今回のブログは、今年の7月1日(土)に北区王子の「北とぴあ」6階ドームホールで開催された、伊達判決64周年記念集会での土屋源太郎さんの講演である。
(集会チラシ)
【戦時体制から砂川闘争、伊達判決、最高裁判決、そして国家賠償裁判へ】
講師:土屋源太郎
伊達判決を生かす会共同代表
こんにちは。どうも。
私は昭和9年、東京の東十条、(この会場の)すぐ隣で生まれました。88歳です。だいぶボケてきたので、話があっちに行ったりこっちに行ったりするかもしれないし、正確でないかもしれない、それは勘弁して欲しい。
この王子あたりは飛鳥山があって遊びに行ったので、懐かしいですよ。
戦時体制下での生活と敗戦
小学校は当時、僕が入った時は国民学校なんだよ。王子第4国民学校。1年坊主が入った年の12月の8日、学校に行ったら「全員校庭集合」ということで校庭に行ったら、校長先生が「今朝、日本軍はアメリカのハワイの真珠湾というところで攻撃をかけて大成果をあげた。そして米英、アメリカ、イギリスと戦争状態に入った。わが日本の国は、天皇を神とする国で神国だ。だから鬼畜米英に負けるわけがないんだ」というような話をした。それで全員皇居に向かって整列して「天皇陛下万歳」。一生懸命やりましたよ。
それでそれからじゃないかな、毎月全校朝礼があるんだよ。校長が訓話の前に恭しく黒いお盆に乗せたものを持ってくるわけ。それを出して読み上げる。それが皆さんも聞いたことはあると思うけれど、教育勅語というやつなんだよ。内容は「汝臣民」から始まる文言で、要は父母に孝行しろ、兄弟とは仲良くやれ、隣人とは共に暮らせというような話。それで肝は、一旦事があった時は天皇陛下のために命を捧げろと。それを毎月校長が読み上げ、それで訓話をする。結局、天皇は神だという話から神話の教育が始まるわけ。要するに、天上に高天原という場所があって、そこに天照大神という神様がいて、その神様のひ孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)というのが天照大神の命によって日本の地上に降りてくる。天孫降臨という。そして日本の国を開くことから始まった。そしてその孫の神武が東征というか、当時の説だと九州に降臨したという話なんだよね。それで東へ攻めて国を平らげた。それで日本という国を作って、それが初代の神武天皇。今の天皇はそれの子孫だ、正に神の子なんだという教育ですよね。「日本って大変なものなんだ」と思うわけですよね。それと同時に、当時の日露戦争で日本が勝利した。あの大国ロシアを日本がやっつけた。その時の東郷元帥とかいろんな人たちの活躍(の話)を教育の中に入れて教え込んで、日本は強い国であり、軍国主義が国として大事なんだという教育をしていくわけです。
当然そういう形ですり込まれるから、我々としては将来は職業軍人になるということに大変憧れるわけです。そういう状況の中で昭和17年くらいまでは比較的南方攻撃だとか、中国の戦線での効果が出てきて、毎朝と昼と夕方に大本営発表というがラジオであって、景気のいい話がずっと出る。ところがほとんどが嘘だったんだよね。それと先ほどの教育の中で、「この戦争はアジアの人民を解放する戦いで、大東亜共栄圏というものをつくるためなんだ。まさに正義の戦争なんだ」ということも教えるわけです。それと同時に、「国家総動員令」が出されるわけです。(注:「国家総動員法」は昭和13年公布)「国家総動員令」というのは、天皇、政府、ここから出た命令は文句なしに聞け、従え、そして戦時国家として国民は軍に全面的に協力しろ、ということなんですよね。
と同時に、もう一つは、要するに公安を維持するという意味で、特高警察がその法律の下で活躍をした。それで隣組が作られて、はっきり言うと管理と監視の社会ですよ。徹底した管理と監視をする。と同時に、一方的に徴兵が起こるわけです。赤紙で徴兵の通知が来れば、否応なしに兵隊に行く。僕が小学校2年の時に、担任の先生も出征していきました。ですから、常時、隣近所のお兄さん小父さんが出征していくんだよね。それをよく駅で行列を作って、軍歌を歌いながら送っていった。そういうような事があった。
と同時に、いろんなものが規制される。娯楽なんかもちろん無理。それこそ、着るものは男は国民服というカーキ色の作業服のちょっと洒落たようなもの、それで統一する。背広は着ちゃいかん。それから女子は、白い上着にモンペというズボンの膨らんだようなやつをはいて、割烹着。スカートなんかもちろん駄目。そういう規制がどんどんされていく。
昭和18年の秋くらいかな、レイテ沖の海戦という大海戦があって、そこで日本軍の艦隊が米軍の機動部隊によって壊滅的にやられてしまう。そんな放送はもちろん無いよ。結局やられてしまって、それに伴ってグアムだとか硫黄島だとか、あの近辺の島々がどんどん(米軍に)占領されていくわけ。結局グアムが米軍基地になって、そこから(日本への)空爆が始まるわけ。一番最初に東京で空襲があったのは昭和18年の暮れ。19年に入ると空襲がどんどん激しくなってくる。何しろ昼も夜もウーウー空襲警報が鳴るんだよ。そうするとB29
の編隊が、グワーッとすごい音で来るんだよ。飛行機は結構上を飛んでいる。高射砲を打ったって届かない。それから日本の戦闘機はやられるだけという状況で空襲が始まった。昭和19年の4月には、小学校4年生から6年生までは学童疎開。東京に居たら危ないからというので地方に疎開。僕らは宮城県の白石というところに疎開したわけですけれども、空襲は学童疎開の前からも激しい状況でした。
