野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2024年11月

今回のブログは、10月8日に大田区・萩中集会所(萩中公園内)で開催された「10・8山﨑博昭プロジェクト10周年集会」の報告である。
集会では福井紳一さん(予備学校講師/日本近現代史)による「戦後日本史における山﨑博昭プロジェクトとその10年」と、小林哲夫さん(教育ジャーナリスト)による「ウクライナ、パレスチナに連帯する若者からみた10・8ベトナム反戦運動」の2つの講演が行われ、最後に山本義隆さん(発起人:元東大全共闘代表、科学史家)が10・8山﨑博昭プロジェクトの10年を振り返って閉会挨拶を行った。
全体で2時間半近い集会だったので、かなり長い報告になったが、読んでいただきたい。1

佐々木幹郎さん(司会。発起人、詩人)
ただいまから、10・8山﨑博昭プロジェクトの10周年の集いを行います。
予定では、最初に山﨑建夫さん(当プロジェクト代表、山﨑博昭君実兄)からのご挨拶をいただく予定だったんですけれども、山﨑さんが体調不良で、今日こちらに着くことが出来ない、というメールが入りましたので、お許しください。
その代わりに水戸喜世子さん(十・八救援会、「子ども脱被ばく裁判の会」共同代表)から皆さんにメッセージが入っておりますので、それを読ませていただきます。
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『ご参加の皆様へ
10月8日はプロジェクト10周年になるのですね。改めて、その当日、4歳と5歳の子どもと一緒に、明け方まで寝ないで、父親(水戸巌さん)の帰りを待ち侘びた日のことを思い出しています。
ヘルメットもなく無防備な反戦青年委員会の隊列にも、機動隊は狂ったように襲いかかってきて、血を流して倒れていた人を病院に運んでいたから、と朝方血まみれの服装で帰ってきたのを思い出します。
博昭くんの死は、わが子の20年後と重なり、いつの間にか一体化しておりました。彼を忘れ粗末にすることは、わが子の未来を粗末にすることのように思えて、永遠に平和を願う人々の中に生き続けて欲しいと願っていたところに、皆さんのご苦労で墓石に彼の名を刻めた時には、本当に大きな安堵を感じました。
デモごっこの中で、バリケードを遊び場に育った息子たちは、反原発の先頭に立って闘う子に成長してくれました。今も息子たちと博昭くんは、私の中で同じように息づいています。
しかし、今年はなすべきことが重なり弁天橋に参りません。両膝関節の手術も成功し、昨年よりも元気にしておりますので、どうか他事ながらご安心ください。
良き1日となりますように。 水戸喜世子  2024年10月7日』
以上です。(拍手)

では最初に、福井紳一さんと小林哲夫さん、このお二人のお話をお聴きすることから始めたいと思います。
まず最初に、福井さんの方からお願いします。
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【戦後日本史における山﨑博昭プロジェクトとその10年】
福井紳一さん(予備学校講師/日本近現代史)
 福井紳一と申します。駿台予備学校で、40年以上、山本義隆先生と一緒に講師をしています。日本史の講師で、近現代の思想史を専門にしています。
 今日は短い時間ですけれども、「戦後日本史における山﨑博昭プロジェクトとその10年」というテーマで、この10年を振り返って見ていきたいと思います。お手元の資料に「年表」がございます。そして、パワーポイントでその「年表」の短縮版を映しますが、かなりの量がありますので、お持ち帰りいただき、何かの参考にしていただければと思っております。
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 1967年10月8日、山﨑博昭君がここ羽田の弁天橋で虐殺されたわけですけれども、(写真の)一番左にいる学生が、弁天橋で警察機動隊と対峙する山﨑博昭さんです。そして、この写真が生前最後の山﨑さんの姿を残すものとなってしまいました。
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 これは、2017年のベトナム戦争証跡博物館での山﨑博昭プロジェクトによる「日本の反戦闘争とその時代展」にも持って行ったものです。1967年にワシントンポストに「意見広告」として掲載された、「殺すな」と岡本太郎が大きな字で描いた、ベトナム反戦を訴える有名なポスターです。

 拙著『戦後史をよみなおす』(講談社)の「あとがき」にも書いたエピソードでもありますが、2001年の対米同時多発テロ、それに続くアフガニスタン戦争の頃の話です。テレビを観ていましたら、中学校や高校の教員たちが座談会みたいなものをやっておりました。その中で「最近の子どもはどうかしている。道徳心も欠ける」みたいな話がいつものように出てきます。そして、その際、教員たちは、「何で人を殺してはいけないんですか?」と子どもたちが質問をするようになった、と嘆いていました。僕はそれを観ていて、「何ておめでたい連中なんだ」と呆れました。
 もし僕が、学生や生徒や子どもたちから「何で人を殺してはいけないの?」と聞かれたら、「人を殺してはいけない」なんて誰も言っていないよ!と本当のことを答えます。
 そして、君たちは「人を殺してはいけない」なんて世界に生きていなんかいないだよ、と世界とこの国の真実を伝えます。その上で、残念ながら、我々はそんな世の中に生きているんだ、という現実をお互いに確認します。
 ひょっとしたら、その教員たちにとっての「人殺し」とは、路地裏で強盗に刺殺されたり、痴情関係のもつれで恋人に絞め殺されたり、そんな貧困なイメージしかないのかもしれません。
しかし、20世紀はどんな世紀だったか。少なく考える研究者でも1億人以上、多く考える研究者は2億人が、たった1回の生を「殺される」という形で終わった時代だった。それが20世紀だったわけで、人類史上初めての経験でした。
 じゃあ誰が殺したのか。その夥しい死は誰がもたらしたのか。マフィアでもヤクザでもありません。その殺戮のほとんど全てが、「正当性」の名の下に行われた、国家による「合法的殺人」でした。すなわち、戦争、処刑、暴動弾圧、民衆弾圧、などの形態をとって、国家による億単位の大量殺人が行われたのでした。それが20世紀だったわけです。
 だから学生や生徒や子どもたちには、残念ながら我々は「人を殺してはいけない世界」には生きていないという現実を伝えます。そして、人を殺すことが名誉とされるようになり、人を殺すことを強いられたりする時が、君たちにも近いうちに来る可能性がある、ということを正直に話します。
 やはりどんな理由を付けても、人を殺したことのある一生と、人を殺さないで終わる一生というのは、違ったものだと思います。
 ですから、もし「人を殺したくない」と思うのなら、もし「人に人を殺させたくない」と考えるなら、「そのような世界にどう近づけるのか、そのようにどう生きられるのか、共に苦闘していこう」としか言えないと思います。

 今、目の前には、イスラエルによるパレスチナに対する大量の虐殺があり、それを、かつての植民地帝国であった西側の先進国、及び、アジアでただ一つの植民地帝国であった日本が支えているわけです。日本国籍を持っている者であるならば、この国の最高で最終的な決定権は主権者である国民にあるのだから、この現実への責任が問われているのです。
 僕も戦後約10年で生まれましたが、まだ僕の子どもの頃、戦争の影は、街の片隅や人々の心の中などあちらこちらに残り、親しい人や周りの大人たちを見れば、そこには戦争で肉親を失った者が何人もいた。また、空襲で逃げ惑う女・子どもの体験も語り継がれていました。
 そういう状態であったので、あのベトナム戦争の時、報道で伝えられる米軍の空爆にさらされているベトナムの人たちの姿は、体験者のみならず、日本の子どもたちはそれなりの実感を持ち得た。爆撃機の視点ではない、空爆の下の民衆のイメージが、僕らの世代まではまだあったのかと思います。また、その実感と共感が、僕らの世代のベトナム反戦に向かう行動の基盤になったのではないか、そういうように思っています。

 常に戦争を続けてきた近代日本が、どういう国であったかということを考えてみますと、明治以降の日本なんですけれども、これは『日本資本主義発達史講座』に論文を掲載した経済学者を中心とする講座派と、雑誌『労農』の同人を中心とする労農派のどちらも、マルクス主義の側は、明治維新を割と肯定的に捉えてしまっているのです。明治維新については、講座派も労農派も不十分ながらそれなりの近代化の一つというような形で見ているところがあります。はっきり言って本当にそういうものなのかと疑問に思いますが。
 概観すれば、封建社会と近代社会の間に絶対主義の時代がある。マルクス主義の発展主義的な歴史観では、絶対王政を打倒するブルジョア市民革命を経て資本主義の時代になり、そして、その後、資本主義を打倒する社会主義革命を経て社会主義の時代になる。ある意味で「大きな物語」があったわけです。 
 そのような歴史観の中で、講座派は、明治維新はブルジョア市民革命ではない。そこで出来たものは天皇制絶対主義だ。それ故、まずブルジョア市民革命を起こして、その次に連動して社会主義革命を起こす。そういう二段階革命ということを考えていたわけです。
 一方、労農派の方は、明治維新は不十分ながらもブルジョア市民革命である。だから、すぐに社会主義革命を起こすべきだと考える。それ故、労農派の方は即座に社会主義革命を目指すので先進的にも見えるのですが、天皇制との直接的な対決は回避されます。
しかし、講座派では、まず絶対主義である天皇制打倒が掲げられる。そのため、講座派の方が先にコム・アカデミー事件(1936年6月、7月)で弾圧され、労農派はその後の人民戦線事件(1937年12月~翌年2月)で弾圧される。
 津田左右吉という学者がいます。彼は、右翼でも左翼でもない日本古代史の権威です。1940年に「『古事記』の天孫降臨のような神話は、神話であって歴史的事実ではない」という当たり前の事を言ったら弾圧され、「天皇陛下の権威を冒涜した」として出版法で起訴されました。情けないのは早稲田大学で、圧迫に屈して津田左右吉博士を大学から追放しました。「王様は裸だ」と言った子どもは最後には褒められたけれども、『古事記』の神話は神話だと本当のことを言った歴史学者は排除されたわけですね。
 その津田左右吉は、明治維新は薩長土肥の四藩による封建的反動という政権奪取のクーデターだ、という評価をしております。また、大阪大学の名誉教授で日本思想史学会の会長でもあった子安宣邦先生は、江戸幕府というのは古代以来の京都の天皇朝廷的権力体制を崩壊させた。そして天皇を非政治的な祭祀的儀式官として京都に閉じ込めた。しかし明治維新政府は、天皇をもう一度政治的中心に引きずり出し、近代国家を天皇制的国家システムに創り出した、と明治維新に対する見解を示しています。
たしかに江戸幕府は、1615年の禁中並公家諸法度に於いては、「天子諸芸能之事、第一御学問也」と明記して、天皇の存在を幕府の法で規定し、さらには天皇の行動を法によって規制し、天皇の政治への介入を排除しています。
 一方、1889年に制定された大日本帝国憲法では、第1条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とされ、第3条には「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあり、天皇は「現人神」として神格化されて、日本は「神国」と称されるようになります。すなわち、近代日本は、極めて宗教的な国家の様相を呈しているのです。

