今回のブログは、6月18日(土)に東京・目黒区で開催された、あさま山荘から50年 シンポジウム「多様な視点から考える連合赤軍」(主催:連合赤軍事件の全体像を残す会)の報告である。
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当日のプログラムは以下のとおり。

14:00 開会挨拶
14:05 第1部 映像で見る連合赤軍事件
14:30 第2部 シンポジウム
パネラー:森達也(映画監督・作家) 
雨宮処凛(作家・活動家) 
山本直樹(漫画家)
パトリシア・スタインホフ(ハワイ大学名誉教授)オンライン参加
ピオ・デミリア(ジャーナリスト)オンライン参加
当 事 者:岩田平治(元革命左派) 
雪野建作(元革命左派)
(15:45~ 休憩)
16:00 第3部 若い世代との対話
宮島ヨハナ(国際基督教大学1年)
中村眞大(明治学院大学2年)
安達晴野(早稲田大学1年)
17:15 閉会挨拶

今回は、このうち前編として第1部と第2部の概要を掲載する。発言内容が不明な部分などは省略しているので、パネラーや当事者の発言を全て掲載している訳ではない。そのため「概要」とした。発言内容を全て読みたい方は、「連合赤軍事件の全体像を残す会」が今後発行する予定の冊子『証言』をご覧いただきたい。

<登壇者プロフィール>
●パネラー
森 達也(映画監督・作家) 
最新書籍は、昭和の悪役プロレスラーであるグレート東郷の出生の謎に挑んだノンフィクション『悪役レスラーは笑う増補版』と、天皇と表現のタブーをテーマとしたファンタジー小説『千代田区一番一号のラビリンス』(現代書館)。現在は関東大震災後の朝鮮人虐殺事件を題材にした「福田村事件(仮)」を劇映画として製作中。公開予定は震災から100年を迎える2023年。クラウドファンディングをA-port 朝日新聞社 (asahi.com)で募集中。
雨宮処凛(作家・活動家) 
1975年北海道生まれ。右翼団体、フリーターなどを経て2000年、デビュー。2006年より格差・貧困問題に取り組む。反貧困ネットワーク世話人。現在はコロナ禍での困窮者支援にも取り組む。◆著書『生きさせろ! 難民化する若者たち』(ちくま文庫)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)など多数。
山本直樹(漫画家)
 1984年、エロ漫画家としてデビュー。オウムなど社会問題の漫画化も多く、連合赤軍事件を忠実に追った長大作「レッド」「レッド最終章 あさま山荘の10日間」等のシリーズ(講談社)を10年以上、マンガ誌イブニングに連載した。森山塔名義でも執筆。◆著書多数
パトリシア・スタインホフ(ハワイ大学名誉教授) 
ミシガン大で日本語・日本文学で学士号、ハーバード大で社会学博士、その後ハワイ大マノア校社会学部日本研究センターで教鞭をとる。戦前の日本の共産主義者の転向問題からはじまり、日本赤軍や連合赤軍などについても研究し、著作を出版している。日本研究センターには「高沢文庫」があり、新左翼、赤軍派関係の膨大な文献が蒐集されている。◆著書『死へのイデオロギー 日本赤軍派』(岩波現代文庫)
ピオ・デミリア(ジャーナリスト) 
1954年、ローマ生まれ。ローマ大学法学部を卒業後、慶應大学に奨学生として留学する。弁護士。80年代より日本に在住し、日刊紙「イル・マニフェスト」・「SKY TG24」TVの極東特派員として活躍している。日本外国特派員協会では4年間第二副会長を務める。民主党政権で菅直人氏が首相時代には特別顧問を務めた。
東日本大震災の折には世界で唯一福島第一原発正門前に立ち、原発事故の実況報告。現在は日本外国特派員協会クラブで記者会見やイベントを開催するプロフェッショナル・アクティビティー (PAC)を務めている。◆著書『日本の問題~イタリア人記者・ピオが地震、津波、放射能汚染の「現場」で見たもの』(幻冬舎)

●当事者
岩田平治
 1950年生まれ。“鯨でも取りたい”と入学した東京水産大学時代に革命左派に参加。山岳アジトで3カ月の活動の後、離脱。山から逃亡した最初の例となった。吉本隆明にインスパイアされて『「共同幻想論」による連合赤軍事件の考察』を著す。組木細工を作り地域の施設などに寄贈する。本日受付でお渡ししたキーホルダーがその作品。

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(受付で配られていた岩田氏手作りのストラップ)
雪野建作 
1947年生まれ。横浜国大時代に革命左派に加盟。71年2月、真岡市(栃木県)の銃砲店に押し入り猟銃10丁、装弾3000発などを奪った事件に関与、指名手配された。以後、武闘派のグループ等と交渉を任務とする「組織部」として主に都市で活動する。71年8月に逮捕・起訴されたため、山岳アジトでの“総括”には関わらなかった。逮捕後は指導者の川島豪との違いを自覚し、連合赤軍の破局後は総括論争を進め、72年秋に離党する。

●司会進行
金 廣志(塾講師)
 1951年、大阪市生野区「猪飼野」の朝鮮人部落に生まれる。3歳のときに上京し、神奈川県の座間、上野の「アメ横」で育つ。都立北園高校在学中に反戦運動に参加。高校を中退して1970年赤軍派に加盟。71年に全国指名手配されるも15年間の逃亡を続け、時効を迎えた。1986年より塾講師として再出発する。親の多くが、金廣志の経歴を知りながらも子どもの教育を託す中学受験のカリスマ講師として著名。父は韓国の済州島四・三蜂起事件のときのパルチザンであった。◆著書『自慢させてくれ!』(源草社)、『落ちたって、いいじゃん! 逆転発想にこそ難関中学合格のカギがある』(角川書店)、他。
椎野礼仁(編集者) 
1949年生まれ。慶応大学時代に社学同(社会主義学生同盟)の活動家に。ブント分裂時には赤軍派には参加せず、戦旗派に所属。編集者として塩見孝也(元赤軍派議長)、鈴木邦男(元一水会代表)、柳家さん喬(落語家)などの書籍を出す。◆著書に『連合赤軍事件を読む年表』(ハモニカブックス)、『テレビに映る北朝鮮の98%は嘘である』(講談社+α新書)、『パンタとレイニンの反戦放浪記』(彩流社)など。

【あさま山荘から50年 シンポジウム「多様な視点から考える連合赤軍」】
(主催:連合赤軍事件の全体像を残す会)
●開会挨拶
椎野礼仁
本日は皆さんお集りいただきましてありがとうございます。
それでは「あさま山荘から50年 シンポジウム多様な視点から考える連合赤軍」を開始いたします。
主催の「連合赤軍事件の全体像を残す会」は当事者が入っているんですが、何十年もやっておりまして、名前が「全体像を残す会」と言うんですが、事件の後、いろんな評論が出たんですが、どれもちょとなあというものばかりで、どうもみんな部分像を語っているに過ぎないかと思いまして、「全体像を残す会」というのを始めました。
今日は来られなかった植垣さんの名言がありまして、「みんな連合赤軍については、自分の分かる範囲で喋っているだけだよ、理解しているだけだよ」というのがありまして、それを少しでも広げていきたいと思って始めた会がこの会です。(中略)

