2023年10月8日は、1967年の10・8羽田闘争から56年目となる。この日は10・8山﨑博昭プロジェクト主催により、午前に羽田・弁天橋での山﨑博昭君追悼及び萩中公園近くのお寺にあるお墓のお参り、そして午後には蒲田で記念集会があった。
(チラシ)
2023年10月8日(日)
【献花・黙祷@弁天橋】
午前11時
(弁天橋)
(欄干のメッセージ)
午前11時15分
(広場に集まる参加者)
午前11時30分
弁天橋前での追悼の小集会が始まった。参加者は30数名。
(山﨑建夫さん挨拶)
「おはようございます。今日もたくさん集まっていただいて本当にありがとうございます。こんなに集まるとは思っていなかったです。
これから行くお地蔵さんですが、お地蔵さん作って思ったことがあるんです。あちこちでお地蔵さん見かけるけども、今まで特に気にしていなかったんですけけど、それぞれのお地蔵さんに、それぞれの人たちや家族の思いを込めて作っているんだなと、そういう立場になってよく分かりました。
今日は長い1日ですけれども、よろしくお願いします。」
(佐々木幹郎さん発言)
「お地蔵さんというのは、向こうに見える東京湾の水難事故の人たちのお堂があります。そのお堂のところに私たちが山﨑地蔵と呼ぶ地蔵菩薩が鎮座しています。
ここでの黙祷が終わったら、全員でお参りしていただきたいと思います。ちょうど地蔵が、山﨑博昭が斃れた弁天橋に向くようにしてあります。
(山﨑博昭は)11時30分から40分、機動隊の警棒によって撲殺されました。マスコミなどは装甲車によって轢き殺されたというフレームアップをしましたけれども、私たちは2017年に「50年目の真相究明」『かつて10・8羽田闘争があった[寄稿篇]』所収)ということで、99.9%機動隊によって殴り殺されたと立証しています。
誰が何と言おうとも、私たちはこの7年間、毎月8日の日にここに集まって、月命日のお参りをしてまいりました。ここに来るたびに、私は18歳、19歳の時に毎回戻ることができます。こんな珍しい場所はないと、私はいつも思っています。今日も来る時に、山﨑(博昭)が弁天橋の向こうで待機していた場所から橋を渡ってきました。そのたびに感慨、思い出すことは毎回違います。とても面白い。我々は、幸い後期高齢者になってもここまで生き延びてきました。その18歳、19歳の時よりもっと長い物語を皆持っていると思うんです。それをクリアして今日はここに集まって、そして、それを知らない若い世代の方も今日は集まって下さって、とても嬉しいことです。
(黙祷)
(記念撮影)
【五十間鼻無縁仏堂の平和地蔵にお参り・献花】
午前11時50分
五十間鼻無縁仏堂の前に到着。
仏堂に渡る桟橋の前には由来を記した看板がある。
<五十間鼻無縁仏堂の由来>
創建年代は不明でありますが、多摩川、又関東大震災、先の第二次世界大戦の昭和二十年三月十日の東京大空襲の折には、かなりの数の水難者が漂着いたしました。その方々をお祀りしていると言われております。
元は、多摩川河口寄りの川の中に角塔婆が一本立っているだけでありましたが、初代漁業組合長故伊東久義氏が管理し、毎年お盆には盆棚を作り、有縁無縁の御霊供養をしていました。昭和五十三年、護岸工事に伴い現在地に移転しました。その後、荒廃著しく、仲七町会小峰守之氏、故伊米次郎氏、大東町会故伊東秀雄が私財を持ち寄り復興致しました。(後略)
(鳥居の前の広場から見た五十間鼻無縁仏堂)
水難者をお祀りするために作られたお堂で、地元の方々が護っている。
「五十間鼻」という名前は、大田区観光協会のサイトによると
「水中に長さ50間(約90m)に渡り石を敷き詰め、洪水時の急流から岸辺を守るために作られました。水難事故者を供養する無縁仏堂が建てられています」とある。
潮が引くと、五十間の長さの鼻のような形の石積みが水中から姿を現す。こ