 では、ベトナム反戦闘争について考察する一助として、まず、近世以降の日本について概観していきましょう。僕らが中学生・高校生だったころは、江戸時代に日本が国交を持った国は、中国とオランダだと習いました。けれども、今はそうは教科書には書いてありません。国交があった国は朝鮮と琉球です。両国は「よしみを通じる国」という意味で「通信国」といわれました。一方、国交がなくて貿易だけの付き合いが、中国とオランダということになり、両国は「通商国」といわれました。
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 この「戦前の日本の侵略と東アジア」という図は、明治維新以降の日本のアジア侵略を図示した地図だと思って見ていただきたいんですけれども、近代の日本は、まず、江戸時代に国交を持った朝鮮と琉球に対して侵略の手を伸ばします。すなわち明治政府は、成立間もなく、朝鮮への進出と琉球の併合を図ったということです。まず1879年、明治政府は、琉球処分を断行して、1429年に成立した隣の国である琉球王国を滅亡させ、尚王朝を消滅させ、琉球・沖縄を内国植民地化していきます。
 1894年、日清戦争を引き起こした日本は、翌1895年、日清戦争の講和条約である下関条約により台湾を植民地化しました。台湾は日本初の植民地となり、以後50年の日本帝国主義による植民地支配下に置かれました。
 1897年、李王朝の朝鮮は、清の冊封体制から離脱し、大韓帝国(韓国)という国号を変えます。1904年、韓国・満州を巡る日露の帝国主義戦争である日露戦争が勃発します。日露戦争で日本は何を奪ったかというと、関東州といわれた旅順・大連の租借権、南満州鉄道など、ロシアが清から奪取した権益を奪い、南樺太を植民地にしていきます。そして、1910年、前年の安重根による伊藤博文の射殺を利用して韓国併合条約の締結を強いて、朝鮮を植民地化しました。
 「昭和」戦前期のアジア侵略がまず着目されますが、すでに1868年から1912年の明治天皇の治世において、明治天皇を「神」とあがめた明治政府によって、江戸時代に日本と国交を持つ隣国である、琉球と朝鮮の王朝、すなわち琉球の尚王朝と朝鮮の李王朝という2つの王朝が滅亡させられました。
そして、「大正」期に入り、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、日本はドイツに宣戦布告し、列強が後退した隙に中国に進出していきます。そして、1919年のドイツと連合国の講和条約であるベルサイユ条約に於いて、事実上の植民地である国際連盟委任統治領という形で、サイパン島など広範囲の旧ドイツ領南洋諸島を支配下に置き、日本は南太平洋に進出していきました。
 ワシントン会議によって形成された、第一次世界大戦後の東アジアと太平洋の国際秩序はワシントン体制とよばれます。第一次世界大戦後の日本は、協調外交を行いますが、協調外交とはワシントン体制との協調を意味しました。つまり、欧米帝国主義と協調しながら、中国での権益拡大を図るという帝国主義的な外交政策でした。しかし、1931年、日本帝国主義は、満州事変を起こし、翌1932年に満州国を捏造してワシントン体制を崩壊させます。そして、1937年には日中戦争を引き起こし全面戦争化させました。
 そして次はベトナムに進出していきます。1939年、独ソ不可侵条約を結んだナチス・ドイツはポーランドに侵攻して英仏と戦端を開き、第二次世界大戦を勃発させました。翌1940年にナチス・ドイツはパリを占領し、フランスにヴィシー政権という傀儡政権を作ります。そのヴィシー政権の了承を得て、1940年、日本は、ハノイを中心に北部仏印進駐を行い、1941年にサイゴンを中心に南部仏印進駐を断行して、現在のベトナム・ラオス・カンボジアにあたるフランス領インドシナに入り込んで行くということになります。
 しかし、南部仏印の進駐の報復として、アメリカは対日石油禁輸で臨みます。当時、日本は75%以上石油をアメリカ一国に依存していましたから、これで追い込むか暴発させようとしたか、その辺はいろいろと解釈がありますが、1941年、日本海軍は真珠湾を奇襲攻撃し、日本はアメリカと戦端を開いてアジア太平洋戦争に突入しました。
 南方戦線に派兵された将兵は大量に戦死しましたが、その4分の3、少なくとも3分の2は餓死・戦病死というような死に方をしました。また、南太平洋の島々は激戦地となり、米軍の攻撃の前に日本軍は全滅していきました。しかし、今のアメリカの映画もそうですし、日本の映画もそうですけど、日米の戦闘の中で、大量の南太平洋の島々の人たちが巻き込まれて死んでいるという事実が映像に描かれていない。このことは、現代の日米の映像作家たちには、南太平洋の島々の人たちの死が見えていない、見ようとしていないという実態を示しています。また、そのことには、日米の社会の現実が投影されています。
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 「戦後の日本とアメリカの東アジア政策」という図を見ながら、アジアで唯一の植民地帝国であった日本が戦後どうなっていくかを見ていきましょう。赤く書いてある部分が東側陣営で、黄色く書いてある部分が西側陣営の主要な地域です。
 日本はアメリカの東アジア政策の中で経済を発展させてきました。1945年7月の米英中の「ポツダム宣言」は、1943年の米英中の「カイロ宣言」を踏襲しています。「カイロ宣言」に於いて米英中は「朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ、軈(やが)テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス」と掲げ、戦争終了後に日本の植民地支配の下にあった朝鮮の独立を確約しています。一方、1945年2月の「ヤルタ協定」に於いて、アメリカ大統領ローズヴェルトの懇願により、ドイツ降伏後のソ連の対日参戦が決定されました。
 1945年8月、アメリカ大統領トルーマンは、戦後世界に於けるソ連に対するアメリカの優位のため、広島と長崎に原爆を投下し、降伏寸前の非戦闘員である日本の民衆を大量虐殺しました。そして、日本敗戦後、アメリカは朝鮮半島に上陸して朝鮮南部を占領したので、対抗したソ連は朝鮮北部を占領しました。本来、連合国軍により分割されるはずであったのは日本でありました。しかし、アメリカの原爆投下による米ソの力関係の変化により、解放と独立が約束された朝鮮が米ソによる分割支配を受けることになりました。
 1950年から1953年の朝鮮戦争により発生した軍需は、「特需」と胡麻化した表現で定着していきます。この「朝鮮特需」により、1951年には、日本の鉱工業生産額は戦前最高水準を突破し、日本経済を復興していきます。そして、1950~53年と続く「朝鮮特需」の好景気の後、1954年、一時的に景気は冷え込みますが、1955~57年には、朝鮮復興資材の輸出や大型設備投資などで「神武景気」とよばれる好景気を迎えます。そして、1955年には一人当たりのGNPは戦前最高水準を突破して、そして翌年統計が出ますから、翌1956年、経済企画庁の『経済白書』は「もはや戦後ではない」と謳います。また、1955年は、1973年の第一次石油危機、すなわち、第一次オイルショックまで続く、長期にわたる高度経済成長の起点となりました。すなわち、戦後の日本は、朝鮮戦争によって経済を復興させ、高度経済成長をスタートさせたことになります。
 1965年、北爆とよばれる、アメリカによる北ベトナムに対する空爆が始まりました。ベトナム戦争の始まりをどこと見るかは諸説ありますが、一般的には、1965年の北爆の開始から、1975年のサイゴン陥落までをベトナム戦争といいます。ベトナム戦争は、日本に広範な戦争需要をもたらし、「ベトナム特需」とよばれました。「ベトナム特需」は、1966~70年の「いざなぎ景気」といわれる5年弱の長期の好景気をもたらし、その渦中の1968年、日本は西独を抜いてアメリカに次ぐ資本主義世界第2位の経済大国になりました。
 すなわち、戦後の日本は、戦前の日本がかつて植民地支配をしていた朝鮮、占領していたベトナムに於ける、米軍の大量殺戮に全面的に協力することによって経済発展してきた。戦後の日本人は肥え太ってきた。それが我々の歴史的実感としてもあるし、事実でもあります。
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 戦後の日本の経済発展と「繁栄」を維持したものは何であったのでしょうか。それはアメリカの東アジア政策にあったのです。「戦後の日本とアメリカの東アジア政策」の図を見てみましょう。
 冷戦の中、1947年から1987年まで、台湾には、アメリカの支持する中国国民党政権によって戒厳令が敷かれていました。以前、植民地文化学会でともに会員だった僕と同じ1956年生まれの台北大学の教員と、学会のシンポジウムの際に話したとき、「自分が中学の時に3人の恩師が処刑された。教師たちは読書会をやっただけでした」と語ってくれました。
 そしてまた、アメリカは、あの民衆の中で民主主義の成熟した隣国の韓国には、1980年になっても、「光州事件」のような、軍による大量虐殺によって民主化運動を弾圧するような過酷な軍事政権を維持させていきました。
 ちょうど1980年、僕は新米の高校の教員でした。高校生たちと、わずかな情報ですけれども、入ってくる情報を提示しながら、今、光州で起きていることは一体何なのか、それは今の我々とどうかかわっているのか、話し合いました。そういうことを共に考えながら、僕らの関わったベトナム反戦運動のことも一緒に話して、そういう形で生徒たちと向き合いました。それが1980年の春のことです。
あの時、一番高校生の心にも届くいい記事を書いていたのは『週刊プレイボーイ』でした。あの頃の集英社の『週刊プレイボーイ』の編集部には、全共闘運動を闘った編集者や記者がフリーライターを含めてたくさん入っていたので、非常に分かりやすく「光州事件」のことを書いていました。高校生にコピーして配りました。
 そして沖縄です。1945年の日本敗戦後、日本本土は連合国の間接統治の下に置かれましたが、沖縄は全く異なり、米軍による直接統治の下に置かれました。1951年のサンフランシスコ平和条約により、日本は西側48カ国とのみ講和して戦争を終結させ、翌1952年4月28日、同条約の発効により、日本の本土の主権は回復して日本の占領は終結しました。しかし、沖縄はアメリカの施政権の下に置かれました。2013年、第二次安倍晋三内閣は、4月28日を「主権回復の日」と定め、同年4月28日に憲政記念館に於いて、天皇・皇后も出席する「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」を開催しました。その際、安倍晋三首相は、壇上で「天皇陛下万歳」を三唱したのです。沖縄の主権など回復されていませんでした。4月28日は、沖縄では「屈辱の日」です。沖縄は都合のいい時は「日本」であり、都合が悪い時は「日本」でなくなるのです。
 沖縄県の面積は、日本全体の約0.6%、ざっくり言って200分の1しかありません。その日本の約200分の1しか面積のない沖縄に、今は70.6%に下がっているようですが、新安保体制の下で長期間にわたり、約0.6%の沖縄に、在日米軍の基地の約75%を集中させてきました。
 すなわち、アメリカの東アジア戦略は、あの冷戦中、1987年まで台湾の国民党政権に戒厳令を敷かせ、1980年代まで民衆による民主主義の成熟した韓国に過酷な軍事政権を置かせ、そして、日本の約0.6%しかない沖縄に在日米軍の基地の約75%を集中させる。そういう中で、日本本土には凡庸な親米政権を作らせて高度経済成長をさせていく。
 戦後の日本の「繁栄」とは、このようなアメリカの東アジア戦略の中で作られた、台湾・韓国・沖縄の民衆の犠牲の上に成立した、「幸運」といえるでしょう。もし、朝鮮半島全体が「共産化」していたら、多分アメリカは、日本本土に凡庸な親米政権など作らせず、日本にも、戦後の韓国のような過酷な親米政権を作らせていたかもしれません。戦後の日本は、どうあがこうと、アメリカという「お釈迦様の手の上」にあったのでしょう。

 このような冷戦下のアジアで起きたベトナム戦争に際し、アメリカは日本・韓国・台湾という「西側陣営」によりベトナムを包囲しようとしました。

 僕らの子どもの頃は、テレビなどの映像でも、ベトナム戦争の惨状が、モザイクなしの映像や写真として、無残な死体も含めて眼前に突き付けられました。そういうものを見る中で、子どもたちまで、肌身でベトナム反戦ということを考えたのだろうと思います。そして、子どもたちさえも、この殺戮に自分の国が加担していることに気付いていました。そして、上の世代の反戦闘争も直視していました。
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 このベトナム反戦闘争について、高校『日本史』の教科書にどう書かれているのでしょうか。写真で示した山川出版社の『詳説 日本史』、これは6割、7割近くの高校で採用されている日本史の教科書ですけれども、2004年版では、ベトナム反戦闘争や全共闘運動について、
「革新政党を批判する学生を中心に組織された新左翼が、ベトナム戦争や大学のあり方などに異議をとなえる運動をくり広げた」と記述しています。
そこから20年経ちまして、同じ山川出版社の『詳説 日本史 探求』2024年版では、
「既成の革新政党を批判する学生を中心に新左翼が組織され、ベトナム戦争や大学のあり方などに異議をとなえる運動を繰り広げた」
とわずかに表現を変えました。
 この2004年版の「学生を中心に組織された新左翼が」と、2024年版の「学生を中心に新左翼が組織され」との表現の違いは、後者に於いては、「新左翼が」という主語を排除し、そのことにより主体を曖昧にして、新左翼だけが「ベトナム戦争や大学のあり方などに異議をとなえる運動を繰り広げた」わけではない、新左翼以外の諸勢力も「ベトナム戦争や大学のあり方などに異議をとなえる運動」を行ったという意味を持たせるために、教科書の表現を変えたんだろうと思います。
 しかし、歴史家として見るとすごくいいかげんな文章で、「新左翼が組織され」というのはおかしい。「新左翼の様々な党派が組織され」ということはあるかもしれないけれど、「右翼が組織され」とか「左翼が組織され」という表記について、歴史学の表記としては非常に拙い表現だと思います。さらに言うならば、日本に於いて、一大勢力として統一して「新左翼が組織され」た歴史的事実など何処にもないからです。
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 そして、今度はこれが新しい『詳説 日本史 探求』の教師用の指導書です。
「ベトナム戦争が長期化・泥沼化する中で日本でもベトナム反戦運動が高揚し、『不正の侵略戦争』のために在日米軍基地が利用され、日本政府がこの戦争を支持することに対して、批判的なムードが濃厚であった。組織的な反戦運動を担ったのは、社会党・総評を中心とする革新勢力及び『新左翼』系の学生運動であったが、それらの中にあって、ベ平連(『ベトナムに平和を!』市民連合)は、哲学者の鶴見俊輔らによって1965年4月に結成され、若い世代に人気のある作家小田実によって領導されて、大きな運動に発展していった。『ベトナムに平和を!』という最低限の共通了解以外にいかなる規約・会員制度も持たず、共に行動する者がすなわちメンバーであるという、柔軟な組織形態をとり、その後の日本の市民運動の原型となった」
と書かれています。この教師用の指導書を見ますと、『1968―若者たちの叛乱とその背景』を書いた小熊英二の影響がかなりある。要するに、ベ平連に対する高い評価と新左翼に対する批判。僕もベ平連は評価していいと思いますけれど、それとは別に、小熊英二的な、ベ平連は良かったけれど、全共闘は少し悪く、既成セクト党派はもっと悪い、というような、不等号があるように主張される。はっきり言って、若い世代の研究者の中にも、こんな歪んだ「認識」が、共通認識としてかなり出てきている。これは教師指導書ですけれども、やがて教科書の本文もこれに沿って少しずつ変わってくるだろうと考えられます。
 そういうような現状を見ながら、映像の「年表」を通して、皆さんと一緒に過ごした「10・8山﨑博昭プロジェクト」の10年について思い出していきたいと思います。
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 2014年に「10・8山﨑博昭プロジェクト」が発足しました。そして第1回の集会で山本義隆先生が「私の1960年代~樺美智子・山﨑博昭追悼~」という講演を行った。これは社会運動史的に見ても大きな影響があったんだろうと思います。非常に大切な講演だったと思っています。
 そして、2015年、第2回集会と第3回集会を春と秋に行うようになり、大阪でも秋に初めての集会を開催。そして山本先生を中心に12月に「60年代研究会」を発足しました。この研究会では、駿台予備校の日本史科の講師も含めて、1960年代の砂川闘争や1972年の相模原闘争やJATEC(反戦脱走米兵援助日本技術委員会)の闘争の当事者に聞き取り調査を行い、そして、あの時期の社会運動に関する年表などを作ったりしました。このことが、2017年のベトナム戦争証跡博物館に於ける「日本のベトナム戦争とその時代展」の展示に向かっての布石となり、大きな土台になったと思います。
 第3回の集会の時ですけれども、ちょっと内輪の話ですけれど、会場で山本先生に呼ばれて「佐々木と辻がベトナムに行って、展示会をやると約束してしまった。これは大変なことになる。俺は腹を括るからお前も手伝ってくれ」と声を掛けていただきまして、そして、このことが「60年代研究会」を作って資料を集めたり、聞き取りを行ったりして、展示の準備を行っていくということに繋がっていきます。

佐々木幹郎さん(司会)
その内輪の話というところを、後でちょっと補足させてください。
(注:福井さんの話の後、佐々木さんからこの件について補足がありました。)

*「佐々木幹郎氏の発言は、当方の発言への誤解に基づいているので、『付記』として文末に於いて説明します。」

福井紳一さん
 そしてまず、2017年に開催されたホーチミン市(旧サイゴン)にあるベトナム戦争証跡博物館での「日本のベトナム反戦闘争とその時代展」の前段として、2016年、「ベトナム反戦闘争とその時代展」を台東区の谷中で開きました。その際、そこで展示する大量のパネルを山本義隆先生が一人で作っていらっしゃったというびっくりするようなことがありました。山本義隆先生は、「カリスマ」のように扱われ、苦手なその役割も十二分に引き受けましたが、実は「縁の下の力持ち」であり続けたのでした。
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 2017年に山﨑博昭プロジェクトの大きな目的であるモニュメントが完成しました。そして、8月20日から11月15日まで、予定を延長しての長期間にわたる、ベトナムのホーチミン市にあるベトナム戦争証跡博物館における「日本のベトナム反戦闘争とその時代」展が開催されました。
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 ベトナムでは様々な出会いがありましたが、ベトナムの人から、沖縄のことを、ベトナムでは「悪魔の島」と呼んでいる、ということを初めて聞きました、それは、沖縄からは「自分たちを殺しに来る将兵が送られてくる」、沖縄の基地からは「B52が空爆のために飛んでくる」ということからでした。「日本のベトナム反戦闘争とその時代」展の入り口には、ヘルメットの隊列の写真が掲載されていました。ヘルメットには「牧青」と大きく書いてありました。これは沖縄の全軍労の「牧港青年部」のヘルメットでした。このことを説明すると、ベトナムの人たちは、「悪魔の島」である沖縄の米軍基地で働く労働者が、ベトナム反戦運動を担っていたことに「とても心を動かされた」と話してくれました。
この時の動画の映像が山﨑博昭プロジェクトのサイトに出ていますのでご覧ください。「日本のベトナム反戦闘争とその時代」展のイベントに於ける山本義隆先生の発言です。
「ベトナムはフランス帝国主義とアメリカ帝国主義に勝利した唯一の国であります。その意味において、私はベトナムの国を偉大だと思っております。ベトナムは日本を叩き出して、再びやってきたフランスを叩き出して、アメリカを叩き出したわけですね。そして、山﨑博昭君の犠牲という、尊い命を奪った、あの日の全学連の行動は、世界に日本の良心を示したものだと私は思っております」
 心に残るアピールでした。日越関係史上に残るものと思っています。
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 2017年、「10・8羽田闘争50周年」の日に、記念誌『かつて10・8羽田闘争があった/山﨑博昭追悼50周年記念(寄稿篇)』を刊行。そして、翌2018年の10月8日に『かつて10・8羽田闘争があった/山﨑博昭追悼50周年記念(記録資料篇)』が刊行されていきます。
 2019年、「第2ステージ」に向けての趣意書を発表。そういう中で、8月には「糟谷孝幸50周年プロジェクト」の立ち上げがあり、この動きには「山﨑博昭プロジェクト」の影響がありました。
 同年10月には、コロンビア大学の学園闘争のリーダーであったマーク・ラッド氏が来日し、関西集会では、「1960年代から70年代の米国学生運動活動家リーダー、マーク・ラッド氏が語る」というイベントが行われました。また、この年の京大11月祭の企画にも参加し、「京大生 山﨑博昭とベトナム反戦運動」の展示を行いました。
 2020年10月、渋谷で映画『きみが死んだあとで』の上映とトークの会を開催し、翌11月、関西でも同様の会を開きました。
 2021年、映画『きみが死んだあとで』が一般公開されました。秋の東京集会では、田尾陽一さん(「ふくしま再生の会」理事長、元物理研究者)の『東大闘争と福島原発事故?ベトナム反戦・全共闘から』と題する講演があり、東大闘争から福島の原発の関わりについて語られました。また、この時は「高校生と大学生が語る~いまやっていること、やりたいこと」というシンポジウムがあり、山﨑博昭プロジェクトは、高校生たちと大学生たちとの対話を始めました。
 2022年の東京集会では、短編映画『山﨑博昭プロジェクトの歩み』が上映され、山﨑博昭プロジェクトの軌跡を映像で振り返って観ることができました。
 2023年、関西集会は「今、沖縄を考える」をテーマに掲げて開催されました。山﨑博昭プロジェクトが沖縄の問題にどう取り組むのか、東京でもいろいろ議論をかさねながら、現在に至っております。
そして、今年、2024年に至ります。「10・8山﨑博昭プロジェクト」の10年とは何であったのか、どのような意義があったのかと考えた時に、まず、第一に上げられることは、山﨑博昭プロジェクトが掲げた目標が実現できたということです。
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 2017年6月17日、モニュメントの建立が実現し、羽田の弁天橋に近い福泉寺で建碑式が行われました。8月から11月、ベトナムのホーチミン市にある戦争証跡博物館で「日本のベトナム反戦闘争とその時代展」が開催されました。50周年の10月8日、『かつて10・8羽田闘争があった/山﨑博昭追悼50周年記念(寄稿篇)』が刊行され、翌2018年には「記録資料篇」が刊行されました。山﨑博昭追悼50周年の2017年に「三つの目標」が達成されたのです
 第二は、東大全共闘代表であった山本義隆氏の発言と活動です。2014年の第1回東京集会での「私の1960年代~樺美智子・山﨑博昭追悼~」の講演がありました、山本義隆氏が、このような形で社会的発言を半世紀ぶりに再開された。このことが、多くの同世代の人々、山本義隆氏の話を当時聞いた人々、あるいはここで初めて聞いた人々に訴えるものが大きかったんだろうと思われます。そして、山本義隆氏の発言と行動の再開に触発されて、一歩踏む出す者や行動を再開する者が多数生まれたことは事実でありました。これは歴史研究者の立場から客観的に考察しても同じ結論に至ります。
 山本義隆氏の『私の1960年代』が、第1回東京集会の講演をもとに加筆されて刊行されました。また、山本義隆氏の呼びかけで「60年代研究会」が発足し、「日本のベトナム反戦闘争とその時代展」のための記録、資料収集、模原補給廠闘争、砂川闘争、JATECなどの関係者への聞き取りが行われました。そして、その作業をもとに、ベトナム反戦闘争の年表を作成しました。このような山本義隆氏の行動が、1960年代・70年代を生きた人々を触発したことは間違いありません。
 第三は、ベトナム反戦闘争、70年安保闘争の渦中で斃れた活動家たちの顕彰と、それを通した交流の実現です。山﨑博昭プロジェクトの行動は、「糟谷孝幸50周年プロジェクト」の立ち上げの契機となりました。そして、2010年11月には、『語り継ぐ1969 糟谷孝幸その生と死』が社会評論社から刊行されています。また、体育会系の右翼集団に殺害された日大全共闘の中村克己さんの墓参を50年続けて来た、元日大全共闘の方たちとの交流も実現しました。また、その中村克己さんを追悼し続けてきた元日大全共闘のメンバーも山﨑プロジェクトの発起人に入っていただきました。このように、闘争の渦中で斃れた活動家たちの顕彰と、それを通した交流の実現に、山﨑博昭プロジェクトの10年の活動が寄与したことは大きな意義のあることでした。
 第四は、山﨑博昭プロジェクトの活動が、10・8に関わる様々な人々の多様な想いや反戦の意思の再生に大きく貢献したことです。『かつて10・8羽田闘争があった/山﨑博昭追悼50周年記念(寄稿篇)』の寄稿の中に、「反戦、反権力の思いは、隠れキリシタンのように胸にしまっておいたが、自分の生きている間に10・8のこと、反戦への意思を残したいと思っていた」という北村智子さんの言葉がありました。このように様々な個々の人々には、あの時代を生きた故の多様な想いがあり、回顧があり、後悔があり、語れない思いがあり、そこに醸成された現在にいたる反戦の意思があります。山﨑博昭プロジェクトの活動は、このような人々が表現する場を提示し、彼ら、彼女らが自ら行動の場を形成することに寄与したのではないだろうかと思います。
 第五は、若手研究者への影響と交流があります。1960年代・70年代の社会運動や政治闘争を研究する研究者が生まれてきています。そのような研究者との交流は、特に関西に於いて進展しています。1960年代・70年代の活動家たちは多くの言語と経験を持っています。そして、老いたとはいえ、現役の活動家たち、何らかの形で活動に関わり続けた人たち、活動を再開した人たちもいます。社会運動や政治闘争の研究に足を踏み入れたものは、単なる観察者に堕すなら、いずれ、その存在を問われます。その厳しさをもって交流が深化することを期待します。

