野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2026年01月

今回のブログは、『週刊アンポ』第9号(1970.3.9)に掲載されたの高校生の座談会の記事である。
この第9号は「教育特集」ということで、前回掲載した「造反中学生との対話」などが掲載されている。『週刊アンポ』はベ平連が発行していた冊子で、1969年後半から1970年前半の時代が凝縮されている。
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【高校生の広場 教育なんてどうでもいい】(『週刊アンポ』第9号1970.3.9)
企画  TKA
構成並びに効果 編集部(A+K)
とき 1970年2月のなかば
ところ  都内の喫茶店(A、C、M、Oその他)
取材 編集部(涼、田村)
恊力 各校全共闘、ベ平連
<キャスト>
都立桜町高 O、都立立川高 野間、福岡県立修猷館高 俊平太、都立青山高 田村、都立上野高 ダンボ、都立日比谷高 日野・由比・谷山、学芸大附属高 陽子
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26年7月18日に、世田谷で生まれて、 区立の小学校、中学校へ通って高校に入ってから町田市へ越してきたんだけどさ、ずっとうちから学校へ通っていて、修学旅行より他に長いこと家を離れたこともないんだ。小学校のとき書道をやってて、そのあとそろばんの塾に行ったのは、たぶん強制されたんだろうけど別に反発も感じなかった。
野間 27年2月28日、府中で生まれました。府中刑務所の中の幼稚園に通ってたんです。真赤なレンガの道を歩くのが好きで、それから、毎日へいの所で立ち止まって中のことや、脱走して来ないかな、なんていろいろ想像するのが好きで、遅刻ばかりしていろいろウソついて言いわけしてたわ。言いわけが種切れになったし、幼稚園はおもしろくなかったので半年でやめたんです。
俊平太 僕は27年2月27日神戸に生まれまして、小学校のとき、練馬へ越して来まして、中学にはいったあと、福岡へ移ったわけです。
田村 26年4月26日大分生まれ、みんな東京生まれの東京育ちだけど、僕と俊平太だけ違うんです。
ダンボ 27年1月22日に生まれて、小中学校とも足立区立でした。中学の初めまでは、気か小さくておとおどしていたんです。
日野 26年10月22日に目黑で生まれた。今も目黒だけど小学校のときから大田区に越境人学。そうだな、 わりと行動的たったな。たとえば、バイオリンのうまい子がいたんだけど、教師がその子にへつらうのを皮肉ったり、つっかかったりしては教師に呼び出されてたな。
由比 僕は26年8月24日神田で生まれてさ、小学校からずっと、千代田立のいわゆる名門コースにのっかってきたんだ。個人的な人間関係なんかまるでないんだ。カバンの持ち方まで指導されて飼い慣らされるんだけどさ、その頃は何とも感じなかったなァ。

まじめにそしてけっこう楽しく
谷山 26年5月13日港区に生まれてから麻布、世田谷、目黒と引っ越したけれど一度も転校はしなかった。小学校の頃から、小テストを生徒同士交換して採点させられたり、成績を公表されたりしてたけど素直に勉強してた。中学なんか六本木にあったんだ。それでまじめに勉強しながらも、けっこう楽しくやっていた。
クラス委員に指名されたりすると、成績がいいからだ、というエリート意識とそれに反発する気持と、両方あったと思う。委員になって、はじめは「指導する」といった気持でいわゆる悪いやつとつきあい初めたけど、そのうち、別に悪くないじゃないかという気がしてきた。
陽子  26年12月24日に練馬に生まれて、幼稚園から今までずっと、学芸大附属のエスカレーター。なんとなくはいったんだけどさ、小学校のときから区立に対して特殊な意識があったし、中学校になると、付属の生徒はお互いに甘いな、という感じがして、都立高校に行きたかったの。
田村  小学校のときは一般的優等生で進学教室でも上位だったんですが、私立中学の入試に落ちて、そのときはショクでした。
野間 小学校の3年のとき、道徳の時間で先生が「左側通行の駅の階段で、もし急いでいて、それに右側が空いていたら右側を通っていいか」って聞いたんです。
私は「かまわない」という方に手をあげたんですが、先生ば「いけない」って言うんですね。そのとき、私は「規則と人間とどちらが先なんですか」と言ったのを覚えています。その頃は家庭環境のためか、上ばきで外に出たり、割と無節操だったんです。先生や同級生からHRなんかで非難されて、中学にはいる頃から秩序派になるように努めたんだけど、それもいろいろ言われるのがめんどくさかったからだと思います。
陽子 附中のみんななれ合いの校風がいやだったの。職員室で教師と話したりする人も多かったけど、私は意識的にそれを避けてたし「青春の墓標」なんか読んで社会的意識はなかったけど奥浩平個人をステキだな、と思ってたの。それから、今も活動しているけど、はっきり学校枇判をやる人がいてさ、 私も環境に反発を感じてたので、個性的でいいなと思っていたの。学校群に対しては何とも感じなかったわ。都立に行きたかったけど、親や教師か勧めるので、なんとなく高校も附属に行ったの。「なんとなく」そんな感じね。
ダンポ 中学2年のころまでは、まじめに勉強していたけど、生徒会などで教師の生徒に対する態度に反発したり、 3年になってから、授業中に個人的攻撃をやる数師がいたりして、考えはじめたんです。PTAが校内で宴会をやるのを妨害しようとして担任の教師から「立場がまずくなるからやめろ」と言われたのが決定的だったんですね。僕たちの中学では中卒で働く人も多かったから「なぜ高校に行くのか」についても考えてみたけど、わからないままなんとなく行くことになりました。学校群制度の方は別に意識的にはみなかったですね。
田村 学校群については、むしろ受験科目が三科目になったのがうれしかった。

