野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2022年09月

このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子に掲載された重信さんの日記「独居より」の要約版を紹介してきた。
当時の立場や主張の違いを越えて、「あの時代」を共に過ごした同じ明大生として、獄中にある者を支えていくということと、私のブログの読者でこの冊子を購読している人は少ないと思われるためである。
最初の紹介は2011年1月28日「独居より ―重信房子さんの近況―」。それからから11年余り、東京拘置所、八王子医療刑務所及び東日本成人矯正医療センター(昭島市)での重信さんの近況を伝えてきたが、重信さんは5月28日に満期で出所されたので、この重信さんの日記「独居より」の紹介も今回が最後となる。
今回は「オリーブの樹」158号(最終号)に掲載された重信さんの獄中での「日記」と、出所後の「日記」の要約版である。
(この記事の転載については重信さんの了承を得てあります。)
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【独居より 2022年3月8日~5月27日】(最終号)
占領に立ち向かラウクライナの人びとが英雄なら、パレスチナ人も英雄であり、テロリストではない!

3月8日 まだ居室で刑務作業が続いています。居室作業が良いのは、片付けや食後、片付け食後、作業後の掃除がない分、作業所よりダルマ作りに時間が少し多く使えることです。それに、居室で作業中さっと新聞を読めることです。工場での作業の方が良いのは、みんなで話し合ってダルマの作業を助け合ったり、おしゃべりが出来、暖房が入ることです。ダルマ作りはとても楽しいので皆休日を嫌がります。私も楽しいけど、休日は自分の作業に集中できるので大切です。今日はもう盛りに咲いているチューリップ赤2本、ラッパ水仙の黄2本、スイトピー1本、春が届きました。
今日は女性たちの活動に連帯! 3月8日です。

3月16日 朝9時から胃カメラ検査、鼻チューブからやってもらいました。胃にポリープが一つあったのですが、次回検査時、主治医に聴くつもりです。「創」「紙の爆弾」など受け取りました。「創」に「オリーブの樹」から抜粋してまとめた篠田編集長の文が載っていました。Mさんからは「連合赤軍事件の全体像を残す会」の追掉に参加したと、いろいろの写真で説明したものを送って頂きました。曹洞宗「金秀院」で雪野さんが参加して法要が行われた様子がわかります。弘法大師の「阿字の子が阿字のふる里たち出でてまたたち還る阿字のふる里」の一首が碑に刻まれているそうです。阿字とは仏様の世界のことで、殉難者を偲んで当時の住職がお選びになったとMさん。良い報告をありがたく読みました。
(中略)
3月15日 栄養ドリンク テルミール 400kcaIの200 mlを毎食2本を飲むのですが、今日は毎食一本がやっと。3食に4本位飲みました。明日の大腸内視鏡検査の準備です。
作業中の午後、教育担当官の面接。出所にむけた昨年中の改善教育後、どのようなことを考えているか。又、出所にむけて具体的に学習したいことの確認など話合いました。ここでは、パソコンを使う教育学習はないので、社会復帰に必要な暮らし方、税制や電子マネーや、生活保護の仕組みや、すぐ活かせそうな情報の載っている本などについて学びたいと話しました。4月に入ったら、それらの学習の機会がありそうです。
(中略)
3月16日 今日は朝から4リットル近いニフレックス(大腸洗浄液)を飲んで13時には準備完了。大腸内視鏡検査。 13時半すぎから14時半まで。がっかりしたことに1.5センチ位のポリープを、肛門から55cm、横行結腸のあたりに見つけました。去年の5月、内視鏡検査を行ったのですが、主治医は、腸のひだの裏側なので貝逃していた可能性があるとのこと。私が見ても、ちょっと悪性のポリープの形。主治医は自分の技量では、大きく形も複雑で、内視鏡では摘出出来ないとのことでした。治医は出所後、専門の病院なら内視鏡で開腹しなくても摘出出来るはずであり、半年一年以内なら大丈夫とのことでしだ。このポリープは、生体チェックのための採取で傷つけない方がよい、癌が拡散したり、今後の手術に良ぐないとのことで、そのままにしました。そして、その場所がわかりやすいように目印のクリップを2本打ちこみ、墨汁で印を残しました。今日のポリープの発見が5ミリ前後なら、今回摘る確認を承諾書にも記してあったのですが。
出所後すぐ、胃と大腸ポリープの摘出計画を立てることになってしまいました。でも、今見つかって良かったです。出所してからでは多忙で、きっと検査もなかなか出来なかったでしょう。リハビリ含めて、身体を整える機会としたいと思っています。
Iさんからの資料届いて、新聞やTVでは、出ていないウクライナ戦争をめぐる様々な人種差別が欧州中心に露わにあることを知ります。シリアやアフガニスタンなどの難民を追い出して、白人のウクライナ難民を受け入れろといった動きです。イスラエルでもウクライナのユダヤ人のみ受け入れるなどの動きもあるようです。日本も「反ロシア」で、ウクライナ人受け入れが「正義]となり、米国追随著しい。イスラエルのガザ空爆を支持し続けてきたゼレンスキー大統領は、ロシアを戦争犯罪と非難しています。ニュースはウクライナ市民の厳しい悲惨な姿を伝えていて、パレスチナの人々と重なります。
(中略)
3月30日 今日は「土地 の日」。檜森さんの20年目の命日です。今度の出版計面の原稿には檜森さんのこといろいろ書きました。みんなを思い出しつつ黙祷。中東調査会「中東研究」 で「ナクバの日」が5月14日になっています。中東専門誌の初歩的過ちか?私たちはPFLPで5月15日としていたので、ウイキペデ彳アで急ぎ確認したい。

3月31日 今日ベランダへ久しぶりに運動に出ました。プラスチック塀のすきまから、遠くの満開の桜が見え、足下に一ひらの花びら!「花見だねー!」と、盛り上がりました。Iさんのお便りでも川原や畦道は、ホトケノザ、ハコベ、オオイヌノフグリ、シロツメ草が覆っているとのこと、いいなあ……。水谷さんからとても詳細に資料、デー夕を駆使した論文「プーチン体制によるウクライナ侵略戦争の階級的性格と日本労働者人民の課題を考える」が届きました。学習するのに読み易く歴史もまとまっていてわかりやすいです。
(中略)
4月11日 今日から工場での作業となりました。また、午前中には社会復帰に向けての「支援プログラム」が始まりました。今日のオリエンテーションによると、第二回は福祉相談窓ロでの必要な知識など、第三回は電子マネー決済、第四回は外部講師による講義、第五回は看護師による健康管理のあり方など、第六回が全般的に学習をふまえて。以上のようなプログラムは刑期が10年など長期受刑の人に、変化した社会に適合してもらうためのものだそうです。今日は「受講者用ワークブック」図解入りの教科書と厚労省の「コロナ」による「新生活様式、消費者動向、消費者庁の動向など、コロナでの社会生活の変化や発生しているトラブル対処や、ネット記事など本1冊位の資料受け取りました。ひととおり読むのはいい社会学習資料です。今日はプログラムの目的や学ぶことなど、説明うけ読むベきものも受け取りました。午後には分類課福祉関係担当者の人と面接。出所後すぐ病院はどうするのか?健康保険は?身体の健康管理は?財政・生活費は?など質問を受け、対処すべきことなどの話をしました。夕方には居室に戻って「就労支援かわら版」 3月号はじめて見ました。ここから出た後の就労などの回覧です。(中略)
もうあと1回になった最終号の「オリーブの樹」は6月発行予定です。出所直後の様子なども加えて発行します。「オリーブの樹」ずいぶん長い間月刊、その後の受刑者処遇後は2カ月に一回、そして季刊へ。友人たち、編集部、支える会の支援のおかげで、ずっと出所まで記録できそうです。その後は体調、リハビリ、社会的条件などふまえつつ、どんな形で発信していくか決めようと思っています。

4月18日 Aさんから久しぶりのお便り。3/27の泉水さん追悼の様子の写真を送って下さったとのことです。3 ・ 30に檜森さん追悼20周年目の会もあったとのこと。友を偲びつつ友が再会し合う命日は大切な時間です。写真はまだ未入手です。
四月の題詠は「坂」
“女坂行きつ戻りつ論じ合う 愛の替わりに経哲草稿”
大学時代愛を語る照れくささに、いろいろと難しく語り合いつつ、好意を寄せあったものでした。経哲草稿はマルクスの愛についても述べられていて、そんな若さを思い出します。
“ふきのとうつくし咲き初(そ)む土手めがけ 幼と駆ける緑の坂道”
来年は私もそんな時間が持てると良いのですが……。

4月2 2日 快晴。昨日は曇り空だったけれど久しぶりにべランダへ。ポピーのオレンジの花がひとつ今年も咲いているのをみつけてみんなで歓声!出所後の専門病院への診療情報提供書(紹介状)にCDを添付要請した方が良いと、主治医と分類課が話合って、願箋を書くよう言われて書き込みました。出所時に、これでモニター画面(大腸内視鏡の)見ることができるCDも受け取れることになりました。
メイも帰国出来て、私の出所に向けた準備に入っているようです。整理すべきあれこれは、まだ手つかずで、連休中に予定していた本や書類などの整理をずることに変更。あと、もう一回のゲラのチェックが「戦士たちの記録」と「歌集 暁の星」も、五月にずれこんでいて、そのあと、書類や資料整理に更にずれこみそう……。

4月2 5日 今日は快晴。工場から戻り、すぐ入浴して真赤な顏で髪もびしょびしょ。暑い暑いと着換え中、面会の知らせ。大谷弁護士とメイが一緒に来てくれました。あわてて面会室へ。大きな点は二つ。ひとつは、ゲラ最終段階の文章の加筆や削除点の話。もうひとつは、当日のプレスリリースやマスコミ対応のプランなど、その他、あれこれ短い時間にワイワイと話合いました。5月30日は50周年短くても参加するつもりです。
戻って、分類課から、「出所時は、敷地内(と言ってパーキングエリア)に3人。車一台可能。当センターから出所日の知らせを誰に送るべきか?」と聞かれました。当センター側から身元受取人に対する手紙が送られ、そこには迎えに来る出迎え人3人の名前を書いて、当センターへ送り返すよう記されているとのことす。
夕方、由井さんよりお便り。由井さんの、前に出版した本が、新しく判型四六判、タイトルは「重信房子のいた時代増補版」と決まり、5月13日に発売とのことです。由井さんからは「もうすぐ目と目を合ねせて語れますね、周囲の同世代の人たち、転倒・怪我の報告がいくつも…。気をつけましょう。近いうちの再会を」と。楽しみです。
(中略)
4月3 0日 "四月尽昭和公園黄緑萌え 五月出所の訪れ近し"