 1960年代・70年代の行動を担った人々、関わった人々は、1回しかない生の、第3コーナーをかなり回りきっているところに来ている年代になりました。個人的に思い起こせば、いや歴史的に捉えなおしたとしても、あの時期、様々な場所で、様々な局面で豊穣な行動をなし得たことは事実だと思います。しかし、同時に大きな失敗を重ねたとも思っています。
 僕は、ある意味で「大きな物語」は終わったと思っています。しかし、豊穣であったはずの行動も、「大きな物語」の中での「目的」に向かってのどれだけの成果があったのか、どこに限界があったのかという観点から総括され、評価されていった側面がありました。そして、豊穣な行動を痩せた言語でしか意味づけられず、その痩せた言語に囚われ、次の行動が提起され、豊穣な行動の意味が見出せなくなってきた、そんな感覚があります。
 しかし、闘争の非日常の中で経験した共同体験、そして、そこで形成された共同性は、闘争に関わった多くの人のその後の生き方に生かされてきたはずです。また、社会や生活の一局面に於ける重要な判断を迫られた時に、その経験は決断の基軸になっていたはずです。
 そういった闘争の中での共同体験や、闘争の中で形成された共同性の記憶が、ある意味で社会変革の、あるいは社会革命の根っこだろうと感じております。そんなことをつらつら考えながら、まだ行動も続けていきたいと考えております。
ありがとうございました。(拍手)
「付記」(福井紳一)
①福井の講演に於ける「会場で山本先生に呼ばれて『佐々木と辻がベトナムに行って、展示会をやると約束してしまった。これは大変なことになる。俺は腹を括るからお前も手伝ってくれ』と声を掛けていただきまして」という部分に、佐々木幹郎氏から「ちょっと違うな。そういう形で歴史が歪められていく」との発言がありました。これは誤解、或いは曲解に基づく批判であります。
②さらに福井の講演終了後に佐々木幹郎氏は、「今ここで言わないと歴史が偽造されたものに終わりますので、何がどう違うのかということをご説明します」と「解説」を始めました。
③ベトナム戦争証跡博物館の展示に関し、佐々木幹郎氏は、「実は、向こうから提案されたんですね。こちらから提案したんじゃないんです」と発言しています。さらに、「福井さんの説明だと、最初からそういう手をこちら側がやって、その通りに動こうとして、それでずっと来たようになるんです」と続けています。
④しかし、福井は、「会場で山本先生に呼ばれて『佐々木と辻がベトナムに行って、展示会をやると約束してしまった。これは大変なことになる。俺は腹を括るからお前も手伝ってくれ』と声を掛けていただきまして」と知り得る事実を報告したまでです。山本義隆氏も、佐々木幹郎氏の側からベトナムの側に提案したとは言っていません。山本義隆氏の言辞をそのまま紹介した福井も、佐々木幹郎氏の側から提案したなどとは言っていないことは、録音や記録を確認すれば明確なことです。
⑤誤ったことを言っていない山本義隆氏の発言と、それを紹介した福井の講演での発言に対し、「今ここで言わないと歴史が偽造されたものに終わります」という佐々木幹郎氏の発言は、誤解に基づくものでなければ、山本義隆氏と福井への誹謗・中傷にあたります。
⑥歴史家に対して、「歴史を偽造した」と中傷することは、大変な侮辱となりますので、佐々木幹郎氏の発言への抗議の意味を込めて「付記」いたしました。

※「付記」に対する佐々木さんの「謝罪文」は記事の最後に掲載しています。

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佐々木幹郎さん
 先程述べましたように、福井さんの発言にわたしが体験したことを補足させてください。
 年譜のなかに、「8月18日 発起人の辻恵と佐々木幹郎がベトナム・ホーチミン市の戦争証跡博物館を訪問。日本におけるベトナム反戦の記録展示について模索」とありますが、そこに至るまでのプロセスを具体的に説明します。そのプロセスのなかに、「10・8山﨑博昭プロジェクト」の存在意義がある、と思うものですから。

 元々、ホーチミン市に戦争証跡博物館があるということをわたしたちは知りませんでした。わたしが「10・8山﨑博昭プロジェクト」が起ち上った時に、まず最初に考えたのは、かつてベトナム反戦運動という形で行動しながら、その中の人間が、その当時も、そして現在に至るまで、誰一人ベトナムに行っていない。しかも、戦争証跡博物館があるということも知らずに今まできた。とにかくベトナムに行こうと言い出したのは私なんですね。それで辻恵君(当プロジェクト事務局長、弁護士)を誘って、戦争証跡博物館に連絡を取って現地に向かいました。
 その時にやろうとした一番大事なことは、ベ平連の仕事と、それから日本共産党の反対運動、その2つだけがベトナムの戦争証跡博物館に展示されているということが分かったからです。それで、日本で同時期に三派全学連の動きがあって、第一次羽田闘争があって、その中で一人の死者が出た。この死者の遺影と第一次羽田闘争の資料を永久展示して欲しいと、そのことだけを申し入れに行ったのです。
 当時、フィン・ゴック・ヴァンという女性館長がおられたのですが、第一次羽田闘争や死者のことをまったく知らなかった。「そんなことがあったのですか」と驚かれた。わたしたちは、当時の写真や新聞資料を揃えて、要所を英語に翻訳したものも揃えて、説明しました。その時に、僕は高校時代に山﨑の同級生であったということも伝えたんですが、「高校時代の同級生が50年後に仲間を顕彰しようとしてここまで来てくれた。まずそれに感動しました。遺影を掲げる場所を作りましょう」と即座におっしゃった。それと同時に、ヴァン館長のアイディアで、「1954年から75年までのベトナム戦争中の日本の反戦運動の全貌を示す展示会を考えてくれないか」と。「できれば2017年の夏にそれをやれたら嬉しい」と。「その時に、山﨑博昭についての展示も、その中の一環としてやりましょう」と。「それ以降、遺影そのものの場所も確保するようにします」と。
 なぜ、2017年という年が設定されたかというと、この年が「ベトナム日本友好協会」の設立25周年にあたっていたからでした。わたしたちは戦争証跡博物館と連絡を取る前、ベトナム日本友好協会宛に、山﨑博昭のモニュメント建立に際して、コメントが欲しいと手紙を出していました。その返信として2015年に、「尊い犠牲を払った山﨑博昭氏に対して、心から賛辞を捧げます」という旨の英文の手紙をいただいていました。おそらくヴァン館長は、これを読んで、「ベトナム日本友好協会25周年記念」と、「日本のベトナム反戦闘争とその時代展」をドッキングさせようと考え、企画されたようです。
このように、ベトナムでの展示は、向こうから提案されたんですね。こちらから提案したんじゃないんです。これが「山﨑博昭プロジェクト」の存在意義とも言えるのではないでしょうか。
 わたしたちは、一つのことをまずやろうとした。その時に、実際にどうやれば次の動きに繋がるかというのは、いつもこの最初に起ち上げた動きに参加した人たちのアイディアをいただいて、それで次へ回転していく。それをやったらまた次の動きに繋がっていって、その参加者からのアイディアでどんどん転がり広がっていく。これこそが「10・8山﨑博昭プロジェクト」の基本的な動きなんです、現在までの10年間の。それが普通の組織と全然違うところだと思います。福井さんの説明にわたしから補足したいと思ったのは、そのことに尽きます。
 ヴァン館長が提案された「日本のベトナム反戦闘争とその時代展」の企画の件を、発起人会議で報告すると、山本義隆さんは最初は手を叩いて喜び、「よくやった」とおっしゃった。それからしばらく経って、「誰がやるんだ」と、「誰ができるんだ」と。「その展示会の展示物を集めるのは俺しかいないだろう」という形で、山本さんが資料のパネル貼りも一人でやった。「手伝います」と言っても「自分の方がパネル貼りがうまいから」ということでパネルの材料を自分で選んで。「60年代研究会」はその過程で生まれました。山本さんが呼びかけたからこそ集まってきた貴重な資料がたくさんありました。このようなプロセスは歴史のなかからは消えていくものですが、一つの企画が実現するまでのこのプロジェクト独特の動きを、実際に体験した者として補足しておきたかったことでした。以上です。(拍手)

