野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2022年10月

2022年10月8日は、1967年の10・8羽田闘争から55年目となる。この日は羽田・弁天橋での黙祷、萩中公園近くのお寺での法要、そして蒲田で記念集会があった。
今回のブログは、その参加報告である。写真を中心にドキュメント風に当日の様子を書いてみた。
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(チラシ)
2022年10月8日(土)
【献花・黙祷@弁天橋】
午前10時35分
京浜急行「天空橋」駅から歩いて10分ほどで羽田・弁天橋に到着。
天気が心配だったが、前日からの雨も上がり、薄日が差していた。

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(弁天橋)
弁天橋を渡ると、橋の欄干にメッセージと花を付けている人がいた。
メッセージには「67年10・8山﨑忌 恥ずかしくない行動をしてきたよ」と書かれている。
前年の54周年の日にも欄干に花が添えられていたので、誰だろうと思っていたが、いつもより時間が早いせいか、その人に会えた。
大田区内で「子ども食堂」をやっているとのこと。「子ども食堂」の準備ということで、簡単な挨拶をしただけで立ち去って行った。

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(欄干のメッセージ)
午前11時15分
参加者の集合場所は弁天橋を渡ったところにある鳥居の前の広場。
広場のテーブルの上には山﨑博昭君の遺影と花束などが置かれ、参加者が集まって来た。

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(広場に集まる参加者)
午前11時30分
弁天橋前での追悼の小集会が始まった。参加者は40数名。
最初に山﨑博昭プロジェクト発起人の佐々木幹郎氏から発言があった。
「テーブルの上にある写真が山﨑博昭の姿です。彼は18歳、全然歳を取りませんが、私たちは全員後期高齢者になりつつあります。しかし、この10月8日は、毎月月命日で私たちはここに集まって、18歳に戻ります。そして、その時の思いを、これからもどこで戦争があろうとも戦争には反対する、この意思を毎月確認してきました。
55回忌という今日この日、辻さん一言言ってください。」

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(追悼小集会)
次いで、発起人である辻恵氏から発言があった。
「10月8日の11時、ちょうど今頃の時間ですよね。機動隊とぶつかって山﨑が殺されたのは。(「11時20分から40分の間」という声)ちょうど11時半前後だと思うので、一生忘れないで皆と一緒に頑張っていきたいと思います。」

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(追悼小集会)
次に発起人である山本義隆氏より発言があった。
「今日は関西からも来ていただきありがとうございます。昨日の夕方外に出たら寒くて、今日濡れたらえらいこっちゃと思っていたけど、いい天気になりましてホッとしています。
この運動を始めて8年になるわけですけれど、戦争が現実に始まって、しかも原子力発電所が攻撃の目標になるという、恐るべき事態になっているわけで、戦争に反対する、原子力発電所を止めさせるということを言い続けなければいけないと思います。今日は1日、最後まで頑張っていきましょう。」
再び佐々木幹郎氏から発言があった。
「本来ならここで福島泰樹さん(発起人・法昌寺住職)が来て読経してもらう予定だったんですが、昨日旅から帰ってこられて、朝起きたら高熱があり、突然来られなくなりました。そのため、今回は読経はありません。
これから弁天橋に向かって1分間の黙祷をします。」

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(黙祷)
黙祷の後、弁天橋を背景に全員で記念撮影を行い、近くの五十間鼻無縁仏堂に向かった。

【五十間鼻無縁仏堂の平和地蔵にお参り・献花】
午前11時50分
五十間鼻無縁仏堂の前に到着。
仏堂に渡る桟橋の前には由来を記した看板がある。
<五十間鼻無縁仏堂の由来>
創建年代は不明でありますが、多摩川、又関東大震災、先の第二次世界大戦の昭和二十年三月十日の東京大空襲の折には、かなりの数の水難者が漂着いたしました。その方々をお祀りしていると言われております。
元は、多摩川河口寄りの川の中に角塔婆が一本立っているだけでありましたが、初代漁業組合長故伊東久義氏が管理し、毎年お盆には盆棚を作り、有縁無縁の御霊供養をしていました。昭和五十三年、護岸工事に伴い現在地に移転しました。その後、荒廃著しく、仲七町会小峰守之氏、故伊米次郎氏、大東町会故伊東秀雄が私財を持ち寄り復興致しました。(後略)

