野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2023年07月

今回のブログは、『構造』(1971年6月号)に掲載された「戦線から」である。この「戦線から」では、毎号、労働戦線やマスコミ戦線など多様な現場で闘っている人たちの現状を掲載していたが、この号では、日本医科大学の看護学院の闘争が掲載された。
全国学園闘争の記録シリーズとして、ブログに掲載する。
img422

【戦線から 日医大看学学生自治会 看学闘争の更なる発展のために】
(1)
看護学院とはむろん看護婦を養成する場であり、通常正看、准看の二種が各々髙卒三年中卒二年という特殊教育を受け国家試験(准看は検定試験)に合格して看護婦となる。
しかしながらここで看護教育の内実を見るならば、まさしく若干の医療知識と技術を教え込み、医師の介助が速やかに行ない得るような働く人間を創り上げることであり、その場においてナイチンゲール精神、白衣の天使という美しすぎる名言は巧みに利用され、イデオロギー統制に一役買っているのである。
すなわち、患者には笑顔で、奉仕と犠牲の精神を、聖く美しく、というような超人間的な従順な看護婦を全寮制度という集団生活を通し、毎朝の朝礼における”ナイチンゲール誓詞”の斉唱を通し、自主規制、相互管理、そして寮生活に対する関与(24時間教育)をもって叩き込まれるのである。
さらに多くの看学では奨学金制度があり、義務年限をつけることによって労働者確保の契約を行なう。そのことはまさしく、看護教育そのものが、看護としての実用的な人間を再生産するために措定され、現在圧倒的な看護婦不足を補充すべく存在していることを如実に示しているだろう。
(2)
このような中での看護教育は、きわめて押しつけ、強制の前近代的抑圧下にあった(否現在的にもある)訳だが、一昨年3月、私達の看学においては、長期休暇中の寮閉鎖強行に反対する=学生自治権確立の内容をもって看学史上初の全学無期限ストラィキに突入した。
56日間の話し合い(大衆団交)要求闘争の中で私たちがより強く確認して行ったのは、教務は看護教育者ではなく、まさに私たちをより使いやすい労働者に仕立て上げて行くところの管理者であり、彼女らにとって、精神看護、患者中心の看護、看護婦の主体性などというものは単なることばであり、私達学生が一歩踏み出そうとすると必ず権力の手先となって私たちに敵対してくるものであること。そしてさらに、私たちが常に労働者として抑圧されていると同時に、現体制に呑み込まれていく限りにおいては、自らも労働者を抑圧し患者を搾取する立場にならざるを得ないこと。そして私達のストラィキの中での運動が、継続されなければならないことを確認し、学生の利益を追求し、権力支配に対決すべく闘う自治会を結成した。
そして自治会運動が単なる諸要求の物取り主義的なものとしてあるのではなく、現体制における根底的矛盾を止揚すべく闘う中での諸要求として捉えていかなければならないことを確認しなければならないだろう。
自治会結成以降、私達の運動は、1強制奨学金撤廃=強制義務年限撤廃、 2一年生のみの全寮制度廃撤廃、3奨学金返済(即時全額返済、もしくは2年間の義務年限)方法改正、4卒後人員配置自主管理、5千駄木祭(学部共催)貫徹の五つのスローガンを掲げると同時に、個別運動のみに自治運動を限定するのではなく、根底的矛盾を陰ペィし支配、抑圧しているところの資本主義体制そのものを堅持している政府権力へ向けての闘いを主体的に取り組んで来た。
(3)
現在、私達はこのような自治運動の一環として、1月27日、昨年1月から問題視されていた卒業試験の暖昧性(総じて看護教育が個別病院に見合ったような形で、その都合に合わせてカリキュラムを組んでいるところの持つ曖昧性ではあるが)を教務に追求したところ、明確な卒試の位置付けを提出することができず最終的には教員会議(教授会に匹敵)決定である、学則であると逃げまわり、学生の教員会議との話し合い要求を無視したまま、卒試を強行した当局に対し、卒試ボィコットから全学無期ストを闘っている。
3ヶ月余りになるこの闘争に対し、教員会議は一切の話し合いに応じようとせず、父兄を使った卑劣な分断策動を行ない、さらには全員(スト破り13名を除いて)留年処分を行なつて闘争を圧殺しようとしている。
私達はこの3ケ月の闘争の中で今最後の夕イムリミットを5月10日に控え、再度私達の総括を検討しなければならない。
すなわち、医療総体の矛盾がまさに現体制を擁護するものとして権力支配の一手段として再編され、さらには72年沖繩返還による日帝の東南アジア侵略に先駆けてAMO(アジア医療機構)による東南アジアへ向けての医療援助という形で侵略、反革命統制(民生安定)さらに防衛大医学部設置、日赤看護婦の従軍体制強化、国際医科大学新設(後進国開発の名による侵出)etcと、69年日米共同声明以降の軍事外交路線は着々と進行し、さらに国内的に.は、反戦派学生、労働者のパージ、資本の独占化、銀行の合併等々、労働者への抑圧はますます強化され、階級対立はさらに深化している。
このような中で私達は、単なる自己利害に基くところの、物取り主義として自らを措定するのではなく、すなわち現体制の枠内での自己権利の拡大を目的とするのではなく、資本制生産様式そのものの根底を突き、打倒すベく労働者の連帯を強化し、目的意識的闘いを深化させなければならないだろう。
さらに当面、民青看学連によって自らの犯罪性をより延命しているところの全国の看学生諸君に対し、闘争の本質をより鮮明な形で提起していかなければならない。
連絡先
東京都文京区根津一の二五の二
日医大看学自治会

以上が『構造』(1971年6月号)に掲載された記事であるが、これだけでは日医大闘争の様子がよく分からない。
そこで、Web上で公開されている「戦後医学生運動史」の中から、日医大に関する部分を抜粋して掲載する。この「戦後医学生運動史」は、日医大出身の下司孝之氏が作成したものであるが、転載の諒解をいただいた。

【「戦後医学生運動史」より抜粋】
●1969年
3月15日 日本医大高看「自治会公認・休校中寮閉鎖粉砕・処分者を出すな」でスト突入。

4月26日 日本医大・闘う学友会執行部を選出。日医大においては4月26日、有効投票数の75%の信任票を得て委員長に堀内貞君、副委員長に上田基君(学部)、落君(教養)を選出。具体的な活動方針として三統一候補は①健保改悪阻止・安保粉砕、②新丸子学園闘争→独立学館・自治寮獲得、③看学闘争支援、④千駄木学生会館獲得、⑤学生祭としての千駄木祭貫徹→サークル運動の質的展開、⑥学生部粉砕を選挙時にスローガン化して全学友に提出している。スト解除後も粘り強い闘争を継続する看学自治会・4月からの寮監廃止、入寮自主調整権を勝ち取った意進寮友会との共同歩調を提起している。日医研修協約スト突入二周年記念日でもある4・28沖縄闘争には大衆的学内統一戦線である安保評議会(準)に約20名が結集して組織的に最後まで闘った。

