【重信房子さんが「パレスチナ問題」について語る!】
パレスチナ問題について、まず最初に現状をお話し、時間があれば歴史的経緯も話していきたいと思います。
10月7日に起きたこと
日本のテレビを観たりラジオを聴いていると、ハマスとイスラエルの闘い、ハマスが10月7日に攻撃を仕掛けた、こういう風になっているんですけれど、これはハマスの戦争ではないんです。ガザにいるすべての解放勢力がみな起ち上がったんです。
ハマスのアル・カッサム旅団、ファタハのマルワン・バルグーデイを指導者と仰ぐアルアクサ―殉教者旅団、PFLPのアブアリ・ムスタファ殉教者旅団、それからイスラム聖戦機構、そのほか諸々の小さなグループを含めて、皆で起ち上がらざるを得ない。絶望なのか、それとも闘うべきなのか、その決断の結果として起ち上がったものなんです。
何故日本でハマスと言われるかと言うと、やはりハマスが最大勢力でガザの行政も担っているし大きいんですね。ですけれども、それは全体のガザに居る人たちの意思として闘いが行われたんです。何故そのような闘いになったのかと言うと、絶望よりも闘いによって新しい希望をつかもう、自分たちだけでなくて自分たちの次の世代に希望を創り出すために、自分たちが起ち上るしか方法がなかった、と友達からも聞いています。
イスラエルの政権の実態
何故そうなったのかと言うと、あまりにもひどいことが続いた。75~76年、イスラエルという国が出来てからずっと続いてきたんですけれども、特にこの間、12月にネタニヤフ政権が登場して以来、ひどいことがずっと続きました。それがここ(資料)にも書いてありますけれども、「これまでにない」と西側の報道が言うほど超右翼の政権が登場した。その理由というのは、ネタニヤフ自身は汚職で起訴されているんですね。ですから自分が権力を取って司法制度を変えて、首相特権で罪が免責されるようにということで、普段はそこまでやらないというような、右翼の「ユダヤの力」とか「シオニズム党」とか、そういう超過激な右派と共同して政権を取ったんですね。それで右派の人たちの主張というのは、「パレスチナ人は自分たちの土地、ここはユダヤ人に神から与えられた土地なので、ここから出ていけ」、そういう主張の右翼なんですね。そういう人たちが権力に入ったために、一言で特徴を言えば、これまでは占領地とイスラエルという区分けがあったんですね。それを全部なくして、全部イスラエルという風にシステムを変えていったんです。
新設された国家安全保障相、治安担当の大臣になった有名な右翼のベングビールという人が権力を握って、これまでのイスラエルの警察長官的な役割というのも、それから占領地は国防軍が管理していた役割というのも、それからエルサレムは警備隊という別の機関が掌握して管理していましたが、それを全部超右翼が握ることになったんですね。
それから財務相には「宗教シオニズム党」のスモトリッチというやはり右翼の人がなって、あそこでは占領下のパレスチナ人というのは代理徴収されて税金を払っていて、その取った税金は自治政府に渡さなければいけないんですね。ところが、自治政府に渡すべき税金もいろんな理由を付けて渡さないということを繰り返してきました。
そして最後に、今年の9月になるんですけれども、国連総会でネタニヤフが首相として演説した時に、地図を示したんです。この地図というのは、その中にパレスチナ自治区もないし、ゴラン高原もないし、エルサレムとか占領したものは全部併合してしまった地図だったんですね。そこに現れていたのは、「我々はイスラエルとして全部掌握する」という、公然とした意思がそこに示されていて、こうした総仕上げとしてネタニヤフが非合法的な拡張イスラエルというのを、国連総会で我々のイスラエルとして勝利宣言のように演説しました。あとはサウジアラビアと国交を結んで、我々が中心となって中東を作っていくという「新しい地図」を宣言したんですね。それを何故宣言したかと言うと、それまではアラブ連盟というのは「パレスチナ問題の解決なしにイスラエルと国交を結ばない」というのが歴史的な原則だったんです。イスラエルが主張してきたのは「アラブ諸国と平和条約を結びパレスチナ問題を解決する」と逆なことを言っていたんですけれども、そっちの方が現実問題として大きくなって、その結果としてネタニヤフが公然とパレスチナを抹消していくような行為に出たということで、パレスチナの人たちはこれは「第2のナクバだ。自分たちはここからまた追い出される」と思った、こういう結果があって10月7日の決起が有った。
