最近、手元にある本や雑誌の整理を始めた。「終活」というほどのことでもないが、そんな中で、当時の雑誌『現代の眼』や『構造』などに掲載された記事を改めて読む機会があった。
大変興味深い記事も多数あるので、「雑誌で読むあの時代」というシリーズでブログに掲載することにした。
第1回目は、前々回で代島監督が語る新作映画『ゲバルトの杜』について掲載したということもあり、早稲田大学での革マル派による川口大三郎君虐殺事件を受けて、雑誌『現代の眼』1973年3月号に掲載された早大文学部有志による「早大闘の新しい地平 ―全共闘運動の彼方へー」を転載する。
早大闘の新しい地平 ―全共闘運動の彼方へー
早大 文学部有志
何が問われているのか
われわれの生きた <近い過去> について、様々な事々が語られ、言葉の累積の上に"語られた事々“としての早大闘争が、今われわれの前にある。この早大闘争の前で(あるいは中で?)われわれがどのように在ったかについて語るために、そしてわれわれの未知の<歴史> について語るために、何かが欠けている。それは、何よりもわれわれが今、11・8(注:川口君が虐殺された日)という一日を生きていることによっている。また、<歴史> の自己認織にかかわる命題にわれわれの闘いがどれだけ答え得るのか、闘争主体としてのわれわれの全体性は如何にして展開され実現されるのか?何事かを語る前に克服すべき課題が山積しているからばかりでなく、われわれ自身の存在がただそれだけで川口大三郎の死を準備して来たという事実への、自己責任の追及の過程にあることが、われわれの現在の"生”の意味を規定している重要なモメントとして 切実に認織されざるを得ないからでもある。現在の"生“を総体として語ることの困難さは、いつ如何なる時においても変わらない。川口は、自らの"死"を睹して彼の”生"を語った。われわれは求められているのだ、彼の"死“を生き抜くことを!だから、われわれが真に語り得るとすれば、それは闘いを通じて、闘いの中からでしかないといぅ搆造は、川口の"死"を睹した問いかけそのものの中にある。彼の問いかけが、われわれにとって共有のものとして把握されるとき、われわれは自らの闘いと、自らへの闘いとを語るための視点を獲得するだろう。しかし、われわれは知っている、川口は依然としてわれわれの前をひとりひた走っているのだ、ということを。われわれの出発は、常にそこからなのである。
革マル=Ⅰ文自治会執行部による川口虐殺は、早大におけるかつてない大衆的決起をもたらした。この不定形のエネルギーの噴出の中で、誰もが自問した。“この広大なエネルギー、「怒り」は一体何なのか?"
確かに革マルのテロ・リンチ支配は、日常的な経験としてわれわれにあった。言葉として <早大管理抑圧体制>=当局・自治会による二重支配体制は、自明なものとしてあった。だが、それでもなお、この広汎な決起は、われわれの経験を越えて文字どおり圧倒的なものであった。当初聞かれた「またか」、「どうせ民青に利用されるだけだ」といった声、自己の体験の範囲を一歩も出ない認識は、大衆的な立ち上がりそのものの具体性によって覆されて行った。混沌とした流動が、「革マル糾弾」を軸に渦巻いていた。その中で、「この広汎な立ち上がりの根拠は何なのか?」という問いがわれわれの間にまさに必然的に立ち現われて来たのである。
われわれは、川口の“死”の向うにもうひとつの"死“、梁政明の”死“が再び重くわれわれにつきつけられているのを知らされた。革マル、民青双方によるあまりにも政治主義的な歪曲によっておとしめられて来た日本名・山村政明の"死"が、その真の意味をわれわれに直接問いかけて来たのである。(注:早大Ⅱ文の学生だった1970年10月6日、革マルの学園暴力支配に抗議して焼身自殺。遺稿集『いのち燃えつきるとも』)なぜ、あの時、われわれは立ち上がることができなかったのか?それは、「何故、これだけの立ち上がりが川口の”死“によって起こったのか?」という自問と表裏一体を成している。そしてまた、川口の残した屈折した軌跡が、その最後にたどりついた <差別> 問題へと、梁政明の投げかけた問いに通底していることを、われわれは見出さねばならない。川口の問題意識の最も尖鋭な部分としてあったであろう、「狭山差別裁判」と、革マルによる「川口=中核派スパイ断罪」との同質性の認織は、革マルに対する一切の妥協を拒否するわれわれの姿勢の根拠である。とはいえ、われわれは今ここですべての解答を提示することは出来ない。われわれは、われわれ自身の軌跡を省みる中から、幾度も11・8へと立ち帰りつつ、川口の ”死“を賭した問いかけに答えるために闘い続けるだろう、と言う以外にはないように思われる。
早大全共闘の破産を超えて
文学部においては、1月24日からストに突入した。23日の学生大会において、圧倒的多数のもとで可決された議案書の最初の章は次のようにのべている。
「早大解放・自治会再建の斗いの本質とは何か?