4月28日 日本医大沖縄闘争に20名参加。

5月 6日 日本医大・学友会全学第一回中央委員会では全員一致で看学自治会闘争支援(寮友会は総会で反対なしで決)を確認、代表3名が看学自治会に教授の学友会デマ流布の説明に出向き5・16を闘争委員会で闘い抜く事を確認した。

6月15日 日本医大安保評を労学40名で結成。医学連統一行動へ35名参加。

6月24日 日本医大医進課程1日スト。

6月25日 日本医大医進課程・自主管理運営による学生会館を要求してスト突入

6月27日 日本医大C・200名の学内デモ。M1スト権確立。

6月28日 日本医大・全学大会でスト決行ならず。

7月 8日 日本医大C闘・キャンパス全面バリスト突入。私立医大では始めて、MD・Cまで武装デモ。

7月10日 日本医大C闘・一時バリ自主解除スト凍結(145対3対3)夏季休暇へ。

9月17日 日本医大医進・スト再突入。

9月29日 日本医大C闘・キャンパスバリストに突入。40名でバリ構築。

10月20日 日本医大C・学館闘争勝利し51日目のバリ解除、21日の闘争に備える。

10月26~31日 日本医大・第12回『千駄木祭』「自己-学問-社会」(副題)-矛盾と疎外の中から新しい学問象を模索して-をテーマに開催。映画『市民ケーン』『オレはロボットか-パリ国鉄労働者-』上映。講演『生誕幻想論』批評家・詩人・吉本隆明、『コンピューターと人間』東京大学工学部教授・南雲仁一、『医療労働運動を展望して』青医連委員長・宇都宮泰秀、『不毛の球体』女優・緑魔子。

12月13日 日本医大・11.16佐藤訪米阻止闘争検挙者のレッド・パージ阻止総決起集会。

●1970年
1月16~18日 日本医大C闘・処分策動粉砕マラソン団交。12・26に進学教授会で処分案を決議していたことも隠蔽。議事録を突きつけるまで態度を変えなかった。

1月17日 日本医大Cの16~17日、大衆ストを背景にC闘委武装行動隊を中心に医学連・看学共闘・国府台地区学評・習志野反戦などの同志と国府台総決起集会後、座り込みに入った。

1月18日 日本医大医進キャンパス・38時間の午前4時教授会と合意『処分を出さない旨の決議を22日に行う。但しストを下ろす、という内容の誓約書に判を押してきた。』の後、朝方、大学当局が高橋末雄理事長・石川正臣学長他30名、上野精養軒よりプラカードを持ちCキャンパスに乗り込み協定破棄。市川警察に駆け込んだが、拘束はしていなかったし、『解放』要求もなかったので教授監禁罪は成立せず、起訴は出来なかった。

1月22日 日本医大C・無期停学7名、そのうち2名は退学、譴責9名の大量処分。ただちに撤回で無期スト突入。M1・M2が時限スト入り。

1月27日 日本医大・学部で開かれた進学課程教授会粉砕闘争、逃げられる。

1月28日 日本医大・譴責処分者の父兄呼び出しを実力で粉砕。

1月29日 日本医大・M1・M2が処分撤回で無期限スト

2月 4日 日本医大C・逆バリ・ロックアウトを大衆的に突破。当局は鉄条網など250万で設置。支援カンパは国府台寮友会気付け全学闘争委員会で受付。

2月 9日 日本医大・反レパ医学連都総決起行動。1時文京区千駄木日医大・学部。

2月10日 日本医大C・正門、松戸街道バリ・火炎瓶反レパ闘争。

10月31~11月3日 日本医大・第13回『千駄木祭』「医学医療の荒廃」(副題)-再度根源に帰って-をテーマに開催。映画『戦カンポチョムキン』(セルゲイ・エイゼンシュテイン監督27歳の作品)『禁じられた遊び』『ヒロシマ-ナガサキ・1945年8月』上映。講演『三里塚の闘い』三里塚空港反対同盟委員長・戸村一作、『医学原論』東大物療内科講師・高橋晄正、『烏山病院』烏山病院闘争委員会・佐藤医師。

●1971年
1月25日 日本医大看学・卒試撤廃・カリキュラム・実習問題で全学スト突入。

2月21日 日本医大・看護学生就労拒否 日本医科大学法人・高橋末雄理事長を「日本医大5人を守る会」が1月22日レッド・パージとして告訴。2月21日に初公判。

3月 1日 日本医大看学・スト勝利決起集会。看共闘、医学連参加。

4月28日 日本医大看学スト・95日目に解除して沖縄闘争へ。医学連・清水谷沖縄集会(蜂起派)

5月 8日 日本医大看学自治会の5名に無期停処分。雑誌『構造』6月号に詳細。

11月 3日 日本医大・看学就労学内デモを40名で。

●1972年
5月17日 日医大・看学生の就職拒否、東京地裁で医学連も支援し40名が傍聴。九大や福井看学でも同様な就職拒否が判明。

7月19日 日本医大・看護婦就職差別公判・闘う5人の看護婦を守る会。AM10時・地裁。

●1973年
1月27日 日医大から就職拒否にあった看護婦「日本医大5人を守る会」は東京地裁での就労裁判の後、千駄木の汐見福祉会館で裁判一周年討論会開催。

(終)

【『はたちの時代』の紹介】
重信房子さんの新刊発売!
『はたちの時代』(太田出版) 2023年6月16日刊行
はたちの時代

前半は66年から68年までの明大学費闘争を中心とした時期のこと(この部分は私のブログに「1960年代と私」というタイトルで掲載したものです)。
後半は69年から72年までの赤軍派の時期のことが書かれています。
定価 2,860円(税込

本のアマゾンリンクはこちらになります。

「模索舎」のリンクはこちらです。

江刺昭子さんによる本の書評(紹介)です。(47ニュースより)
https://nordot.app/1051909235439075336?c=39546741839462401