それで何しろ東京だけじゃないんだよね。日本全国、主要都市はほとんど空襲に遭う。それで彼ら(米軍)が考えたのは、日本の家屋というのは木造がいっぱいでしょ。木造だから、一番いいのは燃やしてしまうこと、火災を起こさせる。奴らが考えたのは、筒に油のようなものを詰め込んで、それを束にしたものを作って、それを爆撃機から落とすわけよ。そうすると途中でタガがはずれて筒に火が付いて、それが落ちてくる、何百本も何千本も。それがバラバラ落ちるから、当然火災が起こる。言ってみれば「人間バーベキュー」だよね。要するに奴らにしてみれば人間じゃないんだよな。ひどい話で、そんな事が本当に人道上許されていいのかと問うほどの空襲が何回も何回もあった。それが東京だけじゃない。ほとんどの主要都市が(空襲に)逢っているわけね。静岡市でも、聞いたところによると空襲で2千人死んだというんだから。そういう事が現実の問題として、やっぱり戦争というのは人間がほとんど無視される。そして自由も無きゃ、人権も無きゃ、その上日本の場合は天皇陛下のために何しろ命を捧げろということになってくるわけです。
そういう状況の中で、最後は広島、長崎に原爆がああいう形で投下された。これだって人道上絶対許されるような事じゃないですよね。実際は、それ自身もほとんど報道がない。だから戦後だいぶ経ってから我々は初めて知るという状況でしたからね。それが言ってみれば戦争なんですよね。
それで当時の食糧事情にちょっと触れると、何しろさっき言ったように徴兵で働き手が戦争に駆り出されるんだから、農家の人手が全然足りないから、農作物だとか家畜だとか作るものがどんどん減ってくるから、食料が当然無くなるわけだよね。そうすると昭和19年あたりから配給制になるわけ。米、味噌、醤油を始めとする主要食糧が全部配給制。だいたい飯は米が7か6、麦3か4の割合で混じったものが、ひと月のうち半分食えるか食えないか。あと何を食っているかと言うと、かぼちゃとかじゃが芋、さつま芋、トウモロコシ。それともう一つは「すいとん」と言って、醤油のタレにうどん粉をこねてダンゴにしたやつが入っているわけ、野菜が若干入っているくらいで、むしろかぼちゃよりはご馳走なんだろうな。それが時々食える。今食ったらとても食えるような代物じゃないと思うけどね。そういう食生活、これが敗戦になった昭和21年くらいまで続きましたね。何しろ魚とか肉類はお目にかかれないから、タンパク質とかそういうものはどうしたかと言うと、田んぼの脇に川がある。当時は農薬なんか使わないから、どじょうとか雑魚の魚がいる。それを捕ってきて、それを食う。秋になるとイナゴが多く出てくるので、イナゴを捕ってきてイナゴを食べる。それがタンパク質の補給なんだよね。肉とか魚なんか、なかなか食ったことがないという状況ですよ。
話がちょっと戻りますけれど、焼夷弾による大空襲、ここの王子というのは王子製紙があったり、軍需工場も結構あったということもあるんだけれども、4月18日の大空襲で焼け野原。私の家も18日の日に焼けた。それで私は疎開で居なかったんだけれど、後で妹が言うには、お袋と親父と4つ違いの妹で、火の中を追われて追われて逃げるに逃げた。それで水を被ったりしてようやっと逃げた。「もう死ぬと思ったよ」と泣きながら言うんだよね。こっちも一緒に泣く。それで妹が「お兄ちゃん、居なくてよかった」と言う。それくらいの思いをした人たちが、本当にいたるところにいたというのが実態ですよね。だから絶対戦争なんてやってはいけないんですよ。
昭和20年の8月15日、敗戦の日が来ました。ラジオから天皇が何か喋っているんだよな。ガーガー言ってよく分からない。大人が「負けた、負けた」と言っているので、やっぱり負けたかとその時思った。
さっきちょっと言い忘れたけれど、親父の田舎が長野県の軽井沢だったので、そこに疎開するために1回東十条に戻って1週間くらい居たことがある。そうすると、王子の一帯までが見渡せるような瓦礫の山だよ。木造が焼けた跡だから瓦礫になっちゃうわけだよ。もう本当にひどかった。
そういう状況だったから、8月15日に軽井沢で敗戦を迎えた。(ラジオで)何を言っているのか分からないけれど、負けた。非常に印象深かったのは、その日の夕方、町中に街灯が付いて明るい、家中の明かりが付く。その前の日までは灯火管制があって、常時空襲があるから家を暗くしておかなければいけないから、灯が洩れないようにする。灯が洩れるようにすると、消防団なんかが来てうるさい、徹底的にやられちゃう。そういう中で暮らしましたから、8月15日の夜、子どもなっがらに「これはすごい、やっぱり平和というのはいいな、戦争は駄目だ」と身体中に思ったよね。言ってみれば、戦中の体験と敗戦のあの日のことが、現在の私の活動の原点だね。
明治大学入学から砂川闘争へ(1956年)
昭和28年、明治大学法学部に入学した。当時、明治大学はひどい学校だったんだな。丁度、民主化闘争と学園闘争があった。たまたまそれがあったので、そこへ僕は参加した。それが自治会に参加する一つのきっかけになって、学生運動に入っていった。
実際6年間、僕は一応大学に居たんですよね。卒業も一応したんです。けれど、まともに授業を受けたのは2年間くらいかな。だからいいとこ学生運動学部卒業じゃないかな。
55年(昭和30年)になって、当時、立川米軍基地の拡張計画が持ち上がってくるわけです。規模にして5万坪。農地、宅地、墓地、それから町の街道を分断するまでの内容の買収計画が町に通達される。
