今回のブログは、『構造』(1971年6月号)に掲載された「戦線から」である。この「戦線から」では、毎号、労働戦線やマスコミ戦線など多様な現場で闘っている人たちの現状を掲載していたが、この号では、日本医科大学の看護学院の闘争が掲載された。
全国学園闘争の記録シリーズとして、ブログに掲載する。
(1)
看護学院とはむろん看護婦を養成する場であり、通常正看、准看の二種が各々髙卒三年中卒二年という特殊教育を受け国家試験(准看は検定試験)に合格して看護婦となる。
しかしながらここで看護教育の内実を見るならば、まさしく若干の医療知識と技術を教え込み、医師の介助が速やかに行ない得るような働く人間を創り上げることであり、その場においてナイチンゲール精神、白衣の天使という美しすぎる名言は巧みに利用され、イデオロギー統制に一役買っているのである。
すなわち、患者には笑顔で、奉仕と犠牲の精神を、聖く美しく、というような超人間的な従順な看護婦を全寮制度という集団生活を通し、毎朝の朝礼における”ナイチンゲール誓詞”の斉唱を通し、自主規制、相互管理、そして寮生活に対する関与(24時間教育)をもって叩き込まれるのである。
さらに多くの看学では奨学金制度があり、義務年限をつけることによって労働者確保の契約を行なう。そのことはまさしく、看護教育そのものが、看護としての実用的な人間を再生産するために措定され、現在圧倒的な看護婦不足を補充すべく存在していることを如実に示しているだろう。
(2)
このような中での看護教育は、きわめて押しつけ、強制の前近代的抑圧下にあった(否現在的にもある)訳だが、一昨年3月、私達の看学においては、長期休暇中の寮閉鎖強行に反対する=学生自治権確立の内容をもって看学史上初の全学無期限ストラィキに突入した。
56日間の話し合い(大衆団交)要求闘争の中で私たちがより強く確認して行ったのは、教務は看護教育者ではなく、まさに私たちをより使いやすい労働者に仕立て上げて行くところの管理者であり、彼女らにとって、精神看護、患者中心の看護、看護婦の主体性などというものは単なることばであり、私達学生が一歩踏み出そうとすると必ず権力の手先となって私たちに敵対してくるものであること。そしてさらに、私たちが常に労働者として抑圧されていると同時に、現体制に呑み込まれていく限りにおいては、自らも労働者を抑圧し患者を搾取する立場にならざるを得ないこと。そして私達のストラィキの中での運動が、継続されなければならないことを確認し、学生の利益を追求し、権力支配に対決すべく闘う自治会を結成した。
そして自治会運動が単なる諸要求の物取り主義的なものとしてあるのではなく、現体制における根底的矛盾を止揚すべく闘う中での諸要求として捉えていかなければならないことを確認しなければならないだろう。
自治会結成以降、私達の運動は、1強制奨学金撤廃=強制義務年限撤廃、 2一年生のみの全寮制度廃撤廃、3奨学金返済(即時全額返済、もしくは2年間の義務年限)方法改正、4卒後人員配置自主管理、5千駄木祭(学部共催)貫徹の五つのスローガンを掲げると同時に、個別運動のみに自治運動を限定するのではなく、根底的矛盾を陰ペィし支配、抑圧しているところの資本主義体制そのものを堅持している政府権力へ向けての闘いを主体的に取り組んで来た。
(3)
現在、私達はこのような自治運動の一環として、1月27日、昨年1月から問題視されていた卒業試験の暖昧性(総じて看護教育が個別病院に見合ったような形で、その都合に合わせてカリキュラムを組んでいるところの持つ曖昧性ではあるが)を教務に追求したところ、明確な卒試の位置付けを提出することができず最終的には教員会議(教授会に匹敵)決定である、学則であると逃げまわり、学生の教員会議との話し合い要求を無視したまま、卒試を強行した当局に対し、卒試ボィコットから全学無期ストを闘っている。
3ヶ月余りになるこの闘争に対し、教員会議は一切の話し合いに応じようとせず、父兄を使った卑劣な分断策動を行ない、さらには全員(スト破り13名を除いて)留年処分を行なつて闘争を圧殺しようとしている。
私達はこの3ケ月の闘争の中で今最後の夕イムリミットを5月10日に控え、再度私達の総括を検討しなければならない。
すなわち、医療総体の矛盾がまさに現体制を擁護するものとして権力支配の一手段として再編され、さらには72年沖繩返還による日帝の東南アジア侵略に先駆けてAMO(アジア医療機構)による東南アジアへ向けての医療援助という形で侵略、反革命統制(民生安定)さらに防衛大医学部設置、日赤看護婦の従軍体制強化、国際医科大学新設(後進国開発の名による侵出)etcと、69年日米共同声明以降の軍事外交路線は着々と進行し、さらに国内的に.は、反戦派学生、労働者のパージ、資本の独占化、銀行の合併等々、労働者への抑圧はますます強化され、階級対立はさらに深化している。
