野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2025年09月

今回のブログは、「雑誌で読むあの時代」シリーズとして、『朝日ジャーナル』(1971年5月21日号)に掲載された「“学生階級”―その今日的構造 第8回」を掲載する。
「学生階級」ということについての連載記事であるが、第8回目は60年安保闘争に関わった活動家と、70年安保闘争に関わった活動家の「その後」についての座談かである。
この連載では、すでに60年安保闘争と70年安保闘争に関わった活動家の「その後」について個別に記事にしているが、今回はそれぞれ2名ずつが「その後」について語っている。
この記事が掲載されたのが1971年5月であるが、2025年現在の「その後」の「その後」が知りたいところである。
分かる範囲で今まで記事に登場した方のうち2名の方は、現在も活躍されている。
第1回に登場した北大の野村俊幸さんは、社会福祉士、精神保健福祉士として不登校・ひきこもり支援活動を続けている。また、第6回に登場した元日大全共闘副議長のK君は、広島県の江田島に、高齢者のためのシェアハウス「全共闘ビレッジ」を建設するための運動を続けている。
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【“学生階級”その今日的構進 第8回
60年と70年の「その後」(座談会) 活動家の軌跡④】
今回は60年と70年の活動家に2人ずつ集ってもらい, 評論家の鶴見良行氏を中心に「その時」と「いま」を語ってもらいました。
10年違いの両闘争の体験者の同には、闘争への参加の仕方から, 退潮期の身の処し方に至るまで截然(せつぜん)たる差があるようです。それはこの10年が、ある権威の もと「絵に描いたような典型的な左翼」を存在せしめなくなったことを示しているようでした。

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学生層の先駆性を意識しつつ
鶴見 人生の軌跡というのは、あとで考えてみてそう簡単に割切れるものではない。きょうは、60年代と70年代の活動家お2人ずつから、闘争の<その後>をどう生きているかをおうかがいするわけだけれども、場末の飲み屋で仲間たちと飲みながら人生について愚痴をこぼしてるみたいな雰囲気でやったほうがふさわしいんじゃないか(笑い)。そういった調子で、まず60年世代の方から学生運動とはあなたがたにとって何であったのかというところからはじめていただきたい。
60年代A 私は一橋大学を卒策したのが61年ですが、それまで、1年のときが原水禁闘争、2年は勤評と警職法闘争、3年4年は安保闘争と、ずっと続いた一本道だった。
私自身が闘争に深くコミットしたのは安保のときからですが、そのなかで強く考えていたのは、学生層の先駆性に訴えかけていくということだった。当時はまだ既成の左翼に対する一定の信頼感があって、卒業の段階で、会社に入って組合運動をやっていこう、そのためには生産会社がよかろう、生産会社も重化学工業がよかろう、そんな期待をもっていまの会社を選んだのですが……。
60年代B 私は中学校が京都の旭丘中学。ここは戦後民主教育の典型ともいうべきところで、先生の側から左翼的、進歩的なことはいいことだという逆の意味での修身を積極的に教えられた。それで、なんとなく左翼に対する免疫性ができてしまって、京大に入ったときには、よそから来た人間に対してある種の<教えてやる>という姿勢があった。
高校の一年先輩の北小路敏氏たちがクラス討論にくれば側面援助的な発言をしたり、メーデーとなると、クラスの人間を何人デモにだすかということが自分の努力目標になっちゃって。理学部だったので、湯川さんの名前に憧れて入ってきた人がたくさんいて、そういう人たちはほっとくと一生懸命に勉強しそうな感じがしたもんで、勉強もいいけど、他のこともやらなくちゃいかんというような(笑い)、いまからみれば非常に尊大な気持ですが、上から下への交通路として啓蒙的なことをやるなんてところから学生運動にかかわりだしたんです。私が学生細胞に属したのは2年のころです。
安保の前年に学部の委員長になってからは、上の指令を下におろすというか、とにかく官僚主義的に課せられた任務を消化することに一生懸命で、あまり勉強はしなかった。60年になると、本格的に闘いが盛上がってくるから、こっちは何もやらなくていい。はじめは方針をみつけ推進力を作り、自分も先に立ちという二人三脚だったのが、黙っていてもグングン押してくる感じがあったので、どこへ向けていくかだけを考えていればいい。そのころにはっきり代々木とは考え方が違ってきて、とくに60年安保闘争をめざして、最初に分裂した全学連大会では、ある程度全体的な根回し役をやった。その時点でだいたい左翼運動の中で裏方仕事をやるというコースをみずから選んだような気がしますね。そのおかげで、いまは新左翼の人たちからゲバられないという立場にいられるわけですが(笑い)。
いまは救援会活動に多少関係していますが、それを免罪符的な意識でやるという気持だけはフッ切れたように思う。68年以後、生活にひびくとまではいわないが、それと同じ位の額のカネを個人的にださなきゃいかんことがたびたびあるわけです。適当にカネだけだして口をぬぐってすませているという後ろめたさがなくなるには、ずいぶん時間がかかった。10年かかったような気がする。
鶴見 学生運動やると将来損をするぞというふうな思いは?
60A 活動家仲間では、この点はあまりシリアスに考えてなかった。ただぼく個人の場合は、会社が運動をやっていたことを調べていたことがあとでわかって、そのときに肌身に感じたぐらいですね。
それともう一つは、ぼくが会社に入るときの情勢認識としましては、こんなにどんどん高度成長が行われるはずではなかったですね(笑い)。5年後なり10年後にはピンチがくる。その決戦段階でどうするか。そのために、労働運動の右傾化をいかにくいとめるかっていう視点があった。70年世代の方にはそういう視点はないでしょ、まったく (笑い)。
60B 私はAさんよりも心配したほうかもしれない。教養部の2年間は週当にやって、学部にいったらなりをひそめて、ほとぼりがさめたころに就職しよう、家の事情もあって親孝行すへきだろうなあと思ってたんですけど、なんのことはない、3年のときには組織の命令で、おまえ委員長をやれ(笑い)。当時はまだ、学生運動でおおいに指導性を発揮した人間なら会社でも役に立つはずだというようなことをいう会社もあったか、一方で、組合運動をやるのだといって就職した1年上級の連中が、待ちきれなくって、いきなり組合の役員に立候補して排除され、会社そのものをやめてくるという例もあったものですから、私はどっちつかずの決定延期として大学院へいった。代々木のままであればそれなりのコースがあるわけですが、それとも自分から決別していたので・・・。

