12月9日)から連日、約2,000から4,000名規模の学生集会を開催。決議した要求書を大学当局に提出した。当局が団交を拒否した12日午後には、抗議書を突き付けて約2,000名の学生が約2時間にわたる座り込みを決行した。
やがて当局が望みを託した冬季体暇に入った。

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翌年の1967年1月、大学当局は学則違反の集会開催等を理由に「退学1名、無期停学3名」の処分を決定した。一般学生として全学協の集会に何度か参加したことがある法学部二年生の富柴健(ふしばけん。仮名)が登校した授業初日の月曜日。乾いた冬の西空にはいくつか綿のようなちぎれ雲が亀のようにたなびく午前であった。
正門を入ると中央広場がある。その一角に設置された大学掲示板の前は、十数人の人だかりでざわついていた。
「集会を開いて退学処分かよ」
「ひどいじゃないか」
「学問の自由の下にある大学で、こんなのナンセンスだよ」
「処分理由こそ人権侵害。本末転倒じゃないか」
掲示された一枚の告示文には処分を下された4名の名前が列記されていた。
学生たちのあいだには大学当局への不審感が広がっていく。
告示文を見た富柴の心にも怒りがボヤのようにふつふつと沸いてくる。一限は約二百人の学生が授業を受ける大教室であった。ドァ側の前から二番目の席に座った富柴は隣の学生に聞いてみた。処分の告示を「まだ見ていない」というその学生に処分内容を話すと、驚いた彼はエサを求めるハトのように口を開け黙したまま瞳日している。
富柴は意を決した。学生の意思を行動で示すために、たとえ一コマの授業でもストライキに決起しようと思ったのだ。
授業開始時刻から数分遅れて哲学の教授が教科書を片手に入室した。すかさず立ち上がった富柴は教授に歩み寄る。
「先生、申しわけありませんが、学生たちに伝えたいことがありますので少しだけ時間をいただけませんか?」
「かまいませんよ。どうぞ」
大学当局は、こんなとき学生にマイクを渡さないようにと教授会に伝達していたが、哲学教授は富柴の願いを受け入れた。
一言礼を言って富柴はマイクをとり、学生たちに「4名に対する処分は不当である」と簡潔に訴えた。
「したがってぼくたちの抗議の意思を大学当局に突きつけるために本日、この時間、授業放棄を行いたいと思います。多くの賛同者を求めます」
富柴は、このストライキに賛成の学生は挙手してください、と言ってマイクを持った右手を高く掲げた。
大教室は静まり返った。真剣に富柴を見つめる目、能面のような薄い微笑、何か不思議なものに注がれるような視線、ポカンとした表情などさまざまな顔があった。チラッと左右に首をふる様子見の光景もあちこちに見られる。
奇妙な雰囲気を切り裂くように、中央の左側に座っていた学生の右手が一本だけ真っすぐに上がった。しかしそれに続く者は皆無である。しかたなく富柴はマイクを教授に戻して言った。
「先生、唐突なお願いでしたが貴重な時間をいただき、ありがとうございました」
「過半数の賛成は、得られませんでしたね」
老いた教授の表情は地蔵のように穏やかである。皮肉な巡り合わせではあったが、富柴にとってひとつだけ幸いなのは、もっとも好きな科目の哲学の授業を受けられたことだった。
授業が終わって教室を出ると、たった一人、賛同して挙手した学生が声をかけてきた。高丸和彦(仮名)と名乗った学生は、富柴を慰めるように言った。
「ストライキなんて、いきなりじゃ無理だよ。時間をかけてクラス討論を重ねながら意思一致を克ち取っていかないと実現しないだろう」
高丸の説明を実感した富柴は、短慮で軽挙な行為を自嘲するしかなかった。戦略・戦術論を心得た高丸の説く筋道には説得力がある。
「クラス討論といっても、さっきのような大教室では難しい。語学等の小人数のクラスでないと実りある討論は期待できない。それも、最初は個人個人に話しかけて理解を得ることだ。退学処分は不当と思っても、即ストライキに賛成するとは限らないからな。ストライキのクラス決議は、クラス討論の前に、ある程度の基礎的なストライキ賛成票を獲得しておく必要があるんだ」
哲学教室の授業放棄は不発に終わったものの、不当な処分に対する疑間と怒りは大学内にくすぶりつづけ、やがてキャンパスは熱気をはらんでいく。その後、燃え上がる学園闘争を主導するグループの中に高丸和彦がいた。

