野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2023年10月

2023年10月8日は、1967年の10・8羽田闘争から56年目となる。この日は10・8山﨑博昭プロジェクト主催により、午前に羽田・弁天橋での山﨑博昭君追悼及び萩中公園近くのお寺にあるお墓のお参り、そして午後には蒲田で記念集会があった。
今回のブログは、その参加報告である。写真を中心にドキュメント風に当日の様子を報告する。

10・8山﨑博昭プロジェクト東京集会チラシ
(チラシ)
2023年10月8日(日)
【献花・黙祷@弁天橋】
午前11時
京浜急行「天空橋」駅から歩いて10分ほどで羽田・弁天橋に到着。今年は猛暑が続き、10月というのに長袖腕まくりで十分なほどの陽気だった。

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(弁天橋)
弁天橋を渡ると、橋の欄干にはメッセージが貼り付けられていた。前年の55周年の日にも欄干に花が添えられていたが、大田区内で「子ども食堂」をやっている方だった。その方は今回初めて追悼式に参加された。

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(欄干のメッセージ)
午前11時15分
参加者の集合場所は弁天橋を渡ったところにある鳥居の前の広場。広場のテーブルの上には山﨑博昭君の遺影と花束が置かれ、参加者が集まって来た。

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(広場に集まる参加者)
午前11時30分
弁天橋前での追悼の小集会が始まった。参加者は30数名。
最初に山﨑博昭プロジェクト代表の山﨑建夫さんから挨拶があった。

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(山﨑建夫さん挨拶)
「おはようございます。今日もたくさん集まっていただいて本当にありがとうございます。こんなに集まるとは思っていなかったです。
これから行くお地蔵さんですが、お地蔵さん作って思ったことがあるんです。あちこちでお地蔵さん見かけるけども、今まで特に気にしていなかったんですけけど、それぞれのお地蔵さんに、それぞれの人たちや家族の思いを込めて作っているんだなと、そういう立場になってよく分かりました。
今日は長い1日ですけれども、よろしくお願いします。」

次いで佐々木幹郎さん(発起人:詩人)から発言があった。

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(佐々木幹郎さん発言)
「お地蔵さんというのは、向こうに見える東京湾の水難事故の人たちのお堂があります。そのお堂のところに私たちが山﨑地蔵と呼ぶ地蔵菩薩が鎮座しています。
ここでの黙祷が終わったら、全員でお参りしていただきたいと思います。ちょうど地蔵が、山﨑博昭が斃れた弁天橋に向くようにしてあります。
(山﨑博昭は)11時30分から40分、機動隊の警棒によって撲殺されました。マスコミなどは装甲車によって轢き殺されたというフレームアップをしましたけれども、私たちは2017年に「50年目の真相究明」『かつて10・8羽田闘争があった[寄稿篇]』所収)ということで、99.9%機動隊によって殴り殺されたと立証しています。
誰が何と言おうとも、私たちはこの7年間、毎月8日の日にここに集まって、月命日のお参りをしてまいりました。ここに来るたびに、私は18歳、19歳の時に毎回戻ることができます。こんな珍しい場所はないと、私はいつも思っています。今日も来る時に、山﨑(博昭)が弁天橋の向こうで待機していた場所から橋を渡ってきました。そのたびに感慨、思い出すことは毎回違います。とても面白い。我々は、幸い後期高齢者になってもここまで生き延びてきました。その18歳、19歳の時よりもっと長い物語を皆持っていると思うんです。それをクリアして今日はここに集まって、そして、それを知らない若い世代の方も今日は集まって下さって、とても嬉しいことです。
それでは黙祷します。」

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(黙祷)
黙祷の後、弁天橋を背景に全員で記念撮影を行い、近くの五十間鼻無縁仏堂に向かった。

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(記念撮影)

【五十間鼻無縁仏堂の平和地蔵にお参り・献花】
午前11時50分
五十間鼻無縁仏堂の前に到着。
仏堂に渡る桟橋の前には由来を記した看板がある。
<五十間鼻無縁仏堂の由来>
創建年代は不明でありますが、多摩川、又関東大震災、先の第二次世界大戦の昭和二十年三月十日の東京大空襲の折には、かなりの数の水難者が漂着いたしました。その方々をお祀りしていると言われております。
元は、多摩川河口寄りの川の中に角塔婆が一本立っているだけでありましたが、初代漁業組合長故伊東久義氏が管理し、毎年お盆には盆棚を作り、有縁無縁の御霊供養をしていました。昭和五十三年、護岸工事に伴い現在地に移転しました。その後、荒廃著しく、仲七町会小峰守之氏、故伊米次郎氏、大東町会故伊東秀雄が私財を持ち寄り復興致しました。(後略)

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(鳥居の前の広場から見た五十間鼻無縁仏堂)
水難者をお祀りするために作られたお堂で、地元の方々が護っている。
「五十間鼻」という名前は、大田区観光協会のサイトによると
「水中に長さ50間(約90m)に渡り石を敷き詰め、洪水時の急流から岸辺を守るために作られました。水難事故者を供養する無縁仏堂が建てられています」とある。
潮が引くと、五十間の長さの鼻のような形の石積みが水中から姿を現す。こ
桟橋を渡るとお堂があり、ここに「平和地蔵」がある。「平和地蔵」は、羽田闘争50周年の2017年10月に、山﨑博昭プロジェクト発起人によりここに祀られた。台座には「山﨑博昭」の名前が刻まれており、弁天橋に向かって立ち、平和への祈りを続けている。
お堂では福島泰樹さん(発起人・法昌寺住職)が読経し、参加者は桟橋を順番に渡り「平和地蔵」に手を合わせていた。

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(桟橋を渡る参加者)

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(平和地蔵に手を合わせる参加者)
平和地蔵はコロナ禍の間はマスクを着けていたが、もうマスクは外している。

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(平和地蔵)
「平和地蔵」へのお参りが終り、参加者は萩中公園に向かった。
萩中公園までは歩けない距離ではないのだが、参加者の皆さんも高齢となり、短い距離ではるがバスに乗車して向かう。
萩中公園でバスを降りて、福泉寺へ。

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(福泉寺)
【福泉寺の墓碑と記念碑の前にてお参り・献花】
午後零時25分
参加者は本堂の裏手の墓地の入り、入り口近くにある山﨑博昭君の墓碑と記念碑の前に集まった。
福島泰樹さんが読経し、参加者が順番に線香をあげ、手を合わせていた。

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(墓碑に手を合わせる山﨑建夫さん)

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(山﨑博昭の墓碑)
墓碑の山﨑博昭の文字は、昔の中国の青銅器の時代に青銅器の周りに彫り込まれた「金文(きんぶん)」という文字である。山﨑博昭君の高校3年生の時の同級生だった書道家の川上吉康氏が書いたものである。
墓碑の下にある墓誌(記念碑)には、以下の文章が刻まれている。

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(墓誌文章)
「反戦の碑」
1967年10月8日 アメリカのベトナム戦争に加担するために日本首相が南ベトナムを訪問 これを阻止するために日本の若者たちは羽田空港に通じる橋や高速道路を渡ろうとし デモ禁止の警察と激しく衝突 重傷者が続出し 弁天橋の上で京都大学1回生 山﨑博昭が斃れる 享年十八歳 再び戦争の危機が高まる50年後の今日 ベトナム反戦十余年の歴史をふり返り 山﨑博昭の名とともに かつても いまも これからも 戦争に反対する というわたしたちの意志を ここに伝える
2017年10月8日
10・8山﨑博昭プロジェクト
代表・兄山﨑建夫 建立

参加者と墓碑を入れて記念撮影。

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(墓碑を入れての記念撮影)
参加者は公園内にある集会所の地下の食堂や、借りている集会室で昼食。
事務局メンバーはバスで午後の集会の会場である蒲田の大田区消費者生活センターに向かった。

【56周年記念集会】
大田区消費者生活センター2階 大会議室
「10・8羽田闘争56周年~半世紀を超えて戦争反対の思いは今~」
午後2時
午後の記念集会は3時から。それに向けて会場設営が進む。

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(横断幕を張り付ける関係者)

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(北井一夫さんの写真)
午後2時30分開場。

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(受付の様子)
●開会・代表挨拶
午後3時
佐々木幹郎さんの司会で集会が始まった。参加者は約70名。

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(司会の佐々木幹郎さん)
15時になりましたので開会させていただきます。私は司会の佐々木幹郎と申します。
10・8山﨑博昭プロジェクト2023年秋の東京集会です。タイトルは「半世紀を超えて戦争反対の思いは今」。私たちは今日、弁天橋に11時半に集まり、黙祷し、そして五十間鼻無縁仏堂にある山﨑地蔵にお参りをして、そこから福泉寺にある墓碑および墓碑銘にお参りをしてきました。総勢、大体40人の方が集まっていただいて、大変賑やかな会になりました。
山﨑が死んでから56年、こんなに多くの方々が山﨑のことを思い出して今日集まって下さったことを本当に感謝いたします。
では最初に、山﨑建夫さんからご挨拶をお願いします。

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(山﨑建夫さん挨拶)
たくさん来ていただいてありがとうございます。ちょっと寂しくなるかなと心配していたけど、そんなことない。朝(午前中)も結構たくさん集まっていただいてビックリしました。
一つだけしょうもない話をしますけど、菊の話。去年、事務局の人から「弟さん、菊の花が好きやったね」と言われて、「そんなことないですよ」と言ったら、「本に書いてあったんですよ」と言われて、「どこの本か教えて」ということで、その時はそれまでの話だったんです。
機会があって、僕たちが作った本『かつて10・8羽田闘争があった』の資料編の中の週刊誌の記事の中に、「お前(弟)が好きだった菊の花を供えよう」なんていう一文があるんですよ。弟と菊が好きだというような話をしたことないし、もちろん記者が書いた記事に目を通しているんですよ。目を通しているけれども、文の流れがいいし、それでいいかなと思ってたぶん認めたんやね。菊の話がどうなってくるか、あまり意識していなかったですね。
中学2年生のころには、家に日の丸の旗がないのを不思議がって、「何でうちにないの」と言ったら、ただ貧しかったので無かっただけなんですが、親が買ってきたのを覚えています。
だから日の丸や菊についてはその程度の認識しかなかったから、記事の内容も許してしまったと思うんです。あの記事については、弟が菊を好きだったわけではありませんので、訂正させていただきます。
あと今日は(会場に)10・8の写真もありますけれど、僕はさっき言った程度の政治的認識だったんだけれども、10・8で何が何だか分からないような青天の霹靂で、突然起こった出来事で、しかも被害者が自分の弟であるというところで、とにかく動転していましたね。
大学3年生、4年生の間は様子を見ているだけでしたけれど、自然に学生の側に身を置いていましたね。そこからいろいろ勉強もしていった、そんな感覚なんです。
『怒りをうたえ』を楽しみにしております。(拍手)

