野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2026年03月

今回のブログは前回に引き続き、『続・全共闘白書』編纂委員会の個人史インタビュープロジェクトにご協力いただいた金杉和夫氏(1969年一橋大学入学)からの投稿である。
1969年から1974年までの『一橋新聞』の記事をベースに、金杉氏他の証言を交えて、一橋大学の闘争と全国的な政治闘争について書かれた記録である。一橋大学の闘争はほとんど知られていない「知られざる学園闘争」なので、貴重な記録である。今までこのブログで紹介してきた「全国学園闘争」シリーズの一つとしてお読みいただきたい。
また、政治闘争の記事については、大学新聞ではあるが、かなり詳細に書かれているので、記録的価値は高い。
なお、原稿の分量が多いため、何回かに分けてブログに掲載する。今回は1971年である。

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(『一橋新聞』1970.9.16)
『一橋新聞』で読む1969年から1974年~一橋闘争・全国全共闘・安保沖縄闘争・三里塚闘争・立川闘争を振り返る
日本各地で全共闘によって展開された全国学園闘争の一環として一橋大学で闘われた一橋闘争と全国全共闘・安保沖縄闘争・三里塚闘争・立川闘争など諸闘争の経過を『一橋新聞』の1969年1月1日第845号から1974年11月1日第944号の100号分の記事と論説から抜粋・要約して再現し年表形式の経過記録にまとめた。『一橋新聞』は学生新聞で部員はほとんど全共闘の支持者であるから、その主張には偏りがあり、闘争の参加人数や成果を誇張して表現している傾向はあるが、現場に居て取材した者が記事を書くというのが原則なので、その内容は大体は事実に即していると思う。学内の出来事の記事はできるだけ採用し、学外の記事は学内の者が組織的に参加した出来事を中心に採用した。
加えて、1968年入学のO氏と1970年入学のM氏からいくつか証言を頂いたので、経過を追って〈Oの証言〉〈Mの証言〉として「太字」で挿入した。
併せて、1969年入学の金杉個人の当時の体験や感想をできるだけ率直に思い起こして経過を追って「斜字体」で挿入した。経過記録と読み合せると当時の状況が実感してもらえると思う。
当時の一橋大学で、前期とは1,2年生のための教養課程のことで小平キャンパスで行われていた。後期は3,4年生の専門課程で国立キャンパスで行われていた。前期は現在は国立キャンパスの東校舎に移転している。

1970年
11・15沖縄国政参加選挙粉砕労学市民総決起集会 於日比谷野音
11・17~28 小平地区入管連続闘争
11・24 武蔵野美術大学芸術祭闘争に当局の弾圧激化
11・25 三島由紀夫が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自刃
11・30~12・2 社会党大会 揺れ動く社会党 分裂と統一
12・6 三里塚闘争総決起集会
全国から6500名が決起
ブルジョアジーの攻撃は「第一期工区の完成」に向けた最終段階に突入し、全国の地域闘争を闘い抜いている北富士忍草母の会、柏原原発反対同盟、長沼ナイキ基地反対同盟、能勢ミサイル基地反対同盟、などの代表が結集して、交流―結合が深められ、スローガンには三里塚闘争では初めて「佐藤政府打倒」が掲げられた。
12・9 全国叛軍行動委連絡会議結成
12・10 小西裁判第4回公判闘争
12・18 京浜安保共闘が上赤塚交番を襲撃
12・20 沖縄コザ市の地域住民大衆による自然発生的暴動

以上は1970年11月から12月の一橋新聞から見出しだけを列挙した。全国の大学の闘いは国家権力による大学立法、バリケード解除の攻勢で鎮圧されたが、一方で沖縄、入管、三里塚、反軍と戦線が広がってきたことがわかる。と同時に、三島の自決、交番襲撃テロ、コザ暴動のように暴力の現れ方が過激になっているようにも見える。
 1970年11月全闘委、十共闘の活動が途絶えた後は、級友たちに問われた時にバリストの正当性を主張する自信がなかったためかもしれないが、私は小平、国立のキャンパスには足が向かず、神田一ツ橋の一橋講堂の裏にある一橋新聞部室に通うことが多くなった。ちょうど11月25日に起きた三島由紀夫の自刃事件で世間の話題は持ちきりだった。一橋新聞も平岡正明氏に寄稿をお願いし、「反面同志の死」などと持ち上げていたが、私は知的な人間が天皇陛下万歳などと叫んで切腹するとは何と愚かなことかと思っていた。
 学生運動は自分で考えてまだ始めたばかりのことなのでやめるのはおかしいと思い、私は全闘委崩壊後も活動を続けている反帝学評の活動に加わることにした。一橋の反帝学評はシンパまで含めても10人ぐらい、動員で集まる人数は5,6人、三多摩地区の学生部隊に加わって活動することが多かった。地区の拠点校は武蔵野美術大学で自治会を掌握し、全学連の役員を出し、シンパも含めると数十人で、個性的で面白い人が多かった。他には成蹊大学、東京造形大学、清瀬リハビリテーション学院、都立商科短大、国立音楽大学、東京農工大学などの学生がいて、動員で集まる人数は20~30人ぐらいだった。東大三鷹寮のTさんがオルグ、武蔵美のSさんがキャップで、三鷹寮近くのガソリンスタンドの休憩室やSさんのアパートで会議をすることが多かった。

1971年
一橋新聞1月1日号
小平祭実行委員会による第10回小平祭総括
深部からの教育闘争を 第11回小平祭成功のために
問われたものは何か
小平祭からサークル共闘へ
教育過程を食い破る団結の形成を

1月16日号 編集部による論説
階級闘争の現在的到達点の実践的対象化を通して
70年代権力闘争へ!
70年の掉尾とも言うべき沖縄コザ市の地域住民大衆による自然発生的暴動、そしてまた毒ガス撤去闘争、国頭村実弾演習実力阻止闘争の沖縄全島を覆う圧倒的な高揚は〈本土〉における階級闘争の低迷を際立たせるものでもあった。全闘争主体は69年10-11月安保決戦の敗北によって強いられた後退戦を闘いつつ70年4-6月に登りつめた。それ以降、党派闘争の全面開花の中で全国全共闘・反戦の再編が焦眉の課題として現前している。
「復帰」運動を超えて激発する沖縄人民の闘い
71年入管闘争の質 一つの世界革命に向けて
近づく三里塚決戦に備え隊列の強化を!