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第一部は「映像で見る連合赤軍事件」ということで、20分から30分にまとめたものを観ていただきます。
第二部はシンポジウムとして森達也、雨宮処凛、山本直樹さん、その辺の説明は第二部と第三部を仕切る金廣志さんの方から説明がありますが、パネラー、そして(ZOOMの)映像でパトリシア・スタインホフさんという、日本の新左翼とか戦前の共産党の転向問題に非常に詳しい研究者で、日本の新左翼のビラとか、そういう原資料は彼女のハワイ大学の研究室が一番揃っている、日本のどこよりもハワイ大学にそれが揃っているというパトリシアさんが参加されます。それからもう一人、ピオ・デミリアというイタリア人ジャーナリストもイタリアから参加します。それでちょっと困った問題がありまして、お二人とも日本語には堪能なんですが、ここ2,3年日本に来ていないので、ちょっと日本語が怪しいということなんです。会場に英語が堪能な方がいらっしゃれば、通訳をお願いしたいと思います。
それでは第一部「映像で見る連合赤軍事件」に移ります。

●第1部 映像で見る連合赤軍事件

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●第2部 シンポジウム

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金廣志
第二部の司会をさせていただきます金廣志です。今映像がありましたが、改めてすごいことを体験したんだなと思いました。まるで外野みたいな言い方をしていますけれども、その中に居た人間として、こういう映像という形で観ると、少し不思議な感じもします。

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映像にもありましたが、この一連の事件は合わせて「連合赤軍事件」と呼ばれているんですけれども、連合というのは共産主義者同盟赤軍派と日本共産党革命左派という別々のグループが、1971年9月に連合して、12月に延べ29名のメンバーで新党を結成して一つの組織になったのが「連合赤軍」です。この「連合赤軍」が形成される過程で、「共産主義化」という言葉が持ち出されて、同志に対する総括、リンチ、殺害が起こるんですね。これは1971年の12月から翌年の2月にかけてのわずか1ケ月半の間なんですけれども、その間に何と12名の同志を殺害するという事件が起こりました。先ほどの映像にもありましたが、追い詰められた5名のメンバーが「あさま山荘」に籠って10日間にわたって銃で抵抗して、2名の警察官と1名の民間人が射殺されるという衝撃的な結末を迎えたわけです。
そして私たち自身が当事者として考えるんですけれども、ある意味社会の不公正に声を上げて人類の理想社会を築くために立ち上がった、そのはずが何故このような事件に追い込まれていかなければならなかったのか。今日は当事者や様々なゲストの方を交えて、この50年を振り返って進行させていただきたいと思います。

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まず当事者として岩田平治さんです。よろしくお願いします。岩田さんは、今日来ている連合赤軍のメンバーで総括リンチ事件をただ一人経験した方です。彼は指導者から命じられて山岳ベースを下山する機会があって、そのまま離脱して連合赤軍の許へは戻りませんでした。メンバーを離脱したということと、従属的だったという判断だと思いますけれども、5年という刑で収まったという、言い方はおかしいですけれども、そういう経験をしました。隣は雪野建作さんです。雪野さんは1971年2月に栃木県真岡市の銃砲店を襲って、猟銃など11丁を取って、実弾2千発を奪って指名手配されて、その年の8月に逮捕されたものですから、連合赤軍メンバーに加わることはありませんでした。ただし、10年の獄中生活を送りました。
受付で配布した上毛新聞が「連赤に問う」という連載を行っています。上毛新聞は踏み込んだ記事を書いたなということで、今日は上毛新聞社にお礼を申し述べておきたいと思います。

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(受付で配布された「上毛新聞」)

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第二部のパネリストを紹介いたします。映画監督であり作家としても多くの著作がある森達也さんです。アクティビストであり、作家としても旺盛な活動をしている雨宮処凛さんです。連合赤軍をテーマにした『レッド』を連載した漫画家の山本直樹さんです。

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そして画面の方を見ていただきたいんですけれども、ハワイ大学名誉教授のパトリシア・スタインホフさんです。もう一人が日本外国人特派員協会でジャーナリストをやっているピオ・デミリアさんです。
このシンポジウムの進行ですが、最初に当事者の方に司会の方から大きなテーマで質問させていただきます。そして当事者の方にご意見をいただいた後に、オンラインで参加をいただいているパトリシア・スタインホフさんとピオ・デミリアさんに参加していただきます。その後はパネリストの方々には、様々な問題意識を含めたフリートークとさせていただきたいと思います。
まず岩田さんと雪野さんに第一の質問をさせていただきます。
私たちの父母は第二次世界大戦を体験しているんですね。戦争の犠牲者は世界で5千万人から8千万人とも言われていますけれども、日本だけでも3百万人余りの犠牲者を出しています。このような凄まじい経験をくぐり抜けてきた戦前、戦中世代の子がベビーブーマー世代だということを、一つまずご了解いただきたんです。すなわち、私たちの父母は戦争を体験し、身内や知り合いを失った世代なんです。これはある意味、未来を失った、死を知っている世代と言ってもいいのかもしれません。
それに対して、私たちは戦争を直接には経験しなかった世代です。戦後の平和と経済成長という時代に、ある意味では限りない未来を信じて、死を知らず生を知った世代と言っていいかもしれません。
そのことを踏まえながら、お二方にお話しを伺ってみたいと思います。
まずは、私たちはどのような理想を掲げて、またどのような未来社会を築こうとしてこのような新左翼運動に参加したのか、ということについて、当時の時代背景や日本や世界の社会状況を踏まえて語っていただきたいと思います。
また、そのような理想や未来社会を実現できなかった、そのことを踏まえての第2の質問です。
何故、理想者社会を求める運動というのは、歴史的に挫折、敗北しなければならないのか、そのことについても岩田さん雪野さんの経験、体験を踏まえてお考えをお聞かせいただければと思います。
なお、この質問については、ある女性からのメールが届いております。このことに触発されてお二方にお話しを伺ってみたいと思いました。内容は
「かつての若者たちが、どんな夢を描き、どんな熱い思いを抱いていたのかをもっと知りたい。学び知ることで、人間が持つ普遍的な課題と向き合っていきたい」
というものです。
それでは岩田さんからお願いいたします。

