野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2025年10月

今回のブログは、「雑誌で読むあの時代」シリーズとして、『朝日ジャーナル』(1971年5月28日号)に掲載された「“学生階級”―その今日的構造 第9回」を掲載する。
「学生階級」ということについての連載記事であるが、第9回目はいわゆる<ポツダム自治会>(戦後組織された各大学の学生自治組織)と闘争との関係について、立教大学、東京大学、京都大学の3大学に取材した記事である。
この記事が書かれたのは1971年。各大学からバリケードが消え、全共闘運動の勢いも下火になった頃である。
大学の学生自治会と全共闘との関係は、個々の大学の状況によってさまざまであるが、私がいた明治大学の場合、昼間部の学生自治会は中核派が掌握していた商学部を除き、他の学部はブントが掌握しており、反代々木系の学生自治会であった。1969年の明大闘争の時は、学生大会で「6項目要求」などを掲げてスト権を確立し、その後結成された全学共闘会議にそのスト権の行使を全面的に委任した。つまり、合法的な学生自治会の制約と限界性を、全共闘という闘争組織を作ることにより突破しようとしたということである。
その後70年安保闘争やブント内供の分裂もあり、学生自治会は休眠状態となったが、1971年、ブントを中心として自治会の再建がなされた。自治会再建の目的は、一般学生のオルグのためということもあるが、自治会費を確保するという金銭的問題が大きかったように思う。同じ71年、ノンセクトは明治大学新聞会を中心とする「マップ共闘」という闘争組織を作り、「学内ロックアウト体制粉砕」や「学生会館解放」などの課題に取り組んだ。が、学生自治会との関係はほとんどなかった。
それでは記事を見てみよう。

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【学生階級”その今日的構造 第9回 <ポツダム自治会>への批判 自治会の顔】
戦後「平和と民主主義、よりよき学園生活」を掲げて闘ってきた変革の旗手全学連=学生自治会は、60年代後半全共闘運動の高場の中で <ポツダム自治会> として集中砲火を浴びました。
今回はこのポツダム自治会批判をとりあげ、全共闘運動の退潮した今、各大学の学生運動の中で、<自治会> がいかなる立場を占め、またどうとらえられているかをさぐってみました。

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自治会なしの二年間
東京・池袋にある立教大学。“赤レンガ”ふうの建物、芝生の庭などがこぢんまりしているなかで、闘争を呼びかける大きなタテカン、ステッカーなどがいかにも場違いの感じさえ起させる雰囲気がある。
立大闘争後約1年。大学は本来の平穏さと花やかさをとり戻したかに見える。
「僕らはいつも“アイスクリームをなめるのは早すぎる”とみんなに呼びかけているんですが」というのは3年生のS君だ。
「闘争なんて関係ない」といった様子の大多数の学生に対する形容か"芝生でアイスクリ?ムをなめる“というのもこの大学の雰囲気からくるらしいが、「闘いは終っていない」という活動家学生のいらだちが、立教大学らしい表現として感じられもする。
しかも、めずらしい例だか、この大学には目下学生自治会(クラス委員会)という組織はない。クラス委員会が「解体」されたのは69年6月。それまで民青執行部であったのが、全共闘学生などによって学生大会でリコールされた。以来、70年春立大全共闘も実質的に分解し、その後も再建されないまま現在に至っている。
だから、全員加盟制自治会を知っているのは3年、4年生で、3年生もたった3ヵ月間しか経験していない。あと1年も経つと「自治会なんて知らない」という世代が学生のほとんどを占めることになる。学生の公的な自治組織がなくなって約2年、こんな大学もきわめて稀だ。
ポツダム自治会ーこれが全共闘運動の中で最もよく使われ学生自治会の規定であった。全共闘のメンバーは、ポツダム民主主義による全員加盟制の自治会、「平和と民主主義、よりよき学園生活のために」という全学連運動では、体制に積極的にくみ込まれた大学で闘えないと判断し、組織・運動両面で全面的に否定したのであった。
これに60年代におけるいわゆる党派全学連の対立抗争か加わって、全共闘運動はノンセクトが時流を占めることになった。だが、当畤の学生自治会は従来の体質を受けついできた民青自治会がほとんど。ポツダム自治会批判をまともにぶつけられることになった。
立教大学の自治会であるクラス委員会も民青系であった。学生組織の構成は、学生会のもとに体育会、文化会、ククス委員会が組織されるトロイカ方式であった。このうち、クウス委員会は執行部リコールで解体、文化会(執行部は民青系だった)も全共闘系学生によって解体、文化団体連合 (文連)として再編されてしまった。
クフス委員会にかわるものとして、全共闘が当然考えられた。ポツダム自泊会を否定する新左翼党派が、組織的な運動の主導権を握るためには、どうしても形式的な組織を持っておる全員加盟制自治会という組織を否定する以外道はなかったのは皮肉な論理的必然だった。さらに、一般学生の方にも「民青のモノトリ路線とはハダが合わない」(4年生)という声が高まっていた。大衆化とともに管理が近代化・合理化した大学に対する学生の不満のうっ積を民青自治系は正確に捉えられなかったのである。
が、その後いまに至るまで、S君の話では「全共闘によるボツダム自治会批判は十分検討されていない」ということだ。だから、結果としてみれば、立教大の場合、ポツダム自治会批判はアンチ民青のうたい文句としてしか残らず、組織的再編を必要とするこの時期に、学生の組織はいかにあるべきかで、苦悩、混迷している状況のようだ。

