今回のブログは、6月3日に開催した明大土曜会での重信房子さんの出所後1年の報告である。

【自由の身になって1年を振り返って】重信房子さん
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(2023年6月3日 明大土曜会にて)

みなさん、こんにちは。重信です。
今日の土曜会で、丁度1年目の報告になります。今日は台風の影響で、皆さん来ていただけないんじゃないかと思って、手紙風にレジュメを書いたんですね。でも皆さん来て下さったので、読んだりしながら皆さんの質問を受けて、いろいろと話をしていきたいと思います。
去年の6月4日に私はこの場に迎えられて、挨拶することが出来ました。去年の5月28日に出所しまして、その後、パレスチナ問題で言えば「リッダ闘争」50周年というのがあったんです。その集会には出席して発言する予定にしていたんですが、5月29日に倒れてしまって、這ってでもいけない状態になって、点滴を打ってもらいながらメッセージだけ送りました。でも、去年の6月4日の土曜会には、明治の友人たちが救援活動をずっと支えて下さったので、それこそ這ってでも行かなくちゃと思って来たんですけれども、みんなの励ましと、熱い友情で舞い上がるというか、みんなに「元気ですね」と言われる状態で皆さんとお話することが出来ました。
それから丁度1年になるんですけれども、今、ここでご報告した方がいい点をレジュメに箇条書きにしてあります。

●健康について
まずが健康についてですが、やはり(刑務所の)外と内のギャップと言いますか、そういうところですぐ体調を崩してしまいました。癌があったのでそれをすぐ手術する予定にしていたんでけれども、医者の方から身体が手術に耐えうる状態にないとうことで、結局、体調回復までということで療養生活に入りました。外に出てきたらすごく暑いんですよね。暑い中でどういう風に過ごしたらいいのか、基本は家に居て、夜コンビニに行くような生活をしていました。そして、新聞社とか、いろんなところからの取材の要請がたくさんありましたけれど、すべて断っていました。顔を晒すと動きにくい、日常生活で支障があると思ったので。でも体調としてはずいぶん元気で過ごしています。去年の9月末に手術をして、10月に医者から「もう癌を取り切ったので大丈夫でしょう」と言っていただいたので、10月には関西でスピーチを約束していたので、そこに行くことが出来るくらいには回復して、実際には今年に入ってからほぼ健康に過ごしていて、飲んだりもしています。飲み過ぎて体調を崩したりもしています。ただ体力がなく、エネルギーが欠けているので、昔だったら1日に3つも4つもアポイントを取って話したりできたんですけれども、今は1日1つ、無理して2つやると翌日ガックリくるという話をしましたら、友人からは「歳のせいだ」と言われますけれども、それなりに元気に過ごしています。

