シンポジウムでは、刊行前の『続・全共闘白書』(情況出版2019.12.25刊行)について、白書のアンケート結果の概要説明とともに、「続・全共闘白書」編纂実行委員会のメンバーや回答者が闘争への関わりなどについて発言し、参加者からの質問に答えるというものであった。参加者は25名ほどであったが、熱心な議論が交わされた。
(続・全共闘白書)
諸般の事情で公開が遅くなったが、以下、その記録である。
【シンポジウム「全共闘白書2019」 東大駒場祭2019.11.23】
●主催者からの企画の説明
主催者(発言の概要)
まず最初に、全共闘と言ってもいろいろと説明がありまして、ここでは60年代後半から70年初頭の急進的な学生運動と定義しています。世界的な「反乱の時代」の中に発生した運動でして、特に西側の諸国では、全共闘運動に代表されるような若者たちの急進的な運動というものが広がっていったという風に理解していただいていいと思います。
ただ全共闘と言ってしまうと、学生とか、さらには学生の中の更に一部という感じで括られることがあるので、より全般的な状況を指して、「68年の運動」などと呼ばれることがあります。
全共闘運動の背景ですが、背景もいろいろな説明があります。例えば教養で習うような教育論がありますが、ベビーブーム世代の大学生が入った時に、大学側がそれに対応できず、学生側から全共闘運動というのが勃発したというような教育制度論的な説明があったりします。それから社会現象としてはベトナム戦争への加担への反発。これは特にアメリカが徴兵拒否の運動があったりして、ヨーロッパの方では米ソの中距離核弾頭の範囲内であるという危機感から運動が起こったりしました。日本では沖縄の基地からのベトナムへの出撃が加担ということで、そういうものへ反発した反戦意識が高揚した。そのような混沌とした状況から68年の社会運動が生まれてきたという説明もあります。個人個人によって様々な背景があると思います。
次に東大闘争ですが、これも異論があると思いますが、とりあえずこの場では第一次機動隊導入から安田講堂攻防戦までにしたいと思います。これの個別の背景としては、医学部のインターン闘争というのがあって、医学部の学生たちが当時、自主勉強と称するインターン、実際には無休労働という状況を改善するためにインターン闘争というのが行われた。この中で学部長に団体交渉を要求するというところで、暴力問題があって、その時にその場にいなかった学生を処分してしまった「誤認処分問題」というのがあって、それへの反発があって全共闘が安田講堂を占拠する。占拠した後で大学側は機動隊を導入して、「警察権力を入れるな」ということで、かなり広範な運動が出来上がった、と理解していただければと思います。それからもう一つ要因として挙げられているのは、ベトナム反戦運動の学内への浸透があります。68年の前年の10月8日、羽田空港で大規模な学生側と警察の衝突があって、学生側から1名の死者が出たというショキングな事件があって、その1ケ月後の駒場祭では、それをやっていた勢力がもう1度羽田に突撃するということで、この駒場に公然と現れたということがあります。これを機に、割と急進的な学生運動というのが始まっていくわけです。封鎖が行われた後には全学ストライキが提起されて、様々な学部でストライキが可決されて、大学全部が機能を停止させるというような状況になりました。ただ封鎖ばかりしていると授業ができないので、単位が取れない。次第に封鎖解除派の民青の人たちが優勢になっていくということがあります。
その後、有名な安田講堂攻防戦があって、そこから何度か機動隊の導入があって、全学的な急進運動は収束していくことになります。
「叛乱の時代と現代」ということで説明してきましたが、この68年の運動というものは、いくつか社会的にあるいは思想的に大きな転換がなされて、有名なのが科学史観。それまでは科学というのは工業化を押し進めるということで人は豊かになる、こういうような発想があったんですが、それに疑問を付すような形で環境問題だとか、当時大問題になっていた公害に対する反対の声があがる。それから反権威的な運動ということで、それまでの手が届かなかった地域医療の運動も広がっていく。それから人類の進歩というものに対する疑問の中から、文化人類学それから男性中心の社会というものを暴き出すということで、フェミニズムの運動も広まった。このような流れで、お互いに相関しながらいろいろな社会的、思想的運動がありました。
一番学生に分かりやすい例で言うと、例えば今、ここの教室は固定式の机と椅子になったんですが、それはバリケード封鎖出来ないようにそうしたということがあります。高校の方でも急進的な運動があって、それの結果、進学校によくありますが学則、校則がゆるいということがあります。
個人レベルでの学生運動との関わりはいろいろあるということを説明したいと思います。
まず、68年69年あたりの時に、学部生だった院生だった助手だった研究者だったかによって、かなり対応が分かれている。それから個別の大学の問題だとか、あるいは学部学科になると、学問の内容自体に問いかけを発するとか、そういうような関わりが多くなる。それから党派に属していたか、無党派だったのか、そういうのでまた関わり方が違う。その後の人生、その後の生活にどういう風に活きていたか。これにはまた肯定的にしろ否定的にしろ、何かしらの影響があったと思います。
ということで、関わりにはいろいろあるということで、当事者の方からいろいろ聞くと言うのが重要かと思います。当事者の方にこちらに登壇していただいて、自分はこういう風な大学闘争を体験した、というのを語ってもらいたいと思います。
●4名が登壇 自己紹介と闘争体験を語る
主催者
それでは登壇者の方に自己紹介を交えながら、自分の闘争体験を語っていただきたいと思います。
I
Iといいます。1948年生まれで、一浪して1968年東大理一に入りました。68年は東大闘争が6月から盛んになってくる時期で、実質大学で勉強したのは3ケ月です。