自治会アレルギー
学生の自治組織が解体のままになっている大学としてはたとえば小樽商大もそうだ。それはいわゆるアクチブな学生がほとんどいなくなったためだという。しかし、立教大の場合は、いろんな個別闘争とその主体があり、諸セクトもあるにもかかわらず、なおかつ自治会が存在していないという特殊なケースだ。たとえは現在、立大入管闘、理学部共闘会議、教育共闘、それに文連という文化運動の主体があり、セクトも中核を除けばそろっている。
もちろん再建の動きかなかったわけではない。民青系学生が他大学と同じコースの再建を考えているのはむろんのこと、たとえば反帝学評系が理学部自治会を組織しょうとした話も伝わっている。
が、どのセクトも自治公を担いきる力量がないことが再建されない理由の第一だとS君はいう。「ノンセクトも含めて各党派にとって、自治会というのは“さわらぬ神にたたりなし”といったところです」。自治会に対する考え方はセクトごとに異なるので、再建を言えば、他党派に必ずたたかれるし、民青の動きには一致して批判するだろうからだ。
いずれにしても一般学生が自治会再建のために学生大会に集まることはまずないとS君たちはみている。「自治会なんてあってもなくてもいいという風潮がこの大学に蔓延していて……。再建するとしてもその点をよく検討しないといけないが、全員加盟制にはならないんじゃないか」というのだ。学内生活のために闘うといったサービス機能は、今でも文連がある程度代行している。そのため今のところ自治会がなくても一般学生にとって大きな支障はない。また活動家学生に対する大学の“寛容”な態度もあって、「活動家の住みやすい大学」となっているキャンパスのなかで、空白な時間が惰性のようにすぎているというのか現状のようだ。
ただ、全共闘が小規模ながら残されており、新左翼系の間での方針討議の場(活動者会議)は確保されており、問題が起った場合の反応は意外と早い。が、これにどういう組織的内実が加わるかどうかは、まだ予測できないのが現状だ。

“第二”の全共闘出現
全共闘運動の起点というべき東大の場合、紛争がよりラジカルに長期にわたって続いたため、少なくとも活動家のレベルでは<ポツダム自治会>に対する幻想は徹底的に払拭されたといえる。
しかし、実際に闘争に参加してきた学生たちと、催涙ガスの洗礼を受けていない"新入り"の活動家とでは、自分たちの運動の中で<ポツダム自治会>をどうとらえて行くかという位置づけに微妙なニュアンスの違いがみられる。
駒場の教養学部自冶会は、昭和43年の6・15(医学闘の安田講堂占拠)以降、一時フロントが執行部を掌握していたが、その年の暮れ民青系が再びへゲモニーを奪い返した。その結果、駒場は民青の単一支配になり全共闘は去年の10月ごろまでに、ほとんどキャンパスから姿を消した、といわれた。
ところが、昨年の暮れごろから、代議員大会、自治会を結集軸にして、駒場では”新“全共闘派が台頭しつつある。教養学部の理科二、三類のノンセクト学生を中心とした”新“全共闘派学生が、再び”大衆“の前に姿を現したのは11月の代議員大会からだが、民青系執行部に批判的な一般学生の共感を得て急速に勢力を伸ばし、12月中旬の自治会委員選挙では民青系の1,027票に対し823票を獲得。今年の4月におこなわれた代議員大会の議長選でも、民青系の177票に対し、158票にまで肉薄している。安田砦落城以降の全共闘が、これまで<ポツダム自治会>をほとんど相手にしてこなかったこれまでの姿からすると、大きな変化である。
全共闘運動は「出発転から<ポツダム自治会>の限界を思想的にも方法的にも止揚することをせまられていた」(山本義隆氏)ものだった。この“止揚”の問題に対して、革マルを除く反代々木系の各セクトは「現執行部は非合法な第二自治会である」というタテマエから、自治会選挙をボイコットしている。
だが、ノンセクト系の駒場“第二”全共闘運動の担い手たちは、自治会の役割をよりドライに、機械的に考えているようだ。民青系の候補に対立し、委員長選挙に立ったA君(理科系2年生)は、「われわれは自治会をとる、ということを自己目的化しているわけではない。もし自治会のヘゲモニーを握ることができたとすれば、それはあくまでも日常運動のひとつの成果であって、われわれとしてはむしろ、自治会は運動のバロメーターぐらいにしか考えていないといってよい」と割り切る。
A君を立候補にかつぎ出した一人、B君(理科系2年生)も、「自治会が学生を積極的にオルグするのではなく、自治会はあくまで一般学生に具体的な運動を提起する場としてとらえるべきだろう。自治会でどういう運動を作ってゆくかを考え、その中で自治会のあり方は副次的に想定されるべきものだろう」と言う。
A君らは「11月行動委員会」を軸に、活動しているが、この行動委員会は、最首悟研究室に事務所を共有している「水俣病を告発する会」「連続シンポジウム実行委員会」「小西反軍裁判支援委員会」「医療問題研究会」などの諸組織に加盟しているメンバーが何となく集まってできた「組織というよりは、共有する空間=ひとつの部屋」だそうだ。「あくまで一人一党的な自立した人間でありたい」という自己主張を、運動へ参加していく前提とし、そうした個人個人の運動経験を交流させる場、接点として委員会、行動委員会や自治会を下からとらえなおしてゆく、と彼らはいう。そうした発想は、東大闘争が提起した運動の質をいかに継承して行くかという課題として彼らの間に定着しているようだ。