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岩田平治
 どうも大きな課題なもんですから、そんなことに私がちゃんと答えられるか分からないんですけれども、私自身もそういう運動に関わってきたというところと、こういう事件を起こして・・・というところを、前に少しお話したいと思います。
私ども、先ほど言ったように戦後のベビーブームの中で生まれた世代です。ですから戦争が終わって5年くらいですね。昭和20年に戦争が終わって25年に私が生まれたということですから、本当に戦争直後に生まれたということで、小学校から中学校に上がると、暗い戦争の時代は終わって民主主義の本当にいい時代になったんだよという中で、明るい未来に向かって社会全体が行くんだという、小さいながらもそういう中で育ってきたんだと思います。
ただ実際にある程度物心が付いて、高校生からだんだんと大人になっていく中で、やっぱりそういう今の状況、私たちが育っている社会状況というのは必ずしもそんなに素晴らしい状況ではない。やっぱり社会にはいろんな問題があるなと気が付き始めてきたんですけれども、ただ高校の時には、私は社会的問題に対して自分が関わっていくことなど毛頭思っていなくて、川端康成とかそういう文学の方が非常に興味があったというか面白かったし、そういう中で、こういう煩わしいことのたくさんある社会に関わっていくよりも、南氷洋でくじらでも捕った方がいいんじゃないかというような気持で水産大学を目指して受験して、こういう世の中から逃げてという言い方はおかしいかもしれませんが、そういうものじゃなくて生きて行こうかなと思ったんですけれども、実際やっぱり水産大学に入って全共闘運動の中でいろいろあった中で、そういう人たちの話や生き方を見聞する中で、やっぱりそういう風に世の中から逃げるんじゃなくて、自分自身が積極的に参加して変えていくような方向で生きていかなきゃいけないなという風に思い直したというか考え直して、だんだんとそういう運動に参加するようになったわけです。
ただ、私も再三言っているんですけれども、すべての本や理論を読んで、これは正しいかなということでそういうものに入って行くわけではなくて、一緒にやっているそういう話を聴く人たちの人柄とか考え方とか、そういうものに惹かれて、そういう活動に入っていくんだと思いますし、私自身もそうでした。
大学で運動をしていく中で、私が入った時点では学生運動というのは圧倒的な機動隊の力でほぼ抑え込まれて、まだ水産大学の中はそれなりに全共闘も力を持っていましたけれども、そういう中で、やっぱり既存のセクトは訪米阻止とかいろんなことを言っても、街頭でデモをしているだけだったり、あるいは喫茶店の隅でタバコを吸いながら議論しているだけの中で、やはり革命左派というのは大学生でも労働者の中に入っていかなくてはいけないとか、あるいは実際に羽田空港の滑走路に火炎瓶を投げて、実際に阻止行動をするとか、そういう口先だけじゃなくて活動したというところに惹かれて、だんだんと活動するようになりました。
やっぱり最終的には世の中を変えるには武力的な裏付けがなければ変えられないという考え方に共鳴して、今でもそうだと思いますけれども、正義が勝つのではなく、勝った者が正義みたいなところがあるわけで、それは議論によって勝つということもあるんでしょうけど、最終的な対立軸になってくるると、やっぱり武力というものが物を言ってくるという、今のウクライナとロシアの戦争を見てもそうなんでしょうけれども、ですからそういう考え方の中で革命左派の武力闘争にも、そういう形のものが必要だなと思って賛同して活動を行ってきたということです。
それが、本来私どもが持っていた少しでもより良い社会、理想の社会を作る手段が何で変質していったのかと思うんですけれども、私どもが思い描いていた革命とか人民だとか、そういうものは私たちの頭の中にあるものでしかなくて、実際の人たちを見ていなかったし、そういう人たちのことを考えていなかったのかなとは思います。

金廣志
ありがとうございます。
次に雪野さんからお話を伺いたいと思います。

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雪野建作
 さきほどの映画で、当時を知る者にはよく知っていた風景だったんですけれども、若い人は恐らくあまり見ることのないものだと思います。当時と今との違いというのは、当時は一般的な知識人とか学生の中で、社会の発展というものは、資本主義から社会主義、それから共産主義というのは、前提なしに歴史の法則だと、そういう考え方が一般だったんです。その後、ソ連邦の崩壊などを経て、またいわゆる社会主義国が実際には自国の中でも抑圧をしているし、他民族も抑圧するということを白日の下にさらけ出して、今社会主義とか共産主義というものを当時と同じような意味で高く評価しているのは、まったく少数派になっていると私は思うんです。ただ、当時はそういう一般的な歴史観の下で、個々の学園ですとか、そういった闘争からしだいに運動に入って行くわけです。
私個人の事情を申しますと、両親は非常に左翼的な人でした。父は戦前、共産党員をかくまったということで、何日かブタ箱にブチ込まれたということがあって、それを自慢するように話していましたし、それから母方の親戚の中に、熊本から上京して幸徳秋水と付き合いがあって、大逆事件で逮捕されて死刑になってしまう人がいる。その人についても、私の父は非常に誇らしげに話をしていましたし、いろいろ資料を集めて子供たちに見せたりしていました。ですから幼少の頃から左翼思想は当たり前という関係の中で育ちました。
大学に入ったのが1967年で、羽田闘争があった年なんですけれども、入って自治会の会計の役員なんかやっていたんですが、当時は学生運動の諸党派はあまり魅力は感じなかったですね。所詮は学生運動だという形で、本当に世の中を変えるだけの思想もないと見ていまして、その中で非常に小さなグループ、元ML派のグループだったんですけれども、彼らに惹かれました。
 惹かれた理由は労働運動、農民運動というのが日本の革命の原動力であるということを言っていたことと、実際にそういう方面の運動をやっていました。それからこの人たちは、日本共産党から中国の文化大革命を基にして別れた人たちと共に、日本共産党左派神奈川県委員会を作るんですね。それで実際の闘争としては、新左翼の集会に参加はしていましたが、地元の基地撤去闘争などにも非常に積極的に関わっていました。
ただ、69年の4月にこの神奈川左派で分裂が起きまして、日本共産党の党員の人たちを排除する形で革命左派が出来ました。その革命左派が以降、羽田に突入して飛行機を止めて、実際に訪米を送らせてしまうといった闘争を始めたんですね。この闘争は段々エスカレートしていきまして、69年から70年にかけて米軍基地にダイナマイトを仕掛ける。そうこうしている内に、基地でダイナマイトが爆発しても(新聞の)記事にも載らないという状況になって、非常に行き詰まりを感じていたんですね。他方、指導者の川島豪が逮捕されてしままして、彼は当初は偽装転向を装ったり、これは内部で批判もありましたけれども、それがダメだとなると獄外に身柄の奪還を指示したんですね。
それで、これをさして議論されなかったと聞いているんですが、聞いているというのは、その年は私は名古屋に行って活動していましたので、都内の状況をあまり知らない。指導部の論争もあまり知らないということで、その年の暮れに、柴野春彦と2人のメンバーが交番を襲撃して柴野さんが殺されてしまうという事件が起きました。ただその時は、単に指導者を奪還する時に使うピストルを入手するため、そういう目的だということで、警察官を殺害するとか、そういう目的ではなかったんですね。ところがこれは、赤軍派の人には非常に大きな衝撃を与えまして、両派の交渉と接近が始まっていくわけです。
その後、2月に真岡の銃砲店を襲うということで、私は本来メンバーではなかったんですが、「やれ」ということで、襲撃自体は首尾よく散弾銃を7丁、それから装弾もかなり多数を入手して、予想もしなかった弾圧がありまして、最終的に札幌まで逃げていくことになりました。その後、いろいろ動きがあったんですけれども、あの時のことを後から振り返って思いますのは、民間の銃砲店を襲ったということですね。これに関してもいろいろ議論があったらしんですけれども、確かに銃砲店の人たちは民間人で権力のメンバーではない。しかし銃の管理を国から認められている点で全く民間人ということではない。本来は望ましくないんだけれども、この際、しょうがないからそこから奪おう、こういう議論で押し込んで銃を奪うという行動をしているわけです。後から考えると、この論理が山での総括につながる根源になっていたと思います。
実際にその時に、店の子供たちも含めて縛り上げて、1年ほど後には自分の兄弟ですとか同志を同じように縛り上げて、それだけでなくて暴行を加えて死に至らしめるというところまで行った。ですから、真岡の猟銃奪取事件の時に、すでに後の破局につながる芽が表れていたなと思います。
ただ、私自身は当時永田などの方針には反対でしたが、そのままで行ったらうまくいくはずがない、必ずいつか大きな壁にぶつかるはずだ、その時まで待とうという形で、心ならずもそれを貫くことが出来なくて従ってしまう。ただ、私自身は、当時は軍のメンバーではなくて、小さいセクトグループと交渉する役割をしていましたので、主に都会で活動していて、野営地にも1回か2回くらいしか行っていないという形で活動していました。その中で71年の8月に捕まって、すぐ起訴されてずっと獄中におりましたので、山の総括には関与ないで済んだんですけれども・・・。
実際にはその中で川島豪と意見の違いが出てきて、最終的に総括が公になった時点で、私としては川島豪は単なるテロリストだと見切りをつけて、内部で論争を始めました。ただ、その時に私の意見に賛同するメンバーはほとんどいなくて、その年の秋には離党しております。
当時の心境を振り返ると、非常に鋭い闘争、しかもそれによって犠牲を払うような闘争をやることに対して、非常に自負心というか、一種のエリート意識というか、そういう気持ちで闘争しておりまして、そういったところに大きな落とし穴があったのではないかと思います。