その後のことは、また後でゆっくりと話します。
H
Hと申します。1946年生まれで、東大に入ったのは1966年です。だからどちらかというと、東大闘争の関わり方は、最初から党派の活動家として運動を組織していくという立場です。だから後から参加してくる学生の皆さんとだいぶ意識が違うかなと思います。
7年駒場におりまして、その間7回警察に捕まって、あしかけ3年中野刑務所に拘置されていました。
それで安田講堂(攻防戦)には東大の学生はいないとか、当時言われたんですけれども、41年(入学)の文Ⅰの2Eで、1年生の時に25人いたんですが、落第し続けた私と、東大生協の専従をやって中退したY君という民青の活動家がいるんですが、彼はその後日本生協連の専務理事になりますが、その2人を除いて23人が本郷の法学部に進学したんですが、そのうち3人が安田講堂に入りました。基本的に安田講堂に入るのは本郷の学生だったので、23人中3人入っているので、かなりの確率で入っている。
三鷹の寮の寮委員長もしたんですが、三鷹寮の連中も、本郷にいた連中は結構安田講堂に入っています。
とりあえずそれまで。
Y
Yと申します。私は1966年に明治大学に入学しました。1967年の9月、2年生の時に全学の自治会の委員長になりました。
東大との関わりで言いますと、1969年1月の安田講堂(攻防戦)の時に、私は社会主義学生同盟という党派の隊長として、当時は東京から50名、同志社大を中心とした関西の部隊50名、この100名の部隊で安田講堂に入りました。
そういう意味では、10年前の(駒場祭の)立花ゼミ(のシンポジウム)でも言ったんですが、自分は全共闘だとは思っていない。当時の三派(全学連)、新左翼系の運動をやっていた人間というつもりで、今もそれがあります。
そういう意味ではちょっと齟齬がありますが、同じ時期にやっていますので、まったく別とうことではないんですが、ちょっと立場が違うということです。
安田講堂に入って逮捕されて、凶器準備集合罪、不退去罪、公務執行妨害、この3つで1審の判決は(懲役)2年6ケ月でした。当時、列品館で火炎放射器をやった明治のT君は7年でした。あれが一番長いですね。あとは行動隊長をやった今井さんも含めて、指導的な立場の人間は2年6ケ月というのが当時の相場でした。
70年の1月に出てきて判決を受けたんですが、当時、巨大な全共闘運動に対して党派は対応できなかった、今から思えば。他の党派は知りませんが、私がいたブント系の学生組織である社会主義学生同盟はいくつかに割れました。武器を持ってエスカレートしていくしかないんだという塩見さんなどのグループ、赤軍派。あと、武器の先鋭化ではなく、より大衆の中に入っていく、という叛旗派と言われるグループを作っていく。それに対して安田講堂に入っていた僕とか荒君は、ちゃんとした党がないから指導できないのではないかということで党を作ろうという、大きく言えばこの3つのグループになったんですが、その結果、皆さんご存じのように内ゲバ、いわゆる党派間のゲバルトから連合赤軍の粛清の問題とか、72年頃から出てきたわけです。
そういう中で私としては、もう自分が機動隊に殺されるとかだったらまあいい。ただ、あれを殺してこいというようなことは出来ないと思って、東大の1審の判決で2年半というのがあったので、控訴を取り下げて、静岡刑務所に72年6月に入って勤めを果たした。その後は直接は党派の運動はしないという形できました。
そういう意味では全共闘運動は知っていますが、むしろ全共闘運動を作って来たという意識です。ただ、それが全共闘運動のあの大きなうねりを指導できずに、結果としてこうなった。そういう意味で一言いいたいのは、連合赤軍とか、その後の革マルと中核の内ゲバとか、そういうものは全共闘運動そのものの結果ではないんですよ。全共闘運動を指導しようとした党派の限界であった。この点は、はっきり分けて皆さん学んでおいて欲しい。何となく全共闘運動をやっていくと連合赤軍になったり、党派の殺し合いになったりというのは絶対違うというのだけは、今日きっちり皆さん確認して欲しいと思います。
M
私はMと言います。Yさんからお話があったのと丁度逆の立場ですが、前田さんから声を掛けていただきました。
私はノンセクトでしたが、クラスの中にセクトの人もいたので、一緒に行動することはありました。東大の場合、全学的に全共闘が始まったのは1968年の6月くらいからです。その前は私は全然活動家ではなかった。ただ、平和主義的な思想というか考え方を持っていて、ベトナム戦争には反対していました。「わだつみ会」というサークルがありまして、私はそれに入っていて代表もやっていたので、戦争体験を語り継ごう、というような穏健なタイプの人間でした。
ところが全共闘が始まって、医学部の運動が、医者が社会の中でどういう役割を果たすのかという問いを孕んでいることを知ったわけです。あるいは専門技術者が社会の中でどういう役割を果たすのかとか、という問いです。この背景には水俣病のような公害の問題もありましたが、医者の場合には、例えば精神神経科の医者にとって大変だったのは、病気になった人を治して社会に戻すとまた病気になってしまう。そうすると、医者は何をやっているんだという問いがあったんですね。それがどれだけ全共闘参加者に共有されたかどうか、私にははっきり分からないのですが、少なくとも私の友人の医学部の学生たちは、そういうことを語っていて、私はその影響をかなり受けたわけです。
それからノンセクトであり、暴力に対して私は否定的でした。ですから機動隊だから殴っていいという考え方にあまり同調できなかったですね。もちろん内ゲバには否定的でした。機動隊に暴力をふるわれたから反撃してもいいという考え方があるわけですが、何故私が否定的だったかというと、私は機動隊にリンチされたときに、私を救ってくれたのは別の機動隊員でした。それが2回ありました。そういう経験もあったので、暴力というのは何と言うのでしょうか、相手に変な傷跡を残すという印象がありまして、暴力には否定的だったのです。そういう意味では内ゲバというのはとんでもないことであるという気持ちがありました。