このような中で私達は、単なる自己利害に基くところの、物取り主義として自らを措定するのではなく、すなわち現体制の枠内での自己権利の拡大を目的とするのではなく、資本制生産様式そのものの根底を突き、打倒すベく労働者の連帯を強化し、目的意識的闘いを深化させなければならないだろう。
さらに当面、民青看学連によって自らの犯罪性をより延命しているところの全国の看学生諸君に対し、闘争の本質をより鮮明な形で提起していかなければならない。
連絡先
東京都文京区根津一の二五の二
日医大看学自治会
以上が『構造』(1971年6月号)に掲載された記事であるが、これだけでは日医大闘争の様子がよく分からない。
そこで、Web上で公開されている「戦後医学生運動史」の中から、日医大に関する部分を抜粋して掲載する。この「戦後医学生運動史」は、日医大出身の下司孝之氏が作成したものであるが、転載の諒解をいただいた。
【「戦後医学生運動史」より抜粋】
●1969年
3月15日 日本医大高看「自治会公認・休校中寮閉鎖粉砕・処分者を出すな」でスト突入。
4月26日 日本医大・闘う学友会執行部を選出。日医大においては4月26日、有効投票数の75%の信任票を得て委員長に堀内貞君、副委員長に上田基君(学部)、落君(教養)を選出。具体的な活動方針として三統一候補は①健保改悪阻止・安保粉砕、②新丸子学園闘争→独立学館・自治寮獲得、③看学闘争支援、④千駄木学生会館獲得、⑤学生祭としての千駄木祭貫徹→サークル運動の質的展開、⑥学生部粉砕を選挙時にスローガン化して全学友に提出している。スト解除後も粘り強い闘争を継続する看学自治会・4月からの寮監廃止、入寮自主調整権を勝ち取った意進寮友会との共同歩調を提起している。日医研修協約スト突入二周年記念日でもある4・28沖縄闘争には大衆的学内統一戦線である安保評議会(準)に約20名が結集して組織的に最後まで闘った。
4月28日 日本医大沖縄闘争に20名参加。
5月 6日 日本医大・学友会全学第一回中央委員会では全員一致で看学自治会闘争支援(寮友会は総会で反対なしで決)を確認、代表3名が看学自治会に教授の学友会デマ流布の説明に出向き5・16を闘争委員会で闘い抜く事を確認した。
6月15日 日本医大安保評を労学40名で結成。医学連統一行動へ35名参加。
6月24日 日本医大医進課程1日スト。
6月25日 日本医大医進課程・自主管理運営による学生会館を要求してスト突入
6月27日 日本医大C・200名の学内デモ。M1スト権確立。
6月28日 日本医大・全学大会でスト決行ならず。
7月 8日 日本医大C闘・キャンパス全面バリスト突入。私立医大では始めて、MD・Cまで武装デモ。
7月10日 日本医大C闘・一時バリ自主解除スト凍結(145対3対3)夏季休暇へ。
9月17日 日本医大医進・スト再突入。
9月29日 日本医大C闘・キャンパスバリストに突入。40名でバリ構築。
10月20日 日本医大C・学館闘争勝利し51日目のバリ解除、21日の闘争に備える。
10月26~31日 日本医大・第12回『千駄木祭』「自己-学問-社会」(副題)-矛盾と疎外の中から新しい学問象を模索して-をテーマに開催。映画『市民ケーン』『オレはロボットか-パリ国鉄労働者-』上映。講演『生誕幻想論』批評家・詩人・吉本隆明、『コンピューターと人間』東京大学工学部教授・南雲仁一、『医療労働運動を展望して』青医連委員長・宇都宮泰秀、『不毛の球体』女優・緑魔子。
12月13日 日本医大・11.16佐藤訪米阻止闘争検挙者のレッド・パージ阻止総決起集会。
●1970年
1月16~18日 日本医大C闘・処分策動粉砕マラソン団交。12・26に進学教授会で処分案を決議していたことも隠蔽。議事録を突きつけるまで態度を変えなかった。
1月17日 日本医大Cの16~17日、大衆ストを背景にC闘委武装行動隊を中心に医学連・看学共闘・国府台地区学評・習志野反戦などの同志と国府台総決起集会後、座り込みに入った。
1月18日 日本医大医進キャンパス・38時間の午前4時教授会と合意『処分を出さない旨の決議を22日に行う。但しストを下ろす、という内容の誓約書に判を押してきた。』の後、朝方、大学当局が高橋末雄理事長・石川正臣学長他30名、上野精養軒よりプラカードを持ちCキャンパスに乗り込み協定破棄。市川警察に駆け込んだが、拘束はしていなかったし、『解放』要求もなかったので教授監禁罪は成立せず、起訴は出来なかった。
