今回のブログは、「雑誌で読むあの時代」シリーズとして、『朝日ジャーナル』(1971年6月4日号)に掲載された「“学生階級”―その今日的構造 最終回」を掲載する。
「学生階級」ということについての連載記事であるが、いよいよ最終回。最終回は、評論家の中島誠氏による「日大闘争」についての評論である。1971年5月の検問検閲体制下の日大で撒かれたビラの内容を紹介しながら、日大闘争についての考えを書いている。少しわかりづらいところもあるが、今まで掲載してきた連載記事の最終回なので、掲載することにした。
1971年の5月といえば、全国の大学でバリケードも消え、逆に大学側によるロックアウトなどの管理体制が続いていた頃である。私のいた明治大学でも大学は鉄柵で囲まれ、授業は再開されていたが夜間の学内立ち入りは禁止、新学生会館は閉鎖されるという状況であった。それに対して「学内ロックアウト体制粉砕!」「学生会館開放!」を掲げて集会やデモ、鉄柵の実力撤去などの闘いを行っていた。
8号館(旧学館)は生協が入っていたため閉鎖されなかったので、日大や中大、神田地区共闘が部屋を確保していた。日大は「日大二連会」(二年生連絡会)という団体が使用していた。今回の記事に出てくる日大生は、ここを拠点としていたのかもしれない。
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【“学生階級”―その今日的構造 最終回 71年5月の「日大闘争」】
中 島 誠(評論家)
バリケード・検問体制を維持しつづけている唯一つの大学・日大で、かつての日大闘争を経験していない1、2年生による自発的抗議の闘いが5月11日から湧き起った。この新しい日大生の試みの質と位相、退潮した全共闘運動とのかかわりなどを、戦前、戦後の学生運動史を熟知している日大闘争救援会の中島護氏に語ってもらった。
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えっ、 また始まったんですか、まだ、やる気のある連中が残ってたのかな。東京・神田三崎町界隈、日本大学の法学部、経済学部の教育販売高層ビルともいうべき校舎群の建並ぶ商店の人々は、5月13、14日、千人を越す日大生が、大部分ヘルメットもかぶらす、だらっと両手をさげ、両眼の奥に日ごろうっ積した怨恨の怒りをぐっと押し殺しながら群がり始めるのを取巻いてひそひそ話していた。

ちっとも変ってないナ
5月の陽気に、地下鉄の工事現場の鉄板道路の下から地虫の湧くように、学生達は出てきた。経済学部ビルの上から消火器が粉を吹きながら落下する。校舎正門、鉄網の間の検問所奥からガードマンが踊り出てきて学生をなぐる。常駐の関東軍が上からさまざまの物を投げ落とす。学生が血を流す。青医連派遣の救援女子学生がかけつけると、その手を振りはらって血の流れたまま、入口のシャターめがけて突込んでゆく。あんた、けがしているのにだめじゃない、と追いすがる女子学生が逆にどなりつけられて小さな笑いが起きる。負傷者を集めて治療するつもりでいたら、ついさっきまでいたけが人達が蒸発していた。みんな額や頭をおさえたまま友人の群れの中に飛び帰ってしまった。
だって久しぶりだもんな。おまえどこにぶらぶらしていだんだ、おまえこそのうのうとしてさ、ふとっちやって、結婚したんだって、子どもできたんか、よかったなあ、 ばっかやろー、金持ってるか、あるはずないじゃない、だって、いいネクタイしめてるじゃないか、ばか、こりゃバイト用だ、なんだバイト帰りでここに来たんか、いい気なもんだな、金なけりゃタバコあるだろう、うるさいなあ、たから年寄りってきらいさ、何がさ、だってここで中心になってやってる連中、みんな一、二年生だろ、いいじゃない、当たりまえじゃない、たからさ、68年5月なんて夢物語じゃないか、だってきたっていいじゃないか、いいよ、どうぞ、もちっとましな格好してこいよ、ああ、ジーパンの新しいの一つ買いたいな、きたきたきた、マル機だぞ、機動隊だぞーっ、検問、検閲体制粉砕!ロックアウト粉砕!ちくしょう、ガードマンに関東軍にマル機に、ちっとも変ってないじゃない。世の中静かになったってのにさ、ばか、沖縄みろよ、三里塚行ったか、そういうことじゃないの、おれ達の目の前に毎日毎日ガードマンがいるつてことなの・・・
