野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2025年05月

今回のブログは、「雑誌で読むあの時代」シリーズとして、『現代の眼』(1976年10月号)に掲載された東北大学の闘争を巡る記事である。
1970年代中盤、全国の大学でも一時期のような闘争の盛り上がりはなかったが、それでも闘争は続いていた。そんな1975年から76年の東北大学の状況を、主に大学側の管理体制の問題に焦点を当てながら書かれた記事である。
ちなみに、1968年当時、東北大学は東北地方の日共系の拠点校であったが、この記事が書かれた1976年は、自治会執行部が日共系から新左翼系に交代したようである。
※HP「全国学園闘争図書館」に東北大学新聞(1973年・1982年)を掲載していますので、ご覧ください。
1968-70全国学園闘争図書館
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【タカ派東北大式学生管理の破綻】『現代の眼』(1976年10月号)
簡単に学生を処分し、機動隊を学内に常駐させて憚らぬこの大学の時代錯誤の構造を暴く
野 原 広 志(放送記者)

全国で評判の“タカ派"大学
東北大学教養部は、昨年8月、サークル部室問題をめぐる学生の運動に対して、一部学生により部室の占拠など不法行為があったとして、退学2名、無期停学6名という異例とも思えるきびしい懲戒処分行った。学生たちは、これを「学生運動全体を圧殺するための政治処分」と受けとめ、ただちに処分粉砕闘争を開始。昨年末から今年2月にかけて学内への機動隊導入が一週間常駐したケースを含め三度にも及ぶ泥沼のような状態を潜り抜け、現在もなお闘争は続いている。
ここ数年、東北大学は全国の大学関係者の間で“評判”の大学であった。それは学生に対する管埋の姿勢が厳しく、何か事件があれば機敏に警察力を導人して“解決”を図るという意味であり、他大学の教官や職員からしばしば「お宅はいいですね」と羨ましがられた存在であった。今回の紛争の中でも"評判"どおりであった。学生が行動すると、まず証拠写真を撮り、次いで、くりかえし警告と退去命令を出しておき、時期を見て機動隊の出動を要請する、という“手際の良さ”を再三にわたって見せた。しかし、今度ばかりはそれが“解決”に結びつかなかった。かえって学生の動きに火をつける結果となり、教授会内部の力関係の変動もあって、今年4月以降はそのような姿勢が続けられなくなってしまった。
一方、処分粉砕闘争を進める学生の側にとっては、全国的に学生運動が低迷する中で、中教審・筑波化路線と対決する全国学園闘争の最尖端に位置するという認識がある。教養部教授会内部で事態収拾への動きが強まり、この夏休み中に無期停学の解除が決定されたものの、退学者の問題が残り、到底学生たちが納得するものではない。休みの間、何事もなかったようなたたずまいを見せていた仙台市川内の東北人学キャンパスも、この雑誌の出る9月の新学期とともに、また大きく揺れだしていることだろう。
「サークル部室使用問題に端を発した学生処分をめぐって紛争が続いている東北人学教養部で×日、またしても学生たちが・・・」
この1年間、東北大学の動きを伝える新聞記事の書きだしは、いつもこうしたパターンであった。なるほど、サークル部室問題は発端にすぎず、主として処分をめぐる攻防として経過してきたことは問違いない。また「処分なんてしなければ、学生の運動がこんなに高揚することはなかったろう」という教養部教官たちのボヤキもあるように、世に言う“紛争“状態になった直接的な契機が、処分という事態であったことは否定できない。それは、処分粉砕闘争として高揚する以前の東北大学生運動の量的質的なレベルを、結果として問うている、と言うこともできる。が、処分に到るまでの東北大学こそ”評判“の大学であったことも忘れてはなるまい。その中で、サークル部室問題は、紛争の発端となるベく、どのようなブ口セスをたどってきたのであろうか。

部室鬪争から"政治処分"まて
いささか古い時点にさかのぼらねばならないが、東北大学では、昭和40年頃から仙台市内の各所に散在している大学の施設を、現在教養部のある川内地区と青葉山地区に集約する総合移転計画に着手した。
これによる新しい研究棟、講義棟などの建設のため、旧建築物は次々と解体され、やがてサークル部室が入っている建物も解体予定となった。この時、教養部当局は学生に部室移転を申し入れるが、学生側は、総合移転計画の中にサークル部棟の計画が一切もりこまれていないこと、将来の部室の確保については明確な見解を示さないことなどからこれを拒否。移転そのものも一部遅れる事態となった。44年のことである。この交渉の中で、当時の教養部建築委員会は「恒久的サークル棟の建築のため予算要求する。これが実現しない場合でも学内措置として実施する」との確約(大学側は、確約ではなく決意の表明であったとしている)をするが、現実には、3年後の47年、旧建築の一部である「旧30番台教室」の部室への改造に着手――これが紛争の発端と呼ばれるサークル部室となるーー再び学生との移転交渉に入る。学生たちは、旧30番台教室が仙台市の市道通過予定地にあること、従来から部室のないサークルがあり、そのために開放を要求していた30番台教室への移転を迫るのは恒久サークル棟建設の確約を実現する気がないものだ、として移転を拒否。逆に、確約の履行と、1サークル1部室の実現を要求する。
ところが、この過程で、48年1月、部室移転を承認する「1.12協定」が結ばれる。この協定は、その教養部当局がことあるごとに待ち出し、様々な文章に参考資料として掲載していくのだが、学生たちは、これを「当時の民青系サークル協リーダーによる密約であり、それ以前のサークル協総会の決定による基本方針に反し、その後の総会でも無効が確認された」としている。いずれにせよこの奇妙な協定をさしはさんで平行線をたどったまま、48年9月には改造工事も完了。以後、昨年6月学生たちが「自主使用」を開始するまで約2年間、部室のカギはさびつくばかりであった。
教養部当局は、この間、旧30番台教室は面積・部屋数において以前の施設を上まわっていること、一サークル一部室の要求は「2人以上の学生が集まり、学生生活掛に届け出さえすればサークルとし認知され、しかも重複加人が可能である以上、無制限に膨張していく可能性があり」正当な要求とは考えられないこと、などを主張、「協定」の履行を学生に迫る。こうした交渉は昨年6月11日まで続けられるが、そのしばらく後の同月23日、学生たちは部室の「自主使用」を始める。これが処分に直接結びつく事件となったのである。
大学側によると「11日の会見で、予定時間をはるかにこえて説得に努めた。この席で、学生側が協定に即した部室割案を提出し、大学側がこれを承認し実施に移すまで、旧サークル楝の解体を強行しないといった趣旨の確約をしたうえ、さらに6月下旬に再度の会見を持つことなどを確認した。しかし、学生たちは、再度の会見を待つことなく、突如としてB・ C棟 (旧30番台教室のこと)を不法占拠した・・・」という。
一方、学生側によると「教養部当局が、旧サークル棟の解体を一時断念し継続使用を認めた以上、30番台教室について部室のないサークルへの開放を拒否すべき理由も消滅したのであるから、依然として開放を拒否しつづけることは明らかに不当であると判断し、23日からの自主使用をサークル協総会で決議し、実行した」という。
この日から、教養部当局は「退去命令」と「警告」をくりかえし、学生側は、授業や教授会におしかけては追及する。”紛争"状態に入ったのである。やがて、夏休みに入って間もない7月24日、教養部当局は、機動隊を待機させた上で全教職員を動員し、30番台教室のロックアウトを行なう。さらに同月3日の教養部教授会で、退学2名、無期停学6名の処分が決定され、8月20日の評議会でこれが承認されたのである。処分の理由は「部室の不法占拠」「教官に対する不法拘束」「職員からのカギ等の強奪」「物品倉庫からの物品の窃盗」「授業妨害」「教養部長による退去命令に対する妨害」「教授会乱人」などの不法行為をくりかえしたため、「真にやむをえざる措置として学則にもとづく懲戒に処することにした」という。なお、退学処分を受けた学生のうち1名は、47年に無期停学処分を受け3年間もそのままであったが、謹慎せず重ねて学生の本分に反する行為があったとして退学処分としたという。