全共闘運動の新たな飛躍をめざして
1・18東大決戦2周年全都総決起集会
礫川公園において東大全共闘・東大全学労働者共闘会議及び全国全共闘主催により労学約5千人の結集で行われた。
 東大における学内労働者との連帯による学園闘争の質的飛躍は、69年10-11月闘争の只中で開始された病院労働者の「安保粉砕!佐藤訪米阻止!北病棟移転阻止」をスローガンとするストライキ闘争とそれに続く政治処分粉砕闘争との連帯として開始され、70年6月の応用微生物研究所、9月以降の地震研究所の臨時労働者の決起と結合し新たな段階に入りつつある。東大全共闘はこの学内位階制に対する臨時労働者の戦いに連帯することにより、「知性の府」に対するラディカルな告発という観念的な自己否定運動の限界を突破し、地区における労学の連帯した入管闘争の推進を通して、あらたな質的飛躍をかけて第2次東大闘争を構築しつつある。
 この全共闘運動の新たな飛躍の頂点と言える1・18闘争は当初東大安田講堂前の集会として予定されたが、東大当局が全国全共闘と革マル派の衝突が予想されるという口実で東大構内ロックアウトを行ったため、会場が変更された。しかし東大全共闘・全労協はロックアウト=機動隊警備体制を突破して、安田講堂前集会を貫徹し、礫川公園の会場に登場した。革マル派はこの1・18闘争への暴力的な敵対を策動し全国動員で登場しようとしたが、集会を防衛するために早朝から出発した反帝学評の部隊約200名は、地下鉄早稲田駅構内で遭遇した革マル派の先遣隊約100名を5分足らずで粉砕し敗走させ、約20名の学生インターの部隊と共に集会場の防衛にあたったため、革マル派は集会への介入を断念し近くの公園で300名の集会デモを行い、夜は1000名が日比谷公園で集会を行うに止まった。

 私は反帝学評の部隊に加わり、1・18闘争の前日から泊まり込んで早朝に地下鉄東西線で会場の礫川公園に向かった。電車が早稲田駅に入っていくと、ホーム上に革マル派の部隊がヘルメットや旗竿を持って集まっていた。それに気づいた電車内の部隊はヘルメットと旗竿で武装してホーム上に出て旗竿を構えて、革マル派と対峙した。不意を衝かれた革マル派はヘルメットや旗竿を投げ捨てて敗走した。私は車内に残って立ちすくんでホーム上の揉み合いを見つめていた。私が目の前で目撃した内ゲバ初体験であった。

1・15 日韓法的地位協定粉砕!入管法再上程阻止!中央総決起集会
日比谷野音で約5千人が結集し開かれた。東京入管闘から基調報告のあと劉彩品支援全都連絡会議、劉道昌君を支援する闘争委員会、朴鐘碩君への就職差別粉砕を闘う代表、各地区実、沖縄救援連絡センター、バーバラ・バイさん代読、全国部落研連合、全国全共闘、全国反戦、各党派が発言しデモに出発した。翌16日日韓法的地位協定に基づく永住権申請期限切れに対して、全国各地でデモ、集会、対自治体闘争が展開された。

1・22 狭山差別裁判徹底糾弾・部落解放人民連帯集会
革労協,革共同、共産同、第四インター、ML派、フロント、共労党、沖縄救援センター、全国反戦救対、破防法裁判闘争を支える会が支持共闘をアピール。
2・4 沖縄とともに闘う中央総決起集会 山本君「奪還論」を批判
午後5時半から日比谷野外音楽堂で2・4実行委員会(全国反戦・全国全共闘・沖縄青年委員会・沖縄救援委員会・市民団体他)の主催で、コザ暴動断固支持・騒乱罪適用粉砕・沖縄返還協定粉砕・3月協定調印阻止・全軍労3000人首切り粉砕・毒ガス撤去・自衛隊派兵阻止のスローガンの下、約4千人の労働者学生の結集のうちにかちとられた。主要党派の内訳は中核派600名、反帝学評400名、共産同(戦旗派)150名であった。全国全共闘議長の山本義隆君が中核派の沖縄奪還論への批判を展開して注目された。全国全共闘書記局内部で沖縄闘争を巡って深刻な対立が形成されている。中核派の「沖縄奪還」-「本土復帰」は実体的に進行している政府ブルジョワジーの「本土一体化」政策に対決するものでなく沖縄人民の階級形成にとって極めて疎外された役割を果たし、沖縄闘争の民族主義的固定化をもたらすと発言した。

2・11「紀元節」粉砕 立川「建国祭」阻止闘争→中央総決起集会
「建国記念日」粉砕の集会が全国部落研連合・東京入管闘・全国叛軍連絡会議の主催で日比谷野音で、三島自決―「紀元節」を貫くブルジョアジーの反革命的イデオロギー攻撃に対決する闘いとして、全関東の労働者・学生・高校生・市民約6千名を結集して行われた。高校生は芝公園で独自集会を開催したのち日比谷に結集した。
 三多摩地区の労学約200名は砂川反戦広場に早朝から結集し、基地反対同盟宮岡氏、三多摩入管連絡会議、破防法被告団,武三反軍のもののべ氏、社会党の帝国主義社民への転化に抗して闘う社会党員、反戦運動を闘っているキリスト者等から発言を受け、立川市の「建国祭」粉砕・立川基地自衛隊移管阻止の集会とデモを行い、日比谷の集会に結集した。
日比谷の集会で全国全共闘の山本議長は、「建国記念日」という支配者のイデオロギー攻撃を単にイデオロギーの問題としてではなく、社会総体に進行するブルジョアジーによる再編との対決として問題にすべきであると述べた。