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(会場の様子)
佐々木幹郎
今日は第1部と第2部に分かれていまして、第1部は映画上映『怒りをうたえ』です。これは全体をDVDにして販売されているんですけれど、大変長いです。今日は、その編集委員会の東條守さんから『怒りをうたえ』をこの会用に45分にまとめた編集版をみなさんに観ていただきます。
解説を東條守さんからお願いします。日大全共闘の文理学部の情宣部長をやっておられました。東條さん、どうぞ。
●第1部 映画『怒りをうたえ』編集版上映
<解説>
午後3時8分

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(DVD編集委員会 東條守さん)
本日は、羽田闘争56周年ということでありますので、私と山﨑博昭さんとの関わりを最初に述べさせていただきます。
10月8日当日、日大の2年生で羽田弁天橋にいた私は、その日亡くなったのが京都大学の学生らしいというのが分かる程度でした。ここに『かつて10・8羽田闘争があった』資料編を持ってきました。この本の332ページに「変革のパトス」という(ビラの)写真が掲載されています。これは山﨑君が所属していた京都大学のマル学同京大支部機関誌の名前になります。山﨑君がガリ切りをして、あるいは原稿を書いたかもしれないビラです。この本のおかげで、すっかり忘れていたことを思い出しました。

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(「変革のパトス」『かつて10・8羽田闘争があった』資料編より転載)
1968年に日大闘争が始まり、文理学部闘争委員会が発足し、闘争委員会の機関誌を出すことになり、情宣部長だった私の仕事になりました。機関誌名をどうするか。その時閃いたのは、日大の変革と日大生の性格、どちらかと言うとロゴスよりは決起の心、パトスが似合うだろうということで、「変革のパトス」と機関誌名を決めました。もちろん、京大の山﨑君のところと同じ名前だということは承知していましたが、彼の志を受け継ぎ、私の決意でもあり、他の選択はありませんでした。私と山﨑君とを繋ぐ一つのエピソードです。
さて、本日のテーマになります。これから上映をいたします『怒りをうたえ』は、本日のプログラムとの関係で45分と依頼されていました。第1部から第3部までを紹介していくと、どう短縮しても、49分40秒の作品となり、依頼より5分多くなりました。
私がDVD版の編集に関わる時、最初に考えたのはこの問題でした。ユーチューブに『怒りをうたえ』がアップされていることは知っていました。若い人に『怒りをうたえ』を観てもらいたいという動機が最初にありましたから、どうしたらユーチューブに慣れた若い人にも手軽に観てもらえるか、編集されていない長編記録映画は、やはりユーチューブでもしんどいに違いないと思いました。興味ある闘い、あの集会の場面だけ観たいという若者、あるいは視聴者には8時間の長編動画はストレスに感じることも少なくありません。
そこでどうするか。今回のDVD新編集版『怒りをうたえ』で参考にしたのは、ユーチューブでも使われているチャプター機能です。チャプター機能を使うことにより、書籍の目次と同じように、動画に収められている各項目が一目で分かるようになります。チャプターがあれば、自分が観たい場面だけに絞って観ることができます。結果的に若者、視聴者の利便性が高まり、『怒りをうたえ』に好印象を持ってもらえる可能性が高まります。今回は8時間作品を、DVD3枚組24チャプター、ナレーションの字幕付きとして編集しました。手短に観たい場面だけを自宅で、あるいは何人かで会議室で観る、テーマ別に運動、闘いの意味を深く理解するために、何度か繰り返し鑑賞するというニーズに答えております。
主だった編集箇所は次のとおりです。
第1部から第3部までの本編に、それぞれ各8個のチャプターを入れ、シーン選択が出来るようにしました。そのためにメニュー付DVDとして作成ました。(中略)
『怒りをうたえ』ではナレーションがたくさん入っています。それにすべて字幕を付けて編集しております。とても観やすいと思います。
また、登場する数多くの労働者、学生、市民、活動家、農民、政党、労組幹部の肩書と氏名を、可能な限り表示しました。
闘争下の合唱の場面が何度も出てきます。「インターナショナル」「ワルシャワ労働歌」など。若い人にも共有していただければと、曲名と歌詞の字幕を入れました。60年安保闘争で亡くなった樺美智子さんの墓前祭で流れてくる「同志は倒れぬ」「忘れまい6・15」などは、本DVD版で覚えていただきたい歌詞とメロディーです。
宮島義勇監督は、1998年に89歳で逝去されましたが、撮影に当たっての基本姿勢は「機動隊の後ろから撮るな。闘争している側から撮れ」と常に言われていたそうです。また、「この記録映画は芸術作品ではなく政治的アジビラとして観てもらいたい。君たち、アジビラとして受け取りたまえ。手から手へ、自分の手で」と語っています。
DVD版『怒りをうたえ』は、アジビラに一歩でも近づいていれば幸いです。
最後に1992年10月以降、『怒りをうたえ』上映実行委員会が結成されて、上映運動が行われていました。その趣旨を引き継ぎ、政治に関心が薄いように見える現在の若者に観てもらい、彼らに政治への関心を高めてもらいたいと思います。各地で行われている集会に足を運び、このDVD版『怒りをうたえ』を宣伝し、広めていきたいと思っています。
沖縄・辺野古の新基地建設の強行を許さず、国が県に代わって承認する代執行に抗議し、訴状の取り下げを求めて闘っていきましょう。
それでは『怒りをうたえ』ダイジェスト版をご覧ください。
<映画上映>
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佐々木幹郎
映画の上映がこれで終わりました。やはりかなり短く編集されたので、もうちょっと見たいというところで終わったりして、我々の世代が観ると、「ああ、あそこに自分がいたかもしれない」という感慨をいくつも覚えます。ですから、懐かしくご覧になった方も居られると思いますけれども、また、今日参加くださっている若い人の中では、よくこれだけ人が集まったなと、実際映像を観ないと文書だけでは分からないですよね。でも映像で観ると、本当にこんなに人が集まっているんだということがよく分かると思いますし、今日も参加しておられます山本義隆さんの若い時のアジ演説がありましたけれども。
「戦争反対の思いは今」と今回名付けましたけれど、やっぱりこの映像を観ると、あの時の思いはそのまま、ほとんど骨格の中に残っているなという感じが私なんかはしてしまいます。
もう一つ紹介しておきますが、今日は重信房子さんが来ておられまして、重信房子さんの『はたちの時代―60年代と私』という本が出ております。あの映像の中に映っていましたでしょうか?この本を欲しいという方は申し込んで下さい。よろしくお願いします。
休憩にします。

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(会場の重信房子さん)
<休憩>
午後4時20分
●第2部 行動し発信する学生たちから「沖縄、気候変動、入管問題」など
コーディネーター 小林哲夫さん(教育ジャーナリスト)
登壇者      中村眞大さん(明治学院大学)
         白坂リサさん(慶応義塾大学)
         降旗恵梨さん(立教大学:BOND外国人労働者・難民と共に歩む会)
小林哲夫さん
2020年代の若者の社会運動、今の『怒りを歌え』からちょうど54~5年経った、今の2020年代の学生が、社会とどう向き合い、どう考え、どう議論し、どうやって発信し、どのような行動をしているのかについて、話を進めたいと思います。
(第2部の内容は、後日ブログに掲載しますので、今回は省略します)
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(第2部登壇者のみなさん)

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(小林さん、中村さん)

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(白坂さん、降旗さん)

●閉会挨拶
午後5時30分
北本修二さん(発起人:弁護士:山﨑プロジェクト関西運営委員会)

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(北本さん)
今日は山﨑博昭君の56年目の命日であります。たくさんの方にお集りいただいて、本当に感謝しております。
(録音状態が悪く聞き取れないため、挨拶は省略させていただきました)

●閉会
午後5時40分

午後6時30分より、会場1階の中華料理店において懇親会が開催されました。
30数名の参加があり、懇親会も盛況でした。
関西集会は、11月5日午後2時より「エル大阪」5F視聴覚室で、開催予定です。
内容は『怒りをうたえ』ダイジェスト版上映と、「行動し発信する学生たち」の発言です。
関西地方にお住まいの方は、こちらに参加をお願いします。

(終)

【『はたちの時代』の紹介】
重信房子さんの新刊発売!
『はたちの時代』(太田出版) 2023年6月16日刊行

はたちの時代

前半は66年から68年までの明大学費闘争を中心とした時期のこと(この部分は私のブログに「1960年代と私」というタイトルで掲載したものです)。
後半は69年から72年までの赤軍派の時期のことが書かれています。
定価 2,860円(税込

本のアマゾンリンクはこちらになります。

「模索舎」のリンクはこちらです。

江刺昭子さんによる本の書評(紹介)です。(47ニュースより)

「あとはき」より
『ここに書かれた記録は、ごく日常的な私自身の身の回りで起こったことを率直に書き記したものです。その分、他の人が書けば全く違った関心角度から違った物語がこの時代のエピソードとして描かれることでしょう。私は獄に在って、何度か癌の手術を繰り返していました。生きて出られないことがあっても、支えてくれる旧友や、見ず知らずの方々にお礼を込めて、私の生き方、どんなふうに生きてきたのかを記録しておきたいと思ったのが、この記録の始まりです。私がどのように育ち、学生運動に関わり、パレスチナ解放闘争に参加しどう生きて来たのか、マスメデイアでステレオタイプに作り上げられた私ではなく、生身の私の思いや実情を説明しておきたくて当時を振り返りつつ記して来ました。獄中と言うのは、集中して文章を書くのに良いところで、ペンをとって自分と向き合うと過去を素直に見つめることが出来ます。楽しかった活動や誇りたいと思う良かった事も、間違いや恥かしい事や苦しかったことも、等しく価値ある人生であり私の財産だと教えられた気がします。(中略)どんなふうに戦い、どんな思いをもって力を尽くし、そして破れたのか、当時の何万という「世の中を良くしたい」と願った変革者の一人として、当時の何万と居た友人たちへの報告として読んでもらえたら嬉しいです。また当時を若い人にも知ってほしいし、この書がきっかけになって身近に実は居る祖父や祖母たちから「石のひとつやふたつ投げたんだよ」と語ってもらい、当時を聴きながら社会を知り変えるきっかけになれば、そんな嬉しいことはありません。
いまの日本は明らかに新しい戦争の道を進んでいます。いつの間にか日本は、核と戦争の最前線を担わされています。そんな日本を変えていきたいと思っています。決して戦争をしない、させない日本の未来をなお訴え続けねばと思っています。なぜなら日本政府が不戦と非戦の国是を貫くならば日本の憲法には戦争を押しとどめる力があるからです。はたちの時代の初心を忘れず日本を良い国にしたい。老若男女がこぞって反戦を訴え支える日本政府を実現したいと思います。』

目次
第一部 はたちの時代 
第一章 はたちの時代の前史
1 私のうまれてきた時代/2 就職するということ 1964年―18歳/3 新入社員、大学をめざす
第二章 1965年 大学に入学した
1 1965年という時代の熱気/2 他人のための正義に共感/3 マロニエ通り
第三章 大学生活をたのしむ
1 創作活動の夢/2 弁論をやってみる/3 婚約/4 デモに行く/5 初めての学生大会/6 研連執行部として