自分に発するもの
70年代C ぼくは日大へ入って1年から自治会の委員をやっていた。そのころの日大の自治会は、右翼的学内秩序の枠に完全にはまりこんで存在していた。
その中には自分で我慢がならんほどきたないことがいろいろあって、大学というものに対して非常な怒りを感じた、というより、もう日大にいることがいやになった。それで、67年の11月にぼくが学部(郡山の理工学部)の委員長になったときに、全面的に大学側に反対するスローガンをあげた。その最初が学部祭のときの講演会の問題。展望もないのに、大学側が講演会を認めなかったら、ぼくたちはストライキやっても要求を通す、なんて脅し文句を使って。だけどなかなかうっぷんは晴らせない。
そういう中で日大闘争が始ったときに、<あッ、これはなんとかなる>とぼくは思った。運動がどうなるという問題ではなく、これで自分が救われるんじゃないか、枠の中から抜けだせるんじゃないかっていう気持。自治会を解散して、闘争委貝会をパッと作ってね。いままでの自分の大学生活そのものをこれでもってご破算にしえるって気持がすごくありましたね、ぼくの中には。ぼくが学生にアピールしたことは、別に、<古田倒せ>っていうことだけじゃなかった。要するに、具体的にぼくが経験した大学の卑劣さ、それは自治会にかけられた卑劣さでもあったし、当然全学友に対する卑劣さなわけですよ。
そういうものを一つ一つ具体的にあげながら、こういう大学の中できみたちは何を求めるのかってことをぼくは最初に問いかけた。やっぱりあの20何億の脱税がきっかけとなって、学生同士の対話、意志疎通が自由自在に交差するようになった。あんとき必死だったからね。はっきりいって、何も考えてなかった。ただあらゆる人と接触をもって、話をするってことしか考えてなかった。
70年代D ぼくは東大へ現役で入って、東大闘争の始る68年の3月にはストレートに3年になっていた。というと、もっとも典型的な東大生という感じがもたれると思うが、いわゆる秀才じゃなくって、受験にしても一種のスポーツみたいな感じ、いつもギリギリですべりこむみたいな(笑い)。そういうぼくの性格が闘争へのかかわり方にすごく反映しているわけで、そこに始った東大闘争は早すぎたというか、ぼくより大きすぎたという感じがある。
よく、もっとも闘争とは無関係だと思われていた東大生が、一人一人いろんな問題を感じて主体的に立ちあがったというふうに美化されていわれることが多いが、実際は一部の問題提起者のあとを多くの学生がついていったのが東大闘争だったといえると思う。ぼくらが駒場のときに、党派の運動にあまり深くかかわりきれなかったのは、彼らはそれなりにいいことをいっているが、ひっかけようっていう下心をいつも感じたから(笑い)・・・。
そういう下心なしに信頼できる人たちが自分自身の間題として、たとえばぼくらより1年上の人たちはもう就職きまってたんたけど、<就職は問題ではない、やるべきことはやる>みたいな感じで、自分自身立ちあがって、それを基盤にしてぼくらに訴えかけてきた。それをぼくとしては受止めなきゃならなかった。そうはいうものの、全共闘のスローガンなり方針というものは、<すごくいいなあ>って感じる面もあるんだけど、自分でそれを担って他の人間に訴えかけることはできなかった。やっぱり、自分に発したものじゃないから、違和感があった。
たとえば、学問の自由とか大学の自治とか、かなり単純に体制イデオロギーであると片付けられていたという側面があるわけです。しかし、<そんな論理は担えるわけがない>って居直ることもできないまま集会やデモには参加してたけど、自分の闘争を生みだしていくってことはずっとなかった。むしろ、自分の頭で考え、心で感じることこそが本当の闘争なんだって気がついたのは、いわゆる闘争の敗退局面においてだった。いわぱ、<彼のいうことなら共感できる>と思っていた人間たちが、明確な方針もだせないし、同じ問題で悩んでいるって感じられたときですね。
鶴見 いつの時点ですか、68年の秋?
70D いや、69年です。ぼくは1月9日の機動隊導入で逮捕され、起訴になって4ヵ月間東京拘置所に入れられていた。そのあとですね。ぼくとしては、逮捕されたときに、これでやっと東大闘争が自分のものになったんじゃないか(笑い)・・・。その点、ぼくと同じょうな存在だった友人たちが同じようなことをいう。ぼくが逮捕されたときに、いままで自分は枯木も山のにぎわいといった感じでデモに加わっていたのが(笑い)、急に東大闘争が迫ってきた、と。
文学部は安田闘争後も授業紛砕がずっと続いていたが、11月ごろもうこれ以上やっても見通しはないからと、<授業介入への方針転換>と称して、みんな履修届だして試験うけて、という状況になった。
ぼくとしては、そうすっきり割切ることはできなくて、いわば猶予期間として、試験を一回見送り、結果としてまわりの状況から浮きあがった。それによっていろんなことが見えてきた。とにかく、あらゆる方針が信じられないとすれは、闘争の中でえた人間的なつながりをバックに、自分自身が見出した問題を徹底的に追求していくことしかありえないんではないかって、やっとそれに思いいたったのが70年になってからです。
鶴見  D君はわりとめずらしい例なんじゃないかな。いわば早発性に対する遅発性。そういう形で、3年生を3回やってまだ大学にいる。他の人たちはもっと要領よく卒業したり、他の闘いに転化してったりしてるわけでしょ。
70D  いや、例外ではなく、それか運動を支えた、 ごくふつうの人間をある意味で代表しているのではないかと思う。ぼくのまわりには、卒業を遅らせてある程度はっきりするまでっていうのが、かなり多い。

70年闘争は“学生運動"か
60A やっぱり60年闘争というのは“学生運動”なんですよね。でも、70年の運動は学生運動といえるのかどうか。個体自身に、深くかかわりあっている。安保闘争の中で何回か、全学連大会の議案を書いたが、その発想法はまだ情勢分析をやって活動方針をだすという演繹的なやり方で、そのあいだになんら媒介項がないようなものだった。ぼくが会社に入ったのも、情勢分析からスタートして方針を決めるという発想法に深くとらわれている(笑い)・・・。
60B  やっぱりある権威があった。
60A ありましたね。何をめざすかというと、前衛党の建設。みんなレーニンの『なにをなすべきか』を読んで、組織論を考える。教科書的な枠組みをでていない。まさに絵に描いたような左翼だったという感じがする(笑い)。
鶴見 B君は大学院に入ったのは決定延期であるといわれたが、その後は?
60B 民主化の限界性を口にしながらも、教室民主化運動に多少かかわって、逆に既成左翼から功績をめでられたこともあった(笑い)。研究のほうは、修士論文かいて、ある仕事をしたという感じはあったか、これからは境界領城をやんなくちゃしようがないということで、他の分野に足を踏入れた。そのころは非常に不遜なことを考えていた。右手と左手に博士号を二つぶらさげて世の中をハスにわたってやろう、と。こけおどしだってことは自分でもわかっていたが、おどされる奴がパカなんで、という形でね。
博士課程を終ってしばらくは、ある国立大学の助手をつとめていた。全共闘運動があと半年か1年遅れていたらおそらく講師へのコースにのって教員体質にドップリつかって、<いやあ、いろいろ事情もあることだから>なんて、左翼運動に物わかりのいい助教授にでもなっていたかもしれない(笑い)。
ともかく、研究者コースから自分でははずれないといかんと思って・・・。いまだに大学屋の周辺にいるし、今後もひょっとすると大学屋にもどるかもしれないけど、多少取返しのつかないズッコケかたをしたといえると思う。それは残念というよりも、やっとここまできたかという感じですね。
60A 私が入社したときは、社会党の社会主義協会派と社のかついだ右翼とか勢力伯仲で、組合の執行委員も半半、取ったり取られたりの状態だった。
ところが、63年の組合の役員貝遺挙のときに、ぼくらも社会主義協会の人たちと組んで立候補したら、徹底的にやられましてね。選挙のあといっしょにやった連中はぜんぶ、ほされたり、飛ばされたり。右翼の一元支配ができあがっていったときの挫折感は強かった。ぼくは安保のときはあまり挫折感を味わわなかったんで、そこで安保の挫折感をあらためて感じたことになる(笑い)。社会主義協会派というのは、ある意味でプロレタリアートに対する神話のかたまりのような人たちなんですが、そういった向坂理論のレベルで崩壊していく。そのあと私自身としては、仕事に没入して、運動にはまさに免罪符的にしか、かかわりあいをもってこなかった。
60B  会社に入った連中と久しぶりに会うと、どうしたらいいかって元委員長の意を聞くわけですよ。私はもう、「あんたがたの好きなようにやればいいんじゃないか。おれはおれでウジウジ大学でやってんで、あんたがたのほうがよほど厳しい状況におかれているはずだし、おれがいまさらとやかくいうことじゃない」と。60年のときのままだと、ウソでもいいから、ああしろこうしろなんていうところですけどね。
鶴見 大きな会社に勤めるよりも、小さな会社に勤めるほうがいい。取込まれてもたかがしれてる。あるいは、やめて大きな落差がない、というふうに考えて、小さな勤め方をするというのは60年代にはなかったんでしょうか。
60B  いたけれども、めだたないように入っていった。どんな勤め力をするにしても、おれはここでやるんだって人前でいえないような雰囲気があったと思う。