5月2日 連休の中の平日の月曜、校正点を今朝速達で送りました。おしつまって校正まだやっています。午後大谷弁護士の面会。「ハーグ事件無罪をしっかり書き込むべき」など助言を受け取りました。また、当日のプレスリリースの文・方法・記者対応など大まかに話し合いました。5 ・ 30の集会には参加する予定です。
(中略)
5月13日 今日は最後の矯正指導日。ここでは、矯正指導とは月2回「一般改善指導」として行われます。9時30分からの朝の教育用放送(「過ちは再び」と職業についた人の話など)を聞き感想を書くこと。午後は録画TV (「クローズアップ現代」「情熱大陸」「プロフェッショナル」など)の視聴と感想文を書くことです。
それと前回の指導日から今日までの反省、進展状況、抱負などを9つの目標にそって総括文を提出する日です。9つの目標の3つは当局の指示(①(病院なので)体調・治療をしっかり規則に則って管理しているか②反省を日々の規律にどう生かして規律正しくやっているか③被害者に対する謝罪反省)
他の3つは本人の自己改善目標です。(私は①中東研究を深め出所後活かせるように学習する②短歌の学習によって更に表現・技術など高める③出所に向けた学習)
更に当面の生活目標3つ。(これは前回の指導日に「当面の目標」として決めたものを達成できたか反省点など記し、次の指導日までの目標を3つまた記しておく)私は①ゲラ校正作業を終える②出所に向けた整理③出所後にむけた学習の3点合計9目標、その他に刑務作業、改善教育、出所前知識や社会の仕組み学習など結構忙しい。
それと別に本来の自分の学習、手紙や日記、原稿校正など時間をムダにしないように食事も急いで時間を有効に使います。起床7:30前、空が明るくなれば許されているので読書。ここで書籍・雑誌(資料や新聞などはなぜか不可)が5時ごろから読めます。
今日はもう出所まで2週間しかないので、これからの予定をたてようと思います。来週から居室ではなく工場作業とのことで、その来週からの一週間で仲間たちに誰でも出来易い糊付けの仕方、おもり付のコツ、粘土でどう丸くうまく作るか、ペンキ塗りのコツなどを伝え終える予定です。上手下手のバラつきは他人の話をよく聞いて、自分のやり方を改めることが出来るか?常に次の工程の人の苦労を慮って自分の作業をやっているか否かで違うのだと強調して話しています。みな熱心で良いものを作ろうとするし、作業は面白いし、チームは気持ち良く働いています。
(中略)
5月16日 歌集「暁の星」の再校ゲラが届き、福島泰樹先生の「跋文」が収録されていて初めて読みました。圧倒される量と内容です。「ジャタミシを銃口に」以来の12年に及ぶ5600首とそれ以降の2018年9月から今年の5月の歌まですべて読み込み「ジャスミンを銃口に」から論じていて、その大変な仕事量と深い洞察に満ちた論評はこの歌集の幹のようにそれぞれの歌を引き立てて下さっています。139 P?186 Pまで私の歌を様々な角度から縦横によいところを探して論じて下さっています。これらの文章を読むために、この歌集を読みたいと購入する人が(私の歌より)かえって多いかも……と思ってしまいます。過分な論を福島師の身を削って記して下さったことに、感謝ばかりです。この文で歌集が生きた感じです。私やJRAの、とくにリッダ戦士たちの来歴も詳しく記されています。加えて「栞」として足立正生さん四方田犬彦さんらの文も収録されているそうです。(それは未見)

5月19日 昨日から昭島も快晴になりましたが、コロナが広がったのか、工場もベランダ運動も今週も禁止で室内作業が続いています。昨日「歌集の栞」の支章交付ざれました。足立さん、四方田さん、田中さん3人の方が、歌集を読んで暖かい文を寄せて下さっています。ありがたいです。「跋文」と栞で歌集が素晴らしいものに変身した感じです。(中略)
人民新聞にユダヤ人学者イラン・パペの発言が載っていて、中東のパレスチナの人々の意見と共通しています。「ウクライナ政府は、ネナナチ武装集団とつながりがあるばかりか、露骨なイスラエル派。ゼレンスキ一は、パレスチナ人の権利行使に関する国連委員会からウクライナ代表をひきあげさせた」とのこと。その上、ゼレンスキーは2021年のイスラエルによるガザ攻撃のあと「ガザ問題の唯一の悲劇の主人公は、パレスチナ人のテロに苦しんでいるイスラエル国民だ」とインタビューで答えている、とパペは述べています。中東の「ダブルスタンダード」は、ウクライナ問題から世界に広がり、今後それがあたりまえの基準とされそうな現バイデン政権の動き。占領にたちむかうウクライナの人々が英雄なら、パレスチナ人も又英雄であり、テロリストではない!「ウクライナ」について新著にも「追記」しました。

5月2 0日 今日は、刑務作業最終の日。ダルマ作りの一番始めの工程の材料25個に糊づけして磨き、ダルマの型を整えておもりをつける作業。一方で12個粘土つけて検査に出すまでの作業を最後と思ってていねいにやりました。そして今日は二時半から一時間コーラスの時間です。今年満90才になる先生は、もう歌わないと、数年歌っておられなかったのですが、私の出所を知っておられるので、「今日は歌います」と、素晴らしいソプラノで「ライムライト」を独唱して下さいました。そして今日の名曲演奏は、ショパンの「別れの歌」。先生は、70代になって夫を亡くされ、刑務所施設でのボランティアの歌唱指導を始めて生き甲斐となり、あなたたちから学んで、どれだけ幸せな時期をすごしていることでしよう、としんみり語って下さいました。今日の歌は「あなたが好き」「今日の日はさようなら」「故郷」「花は咲く」これまででも最高のコーラスの日でした。先生に感謝を一言お伝えし、逆にお礼と励ましを頂いてしまいました。

5月2 3日 出発準備の週です。宅送手続き、郵便宅下げ(書類など)など忙しい。午前中に、出所前教育(釈放前指導と言う)の、オリエンテーションをまず受けました。「釈放前指導とは、出所後の生活に必要となる知識を学ぶための指導です。」とあり、必要な学習資料(「道標(みちしるべ)」テキストー冊、出所時所持可の「道標ハンドブック」一冊、ハローワークガイドー冊、「新しい生活様式」の実践例のチラシ一枚、保護観察所所在地一覧一枚)と「意識調査アンケート」、「自由発言用紙」(所内生活を通じて感じたことの自由記載)が交付されました。
次に、法的な説明者がみえて「道標」の内容を解説。そして「在所証明書」が、社会に出て、必要になる事例について示して下さいました。明日は、在所証明書の発行の願箋を申請します。(中略)
「今日から刑務作業なしなので、テレビ視聴もなしです」とのこと。私はニュースしか見ないので、良いですが、出所する人が出る前にテレビ見れる方が有為だと思います。
“あたりまえのようにバイデン横田基地へ 米州のひとつに降り立つ如し”
“ニッポンが核戦争の矢面に 立つこと知らぬかQUADと安保”
(中略)
5月2 5日 今日は出所に向けた最終調整のため3時ころ、大谷弁護士とメイとの面会。まずは準備したいくつもの服や靴、カバンの中から、大谷弁がモデルになって着てくれてた「スルメイカ風」ときめました。メイの友人たちが選んでくれたという帽子も。ワクワク気分。それからおちついて当日の出迎えやプレスリリースのこと話し合いました。8時半ころ出所と聞いていたのですが、当局側から7時半に迎えは来るようにとのことで、帰りに2人に確かめてもらいます。外の景色も私が出所荷物の台車を押して進むという方向も内側にいた私には、わかりません。それでも大谷弁護士とメイたちのタッグにすべて委ね、当日は指示に従ってまず行動することにしました。出所準備の大変な様々を楽しそうに引きうけてくれていて、ありがたいことです。(中略)
2010年8月に受刑処遇に入って、独居日誌№1を書きはじめ、この№613で最終となりました。でも出所後の様子は、オリーブの樹158号発行もあって、5月31日までは続ける予定です。この日誌の中で、友人たちとの交流、励まされたこと、反省したこと、短歌、時事と、いろんな自分の想いを記しながら時を重ねました。ふりかえると、本当に温かなみんなに囲まれ、支えられてきた獄中生活でした。心から感謝を伝えたいです。外界に出れば、非難や冷笑、妨害、尾行、まわりへのいやがらせなど再び味わうかもしれません。それらは覚悟しつつ、友人たちに迷惑や被害がいかないようにと願わずにはいられません。どの友人も「ゆっくり」「穏やかに」とこれからのことをアドバイスしてくれています。まず出所し、そしてポリープの摘出をして、学びながら社会に慣れたいと思います。この獄からの最後の通信にみんなへの友情を感謝しつつ筆をおきます。

5月2 6日 今朝9時過ぎから「領置品調べ」でした。全ての私物を残さず台車に乗せて一階の部屋でしらべるのです。昨日弁護士やメイが面会後差し入れてくれた衣類含めて調べられて、その後最低必要なノート、日用品、衣類などのみ再び'もちかえります。広辞苑などは、既に宅送したので一時間位で終了。
戻って十時過ぎから最後の主治医の診察を受けました。主治医は、十二年前からの当初のシスプラチン、ゼロックス療法等の抗がん剤も効果無く、血流に癌があったので正直生きてここまでこれるとは思わなかったと感慨深げにおっしゃっていました。なんといっても2 012年の、外部病院によるPET検査で、癌のあるらしい位置がわかり小腸の外側に出来ていた丸い癌を摘出して腫瘍マーカーが下がった事を語り合いその英断に感謝しました。「出所後のポリープ摘出も大丈夫でしよう」と励ましてくださいました。その後入浴。午後は検査中と言われていた新著「戦士たちの記録 パレスチナに生きる」の交付を待ちましたがダメでした。
夕方、Uさんからのお便りに高原さんからの伝言で「6月18日にあさま山荘から五十年シンポジウムがあるので重信に参加しないよう伝えて欲しい。また、その集会にメッセージも送らないで欲しい」とありました。高原さんの他人の言論を封じようとする姿勢になんという人か、と思ってしまいます。遠山さんのことがあるのは分かりますが、私には私の考えがあるということ、自由があるということを考えて欲しいと思いました。勿論参加しよう等と考えているわけではありません。そんな体調ではありませんから。出所したらこういう押し付けも多いのかと考えさせられます。私が参加したほうが良いと思うことは、私が決めます。当面体調不良で、当日のプレスリリースと記者対応、友人の歓迎の会、その後の旧友たちの土曜会主催の歓迎には、無理してでも参加したいですけれど。
夕方、警備担当責任者から話があると呼ばれました。「当日は、通常の駐車場を閉鎖し、迎えの車は、大谷弁護士、娘さんのメイさん、運転する人の三人のみ建物の棟の入り口に乗り付けてもらうつもりで、あなたにはほとんど歩かずにここの敷地の外に出て行って欲しい。記者が多く来るし、大谷弁護士と娘さんの面会時の話では、あなたが歩いてみんなに挨拶しつつ車に乗り込むというのが分かり、我々の考えている警備と、かけ離れているのでそこを理解してもらいたい」とのことでした。「あら、私たちの面会の話を聞いていたのですね? !それならその時言ってくれれば良かったのに……。もう大谷弁護士たちに知らせられないですし、計面もあってその変更は出来ませんよ」と言いました。
当局側警備としては、とにかく騒ぎになりたくないとの事で、もし大谷弁護士らが車での建物棟への乗り付けを拒んだりした場合あなたから話して欲しいなどと言っていました。それで「出所7時半」 というのも通常の8時半を特別変更したということも分かりました。

5月27日 今日午前中待っていた検査中の幻冬舎の新著「戦士たちの記録 パレスチナに生きる」が交付されました。(中略)校正チェックをしながら最後の獄の夜。官物、私物、廃棄物、持ち出す物をより分けながら最後の夜を閉め括っています。今朝の朝日新聞に幻冬舍の広告が載っていて「戦士たちの記録」の他「革命の季節」「ジャスミンを銃口に」「りんごの木の下であなたを産もうと決めた」の3冊の緊急重版したと載っています。重版して売れなかったら気の毒と思いつつ広告を見ています。

★釈放されて★
ありがとございました お陰様で満期出所しました!