革マルによる川口大三郎『なぶり殺し』は、当初においては予想もつかなかった巨大な激動を招来せしめている。我々はこの大衆的運動の爆発の必然性をはっきりと見定めておく必要がある。
立上った学友は、川口君虐殺をまのあたりにして、それをいわゆる <無関係な死>としてではなく自らもわが身を置くワセダの日常性の中に深く根をおろした本質に起因するものであることを把えたが故にあのような大衆的決起による大結集が実現したのである。
川口君虐殺をひきおこした <ワセダの日常>とは何か!我々の怒りと悲しみがこの斗いの過程で見出した<敵>とは何か!
それは荒廃した<自由の学府>幻想のもとでの抑圧の日常性であり、この抑圧の構造を我々は<当局ー自治会革マル>ー<学生>の関係においてまず一点見ておかねばならぬ。
学生の自立的、自主的諸活動を産学協同路線をはじめとする管理政策下につなぎとめておくことを至上と心得る学校当局。そして自治会の私物化と、それを基盤とした組織的延命という党派的利益と引き換えに、否むしろ本質的に大衆巡動とはいかなる意味においても無縁であるという運動構造の故に、立ち上ろうとする学生内部からの分断抑圧者の役目を果たす革マル。この二人三脚的連繁を支配構造の内実とし、それを存在条件として川口に孤立した斗いを強いてしまった我々の側の責任をはっきりと見つめなくてはならない。この抑圧構造こそが他でもない、川口君虐殺をひきおこし抑圧の主犯として顕現した木質であり、我々の斗いがその一歩一歩の過程で見定めていった本質であった。
我々の斗いは、再び自治圧殺を許さぬ斗いとして革マル放逐、当局糾弾、自治会再建―早大管理支配体制否定という目的意識性を持っていた。それ故、我々の運動を『勝共』(注:原理研・国際勝共連合)と軌を一にした単なる『反暴力』運動として矮小化することは我々は許すことはできない。そもそもセクト主義の私的暴力性が、川口君虐殺に明らかなように学生全体に敵対的、犯罪的なものであるのに対し、我々の側の抵抗権をそれと同列のものと見ることは、管理支配体制ー <当局=革マル> に反撃せんとする我々の斗いを否定するものであるが故に、きわめて危険なものであると言わねばならない。早大管理支配体制のもと、川口君虐殺はけだし必然のものであった。この暴圧を断ち切るものは我々の斗いをおいて他にない。
虐殺によって引き起こされた状況を、単に自派の危機としてしか見ることができず、自治会私物化=延命のための自己防衛に狂奔する革マル。また管理支配体制の動揺を、自治会処分、機動隊導人(1・7告示)etc、で歯止めせんとすることに汲々とする当局。彼らはこの「事件」を姑息に乗り切ることをしか考えることができない。唯一我々だけが革マルの暴力装置、当局の『仮構の秩序』政策の敵対に抗し、11・8川口君虐殺事件の木質的解決―早大管理支配体制の打破の斗いを担い得るし、また担っているのである。
彼ら革マルが、我々の斗いに対し「内部に巣食う民青ー悪質ノンセクト」といかに強弁、罵倒しようとも、彼ら革マルが早大の圧倒的学生全体に敵対している事実は否めないのだ。我々の怒りを <物知りくらベ> に解消しようとしても駄目だ。
さらに、「 <べトナム反戦> を語ることが自治会活動の展望だ。そして、それを語っているのは革マルだけだ」という彼らの言辞のもつ意味はさることながら、そもそも展望を語る主体がどこなのかを革マルー11月会は知らねばならない。ましてや、今ベトナム反戦を語らぬから現在の大衆運勤の昂揚を自治会再建運動とは認めず、粉砕の対象とするとあっては論外というしかないであろう。
そもそも早大管理支配体制の一翼として、我々の自治会再建の斗いの粉砕の対象でしかない革マルと、その一文における今日的姿の「11月会」の御都合主義的スローガンなど我々の自沿会には無縁である。
わが自治会の第一の方向性は以下のものだ。すなわち第二学館閉鎖、第一学館=文連・早稲田祭実行委員会・早大新聞会の私物化、二重自治会策動、自治会費凍結、10・27、11・17告示etcの自治圧殺の一切の否定物を否定し、ワセダ解放の雄図を実現すべく、革マルの敵対から一切の論議=自主的、自立的活動を保障しぬき、再建された自治会を断固防衛することである。