生徒の自由を規制するな
野間  中学校の自治委員会っていうのは自主規制委員会みたいなもので、あるときやっぱり教師の指図だったと思うんですが、“えりまきをやめよう”ということを決められたんです。そのとき先生に「生徒の自由を規制するな」って言いに行ったら「自治委員会は生徒のためにあるのではない」と言われました。
親戚に日共の人がいてマルクスとか共産主義についていろいろ教えてもらいました。その後自分でも興味をもって「国家と革命」や新書なども読んだり、作文に“人間がお金に使われているのだからお金をなくせばいい”って書いたこともありました。その頃はやっぱり知識の段階にとどまっていたんだけど、それでも“戦争はいけないけど革命はいいんだ”って漠然と考えていました。それに、思想というものは乗り越えられて行くものであって、資本主義と社会主義を並列するのはおかしい、とか。
ただ、抽象的に考えるだけで、新聞も読まなかったし、新聞記者に「受験は苦るしいけれど一生に一度ぐらいこんなに苦しいことがあってもいいんじゃないかしら」なんて答えたんです。模擬テストではずっと一番、学校群制度についてもそれほど考えなかったし。結局、レーニンなんかを読んだのも、まじめないい生徒でありたい、しっかりした思想を知りたいというところからきたのでしょう。
俊平太 小学校のころは内省的で小心でおとなしい子供でしたし、どういうことがらでも発言したり、行動したりはしませんでした。6年になりまして東京に転校しましたり、高田馬場の進学塾に通いましたりするころからですね、このままではいけないなと考えまして、中学にはいってからは、わざとたくさんのクラブにはいりましたり、級長に立候補しましたり、とにかく意識的に行動し始めました。福岡の中学へ転校しましてもそうでした。ただ、人見知りする性格は変わらず、政治的手腕や感覚がないことは、ますますはっきりと意識していました。生徒会の仕事をしましても統率力がありませんので、自分だけか、小人数のグループで動いていました。それから、ショウペンハウエルをかじりましてニヒリストにあこがれましたね。生徒会の役員としまして、遅刻を取り締まったり、一方では、学校か名札をつけさせようとするのを反対したりしましたのは、まじめで自主規制をするのがいいと考えていましたからでしょう。
O  僕らの年から学校群になったでしょう。いやだったな。姉さんの通っていた深沢高校に行けないかも知れない、という単純な理由だったんだけどさ。
日野 学校群制度は失敗が目にみえていると思ったし、当時の教育長はバカなやつだと考えていたヨ。

「旅へ出よ!」
涼(編集部) 俊平太を除いては、みんな大きな環境の変化を経験していないことに注目したい。また、付属へ行った人のほかは、中学校までは、 学校の存在あるいは学校の中の自分の存在がどういう意味を持つか、といったことはほとんど考えなかったといえる。むしろ、教科書の内容とか、教育制度とかよりも、環境や人間関係によって、人は“教育される”のではないか。そうだとすれば、現在のいわゆる“教育問題”は“問題”の所在から考え直さなければいけない。もちろん、出席した人がほとんど、東京に住んでいるということも、考えにいれなければいけない。地方の狭い地域社会では、小学校から一貫して教科書の知識よりほかに刺激がない、ということも考えられる。この場合も、 教科書の内容よりむしろ、環境の問題だ。
それから、僕個人にとって意外だったのは、ほとんどの人が、遠い所へ引っ越したり、転校したり、長い旅行へ出たりあるいは一人で旅行したり、そんな経験を、現在に至るまで行っていないということだ。高校の話は、これからだが、僕のいた地方の高校では、二割ほどは下宿している者がいたし、みんな、 よく旅行していた。それは高校としては珍しいケースだったのだろうか。だとすれば、去年の11月末、青高全共闘黒ネコ派の「旅へ出よ!」という宣言は、全く正しい方針だった、と思う。なお、念のために言っておけば、全員が公立高校の普通科の生徒だ。