私はそれから全共闘からだんだん離れて、べ平連、ベトナム戦争に反対する運動をやりました。それから3年ほど環境問題の住民運動をやり、その後就職して労働組合も3年ほどやりました。
その後いろいろ転職しながら、いろいろ社会の中で、どういう生き方をしたらいいか考え続けてきました。今でも課題があります。沖縄の問題を取材して、その延長線上で教育とかメディアリテラシーなど取材して、時々記事を書いています。
Yさんに刺激されて話し過ぎました。
前田和男
前田と言います。
僕は東大1965年入学です。皆さんに自己紹介していただきましたけれど、彼らも含めて、東大だけじゃなくて、あの時学生運動、それからいわゆる全共闘運動に参加していた約500人近くにアンケートを取りまとめまして、それを集計しているところです。
それを説明して、概略を理解した上で、登壇の皆さんと議論していただきたいと思います。
(集計結果は省略。詳しくは「続・全共闘白書」参照)
●主催者からの質問に答える
主催者
私の方で質問を用意させていただきましたので、答えていただければと思います。
「自分が学生運動、闘争を始めるにあたって、どのような経緯があったのか」
I
実は僕は入学してすぐ、「東大駒場新聞」、サークルの名前としては教養学部新聞会、一高新聞の伝統を引く新聞会でして、東大新聞と普通言われる東大新聞は帝大新聞の流れですが、駒場にはそういう教養学部の新聞会があって、「東大駒場新聞」というのを出していて、僕が入った1年生の時にオリエンテーションに顔を出して、そのオリエンテーションをやっていた人が前田さんで、3学年上かな。その時は前田さんは編集長から降りていて、次の人が編集長をやっている時代でしたけれども、それでオリエンテーションで僕は新聞会と部落研に顔を出したかな。それで新聞会のいかにも駒場の学生の吹き溜まりというような雰囲気が居心地が良さそうだということで、新聞会に入りました。
今日、参考のために68年5月25日の駒場新聞のコピーを持ってきました。「医学部ストは何を暴いたか。医学部ストライキ中間総括」というのを、医学部自治会書記長大西という、これはペンネームで児玉さんと言う方ですが、その後彼は医学部共闘会議の議長をやって、安田講堂(攻防戦)の時は、医学部本館に立て籠った。彼は医学部本館で捕まって被告になりますが、5月段階でそういう文章を載せるような新聞でした。
51年前の1968年の駒場祭も11月23日24日なんです。実は11月22日は東大闘争の中で大きな意味を持っている日でありまして、東大全共闘と日大全共闘の大合流の日だということで、安田講堂前に1万数千人、東大日大だけでなく全国から集めて、初めての大学を超えた共闘の集会をやった日なんですが、実はそこは強調されるんですけれども、あまり強調されていないのが、その時全学封鎖という方針を全共闘は出していた。教養学部で言いますと、11.4の代議員大会で「無期限ストライキ体制続行」「全学封鎖」という決定を出して、それを民青、クラ連の人たちは「採決に不正がある」とかなんとか言って、認めないと言ったんだけれども、圧倒的ではないけれども、きちんと過半数で可決して、その後、駒場のいくつかの建物の封鎖も実行するんですけれども、民青というか共産党の本部が方針転換して収拾の方に入るとなっていましたので、学内の力関係は僕らの全共闘派の方が圧倒的に強かったんですが、11月に初めて全都の民青の部隊が導入されて、スクラム戦でどーんとぶつかったとたんに、周りで見物していた学生がわーっと向こうの側について、何だこれはという形で負けたのが11.14。6号館とか3号館の研究棟を封鎖するということで、彼等はかなり危機意識を持ったということもあると思いますが、全共闘派の方も無茶な学生だけに任せておくわけにはいかんというので、実はその何日か前に(封鎖を)やるということになっていたのを、最首さんという助手が話に来て「助手共闘という形ではっきりと組織を作るから、君らが封鎖した後の自主管理は助手共闘が責任を持ってやるから、その体制を整えるので何日間か待ってくれ」ということで、11.14になったということなんですが、11.14に民青にみごとに負けて、向こうがそういう全都の態勢で臨んでくるのであれば、我々の側も大学を超えた連帯の運動を作っていかなければということで11.22が準備されて、11.22はそういう意味では全学封鎖、民青もそれなりに動員していて、全面衝突不可避というような状況だった。ただ、民青はギリギリのところで引くということになっていたという話を、後で何十年も経ってから民青の指導部の人に聞いたりもしましたけれども、ただその時に全共闘の中でも意見の乱れがあって、最終的に全体で全学封鎖にはならずに、いわばカンパニアだけに終わってしまうという、僕らは実行派ですから残念な日なんですけれども、何故今その話をし出したかというと、駒場新聞の11月25日号で、「22日全国学生1万数千決起す」と書いて「全学バリケード封鎖に向けて運動の再構築を」という闘争報告のところに小見出しが付き、その横に「全学バリケード闘争への決起を全ての学友に訴える」という東大C新聞会の声明がわざわざ半分載るというような、25日の新聞なんですけれども、その記事は22日の夜に書き直しています。
実は東大闘争の過程で、学館の中にあった新聞会の部屋は、当時の学館運営委員会、民青系の人たちに撤去され、業者の人たちに駒場新聞はゴミとして全部捨てられてしまって、個人個人が持っているいくつかのものしかないというふうになりました。最近、山本さんが東大闘争のDVDを作るということで、その集まりの中で4つ5つの新聞が出てきました。