さらに約1年2カ月後の1968年2月5日、「建学の理念を中傷・学則違反のビラ配布」を理由に学園民主化闘争を支える中心メンバーの「学生11名が退学処分」された。
前年の処分は運動参加者および一般学生に対する桐喝であったが、11名の退学処分は、ビラ配布に加わっていない学生2名が含まれていたことからも推定できるように、高揚する学園闘争への頂上攻撃であることは明らかである。こうした事態の推移は、着実に進展する運動を邪視する当局の苛立ちと咆哮を写す鏡のようでもあった。
退学処分が告示された2月以来、蜂起した学生たちは、退学処分が正当であるというなら「その根拠を全学生に釈明すべきだ」として大学当局に大衆団交を再三申し入れたが、当局は拒否した。
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新たに「全学共闘会議」結成を準備していた学生たちは、新学期の授業開始とともに連日のようにクラス討論・集会・学内デモを組織した。
ある日の「座り込み闘争」が注目を集めた。
いつも僧侶の袈裟をまとって通学する青い目の学生が座り込みのスクラムを組んで胡座をかいていたのだ。彼は仏教学部の大学院に入学して仏教を研究するアメリカ人の留学生である。キャンパスを歩く背の高い彼は日頃から目立つ存在であり学部を越えて学生によく知られていた。彼と何度か話したことのある高丸によると、学生の要求は理解できるので、自分にできる範囲のことはするつもりだと語っていたという。
当初富柴が予想した以上に「11名の不当処分自紙撤回、自治会創設」等の大学改革運動は各学部へと急速に拡大した。
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4月25日、本館前の中央広場で男子学生2名・女子学生1名がハンガーストライキに突入。
翌26日、約三千名の大規模な抗議集会が開かれ、その場で「全学共闘会議」が結成された。
さらに27日、全共闘はバリケードストライキを決議。主に文学部と法学部が使用していた一・二・八号館を、机と椅子を組み上げてバリケード封鎖した。
2日後の29日、大学当局は土建業者等を引き入れて八号館のバリケードを取り壊したが、全共闘はただちにバリケードを再構築した。
バリケードは目的ではない。学生の自主活動を保障するためにある。建物の封鎖は学問研究を疎外するものではない。大学の制度下における授業は阻上したが、全共闘は自主講座実行委員会を設置して学生独自の授業をバリケード内で実施。学外から著名な学者など講師を招くことも何度かあり、自主講座は盛況に継続された。
バリケード闘争に入ってから、全共闘と学友会派の学生とのあいだで衝突が起こりかねない緊張をはらんでいたが、キャンパスの風景はほとんど以前と変わらなかった。一般学生の中にはアルバイトに精を出す者や遊びに行ってしまう学生もいたが、多くの学生が登校していた。また経済学部と短期大学部では通常授業が行われていたのである。
ある日の昼休み富柴が正門を通ると、学生食堂や各校舎前には学生がたむろし、植え込みの陰ではギターをつま弾く複数の学生の周りにも人だかりがあった。
広場の中央に置かれた全共闘の立て看板の前に、日程を丁度書き終わって立ち上がり、右手に筆を持ったまま確認している中肉中背の全共闘派一年生男子学生がいた。彼のもとにがっしりした体躯の体育会系学生が近寄って何やら因縁をつけ始めた。
「危ない」と富柴は思った。
心配そうに一般学生は遠まきに見つめている。付近に全共闘の中央委員はだれもいない。富柴は走って一年生の前に立ち、体育会系学生に背を向けたまま言った。
「もうすぐ八号館の部会室で会議が始まるから、君はすぐ行きなさい」
「はい」と同時に脱兎のごとく駆けて行く一年生を見ながら富柴は背中の気配を感じ取ろうとした。
その直後である。
「てめえ、このやろう」強烈な蹴りだった。富柴は左足太ももの後ろに焼きゴテを押し付けられたような激痛が走り、うずくまった。左手で足を押さえ、頭を守ろうとした右手のひらは地面についたまま。立ち上がれずにいると、体育会系学生は捨てぜりふを吐いて去っていった。
しばらくして一年生が書き入れた立て看板を確認したあと富柴は、あの一年生、これに懲りず戦線を離脱しなければいいがと思った。

