2月3日に開催した明大土曜会で、代島治彦監督より新作映画『ゲバルトの杜-彼は早稲田で死んだ』の制作にあたっての経緯などお話いただいた。
代島監督
映画の事を喋らせてもらいます。ドキュメンタリー映画監督の代島治彦と申します。
2014年に作った『三里塚に生きる』の時もたぶん話をさせてもらって、次に『三里塚のイカロス』の時も話をさせてもらって、『きみが死んだあとで』という山﨑博昭さんの死を扱った映画の時も話をさせてもらいました。今回4本目になります。
やはり時代は60年代から70年代の政治闘争の季節と言いますか、叛乱の時代をテーマにしていますが、一番最後と言いますか、1970年代に入って『きみが死んだあとで』という映画の後半ですね、内ゲバの事を語る人が出てきますが、1967年の10・8で山﨑博昭さんが亡くなって、それが機動隊に立ち向かっていく学生たちの心に火を付けたというか、そこから翌年に日大闘争、東大闘争があって、1969年の70年安保粉砕の闘争があったわけですけれども、その後、70年代に入ると赤軍派が出てきて、最近話題になっている東アジア反日武装戦線が出てきて、そういう闘争の形態になっていくわけです。
その中で、一つは72年の連合赤軍のリンチ殺人事件があって、やはり決定的に大衆、市民と離反した闘争形態になっていく中で、内ゲバが激化していく、エスカレートしていくという見取り図があると思うんですけれども、ただ個別のそれぞれの当事者の体験というのはそれぞれで、時代の記憶も違っていると思うんです。
それを歴史的に定義するとか、検証しようとか、そういう映画ではなくて、一人ひとりの記憶の中に眠っている当時のことを、もう一度掘り起こして次の時代に一つの映像記録として、あるいは映画として残したいという気持ちで今まで作ってきました。
今回の内ゲバのテーマに関しては、僕自身は当時の皆さんが描いていた理想、あるいは社会運動、抵抗運動、革命運動のようなものがポジティブに展開していった時代と、それがネガティブに変転していく時代みたいなことを描いたんですけれども。内ゲバに関しては完全にネガティブな無意味な部分というのがあって、死んだ人たち亡くなった人たちがありまして、もう一つは内ゲバと言っても党派間の、ブントの中でもいろいろあったと思いますけれども、殺し合いになっていった後の内ゲバですね。加害の側も被害の側もなかなか事実を明らかにしないし語らない、伏せられている、警察の方もうまく泳がしてあまり事実を明らかにしてこなかったということがあって、語り継がれたり伝えられたり、あるいはそれを検証されたりした歴史がなかった。
ですから、やっぱり僕が一番最初に参照したのは、立花隆さんが1975年までのことをまとめた『中核vs革マル』ですが、あれが一番学生運動の新左翼党派の始まりから内ゲバに至るまで、それから75年に中核派の本多書記長が殺されるまでの歴史を克明に描いているので参考にしていたんですけれども、それ以外はなかなか僕自身も事実を知らなかったんですね。それで内ゲバということを題材にして、それをある程度間違いのない事実として伝えられる映画は作れないだろうと思っていたんですね。それは当事者が語らないからです。
そんな中で、一昨年『彼は早稲田で死んだ』という本が出ました。それは中核派と間違って殺された川口大三郎という当時早稲田の第一文学部の2年生のリンチ殺人事件と、その後の殺した側の革マル派に対して憤った一般学生が、早稲田の自由、自治権、民主的な自治というものを獲得するために起ちあがった闘争のことを、当事者の樋田毅さんという、当時革マルを追放するために作った第一文学部臨時自治会の委員長が書き下したノンフィクションが『彼は早稲田で死んだ』なんです。
それを読みまして、僕自身も早稲田出身なので、川口君の事件から5年後に大学に入っているんですけれども、僕自身事件の経緯をよく知らなかったんですね。知らないままずっと過ごしてきて、樋田さんの本を読んだ時に「こんなことがあったのか」と思って。それから樋田さん自身が革マルに襲われて重傷を負うんですけれども。そういう風に暴力的排除、暴力的行為で革マル派は、川口君をリンチ殺人した後も早稲田のキャンパス、自治会を牛耳っていくわけです。
立花隆の本を読んだ時に僕も気になっていたんですけれども、立花さんは、「それまでに内ゲバの血みどろの闘争になっていく下地は出来ていたけれども、直接的に100人を超える死者を出す抗争の引き金を引いたのは川口君事件だった」というように分析していたんですね。それは何でそうなのかということは僕もよく分からなかったんですけれども、樋田さんの本を読んだら、やっぱり早稲田の中で、今日の資料の表紙の写真は勝山泰佑さんという早稲田出身の写真家が撮った写真で、1969年の9月3日、当時早稲田の全共闘と革マル派が大学の支配権、自治権を巡って激闘していたんですね。その激闘を排除するために大学が機動隊を導入して学生を排除している。ここに写っている学生はいろいろな文字や色のヘルメットを被っていますが、これは全共闘側です。革マルは大隈講堂の中に立て籠もったんです。