知識を行動に移して
陽子 自分も附属へはいったくせに、こんな高校へ来る生徒はダメだ、なんて思って、最初っからおもしろくなかったし友達もできなかったの。それに、サボることも覚えて、一年の三学期なんて、20日くらい休んじゃった。だけど、二年になってから要領か良くなったというか、適当にやっていけたの。
だけと附属って意外とひどいのよ。君が代を歌わせる教師がいたり、倫社の教師なんて“生長の家”だし、それから、学級日誌ってのがあって、それに和歌を書かせて採点するのよ。私は日記をつけるのは好きだったけど。
それから、二週間に一回、学校が集会をやるの、ちょうど中学校の朝礼みたいな。生徒は交代で週番になって、風紀とか礼儀とかみてまわって、集会のとき、週番が号令かけたり、 成積の悪いクラスを発表したるするの。
教師に対する反発はすごくあったわ、反発というか、教師の存在か邪魔になるって感じね。自分の生活や情性をひきずって私の目の前に現われるものがいやだったのかな。だから、意識的に礼なんてしなかったし、できるだけ、目を合わせないようにしてた、ほんとに「顔なんか見たくもない」ってわけ。
自分で何かやろうとしたのは、3年になって新宿のフォーク集会に行ってみたころから。教師に土曜日の帰宅時間を調べられて、個人面接に呼び出されたりしたけど・・・。6・15なんか、個人的に集会に行ったりして、反戦高恊にあこがれたり、とにかく、卒業するまでに何かやらなければ、という気がしてきたし。
野間 高校に入学して、すぐ社会部に入ったのは、やっぱり中学のときに、そんなことを考えていたからです。社会部で現実のいろんな問題を知って、とても感動しました。砂川闘争で実力闘争を実感として感じたし、交換学生やビラ、ポスター闘争なんかで、はじめて、知識を行動に移して人に働きかけることを知ったんです。
O 中学ではわりと友達もいたんだけどさ、高校にはいって環境が変わっちゃって三年間とうとう友達はできなかった。 2年になるとき、クラスがえがあったんで、意識的に友達をつくろうとしたんだけど、表面的なつき合いに終わっちゃった。

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昨年秋. 学芸大附属高正門前のーコマ

“何でもいいから”
田村 高校に入ってからも二年の中ごろまではクラブだけといった感じでした。城南大会で優賞してそこで剣道部をやめたんですが、運動部だったせいか文化部には反抗みたいなものがありました。特に社研、新聞部、演劇部などにものすごい嫌悪感みたいなものを感じていて、佐世保だ、エンプラだ、羽田だなんていっても感覚的な反発が先にきてとにかくきらいでした。かっこよがりみたいな気がしてだから反戰会議ができても「またあいつらやってるな」といった感じでした。
クラブをやめたあといろいろあって、それから急に勉強するようになりました。二年の冬の学研の模試で全国で19番になってそのあと闘争をはじめたんですが、その時は、“なんでもいい、とにかくなにかに夢中になりたい”といった感じでした。4・28の街頭闘争の時、僕は大高連や地方の学友と一緒に闘っていたんですが一人がガス弾を腕に受けたんです。そのあとで僕も直撃を受けてしばらく失明状態を続けたんですがその時も地方から来た学友のことか心配でそのことばかり考えていました。学内で教師や、両親、それに級友まで敵にして弧立した闘いを続けてきた僕にとって地方から来た名前も知らぬ友を本当に同志として感じました。

感覚的なもの
俊平太 中学のとき、九大生から家庭教師をやってもらいまして、若干の唯物史観を聞かされたりしたのですけど、なるほどそうですね、というだけで自分とどういう関係があるのかわからなかったのです。高校にあがるときから下宿しまして、その下宿したということと、入学と同時に新聞部にはいりましたことが、だいぶ自分を変えたという気かします。
一年の冬、新聞部の先輩に誘われましてエンプラ闘争を見に佐世保へ行きましたが、結局、そのときは単なるヤジウマに終わってしまったのです。その後、同じ先輩の誘いで、高校反戦なる運動をなんとなく始めまして、その「なんとなく」というのは、反体制運動を始める契機が自分にとって何なのか、もう一つはっきりしなくて、それは今でもそうなのです。社会がおかしいということはわかりますが、自分自身、ほんとに矛盾を感じていますかどうか、疑問なのです。
日野 髙校にはいって一年のときからだな、HR闘争が始まったのは。そのあとの経過はもう何度もしゃべって、いやになった。
ダンボ 高校に入りいろんなことを知りたくて社会部に入ったんです。一年の秋に10・8羽田闘争かあって、山﨑君追悼集会に初めていったんです。その後の闘争には反戦高協の一員としてほとんど参加し、校内に反戦会議もつくったりしたが、三年の初めに“科学”というものに対する疑問からセクトからはなれたんです。二年の時、教育問順に関しては義務として政治的に理論化してみたが実感としてはピンとこなかった。階級闘争の中での位置づけは困難ではないでしょうか。理由づけはいくらでもできるかも知れませんが、それは理由づけにすぎないでしょう。僕達のはなにかモヤモヤした感覚的な反発のような気がするんです。
大学にはいかないで家の手伝いをするつもりです。大学にいっても何もないような気がするんです。何か新しいものがあれば別ですが。ただ、いかないということに関しても積極的な理由はありません。そのことに限らず理論的支柱なりバックなりはいまのところみつかりません。いまインド思想や民俗学、特に柳田国男等に興味があるんです。体系的にではないが断片的にその中からなにかみつかるのではないかというような気がするんです。