5月28日 よく寝ました。6時半起床の三十分前に目覚め既に準備を終えていたのでベッドで時間を潰しながら起床の合図で急ぎ洗顔。十五分くらいで数人の処遇担当の人たちが見えノート再点検のために渡し1階へ移動。そこで食事。いつもと異なるメニューの魚肉ソーセージを齧った程度しか食べられませんでした。そして荷物を詰めて着替えを終えました。誘導されて歩き扉を開けるとそこは外と繋がっていて迎えの車がそこに止まっていました。大谷弁護士は私が歩いて車に乗り込むなど企画した計画が狂ったと当局のやり方に批判はありつつも、とにかく再会を喜びあいながら手短に話し合いました。海外からの友人たちやさわさわの友人たちが門前で歓迎して待っていること、記者達が大勢待ち構えていること。私には外の状況が分からないのでとにかく指示に従うからと確認して出発。海外の友人たちの横断幕とさわさわ旗がまず目に入り驚きうれしい気持ちが込み上げましたが、多くの記者たちで騒然。大谷弁護士と記者が確認した通りの動きで無いために写真を撮ろうと押し寄せたようです。私は当センターの敷地をこえたところで車を降り「おはようございます」「ありがとうございます」を繰り返してまた車に乗って近くに公園で記者たちが待っているとのことで移動しました。
音楽を鳴らしてワーワー演説して騒いでいる集団が居て私は権力に抗議でもしている集団かな、位にしか考えなかったのですが(2000年の逮捕後、警視庁に民族派の人が、毎日街宣車で私を応援して毎月1万円ずつカンパしてくれて、警察も苦い顔をいていた事があったので)後に聞けば今日のは、私を糾弾する右翼だったとのことで笑ってしまいました。
とにかく記者会見場の公園に着いて多くの取材陣が居る事に驚きましたが、再出発のけじめとして一言表明しておきたいとプレスリリース(「再出発にあったって」と、そのほかにこれまで記者から受けてきた質問のいくつかに答える意味で「質問について」という文章)を記者ら配布し、お詫びと感謝といくつかの質問に答えました。(本誌14頁~17頁に掲載)
歩くこと禁止の永い入院患者だったので気力で持ち応えていたところもありました。その後、早稲田での歓迎の集いにいく道々、車に酔って何度も吐いてしまいました。でも吐いたので元気になって、会場満員の沢山の友人達に迎えられとっても元気になりました。
温かい友人たち。足立さんの司会で短く挨拶し、乾杯の後一人ひとりが自己紹介をしてくれて、また私の席に次々に来て話してくれました。旧友、メイの友人、新しく出会った友人達みな心から私の自由を祝してくださって感謝と感激の時間で高揚してしまいました。12時半「もう解散」の声が発せられて名残惜しい別れ。でもこれからはいつでも会える!と言う思いを噛み締めながら会場を後にしました。

5月29日 前日のエネルギーの放出のせいか、体調不良。体に力が入らない。今日は、両親の墓参りに行く予定でしたが中止して休む事にしました。全ての予定を中止して体力回復に努めましたが思わしくありません。とにかく住居の確定、歯科治療、ワクチン、ホリープの手術と色々しなければならないのにメイも付添って支えてくれて彼女自身の仕事に動き回れません。
夜、ライラ・ハリドからメイの電話に祝福の電話が掛かってきて話をしました。私の解放にPFLPも声明を発表して社会への帰還を祝しているとのこと、嬉しく聞きました。またイタリアで友人経由アントニオ・ネグリも私の永い獄中の戦いを称え連帯の言葉を表明しているとのこと。階級闘争は絶たれず、より良い世界は可能だと。
今日のエルサレムでの戦いは厳しい様子をアルジャジーラの英語ニュースで伝えています。

5月30日 5・30の五十周年集会に参加したかったのですが、朝から体が動かず立ち上がれません。一昨日にエネルギーを使い果たしてしまったようで、まだ回復していません。みな待ってくれているのに……。
でも足立さんに電話して今日は無理そうなので迷惑をかけないためにも欠席し、ボイスメッセージを送ることで了解してもらいました。
ボイスメッセージ作成後、メイの友人たちの手配で結局病院に行きました。医者は、「20年以上も自由に歩くことや運動を禁止された世界から出て記者会見や友人との交流で体力を使い果たしているのでしょう。まず点滴し、休養第一でワクチンもホリープ手術も体調を回復してからにしましよう」とおっしゃってすぐ点滴を夜までかかって打ってくれました。
折角5.30集会に来られた友人たちには申し訳なかったと思います。集会には100名を越す方々が参加されたとの事です。何とか体調を整えたい。夜9時からのNHKニュースで私に関しての特集を組んで居るのを見ました。驚いたのはそこで画面にNHKが入手したとして獄中日誌のNo.613が出ていたことです。(No612だったかも知れません)

5月31日 昨日点滴したおかげで立っていても大丈夫になりました。でも無理せず今日も休むことにしました。友人達からも祝したメッセージが様々届きます。昨日の集会で会えるのを楽しみに参加してくださった方も多かったと足立さんも伝えてくれました。体力の無いのを実感しています。夜、途中からNHKニュースを見たのですが、岡本公三さんがPFLPら解放闘争の仲間たちとともに5.30リッタ闘争に連帯し記念追悼して、バーシム、サラーハ、ユセフ、二ザールの墓に参っていました。公三さんは、車椅子でしたが元気で健康そうに見えました。とてもありがたく嬉しいことです。ライラからも知らせてくれました。パレスチナの友人たち、バッサム・アブシャリーフなど色々な昔の知り合いも「マブルーク!」(おめでとうのアラビア語)とメッセージを送ってくれます。
今日はまた、大谷弁護士経由R介さんから6月4日の土曜会の私の歓迎集会について出席できそうか、もし不可ならメイちゃんだけでも参加して欲しいと連絡が入りました。私は土曜会には是非なんとしてでも出席しなければ。逮捕直後から精神的物質的に支えてくれた大学時代の友人たちです。会いたい友人たち、手紙で出版の本をやりとりしてきたOさん、毎月法要面会に来てくださったN和尚、懐かしい明大ブント時代の仲間たち。直接会えるなんて何とありがたい事でしょう。短くても是非参加してお詫びやお礼を言いたいので参加します、と伝えました。まだ時間があるので体調を整えたい。
6月5日に名古屋で泉水さん追悼の会がもたれるのでメッセージを送って欲しいと届きました。体調が良ければ政治的責任の意味でも参加しなければと獄中で追悼会の予定を聞いた時には考えていましたが、今はまだ電車に乗ったり街に出ることも出来ていないので叶いません。習い始めたスマホのメールでほんの一言メッセージを書いたのですが二時間もかかってしまいました。「ボイスメッセージにすれば良かったのに……」とメイに言われました。何もかも一つ一つ学習なので体調は悪いけど興味津々ですごしています。

6月1日 初の外出。点滴をしてもらった時はタクシーで往復したので今日初めて街を歩き、メトロに乗って外出です。メイが前から歯医者を予約してくれていたので、少し体調を整えたいと、出かけました。疲れましたが良い時間を過ごしました。メイと少し街を散歩して初めてレストランで食事をしました。昔と違って街は画一的にきれいになり、歩く人々の服装も昔で言えば「カジュアル」です。当時は会社勤めの人は、背広上下でしたから。休み休み帰りました。まだ少しずつ巷に慣れていく必要があります。やっと外出の一歩を踏み出した。まだ体力は無い状態ですが、何とか生きていけそうです。メイの手厚いサポートに助けられていますから。みんなありがとうございます。

※「オリーブの樹」158号(最終号)に掲載された「再出発にあたって」と「今後の活動体制」については、次回のブログに掲載します。

(終)

【「日記」の中に出て来た重信さんの新刊本の紹介】
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『戦士たちの記録 パレスチナに生きる』」(幻冬舎)重信房子 / 著 
(幻冬舎サイトより)
2022年5月28日、満期出所。リッダ闘争から50年、77歳になった革命家が、その人生を、出所を前に獄中で振り返る。父、母のこと、革命に目覚めた10代、中東での日々、仲間と語った世界革命の夢、そして、現在混乱下にある全世界に向けた、静かな叫び。
本書は、日本赤軍の最高幹部であった著者が、リッダ闘争50年目の今、"彼岸に在る戦士たち"への報告も兼ねて闘争の日々を振り返りまとめておこうと、獄中で綴った"革命への記録"であり、一人の女性として生きた"特異な人生の軌跡"でもある。
疾走したかつての日々へ思いを巡らすとともに、反省を重ね、病や老いとも向き合った、刑務所での22年。無垢な幼少期から闘争に全てを捧げた青春時代まで、変わらぬ情熱もあれば、変化していく思いもある。彼女の思考の軌跡が、赤裸々に書き下ろされている。
さらに、出所間近に起きたロシアのウクライナ侵略に対する思いも、「今回のウクライナの現実は、私が中東に在り、東欧の友人たちと語り合った時代を思い起こさせる。」と、緊急追記。元革命家の彼女に、今の世界はどう見えているのか。
定価 2,200円 

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『歌集 暁の星』(皓星社)
連帯の火矢! 重信房子第二歌集
(皓星社サイトより)
テロリストと呼ばれしわれは秋ならば桔梗コスモス吾亦紅が好き
 
元日本赤軍リーダー・重信房子が21年に及ぶ刑期を終え、この5月に出獄する。
本書は獄中で書き溜めてきた短歌をまとめた第二歌集。著者は革命の日々を、連合赤軍事件で粛清された友・遠山美枝子を、現在の世界の悲惨を、二十数年にわたり詠み続けて来た。
本書の歌は、著者のもがきと葛藤の発露であると同時に、歴史の証言でもある。

海外で暗躍すること四半世紀を超え、国内での潜伏と獄中の日々、重信は一体、この斬新で清潔な文体をどこで獲得してきたのだ。
……戦い死んでいった同志への哀悼に、柔らかな心の襞を涙で濡らし続けてきたのだろう。(福島泰樹「跋」より)

アネモネの真紅に染まる草原に笑い声高く五月の戦士ら
空港を降り立ち夜空見上げればオリオン星座激しく瞬く
雪中に倒れし友の命日に静かに小さな白き鶴折る
津波燃え人家逆巻き雪しきり煉獄の闇 生き延びし朝
パレスチナの民と重なるウクライナの母と子供の哀しい眼に遭う

定価2,000+税

【お知らせ その1】

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10・8羽田闘争55周年
山﨑博昭プロジェクトがめざしたもの
東京集会 2022年10月8日[土]

1.献花・黙祷 @弁天橋 11時30分~ (雨天決行)
弁天橋 鳥居前 集合/五十間鼻 平和地蔵[読経・お参り・献花]
◎京浜急行・空港線「天空橋」駅下車、徒歩5分
◎JR蒲田駅東口あるいは大森駅東口から羽田空港行きバス「空港入口」降車、徒歩3分