金廣志
ありがとうございます。
お二人の方に語っていただきましたが、私自身当事者ですので、私の方からも簡単にお話させていただきます。
最初にお話ししましたけれども、私たちは戦後世代で親は戦中派なんですね。そして戦後というのは、私たちが子供の頃は非常に貧富の差がありました。私なんか給食費が払えないでよくいじめられたりもしました。そして私たちの時代に、高校に上がる子は4分の3くらいでしたね。それで普通科の高校に行くのは60%もいませんでした。商業科や工業高校に進んで、皆さんご存じだと思いますけれども、重信房子さんは第一商業というところに行っています。商業高校で最も難しい学校で、私の中学校の同級生のSさんという一番の女性が商業高校に行きました。そういう時代でした。そして4年生の大学に行くのも15%前後くらいだったと思います。女性の大学進学率は5%前後しかない。そういう時代の中で高度経済成長を迎えて、その時に私たちはベトナム戦争を知ったんですね。ベトナム戦争、要するに北爆というのがあって、日本の基地あるいは沖縄からB52が飛んでいって、民衆を無差別に殺害する、殺戮する、その手伝いを日本はしているんだという、そういう怒りがあって反戦運動に入って行き、そのうち様々な社会問題に目覚めていったと思います。
そしてもう一つ、学校というのは学ぶ場ではないんだということを知りましたね。ある意味で資本主義の産業戦士を養成する場なんだ、ということに対する怒りもありました。そして私は在日なんですけれども、いわゆる外国人差別とか言いますけれど、私たちの時代は就職できませんでした。日本の企業に就職することが出来なくて、私と同じ歳の人間が日立に日本名で受験して合格したんですけれども、実は朝鮮籍だということが発覚した後に就職できなかった。そして長い裁判の末に勝つようになって、今はもう当たり前ですよね。外国人のいない企業なんて成長する産業ではないんですね。当然、弁護士にもなれませんでした。私の知り合いも司法試験に受かったんですけれども、採用されなくて、それも裁判になって最終的に弁護士になることになりました。そういう目に見えない様々な事があったんだということを皆さんが知っていただければと思います。
そして、理想社会を求める運動に対して挫折していったことに対して、私自身からすれば一言でいうと、理想より現実の方が重かったなというのが一つです。理想の中に民衆はいないんですね。理想の中には我々の観念だけが住んでいて、本当の手触りのある人間というものが見えなかったなと、そんな風に感じています。
パネリストの方にお話しをいただきたいと思います。
森さんにはこれまで何回もお話していただいていますし、ある意味でオウムのこととも関連するかもしれませんけれども、自由にお話いただければと思います。

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森達也(映画監督・作家)
よろしくお願いします。ここに座って目の前を見て、除菌アルコールタオルがあって、消毒薬があって、しかも一人ずつの前に置かれていて、何なんだろうと思ったけれど、まあこれだけしっかりとコロナ対策をやっているんですよとアッピールでもあるんだろうなとは思うんですけど、何故ウオーターのラベルをはがすんだ。最近よくあるんですね、シンポジウムなんかで。今日はテレビが来ています。テレビの場合、もしかしたらニュースはまずやらないけれど、報道系の番組だったらもしかしたらラベルにモザイクかけるかもしれない。それをこっちで先にやっちゃってどうするんだろう。はがす必要ないんですよ。消毒液のラベルははがさないで、ペットボトルをはがす。つまり機械的にやっちゃっているわけですよ。
こういうことが若い世代はきっと気になるんです。たぶん大人になれば「いいじゃない、それくらい」と、「でもそうは言ってもだめですよ」と若い人はきっと気になるし、口にするし、さらに年を取れば逆に目くじら立てるのかもしれないけれど、でも基本的に若い人というのは、そうした原理、原則をどうしても見逃せないで、日本は戦争に負けて占領期があって、結果としてアメリカへの従属、ベトナム戦争があり、そのベトナム戦争に日本も後方支援として機能してベトナムの人たちが殺されている。それをどうしてもおかしい、我慢できないという声を上げる、しごく当然だと思うんですよね。ちょうどこの時期、アメリカの映画はアメリカン・ニューシネマです。正しく60年代後半から70年代前半ですから、ほとんど日本の全共闘後半から赤軍派の時代とかぶるんですけれど、アメリカン・ニューシネマと一口にすれば、皆さんどんな映画を思い出すかな?『明日に向かって撃て』とか『卒業』とか『タクシー・ドライバー』とかいくつかありますけれど、簡単に言ってしまうと、要するに反権力、反権威そして正義と悪への揺らぎ。それまでのアメリカの映画というのは、ジョン・フォードが一番典型ですけど、正義の騎兵隊がいて、悪いインディアン、ネイティブ・アメリカンをやっつけるというのがパターンだったわけで、そうじゃないと。『ソルジャー・ブルー』という映画があります。アメリカン・ニューシネマの一番最初の頃の作品ですが、これはネイティブ・アメリカンの側から見た西部開拓史の映画です。そうすると全然逆なんです。いかに騎兵隊たちが侵略者で残虐かということが描かれている。視点が変われば変わってしまう。『卒業』にしても『真夜中のカーボーイ』にしても『タクシー・ドライバー』にしても、正義と悪なんていう概念は崩れています、もしくは違う所から見ている。だからそうした若い感性みたいなもの、これまで大人たちが当然のものとしてきたような社会秩序、その体制に対しての異議申し立て、それは当然と言えば当然ですよね。だからこの学生運動みたいなものは日本だけじゃないです。ドイツの赤軍派という存在があったり、ドイツだけじゃなくてヨーロッパ全体で学生運動が起こったり、世界的な現象だと思います。