あらゆる人との対話
鶴見 やっぱり、いかに出世をしないか、いかに権力に近づかないかという工夫が必要だな。日本人は勤勉で、ある種の生産力理論にとりつかれる魔性をもってる。すると、すぐ位人臣をきわめちゃうのね。それではまずい。ぼくは若いうちに、一生ズッコケて暮らそうって自分の進路を決めちゃったんですがね。
70C ぽくは、日大闘争でバクられて、でてきたのが69年の6月。獄中にいるとき、おやじが広島から面会にきたが、<家族帝国主義粉砕>とかいって、ポーンとつっぱねちゃった。しかしおやじが体をこわして寝こんだりしたこともあって、おれも就職して家のこと助けなきゃいかんという気持が起こって就職試験受けに行ったんですよ。ところが、その会社の社長が、ぼくの学部の父兄会の役員やっててね(笑い)、<除籍>と書いてあるぼくの履歴書みたとたんびっくりしてね、「きみのうわさはよく聞いている」なんて話が始まって(笑い)・・・。こんなんだったら、もうおれ就職なんてやめてやるぞッ。しょせん、就職を選ぶってことが、日大でのきたなさみたいなものを逆に自分が身につけることになるんじゃないか、おれはバクられてるうちに日和ったなッという感じでね。
しかし、女房ももらったことだし、生活も苦しいし、なにかカネかせがなきゃいかんというんで、2ヵ月ばかり土方のバイトをやった。そして、こうやってフラフラしててもしょうがない、なにか自分でビシッといくものをやりたいと考えていたら、全共闘運動の出版をやっている全共社から話があって、そこにもぐりこんだ。
最初の話では、1万5千円ぐらいの給料もくれるはずだったんだけど、結局、交通費からなんから自腹切って、それを1年半、ことしの3月末までやっていた。いっしょにやってたSさんといつも話をするんです。結局ぼくたちは全共社からなにを得たんだ、と。カネも得られなければ、地位も得られなかった。
ただ、全共社にあらゆる層の人がたくさんやってきた。ぼくたちはそれだけでいいんじゃないか。あらゆる人と話をして、ぼくたちの闘いがどうであったか、これからのぼくたちが何をしていかなきゃならないのかって問題を、少しでも知ることができたんじゃないか。むしろ、ぼくたちが求めたのは、そういう無形のものじゃなかったのか、と。無形のものってのは、一つの目的でありながら目的でないような、そういうものを追っていくことが生きがいなんですよ、ぼくにとっては。
そのあと明治大学の生協に入って、このあい最初の給料もらったとき、ぼくはその日一日中憂鬱だった。3万4090円もらったんだけど、おれの価値はこれだけしかないのかなってね。やっぱりカネはほしい、一人前の生活をしたいという気持はありますからね。でも、次の日になって考えたのは、あの全共社にいたときの自分の気持を忘れたらいかんのではないかということです。要するに、無形のものがつかめないときには、ぼくは生協をでていくつもりなんですよ。

「転向三回説」にどう対処?
鶴見 ぼくは転向三回説なんです。ます卒業転向、次が結婚転向、それから子ども転向で、子どもが生れたときにほほ決定的にズブズブになっちゃう。
70C ええ、40代ぐらいの人で以前日共で活動してた人なんかにきくと、結婚するのはナンセンス、子ども作るのもナンセンス。で、いまだに籍も入れないで女房といっしょに暮らしてるとかね(笑い)。
60B それ欺瞞的だな。私はまだ独身なんですがね。
70C ぼくからすれば、そういう問題はのりこえちゃえばいい。要するに独身時代にできたことが、なんで結婚したらできないのか。結婚してもできることが、なんで子どもを作ったらできないんだ、という問題でしかない。
70D ぼく学生で、もちろん独身たからまだどういう道を選ぶかってことは選択してないが、どこへ行ったって、そこでやってる仕事自体では、いいことでも悪いことでもないだろうっていう感覚はすごくある。
60A 職業としての具体的なイメージは?
70D  一つの方法は、大学院へ行くこと。60年安保のときには、大学という戻り場所があった。しかし東大闘争はもはやそれを許さなくなったみたいな把握かぼくらにあって、現在逆にその観念にふりまわされている感じがする。大学院へ行くことかある意味で内在的に必然だった人たちが大学を去って出ていっちゃったりということがあるんで、帰って行く必要があるんじゃないかと思う。もっとも、いまから必死にやっても入れるかどうかおぼつかないし、一つの道でしかない。それからどこへ行っても同じだし、やりゃあなんとかなるっていう感じはありながら、やっばり、いやな仕事は勤まらないんではないかって感覚はかかなり確かなものとしてある。そうすると、ジャーナリズムなりその周辺みたいなところなら、入れてくれりゃあ入ってもいい。まあぼくの場合には、裁判をかかえてるってこともあるから、いわば成行きまかせっていう感じ。そこまではふっ切れてる。
鶴見 かりに企業を選んだとしたら、いわゆる職場内改良闘争にはどうかかわりますか。
70D ぼくらの場台、闘争をやった人間の一種の諦めのよさっていうのかな、彼らがわれわれを管理の対象としてしかみないのは当然だし、それなりに彼らはよくやってるみたいな(笑い)見方がどうしてもある。その意識こそがぼくらを動けなくさせてしまうものだと思うので、 そのへんはきちんと自己対象化していかなくてはならないと考えているが、それ以上の具体的なイメージはない。
鶴見 C君もD君も、これからもずっと運動を続けていこうと考えているんですか。たとえば、この世の仕組みを変えるためとか、自分の職場を変えていくとか。
70C ぼくはそういう次元では考えない。要するに、おれとしてどうするかってことしか考えない。では、いま自分のやってることが運動なのかっていったら、おれはやっぱり運動だ。闘争であるっていいますよ。

歯止めなど考えぬ
鶴見 人間というのは知ら知らずのうちに、世の中の風潮にそまったり、職場の空気になじんだりして、変っていくものでしょ。すると、これだけはおれはしないってことはあるわけですか。たとえば、戦争にはいくまいとかさ。
70C  ないですね。
鶴見  ある意味で、歯止めがきかなくなる可施性は?
70C  あるでしょうね、それは。そういう恐怖感は給料もらったときに感じた(笑い)。そう感じたってことは、一歩ぼくがその中に流されてるってことだ。とすれば、その感じをもっと強烈に感じる必要があったんじゃないかって、悩んでいる。
鶴見 ぼくはかつて、“二足のワジジ論”というの書いたことがある。そのときに歯止のことを考えた。理思的なのは、一足のワラジでとことんまで貫くことだが、それはとてもできまい。とすると、二足のワラジを計算のうえで、はくしかないだろう。だけども、その二足のワラジが絶対矛盾をおこすことはありうるし、そのときにそれまでの自分がえた安定とか富とか名声とかのために、自分の中に正当化の心理が働いてずるずるべったりになってしまわないように、なんらかの原理が必要である。そこで、妥協のワラジの部分が戦争にかかわるようになったら、やめちゃおうと考えた。ところが、いまの社会では、何が戦争にかかわるかってことを決めにくく、歯止の問題は非常にむずかしくなっている。
70D ぼくなんかそもそも歯止の観念がない。これを歯止にしなきゃあなんてこと考えだすときには、もう流されているときだろう。たとえば、敗北局面ではやんなきゃいけないとわかってるつもりなんだけど消耗だなあっていう感覚が絶対ある。いままではそういう感覚は単に押殺すべきものと捉えられていたと思う。しかし、単なる弱さとみなすだけでなく、そもそも消耗感をもたざるをえないものとして方針を捉え返してみることも必要だろうし、自分の中におこることをいっさい抹殺はしないで、その先に何でてくるかをみつめていく。そういうふうにしてしか、ぼくらは生きてゆけない。
鶴見 その場合には、ある種の徒党の組み方が必要になってくるんじゃないか。自分一人だとどうしても流されてしまう。
70C それもいうなれば、無形のものですよ。いつどこでゼロになるかわからないし、いつどこで千になり、万になるかもわからない、そういう徒党の組み方ですよね。そういうものってのは、個々がそういう徒党を作るんだって気持ちで日常の生活をしていかないと、作れない。