●社会参加について
社会参加という面では、まだまだですけれども、基本的には今年に入ってから少しずつやっています。去年、出てきてからは、パレスチナの友人たちからいろんな形での連帯の挨拶を受けたので、あちらからも要請もありまして、ガッサン・カナファーニ(パレスチナの小説家、ジャ-ナリスト。PFLPの活動家で、1972年にリッダ闘争の報復でイスラエルに暗殺された)の追悼が7月にあって、それへのメッセージだとか、いろんな形でパレスチナの現地に向かっての連帯の挨拶をしています。それとパレスチナやアメリカに居る左翼的な人たちによる、私の解放1周年の記念の「国際ZOOM集会」が先日の27日にあって、それに対する感謝のメッセージを送ったりしました。
日本の中では、昨年10月に挨拶を兼ねて関西で「反戦・反差別」の国際反戦デー円山集会に行って、お話をしました。その集会で(出所後)初めて公に発言したんです。50年ぶり以上なんですけれども、人の前で話をして、やっぱり集会とか、同じような考えを持った人たちのところで挨拶が出来るというのはすごく嬉しかった。「テロリスト」と言われてきた私が普通に市民社会に、市民運動に市民の一人として参加できるようにという配慮もあって、発言の機会を与えていただいて、その時にも皆さんと交流会で話すことが出来まして、とても勇気づけられました。みんなの言によれば、「ブントとか闘っていた人の数が減った分だけ目立ってテロリストと言われているけれども、みんな同じなんだ」ということで、「ああそうだな」と思い直して、これからも市民運動の関わりも、もっと参加していきたいなとは思っています。
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<関西・円山公園の集会にて (ネットより転載)>
この間は、リハビリを兼ねながら、「リッダ闘争5・30集会」で講演を行いました。51年目になります。去年参加できなかったので、「パレスチナの現状と私たちの課題―オスロ合意から30年」ということでスピーカーを引き受けました。主にパレスチナの今の状態、これは歴史上かつてないほどの弾圧、その一番大きな特徴というのは、占領地とイスラエルというその区分さえ無くしてしまおうと、全部イスラエルなんだという形で支配しようとしている。昔から野望はあったわけですね。ナイルからヨルダン川まで全て神が我々に与えた土地だという、そういう右翼的な政権になってしまったために、今非常に生存の競争で殺されても起ち上がるしかない、そういう形で闘いが続いています。そこから振り返ると「オスロ合意」というのが30年前にアラファトとイスラエルが相互承認という形で始まった。その時に、ほとんどの知識人たち、丁度国際和平会議をやって、その団長をやっていた人とか、有名なパレスチナの学者たちがすべて反対声明を出して、「こんなことは危険だ。単独合意というのはイスラエル側は何も認めていないじゃないか。認めているのはPLOを相手にしますというだけで、逆にこれを認めてしまえば、イスラエルの占領を合法化してしまう。それを前提にした形で物事が進んでいく。だからこれは止めるべきだ」ということで、すごく激しい反対運動もあった。当時87年からあった占領下パレスチナ人たちの反弾圧の第1次インティファイダー(一斉蜂起)というのがあって、それを止めさせるためにイスラエルはPLOのアラファトを選んだわけですね。だけども、それを受けてしまった結果が、現在に至る厳しい敗北状況になっているというのが一面あります。もちろんアメリカの二重基準とイスラエルによる占領、そういうことが大きな現在を描いた要因なんですけれども、同時にパレスチナ側の指導者、指導層の戦略的な思考の欠如というところとを、ずっと争いながら来たんですけれど、大きくそれが作用して、今もパレスチナは厳しい状態にあります。それらは、(今日参加している)Oさんがパレスチナのことも関わっていらっしゃると伺ったので、今後できれば話し合ったりしながら、もっと何かできないかという形で、私も話し合ったり、特に全世界的に行われている「ボイコット、投資撤収、制裁」運動 (Boycott, Divestment, and Sanctions:頭文字をとってBDSまたはBDS運動など)は、世界中で、被占領地で作られた物は絶対に買わない、投資しない、そういう運動があるんですね。日本でもBDS運動が作られて、Oさんがやってらっしゃるので、私もできるだけ共同できるようにしていきたいと思っています。
また、土曜会で支えてきた「伊達判決を生かす会」の土屋源太郎さんが証言する公判も5月22日に初めて傍聴しました。ですから、社会参加と言っても、まだ少ししかできていないんですけれども、みんなの作って来た現場とか闘いの場を少しずつ学びながら、学習しつつ参加しているところです。
社会参加のもう一つは短歌の作歌です。出獄時に『暁の星』という短歌集を出したんですけれども、それが、参加している「月光の会」の黒田和美賞を受賞して、本人もやっぱり褒められると嬉しいじゃないですか。それで意欲的に短歌をやっています。新しく本『はたちの時代』も作りましたけれど、この中にも短歌を入れました。
「マルクスやトロツキー読み吉本読み わたしはわたしの実存でいく」と。
これは、当時のこの本の時代の私自身の気持ちでもあったわけですけれども、そういういろんな歌を作りながら、当時を総括的に捉えて詠んだり、社会批判としても、今後歌を更にやっていきたいと思っています。
それから執筆、出版活動ですが、月刊誌『創』というところに「リハビリ日誌」として毎月書いています。この「リハビリ日誌」も、もうちょっと日常的な事を書いて欲しいとも言われているので、皆さんの意見を聴きながら、もうちょっと文章も、みんなと繋がる機会になるようなものにしていきたいと思っています。

