野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2022年04月

重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センター(昭島市)での近況などが載っている。私のブログの読者でこの冊子を購読している人は少ないと思われるので、この冊子に掲載された重信さんの近況をブログで紹介することにした。
当時の立場や主張の違いを越えて、「あの時代」を共に過ごした同じ明大生として、いまだ獄中にある者を支えていくということである。

今回は「オリーブの樹」157号に掲載された重信さんの獄中「日誌」の要約版である。(この記事の転載については重信さんの了承を得てあります。)
表紙2


【独居より 2021年12月1日~2022年3月1日】
12月1日 朝起きると雨。寒そう!午前中は刑務昼食を12時半に終えて、居房に戻り待機。CT検査なので時間をあける必要があります。
14時半すぎ、主治医が造影剤投入用の静脈への注射針を入れて待機。3時から検査棟へ。まずエコー検査。その後、胸.腹部のレントゲン。そしてCTによる腹部検査撮影。そのあと心電図の検査を行いました。結果は次回の診察時に伝えられます。

12月3日 松岡さんよりお便り「『抵抗と絶望の狭間』へ重信さんの原稿掲載について高原さんや遠山家の方々と齟齬を生じさせてしまい申し訳ございません」と私にお詫びがありました。松岡さんや鹿砦社よりも、私自身が遠山家の諒解を得ず「遠山美枝子さんへの手紙」の寄稿文章を公表したことが問題を作りました。その点すでに遠山家にはお詫びしましたが、私こそお詫びしなければなりません。「抵抗と絶望の狭間」は、これから全体をじっくり読むつもりです。
ざっと中島さんの文を読んだところですが、一方的な推測に驚きました。私がアラブで大変な日々の活動の中にあって、日本の記憶が生々しく残っているとは思えないと。そうとも言えません。日本の記憶は、出国の時点までしか積み上げられていないので逆に鮮明に当時が残ります。アラブの日常と別のカテゴリーだからです。また、私が「密帰国」して2年余りの自由な期間に「記憶回復作業で語った記憶の混人があります。重信さんの回復作業に協力した仲間たちの中に意識して誤った事象を刷り込ませた人がいると思います」とありますが「邪推」ですよ、と言いたいです。「自由な時間」私は、「7・6事件」などに拘泥する思考も思想状態もなく、はっきり言って、過去のそんなことに貴重な時間を使うこともありませんでした。確かに「7・6事件」によって、私は自分のこれまでの教師への道を置いて赤軍派の道に進みましたが、くわしいいきさつを当時も知らなかったし、知るよりも目の前のこと—杯でした。「密帰国」時赤軍派の関係者と話したり会うことなど考えにも及ばない仕事に集中していたからです。私にとっては、連赤以前に、赤軍派とは別個に進んできたので、赤軍派について考えることはなかったのです。赤軍派とか、7・6事件、連合赤軍事件については、逮捕以降の公判闘争と関わって、また、面会に来て下さる友人と(塩見さん、味岡さん、青砥さんら)話す中で、総括的にとらえつつ来ました。でも「7・6事件」について具体的に語ったのは佐藤秋雄さんだけです。彼は、昔からのお茶ノ水周辺の大学の仲間、反戦青年委員会の世話人として知っています。彼からのお便りで、秋雄さんも7・6事件の被害者と知ったのです。もちろん秋雄さんは、私が「7・6事件」の現場に居なかったことをもっとも良く知る人です。それで秋雄さんに、「7・6事」件や当時のことを書き残してほしいと頼みました。もちろん当時の赤軍派の一員として過去のことでしたが謝罪もしました。それ以外の人と「7・6事件」に関して交流はありません。

12月9日 今日はインフルエンザの予防注射をしました。
H記者から手紙で、あさま山荘50周年に関してのお便り。当時自宅近くがあさま山荘だという方から、革命の時代とはどのような時代だったのか教えてほしいとのことですが、テーマが大きすぎて語りきれないし、返事を書く発信枠がありませんので、こちらから手紙を送れません。「オリーブの樹」を読んでいただくか……。

12月15日 12月の題詠、師ですが
“新しい表札掲げ師走から 仕切り直しの人生始まる”
これは昔1974年12月「アラブ赤軍」というそれまでのPFL P指揮下のグループから独立し「日本赤軍」の名で、自分たちの責任と対外関係のもとに活動しはじめた12月を思いうかべて一首。
“ベッレヘムパレスチナの光クリスマス 師も学生も集いて灯す”

12月2 0日 快晴の冬が続きます。ベランダに出ると肌を刺すような寒さです。今日は、年末年始の日程が伝えられました。28日迄作業・仕事納めです。31日は、TVが、夜12時15分 (元旦)まで可。休み中の正月3が日TV可の時間帯は10:00〜11:30、13:00〜15:00、18:30〜20:54 です。1月4日が入浴と仕事始め。新年がぐんと近づいてくる感じです。12月発行にむけて、「オリーブの樹」の校正や文を13日に送ったので、12月中に発行されると思います。
またI先生の「東京オリ・パラ2021とイスラム世界」の論文も丁度届いて、まず読んだところです。東京大会でこれまでどの大会でも拒まれていた1972年のミュンヘンオリンピックのイスラエル選手団の追悼・黙祷を行った背景や歴史的流れなど、分析的に論じていて、健在な先生の鋭い指摘に学びます。あの時イスラエル選手は11人死亡。他地元警察、パレスチナ戦士ら6人の死亡。東京大会では17人ではなく、イスラエルの選手のみの追悼だったとのこと。
読みながら、シオニスト、エマニュエルが上院の承認を得て、在日米大使に決まったニュースを思い出しています。日本の外交、とくに米国に弱い政界を操って、米国の圧力で、イスラエル支援、軍事機器、情報、経済同盟がより進みそうで要警戒です。エマニュエルの父親は、シオニストテロ機関で民族浄化をやってきた人。今の流れのままだと、I先生の言うように、イスラエルはユダヤ人種国家に純化(パレスチナ人をあれこれの理由で追放)をめざす右派が増々はびこりそう。それでもイスラエル内のパレスチナ人と占領下、近隣国の難民含むパレスチナ人の共通の闘いが、それに比例して益々育つでしょう。

