4月28日(日)、東京・中央区で「4.28反戦シンポジウム実行委員会」主催によるシンポジウムが以下の内容で開催された。
●司会・進行
安田宏(元都立上野高校)、金廣志(元都立北園高校)
第1部
●シンポジウム登壇者
高橋順一(ドイツ・ヨーロッパ思想史研究者 早稲田大学名誉教授)
鵜飼哲(フランス現代思想・ジャック・デリダ研究者 一橋大学名誉教授)
ファビアン・カルパントラ(フランス人、映画研究者 、横浜国立大学准教授)
キム・ソンハ(韓国人、韓国徴兵拒否者らの亡命立案者)
三宅千晶(沖縄県那覇市生まれ 被爆三世 ドイツ・イタリアのNATO軍『米軍』基地調査報告書作成、弁護士)
第2部
●ディスカツション登壇者
<今現在、社会の各方面でアクティビストとして活動する若者たち>
白坂リサ(慶應義塾大学)、田中駿介(東京大学大学院)、山本大貴(慶應義塾大学)
<1960年代ベトナム反戦運動の中心的活動家たち>
三上治(思想家)、前田和男(ノンフィクション作家)、二木啓孝(ジャーナリスト)
順不同
今回のブログは前回に引き続き、シンポジウムの第1部の後半の概要を掲載する。
後半では、ファビアン・カルパントラ(フランス人、映画研究者 、横浜国立大学准教授)さんから、フランスにおけるパレスチナ問題について、キム・ソンハ(韓国人、韓国徴兵拒否者らの亡命立案者)さんから韓国の徴兵制度と徴兵拒否者について、最後に三宅千晶(沖縄県那覇市生まれ 被爆三世 ドイツ・イタリアのNATO軍『米軍』基地調査報告書作成、弁護士)さんから日米地位協定の問題点について、それぞれ発言があった。
なお、第1部前半は、こちらをご覧いただきたい。
No639 「4・28反戦シンポジウム 直ちに戦争をやめろ! 」第1部前半の報告
金廣志さん(司会)
今日はフランス人のファビアン・カルパントラさんに来ていただいています。横浜国大の映画研究が専門ですけれども、フランスあるいはヨーロッパで、特にいわゆる「ユダヤ人問題」についてどのようなリアリティを感じておられるのかということについてお話いただければと思います。
●パレスチナ問題はフランスでどう受け止められているのか
ファビアン・カルパントラさん(横浜国立大学准教授)
どうもみなさん、こんにちは。ファビアン・カルパントラと申します。
私は映画を専門としていて、何故こういう政治的な問題に関心を持つようになったかと言いますと、もちろんフランスで生まれ育ったということもあるんですけれども、研究の中で相米慎二という映画監督について研究をしていたんです。彼は1968年の全共闘運動に深くコミットしていた事実があるんですけれども、そこから日本の新左翼運動だとか、反植民地運動だとか、そういうことに関心を持ち始めました。なので、さきほどのお二人のように、イスラエルやパレスチナが専門というわけではないので、自分の個人的な話を交えながら、もう少し具体的なレベルで手短に話をしようと思います。
僕がフランスを出て10年になりますので、直接的な形で、今フランスで実際に何が起きているのか把握できているわけではないんです。SNSやインターネットを通して、何となくこういうことかなというのはあります。
それからもう一つ、フランスに家族がいるので定期的に帰っていますが、その時に家族と少し政治的な話をするんですけれども、そこに変化を感じているわけです。
僕の認識としては、パレスチナの問題というのは、僕が高校生だった頃、1999年から2002年までの間ですけれども、パレスチナ側を支持する若者が多かったというのが一般的でした。
パレスチナの問題から離れますが、2001年の9・11テロ事件の時も、ビン・ラディンを全面的に支持しますという人はさすがにいなかったんですけれども、ビン・ラディンの事を「かっこいいね」とか「理解できなくもないね」という人がいなくもなかった。その当時は、そういった議論をすること自体が普通だった。
2015年にパリでテロ事件が起こりますが、その少し前に一時フランスに帰っています。その時に家族とイスラム教などについて議論したんです。それまでは、反イスラム教的な発言をしていなかった人でさえ、「アラブ人には問題があるんじゃないか」とか、少しずつ微妙に変わりつつあったんです。
それで11月にパリでテロ事件が起こる。たまたま僕はフランスにいたんですが、パリの地下鉄のシャロンヌ駅の近くでテロ事件が起きたと報道されたんです。その時に、1961年10月のアルジェリア戦争の時に、おびただしい数のアルジェリア人が殺されたという事件があったんですけれども、真っ先にそれを思い出したんです。これは偶然ではないんだ、意味があってあの場所でテロ事件を起こしたのではないか、要するに僕には意味づけようとする衝動があった。
2015年の11月のテロ事件は、もちろんものすごく大きな衝撃を呼びましたが、時間の経過につれて、ますますその衝撃が拡大していった感じがします。今では、「テロを起こした側は理解できなくもない」といったニュートラルな発言をしていた人も、そういった発言はできなくなっている。要するに議論の余地が全くないんです。
2023年10月のイスラエルでのハマースによるテロ事件(軍事作戦)は、フランスでは2015年の11月のテロ事件とセットで報じられている。イスラエルで起きたテロ事件は、我々にとっての2015年のテロ事件と同じ位置づけなんだ、彼らのトラウマは我々のトラウマと同じものなんだということです。そこでどういう事が起きているのかと言うと、議論が抹殺されているんです。事件の背景や歴史について考えようとすることが、完全にシャットダウンされています。それは良いことではありません。