第二部 明治大学学費値上げ反対闘争
第四章 学費値上げと学生たち
1 当時の牧歌的な学生運動/2 戦後民主主義を体現していた自治会運動/3 話し合いの「七・二協定」/4 田口富久治教授の嘲笑   
第五章 自治会をめぐる攻防
1 スト権確立とバリケード――昼間部の闘い/2 Ⅱ部(夜間部)秋の闘いへ/3多数派工作に奔走する/4 議事を進行する/5 日共執行部案否決 対案採択
第六章 大学当局との対決へ 
1 バリケードの中の自治/2 大学当局との激論/3 学費値上げ正式決定/4 収拾のための裏面工作/5 対立から妥結への模索/6 最後の交渉と機動隊導入  
第七章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書―二・二協定の真相/2 覚え書き(二・二協定)をめぐる学生たちの動き

第三部 実力闘争の時代
第八章 社学同参加と現代思想研究会
1―1967年 一 私が触れた学生運動の時代/2 全学連再建と明大「二・二協定」/3 明大学費闘争から再生へ 
第九章 社学同への加盟
1 社学同加盟と現代思想研究会/2 現思研としての活動を始める/3 67年春、福島県議選の応援/4 今も憲法を問う砂川闘争/5 あれこれの学内党派対立/6 駿河台の文化活動
第十章 激動の戦線
1 角材を先頭に突撃/2 10・8闘争の衝撃/3 三里塚闘争への参加/4 68年 5月革命にふるえる/5 初めての神田カルチェラタン闘争―1968年6月/6 68年国際反戦集会の感動 

第四部 赤軍派の時代 
第十一章 赤軍派への参加と「七・六事件」
1 激しかったあの時代/2 1969九年の政治状況/3 4・28縄闘争/4 赤軍フラクション参加への道/5 藤本さんが拉致された、不思議な事件/6 7月5日までのこと/7 69年7月6日の事件/8 乱闘―7月6日の逆襲/9 過ちからの出発
第十二章 共産主義者同盟赤軍派結成 
1 女で上等!/2 関西への退却/3 塩見さんらの拉致からの脱走/4 共産同赤軍派結成へ
第十三章 赤軍派の登場と戦い
1 葛飾公会堂を訪れた女/2 「大阪戦争」/3 「東京戦争」/4 弾圧の強化の中で/5 支えてくれた人々/6 前段階蜂起と組織再編/7 大敗北―大菩薩峠事件/8 初めての逮捕――党派をこえた女たちの連帯
第十四章 国際根拠地建設へ
1 前段階蜂起失敗のあと/2 よど号ハイジャック作戦/3 ハイジャック闘争と日本委員会/4 深まる弾圧――再逮捕/5 思索の中で

第五部 パレスチナ連帯と赤軍派との乖離(かいり)の中で
第十五章 パレスチナ連帯の夢
1 国際根拠地パレスチナへ/2 赤軍派指導部の崩壊/3 森恒夫さん指導下の赤軍派/4 パレスチナへの道
第十六章 パレスチナから見つめる
1 ベイルートについた私たち/2 統一赤軍結成/3 アラブの私たちー―赤軍派との決別/4 新党結成の破産/5 アラブから連合赤軍事件を見つめて/6 連合赤軍の最後とアラブの私たち/7 新たな変革の道を求めて

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在15校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は11月10日(金)に更新予定です。

今回のブログは『現代の眼』(1970年12月号)に掲載された「廃墟としての高校闘争と主体」である。
都立葛西工業高校、都立青山高校、神奈川県立川崎高校の活動家だった3人の手記と、当時都立大学の助教授(注)であった菅谷規矩雄氏によるそれぞれの手記へのコメントで構成されている。
70年安保闘争後のポスト高校闘争の時代の<心象風景>が描かれている記事である。
なお、手記だけでは闘争のことが分からないので、各高校の闘争経過を『高校紛争1969-1970』(小林哲夫著 中央公論社)から引用して、それぞれの手記に最後に参考として掲載した。
(注)1969年10月、封鎖中の東京都立大学に就任。同年11月の封鎖解除後の授業再開にあたって、授業拒否を宣言。授業を行わず学内で「解放学校」という自主講座を開催。1972年6月、懲戒免職処分。

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【廃墟としての高校闘争と主体】
佐藤義則(都立葛西工高出身)
北小路順信(都立青山高出身)
山﨑 努(県立川崎高出身)
<総括>
菅谷規矩雄(都立大学助教授・独文学)

●「敗北のヴェール=<神話>の破砕」
佐藤義則(さとうよしのり)
<自己批判>
結果的にせよ僕は葛西工高闘争における逃亡者として現在ある。
葛西工高闘争を皆とともに闘い、自らも主体的に闘ったと思うが、僕は第一次総括会議の中で、自分が逃亡者であることを意識しないではいられなかった。確かに意識の上では闘争放棄などは問題外としてあったのであり、闘争を常に志向していた。だが、客観的な闘争の敗北と僕の「怠慢」は、既に逃亡者たる僕として結果していた。こういった現在の自分を認識することはつらい。しかも僕は「闘争」を創出した仲間の一人なのだ。自己批判は自分の体裁をとるためにおこなうのではなく、自他の「発展」を目的としなければ無意味だろう。
とすれば第二次葛西工高闘争を創出する以外にないだろう。僕は退学で葛西工高に籍がない。だがそのことはどう問題化し得るのだろうか。現在の僕にとって籍の有無は問題でない。大事なのは葛西工高闘争は終っていないということだ。敗北を敗北として終らすことなど、どうして考えられよう。そしてまた他の闘いの場を考えない訳ではないが、現在僕にとって葛西工高闘争は終っていないのである。
ところで自己批判と言えば、現在まで活動家としてあった者でも自己批判しなければならないことがある。それはわれわれの叛逆する以前のブルジョア志向のことだ。われわれは始めから叛逆者としてあったのではなく、それ以前に自己の存在は結果としてあるのであって、客観的な自己の存在から自我に目覚めたとき、以後われわれはどのような事をしてきたのか。われわれはその自己暴露と自己批判をしなければならないだろう。
<足跡>
葛西工高入学当時の僕は劣等感の固まりそのものであった。底辺に位置していたゆえにそのブルジョア的上昇志向は並のものではなかった。それゆえ葛西高と自己の志向は当然相容れない対立関係を激化、意識化させ学校における異邦人としてあった。学友への態度は、それによって唯一自分は「やつら」とは違うと思い込む慰めであったと思う。学校生活はそうした学友、教師への蔑視で成立していたのだ。だがそのことは同時に自己嫌悪を生み一層強化させていた。簡略化すれば三年前の僕はこうした人間だったと言える。この事実を抜きにどうして「革命だ」とか「ブルジョアを殺せ」などと威張って語れるだろうか。この自己批判なしには一切が虚偽であると思う。これをつぎのように換言したい。自己を見つめざるを得ない政治的状況、反抗から変革への変遷。こういった過去を語ることは客観的自己の過去を羅列することではなく、現在的自己を語ることを意味し、その自己批判的変遷を語ることを意味すると思うから。
重要だと思われることは、第一に劣等意識と軽蔑、第二に教師に対するケチな反抗、第三に社研での生活、第四に虚無からの倦怠。これらが前述の二点を具体的に語ることになると思う。中一の頃からいわゆる実存的考えを持つようになっていた僕にとって、第一のことが第二に、さらに第三のことへ進むのは必然の結果であった。更に重要なのは第四を背負ったかたちで第三からどう変化していったかにあるだろ。第一から第三までの経過は、その後左右どちらへも傾くのである。このことをここで詳しくは語れないが、ただ言っておきたいのは、生活環境が、いわゆる体制内的叛逆者としての「不良」を拒絶する意識を僕の内に創り上げていたこと。すなわち社研の顧問である良心的教師との関係の中で葛西の屈辱的状況を能動的に否定するようになっていったということである。
さらに言っておきたいが、諸々の知識からの闘争志向はいつでもブル転できる闘いであり、その知識は玩具でしかないだろう。無論知識を否定するのではないが、綱領を根本にした人間関係は弱体であるということだ。
<全共闘、そして五教師について>
いたるところで葛西工高闘争が神話化もしくは歪曲されていることを意識しないではいられない今、闘争を創造し主体的に闘った者として、一切の評論家的立場を軽蔑しつつ葛西工高闘争の「質」について僕なりに語ろうと思う。
葛西工高闘争の創造的質は、10・21、22全学集会までにしか見ることができないのである。しかも全学集会の価値は葛西の教育について全学的に考えた点にあるのであって、そこの全学無期限授業放棄決議は神話化された幻想だったのである。僕はこの点からその後の闘争を自己批判的に綜括しなければいけないと思う。
まず事実として全学無期限授業放棄決議が90%以上の学友によって成立した。僕もそのとき、一人、馬鹿でかい声で「異議なし!」と怒鳴った。だがその時の意識は決議の質に対する全学的信頼からではなく、「とにかく決議された」という喜びであった。まさに「闘争を起こせば後は何とか」という意識であった。全学集会で闘争は多くの量を獲得したが質はそれにともなわなかった。多くの者は闘いを理解していなかったし、「闘うのか闘わないのか」という選択も追込まれた意識、位置でのことではなかったのである。闘争は量の拡大によって新たな段階に入っていったにもかかわらず、その質とのギャップを背負ったかたちで単に状況に対応していっただけなのである。当時反戦会議としての僕らは流動化の創出と意識変革が目標であったが、授業放棄決議でその目標まで達成できたと思った。しかし授業放棄は最低線のものとしてあったにもかかわらず、多くの者は以後矛盾した行動を始め、最後的には授業放棄解除決議を自らするのであった。ここで明らかなように、授業放棄決議は幻像であったのである。僕らの闘争は以後幻像であり、量と質のギャップによって、状況に対応する苦しさのみに喘いだとも言えるだろう。最後まで依然個別学園闘争の域を脱してはいなかったことは当時全国的状勢の中に葛西闘争があるのだという自覚となぜ闘うのかという意識の基本的明確化が各人に欠落していたからである。僕が11月闘争で豚箱に入っている間ボイコットは貫徹されていたものの、ポツダム生徒会がなんとその中で学友の手で、しかも民主的ルールで再建されたのである。僕が再建というのは、全学集会までに生徒会の活動停止を目標にその中で動き、一方では反戦会議の中で戦後民主主義の幻想を訴えてきたことによるのだが、やはり僕の判断自体が幻想化されたものだったのだ。
それらは僕らの力量不足だけによるのだろうか。これも大きな要因と考える。だが決定的なのは、各自が自己の生きる事と葛西工高闘争への問いが欠落していたのであり、それが質と量のギャップを補うことができなかったのだと思う。
話しが前後するようだが、一つだけ確認しておきたい。それは葛西工高闘争は、当時の全国的な高校闘争の中で独自的質を有していたことは否定できないだろうということ。あるいは、闘争の高揚以前に孤独な活動、社研の活動特に現代史ゼミナール、生徒会室でのマヌーバー、反戦会議の地道な活動、あるいは葛西工高それ自身の持つ大きな問題が沈黙の中に飽和状態になっていたということを。
こういった事を述べるのは危険かもしれない。だが闘争の終熄した今、また闘争の質を明確に把握するためにも、更に僕らの間違いを二度と繰り返さないためにも、内容全体の自己批判的裏舞台を暴露する事を辞さない事を決意して書いている。
ところで、話しを進め、五教師の闘いについて。彼らを闘争の中で位置付けるとすれば、端的に言って「良心的教師」だと考える。彼らはまず職員会議をボイコットし、僕らの訴えを良心的に受け止めた。次に授業ボイコットを決意した。また必然的に都教委から弾圧が来た。そして僕らも弾圧を結果的には容認してしまった。だが僕は彼らを「闘う反戦派教師」とは呼ばない。彼らは果してどのように闘ったのか。彼ら独自の戦列を創出しただろうか。否である。彼らと僕らの位置とでは、圧倒的に僕らが弱い立場にある。彼らは何故大学に行き、そして教師になったのか。僕らの告発は本質的には彼らをも対象にしているのだ。彼らは常時良心に忠実だった。そのことはたしかに闘う要因となるだろう。ではその闘いとは。結局彼らは僕らに触発されて起ち上ったのであり、あくまで受身であった。たしかに現行の教育機構の中では、僕ら生徒が起ち上らなければ「無理」という状況ではある。ではそこから何を始めるのか。授業の中で良心的教師として動くのか。でも彼らはそれが一定程度であり、幻想を含んでいることを知っていた。彼らは僕らよりも多くの知識をもっており、それだけ自らの立場をよく知っていた。その点日教組のバカどもは、自ら管理者としての立場を選択したのだから、どんなに五教師が「良心的」であったかかがわかる。そんな彼らを個人的には好きだった。だが彼らをやはり「良心的教師」と位置づけるのが正しいと思う。僕らの間間違いはやはり相互に許し合った点にあるだろう。僕らは五教師の闘いをそれとして許してしまったし、彼らもまた同様であったと思う。全共闘と五教師の共闘とはこうしたものであり、自らも神話化した幻想なのである。彼らおよび僕らに処分攻撃が来たことによって、金共闘の闘いが新たな質を獲得したのでもないし、五教師もそれによって「闘う反戦派教師」として独自の戦列を組むことができたわけでもないのである。
<課題>
僕らが闘うには、「何故闘うのか」を明確にしなければならないことを葛西工高闘争の中で意識しないではいられなかった。
闘うには、強い人間関係が必要だと思う。それは欺瞞的ナレ合関係を拒否しなければならないという事である。相互に何枚ものヴェールをつけたかたちで、どうしてコミュニケー卜ができるというのか。結局、問題は闘うのかブル転するのかにある。僕は闘いを自分が必要としなければ体裁をとって「闘う」必要はないと思う。相互に自己暴露する事によって共闘出来る者と共闘すべきである。個人的に好きであっても、自己暴露の上に成立した関係でなけれぱ欺瞞だと思う。
かつて人間関係の中で指導・被指導について考えた。そしてそれは本質的に弁証法的でなければならないと考えた。だがその中で、主体性、自立の問題は依然解決されないまま論理上のみ弁証法的である状態だった。ここで欠落しているのは前述の自己暴露であった。
この欠落が、指導・被指導の弁証法的関係を観念論にクギづけしていたのだ。自己暴露とは、知識のヴェール、つまりいつ覚えたか知れない知識をハギとり自分の問題意識、叛逆者とてある自己以前を語る事。これは自分が何故闕うのかを明確にする試みだ。入り混った知識を僕らがハギとったとき、いったい何が残るのか。その残ったものによって創られた共闘関係、人間関係はどんなに強いかと思う。こうした関係によって葛西工高全共闘あるいは全学集会があったならばどうして僕らは敗北したというのか。
闘いなんてカッコイイものではない。恐しくグロテスクなものだ。その闘いが知識による論理的志向によってのみあるとすれば、そうした闘いはどこまで耐えられるのか。自己の全存在を賭しなければならないとき、それは弱い。事実僕らの全共闘メンバーの大多数が、くずれていったのだから。
僕らは今後のあらゆる闘いの中で、まずこうした共闘関係を創出しなければならないと思う。一つの党に結集するとき、その党がくずれたらどうするのか、一つの綱領によって成立した集団は、個々に分散した場合、個々人はどうするのか。また別の党をどこかにないかなと鼻の下を長くして探すのか。
現在、僕は「主体性」「自立」についてまとまった考えをもっていない。だが人間関係が弁証法的でなければならないと考えている事は確かだ。だからその中で、主体性、自立が問題となる。これをさけて通ることはできない。闘いが空洞化するからだ。