1月22日 日本医大C・無期停学7名、そのうち2名は退学、譴責9名の大量処分。ただちに撤回で無期スト突入。M1・M2が時限スト入り。
1月27日 日本医大・学部で開かれた進学課程教授会粉砕闘争、逃げられる。
1月28日 日本医大・譴責処分者の父兄呼び出しを実力で粉砕。
1月29日 日本医大・M1・M2が処分撤回で無期限スト
2月 4日 日本医大C・逆バリ・ロックアウトを大衆的に突破。当局は鉄条網など250万で設置。支援カンパは国府台寮友会気付け全学闘争委員会で受付。
2月 9日 日本医大・反レパ医学連都総決起行動。1時文京区千駄木日医大・学部。
2月10日 日本医大C・正門、松戸街道バリ・火炎瓶反レパ闘争。
10月31~11月3日 日本医大・第13回『千駄木祭』「医学医療の荒廃」(副題)-再度根源に帰って-をテーマに開催。映画『戦カンポチョムキン』(セルゲイ・エイゼンシュテイン監督27歳の作品)『禁じられた遊び』『ヒロシマ-ナガサキ・1945年8月』上映。講演『三里塚の闘い』三里塚空港反対同盟委員長・戸村一作、『医学原論』東大物療内科講師・高橋晄正、『烏山病院』烏山病院闘争委員会・佐藤医師。
●1971年
1月25日 日本医大看学・卒試撤廃・カリキュラム・実習問題で全学スト突入。
2月21日 日本医大・看護学生就労拒否 日本医科大学法人・高橋末雄理事長を「日本医大5人を守る会」が1月22日レッド・パージとして告訴。2月21日に初公判。
3月 1日 日本医大看学・スト勝利決起集会。看共闘、医学連参加。
4月28日 日本医大看学スト・95日目に解除して沖縄闘争へ。医学連・清水谷沖縄集会(蜂起派)
5月 8日 日本医大看学自治会の5名に無期停処分。雑誌『構造』6月号に詳細。
11月 3日 日本医大・看学就労学内デモを40名で。
●1972年
5月17日 日医大・看学生の就職拒否、東京地裁で医学連も支援し40名が傍聴。九大や福井看学でも同様な就職拒否が判明。
7月19日 日本医大・看護婦就職差別公判・闘う5人の看護婦を守る会。AM10時・地裁。
●1973年
1月27日 日医大から就職拒否にあった看護婦「日本医大5人を守る会」は東京地裁での就労裁判の後、千駄木の汐見福祉会館で裁判一周年討論会開催。
(終)
【『はたちの時代』の紹介】
重信房子さんの新刊発売!
『はたちの時代』(太田出版) 2023年6月16日刊行
前半は66年から68年までの明大学費闘争を中心とした時期のこと(この部分は私のブログに「1960年代と私」というタイトルで掲載したものです)。
後半は69年から72年までの赤軍派の時期のことが書かれています。
定価 2,860円(税込
本のアマゾンリンクはこちらになります。
「模索舎」のリンクはこちらです。
江刺昭子さんによる本の書評(紹介)です。(47ニュースより)
https://nordot.app/1051909235439075336?c=39546741839462401
「あとはき」より
『ここに書かれた記録は、ごく日常的な私自身の身の回りで起こったことを率直に書き記したものです。その分、他の人が書けば全く違った関心角度から違った物語がこの時代のエピソードとして描かれることでしょう。私は獄に在って、何度か癌の手術を繰り返していました。生きて出られないことがあっても、支えてくれる旧友や、見ず知らずの方々にお礼を込めて、私の生き方、どんなふうに生きてきたのかを記録しておきたいと思ったのが、この記録の始まりです。私がどのように育ち、学生運動に関わり、パレスチナ解放闘争に参加しどう生きて来たのか、マスメデイアでステレオタイプに作り上げられた私ではなく、生身の私の思いや実情を説明しておきたくて当時を振り返りつつ記して来ました。獄中と言うのは、集中して文章を書くのに良いところで、ペンをとって自分と向き合うと過去を素直に見つめることが出来ます。楽しかった活動や誇りたいと思う良かった事も、間違いや恥かしい事や苦しかったことも、等しく価値ある人生であり私の財産だと教えられた気がします。(中略)どんなふうに戦い、どんな思いをもって力を尽くし、そして破れたのか、当時の何万という「世の中を良くしたい」と願った変革者の一人として、当時の何万と居た友人たちへの報告として読んでもらえたら嬉しいです。また当時を若い人にも知ってほしいし、この書がきっかけになって身近に実は居る祖父や祖母たちから「石のひとつやふたつ投げたんだよ」と語ってもらい、当時を聴きながら社会を知り変えるきっかけになれば、そんな嬉しいことはありません。