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<月刊誌『創』掲載の「リハビリ日誌」(I氏提供)>
それから今回太田出版の方も来てくださっていますように、『はたちの時代』という自著を6月16日が刊行日なんですが、「今日の土曜会に何とか間に合わせて欲しい」と頼んで、見本を含めて作っていただきましたので、是非買ってください。自分が売る思いよりも、とにかく出版社の方の熱意が強くてそれほだされてみんなに買ってもらいたいと思っています。この本は、土曜会で活動していらっしゃったYさんがブログに載せて下さってそれから横山さん(情況出版)がそれを読んでまとめようとしてくださった。そういう意味では、内容的にも、土曜会のR介さんも含めて、みんな何らかの形でサポートしたり、入力したり、いろんな形で助けていただいたお陰で本ができたわけです。
それから、これまで(刑務所の)中で書いてきた「パレスチナ解放闘争史」、これは10万字くらいあるんですけれども、それをもう一度再編して出版しようという企画もあります。そういう形で少しずつ活動している段階です。
その他、まだ途上のこと、やり切れていないこととしては、大事な友人、親類の再会や謝罪、お墓参りとか、今年から少しずつ初めています。大切な友人遠山美枝子さんのお墓参りも、N和尚の先導の下で3月に行いました。会うべき人がまだたくさんいるんですけれども、会えていないし、墓参すべき人のところにもまだ行けていないので、本当に1日一つという形で、少しずつ活動を続けていきたいと思っています。
また、公判での膨大な資料、中に居たのは22年間ですから、公判資料を中心にすごい量のダンボール箱があって、それを弁護士から、土曜会の人たちに渡り保管されていたものを、なかなか見つけ出すのも大変でしたが、R介さんを中心にしていろいろ協力していただいて、それを入手できたので、今それを大事なものだけはスキャンして、公判資料として残すべきものは残そうという作業をやっているところです。
大事な課題として、やっていきたいことが一つあります。それは、獄中時代から支えて下さった多くの人たちと交流を続けたいという思いで、1周年までに「オリーブジャーナル」など、中で書いていた「オリーブの樹」に代わる交流誌を作ろうと思っていたんです。購読料を定めて、中東情勢などの分析で、読み応えのある交流誌として発展させるというイメージで考えていたんですね。その構想も再検討せざるを得ないと思っています。その理由は、購読料をいただくほどの準備が内容的にも物理的にも出来ていないし、今度はブログでやろうと思っているんですけれども、もちろんお金を取るものではないんですが、同世代の人たちに読んでもらえる可能性が低いですよね。あんまり皆さん、ネットを使わない人も多いので。それは考えざるを得ないなと思っていて、もう一つは、海外にある私に関するホームページ(fusakoサポーターのHP)やFBがあるので、そこに投稿するとか、何らかの形でコミュニケーションを取りながら「オリーブジャーナル」の構想で考えていたような交流の機会を考えていきたいです。今のところは『創』とかに書いているので、遠く離れた人たちにも状況を把握していただければいいかな、みたいに思っていています。
一番大きなところでは、今後も財政的な生活基盤作りを必要としているのですが、今のところそれは今年も十分ではありませんが出版と執筆です。その上でできればブログもやるか、これは再検討して、Yさんからも学習しつつやり方を検討して、考えていきたいと思っています。まだ1年でふらふらしながら、やっと体力も回復して、少しずつ皆さんの中で活動してきたことを学習しながら関わって行こうとしている段階です。