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やっぱり日本の場合は、あさま山荘と、その後の山岳ベースでの12人の殺害が明らかになった時に、急速にしぼみました。当時、僕は中学3年だったと思うんだけど、何となく覚えていますね。やっぱりあさま山荘までは、学生だけではないんですが、学生頑張れという何かそういう雰囲気があったんですけれど、でも山岳ベースが明らかになって、新聞に例の遺体があった場所の写真、警察が作っているんですけれども、その写真が掲載されて、その日、もしくはその日以降、僕の知る世界というのは両親とかその周りだと思うんだけれど、明らかに冷えました。本当に熱が2~3度下がったという感じで、大きなきっかけになったことは確かです。
僕は20年前にオウム真理教の施設に初めて入って、サリン事件の2ケ月後か3ケ月後ですけれど、入る前にちょっと身構えましたが、入ってびっくりしました。とても純朴で善良で純真な信者ばっかりなんです。でも同時に純朴で善良で純真な信者がたくさんの人を殺そうとしたことも確かなんです。だから本当にオウムの事件について僕らやメディアが考えるべきは、狂暴、凶悪、冷酷な信者もしくは教団もしくは教祖が日本社会に牙をむいた、攻撃してきたではなくて、何故これほどに純朴で善良で純真な、彼らの入信動機は世界の人々を助けようですからね、そういった人たちがこれだけの人を殺そうとしたのかを考えるべきだったんだけれども、結果的には社会はそれを拒絶しました。狂暴、凶悪、冷酷だからこういうことをやったんだというとても単純な図式に押し込んでしまって、そのひな型は連合赤軍です。
解析しないまま。分析しないまま終わらせてしまうという、終わらせようとしている、ある意味で仕方ない。この数日、ウクライナ報道が報道の前線からどんどん後退している。コロナもすっかり遠景に行ってしまった。さらに言えば香港はどうなったのか、ミャンマーはどうなったのか。何も片付いていません。でも結局は皆どんどん忘れてしまう。今、ウクライナで市民が1万人死んだ、ロシア兵1万人、ウクライナ兵8千人という数字が毎日のように報道されていましたけれども、その間にイエメンでももう30万、40万人も死んでいます。でも、ほとんどの人はこれを知らない、報道されないから。だから報道されないと可視化されない。
もう無かったことになってしまう。やっぱり無かったことにしてはいけないことはたくさんあります。でも特に連赤の事件というのは、その後の50年間の日本を考える上で、とても重要なエポックメーキングだと思うので、この取り組みには本当に敬意を表して、できる限りは支援したいと思っているので、今後も頑張ってください。

金廣志
ありがとうございます。
次にオンライン参加のピオ・デミリアさんと話したいと思います。
(注:オンライン参加のお二人は、日本語がよく聞き取れないので、正確でない部分もあると思います。それを前提にお読みください。)

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ピオ・デミリア
皆さんが仰ったことが(オンラインの不具合によって)ほとんど聞こえませんでしたが、皆さんよろしくお願いします。
今、イタリアから参加していますが、まず改めて重信房子さんの満期出所のこと、大変嬉しく思っております。早いうちに彼女と再会を楽しみにしております。小菅の拘置所に面会に行きました時の深い感動は、今でも新鮮に蘇ってきます。彼女の眼差しの強さというか、彼女の信念の強さ。それでもう一つ、出所後の宣言に対しては、尊敬と称賛を述べさせていただきたい。本当に倫理的に人道的に政治的に、すべてにおいて非常に深い宣言であると思います。国民討論を引き起こすほど価値のある、非常に広く布教すべきだと確信しています。個人的な意見ですが、高校生にも読ませて議論させるテキストだと思います。残念ながら今の日本はそれを実現できる国ではありません。
そして、イタリアのことを皆さんは聞きたいと思っているでしょう。イタリアでは、我々イタリア人が言う「鉛の時代」、鉛の弾丸の比喩でもあり、「重い」の意味もあります。その時は、イタリアではいろんな批判を浴びながら司法取引制度を開設しました。テロリストとマフィアを対象にして、簡単に言うと協力する受刑者は減刑あるいは場合によって不起訴まで保証されます。イタリア語でいろんな言葉を使っていたんですが、「政治の協力者」とか「悔い改めた裏切り者」。そのおかげで、いろんな不公平が起こりました。例えば殺人で自首した人は、国のお金をもらって長く外国で年金をもらって普通に生活できた。今は新聞社や大きな会社で広報の仕事も持っている。その人は1980年に2人で、実際は7人でしたが、イタリアの有名な記者を殺した人たちです。彼らは協力して判決は懲役8年でしたが、その8年間を無視して、そのまま外国に行かせた。一緒に行った残りのコマンドの5人は、協力しなかったので22年です。それで非常に不安な実情になったんですね。
この点において、日本とイタリアは一致点があります。例えば、さっきの重信さんの話がありましたが、イタリアではちょっと違いますが、「赤い旅団」の幹部のクルチョさんですね、彼も人を直接殺したことはありません。彼は「赤い旅団」の創設者であるだけです。
彼は1998年に4年早く刑務所から釈放され、重信さんと同じように、だいたい21年間刑務所に居て、12年間は厳しい刑務所体制にあったんです。それで人を殺していないということは犯罪を犯していない、思想的な犯罪だけ。それは私が何回も書きましたけれど、それはイタリアと日本の違いは、イタリアでは何となく政治的な解決を目指している。しかし日本では、私はこういう言葉を使いますが、「国家仇討ち」の概念です。ということは、国家はこの人たちからすごくやられたから、「仇討ち」として絶対許さない、絶対解放しない。刑務所から出てからも村八分にされているんです。
イタリアでは、例えばクルチョさんですね、彼は21年間で刑務所出てから、今は大学やNGOやNPOの先生とか活動をいろいろやっています。それでテレビの特集でよく出てきます。
逆にトリアッチは、テロリストの関係ではなくて、ただの哲学者ですが、彼は村八分されています。イタリアでは彼はテレビ、マスコミに絶対に出ないことになっている。アメリカでよく出ています。
だいたいそういうことを言いたかったんですが、是非、この50周年の機会に、もう1回日本でもアクティブ政治への関心をまたやってみましょう。私が見ると、日本は今寝ています。
日本は寝ることを止めて起きてください。