われわれの闘争は、まさに爆発的な起ち上りをもって開始された。この起ち上りを支えていたのは、何らかの思想や理論ではなく、一歩たりとも妥協することのできない、<死>を前にしたある種の厳粛さであり、<造反有理> とも言い換え得る前提ならぬ前提の共有であった。この<正義>の闘いの戦線は、実に様々な傾向をはらみつつも、未分化なままで“反革マル"統一戦線を形成していたのであって、逆にいえば、この不徹底さこそ圧倒的起ち上りを持続させる条件となっていたのである。しかしながら、各学部において学生大会がかちとられ、全学的な支援のもとに革マル執行部をリコールし、臨時執行部体制を樹立するとともに、広汎な起ち上り故のわれわれの内的な弱さが顕在化し、”反革マル"といぅ形をとって何と闘っているのか、これだけの力量がありながら何故これまで起ち上れなかったのか、という根底的な問題を回避しては、この大多数の早大生の<魂>に触れ得た闘争を持続させ、発展させることはできない。
われわれにとって何が勝利なのか?革マルとの闘いが単に彼らを早稲田から放逐するということに限定されるならば、それは明らかに革マルによって設定された戦線における闘いである。われわれは、彼らの動員力、組織力に対して"敗れる"こともありうる。そのとき、次の闘いの条件を作りうる仕方で後退しうるのか、ということが最も重要な問題となる。すなわち、条件に応じて、革マルが早稲田に介入できない状況、革マルとわれわれの間に一定の緊張関係が持続する情況、革マルが再び早稲田を制圧する情況が想定され、それらが闕争の展開にとって決定的な意味をもつとしても、にもかかわらず、われわれの闘争の勝利?敗北が決定される<環> は、やはりそこにはないということを確認する必要があるであろう。
革マル派のわれわれの運動に対する対応は、全国動員までしておきながら徹底的にツブシに来るのでもなく、いさぎよく退却するのでもなく、極めてあいまいなものであった。これは革マル内部の動揺―とりわけ下部活勤家の動揺によるところが大きいと思われる。革マルは早稲田においては、ここ数年来他党派経験がないため、彼らの組織としての結束も<他者>の契機を欠いた、すなわち同質性を欠いた同一性としての結束であり、こうして下からの広汎な起ち上りという<異質なもの>に出会ったとき、その内的な脆弱性が暴露されるのである。われわれは、革マル内部の矛盾―上部と下部、幹部間、各大学間、労―学間の矛盾を激化させる方向で闘争を展開させる必要があるとともに、組織としての革マルに対抗すべく、われわれ自身の分断され去勢化された意識、日常性を解体し、全く新たな人間関係―交通形態、生活様式を創出し、能動的に闘争を提起し、敵を引きずりこむことができるような戦線を構築しなければならない。
闘争は、戦線と戦練の闘いである。一つの戦線―たとえば武装闘争における強弱の問題ではなく、どちらの設定した戦線が優位を占めるかという問題であり、敵の勝利が昧方の敗北にはならないような重層的な戦線を構築し得るか、という問題なのである。
革マル内部の動揺は、われわれの運動が明確な方針、路線、組織的な保証をもっていないにもかかわらず、われわれ一人一人が誰にも依存することなく、自分の問題を自分で解決すべく立ち上ったという質の問題であって、決して"四千名のデモ"という量の問?だけではない。革マルは、“四千名のデモ"が民青の外人部隊だというレッテルを貼る以外に、これに敵対する"正当な”理由を見出し得ないし、また、動揺しているあわれな下部活動家を闘争圧殺の隊列に加えることができなかったのである。
もちろん、われわれの運動も、対革マル、対当局、対民青の曲折した闘争を経る過程で、様々な限界に直面せざるを得なかった。その限界を突破するためには、以下の点に留意しなければならないであろぅ。
受動的な闘争から能動的な闘争への転化。われわれ自身の日常性との闘争、自治会 <建設> の闘争への転化のための、明確な戦略、計画性を獲得すること。
闘争の自然発生性をのりこえるために、単に目的意識性を対置するのではなく、広汎な起ち上りの内部における問題意織、諸矛盾、諸傾向を緻密に分析し、その分化の形態を明確に把握すること。単なる革マル糾弾の闘いを次の段階へ飛躍させるために、われわれの敵は何なのか、敵はどのような戦略をもってわれわれに攻撃を行ってくるのかを明確に把握すること、等々。
これらの諸条件―主体的諸条件の成熟なしには、やがて起るであろう革マルとの直接対決において、われわれの軍事が高度な政治的質をもつことは不可能であろう。
われわれのこれまでの当局、革マルとの対応が戦術レベルに限定されてきたということは、これだけの闘争エネルギーがあるという積極面と、にもかかわらずこれまでに広汎に起ち上れず、“反革マル"という形でしか闘争を開始し得なかったという消極面との矛盾の外化に他ならない。
現在の“反革マル”統一戦線内部の諸契機は、概略的には次のように把握することができる。
① 殺人者だから→刑法上の問題→管理強化。
② 自治会執行部による自治会員の虐殺=学園内殺人→リコール→われわれの“人殺しをしない自治会”再建。