既成組織への憎悪
一方、闘争を文字通り体を張って闘ってきた全共闘“戦中派”の活動家たちの間には、自治会や既成の組織に対する嫌悪感、一種のアレルギーがいまなお根強く残っている。
「われわれの運動は自然発生的に盛り上がっていくものが非常に大切だ。自分がものを考えて運動にかかわっていく場合、組織のワクは障害になるし、いつまでも割り切れないものを自分の中に残すことになる」とある学生は言う。そうした心理は次のような話からも、うかがわれよう。
例えば、薬学、教養とともに、いまなお全共闘系の勢力が強い農学部ではこの4月、自治会委員長選挙があり、約10票差で全共闘系は民青系に敗れたが、票のうえでは惜敗でも幹部はホッとしたという。それは、下手に自治会をとると、事務的な雑務に追われて日常的な運動がおろそかになるから、ということらしい。
既成の組織に対する異常なまでの拒絶反応は、心情的には、闘争の中で敵対してきた民青系自治会に対する個人的反感につながっていることが多い。「民青の場合『東大は閉鎖される』というウワサを意識的に流し、一般学生が動揺するのを見越して収拾に乗出すというズルさがあった」「昼間はゲバをたらないで、新聞の締め切り時間を過ぎたころ、巧妙にゲバをやった」「われわれのやり方は絶対に正しいんだ、という妄信の裏返しとしての殉教者意識から、一般学生の上に立って指導者面をする」という憤りはいまなお彼らの間にわだかまっている。
しかし、基本的には彼らの組織アレルギーは、<運動体>としての全共闘運動の組織論理の当然の帰結といえよう。
農学部のC君は、教養学部にいたころ、社青同解放派に属していた自治委員だったが、組織と個人の板ばさみになった時、セクトから離れて行った、という。「僕の場合は、自治委員という立場はあっても、自分を含めた一人ひとりがどう運動をかかわり合い、自分の闘いを作り出してゆくのかがいつも問題だった。
実際そうした議論を闘わすことによって、運動は次第に高揚していった。そもそもぼく自身が闘争に参加したのも、闘いを勝ちとるということより、闘争の中で自分をみつめ直し、仲間との連帯の場を求めるという動機が強かったと思う」。
C君は、その“場”の可能性を現在農学部で闘われている運動の中に見出しつつある、と語る。
現在農学部では、同じキャンバスにある地震研の問題が応用微生物研究所、農学部に飛火し、東大闘争のミニ版といわれる臨時職員の待遇改善闘争が三者をまきこむ形で組まれている。全学的な共鳴や闘争スケジュールがあるわけではないが、各学科施設ごとの組織間の連携は、ある学科の活動家が同時に他の学科の闘いにも参加するという形で保たれている。また2、3人が思いつけばその場でスト実行委員会も結成するといった具合に、あくまで個人の自発性に依拠した闘いが作り出されている。
5月13日に、林学教室で助教授、職員の不当処分に抗議する教授会との話合いか持たれ、教授全員が自己批判をするという“事件”があったが、これも始めは林学部の“一般学生”のイニシアチブで集会が企画され他学部からも学生か参加して白熱したものになったのだという。
このように、民青系自治会か具体的な運動を提起しうるほどの実力を持ちえない状態の中で、個人の創意から即座に委員会や会議が結成され、あるいは個々の問題ごとに、他学部の学生の参加を保証した水平組織が作られるなど、新しい運動スタイルは本郷キャンパスに定着しつつあるようだ。

アジテーションの場
京都大学の場合はどうか。まず文学部を例にとってみよう。
この大学はもともとブント系が強い影響力をもっている。文学部もその例外ではない。69年春、京大闘争の中で文学部学友会は「文学部自治会のすべての権力を文学部闘争委員会へ」とみずから解散してしまった。これは、たとえば中核系自治会のある大学では自治会とは別個に全共闘が組織され、全共闘運動を領導するのは中核系全学連だとしたことときわだった対照をのぞかせていた。「煮ても焼いても全員加盟制の自治会などはどうしようもない」というのが彼らブント系学生の言い分だ。もっとも情報通のノンセクト学生に言わせると「三派全学連の分裂、ブントにおける分裂で学生運動への影響力が小さくなっては困るからだ」という見方もある。
その同じブントの学生は70年5月学友会を再建した。が、それは決してポッダム自治会でないと彼らは断言する。文学部3年生のB君はこう説明している。
「そんなものにまったく興味はない。今、イメージできるのは"武装“の問題だ。基本的に暴力をもってしか闘争できない部分に、いかにして共産主義を体現していくかの問題だ。このなかでは、自治会というのは大衆的なアジテーションの場でしかない」というのだ。
むろんこの言葉だけでは、彼らがポッダム自治会を乗りこえ、党派全学連をも止揚し、全共闘運動を継承・発展したかどうかはわからない。ただ、ポツダム自治会批判から全共闘運動の組織的再編過程のなかで一つの典形を示していることは間違いない。それはこの文学部に限らず、ノンセクトの多くがこの“武装”の問題を考えているからだ。
京大教養部の学生はほとんど京大闘争後に入学している。直接的な全共闘運動の影響はないわけだ。が、全くのノンセクト政治集団の形成をめざす少数のグルーブ(学部闘連合)と民青シンパを除けば、多くのノンセクトはブントとの連合(C戦線)かそのシンパなっている。
このC戦線は京大闘争を担った教養部闘争委員会が分裂してできたものだが、他方の中核、反帝学評とは、自治会をめぐっても大きな亀裂を見せている。
C戦線のK君によれば、「自治会を含めてあらゆる大衆団体を担っていく。ただ党派性を失わず、有効な合法機関として革命的に利用するだけ。だから全学連なんて必要ない」という。K君たちはノンセクト学生といわれている。現在ではすでに「ノンセクト」の内容もかつての全共闘時代とは大きく変わっているのだ。これと対照的なのはセクトの学生の言葉だ。「学生としての即時的要求をのり越え、学生のもつ社会的制約性を突破していく、この意味で、自治会、全学連を対象化する」(反帝学評C君)。「中核全学連は、中核派の路線を核とする革命集団であり、全国全共闘の中で唯一の方針を提起する部隊だ」(中核派D君)。
これほどの各党派、ノンセクトの相違と混乱は、人に60年安保後の学生運動の混迷をも思い起させる。が、K君らの発想は、60年代後半の全共闘運動は社共を乗りこえたように、彼らは全共闘を止揚するものとして、党、軍事を志向するものだという。
自治会に関して、民青系全学連の「平和と民主主義、よりよき学園生活」の方針と最もよく対立するのは、京大ではこのC戦線のノンセクトといわれている。今月初旬行われた経済学部の学生大会では教養から進級したC戦線のノンセクトメンバーが民青系執行部提案を破り、勢力も拡大している。
京大では民青がまた下降線をたどっているという。しかし党派全学連をもつ中核派や反帝学評でなく、いかなるものであれ全面的に全学連を否定したC戦線などの影響力か拡大していくとすれば、いわゆるポツダム自洽会が、党派全学連を含めて学生運動の中でメスを加えられていく過程にあるとみていいだろう。