2.法要 福泉寺 14時00分~ (大田区萩中3-27-10)
◎京浜急行・空港線「大鳥居」駅下車、徒歩15分
◎JR蒲田駅東口 ③番乗り場 羽田空港行きバス「萩中公園前」降車、徒歩1分(「萩中」の次が「萩中公園前」)

3.記念集会
10・8羽田闘争55周年
『山﨑博昭プロジェクトがめざしたもの』
開場 17時30分/開会 18時00分
会場 大田区消費者生活センター
●ドキュメント「プロジェクトの歩み」(代島治彦監督制作、約20分)を放映。
●55年前の10・8羽田闘争の原点に立ち戻って、来し方をふり返るとともに、現在と未来の戦争反対をめぐって議論。
 ・山﨑建夫、水戸喜世子、山本義隆、佐々木幹郎、辻 恵、北本修二、
  新田克己から発言(予定)。
 ・参加者と発起人とのフリートーク。
参加費 1,000円

【お知らせ その2】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在12校の投稿と資料を掲載しています。

http://zenkyoutou.com/gakuen.html

【お知らせ その3 】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は10月7(金)に更新予定です。

今回のブログは、6月18日(土)に東京・目黒区で開催された、あさま山荘から50年 シンポジウム「多様な視点から考える連合赤軍」(主催:連合赤軍事件の全体像を残す会)の報告である。
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当日のプログラムは以下のとおり。

14:00 開会挨拶
14:05 第1部 映像で見る連合赤軍事件 (前回のブログに掲載)
14:30 第2部 シンポジウム  (前回のブログに掲載)
パネラー:森達也(映画監督・作家) 
雨宮処凛(作家・活動家) 
山本直樹(漫画家)
パトリシア・スタインホフ(ハワイ大学名誉教授)オンライン参加
ピオ・デミリア(ジャーナリスト)オンライン参加
当 事 者:岩田平治(元革命左派) 
雪野建作(元革命左派)
(15:45~ 休憩)
16:00 第3部 若い世代との対話
宮島ヨハナ(国際基督教大学1年)
中村眞大(明治学院大学2年)
安達晴野(早稲田大学1年)
17:15 閉会挨拶

今回は、このうち後編として第3部の概要を掲載する。発言内容が不明な部分などは省略しているので、若い世代や当事者の発言を全て掲載している訳ではない。そのため「概要」とした。発言内容を全て読みたい方は、「連合赤軍事件の全体像を残す会」が今後発行する予定の冊子『証言』をご覧いただきたい。

<登壇者プロフィール>
●若い世代
宮島ヨハナ(国際基督教大学1年)
 インターナショナルスクール在学中、卒業研究のテーマに「入管問題」を選ぶが、入管収容者に対する人権侵害を知り大きなショックを受ける。2021年4月、高等部3年在学中の時に、出入国管理及び難民認定法(入管法)改正案に反対する集会を自ら呼びかけ、事実上の廃案につながる働きをした。当事者意識を大事にし、社会の変革に必要なことは「愛」だと語る。黒人差別への反対運動に取り組んだ、公民権運動活動家ローザ・パークスさんの “You must never be fearful about what you are doing when it is right.” (正しいことをしているのなら、決して恐れてはいけない)という言葉に、勇気をもらっている。
中村眞大(明治学院大学2年)
 東京都立北園高校在学中に、北園高校の頭髪指導をめぐる校則・自由の問題をテーマにした、ドキュメンタリー映画『北園現代史 ~自由の裏に隠された衝撃の実態~』を製作・公開。YouTubeに「限定公開」された2日後には再生回数1万回を超え、社会に大きなインパクトを与えた。評判を呼んだ映画はその後東京ドキュメンタリー映画祭にても特別上映される。
全国の高校生や卒業生たちに呼び掛け、学校の自由や理不尽な校則について問題を討論・告発する「全国校則座談会」等を企画し、YouTubeなどで発信している。
安達晴野(早稲田大学1年) 
東京都立北園高校元生徒会長。歴史的に自由な校風が伝統である北園高校で、校則に定めのない頭髪指導が行われたことをきっかけに、校則問題は人権問題であると声をあげる。映画『北園現代史 ~自由の裏に隠された衝撃の実態~』では教員の理不尽で半強制的な指導に粘り強く抵抗する姿が多くの人々に共感を与えた。様々な意見や価値観を前提にして、お互いを尊重し理解しようとする「対話」を大切にしている。
「社会変革は実現しうるし、自分たちの手で実現できる」と語る。将来は「弱い立場の人の拡声器」になることを目指している。
●当事者
岩田平治 
1950年生まれ。“鯨でも取りたい”と入学した東京水産大学時代に革命左派に参加。山岳アジトで3カ月の活動の後、離脱。山から逃亡した最初の例となった。吉本隆明にインスパイアされて『「共同幻想論」による連合赤軍事件の考察』を著す。組木細工を作り地域の施設などに寄贈する。本日受付でお渡ししたキーホルダーがその作品。

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(岩田さん手作りのストラップ)
雪野建作
 1947年生まれ。横浜国大時代に革命左派に加盟。71年2月、真岡市(栃木県)の銃砲店に押し入り猟銃10丁、装弾3000発などを奪った事件に関与、指名手配された。以後、武闘派のグループ等と交渉を任務とする「組織部」として主に都市で活動する。71年8月に逮捕・起訴されたため、山岳アジトでの“総括”には関わらなかった。逮捕後は指導者の川島豪との違いを自覚し、連合赤軍の破局後は総括論争を進め、72年秋に離党する。
●司会進行
金 廣志(塾講師)
 1951年、大阪市生野区「猪飼野」の朝鮮人部落に生まれる。3歳のときに上京し、神奈川県の座間、上野の「アメ横」で育つ。都立北園高校在学中に反戦運動に参加。高校を中退して1970年赤軍派に加盟。71年に全国指名手配されるも15年間の逃亡を続け、時効を迎えた。1986年より塾講師として再出発する。親の多くが、金廣志の経歴を知りながらも子どもの教育を託す中学受験のカリスマ講師として著名。父は韓国の済州島四・三蜂起事件のときのパルチザンであった。◆著書『自慢させてくれ!』(源草社)、『落ちたって、いいじゃん! 逆転発想にこそ難関中学合格のカギがある』(角川書店)、他。

【あさま山荘から50年 シンポジウム「多様な視点から考える連合赤軍」】
(主催:連合赤軍事件の全体像を残す会)
●第3部 若い世代との対話

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<若い世代の自己紹介>
金廣志
それでは第3部を始めたいと思います。
今壇上に、左から中村眞大君、宮島ヨハナさん、安達晴野君が座っています。明治学院大学2年生、国際基督教大学1年生、早稲田大学1年生で非常に若いです。若いですけれども、高校時代に、我々から見ると、こんなに素晴らしい活動をしたのかと感心させられる活動をして、現在もアクティブに様々なことに挑戦していると思います。
(5分ほど3人の紹介ビデオが流れる)
宮島ヨハナ

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簡単に自己紹介をお願いします。
宮島ヨハナと申します。9月から国際基督教大学に入学しました。高校がインターナショナルスクールで、高校の卒業論文がきっかけで、入管問題に関わっています。今日はよろしくお願いします。
入管自体はあまり知られていないと思うんですけれども、入管というのは在留資格がない外国人又は在留資格が切れてオーバーステイになってしまった外国人が、帰国するために収容される施設なんですけれども、そこで問題がたくさんあって、強制収容の問題を説明したいと思っていて、強制収容で年間に収容される人は、他の国だったら収容期間が決められていて、日本は収容期間が定められていないので、半分以上が6ケ月以上収容されていて、長い人だと1年、最悪のケースだと7年とか収容されていて、すごく問題になっているのは、いつ入管から出られるのか分からない状況なので、精神的に参ってしまって、うつ病を発症する人も多いですし、自殺するケースもあるので・・・

中村眞大

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安達晴野

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安達晴野と申します。私は、「校則のない自由な北園」と言われている高校で3年間生徒会長として、校則にはない頭髪指導の問題に取り組んできました。今、私が金髪にしているんですけれども、これは高校を卒業したから金髪にしたのではなくて、昨年の9月に金髪にしました。なぜ金髪にしたかというと、元々僕は入学してから3年生の9月まで、ずっと黒髪で過ごしてきて、自分自身黒髪が好きだったんですけれども、学校が昨年9月に頭髪検査をやると言い出しまして、僕としてはずっと頭髪指導について異議を唱えてきた時に、学校側と話し合うことが出来ずに、生徒のいろんな声を無視する形で頭髪検査を行うことに非常に疑問を感じまして、頭髪検査に引っかかれば、嫌でも頭髪検査について先生方と話し合う機会が得られるので、じゃあ金髪にしちゃおうと思って、頭髪検査の日に合わせて金髪にしてきました。
(ビデオ上映終了)

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金廣志
若者が前に3人いるけど、どんな奴なんだろうというのもあるかもしれませんので、彼等がどのような活動をしてきたのかをイメージビデオで作っていただきました。
改めて、もう1回紹介いたします。
国際基督教大学1年生の宮島ヨハナさんです。(拍手)明治学院大学2年生の中村眞大君です。(拍手)早稲田大学1年生の安達晴野君です。(拍手)

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<若い世代が向き合っている社会問題とその活動>
3人のパネリストは非常に様々なところで活躍していて、我々の頃に比べて、非常によく考えて、よく成熟しているなと思うことがあります。
まず、3人の皆さんには、今現在の様々な社会問題と向き合って活動されていると思いますが、どのような社会問題と向き合って、そしてどのような矛盾を抱えたりしながら活動しているのかということを語っていただきたいと思います。そしてその問題は、日本社会がどのような方向に向かえば解決していくと思うのか、今の考えでいいですから、お話していただければと思います。
宮島ヨハナさんからお願いします。