しゃべらぬ人たちの心
鶴見 D君にききたいが、東大全共闘運動をやって企業に入っていった人たちの多くが、いまものをいわない状態にあるという話を聞いている。はたして彼らはつぶれてしまったんですか。
70D  つぶれたって表現は一般的だと思う。ただ、やっぱり、あんまりものをいいたくないという感じをもっている人は多いと思う。それは、就職するときに、譲るべきないものを譲ってしまった、いまの自分は完全に体制の補完物でしかない、という感覚に捉われているからだろう。みんながポシャっていく過程というのは、68年までに論理化されたものを食いつぶしていく過程であった。
しかし補完物だなんていって自嘲しているわけにはいかない。闘争以前はぼくとなんら違わなかった人間が、具体的に袂をわかっていった。その分化の仕方は実に鮮やかだ。
と同時に、彼らは客観的可能性としては、ぼくと同じでありえた、かれらはすべてぼくの分身でもあるという感じがする。そのへんから、自分自身の体験の固有性、独自性をぜひとも明らかにしていかなければならないのではないか。独自性を意識し、何らかの自己表現をもとうとするかしないかで、感じ方も具体的な行動も違ってくる。就職してしゃべらない連中とぼくとの違いはそこではないかと思う。
鶴見 しゃべれない人たちの場合、みずから韜晦(とうかい)して、わざと語れないと称しているということは考えられませんか。
70D 重すぎる状況の中では、自分をごまかさないかぎり何もしゃべれなくなるということだと思う。何をいってみても上すべりしちゃう。しかも、やんなきゃいけないことがあると思いつつ、何もいうことがないというのは苦痛なことだ。しゃへるのにも、しゃべらないのにも違和感がある。しかし自分のそういう存在を客観化していかないかぎり、いつまでたってもある表現への道筋はできてこないのではないか。

企業内情報の暴露
鶴見 職業と運動の関連でいえば、だいたい三つの型がある。一つは、組合主義的な動き、それから、たとえば課長ならあくまで誠実なよき課長として精いっぱいやっていくという体制内改良主義、第三番目には、一種の土民主義的なグループを会社の中に組織していく方法。どれも、なにがしか<転向>の問題をふくむと思うのですが、その点はどうでしょうか。
60A  積極的に会社の手先になっていくというハデな転向をしたのは、ぼくたちより前に多い。60年世代の場合には、まさに押流され型の転向というか、非常にウジウジしている。その意味では、ぼくらには歯止論的な考えがつねに頭の中にある。ぼくたちの仲間でも共産党に入りなおした奴がいる(笑い)。歯止として党を使う。そして結局、またやめたり。それから、<隠れキリシタン>という言葉がはやったこともあるが、やっぱり<偽装転向>というのはありえないという気がしますね。急になにかやろうと思っても、害毒しか流さないし、自分で組織していくセンスとか能力自身が消滅してしまっている。
だから、鶴見さんの言葉でいうと、ぼくは最初は組合主義的な立場で何かやろうと思ったけど、それが挫折して、いま土俗的なやり方を模索している段階といえる。大学出のサラリーマンは既にエリートでもなんでもなく、上の方がどんどんつまってきて、いくら会社に忠誠を尽くしても出世はなかなか困難だということがはっきりしてきた。食うために会社にいるんだ、出世は志向しないし事実上出来ない、という意識をもった人が会社の中に非常にふえている。そういう人は自分で旗をふったりしないが、それなりできることがあるのじゃないか。私がいま考えているのは、一種のカワラ版による企業内のマル秘の暴露です。しかも企業を越えてヨコに徒党を組んで、千とか二千という単位で編集していけないかと。
60B 面従腹背ですね。
鶴見 たしかに内部通報の組織化はもはや架空の問題ではない。現にラルフ・ネーダーはそれを利用している。反軍闘争にしても、外側から攻撃をかけるだけでなく、自衛隊に入ることによって、内側から情報を暴露しなければもはや前進しない。ただその場合非常にむずかしいのは、通報者のはずが、だんだんその中で生きがいを感じちゃうという問題だ。いかにして初志をとぎすませたままでやっていくか。
60B 私ははじめにいた私立大学で、機動隊アレルギーを利用して、助手の会を組織して50日ばかり実質ストみたいなことやったあと、教授と対立したこともあるし、エリートコースに踏み込む可能性を自分に残しておくのはおかしいというので、やめたわけです。そのあとは、新左翼運動の応援団みたいなことをやっている。実害をなるべく流さないように。
ある意味で70年の人たちの未熟さが非常に目につくんですよ。やっぱり昔の日本共産党というのは、よかれあしかれ唯一の日本での革命学校であって、その中でそれなりの組織活動の基本を身につけた。いまの人たちはときどきザルで水をすくっていたり(笑い)。とくに組合の中でやるときには、<民同>といって批判している人たちほどの実力もない。まして代々木はもっとあくどくて、落し穴にもろにつっこまされちゃう。非常に歯がゆいけれども、私がシャシャリでていけは、逆に毒害を流すことになる。結局何をやっているかというと、昔の仲間と連絡をとりあって、カネを出したり、バイトの紹介をしたり。
鶴見 実は私は10年前にも同じような<職場内運動>をめぐる座談会をやったことがある。そのときも、ヨコのつながりによる組織化の必要性が説かれてたけれども、では、職業をもった人の慇懃雌伏10年の切磋琢磨がヨコに広がって、69年なり70年でパッと火がついたかというと、そうはなっていない。ですから、高揚期をすぎたあとのポスト・ピーク・オーガニゼーションの問題にいまこそもっと真剣に取組む必要かあるのではないか。
70D そのピークのときにはらまれた観念による一種の呪縛がどうしてあって、闘争を思い出としてしか語りえない。しかも、日大などではほとんど除籍されちゃったりして、バラバラになっていかざるをえない。その点、ぼくらには分断されないまま日常的な接触を保つことを許す程度の状況がいまある。しかし、そろそろこの6月がタイムリミットの時期で、ぼくらより一年上の連中が東大から追い出されちゃう。何年かたってたまにみんなが集まっても、闘争を思い出して語るというか、同窓会みたいなことしかできないんだったら(笑い)、何もしなかったのと同じじゃないか。そういう危機感はみんなもっている。
いまのところ、研究とか討論の場が設定されても、みんな口が重いが、 一対一になればかなりつっこんだ話もできて、話しているうちにいろんなことがはっきりしてくるという感じはある。だからそれを目的意識的に持続し、できる限り言葉として定着させること通じて、もっと確かなつながりが得られるような気がして、今それを何人かで始めている。
(終)

【「カチューシャ」とウクライナ戦争】の紹介
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『「カチューシャ」とウクライナ戦争』(彩流社)定価2,200円 (税込)前田和男 著
日本では青春のラブソング、独ソ戦では戦時愛国歌謡、現在では北朝鮮兵士がロシアで歌うカチューシャの歴史を読み解く歌謡社会学

『昭和街場のはやり歌』(彩流社)の続編で、ロシア歌謡の「カチューシャ」からロシアのウクライナ侵攻の行方を読み解く試みです。

白井聡氏から推薦をしてもらいました。

たとえば、以下のエピソードから、ウクライナ侵攻の決着を占います。

▼「カチューシャ」はスターリン体制下で生まれ、ヒトラーとの壮絶な「大祖国戦争」を鼓舞した「軍歌」であり、「スターリンの死のオルガン」と恐れらたロケット砲の愛称でもあった。