あらかじめ用意された処分
結果から言うと、この処分は火に油を注ぐようなものであった。学生側のパンフ等に見られるように「背後にある中教審―筑波路線の内実とその政治・経済・社会的背景をより具体的なものとして満天下に知らしめた」というに近い効果を、相当数の学生に及ぼしたといってよい。処分に対する学生側の受けとめ方は、あらゆる学生運動やサークル運動を?殺するための政治処分であるが、そう受けとめる根拠のひとつは、44年の全国的な学園闘争当時から死文化していた学則を持ち出して処分したことである。つまり、いくたびかの学園闘争の中でしばしば"占拠""封鎖“等々の事態が起こっても、それを理由に処分するということはなかったのが、ここに来てかつての学則が復活したのは、運動圧殺をねらったものだ、というわけだ。また、47年の学費値上げ反対闘争のときは、一連の動きが終った後にいわば報復として処分が行なわれたのに比較し、今回の場合、闘争の端緒から処分してきたのは圧殺体制の完成を目論むものである、とも受け取っている。教官の中にも、微罪に対して死刑の判決を下すような処分だと憤慨する部分もあり、新聞報道も「秩序維待に強い姿勢」と、処分のかつてない厳しさを伝えている。
さらに、教養部教授会のとった手続きの上でも問題が残る。昨年6月23日の部室占拠の翌日、教授会内に、学部長、厚生補導委員ら十数名の教官による拡大連絡会を設置し、緊急の場合、教授会を代行する権限を付与すること、とした。その後7月11日の教授会では、不法占拠に関連した一連の行為に対し学則による措置をとることを決定。拡大連絡会議はその決定にもとづいて処分案を作製して提出し、同月30日の教授会で可決した。この教授会では被処分学生の書面による異議申し立てを認めることとし、8名の学生からの文書は8月18日までに受理された。
この異議申し立て文書は拡大連絡会議で検討され、処分理由となった事実の一部削除や修正を行ない、それを19日の教授会に報告。学長に対する処分の上申書も拡大連絡会議に一任され、翌20日の評議会で最終決定された。
こうして見ると、緊急事態に対処するはずの拡大連絡会議が異常に大きな権限を持ち、実際には処分案作製、調査委員会と等しい動きをしたこと、あらかじめ学則による措置を決定しておぎ、しかも異議申し立て書を教授会全体に諮らず拡大連絡議において処分理由の修正という形で処理したことなどから、はじめに何が何でも処分するぞということを決めておき、その理由となりそうな材料を集めた、という批判の余地を残している。
学生たちの処分粉砕闘争は、昨年9月の夏休み明けと同時に開始され、1日朝、いきなり講義棟のひとつを封鎖した。この時点では、学生の多くは、何のためかわからぬという感じが強く、無表情に通り過ぎる者が大部分だった。しかし大学当局はただちに臨時評議会を開き、機動隊を待機させた上、教職員によって封鎖を解除した。封鎖開始から10時間とたっていなかった。だが、この"戦闘"開始の日の事態はある意味で象徴的である。かくも機敏に機動隊を待機させることのできる大学は他にそうはないであろうから。

"評判"どおリの東北大学
それにしても、東北大学の警察権力に対する感覚は完全にマヒしていると見る人は多い。今年6月26日に行なわれた教養部長と学生との会見で、御園生部良(本年4月就任)は「教官・職員による救助が不可能であると判断される場合、警察官による救助を依頼することは、本学"事故処理内規"の精神からいって、教養部長が当然取らなければならない措置であります」と公言し、昨年12月11日、および今年1月27日の二度にわたり、教養部長(前の高橋部長)の判断で機動隊を導人したことを明らかにしている。12月のケースは、学生たちの集会を大学側が認めず、学生大会として行なうために休講措置をと迫る学生たち約20人が授業を行なおうとする教室におしかけ、投石したり、竹ザオで小突くなどの乱暴を働き、生命・身体に危険のおよぶ事態となったためだと説明している。また、1月のケースは、大学側が混乱を避けようと10日間近くにわたり臨時休講した後、学生側が「処分白紙撤回を求める教養部長団交」を要求してスト突人を決議し、講義棟封鎖を行ったことに対して行なわれたもので、「教官・職員200名により、封鎖解除作業が行なわれたが、過激派学生等の投石が激しく、負傷者が続出した。この状況から教養部長は、教官・職員の身体の安全が保障されないものと判断し、警察官の出動を要請した」と説明する。
いずれの場合も、学生大会開催、団交開催等の学生側からの要求の内容は検討の対象にならず、まず正常な授業が妨げられる異常な事態と看做した上で、「警告」「退去命令」→教職員による実力排除→身体の危険→警察力導人、というパターンを追っている。以前の大学なら、この最初の前提のところが、第一の矢印のところでたっぷりと時間をかけ、そこで解決の糸口をまさぐるというのが普通であり、それが"大学の自治“の残存能力、ないしは残存意識であった。少なくともそのような対応をしている限り、身体の危険という場面には到らないはずであった。このあたりが”評判"となるゆえんであるが、それはさらにエスカレートする。2月13日からの期求試験実施時の機勤隊導人は、前の二回とは異なり、評議会の議を経た予防措置的なものであった。「大量留年という最悪の事態を避けるために、また、入学試験を予定通り実施するためにも、定期試験をできるだけ早く行うことが必要であるとの判断のもとに、警察力の出動要請もやむをえな」という結論に達したという。しかし、試験当日の教養部はおよそ大学という名には?遠い状態であった。入口には鉄の扉が突如としてとして取り付けられ、教官による厳重な検問が行なわれる。検問に対する抗議が始まると、さっと機動隊が構内に入り数人の学生を逮捕する。やがて放水車などの大型車両が構内に入れられ威圧するように並ぶ。学生たちは、教官を囲んでの抗議、学内デモ、坐り込みなどをくりかえすが、その都度「退去命令」が出され機動隊に追い散らされる。しかも、こうした混乱の中で11名の学生が不退去や公務執行妨害などで逮捕されたが、当時の高橋教養部長は「構内で逮捕しても構わない」と叫び、教官1人は「あの学生とあの学生」と名指し、それによって逮捕された者もいる。機動隊はその後、試験が終る19日まで常駐し、連日くりかえされる抗議行動に対し、大学?は「ビラの配布も試験の妨害」「構内にたむろするのも許さない」などとマィクで警告を叫び続けた。試験実施、秩序維持のために、自治も自由も、何もかもかなぐり捨てた、という状態であった。ともかく、戒厳令下の試験は終るが、結局、平均90%の学生が試験を受けた。これにより、大量留年という事態は避けられることになり、試験はやっと「死守」できた、と大学側は総括するのである。そして失ったものの大きさを後に思い知らされるのだが・・・。

