重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センター(昭島市)での近況などが載っている。私のブログの読者でこの冊子を購読している人は少ないと思われるので、この冊子に掲載された重信さんの近況をブログで紹介することにした。
当時の立場や主張の違いを越えて、「あの時代」を共に過ごした同じ明大生として、いまだ獄中にある者を支えていくということである。
今回は「オリーブの樹」157号に掲載された重信さんの獄中「日誌」の要約版である。(この記事の転載については重信さんの了承を得てあります。)
【独居より 2021年12月1日~2022年3月1日】
12月1日 朝起きると雨。寒そう!午前中は刑務昼食を12時半に終えて、居房に戻り待機。CT検査なので時間をあける必要があります。
14時半すぎ、主治医が造影剤投入用の静脈への注射針を入れて待機。3時から検査棟へ。まずエコー検査。その後、胸.腹部のレントゲン。そしてCTによる腹部検査撮影。そのあと心電図の検査を行いました。結果は次回の診察時に伝えられます。
12月3日 松岡さんよりお便り「『抵抗と絶望の狭間』へ重信さんの原稿掲載について高原さんや遠山家の方々と齟齬を生じさせてしまい申し訳ございません」と私にお詫びがありました。松岡さんや鹿砦社よりも、私自身が遠山家の諒解を得ず「遠山美枝子さんへの手紙」の寄稿文章を公表したことが問題を作りました。その点すでに遠山家にはお詫びしましたが、私こそお詫びしなければなりません。「抵抗と絶望の狭間」は、これから全体をじっくり読むつもりです。
ざっと中島さんの文を読んだところですが、一方的な推測に驚きました。私がアラブで大変な日々の活動の中にあって、日本の記憶が生々しく残っているとは思えないと。そうとも言えません。日本の記憶は、出国の時点までしか積み上げられていないので逆に鮮明に当時が残ります。アラブの日常と別のカテゴリーだからです。また、私が「密帰国」して2年余りの自由な期間に「記憶回復作業で語った記憶の混人があります。重信さんの回復作業に協力した仲間たちの中に意識して誤った事象を刷り込ませた人がいると思います」とありますが「邪推」ですよ、と言いたいです。「自由な時間」私は、「7・6事件」などに拘泥する思考も思想状態もなく、はっきり言って、過去のそんなことに貴重な時間を使うこともありませんでした。確かに「7・6事件」によって、私は自分のこれまでの教師への道を置いて赤軍派の道に進みましたが、くわしいいきさつを当時も知らなかったし、知るよりも目の前のこと—杯でした。「密帰国」時赤軍派の関係者と話したり会うことなど考えにも及ばない仕事に集中していたからです。私にとっては、連赤以前に、赤軍派とは別個に進んできたので、赤軍派について考えることはなかったのです。赤軍派とか、7・6事件、連合赤軍事件については、逮捕以降の公判闘争と関わって、また、面会に来て下さる友人と(塩見さん、味岡さん、青砥さんら)話す中で、総括的にとらえつつ来ました。でも「7・6事件」について具体的に語ったのは佐藤秋雄さんだけです。彼は、昔からのお茶ノ水周辺の大学の仲間、反戦青年委員会の世話人として知っています。彼からのお便りで、秋雄さんも7・6事件の被害者と知ったのです。もちろん秋雄さんは、私が「7・6事件」の現場に居なかったことをもっとも良く知る人です。それで秋雄さんに、「7・6事」件や当時のことを書き残してほしいと頼みました。もちろん当時の赤軍派の一員として過去のことでしたが謝罪もしました。それ以外の人と「7・6事件」に関して交流はありません。
12月9日 今日はインフルエンザの予防注射をしました。
H記者から手紙で、あさま山荘50周年に関してのお便り。当時自宅近くがあさま山荘だという方から、革命の時代とはどのような時代だったのか教えてほしいとのことですが、テーマが大きすぎて語りきれないし、返事を書く発信枠がありませんので、こちらから手紙を送れません。「オリーブの樹」を読んでいただくか……。
12月15日 12月の題詠、師ですが
