野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2022年07月

今回のブログは、前回に引き続き「続・全共闘白書」Webサイトの「学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録」コーナーに投稿のあった「僕の全共闘時代」という記事の紹介である。
 この記事は東京・武蔵野市にある成蹊大学での闘争を中心に書かれたものであるが、230ページにも及ぶ労作なので、その中から1968年の成蹊大学での活動の部分を抜粋して掲載することにした。また、この寄稿文には1969年1月以降は書かれていないため、1969年の全共闘の部分は追加で寄稿していただいた。
抜粋しても25ページくらいになるので、前編と後編の2回に分けて掲載する。
成蹊大学は、先日亡くなった安倍元首相の出身大学である。

【僕の全共闘時代(抄)】(後編)
ー僕の全共闘時代(抄)前編より続くー
アジテーションと失語症
六八年秋の成蹊での出来事で思い出深いのに「法・経の分離にともなう説明会」というのがある。この年、法学部が設置され、従来の政経学部は法学部と経済学部に分離されることになったが、その一回生が二年に進級し、専攻別にクラス編成されるにあたって学校側が説明会を開いた。法経自治会と文学部代議員会はこれに異議を唱え、説明会をつぶしてやろうという方針で会場にのりこんだ。その理由は、総合大学化計画は高度成長にともなう社会の再編成に見合うように大学を近代化させようというものであり、それは資本の都合のいいように教育全体を改編させることに他ならないというところにあった。実際一九六〇年代を通して日本の戦後社会は大きく変化していた。成蹊の工学部設置(一九六二年)に始まる総合大学化もまたその変化に沿ったものだった。この変化の中で従来の大学の理念であったアカデミズムの伝統やそれを背景にした「大学の自治」論はとっくに時代遅れになっていた。つまり利益社会のあくせくした生活から超然としたアカデミズムの理念の下で、実際はごく近代的な、資本の変化と発展―それは常に「社会の変化と発展」と言い換えられるのだがー に見合った大学の改編が進行していた。その古い理念と新しい再編工事の両方に徹底的に異を唱えたのが東大闘争であり、とりわけそれを理論的にリードした助手共闘・院生共闘だった。むろん全国に勃発していた学園闘争もそうした大きい枠組みの中で、個々の大学の実情に沿い様々な形をとって闘われていたのだった。従って今度の成蹊の「説明会粉砕」も、闘争としてはかなり珍奇だったけれど、やる方はそれなりに大真面目だったのである。なかでも僕は最も大真面目だった。
会場に入ってみると、そこにはジュースやビールが並び、さながら立食パーティーだった。この光景がまず僕を憤激させた。何だ、これは!飲み食いさせて懐柔しようという策じゃないか。何人ものメンバーが会場の前面に出て、学校側の説明をくい止め、論争を吹っかけていた。僕も積極的に発言した。その内容は一言で、
「ビールなんかの供応を受けて、それで君たちは恥ずかしくないのか」
だった。ある法経の一年生はこの時のことをずっとあとまで覚えていて、「ずいぶん純粋なヤツがいるな」と思ったそうだ。僕もそう思う。自分にもこんなに純粋な時があったとは、今となっては信じ難いほどである。
僕たちの妨害が功を奏して、学校側もついに「説明」をあきらめてしまった。説明会は首尾よく粉砕されたのである。僕たちは勝利の凱歌をあげ、法経自治会室に戻ったが、その時あきれたことに上級生の活動家たちは会場から余ったビールとジュースを持ち出してきた。自治会室で酒宴が始まった。僕は一人ムスッとしていた。供応の手段である汚(けが)れたビールなど飲んで、けしからん!という気持だったのだ(今の僕なら率先してピールを運んでくるだろうな)。
それはともかく、この時のアジ演説は僕が秘かに「我が生涯の三大アジテーションの一つ」と呼んでいるほどの出来栄えだった。いわゆる活動家口調ではなかったけれど、思っていること、感じていることが単純・率直に口をついて出ていたという気がする。説明会場を出て自治会室に向かう途中、上級生の荒木戸が独特の皮肉っぽい口調で冗談まじりに、
「おまえアジがうまいな。アジテーションがうまいと官僚になれるんだぞ」
と話しかけてきた。活動家としての僕の将来は洋々たるものがあった。
ところがこれを最後に、僕は失語症に陥ってしまったのである。洋々たる未来はすぼみ、学生官僚への道は通行止めになってしまった。失語症の直接の原因は、ロラン・バルトの『零度の文学』を読もうとしたことだ。これは今では『零度のエクリチュール』という名で知られ、七〇年代から八〇年代にかけ、構造主義やら記号論やらのブームで有名になった本だが、当時はまだ「エクリチュール」という言葉がはやっていなかったので、このような題名になったわけである。
とにかくこの本は難しかった。何が何やら全く理解できなかった。『鏡の国のアリス』だったか、文法はたしかに英語なのに、全く意味をなさない言葉をしゃべる奇人が出てくるが、この本もそれと同類に思われた。
「<文学>もまた、何事かを標示しなければならないのであるが、そこで標示されるのは、<文学>の内容やその個人的な形式(フォルム)とは異なるものであって、<文学>自身の垣根であり、まさにそれが<文学>としてものをいう所以のものなのである。そこから、思想や言語体や文体とは関係なしに与えられ、あらゆる可能な表現形式の厚みのなかで、慣例的な言語の孤独を規定することに充てられた諸標章の総体が由来する」
これは一ページ目の終りから二ページ目にかけて出現する文章だが、たぶん当時の僕はここから先には一歩も進めなかったに違いない。失語症に陥って以来、僕はこの本を押入の奥にしまいこんで二度と手を触れようとはしなかった。なんだか表紙を開いただけで失語症が再来するような気がしたからだ。そんなわけで今、二十六年ぶりにこの本を開けてみたのだが、やはり僕が使っているのと同じ国の言葉だとは思えない。
これを境に僕はほかの本も読めなくなってしまった。すべての本がやたら難解なものに思えてきて、一つ一つの言葉に拘泥していると一歩も先に進めなくなってしまう。枝葉ばかりに目が行って、本全体が見えないという近視眼症状である。特に接続詞がいけない。AとBの文章の間にある「そして」や「しかし」や「にもかかわらず」は、なぜ「そして」や「しかし」や「にもかかわらず」なのか?他のものではいけないのか?いや時には他のものでなければいけないのではないかとさえ思えてくる。ずっとのちになって、多くの場合この悩みの原因は著者がデタラメな接続詞をいい加減に使っているせいだとわかったが、当時は書かれたものはすべて正しいと思いこんでいたから、考えれば考えるほどわからなくなり、文脈などどこかに行ってしまい、結果として全然本が読めなくなってしまったのだ。
書かれたものが理解できなくなるとともに、話されたものも理解できなくなり、当然話すこともできなくなった。雑談や趣味の悪い冗談だけは前と変らずに口をついて出てくるのだが、昔から苦手だった真面目な話が特にダメで、アジテーションなど夢のまた夢となった。
考えてみると、僕の人生は『南回帰線』以来、躁状期にあったようだ。受験勉強への反逆も学生運動の端っこにくっついたこともこの精神の躁乱あればこそだったが、その反面で失語症に陥るまで僕は人の話を、自分の世界とは異なる他人の世界を理解する鍵としては聞いていなかった。ムード的に右の耳から左の耳へと聞き流し、その中で自分に都台のいいものと悪いものを取捨選択するだけで、他人の言葉によって自分の世界が変革されるということがなかった。むしろ他人の内面と直接触れあうことによって、自分の内面が震えたり傷ついたりすることを恐れていた(もっともそれは今でも同じだが)。
読むという行為の場合もそれは同じで、要するにそれまではムード音楽的に読み流していたのだ。それが『零度の文学』という難解な本と出会ったのをきっかけに、世の中には自分の理解を超えるものがあるという当り前の事実に気づいたわけである。とにかくこれを境に、僕の人生は躁状態から沈黙期へと転化してしまった。相変わらず軽口はたたくものの、どちらかというと黙々とデモに出かける肉体派―ただし臆病な肉体派―という色彩が濃くなって行った。

ブント出現
反帝学評の一元支配状熊だった成蹊にもついに他党派―ブントーが登場したのもこの頃だったろうか。ブントができるきっかけも反戦学評同様、一人の女子学生が他大学からオルグをつれてきたからだった。それは上野というエキセントリックを絵にかいたような女性で、彼女も最初の頃は桶宙らと一緒に運動していたようだが、問もなくそりがあわなくなり、中大から活動家を呼び寄せることになったのだという。そんな事情のせいか、最初の頃は反・反帝学評にこり固まったような女性活動家が二、三人のみの、上野サークルというに過ぎなかった。なぜ上野たちが反・反帝学評にこり固まったのかはわからない。ただ、僕の目にはそれは全く思想的なレベルの問題でなく、単なる人関関係上の行きがかりに過ぎないように見えた。
もっとも上野を評価している人間もいる。それは彼女にオルグられたこともある僕と同学年の森という男で、彼によれば「あれはすごい活動家だよ」ということになる。
たしかに上野はある意味ですごいことは事実だった。ある日、僕が文学部で一番広い教室で鶴見和子の社会学を受けようと座っていたところ、上野がやって来て、いきなり教壇の前で猛烈なアジ演説を始めた。政治的経験も何もない一年生を前にして、例の活動家口調でとうとうとまくしたてたのだから、相当に異様な光景だった。おまけにその目的がはっきりしない。アジテーションのためのアジテーションという感じで、みんなあっけにとられていた。そんな調子で鶴見助教授を教壇の横に待たせ、延々と叫んでいたものだから、しまいには勉強好きなバカ学生から「出て行け」と怒鳴られるようなしまつだった。さらに、これは自分の目で見ていないのだが、一号館前で桶宙らを相手に一人で投石合戦を演じたこともあったらしい。その話を聞いて僕は「アー、見なくて良かった」と思ったものだ。
結局成蹊のブントが党派らしくなったのは、須磨という人材を得てからだろう。須磨は六八年次生で文学会の部員だった。小柄だがガッチリした体格で色浅黒く、いつもチロリアン・シューズをはいていた。大江健三郎の読書会をやった時だったか、何ページにもわたって細かい字で何やらびっしり書きつけたノートをひろげ、一年生の分際で独演会をくりひろげたことがあった。この時は結果的にそうなった按配だったが、この「独演会ぐせ」が党派活動家としての須磨の特徴になっていった。
この須磨を中心に文学会に少し根をのばしたというのが、六八年秋のブントの状況だった。それはまだ党派というよりはグループに毛が生えたに近かった。
ついでながら、僕も上野のオルグ対象の一人だった。しかし残念ながらあまり強くはオルグされなかった。ある日、たぶん文学会のメンパーに誘われて、ブントのアジトにオルグられに行ったことがある。僕としては反帝学評以外の党派に興味津々だったので、むしろ積極的に出かけていった。それは当時ならどこにでもあったような六畳ほどの木賃(もくちん)アパートの一室で、僕たちはゴロゴロしながら上野を待った。しかし待てども待てども上野は来ない。僕は所在ないのでそこらに転がっている赤ヘルメットをいじっていた(のちに須磨が語ったところによると、「うれしそうにヘルメットを撫でてはニタニタしていた」。たしかにその頃の僕はヘルメット集団の一員になれただけでうれしかったので、そんなこともあったかもしれない)。一時間ほども待ったろうか、ようやく上野が到着して、例の調子でしゃべり始めた。それは対話というより一方的なアジテーションだった。もちろん公衆を前にした時のような激した調子ではなかったが、一本調子な演説であることに変わりはなかった。当然頭には何一つ入らない。おまけにその日、僕には予定があった。そこで演説をさえぎってもう帰らなくてはならないと言うと、彼女は一瞬照れ臭そうに笑った。この時の表情からすると、彼女は意外と気の弱い人間なのかもしれない。そして気が弱いからこそ、それを克服するためにはエキセントリックにならざるを得なかったのかもしれない。上野のオルグはこの時が最初で最後だった。そして上野はやがて成蹊から姿を消した。噂によれば、中大からの活動家と仲たがいを起したということだ(真偽のほどはわからない)。
ところで、もしもっと説得力のある人物にオルグられていたら、僕はブントになっていただろうか?仮定話ではあるが、どうもそうはならなかったのではなかと思う。その頃の反日共系の党派というのは、むろん各々の政治主張や路線をもっていたわけだが、かといって言っていることや行動の大枠はそれほど隔たっているわけではなかったから、甲大学に入っていればA派のメンバーになっていただろう人間が、たまたま乙大学に入ったのでB派になったということもあり得た。特に三派系の諸派はその傾向が強かった。何よりも僕たちは活動の「場」を求めていたのだ。しかし人間には自ずから向き不向きがあるわけで、そういう観点から見ると、僕はあまりブントに向いていたとは思えない。
僕の印象では、ブントは新左翼潮流の中でも最も革命的ロマンティシズムの傾向が強かった。そして「革命論好き」でもあった。そしてこの二つの資質から現代世界をロシア革命から来るべき世界革命への過渡期として「革命的に」位置づけてみせたわけだが、あまりに壮大すぎて僕にはどうも革命ごっこをしているような感じがした。言葉を換えれば、現実の社会に対する切実な感情が足りないように思えた。
もっともこれは僕が既に反帝学評の人間関係に組みこまれていて、そこからブント的な世界を見ていたからこう思えるのかもしれない。いずれにせよ、成蹊のブントが完全に党派らしくなるのは、六九年になって一年生を吸収してからのことである。

秋の闘争 惨めなだけの10・21
(中略)

10・21 も機動隊と衝突しなかった
この日、東京都公安委員会はあらゆるデモを不許可にしていた。総評・中立労連の集会のみが明治公園に場所を移されて許可された。この結果、当日は各派バラバラに行動し、反帝学評は明治公園の集会に参加して、ここから国会を目指すことになった。一方、中核・ML派は新宿へ、ブントは丸太を数人でかついで防衛庁へ(この丸太で防衛庁の正門をブチ破ろうというのだ)、革マル・フロントは東大での集会ののち、国会へ向かった。しかし成蹊の部隊にはそれ以前に一波乱が待っていた。