桟橋を渡るとお堂があり、ここに「平和地蔵」がある。「平和地蔵」は、羽田闘争50周年の2017年10月に、山﨑博昭プロジェクト発起人によりここに祀られた。台座には「山﨑博昭」の名前が刻まれており、弁天橋に向かって立ち、平和への祈りを続けている。
(平和地蔵に手を合わせる参加者)
(平和地蔵)
「平和地蔵」へのお参りが終り、参加者は萩中公園に向かった。
萩中公園までは歩けない距離ではないのだが、参加者の皆さんも高齢となり、短い距離ではるがバスに乗車して向かう。
(福泉寺)
【福泉寺の墓碑と記念碑の前にてお参り・献花】
午後零時25分
参加者は本堂の裏手の墓地の入り、入り口近くにある山﨑博昭君の墓碑と記念碑の前に集まった。
(山﨑博昭の墓碑)
墓碑の山﨑博昭の文字は、昔の中国の青銅器の時代に青銅器の周りに彫り込まれた「金文(きんぶん)」という文字である。山﨑博昭君の高校3年生の時の同級生だった書道家の川上吉康氏が書いたものである。
(墓誌文章)
「反戦の碑」
1967年10月8日 アメリカのベトナム戦争に加担するために日本首相が南ベトナムを訪問 これを阻止するために日本の若者たちは羽田空港に通じる橋や高速道路を渡ろうとし デモ禁止の警察と激しく衝突 重傷者が続出し 弁天橋の上で京都大学1回生 山﨑博昭が斃れる 享年十八歳 再び戦争の危機が高まる50年後の今日 ベトナム反戦十余年の歴史をふり返り 山﨑博昭の名とともに かつても いまも これからも 戦争に反対する というわたしたちの意志を ここに伝える
2017年10月8日
10・8山﨑博昭プロジェクト
代表・兄山﨑建夫 建立
(墓碑を入れての記念撮影)
参加者は公園内にある集会所の地下の食堂や、借りている集会室で昼食。
事務局メンバーはバスで午後の集会の会場である蒲田の大田区消費者生活センターに向かった。
【56周年記念集会】
大田区消費者生活センター2階 大会議室
「10・8羽田闘争56周年~半世紀を超えて戦争反対の思いは今~」
午後2時
(北井一夫さんの写真)
(受付の様子)
●開会・代表挨拶
午後3時
(司会の佐々木幹郎さん)
15時になりましたので開会させていただきます。私は司会の佐々木幹郎と申します。
10・8山﨑博昭プロジェクト2023年秋の東京集会です。タイトルは「半世紀を超えて戦争反対の思いは今」。私たちは今日、弁天橋に11時半に集まり、黙祷し、そして五十間鼻無縁仏堂にある山﨑地蔵にお参りをして、そこから福泉寺にある墓碑および墓碑銘にお参りをしてきました。総勢、大体40人の方が集まっていただいて、大変賑やかな会になりました。
山﨑が死んでから56年、こんなに多くの方々が山﨑のことを思い出して今日集まって下さったことを本当に感謝いたします。
(山﨑建夫さん挨拶)
たくさん来ていただいてありがとうございます。ちょっと寂しくなるかなと心配していたけど、そんなことない。朝(午前中)も結構たくさん集まっていただいてビックリしました。
一つだけしょうもない話をしますけど、菊の話。去年、事務局の人から「弟さん、菊の花が好きやったね」と言われて、「そんなことないですよ」と言ったら、「本に書いてあったんですよ」と言われて、「どこの本か教えて」ということで、その時はそれまでの話だったんです。
機会があって、僕たちが作った本『かつて10・8羽田闘争があった』の資料編の中の週刊誌の記事の中に、「お前(弟)が好きだった菊の花を供えよう」なんていう一文があるんですよ。弟と菊が好きだというような話をしたことないし、もちろん記者が書いた記事に目を通しているんですよ。目を通しているけれども、文の流れがいいし、それでいいかなと思ってたぶん認めたんやね。菊の話がどうなってくるか、あまり意識していなかったですね。