●日本社会の現状に触れて
それから日本社会の現状についてという意味では、実感とし私のいた60年代の日本社会と比べて、日本は豊かになったのか貧しくなったのか分からないな、というのが実感なんです。もちろん物理的に物質的に、良くなっている側面もあるし、どこに行っても画一的に綺麗な道や公園や、そういうのがあるんすけれども、本当に人間が貧しくなったと言うと少し語弊があるかもしれませんが、そういう感じがします。
今はバブルの時を更新して株価が上がっていると言っているんですけれども、それを実感する人というのは限られた海外投資家か大企業か、というような時代で、逆に貧困の家庭、母子家庭から始まって差別の中で、「日本にこういうことがあるのか」と外国人は言うんですね。日本は豊かな国と思っているから、そこでそんなに貧しい人が居ることが感じられないみたいで、そういう意味では昔からの家父長的な体質というのも、文化として変わっていない。ただ、女性の参加、ボランティアの参加の多さは大きな希望だなと思っています。
私も5月3日の憲法記念日に有明の公園の集会に行ってみました。その中で嬉しかったのは、かつての三派全学連の集会と違って、あの当時は女性が発言する機会がほとんどなかったんですけれども、メインスピーカーから政党の発言者まで全部女性だったんですね。(共産党は志位委員長でしたが)立憲民主党も社民党も「れいわ」も、「あれ?あれ?」というくらい女性の発言だったんですね。「あっ、こういう世の中になっているのか」というのを、あまり集会とか行ったことがなかったので、初めて実感して、女性だからいいという意味ではないんですけれども、昔の50年前からタイムスリップしてきたような、30年海外に居て、22年獄中に居て、その上で今の社会に居るわけですから、その間の抜けたギャップみたいなものがいっぱいあるわけですね。そこから見た時に、何が特徴的に思ったかと言うと、女性、ボランティアという人たちのところに大きな希望があるなと思いました。若い人も多かったし、すごくそれは嬉しかったんですね。
あとは戸惑うのは現実の管理社会で、何かファッショ的な警察国家じゃないかと思うことしきりです。検察庁が99%の起訴有罪率を誇っている日本というものを、外国の人は笑うんです。「無謬の日本の在り方は北朝鮮と同じじゃないのか」と言っていましたけれど、そういう正義というものが独占されている。大きくはメディアですよね。マスコミとかから流れている一方的な「正義」というものが、全部中心となって、私たちが1960年代に活動した変革の意味とか意思とか、そういうものが連合赤軍事件、内ゲバ、そういうネガティブな活動によって、それらも塗りつぶされた形です。逆に安倍政権が作って来たような形で過去を否定する中で、これまでの意義までも押し流されているような社会状況になっているんだなというのを感じます。いろんな人、普通の人と話をしている時に、いつも「左翼というのは元々駄目なんだ」と言われる。日本では連合赤軍とか内ゲバとかネガティブな側面に塗りつぶされて、左翼運動というのがネガティブな形でしか解釈されていないという現実に対して、やはり巻き返すような何かが必要じゃないかと思います。それは一人ひとりの声であってもいいんですけれども、そういう意味で『はたちの時代』も、あの時代に私たちが実感したこと、やったことを、一言小さい声かもしれないけれども伝えたいということで本にすることにしたわけです。そういう意味では、社会的にはそういう時代を感じますね。
ただ、私の小さな体験ですけれども、行政、お役所とかですね、そこに行くことが多いですけれども、初めて確定申告というのもやってみたんですけれども、そういういろんなことをやりながら感じるのは、何と言うか、行政が昔は「お役所仕事」と言って非常に横柄だったけれど、今はサービス機関のように、いろんな形での社会的、地域的な普通の人たちとの結び合いを、行政の側がイニシアチブを持って作っているなというのを感じています。それをもうちょっと私たちが活かして、料理教室でもいいし子育ての話でもいいし、そういう形でもっともっと地域の層に繋がるような形で何かできないかなと思いました。行政の中にも進歩的な考えの人も多いし。例えば、土曜会の先輩で習志野市の市会議員がいたんですね。この頃、その人の友人という方からメールが来るんですが、聴いてみると、彼が市会議員の時に市役所の職員だった。職員として知り合って、地域を良くしていこうということでずっと活動をしていて、地域住民への啓蒙運動などの形で、今もブログみたいなものをやっていて、それを私にも送ってくれる。それが地域の人たちの中にもこういう動きがあるのかと感じながら、行政も一人ひとりを味方にしていく重要性を感じました。
それから国際連帯の重要性ですが、中東に居ると米国の「二重基準」というのがすごくよく見えるんですね。それが世界中に広がっていて、日本に対しても、ウクライナ問題を含めて日本がその中で大きな役割を果たしていく。ただ、日本の中から見ると「二重基準」というのがあまり可視化されていない気がします。ただ、この頃はいろんな形でウクライナの人たちの支援というのが、どうして難民申請をして待っているアジアなどの人たちと同じように難民として扱われないのかという声も出てきていますし、米国によって自分たちの都合によるサポートと敵対、そういうことで世界が分断されている現実を告発しながら、できるだけ現在の運動と結びつけていくことが必要なんじゃないかと思いました。
国際連帯と言うと支援をするというのが基本なんですけれども、それは豊かな国としてサポートする一つの在り方でもあるんですけれども、逆に世界に助けられて、日本が日本の欠陥を解決する、そういう国際連帯、「受ける国際連帯」というか、そういう時代なんじゃないか。人権問題においても日本は非常に立ち遅れていますね、死刑の問題を含めて。そういう中で、世界から批判されたりしている、世界の側から見た時に、日本に対して要求されている、そういういろいろなことに対して、日本が世界の声、特に国連だとか国際機関ですでに批准されていたり決定されていたりすることに対して、日本政府が実行していないこと、例えば入管問題とか難民問題とかそれに関わる場合には、逆に世界の声を一緒に連帯を受けながら、日本での運動をもっと盛り上げていけるような国際連帯の在り方も、変えていく必要、変わっていく必要、もちろんこちらからもサポートするけれども、相互関係としてもっと作っていけるんじゃないかというのを、この間の入管問題の厳しい現実、もっと世界の声を、力をいただきながら共同できたらいいなと思っています。そういうことを実感しながら、まだ私は何も出来ていないんですけれども、土曜会の人たちは既に一人ひとりは活動の現場をもっていたり、運動していらっしゃるので、そういうことを学びながら、少しずつ共同の場を作っていければと思っています。これが日本の現実に触れた私の感想です。