"タカ派"路線を支える構造
しかし「死守」できたのは当面の秩序維持だけであり、同じパターンの対応策を大学が統ける限り、それこそ1年中機動隊を常駐しなければやっていけないという地点に立ちいたってしまったといえる。ここに来て教養部教授会内部に変動が起こるのは当然であった。教養部教授会の内部では以前から"タカ派"と"ハト派"それに中間派という三つの流れがあり、それまで“タカ派"が政権を握っていた。ところが、その強硬路線に中間派が拒否反応を示し始めたのである。だが、なぜもっと以前にそのような態度を示せなかったのだろう。それは、学内が平穏でさえあればどのような路線でも構わない、ということに他ならなかった。
東北大学には、69年の全国的な学園闘争の収拾過程で県警と結んだ「三九項目密約」というものがある。これは、当時、封鎖解除に際して大学が警察力の出動を要請したのに対し、県警本部長の名前で大学側がとるべき管理措置を三九項目にわたって要請したもので、今日の"タカ派"路線のやり方の原型をなすものである。たとえば、封鎖解除後の措置としてあげられた事項の中には、「へルメット・覆面スタィルでの学内立入、凶器類の搬人を禁止するとともに、これらを着用または携帯した者の集会、デモを禁止すること」「……学園の秩序および授業をみだす行為が行われた場合は、すみやかに警察部隊の出動を要請すること」など、大学が自主的に判断し、決めるべきことについても要請している。これについて大学側は、当時の封鎖解除に限るものであり今は無関係、との態度をとっているが、先に紹介した事実の経過は、忠実にこの警察の要請に沿っていると受けとめざるを得ない。47年の学費値上げ反対闘争の時の対応もまさしく同じであった。この時も期末試験を機動隊常駐下で行い、試験ボィコットをした学生が多数にのぼり、1500人という大量留年という事態になった。しかし、連合赤軍事件に伴う反過激派キャンベーンが展開されていた時期でもあり、半年もすると学園は平穏になった。この紛争鎮静化が、"タカ派"路線の実績となり、多くの教官がその効能に対して信任を与えたのである。そして、今回の事態に対処するのにも“タカ派"路線にあえてノーとはいえない。言えば自分が動かなければならなくなる、ということだったのである。そうした教官は、自分の足元のことだけを考えていたにしても、その歴史をたどってみると、大学管理法への動きの中で生まれた路線を信任したことになり、中教審―筑波化路線に加担し、学生運動を根こそぎ解体しようとしている」という学生側の批判にさらされる。つまり、学生への管理・支配の意図が文部省や”タカ派"の側にあったとしても、それを具体化させたのは、研究にしがみつこうとした教官たちだったのである。
東北大学教養部の"タカ派"路線を支えたのは、事務系も学生自治会も同じことだったという指摘もある。教養部事務系は、この4月の人事異動で主なメンバーが変わったが、それ以前は教授会に対しても強い発言権を持っていたと言われる。教官の多くは、面倒なことさえなければという気持が強く、度重なる紛争に逃げ腰である。委員会のメンバーも毎年変わっていく。そこにもってきて事務長にいたっては10年近く在任している。百戦練磨というわけである。勢い、事務系の発言や処置に引きずられていったというのである。こうした事務系の動きをハト派の教官は苦々しく思っていたといわれ、4月の異動は"タカ派"路線が破綻を来たしたことを示すものだという見方もある。
学生自治会が"タカ派"を支えた面があるというのは、教養部等の単位自治会が、民青系と目される学生に握られており、「学内から暴力を追放しよう」のスローガンの下に、大学側とほぼ同じ歩調をとっていたことを指す。昨年の学生処分当時も、民青系学生が握っていた教養部自治会執行部は、処分やむなしという立場をとり、①不当な封鎖・占拠は行わない、②テロ・リンチを行なわない、③学内に凶器を持ちこまない、といういわゆる自主規律三原則の再確認を学生に呼びかけた。さらに、10月、処分粉砕闘争を進める学生に襲撃され多数のケガ人を出したとして、警察に告訴・告発し、その結果、3人の学生が逮捕され、サークル部室、学生のアパー卜など8ヵ所が家宅捜索を受けるという出来事があった。この傷害事件とは、自治会執行部の学生代表と教養部教官とが学部長会見の予備折衝を行なっていたときに、処分粉砕を叫ぶ学生たちが秘密予備折衝は認めないと乗り込んできて衝突となったものだが、これにはいきさつがある。処分後間もない昨年9月10日の学生大会で、前述した内容の自治会執行部の提案と全教養部連絡会議による処分撤回要求の提案とがともに過半数の支持を得られず、処分をめぐる人衆団交を要求する決議案だけが成立した。この決議の内容は処分白紙撤回に向けての大衆団交ということであったが、自治会執行部は被処分者抜きで大学側と予備折衝に臨み、他の学生の怒りを買ったのである。ことの出発点での意味や内容を問題にせず、結果だけを警察に訴えて出たというわけである。
こうした経過に見られるように、当時の自治会執行部と"タカ派"路線とは、警察力の導人に関する姿勢まで類似したところがあり、キャンパスを平穏にしておくためにもたれあっていたと指摘する声は多い。そして、“タカ派”路線が破綻していくのと、前の自治会執行部が支持基盤を失い、去っていく過程とがほとんど平行して進んでいったのも偶然ではないと見られるわけである。