金廣志
ありがとうございます。
少しだけ付け加えますと、今のピオの話は、イタリアだと「赤い旅団」、西ドイツだとバーダーマインホフグループ(赤軍派)というのがありました。そして、そのメンバーで刑務所に入っている、あるいは収容されているのは日本赤軍だけなんですね。バーダーマインホフグループは全員釈放されました。「赤い旅団」の思想家アントニオ・ネグリはフランスに亡命してイタリアでは評判が悪いんですけれども、帰れないわけではない。イタリアは和解をしたんですね、戦後の和解。日本では和解ではなくて「国家のリンチ」を与え続けているということを言っているではないかと思います。日本も和解をして、新しい道に進むべきではないかと言っていたと思います。
それでは、次にパトリシアさん、お願いします。
パトリシアさんは日本赤軍に対して本を書いています。その中で日本の社会の構造ということを非常に分析されているんですけれども、連合赤軍の総括事件、仲間を次々とリンチで殺害する、こういう行動様式というのは特別な行動なんでしょうか?それとも日本人に特有な形なんでしょうか?これは日本の軍隊の経験も含めてなんですが、日本的特徴なのか、あるいは世界のどこでも起こるような事件であったのか、その辺についてお伺いしたい。
もう一つは、連合赤軍は集団的暴力を外に使う前に内部に向かいました。自分たちに向かって暴力を使いました。それについて、暴力というものを止めることはできるのでしょうか。もしそれが出来ないとすれば、その暴走を止めるためには私たちはどのようにすればいいのか、パトリシアさんのお考えをお聞かせいただきたいと思います。

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パトリシア・スタインホフ
最初の質問は、実は両方ともそうです。ある意味では、世界中には集団暴力の似ているような事件があります。だけども、日本の場合はもちろん特徴もあります。私が日本の例を勉強して、日本の特徴としては、日本ではアメリカよりも上下関係が強くて、指導者が何を言ったら、直接に反対できない、特に連合赤軍の事件はそうでした。最近はちょっと違っていると思いますけれども、その時代はそれが集団暴力の一つの原因だったと思います。
だけども、集団暴力があっても、それを止めることができます。連合赤軍の場合も、過程を詳しく見たら、止められる時もありました。最初の頃はあったんですけれども、みんなもうできないという気持ちで、何もできないで止まったわけです。そして別々の事をしてから、また暴力が出てきました。そして最後には、周りの状態が違いましたから、もう続くことができませんでした。だからそういう意味では、暴力があっても、あとは協力しないようにすることもできます。そして、別の日本の場合と違って、アメリカとの比較では、皆さん知っているかもしれませんが2021年の1月6日、アメリカでは大騒ぎになりました(議事堂占拠事件)。千人以上の証言者もいるし、いろんな資料も集まっていて、発表して、テレビで部分的にその結果を見せています。
そして特に昨日は、トランプ前大統領が中心的な活動になっていたんです。本当に彼が周りの人たちが反対して直接に言ったんですけれども、彼が無視して、彼がしようとしたことだけを考えて、それをやろうとしたんです。そして、これは日本では信じられないことですが、ある意味では彼が森さん(森恒夫)に似ている立場です。自分の指導が強かったので、他の人たちも彼が言っているので、公に何も言わなかったんです。今までは公に言わない人たちは、本当に何を言ったのかということを今、公にしている。アメリカの会議で出ている資料では、トランプが副大統領を殺そうとしたんですよ。一緒にやったわけですが、最後に彼が意味がないから捨ててもいいと。トランプ大統領の考え方は集団暴力に近いのではないかと思います。だから、アメリカでもそのような事が起こる。
この会議では、今までは野党の人たちが反対しているけれども、この資料からは、トランプ大統領の真ん中の人たちの本当の言葉が出ているから意味があると思います。
金さんの質問について、この事件はどこにでも似ているものがあると思います。けれども日本の場合は特徴があります。そして、もう一つの質問については、もちろんできます。それを超えるためには何が必要ですか?実は、「残す会」が前からやっている、資料を集めて対談を記録している言葉、それがその方向なんです。だから「残す会」そのものが、そういう問題の答えなんです。

金廣志
ありがとうございます。
私たちが連合赤軍のリンチ殺害事件というのを止めることができなかった。しかし、今、パトリシアさんは「止めることができるんだ」というお話がありました。これは後で岩田さんに聞いてみたいと思います。
アメリカ、ヨーロッパというのは非常にラディカルな左翼が強くなっているんですね。日本に居ると気付づかないんですが、アメリカではサンダースに象徴されるような社会主義者たちが現れたりして、しかもその社会主義者の中でもラディカルな若い人たちがいる。ヨーロッパでは「緑の党」とかいろんな要素があるんですけれども、左翼が非常に活躍している状況にある。それに対する応援のメッセージもあるんだと思います。パトリシアさんもピオさんも日本で講演していただきたいと強く思いました。
次にパネリストからの発言として、日本では珍しく右翼と左翼と、しかも鈴木邦男と塩見孝也を手玉に取ってきた雨宮処凛さんに、少し楽しく語っていただければと思います。

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雨宮処凛
私は1975年生まれでベトナム戦争が終わった年の生まれです。自分自身が10代の時とか、本当に生きづらくて、リストカットして、半径5メートルの事しか考えていないというか考えていけないというか、禁止されているように思っていたんですね。そんな時にテレビで学生運動の映像が流れると、ものすごくたぎるものがあって、何でこういう事があって、自分自身が半径5メートル、1メートルくらいで恋愛とカラオケと買い物と、それ以外禁止されているみたいなそういう状態で、何で生きているんだろうと思っていた時に、鈴木邦男とかそういう右翼、左翼の人たちを知って、まず鈴木邦男さんと出会ったら、右翼の人っていい人だと勘違いしてしまって、いろんな人と知り合って、芋づる式に塩見さんとも出会い、塩見さんが初対面の私にいきなり「北朝鮮に行こう」と言って、1999年に初めての海外旅行で北朝鮮に行き、2回目の海外旅行は一水会の木村さんに誘われてイラクに行ったんですけれども、そんな感じでやっているとこんな感じに仕上がったんですけれども、まあ結局いろいろそういういろんな人との付き合いの中で、自分が何であんなに生きづらかったかという10代の頃に、半径5メートルって、社会と政治から完全に断絶されて、そこと回路が途切れて、何か社会に関心を持ち、何かを言おうものなら、「社会のせいなんかにするのはお前のせいだ、自己責任だ」と口を封じられるような事の原因はどこにあるんだとずっと考えて、連合赤軍という一つの事件もきっかけなんじゃないかと辿り着いたときはすごく衝撃というか、皆さんが連赤で山に行ったのと同じ世代の20代の時に、私自身の周りにあったのは右翼左翼の愉快なおじさんたちとの繋がりがある一方で、自分のリアルな生活の場ではリストカットをしている人たちであったり、20代で自殺する人、あるいは2003年頃からネット心中が流行って、インターネットで自殺を一緒にする人を募集して待ち合わせて、レンタカーを借りて山奥に行って練炭を焚いて死ぬというのが同世代の若者の間で流行っていたわけです。たぶん彼女たちは自助グループをやっていて、自助グループというのはいいものだと思いますが、ネットで始まった自助グループというのは危ないんですよ。プロがいないから、死にたい若者だけが集まって、ある意味総括していくというか、連赤の総括シーンとそっくりなんです。皆が話すのは革命とかでは全くなくて、何故自分は生きていちゃいけないのかということを、散々話すわけです。遺書でも謝りながら死んでいく。自分は役に立たなくて何もできなくて本当に申し訳ないという形で、心を病んで死んでいく若者たちの背景には、やっぱり予め政治や社会から断絶されたというか、私自身右翼に入ったりする中で、本当に若者が政治に関心を持つと録なことにならない、その時に出てくるのが連合赤軍の事件で、そういうので詳しく知っていたんですけれども、今に至る生きづらさですよね。連赤のトラウマから解放されたと思ったのは、この前の全共闘の人たちの本(『全共闘未完の総括』)の出版記念の集まりに行って、みんな60年安保とか70年安保の人の中で、一人2015年安保の人がいて、中学生で2015年の安保法制反対のデモに参加している人がいて、2015年安保の時にシールズとか出てきた時に、初めてそういうトラウマから全く知らない世代が来たんだなと思いました。私自身は、自分は生まれていない年の話だし、関係ないのに、連赤は何故か言い訳をしなくてはいけないと言うか、「そういうんじゃない」と言わなきゃいけないという感じで居た。あともう一つ、良かったのは、結構ゴスロリとかで運動していたんです。「チャラチャラするな」と言われたら、連合赤軍の事を言ったら黙るとうのは、私にとっては良かったです。
まあそんな形で連合赤軍事件は関心が尽きないですね。なので、必ず参加させていただいて、10年前に参加した時に、「そのような事件が今も社会と世界と断絶する形で影を落としていて、選挙が始まっても若者は政治に関心ないみたいなことも関係あるんじゃないですか?」と連合赤軍の人に聞いたら、「いや、そんな事言われても」と言われたことがあります。
以上です。