2023年10月のテロ事件の後、フランスでいくつか世論調査が行われました。事件から4週間くらい後の調査では、「ハマースの行為はまぎれもないテロ攻撃である」が57%の人が賛成している。「テロ攻撃が人道に対する罪に値する」が35%、「ハマースの行為は正当な抵抗、レジスタンスである」が8%。これを見ていると、圧倒的にハマース側を批判していると見えますが、この8%というのはそこまで小さい数字ではありませんし、世論調査の質問の仕方にもよります。
イスラエルによるガザ侵攻の半年後に行われた世論調査では、56%がガザ侵攻を支持しており、44%が間違った行為であると回答している。半々ではありませんが、フランスの世論が二極化していることがうかがえると思います。
問題なのは、若者たちは、どちらかと言うと、パレスチナ側を支持します。大人たちというか政府の公式見解は明らかにイスラエル側を支持しているということになっています。状況は複雑になっていますし、20何年前と大きく違うのは、2014年に「テロ予防罪」という法律が制定されました。今はそれが乱用されている。パレスチナ側への支持、親しみを公の場で示してしまうと、「テロ予防罪」に問われる可能性がある。それによって世論が弾圧を受けているわけです。
パレスチナの問題だけでなく、これは世界的な傾向だと思いますが、権力とか警察がどんどん強くなっていくということ、独裁的な性格を持って行くと同時に、下層の階級の人たちが増々不満が募って、対立が激しくなっている。その表れとして法律の乱用が読み取れると思います。
金 廣志
今の話を伺ってると、要するにパレスチナ支持が少なくないわけですよね。それはフランス人にとってのアイデンティティはどういうものなんでしょうか?
ファビアン・カルパントラ
中には北アフリカから来た二世や三世の人も入っているわけですが、さきほど二極化の話をしましたが、どちらかと言うと左翼勢力なんですね。現状に対して不満を持っている人たちが、どちらかと言うとパレスチナ側を支持しているという感じがします。
金 廣志
フランスで起こったイスラムの大規模なテロ事件は、パレスチナと結びついているんですか?
ファビアン・カルパントラ
完全に結びついています。僕が高校生だった20年前より、今はイスラエルを支持する人たちが増えているという感じですが、パレスチナ闘争が正しいものだと思っている人たちもいます。
高橋順一
フランスの知識人たちはどう捉えているのか?
ファビアン・カルパントラ
今注目を集めている知識人の発言はあまり聞いていませ。パレスチナや中東の歴史を専門にする人の話を聞いたんですが、僕がびっくりしたのは、イスラエルの事を話す時は、精神的な傷を含めて同情しながら話をしているような感じでしたが、パレスチナの事を話す時は、ガザの人たちが3万人以上も殺されているにもかかわらず、精神的な傷の話はしない。量的な話しかしない。聞いている方は実感がわかない。
金 廣志
私たちが1960年代の映画などで知っているナイーブなフランス人と違うようですが。
ファビアン・カルパントラ
パレスチナについては、生きてきた時間とか空間があたかもないかのように語られているんです。イスラエルの話をすると、物語としては聞きやすいし感情移入しやすい。パレスチナ側の話だと量的な話になる。
金 廣志
どうもありがとうございます。
次にキム・ソンハさんに来ていただいています。キム・ソンハさんは、日本には徴兵制はありませんけれども、韓国には非常に厳しい徴兵制があります。徴兵を拒否すると罰を受ける。今は韓国だけではありません。ウクライナでもそうですね。ドラマでやっていましたけれど、国境を越えて逃げようとすると、逮捕されてそのまま前線に送られる。ウクライナでもそうなんだという現実があると思います。
キム・ソンハさんは徴兵を拒否して日本にいるわけですが、軍隊に行くというのはどういうことなのかということも含めてお話いただきたいと思います。
●韓国の徴兵制度と徴兵拒否者の動向
キム・ソンハさん(韓国人、韓国徴兵拒否者らの亡命立案者)
イスラエルとガザの話がありましたが、これから私がする話はたぶんイスラエルとはほとんど関係のない話ですが、特にイスラエルに関して私も少しだけ興味をもっていろいろ調べていたので、話してみたいと思います。
駐韓国イスラエル大使館のSNSなどをよく見ていまして、韓国とイスラエルは建国の年(1948年)が一緒なんですね。韓国の政府樹立は1948年の8月15日で、イスラエル建国は5月14日です。イスラエルの大使もそのことを強調していますし、韓国の中でも、中学生、高校生の時はイスラエルに対していい話がありまして、私の年頃の韓国人だと、アメリカでもパレスチナに対する認識が変わって来たということがあって、最近の20代はちょっと違うかもしれませんが、私の小中高校時代の学校ではよく、イスラエルはアラブ人と戦争をする時に海外にいた人たちが帰って来て、志願して軍隊に入って敵と戦って、そういう愛国精神を君たちは見習うべきなんだと。最近はそういう感じになっているか分かりませんが、確かにそういうことをずっと言われながら育ったというのが私の記憶です。
韓国の話をしますと、私は2005年から日本に住んでいまして、2007年くらいから毎年韓国軍で殴られた人を呼んで、殴られた体験を話してもらったりしていました。
2008年の10月に韓国国軍の日というのがあって、国軍の日に戦車で軍事パレードを街中で10年に1度やるんです。08年はパレード前日から地面に穴を掘ってそこで潜伏してパレード途中裸でパレードを止めたカン・イソクというつわ者がいて、自身のそういう活動をドキュメンタリーで撮っていた人を日本に呼んだ時に、東京では早稲田大学でやって、京都大学でも上映会をやりました。