この日に第二次早稲田闘争と言われる闘争が終わって、次第に革マルが早稲田の法学部以外の自治会を握っていくんですね。そういう構造が樋田さんの本を読んで分かってきて、なおかつ川口君のリンチ殺人事件が起きた後、革マル派を追放していく、早稲田の解放と言っていましたけれども、自由で民主的なキャンパスを自分たちで作っていくんだという運動が起きて、一時は一般学生が何千人という単位で非暴力で革マルを追い出そうとしていく。
そういう中で、69年の闘争の生き残りの人たちと、もうちょっと若手の人たちが「早稲田行動委員会」というのを作るんです。通称「WAC」早稲田アクション・コミッティという、その行動委員会は黒ヘルを被って防衛のためだけど武装しようと。『彼は早稲田で死んだ』の著者の樋田さんたちは、あくまでも非暴力で闘おうと。暴力でリンチされて殺された人間に対して、それはおかしいと、暴力反対ということで革マルを追放しよういう闘争なんだから、たとえ抵抗であっても暴力を使ってやったら結局党派闘争と同じことになる。だからあくまで自分たちは非暴力で闘うんだ、というのが『彼は早稲田で死んだ』の著者の樋田さんの立場だったんですね。それで革マルに対抗する2つの勢力が出来て、黒ヘルを被って防衛的な武装をしようと、それから樋田さんたちの非暴力で闘おうという両方が出来てきて、方針が違う中で闘争が展開されて行くんですが、結局最終的には革マル派の暴力によって両方潰されて、1年後には彼らは大学のキャンパスに入れないという状態になって、早稲田の中での闘争が終わっていくんですね。


(革マル派「解放」1972年12月16日)
その時に黒ヘルの部隊「早稲田行動委員会」を応援する形で、法政大学の中核派、それから神奈川大学を中心とした社青同解放派が支援に乗り込んでくるんですね。その中で、今度は革マルと中核派と社青同解放派の三つ巴の内ゲバになっていくんです。1973年の9月15日に、神奈川大学で革マル派が社青同解放派を襲うんですね。それのレポをやっていた革マル派の2人の学生が、逆に殺されるんですね。そこでまた殺し合いがエスカレートしていって74年になっていく。
映画の中では川口君がリンチ殺人で殺された。その後早稲田の中で非暴力派と武闘派と2つの勢力が革マル追放運動をやる。でもやっぱり革マルに潰された。それで結局、社青同解放派と中核派と三つ巴の内ゲバが始まり、1974年1月24日に世田谷区で、革マル派とみられる2人の東大生が引っ越しの最中に殺されるんですね。映画にも出てくれた石田英敬さんという東京大学の政治学の教授で、もう退官されましたが、彼が初めてその時の状況を語ってくれたんですね。実は石田さんの引越しを手伝いに来た四宮さんと富山さんという学生が殺されたんです。石田さんは逃げられたんです。自分は生き残ってしまったということも含めて、なぜ内ゲバになっていったのか、そういうことになってしまったのか。自分たちは駒場寮の革マルの隣の部屋で革マルと親しくはしていたけれども、革マルではなかったけれど、だんだんそう見られていったということとか、当時、一度転がり始めた敵対し殺し合う関係というのが止められない、転がっていく、転がり始めたということを石田さんは語ってくれました。
なおかつ、その前の神奈川大学での殺された革マルの2名の学生のうちの金築さんという人は東大の学生だったんですね。この人は革マル派でした。金築さんの親友だった内田樹さんもこの映画に出ていただいているんですけれども、内田樹さんも金築さんが殺された時のショックと、なぜそういう風になっていったのかということを映画の中で語ってくれています。
そんなことで、その後どんどんエスカレートされていく内ゲバの大きな疑問に対して映画が答えているかどうか分からないんですけれども、とりあえず1970年の8月に起きた党派対党派の抗争の中の死である「海老原君事件」というのがありますけれども、70年の8月に法政大学のキャンパス内で教育大生の海老原君が中核派に殺されるわけですが、その海老原君の事件を始まりにして、川口君の事件、それからその後74年までを映画の中では当事者の証言を交えて描いています。


(革マル派「解放」1970年8月25日)
ここにいらっしゃる明治大学の土曜会のYさんは1966年大学入学とおっしゃえいましたけれども、やはり60年代の闘争と70年代、特に71年以降の闘いというのはすごく変わっていくんですね。その変わって行った一つの形態が内ゲバになっていった。