「第2のナクバ」とは
ガザの人たちというのは、75%くらいが1947年に国連決議によって47年から48年の間にイスラエル、当時はユダヤのシオニスト機関でしたが、その暴力によって追放され「ナクバ」にあった。「ナクバ」というのはアラビア語で「大惨事」という意味なんですけれども、そういう被害にあって、追放されてガザに入り込んで難民として暮らしてきた人たちなんですね。その人たちのお父さんやお母さん、そういう人たちの娘、息子たちが今ガザに住んでいる人たちですけれども、そこでもう1度自分たちはここから追放されるというのをよく知っているんです。何故なら1996年にネタニヤフが初めて首相になった時に、エジプトに訪問したことがありました。その時にエジプトの大統領ムバラクに「実は自分はパレスチナ人の国を作りたい。エジプトのシナイ半島にパレスチナの国を作るので割譲すべきだ」と。シナイ半島というのはエジプトの土地なんですけれど、そこに全部住まわせようという魂胆があるというのが暴露されたんですね。それは、「そんなことは有り得ない」と言ってネタニヤフはその時は否定したんです。今度はオバマ政権の閣僚たちが証言したんですけれども、やはりもう1度ネタニヤフが「シナイ半島に国を作ってそこにパレスチナ人を住まわそうと思う」という提案をしている、そういうのも暴露されていたので、今度は、今回の10・8の後にまたリークされたんですけれども、全部避難という形でパレスチナ人をシナイ半島に避難所を作ってそこに住まわせて、ガザをいったん平定する、そういう考えだというのがすでに明らかになっているので、もし自分たちが避難に応えて出て行ったら、帰ることが出来ない。それが分かっているから、ガザの人たちは本当に生死の戦争の中で、今自分たちの命を奪われながら、まだ戦わざるを得ない。すでにもう100何人、停戦が破棄され新しい戦争の再開によってこういう事態、虐殺が始まっています。
歴史的経緯 ― 第一次世界大戦時のイギリスの「3枚舌外交」
何故そんなことが起きて来たのかということを、歴史的に少し話してみますと、アラブ中東地域が大きく分ければ2回に渡って西欧の、特にヨーロッパとアメリカの帝国主義勢力によって植民地支配されてきた歴史があるんですね。その歴史の結果として、現在に至る状況が作られています。
第一次世界大戦の時には、有名なイギリスの「3枚舌外交」と言うんですけれども、イギリスがトルコと戦争をやって、トルコが支配をしている中東地域を自分たちのものにするために、3つの舌を使って嘘をついて、イギリスの勝利をものにしようとした。
一つは、アラブの宗教的リーダーであるフサインという人に対して、「あなたがトルコに対して戦ったらアラブの独立を保証する。だからトルコに対して起ち上るべきだ」という約束をし、アラブ人は軍を作って戦うんですね。その時に有名な「アラビアのロレンス」というのが顧問として登場してくるんですけれども、それは西側の話で、実際に彼はイギリスのエージェントで、情報機関員としてアラブの軍隊を訓練したり育てたり一緒に行動はするんですけれど、それが1枚目の舌です。
もう一つは「サイクス・ピコ秘密協定」で有名なんですけれど、それはロシアとイギリスとフランスの3者で、トルコをやっつけた後に、この土地を自分たちで分割しましょうという秘密の条約を決めるんですね。その秘密の内容というのが、実際にアラブ人に独立させると言った土地も含めて、第一の約束と矛盾するような条約を結んだんです。だけど、その時にロシアで革命が起きて、外務大臣の役割を負っていたレオン・トロツキーが暴露するんですね。「こういう秘密の条約がある。我々はこれを破棄する」という破棄宣言をするんです。でも実はその後もフランスとイギリスの間でずっと土地争いをしながら、密かに話を続けるんです。
もう一つの舌で「バルフォア宣言」という、これはユダヤ人の軍資金が欲しかったので、ユダヤのお金を貰うためにした約束があります。その頃世界の金融を動かしていたのはユダヤ人資本だったんですね。ですからユダヤ人のお金を貰うために、バルフォア外相がロス・チャイルド(ユダヤ系金融資本家)に手紙を出したんですね。パレスチナにユダヤ人の国をつくる、国と言わずにその時はあいまいに郷土、カントリーではなくホームランドを作ることに我々は賛成しています、というものです。