“タカ派"路線の破綻
今年4月以降は、様相が大きく変わった。それまで学生が行動するたびに、教養部長の名前で「警告」を出し、「なお、この際氏名の判名した者は次の通りである」と名指しするのが常であったのが、それはすっかり影をひそめる。別に学生が動きをやめたわけではない。前教養部長が300人の学生に囲まれ、三角帽をかぶらされて長時間追及を受けたり、学長室が1ヵ月以上にわたって占拠されるなど、以前ならたちまち機動隊の待機・出動につながりそうなことはいくらもあった。
だが、再び前と同じパターンで対応すればもっとひどい事態になるという恐れが、それをさせなかった。学生自治会の執行部も、1月に樹立された処分粉砕闘争を推進する学生たちによる臨時執行部は、6月には正規の執行部として改めて樹立され、同月末には教養部長との団交を実現させている。こうした4月以降の状況は、あの"評判“の東北大学とはとうてい思えない姿である。このように変容してくるまでの経過をもう少し見てみることにしよう。
教養部教授会の中で中間派の教官が“タカ派"から離反していったことは前にも触れたが、それは、2月の機動隊常駐下での試験が終わったすぐ後に行なわれた教養部長選挙に早速あらわれる。それまで"タカ派"の先頭に立っていた高橋富雄教養部長の後任には、やはり"タカ派"のリーダー格であった御園生善尚教授(数学)が有力視されていた。ところが投票してみると、御園生教授は一位になったものの過半数に達せず、二位と三位になったハト派の教授の得票は合計すると過半数を超えていた。ここで二位となったT教授が辞退を表明し次の投票に移る。しかし白票が多く過半数に達する候補が出ないため、日を改めて投票を行ない、やっと御園生氏が教養部長に選出されたのである。この裏には、ハト派が出席数を減らして御園生氏を当選させたという話もある。これだけ既成事実を残したのだから後始未もやれ、という意味か、何かの条件をつけたかはわからぬが、就任後の御園生教養部長が”タカ派"路線を継承できなくなったことには違いはない。この経過について学生たちは、懐柔型の支配を目論む"近代派“の台頭と警戒するむきもある。しかし、タカ派対ハト派の教授会内でのやりとりは相当激烈なものであったといわれ、その勢力が拮抗していることから、いずれかの路線に急速に傾斜していくことは当分なさそうである。
一方、教養部を軸とした“タカ派"路線は、他の学部との関係にも規定されていた。それは、きわめて現実的な利益による学部エゴィズ厶のからみあいである。たとえば、2月13日からの機動隊常駐は評議会で決めたものであるのに、出動要請は教養部長名で行なっている。これは、教養部と敷地を接する文・教・法・経の文系四学部が学長名で要請することに強く反対したためであった。なぜかというと、学長名で呼べば自分たちの学部にも機動隊員が立ち入ることがあり得るが、教養部長名にしておけばせいぜい学生が逃げ込んで来る程度ですみ、学部側の責任が問われることはないという発想であった。結果は、そうやって「死守」させた試験を受けて処分反対派の学生も大量に学部に進学し、各部当局の責任も問い質されるようになってしまったのだが、紛争を教養部に封じ込めておきたいという露骨な意図をあらわにして学部エゴがそれぞれに主張されるのである。教養部当局もこれを計算に入れないと一頓挫することがある。こんなことがあった。紛争がエスカレー卜した昨年暮、教養部が学外者による不法行為の告発と学部学生の不法行為の処分を評議会に持ち出した。教養部が行なった処分を承認したのだから、処分学生と一緒に同じような行為をした学外者を告発し、学部学生を処分するのは当然と考えたのである。しかし、各学部にとってみれば、自分たちのところでそんな問題を抱えこむことになるのなら、教養部学生の処分だって認めることはしなかった、というエゴがすぐに働く。教養部の持ち出したこの話はいつかウヤムヤになってしまった。
これらの例で明らかなように、教養部の“タカ派"路線は、紛争を教養部に限定するという効能のもとに全学の各学部による承認が得られていたのである。”タカ派"路線が解決―鎮静化に結びつかず、しかも学部の方も平穏なままでいられなくなりそうだということになれば、全学的な反応が変わってくるのも当然であろう。そして、その変わりようは、教養部教授会の中間派とよく似ている。

国立大学共通の"悩み"
学部の側が、紛争を教養部に限定しておきたいと考えるまでもなく、東北大学紛争はいつも教養部で発火する。これは東北大学に限らず多くの国立大学に共通した"悩み"であり、とくに68・69年の全国学園闘争の後、一斉に教養部改革が叫ばれだしたのもそのあらわれである。四年間の学生生活の前半の2年間は一般教養にしかふれず、その内容も高校生活の延長のくりかえしに近い。研究・教育の様々な条件も学部にくらべて大きな格差がある。教官と学生の接触も"コンパ教師“という言葉があるように真の学問・教育を媒介としたものではなく表面的な希薄なものにしかならない。こうした中に入学してくる学生は間もなく大学に失望し、激しい受験兢争の反動も手伝って、勉学に真面目に打ち込むことができなくなり、いつも飢えと不満がうっ積した状態にある。紛争にかりたてる潜在的エネルギ?は教養部の存在それ自体の中にある、というわけである。たしかに教養部学生のおかれた状況は劣悪である。そこに、この劣悪な状況をなんとかすれば紛争はなくなるだろうという発想が生まれる。なくならなくともいまよりは減るだろう、という期待を持つ部分が教官の中には多いだろう。東北大学においても、ここ数年にわたって教養部改革案が練られてきた。現在のところ「一般教育と専門教育を有機的に結合した四年一貫教育という考え方にたち」「教養部を複数の講座制の学部として適当数の学生を持ち、同時に、全学の一般教育にも実施責任を持つ」という再編案で検討を続けている。だが論議はなかなか進まない。学生たちは「自主改革に名を借りた、教育の帝国主義的再編」と批判するが、そうした反対によって進まないのではなく、ここでも学部間の利害が複雑にからんでくるのである。もともと紛争さえなくなればという気持が腹の底にあるのだから一致しそうなものだが、学部の側にしてみると、教養部だけに紛争が限定されている間は別にかまわないという気もある。一方、教養部の側にも、学問研究の面でコンプレックスを持つ部分の中に、紛争もいやだが改革もいやだという気持が根強い。一説によれば教養部"タカ派"はそうした教官が多いという。
これらの状況を見ると、もっとも得をし、楽をしているのは各学部であることが判明する。教養部という手のひらの上で何が起ころうと、学部の側の学問の権威は安泰であり、その学問研究の内容や質、その果たしている役割、などを具体的に問われる心配はない。
“評判"の東北大学という現象の背後にはこうした構造があったのである。それは、東北大学がいくら"評判だおれ"になったところで、簡明に揺らぐものではない。
では、学生たちの闘争はこうした構造を揺るがすまでの質を持ちえているであろうか。いや、少なくともそうした方向性だけでも持ち得ているだろうか。この問いに対し、学生たちは、秋の闘争でどのようなものを突き出せるかにかかっている、という。
闘争の主題となっている「政治処分粉砕」は、学生たちにとっては「中教審―筑波化路線」との対決である。そして、中教審―筑波化路線とは、高等教育と研究開発体制の効率化・高度化のエサのもとに、日本帝国主義の危機乗り切り、産業構造の転換・合理化に狩り出していこうとするものであり、同時にそうした動きに先駆的、尖鋭的に闘っていく学生運動を根こそぎ解体しようとするものである、と分析する。東北大学の総合移転計画、教養部廃止による通年一貫教育体制を骨子とした自主改革案、そしてサークル活動への圧迫と処分、これらが、中教審?筑波化路線の具体的な環となっている、と受けとめる。だが、このような分析や主張がはじめから鮮明であったわけではない。サークル部室をめぐる経過で示したように、47年の学費闘争の敗北以後は、サークル問題一点に限られた守りの闘争が続いていた。というよりもむしろ、息をつける場所がサークルだけしかないという状況の中で、辛うじて持ちこたえていたといってよい。だから、運動は、即自的な反発を契機に、いわば飢えと不満が爆発する形で始まる他はなかった。その爆発に対して処分が下されたことにより、処分粉砕という引きさがることのできない闘争を継続することとなり、次第にことの本質が鮮明になってきたのである。その意味では、教養部の"タヵ派"路線にもとづく管理体制の下からやっとはいあがり、自らの立脚点をようやく見据えることができるようになってきた、といえようか。しかし、そう言ってみた瞬間、どこか、そう言い切れぬ違和感のようなものが残るのである。
69年当時活動家だった東北大OBの一人はしきりに首をひねりながらこう言った。
「今度の闘争はパッと燃え上がりそうであまり燃えない。かといって、ダメになってしまいそうでダメにならない。不思議ですネ」
やや似た印象は、現在の活動家の学生も持っている。自分を含めて最近の学生は、いつもどこかに、ちゃんと余白のような部分を残している、というのである。たとえば、かつては「誰一人傍観することなく」が合言葉だったのに、最近はすぐ隣の教室でトラブルがあっても、教官も学生も平然と授業を続けることが多い。機動隊常駐下の期末試験にしても、47年はポイコットする者が多かったのに、今回は大多数が受験した。しかし、試験は受けておいて抗議デモには参加する、あるいは、処分反対の意志は表明しても行動には参加しない、という学生も多い。もはや一時代前の尺度ではとても測れないようなタィプの学生が主流を占めてきており、不思議でも何でもなく、それが時代だ、というのである。
したがって、リ?ダーの学生たちも、大衆的な激しい盛りあがりによって、一切を押し流していってしまうような闘争はもう考えられない、という。そのかわり、もっとも有効と思われる箇所に、その都度ふさわしい行動をしかけていく、いわば、今日的な感覚で闘争を構築していかざるを得ないと考えるのである。激しく燃え盛りもしなけれぱ、決して消えもしないという炎は、"しらけ"世代と呼ばれる彼らの、しぶとさ、なのかもしれない。これが、違った世代からは違和感のように思われるのであろう。
だがしかし、もう一歩踏み込んでみる必要がありそうだ。その"しらけ“としか言いようのない感覚、抗議もするが試験も受けるという生き方、それこそまさに、学生諸君が対決しようとしている中教審―筑波化路線の生み出した実体的モデルではないのか。学生一人ひとりの血肉の中の筑波化傾向とは言えないのか。そういう疑問が起こってくる。
このことは、現在の闘争の端緒となったサークル運動の質にもかかわってくる。サークルといっても、100をこえるその内容は、実に様々であり、その活動の質を問う、などと言われると大多数が実際のところ困ってしまっただろう。ここでいう質とは、逆説的ないい方をすれば、中教番―筑波化路線によって、潰されるに値するか否かということである。こうした点はどうだったのであろうか。活動を通じて生み出すものを一切問わずに、活動を阻むものへの抗議だけある、としたら、それは"しらけ"と言ってはすまされないのではないだろうか。
東北大学教養部は、この夏休み中、47年の学費値上げ闘争の当時処分した学生1名を含め、無期停学者7名の処分を解除した。しかし、退学処分者2名については、復学の規定を新たに設けないと処分を解除することはできない。この復学規定を設けて処分を解除しようという動きもあるが、その行方は流動的である。学生たちにとって、処分が解除されていくことは“勝利"には違いないが、処分を解くのなら、同時に自己批判をせよ、と迫り続けるだろう。10月の学費値上げ実施とからんで、学生の運動はさらに展開されるだろうが、そこでは、学生自身の運動の質もまたためされることになる。
(終)