中学2年生のころには、家に日の丸の旗がないのを不思議がって、「何でうちにないの」と言ったら、ただ貧しかったので無かっただけなんですが、親が買ってきたのを覚えています。
だから日の丸や菊についてはその程度の認識しかなかったから、記事の内容も許してしまったと思うんです。あの記事については、弟が菊を好きだったわけではありませんので、訂正させていただきます。
あと今日は(会場に)10・8の写真もありますけれど、僕はさっき言った程度の政治的認識だったんだけれども、10・8で何が何だか分からないような青天の霹靂で、突然起こった出来事で、しかも被害者が自分の弟であるというところで、とにかく動転していましたね。
大学3年生、4年生の間は様子を見ているだけでしたけれど、自然に学生の側に身を置いていましたね。そこからいろいろ勉強もしていった、そんな感覚なんです。
(会場の様子)
佐々木幹郎
今日は第1部と第2部に分かれていまして、第1部は映画上映『怒りをうたえ』です。これは全体をDVDにして販売されているんですけれど、大変長いです。今日は、その編集委員会の東條守さんから『怒りをうたえ』をこの会用に45分にまとめた編集版をみなさんに観ていただきます。
解説を東條守さんからお願いします。日大全共闘の文理学部の情宣部長をやっておられました。東條さん、どうぞ。
●第1部 映画『怒りをうたえ』編集版上映
<解説>
(DVD編集委員会 東條守さん)
本日は、羽田闘争56周年ということでありますので、私と山﨑博昭さんとの関わりを最初に述べさせていただきます。
10月8日当日、日大の2年生で羽田弁天橋にいた私は、その日亡くなったのが京都大学の学生らしいというのが分かる程度でした。ここに『かつて10・8羽田闘争があった』資料編を持ってきました。この本の332ページに「変革のパトス」という(ビラの)写真が掲載されています。これは山﨑君が所属していた京都大学のマル学同京大支部機関誌の名前になります。山﨑君がガリ切りをして、あるいは原稿を書いたかもしれないビラです。この本のおかげで、すっかり忘れていたことを思い出しました。
(「変革のパトス」『かつて10・8羽田闘争があった』資料編より転載)
1968年に日大闘争が始まり、文理学部闘争委員会が発足し、闘争委員会の機関誌を出すことになり、情宣部長だった私の仕事になりました。機関誌名をどうするか。その時閃いたのは、日大の変革と日大生の性格、どちらかと言うとロゴスよりは決起の心、パトスが似合うだろうということで、「変革のパトス」と機関誌名を決めました。もちろん、京大の山﨑君のところと同じ名前だということは承知していましたが、彼の志を受け継ぎ、私の決意でもあり、他の選択はありませんでした。私と山﨑君とを繋ぐ一つのエピソードです。
さて、本日のテーマになります。これから上映をいたします『怒りをうたえ』は、本日のプログラムとの関係で45分と依頼されていました。第1部から第3部までを紹介していくと、どう短縮しても、49分40秒の作品となり、依頼より5分多くなりました。
私がDVD版の編集に関わる時、最初に考えたのはこの問題でした。ユーチューブに『怒りをうたえ』がアップされていることは知っていました。若い人に『怒りをうたえ』を観てもらいたいという動機が最初にありましたから、どうしたらユーチューブに慣れた若い人にも手軽に観てもらえるか、編集されていない長編記録映画は、やはりユーチューブでもしんどいに違いないと思いました。興味ある闘い、あの集会の場面だけ観たいという若者、あるいは視聴者には8時間の長編動画はストレスに感じることも少なくありません。