12月2 2日 今日はいつになくバタバタ。工場作業を2時ころ切りあげて休憩のあと、2時半から3時半コーラス。「聖夜」を歌とハンドベルで楽しみ、「ジングルベル」「花は咲く」を歌いました。チャイコフスキーの「トロイカ」という名曲をピアニストが弾いて下ざって、クリスマスバージョンのコーラスは終了。
居房棟に戻り作業終了の点呼後、診察。この間CT、エコー、レントゲン、血液鶴などの結果を主治医が説明して下さって、4時15分ころ房に戻る。
今日は週一回のベッドメイクの日で、日用品、購入品も今日配布で房内はシーツや日用品が大量にベッドとターンテーブルに。そこに夕食が運ばれて、作業着から居室着(パジャマの作務衣)だけとりかえて夕食。それからベッドメイクや整理や、まだあった……官本配給7冊(2週間に5冊だが、年末年始で3週間分7冊)共、文庫本を狙ったのに(ロッカーにスペースがないため)外れで、全部ハードカバーの分厚い本が7冊。新聞も読めないで整理していたら、もうNHK7時のニュースが半分終わっています。
手紙も仕上げねばと。そこに届いていた資料や本、人民新聞も受け取りました。パレスチナ関連資料も届きました。PFLP12月の創建記念に「PFLPの発足から54年、PFLPの創設から現在までの知的および政治的発展」の論文もあります。これは時間をみて読みたいです。
資料の中から、レバノンのデイリースター(レバノン最古の英字新聞)が廃刊されたのを知りました。私たちがベイルートでとっていた新聞。内戦前のベイルートに到着した71年には、ちゃんと日本の新聞のように早朝自宅に届く配達システムでした。デイリースター紙は、18年のレバノンのべイルート港爆発に抗議し、ニュースを載せず紙面を黒くぬりつぶして「レバノンよ、手遅れになるまえにたちあがれ!」とレバノン杉(レバノンの象徴)の写真を掲げるのみでした。1952年からアラブ世界初だったらしい英字のデイリースターまで廃刊されるとは……。レバノン再建のむずかしさがわかります。

12月2 8日 仕事納め。朝、今年最後の手紙を発信しました。工場器材をチェックし、破れた布を廃棄したり、手袋や普段使わないものを洗ったりと昨日の大掃除の続きを終業前 2時40分から3時まで。今日午前中は今年最後のベランダへ。寒い。霜も凍って北側のベランダは陽が射さず、今日の最低気温のマイナス2度位。手や耳がじんと痛みつつ、それでも30分の外気は気持ちが良い。(中略)
レバノン大使のオンライン報告のよると、繁華街ハムラ通りは真っ暗。ガザの通電8時間、レバノンはその半分。内戦当時の方がましだとのこと。デモも宗派コミュニティにデモも吸収されて今はなく。それでも中東唯一のフリーダム発言を誇るジャーナリストは健在のベイルート。中産階級はすっぽり出国してしまったらしい……。米欧に呼応できる金権国家が栄えている今の中東。必ず破局がくるでしょう。人々の力が戦略をもって闘えるかどうか……。まだまだ中東世界は厳しい状態が続きそうです。

22年1月元旦 2022年新年の挨拶を申し上げます。あれほど先の長かった満期出所の日がもう今年の5月28日に迫っています。友人たちの励ましや支援によって、今日まで生きてこれたとしみじみ感じています。友人・弁護士・家族にまずお礼申し上げます。(中略)
私は何よりも学ぶこと。社会復帰に向けていくつも助言や要請をすでに受けて学習中です。これまでの社会参加の欠如を学び補い、リハビリを第一にと考えています。能力、体力、時間的に何も出来ることはありません。でもあるがままの自分で好奇心と共に一歩一歩学び、感謝し、謝罪し友人たち未知の人々とも出会いたいと思っています。
これからもみんなの助言・教示を大切に、まず出所を目指します。今日はみんなから午前、今夜8時とたくさんの賀状を頂き、励まし再会のお便りの言葉に、なにか温かく嬉しい元旦を過ごしています。快晴で明けた昭島の新年です。(中略)

1月13日 「本多延嘉3・14虐殺死を越えて四五年」を読みました。難しい本とちょっと警戎しつつ読み始めて、連休中のベッド安静時間に興味深くすぐ読み終えてしまいました。 45年も経て指導者として本多さんを当時の時と同じように接する人々の情愛にまず感心しました。それ程の人物として本多さんの多面的に語られるエピソードなどに、すごい人だったのだろうと実感しつつ読みました。とくに浅田光輝さんが本多さんの破防法裁判の第一回公判意見表明に「私はこの本多書記長の堂々の論に心から打たれた」と述べておられる通り「革命的共産主義は法律を自己の行動基準とはしない。(中略)だがそれは革命的共産主義者が法律を無視するということなのではない……」の引用は、とても格調があります。人々が敬する人柄はリーダーにはやっぱり大事だと、赤軍派時代をふりかえりつつ……。また私の在アラブ時代の日本での事件、1974年4月17日の「革マル派の弁護団襲撃という一大愚行」という浅田さんの文を読んで、はじめてその呆れた襲撃を知りました。ああ、こうしたことが「連赤」以降も続き、市民社会と革命を敵対させてきたのか……と目の当たりにその詳細を読みました。井上光治弁護団長らが重症を負わされた中で、どう破防法裁判を持続させたのか、と。その一年後、本多さん虐殺……。本多さんが「内ゲバ」を越える論理を駆使していたら、と思わずにはいられません。「戦略的総反攻論」しかなかったのか?と。この本にはいろいろの人が記していますが(場違いな感じの私の一文も)中でも水谷さんの文はこの45年をふり返り、組織論の欠落など、自らのあり方、本多さんも含めて自己批判的検証を試みている点で好感が持てました。(中略)

1月16日 送られたパレスチナ関連資料を読みつつ、益々パレスチナ民族浄化を深めるイスラエル政府とユダヤ人入植者たちの暴挙を知ります 。2021年の間にイスラエル軍は950のパレスチナ人住宅や施設を取り壊し、東エルサレムを含む占領下の西岸地区に15の入植開拓地を建設した(土地調査センターが12/29に発表)。950を取り壊して24,750ドウヌム(1ドウヌムは1000 ㎡相当)の土地を没収したという。入植者らは17,740本の木を切り倒し傷っけ、55の入植地は拡張を行なった。イスラエル当局は2021年100以上の入植地計画を発表しており、入植者向けサービスや軍のために約25の新たな植民用バイパス道路や支線道路を設けた。きらに「ピースナウ」によると、東エルサレムを含む西岸地区の145の大規模入植地と他に政府の認可を受けていない140の整備不十分な開拓地を含めると666, 000人の入植者が占領地に移住しているという。エルサレムの自治体は更なる入植地をつくり、エルサレムのユダヤ化を進めている。アラブ的アイデンティティを塗りかえ、エルサレムと西岸地区の連絡を妨害する入植地ベルトをエルサレム市周囲に設立するために、新規入植地を2022年から着手することを承認。丁度届いたオリーブの会通信に「フェイスブックのオリーブの会のページに対するブロック、削除の脅しに抗議する」と声明が載っています。ハマスの軍事演習ニュース記事の翻訳に対してです。フェイスブックは明確にイスラエルの立場からとらえており、トランプ政権で中東の地図からパレスチナを消して以来、不当なフェイスブック、グーグルなどの動きが強まっているようです。