校内図
(構内図)
この日成蹊の反帝学評は初めて大学本館前の欅並木で集会を敢行した。この意味を理解するためには、それまでのいきさつを知っておく必要がある。既述のように大学当局はビラ・掲示物のたぐいに学生部の許可を求め、それに違反したM君を六七年に退学処分にしていた。しかし六八年には学生側が規制を無視して立て看・ビラまき・集会を強行したため、これらは既成事実として黙認されるまでになった。しかし立て看・集会の場所にはまだ制限が残っていて、本館に向かって左横の一号館前までが当局が黙認する限界となっていた。その公式の理由がふるっていて、大学本館前には理事たちが車で乗りつけるため、そこに立て看があったり集会をやっていたりすると、彼らの気分を害するというのだ。しかしこんな理屈に誰も納得するわけがない。要するに成蹊を政治的な無風状態にとどめておこうとするか否か、彼我の力関係のみが立て看の範囲を決めるというわけで、10・21 を機に、欅並木集会を敢行したのである。
しかし下っ端活動家である僕は、当日までこんな形で集会をやることを知らなかった。朝、学校に来てみると、欅並木の通路をふさぐ形で立て看が立ち、ごていねいにもその前には椅子まで並べてある。「いいのかね~」僕は心の隅で思ったが、やはり良くなかった。反帝学評の首脳部(?)は秩序派の数を見くびっていたのだ(逆に言えば、成蹊の学生の知的レベルを高く見積もりすぎていたのだ)。集会が始まる前から、あたりには秩序派の人垣ができていた。そして集会が始まるとたちまち難癖をつけ、しまいには集会そのものをブチ壊そうとしてきた。
ま、秩序派の気持もわからないではない。彼らも僕同様、朝、学校に来てみたら通路が集会用の椅子と立て看でふさがれていて驚き、次いで憤激したのに違いない。その点で確かに反帝学評の行為には「民主的法手続き」という点からいえば正当性を欠く部分がなかったとは言えない。では欅並木に立て看を置かせず、集会を開かせないという論理に「民主的法手続き」はあるか?要するにこれは民主的手続き以前の権利のための闘争なのだ。
それに秩序派の言う「通路をふさぐな」という論理にも、実際上はほころびがあった。というのは、欅並木横の芝生には斜めに法経・工学部方面への近道がついていて、そちらを使う人数の方がずっと多かったのだ。多めに見ても並木を使うのは半数といったところだろうか。並木の横にはやはりわき道があって、舗装がないので歩きやすいとは言い難かったが、そっちを通って通れないわけでもなかった。つまり集会は確かに一つの通路をふさいでいたが、人の通行を完全に遮断しているわけでもなかった。要するに秩序派の言う「通路をふさぐな」は、「本館前の、成蹊の象徴とも言うべきメインロードで集会を開くな」というのに限りなく近い「通路をふさぐな」であり、彼らの本音がそこにあることを僕たちは本能的に察知していた。彼らの論理はまた「理事の気分を害して云々」という大学当局の詭弁に沿うものでもあった。
しかしこの日の秩序派の言っていること、やったこと、暴力行為の数々は、こうした正当 不当論の範囲をはるかに越えるものだ。きっかけこそ「通路をふさぐな」だったが、それはすぐ「成蹊が嫌なら出て行け成蹊は俺たちのものだ 」になり、政治集会そのものの破壊へと突っ走って行った。だからこそ僕たちもまた全力で集会を守るために立ち向かったのである。
当時の反帝学評の最大動員力はせいぜい五十名ほどだったろうか。いや、それより少なかったかもしれない。一方、秩序派は二~三百名はいたように思う。要するに僕たちは完全に秩序派によって包囲されていた。秩序派は立て看を蹴倒し、スピーカーを奪おうとし、一人一人に暴行を加え始めた。僕たちはわめき、罵倒し、何とかこの場を死守しようとした。残念ながらこのあとの細部は覚えていない。集会は粉砕され、おそらく僕たちはスクラムを組んで二重三重に取り巻く秩序派の波を突っ切ったのだろう。完全な敗北だった。もう「通路をふさぐことの道義性」なんてことはふっとんでいた。秩序派のむき出しのエゴイズム、自分のエゴイズムを客観的に点検しようとしない(彼らの後輩、安倍晋三のような)最低のエゴイズムの前に、論理など何の力も持たなかった。
(中略)
この日のデモでは成蹊で初の起訴者が出た。それは反帝学評ではなく、ブント系の防術庁闘争に参加した笹蒲という男で、当時三年生か四年生、僕が一時所属していた文学会の部長をやっていた。全く政治的な人間ではなく、口調に田舎なまりの残る、やや気弱な好人物だった。起訴された理由というのがいかにも彼らしくて、赤ヘルメットの海の中に一人だけ黒ヘルメットをかぶっていたので目立ったというのだ。笹蒲としては「自分は社学同ではなくノンセクトの学生である」ということを示したくてあえて黒ヘルメットをかぶっていたのだろうが、この律儀さが裏目に出たといえる。善人はバカを見るという典型だろう。
この人はあくまで悪い星の下に生まれていたとみえて、もう一つの可哀そうなエピソードがある。僕がまだ文学会に出入りしていた頃のことだが、ある日、彼は吉祥寺の駅前を歩いていた。すると横にいた小学生の一団が突然、
「あっ、殺人犯だ!殺人犯が歩いてる」
と騒ぎだし、駅前の派出所にかけこんだ。笹蒲は驚いて飛び出してきた警官によって、そのまま派出所に連れこまれてしまった。何でも派出所の横に貼ってあった指名手配写真の一人に似ていたというのだが、小学生の言うことだからあてにはならない。それにしても指名手配写真に似ている人間は世の中にいくらでもいると思うが、いきなり街角でこんな目にあう人も珍しいだろう。この話でみんなに笑われている時も、彼はべつに小学生に対して怒るそぶりを見せるでもなく、照れ臭そうに笑っていた。起訴されたのち、彼がどうなったかは全くわからない。

秩序派だらけの成蹊大学
10・21 の騒乱罪は直接的には新宿での騒ぎに適用されたのだが、累はこっちにも及ぶかもしれないとの桶宙の危機アジリにより、翌日は重要書類― なんてものは実はなかったのだけれど ―隠滅のため、文代周辺はてんやわんやの状能だった。他方、集会破壊への怒りは未ださめず、これをクラス討論へともちこんで大衆的に問題化していこうということになった。右翼秩序派による集会破壊は政治行動・言論表現の圧殺にほかならず、これは一人反帝学評だけでなく、学生大衆全体の問題であるーこれは僕たちには自明の理だった。しかし肝心の学生大衆にとっては一人反帝学評だけの問題だったのだ。
その日僕はクラス全員分のレジュメまで切って、大いに〝空気の入った〟状態で授業におもむいた。それはクラス担任であり、文学部長でもあった福与教授による英語の授業だった。レジュメには10・21新宿闘争の総括―と呼べるほどのものでないことは言うまでもないのだがーから秩序派による集会破壊の犯罪性までを全面展開した、僕なりの力作であった。ただし新宿闘争の総括とは、一言で言って「ナンセンス」だった。これは一つには新宿に行かなかった反帝学評の党派的見解の受け売りだったが、同時に「恐ろしいことが起った」というおびえによるものでもあった。これが自分で最盛期の新宿に行ってその熱気にあてられていたら全く違った評価になったのかもしれないが、マスコミ報道によってしか知り得なかったため、よけいに拒絶反応が強まったのだった。いずれにせよ、僕の新宿闘争に対する感想は「米タン輸送阻止という目的がどこかに行ってしまい、騒ぎを起すという面のみが表に出た」というものだった。ただしこれは正確な政治認識による分析では全然なく、先に言ったように恐怖心・日和見意識・無秩序な暴動に対する嫌悪感などがないまぜになって出てきた臆病者の反応だったように思う。
クラス討論を行うためには、まず福与教授に交渉し、授業時間をさいてもらう必要があった。が、話はここからつまずいてしまった。福与教授は頑固に授業を行うことに固執した。一方、僕は 10・21 の間題は重要だから、何としてでも時間をくれと主張する。緊張した論争になったところに女子学生が発言した。授業を行う方に賛成する意見であった。僕の方は孤立無援だった。おまけに議論が変な方にずれてきて、
「あなたも10・21 はナンセンスだと言ってるんでしょう」
というような具合になってきた。僕としては主題は秩序派による集会破壊なのだが、なまじっかレジュメに10・21 闘争の総括などをのっけてしまったため、話がそっちに行ってしまったのだ。つまり彼らの頭の中にはマスコミの報道による秩序なき、無目的な騒乱へのアレルギーがデンと座を占めていて、そんなもののために授業を犠牲にするなどとんでもないという気分だったのだ。一方僕が強調する集会破壊の方は「一部の政治好きの人たちの問題でしょ」ということだったに違いない。
こうしてクラス討論は泡となって消えてしまった。一人だけクラスから浮き上がった気分だった。屈辱的な敗北感を噛みしめながら、僕は教室の椅子に座り、福与教授が何事もなかったかのように英語の授業をつづけるのを呆然と見つめていた。授業のあと、僕はその足で法経自治会室に行き、部屋の壁に次のように大書した。
「大衆は絶対信じない!」
10・21の後遺症はこれだけではすまなかった。大勝利に勢いを得た秩序派により、以後立て看が破壊される事態が頻発したのである。それも深夜秘かに破壊するという姑息なやり方だった。そこで反帝学評はブントの連中もかり集め、ある夜徹夜で張り番の態勢をつくった。全員を五~六人編成の班に分け、一時間交代くらいでキャンパスをくまなく巡回して歩くのである。むろんへルメットをかぶり角材を手にして、怪しい人物がいれば絶対に捕まえてやるという意気ごみだった。破壊の手口からして、犯人はキャンパスの北にある体育会の部室からやってくるものと思われたので、そっちの方まで足をのばした。しかし成蹊の秩序派は正面から攻撃してくるほどの道義性も確信もないとみえて、結局見張りは空振りに終った。何度目かの巡回の時、僕はふっと暗がりの方に踏み入ってみた。何を思いついたのか知らないが、まあそんな気になったわけだ。とたんに足元に何もなくなった。ズボッ!見事に野壺にはまってしまったのだ。幸い小さな野壺で、人っていたのは雨水だけだったため、被害はズボンの片足が裂けただけですんだが、これがこの夜の唯一の事件だった。翌朝、僕はズボンが破れて脛がむき出しになった情ない姿のまま、パスに乗って家に帰った。
こうしてせつかくの徹夜態勢は成果もなく終ってしまったが、別の夜、ついに犯人を捕まえることに成功した。七時か八時だったろうか、まだサークル活動などで学生が残っているような時刻、僕たちも何かの用事で法経自治会室に集っていた。そこに突然自治会の会計をやっていたHがかけこんできた。
「誰かが立て看を運んで行ってるよ」
その言葉が終ってから一番敏捷なやつが立ち上がるまで、半秒もなかったのではなかろうか。僕たちは文宇通りおっとり刀でかけつけた。犯人の行方は体育会の部室の方に決まっている。案の定、立て看のあった場所からそっちの方角へ数十メートルほど行った暗がりの中で、立て看を運んで行く四~五名の男を捕まえた。男たちはこんなことをしでかしたにしては、いやにのほほんとしていた。僕たちは十名ほどもいたろうか。それだけの人数が足音も高くかけつけたというのに、立て看を捨てて逃げるでもなく、まさに立て看を盗んでいくそのかっこうのままで捕まったのである。自分がやっていることの重大さを認識していないのだ。同時に我々はその程度になめられてもいたわけである。
さっそく暗がりの中で一悶着始まった。しかしいきなり乱闘になったわけではなく、全体としては口論のレベルにとどまっていた。そのうち騒ぎに気づいた学生が集ってきた。それはたまたま帰宅途中の学生だったかもしれないし、ひょっとしたら仲間が捕まったのを知って、かといって犯人の一味と思われたらまずいので他人のような顔をしていた秩序派だったのかもしれない。あるいは両方の人間が入り乱れていたのかもしれない。その中に一人の薄気味悪い男がいた。男は立て看を取り巻いている僕たちの間を、ヘラへラ笑いながらウロついていた。そして口論とは無関係に、僕のような下っ端活動家の一人一人を捕まえては、ポケットから小さなナイフをちらつかせ、
「おい、今度はこれでやろうや」
というようなことを言っていた。男の口調はヘラへラ笑いと同様にまるで冗談を言っているかのようだったが、異常に冷血で無道徳なものを感じさせた。ほかの秩序派は秩序派なりの正義感―たとえそれが私益を守るための大義名分だとしてもーに基づいて行動しているように見えたが、この男にはそんなものはカケラもないように思われた。その時、機を見るに敏なやつが男を見つけて大声で叫んだ。
「おい、あいつナイフを持ってるぞ!」
さすがに秩序派はあわてたようだった。そしてヘラへラ男をどこかに隠してしまった。これで口論の大勢は決まったようなものだった。秩序派をやっつけたというには程遠いが、集まってきた学生の仲裁もあって、全体としては勝利のうちに立て看を取り戻した。
不思議なことに、このヘラへラ男は二度と姿を見せることはなかった。この時の雰囲気はそれほどさし迫ったものではなかったため、男がナイフをちらつかせても恐いという感じはしなかったが、それでも「あいつがまた出てきたら、いささか気味が悪いな」という気はした。思うにヘラへラ男はこのあとどこやらの部室でこっぴどく叱られ、逆に成蹊の秩序派の軟弱さに嫌気がさしたのではなかろうか。ヘラへラ男は明白なチンピラ右翼だったのだろうと思うが、成蹊の秩序派は自分たちを右翼だとは思っていなかった。それどころか、僕たちが「右翼」と呼ぶと、「俺たちは右翼じゃない」と憤慨したほどだ。たしかに成蹊の秩序派は右翼思想を持っていず、また日大の体育会系右翼のようにナタやチェーンで武装することもなかった。しかしやっていること、言っていることは本質的に日大の右翼と同じだった。上から与えられた秩序を無条件に守るのが正義だと思っていること、人学→ 進級 →就職という私益を「学園を守れ」という大義名分で表現していること、「学園」は自分たちのものだと確信していること、批判そのものを否定していること等々、日大の右翼と変わるところがない。にもかかわらず自分は右翼とは違うと思っている。要するに成蹊の秩序派は右翼にもなれない軟弱集団なのであり、そんなところにヘラへラ男は嫌気がさしてどこかに行ってしまったーというのが僕の推測なのだが ・・・。(ただし、たまたま成蹊にいた他大学の学生である可能性もある。)
翌日、僕たちがこの立て看持ち去り事件を大々的にアピールしたことは言うまでもない。そしてその際「ナイフちらつかせ」の件を最大限に利用したこともまた言うまでもなかろう。とにもかくにもこれで秩序派による計画的な犯行であることが明白になったわけで、立て看破壊は表現の封殺への第一歩だという認識が急速に広まった。そこで各学部自治会の共催で立て看破壊をめぐる討論集会を開くことになった(文化会も加わったかもしれない)。場所は大講堂だったが、けっこう人が集まった。これは立て看破壊に対する関心が、少数の左翼をはるかに越えて高まっていることを示していた。集った中には秩序派っぽいのもいたが、圧倒的多数は秩序派の行為を非難するものだった。むろん最も張り切って発言したのは反帝学評とそのまわりに結集するメンバーたちだった。この日僕はたまたま学生服を着ていた。この頃はまだ大学生が学生服を着ていてもそれほど奇異ではなかったのだ。高校時代まではむろんお仕着せの詰め襟服など好きではなかったが、大学生になって「お仕着せ」の要素がなくなると、学生服というのは意外と便利なのに気がついた。特にデモに行くのに便利だった。まず機動隊に少しくらい引っ張られても破けないほど丈夫である。第二にあの黒色は意外にも汚れが目立たない。転んでもほこりを払えばいい。第三に一般学生っぽく見えて、捕まる可能性が低いように思えなくもない ―そんなわけでこの日も学生服を着ていたのだが、どうやら隣に座った男は僕を秩序派と間違えたらしかった。
「ねえ、君、どうして近経の人間は発言しないのかね」
「え?」
「いやね、マル経の連中ばかりが発言しているじゃないか。近経の人間がいるといいんだけどなあ」
僕としては立て看破壊と経済学のセクトなど関係ないと思うのだが、こういう頓珍漢な人もいたのである。この直後、僕が秩序派の発言を野次りだすと、この人は黙ってしまった。
それはともかく、この討論集会は大成功だった。秩序派は左のみならす中間派からも非難されて、しまいには何も言えなくなり、大衆的に恥をかいたかっこうになった。たぶん彼らは成蹊には立て看は似合わないという論理が通用すると思っていたのだろうが、普通の人は言いたいことを目立つ形で発表するのは基本的な権利だと考えているということが確認されたわけである。おかげで以後、立て看破壊はやんだ。
成蹊ビラ2
(「中教審・大学紛争処理法を粉砕せよ!」成蹊大学全学共闘会議 1969.5.23)