教育問題なんかしらじらしい
野間 “教育とは何か”なんていうのは全く現実から遊離した発想だと思います。現実に校門突撃闘争をやっている者にとって、教育問題云々など、とてもしらじらしく感じられます。武装しているところではじめて解放高校のイメージなんかも出てくるし・・・。
陽子  大学を否定するっていっても、なんとなくピンとこない感じ。深刻に考えて「あえて行く」なんてタイプはいやだし将来のことなんかさ、あらたまって考えるのは好きじゃないの。大学になぜ行くかなんて、問題にすること自体ナンセンス。バリをやったとき、説明するために教育のことなんか、考えてみたんだけどさ、教育の関係と人間関係とは切り離せないとか、そんなことになっちゃって結論はでないのよ。それに人間関係にしたって、あまり意識しないし・・・。
谷山 大学へ行くのは将来ラクにやれるだろうとか、遊べるとか、僕の場合はラグピーをやりたいんだけど、たいした理由はないし、行かないやつにしてもかったるいからとかとたいした理由はないんじゃないか。
日野 教育の空間を作り出すだけではいけないんであって、教育そのものを疑うことから始めなければいけない。撲自身は大学へ行くつもりですよ。
とにかく、血のにおいの欠落した論議は無意味だし、僕は血のにおいの復権のために戦った。それは教育問題のようなワクでは語れない。、
O 高校で裏切られたから、大学には何も期待していないけどさ、絵の技術を身につけるために行こうと思う。それから、高校で何もできなかったから、大学でこそ何かやってやろうという気持は、あるかもしれないな。
ダンボ 人を個別にみる場合と、普遍性に基づいて行動する個人の行動は一致しないし、運動や集団が個人を越えた権力を握るのが恐ろしいんです。これからやりたいことは、個別の一切を認識して、一つ一つの対象に自分をぶつけていくこと。対象は闘争に限らずどこにでもあると思います。
田村 闘争を経て歴史にしても、重要であることを確認したけど、これまで受けた教育はあまり役に立たないでしょう。
大学に行くことを言いわけしようとすれば何とでも言えるけど、左翼の公式見解を言ってみたところで、自分にとって、ほんとに言いわけに過ぎない感じがします。青山高校には、教育者になりたい、という人が多かったけど、どういう教育者になったらいいか、ということになると、誰にもわかっていないんです。