三里塚、決戦期に突入!
第1次強制収用阻止闘争
2月22日から強制代執行!連続闘争・塹壕闘争闘われる
友納千葉県知事は一坪運動地6か所に対する強制代執行を決定、22日から3週間で執行の野望により、三里塚闘争は決戦に突入した。反対同盟と現地行動隊は地下要塞を拠点として常駐。臨戦体制を確立し、塹壕前から公団へと波状デモを繰り返す一方、公団職員に姿を変えた右翼の悪辣な挑発を粉砕し、断固たる闘いを推進している。
2・14 三里塚空港長期決戦勝利総決起集会
千葉市本町公園で午後1時から、全国全共闘・反戦の主催で開催された。塹壕の中で不眠不休の闘いを続ける三里塚・芝山の農民の参加はなかったが、「三里塚空港粉砕!強制収用実力阻止!塹壕死守闘争貫徹!執行吏友納打倒!」のスローガンを掲げて、労・農・学・市民3千名が結集した。全国全共闘山本議長から、「五年間にわたる権力の暴力的かつ陰湿な攻撃に抗し闘って来た、すべての成果を結集し、地下要塞とバリケードを死守せよ!新全総における運輸・交通部門の中枢である三里塚空港での闘いこそ敵権力中枢での闘いである。三里塚塹壕隊の檄に応えよ!農民の殺戮をも辞さない敵権力の手を農民の身体に触れさせるな!」との熱烈な発言がなされた。次に三里塚・芝山空港反対同盟戸村一作氏が「2500名の反対闘争による富里空港建設阻止に始まり、この三里塚の闘いによって敵権力は最終的に追い詰められている。われわれの闘いは今、『地中での闘い』という新局面を切り開いた。地下壕にガス銃がぶち込まれれば、われわれは死んでしまうが、われわれは死んで守るのではなく、生きるために闘うのだ。われわれの闘いは今や三里塚一地域の闘いではなく、政府打倒の階級闘争・革命闘争となっている。全国の労学三里塚に結集せよ!」と発言した後、救援連絡センター、各県反戦、各学生党派が発言し、動労千葉青年部が闘争宣言を行い、千葉県知事公舎に向けてデモ行進し、プロ統派、中核派、フロントが機動隊に突撃を繰り返し、28名が逮捕された。
地元農民との連帯克ちとる!
三里塚決戦を勝利的に展開
【三里塚発】「魂のふるさと三里塚」と書いたのぼりが駒井野の野戦病院の近くに立っている。三里塚農民の闘いは僕たちに闘いの魂を鮮やかに見せてくれる。闘いの楽しさを教えてくれる。ブルジョア社会の中で階級闘争を担うのは苦しいのが当然だというストイックな決意主義をあっさりと超えるさわやかさがそこにある。それは三里塚農民の5年有余の苦闘の成果に違いない。
 駒井野地区の一坪運動地(4000m滑走路予定地)に対する友納千葉県知事を執行吏とする強制収用、強制代執行実力阻止に突入した三里塚農民の顔には全く悲愴感がない。5年有余の闘いを闘い抜いた自信が彼らに勝利を確信させる。少年行動隊、三里塚高校生協議会、青年行動隊、婦人行動隊、老人決死隊を中心とする三里塚芝山連合空港反対同盟は、三里塚地区の部落会、消防団、青年団、婦人会という村落共同体の団結組織を掌握し、反対同盟がなければ何もできないというほどの、農民の自治的な権力としてコミューンとも言うべき力を持っている。「土地を武器に権力と闘う」農民の県政、国政と対決する自己権力ともいえる。戸村委員長は「この戦いは絶対に負けない戦いだ」と公言する。反対同盟を中心に形成された土地を基盤とした農民の団結は権力によって破壊できない。
三里塚農民の不屈の闘いに触発されて、支援の労働者、学生、高校生も連日の闘いを、生き生きとした顔で疲労にめげず闘っている。農民と共に闘うことで我々は初めて彼らの闘いから学ぶことができる。
この闘いを最先頭で闘っている少年行動隊は一時は「関係のない子供を使うな」というブルジョア倫理の攻撃で解散させられていたが、現地で彼らと話してみればわかるように、彼らは親たちを殺そうとする公団は許せない、先生たちはなぜ僕らと一緒に闘わないのか、といった彼ら自身の思想と情熱で闘っている。教師や級友との対話集会、近くの学校へのビラ入れ、同盟休校という彼らの運動は、ブルジョア倫理の思惑を超え進んでおり、自らの手で教育を行う同盟学校の設立という教育を支配者の手から奪還する闘いに進みつつある。
婦人行動隊はこの少年行動隊の闘いをPTAを通じて援護している。
 青年行動隊は反対同盟内の最も先進的な部隊として様々なゲリラ活動を展開している。青年行動隊のキャラバン隊によるオルグ活動によって、全国各地の基地・公害闘争団体が結集した昨年12月6日の三里塚闘争勝利・佐藤政府打倒・全国住民運動総決起集会は、政府打倒を前面に掲げることによって地域住民運動の結合と発展の方向をリアルに示した。
【闘争日誌】
第1日(2月22日)強制代執行の初日、東京を中心に各地から学生・労働者・高校生等支援団体が続々と成田駅に到着し、駒井野団結小屋脇の広場に向かい、午後1時頃から広場で反対同盟主催で3千名規模の集会が行われ、全支援部隊は3週間にわたる強制代執行の攻撃を反対同盟と連帯して最後まで闘い抜くことを確認した。
 一方、県職員、公団職員、ガードマンからなる約3百人の収容作業班が12時45分公団事務所のある丘の上から第1、第2、第4地点めざして下ろうとした。これに対して、反対同盟農民は要塞に立てこもり、各支援団体は突撃隊型でデモを繰り返し、収用班を追いまくり、圧倒した。県・公団側は開始宣言もできないまま収容作業を断念した。
第2日(2月23日)朝から土砂降りの雨の中、各拠点で反対同盟、支援団体が阻止線を張って収用班を待ち構えた。11時半ごろ姿を現した収用班は第1地点に向かったが農民、支援団体のスクラム、投石で近づけず、枯れ木を10本拾って早々に退散し、これを称して第1地点の立ち木を伐採し強制代執行を完了したと宣言した。この後大量の機動隊を前面に押し立て収用班は第4地点に向かって来た。農民は要塞に立てこもり、ある者は鎖で体を杭に縛り付け、老人決死隊から少年行動隊まで全員が座り込んだ。支援部隊は60名の竹やり・旗竿部隊と二百数十名の阻止ピケット部隊を配置し、千近い機動隊を前面にした収用班と対峙した。緊迫した対峙が1時間以上続いたが、機動隊・収用班は天候不良を名目に3時半に退散した。
第3日(2月24日)反対同盟、支援団体は早朝から厳重な防衛体制で機動隊・収用班を待ち構えた。一方、収用班は千数百の機動隊を前面に9時半から行動を開始した。第4拠点のプロ統、フロントはじめ支援部隊は旗竿を先頭にスクラム・投石で機動隊・収用班と一進一退の攻防を展開した。10時半ごろ少年行動隊訳50名が収用班・ガードマンを押しまくって公団事務所に迫った。恐怖したガードマンはこの小中学生たちにこん棒で襲い掛かり、5人の重軽傷者を出した。少年行動隊の勇敢な闘いに呼応して学生、労働者部隊は突撃隊型でデモを展開し、千数百の機動隊・収用班を要塞に近づけなかった。
第4日(2月25日)県、公団、警察は二千に近い機動隊を前面に攻勢をかけようと各拠点に押し寄せ、主に支援部隊の排除を狙って、凶器準備集合罪、威力業務妨害等の名目で弾圧に掛かった。竹竿を先頭にした突撃をはじめ、支援部隊、反対同盟は141名の検挙という大弾圧に屈せず闘い抜き、代執行作業を行わせなかった。
第5日(2月26日)反対同盟、支援部隊は前日同様の臨戦体制を構築した。このひるむことのない前進の前に、友納知事は27日28日の代執行の中止を発表した。少年行動隊は再び公団事務所にデモで突撃し、公団当局者に抗議し、”説得“にやってきた校長たちに「先生たちも僕たちと戦え」と迫った。
 三里塚農民の闘いはこのように不屈の前進を続けている。彼らは必ず勝利する。そしてわれわれも。
塹壕死守で闘い抜く 燃え上がる三里塚闘争
反対同盟先頭に労学決起 第1次収用は終了
2月27日28日3月1日 代執行は中止延期され、反対同盟と援農の部隊は畑仕事の共同作業を進め、各トリデでは補強が進む。
大群衆とともに公団・機動隊を撃退
3月2日 第1第2トリデ前の広場に1月13日に亡くなった小川明治反対同盟副委員長の49日の法要の祭壇が設けられ、午前8時すぎ「同志は倒れぬ」のメロディーの中症候が始まったところ、公団側はやおら前進を開始した。警視庁の二機、三機、四機までも動員し2300人の機動隊を導入し、収用班は高圧的な姿勢で臨んできたが、反対同盟・支援部隊の強固な隊列と五千から万を超す群集の投石がこの目論見を完膚なきまでに粉砕した。13人が公務執行妨害で逮捕され、午後5時収用作業は中止された。
3月3日 朝から土砂降りの雨で各トリデの前のくぼ地は泥沼と化し、地下要塞の落盤も心配された。警察は2300人を動員し、午前8時には現場に通じる道路に関所を設け群衆・部隊の締め出しにかかった。機動隊が完全包囲して砦の中に部隊を封じ込め、収用班がバリケードを破壊する。投石部隊・竹竿部隊が包囲を破りバリケードを再構築する一進一退が続き、午後5時15分公団はトリデの一角に手を付けただけで作業を打ち切った。
3月4日 代執行は中止され、トリデは強固に補強された。
3月5日 機動隊3000人が゙動員され厳しい検問が行われた。第1、第6地点を中心に放水車、ブルドーザー、レッカー車など機械力を導入した残酷な作業が進められ、これに対し農民、労働者、学生約1700人が投石、数十本の火焔瓶で闘い抜いた。逮捕者は65名、負傷者は240名(重傷120名)に及んだ。
“暁の大激突” 徹底抗戦及ばず
3月6日 早朝5時半から3400人の機動隊が駒井野地域を完全に包囲し、検問体制を引いた。支援に来る学生を盾で乱打し阻止し、団結小屋付近に結集した部隊を阻止線外に追い出し、第4地点前の防衛部隊を大量逮捕し各トリデを機動隊が完全に包囲した。これに対し第5地点後方に結集した労農市民約3000人が投石を繰り返し、阻止線突破を試みるが激しい放水に散らされた。この間に第3、第5地点ではブルドーザー、レッカー車等でバリケードやトリデが破壊された。
総評青対部現地集会 機関決定で決起
3月7日 総評青対部主催の初の三里塚現地集会が午後から駒井野の野戦病院脇の広場で行われた。全水道、全逓、国労、動労等が組合決定で参加した。解放派、総評青年部等約1600人の部隊が公団分室に向けデモを行い、投石、スクラムでの突入を図るなど闘い抜いた。
3月8日 早朝から700人の機動隊に守られた作業班100名が第3トリデの塹壕に攻撃を開始した。反対同盟は30人が座り込むが排除された。午後1時支援部隊約250人が阻止線突破を図るが機動隊により後退させられた。
 この日千葉県市長会、町長会が斡旋案を出して調停の動きを見せた。
支援部隊ゲリラ的に破壊戦を展開―休戦協定以降
3月9日 反対同盟は公団と「休戦協定」を交わした。
この協定後も反対同盟と支援部隊は塹壕とバリケードの補強を進め再度の対決に備えた。
3月25日 早朝公団はついに機動隊3700人を要請し、農民の抵抗を残忍に排除して、ブルドーザーですべての塹壕を埋め尽くした。新部隊は各所にゲリラ的に出没して工事資材などを破壊して農民の闘いを援護した。