佐々木幹郎さん
次に、小林哲夫さんです。

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【ウクライナ、パレスチナに連帯する若者からみた10・8ベトナム反戦運動】
小林哲夫さん(教育ジャーナリスト)
 みなさん、こんにちは。ジャーナリストの小林哲夫と申します。『ウクライナ、パレスチナに連帯する若者からみた10・8ベトナム反戦運動―「10・8山﨑博昭プロジェクト」発足から10年 学生たちは社会とどう向き合ってきたのか』というのが今回の私のお題になります。
 これは簡単に言いますと、2014年に「山﨑プロジェクト」が発足してから2024年まで、それぞれ年次ごとに、学生は何をしていたんだろうという話を、「山﨑プロジエクト」の集会等と照合しながら説明をしていきたいと考えています。
 2014年3月、「山﨑プロジェクト」が発足をします。この時、大学生というのは、2015年に安保関連法案の反対運動を翌年に控えて、学生たちが少しずつ動き出します。と言っても、極めて少数です。SASPL(サスプル)という「特定秘密保護法に反対する学生有志の会」が、正確に言うと2013年12月に結成されて、14年に国会前でさまざまな活動を起こします。15年に、SASPL(サスプル)から入れ替わった形で、「自由と民主主義のための学生緊急行動」SEALDs(シールズ)というのが結成されます。SEALDsの主要メンバーというのが、明治学院、上智、ICU、関学等比較的、かつての学生運動を担った東大、京大、早稲田というよりは、ミッション系の大学が多かった、それから女子学生がわりと多かったということが特徴として挙げられます。当時、他の学生はどうだったかと言うと、SEALDsとはちょっと違うと思っていた学生さんが「直接行動」というグループを作って、国会前でアクションを起こしております。他に民青の諸君であったり、新左翼党派の諸君であったり、こういった学生さんたち、と言ってもごくごく少数ですけれども、それなりに15年の8月9月というのは、学生さんが本当に何十年ぶりかに集会、デモに集まったということがあります。
 この時、「山﨑プロジェクト」では東京、関西で山﨑さんを語る集会が開かれておりまして、この時は私はそれほど積極的に関わっていなかったので、学生を「山﨑プロジェ」クトの集会に呼んだり、連れて来たり、個人的にはしていました。そこで登壇させるということはお願いはしていないんですけれども、「羽田闘争とは何か」ということを学生さんに理解してもらうために、学生さんを何人か連れて来たことはあります。
 2015年の安保関連法案の反対運動の時、彼らはどういう運動をやったらいいのか悩みます。SEALDsに対しては、いろんな考え方、意見や批判があるかと思いますけれども、SEALDsを一例として言うと、彼らの学生による運動のイメージというのは、僕らによく言っていたのは「60年安保」なんです。60年安保闘争の時に、国会前にあれだけ多くの学生、市民を集めた。それを15年の安保関連法案反対運動でやりたいというのが、彼らの思いでした。全共闘運動でもなく60年安保というのは何でなんだろうと思ったんですけれども、当時からSNSのユーチューブ等動画で観ることはできたと思うんですけれども、一つには、60年安保というのは日本史の教科書に写真で出ていますよね。それはかなり大きいと思います。参考書だと、結構詳しく60年安保の話が出ています。東大生の樺美智子さんが亡くなったということも詳しい教科書に出ていますし、60年安保闘争というのが、教科書として、歴史を学ぶ上で、彼らはインプットされている。したがって、運動するにあたって、たぶん60年安保の時に上空のヘリから撮った国会前に人がいっぱい集まっている写真、それを自分たちでやれないものかということを、彼らが会うたびに話していました。
 一方で、そんなことで安倍政権を打倒できるのかということ、それから安保関連法案が阻止できるのかということを考える学生も当然いました。その学生さんは「直接行動」というSEALDsとは違う、例えばハンストをやったり座り込みをやったりする学生さんがいました。彼らの中には、1960年代の羽田闘争、佐世保闘争、王子闘争を動画で知ることによって、もっと直接的に行動しなければならないんじゃないか。当時、香港、台湾で学生が政府に向けた直接行動をやっていたということにも影響を受けて、SEALDsは生ぬるいんじゃないか。かつて60年安保の時に国会に突入して占拠しようとした、ああいうこともやれないんじゃないかと考える学生さんも極めて少なかったけれど、いたことは確かです。ただ、どうやるのということと、それをどうやって伝えて誘ったらいいの、ということで、彼らは悩んでしまいます。結局、過激派という言い方もちょっと難しいんですけれども、そういう行動は出来なかったし、中には学生さんの逮捕者が出るほどの警察隊との衝突はありましたけれども、そういう運動にはならなかった。
 この時、SEALDsの学生も、そうでない学生も、15年安保の時の運動をしたいという学生は、SNS、ユーチューブ、これは非常に便利なもので、一生懸命彼らを見て学ぼうとしていたということがあります。それで山﨑プロジェクトの集会に行ってみたいという学生もいました。そういうようなことが、2014年、15年、16年くらいです。
 ちょっと話を戻しますと、さきほど福井先生が、教科書に60年代の安保闘争等の歴史がどう書かれているかについてお話があり、僕はすごく勉強になったんですけれども、今年の慶應義塾大学商学部の日本史の入試問題に、「全学連を11文字で正式名称で答えなさい」という、どういう人が出題したのか分からないんですけれども、そういう出題がありました。これは調べればすぐ出てきます。一つ思ったのは、これは完全に歴史、史実だなと。歴史を暗記するように「全日本学生自治会総連合」、確かに11文字です。これを暗記してしまうというような覚え方でいいのかな、というのをその時思いました。日本の近現代史の運動について、本当に自分のこととして、単に暗記的に覚えるではなくて、社会と向き合う上でそれはどういう意味を成したものなのかということをしっかり考えなければならない、ということを思いながら、その出題がいいかどうか疑問には思いますけれど、すごく考えさせられました。15年安保が終わってから、学生さんの動きが若干大人しくなります。というのは、大きなテーマが少し薄らでしまった。
 少し飛びますけれど、2018年に学生が高等教育無償化要求、奨学金拡充を求める運動というのが、少しずつ広がろうとしています。1960年代というと、4年制の大学進学率が10%前半くらいだったと記憶しています。一方、2010年代になると55%を超える時代になって、本当に様々な学生がキャンパスで学ぶようになりました。様々というのは、いろんな意味があります。学力的な様々であったり、経済的に様々であったり、本当にいろんな層が大学に来るようになった中で、「学費が耐えられない」というような意見が学生から起こるようになり、それに対して、文科省の一部の中にも、それから各大学の中にも、「授業料を何とかしないといけないよね」という話が出てきます。ちなみに青山学院大学の文系を調べたんですけれども、もちろん今と比較するのは難しいですが、1967年は184,800円が、1977年に50万円、1996年になると100万円を超して、2024年は141万円になりました。かなり今、学生さんは大変な思いをしながら大学に通っています。
 実は、今日何人か学生さんを呼んだんですが、今の学生さん大変真面目で、「授業をさぼるわけにはいかない」と。これはまた別の言い方があって、大学の授業が非常に厳しくなっている、出欠管理が厳しくなっているということもあって、「難しいよね」という話になって、1人も学生を呼べなくて情けないなという思いをしております。
 2019年、マーク・ラッドさん(元米コロンビア大学闘争リーダー)が「山﨑プロジェクト」の招きで来日して、山本義隆さんなどと鼎談をした年です。実は私は1週間ほど前に、アメリカのニューヨークに仕事で行ってきました。20何年ぶりかにコロンビア大学に行ってきました。パレスチナへの連帯の学生を応援するために、何かできないかと思ってコロンビア大学に行ってきました。今年の春、コロンビア大学では、逮捕者を出したり、学生さんが相当激しい運動を行っていました。それを応援したいと思ったのですが、コロンビア大学というのは、ニューヨークの地下鉄の駅を降りて、すぐ正門なんです。地下鉄を上がって大学に入ろうかなと思ったら、青いテントでニューヨーク市警の制服警官がたくさんいて、「えっつ!」と思ったのは、コロンビア大学に入るために、学生証のチェックを求められる。部外者は入れなかったです。私は「観光客だから入れてくれ」と何度も言ったんだけれど、「今はこういうご時世だから駄目だ」ということで、結局コロンビア大学に入れないという状況で、日本に戻ってきました。
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 話を戻します。マーク・ラッドさんが日本に来られた2019年はコロナの1年前になります。この時、世界的に気候温暖化を抑止する政策を求める運動が広がります。スウェーデンのグレタさんという少女が始めた運動が、世界中に広がります。これは金曜日に行動を起こすということで「Fridays For Future」というグループが出来上がります。すぐに日本にも伝わりました。「Fridays For Future」ジャパン、東京、京都ということで学生に広がっていきます。こちらもミッション系の大学が多かったのと、留学生の多い大学が多かったのと、それから帰国子女が入学する大学が多かったということで、国立大学よりも、どちらかと言うと上智大学とかICUとか青山学院とか、そういう学生さんが、気候変動対策を求める集会、デモに参加するようになります。
 2020年になると、「山﨑プロジェクト」では『きみが死んだあとで』の上映・トークの会を開きます。6月の集会はコロナで中止となっています。2020年のコロナの時の大学の状況というのは、ほぼオンライン授業になったことによって、キャンパスはガラーンとした状態になりました。これに対して、かなり多くの大学の学生が怒ります、「学費を返せ」と。
 「対面授業とオンライン授業は全然違うじゃないか。実習費はどうなんだ」ということで、大学側に授業料の一部返還を求める、そういった署名活動や運動が起こりますが、免除した大学がいくつかあったり、あるいは奨学金を出すという大学がいくつかあったんですけれども、それほど学生の要求に応えるというところまでは大学は出来ませんでした。
 2021年、10月の東京集会で「ベトナム反戦から、福島の今へ」、関西集会で「あらゆる戦争をなくすために」をテーマに開催。この年、名古屋入管でスリランカのウイシュマさんが亡くなったことによって、日本にいる外国人の管理、在留管理の問題が問われ、入管法改正に反対する学生が集会、デモを行います。このあたりから「山﨑プロジェクト」の集会に学生さんをできるだけ多く呼ぶようになって、できれば登壇をしてもらってということを、2021年、22年あたりからお手伝いしました。
2022年、コロナが明けて東京集会、関西集会が行われ、ロシアによるウクライナ侵攻で、大学の学長が学長声明でロシア批判をさかんにするんですよね。これは調べたんですが、ベトナム戦争の時は、アメリカを批判する学長声明というのは聞いたことがなかった。これは何なんだろうと思いながら、これは日本の政権、そしてアメリカとの繋がりなんだろうなと。学生グループの一部がロシア大使館に抗議するという、そんな動きがありました。
 2023年、関西集会では「今、沖縄を考える」というテーマで開催。東京集会では『怒りをうたえ』の上映があり、私が立教大学と明治学院大学、慶応義塾大学の学生さんに声を掛けて前で語ってもらいました。この時の話というのが、「山﨑プロジェクト」、それからベトナム反戦運動と今の戦争反対の運動とどう繋がるのかというトークでした。
 当時の明治学院大学と慶應義塾大学の学生さんの発言ですが、明治学院の学生さんは、当時19、20歳ですが、その立場から「自分は一番山﨑さんと年齢が近い人間だけれども、正直申し上げて、私はまだ生まれていなかったので、本当に歴史的事実という捉え方をしています」。さきほどの日本史の入試問題と割とリンクするような話になります。「僕は日本史で大学を受験したので日本史を勉強していたのですけれども、幕末の志士だとか、そういった中で、19歳とか20歳で亡くなった方を見ると、自分と似たような歳の人が、こんな活躍をして、こういう風に若くして亡くなった人がいるんだという感じを受け、ある意味で衝撃を受けたけれども、山﨑さんの話を初めて聞いた時にもそういう衝撃を受けた」。これはいろんな捉え方が出来ると思いますけれども、19歳の明治学院の学生さんが、『怒りをうたえ』、それから山﨑さんの映画も観てもらったと思います。彼からすると、幕末の志士の10代後半と、山﨑さんの18歳というが、やっぱり重なって見えてしまう。それは日本史の幕末の歴史と、60年代の日本史の歴史、福井さん、羽田闘争って教科書に出ていないよね。

福井紳一さん
出ていない。

小林哲夫さん
 僕は羽田闘争は是非教科書に載せるべきだと思っていますけれども、歴史を知る場合は教科書、教育の中でということになりますので、初めて羽田闘争、山﨑さんの存在を知ったということで、10代の若い学生が、大昔の話と50年前の話と、それが重なり合って見てしまったという捉え方を、何でそんな見方をするんだという言い方もできますけれども、それは学生の素直な見方なのかな、という風にも思いました。こうしたところは、今回の「ウクライナ、パレスチナに連帯する若者たちから見た10・8ベトナム反戦運動」、つまり、戦争反対を訴える高校生、大学生から見た10・8羽田闘争を見る、一つの捉え方なのかなという気がしてなりません。
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 もう一つ、慶応義塾大学の女子学生さんが、結構面白いことを言っていました。今の大学生が、政治的、社会的な発言をすると、それに対して、ネットでよく言われている「思想が強い」という言葉で、半ば揶揄されて言われてしまう傾向があります。
 「『思想が強い』背景には、やっぱり政治に何か意見するとなると、ヘルメットやゲバ棒などの力でとか、そういうイメージが漠然とある。ない人はいないと思っていて、実際に学生運動というのを知らない中高生が一定数いて、その人たちの中にもヘルメットのイメージ、力でというイメージがあって、それに対するタブー感とか敬遠する感じがある。なので、この運動の歴史というのを、より細分化して、分かりやすく子どもたちにも理解してもらって、デモという行為自体がそんなに危ないものじゃないんだということを広めたくって、運動の歴史的なものを、本当に野望なんですけれども、岩波ジュニア文庫あたりでまとめて、子どもたちに分かりやすく広めるみたいなことを、いずれはやってみたい」
要するに、羽田闘争等の運動を、岩波ジュニア文庫で分かりやすく解きほぐして、若い人に読んでもらいたいというのが、慶応の学生さんの考え方でした。
 まとめに入ります。僕が「山﨑プロジェクト」をお手伝いするようになって、少し関わるようになって、できる限り学生さんにこのプロジェクトのこと、山﨑さんのことを知って欲しいという思いが強くあり、それが学生さんにこういうことがあったんだよ、それはこれまで小中高、受験でもなかなか教わらなかったことだけど、これは学んでね。もし、今運動に取り組んでいるのであれば、こういう運動があったということについても是非知って欲しい。それが昔のように石や火炎瓶を投げるのかという話になると、また別になってしまいますけれど、何でそういうことになったのか。これも一度「山﨑プロジェクト」の議論の中であったんですけれども、大学生からの質問で、「誰に向かって何で石を投げたのか」ということに対して、石を投げた当事者が、今の学生にどう答えたらいいのか、それは国家権力という暴力装置に対するアクションである。いろんな学生さんに対する答え方があると思います。やはり今の学生さんあるいはこれからの学生さんが、こうした運動を見る時に、何故路上で、街頭でああいう激しい運動になったのかということを、彼らからするとやはり知りたんですよね。怖いんだけれど、すごく知りたくて知りたくてしょうがない。そこを少しでも何か、知りたいということと、伝えたいということが、うまくマッチングできる場が、機会がこれからもあればいいなと思いながら、「戦争反対を訴える若者から見た10・8ベトナム反戦運動」ということについて、これからもどういう風に伝えていったらいいか考えていきたいと思っています。
以上です。ありがとうございました。(拍手)

【質疑応答】
佐々木幹郎さん
どうもありがとうございました。今のお2人の報告に対して、質疑応答の時間を取りたいと思います。
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質問者A
 佐々木さんに対する質問になります。このプロジェクトが、何故そういう成果が出来たのか。佐々木さんから、何故、どういう風にプロジェクトを作ろうとして、その中でどのような問題にぶつかって、どのようにやって来たのか、ということを話してもらいたい。

佐々木幹郎さん
 このプロジェクトは1ケ月に1回、発起人会議をやっています。この前の会議で話題になったんですけれども、このプロジェクトを続けてきて、「このプロジェクトは何か」を一言で言えば、「存在している」ということがものすごく大きな意義を持っている、という発言がありました。そういうプロジェクトになったということを、まず確かめておきたいと思います。「ああ、そうだったんだな」と僕も思います。
 このプロジェクトが始まった時の最初のきっかけは、山﨑建夫さんからのお手紙でした。「もう少ししたら50周年になるんだけれども、何かそれを記念するようなことができないだろうか」と。もちろん建夫さんは、かつての三派全学連や、山﨑が属していた中核派、それから大手前高校の同級生や同期生、京大時代の友達とか、直接的な知り合いはありませんでした。ただ、わたしが山﨑の死後、彼を追悼する詩集『死者の鞭』を出して、建夫さんのところに送ったことがありました。そのことを記憶しておられて、僕にまずお手紙をくださったんです。「何かしていただくことはできないだろうか」と。「自分はそのことを誰に言われたかというと、水戸喜世子さんから、山﨑建夫さんから声を掛けて何かをするべきではないか、という風な手紙を貰って、自分もそう思うから、まず佐々木さんに連絡した」。そういう手紙を貰いました。
 わたし自身、山﨑とは高校2年生の時の同級生でしたし、山﨑博昭をデモに誘ったりしたのもわたしでしたので、即座に「何でもします」と答えて引き受けました。
 その時に考えたことで、一番面倒くさかったのは、対中核派対策でした。中核派が潰しにくるかもしれないということでした。中核派は山﨑博昭が死んだ後、そしてその後、羽田闘争の死者を追悼するとか、あるいは顕彰するとか、そういうことは一切していません。それを別の人間たちが中心になって動き出した時に、どのように対応してくるか。潰しに来た場合、これをいかに止めるか、ということをまず考えなくてはいけなかった。最終的には、山﨑建夫さんが代表ということで、何も起こらなかったので良かったのですが。
 それから、弁天橋の近くにモニュメント(追悼碑)を作りたいんだけれども、その土地をどうするのか。これを探すのに、3年ほどの長い時間がかかりました。プロジェクトに集まった人の中で不動産業をしておられる方がいて、熱心に土地探しをしてくださいました。地元の漁業組合のお祭りにも参加し、そしていろんな人と知り合いになって、候補地を10数ケ所探したんです。最後に、全部駄目だったらうちが引き受けるというお寺さんがあったんですが、それが元日大全共闘に関係していた住職さんがおられたお寺だったんですけれども、最後の頼みにしていたんですが、その住職さんが突然亡くなられて、息子の代になってから、そこの総代が大反対。「そんなややこしいものを建ててもらっては困る」という感じで、そのお寺が駄目になりました。
 それで一からまたお寺を回って、まったく奇跡的です、今の福泉寺に決まったのは。福泉寺のご住職、女性の方ですが、10・8の当日、逃げ込んできた学生たちを匿って下さったんですね。そういうことがあるので、特殊な墓のデザインだと駄目だけれど、今日皆さんが参加して下さったように、他の墓石と同じカタチならいい、と言われました。ただ、墓石名は山﨑博昭だけにしました。山﨑と高校時代の同級生の書道家に書いてもらった金文(きんぶん)書体の「山﨑博昭」の名前だけ。そしてその手前に墓誌として「反戦の碑」を造ることにしました。「そういうカタチだったらOKだ」と許可が出たのです。本当に最後の最後、奇跡としか言いようがなかったですね。涙が出るほど嬉しかったです。それが見つからない時は、最後は水戸喜世子さんが「私が弁天橋の近くに移り住む」とまでおっしゃって。「大阪の高槻のいま住んでいるマンションを売って、私が羽田の土地を買って、そこの前にモニュメントを造る」ということまでおっしゃって。そこまで水戸さんにご迷惑をかけることは出来ないと、発起人会の出席者全員で感謝を伝えるとともに思い止まっていただきました。

 動きそのものは、一つ一つの小さなアイディアやそれへの呼応の中から生まれます。わたしたちは何をすべきなのか、どういう風に山﨑博昭を顕彰するか、そして彼が死んだことを忘れない、そして今もあの時のまま全世界の戦争に反対する、この単純なことを言い続ける、そのことだけを続けるためにはどうしたらいいのか、本当にシンプルにシンプルに考え続けました。そのたびに、さきほども言いましたように、外側からアイディアが生まれてきて、それに呼応して動きが広がってきたのです。