ありゃ何ですか、えっ、あの、経済学部の屋上の緑色の鉄柵と鉄の網は、ああ、あれゴルフ場ですよ、へぇー、ほんとですか、日大ってとこはね、体育の正課にゴルフがちゃんとあるんですよ、 ハアー、上がゴルフ場で、中が関東軍で、下がガードマンですか、なるほど。
でも、3年前の20億円脱税は片がついたの、えっ、ありゃ証拠不十分で不起訴だよ、例の九項目要求ってのは、あんなの一つも実現してないよ、あんなにやってもゼロか、セロってことあるかい、でもそうじゃないか、つまり敗北ってことだろ、 日大全共闘は過去3年間の敗北的総括をし・・・、ばか、そんなことは、どっかのセクトの立看板でもみて勉強してこいよ、そのタテカンに、第二次日大闘争ってあったぜ、つまり第一次は敗北で終わったということだろう、そんなことどっちだっていいじゃない、第二次たと思いたけりゃそう思えよ、第三次とも第四次とも言えるんだ、だから、敗北にしろ何にしろ、脱税不正や九項目大衆団交は一応終わって、今度のは、検問とロックアウト粉砕だろ、わかってないなあ、そこんとこは切れてるようで続いてるんだ、昨年の2月に死んだ中村克己のこと忘れたのかよ、ビラをまいていて殺されたあいつと、こんど法学部で「新入生・移行生歓迎集会」反対のビラまいててガードマンになぐられた学生と同じじゃないか。切れてるようで続いてるんだ。しょぼくれてるときは、シコシコとでも「くたばりぞこないの唄」とでも何とでも言ってくれよ、こっちはナ、同じ調子でやってるんだ、そうか、つまり非連続の連続っていうわけか、そんな小うるさい文句なんか知るかい、おれさ、夜中に新宿なんか、たった一人で歩いているとき、ワーッと叫び出したくなるんだ、それでほんとに叫んじゃうんだ、おれもそういうことあるなァ。

永遠のガードマン王国
ここに1枚のビラがある。
「法学部およびすべての日大生諸君!
我々は学友会の学部当局側のデッチ上げ策動に対し一買して抗議してきた。そして5月14日の学友会による新入生・移行生歓迎会に対し、あの学友を無視して出来上がった学友会は認められないし、またその主催する歓迎会は、単なるデッチ上げ学友会の既成事実を学友に押しつけようとするものであると終始反対してきた。そしてその事実を学友の前に明確にしようとして11日および12日と、法学部においてビラを配っていた。しかし、そこへ何のつもりかしらぬがあの卑劣なる検問を守っている雇われガードマンが学友の配っているビラを取り上げ公然とそのビラを破りすて、あるいは学友に対しなぐるける等の暴力をふるってきたのです」
このようなことは、ここ数年、日産自動車で、光文社で、報知新聞社で、すでに頻発している。日大芸術学部のバリケードを3年前の秋襲撃した「関東軍」が、その名をモダンなガードマンKKに改め、その後、報知新聞、光文社、茨城県那珂湊市などに出没し、つまんないことで日大ってのは先鞭をつけるんだなアと、日大生を苦笑させた。そしてビラの文句は続く。
「これに対し、学友が13日抗議の集会を開き、他学部の学友も自らの学部の検問検閲体制に抗議し起ち上がったのです。しかし、これに対し経済学部の右翼・ガードマンは、学友3名を校舎に拉致しテロ・リンチを加えたのです。そしてそれに怒った学友は、捕らえられた学友を奪い返すべく、抗議のデモ・闘争をくり返したのです。そして我々に学部側が答えたのは何日にもおよぶロックアウトです。我々は自由に学び、自由に集まれる権利を持っているはずです。大学は我々のもののはずです。あなたとともに語るために我々の大学を我々の手に取り返すために手を組み、ともに闘いましょう。我々の手でロックアウト紛碎し検問を突破しよう」
思わずピラの全文近くを私は引用してしまった。ここに語られ訴えられているのは、淡々とした一種の因果律である。実にのびのびと明快に、こうなったからああなり、だからまだこうなったと論理の筋道を書いている。それがまた、事実どおりの記述なのだ。説明も解説も分析も強調もないようにみえる。

日大への怨念と執着