(参考:都立葛西工業高校の闘争について(『高校紛争1969-1970』より引用)
葛西工業高校
1969年6月28日、都立葛西工業高校で「腐敗教育粉砕実行委員会」名義による「我等は訴える」というタイトルのビラが配られた。受験制度への批判ではない。反戦など社会への問題提起でもなかった。工業高校とはなにか、自分たちの存在とはなにか、を問う内容だった。
「三年間に教育されていることは、単に低賃金労働者として、一個の商品としての"人間"を造り上げるための内容しか含んでいない」(工業高校ーその闘いと教育の本質 高瀬勇編、三一書房、1970年)
ビラの内容を要約すると、職業とはなにか、働くとはどういうことなのか、について教師と話し合う機会がない。会社でまじめに働きましょうと教えるだけだ。そして、後輩が入社できなくなるから会社を辞めてはいけないという。自分たちはもっと主体的に生きる必要がある。自分たちにはもっと可能性がある。不満や疑問を抱いたら立ち上がろうーというものだ。
10月、同委員会は「葛西工高反戦会議」と名前を変えて大衆団交を求めた。このなかには普通科高校では見られないスロ―ガンがあった。
「現在の雇用対策的、職工養成所的工業高校を廃止せよ」
「職工」とは工場で働く労働者をさす。身分を示す蔑称と受け止められかねないため、「工員」同様、現在では使われない言葉となっている。
活動家は自らが通う工業高校を次のように捉えていた。
工業高校は、国による教育の細分化の一つとして、企業が求める労働力を供給する機関にすぎない。そこでは企業の利益を追求するだけで、人間らしく生きていくことができない。いわば人間疎外である。「お前は成績が悪いから普通科は無理だ。工業なら都立でも入れる」といわれた生徒がいる。大学へ進むために普通科の私立高校に進みたいが、学費が高いから断念した生徒もいる。「学力」も「金」もない生徒が工業高校に振りわけられている。多くは不本意入学なので勉強の動機づけが難しい。大学進学については、受験勉強をしたくても専門科目が多いゆえに、英語、国語などが決定的に弱く、絶望的である。
大衆団交の場には生徒150人が集まった。しかし、直前になって校長は拒否する。これに抗議して反戦会議メンバー2人がハンストを行った。
10月21日、生徒会で授業ボィコットを決議。70年2月10日、校舍を封鎖した。
一方、学校側にも、反戦会議の訴えをきちんと受け止めるべきと考える教師が五人いた。彼らは学校の姿勢に批判的で、職員会議をボイコットする。のちに、都教委によって処分される。結局、生徒たちの要求はほとんど受け入れられずに終わった。

