今回のブログは、『週刊アンポ』第9号(1970.3.9)に掲載されたの高校生の座談会の記事である。
この第9号は「教育特集」ということで、前回掲載した「造反中学生との対話」などが掲載されている。『週刊アンポ』はベ平連が発行していた冊子で、1969年後半から1970年前半の時代が凝縮されている。

【高校生の広場 教育なんてどうでもいい】(『週刊アンポ』第9号1970.3.9)

【高校生の広場 教育なんてどうでもいい】(『週刊アンポ』第9号1970.3.9)
企画 TKA
構成並びに効果 編集部(A+K)
とき 1970年2月のなかば
ところ 都内の喫茶店(A、C、M、Oその他)
取材 編集部(涼、田村)
恊力 各校全共闘、ベ平連
<キャスト>
O 26年7月18日に、世田谷で生まれて、 区立の小学校、中学校へ通って高校に入ってから町田市へ越してきたんだけどさ、ずっとうちから学校へ通っていて、修学旅行より他に長いこと家を離れたこともないんだ。小学校のとき書道をやってて、そのあとそろばんの塾に行ったのは、たぶん強制されたんだろうけど別に反発も感じなかった。
野間 27年2月28日、府中で生まれました。府中刑務所の中の幼稚園に通ってたんです。真赤なレンガの道を歩くのが好きで、それから、毎日へいの所で立ち止まって中のことや、脱走して来ないかな、なんていろいろ想像するのが好きで、遅刻ばかりしていろいろウソついて言いわけしてたわ。言いわけが種切れになったし、幼稚園はおもしろくなかったので半年でやめたんです。
俊平太 僕は27年2月27日神戸に生まれまして、小学校のとき、練馬へ越して来まして、中学にはいったあと、福岡へ移ったわけです。
田村 26年4月26日大分生まれ、みんな東京生まれの東京育ちだけど、僕と俊平太だけ違うんです。
ダンボ 27年1月22日に生まれて、小中学校とも足立区立でした。中学の初めまでは、気か小さくておとおどしていたんです。
日野 26年10月22日に目黑で生まれた。今も目黒だけど小学校のときから大田区に越境人学。そうだな、 わりと行動的たったな。たとえば、バイオリンのうまい子がいたんだけど、教師がその子にへつらうのを皮肉ったり、つっかかったりしては教師に呼び出されてたな。
由比 僕は26年8月24日神田で生まれてさ、小学校からずっと、千代田立のいわゆる名門コースにのっかってきたんだ。個人的な人間関係なんかまるでないんだ。カバンの持ち方まで指導されて飼い慣らされるんだけどさ、その頃は何とも感じなかったなァ。
まじめにそしてけっこう楽しく
谷山 26年5月13日港区に生まれてから麻布、世田谷、目黒と引っ越したけれど一度も転校はしなかった。小学校の頃から、小テストを生徒同士交換して採点させられたり、成績を公表されたりしてたけど素直に勉強してた。中学なんか六本木にあったんだ。それでまじめに勉強しながらも、けっこう楽しくやっていた。
クラス委員に指名されたりすると、成績がいいからだ、というエリート意識とそれに反発する気持と、両方あったと思う。委員になって、はじめは「指導する」といった気持でいわゆる悪いやつとつきあい初めたけど、そのうち、別に悪くないじゃないかという気がしてきた。
陽子 26年12月24日に練馬に生まれて、幼稚園から今までずっと、学芸大附属のエスカレーター。なんとなくはいったんだけどさ、小学校のときから区立に対して特殊な意識があったし、中学校になると、付属の生徒はお互いに甘いな、という感じがして、都立高校に行きたかったの。
田村 小学校のときは一般的優等生で進学教室でも上位だったんですが、私立中学の入試に落ちて、そのときはショクでした。
野間 小学校の3年のとき、道徳の時間で先生が「左側通行の駅の階段で、もし急いでいて、それに右側が空いていたら右側を通っていいか」って聞いたんです。
私は「かまわない」という方に手をあげたんですが、先生ば「いけない」って言うんですね。そのとき、私は「規則と人間とどちらが先なんですか」と言ったのを覚えています。その頃は家庭環境のためか、上ばきで外に出たり、割と無節操だったんです。先生や同級生からHRなんかで非難されて、中学にはいる頃から秩序派になるように努めたんだけど、それもいろいろ言われるのがめんどくさかったからだと思います。