その後、大学当局は運動の自然消滅をねらって「休講戦術」にでた。
全共闘は広く登校を呼びかけ、多くの学生が自主学習をつづけた。
一方、通常授業が行われていた経済学部では、全共闘の学生がクラス討論を重ねていた。そして5月8日、約千名の学生総会でバリケードストライキを決議。ただちに三号館を封鎖した。
二重権力構造の過程で、何度か交渉が行われていた全共闘と大学当局とのあいだで七項目確認事項が取り交わされた。
学生の強固な団結体を前に大学当局はついに6月4日、「退学処分の自紙撤回」「自治会建設」等、全共闘の要求を受け入れたのだ。
40日にわたるストライキ闘争に勝利した全共闘は翌6月5日、バリケードを解いて教室の原状を回復した。
同年の秋には、各学部で行われていた学生選挙によって学生自治会が設立される。
学友会は体育部・文化部連絡会の統括機関に移行した。
その後も自治会費の取り扱いなど諸問題をめぐって学生自治会と当局の対立はつづく。1969年6月、学生自治会はバリケード闘争で対抗したが、9月2日、当局は機動隊を導入。大学をロックアウトして戦ぅ学生を締め出すため「通行証」を発行した。ロックアウトに反対して通行証を拒否した全共闘は検間所を突破して学内集会を開くなど粘り強い闘争を継続した。
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1960年代後半、ベトナム戦争は一段と激化していた。
日本政府は米軍支援を通してベトナム戦争に深くコミットしていた。日本の米軍基地から毎日のように米軍機が出撃する。「戦争放棄」の憲法九条は完全に空洞化し、日本国の「非核三原則」をあざ笑うかのように(移動する核基地)原子力空母エンタープライズ号の佐世保寄港(1968年1月)を日本政府は認めるにいたった。
ベトナム反戦闘争はアメリカ、ヨーロッパなど世界に広がり各国の若者の戦いは先鋭化していった。
日本でも一部の高校を含む全国学園闘争・反戦闘争さらに労働者の戦いも燎原の火の如く全国に拡大していく。
全共闘はクラス討論や学習会・学内集会等で民主化闘争の学内枠を越えてベトナム反戦・反ファッショ・反産学協同路線闘争を共に戦うことを学生大衆に呼びかけていた。
全学連の街頭デモに参加する学生も増加していった。
富柴はある日の夜、全学連のベトナム反戦デモに参加してアパートの狭い部屋に戻った後、着替えを持って銭湯に行った。シャツを脱ぐとき背中がヒリヒリと痛む。大鏡に写してみると、みみず腫れが三筋、赤く浮いている。デモの隊列になだれ込んで来た機動隊員に警棒でしたたかに打たれた跡だ。しかし、機動隊員も同じ人間、個人的な恨みを感ずることはなかった。
「今日も、あいつは出動していたのかな」
交友は途絶えたままだが、少年時代から目的意識を強く抱いて刑事を志し警察官になった高校クラスメイトの、細い唇を結んで微笑する懐かしい表情が思いだされる。
帰り道、大通りに出て閉店準備中の薬局に飛び込み塗り薬を買う。帰宅後、背中の中心部にはどうしても指先が届かない。30センチの物差しの端に薬を塗りなぞってみるが、10センチ角の手鏡しかなく、うまく塗れたか分からなかった。
体をいたわり布団に横たわるが敷布団に背中をつけることができない。横向きのまま眠れぬ夜が更けてゆく。
「自分の人生は、どうなってしまうのだろうか」
一カ月も経たないうちに、また大規模な戦いがやってくる。身の竦む恐怖のなかで、目を閉じれば安穏に暮らすさまざまな想像風景がささやくように流れてくる。
同時に、この国に生まれ、この国の歴史を生きる個人として、まとわりつく現実の矛盾に素知らぬ顔をすることはできないと思う。こうしているときも、ベトナムでは降り注ぐ爆弾の大地に泣き叫ぶ子どもたちの声がこだましているだろう。
寝返りをうつたびに背中の傷がうずく。彼の脳裏には、数カ月まえに読んで以来、胸に刻印されたある本の一節、しびれるほどの苛酷な信念の詩が一条の光の如く浮かんできた。アメリカの黒人解放闘争を戦った戦士が書いた書物である。
「愛が不平をかこち、理性がいらだとうとも、ひとつの声が聞こえてくる。真理のために死なねばならぬとき、身の安全を図るのは、人間の破滅だ」
人間をやめるわけにはいかないと思った。右肘で体を支えながら南の窓側にゆっくり寝返ると、真っ白な朝霧にけむるふるさとの山河が思い出される。
ときどき食料を送ってくれる母と父は、元気にしているだろうか。
このままでは、両親が期待するような息子の人生は無理であろう。これ以上、親の援助に頼るのは申しわけない。
彼は背中をいたわるように起き上がると机に向かって便せんを開ぐ。両親の落胆と失意を思うと忍び難きことなれど、彼は決意の手紙を書き始めた。
これまで育ててくれた感謝とともに、その恩に報いることはできそうにないこと、世界史的個人として、なぜ戦わなければならないか。
「したがってこれからの生活はアルバイトでなんとかするので、以後の仕送りは停止してください」としたためた。
手紙の封筒に宛名を書きながら蘇るのは日に焼けた母の心配顔だった。
富柴は「ごめん」と念じた。
夏期休暇や正月に帰省した彼が一週間くらいで大学に戻るとき、「もう、東京へ行くんだね」と母はいつもつぶやいた。「うん」と言って玄関を出て行くと、見送りに追いかけてきて「あまりアルバイトに時間をとられないでね」と言いながら母は、彼のポケットにそっとお金をしのばせる。父の了解によるものか、母のへそくりであったかはわからない。子どものように高ぶる気分で電車に乗ってから取り出すと、いつも四つ折りに畳まれた一万円だった。曙光の門出に立つように心の底から有り難いと思った。その感謝の気持ちを彼は一度も、言葉で母に伝えたことが無かったことを思い出したのだ。
(後に帰省したとき、父はこの手紙について、親子の縁を切るつもりかもしれないと誤解したことが分かった。そのために親からの結びの絆として「今後も仕送りを受け取りなさい」と息子に返信したのだった)