“新しい表札掲げ師走から 仕切り直しの人生始まる”
これは昔1974年12月「アラブ赤軍」というそれまでのPFL P指揮下のグループから独立し「日本赤軍」の名で、自分たちの責任と対外関係のもとに活動しはじめた12月を思いうかべて一首。
“ベッレヘムパレスチナの光クリスマス 師も学生も集いて灯す”
12月2 0日 快晴の冬が続きます。ベランダに出ると肌を刺すような寒さです。今日は、年末年始の日程が伝えられました。28日迄作業・仕事納めです。31日は、TVが、夜12時15分 (元旦)まで可。休み中の正月3が日TV可の時間帯は10:00〜11:30、13:00〜15:00、18:30〜20:54 です。1月4日が入浴と仕事始め。新年がぐんと近づいてくる感じです。12月発行にむけて、「オリーブの樹」の校正や文を13日に送ったので、12月中に発行されると思います。
またI先生の「東京オリ・パラ2021とイスラム世界」の論文も丁度届いて、まず読んだところです。東京大会でこれまでどの大会でも拒まれていた1972年のミュンヘンオリンピックのイスラエル選手団の追悼・黙祷を行った背景や歴史的流れなど、分析的に論じていて、健在な先生の鋭い指摘に学びます。あの時イスラエル選手は11人死亡。他地元警察、パレスチナ戦士ら6人の死亡。東京大会では17人ではなく、イスラエルの選手のみの追悼だったとのこと。
読みながら、シオニスト、エマニュエルが上院の承認を得て、在日米大使に決まったニュースを思い出しています。日本の外交、とくに米国に弱い政界を操って、米国の圧力で、イスラエル支援、軍事機器、情報、経済同盟がより進みそうで要警戒です。エマニュエルの父親は、シオニストテロ機関で民族浄化をやってきた人。今の流れのままだと、I先生の言うように、イスラエルはユダヤ人種国家に純化(パレスチナ人をあれこれの理由で追放)をめざす右派が増々はびこりそう。それでもイスラエル内のパレスチナ人と占領下、近隣国の難民含むパレスチナ人の共通の闘いが、それに比例して益々育つでしょう。
12月2 2日 今日はいつになくバタバタ。工場作業を2時ころ切りあげて休憩のあと、2時半から3時半コーラス。「聖夜」を歌とハンドベルで楽しみ、「ジングルベル」「花は咲く」を歌いました。チャイコフスキーの「トロイカ」という名曲をピアニストが弾いて下ざって、クリスマスバージョンのコーラスは終了。
居房棟に戻り作業終了の点呼後、診察。この間CT、エコー、レントゲン、血液鶴などの結果を主治医が説明して下さって、4時15分ころ房に戻る。
今日は週一回のベッドメイクの日で、日用品、購入品も今日配布で房内はシーツや日用品が大量にベッドとターンテーブルに。そこに夕食が運ばれて、作業着から居室着(パジャマの作務衣)だけとりかえて夕食。それからベッドメイクや整理や、まだあった……官本配給7冊(2週間に5冊だが、年末年始で3週間分7冊)共、文庫本を狙ったのに(ロッカーにスペースがないため)外れで、全部ハードカバーの分厚い本が7冊。新聞も読めないで整理していたら、もうNHK7時のニュースが半分終わっています。
手紙も仕上げねばと。そこに届いていた資料や本、人民新聞も受け取りました。パレスチナ関連資料も届きました。PFLP12月の創建記念に「PFLPの発足から54年、PFLPの創設から現在までの知的および政治的発展」の論文もあります。これは時間をみて読みたいです。
資料の中から、レバノンのデイリースター(レバノン最古の英字新聞)が廃刊されたのを知りました。私たちがベイルートでとっていた新聞。内戦前のベイルートに到着した71年には、ちゃんと日本の新聞のように早朝自宅に届く配達システムでした。デイリースター紙は、18年のレバノンのべイルート港爆発に抗議し、ニュースを載せず紙面を黒くぬりつぶして「レバノンよ、手遅れになるまえにたちあがれ!」とレバノン杉(レバノンの象徴)の写真を掲げるのみでした。1952年からアラブ世界初だったらしい英字のデイリースターまで廃刊されるとは……。レバノン再建のむずかしさがわかります。