『三里塚のイカロス』の時に、中核派の三里塚の現闘のリーダーを30年やっていた岸宏一さんという方に出てもらったんです。岸宏一さんはもうお亡くなりになりましたが、その時に映画の中には入れませんでしたけれども、中核派のやった闘争の中で3つ大きな意義のある闘争があったと。「一つは67年の10・8から始まる対権力の闘争、それから革マルとの闘争、もう一つは三里塚での闘争、この3つが中核派がやった3大闘争だと思う」と彼は言っていたんですね。「じゃあ革マルとの闘争の意義は何だったんですか?」と聞いたら、やっぱり反革命集団と言いますけれども、「反革命の革マルという組織を生き残らせる、あるいは革マルに中核派がやられてしまって、革命集団のヘゲモニーを革マルに握られてしまう、そうしたら本当にひどい政治集団が生き残ってしまう。革マルは生き残らせてはいけないんだ」と。
中核派は対権力に向かって闘っていた。ところが革マルの方が先に中核派を襲うようになってきた。特に『きみが死んだあとで』でも描いたんですが、『きみが死んだあとで』では赤松英一という山﨑博昭の先輩が語っていますが、関西大学で71年12月4日、革マルが中核を襲って、京都大学の辻敏明と同志社大の正田三郎、この2人を殺すんですね。ここから中核は、革マルの「革」という字をカタカナにして、革命の「革」なんか使わない、カタカナで「カクマル」と書いて反革命集団規定をするんですね。
ところが中核の方は権力との闘争で東大闘争以降、渋谷暴動などで1,000人単位で警察に捕まっているんですね。非常に中核派は体力が弱っていた。それで権力と革マルの両方に対峙しなくてはならない体制が73年まで続くんですけれども、それを中核派は「二重対峙」と言っていましたけれど、「二重対峙」の状況は我慢して、刑務所から出てくる集団を待って、それから73年後半から攻勢をかけてくるんですけれども、そういう形で本当に川口君事件の後、彼の事件が引き金を引くように内ゲバがエスカレートしていった。
やっぱり当事者に僕は話を聴きたかったです、今回も。でも中核の方も革マルの方もなかなか話をしてくれません。特に川口君事件は革マル派のリンチ殺人事件でしたので、実際に内ゲバに関わった、あるいは川口君事件に関わった革マルの人に話を聴きたくて、いろいろアプローチはしました。でもどうしても語ってくれないんですね。樋田さんの本では、革マルの当事者で唯一で出てくるのは辻信一さんという明治学院大学の教授がいるんですけれども、彼が早稲田の樋田さんたちと同世代の革マル派の委員長代理だったのかな、それで彼と話をして、唯一当事者の革マルと話をしているということが本の中に出てくるんですけれども、僕自身は川口君のリンチ殺人に関わっていたメンバーを一生懸命アプローチしたんですけれども、やっぱり彼らは今は一般市民として暮らしていますし、語ってくれない。それから当時革マルに居た人で、生きているんだけれども遺書を書いたので、その遺書はお見せすることは出来ると言って、すごい長い遺書を参考のために僕に送ってくれた人がいました。その中で彼自身も74年には革マルを抜けようとして日本全国を放浪して逃げ回るんですけれども、そういう組織の縛りみたいなきつさ、それから川口君事件の時は鉄パイプを持って(川口君)事件の後に樋田さんたちのグループを襲ったり、「早稲田行動委員会」の人間を鉄パイプで襲ったりしたと証言しているんですね。でもこれは自分が死んでから発表したいということで、その辺はなかなか表に出ないですね。
でも今回東アジア反日武装戦線の桐島聡さんと名乗る人が、ほぼ桐島さんだと思いますけれども出てきて、50年前の出来事にもう一度光が当たるというか何と言うか、マスコミの光の当て方も興味本位なんですけれども、当たってくる中で、思うところがみんなあるんじゃないかなと思うんですね。
人生というのは、こう送ろうと思って送れるのもじゃないところが絶対あると思うんですね。「プラハの春」という1968年でしたか、チェコスロバキアで旧ソ連からの自由解放の闘争が生まれて旧ソ連に弾圧されますけれども、その後にミラン・クンデラという作家が「人間というのは死ぬまで未熟者だ」というような話を『存在の耐えられない軽さ』の中で書いているんですけれども、結局生まれてから死ぬまで、今まで経験したことに出会いながら、青春時代は初めて青春を迎えてどう生きようかと悩んだ、結婚も初めてして離婚も初めてして子供を育てて、僕は今66歳になりますけれども、そんな歳になっても自分がどう死ぬかというのは一度きりの体験ですから全然分からない。年老いてどうなっていくかも分からない。だから一生未熟者なんだ。