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(鳥居の前から見た五十間鼻無縁仏堂)
水難者をお祀りするために作られたお堂で、地元の方々が護っている。
「五十間鼻」という名前は、大田区観光協会のサイトによると
「水中に長さ50間(約90m)に渡り石を敷き詰め、洪水時の急流から岸辺を守るために作られました。水難事故者を供養する無縁仏堂が建てられています。」とある。
潮が引くと、五十間の長さの鼻のような形の石積みが水中から姿を現す。この日は釣り人で賑わっていた。
桟橋を渡るとお堂があり、ここに「平和地蔵」がある。「平和地蔵」は、羽田闘争50周年の2017年10月に、山﨑博昭プロジェクト発起人によりここに祀られた。台座には「山﨑博昭」の名前が刻まれており、弁天橋に向かって立ち、平和への祈りを続けている。
参加者は桟橋を順番に渡り「平和地蔵」に手を合わせていた。

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(桟橋を渡る参加者)

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(平和地蔵)

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(平和地蔵に手を合わせる参加者)

正午
「平和地蔵」へのお参りが終り、参加者は萩中公園に向かった。
萩中公園までは歩けない距離ではないのだが、参加者の皆さんも高齢となり、短い距離ではあるがバスに乗車して向かう。

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(バス停前の参加者)
40数人も乗るとバスは超満員。途中のバス停から乗って来た人が「この路線バスでこんなに混んでいるのは初めて」とビックリしていた。
萩中公園でバスを降りて、公園内にある集会所に向かった。
お寺での法要までに時間があるので、参加者は集会所の地下の食堂や近くの店、借りている集会室で昼食。

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(昼食を食べる参加者)

【法要 福泉寺】
午後1時55分
萩中公園の集会所を出て福泉寺に到着。
辻恵氏が「パトカーはいないな」とポツリ。そう言えば50周年の時はお寺の前にパトカーと交通警官がいたことを思い出した。

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(福泉寺)
午後2時
福泉寺の本堂で法要が始まった。
参加者全員は本堂内に入りきらないので、私は本堂の外から法要に参加した。

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(法要の様子)

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(ご焼香する参加者)
午後2時40分
法要が終り、参加者は本堂の裏手の墓地の入り口近くにある山﨑博昭君の墓碑と記念碑の前に集まった。

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(墓碑に花を供える参加者)
ここで佐々木幹郎氏が山﨑博昭プロジェクトの追悼文を読み上げた。

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(追悼文を読み上げる佐々木氏)
〈10・8羽田闘争55周年に際して〉
 1967年10月8日、午前11時40分ごろ。山﨑博昭くんは羽田・弁天橋の上で、警棒を乱打する機動隊と衝突するなかで、生命を落としました。即死でした。享年18歳。ヘルメットもかぶらず、手には石も棒も何も持っていませんでした。
 それまで彼は、弁天橋のたもとで、萩中公園側からやって来る機動隊を阻止するための防衛隊のなかにいました。そこから彼は、一人で駆け出して、橋の上での闘いに参加したのです。どうしても闘争の最前線にいたかった。アメリカによるベトナム戦争に反対する意思表示を、一歩でも空港に近づいて示したい。当時の佐藤栄作首相はアメリカの傀儡政権のある南ベトナムへ行こうとしており、日本が戦争に協力することになる。その飛行機の出発を止めたかった。
55年前の10月8日、弁天橋は晴れ渡っていました。同じ橋の上にいた人々はその日の青空の記憶をよく覚えています。
 山﨑博昭くんの死は、同世代に「ジュッパチ・ショック」と呼ばれる大きな衝撃を与えました。1960年の安保闘争で機動隊に虐殺された樺美智子さんの死から7年目のことです。
 戦争に反対する。このたった一つの単純な叫びが、命がけのものであることを山﨑博昭くんの生と死は示しました。戦争があるかぎり、かつても、いまも、これからも、戦争に反対する叫びが続くことを、そして後の世代に受け継がれることを、わたしたちは願っています。

続いて、佐々木幹郎氏から墓碑の説明があった。
「山﨑博昭の文字は、昔の(中国の)青銅器の時代に青銅器の周りに彫り込まれた「金文(きんぶん)」という文字です。それを高校3年生の時の同級生だった書道家の川上吉康氏が書いてくれたものです。
ここに墓碑を作ることが出来るまで、私たちは数年に渡ってこの周りのお寺さんにいろいろお願いしたんですが、どこも無理でした。最後に福泉寺にお願いした時に、今日杖を突いて出てこられた女性の住職がOKしていただき、ようやく作ることができました。
東京のメンバーは毎月月命日で参っていますが、この文字は飽きがきません。山﨑の思いがこもった文字になっていると思います。」

この後、一人ずつ墓碑と記念碑の前で手を合わせた。

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(手を合わせる水戸喜世子さん)