1月24日 (中略)
「連合赤軍革命のおわり革命のはじまり」(月曜社発行)が、送られてきました。「文春」「解放1234号」「かりはゆく 」「アジア新時代と日本」それに「情況」 2022年冬号が届きました。特集「連合赤軍半世紀後の総括」です。私の文も「時代の証言一森指導部との訣別」として載っています。これは「赤軍派時代とわたし」の原稿から、70年12月〜71年2月の部分を編集部が抄録したものです。「連合赤軍特集」に使うとのことで諒解しました。まだ全部うけとって読みきれませんが、「赤軍派高校生の証言一7・6明大和泉校舎事件」、大谷行雄さんの一文に、読んでひとこと記さねば、と思いました。
大谷さんは、7・ 6事件で医科歯科大515教室でいっしょにやられた当時の高校生であり、大下さんの逝去の追悼の文などで、交流の機会がありました。今回この一文で、当時のことを知りました。とでも素直な一文です。
7・6の日、K君やMさんのリーダーシップのもと、「高安闘委」の委員長だった大谷さんが数十人を集めたようです。Mさんは当時女性のリーダーで、のちに親しくなりましたが、7・6和泉でのことを悔いていました。とても積極的に関わったようでした。
大谷さんの一文が私に刺さりました。「ただここで声を大きくして断固抗議したいことがあります。当時その場にいた堂山道生が『自分たちリーダーが悪いんだが、今日明け方の決起集会で塩見が反対派の腕の1本や2本を折って云々と景気付けをやった。それを真に受けた高校生がメチャメチャ手を出した。わしらも手を出さんと恰好つかんと手を出した』(野次馬雑記ブログ掲載重信房子「独居より」2017年7月6日)と公言していることです。そしてそれがいつの間にか通説となり、流布されていることが納得できません。」と記し、くわしく当時の現場の様子も記しています。
塩見さんが論争糾弾自己批判を迫るも、仏さんは断固拒否していたそうです。高校生部隊が外で待たされ、花園さんか田宮さんから「どうしても我々の要求を呑めんらしい。お前らもやれ」というので部屋に入ると、すでに仏さんの顔は膨れ上がっていたとのことです。命令に、女子高生などが半ベソ震えながら殴っているのを見かねて、「『足くらい折ってやれ』とう激というか命令口調で仏の足を別の椅子に置いたので、仕方なく小生が体重をかけて折ってしまったのです。もちろんあんなことは生まれて初めてですし、それが仏の逮捕につながったと思うと、その後の罪悪感はいつまでも消えませんでした」と記して、堂山発言は正しくなく、指導部が命令したこと、この体質がのちの連赤での仲間の死に至らしめたかもしれないと、今は思っていると述べています。
私は読んで、当時もこれまでも堂山さんの発言を真に受けていました。あらためて目を開かされて、ふりかえればそういえば、あの和泉校舎で何がどう始まり起こったのか?リーダーたちからその後具体的に聞いた記憶はありません。大変な時で、多忙でまた大雑把な人たちだからと、特に私もくわしくは聞きませんでした。「実践的検証」は一度も行われたことはありませんでした。そんな余裕はなかったのです。大谷さんが言うのが事実だろうと改めて思います。

2月4日 立春です。TVでは大雪情報を告げています。また夜には北京の冬季オリンピック開会式が始まるとのこと。受けとった救援紙一部抹消の上交付されました。抹消されていたのは和光さんの年頭コメントのところでした。何がひっかかったのでしよう。
今日「色紙2枚と毛筆ペンは使用禁止のため送り返そうとしたが、費用がかかるためとりやめたが、領置されるが宅下げにするように」と担当官から通知を受けました。後に受けとった手紙で事情が分かりました。若く静岡での空港建設反対など活動した後、商社で働きベトナムやカンボジアを訪問し、のちにカンボジア人妻と起業して貿易商社を営んでいる人が「弊社へのエールの短歌を別送する色紙に直筆でいただけないでしょうか。弊社から謝礼をお振込みさせていただきます」とあります。ちょっと唐突な依頼ですが、略歴も送られていて、自分の思うように生きている人で、アジア・パレスチナも射程にした貿易を目指している人だとわかりました。でも、第一に色紙などは禁止で交付されませんし、第二に私は短歌を知らない会社への応援歌として詠むことは出来ません。長い手紙を頂いたのですが、協力は出来ないとお知らせしたいところです。時々知らない方からお便りを頂きますが、こうした短歌の依頼は初めてです。でもこの方の略歴はとても自由的な生き方をしておられます。若い人が「跳ぶ」大切さを広げてほしいと思いつつ読みました。

2月10日 立春が過ぎると、春が心の中に広がります。何だかせかされる2月です。都心は雪。こちらはみぞれ、そして少し雪そして雨です。
「オリーブの会通信」のPFLPのHPからの記事に「同志であり、創設時のリーダーであるアブ・マへルの旅立ちの記念日」という彼の業績と略歴の載っているのを読みました。なつかしい同志。
1924年生まれ、反シオニズム闘争の最前線でずっと闘い、「ガリラヤ旅団」を結成し、1948年ガリラヤ市陥落後もパレスチナを去ることを拒み、イスラエル当局によってレバノンに強制追放(1949年1月31日)。以降は、レバノンを中心に難民キャンプの教師、校長など民衆運動で他の組織含め、もっとも尊敬された人。レバノンでも55回も逮捕されつつ、アラブ民族主義運動(ANM)創設をハバシュ、ハダードらと担い、2011年1月4日永眠。その間PLO執行委員など、あらゆる場で献身的だった人。
いつも私たちを様々に助けてくれた。ある日ベイルートアメリカン大学に講演に来て、メイをみつけて挨拶を交わして、「え?!何でアブ・マへル知ってるの!」と、特にパレスチナ人学友に聴かれて、身元を隠しているメイが困ったと言ってたことが思い出されます。数少ない、メイを知る一人で、何かあったら彼に相談するようにと、メイに言ったことのあるマへルおじさんでした。なつかしく読みました。