 例えばベトナムの問題でも、現在のハノイを中心とするベトナムが、いかにサイゴン(現在のホーチミン)の人たちをイジメているか、そしてホーチミンの人たちは北ベトナムやハノイが大嫌いだと公言していました。戦争証跡博物館のヴァン館長もそうでした。実際に行かないと、そのことは見えてきません。そういう複雑な問題を捉えるために、中野亜里先生(大東文化大学教授)の過去から現在までのベトナムの現状報告会、講演会をやってもらう、ということもやりました。中野亜里先生の場合は、熱心に講演をやって下さったんですけれども、それが最後の講演になって、1ケ月後にお亡くなりになりました。たぶん彼女が一番現在のベトナムについて、公平な見方で考えてこられた唯一の人だと思います。
 早稲田大学のベトナム史学者として有名な教授に、まだホーチミンの戦争証跡博物館とうまくコンタクトが取れなかった時期なんですけれども、山本さん辻さんと3人で一緒にベトナムについていろいろとお話を伺いに行ったことがあります。えげつない人でしたね、「自分に一定の資金をくれたら、向こうに事務所を作って、全部コーディネートしてやる」と。その資金の額は目が飛び出るような額でした。そういう扱い方をされて、疲れて帰ってきたことがあります。この人にはもう頼めない。こういう人が日本の知識人としてベトナムについての権威者となっているようじゃ、もうどうしようもないという感じで。我々は一からやり直そうと思いました。つまり、われわれ自身で実際に行ってみることから始めようと。そのときはそういうふうに思い定めたことを覚えています。

質問者A
はい。この運動は山本さんが参加してくれてこそ、だったと思うんです。山本さんから話してもらいたい。

佐々木幹郎さん
山本さんには閉会の挨拶で話していただきましょう。
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質問者B
 福井さんの話を聴いていて、ちゃんとしたことを言う人がいるんだと感心して聴いていました。日本という国が明治維新以来、戦後に至るまでアジアに対して加害者であったということが基本だと思うんですけれども、東京で市民運動をやっている方々の話を聞いても、そのことをまるで分っていない人がたくさんいる。40代、50代、60代の高齢者です。
その人たちに、どう働きかけていったらいいのか、アイディアを伺いたい。
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福井紳一さん
 結構難しい話だという気がします。この30年くらいは、日本の近現代史は大学の受験でもかなりやっているんですけれども、僕らの世代だと、ほとんどやっていなかったんですね。
 社会の中枢にいるような人たち、同世代であったりするけれども、極めていろんなことを詳しく社会的に発言したりしている人もいるんだけれども、歴史観については、ぎょっとするくらい抜けているというのは事実ですね。そういう人たちは、ネットで見たり、本屋にある歴史修正主義みたいな本をパッパッと読んで喋ってしまうという、そういう傾向があって、ただ、現代においても、戦後の歴史に関しては、今の若い世代も似たような状態かな。
 そういう人たちには、丁寧に言うしかないですよね。基本的事実はどうなのか、相手はどう認識しているのかということを逆に聞いて、「それは歴史的事実とちょっと違うんじゃないですか」と丁寧に話していくしかないんじゃないかな。本当にそう思います。
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質問者C
 僕は学生です。今日は呼ばれてもいないのに、授業をサボッてきました。(拍手)質問というよりは、自分は19歳で山﨑さんが亡くなられた歳より一つ上くらいですけれども、自分は10・8闘争や当時の運動をどう見ているのか、という話です。
 小林さんの話の中で、明治学院大の学生の話がありましたが、山﨑さんが亡くなった、社会運動の中で人が亡くなるというのは、歴史的事実であって身近なものではないということを言っていますが、自分は違うことを思っています。
 昨日、10月7日のパレスチナ蜂起から1年ということで、イスラエル大使館前で抗議行動があって行ったんですけれども、だいぶ離れたところに抗議スペースがあって、大使館の前には直接抗議に行けないような状況でしたが、機動隊に盾で突き飛ばされて、そういう中で死ぬんじゃないか、死ぬまでにいかなくても大怪我を負わされるんじゃないかと感じることがありました。
 慶應義塾大学の学生の話の中で、社会運動が暴力と結びついてしまうのが良くないんじゃないかという話がされていると思うんですけれども、でも、僕は暴力というものを社会運動から消し去ってしまうのは良くないんじゃないかと思って、やっぱり国家というのは暴力を持っているわけじゃないですか。向こうはイスラエル大使館を守るために、怒りの声を上げる人たちを暴力によって離れた場所に持って行く。こちら側が暴力を完全に捨ててしまったら、国家が一方的に持っている暴力を好き放題にできるわけじゃないですか。その扱い方というのは慎重に考えていかなければいけないことだと思うけれど、暴力が社会運動の衰退を招いたと考えるんじゃなくて、国家とかの持っている暴力に対抗するために、私たちの側の暴力のあり方を考えることは必要なんじゃないかと思っています。(拍手)

佐々木幹郎さん
素晴らしい話だと思いました。50何年前の山﨑の話を聞いているみたいでした。山﨑も、貴方みたいに本当に大人しい穏やかな話し方をしていて、懐かしく聴きました。ありがとうございました。

(休憩)

新田克己さん(山﨑プロジェクト関西運営委員会)
10月26日の関西集会「今こそあらゆる戦争をなくすために」の案内がありました。
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佐々木幹郎さん
会場カンパは合計16,880円でした。書籍売り上げからのカンパが19,500円でした。どうもありがとうございました。

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【閉会挨拶】
山本義隆さん(発起人:元東大全共闘代表、科学史家)
 閉会の挨拶を予定していた辻君は、明日国会が解散するらしくて、とてもここに来られる状態ではないみたいで、代わりに挨拶させていただきます。山本です。
 資料を配りましたが、今までのチラシを全部集めて作りました。あれを見ていただいたら分かるように、この10年間にずいぶん多くの方に講演していただいているわけです。さっき佐々木君の方から、ベトナム研究者の中野亜里先生のことが語られましたけれども、それと関西で日本のかつての朝鮮侵略について講演していただいた中塚明先生(奈良女子大学名誉教授)、それからJATECの高橋武智さん、この方は立教大の先生をしておられたんだけれども、脱走米兵の逃走ルートを作るために大学を辞めて、ヨーロパに渡って、フランスの地下組織と連絡を取って脱走兵を日本から脱出させたという、そういう方です。そのお三方は亡くなられました。改めてご冥福を祈らせていただきます。
 10年長くやってきて、いろんなことがありました。先ほどの質問の件ですが、印象に残るのはたくさんありますけれど、さっきのベトナムでの展示は最も印象に残っています。その件について、佐々木君たちがベトナムに行って、元々はベトナムのホーチミン市の戦争証跡博物館に山﨑君のことについて常設展示をしてもらいたということをお願いしに行ったわけですが、日本にそんな闘争があったのか、知らなかった、それならいっそのこと展示会をしたらどうですか、と博物館の館長さんから言われて、それで僕はその報告を聞いて、「これはすごい」と思ったんですね。それで試みに一つパネルを作ったんですよ。一番初めに作ったのが、京大新聞が出した号外です。それでパネルを作って発起人会議に持ってきて、壁に置いておいて、佐々木君に「国内で展示会できんやろうかな」と言ったら、彼が「日本で先にやる? そんなこと思いもつかなかった」と言ったのを覚えています。僕はその時は出来ないと思っていたんですよ。何故かと言うと場所がないから。ギャラリー借りたら1日10万はかかります。1週間やったら100万近くかかります。「やったらおもしろいな」と思いながら「ギャラリ-がない」と言ったら、救援連絡センターの山中幸男さんが「あるよ」と言うので「えっ!」と思いました。救援連絡センターで時々使っている上野のギャラリ-があったので、オーナーさんのご厚意で、無料で使わせてもらいました。
 そこで1週間やって評判もよかったので、関西でも出来ないかという話になり、いろいろ検討して、京都精華大学で1週間展示会をやることができたのです。こちらはものすごく広い会場でした。これはやりがいがありましたけれど、京都の場合には、その間授業もあったから、1週間に2回ほど東京と往復しました。皆でよってたかって朝から晩までワーワーやる、それで気分が昔バリケードの中でやっていたことを思い出したんですよ。楽しかったです、はっきり言って。僕はその2つのギャラリ-での展示会は、元々はホーチミン市でやる展示会の準備くらいに思っていたんですけれども、やってみて、本当にバリケードの中で皆でよってたかってワーワー言いながら、まる1日かかって、あるいは何日もかかって作業をするという、その当時の気分を思い出して、何十年ぶりかでそういうことを経験し直して、あれは僕にとっては嬉しかったです。それでホーチミン市まで乗りこんで行くことが出来ました。
ホーチミン市には約280点の展示物を持って行きました。ただ、準備過程でこの企画に途中から通訳として参加して現地にいた大谷行雄君から「展示物のリストを送ってくれ」と言われて、準備過程のリストを送って、ホーチミン市人民委員会がそれで許可したわけです。それでそのリストの3倍くらいの展示物を持って行ったら、館長さんがいれば柔軟な対応をしてくれたと思うんですけれども、館長不在でナンバー2の役人が、その許可したものしか展示させないと言うわけです。だから、結局全部は展示できなかった。スペースの関係もあるんですけれども。山﨑君の写真はそのリストに入っていなかったけれども、さすがに最後は入れてくれました。展示会は好評で当初の予定よりかなり延長してくれました。戦争証跡博物館にはものすごい数の人が来ているんですよ。日々平均2,000人。それも西洋人が多いのが目立っていました。たぶんアメリカ人なんだろうな。年間70万人が来ると言うんですよ。そこで2ケ月半展示会をすることが出来て、本当に僕はやりがいがあったと思います。このプロジェクトをやっていて、本当に良かったと思います。それまで日本のベトナム反戦闘争は、日本共産党かベ平連のものくらいしか知られていなかったようで、館の人も認識を改めたと思います。
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 ついでに言っておきますと、さっき早稲田大学教授の話が出てきましたけれど、ベトナムのことについて何か役立つことが聞けるかと思って、事前に相談に行ったわけですよ。彼が何を言ったかというと「ベトナムの人は何もやってくれないぞ。最低1,500万用意しろ」と言ったのです。確かに官僚的でお役所仕事のところもありますけれど、博物館の人たちは私たちに対してものすごく親切にしてくれました。オープニングの時に大勢で行って、全員に昼食を出してくれるんですよ。その上さらに、かつてベトコンの容疑で南ベトナム政府サイゴン政権によって長期に投獄されていた人の談話会まで設定してくれました。予想もしていなかったことです。最大限の歓迎をしてくれたと思います。その早稲田の先生の話に戻ると、民主党の菅直人が3・11の直前までベトナムに原発を売り込んでいるんですが、僕がその過程を追っていたら、何とハノイのベトナム政府と菅直人を繋いだのが彼なんですよ。大学の先生が何をやっているんだか、あきれ果てました。
 僕自身は直接には辻君と佐々木君に誘われてこのプロジェクトに加わりましたが、実はそれ以前に水戸喜世子さんから、ぶ厚い手紙を貰っていたんです。水戸さん御夫妻は、10・8の直後に羽田救援会を作ったというので、僕はすぐ田無の御自宅まで伺ってお手伝いをしていたんです。そういう関係で、その前に水戸巌さんとは物理学会の米軍資金問題で親しくしていたし、尊敬していた人ですけれども、その水戸喜世子さんから、これこれこういう運動をするから是非一緒にやってくれんか、という手紙を貰っていたんです。その手紙を貰ってちょっとしてから、佐々木君と辻君から「やろう」と言われて、一緒にやることになりました。この10年、やってきて本当に良かったと僕は思っています。
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 それで、さっき佐々木君の話にありましたけれど、プロジェクトの基本軸は「戦争に反対する」ということだと思います。そういうことから見て、今の世界というのは、ものすごく危険な状態になっていると思っています。それはもちろん中東情勢もそうです。それから日本もそうなんですよ。南西諸島に自衛隊を派遣して、どんどん増強させて、米軍との共同軍事演習という形で挑発行為をやっているわけですよ。平和憲法を持つ日本は、本来は米国と中国の間に立って緊張緩和の外交努力をしなければならないのに、米国と一体となって緊張を高めているわけです。それで日本国内では、一部のマスメディアは排外的な言動をしている。
 1937年7月7日に、一発の銃声で、8年間にわたる日中戦争が始まっているわけです。始まりは本当にハプニングですよ。それが何であんな大ごとになったかというと、単純なことです。日本が中国大陸に大量の軍隊を派遣していて、演習という形でさかんに挑発行為をやっていて、満州事変からちょっと後で、満州事変の後、中国の中では抗日運動が激しくなっていたのです。それに対して、当時日本のマスメディアなどがすごく排外主義的な言動をしていた。そこで一発の銃声があったら、好戦的な軍が待ち構えていたこともあり、それだけであれだけの大ごとになるわけですよ。そういう風に考えたら、今南西諸島にあれだけ軍隊を派遣して、挑発行為をやって、一部のマスメディアは排外主義的な言動をしているということがあり、本当にアクシデントがあれば、ささいな事でも偶発事故から、何が起こるかわからんです。僕はそういう危機感を持っています。特に日本の国内情勢は危険なことになっています。
 それからもう一つ思ったのは、この間の自民党の総裁選で候補者9人全員が「憲法を改正する」と言っていることです。特にその中の一人、河野太郎が何を言っているかというと「原子力潜水艦を保有したい」と。総裁選に立候補するにあたっての公約ですよ。びっくりした。
 原子力潜水艦は何のためにあるかというと、長期間にわたって潜水して行けるから、敵から所在を突き止められないわけです。だから、あれは最高の核弾頭ミサイルの発射基地なんです。最大の利用価値はそれなんですよ、どこにいるのかわからない。その他の陸上のミサイル発射基地は全部わかっているわけですが、原潜だけは居場所がつかめない。極端なことを言うと、お互いに戦争になって潰し合いをしたら何が残るのかと言うと、原子力潜水艦の発射基地が残るわけです。それがアメリカの核戦略の革命だったわけです。原子力潜水艦が太平洋と大西洋をうろつき回っている。最後は原子力潜水艦を持っている国が勝つという、恐ろしいストーリ-なんですね。そのためのものが原子力潜水艦なんです。それを日本の閣僚で有力政治家が「持ちたい」なんて言ったら、牙を抜かれて政府の広報紙みたいになった日本のマスコミは何も言わないけれど、アジアの国の物事をわかっている政治家なり軍人がその話を聞いたら、「日本はそのうち核武装をする気なんだな」と当然考えます。そうでなければ、あんな高価な玩具を持つわけないですよ。僕は原子力潜水艦というのはそういう風に理解しています。たぶん間違っていないと思います。
 だから、そういう状態に今なっているんだ、すごく危険な状態にあるのだということです。我々「10・8山﨑博昭プロジェクト」を10年やってきて、毎月月命日に集まって、関西でも集会をやっています。さしあたって現在、それ以外のことは決まっていませんけれども、今後とも「戦争に反対する」というメッセージは発信していきたいと思っております。皆さん、今後ともよろしくお願いします。(拍手)

佐々木幹郎さん
どうもありがとうございました。今日の集会はこれで終わります。

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【謝罪文】
本年10月8日に行われた「10・8山﨑博昭プロジェクト10周年集会」に於いて、福井紳一氏の一部の発言に対して、わたしは「補足」するという意図であったにも関わらず「今ここで言わないと歴史が偽造されたものに終わります」とコメントをしました。しかし、「歴史の偽造」とは、歴史家に対しての誹謗中傷に等しく、許されるべきものではありません。福井氏の名誉を毀損したことになります。「歴史の偽造」という言葉を撤回し、福井氏に謝罪いたします。御迷惑をおかけしたことを深く詫びいたします。わたし自身の真意は、福井氏の発言への「補足」という表現で、当該発言を加筆・修正しています。そのことをお含みの上で、「10・8山﨑博昭プロジェクト10周年集会」のテキストをお読みいただけると幸いです。(佐々木幹郎)

(終)

【『新左翼・過激派全書』の紹介】
ー1968年以降から現在までー
好評につき重版決定!
有坂賢吾著 定価4,9500円(税込み)
作品社 2024年10月31日刊行

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(作品社サイトより)
かつて盛んであった学生運動と過激派セクト。
【内容】
中核派、革マル派、ブント、解放派、連合赤軍……って何?
かつて、盛んであった、学生運動と過激な運動。本書は、詳細にもろもろ党派ごとに紹介する書籍である。あるセクトがいつ結成され、どうして分裂し、その後、どう改称し・消滅していったのか。「運動」など全く経験したことがない1991年(平成)生まれの視点から収集された次世代への歴史と記憶(アーカイブ)である。
貴重な資料を駆使し解説する決定版
ココでしか見られない口絵+写真+資料、数百点以上収録
《本書の特徴》
・あくまでも平成生まれの、どの組織ともしがらみがない著者の立場からの記述。
・「総合的、俯瞰的」新左翼党派の基本的な情報を完全収録。
・また著者のこだわりとして、写真や図版を多く用い、機関紙誌についても題字や書影など視覚的な史料を豊富に掲載することにも重きを置いた。
・さらに主要な声明や規約などもなるべく収録し、資料集としての機能も持たせようと試みた。
・もちろん貴重なヘルメット、図版なども大々的に収録!