学生時代にはそういう形で毎年シンポジウムなどをやってきました。
朝鮮半島で徴兵制度が最初に施行されるのは、太平洋戦争の末期です。その当時、抵抗した人たちがいて、「エホバの証人」の信者です。韓国の現在の政府の認識としては「エホバの証人」が日本軍の徴兵に抵抗したことが英雄的な行動と認識していて、ただ70年代に入ると、韓国で徴兵拒否して刑務所にいく人はほとんど「エホバの証人」なんですよ。つまり同じ人たちが、日本帝国から韓国への政府が変わったら、国民的英雄から犯罪者へと扱いが変わったということになります。
当初米軍は、北朝鮮より韓国の方が人口が倍くらいあるので、むしろ韓国が北朝鮮を攻めていくのではないかという心配があった。よく言われているのは米軍の支援物資をより多くもらうために徴兵制という名目で実施しているとアピールしたのがきっかけだといいます。
具体的な徴兵が実施されるのは朝鮮戦争があってからで、300万人くらい死者が出るような戦争だったので、そこから今のような体制になっていくわけですが、60年に入ってからも徴兵制は厳しくはなかったようです。例えば日本の徴兵制も、日中戦争に入る前は、8割くらいは徴兵に行かなくて、韓国もほとんどの人は実際に徴兵されていないんです。これが厳しくなってくるのは、林正煕(パク・チョンヒ)が1961年に軍事クーデターを起こし軍事政権になっていく過程で、経済的に発展するために言うことを聞くような国民にしたいというのと、北朝鮮との対立ということで、そこから徴兵制が厳しくなっていく。いろんな生活様式が変わっていって、現在の韓国の徴兵制は、林正煕(パク・チョンヒ)の時代に出来上がった考え方に基づいています。
林正煕(パク・チョンヒ)政権という存在の思想的背景には特徴がありまして、例えばみなさんマイナンバーカードをお持ちの方もいると思いますが、韓国では70年代から義務として付与されます。これは、当時大統領官邸に北朝鮮のゲリラ集団が攻撃しようとしたことがあって、大統領も驚いたようで、全国民に番号を付けた方が、スパイとかゲリラを防げる。
当時、韓国人はそれにあまり抵抗しようという発想がなかったです。
林正煕(パク・チョンヒ)はどこから持って来たかと言うと、彼自ら日本軍将校として服務していた満州国から持ってきたみたいです。かつて満州国でいろいろと試行されていた制度を、そのまま韓国に持ってきて適用する。「満州国と韓国の類似性」をテーマにした研究も多くあります。そういう意味では、日本軍との思想的ルーツを感じています。
その後、80年代、90年代にかけて韓国の民主化が進みます。民主化と徴兵制度の話になってくると、徴兵が緩和されると思いがちですが、以前韓国社会で問題となっていたのは、金持ちは徴兵されないということだったので、左派の政権が出来ると、逆に逃れようがないくらいに徴兵制を徹底する方向に進みます。軍事政権下の1980年の徴兵率は50%以下ですが、民主化した現在は98%です。
もう一つは、2000年に入って行くと、みなさんLINEを使っていると思いますが、韓国ではIT企業が発達してくる。住民の番号とスマホを位置情報やクレカの利用履歴などを合わせ、人工衛星を駆使して監視できるようになります。まずどこにいるか分かる。この技術はコロナの時に、感染者と接触した可能性がある人を見つけ、検査して感染していたら隔離する政策に活用されます。大規模動員もできるので徴兵軍人らが感染対策に駆り出されることもあり、特に徴兵中の医大生らが集中動員されます。
当時は日本はデジタル化が遅れていると、日本のメディアでもこの韓国の事例が取り上げられることが多かったが、その裏にあるのは徴兵制を可能にするためのシステムとして住民の番号がありました。因みに韓国では全員指10本の指紋登録も義務化されていて、この前韓国領事館に書類を取りに行ったら、在日韓国人の人がパスポートをもらう場面があって、領事館の人が手のひらを機械に当てるように勧める場面を見ましたが、日本では在日コリアンの指紋登録拒否の歴史があるので奇妙な感じがしました。
コロナ当時は韓国は文在寅(ムン・ジェイン)の左派政権でしたが、この対策を相当宣伝していて、軍事政権の遺産を積極活用してましたね。
今までの話は韓国の状況ですが、さきほど申し上げたとおり、徴兵制に関して、私自身は拒否をして、一般に言うと徴兵拒否者というのは拒否しますと言って裁判をやったり刑務所に入るとかそういう流れになりますが、私はすでに中学生の頃に海外移住を決意して逃げ切った人なので、あまり徴兵拒否者だとは言わないです。
だから、自分の話よりは、自分が知っている人が1人でも逃げ切れればいい、あるいは徴兵拒否している人の話をより広く多くの人に聴いてもらえればいいなと思って活動しました。
大学生の時いろいろやりすぎたら、単位が足りなくて、卒業が厳しいと言われて、先程のドキュメンタリー上映のため京都に行った時に「ほんやら堂」という喫茶店で黒人脱走兵の写真を見せられて、それ以来、それで論文を書けば単位が取れるので卒業できるということで、論文を書いたテーマが「ベ平連」でした。10数年前なので、まだ関係者らの中でもご存命の方が多くいろんな聞き取りをしていて、米軍脱走兵をスウェーデンに送った話など、あまり期待せずに調べはじめると、「これはすごい話だな、韓国でもこんなのができればいいな」と思いました。なんとか卒業して会社員になって、論文で書いたことは忘れつつ数年経った頃、たまたま韓国の新聞の記事にフランスに亡命を試みた人が亡命を認められたという記事があって、記事を書いた記者に連絡をして亡命した本人と連絡をとることができました。