そういう中で、桐島聡さんは一人で逃げ回って、そういうことを抱えながら生きてきたというか、彼のいろんなことを思うと、何か胸が詰まるようなところがニュースを見る度にあります。


(『狼をさがして』)
東アジア反日武装戦線に関しては、『狼をさがして』という映画が2年前に韓国のキム・ミレという監督の作品として日本で公開されて、浴田由紀子さんとか出てきて話していましたけれども、やっぱり東アジア反日武装戦線が出て来た大元には、例えば桐島聡さんとか宇賀神寿一さんとか明治学院大学の仲間がやっていた寄せ場ですね、山谷とか釜ヶ崎とかの底辺労働者を救済していく運動、寄せ場の中から「底辺委員会」というのを黒川芳正、宇賀神寿一、桐島聡たちが作っていくんですね。それが「さそり」になるんですけれども、そういう具体的なテーマを持った、今にも通じるような運動をやっていた人たちなんですね。浴田由紀子さんや、青酸カリを飲んで死んだ斎藤和さんとかが「大地の牙」になっていって、彼らも一つのテーマを持って、特に東アジアに対する日本帝国民が持っている原罪みたいなもの、要するに彼らに血の決済をしていかなければいけない、だから武装闘争を行わなければいけないとか、それぞれテーマを持ってやっていったわけですよね。


(社会運動史研究「直接行動の想像力」)
「直接行動の想像力」というのを松井隆志さんがまとめていて、「直接行動は必要だけれども、暴力闘争に何故当時走っていったのか」ということを書いているんですけれども、何故彼らが爆弾闘争に走っていったのかということは、71年くらいからすでに爆弾が作られて、土田邸爆弾事件とかいろいろあるんですね。死者を出さないで闘争をやろうとするのは、後からいろんな人が言っていましたけれど、三菱重工爆破事件で8人の死者を出してしまうんですけれども、ちょっとずつズレてきているというか、桐島さんは爆発物取締法違反の罪くらいしかないわけですよね。ところがダッカとクアランプールの事件で大道寺あや子さんとか佐々木規夫さんとかが国外に行くわけですよね。それで控訴時効が成立しなくなって一人で逃げ回る訳ですよね。桐島さんは時効がいつになるのかということも考えていたんじゃないかなと思ったりもするし、それから宇賀神寿一さんは87年に逮捕されるんですけれども、桐島さんと同じ明治学院大学の2年生で、逮捕されて16年の刑を終えて出てきて、今は救援連絡センターとかいろんなところで活動なさっています。その宇賀神さんにも桐島さんは連絡しなかったわけですよね。本当に警戒しながらも一人で、大体生活は予想出来る部分はありますけれども、一人でそれをやって、最後に名乗り出るということを、ある新聞記者は勘違いかもしれませんけれども、「彼の人生は『パーフェクト・ディズ』だったね」と。『パーフェクト・ディズ』というのは、役所広司主演で今公開されているんですけれども、トイレの清掃員をやりながら汚いアパートに住んで、毎日同じリズムで生きている、それをヴィム・ヴェンダース監督が描いた映画なんですけれども、そんなことを言う人もいました。ただ本当はどうだったのかなとか、やっぱり苦しかったのかなとか、親族から断ち切られましたからね。何か僕の映画作りって、そういうところを想像するところから、イメージするところから始まっている部分があるので、桐島さんのことに刺激、ショックを受けています。
内ゲバのことに話を戻すと、僕自身は川口君が二十歳で殺されて、その友達たちが革マル追放に起ち上ったんだけれども、革マルにボコボコにやられてさぞ悔しかった。その悔しい思いをぶつけた本が出来た。初めて川口君事件の真相と川口君がどういう人間だったのかということと、川口君が殺される時にどんなに悔しかっただろうなと、そういうことを思ったので映画に出来たのかなと思っています。
もう一つだけ、『きみが死んだあとで』でまでは証言だけで映画を作ってきたんですね。ところが今回は鴻上尚史さんという劇作家にお願いして、川口大三郎さんがリンチで殺される1日を描いた短編劇を映画の中に16分入れています。これはどうしてかと言うと、いくらリンチ殺人と言っても、イメージはそれぞれありますけれども、特に若い人たちが本当のこととして受け止めることがなかなか出来ないだろうと思って、逮捕された犯人の調書、それから樋田さんが取材した中に、実際にどういう武器を持ってどういう風に殺されていったかということが、結構克明に記録されている。それを僕と鴻上さんが読んで、これを作ってみようと。完璧にその通りだとはならないけれども、こうなんじゃないか。主犯格の人間はバットで攻撃していて、そのバットの攻撃が致命傷になったんじゃないかとか、いろいろ出てくるわけですね。そのドラマを入れたことによって、どういう評価になるか分からないんですけれども、今回は短編劇を作っていく過程のメイキングのドキュメンタリーと、証言のドキュメンタリーと、3つをミックスした構造になっています。134分の作品で、5月25日に初日が決まりました。5月25日から渋谷のユーロスペースで公開して、その後、全国で公開されていく予定です。