「あとはき」より
『ここに書かれた記録は、ごく日常的な私自身の身の回りで起こったことを率直に書き記したものです。その分、他の人が書けば全く違った関心角度から違った物語がこの時代のエピソードとして描かれることでしょう。私は獄に在って、何度か癌の手術を繰り返していました。生きて出られないことがあっても、支えてくれる旧友や、見ず知らずの方々にお礼を込めて、私の生き方、どんなふうに生きてきたのかを記録しておきたいと思ったのが、この記録の始まりです。私がどのように育ち、学生運動に関わり、パレスチナ解放闘争に参加しどう生きて来たのか、マスメデイアでステレオタイプに作り上げられた私ではなく、生身の私の思いや実情を説明しておきたくて当時を振り返りつつ記して来ました。獄中と言うのは、集中して文章を書くのに良いところで、ペンをとって自分と向き合うと過去を素直に見つめることが出来ます。楽しかった活動や誇りたいと思う良かった事も、間違いや恥かしい事や苦しかったことも、等しく価値ある人生であり私の財産だと教えられた気がします。(中略)どんなふうに戦い、どんな思いをもって力を尽くし、そして破れたのか、当時の何万という「世の中を良くしたい」と願った変革者の一人として、当時の何万と居た友人たちへの報告として読んでもらえたら嬉しいです。また当時を若い人にも知ってほしいし、この書がきっかけになって身近に実は居る祖父や祖母たちから「石のひとつやふたつ投げたんだよ」と語ってもらい、当時を聴きながら社会を知り変えるきっかけになれば、そんな嬉しいことはありません。
いまの日本は明らかに新しい戦争の道を進んでいます。いつの間にか日本は、核と戦争の最前線を担わされています。そんな日本を変えていきたいと思っています。決して戦争をしない、させない日本の未来をなお訴え続けねばと思っています。なぜなら日本政府が不戦と非戦の国是を貫くならば日本の憲法には戦争を押しとどめる力があるからです。はたちの時代の初心を忘れず日本を良い国にしたい。老若男女がこぞって反戦を訴え支える日本政府を実現したいと思います。』

目次
第一部 はたちの時代 
第一章 はたちの時代の前史
1 私のうまれてきた時代/2 就職するということ 1964年―18歳/3 新入社員、大学をめざす
第二章 1965年 大学に入学した
1 1965年という時代の熱気/2 他人のための正義に共感/3 マロニエ通り
第三章 大学生活をたのしむ
1 創作活動の夢/2 弁論をやってみる/3 婚約/4 デモに行く/5 初めての学生大会/6 研連執行部として

第二部 明治大学学費値上げ反対闘争
第四章 学費値上げと学生たち
1 当時の牧歌的な学生運動/2 戦後民主主義を体現していた自治会運動/3 話し合いの「七・二協定」/4 田口富久治教授の嘲笑   
第五章 自治会をめぐる攻防
1 スト権確立とバリケード――昼間部の闘い/2 Ⅱ部(夜間部)秋の闘いへ/3多数派工作に奔走する/4 議事を進行する/5 日共執行部案否決 対案採択
第六章 大学当局との対決へ 
1 バリケードの中の自治/2 大学当局との激論/3 学費値上げ正式決定/4 収拾のための裏面工作/5 対立から妥結への模索/6 最後の交渉と機動隊導入  
第七章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書―二・二協定の真相/2 覚え書き(二・二協定)をめぐる学生たちの動き

第三部 実力闘争の時代
第八章 社学同参加と現代思想研究会
1―1967年 一 私が触れた学生運動の時代/2 全学連再建と明大「二・二協定」/3 明大学費闘争から再生へ 
第九章 社学同への加盟
1 社学同加盟と現代思想研究会/2 現思研としての活動を始める/3 67年春、福島県議選の応援/4 今も憲法を問う砂川闘争/5 あれこれの学内党派対立/6 駿河台の文化活動
第十章 激動の戦線
1 角材を先頭に突撃/2 10・8闘争の衝撃/3 三里塚闘争への参加/4 68年 5月革命にふるえる/5 初めての神田カルチェラタン闘争―1968年6月/6 68年国際反戦集会の感動 

第四部 赤軍派の時代 
第十一章 赤軍派への参加と「七・六事件」
1 激しかったあの時代/2 1969九年の政治状況/3 4・28縄闘争/4 赤軍フラクション参加への道/5 藤本さんが拉致された、不思議な事件/6 7月5日までのこと/7 69年7月6日の事件/8 乱闘―7月6日の逆襲/9 過ちからの出発
第十二章 共産主義者同盟赤軍派結成 
1 女で上等!/2 関西への退却/3 塩見さんらの拉致からの脱走/4 共産同赤軍派結成へ
第十三章 赤軍派の登場と戦い
1 葛飾公会堂を訪れた女/2 「大阪戦争」/3 「東京戦争」/4 弾圧の強化の中で/5 支えてくれた人々/6 前段階蜂起と組織再編/7 大敗北―大菩薩峠事件/8 初めての逮捕――党派をこえた女たちの連帯
第十四章 国際根拠地建設へ
1 前段階蜂起失敗のあと/2 よど号ハイジャック作戦/3 ハイジャック闘争と日本委員会/4 深まる弾圧――再逮捕/5 思索の中で

第五部 パレスチナ連帯と赤軍派との乖離(かいり)の中で
第十五章 パレスチナ連帯の夢
1 国際根拠地パレスチナへ/2 赤軍派指導部の崩壊/3 森恒夫さん指導下の赤軍派/4 パレスチナへの道
第十六章 パレスチナから見つめる
1 ベイルートについた私たち/2 統一赤軍結成/3 アラブの私たちー―赤軍派との決別/4 新党結成の破産/5 アラブから連合赤軍事件を見つめて/6 連合赤軍の最後とアラブの私たち/7 新たな変革の道を求めて

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在15校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は8月18日(金)に更新予定です。

今回のブログは、6月3日に開催した明大土曜会で、市民運動やパレスチナ連帯運動に関わっている岡本氏から、戦略的・組織的・持続的な市民運動について提案していただいた内容である。