12月2 8日 仕事納め。朝、今年最後の手紙を発信しました。工場器材をチェックし、破れた布を廃棄したり、手袋や普段使わないものを洗ったりと昨日の大掃除の続きを終業前 2時40分から3時まで。今日午前中は今年最後のベランダへ。寒い。霜も凍って北側のベランダは陽が射さず、今日の最低気温のマイナス2度位。手や耳がじんと痛みつつ、それでも30分の外気は気持ちが良い。(中略)
レバノン大使のオンライン報告のよると、繁華街ハムラ通りは真っ暗。ガザの通電8時間、レバノンはその半分。内戦当時の方がましだとのこと。デモも宗派コミュニティにデモも吸収されて今はなく。それでも中東唯一のフリーダム発言を誇るジャーナリストは健在のベイルート。中産階級はすっぽり出国してしまったらしい……。米欧に呼応できる金権国家が栄えている今の中東。必ず破局がくるでしょう。人々の力が戦略をもって闘えるかどうか……。まだまだ中東世界は厳しい状態が続きそうです。
22年1月元旦 2022年新年の挨拶を申し上げます。あれほど先の長かった満期出所の日がもう今年の5月28日に迫っています。友人たちの励ましや支援によって、今日まで生きてこれたとしみじみ感じています。友人・弁護士・家族にまずお礼申し上げます。(中略)
私は何よりも学ぶこと。社会復帰に向けていくつも助言や要請をすでに受けて学習中です。これまでの社会参加の欠如を学び補い、リハビリを第一にと考えています。能力、体力、時間的に何も出来ることはありません。でもあるがままの自分で好奇心と共に一歩一歩学び、感謝し、謝罪し友人たち未知の人々とも出会いたいと思っています。
これからもみんなの助言・教示を大切に、まず出所を目指します。今日はみんなから午前、今夜8時とたくさんの賀状を頂き、励まし再会のお便りの言葉に、なにか温かく嬉しい元旦を過ごしています。快晴で明けた昭島の新年です。(中略)
1月13日 「本多延嘉3・14虐殺死を越えて四五年」を読みました。難しい本とちょっと警戎しつつ読み始めて、連休中のベッド安静時間に興味深くすぐ読み終えてしまいました。 45年も経て指導者として本多さんを当時の時と同じように接する人々の情愛にまず感心しました。それ程の人物として本多さんの多面的に語られるエピソードなどに、すごい人だったのだろうと実感しつつ読みました。とくに浅田光輝さんが本多さんの破防法裁判の第一回公判意見表明に「私はこの本多書記長の堂々の論に心から打たれた」と述べておられる通り「革命的共産主義は法律を自己の行動基準とはしない。(中略)だがそれは革命的共産主義者が法律を無視するということなのではない……」の引用は、とても格調があります。人々が敬する人柄はリーダーにはやっぱり大事だと、赤軍派時代をふりかえりつつ……。また私の在アラブ時代の日本での事件、1974年4月17日の「革マル派の弁護団襲撃という一大愚行」という浅田さんの文を読んで、はじめてその呆れた襲撃を知りました。ああ、こうしたことが「連赤」以降も続き、市民社会と革命を敵対させてきたのか……と目の当たりにその詳細を読みました。井上光治弁護団長らが重症を負わされた中で、どう破防法裁判を持続させたのか、と。その一年後、本多さん虐殺……。本多さんが「内ゲバ」を越える論理を駆使していたら、と思わずにはいられません。「戦略的総反攻論」しかなかったのか?と。この本にはいろいろの人が記していますが(場違いな感じの私の一文も)中でも水谷さんの文はこの45年をふり返り、組織論の欠落など、自らのあり方、本多さんも含めて自己批判的検証を試みている点で好感が持てました。(中略)