陽子 附中のみんななれ合いの校風がいやだったの。職員室で教師と話したりする人も多かったけど、私は意識的にそれを避けてたし「青春の墓標」なんか読んで社会的意識はなかったけど奥浩平個人をステキだな、と思ってたの。それから、今も活動しているけど、はっきり学校枇判をやる人がいてさ、 私も環境に反発を感じてたので、個性的でいいなと思っていたの。学校群に対しては何とも感じなかったわ。都立に行きたかったけど、親や教師か勧めるので、なんとなく高校も附属に行ったの。「なんとなく」そんな感じね。
ダンポ 中学2年のころまでは、まじめに勉強していたけど、生徒会などで教師の生徒に対する態度に反発したり、 3年になってから、授業中に個人的攻撃をやる数師がいたりして、考えはじめたんです。PTAが校内で宴会をやるのを妨害しようとして担任の教師から「立場がまずくなるからやめろ」と言われたのが決定的だったんですね。僕たちの中学では中卒で働く人も多かったから「なぜ高校に行くのか」についても考えてみたけど、わからないままなんとなく行くことになりました。学校群制度の方は別に意識的にはみなかったですね。
田村 学校群については、むしろ受験科目が三科目になったのがうれしかった。
生徒の自由を規制するな
野間 中学校の自治委員会っていうのは自主規制委員会みたいなもので、あるときやっぱり教師の指図だったと思うんですが、“えりまきをやめよう”ということを決められたんです。そのとき先生に「生徒の自由を規制するな」って言いに行ったら「自治委員会は生徒のためにあるのではない」と言われました。
親戚に日共の人がいてマルクスとか共産主義についていろいろ教えてもらいました。その後自分でも興味をもって「国家と革命」や新書なども読んだり、作文に“人間がお金に使われているのだからお金をなくせばいい”って書いたこともありました。その頃はやっぱり知識の段階にとどまっていたんだけど、それでも“戦争はいけないけど革命はいいんだ”って漠然と考えていました。それに、思想というものは乗り越えられて行くものであって、資本主義と社会主義を並列するのはおかしい、とか。
ただ、抽象的に考えるだけで、新聞も読まなかったし、新聞記者に「受験は苦るしいけれど一生に一度ぐらいこんなに苦しいことがあってもいいんじゃないかしら」なんて答えたんです。模擬テストではずっと一番、学校群制度についてもそれほど考えなかったし。結局、レーニンなんかを読んだのも、まじめないい生徒でありたい、しっかりした思想を知りたいというところからきたのでしょう。
俊平太 小学校のころは内省的で小心でおとなしい子供でしたし、どういうことがらでも発言したり、行動したりはしませんでした。6年になりまして東京に転校しましたり、高田馬場の進学塾に通いましたりするころからですね、このままではいけないなと考えまして、中学にはいってからは、わざとたくさんのクラブにはいりましたり、級長に立候補しましたり、とにかく意識的に行動し始めました。福岡の中学へ転校しましてもそうでした。ただ、人見知りする性格は変わらず、政治的手腕や感覚がないことは、ますますはっきりと意識していました。生徒会の仕事をしましても統率力がありませんので、自分だけか、小人数のグループで動いていました。それから、ショウペンハウエルをかじりましてニヒリストにあこがれましたね。生徒会の役員としまして、遅刻を取り締まったり、一方では、学校か名札をつけさせようとするのを反対したりしましたのは、まじめで自主規制をするのがいいと考えていましたからでしょう。
O 僕らの年から学校群になったでしょう。いやだったな。姉さんの通っていた深沢高校に行けないかも知れない、という単純な理由だったんだけどさ。
日野 学校群制度は失敗が目にみえていると思ったし、当時の教育長はバカなやつだと考えていたヨ。
「旅へ出よ!」
涼(編集部) 俊平太を除いては、みんな大きな環境の変化を経験していないことに注目したい。また、付属へ行った人のほかは、中学校までは、 学校の存在あるいは学校の中の自分の存在がどういう意味を持つか、といったことはほとんど考えなかったといえる。むしろ、教科書の内容とか、教育制度とかよりも、環境や人間関係によって、人は“教育される”のではないか。そうだとすれば、現在のいわゆる“教育問題”は“問題”の所在から考え直さなければいけない。もちろん、出席した人がほとんど、東京に住んでいるということも、考えにいれなければいけない。地方の狭い地域社会では、小学校から一貫して教科書の知識よりほかに刺激がない、ということも考えられる。この場合も、 教科書の内容よりむしろ、環境の問題だ。