【お知らせ その1】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。

●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は2026年2月20日(金)に更新予定です。

今回のブログは、『週刊アンポ』第6号(1970.1.6)及び第9号(1970.3.9)に掲載された「闘う中学生」の記事である。
1969年から70年にかけて、東大・日大闘争を契機として全国の大学や高校で学園闘争が闘われた。この時期、大学生や高校生だけでなく、中学生も闘争に参加していた。当時、デモや集会で「闘う中学生」の姿を見かけた記憶はないが、例えば、現世田谷区長の保坂展人氏が麹町中全共闘として活動していたことはよく知られている。
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【この人と語る 全国闘う中学生連帯】『週刊アンポ』第6号(1970.1.6)
●Kさんの場合
今回は「週刊アンポ」4号の「私はやるから君もやれ」に投書(注)がのっていた「闘う中学生連帯」のとてもかわいらしい女の子です。ミニ・スカートをはき、美しい色にぬり分けたヘルメットをかぶり、安保フンサイと書いた白い日がさを持ってベ平連のデモ行動の先頭の方を歩いているのをインタビューしてみました。ただ残念ながらこのインタビューとシュプレヒコールの中で行われた話の主人公の名前と、そのチャーミングな顔写真をここにのせることはできません。その理由はインタビユーの中に出て来ます。
―いくつですか。
K 14歳です。
― こういう風にデモに来ているのを家の人は知っているの。
K  わかったら、かんどう。プチ・ブルジョアだから。家を追い出される。
― そうしたら、どうするの。
K アンポ社に、泣きつくわ(笑い)
― どういうキッカケからデモに来るようになったの。
K 文化祭で、学生運動なんかの研究をしたの。それから、この方が正しいと思うの。
― これから、 どうしていきたい?
K  中学生には場所かないの。機会もない。反戦とか平和とか考えてしゃべっているけれど、一人でいる中学生のために、集まれるグループを作っっていきたい。だから右翼がいても、左翼がいてもいいの。その中で恋愛もやるわ。
― さっきタバコをすっていたけれど。
あそびみたいな、マネ。
― おそるべき子供たちだなー。
K  子供じゃないと思うわ。
― 親の生き方なんかを、どう思う。
K 反対だわ。
― 女の子が多いようだけれど。
K 中学生の時は、まだ女の子の方が強いのよ。高校ぐらいから男の子の方が強くなる。そういう風に解釈してよ。
― ぼくたちが中学生のころは、とても考えられないようなことだけど、今でも、やはり大部分はノン・ポリでしょう。
K みんな考えているんだけれども、きっかけもないし、こわいし、受験というのもあるし、行動か起こせないのだと思うわ。でも、かなりいるわよ。何かしている人、しようとしている人、こういうデモの中には、何か新鮮な人間らしさみたいなものがあるでしょう。私なんかクラスでしゃべると、そういうのが、うらやましいしい、そういう気持ちで話を聞いてくれる人は、たくさんいるわ。
― 雑誌なんかどんなものを読むの。
K 「少年マガジン」とか「ティーン・ルック」「ガロ」「朝日ジャーナル」それから、親愛なる「週刊アンポ」。私たち普通の中学生の女の子だと思うわ。みんなと映画にいったり、だいたい普通の14歳の女の子がさわぐものに、夢中になるわ。特別じゃない。
― 定期的に集まってる?
K  別にないわ。ベ平連のデモにまとまって出るようにしているの。それからあとは、個人的に集まる。勉強会なんかは、時々やっているわ。
― 高校生とか大学生とかの組織とは、関係ないの。
K 私たちは、そういうのに感化されたくないの。自主的にやっていくわ。
― 運動の中から、何を作り出していきたい?
K やっはり、人間性を見出していくのかな。本当の自分をそういう中で見つけて、 知りたいのね。つまらないの。家とか学校とか、友たちとか。はやり言葉で言えば、断絶かなー。親かすごいの。バレたらどうしようかと思うわ。
― 無理しないで、 出来るだけかんばってください。