山﨑博昭君の実兄の建夫さんは
「今年はこれだけたくさん来てくれたよ」
と墓碑に語り掛けていた。

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(本堂の前で記念撮影)
午後3時20分
法要の後、夜の集会まで時間があるので、参加者は再び萩中公園集会所の集会室に戻り、歓談した。

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(集会室の参加者)

【55周年記念集会】
大田区消費者生活センター2階 大会議室
「10・8羽田闘争55周年―山﨑博昭プロジェクトがめざしたもの」
午後5時15分
夜の記念集会は午後6時から。
それに向けて会場設営が進む。

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(横断幕を張り付ける関係者)

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(北井一夫さんの写真)
午後5時40分
開場。
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(受付の様子)
午後6時
佐々木幹郎さんの司会で集会が始まった。参加者は約80名。
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(会場の様子)
主催者を代表して山﨑建夫さんからの挨拶があり、続いてドキュメント『プロジェクトの歩み』(代島治彦監督)が上映された。

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(上映の様子)
今回の集会は、山﨑博昭プロジェクトの第2ステージの区切りとなる集会である。
プロジェクトの8年間を振り返って、出席した発起人からプロジェクトへの思いなどが語られた。

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(発起人の皆さん)
左から山本義隆、水戸喜世子、北本修二、新田克己、福井紳一、代島治彦、三橋俊明、辻恵、小林哲夫の各氏
午後7時40分
休憩を挟んで小林哲夫さんの進行で、若い世代の方から羽田闘争や当時の運動について発言があった。

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(若い世代の方)
右から那波泰輔さん(大学非常勤講師)、中村眞大さん(北園高校→明治学院大学)。
午後8時20分
だいぶ時間が押してしまったので、予定していた参加者との意見交換はなかった。
プロジェクト事務局長の辻恵氏から、会計報告と今後の活動について説明があった。

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(説明する辻恵氏)
今後の山﨑博昭プロジェクトの活動について、明確な方針は示されなかったが、毎月8日の月命日の集まりは継続するようだ。
最後に、11月23日に渋谷のロフトで開催される全共闘世代と若が語り合うイベントについて紹介があった。
午後8時30分
閉会。
懇親会は消費者生活センター1階の中華料理店「歓迎」で30数名が参加して行われた。

記念集会の詳細は、後日ブログに掲載する予定である。

(終)

【10・8山﨑博昭プロジェクト書籍】

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かつて10・8羽田闘争があった: 山﨑博昭追悼50周年記念〔寄稿篇〕 
かつて10・8羽田闘争があった: 山﨑博昭追悼50周年記念〔記録資料篇〕
各4,290円(税込み)
<購入方法>
以下の10・8山﨑博昭プロジェクト事務局あてに申し込みください。
E-mail:monument108@gmail.com
ご送付先、お名前、お電話、冊数を必ずお書きください。
本を郵送する際に同封します振替用紙にて代金+送料をお支払いください。

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在12校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ その2 】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は11月11(金)に更新予定です。

このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子に掲載された重信さんの日記「独居より」の要約版や「読んだ本」、手記などを紹介してきた。
当時の立場や主張の違いを越えて、「あの時代」を共に過ごした同じ明大生として、獄中にある者を支えていくということと、私のブログの読者でこの冊子を購読している人は少ないと思われるためである。
最初の紹介は2011年1月28日。それからから11年余り、「オリーブの樹」に掲載された各種記事を紹介してきたが、重信さんは5月28日に満期で出所されたので、この「オリーブの樹」158号が最終号となる。
今回は最終号に掲載された「皆様ありがとうございます」「再出発にあたって」「今後の活動体制」「重信房子著書」を原文のまま紹介する。
(この記事の転載については重信さんの了承を得てあります。)