▼2022年2月ロシアのウクライナ侵攻の半年前、東京五輪で「国歌」代わりに要求しIOCから「愛国的」として却下された歌、それは「カチューシャ」だった。

▼ウクライナ侵攻から1年1か月後の2023年3月22日、モスクワ中心部に近いルジニキ競技場に若者や軍人など20万人が参加してウクライナへの軍事行動を鼓舞する大規模集会が開催。その冒頭を飾ったのは兵士たちによる「カチューシャ」の大合唱であった。

▼「中国の人気歌手の王芳がロシアの攻撃で占領されて廃墟となったウクライナ東部のマリウポリ劇場を訪れ、『カチューシャ』を熱唱し、それをインターネットに投稿した」

▼2019年。「如意(ルーイー)」と「丁丁(ディンディン)」のつがいのパンダがモスクワ動物園へ。そして、ウクライナ侵攻がはじまって1年後の2023年に待望の赤子が誕生。翌2024年3月に般公開されたが、ここで着目すべきはその子の名前。なんと「カチューシャ」。これまで日本はもちろんロシアをふくむ世界の 国々に贈られた中国外交のシンボルは、その子供をふくめてすべて中国名。それは贈り主に配慮しての外交的辞令だが、中国政府はこれにクレームをつけるどころか、歓迎して同国メディ アでも報じられた

▼さる6月上旬、ロシア国営テレビの女性レポーターが、現在ウクライナでもっとも戦闘が激しいと伝えられるクルクス州の最前線で訓練中の北朝鮮兵士を取材、戦闘中の意思疎通をはかるために 「朝露の会話 集」が作成されたと報告、ついでボルシチなどのロシア料理にもなれ、スマホで映画を見放題で満 足しているという兵士のコメントを紹介し終わると、北朝鮮兵がいきなり「カチューシャ」を朝鮮語でうたいだした。

【昭和20年生まれからキミたちへ】の紹介
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『昭和20年生まれからキミたちへ』(世界書院)定価1,650円(税込み) 
終戦の年の昭和20年に生まれた各界で活躍する10人のロングインタビュー。
▼彼らが戦後の復興から高度成長期そして現在までの80年をどう生きてきたのか。彼らの生き方を通して戦後の日本の足跡が見えてくる。
▼そして彼らが若者に託すメッセージは何か。
▼東京新聞の連載企画を大幅に加筆した。

【お知らせ その1】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。

●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は10月17日(金)に更新予定です。

今回のブログは、「雑誌で読むあの時代」シリーズとして、『朝日ジャーナル』(1971年5月14日号)に掲載された「“学生階級”―その今日的構造 第7回」を掲載する。
「学生階級」ということについての連載記事であるが、第7回目は60年安保闘争に関わった活動家の「その後」10年の軌跡を追った記事である。
60年安保闘争は70年安保闘争の10年前。当時、60年安保闘争経験者と接する機会はほとんどなかった。
60年安保闘争経験者の話を聴けるようになったのは最近のことであるが、『叛乱論』などの著書がある長崎浩氏は、以下のように語っている。

「樺美智子を国民葬として送葬した国民運動は、安保闘争を通過儀礼として、ではどんな60年代をもたらしたのか。
 安保闘争は55年以降の戦後政治過程に特徴的な国民動員方式の頂点でした。つまり、平和と民主主義をめぐって国会では与野党の対決、これに呼応して総評社会党主導の統一行動が組織され国会へ向けてデモが行われます。このモデルがその後ピタリと終わりを告げます。そしてその足元で、御存じの経済高度成長と大衆消費社会が盛りを迎えていました。「所得倍増」などという池田勇人首相の嘘のような約束がどうやら本当らしい。当時私自身、大学助手の月収が2万円、それが6年間に確かに倍増以上になってびっくりした覚えがあります。ここでまた、先の私の著作『1960年代』から引用します。
 この年(1960年)の6月から3か月ほど、私は家に帰れない事情に置かれていた。岸内閣が倒れ代わって池田内閣が成立し、私がはじめて深夜家に帰ったとき、家にテレビが入っているのを発見した。それまでは私鉄の駅前広場に据え付けられたテレビの前で、黒山の人だかりにまじってプロレスなどを見ていたのである。だからこの私の帰宅の夜から、「高度消費社会」「所得倍増」の10年がまさに始まったのである。私には、自分たちが期せずして高度消費社会の水門を開いたのだという唖然たる思いが、その後長くつきまとった。
(10・8山﨑博昭プロジェクト東京集会「60年代の死者を考えるーレクイエムを超えて」【長崎浩氏講演 「樺美智子と私の60年代」】)
もう一人。元東大全共闘代表の山本義隆氏。
「実は私自身は、樺さんが殺された6月15日には風邪を引いて寮の部屋で寝ていたのですが、そのこともあってなんとも吹っ切れない想いというか負い目のようなものが気持ちの中に残りました。もしかして、この想いこそがその後10年間の私の歩みの原点なのかもしれません。
このように私は6・15闘争に衝撃を受け、それまでの中途半端な関わりを悔やむことになった次第です。そんなわけで、翌日からはほぼ連日国会に向かいました。そして改定安保条約が参議院の議決を経ることなく自然承認された19日の夜、国会前で徹夜しましたが、翌朝総評の宣伝カーが「10年たったら闘いましょう」と言っているのをぼうっと聞いて「あっ、10年先か」と思いましたが、発言する方もリアリティがないので、聞く方もリアリティがありませんでした。」
(『私の1960年代』 山本義隆著)

60年安保闘争は「高度経済成長社会」の幕開けだったということである。そして、リアリティのない「10年後」の安保闘争。60年安保闘争を戦った活動家たちは10年間、どのような人生を歩んだのだろうか。
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【“学生階級”その今日的構造 第7回 屈折のなかの沈黙 活動家の軌跡③】
編集部
60年安保闘争を闘った学生活動のほとんとは、58年、物神崇拝を排し、日共の引力圏から脱して結成された<新しい党> 共産主義者同盟 (ブント) に依拠していました。彼らが安保ブントに託したものは何か、闘争の中で何を得たか、就職にあたってそれをどう継承させようとしたか、そして10年ののち、結果はどうだったでしょうか。
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「60年」から11年
「いまのボクには、確信をもっていえることはたった一つしかない。 <自分のこどもがかわいい>ということ。それ以外は、何をいってもウソがまじる。< レボリユーション>ということばや『インターナショナル』のメロディーは、かつてポクを感動でしびれさせたけれど、いまは何も感じさせてくれない」
Sさん(32)は、63年早大政経学部卒。いま、4人の仲間と東京・渋谷にマーケティング・リサーチの会社を経営する。4人とも重役兼社員という極小の企業だ。二歳半の女児の父。
Nさん(31)も63年に東大文系卒。都内の大手広告代理店に勤める。この3月に結婚したばかりだ。背広にネクタイ、腕元に光る社員バッチを指で押えながら、
「サラリーマンとしての最低の条件である身だしなみ、出勤時間、与えられた仕事の消化などは、厳守する。だが、それ以下でもそれ以上でもない。ボクの会社における基本姿勢は<居直り>。同時に、若い連中のようにそう簡単にはやめないで、あくまで<居残って>いくこと。<挫折>ということばは生理的にきらいだが、いまのボクはそう呼ばれてもやむをえない。安保闘争にエネルギーを燃やしつくしたんだろうか、いまは何も燃えるものがない。賭けマージャンと、競馬には瞬時的に燃えるんだが・・・」と自嘲するのだ。
昨年秋、経営勉強のためにアメリカへ行ってきたというAさん(35)は、61年京大経済学部卒。現在は、京都のある食品会社の専務さんにおさまっている。学生時代から、当時対立していたある革新政党の書記長の顔に似ていたそうだが、今では恰好まで似ている。
「今じゃ宇野弘蔵とか大内兵衛のようなマルクス経済学者の本は読まない。そんな本より経済企画庁の出している経済白書の方がよほどぴったりくるね」というのが本人の弁。しきりと「資本主義は変った」と強調したり、「官庁の中にえらくよく勉強している奴がいる」というのが持論だ。
この会社には、被雇用者に学生運動経験者も少なくないといわれている。が、周囲の話では、もっぱらAさんの経営合理主義の発想からだという説がつよい。Aさんが経営に乗出してから会社もずいぶんと伸びたからだ。
68年から69年にかけて高揚した全共闘運動は、活動家たちがそれぞれ<生きがい>を求めた文学運動としての側面を強く持っていた。彼らは、自分の感性に忠実であり、多様な自己表現を示した。それは、闘争へのかかわり方、闘争の中での生きざま、<その後>の選択の仕方なと、すべての局面にみることができた。では、60年安保闘争の活動家たちはどうだったのか。まず、彼らはどのように闘争にかかわっていったか。