組織論とどう取組む?
これまで見て来たように、全共闘運動が<ポツダム自治会>を否定した仕方は、各大学の闘争形態、学内事情など個別的な条件によってかなりの違いが見られる。しかし、それが自治会を過渡的なものとしてとらえるものであれ、あるいは自治会を飛越して直接に「党」「軍」をる志向するものであれ、底に共通しているのは「自治会なんか知らないよ」というさめた心情だろう。
しかし、それが果して<ポツダム自治会>を止揚したことになるのか。
実際の運動の中から、逆に自治会のあり方を規定していこうとする東大教養部の活動家たちには、彼らみずからに認めるように、自治会を掌握した場合、それをどう運営して行くかという具体的なイメージがない。「党」「軍」を目指す場合でも、そうした目標に一般学生をどう結集していくか、という展望が欠落しているといえる。
また、柬大農学部に見られるように、個々の点の運動をブロック化して行くことを当面の目標にしていても、そのブロック化をさらに推し進めていく場合、いつかは組織という壁にぶつからざるをえないだろう。
つまるところ、そうした明確な組織論の欠如から来る現在の混乱は、「運動体」としての全共闘運動に当初から内在していた矛盾であった、といえよう。
その矛盾に再びおち込まないためには、従来の<ポツダム白治会>イコール民青系自治会という近視眼的なとらえ方を克服し、オープンショップ制自治会としての<ポツダム白治会>の可能性と限界を現代の学生運動が持つさまざまの条件の中で洗い直す検証の作業が、いま必要とされているのではないか。
(終)

【お知らせ その1】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。

●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は11月21日(金)に更新予定です。

2025年10月8日は、1967年の佐藤首相の南ベトナム訪問を阻止するために戦われた10・8羽田闘争から58年目となる。
この58周年に近い10月5日に、10・8山﨑博昭プロジェクト主催により、午前に羽田・弁天橋での山﨑博昭君追悼及び萩中公園近くのお寺にあるお墓のお参り、そして午後には萩中公園集会所での記念集会があった。
今回のブログは、その報告である。写真を中心にドキュメント風に当日の様子を報告する。

2025年10月5日(日)
【献花・黙祷@弁天橋】
午前10時45分
京浜急行「天空橋」駅を降りて歩いて10分ほどで羽田・弁天橋に到着。昨年の57周年は小雨が降って肌寒い天気だったが、この日は晴れて秋とは思えない夏のような暑さだった。
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(弁天橋)

弁天橋の上からの眺め。参加者の集合場所は写真左の弁天橋を渡ったところにある鳥居の前の広場である。まだ時間が早いが、発起人の佐々木幹郎さんが広場のベンチで休んでいた。

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広場の赤い鳥居。鳥居の向こうにはテントがあり、人が集まっていた。

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近寄ってみると、阿含宗の「東京湾・多摩川水害犠牲者供養・東京湾地震津波除災」の護摩法要があるとのこと。ここでこのような行事に出会うのは初めてである。
山﨑君もこの弁天橋の上での犠牲者なので、供養してもらいたいと思った。

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午前11時25分
集合時間も近いので、参加者が次々と鳥居の前に集まってきた。

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山﨑プロジェクト事務局長の辻恵さん(弁護士)が到着。「正装してきたので暑い」と一言。

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午前11時30分
参加者は約30名。初めて参加する方もいたので、山﨑プロジェクトの発起人である佐々木幹郎さん(詩人)から説明があった。
「本当は、福島泰樹(発起人:歌人・法昌寺住職)が来ていろいろ(読経など)とやってくれる予定だったんですが、法事が重なって今日は来られません。
説明します。(弁天橋は)当時は木の橋で道幅は現在の2分の1。ちょうど正面のところのあたりですが、(山﨑博昭が)機動隊に撲殺された。我々は毎月8日にここに来て黙祷をしています。黙とうは1分間」
※57年前の10月8日、11時30分から40分頃、機動隊の警棒によって山﨑博昭君は弁天橋の上で撲殺された。(『かつて10・8羽田闘争があった』より転載)

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佐々木さんの合図で、参加者全員で弁天橋に向かって1分間の黙祷。

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(黙祷)
黙祷の後、弁天橋を背景に全員で記念撮影を行い、近くの五十間鼻無縁仏堂に向かった。

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【五十間鼻無縁仏堂の平和地蔵にお参り・献花】
午前11時40分
五十間鼻無縁仏堂の前に到着。
仏堂に渡る桟橋の前には由来を記した看板がある。
<五十間鼻無縁仏堂の由来>
「創建年代は不明でありますが、多摩川、又関東大震災、先の第二次世界大戦の昭和二十年三月十日の東京大空襲の折には、かなりの数の水難者が漂着いたしました。その方々をお祀りしていると言われております。
元は、多摩川河口寄りの川の中に角塔婆が一本立っているだけでありましたが、初代漁業組合長故伊東久義氏が管理し、毎年お盆には盆棚を作り、有縁無縁の御霊供養をしていました。昭和五十三年、護岸工事に伴い現在地に移転しました。その後、荒廃著しく、仲七町会小峰守之氏、故伊米次郎氏、大東町会故伊東秀雄が私財を持ち寄り復興致しました。(後略)」
水難者をお祀りするために作られたお堂で、地元の方々が護っている。
「五十間鼻」という名前は、大田区観光協会のサイトによると
「水中に長さ50間(約90m)に渡り石を敷き詰め、洪水時の急流から岸辺を守るために作られました。水難事故者を供養する無縁仏堂が建てられています」とある。
この日は潮が引いて、五十間の長さの鼻のような形の石積みが水中から姿を現していた。数人の人が釣りをしていた。桟橋を渡るとお堂があり、ここに「平和地蔵」がある。

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参加者は桟橋を渡ってお堂へ。

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お参りの前に「平和地蔵」に花を供える。
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佐々木幹郎さんが「平和地蔵」について説明。
「平和地蔵」は、羽田闘争50周年の2017年10月に、山﨑博昭プロジェクト発起人によりここに祀られた。台座には「山﨑博昭」の名前が刻まれている。

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参加者は桟橋を順番に渡り「平和地蔵」に手を合わせていた。
「平和地蔵」に手を合わせる佐々木幹郎さん。

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「平和地蔵」は雨の日も風の日も弁天橋に向かって立ち、平和への祈りを続けている。
「平和の地蔵」は地元の方が護っていただいており、季節によって衣装が変わる。今年は暑いので、まだ麦わら帽子を被っている。夏の装いだ。
「平和地蔵」の傍らには山崎君の写真がある。