それから、僕個人にとって意外だったのは、ほとんどの人が、遠い所へ引っ越したり、転校したり、長い旅行へ出たりあるいは一人で旅行したり、そんな経験を、現在に至るまで行っていないということだ。高校の話は、これからだが、僕のいた地方の高校では、二割ほどは下宿している者がいたし、みんな、 よく旅行していた。それは高校としては珍しいケースだったのだろうか。だとすれば、去年の11月末、青高全共闘黒ネコ派の「旅へ出よ!」という宣言は、全く正しい方針だった、と思う。なお、念のために言っておけば、全員が公立高校の普通科の生徒だ。
知識を行動に移して
陽子 自分も附属へはいったくせに、こんな高校へ来る生徒はダメだ、なんて思って、最初っからおもしろくなかったし友達もできなかったの。それに、サボることも覚えて、一年の三学期なんて、20日くらい休んじゃった。だけど、二年になってから要領か良くなったというか、適当にやっていけたの。
だけと附属って意外とひどいのよ。君が代を歌わせる教師がいたり、倫社の教師なんて“生長の家”だし、それから、学級日誌ってのがあって、それに和歌を書かせて採点するのよ。私は日記をつけるのは好きだったけど。
それから、二週間に一回、学校が集会をやるの、ちょうど中学校の朝礼みたいな。生徒は交代で週番になって、風紀とか礼儀とかみてまわって、集会のとき、週番が号令かけたり、 成積の悪いクラスを発表したるするの。
教師に対する反発はすごくあったわ、反発というか、教師の存在か邪魔になるって感じね。自分の生活や情性をひきずって私の目の前に現われるものがいやだったのかな。だから、意識的に礼なんてしなかったし、できるだけ、目を合わせないようにしてた、ほんとに「顔なんか見たくもない」ってわけ。
自分で何かやろうとしたのは、3年になって新宿のフォーク集会に行ってみたころから。教師に土曜日の帰宅時間を調べられて、個人面接に呼び出されたりしたけど・・・。6・15なんか、個人的に集会に行ったりして、反戦高恊にあこがれたり、とにかく、卒業するまでに何かやらなければ、という気がしてきたし。
野間 高校に入学して、すぐ社会部に入ったのは、やっぱり中学のときに、そんなことを考えていたからです。社会部で現実のいろんな問題を知って、とても感動しました。砂川闘争で実力闘争を実感として感じたし、交換学生やビラ、ポスター闘争なんかで、はじめて、知識を行動に移して人に働きかけることを知ったんです。
O 中学ではわりと友達もいたんだけどさ、高校にはいって環境が変わっちゃって三年間とうとう友達はできなかった。 2年になるとき、クラスがえがあったんで、意識的に友達をつくろうとしたんだけど、表面的なつき合いに終わっちゃった。


昨年秋. 学芸大附属高正門前のーコマ
“何でもいいから”
田村 高校に入ってからも二年の中ごろまではクラブだけといった感じでした。城南大会で優賞してそこで剣道部をやめたんですが、運動部だったせいか文化部には反抗みたいなものがありました。特に社研、新聞部、演劇部などにものすごい嫌悪感みたいなものを感じていて、佐世保だ、エンプラだ、羽田だなんていっても感覚的な反発が先にきてとにかくきらいでした。かっこよがりみたいな気がしてだから反戰会議ができても「またあいつらやってるな」といった感じでした。
クラブをやめたあといろいろあって、それから急に勉強するようになりました。二年の冬の学研の模試で全国で19番になってそのあと闘争をはじめたんですが、その時は、“なんでもいい、とにかくなにかに夢中になりたい”といった感じでした。4・28の街頭闘争の時、僕は大高連や地方の学友と一緒に闘っていたんですが一人がガス弾を腕に受けたんです。そのあとで僕も直撃を受けてしばらく失明状態を続けたんですがその時も地方から来た学友のことか心配でそのことばかり考えていました。学内で教師や、両親、それに級友まで敵にして弧立した闘いを続けてきた僕にとって地方から来た名前も知らぬ友を本当に同志として感じました。
感覚的なもの
俊平太 中学のとき、九大生から家庭教師をやってもらいまして、若干の唯物史観を聞かされたりしたのですけど、なるほどそうですね、というだけで自分とどういう関係があるのかわからなかったのです。高校にあがるときから下宿しまして、その下宿したということと、入学と同時に新聞部にはいりましたことが、だいぶ自分を変えたという気かします。