5月12日以来、すでに10数種類のビラが、日大の名学部の研究会、サークル、フラクションなどから出ている。そのスローガンは、ロックアウト、検問検閲体制粉砕の一点で共通している。ならば学生が、形も中身も大学管理運営者のお墨付きサークルやグループに安住し、体育会とガードマンつきの学友会に適応すれば、大学はビラのスローガンに応えるか。それはおそらくそうなろう。学校は、むしろそれを切望している。全国津々浦々の大学で、検問もロックアウトもしていないのに、日大だけがみっともない要塞を授業料を払っている学生に構える焦燥は、おおうべくもない。
検問をパスするには学生証が必要である。学生証を手に入れるには授業料未納ではだめだ。学生は検問所を通過するために、いわば学生証を交渉手段として買うのである。電車のパスなら振ってみせれば安全に電車に乗れる。大学のパスは、検問所をパスしても、なかで、ピラをまくなどするとガードマンがきてなぐる。学生にしてみれば、形式を金で買う屈辱をなめ、中身の行動で肉体の被害を受ける。そこに二重の怒りが湧く。しかも怒りを押し殺してスイスイパスを振らねばならぬのは一年中毎日である。そして、この毎日のいやな感じを、すでにカギカッコつきとされた「日大闘争」という固有名詞のしこりとして、わが身に沈殿させつつ、カッコつきの過去の行為に対する管理者からの報復として現実に味わねばならない。おまえらがやったから、いまやられてるんだ。どうしてくれる、という「大衆の声」は、どんな小声でも、耳を聾するばかりの痛みとなって突きささってくる。
それだから、彼らはヘルメットもかぶらず出てきた。それだからこそ、また日大生は、大学の思惑どおりに正常化することを拒否した。検問所をなくし、ロックアウトさえ解ければよいのではない。大学も面子にかけてロックアウを解きたく念じている。学生もロックアウト粉砕を機械的に叫んでいるのではない。立入り禁止は文字通りいやなのだ。てめえらがあばれるからロックアウトするんだ、というガードマンの反論に対して、学生は、「大学はわれわれのもののはずです」と一言いうのみである。この考えは、過去3年間の日大闘争を貫いて一つの思想ともなってきた。
これほど日大生は、大字に敵意と怨念を燃やしながら、日大闘争のできる日大にひとしおの愛着を持っている。その執着は、労働者が、資本家と闘いながら、工場の自分の機械持場に異常なまでの愛着を持つ心と一脈相通ずるものがある。それは、人間の本源的矛盾かも知れない。人間の原点的価値だ。日大に固執して日大闘争をぶざまに統ける日大生は、ストをやりつつ旋盤にしがみつく労働者の鈍根と同じかも知れない。だが、仕事と仕事場に執念を断てぬ労働者が、結局はストにも真の意味で勝てるのである。
「再度火を吹く日大闘争!!」というビラを持参して5月19日夜、ベ平連の集会に出かけた私の友人たちは、ビラを手にした都内の大学生や職場の青年労働者から、いいなあ、日大は、まだやれるんだから、サアスガーッと言われ、かえって恥ずかしくなってきたと話した。

片やサークル「育成」政策
なぜ、日大は、まだ日大闘争をやるのか、やれるのか、というやや間の抜けた設問を出そうか出すまいか、私は迷ってしまう。そんなことはよくわからないのである。
日本大学は、68年5月以来燃え続けてきた日大闘争の榾(ほた)の火が、70年後半からついに榾、つまり焚火に使う木の切れ端になりかけ、火だねだけが湿った大衆の草の下にくすぶっている、と理解した。そしてその判断は無理からぬものであった。そこには、全共闘運動が、前共闘物語となり、小市民ラジカリズムの情念、怨念集団の語り草となって、前の字は、昔のことという意味と、単位取得をとりもどすべく教室の一番前の机でノートをとる、という悲しくも健気な姿と、二つの意味を表わすともいわれる全国的状況からする大学側の当然な油断があった。
もうそろそろ「正常化」してもよいだろう。それにはまず、新人生を中心とする各種サークルを大学の自由操作可能なものにする。サークル構成員、その目的、性格、今年度のテーマなどを全部届け出させ調査して許可したものにだけ、部室と部費を与える。68、69年闘争の未経験者に、むしろサークル活動を奨励し、「明るく健全な」サークルを保護育成する方針は、各学部の設備拡充計画とともに、すでに去年の春から積極的にすすめられてきた。