●生活自体と「革命」との結合
北大路順信
T君!
去年の9月29日の夜、君たちと一緒に必死になってバリケードを築いてから、もう一年たってしまったね。それまで、一本のレールの上を走ってきた自らの日常性への問い返しとして、日頃勉強(?)するために使われていた机や椅子をバリケードの道具として使い、徹夜で協力しあって作ったことによって現在の高校教育にみられる、教師の言うことをよく聞く人間、というよりも、一つの機械を作り出していくような教育制度、また友人が実質的には敵となるような制度において、いままで果し得なかった人間同志の深い絆ができたということをお互いに強く感じたことだったね。
そしてまた、バリケードの中で自主講座を開いたことによって、何かを創造することの喜びも感じることができた。あのとき君が「教える、ということがあったら生徒は育たない」と言った言葉が、いまでも僕の心の底に残っている。そんな感激を味わいあった君が、君たちが、いま何を考え、何をやっているのかと、たびたび思い巡らしている。
ところでT君。いま、僕は三重県の伊賀の里で、鶏糞と汗とドロにまみれてニヮトリ飼いをしている。あの当時、君たちに「鳥の巣みたいだ」と言われたほど長かった髮を刈って坊主頭となり、いまや一介の百姓というわけである。以前の僕を知っている君は、生まれた時から甘ったれの坊っちゃん育もで、労働の「ロ」の字も知らない僕が百姓とは、当然興味のある話ではないかと思う。僕はいま、ここで、あのバリケードの中で感じた、創造ずる喜びをふたたび感じている。
70年6月が終わり、公害問題などが大きく取り上げられてきた現在、たくさんの人が運動方法を求めているとき、僕はそれをはっきりと見つけ出すことができた。学園闘争が下火になってきたいま、僕たちにとってあの闘いは何であり、あの結果をいかに発展させていくべきなのかを、現在の僕の生活を通しながら、もう一度考えなおしてみたい。
僕たちは高校時代、あくまでも、人間として生きることを追求し、現在のように、一つの機械、あるいはその歯車にならしめようとしている教育を徹底的に拒否した。そして、まず、いままでその非人間性を認めていた自分自身の日常生活を否定した。しかし、そういう目的でバリケードの中に入ってきた人間が「大学入試の事を考えて」とか「高校の卒業資格をとらなければ」といって抜けて行ったとき、君と「あいつらは日常性を否定しきれていない」と、彼らを批判したが、僕たちはいったいどうだったのか。他者と比較してどうのこうのと言うのではなく、僕たちもやはり日常性を否定しきれてはいなかったのではないだろうか。
バリケードが終わったあと、僕たちは「内なるバリケードを!」と叫んだが、それが果たして成し得ただろうか。いくら強固に内なるバリケードを築いても、東京という、きわめて日常的、常識的なところでは、徐々にそれが崩されてしまうのではないだろうか。その原因は、生活と運動というものが分離されてしまっているからだと僕は思う。僕はそういう点で自分たちの思想をそのまま生活に活用していき、その生活自体が革命と結びつき、日常性の否定が生活の中に組み込まれている運動の場をみつけた。それが山岸会であり、これからの活動の拠点なのである。
僕はここに、すでに半年いるわけであるが、東京にいる間は感じられなかったこととして、君たちとも常に議論してきたいし、これからも追求しなければならない「日常性の否定」について、考え、発見したことの一つに、まず母親から離れなければいけないんじゃないかということがある。それを感じたのは、僕がここに来た直後に母親からこんな手紙がきたからである。
「十八歳の年頃は、人生のうちで何をしても、一番楽しい頃だということは充分知っていますが、東京で生まれて田舎を知らないあなたが大自然の中で土と親しんでいる生活は、たしかにもの珍しく、そして楽しいことでしょう。でも、おかあさんは、やはり楽しいことばかりではないような気がして、あなたのことが頭の中から離れず、今頃何をしているのかしら、何を考えているかしら等と、余計な心配ばかりして、どうしても明るい気持ちになれません。おとうさんからも、毎日のように『子どもはいつかは離れていくんじゃないか』と慰められているけど。母親ってバカなのね。諦めきれないの。やっぱりそばにいて甘えてもらいたいおかあさん。バカでしょ。」
君も知っていると思うけど、あの闘争当時泣きながら校長に抗議したという、おかあさんなんだけど、やはり普通の母親と同じように、子どもを自分のそばに引き付けておきたいと思っていたようだ。もっとも、それが今日のごくありふれた母親というものなのだろうとは思えるが、高校時代の僕は、やはりこの母親からはぬけだせ得なかったんだと思う。というより、このような母と子の関係が、知らず知らずのうちに日常化されて、気づきもしなかったんだと思う。僕はそういう母親から離れてみて初めて、母親とは子どもが成長する過程において、お互いがいかに足を引っぱり、ひっぱられる存在であるかということを知った。そしてそのことが、きわめて日常化されているからこそ、母と子との関係をいったん断ち切って、運動を展開していくのが子の出発の原点になるんだと思う。つまり、高校時代のバリ闘争の時は、まだ母親から乳離れをしていなかった自分であったと思う。
僕は、あのバリケードが終わり、大学に行こうと決心したとき、そのことで親父にこんな手紙を書いた。
「……大学に行かないで求めるライフ・ワークがあるわけでもなく、いますぐ労働者になって慟いてみたところで、現体制の矛盾は学生である自分に対してよりも、もっと強くのしかかってくるでしょう。残念ながら、いまの僕には、それを受けとめ、徹底的に反抗していく自信がありません。働きながら矛盾に馴らされていってしまうのではないか、という気がするからです。その点、大学は、教育制度にいろいろな欠陥をもっているものの、知識を得るための時間と余裕を提供してくれるのではないかと思います。いまの受験制度、教育制度にねじまげられて大学にいくのではなく、また、それらに打ちのめされて大学にいかないのでなく、生徒会活動もスポーツも恋も、すべてを謳歌して大学へいきます。そして、その場で新たに運動を展開していくつもりです。」
僕はこのように考えて、一時は大学へいくための勉強をしたことがあった。それは、高校においてバリケードを築いたということによって、君もそうだろうと思うが、僕は体制に向かって闘っていく過程、つまり運動をやっていくことが、自己否定になると思っていたのだ。だが、これは非常に狭いものの観かたであり、自分の生活の面での自己否定を忘れていたのだと思う。高校や大学という体制の上にドッカリ腰をおろした形で存在する制度に自分が置かれ、そのことを見落としていたために、生活と運動とを分離していたのだと思っている。
その点、僕がいまいるここの集団のもつ主体性は、反体制であり、その中の一員として生活する僕は、僕にとっての日常性の否定を日常化していかなければ、ここでの僕の主体性はなくなってしまうのだ。それは、日々に新しい考えを生み出し、それを実行していくことである。
僕はあの青山高校でのバリケード闘争の体験をいかし、新しく平和科学研究会というサークルを結成し、6月23日には、徹夜でビラ作りをし、それを津市などの市街地にバラ撤いた。また、7月18日、東京における「自然を返せ」のデモにも参加した。その中で僕の感じたことは、あまりにも被害者意識からのデモのようでしかたがなかった。なるほど、被害者であることに違いはないが、同時に加害者でもあるのではないか。自分たちが工場で働くことが「公害」を生み出す原因につながっていないとどうして言えるのか。あのデモの中に「私はもう車に乗らないぞ!」とか、「工場ではもう働かないぞ!」というプラカードが、訴えがなぜなかったのか。工場で働くことは生活のためだからといって、「公害」が起こる原因を見逃がしてもいいのだろうか。そんな思いが、かつての青高時代の自分と二重写しになって見えてきた。
ここの集団のもつ特色は、とても変わっていておもしろいんだが、その中の一つに、全体運営に関することはもちろんのこと、個人の日常的な小さなことまでも、全員が理解納得してやっていくということだ。言い換えれば、一人の反対者もない直接民主主義が、いとも簡単に行なわれていることだと思う。それは、ここのメンバーになったばかりの僕が農場で働いていた頃、あすは馬鈴薯掘りをするんだと楽しみにしていたのが、東京の「自然を返せ!」のデモに行く僕となっていくということを、僕を含めたここの全員が納得してことが運ばれていくという事実は、僕にとって一つのオドロキでもあったし、あのバリ闘争の時点にでもこの方式が使えたら、どんなになっていただろうかーなんて思うこともある。
このことで、個人が自己否定を続けていくことと同時に、社会体制も変えなければ、自己の主体性の確立はあり得ないという、僕達の考え方が間違っていなかったということが実証されたと考えている。だから、いまの僕は、君達と一緒に闘った本当の目的を果たそうとしていることに変わりはないと確信しているし、かつての闘争の同一線上に自分を据えているわけだ。
そして、僕がなぜここに来るようになったかは、僕の考えてきた社会のあり方と、それにかかわる自己の問題として考えてきたことの実現が、ここの方法論によって可能なんだという確信みたいなものが、僕の心の中で大きくふくらんでいき、大学へ行こうとする気持がだんだんと小さくなってきたことによるのだと言えるだろう。
物質が人間の幸せにつながらないといわれだしてきた今日ではあるが、ここの生活は一般とくらべて決して豊かなものではなく、僕の住んでいる宿舎は、カマボコ型のトタン屋根で、ベニヤ張りの六畳間だ。個々人が使用する日用品も、あまり持たなくても生活できるので、ふとんと少しばかりの衣類と本(この本もみんなが読めるように若人部屋に持っていって、ほとんど置いていないが)くらいだが、物にこだわりをもたない心構えと、大きな目的をもったとき、心のほんとうの豊かさがどんなものなのかを味わえてきた。
明日も、朝6時半からミルク色の霧の中でのラジオ体操で始まる僕の一日は、何万羽のニヮトリの飼育者として、飼料の配合、卵集めやらで、汗みずくになって夕方6時に作業が終わる。最近は若い人がふえて、いろいろな活動でいそがしい。夜は一人でボサッとしている暇などない。青年部のミニコミ『楽書通信』についての打ち合わせ、青年部研鑽会、職場研鑽会などが毎夜どこかで開かれ、それらのいずれかにかかわっているので、からだがいくつあっても足りない。君の近況も知りたい。青高のあの当時のみんなにもよろしく。

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(参考:都立青山高校闘争について(『高校紛争1969-1970』より引用)
高校生四人対機動隊250人
1969年10月21日午前7時30分。
東京都立青山高校。
校舎屋上から投げつけられた火炎ビンが、オレンジ色の弧を描いてアスファルトの地面に落下した。ガチャンという音とともにガラス破片が散らばり、炎が2~3メートル四方に広がる。あたりに油のにおいが立ちこめた。炎が消えかけると、石が飛んでくる。その先には、警視庁機動隊が列をなしていた。
火炎ビンや石を投げつけたのは、青山高校全学共闘会議(以下、全共闘)のメンバーである。15日から校舎をバリケード封鎖していた。校舎に立てこもっているのは4人。機動隊は約250人。結末はわかりきっていた。
機動隊は屋上に向けて放水を行い、催涙弾を打ち込んだ。やがて校舎内に突入し、机やイスで積み上げられたバリケードを取り除いていく。廊下にはシャッターが下ろされていたが、電動カッターで切り開いた。
全共闘は激しく抵抗した。機動隊が屋上に通じる階段下まで着いたとき、全共闘は階段に積んだバリケードにガソリンと灯油の混合液を流して火をつけた。一瞬、機動隊はひるんだが、屋上にたどり着き4人を逮捕した。
ほぼ同じころ、校舎裏手の墓地では、全共闘を支持する生徒10数人が機動隊に向けて投石を繰り返していた。まもなく彼らは機動隊に取り押さえられて、5人が逮捕される。(中略)
機動隊突入から9ケ月ほど前の1969年1月26日、「青高反戦会議」の結成を伝えるビラが撒かれた。青高反戦会議は、中核派系の高校生組織「反戦高協」とつながりがあった。ビラでは2月11日、建国記念の日に開催する紀元節復活反対高校生統一集会への参加を呼びかけている。実際に当日の集会、デモでは、青山高校の生徒1人が逮捕された。(中略)
さて、年度が変わり、4月1日の入学式に合わせて青高反戦会議は反戦集会を開いた。22日には、90人が実力テストをボイコットする。26日に、中核派幹部北小路敏の講演を校内で無断開催。28日、反戦高協の他校生徒130人が校内に入り、無断で集会を行う。
8月31日、静岡県立掛川西高校での生徒退学処分に反対する抗議行動に、青山高校の生徒8人が参加する。(中略)
このとき、青山高校の二年生Sがロックアウト中の掛川西高校に侵入し、三階の教室の窓から反戦高協の旗を振り、不法侵入で逮捕される。
Sの逮捕を知った青山高校からは、教頭とSの母親、そして担任教諭の長坂が掛川西高校、掛川署を訪問した。(中略)
9月2日、青高反戦会議は、全学闘争委員会(全闘委)を結成する。全闘委は、「教頭らはなぜ掛川西高校へ出かけたか」などについて公開質問を行った。学校は、「全闘委は学校が正式に認めた団体ではない」として回答に応じなかった。すると8日、全闘委は職員室に押しかけ、以下の「六項目」を要求する。
教頭と担任の権力加担を自己批判せよ
掛川西高処分に抗議せよ
掛川西高事件で逮捕された青高生を処分するな
文部省指導手引書を破棄し青高において適用せず、文部省に抗議せよ
生徒心得第11項(掲示・集会・放送の届け出制)を撤廃せよ
以上のことを大衆団交の場で文書をもって確約せよ
(中略)
9月11日、古畑校長は授業中に全校放送を行い、「大衆団交は一方的つるし上げがあるから応じない」と伝える。(中略)
14日、午後8時30分、全闘委は校長室に机やロッカーを持ち込み、封鎖してしまう。教員は力ずくで封鎖を解除しようとするが、失敗。小競り合いが起こる。古畑校長は登校停止処分をちらつかせながら退去命令を告げるが、全闘委は無視する。9時40分、校長は原宿署に警察官の出動を要請。10時すぎに警官隊が到着して、占拠した生徒18人を排除する。このとき、退去を拒んだ生徒1人が逮捕された。逮捕者を出したことによって、一般の生徒たちの怒りも学校へ向けられるようになった。
封鎖が解除されたあと、学校は、当分のあいだ校舎をロックアウトし、翌日の文化祭も中止することを決定した。(中略)
15日、午前7時。明治公園にて、ロックアウトと文化祭中止に対する抗議集会が開かれる。前夜、封鎖解除のあと、全闘委側から電話連絡を受けた生徒約500人が集まった。生徒は校門前に移動して、校内に入ろうとした。学校は機動隊の出動を要請し、校門付近にいた生徒を排除する。(中略)
17日、学校はロックアウトを解き、校庭で約800人の抗議集会が開かれた。
19日、全闘委は青山高校全学共闘会議(全共闘)と名前を変える。そして、学校側に機動隊導入、ロックアウト、文化祭中止について自己批判を要求した。このころから全共闘への支持層がさらに増え、前記の要求項目に賛同する署名が三年生中心に200人集まった。(中略)
9月26日、学校側は古畑校長名で「反省と決意」を表明する。(中略)全共闘は「学校は要求項目について答えていない。つまり、学校側の自己批判が十分ではない」と突っぱねた。29日、全共闘は8教室をバリケード封鎖してしまう。(中略)
10月に入って、全共闘と学校側に話し合いの場が設けられたが、問題解決にまでいたらなかった。11日、学校によるPTA説明会に全共闘が乱入して、保護者と乱闘になる。(中略)
19日、全共闘メンバーの親が封鎖解除を訴えた。「破防法(破壊活動防止法)適用になるかもしれない。そうなったら裁判は10年続き、青春のすべてが犠牲になる。そんな覚悟はあるのか」。都議会議員も説得に出向いた。これにより、2人が親に連れ戻される。20日、さらに2人がバリケードから離れた。これによって、リーダーのK1人だけとなった。まもなく、反戦高協に支援を要請し、学外の同派活動家3人が加わって、徹底抗戦組4人が残り、冒頭に記した21日朝の機動隊突入を迎えたのだった。
21日の逮捕者14人(女子3人)のうち、青山高校の生徒は7人(女子1人)だった。