③ 革マル派は"革マル派“だからいけない→個別革マル派の否定(組織、イデオロギー、"存在“の否定)
④ 党派闘争の"ゆきすぎ"→殺さない程度にやればよい。
⑤ 党派闘争そのものへの批判―党派の“党派"たるゆえんは何か→新左翼並びに既成左翼も含む左翼総体の問題。
革マル糾弾として始まったわれわれの闘いは、まず、革マル執行部リコールを決定する学生大会開催へと有形化された。われわれ内部の矛盾は当初未分化の一体をなしていたが、当局の弾圧―処分、告示、機動隊導入、ロックアウトーと、革マルの学内実力阻止行動―集会開催、個人的恫喝、全国集会へむけた全国動員―とに対決していく過程で、その矛盾が外化していった。
それは主として、革マル執行部をリコールした後で、早急に自治員選挙をやり、新執行部を樹立しようとする路線と、当局団交などの闘争を貫徹していく中でわれわれの問題―川口君虐殺の提起した問題を深化させ、自治とは何かを追求し、新規約制定の後にはじめて新執行部選挙が可能であるとする路練の対立であった。これは、自治会再建を規約レベル、制度的=形式的保証レベルで問題にし得る情況、あるいはそういう形でしか問題にし得ない情況を克服していくのか、否か、われわれの内部矛盾を展開させるのか、おしとどめるのか、という意味で、まさに路線上の対立としてあった。われわれが確立した臨時執行部?協議会態勢は、決して強力なものではなかったが、それは、われわれ自身の弱さ、主体的矛盾の未展開の外化なのであって、それを「当局に認めてもらう云々・・・」の名目のもとに、当局との「交渉」レベルで自治再建を考えるなら、それは闘争ー闘争の主体的条件の確立ーの収拾以外の何ものでもないのである。
民青諸君は、川口君虐殺をはじめ、革マルー中核の「トロツキスト同士の殺し合い」と規定して、一挙に早大民主化=民青化を実現しようとしたが、闘争自身の展開ー広汎な起ち上がりが、そうした問題のたて方をのりこえて、民青の依拠する基盤がなくなるとみるや、急遽方向転換し、新自冶会建設へ向けられた闘争エネルギーを、根本的な問題を一切回避して、自治委員選挙→新執行部樹立へ集約しようとした。確かに、この戦術が表面的な成功をおさめた学部もある。しかし、逆に、民青の最大拠点であった法学部において、かつてない反執行部闘争が展開されており、川口君虐殺の提起した課題が単なる革マル批判でないことを物語っている。
こうした情況において、冬休みあけの 1・8集会における“黒へル部隊"の登場は、闘争の新しい段階をきり開くものであった。すなわち、全国動員によって敵対してくる革マルに対し、はじめて組織的・計画的に対峙し得たのであった。単なる"反暴力"をこえたこの新しい質は、自治委員選挙実施を決定した文学部において、選挙場確保のために革マルと直接衝突し、ノンへルのスクラムが革マルのヘルメットのピケ隊を突破するという、まさに画期的な闘争へと発展していくことになる。
この二重性―自治委員選挙でさえ直接対決を内包せざるを得ない・直接対決もあくまで自治会再建運動レベルにおいてであるという二重性こそ、闘争のへゲモニーがいわゆる活動家集団にも、また民青、秩序派にも掌握されず、いまだに未分化な統一戦線を形成している根拠となっている。中核派が早大キャンパスに登場しても、早大闘争総体への影響力はほとんどなく、三年前、早大全共闘の運動が"党派関争"ヘと矮小化されていった経験を知っている者にとってはむしろ批判的にうけとめられ、他方、文学部の自治委員選挙においてはその道のプロであるはずの民青諸君が多数落選するという奇妙な事態が生じているのである。革マルも、運動のへゲモニーがどこにあるのか理解しがたいとみえ、時に応じて臨執は民青だといってみたり、反代々木セクトの生き残りといってみたり、その動揺をかくすことができないかに見える。
いわゆる“先進的"な部分が結集して”左派"を形成することは容易なことである。しかし、現在の闘争に求められているのは、“左派"でなく "左”である。この未分化な、民青とも明確に分化できずにいて、しかも、活動家を内包しているこの統一戦線において、何らかの主観的な基準で左右を判定してしまうのでなく、”左"の「機能」を持続的に果たしていける新しいスタィルの“左"が求められているのである。これは、やりたい奴だけがやり、何らかの意志一致をあらかじめしておいてからやるという"新左翼"的スタィルが身についている人間にとっては、非常に困難な試練の場である。どんなに、革命的言辞をはこうと、革マルとカッコよくぶつかろうと、自治会のあり方や、試験への対応を問題にしているクラス討論の積極性と結合することなくしては、"左"としての機能を果たし得ない。