1月16日 送られたパレスチナ関連資料を読みつつ、益々パレスチナ民族浄化を深めるイスラエル政府とユダヤ人入植者たちの暴挙を知ります 。2021年の間にイスラエル軍は950のパレスチナ人住宅や施設を取り壊し、東エルサレムを含む占領下の西岸地区に15の入植開拓地を建設した(土地調査センターが12/29に発表)。950を取り壊して24,750ドウヌム(1ドウヌムは1000 ㎡相当)の土地を没収したという。入植者らは17,740本の木を切り倒し傷っけ、55の入植地は拡張を行なった。イスラエル当局は2021年100以上の入植地計画を発表しており、入植者向けサービスや軍のために約25の新たな植民用バイパス道路や支線道路を設けた。きらに「ピースナウ」によると、東エルサレムを含む西岸地区の145の大規模入植地と他に政府の認可を受けていない140の整備不十分な開拓地を含めると666, 000人の入植者が占領地に移住しているという。エルサレムの自治体は更なる入植地をつくり、エルサレムのユダヤ化を進めている。アラブ的アイデンティティを塗りかえ、エルサレムと西岸地区の連絡を妨害する入植地ベルトをエルサレム市周囲に設立するために、新規入植地を2022年から着手することを承認。丁度届いたオリーブの会通信に「フェイスブックのオリーブの会のページに対するブロック、削除の脅しに抗議する」と声明が載っています。ハマスの軍事演習ニュース記事の翻訳に対してです。フェイスブックは明確にイスラエルの立場からとらえており、トランプ政権で中東の地図からパレスチナを消して以来、不当なフェイスブック、グーグルなどの動きが強まっているようです。
1月24日 (中略)
「連合赤軍革命のおわり革命のはじまり」(月曜社発行)が、送られてきました。「文春」「解放1234号」「かりはゆく 」「アジア新時代と日本」それに「情況」 2022年冬号が届きました。特集「連合赤軍半世紀後の総括」です。私の文も「時代の証言一森指導部との訣別」として載っています。これは「赤軍派時代とわたし」の原稿から、70年12月〜71年2月の部分を編集部が抄録したものです。「連合赤軍特集」に使うとのことで諒解しました。まだ全部うけとって読みきれませんが、「赤軍派高校生の証言一7・6明大和泉校舎事件」、大谷行雄さんの一文に、読んでひとこと記さねば、と思いました。
大谷さんは、7・ 6事件で医科歯科大515教室でいっしょにやられた当時の高校生であり、大下さんの逝去の追悼の文などで、交流の機会がありました。今回この一文で、当時のことを知りました。とでも素直な一文です。
7・6の日、K君やMさんのリーダーシップのもと、「高安闘委」の委員長だった大谷さんが数十人を集めたようです。Mさんは当時女性のリーダーで、のちに親しくなりましたが、7・6和泉でのことを悔いていました。とても積極的に関わったようでした。
大谷さんの一文が私に刺さりました。「ただここで声を大きくして断固抗議したいことがあります。当時その場にいた堂山道生が『自分たちリーダーが悪いんだが、今日明け方の決起集会で塩見が反対派の腕の1本や2本を折って云々と景気付けをやった。それを真に受けた高校生がメチャメチャ手を出した。わしらも手を出さんと恰好つかんと手を出した』(野次馬雑記ブログ掲載重信房子「独居より」2017年7月6日)と公言していることです。そしてそれがいつの間にか通説となり、流布されていることが納得できません。」と記し、くわしく当時の現場の様子も記しています。
塩見さんが論争糾弾自己批判を迫るも、仏さんは断固拒否していたそうです。高校生部隊が外で待たされ、花園さんか田宮さんから「どうしても我々の要求を呑めんらしい。お前らもやれ」というので部屋に入ると、すでに仏さんの顔は膨れ上がっていたとのことです。命令に、女子高生などが半ベソ震えながら殴っているのを見かねて、「『足くらい折ってやれ』とう激というか命令口調で仏の足を別の椅子に置いたので、仕方なく小生が体重をかけて折ってしまったのです。もちろんあんなことは生まれて初めてですし、それが仏の逮捕につながったと思うと、その後の罪悪感はいつまでも消えませんでした」と記して、堂山発言は正しくなく、指導部が命令したこと、この体質がのちの連赤での仲間の死に至らしめたかもしれないと、今は思っていると述べています。