●川高闘争と労働者への志向
山崎 努
川高闘争が始まって、一年が過ぎた。その時間の経過が、川高闘争に主体的にかかわりあって来た仲間をいろいろな方向へと分れて行かせた。
私が川高闘争にかかわりあったきっかけは一年、二年の生活に深く影響されている。一年と二年の初めは、いつも劣等生クラスに入っていた。ケチな反抗心で酒、タバコも覚えた。生活はやりどころのない不満でフワフワしたものだった。
今の時点で考えて見ると、劣等感にさいなまれ、生活の自信と言うものがなかったし、自己の弱さを隠すためイキがっていたことは間違いない。そういった状況で、私の教師不信が強まっていった。
私の内部の流動の決定的なきっかけは、69年1・19安田攻防、4・28、6・15であり、そう言った闘いを見る中で8月に、学習会がひらかれたことによる。これが私の川高闘争へのかかわりあいのきっかけであった。大学のつぎつぎのパリケード封鎖、機動隊との対決、そう言ったことも、私を立ち上がらせる一つの要因であった。
学習会においては、安保問題、中教審の後期中等教育に関して、期待される人間像、文部省生徒指導手引書、沖縄問題などを、討論した。そのとき、やっと、何かがつかめそうな期待とも喜びともつかぬものを感じた。それは、人間らしく生きる・・・と言うことだろう。
私の行動(闘争とは言えない)は、単なる教師に対する感情的反撥であったーただ、イキがっていただけだった。教師の前、クラスの仲問の前で、公然と9・13デモ・集会を呼びかける論理性を身につけてはいなかった(こういった感情が先き走りするのは今でも、変わりが無いように思える)。教師に対して闘争宣言(そんなかっこいいものではないが)をする前は、目をつけられるのが恐しかった。目の届かない所で動いている分には、私の家庭、学校での生活は、波風がたたずにいられる・・・そう言った気持があった。ただ自己に正直になるためには、教師に対して「あなたは敵だ!」と叫ばなければならなかった。この次からは、自分の意志を公然と表に出せるようになった。
9・13以降、仲間の討論の中で、高校教育の矛盾、それが端的に現われている後期中等教育、丈部省生徒指導手引書、期待される人間像について話し合って行く過程で、資本に対応した形で教育が行なわれている人間性を無視した教育、そう言った帝国主義時代における「差別と選別」の教育制度の本質がおぼろげながらつかめた。
そう言った認識からクラスにおいて、教師の持つ教育理念の追求が、アナーキーにあちこちのクラスで始まった。われわれ生徒を紙の上での能力段階にふり分けることしかしらなかった教師たちはその追求も、何の追求であったのかも分らなかったようだ。そういう教師、教育者いや管理者に対する大衆の不信は高まり、クラスバリケード、解放区を構築し、授業ボイコット、自主講座開設等々の闘いを組んで行った。しかしわれわれの大多数は、クラスバリ、解放区の解放感に浸りきって、日常性からの脱却と言う本質も忘れ、クラスバリ、解放区の日常性に埋没していき、「頽廃」の道をたどった。
ここまででは、まだ大学拒否と言う理論はでて来ず、「われわれは大学へ行って闘争を続ける」と言った幻想を持ち続けていた。「浪人するんだ」と平気で仲間達と話し合っていた。
年が明け、第二次の高揚期が来た。そこで必要とされたのは、以前(12月段階まで)の条件闘争ではなかった。対学校当局、対県教委、対文部省そう言った一歩も後にひけぬ非妥協的な闘いが必要なのだった。きびしい状況の中に自己を投じるためには、家庭闘争を徹底的にやらなければならなくなった。家庭闘争は、新たな重荷になった。論理できっぱり割りきれないことに難しいところがある。母親との訣別をどのようにするか? 父、兄への対応は?結局、黙って家を出るほか、私の取り得る方法はなかった。今現在、私は家に戻り、前と同じようにしているが、家族がけっして私を理解したのではなく、今はきびしい状況がないので、争いが起こらないだけである。われわれの仲間内で問題をドライに行なう者が非常にうらやましかった。私はそんな頃、母を「予備校に行くから心配するなよ」と慰めていたし、まだ、大学に疑問を持ちながらも結局甘美なものを感じていた。
「今、労働者になうても、何が出来るのだろうか?もっと勉強して、社会を見つめてから実社会に入っても遅くはないだろう」と思っていた。しかし、考えてみると、何ができるのか?と言う疑問はあくまでも受動的域を出ていないことがわかる。何かしなければならないはずだ。まさに、このことは自己を合理化ずる口実にすぎないのではないのか?
川高闘争において、教育体制の矛盾を追求して行く中で、学園民主化闘争、改良主義闘争では、運動が行き詰ることを経験した。否、それらの闘争が結局は体制内部の手直しであり、自らの被害者=加害者という二重性に目をつむる結果になることを「学校=教育の場」において対象化したのが、大学闘争であり、高校闘争ではなかったのか。
学園では、何をすることができるのだろうか?
結局何ができるのか、ではなくて何をするかだな。感性的な、非常に感性的なことだが、これがもっとも重要だと考える。確かに、大学に行けば時間とまた高校闘争と同質のパターンを持った大学闘争と言う基盤が目の前に現われてくる。まさに、これは欺瞞ではないか?われわれは、高校闘争を経る中で、対国家権力、つまり対総資本という非妥協的な闘いに入ったのではなかったのか?生産点に立たない学生の闘いに限界があることを思い知らされたのではなかったのか?
しかし、大学へ行くのを、非難できないことは明白だ。私は、3月卒業近くまで、恥しいけれど自己を合理化することに目をつぶって来た。川高闘争を総括する中で、われわれの闘争のある1面の欺瞞が暴露されるにしたがって、われわれの中に、大学か?労働者か?といった議論がかわされ始めた。以前から、頭の中で、中学→高校→大学と言った一連の教育の帝国主義的再編を論理の上で持っていたのにもかかわらず、これまでの時点では、まだ私はブルジョア的偏向教育にむしばまれた思想を少なからず持っていたことを否定しえない。
真剣に討論される中で、自己を合理化したまま、そのまま大学への道を取った者を、決して非難するのではないが、もう一度川高闘争を批判的に総括すべきではないのか?われわれの川高闘争には、「川高を離れればプチブルの生活ができる」、そう言った一面があった。また中には「学生のうちだけだ」などと言う者もいたことは否定できない。
3月1日にわれわれはバタバタさせられているうちに卒業させられてしまった。その結果、一年間、時間がある、ゆっくり考えてから・・・なんて、ダラダラアルバイトなどを始めた。これがまさに前述の問題の証明である。川高闘争にはこんな甘い面が多分に含まれていた(川高だけではないだろう)。
川高闘争には、一人も処分者が出なかった。大衆的基盤がそのときは存在しているかのように見えたからだ。機動隊導入のときに、19人の仲間が不当にも補導されただけであった。最高5、600人の大衆を結集し、常時2、300人の大衆的基盤を持っていたかのように見える川高闘争も、最終的には、約20人の中枢部分が残るにいたっただけであった。この仲間は今後の闘争を確認した仲間である。
私が労働者となり闘争をしようとはっきり決意したのは4・28においてパクられたときである。最初感じたのは、衝動的な権力に対する怒りであった。迷い続けた労働者か?大学か?の問題がここでハッキリと終止符が打たれた。何故か?私の内に「労慟者とならなければ……」といった決心を起こしたものは、学生のプチブル性(あくまでも、一面的だけれども)が、機動隊との対決のときに見られるということだ。これは絶対に引けない、と言うときにも、全力をかたむけた闘いが出来ずに逃げ出す。ギリギリに追いつめられたのなら逃げださず、徹底的に闘っただろう、そういったものを労働者は強固に持っているように信ずるのである。
今日まで、4・28以降、大した活動は行なっていないが、生活に密着したギリギリの闘争をすることを、仲間と確認している。生活に根の張った闘争・・・まだ具体的構想は持っていないが、職場の内から、権力機構への闘いとなるだろう。当然、武装の問題もでて来るだろうが、まだ、われわれの力量ではそれが出来えない。まず第一に大衆的基盤を作り上げ、川高闘争で得たものを止揚していく闘いでなければならない。
私は労働者となって、闘うと言っているが、いつブル転するかわからないのである。それは、闘争を主体的にかかわりあっていた中で変革するほかない。過去の歴史は常に過渡期であったごとく、われわれの生きている現在もまた永遠の過渡期のーコマに過ぎない。川崎といぅ日本資本主義の心臓部に風穴をブチあけることがわれわれの過渡期における唯一の歴史的課題である。