こういう3つの矛盾する約束をして、結末はどうなったかと言うと、結局アラブ人は捨てられたんです。アラブ人は一番活躍して、イギリス軍がトルコを攻めドイツを攻めて解放したところに、パレスチナの領土をイギリス軍は1918年くらいから軍政を敷いてそこに居座るんです。結局戦争が終わって国際連盟が出来て委任統治という形になるんですけれども、その時にアラブ人たちは、自分たちが解放して自分たちの軍隊がいるダマスカスとかベイルートとかパレスチナに対して独立を要求するんですけれども、それが「パリ講和会議」という第一次大戦のいろいろな決め事をするんですけれども、その時にフランスがパレスチナに対してアラブ人に権利が無いと主張して、イギリスもそれに同調し、結局誰も支援しようとしなかった。それに対して、アメリカの大統領のウイルソンが、アラブ側の提案に賛意をしめしたのです。レーニンたちの民族自決権に対抗して、自分たちも民族自決権という自由を標ぼうするんですね。そのお陰でウイルソンが「パレスチナの地にバルフォア宣言のような事が可能か実態をを調べることが必要だ。実際にどうなっているのか」ということで調査団派遣が決定されました。他のイギリスとかフランスの方はパレスチナ人を無視しようとしたんですけれども、ウイルソンが調査団を派遣して報告書を出すんですね。それによると、現地の報道で、特に委任統治で現地にいたイギリスの軍隊の人たちは、「もしもここにユダヤ人の国を作ったら、人殺しの衝突になる。だからそれは許すべきではない」と述べたという報告が出るんですけれども、それをフランスとかイギリスが逆にそれを塗りつぶして急ぎ自分たちの意のままの植民地支配をするために会議をしました。有名な「サン・レモ会議」という最終的に第一次世界大戦後の実際の形を決める会議があるんです。そこに日本も登場しているんですが、そこでパレスチナに対してイギリスの委任統治を正式に決めるんですね。それは秘密会議だったんです。1ケ月後くらいに発表されるんですけれど、そこでは日本は中国の青島を割譲されるとか、当時イギリスと同盟を組んでいたんですが、喜んでパレスチナがイギリスの植民地になることに賛成票を投じているんです。だから、パレスチナが植民地支配される最初から日本は与みして、犯罪的な植民地支配の賛成の立場に立って、パレスチナをイギリスが植民地支配することに賛成してきたという歴史があります。
歴史的経緯 ― 第二次世界大戦とシオニズム運動
第二次世界大戦の時はどういうことかと言うと、今度はユダヤ人に対してホロコーストの問題が起きます。それはまさにドイツとかフランスとか、迫害した主体はヨーロッパの帝国主義的勢力だったんですけれども、その勢力に対して、戦勝国がユダヤ人に対する償いをパレスチナに国を作ることにしようと決めるんですね。それは何故かと言うと、それまでの間、ユダヤ人の側は自分たちはホロコーストだとかポグロムだとか、いろいろ迫害されてきたキリスト社会の歴史に対して、自分たちの国を作ろうという運動を始めて、それがシオニズム運動と言うんですね。
シオニズムのシオンというのはエルサレムの別の言い方なんです。「シオンに帰ろう」という、それまでに文化的運動としてはあったんですけど、政治運動として「パレスチナに国家を作ろう」という、1897年にそういうシオニズム運動というのが起こるんですけれども、そのシオニストたちがナチと実は秘密に協力して、身体の丈夫なユダヤ人はパレスチナに、そうでない人は収容所に送っている、そういう証拠書類も歴史的には残っているんです。けれども、あまりそれは社会的には大きくなっていないんです。そういうシオニストたちが中心に動いた結果として、シオニストたちが言うように、ユダヤ人に対する償いとしてパレスチナに国を作ろうと。本来、ドイツでユダヤ人を迫害し殺し虐殺したのならば、その反省としてドイツに一緒に住みながら償いをすべき事柄なんですね。それをパレスチナに建国するという風にすり替えることによって、パレスチナにユダヤ人がどんどん入って来た。
そこには誰もいなかったわけではなくて、すでにパレスチナ人が住んでいたんです。そこから問題が起きるんですね。ですから歴史的に責任があるのは米・欧の帝国主義諸国の決断なんです。