一九六九年
 東大・日大闘争が一応の終息を見た一九六九年の四月三日、学生の各家庭(保証人)宛てに成蹊学園より一通の書簡が届いた。大学の経営が苦しく、「設備充実費」二万四〇〇〇円を払い込んでほしいという要請文だった。全国で学園闘争が沸き立とうとしているこんな時に何をバカなことを言っているんだと僕たちは驚いたが、これは実質的な学費値上げだとして急遽自治会運動に関心のある学生をかり集め、新学期開始の日に学園当局の本拠がある本館前で集会を組織した。そしてそのまま本館内に突入し、たまたま居合わせた丹羽総長代行を引っ張り出し、三〇人前後で取り囲み、吊し上げた。しかし当然ながらその場では設備充実費撤回とはいかず、我々は払い込み窓口の経理課に押し込み、占拠し、簡単なバリケードを築いて封鎖した。同時に全学共闘会議を結成した。
 この一連の集会・封鎖で驚いたことは、前年より少数のブントが登場したものの、ほぼ反帝学評の独り舞台と思われた成蹊大に、中核派とフロントがいたことだ。つまり彼らは以前からひっそりと陰で活動していたらしいのだ。
 この経理課封鎖の結果、学校側はあっさりと設備充実費の一時停止を決め、それを受けて封鎖も解除された。しかし全共闘と文学部代議員会(自治会)は単なる一時停止でなく、白紙撤回と学生会館建設・大衆団交開催などの四項目要求を掲げ、十二日には文学部が成蹊史上初めてのストライキに突入した。また六月二日には大衆団交(学校側によれば「説明会」)の決裂を受け、学長室及び付属する部屋を占拠・封鎖した。その結果六月十二日、学園理事会が既に徴収した設備充実費の返還を決定、全共闘は封鎖を自主解除した。
 この頃には東大・日大闘争の警察力による圧殺に反撥する学生により、全国の大学で大規模な学園闘争が拡大しつつあった。運動の高まりの中で六月二十四日、三多摩地区の全共闘を糾合し、成蹊で「三多摩学生総決起集会」を開催することを計画し、実行に移した。各大学の学生たちが次々に成蹊にやって来た。だが大学はこの集会を禁止し、正門を閉ざして学生の入構を防いだ。同時に秩序派を大動員し、構内から施錠された正門を開放しようと突撃する全共闘に襲いかかった。前年の10・21欅並木集会の再現である。大学と秩序派の精神構造は「成蹊を守れ」、つまり社会の荒波から成蹊学園だけは無関係でいたい、現状の中で自足していたいというせせこましい学園ナショナリズムである。全共闘側は数において五倍とも十倍とも見える秩序派の壁を突破できず、「総決起集会」は敗北に終った。またこの衝突の中で学外にいた東京女子大の学生が秩序派の投げた石にあたって負傷した(ちなみに彼女は今でも救援連絡センターで元気に活動している)。

三多摩集会1 (1)
(三多摩学生総決起集会)

三多摩集会3
(三多摩学生総決起集会)
 全国に拡大した学園闘争の嵐は最盛期で全大学の八割に当たる165校に及び、学生の怒りを理解しようともしない自民党政府は闘争つぶしと大学の管理強化を狙って大学立法(大学の運営に関する臨時措置法)の上程を決定、八月三日に参院で審議を省略したうえで強行採決した。これはまた七〇年安保闘争の帰趨を決する十一月の佐藤訪米阻止決戦に向け、大学の拠点化つぶしの治安立法でもあった。
 全国で巻き起った大学立法粉砕闘争は成蹊にも及んだ。
成蹊ビラ3
(「ストで起て!」文学部代議員会 1969.6.30)
 七月十一日ごろ、文学部は学生大会で大学立法粉砕の無期限ストライキを議決した。そして1号館を占拠し泊まりこんだが、季節は夏休み。ストライキは名目的なものと化し、当時のビラによれば「その内実は無人化したバリケード、クラス・ゼミの拡散、諸個人の分断であった。」そして夏休み明けの九月十日、文学部学生大会が開かれた。そこに全共闘が提起した問題に何の関心もない秩序派(形式上は大学生と言いながら、実体は知性の欠落した群衆)が集結、ストはあっさりと解除された。その夜、全共闘は全員で侃々諤々の会議を開くが、論議はああでもないこうでもないと行きづまった。煮詰まったような空気で沈黙が支配する中、リーダー格の学生が突如、「よし、やろう!」とひと吠え。煮詰まった空気は解放感へと一転、机を引き剥がし、長椅子と組み合わせ、今度は本格的なバリケード構築にとりかかった。安田講堂のバリケードづくりの経験が役に立った。このバリケードにはアメリカン・フットボール部がヘルメット姿で破壊せんとちょっかいを出したが、屋上からこぶし大の石を投げ落として撃退。しかし九月二十二日の夜、警察無線を盗聴していた国際基督教大の学生が自治会室を訪れ、翌朝、機動隊導入があることを教えてくれた。大きな大学と違って、「断固としてバリケードを死守」の声は一つもなく、全共闘は成蹊を退去、東大三鷹寮に亡命政権をつくった。(武蔵野美術大もちょっと前に亡命政権をつくっていた)
 以後、何度か正門前、井の頭公園、善福寺公園で抗議集会を開くも、間もなく全共闘は解体・分散状態になって行った。活動家集団はそれぞれの党派に分かれ、10~11月の佐藤訪米阻止闘争へとなだれ込んだ。

まとめ
結局、成蹊の運動の困難性はこの大学が歴史的に民主的基盤が薄く、時代と社会に敏感な学生がきわめて少ないところにある。民青すら育たないのだ。特に法学部・経済学部・工学部にその特徴が強い。この環境で育った一人に安倍晋三がいるのもむべなるかなである。安倍の知的貧困には成蹊の土壌が強く影響していると、私は確信する。
また全共闘運動全体を振り返ってみれば、要するに僕たちは自分たちを苦しめていた受験戦争の元凶である大学を破壊したかったのだとつくづく思う。授業料値上げとか学館の管理運営権などの目標は言ってみれば口実であり、本当は大学と教育を破壊したかったのだ。今にして思えばこれが本音であった。そしてだからこそ全共闘運動は革命的であったのだ、と自信をもって言おう。
だが全共闘が革命的だったのはここまでだった。70年になると活動家は激減。支持者の前でかっこ良くアジっていた者ほど引くのは早かった。71年の三里塚・沖縄闘争まで残ったのはほんの数人だった。その中の一人も73年に自殺した。
その後の展開は皆様ご存知のとおりである。結局新左翼を含む戦後革新派は、70年代以降に何も生み出すことができなかった。そして21世紀も五分の一を過ぎた現在、戦後民主主義と革新派は深刻な分解過程に直面している(と僕は見る)。ある者はウクライナ戦争について「ゼレンスキーは平和のために武器を置け」と言って実質的にプーチンの侵略を容認し、ある者は米国の覇権主義とプーチンの侵略を「どっちもどっち」と相対化し、ある者は「専守防衛は違憲ではない」と以前の自民党の地点まで後退している。立憲民主党の堕落は目をおおうばかりだ。
しかし目を世界に転じれば、全く異なった光景が見えてくる。いわゆる「新自由主義」とグローバル資本主義の矛盾は露わになり、資本主義の繁栄は飽和点に達している。22世紀には世界の人口が減少に向かう。世界GDPも減少に向かう。世界の若者はこれらの矛盾に果敢に抵抗している。日本だけが沈没に向かっている。
このような状況の中で、僕たちはいかに残り少ない人生を送るべきなのか。先日(2022年5月24日)の戦争法(安保法制)違憲国賠訴訟の東京高裁判決を前にして、60年安保世代とおぼしき女性が「無駄な死に方はしない。子供たちに無駄な死に方はさせない」と発言していた。自分のやるべきことを静かに行い、静かに去って行くだけなのだろう。
(終)

【6月4日の開催の「重信房子さん歓迎の宴」で販売された本の紹介】
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『戦士たちの記録 パレスチナに生きる』」(幻冬舎)重信房子 / 著 
(幻冬舎サイトより)
2022年5月28日、満期出所。リッダ闘争から50年、77歳になった革命家が、その人生を、出所を前に獄中で振り返る。父、母のこと、革命に目覚めた10代、中東での日々、仲間と語った世界革命の夢、そして、現在混乱下にある全世界に向けた、静かな叫び。
本書は、日本赤軍の最高幹部であった著者が、リッダ闘争50年目の今、"彼岸に在る戦士たち"への報告も兼ねて闘争の日々を振り返りまとめておこうと、獄中で綴った"革命への記録"であり、一人の女性として生きた"特異な人生の軌跡"でもある。
疾走したかつての日々へ思いを巡らすとともに、反省を重ね、病や老いとも向き合った、刑務所での22年。無垢な幼少期から闘争に全てを捧げた青春時代まで、変わらぬ情熱もあれば、変化していく思いもある。彼女の思考の軌跡が、赤裸々に書き下ろされている。
さらに、出所間近に起きたロシアのウクライナ侵略に対する思いも、「今回のウクライナの現実は、私が中東に在り、東欧の友人たちと語り合った時代を思い起こさせる。」と、緊急追記。元革命家の彼女に、今の世界はどう見えているのか。
定価 2,200円 

9784792795887

『重信房子がいた時代』(増補版)(世界書院)由井りょう子/ 著
(紹介)
2022年5月28日、日本赤軍の重信房子が20年の刑期を終えて出所した。
フツーの女子大生が革命家になるまでの足跡を、本人、家族、娘、同級生らの証言を丹念に聞き取ったノンフィクション。
重信房子を通して、あの時代の熱量を再現する。

目次
第一章 戦後民主主義の申し子
四〇年ぶりの再会
戦後民主主義に育つ
父とのささやかな遠出
理科と文学に親しむ
貧乏は恥ではない
デモも貧乏も嫌い
文豪に会いに行く
夢は先生になること

第二章 学生運動の季節
大学入学
スーツで座り込み
自治会活動
政治の季節
ブントの重信
救対の重信
一〇・八 
同人誌『一揆』
神田カルチェラタン
教師になりたい
大学祭

第三章 父と娘の革命
本気の革命
父は右翼
血盟団事件と父・末夫
全共闘運動
学生運動の変質
赤軍派でも救対
国際根拠地づくり

第四章 アラブに生きる
和服を着て大使館のパーティーに
山口淑子との出会い
父の毅然とした態度
父と娘
母・房子

第五章 娘に託した希望
アンジェラという名前で
メイ十六歳の誕生日
房子の逮捕
母の国、桜の国
日本、娘の日本

嘘  
 重信房子 
 高校三年生の時の小説

あとがき 
 もうひとつのあのころのこと
 重信房子 

(著者プロフィール)
由井りょう子  (ユイ リョウコ)  (著/文)
1947年12月、長野県生まれ。
大学在学中から雑誌記者の仕事を始め、主に女性誌で女優や作家のインタビューを手がける。
著書に作家・船山馨夫婦の評伝『黄色い――船山馨と妻・春子の生涯』(小学館)
共著に『戦火とドーナツの会い』(集英社)ほか、
編纂に『革命に生きる――数奇なる女性・水野津太――時代の証言』(五月書房)
がある。

定価1,800円+税

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『私だったかもしれない ーある赤軍派女性兵士の25年』(インパクト出版)江刺昭子/ 著
(紹介)
1972年1月、極寒の山岳ベースで総括死させられた遠山美枝子。
関係資料と周辺の人びとの語りで、複雑な新左翼学生運動の構図、彼女が学んだ明治大学の学生運動と赤軍派の迷走を描く。

目次
第一章 2018年3月13日横浜相沢墓地
第二章 重信房子からの手紙
第三章 ハマッ子、キリンビール、明大二部
第四章 バリケードの中の出会い
第五章 「きにが死んだあとで」
第六章 赤軍派に加盟
第七章 遠山美枝子の手紙
第八章 新しい世の中を作るから
補 章 伝説の革命家 佐野茂樹

(著者プロフィール)
江刺昭子(エサシアキコ)
1942年岡山県生まれ
広島で育つ。女性史研究。
著書に『樺美智子 聖少女伝説』などがある。

定価2,000円+税

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『歌集 暁の星』(皓星社)
連帯の火矢! 重信房子第二歌集
(皓星社サイトより)
テロリストと呼ばれしわれは秋ならば桔梗コスモス吾亦紅が好き
 
元日本赤軍リーダー・重信房子が21年に及ぶ刑期を終え、この5月に出獄する。
本書は獄中で書き溜めてきた短歌をまとめた第二歌集。著者は革命の日々を、連合赤軍事件で粛清された友・遠山美枝子を、現在の世界の悲惨を、二十数年にわたり詠み続けて来た。
本書の歌は、著者のもがきと葛藤の発露であると同時に、歴史の証言でもある。