ちょっと脱線しましたけれど、何故(闘争を)始めたかというのは新聞会に入ったのがきっかけなんですが、いくつかのことで皆さんが誤解しているというか先入観を持っているところがあると思うので、言っておきたいと思いますが、その頃、東大というのはベトナム反戦とか時代の雰囲気である種騒然としていたというのは全然誤解で、シーンと沈んでいたんですね。
4.28というのは沖縄闘争の毎年のスケジュールですが、それに向けて4.21自治委員会が設定され、その数日後に代議員大会が設定されますが、僕は自治委員にも代議員にもなっていましたけれども、(定足数に足りずに)成立しない。代議員大会は成立しないのが当たり前なんですが、自治委員会は成立したりしなかったりなんですけれども、僕が最初に出た自治委員会は定足数に足りず自治委員集会という名前になって、大会決定を持たないというような会議になって、そういうごくありふれた日常の駒場の風景で、もっと言えば、入学式がちょっとショックだったのは、安田講堂の前で医学部の学生が座り込みをしていたんですね。別に入口を塞いでいるわけではなくて、入学式どうなるんだろうと思ってブラブラ最初は歩いていたけれど、高校の仲間と一緒に座って待っていようかと座り込みの中に座っていたら、こっそりと職員が新入生を誘導して、声をかけて裏口から入れていて、気付いたときには半分くらい入って入学式が始まっていて、「えーっ何なんだ」と裏口に押しかけてという、大学当局が、そういうこっそりとしたことをするとは思ってもいなかった。公然と入学式をやるから新入生は入ってくれと呼びかけるものだと思って、いつ声がかかるかんだろう、どうするんだろうと思って、座り込みに参加するというより、どうせ待っているんだったら一緒に座って大学からの指示があるまで待っていようと思っていたら、そういうこそこそするのかというのが、一番最初の入学式の時の大学当局に対する失望感というか愕然としましたね。そういうことはありつつも、ほとんどの駒場の学生は無関心というか知らないという状況が(1968年の)6月まで続いたと思います。
でも6月15日、16日に駒場にクラス決議の立看板が乱立するんですよね。各クラスでベニヤ板1枚あるいは2枚使って、党派のところに「立看板貸してくれ」と借りに来たりとか、サークルは自分の立看板を持ったりしていましたから、そういうのがわーっと並ぶんですよね。
長くなりましたが以上です。
H
久しぶりにI君のアジテーションを聞いたような感じです。私はI君より2年早く1966年に入っているので、何で学生運動を始めたのかということですが、私は高校が秋田の能代高校というところで、出身の町が五能線という有名なローカル線があるんですけれども、秋田の一番端っこの岩舘という駅なんですね。私自身は特定郵便局長の息子で生まれ育ったので、どうにか貧しいながらも食べるのに困るということはなかった。ただ、どちらかと言うと漁村だったので、親父が飲ん平だと、綿の入った敷布団がなくて、ワラシベというマットレスみたいなものをワラで作って、その上に綿の敷布団を敷いて寝るんですけれども、その綿の敷布団がなくて、ワラの上に寝ている家とか、自分の家に今日食べるお米がないからお米を借りに来るとか、銭湯があるような村じゃないので、お風呂がそれぞれの家にあるはずなんだけれども、ない家があって、お風呂をもらいに来るというか、それで湯船に入ると気にして、寒いところなんだけど体だけ洗って帰るとか、そういう貧しい状況があったものですから、たまたま東大に入ってしまって、しかも法学部に入った。もうちょっと勉強すればよかったんだけれども、この資本主義社会が階級社会であることを全然気が付かずに、もっぱら文学少年できたもんだすから、大学に入って初めて資本主義社会が階級社会だ、そういうことに気が付いて、じゃああの貧富の差はどうやって起きるんだとか、自分はこのまま文Ⅰから法学部に行って役人になったりしてエリートコースを走ったら、あの出身の村の貧しい人たちとはどういう関係になるんだと、敵対することになるんじゃないかと考えるようになりまして、やはりそれは出来ないということで、階級のない社会、皆が豊かで平等な社会を作るべきだ、という考えに至りまして学生運動を始めるんですけれども、資本主義を倒して社会主義にしたところで、今のソ連や中国はどうなんだという、そういう疑問もまた出てくるんですね。そうしている時に毛沢東が文化大革命、魂を変える革命という社会主義になっても革命は必要だ、連続革命だと言うんですね。それでそれに飛びつきまして、新左翼の中の中国派というか、俗に言うML派になりまして、少数派だったんですけれど、革命運動にまい進するということになって、さっき活動家と一般学生という話がありましたが、我々活動家にとっては東大闘争は党派を増やす、革命運動を大きくしていくためのいいチャンスだというので、それまで三鷹の寮は遠いのであまり学校に行かなかったんですね。それで東大闘争が始まってからは毎日精勤しまして、三鷹寮で作ったビラを駒場の駅の下で撒いて、それで立看板作ってアジテーションンしてクラス回りして、夕方また三鷹寮に帰って部屋回りをして、舛添要一君なんかも三鷹寮に居たもんですから「舛添君、明日デモなんだけど一緒に行こうよ」なんて言うと、彼は「僕は民社党支持だから」と。民社党というのは社会党の右派が分かれたところなんですね。それでよく勉強していました。まあそんな感じで、とにかく大学闘争が始まってからは毎日駒場に来て、おまけに三鷹寮の活動もあったものですから、両方昼夜兼行で活動して、ただ活動していてすごく面白かったというか、クラス討論をするんですね。さきほど最初に入った文Ⅰのクラスが25人で、そのうち23人がストレートに本郷に進学して、そのうち23人のうち3人が安田講堂に入ったと言いましたが、ただクラス討論するたびに意識が変わっていくんですね。それで、最初は全共闘派が3分の1で、民青が3分の1で中間が3分の1で勢力が拮抗しているんですが、中間の3分の1が全共闘に付いてストライキに入る。だんだん秋になって、進級がどうなる?卒業がどうなる?ということになると、この3分の1が民青の方にくっついてストライキを解除する。さきほどの11月の時に、突然一般学生が民青の方にくっつくというのは、そういうことだったと思うんです。いろいろ変わって、また元に戻ってというダイナミズムが面白かったというと語弊があるかもしれませんが、充実した毎日を過ごしました。