その人は徴兵拒否をしようとしたみたいですが、刑務所に入れられる人が一人増えるだけじゃあまり意味がないと思って、「こんな理不尽すぎて、暴力が蔓延している韓国の徴兵制の現実を訴えかければ、フランスみたいな国は自分を受け入れてくれるはずだ」と信じていたみたいです。私は彼に連絡をして、「フランスは遠いからその訴えが注目されにくいけど、東京だと韓国にあなたの声を響かせる距離だと思うので記者会見をやって、ついでに韓国のご家族とも東京で会ったほうが、パリにみんなが会いに行くよりはずっと安いはずです。如何ですか」という話をしました。当初は亡命した人物がいたと、歴史の記録だけ残せればいいかなと思っていたんですが、作家の雨宮処凛に話をしたら「せっかくだったらでかいところでやろう」ということで、外国特派員協会でやりました。2014年の出来事で、当時安保法制が話題だったのも重なって会見を開けることになったのです。雨宮さんも私も、この記者会見を取材してほしいといろんな人を呼んで盛り上げようとしましたが、この時は何故か韓国メディアは一社も来なかったんです。後にある記者に尋ねたら、「韓国軍に睨まれたら他の件で取材しづらくなる」という理由でデスクに止められたそうです。それでしかたなく自分たちでニュースサイトに市民記者の資格で刺激的なタイトルをつけて記事化することにしたら、結構な騒ぎになりました。それから1か月か2か月くらい経ってから韓国メディアで報道されるようになります。その時に私は、「大学を卒業するために払った学費が役に立つ時がきたか」と思い、学んだことを活用しようと思って、「ベ平連」のイントレピッドの時みたいに宣伝戦をやろうじゃないか、ということで、「SNSが必要だ」と言ったら、その後パリに亡命した彼は結構有名人になっていきます。
外国特派員協会のユーチューブ・チャンネルで彼の当時の記者会見が見れますが、彼はポケモンが好きでポケモンゲームで日本語を覚えたらしく、会見は日本語でやりました。
とにかくSNSを作ったら、1日400件くらい韓国人らから「この非国民を吊るせ!」など殺害予告が来るんです。特に怖かったのは、パリでテコンドーを教えている韓国人の先生がいて、「お前をパリで見つけ出して殺す」とかいうのがあって、「どうしたらテコンドーの攻撃から守れるか」というような話も当時笑い話でしてました。
何故それをやったかというと、私としてはベ平連が最初に脱走米兵らを亡命させると、次々に芋づる式に脱走兵らが現れたように、第二の亡命希望者が出てくるだろうと期待していたからです。数カ月後、期待通り結構連絡が来るようになって、私たちと一緒にやっていた仲間の中には、ソウルにいる人もいたので、その人が一人ずつ面談をして、すでに1人フランスで亡命を認められているので、彼がどういう書類を用意して、どういう手続きを経てやったのか、同じやり方で亡命量産化を試してみようと、具体的にはフランスにある難民支援組織にも声を掛け、協力を得て、出国させました。それで最初の3人は失敗したんですけれども、失敗の原因を調べる過程で、シェンゲン協定(ヨーロッパの国家間において国境検査なしで国境を越えることを許可する協定)に触れるミスがあったことに気が付き、4人目から難民が認められて、そこから連続して認められるようになったんですね。これでヨーロッパに亡命する時のやり方が分かったので、亡命で行く国も徐々に増やして行きました。聞く話では、一度ドイツの議員団がパリを訪れた時に彼にも会って、「ドイツも亡命先として選ぶように韓国の人たちに伝えてほしい」と頼まれたこともあったようです。結局韓国語の亡命マニュアルを作って、ハフィントン・ポストの韓国語版に投稿して全公開しました。この頃から韓国政府がやっと反応してきて、海外から帰国しない人たちの名前と国内の住所などの個人情報をインターネットに晒すようになりました。私には少し見覚えがある措置で、2004年まで韓国では「連帯保証人制度」というのがあって、徴兵を終えていない人が出国する際、3人以上の連帯保証人を立てる必要があって、帰国しない場合は連帯保証人らが処罰を受ける法律があった。結局憲法裁判で違憲ということになり、その法律は無くなったので今のような亡命が可能になったが、国内住所を晒すというのは、残された家族に対して右翼みたいな人たちからの襲撃もありうる、という警告の意味を含んでいるようで、かつての連帯保証人制度を思い出します。
また保守系メディアなどから申請に失敗した人のインタビュー記事なども出るようになりました。要するに私たちが作った亡命マニュアルをみて出国した人が、難民として認められなければずっと迷い子みたになってしまうこともあるということで、おそらくそういう事例も無くはない。ただし、マニュアルの中には難民認定をもらえなかった場合の対策をちゃんと書いてあります。
しかし、コロナになってから亡命は難しくなってしまいました。今のところコロナ直前までで二十数人、私達が直接見送った人たちは無事に現地で暮らしています。私自身もこの亡命をやってみようというやり方は「ベ平連」から学んだことであって、韓国では相当影響がありました。従来は刑務所に行くということが徴兵拒否だったのが、問い合わせの連絡とかが国内の支援団体にあって、「最近はあなたのせいで亡命の問い合わせがこない」と言われたこともありました。実際にその頃、韓国でもベ平連への関心が高まってジャテック関係者らが講演会を頼まれて訪韓したこともあります。