●『はたちの時代』の刊行
それから『はたちの時代』の出版、これは本の「あとがき」に書いたことなんですけれども、この本を書いた動機というのは、中に居た時に、もしかして生きて出られないかもしれないと思ったことでした。その時に、ステレオタイプに言われている私ではなくて、私自身がどう自分を思っていて、どういう風に闘ってきたのかということを、仲の良かった人たち、サポートしてくれた人たちに答えていく義務があるんじゃないかと思って、中で書き出したんですね。そのうちの一部を関西の私を支える会の救援冊子『さわさわ』で連載して、それを受けた形でYさんのブログ「野次馬雑記」にずっと連載して下さっていて、当時のことを書いています。
特に私の考えとして、60年代の明大学費闘争というものが、その後の学生運動の戦略的な岐路に立った闘いだったという風に、歴史的に捉え返しているので、その点を是非ご一読いただきたいと思っています。
それはどういうことかと言うと、明大の学費闘争は皆さんご存じだと思うんですけれども、「2・2協定」という形で妥結しました。そこに至る過程で論争があったのは、「改良」と「革命」の問題なんですね。協定を締結した指導部に斎藤克彦さんという人がいるんですけれども、その人は「2・2協定」の3ケ月くらいに前に再建された三派全学連の委員長になっているんですね。ですから、そのロールモデルとしての明大学費闘争をしっかり築いていきたいというのと、ブントとしての野心もあったと思うんです。それで斎藤さんは「改良」と「革命」の問題として、明大学費闘争をどういう風にきれいに終わらせるか、「革命」というものに至るまでに「勝つ」まで「負ける」わけですよね。ですから、いかに次に「勝つ」ように「負ける」のかという論理で、「勝つ」ように「負ける」ためには、どのような終結が可能なのか模索した。「2・2協定」を締結する前に、社学同の学生を集めて、斎藤さんがみんなに呼びかけたんです。私は明治の二部(夜間部)だったんですけれども、二部には社学同はなかったんですね。斎藤さんから「二部には社学同はいないので、あなたが代表として参加してくれないか」と言われたので、「私は社学同じゃないから」と言ったら、「1日だけ秘密を守ってくれたらいい」と言うので、私は「自分の意見を言うだけです」と言って参加しました。そこには一部(昼間部)の人たちがいて、中大で秘密の会議をやったんですけれども、それが2月の1日なんですね。その時に斎藤さんが「改良」と「革命」の話をして、「もうすぐ卒業の時期になり、学生は単位を取らなくてはいけない、それから卒業してもらわなくてはいけない、そういう人たちに責任を持つためにはちゃんと大学側と妥結をしていこう」と話した。丁度その頃まで、団交をやっていたんですけれども、その時に、妥結するような内容を団交ではずっとやりとりしているんですね。その内容に近いんですけれども、あまりにも値上げを前提としたような妥結に持って行こうとするので、それに対して(会議に参加していた)社学同のほぼ全員、特に和泉校舎の社学同の人たちが、「自分たちがスト権を確立したのは学生大会だ。だから学生大会の中でこの問題を討議すべきで、社学同の会議の場で決断するのはおかしいんじゃないか」ということでワーワーとなって、斎藤さんは「じゃあ明日継続討議にしましょう」ということになったんです。それで、継続討議だと思って、明大の二部はその当時法政大学で寝泊まりしていて、私はその会議が終わって法政大学に行っていたんです。そうしたら中核派の人が新聞を投げて「お前、知っていたんだろう」と言うので新聞を見たら「暁の妥結」という記事が載っていました。実際は社学同の人たちはみんな賛成していなかったんですね。でもその(「2・2協定」の)後から中核派がワーッと来て暴力を振るって「自己批判しろ」と社学同の人たちがやられるんですよね。やられながら、みんなが何とか立ち直ろうとしていて、社学同は潰されていくんですけれども、そこで頑張っていた人たちを見て、私も社学同を助けようという感じで(社学同に)入ったんです。
その時に、学生運動が「改良」、つまり革命まで勝てないけれどどこで妥結するのか、そこを考えようとしていた「改良」ということに対して、それ自身が裏切りだったり、ボス交だったり、こういうんじゃなくて、断固として非妥協で戦うことが大事なんだということで、中核派もそうだし、ML派もそうだし、今から考えると関西の社学同の人たちもそうなんだろうけれど、そういう人たちが非妥協性、革命的敗北主義論というのを出してきて、それ以降、非妥協性が正義の実現であって、妥協することは犯罪的だ、みたいな流れが作られていくことによって、これまで学生主体だった学生自治会のヘゲモニーが党派に凌駕されていくきっかけを作ったのが明大の学費闘争だったなと振り返って思うんです。ですから、明大があそこでもう少し民主主義、学生大会でそのことを決定していれば、違った「改良」と「革命」という論理として論争していた、あの時代の流れの中で、党派と学生運動というものの関係性が違った形で出来た可能性はあったんじゃないかなと思いながら、自分たちの教訓としてもそのことは書いておきたいと思って、特に明大学費闘争のことはちょっと長く書いているんです。そういうような話として『はたちの時代』に書いています。
それと、これらの文章はまだ発表はしていなかったんですけれども、赤軍派への参加から崩壊に至る全過程、自分が実感したこと、見たこと、それを自分の思いや教訓を含めて書いています。だから読みにくいかもしれないんですけれども、是非皆さんに読んでいただきながら、私自身も総括をしていきたいと思っています。
(購読もお願いしますが、図書館などでの注文もお願いします)
以上です。