正月の15日。全共闘は新宿西口前の地上広場でベトナム反戦の署名・カンパ活動を行った。一般市民の関心は高く、「これ、何に遣うんですか?」と聞いてくる。
「原子力空母エンタープライズ号の寄港阻止闘争の為に、九州の佐世保まで行く交通費です」
ある壮年の男性は黙って一万円札をカンパ袋に入れて歩きだした。
「署名もお願いできますか」と駆け寄ると、「それは遠慮します」とていねいに一礼し立ち去って行った。男性の大卒初任給(当時、女性のデータは記録されなかった)の平均額が三万六百円(厚生労働省)の時代、カンパ袋をチェックするとき何度か少なくない一万円札の数に驚かされたものだ。
腕を組んで歩いていた男女の二人連れがいったん立ち止まってから富柴に近寄って来る。「カンパもいいけどよ、ブタ箱にいる学生らは大変そうだったぜ」
こう言いながら大きな財布を左手に持った三十代とおぼしきやくざ風の男性は、千円札を二、三枚抜き出してカンパ袋に入れてくれた。
「ありがとうございます。あなたも逮捕されていたんですか?」
「そうだ、きょう出てきたばかりだよ」
「そうだったんですか」驚いてあいづちをうつ富柴に、もう一度男性の左腕を軽く両手でつかんだ連れの若い女性が、微笑して真っ赤な唇をそっと開いた。
「学生さんと違って、うちの人はケンカですけどね」
「ありがとうございます。署名もお願いできますか」
男性は背を向けたまま右手首を振って寄り添う二人は新宿駅構内に消えた。
この日、通行人のなかに振り袖姿の若い女性が目立っていた。思えば今日は成人式だ。自分も同じだったと気がついた。彼女たちは同級生なのだと気を良くした彼は親しみを込めて積極的に声掛けをする。
「成人おめでとうございます。ベトナム反戦の署名活動にご協力ください」
しかし、振り袖姿の女性たちの中にはただ一人として協力者はいなかった。署名活動が終わったあと、つい愚痴をこぼした富柴に高丸は笑った。
「成果はあったんだ。そんなことでしょげるなよ」