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「オリーブの樹」158号(最終号)
【皆様ありがとうございます】
私は、2 0 2 2年5月2 8日朝に東日本成人矯正医療センターを出所し、自由に行動出来る身になりました。様々に、私の救援、支援で永い間支え、励まして下さった皆様、「オリーブの樹」を読んでくださった皆様に感謝と共にお知らせのご挨拶を申し上げます。
5月2 8日、皆様の温かいサポートの中、獄から出所致しました。当日の様子は、マスコミ報道に示されておりましたので省略致します。
その後、早稲田で多くの方々に「おかえりなさい」の歓迎の集いを催していただき、驚きつつ大変ありがたく、嬉しい再出発の日となりました。その後体調を崩したために「5・30集会」には欠席、ボイスメッセージを送ることで交流しました。
まだ体調が十分ではなく、(後に、医者に「十年以上もの永ぃ間病気ベット生活の上に歩く事も運動も制限禁止状態だった人が、朝からマスコミに囲まれたり話したり緊張で気持ちで持っていただけで倒れるのは当たり前と考えればいいんです。ホリープの手術は、体力を回復してから急がずにやりましょう」と言われました。)
当日、出所の記者会見の直ぐ後に、早稲田の歓迎会の限られた時間の中で、一人ひとりが私に声を掛けてくださいました。でも十分なお礼の言葉を交わせなかったことがとても心残りです。
さらに、「オリーブの樹」の編集室、「支える会」から読者の方々にカンパを要請し、それに多くの友人達が呼びかけに応えてくださったとのこと、ありがとうございます。
今後は家族として、長い間待っていでくれたメイと話しながら生活の仕方をゆっくりと考えたいと思っています。まず体力回復、次に手術、その後どんな形でオリーブの樹に代えて交流して行くか考えます。ウェブサイトをメイが開いてくれましたので学習しつつまずそこから、と思っています。
治療兼ねて、6月1日やっと街に出て少し歩きました。それ以来リハビリしつつ生活条件を整えているところです。「オリーブの樹」読者の皆様、長い長い間伴走してくださったこと、励ましてくださったこと本当にありがとうございました。これからは、直接様々な形でお会いしたり交流していけることを願っております。「オリーブの樹」は今号の158号で一旦終刊となります。これまで誠にありがとうござぃました。
最後になりましたが、ずっと「オリーブの樹」の発行に尽力くださった山本万里子さんら友人達に感謝を伝えます。
以上を最終号の挨拶とします。

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(小林哲夫氏フェイスブックより転載)

【再出発にあたって】
私は本日5月28日、懲役20年の刑期を終了致しました。
これから社会へ戻り再出発致します。
これまでに、いくつかの取材要請を頂いておりますので、簡単ではありますが、ここに一言御挨拶申し上げます。

新しく社会に参加するにあたって、まず私の逮捕によって被害を受け、御迷惑をおかけした方々に謝罪致します。
また、すでに半世紀にもなろうとする過去のこととは言え、私や、日本赤軍の斗いの中で政治・軍事的に直接関係の無い方々に、心ならずも被害や御迷惑をおかけしたこと、すでに述べて来ましたが、ここに改めて謝罪します。
革命の「正義」や「大義」のためなら、どんな戦術をとってもかまわない、そんな思いで70年代斗い続けました。
こうした自分たちを第一としている斗い方に無自覚でもあり無辜の方々にまで、被害を強いたことがありました。
すでに軍事と国際主義を特性として斗ってきた日本赤軍は2001年に解散しております。
かつてのあり方を反省し、かつ、日本をより良く変えたいという願いと共に謝罪の思いを、私自身の今日の再出発に据えていく所存です。
また、この再出発の機会に、謝罪と共に感謝も伝えたいと思います。
この長い獄中生活の間、変わらぬ暖かい友情と連帯で裁判の証人としても支えて下さったパレスチナ、海外、日本の友人たちに感謝と連帯の挨拶を伝えます。
そして逮捕以来、公判から現在に至るまで獄中の私を励まし共に歩んで下さった大谷恭子先生をはじめとする弁護士の方々、救援活動に携わり支えて下さった方々に深く感謝申し上げます。
更に獄中で癌に罹患した私の治療に携わって下さった方々、4回の開腹手術で9つの癌を摘出し、命を助けて下さった大阪医療刑務所、八王子医療刑務所、東日本成人矯正医療センターの主治医ら医師・看護師・刑務官らスタッフの皆様にこの場を借りて感謝申し上げます。
私は1971年2月28日、25才の時に日本を発ち、30年近く海外で暮らしてきました。そしてその後、21年7か月弱を獄中で過ごしてきました。
僭越な言い方かもしれませんが、過ちはありつつも、子供時代から願っていた世の中をよりよく変えたいという願い通りに生きてこれたことを、私自身ありがたいことと思っております。
半世紀以上も前になりますが、世界も日本も高揚の中で、反戦平和を訴える時代がありました。
ベトナム反戦・連帯の斗い、チェ・ゲバラの訴えた「二つ、三つ、さらに多くのベトナムを!それが合言葉だ!」に心動かされ、また大学の学費値上げ反対斗争に私は進んで参加しました。
そして、斗いの攻防の中でのいきづまりを武装斗争によって活路を求めようとした共産主義者同盟赤軍派に私も加わりました。赤軍派は、斗い、失敗を重ね、弾圧の中で、うまく斗うことが出来ませんでした。「武装斗争路線」が間違っていたからです。でも当時はそう考えませんでした。武装斗争は組織の結集軸であったので、その路線を疑うよりも、更に斗うことによって解決しようと「決意」で乗り越えようとしました。
私も、そのうちの一人です。そしてもっとよく斗うために、世界の抑圧された人々と連帯し、世界も日本も、より良く変えたいと、更に武装斗争路線を堅持して、パレスチナ解放斗争にボランティアとして参加しました。
以来、パレスチナ解放斗争の人々、又、パレスチナ戦場に連帯する各国の革命を求める人々と出会い、学びながら、いろいろなことに気付かされながら生きて来ました。武装斗争ばかりか、パレスチナの人々の平和的・非軍事的生存の斗い、命を大切にし、人々が助け合っている姿に解放斗争の源泉があることも学びました。自分が日本で活動していた時、人々の社会生活を知り、人々と共に結び合うような斗いをしてこれなかった過ちを、武装斗争の現場で逆に学んでいきました。私自身の経験や教訓は、語れる範囲で記してきましたが、ここでは長くなりますので略述します。取材を求められておりますことにつきましては、今後、語れる範囲で真摯に答える機会を持つことも考えたいと思っています。