海外で暗躍すること四半世紀を超え、国内での潜伏と獄中の日々、重信は一体、この斬新で清潔な文体をどこで獲得してきたのだ。
……戦い死んでいった同志への哀悼に、柔らかな心の襞を涙で濡らし続けてきたのだろう。(福島泰樹「跋」より)

アネモネの真紅に染まる草原に笑い声高く五月の戦士ら
空港を降り立ち夜空見上げればオリオン星座激しく瞬く
雪中に倒れし友の命日に静かに小さな白き鶴折る
津波燃え人家逆巻き雪しきり煉獄の闇 生き延びし朝
パレスチナの民と重なるウクライナの母と子供の哀しい眼に遭う

定価2,000+税

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在12校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ  その2】
ブログは概ね隔週で更新しています。
次回は8月12(金)に更新予定です。

 今回のブログは、「続・全共闘白書」Webサイトの「学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録」コーナーに投稿のあったT氏の「僕の全共闘時代」という記事の紹介である。
 この記事は東京・武蔵野市にある成蹊大学での闘争を中心に書かれたものであるが、230ページにも及ぶ労作なので、その中から1968年の成蹊大学での活動の部分を抜粋して掲載することにした。また、この寄稿文には1969年1月以降は書かれていないため、1969年の全共闘の部分は追加で寄稿していただいた。当時の活動家や大学内の様子がよく分かる内容である。
抜粋しても25ページくらいになるので、前編と後編の2回に分けて掲載する。
なお、成蹊大学は、先日亡くなった安倍元首相の出身大学である。

【僕の全共闘時代(抄)】
大学入試
(中略)
六七年の終り頃だったろうか、僕は初めて入試のための実力テストというのを受けてみた。たぶん僕の年代の受験生なら一人残らず受けていたであろう「旺文社のテスト」というのも、僕はこれまで一度も受けたことがなかったのだ。高校時代はもちろん、予備校に通うようになっても(といってもほとんど行かなかったのだけれど)、一度も受けたことがなかった。だから僕には自分の学力のほどが全くわからなかった。とにかくどこでもいいから引っかかってくれればいい、しかしそれさえもおぼつかないという気持だった。ところがこの初めての実力テストで、どういうわけか「早稲田までもう一歩」という結果が出た。これはたぶんマグレか、さもなければものすごく甘い点で受験生を力づけているに違いないと思った。この推測は当たっていたらしく、次にもう一度だけ受けてみたテストでは分相応に「早稲田は難しい」という評価になった。それでもどこやらには引っかかるかもしれないという希望が出たわけで、たぶん僕はほっとしたに違いない。
そんな状態だったから、僕は東京で受けられる大学は全部受けた。といっても受けられる大学は限られていた。というのは、僕は社会科で倫理社会を選択したのだが、その頃は倫社で受けさせてくれる大学がとても少なかったのだ。なぜ倫理社会なのかというと、まず僕は地理が全然ダメだった。歴史もダメだった。歴史というのは些末な年代の丸暗記としか思えなかったのだ。その無意味な数字を子供じみた語呂合わせや出来の悪い駄ジャレで覚えこもうとする空しい努力が大嫌いだった。
というわけで、まず僕は政治経済を選択することにした。これなら僕の関心にも合うと思ったのだ。ところが政治の方はともかく、経済でつまずいてしまった。経済の教科書はのっけから「経済の三要素は土地と資本と労働である」という言葉で始まっていた。今でこそこれが何を意味するのかおぼろげながらわかる気がするが、十八歳の僕にはわけのわからない呪文のようにしか聞こえなかった。そこで「経済の三要素=土地・資本・労働」と丸暗記してみたが、こんな勉強が面白いわけがない。「それがどうしたんだ!」と腹さえ立ってくる。こうして政治経済にはあっさり挫折して結局倫理社会で受けることになったのだが、さて困ったことに倫社を社会科に含めている大学は東京中で五つしかない。東洋大・中大・上智・成蹊・早稲田がそれである。学部は文学部と初めから決めていた。理数系はテンから問題にならず、政経は前述のとおり、法律と聞いただけでもムシズが走り、勉強嫌いの怠け者が教育学部など受けられるわけがないとくれば、文学部以外にないではないか。
僕は自分の学力もよくわからなかったが、この五大学の難易度もよくわからなかった。大体の順番くらいは何となく見当がついたが、それがどのくらいの差で並んでいるのかはさっぱりわからない。東洋大が事実上のすべり止め校として有名であることも知らなかったのだ。
入試の手続きは当然その東洋大から始まった。受付で手続きをしているとき、窓の下の白山通りを東大の方に向けて二~三十人のヘルメット姿の学生が隊伍を組んで進んで行った光景は、今でもはっきりと覚えている。
試験は二月十一日に行われた。これは最悪の日程だった。というのは、その前年に政府が革新陣営の反対を押し切って、戦前の「紀元節」を「建国記念日」という名前に変えて祝日にしたからだ。多くの大学で同盟登校が行われた。そして二年目のこの年も事情は全く同じだった。十一時頃から紀元節復活反対の集会が中庭で開かれ、大学中に響きわたるような大音量のアジ演説が窓ガラスを通過して入ってきた。試験も何もあったもんじゃない。
休み時間になると集会は一時中断して受験生への呼びかけといった形になっていた。受験生の中の元気のいい一人は活動家に対し、「人が入学試験を受けている時に、なぜわざわざそれを妨害するような形で集会を開くのか。集会が他人に対する呼びかけという意味をもつなら、もう少し配慮というものがあってもいいではないか」という質問をしていた。僕もそう思った。正直な話、自分自身学生運動を通り抜けてきた今でもそう思うのである。活動家は何やらそれに対して答えていたようだが、その答がどうであったか記憶にない。いずれにせよあまり説得力のあることは言えなかったに違いない。運動のさ中にいる時は、そういう正論を自分の中で無理矢理わきに押しのけてしまうものなのだ。ついでながら、この受験妨害のアジテーションをやっていたのは、のちに解放派全学連委員長になる内城に違いないと僕はにらんでいる。
中大の入試も学生運動がらみだった。学費値上げ反対のバリケード・ストライキで校舎が封鎖されていて、いつまで経っても入試手続きが始まらなかったのだ。このまま行ったら入試中止かとせっぱつまった二月十六日、大学が値上げ案を白紙撤回して、翌十七日からようやく入試事務が始まった。
その日の夕方、ニュースでそれを知って、僕はさっそく手続きに行った。一口で言って、中大は陰気なところだった。校舎が中庭をロの字型に包囲していて、そこここに立て看(立て看板)―という学生運動の業界用語はその当時まだ知らなかったが ―を燃やした跡があった。さながら「燃え殻や つわものどもが 夢の跡」とでもいった、荒涼とした風景だった。
中庭は一面アスファルトでおおわれていて、草木一本はえていない。良く言って中世の修道院、悪く言えば監獄のようだ。この印象はストライキが解除されたばかりだからというわけではなくて、入試の当日も全く変わらなかった。とにかく中大の校舎は他大学と比べてもひときわ暗く、汚かった。中大は東京でも最も学生運動が盛んな大学の一つだが、この陰気な校舎がその原因の一つ、あるいは最大の原因だったに違いない。
早稲田の入試では、そのものすごい人波に圧倒された。僕はそれまであんなに巨大な人間の塊を見たことがなかった。もっとも人数だけなら野球場の退け時の方があるいは多いかもしれない。だがこの人波には野球場のようなざわめきも熱気もなかった。巨大な塊が黙々と、次から次へと同一方向へ流れていく。僕は比喩でなく一種の恐怖を覚えて一人だけわき道に入り、高田馬場駅まではるか遠回りして帰った。

こうしていろんなことのあった一年間が過ぎ、どうやら大学人試も終った。結果は三勝二敗、東洋大、中大、成蹊に受かり、上智と早稲田をすべるという成績だった。高校以来の不勉強ぶりからすれば、上々の結果だったと言ってもいいだろう。
この受かった三校のうち東洋大は自他共に認めるすべり止め校として入学手続きがひときわ早く、他大学の人試発表の前に入学金を納めなければならない仕組みになっていた。そこでとにかく入学金を納め、身分を確保した、これでどうやら宙ぶらりんの生活に終止符が打たれたわけだ。
もっとも三校に受かったとはいっても、そのうち成蹊大はかろうじて補欠に引っかかった状態だった。この補欠というのが曲者で、正規の入学金のほかに「寄付金」(というような名称だと思った)のお願いがくっついてくるのだ。この「お願い」によれば寄付は強制でなく、払うも払わないもまったく任意であるという。しかし暗々裡に「払えば払うほど入学の確率が高くなるし、払わなければ身分の保証は致しません」と言っているようにも聞こえる。つまり「補欠」という何だかよくわからない状態の不安につけこんで、なるべく多くのカネを引き出そうという仕掛けなのである。結局父はかなり多額の寄付金を払い込んで、かろうじて僕は成蹊大に入学を許されることになった。
成蹊を選択した理由は、一言で言って入試における女の子の多さと美人度であった。恥ずかしながらたぶんそれが最大の誘因で、次にキャンパスの小ぎれいさ。アスファルトとコンクリートにおおわれた中大や東洋大と違って、成蹊は市の記念物であり詩人の金子光晴が称賛したという見事な欅並木が五日市街道からつづき、その向こうに芝生と煉瓦づくりの校舎が広がっていた。それに加えて通学時間も最も短く、高校よりも近かった。しかしこの判断が実にアサハカであったことを、入学したのち僕は嫌というほど味わうことになる。小ぎれいなキャンパスの裏にあるものを、その時は見抜けなかったのだ。
何とか成蹊大に入学して僕がまず思ったのは、「絶対に中退はすまい」ということだった。入学したとたんに中退のことを心配する人もあまりいないかもしれないが、僕の場合は高校のように過ごしていれば、必ず中退になるだろうという確信のようなものがあった。間際になって大学に行かないと言い出し、就職したとたんにやっぱり大学に行くと心変わり、すべり止めの入学金に加えて寄付金まで出させて、やっと入学したと思ったら今度は中退― ではあまりにひどすぎると、さすがの僕も思ったのだ。

野次馬として王子へ
(中略)

成蹊というところ
初めのうち、大学というところは居心地が良くなかった。それが証拠に、最初の一週間、僕は全く授業に出なかった。いや、出られなかった。なぜか気後れがして、きめられた校舎の、きめられた教室に人っていくことができなかったのである。
成蹊はあまり学生運動が盛んなところとは見えなかったが、それなりに立て看は並んでいた。しかし政治党派らしきものは「反戦学評」という耳なれない組織のものがあるだけだった。僕は中核はいないのかとウの目タカの目でさがしたが、どうやら成蹊には中核派は棲息していないようだった。なぜ中核なのかといえば、神様である山﨑君は中核派だったし、三派系全学連の輝ける委員長である秋山勝行も中核派だった。10 ・8以来の数々の闘争で、とにかく「中核」の名が圧倒的に目立ったのだ。
実は成蹊にも中核派はいたのである。しかしアホなことに彼らは「反戦会議」の名前で、ベニヤ板二枚張りの小さな立て看を一度出したきりで、あっさり姿を消してしまった。後になって知ったところでは、「反戦会議」は中核派の大衆組織 つまり、マルクス主義学生同盟中核派では恐ろしくて入る気がしないという人たちをプールするための場 だったのだが、成蹊大の中核の本体はまるで秘密組織のように自分の名を表に出さず、地下に潜ったままだった。こうして中核派はあたら優秀な活動家(?)を一人失ったのである。(中略)
従って 10 ・8以来の主役は、何かというと角材と石ころを持ち出す三派系全学連であった。三派系の三派とは動員数の多い順に社学同(社会主義学生同盟。通称ブント)、中核派、社青同解放派(社会主義青年同盟・解放派)の三つをいう。当然成蹊大にこの三つが存在するかということが、入学以来の主要な関心事となった。
ところが成蹊はこの組織系統図のどこにあてはまるかさっぱりわからない「反戦学評」の独り舞台であるらしかった。空色のヘルメットをかぶっていることと言っていることからして、反日共系のどこかに分類されるらしいが、新聞にもどこにもそんな名前の党派は見当らない。それも道理で、「反戦学評」は成蹊だけに通用する名称だったのである。
ここでこの成蹊大反戦学評(反戦学生評議会)がどのようにして発生したか、従って成蹊の学生運動がどのように生まれてきたかについて説明しておこう。後で小出しにするよりあらかじめここで整理しておいた方が、のちの様々な現象を理解するために都合がいいと思うのだ。といっても、話はそう大して昔に戻るわけではない。昔に戻るほど成蹊には学生運動の歴史はないのである。
僕が入学した当座もそうだったが、成蹊の政治状況を語る時第一番に持ち出されるのが、一九六四年の『朝日ジャーナル』の記事だ。その頃『朝日ジャーナル』には「大学の庭」と題する大学探訪シリーズが連載されていて、その成蹊大学の項には「無風地帯」とタイトルがつけられていた。
さらに言えば、この「無風地帯」は成蹊大の伝統であったらしい。のちに社研(社会科学研究会)の部屋の古い棚から見つけ出した昔の資料によれば、あの歴史的な六〇年安保闘争の時でさえ、成蹊の学生は全学連主流派(反日共系)の方に行こうか、非主流派(日共系)の方に行こうかとウロウロしていたらしい。言ってみればどっちつかずの非政治的な存在だったわけだが、分類したがる警察によって無理矢理日共系の方に仕分けされていたという。
しかし政治的に無風地帯であったことは大学当局が学生に自由にふるまわせていたことを意味しない。むしろ全く逆であって、高校なみの表現規制をしていた。例えば掲示物は所定の場所に学生部の許可をとって貼らなければならぬ、看板は本館裏の道のわきのみ許可する(つまり、目立つところには立てさせない)、といったようにである。さらに、学長談話を一面に載せず二面にまわしたという笑ってしまうような理由で大学新聞を発行禁止にしたこともある。要するに無風地書というのは風が吹くほどの問題が存在しないということではなくて、問題の存在に学生が気づかない、学生の大多数に政治的自覚がないということにすぎないのだった。
しかし一九六〇年代の高度成長は成蹊大学に新たな展開をもたらすことになった。未曾有の経済の繁栄の中でベビーブーム世代が進学をむかえて大学生の数が急増し、また大学進学率は今後も上昇しつづけるだろうという見通しを背景に、それまではこぢんまりした経済系の単科大学であった成蹊大も、総合大学化の道を歩み始めたのである。まず技術革新のための花形学部であった工学部が、つづいて文学部が新設され、さらに政経学部が法学部と経済学部に拡大分離されることになる。そしてそれぞれの学部は卒業生の輩出をまって大学院が設けられることになった。
こうした大学自体の変化に加え、ベトナム反戦運動の高まり、さらに六五年あたりから顕著になった学園闘争の激化などを背景に、無風地帯にもそよ風が吹き始める。まず総合大学化とともに学生の間に統合自治会運動が起った。しかしこれはーおそらく学生運動の興隆を恐れたー大学側によってつぶされた。そして僕が入学する前年の六七年には、大学の許可を受けずにビラを配り、掲示板に貼ったという理由で退学処分になったMという学生が、首に犬の首輸をはめるという異様なかっこうでハンストを始めた。しかしこの闘いも敗北に至る。
このように当時の成蹊大には何となく鬱屈した気分と、何かやらなければという昂揚した気分が一緒になって潜在していたようだ。そこに一人の女子学生が早稲田からオルグとして目黒という活動家を連れてきた。目黒は精力的に、しかし粘り強く活動を始め、短期間のうちにMの処分反対闘争やベトナム反戦の運動に参加していた者などを糾合し、政治党派にまとめあげた。
目黒は早大反帝学評の活動家だった。反帝学評は社青同解放派の学生組織である。つまり目黒のつくった「反戦学評」は三派系全学連の一つ、反帝学評のことだったのだ。反帝学評は青色のヘルメットをかぶり、成蹊大反戦学評は空色のヘルメットをかぶる。
なぜ目黒はこのようなまぎらわしいことをしたのだろうか。まず考えられるのは、成蹊の政治風土を考慮したということである。当時成蹊には党派は少なくとも表立っては一つも存在していなかった。民青すらいなかった。この民青すら育たないという事実は、成蹊にいかに民主的な土壌が乏しいかという象徴のようなものだといえる(そしてこのことは後々までに重大な影響を与えつづける)。こういう戦後民主主義以前的な風土にいきなり「反帝」という強烈な言葉をもちこむことは得策でないと目黒は判断したのではないか。そしてとりあえず反帝国主義を反戦にうすめ、青色を空色にうすめて、成蹊の小ぎれいな芝生の上にデピューさせたのだろう。
同時にこれは目黒独特の政治手法だったようだ。成蹊の運動がひとり歩きするようになって、目黒は成蹊を去った。そして今度は労働者を組織すべく調布地区で活動を始め、調布反戦をつくったが、これも当初は無党派をあらわす黒ヘルメットをかぶっていた。そしてイデオロギー的に固まってきた段階で青ヘルメットになった。しかし考えてみると、これは戦闘性や党派性を最初から強く打ち出す新左翼翼系党派の政治スタイルとはかなり離れている。また目黒の風貌も、僕がのちに会うことになる反帝学評の活動家の一般的なタイプとはかなり隔たっていた。反帝学評の一般的なタイプが 議長の三井一征に代表されるように モダンな青年という感じだったのに比べ、目黒は色浅黒く、労働者的、おじさん的な風貌をしていた。反帝学評というよりむしろ社青同の活動家と言った方がぴったりくる(社育同はもともと社会党の青年組織だった)。そういう意味では全共闘運動の全国的爆発を前にして早大を去ることになる早大随一の活動家、大口昭彦の風貌とも共通するものがあった。これは全くの臆測だが、目黒はどんどん過激化し、新左翼化する反帝学評の運動に違和感を覚えて成蹊にやってきて、さらには労働者となって行ったのではないだろうか。
しかしそれはそれとして、目黒がきわめてすぐれたオルガナイザーであったことは間違いない。時期が良かったとはいえ、彼は短期間のうちに突破口を求めていた活動家予備軍をまとめあげ、成蹊を反戦学評のいわば一元支配の状態に仕立てたのである。(もっとも〝一元支配〟の内実はかなりお寒かったけれど)。そのあとも成蹊を拠点化することを夢想していくつかの党派の活動家がオルグとして派遣されてきたが、きちんと組織をつくることができたのは目黒だけである。
このように僕が入学してきた年は成蹊大反戦学評が産声をあげ、党派として歩み始めた、そのすぐ翌年だった。