2月14日 今日は、CVポートの器具を鎖骨下から抜去する手術。刑務作業は本日休みです。10時前に上半身手術着に着替え手術の病棟へ、車椅子で移動。その後、スムーズに局所麻酔から抜去。30分位で終了。居室に戻り安静。痛み止めと感染予防の薬を服用し、昼、夕食も、平常のように食べることも出来て、問題ありません。唯、こうして書いていると、右鎖骨下の傷口に響いて痛いですが。(中略)

2月21日「ヤフーニュース」の産経新聞2/11記事読みました。譽視庁HPなどで国際手配中の「日本赤軍メンバー」の動画、現在の年齢を想定した似顔絵などがアップされているようです。予算対策か。(中略)

2月2 2日 夜のニュースでプーチンがドネツク、ルガンスク両人民共和国の独立を承認する大統領令に署名したとのこと。平和維持の名でロシアは駐留中の軍を正当化し、米欧は厳しく経済制裁を続けるでしょう。イスラエルの占領に合法性を与えている米政権の正義をかざす御都合主義ばかりが私には感じられるウクライナ問題です。

2月2 5日 新聞の一面には、「ロシア.ウクライナ侵攻」「主要都市、軍事施設を空爆」「米欧は非難・制裁強化へ」と戦争を伝えています。ロシアのプーチン大統領は、世界を敵にまわす覚悟で戦争を始めたので、かなり世界が変わるでしょう。プーチンは、シリア内戦に「ゲームチェンジャー」として介入し、アサド政権支援は思惑通り進みました。それは、シリアに対する西欧報道の偏向とちがってアサド政権はシリア国民の多数の支持があり、アサド政権のそれを基盤とする意志と力があったからです。でも今回の決断は、プーチン政権の崩壊の始まりでは?軍事的に勝っても長期的には崩壊へと向かうと考えられます。プーチンは核抑止力をもつロシアにNATOは介入できないと見ているようですが、逆に、ウクライナ人に闘わせるNATOの武器供与の軍事介入で局地戦は激しくならざるを得ません。プーチンは、米欧勢力、特に米政権の詐欺的な振るまいに「戦略的決断」として、戦争で政治目標を獲得するつもりでしょう。米、NATOのロシアへの歴史的配慮の欠如が問題をつくり出して来たのも事実です。
ゴルバチョフ時代に、ブッシュ父と、ドイツのコール首相は、NATOの東方拡大は行わない東西和解の意向を示してきました。ところが、クリントンが政権につくと、東欧、ソ連移民の支持票に応えようとNATOの東方拡大がはじまり、次々とその後も行いました。とくに民主党オバマ政権のヌーランド国務次官補らは、ロシア帝国時代からの移民の人脈が深く、彼女はネオコンの理論家、ロバート・ケーガンの妻でもあり、反ソから反プーチンへと、90年代から国務省中心にウクライナ政変を企て、政治工作をくり返してきました。ヌーランドらは、ロシアとウクライナの歴史的関係を利用して逆に対決させようとしてきました。そしてまた、「ロシアとの和解」を訴えて登場したユダヤ系のコメディアン出身のゼレンスキー大統領が招いた戦争とも言えます。戦咯的に戦争の「レッドライン」を貝据えて、「ミンスク合意」から主導的に東西に対する非同盟を宣言し、一気に経済復興を目指せたのに、ヌーランドらの支援で「ミンスク合意」を拒み、ずるずるとロシアとの対決へと進みました。プーチンの側から見れば約束反古の挑発です。権威主義者プーチンは、軍事的に制圧した上でウクライナを昔のように少なくとも中立化させたいのでしょうが、結局ヌーランドら歴史的反共・反ソのネオコンを含む勢力の挑発の沼にひきずり込まれたとみえます。メディア戦争も激化するでしょう。結局犠牲は、ウクライナとロシアの人々に及ぶことになります。即時の戦争停止は、なかなかむずかしいと思われます 。

2月2 8日 今日は、あさま山荘の闘いが終わった日です。昨日の朝日新聞に、当時の検事で、青砥さんの取り調べを担当し、今は弁護士の古畑恒雄さんの話が載っていました。その中で、検察庁・法務省は、法律ではなく「内部通達」による運用で、無期刑を密かに終身刑化していることを批判しています。ひとつは1998年の最高検次長検事名で出された「マル特無期通達」と呼ばれる検察官が「動機や結果が死刑事件に準ずる位悪質と判断したら『マル特事件』として、他の無期囚より長期に服役させる」というものです。もうひとつは、2009年の法務省保護局長通達で、「無期受刑者の仮釈放審査にあたって検察官と被害者等から面接調査すること」を定めたとのことで、仮釈放を限りなく不可能にする通達だと批判しています。検察の「正義」の独占の姿を改めて思いました。
今日は、日本を発って私がアラブに向かった日。もう51年です。当時のいきいきとした社会の雰囲気が甦ります。
”日本発ちて五十一年目の獄窓から 壊れつつある世界を見つめる”
と一首零れます。(中略)

2月28日 日本を発って51年目に、パレスチナと共に、学生時代の旧友をふりかえっています。

3月1日 ウクライナ情勢は27日、プーチンは核兵器による「特別態勢」をとるよう命令したとか。プーチンのウクライナに対する「非軍事化中立化要求」は、戦争によって正当性を損なってしまいました。今、NATOが戦争にふみきれば核が使用されるでしよう。ロシア軍は、NATO の総力戦には勝てないでしようし。暴力による支配と「解決」の道は「反テロ戦争」が導いたパラダイム。人民おきざりの国家間戦争の厳しい時代を迎えました。

【お知らせ その1】
七転八転百書記

『七転八倒百姓記一地域を創るタスキ渡し一』(現代書館)
(明大生田出身の山形県長井市の農民 菅野芳秀氏の著書です)
出版社からお話を頂いたのは7年ほど前の事です。なかなかペンをとれずに2年。
病気には縁がないと思っていた私が突然倒れて..3年ほど格闘し、周りに迷惑をかけまくりながら、7年越しで書き上げた本です。
でもそのことと本の中身、質とは関係ないですね。余分なことです。

r自分史」として書くならば、市井の一人でしかない私には始めからその資格はないし、出版する意味もない。
私が百姓の七転八倒記を書けるとしたならば、農民であるかどうかを問わず、同じような孤軍奮闘の日々を送っている友人たちに、何らかの連帯のメッセージを伴ったものでなければならず、また同時に私の体験が少しでもその方々のお役に立てること。これがあって始めでその資格ができ、出版する意味もあるだろうと思ってきた。
果たしてそのような一冊になれたかどうかは、今でもまだ心もとない。(本文あとがきより)