金廣志
ありがとうございます。
2015年安保の時に、私も国会前にいましたら、突然雨宮処凛さんの演説が聞こえてきて、我々の時代の演説とは全く違うんですよね。我々は政治的な演説しかできないんですけれども、もっと地べたを這うような演説に、非常に関心したことがあります。新しい時代が生まれたんだなとその時思いました。シールズより処凛さんの方が恰好良かったですね。
今日はありがとうございます。
それでは漫画『レッド』を連載された山本直樹さんにお話しを伺います。山本さんは大変エロチックな漫画を描く方で、何故『レッド』を描いたのか?もう一つ、『レッド』を描く過程で「連合赤軍には謎は一つもない」という話をされていました。そういうことも含めてお話いただければと思います。

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山本直樹
山本です。ディスカッション的なものかと思って、自分で喋ることをちゃんと決めてきていなかったですけれども、『レッド』という漫画を描きながらぼんやり思っていたことがいくつかありました。
最初にあさま山荘事件、連合赤軍事件のことを漫画にしようかなと思ったのは、元々オウム(真理教)の事件が95年にあって、この人たちって何なんだろうと思って、オウウの当事者は自分の考えを本にしていなかったので、一緒ではないけれど、僕が子供のころの学生運動に近いとことがあるのかなと思って、その人たちの書いた本をいっぱい読んだら、書物として面白くて、坂口さんとか永田洋子さんとか植垣さんの書いた本を読むと、これを漫画にしたら絶対面白いだろうな、でも僕は面倒くさいから絶対やりたくないと思っていたんですけれども、編集者にそそのかされて始めてみたという感じです。
 何でこんな事が起こったのかというのは、世界中あちこちで起きている。絵を描いている時、理屈を考えている部分が空くので、そこでいろいろ考えていたのは、人は必ず死ぬ、死んだらもう再現不可能である。現実というのは、生きて暮らして死んでそれで終わることだと昔から考えていたんですけれども、それ以外は全部フィクションであり、言葉だなと思うんです。現実に生きて暮らして死ぬ以外は全部言葉である。言葉は生きるための、言葉もそうだしお金も宗教もすべてフィクションなんですけれども、それは生きるための大事な道具である。だけれども、フィクションの方が言葉の方が、生きて暮らして死ぬということよりも上位に来てしまうと、命が軽くなって自分が死んだり、他人を殺したりするんだろうなと思っていました。だから反対の現実とフィクションの混同は戦争なんでしょうけれども、生きて暮らして死ぬだけでいいのに、それ以外の何かを上位に持ってくることで全部悲劇が起きるんだなあ、という風に僕は一般化して考えて漫画を描いていました。だから言葉がどんどん回転して、生きて暮らして死ぬということよりも大事な事のように思えてきてしまうんじゃないか。それは世界中に起こることだし、あらゆる原理主義、イスラム原理主義も新自由主義も原理主義じゃないですか。フィクションの方が大事だよと言ってしまうのは、僕は全部原理主義だと思っているけれども、学校の教室のイジメから会社の中のハラスメントまで、共通して捉えることが出来るんじゃないかなと漫画を描いていました。

金廣志
ありがとうございます。
山本さんのフィクションと現実感の話がありましたけれど、山本さんの漫画の中にもあるんです。一つのフィクションの中から実際のリアルが浮かび上がってくるようなことがあるのかなと思います。
もっとディスカッションする予定でしたけれど、時間がなくなってしまったので、森さん、最後に言葉が複数になると暴走するという話をしていただいて、それで納めていただきたいともいます。

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森達也
今、金さんが言っちゃったよ。(笑)同じ事言いますが、「主語が複数になると述語が暴走する」と何かに書いたら、鈴木邦男さんはすっかり喜んじゃって、彼がいろんなところで勝手に使ったりしていて、でも自分のフレーズだから確かにその後取材しても常に思うのは、一人称単数の主語を忘れて、つまり組織に埋没すると、人は時としてありえないことをしてしまう。後になってから、何であんな事ができたんだろうと。これはそんなに遠い話ではなくて、軍隊でもそうだし会社でもそうだし、僕たちは組織に生きる生き物なんですよ。人は単独では生きられないから。だから常にこれがあるんだけれど、その自分たちの負の特性を知る上でも、歴史に何があったのか、朝鮮人虐殺があったり、南京虐殺があったり、あるいは今でもそうですよね、いろんな事が日々起きているし、正しくオウムも連合赤軍もその典型なので、しっかりとこれを分析し解析し、何のために分析するのかというと、同じ間違いを犯さないためですよ。ところが日本はそれをしない。負の歴史だと言って目を背ける。バカじゃないかと思いますよ。だから結局また同じ事が繰り返されてしまう。だから本当に一人ひとりがもっと、そんなに難しくないんですよ、常に主語を我々でなくて私、俺にしておけばずいぶん世の中変わって見えますよということを言いたいです。(拍手)

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金廣志
ありがとうございます。
どうしてもそれを最後に言って欲しかったんです。それは、我々のかつての左翼運動あるいは連合赤軍の運動、これは複数だったんです。「我々は」って必ず語ったんです。「私は」と語らなかったんですね。要するに一人ひとりが自立して生きて行く、自立して物を考えるということができなかったことが、ある意味で悲劇につながっていったように思います。
それは決して知識でもない、何かたくさん知っているからとかそういうことでもないです。人間の生きて行く知恵、そして要するに本人の言葉を語るという、そういう風に、やっと長い月日でなれるようになったのかなと思っています。
第二部はこれで終わらせていただきます。