「模索舎」のリンクはこちらです。
https://mosakusha.com/?p=9289

【『パレスチナ解放闘争史』の紹介】
重信房子さんの新刊本です!好評につき三刷!
『パレスチナ解放闘争史』(作品社)2024年3月19日刊行
本体:3600円(税別)

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「模索舎」のリンクはこちらです。
  
なぜジェノサイドを止められないのか? 
因縁の歴史を丁寧にさかのぼり占領と抵抗の歴史を読み解く。
獄中で綴られた、圧政と抵抗のパレスチナ現代史。
ガザの決起と、全世界注視の中で続くジェノサイド。
【内容目次】
第一部 アラブの目覚め――パレスチナ解放闘争へ(1916年~1994年)
第二部 オスロ合意――ジェノサイドに抗して(1994年~2024年)

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在16校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は12月13日(金)に更新予定です。

このブログでは「1968-1969全国学園闘争の記録」をシリーズとして掲載してきた。また、No646では、ほとんど知られていない国立図書館短期大学の闘争の記録を「知られざる学園闘争」として掲載した。
今回はあまり知られていない青山デザイン専門学校の闘争記録を「知られざる学園闘争」の2回目として掲載することとした。
「あまり知られていない」というのは、青山デザイン専門学校(青デ)の闘争については、当時新聞で取り上げられていたことがあり、知っている人は知っているからである。
また、私の個人的関係としては、当時アルバイト先で青デの学生と一緒に働いていたことがあり、バリケード封鎖をしていることは知っていた。ただ、具体的にどのような闘争であったのかは知らない。
今回の記事は『構造』1971年4月号に掲載されたものである。青デの講師であった方が、各種学校の実態と講師の立場から見た青デ闘争について書いている。
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【『構造』1971年4月号 特集・教育】
労働力再生産工場のふきだまり
ー各種学校の実態と青山デザィン専門学校自主管理闘争
安藤紀男

1.各種学校の位置
●法的規程
各種学校とは何か。法的には次のように規定されている。日本の学校教育の基本を定めた教育法によると、その第一条に「この法律で学校とは、小学校・中学校・高等学校・高等専門学校・大学・盲学校・聾学校・養護学校および幼稚園とする」と記されてあり、各種学校は、まずこの範ちゅう外に置かれている。各種学校にふれる部分をさぐると、第八三条に「第一条に掲げるもの以外のもので、学校教育に類する教育(当該教育を行なうにつき、他の法律に特別規定があるものを除く)を行なうものは、これを各種学校とする」
すなわち、各種学校とは、第一条に掲げる学校以外の<学校>の総称である。第八三条の( )中に該当するものとしては、警察学校・防衛大学・気象大学・海上保安大学・海員学校・消防大学・その他労働者・地方自治体などの管轄にある職業訓練所・厚生省の児童福祉法に基づく保育所などがある。
学校教育に類する教育ーという文章からもみてとれるように、法律上からは正規の学校ではなく、類すると見なすことのできるもの、という非常に広範な意味を含んでいる。
ところで、各種学校の設置認可は、各都道府県の知事にその権限がある。
次に、各種学校に関する法的規制についてみてみると、1947年(昭22)の学校教育施行規則では、「学長を定めること/教員数2名以上/生徒数40名以上のもの」は各種学校として認可することができるといった、簡単なものであったが、その後1957年(昭和32)に、各種学校規程が制定され、一応の設置規準が生れた。
その大要を記す。
(中略)
この規準にみあうもので、届出により認可されたものが、いわゆる認可校であるが、一般的に各種学校とよばれるものには、認可を受けていないものも数多くある。それでは、無認可であることで法的に何らかの罰則を受けるかというと、そのようなことは一切ない。
大体、各種学校の基本的な考え方は、前にものべたように、教育法第一条以外の、教育に類するものをすべて含んでいるわけだし、その性格からみて、各種学校とは、その時代の要求に基づいて変化するものであり、むしろ自由な運営に任せるべき性質のものであるから、その規模や内容・対象などを法的に規制することは不可能である。
こうした観点から無認可であることで、法的に処罰されることはない。
これは一面、ずさんなもうけ主義の施設をはびこらせることにもなるが、反面、教育の自由が保障されていることでもある。
このようにみると、認可・無認可ということが、当該校にとっていささかの利益、不利益を生じるものではないのだが、認可制度が制定されたのは、①ある程度以上の規模において行なわれる組織的な教育が、国家・社会に対して有害な影響をおよぼすことのないよう規制すること②国家・社会の発展にとって有意義な教育であることを、公の権威をもって認定し、これを保護育成する(全国各種学校連合会編・各種学校総覧1969より)ということであるらしい。
ところで、認可校であることのお墨付は、結果的には実質的利益をもっている。
たとえば、東京デザイナー学院のパンフレットには、次のように誇らしげに書かれている。
ー東京には数多くのデザイン学校があり、立派な学校もある反面、昨今のデザインブームに便乘して有名学校に非常にまぎらわしい名称を付けた無認可の「モグリ学校」がたくさんありますが、無認可は法律的には学校として認められず、また学生としての取扱いも受けることができません。デザイン学校志望者は、自分の志ざす学校が法律で認可を得た正規の学校かどうか、十二分に注意確認して下さい。
この学校が、1966年に認可申請規準の10倍近い学生を入学させ、ジャーナリズムにとりあげられたことは有名である。
また、各種学校が政治教育を行なうことも教育基本法に違反するものではないが、前掲した資料によると。
ーしかしながら、その教育施設において、国家社会にとって有害な影響をおよぼす教育が行なわれているとき、それを禁止する途がないということでは、認可制の意味が失なわれることになる。法徘もこのことを考慮し、無認可施設に対する教育中止命令について規定を設
けている(法第八四条)。
(中略)

●各種学校の状況
1968年の資料では、企国の各種学校数7,925校、そのうち7,630校が私立である。(全体の96%に当る。)これは当然、届け出のあった認可校であると考えられるから、無許可のものを加えると実に膨大な数にのぼる。(中略)
しかも、その種類たるや!思いつくままに上げてみても、へヤーデザイン、制帽、メークアップ、ドレスデザイン、和裁、編物、料理、バーテンダー養成、マナー、絵画、染物、織物、 アクセサリー、陶芸、フラワー、インテリア、印刷、図案、映像、レタリング、似顔絵、写真、アナウンサー、俳優、タレント、話し方、歌謡、ギター、お茶、お花、お琴、三味線、謡曲、ダンス、バレヱ、珠算、習字、ペン字、人形、秘書、ガィド、語学、ホテル、観光、経理、タイプ、速記、製図、自動車、コンピユーター、テレビ、無線技術、マッサージ、お灸、占い、理容、製菓(芸者学校もあるデヨ)それに予備校、外国人学校等々と膨大である。これら広範な各種学校の統一機関としては、1958年に結成された<全国各種学校連合会会長迫水久常>がある。この各種学校連合会は、目下、各種学校制度の法的改制を目指している。
66年7月、67年6月と二度にわたり上程された「学校教育の一部を改制する法律案」の中の各種学校制度改正法案がそれである。
ねらいとするところは、①制度的な完備による設置規準のレベルアップ ②融資援助 ③各種学校卒業生に何らかの資格(技術認定や、第一条校と同等の資格取得)を与えること、などにあるとみられる。
この法案は、実際には、外国人学校制度の問題で国会が紛糾し、審議未了のまま廃案となってしまったが、当面この成立に力を注いでいる。
その改制案が意図するところは次のように考えられる。①は、各種学校が比較的簡単に設置することができ、乱立をまねいている。このことは企業としての過当競争=共倒れをまねく恐れがあり、企業体としては防衛を計ろうとするものである。②は、不安定な経営基盤からみて当然浮び上ってくる問題である。③は、法的関与をまねく。元来、各種学校は法的規制が少なく、自由な教育が保障されることで、第一条に規定されない独自の教育を行なう可能性を持つ点に、その特色があるが、このことは、その自由を狭めようとするものではないか!
私立の各種学校の収入は、政府・自治体からの援助がないので、そのほとんどを学生の授業料に頼っている。企業として成り立つ学校を考えれば、必然的に、学生数をできるだけ多くする、学校経費はできるだけ節減する、教職員などの人件費を少なくする、という具合になる。そして、このような条件下にある学生の自治活動は、その多くが前近代的な学生管理下に置かれているであろうことも当然予想される。
各種学校が企業としての性格を色濃く持っていることからくるこれらの事態は、様々にとりざたされる各種学校問題の根本に横たわるものである。
しかしながら、こうした経営の困難さを、政府の援助にたよるという法的改制は、各種学校の持つ独自性を著しく弱めるものでしかなく、設備に施設に膨大な資本を要するものは、元来各種学校で教育する性質のものではない。文部省、あるいは業界の肩がわり的教育はやめるべきで、時代の要求(業界の要求)があるからといってその流れにのり、儲けようと考えるから、そこに限界が生じ、インチキな、学生を食い物にする学校が生れてくるのである。
最近問題になった千代田コンピューター学院などはその例である。

●各種学校とは何か
各種学校の種類を整理してみると次の三つに分けられる。
①職業訓練的なもの②教獲的なもの ③①と②の両者の性格をかねているもの ④その他予備校・外国人学校など。(中略)
各種学校は、技術の取得が簡易なものか、あるいは施設設備のあまり必要とされないものとして、①に類するものか②の純粋教養的なものからはじまったが、時代の要求に応じて③に属するものが増加してきた。そこで主に、この③に類するものを中心に現在の各種学校をみてみよう。
各種学枝の入学者学歴は、高卒が約62%、中卒29%となっているが、中卒者のほとんどは家政に類するもの(料理、裁縫、編物など)の学生であり、他の学校は、大部分が高卒者である。したがって、各種学校は高校と実社会との中間に位置し、実社会へ向うための職業教育といった性格をはじめから持っている。
教育ママばかりでなく、学生達でさえ、この社会で出世するにはまず大学を出ることが、必要条件であることぐらいわかっている。正確にいえばわからされている。この悪しき学歴偏重主義の波にのりきれず、点取り競争をいささか不得意とする学生達にとって、このままでは夢も希望もなくなってしまう。(これを放置しておいて、全国浪人連盟など、大挙して結成されてはとんでもない社会問題になりかねないと考えたかどうか)この落ちこぼれた多数の人間に、企業家達が目をつけないわけはない。
そこで<実力主義>だの<就職100%><時代の先端>というキャッチフレーズのもとに夢を与え、大学への出世街道とは別な道を与えようということになる。(中略)
さて、各種学校がこのように広範な分野にわたっていることは、とりもなおさず、現在の社会がいかに細分化、専門化されているか、ということを裏書きするものであろう。しかしながら、この広範な分野が専門性をもつているとはいえ、これらの多くは、元来教養として考えられていたものである。特別に学校などに行かなくても、父母に教えられ、しつけられて、あるいは若者達が相互に工夫し学習し合ったりして学んだものであつた。かつて祖父母から父母へ、そして子供達にと伝えられた教養(たとえば、正月や祭り、生活に密着した行事のしきたりから、簡素な大工仕事、みそ汁の作り方からつけもののつけ方に至るまで)は、いまではひきつがれることもなく、若者は学校と名のつくところで生活とは切り離されて特別にそれを学び、またそれが職業として成立つという具合になってしまっている。いいかえれば、私達は完全な丸裸の消費者になっており、教養さえも金を出して買いそろえなければならない時代に生きているのだ。この驚くベき細分化、専門化は、文部省の教育制度改変のねらいと一体化している。エリートはあくまでエリートとして社会に貢献し(理工系の大学院大学構想)、大学以下の部分では、一般教養より専門的技術を、そして企業に役立つ人間を!という(後期中等教育の拡充)中級技術者を作りあげようとしている。(中略)
いままで幾分皮肉をこめて、各種学校の状況をのべてきたが、<教養としての学技>ということは、各種学校のいい意味での特色でもある。
小・中・高校がひたすら上級校を目指す受験校的役割を担い、一方で文部省の法的規制のもとにあるとき、このユスカレーター教育の中で忘れられた<人間らしさ>を回復することのできる可能性を、各種学校は持っている。それは当然、現在の教育制度への批判と反骨精神に裏うちされた教育者達によってのみ支えられるものであるが。

2.デザイン学校の状況
いままで、各種学校の全体的状況をのべてきたが、かくいう私は、実はデザインの各種学校の非常勤講師である。そこでここでは、主にデザイン系各種学校についてふれてみたい。
私がデザインの大学を受験したのは、ちょうど今から10年前のことである。当時、デザイン系大学は、都内では東京芸術大学、多摩美術大学、女子美術大学の3校。総合大学の中にデザイン科を併設していたものは、東京教育大学、日本大学の11校であり、私が受験した武蔵野美術学校は四年制の各種学校であった。これが大学になったのは翌年からのことである。その当時、各種学校として私が知っていたのは、桑沢デザイン研究所ただ一つであった。その時の状況から較べてみると、最近の各種学校の盛況ぶりに驚く。ちなみに広告の多いことで評判の美術手帖をみてみると、61年4月(私の入学した年)のデザイン美術系各種学校広告掲載数は、15校(数字は都内に関するもののみ、以下同じ)。70年3月の掲戰数はなんと66校である。このうち、美術系のもの、予備校、通信教育をのぞいて、デザイン学校だけをみてみると、61年4月、6校。70年3月、50校となり、およそ10倍の増加である。
デザイン学校のこのような盛況はどこから来ているのか、本誌の読者諸氏には、デザインの問題などあまり興味のないことかもしれないので、かいつまんでその要因をのべる。
ひとつには、とくに60年代前半、池田内閣の高度成長経済が<デザイン>の需要を増大させたこと。そうした中でデザインは情報社会の花形産業となり、スターと呼ばれる人達さえ生み出された。とくに広告の世界で働くスターの存在は、人々に作品が触れる機会も多く、若者にはカッコいい商売として映った。次に日本の経済が上昇気流にあっただけではなく、この時期にデザイナーの地位を内部から支えるものとなったのが、60年に東京で開かれた<世界デザイン会議>であった。いままで図案とか意匠とかいう言葉でしか捉えられなかったこの領域は、この時を境にして<デザイン>と呼ばれ、その理論的支えをもつことになった。
その内容を簡堆に要約すると、ーデザインは社会的な存在であり、美術とは異なり、常に創造の対象を持っている。それは消費者=大衆である。デザインは文化的に大衆を先導し、そのレベルを向上する役割を持っている。また作られた製品は、生活に密着し、生活を快適にし、喜びをもたらすものでなくてはならない。消費者と企業との橋渡しをする技術者がデザイナーである。そのために、企業に対しても十分に意見をもち、企業を説得することのできる、幅広い教養と理論を持たなければならないーということである。
この高尚な理論をもつデザインは、現実にはいち早く産業界の中にくみ入れられ、販売促進の飾り職人として機能させられてしまうのだが、理論はいまだ幻想として生きつづけている。このような幻想は、主としてデザイナーとしての エリートを育てる大学にその残骸が見てとれるが、エリートになれない各種学校ではもっと現実的に事態をみている。それは入学案内にはっきりと現われてくる。
ー近年におけるファッション画の市場はすばらしい勢いでひろがりその必要性は著しいものがあります。初級イラストレー夕ーでも月に3万~5万円、一流のイラストレーターになると10万円~30万円以上の月収があります。本校卒業生でバンタンアーティストクラブに所屈しているMさん(案内には本名で記載されている)は、在校中から初級イラストレーターとして3万~5万円の収入を得ていましたし、本校卒業生で現在バンタンデザイン研究所の講師であり、また日本テレビの「日産スター劇場」のタイトルイラストを始め、ポスター、カレンダーその他若者の間に圧倒的に人気のある新井エミさんは、現在月収10万~20万を得ています。その他製菓会社の女工のSさんはバンタンデザイン研究所の通信教育でファッション画を勉強し、仕事のかたわら、2万円~3万円の副収入を得、毎日たのしく働いていることが女性自身誌上で大きく紹介されました。一般的にもファッションデザイナーは、洋裁店、問屋、デパートなどで初任級が3・5万~7万円、2、3年つとめると5万円~15万円位になりますが、特に女性にとっては自分の技術を生かすことができるだけでなく、収入の面からも最高の職業であるといえましょう。スタイル画教室や洋裁のファッション画教師として働いているFさんは週に2、3回働くだけで普通の洋裁教師以上の給料を得ています。ー(バンタンデザイン研究所)
ー今日ほど、デザインの重要性が叫ばれ、デザイナーの地位が高く評価されている時代はありません。デザインが、経済と、技術と、造型との3つのファクターを総合調整し、現代社会をより美しく、より快いものとすることの意義が、つよく認識されてきたからです。デザイナーが、自由に、のびのびと自分の個性を発揮して仕事をし、高い収入が約束されているのも、そのためです。本学院は、美術の森上野に位置し、日本一すぐれた環境で、みなさんの美への眼を開き、時代をリードするすぐれたデザイナーを、責任をもって育てる学校です。無限にひろがるデザイナーへの需要にこたえ、みなさんの、輝かしい未来をひらいてください。ー(千代田デザイナー学院)
入学案内では、就職100%、社会ですぐ役立つデザイナー養成と実利を唱い、さらにそれはデザイナーの花やかな存在と、幻想としての理論に支えられている。
これらを生み出したデザイン幻想に対して、グラフィックデザイン界では、69年夏、日本宣伝美術協会(日宣美)粉砕闘争が起った。
さらにこの年、各種学校においてもいくつかの閊争があった。