統一戦線とは、矛盾の展開の場であって自己(自派)に他者(他派)を同化させることでもなく自己(自派)が他春(他派)に同化することでもなく徹底した「異化」を通じて、相互の質を転換していく、相互=自己教育の場なのである。革マルのいうような”戦闘的"自治会の建設も、民青のいうような、"民主的"自治会の建設もこの教育の弁証法を欠落させるという意味で(あるべき大衆=あるがままの大衆の固定化に依拠するという意味で )、その破産が宣告せられたといえよう。もはや大衆の"総意"を"反映"する自治会の幻想は打ち砕かれた。総意とは各個人の多様性そのものであり、反映ではなく、自分自身で自分の運動を創出するのだ、という"常職"が取り戻されつつある。
この、他の何ものにも依拠せず、自分で起ち上るという質こそ、あの“全共闘"運動の根源性だったのではないだろうか。
セクト政治は終焉した
全共闘運動とは何であったのか?
これまで幾度となく問われてきたこの問いを問い返すことなくして、われわれの問題を明確にすることはできない。
全共闘運動の提起した、日常生活の全領域における総反乱は、新しい型の搾取=抑圧に対抗する、新しい型の闘争スタィルであった。
ブルジョアジーは、資本として機能しえない資本=過剰資本を管理通貨制度のもとに強引に機能させることによって生活の原則を解体させ、もはや解決しがたい矛盾を克服する路線=戦略を持てずに全く行きあたりばったりの盲目的な対応しかできなくなっている。したがって階級的矛盾は日常生活の全領域において多面的に外化している。事実、全共闘運動によって提起された根源的な、しかし抽象的であった諸課題は、日常生活の様々なレベルにおいて入管闘争、狭山差別裁判闘争、公害問題をめぐる“科学"、"官僚"、"工業生産”に対する闘争等々として具体的に展開されてきている。これに対してそれを一つ政治課題に一面化したり、一つの戦線を設定するといった古い指導は、もはや指導として機能し得なくなったのである。解体された日常生活に対して、また解体した指導に対する反発はそれにふさわしい型をもつことができず、無形な激しい反発となって外化した。したがって闘争課題も、大学解体、ブルジョア的“教育"及び"科学”の解体、差別の解体等々の <最大限綱傾> としてしか提起しえなかったのであり、組織も組織ならぬ組織としての"全共闘“という形をとったのである。そのこと故にアナーキーだというならば逆にその根拠たる組織論やマルクス主義の「常識」こそ、まさに問題にされていたのではなかったろうか?全共闘運動は既成左翼、とくに日共に対してはその代行主義、組織万能主義を根底的に批判し、それらが抑圧構造の一環をなしていることを暴露するとともに理論的な正当性が先進的革命的であるような時代は終焉したことを宣告したのであった。しかしながら組織ならぬ組織としての”全共闘"は、能動的に解体される以前に、闘争の全国化による必然的帰結としての"全国全共闘"へ再編され、上から解体されるとともに全共闘のもっていた質は、武装闘争へと一面化され、戦線は"街頭"に設定され、“11月決戦"、"安保決戦"を経るにしたがって、先進性は<唯武器主義>へと転倒され、ついに、あの悲劇的(喜劇的)な連合赤軍車件を招来したのであった。
この過程において、諸セクト間の対立は激化し、その <党派性> は権力と大衆の間の階級的矛盾とは無関係に闘われる"内ゲバ"、"理論闘争"として外化し、それは党派性というよりは宗派性、論争といぅよりは教義問答の観を呈するものであった。
革マル派は、民青とともに全共闘運動によって全的に否定されたはずのものであるが、それにもかかわらず組織として残存し得ているのは、階級闘争においてではなく、宗教戦争においてこそ革マルの革マルたる所以があるからに他ならない。したがって、他党(宗)派が没落すれば革マルも没落する。川口君の虐殺は、決して革マル派だけの資任ではない。大衆集会の前にスパイ警戒のパトロールをせねばならぬほど矮小なものと化した宗教戦争―それこそ、川口君虐殺を生み出した根拠なのである。もちろん、われわれは革マルを擁護する一片の思想も持ち合せていない。しかし、単に革マル派に対する糾弾におわるならば、この危機的情況を打開することは決してできないということを銘記しなければならない。
問われている根源的な課題
今や、何が先進的であり、革命的であるのか?それはスローガンの問題でもなく、明確なプログラムをもったものが純粋に分離されて組織されることでもなく、機動隊と徹底抗戦することでもない。真の先進性、革命性とは、大衆をいかに起ち上がらせ、その内在するエネルギーにふさわしい形態を与えうるかということにかかっているのである。現在、具体的に展開されている個別闘争を一つの戦線に一面化することなく、また個別課題スローガンを外的に結合しただけの統一戦線でもなく、いかにして戦略的課題にまで高めていくか、そのための組織、指導がいかなるものかが、今問われているのである。