さっき話に出たように、町会では反対決議をして反対同盟が出来るという状況になってくるわけです。55年の時は予備測量だったわけですよ。と言うのは、5万坪の土地の所有者がどうなっているのか、どこがどうなのかということを確認しなくちゃいけないから、予備測量をしなければいけない。9月に予備測量が行われた。当時はまだ地元の反対同盟の町民の方たちと、三多摩労協の労働組合の人たち、千人ちょっとくらいだったんじゃないかな。
測量地に座り込んで反対をしたけれど、機動隊が圧倒的多数で測量隊を守って、測量に強権的に入ったから、ほとんど杭を打たれちゃったんだよね。その時に「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」という有名な闘いの標語がそこで謳われたわけだけど、当然地主が活動しますから、調達庁(現防衛施設庁)は、猛烈な勢いで土地買収にかかるわけです。その結果、半数くらいの人が買収に応じてしまうわけね、全員一致で反対決議をしたんだけれど。そういうことになると、翌年本測量があるということが分かっていますから、戦えないと青木さん(反対同盟行動隊長)を含めて町の人たちが考えたでしょう。
55年の時は総評も参加していない、我々全学連、都学連も参加していなかったんですよ。と言うのは知らなかった。そこで青木さんたちが、当時の総評の事務局長だった高野実とか、基地問題を扱っていた文化人の清水幾太郎が仲介になって、全学連にも支援の申し入れがあった。(全学連の)共闘部長の森田が窓口でその話を受けて、我々も55年に全く知らない状態でいたことに強く反省もあったし、このままにしておけないという気持ちもあったから、当時僕は、たまたま明治大学の中央執行委員会の委員長をやっていたものですから、全学のいろんなところに「こういう事情で砂川の基地反対闘争があって、その闘争に参加することになった。ついては現地を見に行こう」ということでいろんな呼びかけをして、現地に行きました。
当時立川駅は木造の駅で、駅の前は砂利道で、50~60メートルも行かないうちにアメリカ軍のゲートがあるんだよ。そういう状況でした。それで砂川へ通った。全国の全学連の自治会にも動員をかけていますから、東京だけじゃなくていろんなところから来る。それで反対同盟の人たちが、砂川中学校の講堂を、今じゃ考えられないけど、全面的に開放して、我々全学連の学生が泊まれるようにしてくれた。そこにムシロを敷いたり毛布を敷いて寝泊まりをする。それで自炊で米を炊いてムスビにして、味噌汁とタクアンをリヤカーに乗せてそれを配った、というような生活をする。一方で、いろんな学生がいますから、農業ができる奴は農家の手伝いをする、教育系の学生は子供たちの勉強を見る、我々みたいに何の脳もない者は子供たちとキャッチボールをやったりする、それで町の人たちとの信頼関係を築く。当時、原水爆禁止運動なんかで全学連はけっこう有名だったんですよ、暴れん坊で。だからある意味で全学連が応援に入るというのは、逆に迷惑じゃないかという声もなきにしもあらずだった。そういうこともあったんで、何しろ町の人たちとも交流をする。それと、一番印象的だったのはお母さんたちの話。お母さんたちが言うのには、「私たちは戦前、陸軍によって強制的に土地を取られた。そして今度は敗戦になったら、米軍が来て、ブルトーザーと銃剣の下で否応なしに土地を取られた。今度また3回目ですよ。それもどうも軍拡をするために基地を拡張するんじゃないか。そんなことに私たちは協力はできない。平和が大事なんだ」。お母さんたちは戦争中の体験がいっぱいありますからね。「何も反対をやって土地の値段を上げろとか、そういう問題じゃないんだ。あくまでもこれは平和の闘いなんだ」これは感動しました。それを持ち帰って学内で話をすると、みんな反響が出てくる。
それで56年の10月の12、13日に本測量になる。12日は、総評から地評、全学連、都学連、それから全国のいろんな市民団体、基地反対の運動をやっている人たちも応援に来るということで、3~4千人は居たと思いますよ。
そういう中で12日に座り込んで、スクラムを組んで、それで労働歌を歌って、反戦歌だとか校歌を歌ったり、そうすると機動隊の指揮官が指揮棒で「かかれ」と命令をかけると、一斉にゴボウ抜きになるわけ。それと同時に、鉄カブトのようなもので頭をガンガンやられ、警棒で突っついてくる、それで軍靴で蹴とばす。それに耐えながら、奴らは公務員のせいで5時になると引き上げるんだよ。だから5時までが勝負。5時まで何しろ「頑張れ頑張れ」なんだよ。12日の日は一応そういうことで、1本も杭を打たれないで引き上げた。
13日にまた来る。13日は、12日のことがあったので、これは防がなければいかんということで、一番やったのは、お腹のところに週刊誌を挟んだんです。そうすると、突かれても結構防御できた。これは結構効果があったね。13日はショボショボ雨が降っていたんだよ。だけどしょうがねえ、そこに座り込んでスクラム組んで、「基地拡張反対」とか「機動隊帰れ」とかシュプレヒコールして歌を歌ったりしているんだけれど、それが終わると、指揮官が「かかれ」と一斉にゴボウ抜きにされる。お巡りがトンネルみたいなものを作って、そこにぶち込まれる。だけど我々はそこをすり抜けてはまた後ろに回る。当時僕は明大の中執の委員長だったものですから、明大の軍団が結構いて、そこで彼らと一緒に戦ったわけですけれど、それで、実際は13日の日は何しろ向こうも必死で物凄い勢いで来るから、結果的には千人以上の負傷者が出た。それが有名な「流血の砂川闘争」ということになるわけですけれど、その日が終わって、一斉にマスコミ、テレビ、新聞を始めあらゆるところで放送がされて、多くの国民が知る。それと同時に負傷者が千人以上も出た。我々は駅頭で募金活動をやって訴えた。そうしたら何と、千円札が驚くくらいどんどん入ったからね。そういう形で56年の闘争をやったわけです。