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(平和地蔵)
「平和地蔵」へのお参りが終り、参加者は萩中公園に向かった。
萩中公園までは歩けない距離ではないのだが、参加者の皆さんも高齢となり、短い距離ではるがバスに乗車して向かう。辻さんが「全員乗車!」と号令をかける。30名も乗ると、バスは貸切り状態。
萩中公園でバスを降りて、福泉寺へ向かう。

【福泉寺の墓碑と記念碑の前にてお参り・献花】
午前12時25分
福泉寺に到着。

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参加者は本堂の裏手の墓地の入り、入り口近くにある山﨑博昭君の墓碑と記念碑の前に集まった。お参りと献花の前に清掃。

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参加者は順番に手を合わせていた。
墓碑に手を合わせる山本義隆さん(発起人:科学史家)。

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参加者と墓碑を入れて集合写真を撮影。

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墓碑の山﨑博昭の文字は、昔の中国の青銅器の時代に青銅器の周りに彫り込まれた「金文(きんぶん)」という文字である。山﨑博昭君の高校3年生の時の同級生だった書道家の川上吉康氏が書いたものである。

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(山﨑博昭君の墓碑)
墓碑の下にある墓誌(記念碑)には、以下の文章が刻まれている。
(墓誌文章)
「反戦の碑」
1967年10月8日 アメリカのベトナム戦争に加担するために日本首相が南ベトナムを訪問 これを阻止するために日本の若者たちは羽田空港に通じる橋や高速道路を渡ろうとし デモ禁止の警察と激しく衝突 重傷者が続出し 弁天橋の上で京都大学1回生 山﨑博昭が斃れる 享年十八歳 再び戦争の危機が高まる50年後の今日 ベトナム反戦十余年の歴史をふり返り 山﨑博昭の名とともに かつても いまも これからも 戦争に反対する というわたしたちの意志を ここに伝える
2017年10月8日
10・8山﨑博昭プロジェクト
代表・兄山﨑建夫 建立
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午前12時55分
参加者は萩中公園内にある集会所に向かった。集会が始まる前の集会室で昼食。

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【10・8山﨑博昭プロジェクト秋の東京集会
「敗戦80年、何が変わったか?」】

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午後1時15分
集会の受付が始まった。

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会場には山崎君の写真と花が飾られている。
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午後1時45分
佐々木幹郎さんの司会で集会が始まった。

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どうも皆さん、今日はようこそお集まりくださいました。幸いにも、健康に恵まれて、朝から多くの人が弁天橋まで来ていただき、福泉寺のお参りにも参加していただけました。まさか高市早苗という人が総裁になるとは思いもかけないという、日本はこれからどうなるんだろうという時代に入っております。そういう時代で、私達は絶対ここから先は引き下がらないという形のものも見せていきたいと思っています。
今日は山﨑建夫さんが出席できなくてメッセージをいただいております。
「2年続けての欠席をお許しください。最近は腰痛がひどく、最寄りの駅までも歩けなくなっています。捻挫されたままで台湾まで出かけられた水戸喜世子さんのことなどを考えると恥ずかしい限りです。最近接するニュースが世界の規模で、また日本でも心を痛めるものばかりですが、私は座視するだけになっています。残念です。発起人の皆様、賛同人の皆様、集会参加者の皆様にお詫びします。様々な分野でご活躍の皆様のご健闘を祈っております。
10月5日 山﨑建夫」(拍手)
それでは講演を始めさせていただきたいと思います。最初に山本義隆さんの「テクノファシズムと高度成長 戦後80年を顧みて」。それからそれに引き続いて真鍋祐子さんの「トラウマと社会変革 心的外傷後を生きる韓国社会にかんがみて」。これを続けてやった上で休憩、それから水戸喜世子さんと重信房子さんのお話を伺って、最後に関西から新田さんのお話を伺います。という形で今日は進行したいと思います。では、山本義隆さんよろしくお願いします。
山本義隆さんと真鍋祐子さんの講演については、後日ブログに掲載予定ですので、省略します。

●「テクノファシズムと高度成長 戦後80年を顧みて」 山本義隆さん(発起人:科学史家)
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●「トラウマと社会変革 心的外傷後を生きる韓国社会にかんがみて」 真鍋祐子さん(発起人:東京大学東洋文化研究所教授)
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午後4時
(休憩)
山本さんと真鍋さんの講演が終り、休憩に入った。
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(東大立て看同好会のメンンバーなどと話を交わす山本義隆さん)