一方で、みんないらっしゃい、お入りなさい式のクラブ・サークルがコンクリート舗装のキャンパスの上で市を開き、他方で、相変らず学生証検問と、サークル活動内容の検閲体制が続いている。校合を取巻く金網、シャッター、鉄板、バラ線の対学生要塞化の構えも存続している。ドスを胸元に突きつけながら、頭の髪を撫でるような気持の良くない大学に、医学部などは入学するのに半ば公然と一千万円かかる。法学部などは新学期に教室へ学生が行ってみたら満員で三割以上も入れない。もともと三割前後の欠席率を見越して水増し入学させて資金源にするのだからたまらない。こんなありさまは、何も日大に限ったことではないだろう。しかし、日大がそうであることを日大生自身が社会に顕示して抵抗してきた。
大学としても、そういつまでも右手にシャッターつき検問、左手にクラブ・サークル勧誘では調子が悪い。それには、大学の肝いりで学生の自治組織を形ばかりつくってこれを学友会として、それまで同し肝のいれ方でこしらえてきたクラブ・サークルを、学友会に「自主的に」運営させるという間接管理をとるように考えた。5月14日の、大勢の有名歌手や芸能家の出演する「法字部、新入生・移行生歓迎大会(九段会館)」も、学友会主催で盛大華麗に行う予定であった。

火だねは敵かかきたてる
私は、69年2月、「日本会」主催の「古田重二良先生を励ます会」がホテル・オークラの大広間で開催予定であったことを思い出す。当夜の招待には、政・財・芸能界の大物が勢揃いするはずであった。それは、日大生自身の抗議行動によってとりやめになった。今回の歓迎会も「混乱を招く恐れがある」という理由で延期になった。混乱を招く恐れを生んだのは何か。それは、歓迎会そのものを学生の手に本質的に委ねず、体育会や右翼学生を総動員して「成功」させようとした大学側の焦りと、これに反対した日大闘争の火だねとの、直接的関係がまだ死んでいなかったという現実であった。法学部の火だねたちは、歓迎会が、現行の屈辱的検問の日常を、グロテスクなまま正常固定化してしまう布石と見抜いて反対のビラをまいた。そこへガードマンが、いささか気ばやに襲ってきた。
よくも襲って来てくれたなあ、火だねのおいらが苦労することない、 自然に火が燃えひろがってくれたものなあ、いつでも日大ってところはこうなるんだ、いいたあ、要するにフィーリングなんだ。大衆的フィーリング、自然発生的、でもいやだなあ、フィーリングなんだからいいし、またいやなんだ。学生たちは、そう言う。
そしてもう一枚のビラは書いている。
「・・・三崎町における闘いは13,14日には右翼および機動隊との対決を通してまったく久しぶりの盛り上がりをみせた」と。その成果は何か、1.大学当局による「正常化」策動の欺瞞性の暴露、2.検問検閲の日常性の打破、3.デッチ上げ「学友会」による「新入生歓迎会」の中止、さらに、4.他学部が、法学部の問題に普遍性を認識して闘ったこと、以上であるとピラはいう。だが同しビラが続けて、大衆の感性にのみ依拠する運動が自滅する恐れのあることを指摘している。68年の縮小再生産はまっぴらごめんという。「時おりしも5月、日大闘争の季節だ」などという言葉がでてきたらもう終りだ、と自戒している。「日大闘争」という固有名詞は、どんなに重い名辞として彼らにのしかかっているだろう。このカギカッコをはずすにはどんなに大きな力が必要だろう。

市民感情の連続として
今日は5月24日である。5月12日から13,14,15,17,19、21・・・と日大生は行動してきた。土、日を赤で書けば競馬の日程だ、とだれかが笑った。一つの行動をする。逮捕者と負傷者が出る。21日には顔面を楯で割られながらみなの眼前で一人検東された。そんな「行動」のない日は、各学部で、ここ1年来少しずつつちかってきたサークルやクラスのフラクションが討議をしている。ここでも一、二年生が多い。行動と討論が一日おきに交互に連続してゆく。どこまで続くか、そんなことば学生にもわからない。ともかくいままで消えずに何かが残っていた。
今年の新入生は、つい数ヶ月前までの高校生である。彼らは全国の方々の高校で、それぞれやりたいことをしてきた。地方都市のべ平連をやってきた者もいる。3年前、たまりにたまった屈辱のうっ積を、どうせ卒業するんならその前に一回だけでもやりたいことをして去ろう、と半ば自棄的に起こった当時の三、四年生とは少し違う気持ちで、いまの一、二年生は、どちらかというとスーッと行動に参加している。公害、交通地獄、反戦、そんな市民感情の束が、ぐらっと揺れたところで気がついたら三崎町にいた、という感じだ。