それから何故、今のこういうガザに事態に至っているのかと言うと、それ以来、アメリカがどんなことをイスラエルがしてもそれを許す、拒否権を使って国連決議を無にしてしまう。最初はユダヤ人が持っていた土地はパレスチナの6%だったんですね。それを1947年の国連決議によって2つの国を作ろうと決めたんですけれども、その時に6%がいつの間にか56.5%になって、アラブ人が持っていた94%が43.5%に不公平に振り分けられたんですね。それは振り分けられた結果なんですけれども、2つの国を作るというのに、結局今、パレスチナの国は出来なかったんです。
歴史的経緯 ― 第一次から第三次中東戦争まで
何故かと言うと、イスラエルが全部占領してしまったんですね。1948年の第一次中東戦争で78%、それから1967年の第三次中東戦争で残りの22%を占領という形で。最初の戦後に決議した時には3つに分けたんです。43.5%のアラブと、56.5%のイスラエルと、それからエルサレムはいろんな宗教があるので国連の国際的な管理にして、3つに分けたんですが、それを全部イスラエルが占拠しちゃった。にもかかわらずアメリカの方が、国連安保理でそれに対して制裁を要求しても、アメリカが拒否権を発動して拒否してきた。だから、イスラエルが何をしてもかまわないんだという流れがずっと形成されてきて、その結果として、ここまで増長してしまったイスラエルによる暴力というものが70何年ずっと続いてきた。ガザの事態を見た時に、地球上でこんなことが起こっているのか、こんな人類の犯罪があるのかというような激しい、戦闘をしていない人々への暴力が振るわれているんです。
武器を持たない人間に銃を向けてはならない
私自身、自分で活動してきた中で、武器を持って戦うという方法を取りました。自分たちも誤りも犯しました。民間人で実際には関係の無い人たちに被害を与えるような闘い方をしました。だからこそ反省の中で、「武器を持たない人間に銃を向けてはならない」、これは私たち自身が活動しながらパレスチナの人たちと共に闘ってきた教訓であったわけですね。だからこそ、より声を大きくして、この今のガザの事態に対して、何としてでも普通の人、武器を持たない民間の人たちに対して、あのように無差別な懲罰、本当にハマスとか武装勢力を選んでいるガザの住民に対する懲罰攻撃を止めさせなければならない。ずっと何年間も封鎖された中で生きて来たガザの人たちは、そうであればあるほど、やはりハマスを支持する、武装勢力を支持する結果になっているんです。そのことを今解決できないまま現実に至らしめているのは、イスラエルのこうした暴力に対して国際社会が無力であった、その結果なんですね。逆に言えば、国際社会がもう1度立ち返って、国連で「2つの国を作る」と決議したあの地点に立ち返って、もう1度考え直していく必要があると思っています。
パレスチナ問題への理解を
この間、日本でも、あまりのひどさ、戦争のもう一つの側面なんですけれども、もう本当に観ていられないほどの悲しい画面がテレビから観れる。そのことによって真実は隠せなくなっている。だからみんなが観て、起ち上がらざるを得ないという若い人たちがたくさんいます。私もこの間、一市民として、新宿だとか銀座だとか一緒にデモをしてみましたけれど、若い人が多いし、それから道でみんなが手を振って応援する、こんなことパレスチナに対して初めてで、パレスチナ問題に長く関わって来た私としては、一緒に歩きながら、外国人の方が「フリーフリーガザ」「フリーフリーガザ」と言いながら泣いているんですけど、私も長い間パレスチナ問題と言うと「テロ」という風に言われてきな中で、少数派としてやってきた分、「ああ、こんな風にパレスチナの友人のことを日本でも語れるようになったな」ということがとっても嬉しくて、何となく泣けてきてしまった思いがありました。
今ここで、パレスチナ問題に何か出来ることをみんなにして欲しい。それは何か難しいことではなくて、例えばユーチューブなどでも連帯の印として『ガザの美容室』という映画がタダで観られる、そういうこととか、パレスチナ関連の映画や本、私もパレスチナ関連の本を何冊か書いていますし、書いている人も多いので、同じ地球上にこういう風にして生きている人もいるんだな、ということを知るためでも、少しでも理解を示して欲しいし、日常の中にある自分たちの生活から想像できないことを想像して、一緒に気持ちとしても分かってあげて欲しいと思っています。
以上です。
【『パレスチナ解放闘争史』の紹介】
重信房子さんの新刊本です!
『パレスチナ解放闘争史』(作品社)2024年2月出版予定!
重信房子さんの新刊本です。絶賛発売中!