一年の冬、新聞部の先輩に誘われましてエンプラ闘争を見に佐世保へ行きましたが、結局、そのときは単なるヤジウマに終わってしまったのです。その後、同じ先輩の誘いで、高校反戦なる運動をなんとなく始めまして、その「なんとなく」というのは、反体制運動を始める契機が自分にとって何なのか、もう一つはっきりしなくて、それは今でもそうなのです。社会がおかしいということはわかりますが、自分自身、ほんとに矛盾を感じていますかどうか、疑問なのです。
日野 髙校にはいって一年のときからだな、HR闘争が始まったのは。そのあとの経過はもう何度もしゃべって、いやになった。
ダンボ 高校に入りいろんなことを知りたくて社会部に入ったんです。一年の秋に10・8羽田闘争かあって、山﨑君追悼集会に初めていったんです。その後の闘争には反戦高協の一員としてほとんど参加し、校内に反戦会議もつくったりしたが、三年の初めに“科学”というものに対する疑問からセクトからはなれたんです。二年の時、教育問順に関しては義務として政治的に理論化してみたが実感としてはピンとこなかった。階級闘争の中での位置づけは困難ではないでしょうか。理由づけはいくらでもできるかも知れませんが、それは理由づけにすぎないでしょう。僕達のはなにかモヤモヤした感覚的な反発のような気がするんです。
大学にはいかないで家の手伝いをするつもりです。大学にいっても何もないような気がするんです。何か新しいものがあれば別ですが。ただ、いかないということに関しても積極的な理由はありません。そのことに限らず理論的支柱なりバックなりはいまのところみつかりません。いまインド思想や民俗学、特に柳田国男等に興味があるんです。体系的にではないが断片的にその中からなにかみつかるのではないかというような気がするんです。
教育問題なんかしらじらしい
野間 “教育とは何か”なんていうのは全く現実から遊離した発想だと思います。現実に校門突撃闘争をやっている者にとって、教育問題云々など、とてもしらじらしく感じられます。武装しているところではじめて解放高校のイメージなんかも出てくるし・・・。
陽子 大学を否定するっていっても、なんとなくピンとこない感じ。深刻に考えて「あえて行く」なんてタイプはいやだし将来のことなんかさ、あらたまって考えるのは好きじゃないの。大学になぜ行くかなんて、問題にすること自体ナンセンス。バリをやったとき、説明するために教育のことなんか、考えてみたんだけどさ、教育の関係と人間関係とは切り離せないとか、そんなことになっちゃって結論はでないのよ。それに人間関係にしたって、あまり意識しないし・・・。
谷山 大学へ行くのは将来ラクにやれるだろうとか、遊べるとか、僕の場合はラグピーをやりたいんだけど、たいした理由はないし、行かないやつにしてもかったるいからとかとたいした理由はないんじゃないか。
日野 教育の空間を作り出すだけではいけないんであって、教育そのものを疑うことから始めなければいけない。撲自身は大学へ行くつもりですよ。
とにかく、血のにおいの欠落した論議は無意味だし、僕は血のにおいの復権のために戦った。それは教育問題のようなワクでは語れない。、
O 高校で裏切られたから、大学には何も期待していないけどさ、絵の技術を身につけるために行こうと思う。それから、高校で何もできなかったから、大学でこそ何かやってやろうという気持は、あるかもしれないな。
ダンボ 人を個別にみる場合と、普遍性に基づいて行動する個人の行動は一致しないし、運動や集団が個人を越えた権力を握るのが恐ろしいんです。これからやりたいことは、個別の一切を認識して、一つ一つの対象に自分をぶつけていくこと。対象は闘争に限らずどこにでもあると思います。
田村 闘争を経て歴史にしても、重要であることを確認したけど、これまで受けた教育はあまり役に立たないでしょう。
大学に行くことを言いわけしようとすれば何とでも言えるけど、左翼の公式見解を言ってみたところで、自分にとって、ほんとに言いわけに過ぎない感じがします。青山高校には、教育者になりたい、という人が多かったけど、どういう教育者になったらいいか、ということになると、誰にもわかっていないんです。
【お知らせ その1】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。
●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。
【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は2026年2月20日(金)に更新予定です。