杭を1本も打てないんだから、14日の日の夕方になって、あまりにもひどい状況だったものだから、国民からのいろんな声が出てくる、批判も出てくる。結局政府が中止する声明を発表したんですね。
その日の夜はすごかった。町中が「勝った、勝った」でデモ。それから神社で集会をやって、あの時の雰囲気は何とも言えない雰囲気でしたね。実際にそれで基地の拡張計画は終わったわけですよ。
砂川闘争で基地内に入る(1957年)
ところが57年に再度闘争があった。何でか?実は55年56年の闘争の問題があったために、青木さんたち地主が基地の(占領軍によって強制収用された)土地の返還請求の訴訟を起こしたんですね。そうなると、それに対抗して、国、調達庁は、土地収用法に基づいて強制収用するということになって、基地内の土地を測量するという通達が来た。ですから、当然それに反対するという闘いでした。
57年の時は、私が丁度都学連委員長になっていまして、現場の指揮責任者ですから、私としては(基地の)中に土地があって、それに対する返還請求をして、測量があるんだから、当然(基地の)中に入るのは当り前、中に入って反対闘争をする、基地内に侵入して反対するというのは当然だという考え方だった。ただ、総評なんて大人の考えですから、もし仮に基地に入れば相当大量の逮捕者が出るだろうという予測もあったんでしょう、こっちはそこまで考えねえから。総評の幹部から、前の日の作戦会議の会合で「明日は学連は中に入らないでしょうね?」って言われるわけですよ。こっちは入るのは決まっているから、そこで「入る」なんて言ったらまた大変だから、「まあ明日の状況を見てですね」ということにしておいた。今だからバラしてもと思うんだけれども、実はその日に30人くらいだったかな。都学連の執行委員を工作隊長にして工作隊を編成した。境界線の柵なんて木の棒が打ってあって鉄線が張ってあるようなやつなんですよ、しっかりは打ち込んでいるんだけどね。それで夜中に行って、すぐに倒れるように(柵の)下を全部掘っておいた。それともう一つは、田んぼがあるので、肥溜めがいっぱいある。肥溜めからくさいウンコを汲んで、それに麦わらをきざんだやつを混ぜて、粘った泥でウンコ爆弾を作る。それも考えてみれば素手でやったんだからね。だけどウンコ爆弾は駄目。何しろ後ろから投げると(機動隊に)届かねえんだから。だたら、これは途中で止めようとなった。
当日の朝、もちろん簡単に倒れるから(基地内に)入った。余談だけど、ずっと後になって、「伊達判決を生かす会」を作るようになった時に、坂田さんから「源ちゃんよう、あの柵は簡単に倒れたんだよな。何で簡単に倒れたのかな」と言うから、「実はこれこれこういうことをしておいた」と言ったら、「あんたらしいな」と坂田さんに言われたんだよ。考えてみれば坂田さんなんかに大変迷惑をかけたんだよね。17年間もそのために裁判をやらなければならなかったということもあるわけですからね。
結局、中に入るのは2~3名。向こうも鉄条網みたいな2~3メートルも巻いたようなやつがダーッと並んでガッチリ固定してある、奴らも夜中にやったんだろうな。だからムシロを持って押そうが、手袋をして押そうがビクともしないんだよ。それでその向こう側に機動隊がいて、更に測量隊がいるんだから。睨み合いだから。それでシュプレヒコールと歌を歌ったりして、それで対峙していた。そういたら、後ろに兵舎があるんだけれど、その兵舎の間から軍用ジープが2台出てきて鉄条網のすぐそこまで来る。重機関銃が軍用ジープに積んであるんだよ。それを我々に向けるわけだよ。当然、威嚇する。少々ビビリましたよ。だけど、撃ったらこれは国際問題になるという気持ちもあるから、何しろ俺は「引くな、我慢しろ」ということで頑張ったわけだよ。ところが後で聞いてみると、軍司令官は当日、「基地内に侵入者があった場合には射殺してもよろしい」という命令を出していたというんだよね。だから何かの暴発があったら、今こうやって話をすることは出来なかったかもしれない。
という経過を踏んで、昼まで粘りに粘ったけれど、結局奴らも何も出来ないということで、結局「測量はしない。双方が同時に引き上げる」ということが代表者同士で話し合いで決まって、それで逮捕者も出さないという方向だった。それで我々は「勝った、勝った」という気持ちで引き上げて来た。
突然の逮捕、そして伊達判決で無罪に
ところが、9月22日、朝の5時過ぎくらい、僕は阿佐ヶ谷の下宿に部屋を借りてそこに住んでいたんだけれども、そこにトントントントンとドアを叩くので開けてみると、刑事5~6人と制服の警察官が10人以上いたかな。それで令状を見せて私が米軍基地に侵入したということで逮捕するというので逮捕された。逮捕されて玄関を出たら、報道陣が結構いました。それと同時に、乗った車がヒルマンという英国製の外車。あの時は逮捕が漏れないようにするために、国産車が使えなかった。ところがもう漏れていたし、警視庁までは乗り心地が良かったな。