【『はたちの時代』の紹介】
重信房子さんの新刊発売!
『はたちの時代』(太田出版) 2023年6月16日刊行

はたちの時代

前半は66年から68年までの明大学費闘争を中心とした時期のこと(この部分は私のブログに「1960年代と私」というタイトルで掲載したものです)。
後半は69年から72年までの赤軍派の時期のことが書かれています。
定価 2,860円(税込

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「模索舎」のリンクはこちらです。

「あとはき」より
『ここに書かれた記録は、ごく日常的な私自身の身の回りで起こったことを率直に書き記したものです。その分、他の人が書けば全く違った関心角度から違った物語がこの時代のエピソードとして描かれることでしょう。私は獄に在って、何度か癌の手術を繰り返していました。生きて出られないことがあっても、支えてくれる旧友や、見ず知らずの方々にお礼を込めて、私の生き方、どんなふうに生きてきたのかを記録しておきたいと思ったのが、この記録の始まりです。私がどのように育ち、学生運動に関わり、パレスチナ解放闘争に参加しどう生きて来たのか、マスメデイアでステレオタイプに作り上げられた私ではなく、生身の私の思いや実情を説明しておきたくて当時を振り返りつつ記して来ました。獄中と言うのは、集中して文章を書くのに良いところで、ペンをとって自分と向き合うと過去を素直に見つめることが出来ます。楽しかった活動や誇りたいと思う良かった事も、間違いや恥かしい事や苦しかったことも、等しく価値ある人生であり私の財産だと教えられた気がします。(中略)どんなふうに戦い、どんな思いをもって力を尽くし、そして破れたのか、当時の何万という「世の中を良くしたい」と願った変革者の一人として、当時の何万と居た友人たちへの報告として読んでもらえたら嬉しいです。また当時を若い人にも知ってほしいし、この書がきっかけになって身近に実は居る祖父や祖母たちから「石のひとつやふたつ投げたんだよ」と語ってもらい、当時を聴きながら社会を知り変えるきっかけになれば、そんな嬉しいことはありません。
いまの日本は明らかに新しい戦争の道を進んでいます。いつの間にか日本は、核と戦争の最前線を担わされています。そんな日本を変えていきたいと思っています。決して戦争をしない、させない日本の未来をなお訴え続けねばと思っています。なぜなら日本政府が不戦と非戦の国是を貫くならば日本の憲法には戦争を押しとどめる力があるからです。はたちの時代の初心を忘れず日本を良い国にしたい。老若男女がこぞって反戦を訴え支える日本政府を実現したいと思います。』