 2月から3月の三里塚の闘いは私が経験した最も張り合いのある闘いであった。数人で組んで京成電鉄で成田に行き、現地ではビニールハウスに泊まり、1週間ぐらい闘争に参加し、次の組が来ると交代して東京に戻り、キャンパスや吉祥寺駅前でビラを撒き、カンパを集め、軍資金を作ってまた現地に向かうことを繰り返した。キャンパスや街頭での学生や市民の反応はよく、三里塚農民の闘いを支持する人々は多かった。現地での行動は反対同盟の人々が築いた塹壕を守備し、集会を繰り返したり、公団事務所にデモを掛けたり、二人組で周辺の街にビラを撒きに行ったりした。夜は満天の星の下で塹壕の前で焚火を囲み、支援の学生同士で語り合った。キャンプに行ったような楽しさだった。今思えば反対同盟の人たち、農家の人々と語り合うことは少なく、連帯と呼べる繋がりは作れなかったのは残念であった。私の滞在中は大きな衝突や闘いはなかったが、最後には多くの逮捕者があり、一橋や三多摩の反帝学評はしばらく機能しなかった。

3・7 狭山差別裁判徹底糾弾中央総決起集会
3・2,4,9,11 狭山差別裁判公判闘争
3・9 三多摩入管総決起集会
3・16 入管法再上程阻止緊急集会
革マル派の介入を許さず貫徹
4・6 三里塚支援中央闘争(日比谷野音)
この日の集会は、三里塚農民の革命的な闘いを受け4・6集会実行委員会の主催により、日比谷野外音楽堂で午後5時から約4千人が結集し開催された。革マル派による集会全面介入が伝えられたため、早朝から集会貫徹のための会場防衛が全共闘部隊(反帝学評、フロント、ブント、中核派等約300名)を中心に行われた。革マル派は当日予定した清水谷公園からの集会デモを中止して、武装したまま大手町駅で待機し、6時ごろからバラバラと日比谷公園内に入り武装デモをして、攻撃をかけてきた。周到な準備による革マル派の投石(危険な鉄片なども投げられた)により防衛隊は後退を余儀なくされ、一旦会場内に入り革マル派の会場乱入を阻止し、再び会場外に出て防衛体制を確立し、集会を勝ちとり、デモを東京駅まで貫徹した。

ようやく一橋学内の組織を立て直しながら、私は4・6集会に参加したが、日比谷野音の後方で会場防衛の隊形を取っているところを革マル派に襲撃され、旗竿を構えてぶつかり合ったところで、革マル派が投げたナイフのような鉄片がヘルメットに突き刺さり額に傷を負い、命からがら塀を乗り越えて野音の中に逃れ、内ゲバの恐ろしさを身をもって体験した。

4・15 全軍労・県労協統一スト連帯
返還協定粉砕・5月調印阻止・全都総決起集会 於芝公園

一橋新聞4月16日号 小平祭実行委員会
第11回小平祭に向けて 
深部からの教育闘争をもって
<まつりごと>の中に組み込まれた<まつり>を粉砕し尽くせ!
抑圧されたエネルギー   あのドス黒い情念を復権せよ
われらにとって<まつり>とは何か

4・20 小平祭実行委員会主催 新入生歓迎集会
201教室に50名の学友を結集して新入生歓迎集会が開かれた。全学連内城委員長より、4・28闘争の基調報告と一橋大における日共=民青との断固たる党派闘争を通した真の自治会運動の創出が訴えられた後、場所を席層教室に移し、三里塚現地実力闘争の記録映画を上映し、その後、革命的労働者協会の五辻活氏より今回の都知事選を軸に反ファッショ人民戦線の本質とそれとは明確に区別された形でのプロレタリア統一戦線の形成という内容での講演を受けた。