(現代書館サイトより転載)
山形のコメ農家の後継者として生まれたものの、「遅れた地域」から逃げたいと一途に思っていた著者。
三里塚や沖縄での体験を経て、20代後半で一人の百姓として地域で生きることを決意して帰郷した。
以来、良質な可能性に満ちた地域を守り、次世代に手渡すために、減反拒否、村ぐるみの減農薬運動、生ゴミと健康な作物が地域を循環するまちづくり等々、農民として様々な取り組みを行ってきた。
グローバリズムを背景に小さな農家が切り捨てられていく危機に直面しながら、地域自給圏の創出、都市と農村の豊かな連携に今も力を注ぐ。
20代から70代になった今日まで、地域を変えようとして奮闘してきた著者の七転八倒記。農に携わる人だけでなく、農の恩恵を受けて日々の食生活を営む人すべてに希望の道を指し示している。

【目次】
序章  みんなでなるべぇ柿の種
第1章 農家に生まれたことが辛かった10代のころ
第2章 激動の70年代  20代のころ
第3章 減反を拒否する
第4章 減農薬のコメ作りへ
第5章 置賜百姓交流
第6章 アジア農民交流センターの誕生
第7章 循環する地域農業を創る―レインボープラン序説
第8章 動き出したレインボープラン―地域の台所と地域の土を結ぶ
第9章 置賜自給圏をつくろう
第10章 原発と百姓、そしてコロナ…―結びにかえて
今、思うこと。そして「タスキ渡し」

【著者紹介】
菅野芳秀(カンノ・ヨシヒデ)
1949年、山形県生まれ。1975年から農業に従事。
自然卵養鶏(約1000羽)、3ヘクタールの水田、20アールの自家用野菜畑を手がけ、家族とともに菅野農園を切り盛りする。
循環型地域社会づくりの先進例として名高いレインボープラン(山形県長井市)を推進。
置賜百姓交流会世話人、アジア農民交流センター(AFEC)共同代表などを務める。
著書に『生ゴミはよみがえる』(講談社)、『玉子と土といのちと』(創森社)。

定価2,000円+税

【お知らせ その2】
9784792795856

『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
ティエフネットワーク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。


【お知らせ その3】
ブログは概ね隔週で更新しています。
次回は5月12(金)に更新予定です。
GW中はお休みです。

今回のブログは、「10・8山﨑博昭プロジェクト」のWebサイトに4月6日付で掲載された、水戸喜世子さんの論考「ロシア軍のウクライナ侵略――野蛮な暴力には人間の理性で立ち向かうしかない」である。プロジェクト事務局のご厚意により転載させていただいた。

【ロシア軍のウクライナ侵略――野蛮な暴力には人間の理性で立ち向かうしかない
ただちに停戦を! 戦車の前に座り込む覚悟で!】
水戸喜世子
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▲左側は東ティモールの青年たち。右側はアメリカの青年(ティモールの青年写す。2月27日)

●初めての抗議のスタンディング
 2月最後の日曜日、夕方から京都三条大橋でウクライナ武力侵攻に反対するスタンディングがありました。3日前に誰からということなく、決まったアクションだったそうで、私が知ったのも当日の昼ごろでした。
 米軍のベトナム北爆(1965年2月)直後に神戸アメリカ領事館前に連日座り込んだ記憶が蘇ったのです。世界の民衆の実力行動が戦争を終わらせる大きな原動力になったのは紛れもない事実です。大きな力になるのも最初は必ず一人から、はじまるのです。
 あまり本調子ではありませんでしたが、参加できて、かえって体も心もシャキッとしました。たった一人で参加したので、横のやっぱり一人だけで参加されていたアメリカの青年とお友達になり、そうこうしているうちに右隣の東ティモールの3人組とも「戦争だけはイケナイね」と話しかけて仲良しになりました。写真は彼らが撮ってくれたものです。
 プラカードは
『プーチンよ、トルストイが泣いている!』
 裏面には
『日本も武器を持つな』
と書いて、キャンドルの代わりに、谷本澄子さんが送ってくださった「ソネングラス」の灯りを持って立ちました。流石に寒気が応えて、老人割引で10分だけ早めに切り上げさせてもらいました。アメリカの青年は『お大事に』と心遣いしてくれました。
 ああ、体力が欲しい! (2月27日)
(コメント:24日のニュースを聞いたのは、昨年来のめまい症という体調不良の上に、収まったかと思うとすぐぶり返す膀胱炎の痛みにほとほと閉口し、一日の大半を横になって過ごしていた時期だった。)

●武器の代わりに花を!
 3月8日は国際婦人デー(大阪は5:30元町中公園)。
 武器の代わりに花を!
 ロシアによるウクライナへの戦闘行為が今日もまだ止まらない。もう10日も経とうとしているのに!
 その間のウクライナの市民を想うと胸が張り裂ける。
 国民学校3年生の頃の遠い記憶~~警戒警報、空襲警報に怯えながら家の防空壕で小さくなって震えていた。ここは危ないからと近くの商品取引所の地下に避難したところで、私の家に焼夷弾が落ちて、父と6年生の兄が消火作業をしていると聞かされた。絨毯爆撃だから消火活動など意味無いのに!と母が吐き捨てるように言った。生まれて1か月の妹をおんぶした母のあとを追いかけるように、5歳の弟の手を引いて、3月初めの寒さに震えながら逃げた思い出。火の粉が洋服や母の胴着に降りかかる焦げ臭かった記憶は86歳の今も体中の細胞が覚えていて消えない。その後も続いた避難生活の辛かった記憶も、ウクライナの逃げまどう子どもの映像と重なって、よみがえってしまうのだ。
 国家の安全保障という口実で始まった戦争が、結果として個人の安全保障をこんなにも脅かしている。すぐに止めなければならない
 ウクライナ国は国民に火炎瓶の作り方を教えて、男は留まって応戦しろと強要しているという。
 竹槍で落下傘兵を突けと、訓練をさせられた記憶が蘇る。
 わが家が焼夷弾で燃えているのに、父は子どもと逃げることを許されず、町を守れと強いられた記憶。
 戦車や兵士で人権の保護や国と国の間の紛争解決に繋がるわけがない。
 勝っても負けても傷つくのは民。武力で平和は作れないことは20世紀の筆舌に尽くせぬ悲惨な犠牲の上に人間がやっと辿り着いた最後の知恵ではなかったのか。
 私たちは命をかけてもこの到達点から後退してはならないのです。人類が存続するためには。
 核シェアリング?!!! 命を冒涜する戯言を無批判に流布する報道は糾弾されねばなりません。 (3月6日)
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▲福島でのマリア