私が獄中に20年以上過ごしている間に、世界も大きく変わりました。ことに、2001年に米国で起きた「9・11事件」は、今日を決定づけていると思います。当時のブッシュ政権は「9・11事件」に対して犯罪として司法で裁く解決の道を選ばず、「反テロ」戦争の名で戦争と暴力のパラダイムを選択しました。私の暮らしたイラクをはじめ中東は米軍による民間人の殺害・拷問・難民の発生と、今もその被害は何十万人何百万人に及びながら、米軍による戦争犯罪は裁かれず、被害を受けた人々は痛みと困窮から抜け出せずにいます。
21世紀を戦乱と難民の世紀へと転じてしまいました。
このパラダイムのひとつの帰結として、ウクライナに対するロシア軍の侵略と、NATOの武器供与が局地戦を激化させているように思います。ウクライナの人々を犠牲にしたままに。
また、この20余年の間、人間も自然も市場に投げ入れたグローバル資本主義の中で環境破壊や格差の極端な広がりが生まれています。コロナパンデミックはそれらと無縁とも思えません。
ITやAI、加えてコロナ社会の「新しい生活様式」も、私は、まだ経験しておりません。
その上、出所を前にして、内視鏡検査で再び厄介なポリープが発見され、出所後の専門医による治療が再び必要になってしまいました。
社会に戻り、市民の一人として、過去の教訓を胸に微力ながら何か貢献したいという思いはありますが、能力的にも肉体的にも私に出来ることは、ありません。
まずもって、治療と、リハビリに専念する中で、世界・日本の現実を学び「新しい生活様式」を身につけたいと思っています。
そして、求められれば、時代の証言者の一人として、反省や総括などを伝えることを自らの役割として応えていくつもりです。

以上取材要請を頂きました方々に対して、出所にあたっての私自身の心境をお伝えし、御挨拶と致します。
2022年5月28日朝

質問について
様々なメディアの方々から、直接、あるいは大谷弁護士を通して、いくつもの質問を頂いております。共通する質問のいくつかについて、大谷弁護士に答えを託します。

--逮捕から21年以上の獄生活から自由の身になって、現在の心境について
「すでに、プレスリリースに記しました通りです。更に言えば、海外での様々な活動の中で喜びも苦労も味わって来ましたので、日本の獄生活が苦しいということは、ありませんでした。いつも命を今日、失うかもしれないという中で生活して来た私にとって、命をつないで今日、出所出来たことは、ありがたいことだと思っています。逮捕以来、拘束、自由を奪われる中で、心の自由を求めて、獄で初めて短歌を詠むようになり、私に豊かな潤いをそれはもたらしてくれました。また長い間の獄、公判に、30年以上も断絶していた学生時代の友人たちをはじめ、変わらぬ友情で、精神的・物質的支援の中で獄中とは言え、快適に精神を保っていくことが出来ました。又、公判の最終段階の2008年に癌が発見され、手術を繰り返し、生きてこの出所の日を迎えることが出来たのは、医療刑務所の主治医をはじめとする方々の尽力のお陰です。感謝しております」