こんな事情か、71年の日大闘争再発を時間の糸で準備している。高度経済成下の日常生活で自己を問い返す、という少々無理をした厳しさが「前共闘」にはあって、一種のリゴリズムか歴史意識でくくられ、敗走の過程で、意外に古典的な革命準備的実力行使と官能主義に陥っていった。だから言わんことじゃない、やっぱり地道な組織論だ、大衆要求吸い上げ主義だ、学問と研究の自由と自治の確立のためまず自治会の掌握だ、党の建設だ、市民選動の学生運動の位置づけだ、という猛反撃に「前共闘」は雪崩をうってくずれていった。

幻想なき前後世代の結合
しかし、たとえば日大の新入生たちは、日大全共闘再編などとい夢とは関係のないところで、ポッカリその姿を大学の鉄扉の前に現わした。これを破れ、これを突破しよう、大学はわれわれのもののはずです、という当たりまえの声をそろえて。一方、羞恥心をいっぱいに輝かせながら、68、69年の体験者は、指導者としてではなく、自己の体験を普遍的に体系化できぬ困惑をじかにー、二年生にぶつけて合流してきた。
68、69年の体験を特殊化する自意識に閉じるほど、その敗走の速度は大きい。しかし、いったい、1年や2年の体験で、人間の歴史に何が生れるというのだろう。みずからの体験を次の世代に開くのは、やはり強烈な恥じらいが伴うものである。この羞恥の解放感を、次へ次へと開放してゆく図太さがなければ、人間は歴史をつくれない。これに反し、一回限りの行動に賭ける者は、その前と後を歴史の被拘束性に委ねざるをえないから、なおさら、その一回限りの行動に主観的な重みをかけてしまう。その結果、悪矛盾的に彼は官能の感覚に身をすり寄せ、全体と個という図式に自縛されつつ、個別瑣末な対象への行為を見過ごし飛ばして、ついには人間的日常のリアリティ感覚を摩滅させてゆく。
これに対して、日大前共闘は、個別前共闘の主観をわき目にみながら、じっと羞恥のかたまりとなって、ここ1、2年を生きてきた。自己の顔に張られた名を振捨してきて、しかし、過去の行動の中身を忘れずにきた。彼らのほとんどは、就職はしていないが就労している。何かの仕事をして生きている。仕事の種類は実に雑多だ。なかでは、消費物質を大都会のなかで運搬する労働が目立つ。物をつくる、物を売る、という直接、物に触れる仕事は意外に少ない。肥大化した流通機構のなかで彼らも右往左往して生きる。だが彼らには一切の幻想がない。午前中乗って仕事をしていた零細企業のライトバンを夕方とびおりて三崎町にすっとんでくる。新人生は黙ってニヤッとそれを迎える。彼らには就職ということに幻想がない。いや持てない。新入生たる前高校生にも大学生になるという幻想がない。就職と進学と二つ並べてまあもう少しやるか、という気で入学してくる。この「やるか」の中身は、遊びであり勉強であり闘争であって、何ともいわく言いがたいものである。幻想のない者、持てぬ者同士が結び合って、まあせっかくだから日大闘争でもやるか、ということになる。こんな妙な世代の結合を、戦後、私は見たことかない。ともかくこれが、いまの日大生を支えている縦の糸のようだ。
もう一つは、横の糸である。実は、私自身も「日大闘争救援会」の一員として、「あらゆるところに日大闘争を」という会のスローガンを胸にたたんで歩いてきた。しかし、この合言葉がそんなに簡単に一人の主体のなかで実現するはずがない。それどころか、状況の推移は、主体の主観を空転させ、気がついてみたら自分の周囲に日大闘争も、自分自身の存在意義もなくなっていた、というみじめなことに私も追いつめられかけていた。でも、三里塚かあるじゃないか、沖縄もあるよ、という耳元の声に対して、何々と自己という関係からいえばどれもこれも同じことだぞ、と居直っていた気配がなくもない。といって、「日大闘争」という名詞化されそうになった歴史の額縁に踏込んで、どうするわけにもいかないのだ。じゃおまえ自身、自分の場で何かをやれ、というご大層な声が返ってくる。だが、それができるくらいなら、日大闘争なんかいつでも捨てたいよ、という気持は日大生自身の中にこそ最も強くあるのだ。