【全共闘から市民運動に至る半世紀を振り返ってー市民運動に求められる視点と行動―】
岡本達思氏(日大930の会)
IMG_8726

今日はこういう機会を与えていただいてありがとうございます。
たいそうな題名をつけてしまったんですけれども、内容はそれほど無いので、お配りした資料をご覧いただきながら話を聴いていただければと思います。
20230603市民運動に求められる視点と行動_1
最初に、私の生い立ちから現在までの軌跡をお話しますと、1950年生まれです。団塊の世代のぶらさがりですけれども、東大の安田講堂闘争が大学受験の時だったんですね。もちろん私は東大を受ける能力がなかったので受験には支障はなく、運よく日大に入学することができまして、その前年の12月くらいから日大農獣医学部のバリケードには遊びに行っていました。
少年時代は、どこにでもいる少年でした。ただし正義感だけは人一倍強かったですね。上の姉が1945年生まれで、武蔵美(武蔵野美術大学)の青解(社青同解放派)から反戦青年委員会で活動し、羽田闘争などを戦っていたんですね。その2つ下の姉は都立高校で民青に入り、法政大学でも民青として活動していました。親父は民社党支持とごく普通の人間でしたが、そういう環境の中で幼少の頃からいろんな影響を受けて育ちました。
中学・高校時代は、家が王子野戦病院にも近かったことで、闘争があると自転車で見に行ったり、高校ではたまたま鶴見俊輔さんに近い人間の友人がいたものですから、ベ平連の運動に入り込んで、彼に影響されていろんな街頭デモなどに行くようになりました。
小さい頃から動物が好きだったものですから、獣医師を志望して北海道大学と日大の獣医学科を受験し、北海道大学は落ちて日大に入りました。ただし、日大では闘争をやるために入ったようなものですから、5月に入学式があったものの、すぐに新1年生闘争委員会を組織化して活動したんです。関東軍の右翼と体育会系学生に妨害される中で、農獣医学部は社学同ML派が強かったものですから、迷わずML派に入りました。
7月にML派の合宿が長野であり、そこで全国学生解放戦線(SFL)の立ち上げプロジェクトに入れられたんですね。東大全共闘の城戸さんと日大全共闘の清水さんの3人で、小さなアパートの一室にこもって、ML機関紙『赤光』のバックナンバーを見ながら、右も左も分からないまま文章を書かされて、9月4日の全国学生解放戦線(SFL)の設立集会のレジュメや11月決戦のパンフレットの原稿作成をしていました
その頃から「街頭には出るな」と言われて原稿を書く日が続き、9月18日に日大文理学部を警備していた右翼を襲う行動だとか、9月30日の日大奪還闘争では、火炎瓶作りや運搬の裏方仕事をしていました。というのは、10・21行動の前に、ML派はその前哨戦をやるということで、私は市ヶ谷の自衛隊本部に突入する役割を言われていたからです。当初は厚木の米軍基地へ突入するということだったので、死ぬ覚悟で遺書を書いて暗い生活を送っていたのですが、急遽、市ヶ谷基地へ変更となり10月19日に市ヶ谷に突入して逮捕されました。
当時はまだ19歳だったんですね。未成年ということで練鑑(練馬の東京少年鑑別所)に送られたんですけれども、もう1度、牛込警察の留置所の戻され、刑事処分相当ということで東京拘置所に送られて、裁判闘争がそれから8ヶ月くらい続きました。したがって1970年の6月決戦はまだ拘置所の中に入っていたんですね。その後に出てきたら、華青闘の告発以降の問題などでML派も混乱していて、自分の拠り所も無く、そこから「自分探し」が始まったんですね。
日大も退学処分となり、学校当局の逆バリケードで入れないので、外側からの運動しかできなくて、成田闘争に潜り込んだり、混沌とした生活を2、3年続けていました。
当時、自分の裁判闘争もあったのと、日大闘争で解雇された小林忠太郎さんという農獣医学部の講師が不当解雇撤回闘争をやっていましたので、その裁判支援だけは後始末として続け、1970年12月から17年間くらい続いた裁判支援に関わりました。最終的には、大学当局が折れ全面的にこちらの勝利で和解に至ったんですけれども、そんなことを仕事をしながらやっていました。
最初は「自分探し」で日雇いの土方をしばらくやっていたんですが、「これじゃしょうがない」ということで、手に職を付けようと夜間のエディタースクールに入学したり、六本木のプロラボに就職してルートセールスをやりながら写真の技術を学び、何とか出版会社に入り込んだのです。それがマリンスポーツ専門の雑誌出版社で、そこの仕事で出会ったグローバル企業の広報担当者に、「うちの仕事をやらないか」と誘われ、その会社専門の広告企画制作会社に入りました。その会社で25歳から60歳まで仕事をして、その間に反原発の活動や裁判闘争などしていたんです。
拘置所時代、一番ショックだったのは、1969年の11月決戦の評価でした。私たちは武力で負けたわけですよね。ところがML派は勝利宣言をしたのです。私は獄中から「勝利は有り得ない」という書簡を出して、ML派から嫌な印象を持たれたのではないかと思います。拘置所の中では、私はテロリズムだとかアナーキズムだとか、そちらの傾向の本ばかり読んでいたんですね。その後、京大パルチザンなどへの関心も強くなり、パレスチナ問題に至る訳です。拘置所から出て、しばらくは直接的な行動はとりませんでしたけれども、パレスチナについての勉強会に通い、そうした中で広河隆一氏にも会いました。最近はいろいろ問題を指摘されていますが、広河隆一氏に出会って彼の真面目な生き方と作品のレベルの高さに感動して惹かれていきました。
1984年にレバノンのサブラ・シャティーラ難民キャンプでパレスチナ難民の虐殺事件があったんですね。それを広河隆一氏が撮影して、写真と遺品を日本に持ち帰り遺品展をやる頃から、さらに強くパレスチナ支援を意識するようになりました。その後、彼が立ち上げた<パレスチナの子どもの里親運動>にも参加して、レバノンのパレスチナ難民キャンプの子供たちを経済支援することになり、私も里親の一人として支援を続けました。それが一番長く継続した活動でしょうか。今までに8人のパレスチナ難民の子供を育て上げました。
一方、グローバル企業での仕事も真面目に努めました。海外市場が85%くらいの企業なので、仕事として世界中の国に出かけることができ、世界の見方が分かり始めてきた。また、仕事を通して国際的な問題や社会的な問題にも取り組むことができ、1990年頃からは地球環境問題、1995年頃からはCSR(企業の社会的責任)というムーブメントの中で、世界の人々に信頼され愛される企業のあり方を模索しました。
日本のトップ企業はこぞって、そうしたことを真面目に取り組み始めた時代ですね。これはヨーロッパからの流れですが、私のクライアントは東南アジアやアフリカ市場の開拓をしていたので、私も海外市場に出て現場を見ながら学ぶ事ができ、楽しい35年間を過ごさせてもらいました。
2010年に60歳を迎え、両親の介護のこともあり、35年間勤めた会社を退職しました。介護をしながら自分のプライベートな仕事をやろうと考えていたのですが、その年の暮れと翌年の年初に両親が立て続けて他界します。そして、2011年に3・11東日本大震災が起きたのですね。それまでも反原発運動はずっとやっていたので、福島第一原発の爆発事故が起きたということで、「これはいかんぞ」と思い、じっとしていられませんでした。
実は、会社を退職したのが2010年9月で、それから半年間ほど、有機農業系のNPO法人組織を取り仕切っていた日大全共闘の先輩から事務局の仕事を手伝わされていたんですね。その関係もあって、福島第一原発事故後に日本の有機農業に関係する学識者に呼びかけ、4月と5月に福島の被災地視察に出かけたのです。現地を視察し、現地の有機農業従事者の方がたと「今、私たちは何をすれば良いのか」といった議論を、泊まり込みでやっていました。
その後、東京に戻ったら1通の茶封筒が届いていて、それが<福島原発行動隊>への誘いの手紙だったんです。60年安保と70年安保の闘志が集まり、福島第一原発事故の収束を若い人の肩代わりで年寄りがやらなくちゃいけないということで立ち上げた運動です。60年安保の全学連副委員長の篠原浩一郎さんとか社学同(ブント)副委員長の山田恭暉さんらがいて、迷うことなくそこに参加しました。最初、篠原さんからは「なんだ、毛派の小童か」と言われながらも可愛がっていただきました。その年の冬に、<福島原発行動隊>の理事になりまして、理事長の山田恭暉さんのサポートをしました。
当時は民主党政権で、<福島原発行動隊>は2011年7月に民間で初めて福島第一原発の事故現場を視察することを許され、同年9月に視察報告書とともに提言書を出したんですね。その提言内容は「東電を事故収束作業から外せ」「新たに事故収束のための国家プロジェクトを立ち上げろ」「透明性を持たせるために国際的な第三者機関を立ち上げろ」「事故収束活動のためにシニアを集めて部隊を作れ」といった内容だったのですが、それは受け入れられずその後に民主党政権政権との梯子まで外されてしまったのです。
翌2012年の7月から8月にかけては、山田理事長と2人で全米講演ツアーにも出かけました。何でアメリカに行ったのかというと、私たちの主張が通らないのでアメリカ政府を説得して、そちらから日本政府に働きかけさせようと考えたからです。アメリカでは20回以上の講演や記者会見や、上院・下院議員へのロビー活動をしてほぼ1ヶ月間、話し回りました。民主党内の事故収束プロジェクトにはその後もオブザバーとして関与していましたが、原子力村の壁は厚くどうしても東電主導の事故収束体制を切り崩すことができず、<福島原発行動隊>は原発事故収束活動に参加させてもらえないままに至っています。
そんなわけで、私はそこから外れて<ふくいち周辺環境放射線モニタリング・プロジェクト>の活動に参加しました。この組織は、日大全共闘の仲間が中心となり、毎月1回1週間に渡り放射線汚染区域の空間線量率と土壌汚染率を測定しています。コロナの関係で、私は残念ながらこの2、3年は活動に出かけていませんが、今も10人くらいのメンバーが頑張って続けています。毎月の測定データは、Web上に全て公開しています。それがこれまでの私の活動経緯です。