4・28 沖縄闘争 5月返還協定調印阻止に向けて 攻撃的に貫徹 日比谷野音に2万3千人
全国反戦・全共闘 中央総決起集会
学内共闘へ新たな胎動-沖共闘 4・27学内討論集会
4・26の前期学生大会は流会に終わったが、4・27の学内討論集会で4・28闘争への隊列の再編成を勝ちとった4・28沖縄共同闘争委員会は28日昼休みに学食前で総決起集会を貫徹した。基調報告、反帝学評、学生インターの発言、有志の発言を受けて、正門前に移り、弾圧対策の意志一致を行い20数名の部隊で日比谷野音に向かった。野音では後期の学友、武蔵野美術大の学友と合流し、集会参加後は一橋=ムサビ独自部隊として戦闘的なデモを展開した。一橋大全共闘部隊としての登場は昨年の10・21以来である。

私は4・19明治公園で行われた朝鮮学生革命11周年の入管闘争の集会(一橋新聞には記事がない)に参加し、集会後のデモの反帝学評の部隊の指揮を任され、ジグザグデモを繰り返し、青山通りに出た直後に私服警官たちに襲われ、逮捕されパトカーに押し込まれ赤坂警察署に連行され留置場に入れられ取り調べを受けた。初めての逮捕経験だった。繰り返しの警告にも拘わらずジグザグデモをやめなかったことが東京都公安条例に違反したということらしい。恥ずかしながら私は完全黙秘の原則を守れなかった。翌日から4・28闘争などの学内の準備をしなければと焦っていた。届け出て承認されているデモの指揮をしただけで、大した罪にならないですぐ釈放されると思っていた。二十歳になったばかりで年齢を言わないと喫煙を許されないのが辛かった。ニコチン依存がかなり重症であった。氏名、生年月日を言って、喫煙し、早めに釈放してもらおうと思っていた。しかし起訴猶予にはなったが、20日間以上拘留された。留置場の生活はそれほど苦痛ではなかった。同房は窃盗犯の無口なおじさんだったが、お向かいの房の住吉連合のお兄さんやおかまのお姐さん(男娼は街で男性に声を掛ける暴行罪で逮捕されるという)とはよくおしゃべりをした。取り調べは短く厳しい追及もなく、かつ丼の出前を取って一服するのが楽しみだった。取調室のシケモクやマッチを持ち帰って、やくざのお兄さんと分け合って房の中でこっそりタバコを吸ったりした。お兄さんはやくざもこれからは大学出だと言って、釈放されたら新宿三丁目のコージーコーナーに居るから顔を出せと言われたが、もちろん行かなかった。両親は赤坂警察署の隣の虎屋の羊羹をもって面会に来て、学生運動で捕まった親戚の息子がドイツに留学して運動と縁を切ったと聞いて、私にも留学をすすめてきたので、ドイツ留学も悪くないと考えたりした。しかし釈放後には、今回相談した弁護士に20万円も取られたので留学させる金はないと言われ、留学の夢は立ち消えになった。親からは運動をやめないなら家から出るように言われ、月に2万円もらって学費、家賃、生活費一切を賄うように言われた。一橋の1級下のM君とムサビの少し年上のIさんと男3人で府中の多磨墓地の近くの三多摩の反帝学評のアジトのような一軒家で暮らすことになった。

5・19「沖縄全島ゼネスト連帯・沖縄返還協定調印阻止」
全関東総決起集会 本土―沖縄を貫き決起!
全国全共闘・全国反戦・東京入管闘の主催で清水谷公園に約1万人が結集した。小西誠氏からは自衛隊の沖縄配備に対して自衛隊内部から立ち上がる反軍兵士の闘いの報告、ビクトリア良潤氏からは反戦米兵へのテロの弾劾、沖縄救援会からは富村氏の闘いの報告があり注目された。

執行委員長選低調に終わる
5/26~28投票 前期自治会
5/31~6/2投票 一橋寮
前期自治会執行委員長選挙は、5月17日に公示、18~19日立候補受付で、民主連合政府の樹立を主張する前副委員長のO君、プロレタリア統一戦線を主張するS君、セクト争いに反対し自治会を一人一人の手にと主張するN君の3人で争われ、24~25日の立会演説会は150人ほどの学生が参加し、昨年の新寮闘争、沖縄闘争、三里塚闘争などについて活発な論議があったが、投票数は少なく、総投票数979票、有効投票941票、得票はO君408票、N君308票、S君173票、白票52票で、O君が当選した。
一橋寮委員長選挙は、民青系のSi君と真に闘う寮の構築を唱えるSe君が立候補し、投票総数150票、有効投票146票、Si君105票、Se君40票、白票1票でSi君が当選した。

5・30 沖縄返還協定調印実力阻止
・自衛隊の沖縄派兵阻止全国労学総決起集会
全国全共闘再編へ―解放・中核派党派闘争
午後2時開会予定だったが、午前11時ごろから明治公園内で解放・中核両派の党派闘争があり、午後3時半の司会者の集会を一時中断するという発言に続いて、全国部落研から「解放派と中核派の党派闘争の際に、解放派による部落研への襲撃があり、一人の重症者が出た。それに抗議したところ許しがたい差別発言がなされた。すべての諸君がこの事実を受け止めてほしい」と訴えがあった。3時50分、集会は再開され、全国反戦、全国部落研連合、小西三曹、東京入管闘、三里塚・芝山連合空港反対同盟、北富士忍草母の会、沖縄救援連絡センター、劉道昌君の闘いを支持する闘争委員会から発言があり、党派発言はなされぬまま、実行委員会より「日帝の沖縄派兵を拒否し、日程のアジア侵略に対し、隊内反乱で応えよ」と全自衛隊兵士・水兵に向けた特別アピールを採択し、集会を終了し、日比谷公園まで、外苑前、青山2丁目、1丁目などで機動隊に旗竿、スクラム、投石で突撃を繰り返しながら、戦闘的デモンストレーションを展開し、日比谷公園内でも攻防を繰り返した。同日の負傷者は329人(重傷13人)、逮捕者は281人であった。

私は5月10日ごろに釈放され、しばらく自宅に居て、5月下旬から小平キャンパスに顔を出したと思う。私の不在の間に4・28闘争、自治会執行委員長選挙、中核派との党派闘争の開始などがあり、一橋の反帝学評は中央からのテコ入れもあって頑張ったと思われるが、5月末には活動が停滞していた。学生大会に向けて旧全闘委系の学生が集まっていたが一橋寮の寮生や高校生から活動していた新入生が多く、中核派のシンパや立川基地闘争に関わっているノンセクトがいた。全共闘を名乗って学生大会で6月政治ストを提案することになり、私は留年して前期で3回生ということもあり、全共闘議長となり議案書を作り、学生大会で演壇上から方針を提起した。