留置所で約1週間。もちろん完全黙秘。拘留されている時に、日本鋼管の組合の坂田さんを始め組合員3人、それと学生は私と、当時医学連の副委員長をやっていた江田君と、東京農工大の武藤君の3人が起訴された。それと国労の新橋の青年部長だった椎野さんの7人が逮捕された。というのは、結構狙い撃ちもあったと思いますよ。当時労働組合の中で非常に勢力があったのが鉄鋼労連だった。その中核が日本鋼管の川崎製鉄所だった。その執行委員が坂田さんだった。それと当時の国労。国労の中でも青年部が強かったから、国労の青年部長の椎野さん、それと我々学生が逮捕された。砂川事件裁判になっていくわけです。
弁護団は当時の総評弁護団が中心となって、私の大学の先輩であった内藤功先生が弁護団の事務局長という構成で裁判に関わった。
起訴内容が、「安保条約に基づく行政協定に伴う刑事特別法違反」ということですから、これは駐留米軍が違憲かどうかということに対する裁判ということで、憲法裁判として臨んだ。だから私なんか裁判闘争だと思っているから、あとで弁論書も出て来たんだけど、何しろすごいんだよ。「アメリカ帝国主義打倒」から始まる、要するにアジ演説だよね。ところが坂田さんはさすが大人、全然段違い。理路整然として、いかに違法なことを奴らがやって逮捕したかということで、ずっと述べているんだよね。そんなことがあって、当時の裁判なんて「司法は信用できない」「三権分立なんて、こんなもの単なるは謳い文句だ」という思いがあった。それで裁判をやった。
1959年の3月30日、砂川事件裁判の結審の日になる。そして伊達裁判長が最初に言った言葉が「主文、被告人全員無罪」。これはビックリこいた。それこそガーンという感じだよね。それで理由、これがまたすごい。「駐留米軍は日米の政府の合意に基づいて、日本側が施設、区域を提供している」「指揮権、管理権の有無にかかわらず、米軍は明らかにその状況から見て戦力と言わざるを得ない」「いったん事があれば日本はその紛争に巻き込まれる危険性がある」「駐留米軍は、そういうことから見れば、憲法9条に違反するものである」米軍駐留の存在はあってはならないものなんだ、ということまで言い切った。
あとで聞いた話、陪席の松本判事に会う機会があって聞いたんだけれど、伊達さんは、その判決を出した時に、そこの所長に対して辞表を懐に入れて(裁判後に)提出したそうです。大変なご迷惑をかけることになると思ったんでしょうね。ところが所長は大物だったんだろうな。それを受け取らなかったということ。だから伊達さんもそのくらいの思いで判決を出したんでしょうね。
最高裁への跳躍上告 無罪から一転有罪に
それが1959年の3月30日。実は58年くらいから日米軍事同盟を強化する必要が更にあるということで、安保条約の改定交渉が進んでいたんですね。59年の春には、できれば法案を国会に提出したいという状況があったから、日米両政府にとっては、伊達判決は跳躍上告するということで、弁護団も全国に呼び掛け、何と千人ですよ、支援弁護団が出来たのは。それで裁判が始まった。
本来なら結構日数がかかるんですけど、最高裁の判決は59年の12月16日に出た。それで内容は「1審判決を破棄。差し戻す」。そして「駐留米軍は日本に指揮権、管理権がない外国の軍隊であるから、戦力ではない」「安保条約のごとき高度の政治性の問題について、司法が介入すべきでない」という統治行為論。こんなバカな話はないね。日本の最高裁は憲法審査権を持っているわけですから、あえて憲法審査権を放棄してまで無茶苦茶な判決を出したわけです。
当時は「ひでえ判決だ」と思っていました。最終的にやり直し(裁判)の判決で、無罪から一転して罰金2千円の有罪判決。2千円払うのはいろいろあったんだけれど、最終的にかみさんが払った。何日に払ったのか、ほとんど記憶がないね。だけど払ったことは払ったんだよ。払わないと、内藤先生曰く、「とっ捕まって牢屋行きになる」と言うわけよ。「だから払うしかねえぞ」と言われたんで、俺も納得したんだけどね。
解禁アメリカ公文書で明らかになった日米の密議
砂川事件裁判も、最終62年で有罪が確定して終わったわけね。そうしたところ、2008年4月29日、電話が掛かってきた。出たら毎日新聞の記者だった。「どういう話ですか」と聞いた。「土屋さんは砂川事件の被告ですよね」と言うから「そうです」。「実は国際ジャーナリストで研究している新原昭治さんという方がいて、アメリカ国立公文書館で当時の砂川裁判の最高裁の裁判の時に、日米間で密約があって、それの情報公開があって、その資料を新原さんが発表をすることになったので、土屋さんに一言それに対しての感想を聞きたい」と言う。それを聞いてビックリした。「当然、そんなことは絶対に許せない。容認できることではない」というようなことを言って、翌日の30日の新聞に結構大きく記事が出ました。
それで早速僕は新原さんに「お会いしたい」と電話して、新原さんが「会いましょう」ということでお会いすることになった。そうしたら新原さんが電報14通の原文の写しと、日本語に翻訳したものを持ってきてくださって話を聴いた。
聴いたら、新原さんは公文書館には砂川事件の調査で行ったのではなく、ベトナムの問題で調査に行って、最終日の夕方に帰ろうかなと思って、確認のためにもう一回りしてみようと思ったら、たまたま「SNAKAWA」という文字が目に入った。何だろうと思ってみたら、どうも砂川事件の裁判の件らしい。時間がないのでコピーをして宿舎に帰って、読んでビックリしたということだった。最高裁での裁判中に、田中耕太郎(最高裁長官)とマッカーサー大使が、要するに密談密約をして、それも30日に(伊達)判決があって、31日の朝、マッカーサー大使が藤山外相を呼んで、「日本には最高裁に直接上告できるという跳躍上告という制度がある。これを使ったらどうか」と。それに対して藤山が「早朝9時からの閣議にかけて、その方向を決定したい」と返事があった。