全国から連帯して戦うため集結した多くの学生とスクラムを組む東大闘争は、全国学園闘争の天王山といわれた。それゆえ東大闘争は、権力の集中砲火を目前に控えて火花のような緊張感をはらんでいた。
その年も暮れようとするころ、各党派による思想の対立から学生同士の内ゲバも激しくなっていた。
それまで内ゲバには加わらなかった富柴だが、東大闘争支援と連帯のために東大構内に立てこもっていたある夜、一度だけ激しい衝突を目の当たりにして立ちすくんだことがある。
どう考えても割り切れなかった。呆然としたまま一人、立てこもっていた校舎の屋上に上がり空気がしぼんだように天を仰いで大の字に寝転んだ。
考えをめぐらせても整合の橋はかけられない。問いたふうな言葉は虚無感に奪われた。繰り返し吐き上げるため息だけが夜のしじまを震わせる。
しゃにむに求め続けた道標が闇に吸われて消えゆくのを憐れむように、小さな星たちが瞬いていた。
その夜、彼は決めた。
「もうぼくは、このまま進むことはできない」
階下に降りて高丸と向き合った。
「よく考えた結果、ぼくはここまでだ。今すぐ、この場から撤退する」
「分かった。状況を見て、我々も判断する。大学でまた逢おう」
「気をつけてな」
こうして富柴は第一線から身を引いた。
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【資料「駒澤大学全学共闘会議・1967]】(一部要約)
バリケード闘争勝利のために!
駒大のすべての学友諸君!あらゆる敵の権力の攻撃に屈せぬ団結を、われわれ自身の手で築きあげようではないか。
十一名の不当処分白紙撤回
学生自治会建設
言論・出版・集会・結社の自由
<はじめに>
一昨年、自然発生的に民主化闘争を開始し、一年五カ月経た現在、バリケードのなかで我々は戦っている。あらゆる学生の運動が国家権力と癒着した大学当局によって弾圧されつづけている中で、その攻撃に対決してきたのは、学生の普遍的な団結であった。現実に起こっているバリケード闘争が、いかなる内容を我々個人に突き付けているのか、再度問い直しておくべきであろう。
<1>「十一名の退学処分」「バリケード闘争」は何を意味しているのか
【質問1】「十一名の退学処分」をどうとらえるか?説明してください。
[回答]直接の処分理由は、二月一・二・三日の受験生へのビラ配布が「建学の理念を中傷、学則に違反」としています。処分は拙速にも二月五日に告示されました。授業は終了して一般学生不在の春季体暇中のことです。
現在、学生の諸活動は大学事務機構内の学生部で審議・決定されます。
今回の処分についても、学生部の調査資料が教授会に提出され、決定しています。被処分者の中に、ビラ配布に加わっていない学生が二名含まれていることから、処分対象者の選択には、これまで運動を継続的に調査してきた学生部の恣意性が充分窺えます。
処分の基本的な動機は、駒大における学生運動の高揚を抑圧・消滅させることにあったと思います。レッドパージの側面ばかりでなく、全学生の自治活動に対する弾圧です。したがって我々は、処分の不当性を追及するのみでなく、学生の自治活動を抑圧し弾圧する諸規定の不当性を追及していかなければならないのです。
大学当局による学生自治活動破壊の方向性は、現在の文部省・私学当局の基本的な課題としての、産業秩序再編・細分化に対応する教育の専門化・細分化と平行しておこなわれている事実を見なければなりません。「期待される人間像」「愛国心」の強調は、人間を国家権力のもとに従属させていくものです。
ここに他大学学生の戦いとも連帯する意味があります。
国家権力と産業資本が要請する主体性の喪失した学生、資本のもとで黙々と働く労働者に加工するために、学生の自治活動は害であり不要なのです。われわれを、自治能力の無い主体性喪失の学生として大学体制内におしとどめようとするものとして「十一名の退学処分」があるかぎり、自分自身の問題として捉え直し、すべての学生にかけられた攻撃として「不当処分白紙撤回」を戦わねばならないのです。