これまでの指導は、早大において内在していたエネルギーにふさわしい形態を与えることができなかったし、いまだにこのエネルギーを自派に吸収しようとすることによってしかその「指導性」を示しえないでいる。早大生が「一般学生」として自己を規定しているのも、かつてのような闘いを拒否するという否定的な自己限定ではなく、そのようなもはや指導たりえない指導を拒否したうえでの闘う主体としての自己限定にほかならない。この広汎な起ち上りが自然発生的であり、組織論や運動論や自治会論をもたないとしても、現実にわれわれは自治会再建にむけての組織化をすすめているのであって、今必要とされているのは、単に自治会解体を叫んだり、学園闘争を街頭闘争へと短絡させるのでもなく「自治とは何か」という学園闘争に初めて提起されたこの根源的な課題をあくまで問い続けることである。また、あらかじめ設定されたプログラムのないことをもって「限界」があるとか「展望」がないとか批判するのではなく、いかにしてこの運動を持続させ、闘争の展開にふさわしい形態を与えうるかという建設的な思想が必要とされているのである。そしてこれは個別早大闘争にとどまることなく、全国学園闘争、ひいては階級闘争総体において問われている課題なのであるといえよう。
学生戦線の新しい段階を
われわれの運動は、全共闘運動が到達した高みから出発することはできなかった。むしろ、その限界から出発したのである。そして、その限界を突破する萌芽もいくつか現象してきている。
たとえば、自治会を「ポツダム自治会解体」のレベルでとらえるのではなく、自立(律)的運動体の結合として把えようとする動きがでてきている。すなわち、自治をクラスのレベルでクラス自治として把握したり、あるいは、クラスを行動委員会として、惰性的な人問関係から、能動的人間関係へと再編するという動きである。そのとき、自冶会は、それらの小自治体の運動を制約するものとしてではなく、それらの多様性・独自性を保証する組織性として現われてくるのである。あるクラスのビラは次のように主張している。
「これまでの革マル自治会支配体制下において、我々自身の手による独自な運動、文化運動は全て圧殺されてきた。これを根源的に打ち破っていくためには各個人が運動の主体となること以外にはない。即ち、いかに"民主的“であろうと個人の運動はいかなる者によっても代行されるべきものではない。我々はこうした自治会再建運動の第一歩を、まずは自分で自分の運動を創り出すこと、"革マルのやらなかった全てのことをやる"、"やりたいことをやる"ことから踏み出さねばならない。独自な課題をもった実行委、行動委がすでに誕生しているし、今後も無数に誕生する可能性を現在の情況は充分にもっていると思う。こうした観点から、我々は各運動体の自主的、自立的運動を促進し、精神的、経済的、空間的な保証を与える機関としての自治会建設を考えるものである。」
また、この間の文学部における運動の中から、こうした質を保証するための"行動原則"がかちとられた。
このような自治会の組織を、制度的・形式的なものとして把握するのでなく、自立した組織の連合体として、また、自治会規約も運動の中から生まれる自己規律・内部規律として、すなわち、桎梏と化せばいつでも解体しうる組織規律として再編していく動きは、全共闘運動の限界を"自治"のレベルでのりこえていく萌芽として指摘しうると思う。
さらに、いまだ全く不十分にしか試みられてはいないとはいえ、経済戦線として、また生活様式の変革という意味では文化戦線としての「土方組合」の組織が提起されている。これは、学園闘争の後方基地として、また学園闘争が学園闘争にとどまる限界を突破するものとして無限の可能性を孕んでいよう。すでに、教育の、学問の虚構性は、全共闘=反大学運動において、あますところなく暴露された。教育は、教育以外のもの、単位・試験・出席などに依拠せずには機能しえない。すでに解体しているのである。すでに解体しているものが、その支配を維持しようとすることの中にこそ、川口君虐殺はあったと言わねばならない。この解体した<学>を本当の意味で解体するためには、われわれ学生の力だけでは決定的に不十分なのである。街頭闘争における、政治課?をめぐる労ー学提携という外的な結合ではなく、まさに生産力と生産関係の矛盾、頭脳労働と肉体労働の矛盾を止揚する主体としての労ー学提携が求められ、しかもその条件があるのである。この緊急にして、巨大な課題は、山谷における闘いとの出会いの中から徐々に模索されていくであろう。