それで15人の最高裁の判事の意見を(伊達判決を)破棄させるために一致させる。それからできるだけ短期間で決定を出す、等々の密約をしているということ。それともう一つ分かったことは、たまたま最高裁の裁判の時に、台湾海峡の金門島事件という紛争があって、その紛争に対して、横須賀の第七艦隊が出動したんですよ。それに対して内藤さん(弁護士)が「あれはまさに軍事行動であって、当然、米軍は日本に基地を置く軍事力である」という質問をしたら、検事が答えられなかった。それで後になって公文書で分かったんだけれど、検事がアメリカの大使と打ち合わせをして、本国に回答を要請している。回答はどうだったかと言うと、「出動ではない。たまたま第七艦隊が海上にいただけだ」と。そういう回答をしろと言う。そういうことがみんな明らかになってきた。だから、これはこのままにしておけない。
「伊達判決を生かす会」の発足と情報開示請求
まず一つ考えたのは、もう1回砂川闘争、そして伊達判決、これを多くの人に知ってもらいたいということ。それと、当然日本側にもこういう文章があるはずだと考えたから、情報開示をやろうと考えた。たまたま静岡に中村さんという弁護士がいて、彼と相談して彼が代理人になった。彼がこれに対して専門の東京の三宅先生を紹介してくれて、彼と三宅先生が私の代理人になってくれた。と同時に、もっと広げるために、まず坂田さんに連絡をしようと思った。だけど40数年音信がないんですからどうしようかと思ったけど、坂田さんに電話したら、坂田さんが電話に出た途端に「源ちゃん、元気か」と言うわけよ。これこれこうだと言うと「それはいい。早速やろうぜ」と言うわけ。それで当時の学連の仲間、塩川だとかその他明大の当時運動した連中、いろんな連中に呼びかけて、たまたまそういう会合をやるというが朝日新聞がコラムに扱ってくれたんだね。それで第1回目は30人くらい集まったかな。そこで「伊達判決を生かす会」を発足させた。
情報開示請求は2009年の3月、外務省、法務省、内閣府、最高裁判所に開示請求を出した。何と「文書は存在しない」として不開示になった。異議申し立てが出来るとうので異議申し立てをしたが、不開示。何と最高裁は異議申し立ても受け付けなかった。
砂川事件再審請求へ
それで「どうしようもねえなあ、これは」と思っていたら、たまたま吉永先生が、というのは中村さんが病気で倒れて弁護士がいなくなってしまい、偶然風呂場で吉永先生にお会いして「実はこれこれこういう話で弁護士がいなくて頭が痛い」と言ったら、先生が「よし分かった。僕が引き受けてあげるよ」と言ってくれた。これが先生との付き合いの始まり。それで吉永先生が、武内先生と細川先生をいろいろあれしてくれた。そこからいろんな事が始まったわけ。
それで「何とかしなきゃなんねえな」と考えていた時に、憲法37条では「すべての刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利がある」と定めている。明らかにこの最高裁の裁判は、被害者の外国側(アメリカ)と裁判長が密談をして、1審判決を破棄するということを行ったということは、この最高裁の判決そのものが汚染されたものであるし、無効だということで、再審請求が出来るんじゃないかという話になって、「これはもう絶対やりましょう」ということで、そうしたらたまたま安倍(元首相)が2014年の国会で、集団的自衛権行使を閣議決定する。それについて、集団的自衛権行使を閣議決定するにあたって、砂川事件最高裁判決をその法的根拠にすると言う。これも全くインチキなんだよ。引用そのものがインチキ。それで我々は、(再審請求に)もうちょっと時間がかかるという状況だったんだけれども、吉永先生に「このまま見過ごすわけにいかないから早く出しましょう」ということで、その年の6月17日、国会開催中に抗議を含めて再審請求を出そうということで再審請求を出しました。ところが全くおかしな理由で東京地裁、東京高裁が棄却。
(注:2014年6月、「公平な裁判所」による裁判を刑事被告人に保障した憲法37条1項に違反していたとして 東京地裁に再審請求をした。これに対し、2016年3月、東京地裁は再審請求を棄却し、請求人は東京高裁に即時抗告をしたが、東京高裁は上記の抗告を棄却するとの決定を出し、これに対し請求人が最高裁に特別抗告を申し立てた。最高裁は 特別抗告を棄却した。決定の理由は、特別抗告の理由が、単なる法令違反の主張であって、「憲法の違反、憲法の解釈の誤り」の主張ではない というものである。)
砂川事件裁判国家賠償請求訴訟
しかしこれで終わるわけにはいかない。無罪できたものが、あんなインチキな裁判で有罪になった。人権も無視され、そして名誉も棄損されている。このまま放っておけん、という思いもあった。そうしたら竹内先生が「これは名誉回復のための国家賠償請求が出来る」という話があった。「これは先生、絶対にやろうよ」ということで、今度は竹内先生が中心となって国家賠償請求の訴訟を行うことになった。