--刑務所、獄生活について何か考えたことはありますか?
「それは大いにあります。日本の司法、刑務所行政は、先進国ばかりか、発展途上の国々よりも、たちおくれている点が多々あります。国連人権理事会などから、改善を求められている死刑制度は、最たるものですが、先進国では、もう、日本と米国位しか死刑を行う国は残っていません。又、『無期刑』が、終身刑化している現実も益々既成事実化されているのを実感します。更に私自身、実感したのは、刑務所の処遇・制度の抜本的改革の必要性です。それなしに、日本は、国際的な人権水準には、とうてい並びえないと思いました。具体的に言えば、その第一は、刑務作業に対する『報奨金』のあまりの低さです。刑務労働に対する国際的な水準とは桁違いです。私も治療の治まった2020年夏から民芸品作りの刑務作業に就きましたが、時給、7円50銭が最初の時給です。一年後の時給は、20円90銭で、一年間にやっと約一万二千円貯まりました。一般的に、受刑者の方々が、「刑務所帰り」という厳しい目のある社会の中で、自立して生きていくための資金を持つことが出来ないのです。他の世界の国々の水準に見合う時給であってほしいと思います。再犯率は、それによって大きく下がると思います。第二は『国民皆保険(国民健康保険)』の日本で、受刑者には、それが適用されていない点です。厚生労働省ではなく、法務省の管轄に受刑者たちの医療がおかれているためです。刑務所の医療は酷いもので、当センターに移監されてきても、手遅れのケースが少なくありません。それに、歯科治療は、当センターを含めて、刑務所医療から義歯作りは除外されているために、何十万円という自己負担で治療するしかありません。困窮下にある受刑者に、まったく医療が届いていません。幸運にも、私は、刑務所でも良い条件に恵まれ医療も適切に受けることが出来ましたが、全受刑者への国民健康保険の適用を願っています。更に第三には、受刑者の処遇に関する規則があまりに詳細に一挙一投足を縛り人間らしい生活を著しく損っていることです。明治時代の監獄法は、その精神・法・矯正教育として生き続けています。現在の、人権を重視する国際社会にふさわしく、受刑処遇や拘留中の規則の抜本的改善が必要だと実感しました」

--裁かれた事件について、どう考えていますか?
「私は、他人の旅券を不正に取得・使用したことについては、自分の活動のためにと、他人を踏みつけにしてしまったこと、人間としても恥ずべき行為であり、被害者に謝罪してきました。許して下さった方も、そうでない方もおりました。このことは、これからの再出発に、いつも心に刻んでいたいと思っています。私はまた『ハーグ事件』について公訴されて、ずっと無罪を主張して来ました。最高裁まで争いましたが、棄却され、刑に服しました。不服は、もちろんあり、再審も弁護士と相談しましたが、丁度、癌の手術なども続きました。すでに解散した日本赤軍のかつての活動に対する報復的な重刑求刑攻撃、判決は、私ばかりか、指導的に斗った者たちにも下されました。そうした環境の中で、指導的な立場にあった自らの政治責任として、判決を引き受けて前向きに生きる方が人生を豊かに出来ると考えて再審を断念しました。そして獄生活を価値あるものにしようと、学習し、過去を捉え返して執筆し、歌を詠み、発言し、交流し、また寄稿や出版をしながら、受刑者仲間との語らいを楽しみながら生きてきました。これも又、海外での活動と違った尊い日々となりました。きちんと罪を償った以上、公安警察や、関連の者たちに、私のこれからの新しい生活の邪魔をしてほしくありません。尾行したり、マスコミを煽るような『危険視』は許されて良い筈がありません」

--「テロリスト」呼称が一部にあるが、どう考えるか?
「私は、自分が『テロリスト』と考えたことは、ありません。『テロリスト』呼称が喧伝されたのは、米国レーガン大統領令138号に大きく転換が行われた時代からです。七十年代から八十年代初期には、政治活動に武装した斗いを含む勢力が世界各地に居ました。当時は、『武装勢力』『解放勢力』『革命組織』などと呼ぶのが、武装した政治勢力に対する呼び名でした。『テロリスト』呼称は、政治的意図や背景を隠し、『犯罪者』化する目的で、レーガン政権や、イスラエル政府が進めてきた時代の産物でした。もちろん、『恐怖を煽る』という意味での『テロ』や『テロリスト』という言葉は、それまでも使われていましたが、大統領令で、『テロリスト』と呼ばせる報道のガイドラインまで作って解放勢力、とくにパレスチナ勢力に対決しました。それが奏功してしまいました。イスラエルの領土併合、国境変更に抵抗する斗いが『テロ・テロリスト』で、ロシアの侵略・占領に対する斗いが『英雄的』などという米政府のダブルスタンダードが横行している世界をもっと知ってほしいです。ウクライナの人民のロシア侵略に対する斗いが、『英雄的』ならば、パレスチナのイスラエル侵略併合に対する斗いもまた、『テロ』ではなく英雄的斗いであると知ってほしい。そして、『テロリスト』と呼ばれる人を知る時、呼んでいる人々の意図を知ってほしいと思います」