義務課題・マルクス主義
Sさんは東京生まれ、早大付属高校から早大へ進んだ。高校時代に『共産党宣言』『国家と革命』『なにをなすべきか』などマルクス・レーニン主義の古典を数人の仲間と読みあった。「ほとんど理解できなかったが、運動するにはともかく読まねばならぬと思いきめていた」。
マルクス、エンゲルス、レーニンかち黑田寛一、宇野弘蔵、へーゲル、そしてトロツキーへ、さらに谷川雁、吉本隆明の著作へ。「ともかく読まねば」という義務感的な動機とその読書過程は、多少のパリエーションはあっても、60安保の活動家にほとんど共通だったといえる。
この点、全共闘運動の活動家たちが各人各種の読書歴を持ち、その多くがマルクス・レーニン主義の古典も「わかりにくい」「おもしろくない」と、あっさりしりぞけてしまっているのと対照的である。
Sさんは、高校時代に勤評闘争を経験して59年に早大へ。その前年、全学連は代々木の引力圏から脱出し、共産主義者同盟(ブント)を結成していた。しかしSさんが入学早々に選んだ社会主義研究会は、当時はまだ代々木系の全自連の活動家か支配していた。高校時代から「日共の官僚主義への反発をほのかに抱いていた」というSさんは、結成まもないブントに入り、全自連系と対立。「しかし、彼らとの理論的闘争の中で、ボク自身もずいぶん鍛えられたと思う」という。
警職法闘争から安保闘争へ。「安保改定は阻止できる、いや、何がなんでも阻止しなければ、と信じて、全力あげてかかわっていった。まじめさ、真剣さ、ということでは少しのいつわりもなかった」という。
Nさんは、大阪市の南部で生れ、興国高校に通った。高校時代の活動歴はない。だが、級友には、未解放部落や在日朝鮮人の生徒が数多くいて、差別の現実と日常的に直面していた。このころ、「この国の社会の底辺を形づくる差別構造をなくさないかぎり、本当の解放などあるものか」と痛感していた。いっぽうで『きけわだつみのこえ』を読み、あの戦争のさなかにも歴史の行方をみきわめていた学生たちがいたことを知って、「彼らはよほど勉強していたのにちがいない。ボクも勉強しなければならない」と期した。
菓子問屋の父が病死して家計は苦しかったが、アルバイトと奨学金で自活することを条件に59年東大へ。駒場寮での一年間は、Sさんとほぽ似たような読書過程をたどりながら、歴史学研究会、社会主義研究会、新聞会の先輩・同輩とつきあいつつ、マルクス・レーニン主義に接近していった。「この国にも体制を批判する勢力がいたのかと、はじめて知ったようなザマだった」。
高校畤代に抱いた差別構造への激しい怒りは、読書と、警職法闘争に続く、59年の“安保前哨戦”の経験を通して、安保阻止→岸内閣打倒→体制変革という図式に「楽観的に」むすびついていった、という。アルバイトの家庭教師をすませてからデモへ、あるいはデモを終えてから家庭教師へ、という日々もしばしぱだった。
57年に京大に入学したAさんの場合も、学生運動にかかわることは同時にマルキシズムに近づくことであった。
「マルクスの『共産党宣言』から『経哲手稿』を読むことはインテリへの急行券のようなものだった」とAさんは当時の雰囲気を説明している。
むろん、きっかけはそんな単純なものではなかったが、今のAさんにとって、他の要素は「あまり重要ではない」。インテリへの急行券を手に入れて、当時のマルクス主義運動の波にもろにもまれていった。だから、平和擁護闘争などを通じて全学連の党員と共産党主流との対立にも、Aさんは「58年入党したが、脱党するために入ったようなものだ」った。
Aさんは、マルクス主義運動の中に、人間解放に燃える自分を感じとっていたが、「それは大学の日常生活とは全くかかわりのないものだった」と今となって回想している。
60年当時の学生運動がマルクス主義運動と直接結びついていたことが特徴とすれば、Aさんはその典型であった。

帰郷運動のショック
ハンガリー事件が大きな転回要素となって、Aさんたちの世代は反スターリン主義の思想的堅固さを次第に共有してきた。Aさんは結成前のブントに、自分の気持と行動の一致を感じていたという。つまりその時のブントで「きわめて肉感的な経験をした」。
「当時のブントは、いわば全共闘と同じような質をもっていた」と話すAさんはイデオロギーよりも運動に多くかかわっていった。絶対的に勝たねばと思っていた勤評闘争、警職法阻止闘争の敗北の後、59年の12月、Aさんは京大同学会の委員長に推された。そして60年安保をこの立場で闘うことになった。一時、全学連の中央にも関係したが、60年安保での舞台は、3、4回東京へ出ただけでほとんど京都で闘ったという。
60年安保の敗北は、ブントにとっても転機であったように、Aさんにとっても直接的には敗北のショックと、間接的には所属するブントの混乱・解散によって転機となった。
そのうえ、ちょうど同時期に国際共産主義連動に决定的な影響を与えた『モスクワ宣言』で思想的な転機とも重なった。幾重にもある要素で、Aさんは組織とかイデオロギーに不純なものを感じるようになっていったという。
「安保は阻止できる」と確信して安保ブントの活動家として闘争に参加していったSさんにとっては、「安保闘争はまぎれもなく政治闘争だった」。彼も、闘争の過程で「<生きている>というたしかな充実感はあった」と認めるが、全共闘運動の活動家の多くが、なにはともあれ闘争に<生きがい>を求めたのとはやや異なる。そこではあきらかに、「安保阻止」という政治課題が先行してあった。
安保は成立した。が、その時点でも、「10年先の闘争にむけて、草の根の工ネルギーを貯えるべきだ」という主張だった。夏休みを迎えて、地方出身の学生は「帰郷運動」のために続々と帰省していった。「故郷」を持たぬ彼も「地方の人びとに安保闘争の意義を伝えたい」と、母の出身地、群馬県館林市外を訪ねた。ブントが発行したパンフ・ビラなどを用意し、地方の同世代の青年と夜を徹して語りあいたい、という彼の願いは、しかし、みごとにはずれた。
「彼らは、終始沈黙したままだった。ボクはなんとか彼らの関心を高めたいと、6月15日前後の国会周辺での激突場面の写真を示し、できるだけリアルに説明したりもした。そのときは、彼らも興味を示したが、闘争の意義や全学連の理論などはほとんど反応してくれなかった。<オレは活弁師にすぎないじゃないか>と気づいたとき、どうにもシラケちゃって・・・」
夏休みが統って帰京した仲間たちの感想も、彼と大同小異たった。彼らとの討論の中で「われわれの失敗は、そもそも<闘争の意義を伝える>ということばの背後に、<無知な大衆に教えてやるのだ>という思いあがった啓蒙主義があったからだ」と気づいていったという。
「安保成立のときのショックよりも、帰郷運動とその反省の中で受けたショックの方が、あとあとまでこたえた」
その後は、しばらく「優」の数をふやすことに専念する。学問に期待感があったからではない。不況がうわさされ、活動家への門戸はきびしくなるという風説に、「若干おびえた」。優をとるためだけの勉強は、いわば技術であり、あとには何も残らなかったが、ともかく逮捕歴もなかったから活動家としての痕跡を抹殺でき、中の上ぐらいの成積で卒業した。