私は読んで、当時もこれまでも堂山さんの発言を真に受けていました。あらためて目を開かされて、ふりかえればそういえば、あの和泉校舎で何がどう始まり起こったのか?リーダーたちからその後具体的に聞いた記憶はありません。大変な時で、多忙でまた大雑把な人たちだからと、特に私もくわしくは聞きませんでした。「実践的検証」は一度も行われたことはありませんでした。そんな余裕はなかったのです。大谷さんが言うのが事実だろうと改めて思います。
2月4日 立春です。TVでは大雪情報を告げています。また夜には北京の冬季オリンピック開会式が始まるとのこと。受けとった救援紙一部抹消の上交付されました。抹消されていたのは和光さんの年頭コメントのところでした。何がひっかかったのでしよう。
今日「色紙2枚と毛筆ペンは使用禁止のため送り返そうとしたが、費用がかかるためとりやめたが、領置されるが宅下げにするように」と担当官から通知を受けました。後に受けとった手紙で事情が分かりました。若く静岡での空港建設反対など活動した後、商社で働きベトナムやカンボジアを訪問し、のちにカンボジア人妻と起業して貿易商社を営んでいる人が「弊社へのエールの短歌を別送する色紙に直筆でいただけないでしょうか。弊社から謝礼をお振込みさせていただきます」とあります。ちょっと唐突な依頼ですが、略歴も送られていて、自分の思うように生きている人で、アジア・パレスチナも射程にした貿易を目指している人だとわかりました。でも、第一に色紙などは禁止で交付されませんし、第二に私は短歌を知らない会社への応援歌として詠むことは出来ません。長い手紙を頂いたのですが、協力は出来ないとお知らせしたいところです。時々知らない方からお便りを頂きますが、こうした短歌の依頼は初めてです。でもこの方の略歴はとても自由的な生き方をしておられます。若い人が「跳ぶ」大切さを広げてほしいと思いつつ読みました。
2月10日 立春が過ぎると、春が心の中に広がります。何だかせかされる2月です。都心は雪。こちらはみぞれ、そして少し雪そして雨です。
「オリーブの会通信」のPFLPのHPからの記事に「同志であり、創設時のリーダーであるアブ・マへルの旅立ちの記念日」という彼の業績と略歴の載っているのを読みました。なつかしい同志。
1924年生まれ、反シオニズム闘争の最前線でずっと闘い、「ガリラヤ旅団」を結成し、1948年ガリラヤ市陥落後もパレスチナを去ることを拒み、イスラエル当局によってレバノンに強制追放(1949年1月31日)。以降は、レバノンを中心に難民キャンプの教師、校長など民衆運動で他の組織含め、もっとも尊敬された人。レバノンでも55回も逮捕されつつ、アラブ民族主義運動(ANM)創設をハバシュ、ハダードらと担い、2011年1月4日永眠。その間PLO執行委員など、あらゆる場で献身的だった人。
いつも私たちを様々に助けてくれた。ある日ベイルートアメリカン大学に講演に来て、メイをみつけて挨拶を交わして、「え?!何でアブ・マへル知ってるの!」と、特にパレスチナ人学友に聴かれて、身元を隠しているメイが困ったと言ってたことが思い出されます。数少ない、メイを知る一人で、何かあったら彼に相談するようにと、メイに言ったことのあるマへルおじさんでした。なつかしく読みました。
2月14日 今日は、CVポートの器具を鎖骨下から抜去する手術。刑務作業は本日休みです。10時前に上半身手術着に着替え手術の病棟へ、車椅子で移動。その後、スムーズに局所麻酔から抜去。30分位で終了。居室に戻り安静。痛み止めと感染予防の薬を服用し、昼、夕食も、平常のように食べることも出来て、問題ありません。唯、こうして書いていると、右鎖骨下の傷口に響いて痛いですが。(中略)
2月21日「ヤフーニュース」の産経新聞2/11記事読みました。譽視庁HPなどで国際手配中の「日本赤軍メンバー」の動画、現在の年齢を想定した似顔絵などがアップされているようです。予算対策か。(中略)
2月2 2日 夜のニュースでプーチンがドネツク、ルガンスク両人民共和国の独立を承認する大統領令に署名したとのこと。平和維持の名でロシアは駐留中の軍を正当化し、米欧は厳しく経済制裁を続けるでしょう。イスラエルの占領に合法性を与えている米政権の正義をかざす御都合主義ばかりが私には感じられるウクライナ問題です。