●チェルノブイリ原発事故で傷ついた人々
 3月4日未明、ウクライナ南部の原発を爆撃、敷地内で火災発生の報道をお昼過ぎに知って心底驚いた。
 ウクライナに向けて核攻撃すれば、ロシアにも被害が及ぶのは必至、被曝は免れないから、それはありえないだろうと思っていた。しかし戦争に取り憑かれた指導者は往々にして理性を失い、正常な判断ができなくなる。これほど恐ろしいことはない。
 その恐ろしさを世界で一番知っているのがウクライナと福島の人々である。
 キエフ生まれ、胎内被ばくして出生した娘さん、マリアに出会ったのは4年前だった。2018年、関西テレビのディレクター宮田輝美さん制作のドキュメンタリー『マリアとフクシマ』の主人公。
 大人になって初めて、自分が甲状腺機能亢進症であることを知った。甲状腺を取り除いた後も将来への不安に苦しみ、悩み続け、将来への希望が持てない。甲状腺がんの切除手術の後も悩み続けて訴訟に踏み切った日本の6人の若者と重なる。
 マリアはフォトジャーナリスト・小原一真さんとのトークイベントを機に来日し、福島で初めて、自分の生い立ちについて人前で語りはじめた。
 「福島で友達になれる人はいませんか」とディレクターの宮田さんから問い合わせを受けたのがマリアを知るきっかけだった。
 感受性豊かな絵を描くマリアはやがて南相馬市を拠点に活動する絵本作家の小原風子さんや甲状腺癌を切除した大越良二さんらとも繋がるようになり、自分を少しずつ取り戻していく。
 いくつもの受賞をした素晴らしいドキュメンタリーだった。
 そのマリアのその後を知らない。キエフに戻っていれば、……。
 キエフには核被害で傷ついた無数のマリアがいるはずだ。チェルノブイリ原発事故後の子どもを守ろうと『ウクライナ法』を作って奔走した人々も。それは福島のお手本になり、努力不足の日本人を叱咤激励している。
 原発だけは、どんなにエネルギーが不足しても、廃炉にしなければならない。(その後問い合わせて、マリアの無事は確認できたが、再放送の予定はないとのこと。) (3月4日)

●連日スタンディングをしながら考えること
 私たち市民にできるウクライナの人々(国ではない)への一番の支援とは何だろう。
 核は言うまでもなく、一切の武器は持たず・作らず・持ち込ませず、を自国政府に100%守らせることではないだろうか。
 自衛隊法改正を企んでいる政府をしっかり監視すること。
 ウクライナの人々を守れ、と世界中から叫ぶこともとても大切だが、訴える相手は目の前にいるように思えてきた。
 防弾チョッキは生活支援なの?! 次は自衛のためと手榴弾が送られる予感がする。私たちの税金が戦争支援に使われないか監視しなければ、と思う。 (3月11日)
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▲高槻駅前(3月19日)

●戦争の悪の連鎖を断つために  
 3月13日、今日の高槻駅前のスタンディングはこれまでで最高の参加者でした。テーブルを出して寄せ書きコーナー、カンパコーナーも。地元の辻元清美さんも「原発が絶対ダメってことがよく分かりましたね」と語り、次々に「武器で平和は作れない」、「憲法九条を」、「核共有ではなく核禁止条約を」と発言が続きました。小さな子どもの参加もありました。
 大きな時代の転換点にあることを胸に刻んだスタンディングでした。
 これは私の夢想です。でも無い知恵を絞ってかなり本気で考えた末の結論です。
 武器を持たないでどうやってプーチンから自分の故郷を守るの? という人に。
1.日頃から国境を接するアジア諸国と友好関係の維持を大切にする政権、日本は軍隊を持たないことを日頃から近隣諸国によく知ってもらう努力を本気でする政権を選ぶ。
2.それでも今度のロシアのように武器で攻められたら、世界から丸腰の市民義勇兵を募り、戦車の前に、最前線に座り込む。できれば私のような老人がいい。
3.殺されるかもしれないが、いっときの殺戮であって、犬死にではない。報復の連鎖はない。孫や未来の故郷を守ることができる唯一の意味ある死。世界の世論は黙っていないはずだ。野蛮な暴力には、人間の理性と知恵でで立ち向かうほかない。   
 いっときの犠牲は出ても、とても意味ある犠牲ではないだろうか。それだけの覚悟がなければ、憲法9条を! とは言えないな、と思いいたりました。かつて国民学校の生徒の頃、「天皇のために死ぬ」のは当然だと教えられましたが、それは侵略者の片割れになること。戦争の悪の連鎖を断ち、世界から武器という凶器を追放し、まご子を守るためなら死ねるような気がしています。老人の戯言でしょうか。マイクをもって、戦争体験を語りました。 (3月13日)

●非戦の思想をどう現実の中で生かすか
 今日、3月19日の高槻駅スタンディング。憲法9条を柱に高槻の市民団体が作る実行委員会の主催によるもの。高槻駅南口、北口に別れなければならないほど、参加者は増加傾向にある。カンパをする若者の姿も目立った。
 毎回、1人か2人Facebookを見て来たよ、と言ってくださるFB友だちにも会えて嬉しい。昔の教え子が「カンパだけに来たの……」とこっそりと顔を見せてくれて嬉しかった。
 暮らしの場で意思表明することの大切さを感じる。
 アッピールの中身も「ウクライナに平和を」から一歩踏み込んだ発言が増えてきた。日本の政治家の「核シェア」発言への警告、ロシア国内での闘いへの連帯、自衛隊備品の防弾チョッキやヘルメットを送る政府の支援の仕方に抗議と監視を、原発持つことの危険性などなど。
 国家間の勝ち負けではなく、二つの国の民衆、それにつながる世界の民衆の安全と幸福を守る方法をわたしたち一人ひとりが考え、そのために力を尽くしたいと思う。今日も私の頭の中はグルグル堂々巡りするばかりだった。
 非戦の思想をどう現実の中で生かすか。
 アクションが終わって、気の置けないおんな友だちと喫茶店で語り合った。「オミクロンなんかなかったら、戦車の前、座り込めるのになあ」と友人が言う。「婆さんたちが座り込んだら、世界中から駆けつけてくれると思う」、「イヤイヤ誰も来なくてもいい、1人で腹を決めて実行するんや」、「誰も来んような地球なら、生きてる価値もあらへんわ」、「もう十分生きたからええねん」。
 小さな一つの命は、もしかして世界を動かすほどの力があるのかもしれない。体の中から元気になった気がした。 (3月19日)
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●「事実が世界に伝わることが変化や進展につながるはず」
 3月19日「報道特集」(JNN / TBSテレビ)、金平茂紀キャスターがロシアの同盟国、ベラルーシを取材した。ヤクザの親玉のような大統領ルカシェンコの取材は目を見張る内容だったが、そのあと、街に出て、通行人に取材した記録はとても貴重なもので、胸が詰まりながら慌てて、カメラに収めた。世界の人に伝えたいと逮捕覚悟で語ってくれている名もない普通の女性たち!
 せめて拡散のお手伝いになれば、と書き記します。
 モスクワでもベラルーシでも女は絶対に戦争反対(番組中で取材に応じたモスクワの女性たち、握手したくなりました)。なぜか一部の男は口をつむぐけど。
 貧しさ故に兵隊になった若者を紙屑を燃やすように殺し合わせる政治家。プーチンもゼレンスキーも、バイデンも。
 愛国心の出番。ドイツの緑の党までもがGDP2%を軍事費に充てるという! コロナウイルスで世界中が地獄の釜の淵を覗いているところだというのに。
 21世紀の武器は核だ、細菌だと恐怖を煽り、強い国の庇護が大事だと説く。でも世界の女たちは戦争は悪だと見抜いている。それをしみじみ実感できる番組でした(写真は弾圧の厳しいベラルーシの女性の街頭でのインタビューの一部です)。
 女性が最後の言葉「それが(事実が世界に伝わることが)変化や進展につながるはず」に託した思いに微力でもこたえたい。 (3月19日)
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▲ドキュメンタリー映画『医師 中村哲の仕事・働くということ』