デモにとびこむ
当時デモに参加した人のほとんどがそうではなかったかと思うのだが、初めてデモの隊列にとびこむ時はものすごい勇気がいる。単に眺めている時はそうでもないが、いざ自分がそこに加わろうと思うと、デモ隊とその外の平和な市民社会の風景との間の深い溝が強烈に意識されてくるのである。まるで自分が「普通の人」から「異様な人」へと変貌を強いられているような圧迫感に襲われる。これはおそらく不協和音を嫌う日本社会がはっきりした政治主張を排除しているからだろう。つまり異議を出す者を集団から仲間はずれにするような日本社会のメンタリティが僕たちの中にも知らず知らずのうちに浸透していて、そのために「デモ隊の人」と「普通の人」の差を実際以上に意識してしまうからに違いない。こうした意識を抱きながらなおかつそれを超えるためには、「見る前に跳べ」というような特別な決意を必要とする。しかしそんな決意を持てなかった僕は人学してからしばらくの間、アジ演説や集会を片目に見ながらウジウジと過ごしていた。
四月二十六日の午後、僕は文学部一号館の二階で英語の授業を受けていた。教師は赤松という教授で、その年の学生部長をつとめていた。一号館の裏にはサークルの長屋があって、そこには演劇部やESと呼ばれる英語部などとともに社研(社会科学研究会)の部室もあった。社研はおおかたの大学でそうであるように、政治や社会問題に関心の深い学生の巣窟になっていた。英語の授業が行われる教室は一号館の西側で、サークル長屋を見下ろす位置にあった。社研の前には授業の始まる前から二十名ほどの学生がウロウロしてはヘルメットを準備したりしている。「俺もあそこに参加するべきなんじゃないか」去年の十月以来頭の中でひびいている声がまた鳴りだした。授業が始まると、べつにわざと妨害するつもりではないだろうが、窓の下の連中は隊列を組み、小さなマイクでアジ演説を始めた。どうやらこれからデモに行くらしい。その様子を見て赤松教授は学生部長という自分の職責に目覚めたらしく、「どのような政治思想を持つのも自由だが、社会に迷惑をかけたり、暴力に及んだりするのはよろしくない」というような所見を述べた。なんとなく「学生部長だからしかたなく言っている」という感じも見受けられたが、教授の思惑とは逆に、この言葉は僕に「こんな所で学生部長の訓示をのうのうと聞いていてもいいのか」という感情を呼び起こした。そして翌日こそデモに参加しようと一大決心をすることになった。
この年、四月二十六日を手はじめに二十七、二十八日と三日連続して沖縄闘争が予定されていた。その頂点に立つのが4・ 28 のいわゆる「沖縄デー」で、一九五二年のこの日、サンフランシスコ対日平和条約が発効し、日本政府は沖縄を本土と切り離し、アメリカの占領下に置きつづけることに合意したのだった。そして二年後の一九七〇年に迫った日米安保条約の改訂がベトナム戦争を背景に行われる以上、巨大な基地群をかかえた沖縄の施政権返還の行方がその焦点になってくることが予想された。加えて昨年来、学生運動が高揚をつづけ、今、新学期を迎えているわけである。新左翼諸派は新入生大量獲得のためにも三日連続というやや無謀な闘争を企画したのだろうし、逆に権力側は何とかしてその動きに水をかけ、新米活動家の肝を冷やしてやろうと思っていたに違いない。
そんなことは知らぬが仏、僕は翌二十七日の土曜日、僕なりに決意して学校に行った。とはいうものの、やはり自分から社研や文学部代議員会室におもむいて集会への参加を申しこむ勇気はなかなか出てこない。というわけで僕は授業が終った昼休み、一号館前で集会が行われるのを少し離れたペンチで漫然と眺めていた。集会が終ると、集っていた連中はあちこちに散り始めた。その中の二人の男女が偶然僕の座っている横のベンチに来て、話し始めた。二人とも活動家らしい。女の子の方は林檎のような頬っぺたをしていて、いかにも山出しの少女という感じである。東京の中産階級の子女を主体とした成蹊の雰囲気とはずいぶんとかけ離れた子だ。その後、被女がその名もズバリ〝リンゴ〟という名で呼ばれていることを知った。
僕は勇をふるって二人に話しかけてみた。
「今日のデモに行こうと思ってるんですけど 」見ず知らずの男にいきなりそんなことを言われて、二人は驚いたようだった。それでもリンゴちゃんは喜んでくれた様子だった。二人の話では今日は土曜日なので、全体の集会はずっとあとになるということだった。そこで僕はいったん家に帰って、例のジャンパー姿の〝闘争スタイル〟に変身することにした。
再び学校に戻って、今度は二人に言われた文学部代議員会室に顔を出した。文学部代議員会室、略して文代の部屋は社研のあるサークル長屋と同じく文学部一号館の裏にある。古いコンクリートづくりの小さな建物で、入口は一号館の陰になり、反対側の窓も小さくて、何となくウス暗く陰気な部屋である。学生が入ってきたくなる所ではない。
僕の相手をしたのは痩せてひょろ長い男だった。僕はこの男の顔は知っていた。オリエンテーションで文代を代表して挨拶した人物である。名を桶本宙太といい、桶宙という〝徳球〟〝宮顕〟なみの古めかしいあだ名で呼ばれていた。
僕がまっ先にたずねたのは、
「あの~、反戦学評っていうのは三派系の一つなんで・・・?」
ということだった。オズオズと聞いたので、語尾も不明瞭になっていた。
それに対して桶宙はあっさりと、「ああ、そうだよ」と答えた。僕はほっとした。中核でないのは残念だけど、三派系ならまあいいや、というのがその時の気持だった。こうして僕の運命は決まってしまった。何ともあっさりというか、いい加減なものである。
もっとも当時の活動家・半活動家の運命なんて、多かれ少なかれそんなものだった。先にあげた『全学連70 年安保と学生連動』という本は、中大ブント(社学同)の中堅活動家の次のような言葉を紹介している。
「中大は前からブントが強いから、入学してから自治会活動していれば、自然とブントに流れていくんです。ぼくも、たまたまデモに行き、自治会運動をやろうと思って、クラスの委員になってからブントに入ったので、別に大きな契機はありません。沢山セクトがあって選択したというのではなく、全然他の派のことは知らなかったのでブントに入っただけです。」
というわけで僕は成蹊の補欠にひっかからなければ、たぶん中大に人ってブントになっていたわけである。もっとも僕はこのことがさほど間違っていたとは思わない。いくつもの党派が同じような勢力で共存していた大学ならともかく、成蹊や中大のような一元支配のところでは、むしろこの方が普通だろう。僕たちはべつに理論を求めていたわけではなく、何より自民党政府の愚劣な支配に対して実力闘争をやりたかったのだ。ただ、こうして偶然ある政治党派の傘下に加わったに過ぎない者が、やがてその党派の理論の下に抗争をくり返したり、別々の運命をたどっていくのは不思議である。自分でもその道を選択したこの僕がそんな感想を洩らすのは無責任といえば無責任だが、これが正直な気持なのだから仕方がない。もっとも党派の選択にはある幅があって、特に七十年代以降はその選択の是非がより厳しく問われていくようになる。
さて、僕の質問に対して、桶宙の方でも質問を返してきた。
「ゲバ棒についてどう思う?」というのだ。ゲバ棒とは今では死語になってしまったが、ゲバルト(ドイツ語で暴力)棒の略で、要するに角材のことである。「角材で機動隊と衝突することに抵抗はないか」と聞いたわけだ。それに対して僕は「ほとんど効果がないと思う」と答えた。実際、長い角材は空振りして地面でも叩けばたちまち折れてしまうわけで、武器としてはいかにも頼りなげに見えた。つまり桶宙が「法を犯して集団で凶器を持ち、街頭で暴れまわることに抵抗はないか」と聞いたのに対して、僕は「そういう抵抗はないが、角材は武器として役に立たない」と答えたことになる。 10 ・8の時には角材の林立に驚愕したのだが、わずか半年で僕の感覚はここまで進化したのだった。これは僕だけのことでなくて、デモに参加してくる新入生全体について言えることらしく、上級生の誰かが「俺たちは角材を持つのが是か非かで議論したのに、今年の新入生は効果があるかないかのレベルで問題にしてくる」と感心 ? していたのを覚えている。しかしさらに翌年の新人生になると、ヘルメットとか角材なんて当たり前すぎて、問題ですらなくなってくる。
(中略)
街頭デモに出動する一方で、僕は新兵として学内活動の訓練もさせられた。まずやらされたのは文学部代議員会の情宣紙の編集助手だった。といえば体裁はいいが、要するにガリ切り要員である。僕の字は普通に書くと下手だが、不思議なことにガリ版刷りにすると見栄えが良くなるので、こういう役を割り当てられたのだろう。〝上司〟は梨田という二年生で、どういうわけか「チンポ」というあだ名がついていた。酔っ払うとところかまわず小便をする男で、歩道から車道に向けて放水したりするのはしょっちゅう。翌年の合宿ではなかったかと思うが、民宿の二階の窓枠にのぼり、外に向かってジャージャーとやったこともあった。おおかたこんなところから妙なあだ名がついたものに違いない。それでも仲間うちで言っているうちはいいが、ある時は学生大会で桶宙が大声で「おーい、チンポ」と呼んだことがあった。この時はさすがの梨田も閉口したものとみえ、あとで、
「おい、大衆の前でチンポなんて呼ぶなよな~」
と言っていた。ちなみに「大衆」とは学生大衆とか一般学生とかの意味で、僕たちは当時こんな思い上がったもの言いをしていたわけである。
このチンポの下で、僕はもう一人の一年生の女の子と共にガリ切りをやらされたり、読書会で本を読まされては理論(らしきもの)のイロハを叩きこまれたりしていた。しかしチンポ先生はそれほど情宣紙づくりに熱心でなく、ほどなくその役目は僕にまかされるようになった。というのは、僕は高校時代から日記をつけていた。僕にとって日記は意義あるものを何も見出せない高校生活の中で、唯一自己活動らしきものだった。人に向かって真面目な話をするのは大の苦手だったが、日記を前にする時だけは心情を吐露できるのだ。だから情宣紙づくりは全く負担ではなかった。それどころか、文代の情宣紙はほどなく僕の個人ビラと化してしまって、僕は題名まで勝手に「パトス」という名に変えてしまった。
ガリ版の字は立て看の字とも共通するとみえ、僕はやがて立て看を書くのもやらされるようになった。俗に「立て看三年ガリ八年」と言って、これは学生運動の裏方を小官僚として出世して行くための基礎業務なのである。僕はこの方面に向いていたものとみえ、学生生活を通じてはげむことになる。
月日は流れ、それから二十年後、僕は工事現場で働くことになった。読者諸氏も街角で見かけたことがあると思うが、工事では黒板にチョークで作業内容を書いて、証拠写真を残しておくということをやる。あの黒板の字をきれいに書く方法が、ガリ切り・立て看と同じなのである。僕は工事現場は素人同然なのにかかわらず、黒板書きだけは玄人なみで、みんなから感心された。芸は思わぬ時に身を助けるものなのだ。
情宣紙につづいて、僕はクラスの代議員にさせられた。させられたとはいっても代議員はクラスで選出されるものだから、自分から代議員になりたいといって、承認を得るわけである。むろん対立候補がいれば投票になるのだが、成蹊のような大学ではたとえ文学部でもそんな酔狂な人間がいるわけもないから、拍手で承認ということになる。しかし僕の意識の中では自主的になったというより、やはり「代議員にさせられた」のだった。
ついでに文学部代議員会について説明しておこう。成蹊はもともと単一学部だったので、自治会は一つだった。それが総合大学化の中で各学部に自治会が設立された。しかし学生の声を一つにまとめるために統一した自治会をつくろうという声があがり、統合自治会運動が展開された。しかしそれは学校当局の反対でつぶされ、政経学部と工学部には独立した自治会ができた(政経学部は、のち法学部と経済学部に分籬されたが、自治会は法経学部自治会として継続することになる)。しかし文学部だけは承服せず、学部自治会の設立を拒否。その代わりに通常は自治会執行部から独立した代議員会の議長団が、自治会執行部の役を兼ねることになった。簡単に言えば法経・工の自治会執行部が学生全体の投票で選ばれるのに対し、文学部では代議員会で選出された議長団が執行部となる。法経・工が大統領制なのに対し、文学部は議員内閣制であると言えばわかりやすいだろう。
以上は統台自治会運動挫折の結果なのだが、結果的には文学部方式の方が運動がやりやすくなった。もともと自治意識の旺盛な者が代議員になるから、議長団が左翼的な方針を出しても代議員会の承認を受けやすい。それに対し、秩序派の多い法経では学生大会で自治会執行部が罷免されるような事態が現に起きているのである。
僕はこうした性格の代議員会の一議員にさせられたわけだが、これは全く僕の予想外のことだった。というのは、代議員になるということは単に代議員会に出席すればいいということではなくて、その主眼は文代の活動、早く言えば反戦学評の活動をクラスの中に広め、浸透させることにあるからである。ということはとりもなおさず、その内実はクラス討論を開き、反対派を説得し、関心のありそうな者に目をつけ、「ちょっと話さない」といやらしく誘い、オルグするという〝日常活動〟であるということになる。僕は街で機動隊とぶつかり、自民党政府に一矢でも二矢でもむくいてやることに関してはある程度の覚悟があったが、こんな〝日常活動〟をやらされるとは思ってもみなかった。ところが学生運動の内幕はこういうことの方がはるかに多くの比率を占めていたのだ。オルグ・恫喝・組織活動・論争・党派闘争が学生運動の九十パーセントを占めると知っていたら、僕は決してそんなものに近づきはしなかったろう。
しかし世の中様々、人も様々であって、連合赤軍の坂口弘の自伝、『あさま山荘・一九七二』を読んでいたら、次のような記述に行きあたった。
「M工業の組合活動の第一線で毎日の活動に追われていた。忙しいが充実しており、活動が面白く感じられる日々であった」「労働運動は、M工業ばかりでなく、他の工場で働く労働者との交流も行った」「いずれもささやかな経験交流会にすぎないが、革命左派党員や共産青年同盟員による各工場での活動が、徐々に実を結び始めていることが実感でき、嬉しくなるのだった。」
僕は学生運動・党派活動の全期間を通じて、こんな歓びを感じたことは一度もない。むろんその中には闘いが広がっていく時の高揚感とか、他人と一緒に活動する際の、現世利益で結びついた人間関係では得られない浮き浮きした気分とか、ダメな自分が徐々に変革されていく手応えとかがあるわけで、必ずしも真っ暗な部分ばかりではないのだが、それでも自分の考えを他人の中に押し広げていくことに対する手放しの歓びを感じることはなかった。僕にとって「他者と連帯する」ことはむしろとまどいの連続だった。その意味で全共闘運動は 一部で言われているように 単に楽しいお祭りではなかった。そのように昔を回顧する人は、本気で闘っていなかったのである。
以上を短く言えば、僕は本質的に大衆運動=組織活動に向いていない人間なのだ。だから全共闘運動→党派活動の八年間は、僕にとって無理に無理を重ねた八年であったと言っても過言ではない。
それでも僕は殊勝にもクラスの名簿をつくってみたり、安保条約の勉強会をやってみたりはした。しかしこういうことにたけているのは社研に入ってきて、そこを通じて学生運動に参加しているような連中だった。彼らはサークル ―クラス活動― 学生運動というサイクルの中で人間関係を拡大していくことがごく自然にできているように見えた。それに対して法・経学部からデモに参加してきた新入生たちは、クラスから浮き上がった少数派という色合いが強かった。文学部の場合、それも特に僕を含む文化学科のクラスでは一応クラス討論や安保の学習会が成り立つ雰囲気があったが、法学部・経済学部ではそんなことは問題外らしかった。そういう意味では僕は心理的には法経の連中に近かったのかもしれない。