2月2 5日 新聞の一面には、「ロシア.ウクライナ侵攻」「主要都市、軍事施設を空爆」「米欧は非難・制裁強化へ」と戦争を伝えています。ロシアのプーチン大統領は、世界を敵にまわす覚悟で戦争を始めたので、かなり世界が変わるでしょう。プーチンは、シリア内戦に「ゲームチェンジャー」として介入し、アサド政権支援は思惑通り進みました。それは、シリアに対する西欧報道の偏向とちがってアサド政権はシリア国民の多数の支持があり、アサド政権のそれを基盤とする意志と力があったからです。でも今回の決断は、プーチン政権の崩壊の始まりでは?軍事的に勝っても長期的には崩壊へと向かうと考えられます。プーチンは核抑止力をもつロシアにNATOは介入できないと見ているようですが、逆に、ウクライナ人に闘わせるNATOの武器供与の軍事介入で局地戦は激しくならざるを得ません。プーチンは、米欧勢力、特に米政権の詐欺的な振るまいに「戦略的決断」として、戦争で政治目標を獲得するつもりでしょう。米、NATOのロシアへの歴史的配慮の欠如が問題をつくり出して来たのも事実です。
ゴルバチョフ時代に、ブッシュ父と、ドイツのコール首相は、NATOの東方拡大は行わない東西和解の意向を示してきました。ところが、クリントンが政権につくと、東欧、ソ連移民の支持票に応えようとNATOの東方拡大がはじまり、次々とその後も行いました。とくに民主党オバマ政権のヌーランド国務次官補らは、ロシア帝国時代からの移民の人脈が深く、彼女はネオコンの理論家、ロバート・ケーガンの妻でもあり、反ソから反プーチンへと、90年代から国務省中心にウクライナ政変を企て、政治工作をくり返してきました。ヌーランドらは、ロシアとウクライナの歴史的関係を利用して逆に対決させようとしてきました。そしてまた、「ロシアとの和解」を訴えて登場したユダヤ系のコメディアン出身のゼレンスキー大統領が招いた戦争とも言えます。戦咯的に戦争の「レッドライン」を貝据えて、「ミンスク合意」から主導的に東西に対する非同盟を宣言し、一気に経済復興を目指せたのに、ヌーランドらの支援で「ミンスク合意」を拒み、ずるずるとロシアとの対決へと進みました。プーチンの側から見れば約束反古の挑発です。権威主義者プーチンは、軍事的に制圧した上でウクライナを昔のように少なくとも中立化させたいのでしょうが、結局ヌーランドら歴史的反共・反ソのネオコンを含む勢力の挑発の沼にひきずり込まれたとみえます。メディア戦争も激化するでしょう。結局犠牲は、ウクライナとロシアの人々に及ぶことになります。即時の戦争停止は、なかなかむずかしいと思われます 。
2月2 8日 今日は、あさま山荘の闘いが終わった日です。昨日の朝日新聞に、当時の検事で、青砥さんの取り調べを担当し、今は弁護士の古畑恒雄さんの話が載っていました。その中で、検察庁・法務省は、法律ではなく「内部通達」による運用で、無期刑を密かに終身刑化していることを批判しています。ひとつは1998年の最高検次長検事名で出された「マル特無期通達」と呼ばれる検察官が「動機や結果が死刑事件に準ずる位悪質と判断したら『マル特事件』として、他の無期囚より長期に服役させる」というものです。もうひとつは、2009年の法務省保護局長通達で、「無期受刑者の仮釈放審査にあたって検察官と被害者等から面接調査すること」を定めたとのことで、仮釈放を限りなく不可能にする通達だと批判しています。検察の「正義」の独占の姿を改めて思いました。
今日は、日本を発って私がアラブに向かった日。もう51年です。当時のいきいきとした社会の雰囲気が甦ります。
”日本発ちて五十一年目の獄窓から 壊れつつある世界を見つめる”
と一首零れます。(中略)
2月28日 日本を発って51年目に、パレスチナと共に、学生時代の旧友をふりかえっています。
3月1日 ウクライナ情勢は27日、プーチンは核兵器による「特別態勢」をとるよう命令したとか。プーチンのウクライナに対する「非軍事化中立化要求」は、戦争によって正当性を損なってしまいました。今、NATOが戦争にふみきれば核が使用されるでしよう。ロシア軍は、NATO の総力戦には勝てないでしようし。暴力による支配と「解決」の道は「反テロ戦争」が導いたパラダイム。人民おきざりの国家間戦争の厳しい時代を迎えました。