(注)『週刊アンポ』第4号 (1969年12月29日発行)
「私はやるから君もやれ」
中学生 集まれ!
ぼくたちの組には、現在のテキスト中心主義にあきたらぬ人間が集まったのでしょう。5月ころから「やらなきゃならぬ」的ふんいきになってきて、6月、とうとう「砦の囚人」と題する雑誌を創刊し、そうとういいたいころを書きました。
たとえば「選挙権をもっとはやくもちたい」「反動的オヤジと進歩的ムスコ」とか「先生もっと自由にさせて」など・・・。これをガリ版で100部くらい刷って全学年に配りました。反響は思ったほどありませんでした。
しかし、いままで黙認していた諸先生もこのころになって腰を上げたのです。「砦の囚人制作会」のメンバーを呼び出した先生は「学内外から『あのような偏向的思想を持つグループを認めてよいのか』という意見が出てきているので・・・」ときりだしたので、ぼくらは、そのような反動的な者こそ排斥すべきではないかとしゃべりまくり、その結果「まあしかし問題があるので保留とすることにしましょう」となってしまいました。
しばらくは、このことを忘れかけていたぼくたちも、10月の会議で「砦の囚人」第3号をつくるということが決議され、先生のところにもちかけました。今まで比較的柔軟だった先生も、今度は次のごとくお説教なさいました。
「君たちの年代は、すぐ影響されやすいね。いままで私も黙ってみてきたけれど、少し君たちは、かたよった見方しかできなくなってしまったと思われる点があるね。にう少し大きく世の中をみたら、のびのびと。
雑誌は今まで君たちだけが書いていたけれども、そうじゃなくして学級みんなの詩なりなんなりをのせるようにしたら。そう学級文集になさい。それから『砦の囚人』なんていう題はダメよ。何しろ、はば広いものにしてね。反戦なんかに固まらないでね」
ぼくたちは
「先生のおっしゃる、いわゆる学級文集というものにあきたらないから『砦の囚人』を作ったんです。先生が衛生無害な娯楽雑誌を好むのなら、それは結構です。しかしなぜぼくたちにそれを強制できるんですか」と反論した。
その結果、親に電話がありました。ぼくらは、よく勉強し、よくあそび、よたべ、よく寝て、余計なことはせずに中学生らしく標準的で平凡にとどまっていればよいのでしょうか。中学生がおたがいに連絡しあってグループを作りたいと思っています。
(神奈川県・中学生・F)
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【造反中学生との対話】『週刊アンポ』第9号(1970.3.9)
去年の秋ごろから、さまざまな形で中学生の運動への参加がめだってきています。ベ平連の定例デモにも、毎回30人から50人の中学生の参加があります。彼らは、いったい何を感じ、何を考えているのか。「週刊アンポ」編集部は、その中のもっとも戦闘的だと思われる中学生たちに数回にわたってインタビューをおこない、まとめてみました。ここにあらわれている彼らの感じ方、考え方が、運動に積極的に加わっている中学生全体の、最大公約数的なものとは思っていません。またもちろん、運動にまったく関係していない一般的中学生からも、飛びはなれているかもしれません。しかし、彼らの発言のいくつかの部分が、現在の体制、教育を鋭くついていることもまた事実だと思います。
― 何年生まれですか。
A 昭和29年生まれ。
B 昭和29年生まれです。
C 昭和31年。
― そうすると、 安保の年は、何をしていたのだろうか。
A  何をするにも、まだ小学校へ行っていなかった。安保反対と自分で言ったのをおぼえている。
C ぼくの家は、特殊だと思う。親父がいわゆる新左翼関係なんだ。映画の仕事をしていて。もう60歳近いんだ。
B  ぼくは、何もわからなかった。
― 67年10月というのは、何年生だったの。
A 中一だった。テレビ見て、新聞見ていた。
C テレビを見ていて、全学連って悪いことするんだねって言ったら、そうかなって言われたのを、おぼえている。それで、うちの家はほかの家と少しちがうのじゃないかと初めて意識した。
B あまり、ぼくには記憶ない。
A なにも知らされていなかったから。そのあと、イントレピッドの4人の脱走とか、佐世保へのエンタープライズ入港なんていうのがあったけど。
B ばくぜんと、学生の方が正しいのじゃないかな、とは思っていたけど、学校へ行ったら、忘れちゃう。
― 先生は、何か言ったかな、そういう事件について。家では、話題になったの?
A 何にもならなかった。
C ぼくは、家では、その話ばかり。
― おととしの10・21の時は。
A ぼくは中学校で写真をうつしに行こうと思ったのだけれど、親にとめられた。あぶないからと言って。
― 本なんか、読む。小説なんか。
B あまり読まない。
A  なんといっても、ぼくは、 安田ショックだと思う。ぼくは、バリの中へ写真を撮りに行こうと思ったけど、読売の事件があったでしょ、だから写真機もってうつしていたら、リンチ受けるんじゃないか、だからやめてくれって。それで行けなくて、1月の18・19日とテレビにかじりついて見ていた。あれを見て、いろいろ考えるようになった。学校へ行つても話すようになったし。
ー 反響はあった。
A なかったな。みんなおもしろ半分で見ていた感じで。
B あの時うちの兄きが高三だったからおふくろなんかが、こんな闘争なんか起してもらいたくない、とかなんとか。