その結果として9年も大学におりまして、ただ長く大学に居て、三鷹寮だったり学生運動だったり、いろんな局面でいろんな人間とたくさん知り合ったものですから、今は役所に行ったり会社に入ったりした人間がみんな偉くなって、偉くなった人間にぶら下がって、営業コンサルタントをしています。そういう役所の仕事をしたり、JRの仕事をしたり、NTTの仕事をしたり、ほとんど忖度の世界なんですが、そういうところで生きています。
Y
運動に入った経緯ということですが、私は新潟県の三条市出身で、高校生の時に親父が共産党だった友達と仲が良くて、当時高校2年生くらいから赤旗の日曜版は読んでいました。そういう意味で、東京に行ったら何かやるんだなという意識はありました。もう一つは、60年安保の時、中学生だったと思いますが、先生が週末になると東京に行く。東京に行ってケガしてくる、そういうのがあって、東京に行くとそういうことやるんだなと思って、明治大学に入りました。
1966年というのは、ちょうど明治大学で学費を値上げすることを決めた。(文科系は)当時年間5万円を7万円にするというので、「2万円も上げるのか。それはちょっとひどいのではないか」ということで、大学に入ってすぐクラスで2人学生委員を選ぶので、すぐ私は学生委員になりました。値上げについて学校側と大衆団交をやって、値上げの根拠は何だというような話をしまして、そういうのが学生運動に入る契機です。
たまたま明治の学生運動の指導部的なグループが社会主義学生同盟で、これは60年安保の残党グループみたいな形で、明治では独立社学同と言いましたが、そういうグループがいて、これから全学連を作るというムードの中で学費闘争があったので、この闘争を契機に活動家になった。あとベースにあるのは、ベトナム反戦というのが大きな要因になっています。
M
さきほどかなりお話しましたので、補足だけします。
「わだつみ会」の話をしましたけれど、これは戦没者記念会という会で、『聞け、わだつみの声』という本をもとにした会です。この本は基本的には戦没学生、特攻隊を含めて亡くなった学徒兵たちの手記、日記や手紙を集めたものなんです。私はその本を高校の時に読んでいました。もともとは割合保守的な人間だったんですが、段々ベトナム戦争のこともあり、65年から66年にかけて浪人していた際の予備校の世界史の先生の影響もあったんですが、「ベトナム戦争はけしからん」と思うようになった。
「わだつみ会」は勉強会だけやっているような非常に大人しい会で、あまり行動しなかったんですけれども、ベトナム戦争の問題と医学部への支援スト、全学ストを巡って、「わだつみ会」の中でいろんな議論がありました。このサークルには教員の顧問が9人いたんですね。それが割れまして、多数派の教員はストに反対だった。非常に権威主義的で、「学生のくせに生意気だ」みたいな態度がすごくあって、結局「岩波文化人」という言い方があったんですが、今で言う革新系・リベラル系の人たちなんだけれども、その頃の「進歩的文化人」あるいは革新系・リベラル系知識人は非常に権威主義で、学生の言うことは未熟なので聞く必要はないというような、そういう雰囲気があった。そういう人たちが顧問に何人かいたわけです。一番中心の人物が最もひどかった。そして上級生にもそういう人たちがいた、ということがあって、それに対する反発、反権威主義みたいなものが「わだつみ会」のメンバーの中にあったと思います。
私は小さい頃、茨城県の石岡というところで育ったんですね。その地方は非常に貧しかったんです。チベットの方には申し訳ないんですが、茨城県はその当時「関東のチベット」と言われていまして、最後まで蒸気機関車が走っていたという、鉄道の電化が非常に遅れた場所で、ものすごく必死になって、知事や県出身の政治家が鹿島開発をやり、筑波山麓の学園都市開発をやり、東海村の原発の実験炉の導入などをやっていた非常に貧しいところだった。だから貧しさというのは、その時代の一つの共通の記憶として、特に地方から来た人たちはたくさん持っていたのではないかと思います。それが全共闘運動の背景にあったのではないか。
それからベトナム戦争というのが非常に大きくて、朝日新聞を中心にかなりいろいろな報道がされたり、映像がずいぶん流れてきまして、全く正義のない戦争という感じで、「これに立ち上がらないでどうする」という機運もありました。
それからフランスで五月革命というのがありまして、この影響がすごくありました。それともう一つ、さっきHさんが文化大革命の話をされましたが、この影響もあったと思います。ただ文化大革命は、どちらかと言うと、今から思えば「つるし上げ」を正当化する運動であって、非常にマイナスの面のあった運動だったと私は思っていますし、その影響が全共闘にかなりあったと思います。正義のために暴力を肯定するような雰囲気が若干文化大革命から来た面もあるという意味では、権威を否定するという点で積極的な面もありましたけれど、思想を絶対化したり、暴力を正当化するという意味では後で禍根を残すことにもなったのではないかと思います。
●会場からの質問に答える
主催者
ここで会場から質問や発言をお願いします。
質問者1
当時の時代背景を聞いてみたくて、さっき60年安保の話が出たときに中学生だったということですが、全共闘運動は1968年から72年くらいの話です。ということは10年後、70年安保との関係はあったんですよね。
71年に「よど号」ハイジャック事件があって、「我々はあしたのジョーである」という有名な言葉があります。新聞の話は出ましたが、雑誌とかマンガ、少年マガジンとか朝日ジャーナルとか読んでいたんですか?それらの影響を受けているんですか?