最近もちょっとした変化がありまして、7年前に私に相談してきた当時の法政大学1年生の人から連絡があって、去年の12月に日本国籍への帰化申請が通ったので助かったというお礼の連絡です。7年前にヨーロッパに亡命したいという話で、本人に会ったら、どうも日本に居たそうだったので、いま日本の労働力が足りないからビザとか永住資格のハードルが下がってきている状況なので、年齢も若い。ただ実例がそれまでなかったんですが、「あなたがパイオニアになってみますか」、と言ったらすぐに「やります」と言って、この7年間私が提案したプランで進めて、去年の12月にようやく日本人になったみたいです。彼の場合は劇的なのが、韓国政府が認めた海外滞在許可期限が去年の年末までだったので、もし日本国籍が下りるのが2週間遅れていたら、先程の個人情報晒しを含め、彼は韓国で指名手配になったはずでした。4年ほど前にも相談したいことがあると連絡がきて、「リクルートスーツを着て就活するのがしんどい」と弱音を吐いたので、「でも、それ着ないと軍服着ることになります」と言ったらまたやる気が出たらしい。
先日彼とともに、8年前に相談に来てカナダに留学した、もう一人の人が今はニューヨークで就職し、出張で東京に来ていたので4年ぶりに3人で会ったのですが、ニューヨークの人も今年米国市民権が下りて自由の身になるということで、まるで映画「ショーシャンクの空に」のエンディングシーンのような雰囲気で祝ってあげました。彼自身、かつてベ平連に助けを求めた4人らが乗っていた空母イントレピッドが、退役してマンハッタンに展示されているところにも行った、というので歴史を感じます。
こういう実例がまた一人出来たので、今まで亡命という道があったんですけれども、これからも韓国の徴兵は嫌だという人はこういう形で日本でも増えるだろうし、やり方によっては亡命にプラスして就職とか、日本だけでなくいろんな国に出ていくでしょう。特に東アジアでは今後人材の奪い合いというのが予想されているので、たぶん韓国も少子高齢化と人手不足を克服するためにも、今のような徴兵制度を変えずにはいられない時機が来るだろうという展望があります。
金 廣志
ありがとうございます。マイナンバーカードというのが徴兵制に即結びつくということ、左派政権になればなるほど一般の人も兵隊に行かされる。そういう厳しい現実がやってくるかもしれませんね。
最後に三宅千晶さんにお話を伺いたいと思います。三宅さんはお父さんが沖縄の方で、お母さんが広島の方で、そういうルーツを背負っています。最初はお医者さんになりたいと思っていたのが、いつの間にか法律家の道に行ってしまって、今は弁護士です。ドイツ、イタリアのNATO軍の米軍基地の調査に行かれて、その報告書なども書かれています。さきほど出た国際法の話なども絡めて、三宅さんに最後にお話しを伺えればと思います。
●日米地位協定にはたくさんの問題があるー改定は不可能ではない
三宅千晶さん(沖縄県那覇市生まれ 被爆三世 ドイツ・イタリアのNATO軍『米軍』基地調査報告書作成、弁護士)
ただいまご紹介いただきました弁護士の三宅千晶と申します。
実は父親が広島で、母親が沖縄です。もう少し私自身の話をさせていただくと、父方の祖母が広島で被爆をしていまして、ちょうど銀行に行っていて、電話に出るために、当時金庫のようなところの中に電話があって、電話を取ったら原爆が落ちて、手にはガラスが入ったままでしたが、電話を取ったおかげで生き延びたと聞いています。母方の祖母は宮古島の出身でして、宮古の方は当時台湾に疎開に行くことが多かったので、母方の祖母は家族で宮古に疎開に行って、そこで曾祖母を亡くして帰って来て、今でも曾祖母のお墓がどこにあるのか分からないということです。当時の宮古島は日本兵がたくさん入ってきていまして、祖父の話によると食料が全然無いということで、日本兵が宮古島の住民から食べ物をよこせということで、みんなお腹をすかせているのに、豚とか鳥とか全部日本兵に持っていかなくてはいけなくて、泣きながら食べ物を渡した。だけで日本兵の人たちからは、「てめえの島はてめえで守れ」ということを言われて、本当に辛い思いをしたという話を聞いています。
さらに戦後の沖縄は大変な状況で貧しかったので、台湾から祖母の家族が引き揚げて帰ってくるわけですが、生き延びていた祖母の曽祖父にあたる方は、戦後にハンセン病に罹って、祖母の方も差別されて、ハンセン病に罹っている人の娘を嫁に貰ってやったんだからということで辛い思いをして、大変だったという話を聞いています。
そういう風に戦争というのは、その時に人が亡くなるというのは当然なんですけれども、その後の生き延びた人たちの生活も大変な状況に陥らせるということで、絶対にあってはならないということは、私も小さい頃から家族の話を聞きながら思っていました。
私自身、1989年生まれなので、戦争からだいぶ経ってからなので、かつベルリンの壁が崩壊した後に生まれた人間なので、戦争を経験していないですけれども、そういう環境で育ったということもあって、小さい頃は父親も基地問題をやるために広島から沖縄に来たという人間だったので、家の中にはたくさんの戦争関連の本であるとか、戦争関連の映画のビデオがあって、私の記憶の中で一番初めに観た映画とうのは、ポーランドのアンジュ・ワイダ監督の「地下水道」という映画がありまして、それを観たらみんな死んでいくんですね。光を見つけて、地下水道からようやく逃げられると思ってそこに辿り着いたら、鉄条網に手りゅう弾がいっぱい付いて死に、それで1人地上に出られた人も撃たれて死ぬというのを、何と言うことなんだと思って、それで原爆の話も当時聞いていたものですから、5歳児の頃に核シェルターをクリスマス・プレゼントに頼んだという経験がありまして、すごく大きなビル型の核シェルターの絵を描いて、それをドラエモンのスモ―ライトで小さくすれば、地下深くに埋められるから、たくさん人が避難出来て、原爆が落ちても大丈夫、みんな生き延びれると思って、そういうクリスマス・プレゼントを頼んだんですけれども、当然ながら貰えずに、セーラームーンのゲームを貰って、それでもう、サンタクロースはいないんだなと気づいた経験があります。