あと、早稲田の文学部の教授に頼んで早稲田大学の中でシンポジウムと上映会をやりたいと仕掛けていたんです。かなりいいところまで行ったんですが、大学の上層部がプレッシャーを掛けてきて、その時にかかげたテーマが「早稲田大学の負の遺産を未来に語り継ぐ」みたいな前向きのテーマだったんですが、やっぱり怖気づいたんだと思います。
そういう意味では、今でも大学当局の管理体制がますます厳しくなって、何も出来ない状態になっていますから、そのシステムをどうやって破るかみたいなことも、この映画を上映しながら考えていければと思っています。
ありがとうございました。
それで、この映画を作るのに、普通のドキュメンタリーだと劇がないものですから、予算がある程度見えるんですけれども、お金がなかったのもですから、沢辺均さんにプロヂューサーをお願いしました。沢辺さんは「ポット出版」という出版社をやりながら、出版界の革命児みたいな方なんですけれども、『きみが死んだあとで』を観て下さっていて、僕を合評会をやりたいということで呼んでくれて、初めて『きみが死んだあとで』を作った後にお会いしたんですね。合評会でいろんなことをやって、そこがすごく面白い集まりだったものですから、次の映画を作ろうとなった時に、真っ先に沢辺さんに相談して、「お金がないんだけれども何とかしてくれませんか」と相談したんです。沢辺さん自身は和光高校で和光大学の学生と一緒に運動をしたり映画を作っていました。沢辺さんは大学に進学せずに労働組合運動に入って、そこで活動を始めました。「大学なんかに行っている場合じゃない、現場に入ろう」と、そういう信頼できる方です。
沢辺均さん
今ご紹介いただきましたが、皆さんとは世代が違うんですよね。それで川口君事件を担った人たちもどうもちょっと世代的に違う。僕は1956年生まれで1971年の高校に入って、その時の4・28や6・15がデビュー戦だったんですけれども、75年から渋谷区役所に就職して自治労で10年くらい活動していました。その後、区役所を辞めて「ポット出版」という会社をやっています。
今回関わったのは、確かに60年代から70年にかけて、皆さんそのど真ん中にいらしたと思うんですけれども、それは若い世代にも影響が出て来たし、代島さんや鴻上さんが典型的だと思うんですよね。78年に早稲田に入学して、その時は何もない世代なんだけれども、代島さんが『三里塚に生きる』から、この手の新左翼物に手を染めて4つの映画を作ってしまう。鴻上さんも、70年前後の闘争が彼にとっても賛同するというより否定的なんだけれども、その否定の仕方の中にも自分の興味があるようなことがあるので、今回ミックスをやってくれたと思うんです。本当に鴻上さんは熱心にやってくれたと思います。
この映画が意味があるとしたら、ちょっと皆さんとはズレた世代で、よく内ゲバと連赤がその後の新左翼運動をダメにしたという言い方がされると思うんですけれども、その一つの大きなテーマの内ゲバの、とは言え川口君事件はその中の一つにエピソードになってしまうと思うんですけれども、それに同じ早稲田ということもあって、代島さんや鴻上さんがこのことをちゃんと記録しておかなければいけないという気持ちになられたわけです。そういう意味でこの映画は、これまでの代島さんの3本の映画もそうですけれども、きちっとした記録として成り立っていると思うし、あの時代の空気を共有されていない、ちょっとズレたところから、70年前後の運動あるいはその事象がどう見えるのかというのを観る、とてもいい映画に仕上がっていると思うので、是非観に来ていただきたいし、観客動員へのご協力もお願いしたいと思います。


<質疑>
質問者A
樋田さんの本を読んで、反革マルで「早稲田行動委員会」を作った。自衛的武装と、あくまで非武装だという話があって、俺だったらどっちに行くんだろうと思った。今考えれば非武装の方なんだけれども、当時の空気は武装なんだよ。どっちに行っても「Z」の強さは強大だったから、他に手がなかったのかという辺りを、今度の映画でどういう風に表現されているのかというのは、すごく興味がある。
代島監督
やっぱり証言はその人の中の事実ですけれども、「Z」の力は強大で、なおかつ大学当局が、あるいは文学部の教授会そのものが動かなかった。あそこで早めにリコールを認め、新自治会を認めてくれていれば、多少動きは、流れは変わったんじゃないか。