(参考:神奈川県立川崎高校闘争について(『高校紛争1969-1970』より引用)
川崎高校の紛争は、69年9月13日、生徒有志が学校側の反対を押し切ってデモを行ったことに始まる。安保粉砕、文部省の手引書粉砕などを訴えた。10月、生徒有志は全学闘争委員会(全闘委)を結成し政治活動の自由、カリキュラム改訂、試験制度廃止などを訴えて、三年生の教室で八クラス中、五クラスが封鎖した。教室の戸には、「教師としてなら入るな。人間としてなら入れ」と書かれた。封鎖は年内まで続いたが、学校と生徒とのあいだで改革案の作成が進み、年明けから授業を再開することになっていた。
ところが、年明けになって、ある教師が三年生女子生徒の大学受験用の調査書所見欄に、「本校紛争中に積極的に参加し、クラス女生徒の中心になって活動した」と記入していたことが発覚して、紛争が再燃する。全闘委は学校側に、調査書は生徒の合意のうえで作成し、生徒の承認を必要とすることを確認して、これを公文書に記載することを求めた。学校側は、調査書の原簿は生徒に見せる、原簿は生徒と担任がよく話し合って作ると約束した。女子生徒への謝罪もあった。全闘委はそれでも納得せず、70年1月27日に職員室を封鎖する。焦点は成績を評価する権利についてだった。
県教育委員会は、封鎖生徒を厳しく処分せよ、と学校に指示した。学校側は機動隊を導入し、封鎖を解いて校外に出てきた全闘委19人が補導される。罪状は青少年育成条例に基づく深夜外出、無断外泊である。任意同行されるが、その日のうちに釈放された。本来ならば、建造物不法侵入による逮捕となるが、校長が警察に補導扱いを約束させたのである。
学校側は半年にわたる紛争において「授業妨害」「無届け集会」「立ち入り禁止を破っての校内デモ」「封鎖中の宿泊」などで、全闘委メンバーの処分を考えていた。しかし、校長は処分を一切科さないことを言明する。その理由について、校長は、「(処分した場合)、おそらく生徒が訴訟をおこすだろう。その時に処分理由が薄弱であると判断した」と説明した(r神奈川県立川崎中学校.高等学校六〇年史』1987年)。

●<総括>情況の中の<叛逆と転生>
菅谷規矩雄(都立大学助教授・独文学)
後退期の<思想と生活>
<大学>闘争がそうであるように、<高校>での闘争を <教育> の問題として語ることは、かならずある種の虚偽に導くだろう。闘争する高校生にとっても、問題を<教育>的に扱われたらいっさいが終りであるし、そもそも闘争じたいが始めから存在しえないのだ、とわたしはおもえる。逆にいえば、問題の本質は、<教育>という等式のなかにしかみえてこないなにものかであるのだ。
<教える>自由というものは、国家権力にたいする<相対的>自由として、まだしもなりたつかもしれない。けれども<教えられる>自由というものは、なににたいしても<絶対的>になりたちようのないものとしてあるーそこに<教育>が、<教えるー教えられる>という関係を<自由> ではなく、<階級的>な関係として疎外する必然的な理曲がある。にもかかわらず<教育の自由>がなお主張されうるとしたら、その主張の根底をなすのは、<自由=秩序>という考えかたであるーつまり<教育>を信じうるか否かは、究極のところ<自由=秩序>の思想によって<自由=叛逆>の思想を否定しうるか否かにかかっている。
高校闘争にかんする三篇の手記にたいして、わたしがなにごとかを書くという課題を負っているのだから、ここでわたしが書くことには、はじめからひとつの声がせまっているようにもおもえるー<ではおまえの闘争はどうなのか・・・>と。この声に<良心的>にこたえようとすることは、なにもこたえないにひとしい。なぜなら問いかけがおびている性急な調子の、より根底にあるものをみぬかずに、調子をあわせることではないからだ。
三篇の丈章に、いや3人の筆者に共通しているのは、ある息苦しさからの脱出へのパッションである。それを問題にすることが、ほかならぬ<私>にとっての闘争をこたえとすることになるだろう。
もともと <70年決戦> 主義をいっさい信じないで60年代をすごしてきたものが、むしろその帰結として大学闘争にゆきあうことになったのだから、わたしの思想主題は情況(のなかで行動するわたしじしんをもふくめて)への反作用として、より明らかなかたちをうる。<叛逆と転生> という題をかかげたのも、この機会に、叛逆の根拠はなにかをさらに問うてみたいからである。
<学園>闘争においても政治闘争においても、いまわたしたちは<行動>の諸様式を創出し選択しうる共同の想像力(あるいは想像力の共同性)において、ゆきづまっている。<方針がでない!>ということは、それとベつのことではないだろう。 <10・ 8羽田闘争>がく情況―闘争>の象徴たりうる時期は、どうしようもなく終りつつあるー現在、情況の本質は、いっそうきびしく個々人の<生活―思想>のがわに転位している。<消耗した>とすれば、いったいなにをどのようにつかいへらし、つかいつくしたのか?行動の場面に恒常的にスケシュールとして<存在>することが<前術>党派たることの証明になるという一面が、なにを意味しているか。つまり、<決戦勝利!>ということばが<行動>の恒常的存在を意味する代名詞以上のものとしては表現されえない情況は、どれだけ<行動=勝利>のカテゴリイでとらえても、同義反復のむなしさからでられないだろう。
こうした情況では、<行動>を追えば追うほど、かえって<思想>は無自覚な<転向>にさらされるー情況主体の<実践>とは、<行動>とはベつ次元の、よりひろいカテゴリイである。
そしていまだに<ブル転>なる概念が、闘争するものにとって問題になることが、わたしにとってはなにやら異様である。<ブル転>という語は<職業革命家>という語の奇妙さとつるんでいる。そこから生殖されるのは<神話的>前衛党である。わたしは<ブル転>なる概念を神話的フィクションだと考えている。<転向>したって<ブル(ジョア)>になるとはかぎらない・・・という生活的な階級性にとざされているものの存在を無視していられる、ある種の特権意識がこの語を生みだしたのだ。
三篇の手記に即していうなら(ただしわたしはこれらの文章を、固有の主題をどうにも語りだせない息苦しさに根ざしたあらわれの<型>としてとらえうるかぎりでのみ、引用し言及する)、《労働者への志向》と題する山崎努君の文章の終りちかく、つぎのような箇処の論理がふくむ、ふたしかさを、わたしはあえて問題にしたい。
<生活に根の張った闘・・・まだ具体的構想は持っていないが、職場の内から権力機構への闘いとなるだろう。当然、武装の問題もでて来るだろうが、まだ、我々の力量では、それが出来ない。まず第一に大衆的基盤を作りあげ、川高闘争で得たものを止揚していく闘いでなければならない。私は労働者となって、闘うと言っているが、いつブル転するか分らないのである。それは闘争に主体的にかかわり合って行く中で変革する他ない>。
わたしとてもこれ<以上>のことがいえるわけではない(そしておそらく他のだれにしても)。ただこれを<表現>としてみるならば、<表現>への反作用としてよりふかく表現されえない核にむかってかたまってゆくべきものがなにかを、ある程度普遍的に問うことはできる。
<労働者になる>ことを<闘う決意>として語ること、言いかえれば<決意して労働者になる>ことは、ほんとうに可能なのだろうか。さらに言うならば、<大学入学を拒否する>決意は、どこまで必然的に<労働者になる>決意をみちびくのかーこのふたつの決意を必然的ならしめるには、どうしても<飛躍―転生>がかけられねばならない。おそらくここに内在する思想的な問題性は、たとえばこの文章の筆者である山崎君じしんが労働者になった後に何度でもあらわれるはずである。
敗北?後退の情況下では、すべての問題は個々人の<生活―思想>のレヴェルへとおしもどされる。行動の領域における<敗退>が思想の領域におけるどんな<勝利>をみちびきうるかという位相の転化のなかにしか、闘争の本質的な連続性は存在しえない。<ブル転>云々は、この位相の転化のきわめて通俗的なとらえかたであり、<前衛党>の存在を先験的に承認するかぎりでのみ、ひとつの判断でありうる。
あるものを否定する情況主体の決意が、個々人の<生活―思想>の領域へとおしもどされる過程で、べつのなにかをえらびとる決意へと<飛躍>することは、かならず情況を内面化せずにはいないし、また内面的な<できごと>であるから、どこでどのようなものへと<飛躍>することもできる。またどのようなものへの<飛躍>であっても必然的かつ直接の連続性として、えらびとられたものたりうる。
問題はこの<飛躍>が一回かぎりのもの(一過性)とかんがえられるか、むしろ何度でもおこなわれうる、ある種の<連続性>とかんがえられるかにある。
3人の筆者のうち、すでに引用した山崎君と、《生活自体と「革命」の結合》の北大路君とをくらべてみれば、両者はまったくべつの選択をしたもののごとくにみえる。しかしそれは<飛躍―転生>という位相のうえでは、同一の<型>の両極なのではないかーという問いが、現在のわたしにとっても最大の問題である。高校闘争にかぎらず、情況の普遍性がこの問いに象徴されているとおもうのである。
<転向>概念の解放
60年代が最終的に完了せしめるべき思想的課題の一つは、<転向>概念の<倫理的>価値判断からの完全な解放であるーこの点では闘争者個々人のレヴェルにおいて、60年代はまだ完了していない。
たとえば北大路君の文章を読んでいると、古典的といってもいいほど整序された<転生>のみごとさに、わたしは一瞬、言うべきことをうしなってしまう。整序された、ということと苦闘のはげしさとは決して背反しない。むしろ苦闘に比例するとさえいえる。おそらく北大路君が闘わねばならない根拠が、倫理的であったごとく、<転生>また倫理のレヴェルでおこなわれえたのだとおもうのである。
はじめの方にわたしは、3人の筆者に共通しているのは、ある息苦しさからの脱出へのパッションであると書いたが、このパッションの<構造>をどうとりだすかーこの点で北大路君の文章は、異様なまでの無関心さをしめしている。いわばどこまでも宗教的な<回心>へと近接してゆく方向性をもった<転生>だったのだろう。
北大路君のばあいにある種の<無関心>としてあらわれているものの内実は、佐藤君の文章で終始、自己批判・自己暴露という語で<表現>されようとするものと、対応しているといえよう。北大路君は高校での闘争をはなれてから山岸会に入るまでの経緯をまったく記していない。暗部が語られていないのである。他方、わたしが<暗部>ということばで指そうとするもののただなかに、佐藤君の現在がある。佐藤君が<自己批判>と言おうとするとき、むしろ<自己批判>を可能ならしめる<関係>じたいがすでに失われているーあえて言うならば、つぎのような箇処にわたしは、なにか<良心的>なあやうさを感じてしまうのである。
<確かに意識の上では闘争放棄などは問題外としてあったのであり、闘争を常に志向していた。だが客観的な闘争の敗北と僕の「怠慢」は、既に逃亡者たる僕として結果していた。こういった現在の自分を認識する事はつらい。しかも僕は「闘争」を創出した仲間の一人なのだ。だがどのような自分の姿も正直に正面から見つめなければいけないと思う。>
永続しうるのは、そして、させなければならないのは、なによりも叛逆の根拠である。<意識の変革>ということをわたしはあまり信じない。意識の原型ともいうべきものは、Aなる意識から、それとまったたくベつのBなるものへと、一挙に変ることなどありえない。Aなる意識が、よりいっそうAなる意識として徹底することがありうるだけだとおもっている。孤立性・偶然性そしてたえざる競争(その表出としての恣意性)ーこれが高度に独占化した階級社会においてわたしたち個々人の意識に与えられた存在規定である。
だからたとえぱ、手記のなかで闘争まえの高校生活における自己を表現するのに用いられている<劣等感>というようなことば、それをどこまでも徹底することで、階級性の原像のごときものに達することが、つまりは高校生にとっての(大学生にとっても、さらにはわたしにとってもそうだが)闘争の真の主題というべきものではないのか。この過程にあっては<脱出ー飛躍ー転生>は、なんの解決でもないのである。
<一年と二年の初めは、いつも劣等生クラスに入っていた。ケチな反抗心で、酒・タバコも覚えた。生活はやりどころのない不満でフワフワしたものだった>一闘争は、ここでいわれる<ケチな反抗心>を否定する<意識の変革>としてあったことになるのだろうか。ケチなものであるかないか、という価値観のもんだいなのだろうか。ここにはもっとおそろしいようなベつの真実がひそんでいるようにおもえる。
<ケチな反抗心>と<反抗心のケチなあらわれ>とは、まったく異質である。もちろん筆者じしんの言おうとするところは後者の意味であろう。しかしそこにふくまれてしまう屈折を、ある極限まで拡大してゆくとき、ここにもひとつの問題があらわれる。筆者がその闘争において<ケチな反抗心>から脱却したとき、なおまだその<ケチな反抗心>そのものにとどまって、どうしようもなく不動であり、闘爭の敵対者のごとくみえる他の高校生が存在することを、痛切に感じずにはいられなかったろうと推測しうるからだ。
そのときそれら同級生や他の高校生は<意識の変革>を必要とする対象として映りはじめただろうこともまた推測できる。
けれども<劣等感ーケチな反抗心>総体を、べつのものへと<変革>するという方法がそこで、えらばれたとしたら、それは根本的な誤りをふくむものではないかーこの問いの前に、わたしじしんたちどまるのである。筆者(山崎君)の<労働者への志向>が、その決意の結果として、<ケチな労働者>と自らを区別して<ケチでない労働者>という意識をつくりあげるものでなければよいが。
生活の実存からすれば<犯行心>の至高のあらわれとみえるものも、ケチなあらわれとみえるものも、おなじようにおもいーそのような地点にたつときはじめて、そのおもさを叛逆の絶対的な根拠として断言しうるなにものかがつかみだせるであろう。
<われわれは革命を求める、われわれは正義のためにではなく正義よりも重い飢えのためにどんな手段ででも革命を求める>(黒田喜一)
この断言は、戦後革命史のもっとも苛酷な暗部から発せられたうめきだ。そうであるゆえにこの声は、いまなおわたしたちの耳に痛切になりひびく問いであるーわたしたちの叛逆の根拠が、この声いじょうに深いものとなって、わたしたちを<変革>の<行動>へとむかわせているかと。
叛逆の根拠の持続性
高校闘争および高校生にかんして、わたしは間接的にしかのべることができない。大学でのわたしたちの自主講座運動が、高校生との直接の関係をもふくみうるものとなることは、はじめの意図のひとつであったが、それはほんのわずかしか果たされておらず、言うにたるものをまだもたない。
そして、問接的にというのは、高校生(の闘争)を思想形成の一過程としての側面からのみ、ということである。わたしがこの一年ほどのあいだに接した数人は、高校生という一般的なあらわれではなく、高校を卒業したり中退したり退学させられたり、またいわゆる保護観察中であったり、それぞれ闘争の場からはなれざるをえなかった、ひとりひとりとしてあらわれ、またべつの場を求めて去ってゆく。
ありていにいって、自主講座がかれらとのあいだに持続的な関係をつくりだすという点では、ほとんど失敗にひとしい。その理由はおそらくひとつのことにあるー性急な脱出としての<飛躍―転生> を拒否しようとするわたしの態度を、情況にたいする普遍性として十分にしめしえていないからである。情況はいまだそれを<無方針ー無行動>としかみようとしてはいない。
6月<安保>闘争以後、情況は決定的な岐路をわたしたちにつきつけてきているとおもう。そこに<政治>が存在するから<闘争>があるといった先験性に依拠するかぎり、<10・ 8以後>はもはや<根拠ー思想拠点>ではなく、逆にいっそうの空洞化をしめすだけであろう。
情況の本質は、むしろ<無行動ー無力針>とみられ、また<消耗・脱落>したとみられる、個々人の<生活―思想>の過程に内在している。そしてこの本質が、あらたな政治的共同性を形成し、再度、いかなる闘争をなしうるかは、<72年決戦>主義によってはどうにもこたえられない困難さとしてある。闘争者としての自己をかんぜんに放棄して、生活大衆のひとりとなりきることによってしか、叛逆の根拠は持続性をえられないのではないか。この問いのまえには、おそらく<労働者となって闘う>という決意さえ、ほどなく解体し吸収されてしまうかもしれない。それはひとつの極北である。
他方では、<知識>の領域をどこまでものぼりつめて、自らの思想を反<国家>の世界思想として確立せしめるという極も、わたしたちにとって不可避のものである。空語の世界をさまよって、実存の世界をも思想の世界をもえらびきれないことが、わたしたちの敗北をいっそうひどいものにするだろう。