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宮島ヨハナ
宮島ヨハナと申します。本日はよろしくお願いします。
私はさきほどの動画でもあったとおり、入管問題について卒業論文で調べたことをきっかけに、この問題に関わってきました。この問題は最近報道されることが増えたんですが、なかなか市民の方に知られていないと思うので、手短に説明したいと思います。
そもそも入管とはどういう場所かと言うと、入国管理局というのは、日本人外国人の出入国審査、外国人の在留管理、難民認定などを行う法務省の外局です(現在、出入国在留管理庁)。私が調べたのは、そこの収容所で起こっている人権侵害について調べていて、本当に調べれば調べるほど、本当にひどいことだなと思って、私たちは戦争を経験していない世代でもあるので、日本は平和なイメージがあって、人権侵害という言葉と結びついていなかったんですが、本当に調べていくと、こんなことが日本でも起こっているんだということにすごく衝撃を受けて、自分でも何かこの問題に対して行動を起こしたいと思いました。
その一つのきっかけとして、私の父が、入管の仮放免の保証人をしていまして、幼い頃から仮放免の方と関わりを持っていたので、その中で一人私にとって印象に残っている方がいて、カメルーン人の女性の方なんですけれども、その方は私がインターナショナルスクールを受験する時に英語を教えてくれていまして、その方も難民申請者で、カメルーンから母国の紛争などから逃れて来日したんですけれども、難民認定されなくて、日本も0.4%という極端に低い難民認定率なので、それが原因で認定されなくて仮放免の生活を続けていました。すごく穏やかな方で、彼女は乳ガンを発症して、胸が痛いと職員に訴えても適切な治療を受けられず、最終的には仮放免されている時に、支援者のおかげで医療を受けられたんですけれども、手遅れになってしまって、去年の1月に亡くなりました。私はこのニュースを新聞記事で読んで、本当に衝撃を受けて、もっと衝撃的だったのは、彼女の在留資格が取れたのは亡くなった3時間後だったんですね。もっと早く在留資格が取れていれば、もっと早く入管内で適切な医療を受けていれば彼女は生きられたかもしれないと思って、本当に私は衝撃を受けました。
卒業論文で調べている中で、去年の3月に政府が国会に提出した「入管法改正(案)」がありました。括弧付きの改正案で、中身を見てみると、国連からも指摘を受けていましたし、難民とか国際法に専門知識を持つ弁護士からも指摘を受けていましたが、一つ私が個人的に問題だと思ったのは、難民認定申請を3回以上して、3回以上拒否された人を母国に強制送還することを可能にするという点で、これは国際法のノン・ルフールマン原則があって、難民を殺されたり迫害されるリスクがある母国に返してはいけない、強制送還してはいけないという国際法に違反していたんですね。それを国会で採決しようとしていて、私はこれはすごくおかしいと思って、すでに行われた支援者による国会前の集会に自ら参加して、卒業論文の一環として自らアクションを主宰することになりました。改正案は結局は廃案になったんですけれども、入管で起こった人権侵害は続いていますし、抜本的な法改正をする問題はまだ解決されていないので、今後も大学内での活動などを通して、自分でもこれから訴えていきたいと思っています。
この問題と向き合って感じる矛盾としては、オリンピックがあった時に、政府だったりメディアだったりいろんなところで「多様性を尊重しよう」と言われていたと思うんですけれども、「多様性を尊重する」アッピールとして大阪なおみさんがトーチリレーをしたり、難民のオリンピック・グループだったり、表目はすごく難民だったり多様性を尊重していると見せつつ、陰では入管内では難民申請者に対する人権侵害があったり、難民認定が極端に低かったりという現実があって、私はその現実のギャップを知っていたので、まだまだ国際社会に誇れる日本ではないと感じています。(拍手)

金廣志
ありがとうございます。
ウイシュマさんのことを含めた入管問題が新聞で大きく報道されたので、経緯をご存じの方もいらっしゃると思うんですけれども、彼女が現れて潮目が変わったんですよね。それまでは簡単じゃなかったんですが、高校生の女性が一人現れて集会を呼びかけた。そしてそこで多くのスタンディングの抗議が起こった。大臣も知らん顔できなかったんだと思います。まだまだこれから闘いは続くと思うんですけれども、頑張っていただきたいと思います。
次に中村眞大君にお話しをしていただきたいと思いますが、私の高校の後輩なんです。51年後輩です。安達晴野君は52年後輩です。「何でお前、後輩を連れてきたのか」と言われるかもしれませんけれども、そうじゃないんですね。1年前に突然彼が僕の前に現れました。ネットで調べたら私の写真が見つかったらしいですね。その時に、半世紀前に北園高校で高校紛争があって、バリケードストをやって、そして校則を変えた。その時に東京中の高校が立ち上がって、約100校くらいが校則が無くなって制服が無くなったんです。それに対する取材をしたいということで、知り合いました。非常に頼もしい若者です。
中村君、よろしくお願いします。

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中村眞大(なかむらまさひろ)
皆さんこんにちは。金さんの後輩の中村眞大と申します。
私は都立北園高校というところに在籍していました。今は明治学院大学の2年生です。私が主に取り組んでいる活動は校則の問題です。何故校則の問題に取り組むようになったのかというのは、私が高校に入学した後から、私が入学した高校は「自由の北園」と呼ばれていまして、校則も無い、制服も無い、本当に自由な学校だったんです。私もそれに惹かれて試験を受けて高校に入ったんですけれども、入ってみて、もちろん中学校と比べてすごく自由だったんですけれども、それと同時に規制が段々と強化されているという現実に直面するようになりました。例えば髪の毛を染めるということ。今は当たり前のように普通の人たちが髪を染めて生活しているという現状がある中で、「高校生が髪を染めるとはけしからん」というような風潮が先生方であったり広くありまして、髪染めをしていた生徒に対して、「黒く染め直せ」というような指導をするとか、だんだんと「自由の北園」ではなくなるんじゃないか、北園高校が自由な高校じゃなくなるんじゃないか、そういうような危機感を抱いていました。ただ、高校在学中はなかなか行動に移せなかったんですけれども、高校を卒業する直前に、さきほど映画の予告編を上映していただいたんですけれども、問題提起をしよう、自由の北園高校が、自由の伝統が続いていた北園高校が、このまま規制強化の波にのまれて普通の高校になってしまうのは絶対に嫌だということで、ドキュメンタリー映画を制作することを決めました。それが『北園現代史』という映画で、今もユーチューブで公開しているんですけれども、その映画を作る過程で金さんと知り合いました。前半部分が今の北園高校の現状について、後半部分が50年前に北園高校で、当時の在校生がバリケード封鎖をして自分たちの主張を押し通した、しかも弾圧されることなく主張が通ってしまったということを知りまして、今の現状にも共通する部分があるんじゃないかと考えて、当時の在校生、私の先輩にあたる方々に取材をして、後半部分はそのドキュメンタリーになっています。それをユーチューブで公開したところ、学校の中はもちろん大きな反響があったんですけれども、学校の外からもすごく大きな反響をいただきまして、メディアなどに取り上げていただくことができました。それがきっかけで、北園高校以外の校則の問題に取り組んでいる学校の生徒さんから連絡をいただきまして、北園高校だけの問題じゃないんだなということを実感するようになりました。今、ニュースで報じられている校則問題というのは、ツーブロック禁止ということだったり、元々地毛が茶髪の生徒が「黒髪に染め直しなさい」という指導で裁判になっているということやいろいろ報道されているんですが、私は原則校則については、元々無くていいんじゃないかと考えています。例えば、屋上に上がってはいけない、柵が無いから危ないという細かいのは置いておくとして、見た目の校則というのは絶対に無くすべきだと思っています。今回は、たまたま北園高校が髪染めの規制が強化されたということで髪染めだったんですけれども、学生の見た目を管理するというのは、学校であろうと絶対にやってはいけないことだろうと思って、この問題にずっと取り組んでいるところです。原則、学校は自由であるべきだと考えています。
卒業した後も、校則の問題に取り組んでいるんですけれども、それ以外にもドキュメンタリーの取材に興味がありまして、自分の関心のある分野に取材をしたりとか、そういう活動もしています。今日はよろしくお願いします。(拍手)

金廣志
ありがとうございます。
中村君と会ったのは昨年の2月くらいだったと思います。非常に成長しました。びっくりします。この年齢というのは、最初は大きな社会問題として考えたんじゃないと思うんです。違和感とか、学校のこんなところが嫌だとか、そういうところから入っていったと思うんですけれども、そういう問題をどんどん自分の内面の中に繰り込んでいって、新しいものを作っていって、そして仲間をたくさん増やしていって、非常にこれからの活動に期待しています。
中村君の撮った映画で主役をしている安達晴野君、よろしくお願いします。

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安達晴野(あだちせいや)
こんにちは、安達晴野と申します。今年の春に大学に入学しまして、今は政治学を学んでいます。私が高校でしてきた活動は中村眞大先輩が仰ったことと重なるので、そこは省略して、僕は今、校則問題をどう捉えているかというお話をさせていただきたいと思います。
私は校則問題というのは、人権と民主主義の問題だと考えています。
まず一つは、頭髪のこともそうですし、生徒に限らず、人間が生まれながらに持っている権利を、何の理由もなく不当に制限するというような校則や指導が今行われている。しかも、それを先生の側も生徒の側も、場合によっては保護者側も何の疑問を持っていない。それが普通だと思ってしまっている。そういう人権意識の欠落というのが、校則問題の一つの根本的な原因だと思います。
もう一つは、民主主義の問題にあります。校則というのは、基本的にほとんどの学校では先生が一人で決める、先生のみが一方的に決めてしまう。決めるプロセスとか、そういうのもはっきり書かれていないし、決まった校則に対して、生徒や保護者が声を上げても、なかなか反映されない、無視されてしまう、跳ねのけられてしまうという現状があると思います。
私の知り合いの学校だと、そもそも校則はあるけれど、それがどういう校則なのか生徒に知らされていない。先生から状況に応じて「これは校則違反だから」と教えられていくという状況のところもあるみたいで、民主主義のプロセス、話し合ってお互い同意した上でルールを決めていく、もしもルールを付け加えたり変更する場合も話し合って決めていくというプロセスが全く整理されていないというのが、もう一つの校則問題の根本的な原因だと思います。人権の問題と民主主義の問題というのは、学校現場だけでなく日本社会全体に共通しているものだと思っていて、おそらく学校現場に人権と民主主義というものが存在していないから、今の日本社会でも人権と民主主義が存在していない、若しくは危機にさらされていると思うし、社会に存在しないから当然教育現場にも存在しなくなってしまうという相互作用があると思います。なので、「たかが髪染めなんかなどうでもいいじゃないか」という声を掛けられることもあるんですけれども、「どうでもよくないんだ。これは学校現場でもそうだし、日本社会全体に通じる問題なんだ。もし髪の毛がどうでもいいと思っているんだったら、どうでもいい髪の毛の事を指導しないでくれ」と思っています。
以上です。(拍手)

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<若い世代からの疑問に当事者が答える>
―武力(暴力)についてー
金廣志
ありがとうございます。
やっぱり若い人は熱いですね。我々も熱かったんですよ。半世紀前の若者もそうですが、現在の若者たちも様々な社会矛盾に向き合い、より良い未来社会を築こうとしているのかなと思います。さきほどの話にも出てきましたが、日本人は人間とか社会の本質に触れるテーマに対して議論することが苦手なんですね。社会の表層をなでるような議論しかされていない。それがSNSの社会でも同じように表層をなでる議論しかされない、ということがあると思います。
今日は未来を担う若者たちのためにも、社会経験を積んだ大人たちが本気で若者たちの疑問に答えていただきたい。今日は3人とも最初の時間から、よく映像を観ておいてくださいとお話しました。そして2部の議論を聴いて、その上で疑問に思ったこと、おかしいと思ったこと、あるいは共感すること、そういうことがあれば鋭く質問していただきたいです。
よろしくお願いします。

安達晴野
そうですね。動画を観てお話を聴いて、いろいろ気になったところがあるんですけれども、最初に、岩田さんが「世の中、武力的な裏付けがないと変わらない。そして今もそう思う」と仰っていたと思うんですけれども、それが正しとか正しくないとかは置いておいて、そもそも武力というものを何の目的で用いるのか。それはどういうことかと言うと、例えば相手を交渉のテーブルに引きずり出すために武力を用いるのか、それとも、そもそも相手をせん滅して自分たちが力を握るために武力を用いるのか、どういう風に武力を用いるのを想定していたのか、というのが気になります。