そこでどうするか。今回のDVD新編集版『怒りをうたえ』で参考にしたのは、ユーチューブでも使われているチャプター機能です。チャプター機能を使うことにより、書籍の目次と同じように、動画に収められている各項目が一目で分かるようになります。チャプターがあれば、自分が観たい場面だけに絞って観ることができます。結果的に若者、視聴者の利便性が高まり、『怒りをうたえ』に好印象を持ってもらえる可能性が高まります。今回は8時間作品を、DVD3枚組24チャプター、ナレーションの字幕付きとして編集しました。手短に観たい場面だけを自宅で、あるいは何人かで会議室で観る、テーマ別に運動、闘いの意味を深く理解するために、何度か繰り返し鑑賞するというニーズに答えております。
主だった編集箇所は次のとおりです。
第1部から第3部までの本編に、それぞれ各8個のチャプターを入れ、シーン選択が出来るようにしました。そのためにメニュー付DVDとして作成ました。(中略)
『怒りをうたえ』ではナレーションがたくさん入っています。それにすべて字幕を付けて編集しております。とても観やすいと思います。
また、登場する数多くの労働者、学生、市民、活動家、農民、政党、労組幹部の肩書と氏名を、可能な限り表示しました。
闘争下の合唱の場面が何度も出てきます。「インターナショナル」「ワルシャワ労働歌」など。若い人にも共有していただければと、曲名と歌詞の字幕を入れました。60年安保闘争で亡くなった樺美智子さんの墓前祭で流れてくる「同志は倒れぬ」「忘れまい6・15」などは、本DVD版で覚えていただきたい歌詞とメロディーです。
宮島義勇監督は、1998年に89歳で逝去されましたが、撮影に当たっての基本姿勢は「機動隊の後ろから撮るな。闘争している側から撮れ」と常に言われていたそうです。また、「この記録映画は芸術作品ではなく政治的アジビラとして観てもらいたい。君たち、アジビラとして受け取りたまえ。手から手へ、自分の手で」と語っています。
DVD版『怒りをうたえ』は、アジビラに一歩でも近づいていれば幸いです。
最後に1992年10月以降、『怒りをうたえ』上映実行委員会が結成されて、上映運動が行われていました。その趣旨を引き継ぎ、政治に関心が薄いように見える現在の若者に観てもらい、彼らに政治への関心を高めてもらいたいと思います。各地で行われている集会に足を運び、このDVD版『怒りをうたえ』を宣伝し、広めていきたいと思っています。
沖縄・辺野古の新基地建設の強行を許さず、国が県に代わって承認する代執行に抗議し、訴状の取り下げを求めて闘っていきましょう。
それでは『怒りをうたえ』ダイジェスト版をご覧ください。
佐々木幹郎
映画の上映がこれで終わりました。やはりかなり短く編集されたので、もうちょっと見たいというところで終わったりして、我々の世代が観ると、「ああ、あそこに自分がいたかもしれない」という感慨をいくつも覚えます。ですから、懐かしくご覧になった方も居られると思いますけれども、また、今日参加くださっている若い人の中では、よくこれだけ人が集まったなと、実際映像を観ないと文書だけでは分からないですよね。でも映像で観ると、本当にこんなに人が集まっているんだということがよく分かると思いますし、今日も参加しておられます山本義隆さんの若い時のアジ演説がありましたけれども。
「戦争反対の思いは今」と今回名付けましたけれど、やっぱりこの映像を観ると、あの時の思いはそのまま、ほとんど骨格の中に残っているなという感じが私なんかはしてしまいます。
もう一つ紹介しておきますが、今日は重信房子さんが来ておられまして、重信房子さんの『はたちの時代―60年代と私』という本が出ております。あの映像の中に映っていましたでしょうか?この本を欲しいという方は申し込んで下さい。よろしくお願いします。
(会場の重信房子さん)
<休憩>
午後4時20分
●第2部 行動し発信する学生たちから「沖縄、気候変動、入管問題」など
コーディネーター 小林哲夫さん(教育ジャーナリスト)
登壇者 中村眞大さん(明治学院大学)
白坂リサさん(慶応義塾大学)