われわれの闘いは、当局=革マルの<早大管理支配体制> 解体の闘いであると同時に、建設の闘いであった。何か一つの課題・戦線に限定することはできず、多面的な闘争を展開せねばならなかった。その意味で、これまでの学園闘争、学費問題などの個別課題を軸にした学園闘争とは異質なものをもっていた。持続性もあった。逆に言えば、焦点が明確に定まらず、他の闘争、他の学園闘争との結合が困難にならざるを得ない。しかし、現在では、安保粉砕や大学立法粉砕など一面化された戦線における"全国学園闘争"の展開とは全く別な連帯の質が問われているのかも知れない。確かに、大管法による攻勢とは断固闘わねばならない。しかし、三年前、全国の大学で大学立法に起ち上ったが故に足元をすくわれ、早大でも、それ以後、自治を守れというレベルの鬪争、あるいは諸党派が前面に出る闘争へと堕落していった経緯を忘れてはならない。われわれは、大管法をもこちらの戦線に引き込めるような闘争を今から準備せねばならない。それにはおそらく、現在早大で模索されているような、独自な課題をもった、自立的な運動体の形成が条件となるであろう。早大闘争は、あの全共闘運動の圧殺者としてあった革マル、民青と闘いぬく中で、全共闘“以後"の新しい闘争スタィルを提示するものとして、機能しえなくなっているばかりか、すでに桎梏と化している”党派的指導"をのりこえ、自力で闘争を創出していくものとして、また、これまで停滞と混迷のただ中にあるとされていた学生戦線の新しい段階をきり拓くものとしての重大な任務を担っていかねばならないといえよう。
(終)
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●映画ナタリー「ゲバルトの杜」紹介ページ
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新作『ゲバルトの杜』5/25公開!
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【『パレスチナ解放闘争史』の紹介】
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なぜジェノサイドを止められないのか?
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獄中で綴られた、圧政と抵抗のパレスチナ現代史。
ガザの決起と、全世界注視の中で続くジェノサイド。
【内容目次】
第一部 アラブの目覚め――パレスチナ解放闘争へ(1916年~1994年)
第二部 オスロ合意――ジェノサイドに抗して(1994年~2024年)
【『はたちの時代』の紹介】
重信房子さんの新刊本です。絶賛発売中!
前半は66年から68年までの明大学費闘争を中心とした時期のこと(この部分は私のブログに「1960年代と私」というタイトルで掲載したものです)。
後半は69年から72年までの赤軍派の時期のことが書かれています。
定価 2,860円(税込
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「あとはき」より
『ここに書かれた記録は、ごく日常的な私自身の身の回りで起こったことを率直に書き記したものです。その分、他の人が書けば全く違った関心角度から違った物語がこの時代のエピソードとして描かれることでしょう。私は獄に在って、何度か癌の手術を繰り返していました。生きて出られないことがあっても、支えてくれる旧友や、見ず知らずの方々にお礼を込めて、私の生き方、どんなふうに生きてきたのかを記録しておきたいと思ったのが、この記録の始まりです。私がどのように育ち、学生運動に関わり、パレスチナ解放闘争に参加しどう生きて来たのか、マスメデイアでステレオタイプに作り上げられた私ではなく、生身の私の思いや実情を説明しておきたくて当時を振り返りつつ記して来ました。獄中と言うのは、集中して文章を書くのに良いところで、ペンをとって自分と向き合うと過去を素直に見つめることが出来ます。楽しかった活動や誇りたいと思う良かった事も、間違いや恥かしい事や苦しかったことも、等しく価値ある人生であり私の財産だと教えられた気がします。(中略)どんなふうに戦い、どんな思いをもって力を尽くし、そして破れたのか、当時の何万という「世の中を良くしたい」と願った変革者の一人として、当時の何万と居た友人たちへの報告として読んでもらえたら嬉しいです。また当時を若い人にも知ってほしいし、この書がきっかけになって身近に実は居る祖父や祖母たちから「石のひとつやふたつ投げたんだよ」と語ってもらい、当時を聴きながら社会を知り変えるきっかけになれば、そんな嬉しいことはありません。