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岩田平治
武力は核兵器にしても、相手を脅すためとか、自分を守るためとか、そういう中での武力ですね。やっぱりそういう裏付けがあって初めて戦争抑止力という言い方もありますし、実際に武力を用いて他国を侵略したり、北朝鮮みたいに脅しにミサイルを使うとか、日本の中でもそういうものに対して防衛費を上げなければいけない(という議論がある)。ただ平和、人権を唱えているだけで、果たしてそういうものを、いろんな考え方の人たちに囲まれている中で、今の日本のそういうものが守られるのかな、ということもあると思います。
そういう意味での武力であって、日本が原爆を落とされて悲惨な経験をしている国であることは事実ですし、広島の原爆死没者慰霊碑に「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」と刻まれているけれども、ただ刻まれているだけで二度とそういうことは起きないのかと言えば、決してそうではないし、日本の戦後の民主主義も、日本に原爆を落としたアメリカが持ってきてくれたものなんですよね。軍国主義に反対して日本人が民主主義とか人権とかを勝ち取ったわけではない。結局はアメリカの武力によって初めてそういうものが持ち込まれて、それが正しいか正しくないかは置いておいて、そういう事実があったんですよね。今、アメリカはウクライナを応援して、自分たちはやらないがウクライナにやらせていますが、実際ベトナムでアメリカは同じことをやっていたわけです。ロシアや中国はベトナムを応援して、最終的にアメリカはベトナムで勝てなかった。そうすると、ベトナムはあれだけ自分たちが悲惨な目に遭ったにもかかわらず、今度ウクライナに対して声を上げているかと言うと、決してそうではないわけです。それは最近の政治の関係で、ロシアから援助を受けたとかいろんなことがあるでしょうし、現在も繋がりが強いということもあるでしょうから、だからそういう意味で人類の歴史というのを見てみると、正義が勝ったんじゃなくて、勝った方が正義を作っているというのが、歴史の今までの過程だったということを踏まえて、これからの活動というか世の中の見方というものを、きっちり見て、自分たちの将来の活動なり人生を作ってもらえたらいいなと思います。

安達晴野
ありがとうございます。

金廣志
ちょっと僕の方からそれに関して、暴力については一番悩んできたことなんですよね。我々は暴力をどう考えて来たかと言うと、暴力を無くすための暴力と考えていたんですよ。歴史上、システムがチェンジする時に、暴力が行使されなかったことは無いんです。かつてチリのアジェンダ政権が平和的に政権を移行して社会主義を実現しましたけれど、ピノチェトのクーデターによって倒されました。韓国でも1960年に李承晩を倒した学生革命が起こりましたけれど、その後、朴正煕のクーデターが起こりました。我々の言っている暴力というのは、暴力を無くすための暴力だ、だけど本当に必要な暴力というのはあるのか、ということを、今日は来ていませんけれど、先週青砥(幹夫)と熱く語りました。これは正直な話、いまだに解決のつかないことなんです。あなたたちも一緒に考えていって欲しいと思います。

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安達晴野
ありがとうございます。
例えば、ガンジーは非暴力・不服従を訴えて、実際にイギリスの植民地支配から独立した。もちろんイギリス側から武力的な弾圧があったり、独立後にインドとパキスタンで分裂してしまって、戦争が起きたり、そういうことがあったと思いますが、社会変革の程度は別として、暴力が伴わないと何かが変わることがないのかなと、自分はまだ半信半疑というか・・・。

金廣志
若者を責めるわけにはいかないんだけれども、ガンジーのインドは世界で最も軍事大国の一つであるということも含めて、我々は暴力というものに対して、もっと深く考えないといけない。暴力に対抗する暴力しかないんだという考え方は、何の意味もない。今、世界で行われているロシアがウクライナを攻めたから、我々の軍事力を大きくしなければいけない、日本は防衛費を倍にしなくてはいけない(という議論があるが)、どうやったら平和が来るんですか。戦争が起こらなければ、破局が来なければ、新しい時代は来ないと言っているだけですよね。我々はずっと非戦を語り続けること以外に、どうやって未来社会を創れるのかというのが、一応私の建前上は考えます。

安達晴野
ありがとうございます。

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中村眞大
僕は連合赤軍事件の時は私は生まれていないですいし、オウムの事件の時も生まれていないですけれども、連合赤軍と聞くだけで日本の歴史という感覚が正直しているんです。こんなこと言ってしまったら失礼かもしれないですけど、江戸時代の幕末の新選組の話ですけど、すごく規律が厳しくて何人も切腹したという話がありますけれど、本当にそういう類の扱いというような、頭の中でそういう風にあるわけですが、もちろん当時を知る方が生きていらっしゃるという点では違いますけど、一種の日本の歴史というような感じています。
今日、すごくいろいろなお話を伺って一つ疑問に思ったことは、今の若い世代というのは、暴力にほとんど縁がないわけです。基本的に、今の若い人たちがどのように運動しているかというと、SNSを使うことがすごく多いです。特にツイッターです。次に多いのがインスタグラムだとかと思うんですけれども、SNSを使って、時には人を煽ったりすることもあるだろうし、時には署名を集める。そういうSNSを使うというのが、使い方によってはすごい暴力に走ってしまうこともあるけれど、私たちがやっているようなSNSを使った署名という民主的な方法に使うこともできるというので、使い方によっていろいろ変わってくるかなと思うんですけれど、私たちは暴力というのは絶対にダメだ、対話が絶対に大事なんだと考えている人が、今の若い人の中ですごく多いと思います。
今日のお話を伺っている中で、連合赤軍の後にオウム真理教があったり、ずっと暴力という手段は歴史の中で繰り返されるというか、連合赤軍で終わったわけではなくて、オウムの事件があって歴史って繰り返されるんだ、とすごく感じたんですけれども、今は私たちが暴力という手段を使って世の中を変えるということは全く想像できないし、僕たちの世代から暴力革命が生まれるというのは、全くもって想像できないんですけれども、今後、また暴力の時代が来るのかどうかというのは、すごく気になっているところで、今すごく対話が大事だ、考え方が違う人たちとも話し合ってみようという人が多いんですけれども、今後、また暴力しか世の中変えられない、というような時代がまた来てしまうのだろうか、というところが気になっているところです。
もう一つは、当時、連合赤軍で銃砲店を襲ったりとか、そういうことがあったと思うんですけれども、素朴な疑問なんですが、連合赤軍の皆さんが銃砲店を襲って武力を持とうとした理由というのは、抑止力のための武力だったのか、それとも本当に銃を使って国と戦おうとしていたのか、というところが気になった点です。論理的に考えれば数十人と国では戦って勝てるわけないと思いますが、武力を自分たちが身に着けることによって、どういう手段を用いて、具体的に国を変えたかったのか、世の中を変えたかったのか、伺いたいと思います。

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雪野建作
本当の事を言うと、1971年の1月2月の時点で、武力によって何かをするという必要性は全く無かったんですね。機動隊だって鉄砲を持ってくるわけではないし、催涙弾とかその程度で来るわけで、運動する人たちを殺しに来ているわけではなかった。運動の側はそれに対抗して武力で、しかも銃を持って相手を殺すことも含めて、支配してしまうという現実は全くありませんでした。我々もそういうことを全く考えていなかった。
何のための銃かと言うと、(指導者の)川島豪が獄中で「俺の身柄を解放しろ」ということで、指導部が「やりましょう」ということで、具体的には裁判で被告人が拘置所から護送されて来る。そこのところで銃を構えて奪還する。奪還する時に抵抗したらどうするのか、撃ち殺すのか、そんなことも考えていなかった。
だから我々自身も武装して、軍事的な闘争をやるという意思はなかったんです。ところがやってしまうと、さっき(2部で)山本さんが「言葉」と言いましたが、別の「言葉」が現れてくる。川島豪は、やっているうちに「武装闘争」だとか「敵のせん滅」だとか、「敵の抑圧を解除して、こちらに支配権を」と言い出すんですね。実際、そういうことは有り得ない話で、たまたま狭い範囲で一時的になったとしても、日本みたいな高度に発達した経済、社会の元では、たちまち抑圧されてしまって、何の意味もないことなんですね。ところが川島豪はそれを言い出した。永田(洋子)がどういう人か、良く分かるテキストがあります。彼女は何と言ったかというと「銃を握りしめて初めて分かった」とバカなことを言った。別に銃といっても鉄の道具だし、それは持つ人がどういう意思を持つかによって違う意味を持つわけです。普通は鹿だとか猪だとか熊を撃つための道具として使われていたわけで、警察官の拳銃だって闘争をやっている人たちを殺すために持っているわけではない。だから、川島豪が言ったのは、全くの空語だったわけです。それ以上に永田(洋子)が言った「握りしめて初めて分かった」というのは、何の意味もない感情論で、何の説得力もないものなんです。ところが、それが当時の運動の中では、次第に「それで行こう」となってしまったんですね。
赤軍派はどう言ったかというと、そもそも「交番襲撃の時に、相手を殺そうと思わなかったから負けたんだ」と言う人がいて、それに反論する人もいなかったし、5月くらいには革命左派は「銃を軸とした武装闘争」と言い出すようになってしまった。
もし警察官が人々の運動を銃を使って撃ち殺していくという状況があれば、それに対抗することは必要でしょうし、実際に対抗することが始まったと思うんです。言葉だけが先行
してしまって、「武装闘争」を言い出したんですね。言い出してしまうと、ちょっと聞くとそれが論理的であるかのような、言葉巧みな人が現れるわけです。森恒夫がその最たるものだったと思うんです。そいうのを永田(洋子)が見て、森恒夫はすごいと思うわけです。この人に指導してもらおうということで、川島豪から森恒夫に乗り換えてしまうんですね。
一言で言うと、言葉が先行してしまった。実際の条件が何も無かった。それがその後の「総括」に至るわけです。

金廣志
岩田さん、どう考えますか?