前半は66年から68年までの明大学費闘争を中心とした時期のこと(この部分は私のブログに「1960年代と私」というタイトルで掲載したものです)。
後半は69年から72年までの赤軍派の時期のことが書かれています。
定価 2,860円(税込
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「模索舎」のリンクはこちらです。
江刺昭子さんによる本の書評(紹介)です。(47ニュースより)
「あとはき」より
『ここに書かれた記録は、ごく日常的な私自身の身の回りで起こったことを率直に書き記したものです。その分、他の人が書けば全く違った関心角度から違った物語がこの時代のエピソードとして描かれることでしょう。私は獄に在って、何度か癌の手術を繰り返していました。生きて出られないことがあっても、支えてくれる旧友や、見ず知らずの方々にお礼を込めて、私の生き方、どんなふうに生きてきたのかを記録しておきたいと思ったのが、この記録の始まりです。私がどのように育ち、学生運動に関わり、パレスチナ解放闘争に参加しどう生きて来たのか、マスメデイアでステレオタイプに作り上げられた私ではなく、生身の私の思いや実情を説明しておきたくて当時を振り返りつつ記して来ました。獄中と言うのは、集中して文章を書くのに良いところで、ペンをとって自分と向き合うと過去を素直に見つめることが出来ます。楽しかった活動や誇りたいと思う良かった事も、間違いや恥かしい事や苦しかったことも、等しく価値ある人生であり私の財産だと教えられた気がします。(中略)どんなふうに戦い、どんな思いをもって力を尽くし、そして破れたのか、当時の何万という「世の中を良くしたい」と願った変革者の一人として、当時の何万と居た友人たちへの報告として読んでもらえたら嬉しいです。また当時を若い人にも知ってほしいし、この書がきっかけになって身近に実は居る祖父や祖母たちから「石のひとつやふたつ投げたんだよ」と語ってもらい、当時を聴きながら社会を知り変えるきっかけになれば、そんな嬉しいことはありません。
いまの日本は明らかに新しい戦争の道を進んでいます。いつの間にか日本は、核と戦争の最前線を担わされています。そんな日本を変えていきたいと思っています。決して戦争をしない、させない日本の未来をなお訴え続けねばと思っています。なぜなら日本政府が不戦と非戦の国是を貫くならば日本の憲法には戦争を押しとどめる力があるからです。はたちの時代の初心を忘れず日本を良い国にしたい。老若男女がこぞって反戦を訴え支える日本政府を実現したいと思います。』
目次
第一部 はたちの時代
第一章 はたちの時代の前史
1 私のうまれてきた時代/2 就職するということ 1964年―18歳/3 新入社員、大学をめざす
第二章 1965年 大学に入学した
1 1965年という時代の熱気/2 他人のための正義に共感/3 マロニエ通り
第三章 大学生活をたのしむ
1 創作活動の夢/2 弁論をやってみる/3 婚約/4 デモに行く/5 初めての学生大会/6 研連執行部として
第二部 明治大学学費値上げ反対闘争
第四章 学費値上げと学生たち
1 当時の牧歌的な学生運動/2 戦後民主主義を体現していた自治会運動/3 話し合いの「七・二協定」/4 田口富久治教授の嘲笑
第五章 自治会をめぐる攻防
1 スト権確立とバリケード――昼間部の闘い/2 Ⅱ部(夜間部)秋の闘いへ/3多数派工作に奔走する/4 議事を進行する/5 日共執行部案否決 対案採択
第六章 大学当局との対決へ
1 バリケードの中の自治/2 大学当局との激論/3 学費値上げ正式決定/4 収拾のための裏面工作/5 対立から妥結への模索/6 最後の交渉と機動隊導入
第七章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書―二・二協定の真相/2 覚え書き(二・二協定)をめぐる学生たちの動き
第三部 実力闘争の時代
第八章 社学同参加と現代思想研究会
1―1967年 一 私が触れた学生運動の時代/2 全学連再建と明大「二・二協定」/3 明大学費闘争から再生へ
第九章 社学同への加盟
1 社学同加盟と現代思想研究会/2 現思研としての活動を始める/3 67年春、福島県議選の応援/4 今も憲法を問う砂川闘争/5 あれこれの学内党派対立/6 駿河台の文化活動
第十章 激動の戦線