授業、そしてサークル
学生運動に片足をつっこむ一方で、僕は授業にはそれなりに出席していた。普通、大学の新入生は授業のつまらなさに失望して五月病にかかり、そこに活動家がつけ入ってオルグすると言われるが、僕には大学の授業はけっこう面白かった。少なくとも高校の授業よりははるかに面白かった。要するに僕の場合、大学には暇をつぶすために来たのであって、初めから期待するものはなかったから、失望することもなかったのだ。
日本の近代史や社会学が高校よりはるかにマトモなのはもちろんだが、地学の講義が体系的なのにも驚いた。といってもこれは真面目に授業に出ていたわけではなくて、試験の直前になって(たぶん女の子から)借りてきたノートを写しながらの感想なのだが、そこではプレートテクトニクス理論から始まって、津波の性格までが系統的に、一貫した論理の下に述べられていた。科学が論理的なものだということくらいは知っているつもりでいたが、ここまで体系的だとは思わなかった。高校の受験教育の下では、科学までがバラバラな知識の切り売りになっていたのだ。
プレートテクトニクス理論というと、今では地震のたびにテレビでコメントされるくらいポピュラーなものだが、当時はたぶん最新の学説だったに違いない。何しろ僕が中学生の頃に家で買った百科事典には、大陸移動説など妄論にすぎないと決めつけているくらいなのだから。
もう一つ印象的だったのは、カントの権威だという金子武蔵の授業だ。成蹊には東大の払い下げ教授がたくさんいた。東大を定年退職になって、成蹊に払い下げられてくるのである。考えてみれば定年退職前であろうとなかろうと、学問レベルに差が出るわけではないのだが、やはり「お古」という感は否めない。僕たちは米軍払い下げの脱脂粉乳で育ったが、大学になっても払い下げの運命からまぬがれることはできなかった。
金子武蔵教授はこの「お古」の代表選手だった。成蹊に来て何年になるのか知らないが、既にかなり古びた印象だった。挙措動作もヨタヨタしていたが、授業がまた退屈きわまりない。講義の口ぶりもヨタヨタしているが、その内容がまた古色蒼然としていて、ピコだとかなんだとか、今では誰も知らないような中世のマイナーな神学者の話が延々とつづくのだ。
しかし今になって考えてみると、この授業は必ずしもマイナスだけではなかったように思う。というのは、金子武蔵の授業は学問というものの本質的なマイナー性を体現していたからだ。学問や研究は、やればやるほど枝葉末節にわけ入っていく性質をもっている(ように僕は想像する。なにせ、そこまでわけ入ったことがないもので)。金子教授もたぶん若い頃はカントのメジャーなところから入って、細かい部分にこだわったあげくどんどん枝葉末節にわけ入り、あのような姿になったのに違いない。もし学問が常にメインストリームやかっこいい部分だけを対象とするなら、国家からの自立など不可能になるだろう。研究者は時流に反して自分の洞穴にしがみつくかっこ悪い存在でいいのである。
とはいえ、やはりあの講義には問題もあった。なにしろ、あれは一般教養の授業だったのだ。今現在に対する問題意識を抱えた少年少女にいきなり枝葉末節にわけ入ったあげくの研究成果を示してもわかるわけがない。やはりあれは良く言えば月がスッポンに、悪く言えばボロ雑巾が新品に教える授業だったと言わざるを得ない。
それにしても僕は思うのだが、全共闘はこのような大学教授を詰問したわけだが、どうも少しかわいそうだったのではないだろうか。むろん日大の古田会頭とか、いくら責めたてても責め足りないような人物もいた。東大の加藤(総長代行)も社会の生産システムの中に機能的に大学を置くタイプの官僚だった。しかし少くとも僕に限って言えば、真に憎むべきはあの受験教育であり、中学・高校でそれを率先してきた教師であり、さらにそれを先導してきた文部省や自民党の行政であった。僕たちはそれを素通りしてきて(ということは闘うべきところで闘わないで)、大学に入って自由になってからその怒りをぶつけたー という感じが、実のところずっと心の内につきまとっている。(なんてことを当時の教授連に言ったら、「何を言うか、おまえが一番ひどかったじゃないか」と怒られるかもしれないが。)
大学に人って、僕はサークルというものもやってみようと思った。中学・高校と僕はクラブ活動と縁がなかったのだ。そこで「文学会」というところに入った。しかし何となくしっくりいかなかった。ピラを作る気はいくらでも起るのだが、同人誌に文学について書く気はどうも起らないのだ(書くことがなかったせいかもしれない)。それでしばらく通った結果、何となくやめてしまった。考えてみるに、僕はどうもキラキラと今を生きるような活動、とりわけ友達づくりの活動に向いていないようなのだ。それだったら一人で部屋でレコードでも聞いていた方がいい。だから僕はかなりの熱を入れてポピュラー音楽を聞いていたにもかかわらず、その方面のサークルにも入る気は起らなかった。僕が唯一できた他人との活動は学生運動だった。僕にとってこれは自分がきらめくための活動ではなく、やむにやまれぬ行動だったのだ。だから文代の代議員にはなれたが、社研のようなサークル活動はできなかった(のちに社研再建のためやってみたことがあるのだが、やはりダメだった)。
サークルといえば、僕が入学した年はまだ四大学祭というのがあった。成蹊・成城・武蔵・学習院という旧七年生高校の伝統をもつ四つの大学が合同して大学祭を開いていたのである。六八年には武蔵大がその舞台となっていたが、「合同」の実態は既に失われていて、成蹊では授業も休みにならなかった。行きたいヤツは勝手に行けというわけである。文代はそれがけしからんといって、武蔵大まで出かけて小さな集会を開いたのだが、僕はそのついでに一つの講演を見た。それは「反日共系全学連の教祖」と新聞で紹介された岩田弘・立正大教授の講演だった。実際はブントの一派で今や消滅しつつあるマルクス主義戦線派、通称マル戦の指導者であったにすぎないのだが、僕は「どれどれ、教祖というのはどんな顔をしているのか」という野次馬的な興味で見物にいった。教祖様はドブネズミ色の安っぽい背広に身を包んだ小太りの男で、ひげが濃く、何となく薄汚い感じがした。講演の内容は今資本主義は絶滅の危機に瀕しており、二~三年後には恐慌が来るというものだった。そもそもマル戦は万年危機論で有名で、しかしいつまで経っても恐慌がやってこないので、自分の方が絶減の危機に瀕してしまったのだが、岩田先生は今も意気軒高で、恐慌の到来を予言していた。その論理はまず恐慌という結論―ないしは期待―が前提にあり、それに都合のいい事実をうまくつなげていくという短絡的なもので、僕のような新入生でさえ「ほんとかね~」と疑わしく思わないわけにはいかなかった。会場の雰囲気も同様に冷やかし半分だった。しかし考えてみれば万年危機論は左翼、とりわけ新左冀に共通の特性であって、マル戦はそれを経済学的に極端化したにすぎなかったとも言える。そういう意味では一人マル戦派のみが消減したのは不公平な感じがするが、なまじっか正直に恐慌の到来を二~三年後と指定してしまったのがいけなかったのかもしれない。いずれにせよ岩田弘の論法は資本主義危機論の一つの極であり、その極端なところはある意味でとても面白かった。それにこれから五年後には石油ショックがやって来たのだから、岩田先生は「それみろ俺の予言が当たった」と言っているかもしれない。
ついでに言えば、かつて成蹊高校にはこのマル戦派の運動があって、他ならぬ桶宙もそれに属していたそうだ。そういえば、その説明的(啓蒙的?)な運動のやり方はマル戦っほく見えなくもなかった。

東大・日大闘争が始まる
エンプラで始まった一九六八年は、また東大闘争と日大闘争の年でもあった。特に夏以降はこの二つの闘争が、全国に広がった学園闘争を凝縮したような熱い焦点となり、さらには国家権力との対峙に向けて煮つまっていく過程でもあった。
(中略)
このように東大・日大闘争ともに自分たちの置かれている状況を問いつめて行く中で、それを成り立たせている社会秩序と根本的に対決せざるをえないところにまで至っており、そのことの結果として国家権力―現象的には機動隊という形をとるわけだがーとの対決が迫りつつあったのである。
これらの事態は当然成蹊の反逆児たちにも高揚感を与えていた。その中で反戦学評は世間並みに反帝学評に改名することになり、ヘルメットも平和な空色―美濃部革新都政のシンボルカラーでもあったーから機動隊に近い?濃青色に成長した。