普通の生活って何ですか
― どうして運動をするようになったんだい?
A どうしてといっても。そうだなあ、最初はホームルームで先生と口論したのがキッカケかな。
ホームルームというのは、みんなで話し合いをする時間でしょう。それなのに教師が勝手に自分たちに都合のいいように使うので、そのことに抗議した。映画なんかやるので、途中で電灯をつけて、話し合いを始めたり、でも教師に外へつれ出された。そういうことがたびたびあった。
いろんな問題について、前から疑問に思っていたから、ホーム・ルームだけがキッカケじゃないみたいな感じ。
― いろんな問題って具体的にどんな問題なの?
そうだな。おれんとこの学校なんかじゃ、文化祭の発表なんかで、沖縄問題なんかを取りあげると、先公がああだこうだと干渉するんだ。おれなんかが、本を読んで調べたことが、ちょっと“政治的”だとつぶされちゃうんだ。もし発表できたとしても、”帝国主義”なんていう、単語がでてくると、スッ飛んできて、撤回を要求するんだ。
F 同じようなこと、ぼくらの学校でもあったんだ。それで、先生に「どうしてですか?」って聞くと、「君たちは、まだ勉強がたりない」なんていう。一生懸命調べたのに・・・。だけど、海外旅行のことや、理科の実験発表みたいなのは、なんにも文句をつけないどころか、逆に「彼らを、みならえ」なんていう。
E  わたしのとこは、みんなの逆なの。「学生運動」のことをやるって、先生のところに言いにいったら。「おもしろいからやりなさい。先生も協力するから」っていうの。なんていったらいいかしら・・・先生となれあいになってしまっていて、今のなんとなくフワフワしたプチブル的生活をかえりみないで、バカみたいな人間になってしまったみたい。
― Eさんば、女子中学なんでしょ。運動をはじめた動機はなんなの。
E  運動をやっているとは言えないわ。でも、なんかしなければいけないと思ったのは、ベ平連に刺激されてからね。
わたし、どうしたらいいのかわからないのよ。なんとなく中学校生活に不満なの。ボヤーとしていて、みんな大人―先生や親に吸いとられていく感じなんだなあ。だから、反発でやっている感じもあるわ。
B ぼくは、沖縄だな、最初すごく「かわいそうだな」と思ったんだ。同じ民族として、返還の必要を感じたんだ、中学の頃だった。それから、去年の4月頃から新宿西口のフォーク集会にもいっていたんだ。5月17日だったかな。機動隊か来た時、なんか割りきれないものを感じたんだ。それから7月20日の週刊アンポのデモに行ったんだけど、すごく「無駄だな」という気がして、ベ平連の集会には行かなくなった。ベ平連というよりデモや集会にかもしれないな。その後11月の末までデモに行かなかったんだけど、11月闘争をみててやっぱりシックリこなかったんだ。学校では今までも何もしていないし、おとなしくしているけれどね。
今年の1月に入ってから反戦高協の人達と一緒に読書会をやったんだけど、そこでも、セクトだけで、運動はできないという気がしてきたんだ。
― 一体、君たちは、どんな中学校教育を受けているの。
A 質問の意味がよくわからないけど、ベ平連のバッヂなんかをつけていると、担任にとりあげられちゃうんだ。
D ポスターや集会については、校長の検閲許可が必要なんだ。
A 西口のフォーク集会ソノ・シートを持ってきて歌を唱ったり、ギターを弾いていると「やめろ」という。「なんでやめる必要があるのか」と言うと、「話し合おう」とか「まじめにやれ」とまるでトンチンカンな返事がもどってくる。まじめにやれとかなんとかいうので、「まじめにやるということはどうすることなのか」と聞くと、「普通の生活をしろ、君のために言っているんだ」。
じゃあ、「普通の生活ってどんなんですか」と返すと、「変なバッヂをつけたり、歌を唱わないことだ」という。「おれたちは、まじめにバッヂをつけているし唱っているんだ」というと、「なまいきだ」ということになる。

親も話せば変るか?
― 親とか、家族との関係はどうなのですか。
B うちの親父は無口だから、しゃべらない。
A  今は、もうあまり言わない。いろいろ派手にやったから。おふくろは、家の中をあまりごちゃごちゃにしないでくれとか。
― いろいろ派手にやったって何をやったの。
A ごはん食べるのを拒否したり。うちの親父はアメ帝だから、良心のかしゃくを感じて、やだって。単純だけれと。そしたら体に悪いから食べてくれって。
B いいな、うちなんかすぐ出ていけって言う。
― 会社をやめろと言うつもりなのか。
A やめろとはいわないけど、アメリカ系の大会社だから、抗議行動なんだ。親父と話し合ったのだけれど、親父は学歴もないし、やめたら食っていけない。それに自分の会社は、戦争目的のための製品を作っているだけじゃないと言うんだ。バリもやった。ぼくの部屋の戸につくえとかイスをたてかけて、針金でしばって。
― なぜ。
A  ぼくの部屋に勝手に入って手紙とかいろんなものを調べるから。夜中にまどから出入した。秋ごろだったけど。そのころから、学校へ行っていないんだ。
― 何.をやっていたの、部屋の中で。
A  本を読んでいた。アナーキズムの本とか、マルクスの本とか、それに、少年サンデー。
― それで今、お金どうしているの。
A やるなら徹底的にやれって親父が言うから。
― 少し甘くないのかな。働くということは考えていないの。
A  ぼくも労働戦線に入ろうと思って考えてみたんだけれど、それだけの力量はないし。
― あなたの方は、どうですか。
B  一応いろんなことやっているの知っているらしいけれど、ようするに学校へ行って勉強して家にまじめに帰れば、文句は言われない。
― 家では、そういう話そんなにしないわけ。
B するけども、母親が私立高校の教師だから、やっぱり学生は勉強しろとか、運動するのは、なまけ心があるからだとか言う。たまに、親も話せばわかると思って話しても、あまり反響はないな。でも一応、かんしょうはないから。