5・31 前期学生大会
沖縄返還協定調印阻止に向けて 
6月政治スト方針を決議
第二次全共闘運動へ向け スト実運動の構築を!
5月31日1時より、6月沖縄返還協定調印阻止に向けたわれわれの闘争展開を確立する学生大会が行動において開催された。約400名の結集により学生大会成立が宣言された。
前期自治会執行委員会の議案は、沖縄闘争、司法の反動化、学館設立の3点に関してなされ、沖縄闘争に関しては、「安保の実質的大改悪」「返還協定策動」と表現されるように、より良い返還を!という観点から述べられ、戦術的には1か月スト権確立・6月1~3日の第1波スト・6月8日学生大会による第2波ストが提案された。
「裁判の独立を守る一橋学生の会」からは「憲法の理念」を軸とした司法の反動化に抗議しよう、との提案がなされた。
一橋大学全学共闘会議(一橋大全学反帝学生評議会と沖縄民衆と連帯する闘争委(準)で構成)からは、沖縄返還をテコとしてかけられてくる攻撃に対しての全面的な対決、即ち、72年沖縄返還粉砕に向けた、入管・叛軍・三里塚・公害・部落解放闘争の深化と結合、ファシズムに対決する中からの司法のファッショ化粉砕・地区における闘いの発展・教育の再編に対する闘いとその拠点たる学館獲得闘争、とすべての問題にわたって提出され、調印日(政府の予定では16~17日)までのストライキとスト実運動が提起された。
沖縄返還協定調印阻止を闘うための活発な討論と執行部の不誠実さへの激しい糾弾、執行部ののらりくらりとした態度で堂々巡り的様相を呈する中、質疑打ち切り動議が出され、415人の参加が確認され採決に入った。執行部案は賛成207、反対120、保留51、棄権15で可決保留、守る会案は賛成232、反対36、保留105、棄権22で可決、全共闘案は賛成216、反対103、保留62、棄権5で可決され、全共闘提案の返還協定調印日までのストライキが決定され、同時に守る会の提案もスト実の実践的課題とすることになった。
大会終了後、ストライキ実行委員会準備会が結成され、翌日のスト実結成大会の準備が進められた。決議にのっとって、スト期間中の権限移譲を執行部に求め、自治会費・備品を渡すようにO委員長に迫ると、彼は会計簿の明示を渋り、自治会費は現在千円しかないと答え、民青「全学連」への分担金として6万円を納めたことを明らかにした。

6・1スト実結成大会
107番教室において約130名の学友が結集しスト実結成大会が開催された。しかし、民青執行部は自己の宗派的延命を策して、スト実結成大会に介入した。スト実に結集した学友は、地区民青をも動員して姑息に敵対する民青「執行部」を直ちに実力で撃退し、返還協定調印阻止に向けたスト実結成を固い意志一致の下に勝ち取った。
6月1日号論説「6月前期ストへの一視角」要旨
新学期からスト突入までの学内における経過は、①4・26学生大会流会に見られる大衆運動の低迷。②自治会執行委員長選挙での、<政治性>を持たぬことを売り物にするN君の大量得票に見られる、厖大な政治的無関心層の存在。③5・31学生大会での大衆運動の唐突なまでの高揚―スト突入。④民青諸君の何らの道義性抜きのスト実への敵対。等々これら様々の事態は現在の学生運動内部での階層分解のあり方として、極めて興味深いものがある。
6月16日号論説「第二次全共闘運動への発展をー前期スト実運動総括」要旨
われわれはクラス末端からのスト実を軸とした大衆的ストライキ闘争を展開し、日帝ブルジョアジーが72年沖縄施政権返還をもって、沖縄を再び反革命の要石として打ち固め、アジア・太平洋地域の反革命と再支配の体制を構築しようとする突撃とその「国民的合意」のセレモニーである調印式に真っ赤なくさびを打ち込んだ。
今回のスト実は沖縄返還協定調印を通してなされるブルジョアジーの攻撃が如何なるものであるかを、すべての学友に突きつける大衆的ストライキを追求した。ブルジョアジーの諸階級・諸階層に対する諸領域にわたる攻撃とそれに対する闘いを自主講座、討論資料、諸闘争として提起し、諸領域の闘いも結合した力での返還協定調印阻止として沖縄闘争の意味を突き出した。
自主講座は「ナチズムをめぐって」「三里塚闘争」「入管闘争」「北富士闘争」「破防法裁判闘争」が行われた。それぞれ詳細な討論資料が配布された。
6月6日には三里塚へ、13日には横田基地へ
とスト実旗を先頭に結集し、現地闘争を果敢に闘い抜いた。
また、この大衆的、革命的ストライキ闘争の展開によって、大衆運動の崩壊の上に学内秩序―国家・社会秩序を超えない秩序派運動を打ち立てようとする宗派日共・民青を破産に追い込み、今後の全共闘運動の発展の基礎を築いた。
しかし、スト実が「返還粉砕」派←→「奪還」(本土復帰)派という形で顕在化した全国全共闘の分解に対応しきれなかった不十分性は深刻に捉えるべきだ。

 5・31学生大会は唐突なまでの大衆運動の高揚で全共闘提案の沖縄政治決戦ストを圧倒的多数で可決した。私は演壇から全共闘の提案を行い、演壇前に群がって口汚いヤジを繰り返す民青諸君の中に跳びこんで彼らを沈黙させ、「金杉の跳び蹴り」として語り草になるほどヒートアップしていた。反帝学評に加わり、1月から革マル派との内ゲバ、三里塚闘争、デモ指揮をして逮捕される経験を通して高揚しきっていたと思う。学生大会に参加した1年生2年生は1969年から70年の全国的な高校紛争の世代で反体制運動に共感しやすかったことが背景にあったと思う。民青の諸君には大変な衝撃であったと思う。6・1スト実結成大会に地区民青を動員して介入する暴挙にまで至ったことは地区の共産党組織にまで動揺が広がったことを示している。ストライキ期間中に社会主義協会派も学内でのビラ撒きをやめさせたところ、後日ナッパ服を着た国労組合員と思しき一団が学内に現れ反帝学評のメンバーに暴行を加えることがあった。統一教会派も数人で学食に現れ、朝鮮大学校反対のビラ撒きをしているのを私が見つけ追い払ったことがあった。地域全体が政治化し暴力性を帯びたと感じられた。スト実の活動はさまざまに行われ、全共闘運動の再興の兆しも感じられたが、沖縄奪還か返還粉砕かという今から思えば観念的な不毛な党派対立が影響し、まとまった発展性のある展開には至らなかった。6月15日の明治公園には一橋のスト実として隊列を作り参加したが、中核派が突入してきて会場が混乱し、そのまま解散のようになったと思う。6月17日の宮下公園には一橋の隊列は作れず、数人を誘って渋谷駅前の闘争に参加した。

6・15-17調印阻止闘争 激闘の火焔、首都を席捲!
渋谷・青山一帯を武装制圧し、首相官邸へ断固たる進撃
全国全共闘は二分解へ
 6月17日の沖縄返還協定調印に対する闘いは、15日から17日にかけて、全国から結集した数万人の労働者・学生により戦闘的に展開された。昨秋の国政参加選挙を経て、72年沖縄返還へ向けブルジョアジーの手によって着々と進行しつつある本土―沖縄一体化の中で、返還協定調印に対する闘いは沖縄闘争さらには日本階級闘争における一大決戦だった。
そして、沖縄闘争の方針をめぐって、5・30集会以降顕在化した階級戦線の再編が、15日の解放派と中核派の全面的な党派闘争、16日の解放派の独自集会、17日の”返還粉砕派“と”奪還派“の分裂集会として現象的にあらわれた。反帝共同闘争機関としての全国全共闘の事実上の分裂を通して、今後の共同闘争機関の階級的・革命的な再編を克ち取ってゆかねばならない。
一橋大学前期の17日間のストライキ闘争を戦闘的に闘い抜いたスト実の運動においても、階級戦線の再編の波を受け6・15-17の明確な方針と意志一致が克ち取れないという限界を残した。