当初、こういう問題だから時効だとかいろんな問題があるから、すぐ撥ねられると思ったが、何と13回続いた。これは本当に弁護団の先生方の力、それと応援して下さった皆さん方の力、これがあったからこうやって闘えてきた。改めてお礼を言いたいと思います。本当にありがとう。(拍手)
今年中には判決が出る可能性が大きいと思います。だけど、これで終わらねえんだよね。どちらにしても高裁、最高裁までこの裁判は行くでしょう。だから、もう一つの闘いは、どれだけ長生きするかなんだよ。(拍手)これが私のこれからの闘い。よろしくご協力ください。(拍手)
(注:<国家賠償請求訴訟の内容>
憲法37条が保障する「公平は裁判所」の裁判を受ける権利が、田中耕太郎裁判長によって侵害された結果、有罪になった元被告に対し
①権利を侵害されたことに対する賠償金として各人に10万円
②支払われた罰金各2千円の償還
③国による謝罪広告の掲載
命を守り、平和を守る運動を一層進めて行こう
岸田政権はハト派何と言われて、一見穏健なように言われている。ご承知のとおりとんでもない話で、彼は2022年12月、閣議決定で外交・防衛政策の基本方針「国家安全保障戦略」など安保保障関連3文章を改正したんですよ。その中の一つが敵基地攻撃が出来る。明らかにこれは憲法9条違反でしょ。それを平気で閣議決定でやる。それと同時に軍事費をGDPの5%まで持ってくる。この5年間で54兆円。これは軍事大国ですよ。本当にそうなったら、アメリカ、中国に次ぐ3番目の軍事大国になるんじゃないですか。あっていいんですか、そんなことが。今、米軍基地に迎撃用ミサイルPAC3の配備が進んでいます。と同時に、沖縄の石垣島、宮古島などに自衛隊基地をどんどん作っている。そこへ何とPAC3を導入するんですよ。そういう作業も進めている。同時に、1,500キロメートル以上も射程距離のあるトマホークというミサイル、これは攻撃用ですよ、これを相当の台数、アメリカとの間で購入する契約を岸田がしているんです。実際に国民の命を犠牲にすることをなんとも思っていないという内閣なんだよ。このまま行ったら日本の国はどうなる。実際に彼らは今のウクライナ問題だとか台湾問題をさかんに煽って、「危険だ、危険だ」と言っています。
ご承知のとおり、昔米ソが対立した時に、「抑止力」という名の下に、原爆開発競争がどんどん続いたんですよ。「抑止力」なんてインチキなんですよ。軍備を拡大するための名目でしかないんです。こんな事は絶対に許されていいもんじゃないですよね。
(2023年3月4日、「止めよう!辺野古新基地建設県民大行動」でスピーチをする土屋さん)
しかし残念ながら、まだこれに対する闘いが十分に行われているとは思えません。先般、沖縄にも行きました。沖縄の人たちは一生懸命闘っている。しかし、沖縄でも本土と同じように高齢化が進んでいますから、座り込みの人たちもやっぱり減っています。昔は沖縄の人たちからは、「本土から支援に来て、ただ支援をしたということで帰って報告して終り、それじゃ困るんだよね」ということをよく聞かされました。ところが今は、沖縄の人たちは本気で本土からの支援を求めていますよ。我々も支援に行く必要がある。ですから皆さん、時間があったら沖縄に行って、もう1回沖縄本島の状況、そして辺野古の基地なんて絶対に作れるような状況じゃないんですよ。それを政府は依然として埋め立てをしようとしている。それも、沖縄戦で戦死した、殺された島民の人たちの骨がある土を混ぜ、投入しようとしている。そんな事は許されません。ですから、現地を見てくることも大事だと思いますよ。
(2023年3月4日、「止めよう!辺野古新基地建設県民大行動」でスピーチをする土屋さん)
しかし残念ながら、まだこれに対する闘いが十分に行われているとは思えません。先般、沖縄にも行きました。沖縄の人たちは一生懸命闘っている。しかし、沖縄でも本土と同じように高齢化が進んでいますから、座り込みの人たちもやっぱり減っています。昔は沖縄の人たちからは、「本土から支援に来て、ただ支援をしたということで帰って報告して終り、それじゃ困るんだよね」ということをよく聞かされました。ところが今は、沖縄の人たちは本気で本土からの支援を求めていますよ。我々も支援に行く必要がある。ですから皆さん、時間があったら沖縄に行って、もう1回沖縄本島の状況、そして辺野古の基地なんて絶対に作れるような状況じゃないんですよ。それを政府は依然として埋め立てをしようとしている。それも、沖縄戦で戦死した、殺された島民の人たちの骨がある土を混ぜ、投入しようとしている。そんな事は許されません。ですから、現地を見てくることも大事だと思いますよ。
本土でもっともっと我々も声をあげていく。だって横田だって本当に基地のそばですよ、家がいっぱいあるのは。岩国だってそうです。日本の本土の基地だってみんなそうなんですよ。
ですから我々は本当の命を守る、そして平和を守っていく、そして戦争をしない、しっかり憲法9条を守っていくという、そういう運動をこれから一層強めていく必要があると思います。何しろみんなで力を合わせて運動を進める。こういう運動というのは何しろ辛抱がいるんだよね。疲れてくるんだよ。だけど諦めない。要するにあきらめずに諦めずに闘っていく。だって子供や孫の世代まで影響するんだもの。やっぱり若い人にこのようないろんなことをもっともっと知ってもらう。それは我々の責任でもあると思います。みんな力を合わせて、これからも闘いを一層強めていきたいと思っています。私の話はここで終わりにします。
(拍手)
【『はたちの時代』の紹介】
重信房子さんの新刊発売!