70

岩田平治
まあ、そう仰っている雪野さんも指導部の一員だったんですよね。捕まるまでは、思っていたにしても、永田(洋子)や坂口(弘)のそういう方針を納得していなかったと言いつつも、指導部の一員だったわけです。ですから、私は実際に総括が始まった現場に居て、自分が同志を殴って、結局殺人罪とか死体遺棄罪で起訴されて、5年の実刑判決を受けたということがありますが、それじゃあ、私自身が自分自身を顧みて、幹部たちはそう言っているだけで、私は反対していたからあれしたんじゃないし、幹部たちに協力しなければ、今度は私がやられるからやったわけではないんです。やっぱり、そういうことの選択をきちんとしながらも、そこで殴ることを選んだり、その場で居ることを選んで居たわけです。そういう意味で、自分自身を顧みた時に、吉本隆明さんが書いた『共同幻想論』を読んで、はっとしたんですけれども、人間は自分自身を抑圧することを知りながら、そういう抑圧する規範を作り出すことができる存在だと。その存在が共同幻想であり、それは個体の幻想と逆立する構造を持つと。それは人間の個人の中に持っているんですよね。ですから、革命とか革命戦士とか人民とか、そういうものを私自身が彼女たちの発言の中から選んで自分の中に入れて、そういうものを一番の共同幻想として掲げて、自分自身の対幻想とか個のいろんな思いとか、そういうものを押し殺していったと考えた時に、森や永田や坂口や、他の人たちにしてみても、喜々として仲間を殺すなんてことは有り得ないわけですよね。彼らも悩みながら、山本さんがさっき(2部で)言ったように、言葉が先行したみたいな話じゃないですけれども、やっぱりそういう言葉とか態度に自分自身が囚われてしまう、そういうことがああいう事態を生み出したんじゃないかなと思うんです。ですから、あの事件の様々な細かい局面を見てみると、女らしさがいけないとか、あるいは風呂に入ってはいけないとか、そんなことが言われて総括されたわけです。そのこと自体は愚問だし、永田の加虐趣味でも何でもなくて、そういう側面が出てくるようになったのかなと思います。

金廣志
ちょっといいですか。暴力についてなんですけれど、暴力というのはエスカレートする宿命にあると思うんです。要するに、さきほどの映像にもありましたけれど、60年安保の時のデモ隊は何も持っていない。機動隊は警棒を持っているけど。何人かはプラカードを持っていますけれど。そして1967年の10・8羽田闘争で山﨑博昭さんが亡くなっていますけれど、彼も何も持っていませんよね。何も持っていないまま殺されたんですよね。そうすると我々は武装しますよね。武装すると武器の方が先になっちゃうんですよ。例えば銃、私たちは赤軍派ですから、首相官邸占拠という話をしましたけれど、その時のイメージはすごく簡単で、11tトラックを3台盗んで、20人くらい荷台に乗って突っ込んで、皆が日本刀を持って切り込んでいくという、馬鹿げたことを考えているんです。その程度のことしか考えていない。銃を手に入れると考え方が変わるんです。指導も変わります。
先ほどの話と結びつくんですけれど、暴力は必ずエスカレートするんだ、そのことが一つ大きな問題になっていると思います。さっきの総括の話もありますけれど、(2部で)パトリシアさんは止められると言いましたけれど、本当に止められるのかという悩みもいまだにあります。

雪野建作
議論して反対していた時も指導者の一員だったんじゃないかと言われたんですが、実は指導部ではなかったんですけれども、一番これは反省して、もっと別のやり方がなかったのかと思うところです。
具体的には、6月に北海道から奥多摩湖の奥の山梨と東京の県境の川のところに野営地があるんですが(そこに行って)、そこで議論して、どういう議論だったかというと、「銃を軸とするかしないか」とうことです。
私が言わんとしたことは、「準軍事的な闘争をやる条件はないし、それはすべきでない」ということです。それでも武装闘争をやるという一般論について反対ではなかったし、あと私も若いから、そういう闘争に身体の中に燃えたぎるものがあるわけです。そういう意味で、結局丸2日議論したんですけれども、決着が付つかなかった。その時にどう論争を収めたのかというと、私が「その方針に納得できないし、承服しないけれども、多数決でしょうがない。この方針で行くことは認めます」と言った。はっきり言って、そのまま行ったら絶対やり続けることはできないし、いつか大きな壁にぶつかった時に、その時になるまで自分の議論は受け入れられないだろう、そういう風に思っていました。それで、私は議論に負けて、形式的な問題ですけれども、指導部の中で外交的なことをやる組織部の一員でしたから、そういう場所の中で動く役回りでしたから・・・。
さっきの武装闘争の問題については、私はそういう立場でした。そういう立場だったから、川島豪とだんだん意見の違いが出てきて、議論をして、一番最初の段階で、「これは間違っている」という議論をやったんですけれども、結局、私は一人離党するという形になりました。それが、あの1年間の私が歩んできた道です。
何か別のやり方があったのかというと、私は金さんのように根性がないから、何しろ指名手配されていた。組織的な支えなしに生き抜くというのはどうすればいいか分からなかったし、そもそもそういう発想がなかった。それでしょうがないから労働しに行って、まもなく捕まってしまったということです。

中村眞大
ありがとうございます。
最初にお二人がお話されていた言葉の恐ろしさ、人の話した言葉の恐ろしさであったり、自分が発した言葉に囚われてしまう恐ろしさというのをすごく感じました。
もし森恒夫が当時ツイッターをやっていたら、森さんや永田さんのセンセーショナルな演説がツイッターやtiktok(ティックトック)で拡散されていたら、自分たちの周りの大学生だけでなくて、もっと幅広い人たちに彼らの言葉が届いていたらどうなっていたんだろう、とちょっと考えましたし、逆に言えば、今もしそういった事態に陥ったとしたら、当時と同じようなことがまた起きてしまうのだろうか、というようなことも考えました。
ありがとうございます。

63

―「総括」殺人を阻止する方法はあるのかー
宮島ヨハナ
さきほどの話と繋がるかもしれないんですけれども、私はこのシンポジウムに出ることが決まった時に、全然あさま山荘事件も連合赤軍事件の事も全く知らなくて、自分でドキュメンタリーとか観ていたんですけれども、やっぱり何で理想的な平和な社会を目指して純粋な気持ちで進んでいた大学生が、リンチ殺人に走ってしまったかというのが、すごく私も疑問で、自分なりに考えてみたんですけれども、いま取っている平和研究という授業があって、そこで集団的な暴力の一因となるのが、やっぱり権力者に従うことというのを学んで、その例として、ミルグラム実験(閉鎖的な状況における権威者の指示に従う人間の心理状態を実験したもの)というのがあって、権力者の人が目の前にいる人を電気ショックしてくださいと言って、普通の学校の先生だとか一般人の方にそういう風に言って、最初はためらうんですけれども、最終的には全員電気ショックをしてしまうという実験結果で、それを聴いたときにすごくこのリンチ殺人にも当てはまると思いまして、私が向き合っている入管問題というのも、結構入管施設内で職員による暴行が問題になっていて、職員の人が収容者の人に対して制圧という言葉を使って暴行を行って、結果として骨折とか失明するという事件が起こっているんですけれども、それもやはり職員自身が悪いというよりも、職員がそういう暴行をすることを許してしまっている組織というか、上に立っている組織だったり、制度が悪いと私は個人的に思っているので、今回連合赤軍事件が起こってしまった理由としても、そういう権力者と、パトリシアさんも言っていたように、日本では他国と比べて上下関係が強い文化もあると思うので、そういう意味でリンチ殺人を行ってしまった一因として、一つだけの原因ではないと思うんですけれども、いくつかの原因の一因として、そういう権力に従うということがあると思っていて、それに対してパトリシアさんが「それを阻止する方法があるんじゃないか」と言ったんですが、お二人はそういう阻止できる方法があると思うのか、お聞きしたいです。

70

岩田平治
自分自身が過去を振り返ってみて、やっぱり阻止する方法は無かったと思います。というのは、私たちの組織の中で一番あれなのは武装闘争だし、革命戦士になることだし、その他の人道的とか倫理的とか人間に命が大事だとか平和とか、そういう次元が無いわけです。そこからの議論でないと議論にならないわけです。ただ、感性的にはこういうものに付いていけないということで、私は逃走というか、山で殺されていた小島さんの16歳の妹を山に連れてこいと(言われた)、私の彼女もそうだったんですね。私の彼女も革命戦士になろうと思っていたわけではない、ただ私との関係の中でたまたまそういう闘争に関わっていくことはなきにしもあらずだったんですけれども、山に連れて来たからと言って指導部が彼女たちを必ず革命戦士にするという保証もないし、結局、名古屋で活動して、彼女たちとも連絡が取れなかったんですけれども、最終的に山に入った時に逃げたんですけれども、それでも私はこの革命が間違っているとは当時は思っていなかったんです。正しいかもしれないけれど、私は付いていけないという形なんですね。ですから、私が離脱した後も引き続きリンチ・殺人みたいなことが起こるんですけれど、私の時には3人死亡しているのかな、そのうち2人が縛られた状態だったんですけれども、その後更に6名が処刑とかいろんな形で殺されているんですよね。ただ、私が山から(名古屋に)活動に出された時点では、もうこれでだいたい終わったということだから活動を始めたと理解していたわけです。ですから、私が逃げる時に、幹部の人たちがどういう風に考えるかと思ったら、私が警察に捕まって何か言う前に私を捕まえて殺すんじゃないかと考えてたわけです。ですから親戚を頼って大阪に行って、大阪の親戚のつてで和歌山の山奥のところを紹介してもらって、そこで働いて隠れていた。ただ、幹部たちは私を連れ出すのに、自分の家族とか妹とか東京に居ましたから、そういうのを拉致するなりして「出てこい」と言えば出ていかざるを得ないと考えていました。ですから、私が正しいんだと離脱したわけではないんですね。もう付いていけないということなんです。ですから、そういう意味では、さきほども言いましたように言葉は何のために必要かと言うと、「組織」になったり「大勢」になったり「我々」になったりするためには必ず必要なんですよね。
私の考えを伝えるのは限界があります。私の孫も高校1年生になるので、あと数年経つとこのようになるのかなと思うと、とてもこれほど立派な意見を言えるようになるとは思えないですが、素晴らしいことだと思うんですけれども、考えていってもらいたいことは、やっぱりある程度多くの人の賛同を得ないと力にはならないと思うんです。武力云々ではなくて。そういう中で「私」が「私たち」になり、そうするといろんな軋轢とか問題が出てくるんですね。その時に意見の違う人たちも出てくるだろうし、意見の違う人たちを従わせるためにはどうしたらいいのかとか、多数を得るためにどうしたらいいのかとか、そういう問題に直面すると思います。ただ、そういうものを、いろんな形で解決するというか、新しい工夫を生み出すような形で、今やっている運動を続けて行ってもらえたらと思っています。

37

雪野建作
パトリシアさんが、「阻止する方法はある」と言った。私は、これは「あるけれども、それも限界がある」と。それで、岩田さんが言ったことは大事な事なんですよ。いろいろ理屈としては納得せざるを得ないけれども、感性的にはどうしても納得できない、付いていけない、これはとても大事な視点なんです。最後の拠り所として、ある分岐路があって、その時、社会的な圧力だとか、それまで自分が生きて来たことだとか、そういったものをどこかでどちらかに行かなければいけない。その時は本当に自分の感性を信じて、それから言葉にできないけれども何か違う、どうしてもこれは間違いだという時は、それを否定しない。(間違いを)否定する方向に進むべきだと思います。そいう意味で、岩田さんは正しい道を歩んだと思います。ただ、その団体がそういう人が1人か2人いたとしても、団体全体としていい方向に行っているか、これはまた別問題です。ただ、一人ひとりは結局1人なんです。自分なわけですから。自分と団体は別のものですから。その時に、個人としてどういう身の処し方をするかと言えば、今言ったような処し方をするしかないし、その方が正しい。そういう人が段々増えていけば、団体としても方向を変えざるを得ないんじゃないかなと思います。

金廣志
さきほど岩田さんとも話したんですけれども、パトリシアさんがそういうお話をされた時に、「ちょっと我々は考えられないね」と。ある一つの集団が、ある一つの思想を持って、そしてそれを真実だと思って活動した時には、離脱することはできないですよね。ですから、私たち自身が、さきほども話がありましたけれど、その前の段階で一つひとつそこの疑問を常に公にしていく、内側に秘めて「まあいいか」と1回重ねた、「こっちもいいか」と2回重ねた、その時から地獄が始まると思うんですよね。宮島さんはキリスト者ですから、ある意味での新しい別の概念を持ってくる方法もあります。それは愛かもしれません。ただ、さきほど岩田さんの話にもありましたけど、我々が一度共同幻想に絡めとられたら、我々の言葉は個人の言葉ではなくなりますから、難しいと思います。
何でそんなことを言っているかと言うと、あなたたちの将来が決してそうならないという、そういうことを教訓にして今後生きて行っていただきたいと思うから、そういう話をさせていただきます。
最後に本当に短く、3人の若者に、未来社会に生きる希望と理想を語っていただきたい。また、そのお話の後に、半世紀前に未来社会を築こうとした岩田さんと雪野さんに、若者たちへのエールを送っていただきたいと思います。