いなくなった人々
これと前後して、目黒は成蹊を去った。学生運動と縁のない一般の学生、とりわけ秩序派の連中にも目黒の存在が知られるようになってきたからである。僕も同じクラスの男に「早稲田の学生が社研にいるんだって?」と聞かれたことがある。僕はべつに早稲田の学生がいようが慶応の中退者がまぎれこんでいようが何の問題もないと思うのだが、チンケな学園ナショナリズムの信奉者には「外部の者」が入りこんでいることが許せないらしかった。「外部の者」を云々するなら、東大の払い下げ教授をまず問題にしたらと思うのだが、彼らにすれば武蔵野市の一学園だけは世間の風が吹かないようにしたいらしかった。
それにこの頃にはもう目黒がいなくても成蹊の反帝学評は一人歩きできるだけの力量を身につけていた。だから秩序派の間に噂が立とうと立つまいと、遅かれ早かれ目黒は労働運動に転進して行っただろう。
いよいよ目黒が去るという日にも闘争があって、僕たちは一号館前で集会を開いていた。大した闘争でなかったので集会もこじんまりしたものだった。こういう時、いつも目黒は社研に引っこんでいたと思うのだが、この日だけはみんなにまじって集会に参加していた。社研の一年生が「太陽がまぶしいんじゃないか」と言って冷やかしていた。いくつかの発言がつづいて型通りに集会が終りに近づいた頃、突然司会をしていた桶宙が、
「それでは成蹊の先輩、目黒君に挨拶をしてもらおうと思います」
と発言を促した。目黒は一瞬驚いたようだったが、すぐにアジテーションを始めた。いつもの社研の時と違って一般向けのわかりやすい内容だったが、やはり筋金入りの堂に入ったものだった。目黒の発言は全く予定にないことで、桶宙の機転よるものだった。「最後の花道」をプレゼントしたわけである。今考えてもなかなか美しい光景だったと思う。
しかし美しくない別れもあった。いや、そういう方がずっと多かった。この年には一人の活動家が心ならずも成蹊を去って行った。それは高田といって、リンゴちゃんの恋人だった。つまり僕が初めてデモに行こうと思って話しかけた男女の片割れである。僕は彼に何が起ったのかさっぱりわからないのだが、何やら思想内容に問題があるらしく、しばしば論破されたり叱責されたりしているのを見かけた。もともと高田は断固とした活動家というタイプではなく、アジテーションの時も視線を下におとし半ば目をつむって、苦吟しつつ言葉を絞り出しているといった感じがあった。そんな彼が一方的に言い負かされている光景は見ていて楽しいものではない。
高田を最も手きびしくやっつけていたのは塚本という男だった。塚本は成蹊の中では最も運動歴が長く、六五年の日韓条約反対闘争も経験しており、典型的な理論家タイプだった。彼はイライラした様子で額に青筋を浮かべ、口をとがらせながら文代の小部屋の中を歩き回り、一方的に高田に罵声を浴びせていた。高田も時には抗弁したかもしれないが、ほとんど非難されるまま椅子に座っていた。そんなことが何度かつづき、いたたまれなくなったのだろう。いつの間にか成蹊から消えて行った。リンゴちゃんも半年後には卒業して成蹊を去った。
それから七~八年も経った頃だろうか、久方ぶりに高田の噂を聞いた。それによれば青梅の方に移り住んで水商売の女性と同棲していたが、その女性に刺し殺されたという。しかし噂の真偽を確かめるすべはない。
次に消えて行ったのは、皮肉にも手厳しく高田を責め立てていた塚本だった。塚本は六〇年代半ばからシコシコと社研を引っ張ってきたメンバーの一人でもあった。体はやせて貧弱。「青白きインテリ」という言葉を現実にしたような風貌をしていた。そういうところを買われて反帝全学建の中執の一人に選ばれてもいた。六八年には成蹊大反戦学評と党派としての反帝学評のパイプ役をやっていた。しかしこういう役目の常として徐々に成蹊の大衆運動の実情にうとくなり、党派の官僚体系の一員という側面が強くなり、結果として時々成蹊へ見回りにやってくる存在と化して行ったーというのが塚本と最も折り合いの悪かった連中の言い分だった。その中の急先鋒は法経自治会の議長をやっていたMで、いつの日の会議だったか、激昂したMが塚本の胸ぐらをつかんで引きずると、塚本の貧弱な体がフワッと浮き、机をとびこえてMの方へ引き寄せられたことがある。しかしこの件についても何が論議されていたのか、どっちの話に分があるのか、僕はその場で論争を聞いていたにもかかわらず、さっぱりわからない(要するに全然聞いていなかったのだ)。

(後編に続く)

【6月4日の開催の「重信房子さん歓迎の宴」で販売された本の紹介】
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『戦士たちの記録 パレスチナに生きる』」(幻冬舎)重信房子 / 著 

(幻冬舎サイトより)
2022年5月28日、満期出所。リッダ闘争から50年、77歳になった革命家が、その人生を、出所を前に獄中で振り返る。父、母のこと、革命に目覚めた10代、中東での日々、仲間と語った世界革命の夢、そして、現在混乱下にある全世界に向けた、静かな叫び。
本書は、日本赤軍の最高幹部であった著者が、リッダ闘争50年目の今、"彼岸に在る戦士たち"への報告も兼ねて闘争の日々を振り返りまとめておこうと、獄中で綴った"革命への記録"であり、一人の女性として生きた"特異な人生の軌跡"でもある。
疾走したかつての日々へ思いを巡らすとともに、反省を重ね、病や老いとも向き合った、刑務所での22年。無垢な幼少期から闘争に全てを捧げた青春時代まで、変わらぬ情熱もあれば、変化していく思いもある。彼女の思考の軌跡が、赤裸々に書き下ろされている。
さらに、出所間近に起きたロシアのウクライナ侵略に対する思いも、「今回のウクライナの現実は、私が中東に在り、東欧の友人たちと語り合った時代を思い起こさせる。」と、緊急追記。元革命家の彼女に、今の世界はどう見えているのか。
定価 2,200円 

9784792795887

『重信房子がいた時代』(増補版)(世界書院)由井りょう子/ 著

(紹介)
2022年5月28日、日本赤軍の重信房子が20年の刑期を終えて出所した。
フツーの女子大生が革命家になるまでの足跡を、本人、家族、娘、同級生らの証言を丹念に聞き取ったノンフィクション。
重信房子を通して、あの時代の熱量を再現する。

目次
第一章 戦後民主主義の申し子
四〇年ぶりの再会
戦後民主主義に育つ
父とのささやかな遠出
理科と文学に親しむ
貧乏は恥ではない
デモも貧乏も嫌い
文豪に会いに行く
夢は先生になること

第二章 学生運動の季節
大学入学
スーツで座り込み
自治会活動
政治の季節
ブントの重信
救対の重信
一〇・八 
同人誌『一揆』
神田カルチェラタン
教師になりたい
大学祭

第三章 父と娘の革命
本気の革命
父は右翼
血盟団事件と父・末夫
全共闘運動
学生運動の変質
赤軍派でも救対
国際根拠地づくり

第四章 アラブに生きる
和服を着て大使館のパーティーに
山口淑子との出会い
父の毅然とした態度
父と娘
母・房子

第五章 娘に託した希望
アンジェラという名前で
メイ十六歳の誕生日
房子の逮捕
母の国、桜の国
日本、娘の日本

嘘  
 重信房子 
 高校三年生の時の小説

あとがき 
 もうひとつのあのころのこと
 重信房子 

(著者プロフィール)
由井りょう子  (ユイ リョウコ)  (著/文)
1947年12月、長野県生まれ。
大学在学中から雑誌記者の仕事を始め、主に女性誌で女優や作家のインタビューを手がける。
著書に作家・船山馨夫婦の評伝『黄色い――船山馨と妻・春子の生涯』(小学館)
共著に『戦火とドーナツの会い』(集英社)ほか、
編纂に『革命に生きる――数奇なる女性・水野津太――時代の証言』(五月書房)
がある。

定価1,800円+税

9784755403194_1_2

『私だったかもしれない ーある赤軍派女性兵士の25年』(インパクト出版)江刺昭子/ 著

(紹介)
1972年1月、極寒の山岳ベースで総括死させられた遠山美枝子。
関係資料と周辺の人びとの語りで、複雑な新左翼学生運動の構図、彼女が学んだ明治大学の学生運動と赤軍派の迷走を描く。

目次
第一章 2018年3月13日横浜相沢墓地
第二章 重信房子からの手紙
第三章 ハマッ子、キリンビール、明大二部
第四章 バリケードの中の出会い
第五章 「きにが死んだあとで」
第六章 赤軍派に加盟
第七章 遠山美枝子の手紙
第八章 新しい世の中を作るから
補 章 伝説の革命家 佐野茂樹

(著者プロフィール)
江刺昭子(エサシアキコ)
1942年岡山県生まれ
広島で育つ。女性史研究。
著書に『樺美智子 聖少女伝説』などがある。

定価2,000円+税

d9e4c43ddbf21a239d98c1b959ea2d30

『歌集 暁の星』(皓星社)
連帯の火矢! 重信房子第二歌集

(皓星社サイトより)
テロリストと呼ばれしわれは秋ならば桔梗コスモス吾亦紅が好き
 
元日本赤軍リーダー・重信房子が21年に及ぶ刑期を終え、この5月に出獄する。
本書は獄中で書き溜めてきた短歌をまとめた第二歌集。著者は革命の日々を、連合赤軍事件で粛清された友・遠山美枝子を、現在の世界の悲惨を、二十数年にわたり詠み続けて来た。
本書の歌は、著者のもがきと葛藤の発露であると同時に、歴史の証言でもある。

海外で暗躍すること四半世紀を超え、国内での潜伏と獄中の日々、重信は一体、この斬新で清潔な文体をどこで獲得してきたのだ。
……戦い死んでいった同志への哀悼に、柔らかな心の襞を涙で濡らし続けてきたのだろう。(福島泰樹「跋」より)

アネモネの真紅に染まる草原に笑い声高く五月の戦士ら
空港を降り立ち夜空見上げればオリオン星座激しく瞬く
雪中に倒れし友の命日に静かに小さな白き鶴折る
津波燃え人家逆巻き雪しきり煉獄の闇 生き延びし朝
パレスチナの民と重なるウクライナの母と子供の哀しい眼に遭う

定価2,000+税

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在12校の投稿と資料を掲載しています。

http://zenkyoutou.com/gakuen.html

【お知らせ 】
ブログは概ね隔週で更新しています。
次回は7月29(金)に更新予定です。

 今回のブログは、6月4日に開催した明大土曜会定例会での「重信房子さん歓迎の宴」の報告である。

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 報告の前に明大土曜会と重信さんの関係について、少し説明しておきたい。
 重信さんは1965年4月、明治大学二部文学部に入学した。
大学では「現代思想研究会」というサークルを立ち上げ、自治会活動などを行う社会主義学生同盟(ブント)に加入。その後、ブントでの67年から69年の活動を経て、赤軍派に加わり、その後アラブに渡ることになる。
 74年9月14日、フランスで拘束中の仲間の釈放を求めてオランダ・ハーグのフランス大使館を武力占拠し警官らを負傷させた事件で「共謀」として87年に国際手配の後、2000年11月に大阪市内で逮捕。殺人未遂罪などの「共謀共同正犯」の罪で起訴された。
 その後、2001年から始まった裁判では一貫して無罪を主張したが、一審・二審と懲役20年の判決が言い渡され、2010年8月に最高裁で刑が確定し服役していたが、本年5月28日に刑期満了で出所した。
 重信さんの逮捕後、重信さんの主任弁護士である大谷恭子弁護士から、ある会合で明大土曜会の世話人代表となるY氏(元学生会中央執行委員長)が重信さんの支援を頼まれ、引き受けたことから関係が始まった。
 その後、重信さんの裁判闘争を支援するために、「土曜会」というグループが誕生した(土曜会という名称は、毎回土曜日に開催していたので土曜会になったとのことである)。この土曜会には、当時明治大学で「現代思想研究会」や社学同で一緒に活動していた人たちが中心となって集まった。赤軍派の集まりではない。政治的信条や背景が違っても、「人と人のつながり」で誕生したグループである。
重信さんが下獄後の2010年、裁判闘争支援の土曜会は解散となったが、それまでのつながりを生かすために、2011年に新たに「明大土曜会」として再出発した。
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 明大土曜会は、明大関係者のみならず、いろいろな方々の参加を得て、情報交換の場となった。また、情報交換だけではなく、2011年の東日本大震災による福島第一原発事故を受け、日大、芝浦工大などの方々と連携した4大学共闘を結成し、反原発デモや福島の子供たちの保養事業の支援を行った。最近では「明大土曜会沖縄ネットワーク」を結成し、沖縄辺野古現地行動への参加なども行っている。
 このように、現在の明大土曜会は重信さんを支援するグループではないが、メンバーは個別に重信さんの支援を行ってきた。元出版社勤務のO氏は、獄中の重信さんと手紙のやりとりをしながら3冊の本の編集、出版に協力してきた(『戦士たちの記録』『日本赤軍私史』『革命の季節』)。また、僧籍を持つN氏は定期的に刑務所を訪れ、法要を行ってきた。このブログでも、重信さんの「1960年代と私」第一部と第二部を手紙でやりとりをしながら、17回にわたり掲載してきた。以上のように、重信さんの対外的発信への支援、そして精神的な支援を個別のメンバーが継続して行ってきた。
 そのような経緯もあり、重信さんが5月28日に出所し、明大土曜会に参加するということなので、明大土曜会として「重信房子さん歓迎の宴」を企画することになった。
 前置きが長くなったが、以下、6月4日の明大土曜会定例会の報告である。

【重信房子さん歓迎の宴】
 重信さんは5月28日午前8時に昭島市の「東日本成人矯正医療センター」を出所。
多くの報道陣や出迎えの人たちに囲まれて会見を行った。
テレビのニュースで見た方もいると思うが、明大土曜会関係者では、N氏とK氏が出迎えている。
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(K氏のFBより転載)
 重信さんは5月30日の「リッダ闘争」50周年集会を体調不良で欠席されたので、明大土曜会への参加も危ぶまれたが、元気な姿を見せてくれた。
●参加者自己紹介
 コロナの「まん延防止措置」は終了したが、感染状況は高止まりが続いているので、今回も開催にあたっては、全員マスク着用、消毒液での手の消毒などの対策を取って開催した。

参加者は重信房子さんと重信メイさんを含め、30数名。
 最初に参加者から順番に自己紹介があった。
 主任弁護士であった大谷恭子弁護士からは「弁護士とするとこういう形で出所者を迎えるというのは、弁護士冥利に尽きる。(拍手)申し訳ないけれど、死刑だとか無期だとか大変な事件をやっていたので、迎えることができない。ヤクザさんは何となく迎えることができましたけれど、彼女を迎えることができたのは、弁護士を何十年やってきて最大の喜びです。(拍手)もう生きて出られたということを万感の思いでかみしめていますから、これからも20年生きよう、私たち。お互い20年生きれば何かできる」との発言があった。
 参加者自己紹介の後、重信さんから挨拶があった。