午後4時13分
休憩終了後、水戸喜世子さんと重信房子さんからの発言、関西からの報告があった。
●水戸喜世子さん(発起人:十八羽田救援会)からの発言
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皆さんこんにちは。今日皆さんこうやってたくさん集まってくださって本当にありがとうございます。
これだけたくさんいらっしゃるんだったらば(山﨑)建夫さんも今日いらっしゃらないので、山﨑春子さん(※山﨑君のお母さん)からいただいたコアラの親子の縫いぐるみを持ってくればよかったなと後悔していますけれども、今、真鍋さんおっしゃったように、私達は死者を本当に大切にしてるのかなってことをつくづく思いました。もう何かお話を聞いて、涙がもう本当にこぼれそうになって困りましたけれど、山﨑君のお母様のことを思い出していました。
私は救援の立場ですので、救援をしていて山﨑さんとのお母さんとのお付き合いでしたけれども、本当に大切な息子さんを亡くされて、その後、文通というか救援新聞が出てまして、10・8救援会の救援新聞ですね。(10・8の)犠牲者、そこでたくさんケアをしたり、失明したり、逮捕されたりした人の救援をしようというそういう新聞を作ってたんですけれども、そこに(山﨑君の)お母さんがおは手紙くださって、必ず命日にはカンパを寄せて、「その人たちに使ってください」っていうんで、カンパを寄せてくださって、そのお母さんの家計簿というのを建夫さんが見せてくださったことがあって、本当に細かく大根1本いくらって、労働者の家庭で育った息子ですよね、彼は。その本当に貴重な家計簿にいろんなこと書いてあったんですけれども、やっぱり息子さん亡くされたときは本当に言葉がなかった、そういう中での思いを大阪から、私たちはそのとき東京に住んでたんですけど、東京の東久留米ってところの国家公務員住宅の小さいアパートに住んでましたけれども、そこまで建夫さんとお母さんと2人でそのコアラのぬいぐるみを持って、10・8で逮捕されたり傷ついたり人の役に立ててくださいっていうんで、そのときわざわざ家まだ来てくださったんですね。そんな思いを思い出しています。
今の山本さんのお話と真鍋さんのお話は本当に繋がって、もう本当に心に響く話でした。とりわけ真鍋さんのお話の中で、私は3.11ですね、福島の東京電力の事故の後で、福島の子供たちの被ばくをさせないっていう運動ずっとやってまして、韓国にも何回も行ったことあるんですね。反原発っていうことで行ったことがあって、今もちょっと確認したんですが「東学党の乱」って皆さん習いましたよね。
「東学党の乱」が起きた場所、扶安(プアン)ってところに韓国の原発の核廃棄場を作るっていう計画があって、そこの人たちもものすごい闘いをしたんですね。中心にいたのはやっぱりキリスト教と仏教とが真ん中にいて、市民が本当に町ぐるみ、廃棄場にするのを反対だっていうことで、決めてきたのはどうしようもない町長が1人で決めてきた。「廃棄場うちで引き受けますよ。海がそばにあるし外へ出しやすい」ということで、町長が勝手にお金がもらえるからって、利権絡みで引き受けた話なんです。もう町中反対で、その反対の仕方がそれこそ3歩進んで1歩下がって3歩進む。これをやりながら、ソウルまで行くんですよ。今の話でソウルに向かったって話をお聞きして、「ああ歴史ってこうやってみんなの心の中で繋がってくんだ」と思って、もう感動して聞いてたんですけども、そこもロウソクデモで毎晩毎晩、みんな仕事を抱えてるから、主に漁業の町なんですけれどもね。漁業、農業やった後で、町の一番大きい広場に舞台を作って、それで歌ったり踊ったりなんですけど、みんなでロウソクを持って、私達みたいなもう寒くて耐えられない人には、もう本当に分厚いオーバーをかけてくれて、私達も住民投票もあったもんですから何回かそこへ支援に行ったんですけれども、その闘い方が今の話と、本当に地域で女の人はみんな坊主にして頭を剃って、ソウルに向かってやめてほしいという訴えに行く。子供たちは同盟休校して教会で待たして、ちょうど三里塚みたいな、そういう子供たちの学習をさせるんですね。子供もお母さんも、本当に町ぐるみで。機動隊が常駐していて、昼間ぶつかり合ったりするんですけれども、だから町にある大きな病院はもう怪我人だらけで、夜の集会が始まると病院から手を振って、みんな頭に包帯巻いたりした人が手を振って私達を応援してくれるっていう、そんな闘いが扶安(プアン)でありました。
ちょうど今日ここにいらっしゃらないからそのことをぜひ報告したいと思うんですけれども、ベトナムに行きましたよね。ベトナムに浴衣を着て参加した女性が覚えてらっしゃる方もおると思いますが、近藤ゆり子さんっていうここのメンバー(賛同人)ですけれども、彼女は大垣に住んでいて、大垣で公安が市民運動を調査してるっていう事がばれた。それはなぜばれたかっていうと、朝日新聞のスクープで、実は関西電力の子会社が、風力発電をしようとしてたんですね。風力発電をするために誰が反対するかっていう、それを調査させたいっていうんで警察に相談に行くんですよ。反対しそうな市民運動やってる人の情報を教えてくれっていうんで、警察に行った。よくある話だと思うんですけど、それは情報がないから私達の耳には届かない。でもそういう事件があって、それを何とご丁寧に会議を開くために議事録を取っていた。場所は警察なんですよ、大垣警察。警察とそれから業者の議事録が毎回残ってた。議事録をスッパ抜いた記者がいた。その記者は本当私はすごいと思うんですけれども、よっぽどみんなの信頼関係がなければすぐ手に入らない。それで、それをもとにして近藤ゆり子さんたちが訴訟を起こした。市民運動の権利を守れという訴訟を起こして、5、6年かかってますね。去年判決が出て全面勝訴した。全面勝訴して、向こうはもう本当にぐうの音も出ない。証拠も全部出たもんですからね。例えば「近藤ゆり子は今、何とか闘争で夢中だからそれが終わったら絶対この問題に駆けつけるはずだ」とかね。そういう言葉が1人1人の市民の事が全部書いてある。「何とかさんは、今は環境問題に熱心だけれども、元は何とか派の活動家であったらしい」とかね、もう事細かに、本人が知らないくらいって近藤さんが言ってました。「私もまだ知らない事まで予測して書いてる」というそういう議事録が出てきて、そしてそれを法廷に出したもんですから、素晴らしい判決文が出て、地裁なんですけれども、大垣ですから岐阜地裁か名古屋地裁ですかね(※岐阜地裁)。本当に私はそのコピーを持ってますけれども、市民運動という一番大切な、民主主義にとって一番根幹である市民運動を、そういう形でもって、もう権力でもって妨害するというのは許せないことだと、憲法の精神から見ても一番基本的な権利を侵してるっていう、そういう判決文、もう本当素晴らしい判決文が出て、それにして対して控訴できなかった(※「大垣警察市民監視事件」。岐阜県大垣市で計画された風力発電施設の建設をめぐり、岐阜県警大垣警察署が市民の個人情報を収集し、建設を計画した業者に提供したのは違法であると、個人情報を収集・提供された市民が訴えた裁判で、警察の行為を違法と認めた名古屋高裁の控訴審判決が2024年10月2日に確定した)。
警察側からもどこからもコメントなしで控訴しないっていうことで完全勝訴しました。その報告を今出してますけれども、もし目に入ったらぜひ、『大垣警察市民監視違憲訴訟勝利をめざす「もの言う」自由を守る会』だったと思いますが、また詳しいことは私のところに聞いてくださればお知らせしますので、ぜひ、私達の仲間です、10・8の仲間でそういう素晴らしい活動をやってる人がいるということをご報告しておきます。(拍手)