【質問2】『バリケード闘争」は何を意味するのですか?もう少し当局と話し合いをするなり、バリケード以外の手段はないのですか?
[回答]バリケード闘争に入る前、我々は法学部・社会学会・国文学会の連署により、不当な処分に抗議するため大学当局に対し「処分の釈明要求」を掲げて再三、大衆団交を申し入れました。にも拘わらず一方的に「非合法」として拒否してきました。
駒大において異議申し立てをする場合、学生部の許可制のまえに悉く却下されます。いわゆる合法手段はすべて奪われているのです。大学当局の意に添わぬ要求に関して合法手段は不可能という大学それ自体が不法です。
そこで我々は、より多くの学友の団結をもって要求するため各学部で形成された行動委員会・文連闘争委員会と連帯し「全学共闘会議」を結成しました。
我々は人間存在をかけて、自己を抹殺してくる大学権力に反逆し対決する必要があるのです。それが、学生が日常利用してきた机や椅子でバリケードを組むことでした。
バリケードを組むことが我々の目的ではなく、まさしく我々の連帯と団結をもって自己を権力から解放すること、人間として学生として、奪われてきたものを取り戻すために存在しているのです。自由な討論会や研究会、言論表現のための立て看板やビラの製作は、このバリケードのなかで行われています。こうした自由な自治活動はバリケードがなくても必要なのです。
バリケードの意味は、我々を抑圧するあらゆる権力に対して、もっとも鋭い意志をもった反逆です。我々の連帯と団結によって支えてゆかねばならないのです。同時に我々の戦いを、権力の暴力的破壊から守るためにもあるのです。

(終)

【お知らせ その1】
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『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
ティエフネットワーク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。

http://zenkyoutou.com/yajiuma.html

【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。


【お知らせ その2】
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
2020年11月13日刊行 社会評論社
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本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp

【お知らせ その3】
ブログは概ね隔週で更新しています。
次回は3週間後の2022年1月14(金)に更新予定です。

このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)や、差し入れされた本への感想(書評)を掲載している。
今回は、差入れされた本の中から「武建一が語る・大資本はなぜ私たちを恐れるのか」の感想(書評)を掲載する。
(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