【『ただいまリハビリ中 ガザ虐殺を怒る日々』の紹介】
重信房子さんの新刊本です!
『ただいまリハビリ中 ガザ虐殺を怒る日々』(創出版)2024年12月20日刊行
本体:1870円(税込)

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「創出版」のリンクはこちらです。

昔、元日本赤軍最高幹部としてパレスチナに渡り、その後の投獄を含めて50年ぶりに市民社会に復帰。見るもの聞くもの初めてで、パッケージの開け方から初体験という著者がこの2年間、どんな生活を送って何を感じたか。50年ぶりに盆踊りに参加したといった話でつづられる読み物として楽しめる本です。しかもこの1年間のガザ虐殺については、著者ならではの記述になっています。元革命家の「今浦島」生活という独特の内容と、今話題になっているガザの問題という、2つのテーマをもったユニークな本です。

目次
はじめに
序章 50年ぶりの市民生活
第1章 出所後の生活
53年ぶりの反戦市民集会/関西での再会と初の歌会/小学校の校庭で/52年ぶりの巷の師走/戦うパレスチナの友人たち/リハビリの春
第2章 パレスチナ情勢
救援連絡センター総会に参加して/再び5月を迎えて/リッダ闘争51周年記念集会/お墓参り/短歌・月光塾合評会で/リビアの洪水
第3章 ガザの虐殺
殺すな!今こそパレスチナ・イスラエル問題の解決を!/これは戦争ではなく第二のナクバ・民族浄化/パレスチナ人民連帯国際デー/新年を迎えて/ネタニヤフ首相のラファ地上攻撃宣言に抗して/国際女性の日に/断食月(ラマダン)に/イスラエルのジェノサイド/パレスチナでの集団虐殺/パレスチナに平和を!
特別篇 獄中日記より
大阪医療刑務所での初めてのがん手術[2008年12月~10年2月]
大腸に新たな腫瘍が見つかった[2016年2月~4月]
約1年前から行われた出所への準備[2021年7月~22年5月]

【『新左翼・過激派全書』の紹介】
ー1968年以降から現在までー
好評につき3刷!
有坂賢吾著 定価4,950円(税込み)
作品社 2024年10月31日刊行

30533

「模索舎」のリンクはこちらです。

(作品社サイトより)
かつて盛んであった学生運動と過激派セクト。
【内容】
中核派、革マル派、ブント、解放派、連合赤軍……って何?
かつて、盛んであった、学生運動と過激な運動。本書は、詳細にもろもろ党派ごとに紹介する書籍である。あるセクトがいつ結成され、どうして分裂し、その後、どう改称し・消滅していったのか。「運動」など全く経験したことがない1991年(平成)生まれの視点から収集された次世代への歴史と記憶(アーカイブ)である。
貴重な資料を駆使し解説する決定版
ココでしか見られない口絵+写真+資料、数百点以上収録
《本書の特徴》
・あくまでも平成生まれの、どの組織ともしがらみがない著者の立場からの記述。
・「総合的、俯瞰的」新左翼党派の基本的な情報を完全収録。
・また著者のこだわりとして、写真や図版を多く用い、機関紙誌についても題字や書影など視覚的な史料を豊富に掲載することにも重きを置いた。
・さらに主要な声明や規約などもなるべく収録し、資料集としての機能も持たせようと試みた。
・もちろん貴重なヘルメット、図版なども大々的に収録!