20230603市民運動に求められる視点と行動_2
その後、放射線の問題だとか東電の事であるとか、安倍政権の反対の運動などをやり始めました。地域からの活動から全国の活動へということで、<総がかり行動実行員会>の活動に関わったり、ワンイッシューの活動からジャンルを広げた活動ということで、いろいろな活動に手を出しました。また、全部の活動を串刺しにして見る視点というのがどうしても必要と感じ、そうした活動を模索するようになりました。
2枚目のシートで「バックキャスティングによる戦略構築を」と書きましたが、バックキャスティングというのは何かと言うと、今ある問題から物事を考えるのではなくて、50年先にある世界を想定し、それをイメージした中で、それを実現するためには今、何をしなくてはならないのか、という考え方なんですね。企業のCSRや、今、話題のSDGsでは、バックキャスティングを基に物事を考えて現実的に一歩一歩進めているんですけれど、市民運動にもそういう視点がない限りうまくいかないのかなと思っています。そうした考えの中で自分の関わりを整理し組み立ててみたのがこの図です。
20230603市民運動に求められる視点と行動_3
3枚目はパレスチナ支援運動をまとめたものです。パレスチナ問題については、私は40年近く<パレスチナの子どもの里親運動>という活動を続けてきましたが、ある時までは里親運動しかやってこなかったんですね。イスラエルに対する抗議行動だとか、ガザの空爆に対する抗議行動というのは、それはそれで突発的にあると、イスラエル大使館の前に集まって抗議するということはやっていたんですけれども、やっぱりパレスチナ問題を戦略的に捉えて、それの活動を展開するということはできていなかったんですね。それではいけないんじゃないかということで、2014年のガザの空爆の時に、パレスチナ支援組織に呼びかけ連携した活動を立ち上げたんです。ここに一覧がありますが、これだけの組織が一堂に集まり、日本でパレスチナの支援の活動をやっている団体のネットワークが出来たんですね。明治公園で夜にキャンドルを灯しピ-スマークを描き、クレーンの上から撮影しその写真をパレスチナに送ったり、増上寺では「シューズ・キャンぺーン」(アウシュヴィツ博物館のシューズ展示を模して)を中心に、パレスチナの衣装や風船を飾って殉職者を祈るイベントを企画したり、それぞれのアイディアや力を束ねて、より多くの人びとにパレスチナの問題を知ってもらおうという運動を始めたというのが3枚目の資料です。
20230603市民運動に求められる視点と行動_4

4枚目は昨年くらいから考え始めたことですが、市民運動はいろいろなイッシューの活動をそれぞれがしていても、なかなかインパクトが無いのではないかということで、もっとトータルにまとまれるような、そういう運動を起こさないといけないのかなということで、自分なりに整理したものです。これを今、いろいろな市民運動を担っている人たちに説得活動をしているところです。本来だったらきちっとしたシンクタンクみたいなものを市民の側で持っていて、その戦略に基づいて運動を進め、政権に影響を与えていくということをやっていかなくてはいけないんじゃないかと考え、作ったのがこの図です。
特に選挙などを考えてみると、やはり市民運動自体が政党に振り回されているわけですね。また、市民運動はイベント主義に陥ってしまいがちですね。確かにイベントを行うことも必要ですが、その後も含めた仕組みというのがなかなか考えられていない。そういう意味では戦略が無い中での運動に、この間ずっと甘んじていることに忸怩たる思いをしてきました。選挙になかなか勝てないというか、私たちの力が政権に影響を与えられないというところで、もう少し体系的な取り組みをしていかないといけないと思っています。
もう一つは、メディアですね。権力の犬と化してしまったメディアではなく、真のジャーナリズムというものをきちんと育てて、権力に忖度しないメディアを構築していかない限りは難しいのではないか。私の問題意識としては、市民運動をもう少し全視野の運動にしていくことと、権力と戦える新しいメディアを作っていく、この2つの課題を掲げて模索しているところです。微力なので、なかなか具体的な成果が得られていないんですが、そんなことでいろいろな人に相談し始めているところです。
20230603市民運動に求められる視点と行動_5