【『武建一が語る・大資本はなぜ私たちを恐れるのか』(旬報社刊)】
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『武建一が語る・大資本はなぜ私たちを恐れるのか』(旬報社刊)を読みました。
あまりにも理不尽。私のいた・60年代では考えられない権力のやり方に驚かされると同時に、その理由を教えてくれるのが、この本です。本の帯に「641日間にも及ぶ長期勾留!89人にも及ぶ逮捕者!なぜいま戦後最大規模の刑事弾圧が労働組合に加えられるのか!?」とあるように「関西生コン支部」に対する、戦前、またはGHQ占領時代のような弾圧の復活に憤りと共にこの本を読みました。
著者の武建一さんは1943年鹿児島・徳之島生まれで、19才で大阪に出て、生コン運転手として劣悪な労働環境のもとでも模範的労働者として働きます。しかし会社のあまりの理不尽(組合で労働者のために一心に活動し労働環境の改善を求めていた先輩が解雇ざれたこと)にたちあがり、1965年生コン支部を結成して23才で初代委員長に就任します。以来あたりまえの組合運動すら会社側の雇うヤクザに妨害され、あやうく殺される破目にあう拉致も受けます。(その時のことは「徳之島出身の者は殺させない」というヤクザの中に徳之島出身の人間がいて生命がつながったのを後になって知ったと記しています。)
 この本では、関西生コン支部にかけられた弾圧が、いかに不当で憲法違反であるかわかりやすく、読者の目線に答えるように記されています。日経連の会長であり、セメント協会会長であった大槻文平が、96年日経連の機関紙で、「関西生コンの運動は資本主義の根幹にかかわる運動をしている」と述べたようですが、そこに支配階級が恐怖し関生支部を憤そうと繰り返す刑事弾圧の本音、本質が示されています。
 著者は「恐喝」・「強要」・「威力業務妨害」などの刑事弾圧に対し次のように述べています。これは労働組合運動に対する弾圧だ。容疑を問われたことのすべては、憲法28条で保障されている労働組合の団結権・団体交渉権・団体行 動権を行使したに過ぎない。いづれも労働組合の活動として正当なことばかりで、逮捕は完全なでっちあげだ。マスメディアは、凶悪犯のように報道しているが、決してそんなことはない」と訴えています。普通の組合活動で89人も各地で逮捕されているのは、憲法で保障されでいる組合活動を原則的に行う団体が減り、関生支部を狙い撃ちしてこうした形の組合運動をなくそうとする新自由主義の政策としてあることを忘れることは出来ません。
 日本では戦後の「産業別労働組合」が「企業内組合」にとってかえられ、大企業は「企業内組合」を育て、経営側の許容の範囲内に運動の矮小化を図ってきました。関生支部は個別の労働組合から出発しその発展として建設、生コン業界全体の働く人々の利益を守るために、「企業内組合」ではなく「産業別労組」という枠組みで、会社を越え社会と結びついて闘ってきたことは良く知られています。そして更に建設大手とセメン卜大手の狭間で、両方からいいように収奪される生コン業界のバラバラな中小企業経営者らを組階し、彼らとも組んで、大手企業にむけた闘いの戦略構図として「大阪広域の協同組合」を更に創出していきました。それを一つにまとめていったのも著者たち関生支部です。もちろん中小企業の悪徳な経営者も居ましたが、それらをねばり強く一つに結びつけていったのです。この構図「生コン支部方式」が他の産業にも全国化すれば、独占企業は勝手な振る舞い、下請け中小企業への無理な価格や納期の押し付けなどが危うくなることを知っています。
 そうした資本と権力がー体に「産業別組合」として地域社会とも結びつく労働組合運動のモデルである関生支部と、その方針を共有する各地の組合幹部たちへの「犯罪者イヒ」を決断し、潰しにかかってきたのが2000年代以降です。
 著者たちが、阪神淡路大震災の建物の倒壊を直視し、建物の水増しコンクリートの施工不良に対して、コンクリート建設を正そうとしたり、適正価格を求める「コンプライアンス活動」が「恐喝」や「犯罪」とされてきたのです。こうした悪徳企業は、著者らが奔走してつくりあげた中小企業の「大阪広域協同組合」未加入のぬけがけ企業ですが、大資本からのコンプライアンス活動への圧力が当然かかります。大資本からの圧力に労働組合と協同組合で、共にはね返した時代から、大資本のいいなりに従う「広域協同組合」内の勢力も登場し、協同組合指導部も変質していきます。労働組合と大資本の闘いの反映として、中小企業の個別利害を主張する勢力が大資本と組んで関生支部潰しにかかり、権力と共同した動きを活発化していく。この本に書かれている歴史を読むとその利潤追求のあくどさがよくわかります。それまでは、関生支部に助けられた「広域協同組合」の新しい理事長は、かつて悪徳企業がヤクザを雇って組合潰しをやったように、レイシストと手を組み巨費を投じて関生潰しのプロパガンダを全面化していきます。権力と共謀した勢力のこうした動きが今回の弾圧へと至っています。
 本の終わりに安田浩一さんが「解題 私自身が自由に生きていくために」を寄せていますが、そこでレイシストであり、ナチ・ヒトラー信奉の人物がグループを動員して関生支部グループに対しヘイト行動を起こしていることを記しています。
 この人物は広域協同組合理事長ら指導部に金で雇われてヘイト活動を行っています。それを「業務委託契約料」だと開き直り正当化し、関生支部グループに対するデマをSNS、街頭でヘイト行動を繰り返している実態も詳しく安田さんが記しています。この「合法性」と開き直るレイシスト集団は中国・朝鮮にたいするヘイト行動とひとつにつながっています。
 関生支部は闘いの壮烈さにおいて、又、労働組合、協同組合協議会、地域社会の再生の展望において優れた革命性を内包しているが故に、現在の公安警察国家の強制統制の最前線を強いられているのがよくわかります。今、この著者らの労働運動を日本で業種・地域を越えて守り抜かないと、未来の日本の労働運動は独占・大資本経営陣の言いなりのものしか残れなくなる……と、強い危機感をもって読みました。これは著者らの問題のみならず、自分たち自身の表現・言論の自由、基本的人権を守る闘いとつながっています。
 「第一章刑事弾圧」で現状を学び、第二章で生立ちから「タコ部屋」の過酷労働を知り、第三章では70年代の万博・オイルショックやヤクザ大資本との闘い、第四章大同団結の時代が記されていて輝く歴史も厳しい現在も、わかり易く記されています。私も「関生に連帯する」と云いつつ、詳しく知りえなかったことがまとめられていて基本骨格がよくわかりました。多くの人が読めば今の日本の進んでいく先が見え、こうしてはいられないと思うでしょう。 
 2021.4.21記  