午後4時25分
●重信房子さん(賛同人)からの発言

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皆さんこんにちは、重信房子です。今日は、山﨑さんのために、私自身が心洗われる思いでここに来ました。パレスチナの話をしたいんですけれども、既にご存知のようにトランプの新しい提案というふうにマスコミは言ってますけど、あれは全然新しくないし、これまでの「ガザをリビエラに」も生きたまんまなんです。パレスチナ人に決断、決定権を持たせない。占領したままにする。国家も認めない。そして抵抗権も認めない。そういうものであって、その中で、ハマスはただただ虐殺を止めたい、この思いの一念で、それが止まるならば、自分たちが犠牲になって構わない。そういう立場からハマスと言われてる政治指導部がですね、人質全員を返すという決断をし、新しい活路を開こうとしています。そういう状態の中で、パレスチナの抵抗権を支持する、抵抗権のために連帯する、そういう活動がちょうど蜂起から2年目になるんですね。10月7日明後日です。明後日、国連大学前からみんなでパレスチナの人に対する虐殺を許さない、そしてパレスチナの抵抗に連帯するというデモを18時ぐらいから18時半出発して渋谷に向けて、2年目の連帯を行いますので、ぜひ来てください。
詩をこれから読み上げようと思ったんですけど、時間オーバーするかもしれないんですけど、途中まででも読ませていただきます。
これは私の友達がナクバの中で、生き延びた、6歳のときにお母さんのスカートの中に隠れて生き延びたという話をしてくれて、それをガザの現実と合わせて、詩を作ったのを朗読させてください。
<詩の朗読>
「ナクバを越えて」
ガザ。
瓦礫が私の体を砕いた!この瓦礫をどけて。起き上がれない。
私の足はどこにあるの?私の抱いていた孫はどこ行ったの?
熱い。痛い。私の足はどこに行ったの?私は起き上がれない。
ここはガザ。どうしてこんな目に遭うの?私が何をしたというの?
私達パレスチナ人が何をしたというの?
ああ、何が始まったの?またナクバが始まったのね・・・・?
あのナクバのとき私は6歳だった。1948年のこと。
ヤーファーの我が家。たわわに実る果樹園のオレンジの実。
豊かで平安に満ちた日々を覚えている。
「シオニストが来る。」「シオニストが襲ってくる。」「シオニストが皆殺しに来る。」
人々の声が聞こえた。みな持てるだけのものをもって鍵をかけて逃げる準備を始めた。
今でもあの77年以上前の我が家の鍵を私は持っている。
この瓦礫に埋もれた中で首飾りにして、後生大事に持っている。
ヤーファーの花の香りの村。大好きなところ。
私たちはここを出ていかなければいけないという。
「お父さんを待とう。まだ戻らないお父さんを待とう」というかあさんの声に、私たちは待つことにした。
そして奴らが来た。イギリス警察が使っていたジープに乗って奴らがやってきた。
「出て行け。殺されたくなければ出て行け。」
庭に入ってきた。母の争う声が聞こえた。そして、銃声が2発した。
胸を真っ赤にして、かあさんが走り込んできて、「逃げなさい!」と言った。
私は足がすくんで逃げられなかった。私はかあさんと一緒にいたかった。
私がかあさんにしがみつくと、かあさんは私をスカートの中に隠して、「隠れなさい、動いちゃ駄目、静かに。」と言った。
しがみつく私に、「しーっ静かに。」かあさんはささやきながら言った。
大声で銃を乱射しながら、奴らは怒鳴りながら、あちこち探して出て行った。
「黙って、黙って。」かあさんはそう言った。動かなくなった。
「かあさん!」絶え絶えに言った。「黙って、奴らがいなくなったら、奴らがいなくなったら・・・・。」
それが何十分だったのか、何時間だったのか。
お母さんは冷たくなって、誰の声も聞こえなくなった。
こうして私の村の人々は殺され、追い立てられ、近所に住むお母さんの兄の家族に連れられて、私は怖い目に遭いながら、このガザにたどり着いた。1948年5月のこと。
私達のように80万人を超えるパレスチナ人が追われ、そして1万5000人が殺され、80万人を超える人々が、家を追われた・・・・。
ああ・・・・ナクバの日々。
また・・・・ナクバが始まったのだろうか。
ガザは美しいところ。地中海は光り輝き、サンセットの祈りのときには空と海のあわいに落暉は消える。
ガザは美しいところ。愛する故郷。ガザ、北からラファ国境までイスラエルは・・・・。イスラエルは私たちを追放し、ガザを併合しようとしている。
ガザ住民230万人のうち既に200万人が家を追われた。
私の娘、息子たちはどこにいるだろうか。
彼らは今ガザの人々を助けて走り回っている。まだ生きているだろうか・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私の足はどこ?
孫の泣き声はもう聞こえない。
ガザは破壊され殺され、21世紀のこの世界で再びナクバが起きたのか。
なぜジェノサイドが止められないのか。
なぜ占領が許されるのか。何故?
殺すな、殺すな、殺すな、ガザは死なない。ガザは死なない。
ああ、一つ歌が聞こえる。
オリオンの流星群か洪水か。ガザの憤怒がほとばしる秋。
オリオンの流星群か洪水か。ガザの憤怒がほとばしる秋。

長くなりました。どうもありがとうございました。(拍手)

午後4時35分
●関西からの報告  新田克己さん(関西運営委員会)