--海外に居る指名手配中の仲間に対して、どう考えているか?
「公判の中でも主張してきましたが、リッダ斗争を斗った岡本公三さんは、1985年、パレスチナ解放組織が捕虜としたイスラエル兵との『捕虜交換』によって、ジュネーブ条約に基づき、赤十字国際委員会の仲介によって、イスラエルの獄から解放されました。彼は、イスラエルの軍事法廷による終身刑を受けて13年服役し、ジュネーブ条約の正規の手続きによってそれらは終了し、社会に戻りました。国際法の一事不再理の原則、ジュネーブ条約、更には、イスラエルの獄で受けた精神的ダメージを抱えています。こうした諸事情を見れば、日本政府の指名手配は、とり下げられるべきだと思います。岡本さんはレバノン政府に政治亡命を認められ、パレスチナや、レバノンの友人たちの支えの中で療養しつつ穏やかにすごしています。手配を、日本政府がとり下げることによって、岡本さんの帰国の願いがあれば、いつでも日本に帰れるようになることを私は願っています。他の人々については、すでに半世紀近い、又は超えた、かつての事件で指名手配されています。私同様老齢ながら、彼らは、人々や、社会に貢献する志で生き続けていることでしょう。今も生き、その必要とされる場で生き抜いてほしいと願っています。公安当局は、かつての斗いを反省するなら、自首するべきだ。私が自首を勧めるべきだ、と言ったことがあります。長くはない残る日々を生き続け貢献する方がどんなに有為なことでしょう。パレスチナから学んだのは、どんな逆境にあっても生き延びる思想であり、反省もそこで活かすことが、時効をこえて生きる人権の基本と考えています」
他、「リッダ斗争について」「ウクライナについて」など、質問も頂きましたが、この紙面ではお答え出来ません。興味のおありになる方は、丁度出版されました自著「戦士たちの記録-パレスチナに生きる」(幻冬舎刊)に、それらの点を認めましたので、御一読頂ければうれしいです。
まだ、多くの質問を頂きましたが、以上とします。
乱筆・乱文で失礼致します。
2022年5月28日 重信房子
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(2022年6月4日明大土曜会にて)

【今後の活動体制】
体力回復にまだ1か月は必要とのことなので、少しずつ生活準備をしています。体調を整え、パソコン、スマホの使い方を学習しながら、このリハビリ期に、メールやホームページにアクセスできるようにしていきたいです。
私の今後のホームページアドレスは、https//www. fusakoshigenobu. comです。(このホームページアドレスは、私の獄からの解放フリーダムに向けて国際的友人の間で作られていた英語のものですが、今はそれを活かして、私も日本語で参加させていただきます。)
私の希望は、二つの条件(一つは手術を終え、体調を回復させること、もう一つは電脳機器操作の初歩を学ぶこと)をクリアーしながら、メルマガを発行したいというものです。メルマガを通して皆さんと交流しながら、それを有料として生活基盤を整える一部分ともしていきたいと思っています。
今後、メルマガ『オリーブの樹ジャーナル』に興味のある方は、以下のメールアドレスにご連絡くたさい。 olive.tree.fusako@gmail.com

【後記(「オリーブの樹」編集室より)】
読者の皆様、長い間、「オリーブの樹」をご愛読いただき、ありがとうございました。
重信さんは不当な2 0年の刑期を終えて、体調はまだ万全に回復されておりませんが、皆様のご支援に支えられ、自由の身を満喫されております。信じられない!このような日が来るとは……。支援を始めたころを思い出しますと、言葉にならない感慨にとらわれます。あの頃、私も、長く離れていた日本に戻ったばかりでしたから、慣れない生活に戸惑^ながら、自分の裁判を抱え、結構忙しい日々を過ごしておりました。重信さんの裁判が始まると、そのあまりに不当な進行に、弁護士の先生や友人たちと怒りながら、判決を受け止めざるを得ませんでした。でも、今からとらえると、彼女の刑期が無期ではなかったということは不幸中の幸いです。満期という今味わうような解放があるからです。
彼女の刑期が確定し、拘置所ではなく、刑務所に捕らわれるようになってから、親族や身元引受人以外の者は、彼女に面会できなくなりました。今だに、日本の刑務所はこのような人権無視を貫徹しているのです。友人たちですら、まさか私が彼女に会えていないことを知らなかったりするくらい、日本の司法界は非常識極まりないのです。
司法改革が是非とも必要です。
重信さんは、上記の「今後の活動体制」にありますように、社会に適応して生きて行こうとされています。どうぞ、暖かく見守ってあげてください。皆様のご支援に感謝し、また違ったご支援をどうぞよろしくお願いします。
冊子としての.「オリーブの樹」は今号で終結いたします。皆様ご支援どうもありがとうございました。 (Y)