沢辺均さん
代島さんがいろいろ当時の革マルに対する解放運動を担った人たちへの幅広いインタビューがあるんです。これは本当に立場が一人ずつ違うんですよね。その辺が見どころじゃないかと思います。樋田さんのような非暴力は非暴力で未だに変わらない人もいれば、WACに行ったけれど暴力を肯定的な人から、それに対する反省も含めた人から、いろいろ(映画に)出てくるのが、それが一番おもしろいと思います。
代島監督
最初は樋田さんと一緒に非暴力で新自治会を作っていったんだけれども、樋田さんが鉄パイプでやられた後、武装論が台頭するんですね。それでゲリラ戦といって、鉄パイプを持って逆に革マルをゲリラで襲いに行くという部隊を作った人もいるし、いろいろですね。ただ、神奈川大学で革マルが2人殺された、党派同士の抗争になっていった。こうなったら俺たちも殺し合いに巻き込まれるから止めようと、秋には全部が手を引いてしまった。
質問者A
それで外人部隊で法政と神奈川大が入ってきて、本格的な内ゲバになっていくわけですよね。今から言ってもしょうがないけれど、どうしたらよかったんだろう。というのが、僕が樋田さんの本を読んで、彼は客観的なんだけれど主観的になったり、出たり引っ込んだり・・・。
代島監督
たぶんその答えは、映画を観て、あるいは本を読んで、今例えばそういう事態、あるいは具体的な暴力ではないけれども、暴力的な対決が起きた時に、自分はどういう風にそれに対して反応するかということは、映画を観て考えていただきたいと思います。
質問者B
私は同じ世代の1970年入学で、川口君虐殺があったのが72年ですけれども、当時一緒に新しい学生運動を作ろうとやっていて、早稲田とか法政とか一橋とか、いろんな大学と共同行動を組んでいた仲間が早稲田で、川口君虐殺の時に糾弾闘争をやったグループの一つなんです。
一人はMという政経学部の委員長をやっていた男です。文学部で活動していた者も何人か知っています。ただ、一人はあの後胃がんで亡くなって、一人は自殺して亡くなりました。そしてMは行方不明。一人だけ連絡を取れる人はいます。私もそういう経験はあります。ただ、あの時は僕らも明治でやっていたんだけれども、それは大変なことだというので、応援に行っていたんですね。ただ、私自身は11・19の学費闘争で中野で逮捕されてしまったので全然支援に行けなかったんだけれども、その後支援が出来なかったという悔やみがあるのと、もう一つは僕は当時はノンセクトだったんですけれども、党派がどんどん介入していくわけですよね。それがかなりグチャグチャになってしまった一つの要因じゃないかとは思っています。やっぱり「おかしい」と思っていろいろな大学の心ある連中が応援したという「うねり」があったことはあったんです。それが潰されて行く過程も残念だという思いを持って(映画を)応援させてもらいました。
代島監督
Mさんは取材したいと思っていましたが、もう亡くなったんじゃないかということです。今回は、田原総一朗さんが東京12チャンネルで作っていたドキュメントの番組があるんですね。そこでこの早稲田の闘争を30分番組で記録しているんです。「ナウ早稲田」という番組ですが、その映像を使わせてもらっています。だから当時の学生の映像も、音声付きでかなり出てきます。
質問者C
樋田さんの本は読みましたが、一番最後の部分で「2001年の文学部革マル排除は全早稲田生の勝利だ」と書いていて、もちろんその世代の方からするとそういう面はあるんでしょうけれども、今の学生からすると、2001年以降、革マルですらビラ撒きしたら文学部キャンパス内で逮捕される、そういう事態になってしまったということですよね。当然、サークル棟も排除という話を聞いたことがありますが、そういう中で、革マル排除を理由にして一般学生はビラ撒きすらできない、立看すら掲げられない、こういう状況については樋田さんを含めて、どういう風に振り返っていらっしゃるのか、私としてはすごく気になります。監督としてはどのようにお考えなのか。
代島監督
僕が大学に入った時も、早稲田祭を含めて全部革マルが牛耳っていたわけです。僕は反革マルの大学祭をやったことがあるんです。革マルに睨まれたこともあるんです。やっぱり革マル支配を何とか、というのはありました。ただ、それが大学の力でやるというのではなくて、排除していくような構造が作れなかったのかなというのはありますね。大学当局がそういう排除していく構造は、早稲田が2001年にやった時もそうですし、東大なんかもそうなんですね。それを主導した人間が、まさにこの運動をやった世代なんです。今までの悪い部分を排除して体勢を立て直すんですけれども、大学当局に対して暴力がいけないとか正当な理由を与えて、立て看とかビラ撒きとかいろんなことができなくなった。それに対してもう一度声を上げて対応しようとする時、今は党派の力がどれだけあるか分からないけれども、(早稲田で)僕らの上映会をやってはいけないというのも、サークル棟の中に革マルのサークルが入っているからだと思うんですけれども、そういう意味では今の学生の力で変えていくしかなんじゃないかと思うし、変えていって欲しいと思う。東大も駒場寮が解体されたけれど、駒場寮を解体した一番の責任者が、この映画に出てくる石田英敬さんという人です。