椎野礼仁
主語が複数になると暴走するということなんですけれども、我々が「我々」と語っていたことの一つの価値観の中に僕らが置いていたのは「連帯」という言葉があるんですね。東大闘争で(占拠した)安田講堂(の中)に「連帯を求めて孤立を恐れず 力及ばずして倒れることは辞さないが 力を尽くさずして挫けることを拒否する」という言葉があったんですけれども、大江健三郎の何かの小説にも最後に出てきますが、「連帯」という言葉があって、その「連帯」という価値観が「我々」と語らせたんじゃかいかと、今思いました。
(第3部に続く)

【アーカイブス】
「連合赤軍事件の全体像を残す会」では、「あさま山荘」40周年と45周年に集会を開催しています。
このブログにも報告を掲載していますので、以下のアドレスからご覧になれます。
No245  シンポジウム 浅間山荘から四十年 当事者が語る連合赤軍
No471 浅間山荘から45年「連合赤軍とは何だったのか」第一部
No472 浅間山荘から45年「連合赤軍とは何だったのか」第二部


【6月4日の開催の「重信房子さん歓迎の宴」で販売された本の紹介】
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『戦士たちの記録 パレスチナに生きる』」(幻冬舎)重信房子 / 著 

(幻冬舎サイトより)
2022年5月28日、満期出所。リッダ闘争から50年、77歳になった革命家が、その人生を、出所を前に獄中で振り返る。父、母のこと、革命に目覚めた10代、中東での日々、仲間と語った世界革命の夢、そして、現在混乱下にある全世界に向けた、静かな叫び。
本書は、日本赤軍の最高幹部であった著者が、リッダ闘争50年目の今、"彼岸に在る戦士たち"への報告も兼ねて闘争の日々を振り返りまとめておこうと、獄中で綴った"革命への記録"であり、一人の女性として生きた"特異な人生の軌跡"でもある。
疾走したかつての日々へ思いを巡らすとともに、反省を重ね、病や老いとも向き合った、刑務所での22年。無垢な幼少期から闘争に全てを捧げた青春時代まで、変わらぬ情熱もあれば、変化していく思いもある。彼女の思考の軌跡が、赤裸々に書き下ろされている。
さらに、出所間近に起きたロシアのウクライナ侵略に対する思いも、「今回のウクライナの現実は、私が中東に在り、東欧の友人たちと語り合った時代を思い起こさせる。」と、緊急追記。元革命家の彼女に、今の世界はどう見えているのか。
定価 2,200円 

9784792795887

『重信房子がいた時代』(増補版)(世界書院)由井りょう子/ 著

(紹介)
2022年5月28日、日本赤軍の重信房子が20年の刑期を終えて出所した。
フツーの女子大生が革命家になるまでの足跡を、本人、家族、娘、同級生らの証言を丹念に聞き取ったノンフィクション。
重信房子を通して、あの時代の熱量を再現する。

目次
第一章 戦後民主主義の申し子
四〇年ぶりの再会
戦後民主主義に育つ
父とのささやかな遠出
理科と文学に親しむ
貧乏は恥ではない
デモも貧乏も嫌い
文豪に会いに行く
夢は先生になること

第二章 学生運動の季節
大学入学
スーツで座り込み
自治会活動
政治の季節
ブントの重信
救対の重信
一〇・八 
同人誌『一揆』
神田カルチェラタン
教師になりたい
大学祭

第三章 父と娘の革命
本気の革命
父は右翼
血盟団事件と父・末夫
全共闘運動
学生運動の変質
赤軍派でも救対
国際根拠地づくり

第四章 アラブに生きる
和服を着て大使館のパーティーに
山口淑子との出会い
父の毅然とした態度
父と娘
母・房子

第五章 娘に託した希望
アンジェラという名前で
メイ十六歳の誕生日
房子の逮捕
母の国、桜の国
日本、娘の日本

嘘  
 重信房子 
 高校三年生の時の小説

あとがき 
 もうひとつのあのころのこと
 重信房子 

(著者プロフィール)
由井りょう子  (ユイ リョウコ)  (著/文)
1947年12月、長野県生まれ。
大学在学中から雑誌記者の仕事を始め、主に女性誌で女優や作家のインタビューを手がける。
著書に作家・船山馨夫婦の評伝『黄色い――船山馨と妻・春子の生涯』(小学館)
共著に『戦火とドーナツの会い』(集英社)ほか、
編纂に『革命に生きる――数奇なる女性・水野津太――時代の証言』(五月書房)
がある。

定価1,800円+税

9784755403194_1_2

『私だったかもしれない ーある赤軍派女性兵士の25年』(インパクト出版)江刺昭子/ 著

(紹介)
1972年1月、極寒の山岳ベースで総括死させられた遠山美枝子。
関係資料と周辺の人びとの語りで、複雑な新左翼学生運動の構図、彼女が学んだ明治大学の学生運動と赤軍派の迷走を描く。

目次
第一章 2018年3月13日横浜相沢墓地
第二章 重信房子からの手紙
第三章 ハマッ子、キリンビール、明大二部
第四章 バリケードの中の出会い
第五章 「きにが死んだあとで」
第六章 赤軍派に加盟
第七章 遠山美枝子の手紙
第八章 新しい世の中を作るから
補 章 伝説の革命家 佐野茂樹

(著者プロフィール)
江刺昭子(エサシアキコ)
1942年岡山県生まれ
広島で育つ。女性史研究。
著書に『樺美智子 聖少女伝説』などがある。

定価2,000円+税

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『歌集 暁の星』(皓星社)
連帯の火矢! 重信房子第二歌集

(皓星社サイトより)
テロリストと呼ばれしわれは秋ならば桔梗コスモス吾亦紅が好き
 
元日本赤軍リーダー・重信房子が21年に及ぶ刑期を終え、この5月に出獄する。
本書は獄中で書き溜めてきた短歌をまとめた第二歌集。著者は革命の日々を、連合赤軍事件で粛清された友・遠山美枝子を、現在の世界の悲惨を、二十数年にわたり詠み続けて来た。
本書の歌は、著者のもがきと葛藤の発露であると同時に、歴史の証言でもある。

海外で暗躍すること四半世紀を超え、国内での潜伏と獄中の日々、重信は一体、この斬新で清潔な文体をどこで獲得してきたのだ。
……戦い死んでいった同志への哀悼に、柔らかな心の襞を涙で濡らし続けてきたのだろう。(福島泰樹「跋」より)

アネモネの真紅に染まる草原に笑い声高く五月の戦士ら
空港を降り立ち夜空見上げればオリオン星座激しく瞬く
雪中に倒れし友の命日に静かに小さな白き鶴折る
津波燃え人家逆巻き雪しきり煉獄の闇 生き延びし朝
パレスチナの民と重なるウクライナの母と子供の哀しい眼に遭う

定価2,000+税

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在12校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ  その2】
ブログは概ね隔週で更新しています。
次回は9月2(金)に更新予定です。