【重信房子著書 (*印:5月下旬重版出来)】
『わが愛わが革命』講談社、1974年11月
『十年目の眼差から』話の特集、1983年1月
『大地に耳をつければ日本の音がする 日本共産主義運動の教訓』
ウニタ書舗、1984年7月
『ベイルート1982年夏』話の特集、1984年10月
『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』幻冬舎、2001年4月*
『ジャスミンを銃口に 重信房子歌集』幻冬舎、2005年7月*, .
『日本赤軍私史 パレスチナと共に』河出書房新社、2009年7月
『革命の季節 バレスチナの戦場から』幻冬舎、2012年12月*
『歌集 暁の星』皓星社、2022年5月
『戦士たちの記録 パレスチナに生きる』幻冬舎、2022年5月

関連図書他
重信メイ『秘密 パレスチナから桜の国へ 母と私の28年』講談社、2002年5月
重信メイ『中東のゲットーから(That's Japan)』ウェイツ、2003年2月
『日本赤軍!世界を疾走した群像』重信房子、和光晴生、足立正生、若松孝二、塩見孝也
聞き手:小嵐九八郎 図書新聞、2010年9月
由井りょう子『重信房子がいた時代』世界書院<情況新書>、2011年6月
(『重信房子がいた時代 増補版』世界書院2022年5月)
重信メイ『「アラブの春」の正体 欧米とメディアに踊らされた民主革命』角川書店、2012年10月
丸岡修『丸岡修自述 元日本赤軍軍軍事指揮官告白録』風塵社、2013年5月
『赤軍一PF L P ・世界革命宣言』監督:足立正生・若松孝二 若松プロダクション ドキュメンタリー映画1971年(2007年ニュープリント)
『オリーブの樹の下で』ロックヴォーカリスト:パンタ アルバム。2007年8月
『革命の子どもたち』ドキュメンタリー映画。2011年イギリス製作。2014年7月日本公開

【重信さんの新刊本の紹介】
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『戦士たちの記録 パレスチナに生きる』」(幻冬舎)重信房子 / 著 
(幻冬舎サイトより)
2022年5月28日、満期出所。リッダ闘争から50年、77歳になった革命家が、その人生を、出所を前に獄中で振り返る。父、母のこと、革命に目覚めた10代、中東での日々、仲間と語った世界革命の夢、そして、現在混乱下にある全世界に向けた、静かな叫び。
本書は、日本赤軍の最高幹部であった著者が、リッダ闘争50年目の今、"彼岸に在る戦士たち"への報告も兼ねて闘争の日々を振り返りまとめておこうと、獄中で綴った"革命への記録"であり、一人の女性として生きた"特異な人生の軌跡"でもある。
疾走したかつての日々へ思いを巡らすとともに、反省を重ね、病や老いとも向き合った、刑務所での22年。無垢な幼少期から闘争に全てを捧げた青春時代まで、変わらぬ情熱もあれば、変化していく思いもある。彼女の思考の軌跡が、赤裸々に書き下ろされている。
さらに、出所間近に起きたロシアのウクライナ侵略に対する思いも、「今回のウクライナの現実は、私が中東に在り、東欧の友人たちと語り合った時代を思い起こさせる。」と、緊急追記。元革命家の彼女に、今の世界はどう見えているのか。
定価 2,200円 

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『歌集 暁の星』(皓星社)
連帯の火矢! 重信房子第二歌集
(皓星社サイトより)
テロリストと呼ばれしわれは秋ならば桔梗コスモス吾亦紅が好き
 
元日本赤軍リーダー・重信房子が21年に及ぶ刑期を終え、この5月に出獄する。
本書は獄中で書き溜めてきた短歌をまとめた第二歌集。著者は革命の日々を、連合赤軍事件で粛清された友・遠山美枝子を、現在の世界の悲惨を、二十数年にわたり詠み続けて来た。
本書の歌は、著者のもがきと葛藤の発露であると同時に、歴史の証言でもある。

海外で暗躍すること四半世紀を超え、国内での潜伏と獄中の日々、重信は一体、この斬新で清潔な文体をどこで獲得してきたのだ。
……戦い死んでいった同志への哀悼に、柔らかな心の襞を涙で濡らし続けてきたのだろう。(福島泰樹「跋」より)

アネモネの真紅に染まる草原に笑い声高く五月の戦士ら
空港を降り立ち夜空見上げればオリオン星座激しく瞬く
雪中に倒れし友の命日に静かに小さな白き鶴折る
津波燃え人家逆巻き雪しきり煉獄の闇 生き延びし朝
パレスチナの民と重なるウクライナの母と子供の哀しい眼に遭う

定価2,000+税

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