【旬報社サイトより転載】
641日間にも及ぶ長期勾留! 89人にも及ぶ逮捕者!
なぜ、いま戦後最大規模の刑事弾圧が労働組合に加えられているのか!? 
マスコミが報道できない、労働者を犯罪者にしたてあげる権力の横暴を明らかする!

〈著者より〉
2018年8月28日の朝6時過ぎ、いつものように大阪市内の組合事務所に出勤した私は、いきなり警察に逮捕されました。ゼネコンを恐喝した容疑だというのです。
私だけではありません。私が委員長を務める労働組合、関生支部の組合員や関係者も、恐喝、強要、威力業務妨害といった容疑でつぎからつぎへと逮捕され、その数は1年あまりのうちに延べ89人にものぼりました。そして、私は、2020年5月に保釈されるまで、じつに641日も勾留されることになったのです。
ストライキ、ビラ配り、建設現場の法令違反の調査、労働争議……。私たちがやってきたのは、日本国憲法第28条で保障されている、ごくあたりまえの労働組合活動ばかりです。
それなのに、なぜ私たちは逮捕されることになったのか。
しかし、こうした事実を正確に報道するメディアも少なく、自ら調べもせずに警察情報を垂れ流すフェイクニュースが溢れています。
この本を通じて、私たち関生支部の活動のほんとうの姿、そして、「関西生コン事件」とよばれる現在の事態の真相を、ひとりでも多くの方々に知っていただければ幸いです。
(目次)
第1章 刑事弾圧
641日にも及んだ勾留生活
なぜ私は逮捕されたのか
協同組合の変質
労組破壊に加担したレイシスト
第2章 「タコ部屋」の過酷労働
私の生い立ち
「練り屋」と呼ばれて
労働運動に目覚める
関生支部の誕生
初めての解雇
第3章 闘いの軌跡
万博不況とオイルショック
ヤクザと生コン
大資本が恐れる産業別労働運動
第4章 大同団結
安値乱売で「がけっぷち」
大阪広域協組の誕生
シャブコン
2005年の弾圧事件
ゼネスト決行
目指すべき場所
〈解題〉私自身が自由に生きていくために  安田浩一

旬報社2020/11/30 刊
定価1,650円(税込)

【お知らせ その1】
9784792795856

『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
ティエフネットワーク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。


【お知らせ その2】
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
2020年11月13日刊行 社会評論社
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本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp

【お知らせ その3】
ブログは概ね隔週で更新しています。
次回は3週間後の12月24(金)に更新予定です。

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