●重信房子さん挨拶

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 今日はみなさん、まずお礼申し上げます。ありがとうございます。(拍手)      
その上で最初に申し上げたいことは、出所してすぐ語ったことでもあるんですけれども、私の逮捕によっていろんな人に迷惑を掛けました。それから私たちの闘いは日本の価値観とずいぶん違っていたんです。それが日本の公安の増殖するようなプロパガンダによって、非常に捻じ曲げられた形で日本に伝わることによって、パレスチナの人たちの正義も損なった側面もありました。連赤の延長上に語られましたし。そういう中で私たちが闘えば戦うほど、向こうの状況と日本とは違いますので、一つ一つの闘いが国内に伝えきれずにきました。
 当時の私たちの考えというのは、「どんな戦術を使ってでもこの正義を実現すべきだ、パレスチナの人たちはそれ以上にイスラエルによって虐殺され、ずっと苦しんできた、その人たちを助けるためならどんな戦術でもかまわない」、そういう思いで戦ってきました。その結果、無辜(むこ)の人たち、民間人ですね、例えばハイジャックをやればそこで乗っているお客を損なったこともあったし、そのことを私の逮捕のご迷惑とともに、半世紀以上前の闘いではありますけれども、ここに居る方はそういうことを十分理解してくださる方ばかりなんですけれども、一応それをまず最初にお断りしておきます。お詫びとしてお伝えしておきます。
 その上で、ここに集まられた皆さんと共に過ごした明治大学ですね、明治大学の時代にはいろんなことを楽しんで活動できて本当に楽しく有意義だった。
大学に入った当時、私は本当に先生になりたくて、初めて大学に行けるということを就職した職場で知った時には本当に嬉しかったんですね。
 それで、明治に入ってすぐ、ここの前におられるOさんと知り合いました。この方が入学式前ですね、私たちの先輩があそこにあった大学院の前に座って何か闘争しているらしいんです。何かビラ配ったり、汚い恰好した人たちが変なメガホン持ってアジッていて、立ち止まった時に話を聴いたら「復学闘争」というのをやっているというのです。「一緒に座りませんか?」と言われて、私も一緒に座って、断る理由がなかったんです。こんなに正しいことをしている人たちが、何でそんな風に処分されたのかということで。その時に最初に声を掛けてくださった方がOさんなんです。そこから自治会活動に入って行きました。その責任を感じたのか、義理もないんですけれど、本を何冊も出してくださって、今回も『戦士たちの記録』という向こうでの闘争と国際主義とか国際連帯を中心にして書いたものを、三冊目の出版作業、それを最後までやっていただいたんです。大変な作業だったと思います。これまでの感謝と共に、今後ともよろしくお願いします。彼はプロの編集者ですので私にはちょっと辛いところだったんですけど、「ここを直した方がいい。あそこを直した方がいい」と、鋭くしつこいアドバイスをいただいて、この本ができました。ありがとうございます。
 それから大学に入ってからはクラスメイトとの話もみんな楽しいし、大学ってこんなに楽しいところなのか。楽しいこと、為になること、それが一つになって、我が家の、父のと言ってもいいんですけれども、「世の中を良くしよう」というような考え方の人でしたから、私の思っていることが初めて世間というー今までキッコーマンで勤めていて、あれやったらいけない、これやったらいけないーそういうのとは違う、思っていることを通してかまわない社会に私は辿り着いたんだなというのが、明治大学に入って一番嬉しいことでした。
 そして二部での活動を始めて、学費値上げ反対闘争などR介さんより上の世代の皆一緒になってやっていた時代もありましたけれど、不幸にも「2・2協定」というのがあって明大社学同は、大変苦労しました。その時、私はノンセクトでしたが学生会館でちょうど私たち二部中執(の部屋)は一部の中執の対面で、そこに中核派が「2.2協定」の自己批判を暴力的に求めて来て一部自治会中執の人がやられたりしている。それを見ては、そんなこと許せないなというので、明治の社学同を再建したいという一部の人々に協力してくれないかというので引き受けて、それで社学同に入ることになりました。
 それ以来ずっと社学同でやってきたんですけど、だんだん本人たちはあまり自覚していなかったんですけれども、道が違っていって、R介さんたちとは違う党派になっていったんですね。そのこともあまり私は自覚的ではなくて、何でこうなっているのかな?という感じでした。ずっと繋がっていた仲間が、あっという間に仲良しだった人たちがどんどん別になっていく時代を経てきました。
 私は、ブントの中で武装闘争を目指して赤軍派に与して行ったのですが、その考え方が大きく変わるのはパレスチナの闘いを見てからなんです。「武装闘争」をやっているところに行ったんだから、武装闘争で団結・共闘しようと思ったけど、彼らの武装闘争のもっと根っこのところには、非軍事的な平和的な生き様、人々が生活し、人々が本当に助け合って生きている、それが本当のパレスチナの力だなというところに辿り着きました。
 そこから捉え返して日本を見ると、もしかしたらこの人たちの闘いというのは、日本で言えば民主主義を徹底する闘いじゃないか、主権者である日本の人たちが、本当に自分たちの政治を実現することが、いわゆる向こうで言う武装闘争と同じ質のものではないかという風に、だんだん考え方が変わってきました。それらは70年代に色々の失敗をすることによって変わって行ったんですけれども、それを伝達する手段がなかなかなくて・・・・
 本人たちとしてはマイナーなところで「人民通信」「中東レポート」などの機関紙を出したりとかやっているつもりでした。けれど、プロパガンダと言うか攻防の質も日本の国内がどんどん変わっていくこともありまして、私たちはあまり日本に基盤を持とうとか考え切れなかったし、作り切れないままきてしまいました。そうした70年代以降考えたことを実現しようとしながら、2000年に日本の中で逮捕されるような事態になりました。

 でも偶然の結果でもあったんですけど大谷弁護士と出会いました。大谷先生も一度アラブにいらしたことがあるんです。「連合赤軍事件」の証人証言取りということで、坂東さんの事で見えたのです。それで大谷弁護士の名前を知っていたんですね。また友達が、弟さんは赤軍派だったはずというような話をしていて、それで私が日本で捕まった時に、直接は知らないんだけれども、他の先生よりも大谷先生の方が分かってくれるんじゃないかという感じがして、主任弁護人として大谷先生を頼みました。そのお陰でR介とか皆が今のようなこういう状況を作っていただける結果に導かれたんだと思います。大谷先生にその件もあって・・(「恭子ちゃんでいい」という声)、でも私は意識的に「大谷先生」と言っていたの。どうしても彼女の方が友達になっちゃうんですよ、塀を隔てて。友達同士でやっちゃうと、裁判の方針がなかなか成り立たない。それで私の方はできるだけ「大谷先生、大谷先生」って。
 そんな感じで付き合いながら長い間一緒に来れたのも、大谷恭子さんだったからなんです。ここで改めてお礼申し上げます。
 そして皆の助けによって、公判もずいぶんR介さんを中心にして皆で協力して下さったので、かなり高い裁判費用、先生一人でなくて4、5人の弁護士の方がいらしたので、それと資料をコピーすること一つがすごく高いんです。Oさんもずっと入力を含めて手伝って下さったし、論告求刑に対する反論とかの入力、そういうのをずっと皆が協力してくれたのでここまで来ることが出来ました。判決が出た時に、私としては「判決は 終わりにあらず始まりと まつろわぬ意志ふつふつと沸く」という歌を一首詠んだように、より戦いたいという気持ちになりました。でも闘いを、昔のようなことではなくて、本当に役に立てるような自分に変えたいと、そういう思いで獄中でも過ごしたいと思いました。
 第一審判決直後は公判を続けようかと思ったんですけれども、癌の手術も問われ、もう一度政治責任としても刑期を全うしながら、その中でより良く生きられる人生を過ごそうと思いながらきました。そうして手術を何度か繰り返し大谷先生、また獄中でもたくさんいい医者にも、それから友人にも会うことが出来て獄中のがん治療も効果的にすごせました。獄中では、四回の手術で九つのガンを取りましたけれど、まだ何とか生きて今日までやってきました。これもみんなここにいらっしゃる皆さんのお陰です。
 もう長くなりましたので私の話をこれで終えます。質問を受けたり話たりしながら、また皆の声を聴きたいと思っています。ありがとうございました。

●花束贈呈・乾杯
 挨拶の後、昔の明大関係者から花束の贈呈があった。
「皆さんの健康と、彼女が無事に出てきて、これからまた次のスタートを祝って、乾杯!!」
全員で乾杯。

●懇談
 乾杯の後は懇談。重信さんとメイさんの許に次々と参加者が集まり、話をしたり写真を撮ったり、長い月日を経て再会した思いを語り合っていた。

20

 会場では本の販売もあった。
「ここに本がありますので買って下さい。よろしくお願いします!」
『戦士たちの記録』『重信房子がいた時代』『私だったかもしれない』『暁の星』
(本の紹介は記事の最後にあります)
求めに応じて重信さんが本にサイン。
10
●中締め
 予定の時間になったので、R氏が中締めの挨拶を行った。
「皆さん注目してください。ここはまだ居られますが、時間の関係でここでいったん中締めしなくてはいけないので・・・」
 野次と笑い声の中で「ワルシャワ労働歌」を歌い、次いで「インターナショナル」を歌った。
 R氏がアジテーション。
「同志の皆さん、学友諸君、注目、注目。ここで皆さんに提案したのは、重信さんが新しいこの時代の中で何を主張するのか。この2020年代という、いわゆる我々が育った50年前とはずいぶん違う時代の中で、厳しく分析して批判して、新しい時代を作れるような思想と空気を何とか作っていただきたい。
 重信さんにはそれくらいの能力があります。はっきり言って民衆のために命を掛けて戦う根性があります、いや可能性があります。そういった意味で、我々も残り少ないですけれども、やはり彼女のその動きの中で、皆さんが日本の一歩でも民衆の革命の、民衆の解放の前進を作れるように、私たちは協力して行こうではありませんか」(拍手)
 次いでW氏より発言。
「Rさんの決意表明を聴いたので、それをみんなで受け止めて、大きいことは言えないんだけれども、とにかく今の社会を変えるために、皆でいろんな運動に関わることをみんなで確認していきたいと思います。
今日は多くの人に集まっていただき、重信さん、一緒に進みましょう、新たな時代を創るために!」

「重信房子さん歓迎の宴」は盛況の中、これで終了した。

【当日販売された本の紹介】

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『戦士たちの記録 パレスチナに生きる』」(幻冬舎)重信房子 / 著 
(幻冬舎サイトより)
2022年5月28日、満期出所。リッダ闘争から50年、77歳になった革命家が、その人生を、出所を前に獄中で振り返る。父、母のこと、革命に目覚めた10代、中東での日々、仲間と語った世界革命の夢、そして、現在混乱下にある全世界に向けた、静かな叫び。
本書は、日本赤軍の最高幹部であった著者が、リッダ闘争50年目の今、"彼岸に在る戦士たち"への報告も兼ねて闘争の日々を振り返りまとめておこうと、獄中で綴った"革命への記録"であり、一人の女性として生きた"特異な人生の軌跡"でもある。
疾走したかつての日々へ思いを巡らすとともに、反省を重ね、病や老いとも向き合った、刑務所での22年。無垢な幼少期から闘争に全てを捧げた青春時代まで、変わらぬ情熱もあれば、変化していく思いもある。彼女の思考の軌跡が、赤裸々に書き下ろされている。
さらに、出所間近に起きたロシアのウクライナ侵略に対する思いも、「今回のウクライナの現実は、私が中東に在り、東欧の友人たちと語り合った時代を思い起こさせる。」と、緊急追記。元革命家の彼女に、今の世界はどう見えているのか。
定価 2,200円 

9784792795887

『重信房子がいた時代』(増補版)(世界書院)由井りょう子/ 著
(紹介)
2022年5月28日、日本赤軍の重信房子が20年の刑期を終えて出所した。
フツーの女子大生が革命家になるまでの足跡を、本人、家族、娘、同級生らの証言を丹念に聞き取ったノンフィクション。
重信房子を通して、あの時代の熱量を再現する。

目次
第一章 戦後民主主義の申し子
四〇年ぶりの再会
戦後民主主義に育つ
父とのささやかな遠出
理科と文学に親しむ
貧乏は恥ではない
デモも貧乏も嫌い
文豪に会いに行く
夢は先生になること

第二章 学生運動の季節
大学入学
スーツで座り込み
自治会活動
政治の季節
ブントの重信
救対の重信
一〇・八 
同人誌『一揆』
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第三章 父と娘の革命
本気の革命
父は右翼
血盟団事件と父・末夫
全共闘運動
学生運動の変質
赤軍派でも救対
国際根拠地づくり

第四章 アラブに生きる
和服を着て大使館のパーティーに
山口淑子との出会い
父の毅然とした態度
父と娘
母・房子

第五章 娘に託した希望
アンジェラという名前で
メイ十六歳の誕生日
房子の逮捕
母の国、桜の国
日本、娘の日本

嘘  
 重信房子 
 高校三年生の時の小説

あとがき 
 もうひとつのあのころのこと
 重信房子 

(著者プロフィール)
由井りょう子  (ユイ リョウコ)  (著/文)
1947年12月、長野県生まれ。
大学在学中から雑誌記者の仕事を始め、主に女性誌で女優や作家のインタビューを手がける。
著書に作家・船山馨夫婦の評伝『黄色い――船山馨と妻・春子の生涯』(小学館)
共著に『戦火とドーナツの会い』(集英社)ほか、
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(紹介)
1972年1月、極寒の山岳ベースで総括死させられた遠山美枝子。
関係資料と周辺の人びとの語りで、複雑な新左翼学生運動の構図、彼女が学んだ明治大学の学生運動と赤軍派の迷走を描く。

目次
第一章 2018年3月13日横浜相沢墓地
第二章 重信房子からの手紙
第三章 ハマッ子、キリンビール、明大二部
第四章 バリケードの中の出会い
第五章 「きにが死んだあとで」
第六章 赤軍派に加盟
第七章 遠山美枝子の手紙
第八章 新しい世の中を作るから
補 章 伝説の革命家 佐野茂樹

(著者プロフィール)
江刺昭子(エサシアキコ)
1942年岡山県生まれ
広島で育つ。女性史研究。
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定価2,000円+税

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『歌集 暁の星』(皓星社)
連帯の火矢! 重信房子第二歌集
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テロリストと呼ばれしわれは秋ならば桔梗コスモス吾亦紅が好き
 
元日本赤軍リーダー・重信房子が21年に及ぶ刑期を終え、この5月に出獄する。
本書は獄中で書き溜めてきた短歌をまとめた第二歌集。著者は革命の日々を、連合赤軍事件で粛清された友・遠山美枝子を、現在の世界の悲惨を、二十数年にわたり詠み続けて来た。
本書の歌は、著者のもがきと葛藤の発露であると同時に、歴史の証言でもある。

海外で暗躍すること四半世紀を超え、国内での潜伏と獄中の日々、重信は一体、この斬新で清潔な文体をどこで獲得してきたのだ。
……戦い死んでいった同志への哀悼に、柔らかな心の襞を涙で濡らし続けてきたのだろう。(福島泰樹「跋」より)

アネモネの真紅に染まる草原に笑い声高く五月の戦士ら
空港を降り立ち夜空見上げればオリオン星座激しく瞬く
雪中に倒れし友の命日に静かに小さな白き鶴折る
津波燃え人家逆巻き雪しきり煉獄の闇 生き延びし朝
パレスチナの民と重なるウクライナの母と子供の哀しい眼に遭う

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