5枚目の資料は、市民運動の影響力について分析したものです。私が10年近く活動してきた中では、政治意識が高くて、なおかつ護憲の意識を持った人たちにしかメッセージを届けているだけで、そうした人たちと手を組んだ市民運動しか出来ていなかったのではないかという反省がありました。このままではいつまで経っても政権交代とか、いろんな意味で力を果たすことが出来ないのではないかという危機感を持っています。
東京の人口が1,400万人、関東の人口で4,300万人、日本の人口の3分の1くらいを関東で占めているわけですけれども、<総がかり行動実行員会>の呼びかけでも、国会前に10万人くらいしか集められない。最近でも大きな運動で5万人くらいしか集めきれていないわけです。やっぱり(5枚目の資料の)左の方まで寄ったような人たちも巻き込めるような形でメッセージを伝えていかない限りは、大きなムーブメントは作れないのではないか。ステークホルダー(利害関係者)というものの見方についても、考え直さなければいけないのではないか。声の届かせ方みたいなものも、もっと検討しなくてはいけないのではないか、といった思いがこの5枚目の資料に込められています。
20230603市民運動に求められる視点と行動_6
最後の6枚目の資料ですが、現状の市民運動は、いろいろな組織が連携していても縦割りの構造なので、連絡系統は縦に落ちていくわけですね。実行委員会という形をとっていても、実際に運動を進めていく時は、それを構成しているそれぞれの組織が縦に落としていくことになる。それぞれの組織は文化も違うので、縦割りの構造の中で動いているのですが、それだけでなく縦割りを横串しするような平面的な関係、ネットワークのようなものがあればさらに広がりが作れるのではないかなと思っています。
これは、日大全共闘の経験から至った考えでもあるのですが、組織があってないような中でも、それぞれが有機的・効果的に連携し合う、そしてあちこちから新しい運動が生まれてくる、まさに全共闘的な運動こそが今の時代に必要ではないかと思っているんです。いろいろな考え方、いろんな差異を認め合いながら、同じ目標に対して、それぞれがそれぞれの立場で、思い思いの運動を進めながら、しかもそれが連携しているような、そういう運動のあり方というものが無い限りは、大きなうねりを作ることは難しいのではないかと思いながら、こんな図を作ってみました。
ここに<市民と野党をつなぐ会@東京>とありますが、これは私が事務局として関与している団体ですが、東京23区+郊外の市の中で25以上の地域に選挙運動組織がありまして、それぞれの組織が集まり連携し合いながら、まずは東京というエリアの中での政権交代のためにどうしたらいいかという目標に向けて活動している運動イメージが、資料の右下に描かれています。
今、<市民連合>(安保法制の廃止と立憲主義の回復確立を求める市民連合)では全国意見交流会をしていますが、そういう中でもこうした考え方を進めながら全国に波及させていったらどうかということを話し始めているところです。
東京は国会が近くて議員会館もあるものですから、議員に対するロビー活動もかなりやれていて、そういう意味では条件は良いのですが、肝心の立憲野党共闘が綻び始めて、特に立憲民主党がどうしようもないので、停滞しています。やっぱり立憲民主党、日本共産党、社民党、れいわ新選組あたりがきちんと一丸となって結びつき、強い力を持たなければ政権交代はできないので市民と野党の共闘運動を進めています。
IMG_8735

【質   疑】
質問者A
<市民連合>というのは山口二郎さんなどが共同代表になっているグループですか?

岡本
<総がかり行動>という市民運動は、<戦争させない1000人委員会>や<解釈で憲法壊すな!実行委員会>や<憲法共同センター>のもとに集まった運動体で、正式な名称は<戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会>という名称です。それに対して、<市民連合>は、<総がかり行動>に加えて、<安保保障関連法に反対する学者の会>や<安保関連法に反対するママの会>や<立憲デモクラシーの会>や<SEALDs>の有志が集まり発足した市民のプラットフォームで、山口二郎さんは<学者の会>の有志のお一人で運営委員として参加されているものと認識しています。
<市民連合>は、どちらかと言えば政策協定を立憲野党の各党と話し合う役割を担っており、そうした<市民連合>を中心として、全国各地で活動されている人たちがそれぞれ地域の<市民連合>を作りプラットフォームができています。今はそうした人たち同志が全国意見交換会という交流イベントを通じて情報交換を行っています。山口二郎さんは最近前面には出なくなっているようで、学者の会としては広渡清吾さんや中野晃一さんが一生懸命やってくれています。
IMG_8746

質問者A
私のイメージとしては、<市民連合>と野党というイメージなんだけれど、立憲と共産が手を組む、組まないということで、<市民連合>が野党に一緒になってやれというプレッシャーを掛けたつもりなんだけれど、逆にそれがうまくいかずに、立憲と共産の協定を巡り、ますますバラけていく状態になっているんじゃないかと思っているんですが、市民運動の人たちの頑張りが政党に力として伝っていかない。ますます駄目だなと思う。
Mさんどうですか?

M
さっき岡本さんが言ったことと同じですが、僕は最初から「山口二郎はけしからん」と思っているんだけれども、日本社会党がああなった時に、みんな民主党に行った。真っ先に逃げたのは山口だから。彼は戦略なんか無いんじゃないか。その時、その時に光が当たるところに行って、それは山口に限らないですけれど、大体学者なんかけしからんよ。学者を掲げてやる運動自体がもう駄目でしょう。

岡本
そこら辺は私なんかも感じていますけれど、中野晃一さんはとても信頼していますが、学者の皆さんは問題は見えていても、最後まではやり切れないという限界がありますよね。
今、特に立憲民主党の中枢部、泉・岡田体制が問題で、立憲民主党を変えない限りは難しいと思いますね。日本共産党は、昔はあまり好きではなかったんですが、今は結構努力をしていると評価しています。

参加者B(20代)
例えば韓国だと、進歩派というのがものすごい力を持っていて、前の大統領選挙でも20代の女性は進歩派を支持していますね。一方、日本ではこの前、日経新聞を読んでいたら若者の野党支持率は一桁。この違いはどうしてこうなってしまったのか、同じ世代として考えなければいけないですけれども、若い世代に浸透できないことについて、どのように考えていすか?