そういう当時の運動をやったり、いろいろやった人が、役回りとしてそういう役割になってくるという変な時代の変遷というのはあるね。
沢辺均さん
一つだけ、新自治会は当時は認められなかった。それは僕は勝手な想像だけれども、(大学当局が)革マルとつるんでいた。革マルを大学は2001年の時に、用が無いから追い出したと思うけれど、川口君の事件の時には、大学と革マルは結びついていた。
質問者C
それは分かるんです。それは分かるんですが樋田さんが2001年を「全早稲田生にとって勝利だ」と。2001年を革マルを含めて学生運動を全部排除することを「早稲田の勝利」と書いたことについて、私は愕然としたという思いがありました。おっしゃることはよく分かります。
沢辺均さん
それは映画を作った側としてはよく知らないとしか言いようがないですね。
代島監督
樋田さんは、革マル追放というのが最も目標だったので、それがついに成し遂げられたという意味で、樋田さんの言葉では「Victory(勝利)」になったのだと思います。
(チラシ写真)
新作ドキュメンタリー映画「ゲバルトの杜~彼は早稲田で死んだ?」公開に向けて、宣伝費の応援をお願いするクラウドファンディングをスタートさせました。
●Motion-Gallery「ゲバルトの杜」クラウドファディング・ページ
「全国共通前売券」「監督サイン入りプレスブック」「ロゴ入り特製手ぬぐい」「監督が育てた新米(2024年度埼玉県産キヌヒカリ)」「宣伝美術のための元活動家が復元したヘルメット・セット」など、さまざまな特典(リターン)を用意しています。
クラウドファンディングページをご一読いただき、ご支援をご検討くださいますよう、心よりお願い申し上げます。
●映画ナタリー「ゲバルトの杜」紹介ページ
https://natalie.mu/eiga/news/561536
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新作『ゲバルトの杜』5/25公開!
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【『パレスチナ解放闘争史』の紹介】
重信房子さんの新刊本です!
【『はたちの時代』の紹介】
重信房子さんの新刊本です。絶賛発売中!
前半は66年から68年までの明大学費闘争を中心とした時期のこと(この部分は私のブログに「1960年代と私」というタイトルで掲載したものです)。
後半は69年から72年までの赤軍派の時期のことが書かれています。
定価 2,860円(税込
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「模索舎」のリンクはこちらです。
江刺昭子さんによる本の書評(紹介)です。(47ニュースより)
「あとはき」より
『ここに書かれた記録は、ごく日常的な私自身の身の回りで起こったことを率直に書き記したものです。その分、他の人が書けば全く違った関心角度から違った物語がこの時代のエピソードとして描かれることでしょう。私は獄に在って、何度か癌の手術を繰り返していました。生きて出られないことがあっても、支えてくれる旧友や、見ず知らずの方々にお礼を込めて、私の生き方、どんなふうに生きてきたのかを記録しておきたいと思ったのが、この記録の始まりです。私がどのように育ち、学生運動に関わり、パレスチナ解放闘争に参加しどう生きて来たのか、マスメデイアでステレオタイプに作り上げられた私ではなく、生身の私の思いや実情を説明しておきたくて当時を振り返りつつ記して来ました。獄中と言うのは、集中して文章を書くのに良いところで、ペンをとって自分と向き合うと過去を素直に見つめることが出来ます。楽しかった活動や誇りたいと思う良かった事も、間違いや恥かしい事や苦しかったことも、等しく価値ある人生であり私の財産だと教えられた気がします。(中略)どんなふうに戦い、どんな思いをもって力を尽くし、そして破れたのか、当時の何万という「世の中を良くしたい」と願った変革者の一人として、当時の何万と居た友人たちへの報告として読んでもらえたら嬉しいです。また当時を若い人にも知ってほしいし、この書がきっかけになって身近に実は居る祖父や祖母たちから「石のひとつやふたつ投げたんだよ」と語ってもらい、当時を聴きながら社会を知り変えるきっかけになれば、そんな嬉しいことはありません。