[15日]統一集会開けず
解放派-中核派 全面的党派闘争へ
6・15集会は全国全共闘に結集する各党派が明治公園に午後5時半に結集を呼びかけていたが、5・30集会以降、解放派と中核派との間で関西(京大)などの各地で武装衝突を含めた党派闘争が展開されており、全国全共闘・反戦の分解・再編を巡り注目されていた。
解放派の学生部隊約500名が旗竿部隊300名を先頭に午後3時すぎに明治公園に到着した。公園中央階段付近に「72年施政権返還粉砕!」と書かれた立て看板を置き、午後4時ころから反戦の部隊を含めて約800名で独自集会を行った。全学連、反戦、全国各大学の代表が「我々は真正面から“72年沖縄返還粉砕””本土―沖縄を結ぶプロレタリア政府の樹立“のスローガンを掲げ、中核派奪還論を踏み越えて前進しよう。」などの発言を行った。
この間に日本反帝戦線(150名)、フロント(120名)、赤色戦線(50名)が結集し独自集会を行った。全都部落研、関東部落青年友の会(50名)、法政大全共闘(200名)、東大全共闘(150名)をはじめ各大学全共闘、産別反戦がデモ、独自集会を行った。
一方、中核派は6時すぎ千駄ヶ谷駅で約1600名の部隊で集会を行い、7時半に明治公園に入った。約500名の旗竿部隊を先頭に、直ちに解放派の隊列に向けて突撃した。約2分間一進一退が続いた中核派が解放派を圧倒し解放派は公園外に押し出された。その後公園入口で両派の衝突が繰り返されていた時、機動隊が一斉に解放派に襲い掛かった。解放派と無党派の学生が投石、火炎瓶等で機動隊のガス弾乱射と対峙し衝突した。公園内の中核派はこれに加わらず独自集会を行っていた。
9時ごろ統一集会は行われないまま、各隊列が日比谷公園へのデモに出発した。デモに出発する中核派の隊列に黒ヘルなどの無党派学生が投石を行い中核派の旗竿部隊と一時対峙した。解放派は公園内で隊列を立て直して最後尾でデモに出発した。11時前後にデモ隊は日比谷公園に到着したが、公園入口で無党派学生と機動隊の衝突が11時半ごろまで続いた。

[16日]全国全共闘・反戦の二分解を露呈
解放派・反帝戦線などは結集せず
6・16全国総決起集会は全国反戦の主催のもと明治公園に約1万名を結集して午後7時半から行われた。まず全国反戦の代表が昨日の6・15集会を統一集会として行えなかったこと、17日は全国反戦としての統一集会はできないことを自己批判し、全国反戦も全国全共闘に次いで党派間の調整ができず、統一機能を喪失したことを明らかにした。
続いて、沖縄青年委、東京入管闘、救援連絡センターから発言があり、さらに三里塚芝山連合空港反対同盟、北富士忍草母の会のメッセージが読み上げられ、全国部落研、劉闘委、沖縄反戦から連帯の挨拶が送られた。
政治諸団体の発言では、学生インターが富村さん支援闘争を訴え、全国反帝学生戦線連合と共産主義学生同盟が“72年沖縄返還粉砕”を訴え、明日は宮下公園に結集するように訴えた。
全学連(金山委員長)は「返還協定は戦後26年間の沖縄県民の闘いを踏みにじるものであり、首相官邸での協定調印を何が何でも実力で阻止する。首相官邸を包囲しよう。」と決意表明した後、「中核派と全学連に敵対することを唯一の目的とした社会党解放派は断固として粉砕する。」と宣言した。最後に関東反軍行動委連絡会を代表し、小西三曹が「沖縄は返還によって26年前の虐殺の時代に戻されようとしている。72年沖縄派兵は海外派兵の第一歩である。調印阻止、派兵阻止に向けて共に闘おう。」と発言して集会を終え、日比谷公園へデモ行進した。
解放派独自集会
一方、同16日午後6時から宮下公園では、解放派(約700名)と一部全共闘(約200名)が結集し、沖縄返還協定調印阻止労学総決起集会が行われた。東京反戦、東大全共闘の司会で中部地区反帝学評連合、九大学友会、新潟県反戦、反帝高評連合、法大全共闘などが発言した。全国全共闘書記局員並木氏が「2・4山本発言に明らかになったごとく、革共同中核派を中心とする全共闘内部の返・奪還派の粉砕なしには全国全共闘の階級的・革命的再編はなしえない」と発言し中核派との党派闘争の意義を明らかにした。最後に全学連内城委員長が「“沖縄返還要求をどうするのか?”と反帝国民主義を代行し、大衆運動の上に君臨する疎外された前衛として自己を純化し、大衆を政治的に引き回し、自己の路線の破綻を隠蔽してきた中核派諸君との対決が不可避な課題である。」と発言した。日比谷公園へのデモのあと9時半からの総括集会で「17日は渋谷一帯を制圧し、首相官邸へ!」と意志一致して解散した。