岡本
運動というのは持続可能性という質を持っていないといけないと思うんですね。日本の問題点は、戦略がないから、韓国のようにいろんな支援する組織もなければ、推進するメディアもない。韓国では一体となってやっている組織があるけど、日本にはそれが無いので意思が伝わらないのではないかと思います。
私たちの若い頃は、まだ日本の文化界や経済界には私たちを陰ながら応援してくれる人たちがいたと思うんです。そういう人たちが日大全共闘の秋田明大議長をずっと匿まったりしていたわけです。匿っていた人の中には経済界のきちっとした人だったり。私もべ平連の関係で、アメリカの空母イントレピッドから脱走した4人の若者をヨーロッパに逃がすお手伝いをしたことがありますが、知らないところから連絡が来て、なおかつ次に渡していくような、そういう暗黙のつながりが裏にあったわけですね。全体を把握している人がどこにいたのか分かりませんが、世代を超えて若者たちの運動が助けられてきた部分もあったのかなと思うんです。
ML派で言うと、日中友好協会との関係もあって、中国から輸入された缶詰や乾燥クラゲが回ってきたり、どこかからお金が流れ込んできたり。私も東拘から出てきてしばらく住んでいたのは、江古田の見ず知らずの人のマンションでした。そこに1週間くらい身を隠していたりとか、どこか見えないところに支援の流れがあったんだと思います。今はそういうものは無いですよね。
パレスチナの里親運動でも、現地レバノンの提携NGOの主催で各国の支援団体が集まってのミーティングがあるのですが、北欧などは王族の人が来たり、マレーシアもそういう感じの富裕層が来ています。日本は会員数が一頃400人くらいいて、他国を抜いて1位でしたが、月6千円の会費をギリギリ出しながら支援しているわけですね。富者が貧者を助けて寄付をするなどという文化というか構造は、無くなってしまったように感じています。でも、そういう文化は絶対に必要だと思います。
2012年夏に、アメリカに山田恭暉さんと1ヶ月くらい講演ツアーをしたのですが、最初の話ではロスアンゼルスで1週間の約束だったんです。しかし、いざロスアンゼルスで1週間講演をし終えたら、その間にアメリカの市民ネットワーク上で「こんな日本人が来ている」という話が広まっていて、違う地域からも「こっちに来てくれ」という話が複数寄せられ、結局1ヶ月間居続け東海岸と西海岸で23回くらい講演をやりました。その間、ローカルのラジオ局からも取材を受けたり、記者会見をしたり。講演をセットしてくれるのはみんなボランティアの人たちなわけです。私たちは先のスケジュールも知らないままに、「シカゴの空港で降りたら長髪の人が赤いスポーツカーで待っているからそこに行け」というメールのままにそこへ行くと、本当に赤いスポーツカーに乗ったヒッピー風のシニアが待っていて次の地へ連れていかれるという旅が続きました。
シカゴでは大学生や若者が住むシェアハウスの個室を与えてくれて、そこに泊まると翌日にはシカゴ大学教授のノーマ・フィールドさんが迎えに来てくれたりと、そういう形で毎日毎日が初めての人との出会いが続きました。最後にはロスアンゼルスに戻るんですけれど、1ヶ月間に自前でホテルに泊まったのは1泊だけで、あとは全ていろいろな階層のいろいろな世代の方々のお宅にホームステイしてお世話になったんですね。日系3世のお医者さんの家だとか、中国系の市役所職員の家だとか、明日のことも分からないままにそういうルートに乗せられもてなしを受ける。何もかも包み込んでくれる文化で市民運動を豊かにしていかなくてはいけないのかなというのが私の印象でした。
IMG_8758

質問者A
そのベースにはキリスト教的な繋がりを感じませんでしたか?

岡本
明日に帰国するという日曜日の早朝に、とある教会に呼ばれたんです。30人くらいの人がいて、朝のサンドイッチだとかコーヒーが並んでいる丸テーブルに座らされて、「お前たちの話を聞かせてくれ」と言われたんです。プロジェクターもスクリーンも無いから、大きな模造紙を探してきてもらってその場でチャートを書いて説明をしたら、話をしている間に封筒が回っているんですね。実はそれは私たちへのカンパだったんです。その会は<ジャスティス>と名の会で、地元の名士が毎月1回集まり情報共有をし、その月の市民運動の活動評価を議論し合うんですね。そして、今月はこの組織にカンパをしようと決めて、それを果たすんですね。そこはキリスト教関係の人たちの集まりでした。無いものねだりをしてはいけないんですけれども、私たちとしても、もう少し持続可能な運動のあり方について学び、市民運動の後押しをやっていかなくてはいけないと感じました。

質問者C
私は主に辺野古新基地建設問題だとか、差別排外主義・ヘイトスピーチに反対する運動をやっています。資料の6枚目で、<市民と野党をつなぐ会>が提案する運動組織イメージということで模式図があって、イメージがよく分かります。私も<総がかり行動実行員会>とか常々接触していますが、従来組織はこういう構造が相変わらずあってどうしようもないな、と思っているものですから、今後のイメージとして横に広がっていくというか、連携していくネットワークを作っていくということは、基本的に賛成です。
けれども、それの難しさというのは、市民団体というのはいろいろなテーマごとに作られていますよね。市民運動一般ではなくて、いろいろなテーマ、地域の課題などを抱えてやっている団体が多いわけで、それが即全国の横につながるとか、ネットワークというのは、それぞれ独自の運動の形態だとかスタンスなどがあるわけで、それを直ちにつなげるというのは、なかなか難しさがあると思うんですね。
そのような問題を、どのような形でやっていこうとしているのか、難しいテーマだと思いますが、お聞きしたいと思います。

岡本
市民運動は、本当にいろんなテーマで動いていますので、横の連絡が取れない弱点があります。私も板橋区でこの10年間、いろいろな市民運動に関わっていますけれども、それは感じますね。平和をテーマにした運動でも大きなグループが3つくらいあって、それぞれが別個に活動している。私はその3つに足を突っ込んでいるんですけれども、なかなか一緒には繋がれない。ようやく最近、どちらかというと共産党系の退職教育者組合を主体とした人たちの集まりと、どちらかというと旧社会党系の平和運動をやっている人たちの集まりが一緒になって、お互いに連絡し合ったり合同でイベントをやったりするような、そういう運動が始まりした。
自分の力には限界があるので、少しずつでも地域からそれを始めなくてはいけないのかなということで、そうした組織と組織をつなげる活動を今やっています。運動としては板橋の改憲反対運動をつなぐ<オール板橋行動>や、沖縄問題では、東京北部で沖縄問題に取り組む<沖縄と東京北部を結ぶ集い実行委員会>や、去年の10月からは豊島区、北区、練馬区、板橋区の市民団体が集まりJR池袋駅前でスタンディング・アクションをやろうと<池袋アクション>という運動を始めました。そもそもは軍拡問題がきっかけなんですけれども「それだけじゃないよね」ということで、脱原発や入管法の問題にも取り組み始めています。
そういう形で何かちょっとずつでも、みんなどこかには関わっているものですから、それを一緒の形でやっていく必要があるのかな、一人の力や時間の限界があるかもしれませんが、そういう形で連携し合っていくことが、今は一番必要なのかなということでテーマや地域を超えてやりはじめています。<市民と野党をつなぐ会@東京>でもそういう活動を広げて、それぞれ地域で活動してもらうとか、それを東京レベルに広げるとか、全国意見交換会の場で発表して、全国レベルでもそういう活動をしていただくという形で広めていくことを目指しています。

質問者A
共通のネットワークというのは、公には無いわけですね。

岡本
<市民と野党をつなぐ会@東京>はWebサイトとfacebookやTwitter、<池袋アクション>はTwitterがあり、それぞれはメーリングリストで繋がっていますけれども、イベントなんかで繋がっていくしかないのかな、と思っています。

質問者A
私が調べると<地球座>というサイトがありますね。<地球座>がもう少し開かれたものになればいいのかなというイメージは持っている。<地球座>は左翼系のイベント情報など掲載している。<タンポポ舎>は原発問題に特化している。