Y
朝日ジャーナルの件で言えば、当時ベトナム反戦の件でクラス討論をやる時の資料は、ほとんど朝日ジャーナルの記事を使っていた。マンガはあんまり読んでいないね。
質問者1
あと平凡パンチとか。
Y
それはちょっとエロい感じで読んでいましたけど。(笑)
I
マンガは普通に読んでいただけで、それで影響を受けるとかはない。
Y
「あしたのジョー」とかみんなで読んでいました。
M
白戸三平の「カムイ伝」は人気があったと思う。弁証法的に味方がいつの間にかだんだん敵になったり・・・。
前田和男
「平凡パンチ」とか、もっとエロいのは「アサヒ芸能」とか、スケベな話を書いているんだけれど、実はその中に小田実とかの対談もあって、うっかりそこを読んでしまう学生もいたんですよ。「あしたのジョー」だって梶山一騎、どちらかと言うと右寄りの人だけど、あれは寺山修司が「面白い」と言って報知新聞に書いて、みんな「そうか読んでみようか」という話になったんじゃないかな。
さっき質問者が言った「我々はあしたのジョーである」は田宮が言ったと思うんだけれど、それくらい影響力はあったと思いますよ。
I
東大闘争と「朝日ジャーナル」ということで言えば、駒場寮に取材で入り浸っていましたよ。僕らはあまりマスコミと話をするのが嫌だったから、「うるせえ、帰れ」と言って、丁寧に扱っていなかったですけれども、本当に話を聴きたがりに来ていて、その意味では僕らのところだけではなくて、取材はして回っていた。
質問者1
あと、こういう運動の話を聴くと10・8とか言いますが、今でも大きな震災があると3・11とか言われますけれども、言われないものもある。原爆投下の日とか阪神大震災の日とか・・・。
I
だけどそれは戦前から5・15とか2・26とか言うじゃない。だから左翼文化じゃないと思うよ。
質問者1
だけどそれが多すぎて何をやってんだろうと・・・。(笑)
その人にとっては重要な日付なんだろうけど。
Y
この辺の人たちは10・21は何だとか4・28は何だとか共通性があるけれど、たしかに50年も経ったらそれを全部やっていたら、その間9・11とか3・11があったりいろいろするわけだから、それはゴチャゴチャになると思うけど、当時はせいぜい5年かそこらの世界の中での話だから共通性がある。
H
60年安保と言ったら6・15とかね。
質問者1
60年安保の影響もあるんですか?唐牛さんという人が活躍したと聞くんですが、結構恰好よかったと聞くんです。(笑)
I
全共闘運動には直接の影響力はない。
M
たぶん60年安保というのは政治闘争ですよね。安保に焦点を当てた政治闘争たった。それに対して、全共闘の場合はどちらかと言うと社会運動的なものも持っていたわけです。その分、引きずったんです。60年安保と言うのは要するに岸内閣打倒で終わるわけです。政治的な決着がついたので、その後はほとんど無風状態になる。61年から数年間は、学生運動は活発ではなかった。ところが全共闘の場合は、ある面で生き方が問われたところもあったので、長い間引きずった人がたくさんいる。それから犠牲もものすごく多かった。僕は逮捕歴がなかったけど、逮捕歴があり裁判を抱えた人、失明した人、自殺した人もいました。、僕の親友も1人自殺していますから、それをある面で背負っているみたいなところがあって、ベトナム戦争のような政治的な面ももちろんあったんだけれども、社会的に生き方を問われるということを、ずっと引きずっていったというところはありますね。
I
時代背景ということで、ベトナム反戦とかよく言われるけど、もう一つ教育の場面で言えば、理工ブームというのが大きい。日本資本主義の高度成長を受けて、理工教育を強化しなくてはいけないということで、僕も理科系に来ましたけれど、東京の人たちは東大というのは官僚養成の法学部があることを知っているが、田舎の人たちはそういうことは知らない。理工ブームで、地方の高校で優秀な人は理工系に集まり、理工系に進む。
H
定員が増える。
I
僕らの時も2倍3倍と増える。圧倒的な理工ブームで、東大闘争もさきほどMさんが言われたけれども、医学部だし、医学部に次ぐ運動拠点は工学部なんです。大学院も建築とか都市工とか原子力も拠点になりましたから。学生とは何者なのか、卒業して何者になっていくのかという問いを含んだ学生運動論というか、それが60年安保の時代と違う全共闘時代の特徴だと思う。
質問者2
お話ありがとうございます。本郷の日本史の院生です。『続・全共闘白書』について形式的なことを伺いたいんですけれども、どうやって回答を促して用紙を送っていらしたのか?
回答者に若い方、50何年生まれの方もいらっしゃいますが、その方はあとの時期まで高校での運動をされていた方なんでしょうか?どういった運動をされていた方という基準はあったのでしょうか?
それから北朝鮮まで送ったということですが、回答用紙の送り方も教えていただければありがたいです。
あと、前回25年前の『全共闘白書』の調査と比べて、回答者の方が当時特に熱心だった方に送ったということはあるんでしょうか?
前回よりも記憶が美化されているところがあるのでしょうか?