降旗恵梨さん(立教大学:BOND外国人労働者・難民と共に歩む会)
小林哲夫さん
2020年代の若者の社会運動、今の『怒りを歌え』からちょうど54~5年経った、今の2020年代の学生が、社会とどう向き合い、どう考え、どう議論し、どうやって発信し、どのような行動をしているのかについて、話を進めたいと思います。
(第2部の内容は、後日ブログに掲載しますので、今回は省略します)
(白坂さん、降旗さん)
●閉会挨拶
午後5時30分
(北本さん)
今日は山﨑博昭君の56年目の命日であります。たくさんの方にお集りいただいて、本当に感謝しております。
(録音状態が悪く聞き取れないため、挨拶は省略させていただきました)
●閉会
午後5時40分
午後6時30分より、会場1階の中華料理店において懇親会が開催されました。
30数名の参加があり、懇親会も盛況でした。
関西集会は、11月5日午後2時より「エル大阪」5F視聴覚室で、開催予定です。
内容は『怒りをうたえ』ダイジェスト版上映と、「行動し発信する学生たち」の発言です。
関西地方にお住まいの方は、こちらに参加をお願いします。
(終)
【『はたちの時代』の紹介】
重信房子さんの新刊発売!
前半は66年から68年までの明大学費闘争を中心とした時期のこと(この部分は私のブログに「1960年代と私」というタイトルで掲載したものです)。
後半は69年から72年までの赤軍派の時期のことが書かれています。
定価 2,860円(税込
本のアマゾンリンクはこちらになります。
「模索舎」のリンクはこちらです。
江刺昭子さんによる本の書評(紹介)です。(47ニュースより)
「あとはき」より
『ここに書かれた記録は、ごく日常的な私自身の身の回りで起こったことを率直に書き記したものです。その分、他の人が書けば全く違った関心角度から違った物語がこの時代のエピソードとして描かれることでしょう。私は獄に在って、何度か癌の手術を繰り返していました。生きて出られないことがあっても、支えてくれる旧友や、見ず知らずの方々にお礼を込めて、私の生き方、どんなふうに生きてきたのかを記録しておきたいと思ったのが、この記録の始まりです。私がどのように育ち、学生運動に関わり、パレスチナ解放闘争に参加しどう生きて来たのか、マスメデイアでステレオタイプに作り上げられた私ではなく、生身の私の思いや実情を説明しておきたくて当時を振り返りつつ記して来ました。獄中と言うのは、集中して文章を書くのに良いところで、ペンをとって自分と向き合うと過去を素直に見つめることが出来ます。楽しかった活動や誇りたいと思う良かった事も、間違いや恥かしい事や苦しかったことも、等しく価値ある人生であり私の財産だと教えられた気がします。(中略)どんなふうに戦い、どんな思いをもって力を尽くし、そして破れたのか、当時の何万という「世の中を良くしたい」と願った変革者の一人として、当時の何万と居た友人たちへの報告として読んでもらえたら嬉しいです。また当時を若い人にも知ってほしいし、この書がきっかけになって身近に実は居る祖父や祖母たちから「石のひとつやふたつ投げたんだよ」と語ってもらい、当時を聴きながら社会を知り変えるきっかけになれば、そんな嬉しいことはありません。
いまの日本は明らかに新しい戦争の道を進んでいます。いつの間にか日本は、核と戦争の最前線を担わされています。そんな日本を変えていきたいと思っています。決して戦争をしない、させない日本の未来をなお訴え続けねばと思っています。なぜなら日本政府が不戦と非戦の国是を貫くならば日本の憲法には戦争を押しとどめる力があるからです。はたちの時代の初心を忘れず日本を良い国にしたい。老若男女がこぞって反戦を訴え支える日本政府を実現したいと思います。』
目次
第一部 はたちの時代
第一章 はたちの時代の前史