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在16校の投稿と資料を掲載しています。

http://zenkyoutou.com/gakuen.html

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は6月20日(金)に更新予定です。

今回のブログは、「雑誌で読むあの時代」シリーズとして、『朝日ジャーナル』(1971年3月26)に掲載された「“学生階級”―その今日的構造 第1回」を掲載する。
「学生階級」ということについての連載記事であるが、第1回は朝日ジャーナル編集部による何人かの学生へのインタビューで構成されている。
70年安保闘争が終わり、各大学からバリケードが姿を消した時代。当時の学生たちの考えや心情はどうだったのか、ある程度読み取れると思う。
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【朝日ジャーナル 1971年3月26日】
“学生階級”―その今日的構造 第1回
廃墟の中の安逸―模索の春、北から南からー

「法と秩序」がキャンパスに回復されて以来、大学問題は治安対策の緊急課題ではなくなったようです。だが“学生階級”に属する青年は、何やら得体の知れないエネルギーを秘めているだけに、相変らず無気味な存在と見られています。今日の大学生が自己を社会的にどう規定しているかをさぐるために、新連載の題をぶっつけ、「あなたは“学生階級”について、どうお考えですか」とたずねてみました。

実に早いものです。"大学革命"の炎が全国的に燃えさかった昭和43年当時、まだ新入生だった学生たちが、この4月から最上級学年に進級します。
年年歳歳花相似 歳歳年年人不同
年度の代り目によく引用される陳腐な文句が、近ごろの大学では一種独特の感懐をこめて受取られていることでしょう。
大学改革の掛声があれほどかまびすしかったのに、実際のところ大学では何事も変らず、ただ年ごとに学生だけが確実に入替ってゆきます。こうして、石と棍棒の記憶を共有する者は、たいていの大学で四分の一の少数勢力となりました。
とくに教養課程のキャンパスが切離されている場合、咋年春からアプレゲール(戦後派)の学生で占められ、大学紛争の経験は歴史と伝説の中に消え去ろうとさえしています。ほとんどの大学にとって、もはや紛争後ではないーーというのが適切でしよう。
しかし、間もなく入学する新人生が、あの腰くだけに終った大学革命の古戦場をたずねようとすれば、あたりを見回すだけで十分です。入学試験を受けたこの教室に、まさしくバリケードが築かれ、その窓から火炎びんが投げつけられたのでした。
もちろん、大学の旧休制をゆさぶった内乱と干渉戦争の痕跡を見つけるのは、今となってはかなり困難かも知れません。壁に落書きされた呪詛の文字は、ベンキを吹きつけられて、ほとんど消えかかっています。
ひところ、大学の自治とは何かと問われた時に、大学は公会堂などの公共施設の管理と同じようなものだとする造営物説がとなえられました。この文部省好みの理論にしたがえば、封鎖を物理的な力で排除し、破壊された建物を修復して、管理が行届くようになれば、瀕死の大学はよみがえって、めでたし、めでたしとなるはずです。
ところが、大学の建物が外観と内装だけは立派に再建されたようでも、アカデミズムの牙城の内実は相変らず廃墟のままで、そこには退廃の空気がみなぎっているといっても、それほど的はずれではないでしょう。邪教の信徒どもを聖なる伽藍から打払ったのに、祭り奉るべき肝心の本尊は、どうやら見失われてしまったようです(従来それをむやみにありがたがっただけで、もともとなかったのかも知れません)。
現在の学生たちーとりわけ紛争のあとで入学してきた層は、知的荒野の真只中にたたずんでいるかに見えます。あの革命に参加した者の中には、みずからを大学の棄民と任じて、学園から蒸発してしまった例も少なくはありません。
これまで学生はとかく "通過集団“と軽くあしらわれて、その分析がおろそかにされてきました。この不可思議な”階級“は、なかなか正体がとらえにくいものですが、外国の例を見るなら、古くは帝政ロシアの革命運動、中国の五四運動によるナショナリズムの目ざめ、この数年のことでは、アメリカのベトナム反戦キャンベーン、フランスの五月危機など、一国の歴史、政治、社会を動かすほどの力をもっています。日本については、この数年を振りかえれば、もぅ十分でしょう。

"階層"からの脱皮を
「ウーン、それは面白い。学生を特別な集団として見ようという着眼点はユニークだし、また有意義でしようね」というのは、清水秀二君。南山大学外国語学部の二年生。学生運動に関心はあっても、とくに積極的に動いたことはなく、新左冀の心情的な支持者といったところでしょう。大学については、期待もしていないし、失望もしていないそうです。
「ぼくは学生と社会人という分け方には反対で、学生も社会人だと思います。ただ社会人から半分はみ出した面を持っており、それがかえって社会に対して一定の影響力を持つ特別な集団として性格づけているのでしよう。いわゆる活動家については、何をやるにしても、先陣としての役剖を果す人たちが必要です。ぼくは先陣にはなれないが、ああいう人たちの運動は有効だと思います。もっとも、現在の新左翼の人たちは、先陣をうけたまわる役としては、ちょっと物足りない気はしますが……」
佐々木学君(名古屋大学理学部一年)は、学生“階層”から"階級"への発展を主張します。昨年春、名大に入学したころは、理学部共闘会議が出していたビラを配るのがもっぱらの仕事でしたが、その理共闘もいつの間にか消滅。しかし、問題はまだ解決していない、他にだれもやらなければ、自分ひとりだけでもやるーという意気込みで、ことしの1月「理学部問題をしつこく追及するグループ」を作りました。
現在は理学部のある教官が、暴力学生に試験を受けさせる必要はないとして、特定の学生に試験を拒否した事件を取上げて、ビラをはりまくっています。もっとも、このビラは公序良俗をみだすカドで、はるかたはしから破り去られていますが、いっこうにへこたれず、せっせとガリを切っているところです。
「浪人時代、あるデモに参加したら『マサニィ、ワレワレ浪人階級ワア、闘ワナケレパナラナィッ』ってアジってたやつがいて、すごくユーモラスな感じでしたが、その時のことを思い出します。もし、この"学生階級"という言葉が市民権を得たら、学生の意識も変るでしょうね。いままで、学生さんは大学にいる時だけあばれて、それでおしまいといわれてきました。でも、全国学園闘争を通じて、大学闘爭が単に学生運動で終らずに、その延長上で永続的に闘える階層が確実に現れてきていると思います。それが労働者階級とならんで、変革の主体として形成されたら、それこそが"学生階級“じゃないでしょうか。学生階層は"学生階級"に成長すべきだと思います。学生には労働者コンプレックスがあり、これを簡単に捨て去るのは、やはり思いあがりだと思います。しかし、逆に学生だからこそできることもあるでしょう。それを確認するのが、ぼくの悲願です」