【お知らせ その1】
『七転八倒百姓記一地域を創るタスキ渡し一』(現代書館)
(明大生田出身の山形県長井市の農民 菅野芳秀氏の著書です)
出版社からお話を頂いたのは7年ほど前の事です。なかなかペンをとれずに2年。
病気には縁がないと思っていた私が突然倒れて..3年ほど格闘し、周りに迷惑をかけまくりながら、7年越しで書き上げた本です。
でもそのことと本の中身、質とは関係ないですね。余分なことです。
r自分史」として書くならば、市井の一人でしかない私には始めからその資格はないし、出版する意味もない。
私が百姓の七転八倒記を書けるとしたならば、農民であるかどうかを問わず、同じような孤軍奮闘の日々を送っている友人たちに、何らかの連帯のメッセージを伴ったものでなければならず、また同時に私の体験が少しでもその方々のお役に立てること。これがあって始めでその資格ができ、出版する意味もあるだろうと思ってきた。
果たしてそのような一冊になれたかどうかは、今でもまだ心もとない。(本文あとがきより)
(現代書館サイトより転載)
山形のコメ農家の後継者として生まれたものの、「遅れた地域」から逃げたいと一途に思っていた著者。
三里塚や沖縄での体験を経て、20代後半で一人の百姓として地域で生きることを決意して帰郷した。
以来、良質な可能性に満ちた地域を守り、次世代に手渡すために、減反拒否、村ぐるみの減農薬運動、生ゴミと健康な作物が地域を循環するまちづくり等々、農民として様々な取り組みを行ってきた。
グローバリズムを背景に小さな農家が切り捨てられていく危機に直面しながら、地域自給圏の創出、都市と農村の豊かな連携に今も力を注ぐ。
20代から70代になった今日まで、地域を変えようとして奮闘してきた著者の七転八倒記。農に携わる人だけでなく、農の恩恵を受けて日々の食生活を営む人すべてに希望の道を指し示している。
【目次】
序章 みんなでなるべぇ柿の種
第1章 農家に生まれたことが辛かった10代のころ
第2章 激動の70年代 20代のころ
第3章 減反を拒否する
第4章 減農薬のコメ作りへ
第5章 置賜百姓交流
第6章 アジア農民交流センターの誕生
第7章 循環する地域農業を創る―レインボープラン序説
第8章 動き出したレインボープラン―地域の台所と地域の土を結ぶ
第9章 置賜自給圏をつくろう
第10章 原発と百姓、そしてコロナ…―結びにかえて
今、思うこと。そして「タスキ渡し」
【著者紹介】
菅野芳秀(カンノ・ヨシヒデ)
1949年、山形県生まれ。1975年から農業に従事。
自然卵養鶏(約1000羽)、3ヘクタールの水田、20アールの自家用野菜畑を手がけ、家族とともに菅野農園を切り盛りする。
循環型地域社会づくりの先進例として名高いレインボープラン(山形県長井市)を推進。
置賜百姓交流会世話人、アジア農民交流センター(AFEC)共同代表などを務める。
著書に『生ゴミはよみがえる』(講談社)、『玉子と土といのちと』(創森社)。
定価2,000円+税
【お知らせ その2】
『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。
執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男
定価1,980円(税込み)
世界書院刊
(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
ティエフネットワーク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com
【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。
【お知らせ その3】
ブログは概ね隔週で更新しています。
次回は5月12(金)に更新予定です。
GW中はお休みです。