しかし、目を転じてよくみれば、3年前の日大闘争か、今日の企業のなかで、自衛隊のなかで、基地のなかで、普遍化してしまっている。そういう意味では、日大の管理運営方式こそ、最も現代的なファシズム・警察国家への道を行く国家全機構に先鞭をつけていたのだ。最も古いタイプの人間か、おのれの立身と権力志向のため、最新式の有能な官僚機構を活用して、それが国策に沿ってゆく、という方向ほど恐ろしいことはない。日大闘争が、日大を特殊な社会的存在から解き放った瞬間に、ガードマン・システムに象徴される人間の暴力支配は日本に普遍化したのである。口本の労働者と学生は、結果において、「あらゆるところに日大闘争を」をむろろ今日強いられている。
このような縦横の糸の交点に、 いつも日大闘争はあったし、いまもある。

挽歌を書かざる幸せ
私は、過去3年間、本誌に何回か学生について書いてきた。しかしなぜかもう、それもお別れだという気がする。それは獏たる予感だ。だが、ぼんやりした予感というものは当たるのである。だから、今回は、日大闘争の挽歌を書かずにすんで正直嬉しい。3年前の秋、羽仁五郎氏の前座をつとめて朝日講堂でしゃペったときも、私は無我無中で日大生について満堂の聴衆にわかってもらいたくて語った。私の義理の弟が一番前で聴いていたのを全然知らずに私はいて、あとで、ずいぶん興奮してあがってたな、とひやかされた。
そのとき、いろいろ世話をして下さった朝日新聞のM氏は、1930年代の京都、大阪周辺の人民戦線的気分について、いろいろ思い出を話してくれた。そのときあまり気づかずにいたが、69年代後半から70年初頭にかけての日本は、30年代当時の暗さと、そのなかに埋没する日常的けだるさの魅力と、そのけだるさを情念ではね返そうとする審美主義の浪漫的気分とが、いりまじってきている。
M氏の話をもう少し注意して聞いていれば、私は朝日講堂で、68年の日大について、それを50年代および60年前後の学生運動との比較まで語る裾野から、もう一歩広げて30年代との比較をしながら考えられたのにと悔まれる。
立憲象徴天皇・議会制民主主義・超近代的大工業独占管理帝国主義的国家、という世界にあまり例をみぬ気味の悪い湿潤の社会に生きるわれわれは、支配の機構の重層にみあう厚みのある戦線を人民のなかにつくらねば、とても間に合わない。それはほとんど新たな今後の作業だ。
いまのところ日本の学生運動は、支配構造の重層の、それぞれ一層くらいをせめて対象にして、両極に分岐しょうとしている。一つは議会制民主主義の形式的護持と実質市民的参加を目標とする不断の改良運動である。他は、ほとんど古典的といえる対権力革命運動の起爆剤たらんとする極少数派の運動である。後者は、起爆剤になる方法のこまかな違いを一つ一つ批判しあいながら分裂してますます少数派になってゆく。
私は、3年前、日大闘争の貿か、この両者の傾向の溝を、大衆的に、しかしきわめて大ざっぱに埋めうるものになるかも知れぬと判断して、いわばこれに賭けてしまったのだ。そこに私は、30年代の人民戰線のイメージをみたような気がした。それは少々甘い幻想だったかも知れない。しかし、私は望みを捨てていない。そこには、支配の原理のなかに日本的に残存するエモーショナルなナショナリズムにさえ、ぴたっと対応して離れぬ方法も混在している。工業化→公害→反公害→農本主義、という近代化の意外に陥りやすい観念にも対応できる実践の論理さえ、そこにはかくされていると思える。
それはともかくとして、71年5月というやや季節外れの日大闘争を、全国的全共闘運動の再生のてこに、というあわて者が出るかも知れない。また、いまどきまだ個別大学に固執するのか、という気早い悟達の政治家も多いかも知れない。しかし、このどちらの考えも、人民戦線的多様性のイメージをぶちこわしてしてしまうだろう。別にそれだから、日大闘争を大事にしたいなどというおこがましい気持は、さらさらないが、日大闘争の挽歌を書かずにすませてくれた本誌そのものの行方をも、万感の情をこめて私はしばらく見守りたいのである。
(終)

【お知らせ その1】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。

●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は12月19日(金)に更新予定です。