きたない手段も
Nさんにとっても、「安保闘争でエネルギーを燃やしつくした」とはいえ、「安保阻止」は絶対命題だった。だが、駒場キャンパスにおける中心的活動家の一人だった彼にとっては、当面の課題は、駒場寮の寮生大会や代議員大会で全自連系をいかに制して多数派をとるか、だった。「ありとあらゆるきたない手段を弄した」。たとえば、全自連系のリーダーのアジ演説が最高潮に達するころ、「あいつは党の地区委員だ。毎月8千円の手当を党からもらってんだ」と、人垣の学生に耳うちしてまわり、「よう!お手当8千円」とやる。爆笑の中で、アジ演説の効果はいっぺんにふっとぶ。
「政治的緊張感の中にも、マヌーパー(うまく操作する)を駆使してゲームを楽しむような気分もあった」
当時のブントを指導した活動家たちは、組織にも理論にもほとんど信仰を抱いていなかった。“ブント雑炊論”といわれたように、黒寛も宇野もマルクスもトロツキーも、利用できるものはなんでも利用しようという姿勢であった。組織もまた、ピラミッド型に確立されていたわけではなく、とくに60年6月に入ってからは、状況の激しい進展に指導部も理論にもとづいた方計決定を出せなくなり、各大学自治会単位で行動した、という。
6月15日深夜、すでに樺美智子さんの死が確認されたあとだった。国会に再突入をはかろうとした全学連の前に、Nさんには思いもかけず、全自連の学生、日共が指導する労働者らがピケを張って立ちふさがった。全学連の隊列は、背後の機動隊とピケラインにはさまれ、分断されて、そこへ機動隊が襲いかかってきた。Nさんも後頭部を強打されて倒れ、あとは2、3度体が宙に浮くのを感じただけで、意識を失った。
「ポクの安保闘争は、あのときで終わったのです。機動隊にぶん投げられているとき、ふっと意識をとりもどしたんだけど、そのとき<オレはなぜここにいるんだろう>と思った。それは実に白々しい感覚だった。絶対的な疎外感だった。おそらく、機動隊への恐怖感、戦列からボロボロ欠けていった連中へ不信感、ピケを張った労働者や学生への怒り、樺さんの死のショックなどがないまぜになった結果だろうけど、あれいらい、すべてのエネルギーが消えていってしまった」
彼も、安保闘争後に起こったブント再建の動きに背をむけて、キャンパスにもどり、「進級に必要なギリギリの勉強」で、留年することなく卒業した。

表面には立つまい
Nさんは「その後」の選択をひかえた四年生の夏、活動家だった仲間たちと、「これからは目立つ存在にはなるまい。社会の表面から消えてしまおう。のたれ死にだけはしないで、まっとうにタタミの上で死のう」と確認しあったという。
いまの広告代理店に縁故就職するとき、社長の前で、口頭ではあったが「組合活動はいっさいやらない」と約束した。約束は、いまも守っている。
「もちろん、会社への恩義もクソもない。企業への帰属意識は、いまの若い人より希薄じゃないかな。ただ、始めから体制内改良闘争に賭けてみる気などなかったのです。労働者階級そのものに、強い不信感を抱いていたともいえる。安保以後、労働戦線は急速に右傾化するだろう、と予測していた。右傾化を阻止するのだと、勇んで飛びこんでいった連中もいたが、ボクやまわりの仲間は、ムダなことだと思っていた。しょせん東大出のボクらは、たとえ努めてみても労働者になれない。なまじ安保闘争の中で、代々木との激しい抗争できたならしいマヌーバーを身につけてしまったから、むしろ害毒を流すぐらいが関の山だ、と思ってからです」
労組執行部の会社との駆け引きや、組合員への働きかけをみていると、なんとも幼稚にみえる。つい口を出したくなっては、自制する。「俺が教えられるのは、うすぎたないマヌーバーだけだ」
仕事は、「給料分だけ」をメドに片づける。仲間とくらべても、同じ仕事を半分ぐらいの時間ですませられることにかすかな自負を抱くが、それだけのこと。「上方志向性はまったくないですね」と断言する。
その彼が、「闘いというにはあまりにささやかなものだが」と前置きして、しかし広告代理を依頼するスポンサーが、あきらかに公害企業である場合、その仕事を絶対に引き受けないことにした、という。彼の理由は、
「いまのボクは、個人の自立領域を侵すものは計さない、というのが信条。プライバシーを絶対に侵害させない。たとえば、ボクが結婚したとき、会社と労組が祝金を贈ろうといったがことわった。ボクの結婚は、会社や労組と関係ない。妙な関係を強要されたくない。公害は、自立領域を侵害する最大のものだから、これとは妥協したくない」
そうはいっても、彼の低抗がほとんど無効であることは承知している。彼がことわっても、他人にまわされるだけだ。
「まあ、いまのところ自分の手だけは汚したくないということだけ。でも、ボクのような人間がたくさん出てくればおもしろい。他人にむりにすすめるつもりはないけれども・・・」。
Nさんは卒業後8年にして、かつて見向きもしなかった“有効性の論理”にやや近づこうとしているかに見える。しかしSさんの場合は、その逆だ。

職場改良闘争の結末
Sさんはつい最近まで改良闘争に「賭けてみた」一人である。卒業後、彼はマーケティング・リサーチの中堅会社に就職、昨年11月に脱出していまの会社に参加したのだが、前の会社では、入社の翌年に組合員68人の労組の執行委員長、4年目からは委員長となった。上部団体もなく、運動方針もない、しかも半数が高卒の女性で課長までが組合員という小組織。必死のオルグで、ベア闘争や期末闘争でストライキ権を確立できるまでにはなったが、そのあとは不発。課長の組合員(12人)らの切り崩し工作にしてやられた。
一昨年秋、社長は彼自身を課長補佐に昇格させて、行動を封じにかかってきた。彼はまもなく委員長を辞任。その直後に、彼が育てた労組は25歳の委員長の下に若い組合員が団結し、賃上げ、社長のワンマン経営阻止をスローガンにストに突入したのである。
「痛烈な皮肉でしたね。ボクは彼らに乗り越えられたーーこのことは明確な事実だけれども、過渡的に有効性を持つことができたのかどうか。ひょっとしたらボクなんかいない方がもっと早くストに入れたんじゃないか。こう考えたとたんに、帰郷運動の真似事で経験したと同じようにシラケた気分になって、太宰治の『トカトントン』じゃないが、何もかもいやになってしまった」
まもなく、以前に同じ会社にいて独立した先輩3人が、「お前もこないか」と声をかけてきた。その誘いに飛びついた。4人の共同出資による運転資金100万円だけでは経営は苦しく、給料も前の会社より2万円も低い約5万円。
「こんな小さな会社でも、3ケ月間無収入でやっていけるだけの運転資金が必要だし、たえず拡大していこうと努力して、ようやく現状維持が可能なんですよ。<資本の論理>に振り回されているわけです。でも、学生時代から引きずってきた重苦しい<過去>を、忙しさの中でなんとか断ち切っている状態で、ある種の解放感はありますね」という。
60年安保闘争の敗北にいたく挫折感を感じたAさんは、「あれくらい絶対的なもの、神のようなものがなくなった」といういい方をする。それでも同学会幹部として12月まで頑張るわけだが、それはちょうど第一次ブントの崩壊過程でもあった。
「61年春卒業したが、率直にいえば、その状況から、また組織から逃げ出せてうれしかった」というのがAさんの本心だった。
こうしてAさんは貿易会社に就職。「安保闘争の経験は、64年ごろまで余波が残った」というAさんは、しかし、入社して組合活動をやるわけでもなかった。ある友人は商事会社に入って、こつこつと活動をつづけ、組合をつくったという。が、Aさんにしてみると「2,3年ずれて考えてみると、彼の場合あまり意味がない」と思われた。「そんなことは余波の中での精神安定剤みたいなもので、自分の時間をマージャンしているか組合活動をしているかいずれかだ」というぐらいにしか考えなかったという。