前田和男
『続・全共闘白書』はトータルで3,000くらい送っていると思うんです。
一つは、25年前に『全共闘白書』というのをやったんです。私も呼びかけ人で、東大だと今井さんも呼びかけ人で、当時としては有名人な人たちを呼びかけ人にしてやりました。その時はまだ全共闘関係の集まりがあったり、名簿が残っていたので、僕の記憶では5,000通くらい送ったと思う。5,000通くらい送って520~530人の回答があった。
その名簿が25年経って、送っても回答してきた人間が500なんぼだけれども、アンケートが届いている人はもちろんいるわけで、私たちの手元に3,000あって、その3,000が今回の基礎でした。ところが回答した526人のうちの、宛先不明などがあるので、届いたのが200人くらい。そのうち回答してきたのが100人くらいです。それが一つ。
もう一つは友達の輪で、答えてきた人に友達を紹介してもらうことをやりました。
それと25年前と違うのは、この25年間でSNSが圧倒的に発達したので、それで拡散してもらった。なおかつ回答もWebを立ち上げて、そこから回答できるようにしたので、数的には前回と同じくらいの回答があった。これが一つ。
それから回答者の要件は年齢ではありません。あの時、中学生であれ高校性であれ大学生であれ大学院生であれ、場合によっては教官であっても、全共闘および全共闘に関連するような運動に関わった人というのが対象です。ですから最首悟さんも回答しています。ですから上は最首さんのような人から、若い人で言えば当時麹町中学で内申書反対の運動をやった人まで、年齢の幅は相当あります。ただ、あくまでも全体のボリュームゾーンは68年69年の東大闘争、ベトナム反戦闘争などに主要に関わった年代であることは間違いないということです。
北朝鮮は25年前に送っている。「よど号」メンバーにも送ったが、小西が代表して書くということで回答をもらい、今回も送りました。そうしたら3ケ月か4ケ月かかって送り返してきたということです。
記憶の美化というところは分かりません。ただ美化というよりも、やっぱり濃密に、むしろ忘れるのではなくて、あの時関わったことは30分単位で覚えているわけですよね。記憶がもっと濃密になっていくような、鮮明に思い出す人たちがいることは間違いない。時間というのは伸びたり縮んだり濃縮されたり、たぶん記憶というのは単に薄れていくものではなくて、濃縮される可能性があるということは今回感じました。なおかつ、みんなある意味で死期を前にしているので、前回に比べれば今回明らかなことは、自由記述の部分は前より3倍4倍も書いてきている。そこは美化するというよりも、最後にこれだけは言っておきたい、言う前に死ねないという感じはしますね。
主催者
時間の関係で、まとめて質問を受けて回答していただくようにしたいと思います。
質問者3
私も今日のパネラーと同じくらいの歳で、特にベトナム戦争が自分の人生を形成していったと思います。1967年10月8日の羽田闘争で京大の1回生の山﨑博昭君がそこで亡くなったわけですけれども、その当時僕は大学生で「赤旗」を購読していた。翌日「赤旗」はどう報道していたか、それを見て唖然としてあいた口がふさがらなかった。その同じ日に狭山湖畔で赤旗祭をやっていた。羽田闘争のことは1面の一番下に小さく書いてあって、それまでベトナム戦争を知りたいので「赤旗」を購読していたけれども、それ以来「赤旗」の購読は止めました。
パネラーの中で、これまでの70年を超える人生の中で、もし今の若い世代の人に1冊これを読んで勉強してくれという本があるか、それとも他に何かあれば教えてください。
質問者4
党派の中で、他党派や警察のスパイ問題はありませんでしたか?
質問者5
小熊英二の本『1968』に対する印象は?
この本が自分の印象と違うと思ったら、当事者の体験を語っていかなければと思ったのか?
質問者6
駒場なり本郷で籠っていた時に、とある小説で水の確保に苦労したということが書かれていた。2階3階に立て籠っていて、1階を民青に取られて、水をどう確保するかみたいなことを書いていた小説があった。当時、立て籠っていた中でしか体験できなかったことというのはあるのか?思い出とかあれば伺いたい。
質問者7
こういう本ってだいたいどのくらい売れるものなんですか?(笑)
前田和男
25年前はダイジェスト版というのを出したんです。新潮社が出したので4万5千部も売れました。その印税で完全収録版というのを作って回答者に全部配って、お金はそれで相殺されたということでした。売り方次第ということです。今回は情況出版なので、そんなに売れるとは思いません。
H
耳が遠くてよく聞こえなかったんですが、1冊の本ということであれば、やはり『共産党宣言』ではないかと思います。僕らの頃はマルクスを皆読んだんだけれども、今の学生諸君はあまり読まないのかな?読むのかな?もし読むとすれば社青同解放派の諸君は『ドイツ・イデオロギー』だとか言うんだろうと思うけど、何故かと言うと、社会主義、共産主義の原理というのは、『共産党宣言』、48ページくらいのそんなに厚い本じゃないんですけれども、その中にマルクスが考えていたのは、革命というのは世界革命で、ただその時の世界は資本主義が発展したイギリスとフランスだけなんですね、ドイツもたぶん入っていない。ところがマルクスが世界だと思っていないロシアで革命が起こったんですね。しかも第一次世界大戦、レーニンがプロレタリア独裁と計画経済で乗り切ろうとするんだけれども亡くなって、スターリンが天下を取ると、今度は独裁と計画経済が社会主義みたいに定式化されて、世界が二分されていく中で、ロシアよりさらに遅れた中国で革命が起こるという形で、結局「社会主義」は失敗してしまうんですけれども、マルクスが考えていた社会主義の条件は、資本主義が発展してきてるし、コンピューターで仕事が簡易になっていく、ある意味客観的条件は少しづつ出てきているんじゃないか。だから社会主義はまだ生きていると僕は思うんですけれども、マルクスが考えていたのは資本主義的な生産の発展と、民主主義の発展の先に社会主義を見ているんだけれども、どうやってやるかということは、彼は語っていなくて、それは今生きている人間の課題だと思う。そのような感じで『共産党宣言』を読んで欲しいと思います。
I