●いま改めて、中村哲さんの言葉
 すみません。何をしていても、ウクライナで逃げ惑う子どもや老人、弱い人たちのことが頭から離れません。
 どんな場合でも錯綜した情報ではなく、歴史的事実から学ぶことが大事です。NATOがしてきたこと、プーチンがしてきたこと。
 その意味で,弱者の側からの示唆的なメッセージだと思いました(「ロシア軍のウクライナ軍事侵攻に関するチェチェン連絡会議声明」2022年3月23日)。なぜ緑の党までが武器を送ることに賛成したのか、少し理解できました。賛成できませんが。
 武器に頼らざるを得ないのは、世界の世論がまだまだ圧倒的に大きくないからなんですね。世界の国々で自国政府が血眼になって調停に知恵を絞るところまで、国民が追い詰めていない。やはり足元から、ですね。
 日本政府はプーチンを止めるために、今何をすべきか? ウクライナの人々を助けるために何ができるか、考え続けたい。立ち止まっている暇はないのですが。
 日本の政権担当者に 何としてもわからせたい。そんな政府を作りたい。
「武器など絶対に使用しないで、平和を具現化する。それが具体的な形で存在しているのが、日本という国の平和憲法、9条ですよ。それを、現地の人たちも分かってくれているんです。だから、政府側も反政府側も、タリバンだってわれわれには手を出さない。むしろ、守ってくれているんです。
9条があるから、海外ではこれまで絶対に銃を撃たなかった日本。それがほんとうの日本の強みなんですよ。」(中村哲)
 3月26日の夜、たまたま聞いた「今夜も生でさだまさしスペシャル」の番組でさだまさしがこんな歌を歌って、ウクライナの戦争について、語っていました
♪♪私は撃たないけれど 戦車の前に座るでしょう ポケットに花の種を一杯詰めて
私が撃たれてもその跡に私が続くでしょう
そしてその場所は きっと花が咲くでしょう 色とりどりに♪♪
 こう語っていました。「……小さな領土のための、こんな戦争は200年後にはなくなるだろう。……」
 原爆が落とされたら、一目散に逃げます。戦争は始まったら、もう止まりません。戦争を起こさない為に英知を出し尽くすことが私たちの平和運動です「武器で平和は作れない」という9条の中身を説得力あるものにしていくために、もっともっと知性を磨かねばなりません。
 広島・長崎をはるかに超えた現代の戦争、日頃避けて考えないようにしてきたリアリティを、いま冷酷に突きつけられています。音楽家も画家も作家も、一市民も厳しく問われている瞬間ではないかと思います。8000キロのおかげで思考の余裕があるのはほんとうに幸いです。考えねば。
 戦争は一旦始まってしまうと不条理に不条理が屋上屋を重ねることになってしまう。いずれの側も。それでもかならず折り合いはつけられるはず。
 人間の知恵が試されている瞬間です、ああ、水戸巌出てこい! (3月26日)
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●トルストイはロシア人の心に生きている
 ロシア国営テレビ放送の女性スタッフ、マリーナ・オフシャンニコワさんが勇気ある行動に出たのは、3月14日。ニュースの生放送番組中に「戦争反対、戦争を止めろ」と叫び、「NO WAR」と書いた手描きのプカードをかざした。「戦争反対 戦争を止めろ プロパガンダを信じるな 彼らはここで嘘をついている ロシア人は戦争に反対している」と、訴えた。
 3月29日、今日のウクライナ侵略戦争に関する報道で、希望につながるもの。『ロシア兵士母の会』。
 ロシア兵の死者数が、ロシア発表が不自然に西側発表と比べて少ないのは、『母の会』を意識したものとのこと。「最前線には職業軍人をあて、徴兵は使わない」との政府見解に「使う、とは何事だ!!」と「母の会」から猛反撃があったという。
 トルストイはロシア人の心に生きているのです。 (3月29日)