1 私のうまれてきた時代/2 就職するということ 1964年―18歳/3 新入社員、大学をめざす
第二章 1965年 大学に入学した
1 1965年という時代の熱気/2 他人のための正義に共感/3 マロニエ通り
第三章 大学生活をたのしむ
1 創作活動の夢/2 弁論をやってみる/3 婚約/4 デモに行く/5 初めての学生大会/6 研連執行部として
第二部 明治大学学費値上げ反対闘争
第四章 学費値上げと学生たち
1 当時の牧歌的な学生運動/2 戦後民主主義を体現していた自治会運動/3 話し合いの「七・二協定」/4 田口富久治教授の嘲笑
第五章 自治会をめぐる攻防
1 スト権確立とバリケード――昼間部の闘い/2 Ⅱ部(夜間部)秋の闘いへ/3多数派工作に奔走する/4 議事を進行する/5 日共執行部案否決 対案採択
第六章 大学当局との対決へ
1 バリケードの中の自治/2 大学当局との激論/3 学費値上げ正式決定/4 収拾のための裏面工作/5 対立から妥結への模索/6 最後の交渉と機動隊導入
第七章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書―二・二協定の真相/2 覚え書き(二・二協定)をめぐる学生たちの動き
第三部 実力闘争の時代
第八章 社学同参加と現代思想研究会
1―1967年 一 私が触れた学生運動の時代/2 全学連再建と明大「二・二協定」/3 明大学費闘争から再生へ
第九章 社学同への加盟
1 社学同加盟と現代思想研究会/2 現思研としての活動を始める/3 67年春、福島県議選の応援/4 今も憲法を問う砂川闘争/5 あれこれの学内党派対立/6 駿河台の文化活動
第十章 激動の戦線
1 角材を先頭に突撃/2 10・8闘争の衝撃/3 三里塚闘争への参加/4 68年 5月革命にふるえる/5 初めての神田カルチェラタン闘争―1968年6月/6 68年国際反戦集会の感動
第四部 赤軍派の時代
第十一章 赤軍派への参加と「七・六事件」
1 激しかったあの時代/2 1969九年の政治状況/3 4・28縄闘争/4 赤軍フラクション参加への道/5 藤本さんが拉致された、不思議な事件/6 7月5日までのこと/7 69年7月6日の事件/8 乱闘―7月6日の逆襲/9 過ちからの出発
第十二章 共産主義者同盟赤軍派結成
1 女で上等!/2 関西への退却/3 塩見さんらの拉致からの脱走/4 共産同赤軍派結成へ
第十三章 赤軍派の登場と戦い
1 葛飾公会堂を訪れた女/2 「大阪戦争」/3 「東京戦争」/4 弾圧の強化の中で/5 支えてくれた人々/6 前段階蜂起と組織再編/7 大敗北―大菩薩峠事件/8 初めての逮捕――党派をこえた女たちの連帯
第十四章 国際根拠地建設へ
1 前段階蜂起失敗のあと/2 よど号ハイジャック作戦/3 ハイジャック闘争と日本委員会/4 深まる弾圧――再逮捕/5 思索の中で
第五部 パレスチナ連帯と赤軍派との乖離(かいり)の中で
第十五章 パレスチナ連帯の夢
1 国際根拠地パレスチナへ/2 赤軍派指導部の崩壊/3 森恒夫さん指導下の赤軍派/4 パレスチナへの道
第十六章 パレスチナから見つめる
1 ベイルートについた私たち/2 統一赤軍結成/3 アラブの私たちー―赤軍派との決別/4 新党結成の破産/5 アラブから連合赤軍事件を見つめて/6 連合赤軍の最後とアラブの私たち/7 新たな変革の道を求めて
【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。
●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在15校の投稿と資料を掲載しています。
【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は11月10日(金)に更新予定です。