いまの日本は明らかに新しい戦争の道を進んでいます。いつの間にか日本は、核と戦争の最前線を担わされています。そんな日本を変えていきたいと思っています。決して戦争をしない、させない日本の未来をなお訴え続けねばと思っています。なぜなら日本政府が不戦と非戦の国是を貫くならば日本の憲法には戦争を押しとどめる力があるからです。はたちの時代の初心を忘れず日本を良い国にしたい。老若男女がこぞって反戦を訴え支える日本政府を実現したいと思います。』
目次
第一部 はたちの時代
第一章 はたちの時代の前史
1 私のうまれてきた時代/2 就職するということ 1964年―18歳/3 新入社員、大学をめざす
第二章 1965年 大学に入学した
1 1965年という時代の熱気/2 他人のための正義に共感/3 マロニエ通り
第三章 大学生活をたのしむ
1 創作活動の夢/2 弁論をやってみる/3 婚約/4 デモに行く/5 初めての学生大会/6 研連執行部として
第二部 明治大学学費値上げ反対闘争
第四章 学費値上げと学生たち
1 当時の牧歌的な学生運動/2 戦後民主主義を体現していた自治会運動/3 話し合いの「七・二協定」/4 田口富久治教授の嘲笑
第五章 自治会をめぐる攻防
1 スト権確立とバリケード――昼間部の闘い/2 Ⅱ部(夜間部)秋の闘いへ/3多数派工作に奔走する/4 議事を進行する/5 日共執行部案否決 対案採択
第六章 大学当局との対決へ
1 バリケードの中の自治/2 大学当局との激論/3 学費値上げ正式決定/4 収拾のための裏面工作/5 対立から妥結への模索/6 最後の交渉と機動隊導入
第七章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書―二・二協定の真相/2 覚え書き(二・二協定)をめぐる学生たちの動き
第三部 実力闘争の時代
第八章 社学同参加と現代思想研究会
1―1967年 一 私が触れた学生運動の時代/2 全学連再建と明大「二・二協定」/3 明大学費闘争から再生へ
第九章 社学同への加盟
1 社学同加盟と現代思想研究会/2 現思研としての活動を始める/3 67年春、福島県議選の応援/4 今も憲法を問う砂川闘争/5 あれこれの学内党派対立/6 駿河台の文化活動
第十章 激動の戦線
1 角材を先頭に突撃/2 10・8闘争の衝撃/3 三里塚闘争への参加/4 68年 5月革命にふるえる/5 初めての神田カルチェラタン闘争―1968年6月/6 68年国際反戦集会の感動
第四部 赤軍派の時代
第十一章 赤軍派への参加と「七・六事件」
1 激しかったあの時代/2 1969九年の政治状況/3 4・28縄闘争/4 赤軍フラクション参加への道/5 藤本さんが拉致された、不思議な事件/6 7月5日までのこと/7 69年7月6日の事件/8 乱闘―7月6日の逆襲/9 過ちからの出発
第十二章 共産主義者同盟赤軍派結成
1 女で上等!/2 関西への退却/3 塩見さんらの拉致からの脱走/4 共産同赤軍派結成へ
第十三章 赤軍派の登場と戦い
1 葛飾公会堂を訪れた女/2 「大阪戦争」/3 「東京戦争」/4 弾圧の強化の中で/5 支えてくれた人々/6 前段階蜂起と組織再編/7 大敗北―大菩薩峠事件/8 初めての逮捕――党派をこえた女たちの連帯
第十四章 国際根拠地建設へ
1 前段階蜂起失敗のあと/2 よど号ハイジャック作戦/3 ハイジャック闘争と日本委員会/4 深まる弾圧――再逮捕/5 思索の中で
第五部 パレスチナ連帯と赤軍派との乖離(かいり)の中で
第十五章 パレスチナ連帯の夢
1 国際根拠地パレスチナへ/2 赤軍派指導部の崩壊/3 森恒夫さん指導下の赤軍派/4 パレスチナへの道
第十六章 パレスチナから見つめる
1 ベイルートについた私たち/2 統一赤軍結成/3 アラブの私たちー―赤軍派との決別/4 新党結成の破産/5 アラブから連合赤軍事件を見つめて/6 連合赤軍の最後とアラブの私たち/7 新たな変革の道を求めて
【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。
●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在16校の投稿と資料を掲載しています。
【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は4月19日(金)に更新予定です。