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皆さんこんにちは関西の事務局の新田です。すごい人ばっかり登場なさった後に出てくるプレッシャーがすごいです。だから事務連絡だけさせていただきたいと思うんですけれども、関西にも山﨑プロジェクトがあるんですよ。ご存じだと思いますけれども、2年前の10月8日に重信さんが東京集会に出てきておられまして、そのときに僕は初めてお目にかかって、これ絶対関西に来て話してもらおうとそのとき決心しました。
「東京より先に関西でやるぞ」って決心しました。それを実現させていただきました。去年の6月の関西集会で、重信さんにパレスチナの闘争の歴史をすごくわかりやすく語っていただきました。
関西では年2回の講演会を企画してるんですけれども、去年の6月が今の重信さん、そして、11月は京都で「ほんやら洞」っていう喫茶店を作られた方なんですけども、甲斐さんという写真家、今は「八文字屋」というバーを経営しておられます。その「ほんやら洞」っていうのが、京都のベ平連とか反戦運動のメッカみたいな位置でした。先ほど重信さんの去年の6月の関西集会の講演で出てきたリッダ闘争ですね。テルアビブの乱射事件って言われてますけれども、あの事件があった日、同じ日に京都で、今言った「ほんやら洞」がオープンした。同じ日だった。そんな繋がりが、講演会を企画している中でみんなが気がついたことでした。
その後今年に入って、大野光明さんという我々の仲間でもある研究者の方にお願いして反博(ハンパク)、70年万博の前の年なんですけどね。1969年に大阪の大阪城の公園広場で、反万博ではなくて、「反戦のための万博」っていうのをべ平連の人たちが中心になって開催された。撲も見に行ったんですけどね。九州大学に落ちた米軍機の破片が展示されたりしていた。その反博を研究されている大野光明さんと植野さんっていう、反博の事務局で実際に実行された方に来ていただいてお話していただいたのが今年の6月でした。

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あと今年11月の15日、これはもうさっき皆さんにチラシをお配りしました。メインというか最初の講演が菅野芳秀さん。明治大学の出身で、三里塚闘争なんかも経験されたんですけど、参加された方もあるんじゃないかな、今年の3月30日の『令和の百姓一揆』で東京都内で30台のトラクターを連ねてデモ行進、トラクターデモを成功させた方です。その経験というか、三里塚闘争とか沖縄闘争を経験した後、山形の実家に戻られて、そこで百姓をやりながらいろんな人たちの運動をまとめてこられた。そしてそれが今年の『令和の百姓一揆』に結びついたというその歴史をお話ししてもらうつもりでいます。
そして後半で重信さんにもう1回登場していただいて、『ガザ虐殺を怒る日々』。雑誌連載されているタイトルをそのままいただいたんですけれども、これから1ヶ月経ったときにガザがどうなってるかもわからない状況ですけれども、重信さんにぜひお話をしていただきたいというふうに考えてます。ちなみに、この講演会の菅野さんと重信さんは、同じ明治大学の先輩後輩の関係におられます。そういう繋がりもあります。ということでぜひ大阪へと言いたいですけど、それも大変ですから、お知り合いの方がおられたらぜひおすすめいただくようにお願いいたします。これからもよろしくお願いいたします。
(拍手)

●閉会の挨拶 辻 恵さん(山﨑プロジェクト事務局長:弁護士)
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発起人の1人の辻恵です。山﨑博昭とは大阪府立大手前高校で同じ学年同期生、ということがあって、彼の死と寄り添う形でしか生きることはできないというふうに思って、今日まで私なりにやってきています。
毎年こういう10・8山﨑博昭プロジェクトのイベントで、もう1年頑張ろうというふうに思っている、そういう決意を新たにする意味で、今日は正装をして参りました。昨日の自民党総裁選で高市さんが選ばれたということは、戦後の日本の権力層とか支配層の政治勢力が、もう最終的に行き詰まったと、もう解決能力がなくなったということのある種の現れだと思いますし、逆にこちら側が本気になってどうしてこれを倒せるのかということを、本当に、民衆の力、国民の力、人民の力をどう結集して新しい政治勢力で倒していくのかが問われてるのかな、そういうことを自分なりには自覚をしてやろうと思います。
山﨑博昭プロジェクトは、2014年から発足をした後、こういう形で東京、大阪でそれぞれイベントを毎年1回ないし2回やってきて、2017年に50周年ということで、サイゴンですね、今のホーチミン市で向こうの戦争証跡博物館の館長さんともいろいろお話させていただいて、山崎プロジェクトの50周年記念の展示会をやったというようなことで、記念誌を発行し、今日多くの皆さんがお参りしていただいた福泉寺に墓石を購入し、そして山﨑博昭の遺影をですね、ベトナムの戦争証跡博物館に永続展示をすると、この三つの事業をやったので、私達の思うことを実現した。でも当時の戦いは72年の沖縄返還が続いたので、やはり沖縄問題を含めて、日本の様々な闘争と連携する広がりを山﨑博昭プロジェクトしてしては目指していこうということで、2022年までやって、その後どうするのかということなんですけども、今日の真鍋さんの言葉を借りるわけじゃないけども、やっぱり記憶していることを記録化して、それをやっぱり継承をしていただくという広がりを、そういう意味では僕は当時から言ったのは、韓国の200人に上る烈士の皆さんの、どういう闘いなのかっていうことを国民の皆が本当に刻んでいくっていうか、記憶を記録にしていくっていうこと。生者が死者を蘇らせるということを、まさに今思うと山﨑プロジェクトに僕らはそういう思いを託して活動してきたんだなというふうな思いがあります。
我々の活動の中で樺美智子さんが1960年、実は虐殺されたんだというような事実を発見したし、いろんな事実の中でみんなで検証することができてるということがあります。他にも糟谷君とか様々な方々が、これまで倒れている。そういう人たち、今後もそういう闘いが続くっていうことの中で、山﨑博昭プロジェクトの皆さんと一緒になって、私は継続、永続させるように頑張っていきたいというふうに思います。勝手な個人的な思いですけども、プロジェクトのみんなのある種、共通の思いはその辺にあるんで、具体的にどうしていくのかってまだまだ議論をしていくことになると思いますけれどもぜひ11月15日の関西でのイベント、そして来年も東京でもやるということになると思いますので、ぜひ皆さんいろんな問題意識をお寄せいただいて、議論をし合いながら、山﨑プロジェクトの思いを、次に繋げるようにともに頑張らせていただきたいと思います。
それで私の閉会のご挨拶とさせていただきます。
今日はお忙しいところありがとうございました。(拍手)
(終)

【お知らせ その1】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。
http://meidai1970.sakura.ne.jp/gakuentousou.html

●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。
 
http://meidai1970.sakura.ne.jp/kikanshi.html

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は10月31日(金)に更新予定です。

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