シラけちゃうなあ
野村俊幸君(北海道大学経済学部三年)はベ平速の活動家、いっそう管理が強化されて、体制志向の強くなった大学に対する闘いをつづけるのだという意気ごみを失っていません。ただ、この階級論には条件つきです。
「学生階級ですか……。限定された範囲でね。というのは、学生である間は、徹底して"帝国大学"の体質解体を闘い、そのなかで人民としての潜在的闘争能力を身につけていくーーそんな限定つきの存在としてなら、学生階級とは一応いえるんじゃないでしょうかね」
野村君と同級生の匿名君、全共闘シンパですが、徹底したノンポリ、ノンアクション型と自称しています。
「学生階級っていうのは、エリート臭のする言葉だな。ぼくは早く一年たって卒業したいよ。卒業できるかって(笑う)。もうそろそろ、どこも入社試験がはじまるんです。おどかさないでよ。この間、経済学部で学生参加の学部長選挙がありましたが、そんな時に民青のヤツが教室に来て、あの教授はダメだとか、この教授がいいとか叫んでましたね。ぼくは、どっちでもいいんだ。民主的教授とか、民主的XX聞くと、とたんにシラけるんだなあ。ヤツらの心の裏には、まだ北大生の特権意識が残ってるんですね。学生階級なんて、まじめに取りあげるつもりなんですか。学生にはなじまない言葉じゃないかな。学生が自分たちのことを学生階?だなんて考えると"民主的XX"と同じくらいシラけるだろうね。少なくともぼくはそうですね」
宮越雅義君(名大教養部二年)は、ノンセクト・ラジカル。現在はしばらく休学して、どこかへふらっと遊びに行ってきたい心境だそうです。大学に対してはまったく幻想をいだいていないから、落ち着いて勉強する気にもなれず、かといって、いまさら大学を否定しようという運動をする気にもなれないといいます。
「はじめて聞く言葉ですね。学生に対して、そういうカテゴリーを作れるかどうか、ちょっと判断がつかない。それより、安保闘争をわれわれは階級闘争の一環として闘ったといいますが、本当に階級闘争だったかどうかを分析してみる必要があります。いまの高度資本主義社会では、階級という言葉自体がごまかされ、すごくあいまいなものになってしまっているでしょう。学生がプロレタリア階級の立場に立てないということは絶対ないと思うけど、そのプロレタリアー卜階級とはいったい何か、も一度把握してみる必要があります。ぼくら闘争をやっている時、学生はこれだけやっているのだから、労働者はもっとやってくれるだろうーという期待を持ったこともありますからね」
大阪大学工学部三回生のM君は、みずからをノンセクト・ラジカルくずれといい、機動隊による一撃で"階級意識"をいたくゆさぶられたようです。
「高校時代は受験勉強で、せまい世界にとじこもらされる。で、大学にはいってくる、そこには、いろんなヤツがいる。政治を叫んでいるヤツもいれば、芸術を語っているヤツもいる。大学は急に開けた広い世界といえるでしょう。しかし同時に、それまでのあまりにもせまかった世界を通過してきた自分自身の存在への危機感を感じさせられるようになります。疎外感といってもよいかな。その疎外感を、体制による疎外感ととらえるヤツは、感覚的な次元で階級意識をもっているといえるでしょうね。疎外感からの解放を、権力との緊張関係を作り出すことによって得ようとしたヤツは、街頭に出て機動隊と衝突した。オレも、そうだった。しかし、負けてみて、しょせんおれたちは少数派にすぎないということを、つくづく思い知らされたわけです。量的にも質的にも少数派なんです。だから、総体としての学生層が何をなし得るか?などという質問は、まったくナンセンスですね。それほど楽観的にはなれません。学生は一部に階級的に突出した部分を内包しながらも、全体として階級を形成していくことはあり得ないでしょう。どうしようもない状況だけど・・・」

感覚的でマスコミ的ね
もちろん、この"学生階級"論に対して、否定的な意見も少なくありません。10年ほど前に流布された"学生階層“説は、いまも広く信じられて、その影響はかなり浸透しているようです。
名大法学部二年のAさんは、代々木系全学連の支持者。現実的な問題から出発し、学生全体を組織していけるような方針を打出している全学連の運動こそが、もっとも建設的で正しいと主張し、大学解体などのスローガンをかかげた新左翼の運動は、重要な問題提起はしたが、結局、ひとりよがりの運動に終ったと批判します。
「明確な分析なしに、こんな言葉を使うなんて、いわゆる新左翼のカッコつきのラジカルをセンセーショナルな形で強調しようとしているみたいで、すごく感覚的でマスコミ的な言葉ね。たしかに、いまの学生は昔のようなエリー卜とは違って、数は多いし、また、政治的に敏感で状況を先取りする能力がありますから、社会全体の中で果す役割は大きいと思います。でも、先取りした状況を動かしていける基本的な力になるには、弱いですね。なんといっても直接生産にたずさわっていないだけに、プチプル的な要索がたくさんあります。卒業後は、管理者、職制になる人もいれば、ふつうの労働者になる人もいます。ですから、学生はそうしたまだ未分化な層、階層としてとらえるべきでしよう」
阪大法学部二回生Y君は、自称民族派。三島由紀夫の熱心な読者だそうで、代表民主制における学生の比重がとるにたらないことを指摘しています。
「学生がひとつの共通の基盤に立つ層を形成しているとは考えられませんね。まして、階級なんてとてもじゃないよ。現象的には学生の数も100万人を越えているらしいけど、たとえば、有権者数に占める割合なんてのも、まだまだ小さいですよ。選挙がすべてとは決して思わないけど、学生集団の政治有効性は無に等しいと思いますね」
森田徳君(静岡大学教養部二年)は、はじめ代々木系の学生大会にも出ていましたが、代々木系の運動方針に疑問を感じ、また新左翼系のビラを読んでいるうちに、彼らに共感を覚えて、デモなどにも積極的に参加するようになったといいます。しかし、どのセクトも大衆を単に自己の勢力の拡張としてしかとらえていないととを知るにつれて、セクトへの反発感を強め、静大でのセクトが壊滅した現在は、完全なアンチ・セクト主義者を任じています。
「階級?イヤな言葉だなあ。この言葉自体に何か権力的なにおいを感じる。ぼくはすべての権力に対して嫌悪感を抱いていますから『70年代の階級闘争』なんて表現に対しても反発するし、それを否定します。マルキシズムだって、権力思想でしょ。学生が一種特別な集団であることは肯定しますし、あるいは"学生階級"と規定できるかもしれませんが、そう規定してしまったら、そこから一歩も出られないのではないでしょうか。ぼくは学生をもっとアナーキーなものとして、とらえた方がいいと思います。運動のあり方にしても、永続的な欲望に根ざしたものもあるだろうし、パッと突出して、パッとつぶされてしまうものもあってもいい。ところで、ぼく自身の位置がいまどこにあるか、実はよくわからないのですが、それでいて未来を志向しているんです。なんとか69、70年の時とは違った運動、組織を作りたいと思っています。それが、また、ぼくがきらいなセクトと同じものになるかもしれませんが・・・」