いまの日本は明らかに新しい戦争の道を進んでいます。いつの間にか日本は、核と戦争の最前線を担わされています。そんな日本を変えていきたいと思っています。決して戦争をしない、させない日本の未来をなお訴え続けねばと思っています。なぜなら日本政府が不戦と非戦の国是を貫くならば日本の憲法には戦争を押しとどめる力があるからです。はたちの時代の初心を忘れず日本を良い国にしたい。老若男女がこぞって反戦を訴え支える日本政府を実現したいと思います。』
目次
第一部 はたちの時代
第一章 はたちの時代の前史
1 私のうまれてきた時代/2 就職するということ 1964年―18歳/3 新入社員、大学をめざす
第二章 1965年 大学に入学した
1 1965年という時代の熱気/2 他人のための正義に共感/3 マロニエ通り
第三章 大学生活をたのしむ
1 創作活動の夢/2 弁論をやってみる/3 婚約/4 デモに行く/5 初めての学生大会/6 研連執行部として
第二部 明治大学学費値上げ反対闘争
第四章 学費値上げと学生たち
1 当時の牧歌的な学生運動/2 戦後民主主義を体現していた自治会運動/3 話し合いの「七・二協定」/4 田口富久治教授の嘲笑
第五章 自治会をめぐる攻防
1 スト権確立とバリケード――昼間部の闘い/2 Ⅱ部(夜間部)秋の闘いへ/3多数派工作に奔走する/4 議事を進行する/5 日共執行部案否決 対案採択
第六章 大学当局との対決へ
1 バリケードの中の自治/2 大学当局との激論/3 学費値上げ正式決定/4 収拾のための裏面工作/5 対立から妥結への模索/6 最後の交渉と機動隊導入
第七章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書―二・二協定の真相/2 覚え書き(二・二協定)をめぐる学生たちの動き
第三部 実力闘争の時代
第八章 社学同参加と現代思想研究会
1―1967年 一 私が触れた学生運動の時代/2 全学連再建と明大「二・二協定」/3 明大学費闘争から再生へ
第九章 社学同への加盟
1 社学同加盟と現代思想研究会/2 現思研としての活動を始める/3 67年春、福島県議選の応援/4 今も憲法を問う砂川闘争/5 あれこれの学内党派対立/6 駿河台の文化活動
第十章 激動の戦線
1 角材を先頭に突撃/2 10・8闘争の衝撃/3 三里塚闘争への参加/4 68年 5月革命にふるえる/5 初めての神田カルチェラタン闘争―1968年6月/6 68年国際反戦集会の感動
第四部 赤軍派の時代
第十一章 赤軍派への参加と「七・六事件」
1 激しかったあの時代/2 1969九年の政治状況/3 4・28縄闘争/4 赤軍フラクション参加への道/5 藤本さんが拉致された、不思議な事件/6 7月5日までのこと/7 69年7月6日の事件/8 乱闘―7月6日の逆襲/9 過ちからの出発
第十二章 共産主義者同盟赤軍派結成
1 女で上等!/2 関西への退却/3 塩見さんらの拉致からの脱走/4 共産同赤軍派結成へ
第十三章 赤軍派の登場と戦い
1 葛飾公会堂を訪れた女/2 「大阪戦争」/3 「東京戦争」/4 弾圧の強化の中で/5 支えてくれた人々/6 前段階蜂起と組織再編/7 大敗北―大菩薩峠事件/8 初めての逮捕――党派をこえた女たちの連帯
第十四章 国際根拠地建設へ
1 前段階蜂起失敗のあと/2 よど号ハイジャック作戦/3 ハイジャック闘争と日本委員会/4 深まる弾圧――再逮捕/5 思索の中で
第五部 パレスチナ連帯と赤軍派との乖離(かいり)の中で
第十五章 パレスチナ連帯の夢
1 国際根拠地パレスチナへ/2 赤軍派指導部の崩壊/3 森恒夫さん指導下の赤軍派/4 パレスチナへの道
第十六章 パレスチナから見つめる
1 ベイルートについた私たち/2 統一赤軍結成/3 アラブの私たちー―赤軍派との決別/4 新党結成の破産/5 アラブから連合赤軍事件を見つめて/6 連合赤軍の最後とアラブの私たち/7 新たな変革の道を求めて
【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。
●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在15校の投稿と資料を掲載しています。
【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は8月18日(金)に更新予定です。