●青山デザイン専門学校の闘争
私が青デの学生達と出逢ったのは、69年の2月だったと思う。デザイン系各種学校の中ではじめてバリケードストに入った、ということを閒いて、のこのこと渋谷へ出かけて行った。その日以降、69年の終りまで長いつき合いになった。私が2月から3月にかけてバリケードの中に入りこみ、彼らと語り合っていた当時、毎日夜になると、彼らは全体集会というのを開いた。それは、任務によって分担された各班長の報告ではじまり、全体の討論集会で終るというものである。
各班の報告で、食対は、栄養面、経済面から明日の献立について報告する。なかには、実態暴露隊なる班があって、これは理事者側の動向などを報告する役割をもつが、私が立会った日は「別に変化ナシ」という短い報告だけだった。また、ふとん班の報告は「明日は天気がよいと思われるので、各自ふとんを乾すこと。前夜みかけたことだが、かけぶとんを下に敷く人がいるので注意してください」というもので、なんとなく高校の生徒会の延長のような集会であった。
ところで、青デ闘争はどのようなかたちで始まったのか、<学生および市民の皆様にデザィン教育の実状を訴える>という当時のビラからひろってみる。

●現在までの経過
まずこの闘争を全学友の支持のもとに進めている私達が、自治会設立のための仮執行部と名のっていることから話したいと思います。
今まで青山デザィン専門学校には生徒会という学生組織がありましたが、そこでは、旧生徒会長が新生徒会長を指名し、指名された新生徒会長がすべての役員を指名し、これを決定するという、非民主的な方法によって構成されていました。
私達は、学校当局とこのような生徒会とから、二重に圧殺され続け、私達の声は一度として取り上げられたことはありませんでした。こうした中で、去年の7月以来、旧生徒会および学校当局に対し再三抗議を続けてきましたが、私達の抗議はまったく無視され、劣悪な環境の中での勉学を余儀なくされていました。
しかし私逹の正当な抗議は多くの学友の支持を得、去年の12月、旧生徒会長の自己批判により、会長は全学生によって直接選挙することとなり、現在の自治会仮執行部会長が、全生徒の代表として選出されました。そして前年度からの全学生の課題であった自治会設立をめざす仮執行部が1月20日発足し、学生の当然の権利を取りもどすために、次の3項目を要求しました。
①自治会設立と自治会費の要求(月額1人当り50円を300円にすること)
注=全学生は校費(生徒会費・展示会費・清掃費・暖房費)として月額1,000円を納入している。今まで学校当局は校費の内訳を一切発表しなかったが、私達との団交において、はじめて月50円であることをあきらかにした。
②教育設備の充実(図書室・談話室・放送設備・医療室の新設)
誇大広告によってたつ経営中心主義の学校当局は、学校案内のパンフレットに、実際にはないスタジオや設備などを掲載し、学生および受験生をだましています。小学生並みの小さな机、製図版を置けば人が通れない教室。朝・昼・夜の三部制授業によってさえ教室は足りず、満足な授業が行なえる状態ではありません。談話室もなく学生同志の交流も十分に行なえず、放送設備のない状態では学内のコミュニケーションさえできない状況です。教材の不足はいうまでもありません。
③授業内容の充実
バンフレットに名前だけがのっている講師、2、3回形式的にでてくるだけの講師が多すぎます。当然授業内容も散漫で、充実した授業は望むベくもありません。生徒数800名に対し12名という少ない専任講師。
これが私達の学ぶ学園の実状なのです。
その後4回にわたる団交を通じて学校当局の回答を待ったが、なんら具体的な案を示さないばかりか、団交の場で決議した事項を、次の日にはことごとく翻えし、学生をまったく無視してきています。
1月23日には、仮執行部がこの3項目要求の内容と、学校当局の回答日、会場、日時などを明記した立看板を全学生の前に掲示しましたが、学校当局は23日夜半、これを無断で撤去しました。この事件に対して仮執行部は、24日大衆団交を開き、理事長に謝罪文を求め、これを勝ちとりました。
現在学校当局は、問題の根本的原因をなんら解決しようとしないばかりか、全学生の代表である仮執行部と一般学生との分断策動に走っています。
このような中で、1月29日夜半、団交出席のすべての学友の決議により、学園の封鎮に踏み切り、私達の闘争に対する決意のあらわれとしてバリケードを築きました。学生および市民の皆様の熱烈な支援を訴えるものであります。 1969.2.7

バリケードは1月29日から36日間にわたって構築され、その間に学生の要求は3項目から具体化して16項目になった。結局、理事者がこの16項目の要求をのみ、3月6日、バリケードは解除される。この3項目要求から16項目要求へと変化する過程を、自治会委貝長の大西政司君は次のようにのべている。

我々は、全学バリケード封鎖占拠闘争を持続させる中で、学校当局より与えられた中で、改良するという我々自身の受動的意識を否定し、学校とは、教育とは、デザインはどうあるべきか、という問いかけを行ない、デザイナー、写真家志望者として、受動的賃金労働者見習いとしての意識を否定し、資本制社会に対する総体の批判へ前進してきた。資本制社会における企業生産、資本の論理に従順な人間性を圧殺するデザインーデザイン教育ー学校の否定ーこれらの闘いを築きあげるための社会的陣地としての学校へ、我々の変革に対応して学校の変革と、社会の変率を獲ち取ること。
3項目改良要求の前進、転換の結果として、16項目(経営と教育の分離、教育の、学生、教師の管理、経営教育に対する学生拒否権の確立等)の学生主体の自主管理形態の変革要求へと発展した。全学バリケード封鎖占拠の35日間にわたる闘いは、理事者側を動揺させ、金融惡化、銀行取引停止と追い込み、16項目要求は貫徹した。
 6月10日付青デ新閒より

この16項目の確認書は、次の5項目に代表される。
①今日までの経営体制を改め、理事者は経営などを担当し、教育に関する事項については、学生・講師が担当する。
②理事長は経理を公開し、その運営の適正を期し、公認会計士による監査を公表する。また学生2名・講師2名によって構成される会計監査を受けなければならない。会計監査は原則として年1度とする。
③教育に関するあらゆる事項は、教育審議会によって決定される。教育審議会は学生4名・講師2名によって構成される。
④三者協議会は、学生4名・講師2名と理事長によって構成される協議機関である。尚労使問題に限り、三者協議会は学生4名・教職員3名理事者1名によって構成される。
⑤ 学生は、学生に影響をおよぼす一切の経営、教育はどの事柄に関しても拒否できる。
その他には、紛争に関するあらゆる処分は行なわないこと、反動的教師の追放、自治会設立に関すること、設備などに関すること、などが上げられている。
このようにして青デは、今までとは一転した、学生による自主管理の学校に再生した。3月6日バリケード解除から、4月19日の学生の手による入学式、5月10日の授業開始までの間、学生達はその準備をほとんど相互討論の中で立案し、突現していった。このすさまじいエネルギーは、彼らがバリストまでして闘わねばならなかったものへの厳しい怒りを媒介せずには、生まれなかったであろう。
3月15五日に全学集会がもたれ、カリキュラム編成委員会が設けられた。委員会は、20時間の自主講座をもうけ、自主講座に出席した講師と個々に面接して、青デの講師になることを依頼した。この自主講座の講師は、☆竹中労、木村恒久、☆刀根康尚、☆平岡正明、☆谷川晃一、熱田利明、中村宏、☆石子順造、多木浩二、杉本晶純、武藤一羊、羽仁五郎、プラスタ・チハコバ、市川雅、☆上野昂志、☆片岡啓治、☆松田政男、針生一郎、☆岡部道男、☆相沢義包、☆渡辺武信、☆相倉久人、寺山修司、☆安藤紀男、(☆印は講師となった人逹)の面々であり、そしてこれらの講師がさらに講師を集めて、総勢52名が新たな青デの講師となった。
授業は、今までの実技主義・技能主義が否定され、現代文明論、情報論、表現論、哲学、社会学、などの講義がとり入れられ、講義に重点がおかれるカリキュラムが、学生と講師の手で編成された。前年度まで、午前・午後・夜の三部制、一週18八時間の授業は、昼・夜の二部制となり、昼間部は週26時間の授業を行なうことになった。また、毎週土曜日は徹夜ティーチ・インが企画された。学生は、全ての講義を自分で選択することができる。出席はとらない。試験は行なわない。卒業証書は発行しない。等々が学生と講師の間で決められた。
青デがこのように変ることができたのは、ひとつに理事者の力が弱かったからである。それは、他に手をつけた事業の不振から財政状態の悪化を抱え、4月に入る入学金、授業料目当てに妥結をしたといえる。一方、学生の方は、16項目の確認書によると、経営に関しては理事者一任の形をとっていたのだが、理事者のこうした意図を見抜いて、追求の手をゆるめなかった。

●学生による予算編成
年間予算基準委員会は、本年度収入総額より予算を作成した。16項目確認書によれば、本来予算などは経営者側が主体的にとりくまねばならないはずであるが、われわれ学生は、教育と経営の分離を行なったが、そのことが決定的矛盾として現われることを見ぬく中で、経営者よりも数歩も進んだ中で、学校予算編成に着手し、学生案を三者協議会に提示し、実質的に承認することになった。

このようにして、年間予算の割りふり、理事者・講師.・事務職員の給料まで学生の手で決められた。
この時期、まさに自主管理学校として、青デは存在した。この改革は全国の学園闘争の中でも、きわめて先駆的なものであった。しかし、このことは、経営権まで奪いとられた理事者が、経営を放棄し、最終的に廃校への道を歩むものであった。
早くも6月には、理事者は出校しなくなり、教職員の給料も7月に入るとまったく支払われなくなってしまった。この間、理事長はいち早く入学金・授業料を自からの負債支払いなどに当てていたのである。このことに対する学生の怒りは、彼らの骨の髄までしみこんでいった。講師は対理事者闘争のために、教職員組合を結成し、学生達と共に、数度にわたる団交要求を申し入れた。
しかし理事者は、経営を他者に肩がわりさせ、各種学校の既得権をなんとかして守ろうと、理事者の交替をその条件としてきた。この新しい理事者が、札つきの政治ゴロであったことなどから、学生は要求を拒否し、両者はまったく並行状態のままになった。
このような経済的危機の中で、自主管理を貫徹することは、理事者に対する、徹底的な戦いを貫徹することに他ならない、というのが自治会の考えであった。そのために、経営的実権を握っているとみられる、渡辺幸子(東京ドレメ、順天学園、順天デザィンなどの理事長)に対して抗議文を送り、団交の場に出席することを要諸し、彼女の経営する学校にデモをかけたりした。また、監督官庁である区や都へも実情を訴え、これまたデモまでかけた。
こうした闘争を主体的に担っている学生の意識と、一般学生の意識のズレ、それに私逹講師の中にある意識のズレが、7月30日、学生と講師の内ゲバ事件として表われた。私は現在、これから先を書くことに苦痛をおぼえている。つい今しがたまで、自分が青デの講師であったことで、この項を書けるだろうと思っていた。しかしながら、青デ闘争の資料を読み返し整理しているうちに、私もまた、この7月30日の時点で、大きく彼らとズレていたことを感じざるをえないからである。当時私は、7・30事件がなぜ起きたのか、十分に理解することができなかった。当日そこに居あわせなかったこともあって、翌日の講師会で報告を聞いていたところへ、学生達が現われた。「諸君はきのうのことをどう総括したのか。その総括なしに講師会など開けるわけがない」と、一人一人の講師に迫ったとき、私は、実技を教えることがいかに闘争と係り合っているのかわからないが、物を作る、ということの中で、抑圧され、画一化された既成の<技法>からなんとか解放されることを目的としているにもかかわらず、今だにその方法論は貧しく、貧しいまま教壇に立つという矛盾を犯していることを告白した。その時にあっても、それは矛盾はしているが、なんとか見つけだせるのではないか、という点に執着していたのであり、教師という役割からの発言だった。

●講師との対立
7・30全学集会において講師、学生が二分し内ゲバともいえぬ内ゲバが起ったが、すでに個人的感情のもつれとしては総括しえないより本質的な問題を含んでいた。それは青デの自主管理の理念つまり過去自治会、講師双方にあった左翼的幻想共同体意識では総括しきれなかった事実そのものである。われわれに問われているものは形骸化した自主管理形態の貫徹ではなく、学生、講師相互による批判自己批判の上に立った緊張空間の創出であったにもかかわらず、そのことを告発しきれなかったという総括に基づき、この事を青デ総体の問題として発展させるべく7.31講師会にのぞんだ。
その中で講師の青デ闘争への基本的姿勢(おもいあがった指導者的態度)を粉砕した。