(終)

【『はたちの時代』の紹介】
重信房子さんの新刊発売!
『はたちの時代』(太田出版) 2023年6月16日刊行
はたちの時代

前半は66年から68年までの明大学費闘争を中心とした時期のこと(この部分は私のブログに「1960年代と私」というタイトルで掲載したものです)。
後半は69年から72年までの赤軍派の時期のことが書かれています。
定価 2,860円(税込

本のアマゾンリンクはこちらになります。

「模索舎」のリンクはこちらです。

江刺昭子さんによる本の書評(紹介)です。(47ニュースより)

「あとはき」より
『ここに書かれた記録は、ごく日常的な私自身の身の回りで起こったことを率直に書き記したものです。その分、他の人が書けば全く違った関心角度から違った物語がこの時代のエピソードとして描かれることでしょう。私は獄に在って、何度か癌の手術を繰り返していました。生きて出られないことがあっても、支えてくれる旧友や、見ず知らずの方々にお礼を込めて、私の生き方、どんなふうに生きてきたのかを記録しておきたいと思ったのが、この記録の始まりです。私がどのように育ち、学生運動に関わり、パレスチナ解放闘争に参加しどう生きて来たのか、マスメデイアでステレオタイプに作り上げられた私ではなく、生身の私の思いや実情を説明しておきたくて当時を振り返りつつ記して来ました。獄中と言うのは、集中して文章を書くのに良いところで、ペンをとって自分と向き合うと過去を素直に見つめることが出来ます。楽しかった活動や誇りたいと思う良かった事も、間違いや恥かしい事や苦しかったことも、等しく価値ある人生であり私の財産だと教えられた気がします。(中略)どんなふうに戦い、どんな思いをもって力を尽くし、そして破れたのか、当時の何万という「世の中を良くしたい」と願った変革者の一人として、当時の何万と居た友人たちへの報告として読んでもらえたら嬉しいです。また当時を若い人にも知ってほしいし、この書がきっかけになって身近に実は居る祖父や祖母たちから「石のひとつやふたつ投げたんだよ」と語ってもらい、当時を聴きながら社会を知り変えるきっかけになれば、そんな嬉しいことはありません。
いまの日本は明らかに新しい戦争の道を進んでいます。いつの間にか日本は、核と戦争の最前線を担わされています。そんな日本を変えていきたいと思っています。決して戦争をしない、させない日本の未来をなお訴え続けねばと思っています。なぜなら日本政府が不戦と非戦の国是を貫くならば日本の憲法には戦争を押しとどめる力があるからです。はたちの時代の初心を忘れず日本を良い国にしたい。老若男女がこぞって反戦を訴え支える日本政府を実現したいと思います。』

目次
第一部 はたちの時代 
第一章 はたちの時代の前史
1 私のうまれてきた時代/2 就職するということ 1964年―18歳/3 新入社員、大学をめざす
第二章 1965年 大学に入学した
1 1965年という時代の熱気/2 他人のための正義に共感/3 マロニエ通り
第三章 大学生活をたのしむ
1 創作活動の夢/2 弁論をやってみる/3 婚約/4 デモに行く/5 初めての学生大会/6 研連執行部として

第二部 明治大学学費値上げ反対闘争
第四章 学費値上げと学生たち
1 当時の牧歌的な学生運動/2 戦後民主主義を体現していた自治会運動/3 話し合いの「七・二協定」/4 田口富久治教授の嘲笑   
第五章 自治会をめぐる攻防
1 スト権確立とバリケード――昼間部の闘い/2 Ⅱ部(夜間部)秋の闘いへ/3多数派工作に奔走する/4 議事を進行する/5 日共執行部案否決 対案採択
第六章 大学当局との対決へ 
1 バリケードの中の自治/2 大学当局との激論/3 学費値上げ正式決定/4 収拾のための裏面工作/5 対立から妥結への模索/6 最後の交渉と機動隊導入  
第七章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書―二・二協定の真相/2 覚え書き(二・二協定)をめぐる学生たちの動き

第三部 実力闘争の時代
第八章 社学同参加と現代思想研究会
1―1967年 一 私が触れた学生運動の時代/2 全学連再建と明大「二・二協定」/3 明大学費闘争から再生へ 
第九章 社学同への加盟
1 社学同加盟と現代思想研究会/2 現思研としての活動を始める/3 67年春、福島県議選の応援/4 今も憲法を問う砂川闘争/5 あれこれの学内党派対立/6 駿河台の文化活動
第十章 激動の戦線
1 角材を先頭に突撃/2 10・8闘争の衝撃/3 三里塚闘争への参加/4 68年 5月革命にふるえる/5 初めての神田カルチェラタン闘争―1968年6月/6 68年国際反戦集会の感動 

第四部 赤軍派の時代 
第十一章 赤軍派への参加と「七・六事件」
1 激しかったあの時代/2 1969九年の政治状況/3 4・28縄闘争/4 赤軍フラクション参加への道/5 藤本さんが拉致された、不思議な事件/6 7月5日までのこと/7 69年7月6日の事件/8 乱闘―7月6日の逆襲/9 過ちからの出発
第十二章 共産主義者同盟赤軍派結成 
1 女で上等!/2 関西への退却/3 塩見さんらの拉致からの脱走/4 共産同赤軍派結成へ
第十三章 赤軍派の登場と戦い
1 葛飾公会堂を訪れた女/2 「大阪戦争」/3 「東京戦争」/4 弾圧の強化の中で/5 支えてくれた人々/6 前段階蜂起と組織再編/7 大敗北―大菩薩峠事件/8 初めての逮捕――党派をこえた女たちの連帯
第十四章 国際根拠地建設へ
1 前段階蜂起失敗のあと/2 よど号ハイジャック作戦/3 ハイジャック闘争と日本委員会/4 深まる弾圧――再逮捕/5 思索の中で

第五部 パレスチナ連帯と赤軍派との乖離(かいり)の中で
第十五章 パレスチナ連帯の夢
1 国際根拠地パレスチナへ/2 赤軍派指導部の崩壊/3 森恒夫さん指導下の赤軍派/4 パレスチナへの道
第十六章 パレスチナから見つめる
1 ベイルートについた私たち/2 統一赤軍結成/3 アラブの私たちー―赤軍派との決別/4 新党結成の破産/5 アラブから連合赤軍事件を見つめて/6 連合赤軍の最後とアラブの私たち/7 新たな変革の道を求めて

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在15校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は10月20日(金)に更新予定です。

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