ィンチキでマンガチック
吉田徹君(静大教養部二年)は、北富士の闘争にも参加し、現地での緊張した空気と、大学での死にそぅなほど退屈な日常性との差があまりにも大きいのにアホらしくなり、やはり学内での活動を重視しなければと、昨年5、6月ごろからクラス活動に比重をおきはじめています。
「やっばり労働者階級とか資本家階級とは違って、階級と呼べるものじゃないですねぇ。60年代の全共闘運動を通じて、一つ明らかになったことは、学生だけの闘争だったら何をやっても負けるということでしよう。生産点にいないということが決定的で、頭の中だけはラジカルになりやすく、またすぐ行動と一致させようとする。思想がどこまで自己のものになっているかつかめないままやる。
中には義理と人情の世界でやるのもいます。だから、学生の闘争は学生だけに終って、外への影響力は持てません。これからの運動は、労働者や地域住民と連結することが、絶対に必要でしょうね」
立命館大学産業社会学部三回生のS君は自称ノンポリ。立命館闘争では一貫して全共闘シンパでしたが、金共闘が後退の上に敗北した現在、「残っているのは消耗感だけ」と、いささか自嘲的です。
「ぼく自身、今は負い目にしか感じられないのだけど、学生の生活の基盤は実に甘いんですよね。バイトの口がゴロゴロ転がっているから、食うには困らない。
やりたいときにトーソーに出かけていって、ショーモーしたら、わき目もふらずに後退できるんだからね。ぼくだって、階級意識は待っているつもりです。しかし、それは実に薄っぺらで観念的なものでしかないと、痛感させられるんですよ。書物によって得た知識にしか過ぎないんですね。階級意識ではなくて、階級知識といったほうが良いのかな。友人ともよく話すんだけど、学生はインテリゲンチアではなくて、インチキゲンチアだと思うんですよ。卒業してみなければ、丁と出るか半と出るか、本人にも全然わからないという意味でね」
関西大学法学部二年のT君も、同じように学生の弱点を知りぬいて、愛想づかしをしたようです。
「階級なんていうより、無實任でマンガチックな集団ですね。学園ユートピアを作るために戦うと高唱しながら、闘争前から敗北を予言している。現体制の打破をスローガンにして、傍若無人にあばれ回ったあげく、こわしたものは形あるものだけで、内容的には、何一つ変革し得なかったのですね。そのうえ、紛争中にセクト争いや、全共闘と日和見学生の対立で、真の目的がどこにあるのか忘れてしまう。結局、意識をふりかざしながら、やれることは学生という特権に甘えて、バカさわぎしかできない集りですよ」

宙に浮いて動揺する
だが、学生は知識層の卵だけに、やっぱりプチブルなのサと割切る見方も、依然として少なくありません。一方、その対極では学生をプロレタリアー卜、あるいはその予備軍と見なす考えも、相変らず有力です。
九州大学教養部一年のK君は、自分の生活態度から結論を引出しています。
「学生運動をやりながら、親の仕送りを受け、授業をさぼってマージャン屋に出かけるーやはりプチブルの生活としかいえないですよ。何かひとつ闘争を始めるにしても、自分自身の全生活を賭けたわけではないから、運動をやりながらも、欺瞞性をもっていますね。でも、多くの揚合は現実に何事もやらず、体制に流されているままでしよう。しかし、ぼくはプチブルだからこそ、ブルジョアジーの、あるいは体制の矛盾がはっきりとらえられるともいえますね」
同じ九大教養部二年のT君は、学生のプチブル性を認めながらも、だいぶ考えを異にするようです。
「現在の資本性社会のもとでは、学生は経済的基盤がはっきりせず、いわば宙に浮いた存在でしょう。学園闘争の際にも見られたとおり、小ブル独特の動揺性を色濃くそなえていましたね。学外の階級闘争がもっと煮つまって、革命の本体である労働者が立上がってくれば、学生も今ほどは動揺しなくなるでしよう。学生がひとつの階級を形成するかどうかについては、意識層としては感受性の強い独特の層を形づくるでしょう。現在の経済機構に組込まれておらず、宙に浮いた存在だからこそ、損得の計算を抜きにして純粋に闘争に立ち上がることも可能です。それだけにしぼんでしまうのも早いといえるかも知れませんが・・・」
九大教養部一年のN君、小学校人学から高校卒業まで“分断と競争”の中に置かれてきた優等生でした。大学進学までは、もちろんノンポリ、現在も特定の党派に属していません。このおとなしかった学生が、今では試験ボイコットの急先鋒。ある英語教官が五回以上の欠席者には単位を与えぬといったことに対して、クラス共鬪会議を結成し、単位の私物化や大学の権威・処分権の問題などを追及しました。とうとう、その教官の学年末試験はお流れになりました。
「現在の大学は、学生がもし沈黙していたら、今日の社会体制を維持するために、ブルジョア・イデオロギーを植えこむ場所ではないかと疑います。たとえば、工学部で技術を身につけて、社会に出てゆくことは、九大卒というレッテルをはられて、人を差別する役目を担うことになるでしょう。つまり、九大生であり、また九大の課程を通過することが、もう犯罪性をおびてきます。じゃあ、九大を退学すればよいかといえば、それはただの個人的な満足にすぎません。ぼくたちは学生の完全なプロレタリアー卜化をめざした闘争をやらねば、階級的抑圧から解放されないと思います」

学生でメシが食えたら…
大学の大衆化・肥大化が定着した今日、もはや“学生階級”は選良でも何でもなく、同世代の勤労者とくらべても、目立って変る点はありません。両者の相違点を強いてさがせば、学生とは「定職を持っていないことが、社会的に公認された青年の群れ」とでもいえるでしょう。卒業後とくに特権的な地位が約束されるわけでもない半面、いま流行の口調を真似すれば、ガクモンってなあに・・・という具合です。
岡二朗君(岡山大学理学部一年)の発言も、このあたりの空気を反映しているでしょう。
「学生はプチブルでも、プロレタリア予備軍でもないと思います。授業に出なくとも、別に生活に困るわけではないし、たとえばバリ封鎖のように、自分たちのやろうと考えたことを、そのまま行動に移せる特殊な層でしょう。なんといっても、学生は楽ですよ。これでメシが食えたら、いうことないですね。でも、学生の“自由”とは、実は不安なのかも知れません」
広島大学の構内。バリ封鎖の古戦場の本部前で、同人雑誌を売っていた文学部三、四年のグループも、似たようなことを言っていました。
「社会的に見れば、“学生さん”と呼ばれるクラスがいることは確かです。広島ではひところまで"学生さん"といえば信用されて、気持が悪いくらいだったけれども、封鎖以後は全然ダメですね。芝居をやろうとしても、会場を貸してくれないし、入場税のことでも、税務署が信用しませんね。学生ってアイマイで実体がなく、大学とは結局のところ出てゆくだけの所です」
「これが階級かどうかはわからないなァ、大学とはトンネルという気持が強いですね。ただ真っ暗というわけでもなく、ダイダイ色のナトリウム・ランプが輝いているのかも知れないですね」
大学の"正常化"以後、マジメな学生はせっせと勉強にはげんでいるといわれていますが、それは別に「真理の探究」をめざしているのではなく、優の数をそろえるとか、何かの資格を獲得するためで、自動車の免許を取るための勉強と大差はないでしよう。一方、そうでない学生たちは、管理社会のおぞましさを観念の上ではよく知っているので、大学在学の4年間というものを、束の間の自由の季節と見る傾向が強いようです。こうして、大学革命の"恐怖時代“が終ったあと、廃墟の中ではその反動として、安逸がむさぼられています。
(終)

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【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は6月6日(金)に更新予定です。

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