革命について語る・・・
― 君たちの運動は、最終的に何を目ざしているのか。
A  人間解放だな。一番最後の目的は。
― それば、どういうことなんだ。具体的に言葉にしてみれば。
A 利害なしの教育、労働に対してそれにひってきするお金がもらえる。
― 革命をめざしているのだと思うのだけれど、それは起きるのだろうか。
C 起さなくちゃいけない。
B どうやってやるのかい。
D 今まで以上にきびしい規律―「革命の鉄槌」みたいなもので、労働者階級の再編をして・・・。
― 矛盾しているんじゃないの。さっきまでいってたことと。
G だから、そのぼくらは、いろんな不自由のなかで生きているから、自分をたもてないわけですよ。自分のなかで欲しいと思う規則のなかでこそ、本当に自由にやっていけるんじゃないですか。今、ぼくらのまわりにある規律は、与えられたものとしてあるし、それを無批判にとらえることにこそ問題があるんだと思います。
― もっと一般的に聞くと、どんな人が好き?
H 誠実な人間―自己に忠実であるといった意味での“誠実”な人が好きです。でも、いわゆる“まじめ”人間ってイヤーネ。自己に忠実である人って、すごく革命のニオイがして索敵だと思います。どういう風にいったらいいのかわかんないんだけど、エゴを、全体のエゴとして高めることが革命運動だっていう気がするの。エゴって汚い感じじゃない。自分のためにっていう意識ね。でも、汚いからこそ美しいんだと思う。
― どうして、革命を起こさなくちゃならないのか。
C 今、世界には、支配と被支配があるわけでしょう。そういう階級的対立があっては、いけない。
― 他人事として言っているように感じられるけれど、自分自身にとって、革命というのは、どういう意味か。少し公式的な感じがするな。
あなたたちは、やはり労働者の武装ということを考えているのか。
A 彼らか力を持って弾圧してくるのなら、力でもって押し返えさなくてはならないと思う。
― あなたたちも銃を持つのか。
A 銃なら女子供でも打てる。
― なるほどね。ところでどんなことを、クラスー般の生徒は話しているの。
A だいたい、ふつうの中学生の男が話していることといったら、ロックのこととか、女の子のこと、ファッションのことクルマのことぐらいだな。

親と子の最低限の関係
― 中学生は、肉体的にも精神的にもまだ子供だ。政治運動するのは、まだ早すぎると.言われたら、何と答えるのか。
B  一人の人間としてやっているのだから、大人も子供もない、と思う。
A  ようするに、そういう人の言う勉強とは、何なんだろうか。高校へ入るための、大学へ入るための勉強なんだ。
― 運動を始めてから、成績はどうなっている。
B いく分、落ち気味だな。
C うちの親父によれば、中学生の時は、一応学校の勉強をやっておけば、基本的な学力は身につくというんだ。
A それなら、学校へ行かなくても出来る。
― 高校へ入るのは、高校で運動するためか。
A そうです。
― 教育というものは、必要ないとは思わないでしょう。
A 今の教育制度に、まったく幻想はないけれど、教育というのは必要だと思う。
― 勉強とは、何なのだろうか。語学の勉強なんかちゃんとした方がいいのじゃないか。
A 語学は、ちゃんとやりたいと思っているな。
C ぼくは、高校へ行こうと思っていない。家では行けというけれど。働きたい。
― 君たちは、やはり家によって保護されているわけなんだと思うのだけれど。
A 親と子という関係において、それは最低限の関係だと思う。親がそういうものをしなくなったら、それは親が、親と子の最低限の関係を自分から放棄したものだと思う。
― 親があなたにお金をくれたり、世話をしてくれるのに、当然だと思うの。
B ぼくは当然だとは思わない。自分自身つまり親を食っているんだと思う。一面では、親を食っているのだけれど、やっぱり自分が真に人間らしく生きたいと思っているから、しかたがないと思う。
― 親は本当に心から心配しているんだと思うけれど、そのことに関して、どう思う。すまない、悪いと思うか。
A 悪いことをしているとは思わないけれど、そういう考え方でいくとぼくたちは、今ある体制の中に生きているのだから、こういう運動をしていればすべてに「すまない」ということになって、川に身を投げて死ななくてはならなくなる。
― かせいでもいないくせに、たいした知識もないくせに、大きなことを言うなと言うわけだ。親は。
A だけど、親がもしお金を出すのがいやなら、ぼくとしては働く。
― だけど親としては、金ださないと君が働かなくちゃならないというし、それは、かわいそうだから。
A それは、矛盾でナンセンスだ。
B 当然、ぼくらは、それを利用して闘争を有利にしたい。
― 利用するだけか。それだけか。自分が親の立場に身を置いてみたことなんかは、ないの。
B 当然ある。自分としては、もしぼくが親になったら、闘争している者の足はひっぱりたくない。
ー しかし、今のところ本当は足をひっぱっていると同時に、ずい分、君たちは、それを利用すると言っているけれど、それは、単なる甘えかもしれないよ。
(終)

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