目次
第一部 はたちの時代 
第一章 はたちの時代の前史
一 私のうまれてきた時代/二 就職するということ 一九六四年――一八歳/三 新入社員、大学をめざす
第二章 一九六五年 大学に入学した一 一九六五年という時代の熱気/二 他人のための正義に共感/三 マロニエ通り
第三章 大学生活をたのしむ一 創作活動の夢/二 弁論をやってみる/三 婚約/四 デモに行く/五 初めての学生大会/六 研連執行部として

第二部 明治大学学費値上げ反対闘争
第四章 学費値上げと学生たち
一 当時の牧歌的な学生運動/二 戦後民主主義を体現していた自治会運動/三 話し合いの「七・二協定」/四 田口富久治教授の嘲笑   
第五章 自治会をめぐる攻防
一 スト権確立とバリケード――昼間部の闘い/二 Ⅱ部(夜間部)秋の闘いへ/三多数派工作に奔走する/四 議事を進行する/五 日共執行部案否決 対案採択
第六章 大学当局との対決へ  一 バリケードの中の自治/二 大学当局との激論/三 学費値上げ正式決定/四 収拾のための裏面工作/五 対立から妥結への模索/六 最後の交渉と機動隊導入  
第七章 不本意な幕切れを乗り越えて  一 覚書――二・二協定の真相/二 覚え書き(二・二協定)をめぐる学生たちの動き

第三部 実力闘争の時代
第八章 社学同参加と現代思想研究会――一九六七年 一 私が触れた学生運動の時代/二 全学連再建と明大「二・二協定」/三 明大学費闘争から再生へ 
第九章 社学同への加盟 一 社学同加盟と現代思想研究会/二 現思研としての活動を始める/三 六七年春、福島県議選の応援/四 今も憲法を問う砂川闘争/五 あれこれの学内党派対立/六 駿河台の文化活動
第十章 激動の戦線一 角材を先頭に突撃/二 一〇・八闘争の衝撃/三 三里塚闘争への参加/四 六八年 五月革命にふるえる/五 初めての神田カルチェラタン闘争――一九六八年六月/六 六八年国際反戦集会の感動 

第四部 赤軍派の時代 
第十一章 赤軍派への参加と「七・六事件」 一 激しかったあの時代/二 一九六九年の政治状況/三 四・二八沖縄闘争/四 赤軍フラクション参加への道/五 藤本さんが拉致された、不思議な事件/六 七月五日までのこと/七 六九年七月六日の事件/八 乱闘――七月六日の逆襲/九 過ちからの出発
第十二章 共産主義者同盟赤軍派結成  一 女で上等!/二 関西への退却/三 塩見さんらの拉致からの脱走/四 共産同赤軍派結成へ
第十三章 赤軍派の登場と戦い一 葛飾公会堂を訪れた女/二 「大阪戦争」/三 「東京戦争」/四 弾圧の強化の中で/五 支えてくれた人々/六 前段階蜂起と組織再編/七 大敗北――大菩薩峠事件/八 初めての逮捕――党派をこえた女たちの連帯
第十四章 国際根拠地建設へ一 前段階蜂起失敗のあと/二 よど号ハイジャック作戦/三 ハイジャック闘争と日本委員会/四 深まる弾圧――再逮捕/五 思索の中で

第五部 パレスチナ連帯と赤軍派との乖離(かいり)の中で
第十五章 パレスチナ連帯の夢一 国際根拠地パレスチナへ/二 赤軍派指導部の崩壊/三 森恒夫さん指導下の赤軍派/四 パレスチナへの道
第十六章 パレスチナから見つめる
一 ベイルートについた私たち/二 統一赤軍結成/三 アラブの私たちー―赤軍派との決別/四 新党結成の破産/五 アラブから連合赤軍事件を見つめて/六 連合赤軍の最後とアラブの私たち/七 新たな変革の道を求めて

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。

http://zenkyoutou.com/yajiuma.html

●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在14校の投稿と資料を掲載しています。

http://zenkyoutou.com/gakuen.html

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は7月7日(金)に更新予定です。