経営合理主義者の顔
「共産党の宮本顕治は優秀な“経営者”だ」と感心して話すAさんは、66年、家族が経営する食品会社に移った。その会社の中で、「事態が混沌としている時は非常に政治的に動き、平穏な時はダラ幹だ」という評価を受けているそうだ。そして「俺は組織を維持することは苦手だ」と笑って話す。
「人間社会を解放すべき組織が極めて非人間的で、他の組織体も同じことだ」というわけだ。見方によっては自己弁護でもあるし、逆に言えば60年ブント時代の影響がまだ抜けきれてない証でもあろう。
たとえば、「思想的なもの、組織的なものは2、3年継続すればダメだ」といういい方もするのだ。そしてこれが、今のAさんの生き方でもあり、また経営管理の基本的方針とも理解されるのだ。
学生時代、"きれ者"だったAさんは時代の先取性と待望主義を兼ね合わせたような理論なのだが、そこでおよそマルキシズムは関係ない。Aさんの中国にかけている期特は大きい。が、それは社会主義国としてでは全くないのだ。「中国は20年ぐらい遅れた資本主義国」と考えているほどだ。
最近ではそんな感じと期待を卓球代表団の中で受けたという。「文化的に退廃しているといわれるスウェーデンの選手と中国の選手の目が一番よくかがやいているんですね」。このスウェーデンと中国選手の目の中に、Aさんは時代の先取性を感じて、新しい資本主義を予言するわけだ。
そんなAさんの予言は"遅れた資本主義国“中国に限らない。日本でも、大学で起こった造反が、今度は企業へ、マネジメントの領域にまで及ぶのは避けられないとみている。そういうAさんはその来たるべき造反を乗りきろうとする若手経営合理主義者の先導者のようにみえるのだ。
ただAさんの場合、かつての活動家たちと個人的つながりは切れず、「ボーナスなどすっかりカンパにもっていかれてしまう」とこぼしている。「個人的な免罪符かな」という時、このAさんにも、目に見えない負い目が感じられた。

70年につなぐ努力
Aさんの年代は安保の敗北の時期と、就職試験という人生岐路を決める時期が近い。当時の事情を同じ京大文学部卒のUさんはこう説明する。
「ブントの中で、本気に革命近しと考えていた部分は、少なくとも就職を全く異なった価値のものとしてみていた。そうでなくとも、もう一度高揚がくるんじゃないかという幻想もあって、就職がいくぶんうしろめたく感じられたんじゃないか」という。
Uさんの場合はどうか。彼はブント支持のノンセクトだったが、同学会の中央委員もやった。「敗北のときは挫折というより、行動のエネルギーがまったくなくなった。虚無感ですね。ブントはロマンチシズムだったから挫折したんだと思う」。
就職を決定したのは10月、それまで虚無感からくる根なし草の状態から、もう一度自分自身を再構築しようと思ったという。入ったのはマスコミ関係の会社だ。が、組合への幻想はない。実際、組合は60年秋、完全に御用組合となっていた。「結局、何もやらなかった。しかし出世のチャンスはあったけれど、それも異次元のこととして否定していた」とUさんは話す。
今、Uさんは、「10年かかってやっと日々の日常の中で具体的な再構築ができた」という。 Uさんの会社で、68年ふつふつしていた不満から、「ゲリラ的に闘う戦闘的第二組合」をつくって、Uさんもそれに積極的に参加している。7年間は何か「混沌とした気持で眠りながら、すごしたわけです」。
今では、学生時代以上に解放されたい欲求は強い、というUさんは、どちらかといえば70年新左翼運動の中で、やっと60年を闘った自分を見出したというわけだ。再び、『ドイツ・イデオロギー』などマルクスの文献をよみ直しているともいう。
“第二組合のゲリラ活動の中で60年を再発見した”と話すUさんは、60年と70年をつなごうとする一つの典型でもあろう。
(終)

【「カチューシャ」とウクライナ戦争】の紹介
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『「カチューシャ」とウクライナ戦争』(彩流社)定価2,200円 (税込)前田和男 著
日本では青春のラブソング、独ソ戦では戦時愛国歌謡、現在では北朝鮮兵士がロシアで歌うカチューシャの歴史を読み解く歌謡社会学

『昭和街場のはやり歌』(彩流社)の続編で、ロシア歌謡の「カチューシャ」からロシアのウクライナ侵攻の行方を読み解く試みです。

白井聡氏から推薦をしてもらいました。

たとえば、以下のエピソードから、ウクライナ侵攻の決着を占います。

▼「カチューシャ」はスターリン体制下で生まれ、ヒトラーとの壮絶な「大祖国戦争」を鼓舞した「軍歌」であり、「スターリンの死のオルガン」と恐れらたロケット砲の愛称でもあった。

▼2022年2月ロシアのウクライナ侵攻の半年前、東京五輪で「国歌」代わりに要求しIOCから「愛国的」として却下された歌、それは「カチューシャ」だった。

▼ウクライナ侵攻から1年1か月後の2023年3月22日、モスクワ中心部に近いルジニキ競技場に若者や軍人など20万人が参加してウクライナへの軍事行動を鼓舞する大規模集会が開催。その冒頭を飾ったのは兵士たちによる「カチューシャ」の大合唱であった。

▼「中国の人気歌手の王芳がロシアの攻撃で占領されて廃墟となったウクライナ東部のマリウポリ劇場を訪れ、『カチューシャ』を熱唱し、それをインターネットに投稿した」

▼2019年。「如意(ルーイー)」と「丁丁(ディンディン)」のつがいのパンダがモスクワ動物園へ。そして、ウクライナ侵攻がはじまって1年後の2023年に待望の赤子が誕生。翌2024年3月に般公開されたが、ここで着目すべきはその子の名前。なんと「カチューシャ」。これまで日本はもちろんロシアをふくむ世界の 国々に贈られた中国外交のシンボルは、その子供をふくめてすべて中国名。それは贈り主に配慮しての外交的辞令だが、中国政府はこれにクレームをつけるどころか、歓迎して同国メディ アでも報じられた

▼さる6月上旬、ロシア国営テレビの女性レポーターが、現在ウクライナでもっとも戦闘が激しいと伝えられるクルクス州の最前線で訓練中の北朝鮮兵士を取材、戦闘中の意思疎通をはかるために 「朝露の会話 集」が作成されたと報告、ついでボルシチなどのロシア料理にもなれ、スマホで映画を見放題で満 足しているという兵士のコメントを紹介し終わると、北朝鮮兵がいきなり「カチューシャ」を朝鮮語でうたいだした。

【昭和20年生まれからキミたちへ】の紹介
81FoODO3PCL._SY466_

『昭和20年生まれからキミたちへ』(世界書院)定価1,650円(税込み) 
終戦の年の昭和20年に生まれた各界で活躍する10人のロングインタビュー。
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▼そして彼らが若者に託すメッセージは何か。
▼東京新聞の連載企画を大幅に加筆した。

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校1専門学校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在16校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は10月3日(金)に更新予定です。

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