<若い世代が未来社会に生きる希望と理想を語る>

61

宮島ヨハナ
そうですね。私の理想の社会は、やっぱり綺麗ごとに聞こえちゃうかもしれないですけど、一人ひとり違うと思っていて、この社会って皆が同じっていうよりかは、日本人という括りの中にも、様々なバックグラウンドだったり、ジェンダーだったり、どこの国から来たとか、そういう多様な人間がいる中で、違いを認め合って、尊重し合って、隣人を愛していくというのが私の理想です。
すごく高い理想だとは承知しているんですけれども、それが理想で、今は理想とは程遠い現実ですけれども、一人ひとりが社会で生きて行く中で、隣にいる人も家族だったり友達だったりというのも尊重し合って、愛し合って、お互いを高め合っていくという、そういう社会が理想だなと思いますし、今の日本社会ですと、結構少子化が問題になっているので、これから外国人の労働が必要になってくると思うんですね。そういう中で技能実習生の問題だったり、外国人労働者の問題だったり、入管の中の難民の問題だったり、様々な問題に直面していると思うんですけれども、そういう問題と向き合っていく中で、違いを尊重し合って、どう壁を壊して共存していけるかということを、市民一人ひとりが考えて、例えば今度(参議院)選挙がありますけれど、そういう時にも、そういうことを視野に入れて考えていって、外国人であっても、どんな人であっても安心して暮らせる社会、それは制度の改革かもしれないし、法律の改正かもしれませんけれども、そういうステップを取って、より生きやすい、どんな違いがある人間も生きやすい社会が私の理想の社会です。(拍手)

64

中村眞大
そうですね。今、宮島さんが仰ったことにすごく共感するんですけれども、僕が思うのは、今、物事とか人に対して一つの局面からしか見ない人がすごく多い気がしています。例えば、沖縄で高校生が警察官に警棒で殴られて失明してしまって、それで怒った沖縄の若者たちが警察署を取り囲んだというニュースがあったと思います。その時に、SNSとか世論は少年を失明させた警察ではなくて、そんな時間、夜にバイクに乗っていた高校生を叩いたというのがすごくショックでした。その高校生は、夜出歩いていたかもしれない、もしかしたら暴走族に属していたかもしれない。けれども、警察官に顔を殴られて失明したということは紛れもない事実で、それに関しては同情するべきで、警察が非難されるべきだと思うのに、なぜか「あいつはそんな時間に夜出歩いていた。そういうことされてもしょうがないよね」と高校生批判がネット上に出回ったことがすごくショックでした。確かに彼は暴走族とかに属していたかもしれないという側面があったとしても、「でもこれとこれとは別問題なんだよね」と考えられる人がすごく少ないと思っています。今日の連赤の話でも、人が死んだということだけをすごく取り上げて、テロリストだと考えて、その奥にある背景だとか、そこに至るプロセスというのを全く無視して、「怖い怖い」と片付けてしまうという人たちもすごく多いと思うので、それはやはりテレビだとかSNSだとかいろいろな原因があると思うんですけれど、もちろんSNSとかテレビの良さはあるんだけれども、一つの局面から見るんじゃなくて、もっといろいろな複数の視点から見て、最終的に判断するというようなことが出来るような人がたくさんいる世の中、そういうような世の中で多様性とか認め合っていけたらいいのかなと思っています。(拍手)

66

安達晴野
僕は、人間が人間として、一人ひとり個人として尊重される社会になって欲しいと思っています。いろんな個性があると思うんですけれども、そういうものを受け入れて尊重できるような関係性というのを築ければいいな、と思っていて、正しく私が通っていた都立北園高校というのが、それに近かったと思うんです。北園高校に入ると、めちゃくちゃ個性が伸びる、個性的になると僕は思っていて、北園高校は板橋区にあるんですけれど、僕の地元も板橋区で、僕の中学校から、だいたい1学年10人くらい北園高校に進学する。皆、北園に入って顔が明るくなった。あと、僕が驚いたのは、この子って本当はこういう感じの子だったんだ、と思ったんですね。やっぱりそれは、自由な環境の中で、今まで抑圧していた個性を出せるようになった。また、その出した個性に対して、誰かが文句を言ったりするのではなくて、「そういう人もいるよね」と受け入れる、受け入れるというのは好きになるとかそういうことではなくて、「そういう人もいるでしょう」と受け止めることが出来ていたのかなと思っていて、結構世の中を見ると、自分と違ったものを受け入れることが、自分を否定することになると勘違いしている人がたくさんいるのかなと思っていて、けれど絶対そうじゃないと思うんですよ。自分と違うのを認めたからと言って、自分の価値が否定されるわけじゃないし、逆に自分に価値があるから、自分と違う人は価値がないというわけでもないと思うんです。やっぱり、それぞれがお互いの個性とか価値とかを受け止めて、尊重できるようになる社会であって欲しいと思っています。
それで、社会が変わるか変わらないか、社会が変わるためには暴力が必要かも知れないというお話があったかと思うんですけれども、自分は暴力が無くとも社会が変わると思っていて、その正しく成功体験として自分が今まで取り組んできた校則問題があると思っています。もちろん、校則問題はまだ解決したわけじゃないし、発展途上というか、今、正に変わろうとしている最中だと思うんですけれども、僕はずっと自分の意見が政治に反映されたり、若しくは社会に反映されたりすることが無いんじゃないか、絶対に無いとまでは思っていなくても、ほとんど無理だろうみたいに思っていたんですけれども、校則問題にこの3年間取り組んできて、自分が声を上げることによって、本当に社会とか政治が変わっていくんだと実感することができたんですね。
今年の4月から、全都立高校で、いわゆるブッラク校則と呼ばれている一部のもの、例えばツーブロック禁止とか、下着の色の指定とか、そういうものが無くなったりとか、そういう風にゆっくりではあるけれども、絶対に声を上げることによって社会が変わると僕は思っています。
僕はメンタルが結構強いし、楽天家でもあるので、確かに国会など見るとすごい暗い気持ちにはなるけれども、それでもきっと社会は良くなっていくだろうし、自分が良くしていきたいと思っています。(拍手)

72

<若い世代へのエール>
金廣志
すばらしい意見をいただきました。最後に岩田さんと雪野さんに、若者たちに、もう自分の事はいいから、若者たちに未来に対するエールを送ってください。

雪野建作
さっきも言ったんですけれども、自ら信じることに従って進んでください。そして、自分の感性を信じてください。これだけです。

岩田平治
若い人たちの意見を聴いて、これからの日本は決して捨てたものじゃないと思いました。ただ、今回、50周年ということでテレビの取材とか新聞の取材を受けて、私より若い30代40代の人たちが、決して未来に対して希望を持っていないわけではないけれども、やっぱり社会の中でも揉まれて、少しは屈折した感じになっているかなという気がしました。ただ、今日の大学生の皆さんは、そういう素晴らしい考え方や希望を持っておられるので、そういうものを出してもらえればいいなと思います。
応援していますので、是非がんばってください。(拍手)

金廣志
今日は皆さんありがとうございました。
私たちのこれまで多くの誤り、それに対する反省を重ねながら、この半世紀を生きてきました。しかし、半世紀前に抱いた理想や希望を捨てて生きてきたわけではないんですね。より良い未来社会を築くために、私たち自身も思想的研鑽が必要だったと思います。そこで得られた反省を、こんな若者たちの未来に伝えていかなければならないかなと思っています。
半世紀前に私たちが抱いた理想や希望が、より良い形で進化して、新しい若者たちに受け継がれることを期待します。この未来を担う若者たちに拍手をお願いします。(拍手)
どうも今日はありがとうございました。これでシンポジウムを終わらせていただきます。
(終)

【アーカイブス】
「連合赤軍事件の全体像を残す会」では、「あさま山荘」40周年と45周年に集会を開催しています。
このブログにも報告を掲載していますので、以下のアドレスからご覧になれます。
No245  シンポジウム 浅間山荘から四十年 当事者が語る連合赤軍
No471 浅間山荘から45年「連合赤軍とは何だったのか」第一部
No472 浅間山荘から45年「連合赤軍とは何だったのか」第二部

連赤関連記事(もっぷる通信特別号 3・31人民集会特集 1972年4月20日)
No241 連合赤軍浅間山荘銃撃戦と総括による死をどう受け止めたのか


【重信房子と遠山美枝子 「47NEWS」よりリンク】
『私だったかもしれない ーある赤軍派女性兵士の25年』の著者、江刺昭子さんが「47NEWS」に掲載した記事です。
「若き日の重信さんと親友遠山美枝子さんの生の軌跡を素描することで、あの時代の空気や党派の動向、女性たちの生き方をたどり、考えたい。」(江刺昭子)

「47NEWS」は、全国の52新聞社と共同通信のニュースを束ねた地方紙連合ウェブサイトで、今回の記事は「47リポーターズ」に掲載されたものです。
リンンクを貼らせていただきました。以下のアドレスからご覧ください。

重信房子と遠山美枝子(1)
「マルクスよりルソーが好き」バリケードの中で意気投合した2人 数奇な運命を分けたものは何か

重信房子と遠山美枝子(2)
「社会科の先生に2人でなろう」お茶の水をカルチェラタンに 佐世保・王子・三里塚...続く闘い

重信房子と遠山美枝子(3)
「ふう、あなたが先に死ぬんだね」アラブにたつ日の涙 樺美智子につながる美質

重信房子と遠山美枝子(4)
純粋な若者たちを追い込んだものは何か 「兵士として徹底的に自己改造する」と山へ

重信房子と遠山美枝子(5)
女を後ろに下がらせる組織にあらがう 「私たちが新しい世の中を作る」と最後の言葉

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『私だったかもしれない ーある赤軍派女性兵士の25年』(インパクト出版)江刺昭子/ 著
(紹介)
1972年1月、極寒の山岳ベースで総括死させられた遠山美枝子。
関係資料と周辺の人びとの語りで、複雑な新左翼学生運動の構図、彼女が学んだ明治大学の学生運動と赤軍派の迷走を描く。
目次
第一章 2018年3月13日横浜相沢墓地
第二章 重信房子からの手紙
第三章 ハマッ子、キリンビール、明大二部
第四章 バリケードの中の出会い
第五章 「きにが死んだあとで」
第六章 赤軍派に加盟
第七章 遠山美枝子の手紙
第八章 新しい世の中を作るから
補 章 伝説の革命家 佐野茂樹

(著者プロフィール)
江刺昭子(エサシアキコ)
1942年岡山県生まれ
広島で育つ。女性史研究。
著書に『樺美智子 聖少女伝説』などがある。

定価2,000円+税

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。

http://zenkyoutou.com/yajiuma.html

●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在12校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ その2 】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は9月23(金)に更新予定です。

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