いまの日本は明らかに新しい戦争の道を進んでいます。いつの間にか日本は、核と戦争の最前線を担わされています。そんな日本を変えていきたいと思っています。決して戦争をしない、させない日本の未来をなお訴え続けねばと思っています。なぜなら日本政府が不戦と非戦の国是を貫くならば日本の憲法には戦争を押しとどめる力があるからです。はたちの時代の初心を忘れず日本を良い国にしたい。老若男女がこぞって反戦を訴え支える日本政府を実現したいと思います。』
目次
第一部 はたちの時代
第一章 はたちの時代の前史
1 私のうまれてきた時代/2 就職するということ 1964年―18歳/3 新入社員、大学をめざす
第二章 1965年 大学に入学した
1 1965年という時代の熱気/2 他人のための正義に共感/3 マロニエ通り
第三章 大学生活をたのしむ
1 創作活動の夢/2 弁論をやってみる/3 婚約/4 デモに行く/5 初めての学生大会/6 研連執行部として
第二部 明治大学学費値上げ反対闘争
第四章 学費値上げと学生たち
1 当時の牧歌的な学生運動/2 戦後民主主義を体現していた自治会運動/3 話し合いの「七・二協定」/4 田口富久治教授の嘲笑
第五章 自治会をめぐる攻防
1 スト権確立とバリケード――昼間部の闘い/2 Ⅱ部(夜間部)秋の闘いへ/3多数派工作に奔走する/4 議事を進行する/5 日共執行部案否決 対案採択
第六章 大学当局との対決へ
1 バリケードの中の自治/2 大学当局との激論/3 学費値上げ正式決定/4 収拾のための裏面工作/5 対立から妥結への模索/6 最後の交渉と機動隊導入
第七章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書―二・二協定の真相/2 覚え書き(二・二協定)をめぐる学生たちの動き
第三部 実力闘争の時代
第八章 社学同参加と現代思想研究会
1―1967年 一 私が触れた学生運動の時代/2 全学連再建と明大「二・二協定」/3 明大学費闘争から再生へ
第九章 社学同への加盟
1 社学同加盟と現代思想研究会/2 現思研としての活動を始める/3 67年春、福島県議選の応援/4 今も憲法を問う砂川闘争/5 あれこれの学内党派対立/6 駿河台の文化活動
第十章 激動の戦線
1 角材を先頭に突撃/2 10・8闘争の衝撃/3 三里塚闘争への参加/4 68年 5月革命にふるえる/5 初めての神田カルチェラタン闘争―1968年6月/6 68年国際反戦集会の感動
第四部 赤軍派の時代
第十一章 赤軍派への参加と「七・六事件」
1 激しかったあの時代/2 1969九年の政治状況/3 4・28縄闘争/4 赤軍フラクション参加への道/5 藤本さんが拉致された、不思議な事件/6 7月5日までのこと/7 69年7月6日の事件/8 乱闘―7月6日の逆襲/9 過ちからの出発
第十二章 共産主義者同盟赤軍派結成
1 女で上等!/2 関西への退却/3 塩見さんらの拉致からの脱走/4 共産同赤軍派結成へ
第十三章 赤軍派の登場と戦い
1 葛飾公会堂を訪れた女/2 「大阪戦争」/3 「東京戦争」/4 弾圧の強化の中で/5 支えてくれた人々/6 前段階蜂起と組織再編/7 大敗北―大菩薩峠事件/8 初めての逮捕――党派をこえた女たちの連帯
第十四章 国際根拠地建設へ
1 前段階蜂起失敗のあと/2 よど号ハイジャック作戦/3 ハイジャック闘争と日本委員会/4 深まる弾圧――再逮捕/5 思索の中で
第五部 パレスチナ連帯と赤軍派との乖離(かいり)の中で
第十五章 パレスチナ連帯の夢
1 国際根拠地パレスチナへ/2 赤軍派指導部の崩壊/3 森恒夫さん指導下の赤軍派/4 パレスチナへの道
第十六章 パレスチナから見つめる
1 ベイルートについた私たち/2 統一赤軍結成/3 アラブの私たちー―赤軍派との決別/4 新党結成の破産/5 アラブから連合赤軍事件を見つめて/6 連合赤軍の最後とアラブの私たち/7 新たな変革の道を求めて
【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。
●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在16校の投稿と資料を掲載しています。
【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は3月15日(金)に更新予定です。