1 角材を先頭に突撃/2 10・8闘争の衝撃/3 三里塚闘争への参加/4 68年 5月革命にふるえる/5 初めての神田カルチェラタン闘争―1968年6月/6 68年国際反戦集会の感動
第四部 赤軍派の時代
第十一章 赤軍派への参加と「七・六事件」
1 激しかったあの時代/2 1969九年の政治状況/3 4・28縄闘争/4 赤軍フラクション参加への道/5 藤本さんが拉致された、不思議な事件/6 7月5日までのこと/7 69年7月6日の事件/8 乱闘―7月6日の逆襲/9 過ちからの出発
第十二章 共産主義者同盟赤軍派結成
1 女で上等!/2 関西への退却/3 塩見さんらの拉致からの脱走/4 共産同赤軍派結成へ
第十三章 赤軍派の登場と戦い
1 葛飾公会堂を訪れた女/2 「大阪戦争」/3 「東京戦争」/4 弾圧の強化の中で/5 支えてくれた人々/6 前段階蜂起と組織再編/7 大敗北―大菩薩峠事件/8 初めての逮捕――党派をこえた女たちの連帯
第十四章 国際根拠地建設へ
1 前段階蜂起失敗のあと/2 よど号ハイジャック作戦/3 ハイジャック闘争と日本委員会/4 深まる弾圧――再逮捕/5 思索の中で
第五部 パレスチナ連帯と赤軍派との乖離(かいり)の中で
第十五章 パレスチナ連帯の夢
1 国際根拠地パレスチナへ/2 赤軍派指導部の崩壊/3 森恒夫さん指導下の赤軍派/4 パレスチナへの道
第十六章 パレスチナから見つめる
1 ベイルートについた私たち/2 統一赤軍結成/3 アラブの私たちー―赤軍派との決別/4 新党結成の破産/5 アラブから連合赤軍事件を見つめて/6 連合赤軍の最後とアラブの私たち/7 新たな変革の道を求めて
【『ヤタニ・ケース』の紹介】(鹿砦社サイトより転載)
『ヤタニ・ケース アメリカに渡ったヴェトナム反戦活動家』

矢谷暢一郎=著
鹿砦社 2023.11.20発売
定価:本体2700円+税
望月(上史。旧友。故人)の死を無駄にしないために、生き残った僕らは彼の死を無駄にしない生き方をしなければならないと思うが、それは「明日」を生き残った誇りでもう一つ次の「明日」を準備することかもしれない。 (本文より)
1960年代後半、ヴェトナム反戦運動が盛り上がる中、その渦中に身を投じながら、仲間の死、運動の解体、闘病を経て、70年代後半、再起を期して渡米――しかし、そこでもプロファイリングは海を越え当局に回っていた……。
70年代渡米以降、研究に没頭し過ごしていたが、突然逮捕され、「ヤタニ・ケース」といわれる、全米を揺るがす大事件に発展。闘いは続いた――それはどう決着したのか? その意味は?
伝説のヴェトナム反戦活動家(当時の同志社大学学友会委員長)が激動の人生を総括、渾身の書き下ろし!
[著者略歴]
矢谷暢一郎(やたに・ちょういちろう)
1945年、島根県隠岐の島生まれ。
1960年代後半、同志社大学在学中、同大学友会委員長、京都府学連委員長としてヴェトナム反戦運動を指導。同大中退。
77年渡米、ユタ州立大学で学士号、オレゴン州立大学で修士号、ニューヨーク州立大学で博士号を取得、85年以降、ニューヨーク州立大学、セント・ジョセフ大学、ニュージャージー・ラマポ大学等で教鞭を執る。
86年、オランダでの学会の帰途、ケネディ空港で突然逮捕、44日間拘留、「ブラック・リスト抹消訴訟」として米国を訴え、いわゆる「ヤタニ・ケース」として全米を人権・反差別の嵐に巻き込んだ。現在、現在アルフレド州立大学(ニューヨーク州立大学機構アルフレッド校)心理学名誉教授。
著書に、『アメリカを訴えた日本人――自由社会の裂け目に落ちて』(1992年、毎日新聞社)、『日本人の日本人によるアメリカ人のための心理学』(2014年、鹿砦社)がある。
鹿砦社サイトはこちらから。
https://www.rokusaisha.com/kikan.php?group=new&bookid=000736
【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。
●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在16校の投稿と資料を掲載しています。
【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
年末年始はお休みにしますので、次回は来年1月5日(金)に更新予定です。