(質問者6の小説は)藤原伊織の『テロリストのパラソル』。彼も第八本館にいた人で、僕は直接の知り合いではないけれど、僕も第八本館に閉じ込められたんですけれども、それこそ民青に1階を占拠されて電気も水も止められてというのは実際の話です。
H
もうトイレはてんこ盛で、手で掃除しましたよ。
I
それである日の夜中に、党派の指導部、自治会委員長のフロントの今村と革マルの〇〇が2人でそっと下りていって、水道の元栓を開けて、皆でトイレ掃除をやったのは実話です。
駒場の場合は、例外的に安田講堂に1名紛れ込んでいたという話もあるけれども、全体としては1月15日に安田講堂前で集会があるというので、駒場も代表を送り出し、駒場に第八本館を守る部隊を残してという時に、民青が下を押さえてしまって缶詰状態という風に1月15日からなって、だから僕らは第八本館の中で安田講堂攻防戦をラジオで聞いて、「一晩持った」と拍手喝采してという状況だったので、安田講堂には駒場はほとんどいない。
ただ1月10日に秩父宮ラクビー場で七学部集会というのがあって、駒場のかなりの学生が逮捕されたので、戦力が細っていた。
小熊英二の話が出ましたが、僕は読んでいない。読む気がしない。「ちゃんと読んでちゃんと反論を書いてくれ」と言われるけど、「そんな分厚い本を読む暇はない」と断っています。
Y
本なんですが、いろいろあるんですが、安田講堂に関しては島泰三さんの『安田講堂1968―1969』、これは私も中に入っていたけれども、全体が見えないわけです。これはよく調べています。安田講堂はどうだったかという話をするときは、客観性を持たせるためにこれを読んで、安田講堂の中で自分の闘いの位置を確認している。
あと党派にスパイがいたのかということですが、実際に居たと思いますよ。さっき話した明大学費闘争の時にずっと居て、何故か情報が洩れるし、いざとなったらそいつは居なかった。あと、デモの指揮をやるとなると必ず居なくなる。ある意味見え見えにある程度送り込んでいたと思う。他党派というより公安が全部やったと思う。もちろん公安の方も私にアプローチしてきましたよ。それはそういう時代ですから。
M
私の方からあまり申し上げることはないけれども、1冊の本ということであれば、残念ながら無い。無いというのはどういうことかと言うと、さきほど『共産党宣言』の話が出ましたけれど、確かに今、新たな階級社会になりつつあるという感じがする。これは非正規雇用の問題があって、新しい産業構造というのは、僕は沖縄を見ているので強く感じるんです。沖縄では、ものすごく非正規雇用が多い。43%が非正規雇用。カップルが2人とも非正規雇用で子供も育てられないケースも多い。彼らには夢がないんですね。非正規の状態から逃れるのは難しいからです。それでDVが多い。離婚してシングルマザーになるというような問題というのは、今沖縄だけでなく、日本中、世界中に広がっている、あらゆる国で広がっているんですね。この問題について、ある政策通と言われる政治家に質問したことがあるんですけれども、答が無いんです。新たな産業構造の変化に対する処方箋というか政策というかビジョンを書いている本はたぶんないだろう。一部の問題について書いた本はたくさんあると思います。ただ、この問題は大変大きな課題なので、我々も頑張らなくてはいけないというのが一つ。
それから、安田講堂に籠っていないので、その話は私にはできないですが、(1968年)11月22日に1万数千人が安田講堂前に集まった時、やはり力を感じるわけです。すごい数で埋め尽くすわけです。サーチライトが7つくらい安田講堂を照らして、革命前夜みたいな雰囲気があったんだけれども、それがあるところから内部分裂もあり、対立があり、しぼんで行って、1月15日に安田講堂に籠る前に全国集会をやった時には3千人くらいしか集まらなかった。1万数千人が3千人になった時に、僕はこれはダメだな、負けたと思った。潮が引き始めた時は誰も止められない。その経験がありまして、僕は他のところでも同じような経験があったんですけれども、盛り上がる時はすごくガーッと行くんですけれども、駄目になる時というのは本当に誰も止められないというような経験をしました。
それからもう一つ、小熊英二さんの話というのは結構いろんなところで聞いていて、私はIさんと同じで読んでいませんが、研究者や学者の人たちの一つの問題は、文書に頼るんですよね。活字化されたものに頼る。資料に頼る。僕は沖縄の取材をしていますが、文字化されているものは10分の1くらいしかない。いろんな人の話というのは潜っているわけで、全共闘も同じだと思います。いろんな人がいて、いろんな形で関わって散っていった。最後まで頑張って残っていた人もいるけれど、時間が経つにしたがって散っていって、社会のいろんなところで生きていった、という物語は、膨大にあるわけで、犠牲もものすごく払っているし、そのいろいろな思いとかは簡単に文字だけで整理できるものではないと感じます。
僕はそういう思いもあって今度の『続・全共闘白書』で長々と書きましたが、そういう意味では、小熊英二さんに対しては、私は読んでいないのでちゃんとした批判は出来ませんが、文字化されたものに頼るのは危ないと思います。
それから島泰三さんの本はすごくいいと思いました。非常にありありといろんな事実が書かれていて、生々しいというところで、よく書かれている本だと思いました。
それからスパイの話ですが、これは必ずあるわけです。必ずスパイを送り込みます。そういうことはいくらでもある。そのような問題は、党派なり運動をやる人たちが見定めながらやっていかないとしょうがないだろうと思います。
主催者
ありがとうございます。
これで閉会させていただきます。
最後になりますが、登壇者の方に拍手で締め括りたいと思います。(拍手)
(終)
【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。
●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在12校の投稿と資料を掲載しています。
http://zenkyoutou.com/gakuen.html
【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は12月16(金)に更新予定です。