前半は66年から68年までの明大学費闘争を中心とした時期のこと(この部分は私のブログに「1960年代と私」というタイトルで掲載したものです)。
後半は69年から72年までの赤軍派の時期のことが書かれています。
定価 2,860円(税込
本のアマゾンリンクはこちらになります。
「模索舎」のリンクはこちらです。
江刺昭子さんによる本の書評(紹介)です。(47ニュースより)
「あとはき」より
『ここに書かれた記録は、ごく日常的な私自身の身の回りで起こったことを率直に書き記したものです。その分、他の人が書けば全く違った関心角度から違った物語がこの時代のエピソードとして描かれることでしょう。私は獄に在って、何度か癌の手術を繰り返していました。生きて出られないことがあっても、支えてくれる旧友や、見ず知らずの方々にお礼を込めて、私の生き方、どんなふうに生きてきたのかを記録しておきたいと思ったのが、この記録の始まりです。私がどのように育ち、学生運動に関わり、パレスチナ解放闘争に参加しどう生きて来たのか、マスメデイアでステレオタイプに作り上げられた私ではなく、生身の私の思いや実情を説明しておきたくて当時を振り返りつつ記して来ました。獄中と言うのは、集中して文章を書くのに良いところで、ペンをとって自分と向き合うと過去を素直に見つめることが出来ます。楽しかった活動や誇りたいと思う良かった事も、間違いや恥かしい事や苦しかったことも、等しく価値ある人生であり私の財産だと教えられた気がします。(中略)どんなふうに戦い、どんな思いをもって力を尽くし、そして破れたのか、当時の何万という「世の中を良くしたい」と願った変革者の一人として、当時の何万と居た友人たちへの報告として読んでもらえたら嬉しいです。また当時を若い人にも知ってほしいし、この書がきっかけになって身近に実は居る祖父や祖母たちから「石のひとつやふたつ投げたんだよ」と語ってもらい、当時を聴きながら社会を知り変えるきっかけになれば、そんな嬉しいことはありません。
いまの日本は明らかに新しい戦争の道を進んでいます。いつの間にか日本は、核と戦争の最前線を担わされています。そんな日本を変えていきたいと思っています。決して戦争をしない、させない日本の未来をなお訴え続けねばと思っています。なぜなら日本政府が不戦と非戦の国是を貫くならば日本の憲法には戦争を押しとどめる力があるからです。はたちの時代の初心を忘れず日本を良い国にしたい。老若男女がこぞって反戦を訴え支える日本政府を実現したいと思います。』
目次
第一部 はたちの時代
第一章 はたちの時代の前史
1 私のうまれてきた時代/2 就職するということ 1964年―18歳/3 新入社員、大学をめざす
第二章 1965年 大学に入学した
1 1965年という時代の熱気/2 他人のための正義に共感/3 マロニエ通り
第三章 大学生活をたのしむ
1 創作活動の夢/2 弁論をやってみる/3 婚約/4 デモに行く/5 初めての学生大会/6 研連執行部として
第二部 明治大学学費値上げ反対闘争
第四章 学費値上げと学生たち
1 当時の牧歌的な学生運動/2 戦後民主主義を体現していた自治会運動/3 話し合いの「七・二協定」/4 田口富久治教授の嘲笑
第五章 自治会をめぐる攻防
1 スト権確立とバリケード――昼間部の闘い/2 Ⅱ部(夜間部)秋の闘いへ/3多数派工作に奔走する/4 議事を進行する/5 日共執行部案否決 対案採択
第六章 大学当局との対決へ
1 バリケードの中の自治/2 大学当局との激論/3 学費値上げ正式決定/4 収拾のための裏面工作/5 対立から妥結への模索/6 最後の交渉と機動隊導入
第七章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書―二・二協定の真相/2 覚え書き(二・二協定)をめぐる学生たちの動き
第三部 実力闘争の時代
第八章 社学同参加と現代思想研究会
1―1967年 一 私が触れた学生運動の時代/2 全学連再建と明大「二・二協定」/3 明大学費闘争から再生へ
第九章 社学同への加盟
1 社学同加盟と現代思想研究会/2 現思研としての活動を始める/3 67年春、福島県議選の応援/4 今も憲法を問う砂川闘争/5 あれこれの学内党派対立/6 駿河台の文化活動
第十章 激動の戦線
1 角材を先頭に突撃/2 10・8闘争の衝撃/3 三里塚闘争への参加/4 68年 5月革命にふるえる/5 初めての神田カルチェラタン闘争―1968年6月/6 68年国際反戦集会の感動
第四部 赤軍派の時代
第十一章 赤軍派への参加と「七・六事件」
1 激しかったあの時代/2 1969九年の政治状況/3 4・28縄闘争/4 赤軍フラクション参加への道/5 藤本さんが拉致された、不思議な事件/6 7月5日までのこと/7 69年7月6日の事件/8 乱闘―7月6日の逆襲/9 過ちからの出発
第十二章 共産主義者同盟赤軍派結成
1 女で上等!/2 関西への退却/3 塩見さんらの拉致からの脱走/4 共産同赤軍派結成へ
第十三章 赤軍派の登場と戦い
1 葛飾公会堂を訪れた女/2 「大阪戦争」/3 「東京戦争」/4 弾圧の強化の中で/5 支えてくれた人々/6 前段階蜂起と組織再編/7 大敗北―大菩薩峠事件/8 初めての逮捕――党派をこえた女たちの連帯
第十四章 国際根拠地建設へ
1 前段階蜂起失敗のあと/2 よど号ハイジャック作戦/3 ハイジャック闘争と日本委員会/4 深まる弾圧――再逮捕/5 思索の中で
第五部 パレスチナ連帯と赤軍派との乖離(かいり)の中で
第十五章 パレスチナ連帯の夢
1 国際根拠地パレスチナへ/2 赤軍派指導部の崩壊/3 森恒夫さん指導下の赤軍派/4 パレスチナへの道
第十六章 パレスチナから見つめる
1 ベイルートについた私たち/2 統一赤軍結成/3 アラブの私たちー―赤軍派との決別/4 新党結成の破産/5 アラブから連合赤軍事件を見つめて/6 連合赤軍の最後とアラブの私たち/7 新たな変革の道を求めて
【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。
http://zenkyoutou.com/yajiuma.html
●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在16校の投稿と資料を掲載しています。
【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は12月1日(金)に更新予定です。