前置きが長くなりましたが、私からは地位協定の話ということで、みなさんこちらにいらっしゃる多くの方はご存じだと思いますが、現在日本には日米安保条約に基づいて130ケ所、専用施設で言うと76ケ所です。共同使用、一時使用施設で言うと54の米軍基地が置かれています。更に、53,956人の米兵と、その相当数の軍属として家族が駐留しています。これらの人々について、日米安全保障条約の6条が施設及び区域の使用並びに日本国における合衆国軍隊の地位というのは、行政協定に代わる別個の協定により規律されると定めています。この別個の協定、施設区域であるとか、軍人軍属の地位について定める別個の協定というのが日米地位協定になります。
日米地位協定には、米軍の活動であるとか、人々に対してどういう扱いをするのかというのが定められています。なお、みなさんご存じの方が多いと思いますが、日米地位協定の前身となっている行政協定というは、安保条約発効直前の1952年2月に締結された日米間の協定です。これは駐留を継続する米軍の地位を定めたもの。だから占領軍としての米軍の特権をそのまま認めているようなものだったんですけれども、この1960年に締結された日米地位協定も、実質的に変わっていない。かつ、2024年の現在に至るまで、1度たりとも改定されたことがないんですね。政府は、当然ながらいろんな問題が生じるので、それに対してどういう風に対応するかというところを、当然ながら問題になるんですけれども、これまで繰り返し「地位協定の改定は考えていない。運用改善を試みる」ということで、対応してきているという実態があります。
この日米地位協定は、枚挙にいとまのないくらいのたくさんの問題があります。刑事裁判権の問題であるとか、何度も何度もニュースで言われているところですけれども、他にも民事事件に関しても、爆音訴訟であるとか、その他米軍が関係している民事訴訟、金銭的な賠償を求める訴訟というのもたくさん継続していますけれども、(米国関係者の)公務中の不法行為については、地位協定の18条の5項で、被害者に対する賠償は日本がまず行うことになってるんですね。これを一旦日本が賠償して、日本からアメリカに対して求償するという仕組みになっているんですけれども、負担割合というのはご存じですか?アメリカのみに責任がある場合でも、アメリカは75%。アメリカに責任があるのに日本は25%を負担しなくてはいけないということになっているんですね。両方の国に責任がある場合は、半分半分の賠償責任を負いましょうということになっているんですが、爆音訴訟で損害賠償金額の合計で言うと、訴訟費用別途704億円がこれまでかかっていて、704億円の損害賠償の金額を、これまで求償してアメリカがちゃんと払ってくれたことがあるかというと、1円も払っていないんです。結局、日本が負担して、負担したままになっているという状況があります。
去年、屋久島沖にオスプレイが墜落した事故がありました。オスプレイとか米軍機が墜落事故を起こした場合の対応というのも、ものすごく問題がありまして、これは地位協定上は施設区域外なので、米軍基地の外にあるところで何かしらの事故が起こった場合に、どういうことをしなければならないとなっているかと言うと、一応地位協定上は、米軍基地の外にあるところでの米軍による警察権の行使については、日本の当局と連絡して行う。米軍の秩序であるとか規律権の維持のために必要な範囲に限られますとなっているんですけれども、実際は17条10項の日米合同委員会の合意議事録というのがあって、例えば基地の外で起きた事故であったとしても、米軍の財産については米軍が同意しない限り、日本は捜索・差し押さえの権限はないということになっているんです。本当は、原則としては基地の外で起きた事故については、日本の方もきちんと捜索・差し押さえをして、飛行機の残骸とかをきちんと回収して調査が出来るはずなんですけれども、合意議事録があるので、飛行機が墜ちた破片とか残骸は米軍が全部回収していってしまう。だから、日本が原因が何なのかというのを自分たちで追及することができないような状況になってしまっているわけです。
さらに、この数年、PFAS(有機フッ素化合物)の漏出の問題があります。これも日米地位協定第3条1項で、基地の中で起きた環境事故などについては、米軍が排他的に管轄権を持っているということになっているんですね。立入権がないということまでは記載していないんですけれども、第3条1項が施設区域の米軍の排他的管轄権を認めてしまっているので、日本政府も自治体も米軍の許可がないと基地の中に入って調査することができないということになってるんです。ただ、その後の1973年の日米合同委員会合意では、「環境に関する協力について」という合意があり、そこでは「環境汚染事故が発生した場合には、日本側の立入調査が可能」となっているんですけれども、これまで自治体が調査を申し入れても、米軍は調査を原則として認めていないという状況があります。
さらに、こういった刑事裁判権の問題とか、民事の賠償の問題とか、環境事故があった場合の問題とか、飛行機事故があった場合の問題とか、本当にたくさんの問題があるんですけれども、日本の国の法律が米軍に適用されるかどうかというところについても、すごく大きな問題があるんです。日米地位協定の16条には、日本法令の尊重義務というのが課せられているんですけれども、順守しなさいというところまで課せられていない、かつ米軍が対象になっていないんですね。米軍が尊重して下さいというのではなくて、入って来た米軍人とか軍属の人たちは尊重しなくてはいけないとなっているんですけれども、米軍それ自体が尊重義務を負うということも書かれていない。かつ、さきほどもお話させていただいたように、米軍は施設区域内、基地の中では排他的な管轄権を持っているし、必要なすべての措置を取ることができるとなっているので、日本の法令が適用されないというところまで明確に書いていないんですけれども、日本政府は駐留外国軍である米軍には、日本国法令の適用はないと、自分たちで米軍には日本の法律は適用されませんよという公式見解を取ってしまっているわけです。