<7・30総括>
7・30事件は、青デ闘争において、これまで隠蔽されつづけてきたある本質的矛盾を、はじめて明らかにし、徹底的に告発せしめたことにおいて画期的であったということを、我々講師会総括代表はここに痛苦をもって報告せねばならない。
7・30の告げた青デ闘争における本質的危機とは何か一青デにおける自主管理そのものの形骸化である。「(自治会、講師会双方の)左翼的幻想共同体意識では総括しきれなかった事実そのもの」と、8・1付で学生側は率直に指摘している。空洞化、形骸化はなぜ起ったか。自主管理闘争そのものに本来内在する本質的矛盾をみつめ、明らかにし、激化させつつ克服してゆく志向を結果的にネグレクトしつづけたことによってである。
7・30およびそれにつづく総括の数日間をめぐって、青デにおける自主管理闘争そのものの持つ矛盾は、まず、講師会内部の空洞化の徹底的な暴露告発に集紂化されて現われた。講師会内の空洞は、いまや自主管理闘争を積極的に闘いとろうとしている学生総体と相容れるところのないまで徹底的に押しすすめられてしまっている。だが、講師会内の空洞化の暴露告発は、自主管理闘争そのもののもつ矛盾を追求してやむことがなく、溝師会の危機は、自主管理そのもののもつ矛盾の激化、止揚によってでなければ真に克服されることはないだろう。
自主管理闘争そのもののはらむ矛盾ー常にはらむ形骸化への危機とは何であろうか。
1966?69年をきりひらいた全国百余の学園闘争のなかで、バリストに「勝利」し、自主カリキュラムによる学園の自主管理にまで突き進んだのは、おそらく青デが最初であった。だが、学園の自主管理とは、学園闘争の一形態ではあっても、学園の一形態ではあり得ない。学園の形態でなく闘争の一形態であるということは、絶えざる矛盾、絶えざる苛酷な否定にさらされることによってしか意味を持たないということである。自主管理形態内の自主カリキュラムやそれを担う我々講師たちもまた、本来、自らを否定的媒体として意識することによってのみ意味をもつ。
バリケードの中心部に向おうとすればするほど激化されざるを得ぬ矛盾、講師という客体的な役割を背負わされたことからくる主体的な矛盾は、もともと、この5月、青デ講師会発足の折、問われるべきだった。のみならず、本年3月、バリストが「勝利」し、物理的・空間的バリケードがとかれて闘争が自主カリキュラムによる自主管理という新しい決定的な局面に入った時、問われるべきものではなかったか。
だが、我々講師会は、自らの存在の矛盾をみきわめ、それを激化させつつ学生たちのすぐれた対立者=共闘者となるという志向を怠った。闘う学生たちの「先生」でしかない我々のうちにあったのは、いわゆる 「専門人」としての技術的な優位、あるいは先験的な「左翼性」の上に便乗をしたまま、あり得ベからざる「指導性」が、あたかも自分たちに属しているかのような擬制を自らに許してきたのであった。そして、7・30の事件およびそれにつづく総括の徹底が、我々の前に暴露し告発しつづけたのもほかならぬこのあり得ベからざる「前衛的」な擬制であったのだ。
我々は、我々をとらえている本来的な矛盾の極に不断に下降することによって、この状態を克服していくほかないと考える。

私は、当時この総括(平岡・青山・相沢の三氏が起草)の内容を十分に理解できなかった。私のノートに次のようなことが記されている。
ー青デ自治会はいまひとつのサークルの様相を呈している。闘争とは理事者との条件反射的なものだけではない。自主管理を貫徹するとは何か!それは、自主管理が、各種学校の新たな地平線をみせたということを把握することである。自主宵理という形体や、空間を保持することではない。もちろん場の保障なくしては一切が無であることは十分承知の上であるが、我々が前期の総括をするとき、まさに自主管理という形体の内で行なわれる授業空間そのものが、総体としての敵であるもの(資本)にとって、恐怖をもたらすものでなければならない。我々の闘争の主眼は、今まさに授業そのものだ。そのことから前期カリキュラムへの批判がなげかけられ、後期のカリキュラムが作られなければならない。この内容的な問いかけは、問いの重さの故にその具体化が困難であることはいうまでもない。しかし、まさに<学校>が存在する理由はこのことをおいて他にない。具体的には、2年間で青デを卒業する学生が何を持って社会に出てゆくのか。そこではっきり一人の労働者として、永続的に闘える人間となるために必要なものを持って卒業する人間であることだ!
ー青デの現状は、まさに物理的にも精神的にも荒廃状態にある。これは何によってもたらされたのか?なによりもまず第一に認識しなくてはならないのは、4月以後自主管理形態の中で、我々講師会がいかなる展望ももちえず(状況を先取りすることができず)状況につき動かされていたということである。このことは、我々自身が<現体制内における自主管埋とは何か>という命題を、はっきりと位置づけることができなかったことに大きな要囚がある。後期の授業を前にして、遅ればせながら総括した<自主管理は学問存在の一形態ではなく、闘争の一形態である>という位置づけが当初に欠けていたのである。第二に、自主管理が闘争の形態であることを確認するとき、現在のような、青デが荒廃している状況は特別な状態ではなく、いわば自主管理というもの(闘争)がもたらす必然的状態だといえるのだ。たとえば主に物理的な圧迫としてある財政的困難は、明らかに理事者の攻勢であり、彼らの戦術なのだ。理事者が兵糧攻めによって自然廃校をねらっているとしたら、我々はこれに屈しないということを見せつけることである。そして再度、我々が16項目の要求を獲得するときに持った情熱が何であったのか。16項目が全国学園闘争にさきがけて自主管理をもたらしたことを、どう評価し位置づけるのか。もし自治会の諸君がいうように、我々が4月5月の緊張した時点にもどる、とすれば、この二点を再度確認することが必要なのだ。そして後期の当初において、その展望として出された講師会総括の基本線を強力に押進めることのできなかったことを、まさに遅ればせながら徹底的に自己批判することから、今後のこの困難な状況をつきぬけなければならない。この決定的な出遅れは、青デ敗北の市一要因となるかもしれない大きなものだ。自治会執行部は9・18の時点で、講師会の展望とまさにピッタリした総括を行なったにもかかわらず、その後の低迷をこの展望の敗北として受けとめ、10・2の順天デザィン突入の方針を突然打ち出してきたのである。彼らのあまりにも緊迫した状態をもたらしたものは、この決定的出遅れなのだ。ー
私のノートにある<自主管理は学園存在の一形態ではなく、闘争の一形態である>という一節は、今思えば、講師会総括の中にある同じ文章と内容を異にしていた。私の考えていたものは、「自主管理というのは、管理が自主的であるという学園の形を意味するのではなく、その中で行なわれる授業そのものが、総体としての敵(資本主義)に対する闘争となるようなものであることによって、はじめて自主管理といえる」ということであり、講師会総括にあらわれている内容は、「自主管理とは、たとえ授業がどんな形をとるにせよ、そのようなものは幻想にすぎず、自主管理を弾圧しようとする者に対する闘いを貫徹することなのだ」と読みとることができる。この解釈の違いは、その後、10・8の行動の時点をむかえると決定的となる。

●理事側に対する闘い
自主管理を形骸化しようとする理事側に対する我々の闘いは、数度におよび大衆団交、都区への抗議、会計監査、カンパニァ集会(順天デザィン、順天女子高校前集会)、幸子自宅前集会、等々闘い抜いてきたが、現在の青デの情況を乗り越える行動は単なるカンパニア集会では絶対に変え得ないであろうと断言する。唯一、対理事者との関係を変え得る行動は、我々の実力をもって切り開く中での、敵対者が誰であるのかを明確化し、そのノドもとに鋭く突きささる闘争形態が、すでに我々に要求されている。そうした行動を抜きにした中でいかに自主管理貫徹を叫んでみても、授業、サークル、等々の空間をこの青デの中に創出してみても絶対にこの情況を打破することはおろか、体制のデザィン拒否(否定)の位置付けすらできないばかりか、青デの学生としての原点を見失うであろう。
注、ここでのべられている行動とは、順天学園突入封鎖のことである。

この10・8行動は、当日に至って、学生間に統一見解がみられず、集会は流会に終った。しかしその直後、一部の学生グループは、雨天をついて行動を決行した(実際には封鎖突入には至らず、抗議集会に終った)。このことが決定的に学生達を二分してしまい、この日を境に、学内には行動を決行したグループ(20名位)だけが残った。私はその後2、3回学校へ足を運んだが、12月に入る頃には青デから遠ざかってしまった。
今までのノートにみられたように、私の考えていたことは、ひとつの幻想だったといえる。しかも私は青デの中で、この幻想を長い時間かけて具体化しようと考えていた。それは、私が講師という身分でこの学校にかかわる以上、いかなる授業を行なうのかが、私達講師に課せられた責務だと考えていたことによる。闘争の主体はあくまで学生であり、私がどんなに彼らに接近しようとしても、週数回しか接することができず、もう一方にある食うということの重みがある以上、彼らとまったく同じように、この闘争にかかわることはできない。所詮、支援するものでしかありえないという具合に、役割としての自分を置いていた。私は、講師会総括の文中に、批判されるべきものとしてある、講師という名の指導性を持っていたといえる。しかし、それではどうあればよかったのか。学生とともに、破産するとわかっている対理事者闘争を実力闘争としてやりぬくことだったのか。対理事者闘争、実は、対権力との実力闘争である。この直接闘争が成功をみるとは私には思われなかった。
全国の学園闘争における初めての快挙<自主管理>は、学生にとっても講師にとっても当然初めての経験である。私達の課題は、不可能に近いこととして考えられていた自主管理を獲ち得たこの地点から、さらに前進し、内容的に結実させることにあると考えていた。しかし、私は資料を読みかえし、これは、闘争を担ってきた学生逹に対する思い上りであることを知らされた。彼らが持ちえた「徹底的な否定」の前に、私は対峙する何ものも持ちえない。いく度となく理事者にだまされ(裏切られ)、デザィナーを夢みて、所詮各種学校の卒業者は下積の版下屋か、下級労働者、半端者にしかなりえないという現実のしくみに裏切られ、そのように人問を位置づけ峻別し、組みこんでしまう、この社会の<しくみ>に怒りをもった彼らにとって、闘争の同伴者であったかにみえた講師すら、デザィンで、あるいは文筆でメシを食っているエリートであり、闘争とメシを食うこととを巧みに使いわけた、まさに彼らのいう指導者ヅラした知識人でしかなかった。繰返し、繰返し状況を分析し討論をたたかわせ、批判を徹底化させていく過程の中で、つみあげられ、次第に明らかな形をともなって表われた、まさに<情念>としか呼びようのないものであった。
その後の青デの経過を、今の私が語ることはできない。
残っていた学生達がまとめた資料を抜粋掲載することで代えたい。

●新たな共同体のテコは何か
青デ闘争について、一人一人がそれを語ることはつらく、苦しいことかもしれない。しかし、自治会執行部が破産した原因が、要するに表現しないという惰性に陥り、総括も出せなくなってしまったことにある以上、今後の闘争を継統し、闘う我々一人一人は、具体的な個人的な総括のぶっつけ合いの中から総括を出すことをやり抜かねばならないであろう。
このことを抜きにしてきた自治会執行部の性質が、へんな左翼的共同体を作り上げてきたことを認識した一部の学友の問題提起ー個人の青デ闘争のかかわりの明確化ーが9月後半よりなされ、その作業を徹底化する中で、(彼らは)人間的弱さの敗北を残して闘争を放棄して行った。
1月以来われわれが獲ち取ってきた自主管理の学校、自主管理であるが故に芽ばえる左翼共同体としての幻想、こうしたものを我々が7月半ばの講師会との内ゲバ事件を始めとして徹底的に粉砕して行く過程の中で、執行部自身もその幻想性を粉砕し、自己解体せしめた。ある意味で個々人がバラバラになっている時点に、今きていると思うし、それは我々自身の存在の個有性からきているのだと思う。そういう情況の中で新たなる闘争共同体(自主管理貫徹共闘会議)を組織せんとする我々にとって重要なのは、何を共同体としてのテコとして新しい運動を起すかという問題にあると思う。
我々が1月29日以来全学バリケード封鎖を行なったことは、まさに正当な抗議の姿勢であるし、我々の拠点を構築する上でも重要な行為であったと思う。我々のそうした行為は、体制のデザイン体制に奉仕するデザイン教育の徹底的な拒否、否定の現われにほかならない。そうしてデザイン教育の欺瞞性、あるいはそれ自体の現世の利益的存在形態拒否、そういうものは、この闘いの中でしか気付くことはできなかったし、このことは極めて重要であったし、そういった意味で自己否定という言葉は決して観念的なものでなく、必然的にそこに行かざるを得ないものとして在った。
つまり、闘いをやる以上そこへ行かざるを得ないだろう。故に我々は自主管理形態の中での授業の中にもあくまでもデザインをする原理的な態度姿勢を追求してきたし、そうでない限りデザインの変革はあり得ないと考えている。我々は自らそのように生きて自ら行動し失敗の繰り返しをする。そうした原理的態度、姿勢がない限り結局もとの体制デザインという路上につき返されてしまうだろう。

●非合法的存在者として
故にこの青デの中でデザィンをやることが何か革命的な意味を持ち得るというような幻想的な基準を捨てるものでなければならない。
この青デ闘争を担う我々の中から新しいデザィンが生まれるかというようなことはまったく重要でなく、我々にとって問題なのはいかに我々が非合法的な存在として、そういうものとして、どこまで長く居つづけ得るか、自分が非合法的存在であるということをどこまで守れるか、という以外にはあり得ないし、また、そうありたいと思う。

●そして狂人たることを
失なわれたものを求めて我々はこの永い永い闘争に旅立った。はじめはその失なわれたものの何であるかる明確に把握しえないままに・・・。
だが我々自身の内部ではいまだに言語形態を取り得ぬ何やら混とんとした崩壊の予感の中でしっかりと感得しながら、それは徹底的な否定を通じてのみ回復できる態の何ものかであった。・・・否定そのものが全面的に否定されるか、あるいは否定が全面的に貫徹されるか。これは論理と論理の対決ではない。
まったく異った大前提に依存する二つの立場にとって論理はもはやその一切の有効性、現実性を失なっている。体制側の論理をもってすれば、バリケード内の真の解放の可能性を措定せんとする我々は砦の中の狂人だということになるだろう。彼らの論理では、それ以外の把握方法はない。存在するものの全面的否定を志向するものは必為的に狂人の道を辿らざるを得ない。我々は狂人であることに誇りをもつ。体制そのものが存在する限り、我々は狂人として存在し統けるであろう。
そして狂人たることに自らを引き受けることなくして失なわれたものの回復は、決してあり得ないだろう。
電気・ガス・水道が止められつつある中で我々共闘会議は本誌を編集する作業を推し進めてきた。理事側のしめ付けがある中で、闘争を断固継続してくやことは苦しい。苦しいが故の闘いであるからこそ新たな展望を模索してゆかねばならないのだ。
1・29にバリを組んで以来、そろそろ一年になる。理事は現在暗躍しつつ、我々の前にその姿を現わさない。我々の理事に対する怨念はすでに資本総体に対する闘いへと発展してきた。「許さないぞ!」という我々の情念は永久に消えはしない。その意味で青デ自主管理闘争は始まりであっても終りではないのだ。決して!

青デは、「今後再びこの校舎を学校として経営することはしない」という確認のもとに、70年2月債権者に明渡された。
青山デザィン専門学校は、学園闘争の中で唯一廃校となった。
(あんどう・のりお デザィン労働者)

【『新左翼・過激派全書』の紹介】
ー1968年以降から現在までー
有坂賢吾著 定価4,9500円(税込み)
作品社 2024年10月31日刊行

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(作品社サイトより)
かつて盛んであった学生運動と過激派セクト。
【内容】
中核派、革マル派、ブント、解放派、連合赤軍……って何?
かつて、盛んであった、学生運動と過激な運動。本書は、詳細にもろもろ党派ごとに紹介する書籍である。あるセクトがいつ結成され、どうして分裂し、その後、どう改称し・消滅していったのか。「運動」など全く経験したことがない1991年(平成)生まれの視点から収集された次世代への歴史と記憶(アーカイブ)である。
貴重な資料を駆使し解説する決定版
ココでしか見られない口絵+写真+資料、数百点以上収録
《本書の特徴》
・あくまでも平成生まれの、どの組織ともしがらみがない著者の立場からの記述。
・「総合的、俯瞰的」新左翼党派の基本的な情報を完全収録。
・また著者のこだわりとして、写真や図版を多く用い、機関紙誌についても題字や書影など視覚的な史料を豊富に掲載することにも重きを置いた。
・さらに主要な声明や規約などもなるべく収録し、資料集としての機能も持たせようと試みた。
・もちろん貴重なヘルメット、図版なども大々的に収録!
「模索舎」のリンクはこちらです。
https://mosakusha.com/?p=9289

【『パレスチナ解放闘争史』の紹介】
重信房子さんの新刊本です!好評につき三刷!
『パレスチナ解放闘争史』(作品社)2024年3月19日刊行
本体:3600円(税別)

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なぜジェノサイドを止められないのか? 
因縁の歴史を丁寧にさかのぼり占領と抵抗の歴史を読み解く。
獄中で綴られた、圧政と抵抗のパレスチナ現代史。
ガザの決起と、全世界注視の中で続くジェノサイド。
【内容目次】
第一部 アラブの目覚め――パレスチナ解放闘争へ(1916年~1994年)
第二部 オスロ合意――ジェノサイドに抗して(1994年~2024年)

【お知らせ その1】
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