●知性を磨くことこそが私たちの武器
 すばらしいです!
 調停のために、研究者が立ち上がり、行動を起こしました! (資料を下に転載)
 21世紀に求められる知性とは、こんな知恵のことです。戦争を起こしてしまったのは、大きな悲劇ですが、そこで諦めないで一刻も早く収束させる知恵を持つことが求められています。こんな提案が世界から100も1000も寄せられ、実行する知恵がいま求められていると思います。
 人間がサルよりも脳の重量が大きいことが、果たしてよかったのかどうか私には疑問でしたが、今こそその特徴を発揮するときでしょう。不幸な仲間をこれ以上作らないために。
 世界中の小学生がプーチンとゼレンスキーに手紙を書いてもいいのです。
 8000キロ彼方の出来事だからかもしれない。言論人のアクションがないのはなぜだろう。『長州新聞』の取材、報道は注目に値する。西側一辺倒の報道が伝えない真実の一端をのぞかせてくれている。 (3月31日)
(考え続ける、街頭に立ち続ける)
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【資料】憂慮する日本の歴史家の訴え
「われわれは日本、中国、インド三国の政府にウクライナ戦争の公正な仲裁者となるように要請する。」として、署名簿とともに政府に要請しました(詳しくは以下をご覧ください)。
憂慮する日本の歴史家の訴え―――
 ロシア軍の侵攻によりウクライナ戦争がはじまってから3週間がすぎた。ロシア軍はキエフを包囲し、総攻撃を加えようとしている。このような戦争が継続することはウクライナ人、ロシア人の生命をうばい、ウクライナ、ロシアの将来にとりかえしのつかない打撃をあたえることになる。それだけではない。ウクライナ戦争の継続はヨーロッパの危機、世界の危機を決定的に深めるであろう。
 だから、われわれはこの戦争をただちに終わらせなければならないと考える。ロシア軍とウクライナ軍は現在地で戦闘行動を停止し、正式に停戦会談を開始しなければならない。戦闘停止を両軍に呼びかけ、停戦交渉を仲介するのは、ロシアのアジア側の隣国、日本、中国、インドがのぞましい。
 日本はアメリカの同盟国で、国連総会決議に賛成し、ロシアに対する制裁をおこなっている。しかし、日本は過去130年間にロシアと4回も深刻な戦争をおこなった国である。最後の戦争では、米英中、ロシアから突き付けられたポツダム宣言を受諾して、降伏し、軍隊を解散し、戦争を放棄した国となった。ロシアに領土の一部をうばわれ、1956年以降、ながく4つの島を返してほしいと交渉してきたが、なお日露平和条約を結ぶにいたっていない。だから日本はこのたびの戦争に仲裁者として介入するのにふさわしい存在である。
 中国はロシアとの国境画定交渉を成功させ、ロシアとの安定的な隣国関係を維持しており、国連総会決議には棄権した。ロシアに対する制裁には反対している。インドは伝統的にこの地域に起こった戦争に対して停戦を提案し、外交的に介入してきた。インドとロシアの関係は安定しており、国連総会決議には棄権している。
 だから、日本が中国、インドに提案して、ロシアの東と南の隣国として、この度の戦争を一日も早く終わらせるために、三国が協力して、即時停戦をよびかけ、停戦交渉を助け、すみやかに合意にいたるよう仲裁の労をとることができるはずだ。
われわれは日本、中国、インド三国の政府にウクライナ戦争の公正な仲裁者となるように要請する。
ロシア軍とウクライナ軍は即時停戦し、停戦交渉を正式にはじめよ。
 ロシア軍はロシアにとっても信仰上の聖地であるキエフへの総攻撃をやめなければならない。
 最後に訴えたい。ウクライナ戦争をとめるには、すべての者がなしうるあらゆる努力をつくさなければならない。傍観者にとどまってはならないのだ。
                       2022年3月15日
伊東孝之 (北海道大学名誉教授)
加納 格 (法政大学元教授)
塩川伸明 (東京大学名誉教授)
富田 武 (成蹊大学名誉教授)
藤本和貴夫 (大阪経済法科大学元学長)
和田春樹 (東京大学名誉教授)
加藤史朗 (愛知県立大学名誉教授)
梶浦 篤 (電気通信大学教授)
豊川浩一 (明治大学教授)
長與 進 (早稲田大学名誉教授)
西 成彦 (立命館大学名誉教授)
羽場久美子 (青山学院大学名誉教授)
毛里和子 (早稲田大学名誉教授)
吉田 浩 (岡山大学准教授)
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【お知らせ その1】
七転八転百書記

『七転八倒百姓記一地域を創るタスキ渡し一』(現代書館)
(明大生田出身の山形県長井市の農民 菅野芳秀氏の著書です)
出版社からお話を頂いたのは7年ほど前の事です。なかなかペンをとれずに2年。
病気には縁がないと思っていた私が突然倒れて..3年ほど格闘し、周りに迷惑をかけまくりながら、7年越しで書き上げた本です。
でもそのことと本の中身、質とは関係ないですね。余分なことです。

r自分史」として書くならば、市井の一人でしかない私には始めからその資格はないし、出版する意味もない。
私が百姓の七転八倒記を書けるとしたならば、農民であるかどうかを問わず、同じような孤軍奮闘の日々を送っている友人たちに、何らかの連帯のメッセージを伴ったものでなければならず、また同時に私の体験が少しでもその方々のお役に立てること。これがあって始めでその資格ができ、出版する意味もあるだろうと思ってきた。
果たしてそのような一冊になれたかどうかは、今でもまだ心もとない。(本文あとがきより)

(現代書館サイトより転載)
山形のコメ農家の後継者として生まれたものの、「遅れた地域」から逃げたいと一途に思っていた著者。
三里塚や沖縄での体験を経て、20代後半で一人の百姓として地域で生きることを決意して帰郷した。
以来、良質な可能性に満ちた地域を守り、次世代に手渡すために、減反拒否、村ぐるみの減農薬運動、生ゴミと健康な作物が地域を循環するまちづくり等々、農民として様々な取り組みを行ってきた。
グローバリズムを背景に小さな農家が切り捨てられていく危機に直面しながら、地域自給圏の創出、都市と農村の豊かな連携に今も力を注ぐ。
20代から70代になった今日まで、地域を変えようとして奮闘してきた著者の七転八倒記。農に携わる人だけでなく、農の恩恵を受けて日々の食生活を営む人すべてに希望の道を指し示している。

【目次】
序章  みんなでなるべぇ柿の種
第1章 農家に生まれたことが辛かった10代のころ
第2章 激動の70年代  20代のころ
第3章 減反を拒否する
第4章 減農薬のコメ作りへ
第5章 置賜百姓交流
第6章 アジア農民交流センターの誕生
第7章 循環する地域農業を創る―レインボープラン序説
第8章 動き出したレインボープラン―地域の台所と地域の土を結ぶ
第9章 置賜自給圏をつくろう
第10章 原発と百姓、そしてコロナ…―結びにかえて
今、思うこと。そして「タスキ渡し」

【著者紹介】
菅野芳秀(カンノ・ヨシヒデ)
1949年、山形県生まれ。1975年から農業に従事。
自然卵養鶏(約1000羽)、3ヘクタールの水田、20アールの自家用野菜畑を手がけ、家族とともに菅野農園を切り盛りする。
循環型地域社会づくりの先進例として名高いレインボープラン(山形県長井市)を推進。
置賜百姓交流会世話人、アジア農民交流センター(AFEC)共同代表などを務める。
著書に『生ゴミはよみがえる』(講談社)、『玉子と土といのちと』(創森社)。

定価2,000円+税

【お知らせ その2】
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『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
ティエフネットワーク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。


【お知らせ その3】
ブログは概ね隔週で更新しています。
次回は4月22(金)に更新予定です。

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