ただ、これは本当に誤りでして、国家は領域にある全ての人や物、活動に対して原則として排他的に規制する管轄権を有している。これは当然のことで、例えば日本に入国してきた外国の人たちが、自分の国の法律では車は道路の右側を通行しますということで右側を通行したりとか、自分の国では飛行機を飛ばす時には高さの規制はありませんということで、家の5メートル上空を飛んだりすることは許されない話なわけですよ。その国に入ったら、その国の法律に従わないといけないというのが基本的な原則であるわけですけれども、日本政府はアメリカ駐留米軍に対しては、日本法令の適用はないとというのが公式見解と言っています。
他方で、アメリカの米国連邦諮問委員会というのがあって、ここは国際安全保障に関する継続的な情報源を米国国務省に提供するために設置された機関なんですけれども、ここが2015年に作成している報告書の中では、ある国に滞在する外国人は、その国の法律の適用対象であるというのが原則的なルールと言っていて、つまり、米国の国務省に情報提供するために設置された機関の公式見解としては、その駐留軍については、その駐留している国の法律が適用されますと言っているわけです。だから、日本政府の見解と真逆な話をしている。さらに、アメリカではどういう扱いをしましょうということを、その諮問機関は報告書の中で言っているんですけれども、アメリカに駐留する受け入れ国の軍隊、アメリカにいる他の国の外国軍隊というは、完全にアメリカの法律の適用対象となると言っているんですね。にもかかわらず、日本政府は自ら自分たちの国の法律が、アメリカ(駐留米軍)には適用されないと言い切ってしまっている。すごくおかしな話なんですね。
このあたりがどこまでおかしいかというのは、他の国の状況というのを見ると、より一層明らかになるので、少しだけお話しますと、まずドイツは日米地位協定と同じように、駐留米軍とか軍人の地位の使用について定めた「ボン補足協定」というのが存在します。その53条には、当然ながら駐留軍の施設区域の使用に関しては、ドイツ法令を適用すると明記されています。日本の地位協定には明記されていないですけれども、この「ボン補足協定」には明記されているわけです。自分たちの国の法律が駐留軍、米軍にも適用されると明記されている。イタリアには「モデル実務取り決め」というのが存在するんですけれども、その17条にはイタリア法規であって特定分野について有効であるものを順守する義務、つまり日本は先ほどお話したように、尊重しましょうというのしかないんです。だけど、イタリアの「モデル実務取り決め」には順守しなさいという義務があるんです。尊重してくださいだけでなく、守りましょう、守らなければなりませんというのがイタリアの地位協定と同じような「モデル実務取り決め」に明記されているわけです。その他にも、NATO加盟国であるベルギー、イギリスも、例外的な事情が無い限り、駐留軍は受け入れ国の法令に従うという立場を取っていますし、オーストラリアも米豪地位協定の13条でイタリアと同じように順守義務を課しているわけです。
なので、ヨーロッパ、オーストラリアというところの地位協定と、日本の地位協定を比べた場合、日本だけが自分たちの国の法律が米軍に適用されると書いていないし、かつ日本政府は自分たちの国の法律を適用しませんと言い切ったというのは、すごくおかしな話なわけですね。
お隣の韓国は、日本と同じく尊重義務しか米軍に課せられていないんですけれども、政府の見解というのは日本とは違っていて、日本は先ほどから繰り返しになりますが、原則日本の法律は米軍には適用されませんと言い切っていますし、外務所のWebサイトにも書いているくらいですが、韓国の方では派遣国との合意に基づいて、例外的に自分たちの国の法律が適用されないことも許されますと書いているので、日本とは原則と例外が真逆いなっているわけです。韓国では、自分たちの国の法律が適用されないのは例外。日本はこれは国際法の原則ですと言ってしまっているので、ものすごくおかしな、自分たちから自分たちの国の法律を駐留米軍に適用されない立場をあえて取りにいっている、すごくおかしなことになっているわけです。
そのほかにも、環境事故が発生した時の立ち入りというのは、イタリアでもドイツでも認められていますし、飛行機事故が発生した場合でも、日本では先ほどお話した屋久島沖で事故が発生した時も、飛行機の残骸というのは全部米軍が持って行った。でもドイツでは2011年に事故が発生した時には、ドイツ軍が事故現場の安全を保持して、事故調査委員会に最初からドイツが加わっています。日本とは全く違う。イタリアでも1998年に事故が起きたことがあるんですけれども、イタリアの警察官がフライトレコーダーを押収して、自分たちで調査しているわけです。日本とは全然違う状態がありまして、イギリスでも2014年に米軍機が墜落事故を起こしたことがあるんですけれども、その時はイギリスの警察が捜査をしているんです。全然日本とは違います。韓国でも2023年の5月に米軍機の墜落事故が発生しているんですけれども、この時も韓国警察が現場に出入りしていた。日本で事故が起きた時は、みなさん記憶にある方が多くいらっしゃると思いますが、沖縄国際大学に米軍機が墜落した時は規制線が張られて、日本の関係者は誰も入れなかった。だけれども、隣の韓国は現場に出入り出来ていたという状況がある。