岡本
やはり若いセンスで見やすいWebサイトを作らなければいけないと思うんですけれども、それには私たちにスキルやノウハウが無い。

質問者A
若い人にそれをやってもらわないと、どんどん我々は置いていかれるのではないか。

岡本
そのためにも、ある部分は事業化して、収益事業みたいなものを自分たちが持って、そこの収入を費やしてそういうものを作っていかないと勝てないと思っています。

質問者A
私もそのあたりが一番のネックではないかと思いますが、ただし、こういう集まり(明大土曜会)もやっていかないとどうしようもないということで10数年続けていますが、もう少し頑張るつもりです。

(終)

【『はたちの時代』の紹介】
重信房子さんの新刊発売!
『はたちの時代』(太田出版) 2023年6月16日刊行
はたちの時代

前半は66年から68年までの明大学費闘争を中心とした時期のこと(この部分は私のブログに「1960年代と私」というタイトルで掲載したものです)。
後半は69年から72年までの赤軍派の時期のことが書かれています。
定価 2,860円(税込

本のアマゾンリンクはこちらになります。

「模索舎」のリンクはこちらです。

「あとはき」より
『ここに書かれた記録は、ごく日常的な私自身の身の回りで起こったことを率直に書き記したものです。その分、他の人が書けば全く違った関心角度から違った物語がこの時代のエピソードとして描かれることでしょう。私は獄に在って、何度か癌の手術を繰り返していました。生きて出られないことがあっても、支えてくれる旧友や、見ず知らずの方々にお礼を込めて、私の生き方、どんなふうに生きてきたのかを記録しておきたいと思ったのが、この記録の始まりです。私がどのように育ち、学生運動に関わり、パレスチナ解放闘争に参加しどう生きて来たのか、マスメデイアでステレオタイプに作り上げられた私ではなく、生身の私の思いや実情を説明しておきたくて当時を振り返りつつ記して来ました。獄中と言うのは、集中して文章を書くのに良いところで、ペンをとって自分と向き合うと過去を素直に見つめることが出来ます。楽しかった活動や誇りたいと思う良かった事も、間違いや恥かしい事や苦しかったことも、等しく価値ある人生であり私の財産だと教えられた気がします。(中略)どんなふうに戦い、どんな思いをもって力を尽くし、そして破れたのか、当時の何万という「世の中を良くしたい」と願った変革者の一人として、当時の何万と居た友人たちへの報告として読んでもらえたら嬉しいです。また当時を若い人にも知ってほしいし、この書がきっかけになって身近に実は居る祖父や祖母たちから「石のひとつやふたつ投げたんだよ」と語ってもらい、当時を聴きながら社会を知り変えるきっかけになれば、そんな嬉しいことはありません。
いまの日本は明らかに新しい戦争の道を進んでいます。いつの間にか日本は、核と戦争の最前線を担わされています。そんな日本を変えていきたいと思っています。決して戦争をしない、させない日本の未来をなお訴え続けねばと思っています。なぜなら日本政府が不戦と非戦の国是を貫くならば日本の憲法には戦争を押しとどめる力があるからです。はたちの時代の初心を忘れず日本を良い国にしたい。老若男女がこぞって反戦を訴え支える日本政府を実現したいと思います。』

目次
第一部 はたちの時代 
第一章 はたちの時代の前史
1 私のうまれてきた時代/2 就職するということ 1964年―18歳/3 新入社員、大学をめざす
第二章 1965年 大学に入学した
1 1965年という時代の熱気/2 他人のための正義に共感/3 マロニエ通り
第三章 大学生活をたのしむ
1 創作活動の夢/2 弁論をやってみる/3 婚約/4 デモに行く/5 初めての学生大会/6 研連執行部として

第二部 明治大学学費値上げ反対闘争
第四章 学費値上げと学生たち
1 当時の牧歌的な学生運動/2 戦後民主主義を体現していた自治会運動/3 話し合いの「七・二協定」/4 田口富久治教授の嘲笑   
第五章 自治会をめぐる攻防
1 スト権確立とバリケード――昼間部の闘い/2 Ⅱ部(夜間部)秋の闘いへ/3多数派工作に奔走する/4 議事を進行する/5 日共執行部案否決 対案採択
第六章 大学当局との対決へ 
1 バリケードの中の自治/2 大学当局との激論/3 学費値上げ正式決定/4 収拾のための裏面工作/5 対立から妥結への模索/6 最後の交渉と機動隊導入  
第七章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書―二・二協定の真相/2 覚え書き(二・二協定)をめぐる学生たちの動き

第三部 実力闘争の時代
第八章 社学同参加と現代思想研究会
1―1967年 一 私が触れた学生運動の時代/2 全学連再建と明大「二・二協定」/3 明大学費闘争から再生へ 
第九章 社学同への加盟
1 社学同加盟と現代思想研究会/2 現思研としての活動を始める/3 67年春、福島県議選の応援/4 今も憲法を問う砂川闘争/5 あれこれの学内党派対立/6 駿河台の文化活動
第十章 激動の戦線
1 角材を先頭に突撃/2 10・8闘争の衝撃/3 三里塚闘争への参加/4 68年 5月革命にふるえる/5 初めての神田カルチェラタン闘争―1968年6月/6 68年国際反戦集会の感動 

第四部 赤軍派の時代 
第十一章 赤軍派への参加と「七・六事件」
1 激しかったあの時代/2 1969九年の政治状況/3 4・28縄闘争/4 赤軍フラクション参加への道/5 藤本さんが拉致された、不思議な事件/6 7月5日までのこと/7 69年7月6日の事件/8 乱闘―7月6日の逆襲/9 過ちからの出発
第十二章 共産主義者同盟赤軍派結成 
1 女で上等!/2 関西への退却/3 塩見さんらの拉致からの脱走/4 共産同赤軍派結成へ
第十三章 赤軍派の登場と戦い
1 葛飾公会堂を訪れた女/2 「大阪戦争」/3 「東京戦争」/4 弾圧の強化の中で/5 支えてくれた人々/6 前段階蜂起と組織再編/7 大敗北―大菩薩峠事件/8 初めての逮捕――党派をこえた女たちの連帯
第十四章 国際根拠地建設へ
1 前段階蜂起失敗のあと/2 よど号ハイジャック作戦/3 ハイジャック闘争と日本委員会/4 深まる弾圧――再逮捕/5 思索の中で

第五部 パレスチナ連帯と赤軍派との乖離(かいり)の中で
第十五章 パレスチナ連帯の夢
1 国際根拠地パレスチナへ/2 赤軍派指導部の崩壊/3 森恒夫さん指導下の赤軍派/4 パレスチナへの道
第十六章 パレスチナから見つめる
1 ベイルートについた私たち/2 統一赤軍結成/3 アラブの私たちー―赤軍派との決別/4 新党結成の破産/5 アラブから連合赤軍事件を見つめて/6 連合赤軍の最後とアラブの私たち/7 新たな変革の道を求めて

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在15校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は7月28日(金)に更新予定です。

↑このページのトップヘ