こういった地位協定の比較であるとか実態を見ると、日本の地位協定はいかにおかしな状態になっているのか明らかだと思うんですね。それでも日本はアメリカに比べると立場が下だから変えることができないんじゃないか、運用改善でいくしかないんじゃないかと、もしかしたら思われている方もいらっしゃるかと思うんですけれども、そんなことはなくて、変えることが不可能ということはまずなくて、何故ならばフィリピンでは実際に米軍を撤退させています。1947年に米比基地協定をフィリピンとアメリカは締結していますが、その時には、16の施設について99年間使用しますという期限を定めた、フィリピン側に不利な協定が結ばれたんですけれども、その後フィリピン政府は1959年、65年、79年と地位協定を改定しているわけです。1回目には、99年使用期限があったものを25年まで短縮しています。さらにその後も、フィリピン憲法が1987年に改定された時には、1991年に米国との基地協定が失効した後は、外国の軍事基地、軍隊、軍事施設は上院の同意と議員の求めに応じて行う国民投票の過半数をもって批准され、また相手国によって承認された条約の定めによらない限り、フィリピン国内においてこれを認めないという規定が定められました。その後、1992年に米軍はフィリピンから撤退を余儀なくされています。その後1998年に南沙諸島の状況を踏まえて「訪問米軍に関する地位協定」が締結されたんですけれども、2020年には、フィリピンのドゥテルテ大統領がこの破棄通告を行ったりしています。日本は何も言わないし、自ら不利な状況に自分たちを追いやっているのに対して、フィリピンの方は改正もしていれば、破棄するというところまで言えているわけです。
やはりこういう状況を見ると、地位協定の改定は不可能なことではないし、実際にやっているところもあって、それをあえて日本が不利な方向に持って行ったわけで、本当におかしな話です。
本当は沖縄の今の状況についてもお話ししたかったんですが、話が長くなってしまったので、後でお話させていただくことにして、私からの報告は以上です。
金 廣志
三宅さんの力強いお話をいただいてありがとうございます。4年前に2・11集会というのをやったんですけれども、その時にいただいた名簿を調べていたら、三宅さんのお父さんが参加されていましたね。三宅さんはそういうお父さんを持たれたんですか?影響はあるんですか?
三宅千晶
はい、ありますね。幼稚園の頃に人間の鎖に連れていかれました。何だろう、この手を握っているのはと思いました。
金 廣志
予定よりずいぶん長引いてしまっているんですけれども、5人の方の様々なお話を伺って、それをベースにして、この後、ディスカッションを行いたいと思います。
(第2部に続く)
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「あとはき」より
『ここに書かれた記録は、ごく日常的な私自身の身の回りで起こったことを率直に書き記したものです。その分、他の人が書けば全く違った関心角度から違った物語がこの時代のエピソードとして描かれることでしょう。私は獄に在って、何度か癌の手術を繰り返していました。生きて出られないことがあっても、支えてくれる旧友や、見ず知らずの方々にお礼を込めて、私の生き方、どんなふうに生きてきたのかを記録しておきたいと思ったのが、この記録の始まりです。私がどのように育ち、学生運動に関わり、パレスチナ解放闘争に参加しどう生きて来たのか、マスメデイアでステレオタイプに作り上げられた私ではなく、生身の私の思いや実情を説明しておきたくて当時を振り返りつつ記して来ました。獄中と言うのは、集中して文章を書くのに良いところで、ペンをとって自分と向き合うと過去を素直に見つめることが出来ます。楽しかった活動や誇りたいと思う良かった事も、間違いや恥かしい事や苦しかったことも、等しく価値ある人生であり私の財産だと教えられた気がします。(中略)どんなふうに戦い、どんな思いをもって力を尽くし、そして破れたのか、当時の何万という「世の中を良くしたい」と願った変革者の一人として、当時の何万と居た友人たちへの報告として読んでもらえたら嬉しいです。また当時を若い人にも知ってほしいし、この書がきっかけになって身近に実は居る祖父や祖母たちから「石のひとつやふたつ投げたんだよ」と語ってもらい、当時を聴きながら社会を知り変えるきっかけになれば、そんな嬉しいことはありません。
いまの日本は明らかに新しい戦争の道を進んでいます。いつの間にか日本は、核と戦争の最前線を担わされています。そんな日本を変えていきたいと思っています。決して戦争をしない、させない日本の未来をなお訴え続けねばと思っています。なぜなら日本政府が不戦と非戦の国是を貫くならば日本の憲法には戦争を押しとどめる力があるからです。はたちの時代の初心を忘れず日本を良い国にしたい。老若男女がこぞって反戦を訴え支える日本政府を実現したいと思います。』
【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。
●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在16校の投稿と資料を掲載しています。
【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は8月16日(金)に更新予定です。