[17日]渋谷一帯に解放区 宮下公園に1万4千結集
6・17全国総決起集会は、宮下公園において、約1万4千の労働者、学生を結集しておこなわれた。”72年沖縄返還粉砕!自衛隊の沖縄派兵阻止!返還協定調印阻止!“のスローガンのもと、沖縄闘争を”72年返還粉砕“の基調で闘う部分の統一集会となった。
集会は午後6時に開会され、まず那覇中央反戦が、そして沖縄反帝労働者会議も、沖縄現地において72年沖縄返還を軸とするブルジョアジーの攻撃に対して、はっきりと返還粉砕を掲げて闘う労働者人民が登場していることを明らかにした。北海道叛軍連絡会議(準)は「自衛隊派兵をもくろむ日帝の軍事外交路線に真っ向から対決する叛軍闘争を闘い抜く」と沖縄闘争における叛軍闘争の位置を明らかにした。
諸闘争団体の発言は、全都・神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議、都立大全共闘、70年代戦線の高見圭司氏から行われた。
各党派の発言では、日本反帝戦線、全国反帝学生戦線、全学連(内城委員長)、共学同労共委、共労党、全国解放戦線がそれぞれ“72年沖縄返還粉砕”を基調とし中核派の奪還論、返還論に対する批判を展開した。最後に沖青委代表(牧港青年部)が「72年返還をもっての日帝の国家権力の持ち込みは、沖縄人民を処分し、沖縄をアジア支配の基地とするものだ。国際的なワクをもって抗米抗日闘争に決起する」と発言した後、集会アピールを採択し、7時半デモに移るべく、各隊列は青山通りに出て体制を整えた。
フロント、解放派、反帝戦線、赤色戦線の各派は旗竿部隊を先頭に渋谷駅方向へ進撃し、阻止線を張っていた機動隊が催涙弾を直撃し規制したのに対し、火炎瓶十数本を投げて反撃した。その後、機動隊が前後から激しく規制し大量の検挙者を出したが、デモ隊は公演周辺の道路にバリケードを築き、あるいは国電の線路に上って、渋谷周辺は約2時間にわたって解放区の状態となり、この間に隊列を整えたデモ隊は日比谷公園へのデモに出発した。11時ころ日比谷公園で総括集会を行い解散した。
“返・奪還派”集会 明治公園
中核派、第四インターを中心に約6千人が結集し午後6時半から集会が行われた。「何よりも実力で調印を阻止せよ!本日の集会は統一集会としては実現されなかったが、われわれがここから勝利の炎をあげ、今後の全国全共闘・反戦のヘゲモニーを克ち取ってゆこう。」というアピールがあり、続いて全国部落研連合、さらに沖青委が宮下公園に結集した返還粉砕派を批判し、学生インターと全学連(金山委員長)が決意表明して、午後8時ころ集会を終え、デモに出発しようとしたが、機動隊が完全に公園を包囲した厳重な弾圧体制に阻まれ、青山通り方面に出たデモ隊は車でバリケードを築き、投石、火炎瓶で機動隊に対峙した。8時半ごろ機動隊が全員検挙命令でガス銃を乱射して襲い掛かり、この間爆発物が投げられ、ドラム缶に火がつけられ、路上に10数メートルの火柱が上がった。9時ごろまでガス銃と投石の攻防が繰り返され、デモに出発しようとした部隊が約百名検挙され、分散させられた。10時ころようやく隊列を整えた約400名の部隊がデモに出発したが機動隊の激しい弾圧により、溜池付近で隊列が分断され、ほとんど日比谷公園まで到達できなかった。

6・2 生協パート協議会結成さる 
生協に再び闘いの火の手! 既得権すら奪う「就業規則」
パートタイマーとして生協で働いている人たちが承認しがたい「就業規則」の押し付けに対し、生協パート協議会を結成し、その撤廃闘争に決起した。昨年闘われた反合理化闘争で一橋大生協が抱えている矛盾が暴露されたが、根底的に解決されず、その間に理事会は管理体系を打ち固め、矛盾は一層深化しパートタイマーに凝縮して集中化された。
6月2日のビラによれば、生協の従業員の3分の2近く(正規12人、パート19人)を占めるパートは生協の恒常的・基幹的労働力であるにもかかわらず、一方的な合理化、劣悪な労働条件のもとに置かれている。就業規則は①パートの無権利状態を合法化し、既得権のはく奪を目指す。②パートを将棋の駒としか見ていない。③正規従業員とパートの間の格差分断を拡大する。
生理休暇は無給、賞与、退職金は支給しない。定期昇給は廃止、時給5割増しだった休日出勤は1回200円の手当に切り替え。雇用期間は1か月以上4か月未満と定め、春夏冬の休みごとに解雇され、休み明けに再就職させてもらうため理事者にぺこぺこしなければならない。
パートは上長の指示にしたがって働き、配置転換を拒否できない、いつでも解雇できる。
民主勢力が資本家のやり口をそっくりまねて、無制限、無限定にパートに用いるのは誤っており、自らの首を絞める自殺行為だとしている。
「私たちは闘い続けます。学生・教職員の絶大なご支援をお願いします。」と訴えている。
2,3年前までは正規の従業員に対する就業規則をパートに準用していたのに、新たに資本の論理丸出しの就業規則を作り、既得権まで奪おうとするのは「民主勢力」も落ちるに落ちたものだ。

7・1佐藤訪韓阻止闘争
革命的反帝潮流先頭に断固戦わる!
6月30日、翌7月1日の加藤首相の韓国訪問を実力阻止すべく都内2か所で3つの集会が行われた。礫川公園では東京反戦世話人四氏の呼びかけによる「6・30佐藤訪韓阻止労学中央総決起集会」と東京入管闘の総決起集会が約2千名を結集して行われた。同時刻,坂本町公園では約5百名を結集し、中核派、第四インター系の集会が行われた。この日に向けて、東京入管闘、各派反戦世話人などで実行委員会を形成し、統一集会を行う動きがあったが、党派闘争の激化の中、次の理由で統一集会は行われなくなった。東京入管闘が提起した明治公園での集会に対して、中核派が坂本町公園での集会を設定したこと、25日東京入管闘主催の討議決起集会に中核派が竹竿等で武装介入し会場制圧し解放派・反帝戦線の入場を阻止したことから武装対峙状況となっていた。
警視庁、公安委員会の弾圧で明治公園から変更された礫川公園には、当日早朝から隣接した中大理工で各々集会を開いていた全学連(内城委員長)300名、反帝学戦150名、反帝戦線(理戦派)100名、赤色戦線50名が5時すぎ一斉に会場に入り、集会破壊からの防衛の態勢をとった。その後各党派、東京入管闘書く地区実などが続々と結集し、中核派が坂本公園に向かった6時過ぎには全体で約2千名を数えた。“佐藤訪韓実力阻止、72年沖縄返還粉砕、自衛隊派兵阻止、70年安保粉砕、四次防粉砕、入管体制粉砕”を基調とする共同アピールを確認した集会では、全学連(内城委員長)、反帝学戦、赤色戦線、共学同、反帝戦線の順で発言し、8時半に集会を終え、独自に集会を行っていた東京入管闘を先頭にデモが行われた。
7月1日、解放派、フロント、反帝戦線を中心とする返還粉砕派は早朝より行動を開始し、検問、旗竿押収などの弾圧体制の中、6時より東蒲田公園に約700人を結集し佐藤訪韓阻止総決起集会を開いた後、同じ公園で独自集会を開いて東京入管闘を先頭に、完全なサンドイッチ規制と自警団の登場の中、萩中公園まで約6キロのデモを貫徹した。一方、中核派、第4インターを中心とする部分は本羽田公園に約400名を結集し「佐藤訪韓阻止中央総決起集会」を開いた。

7・15狭山差別裁判糾弾公判闘争
石川青年を生きてわれわれの手に!
狭山差別裁判徹底糾弾・石川青年即時奪還7月公判闘争は15日午前9時から、解放同盟主催のもと日比谷小公園、清水谷公園で同時に開催された。清水谷公園においては解同青年部、関東部落青年友の会、全国部落研連、全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議等を中心とする約600名の部落民、労働者、学生、高校生、市民が結集して狭山差別裁判に対する徹底糾弾と石川青年を即時奪還する闘いをより一層全国に繰りひろげる強固な意志一致が克ち取られた。
解同大阪府連代表の挨拶のあと、解同中執-青対部の西岡智氏が「石川青年にかけられている差別裁判は全国6千部落3百万部落民に対する権力の攻撃であり、解同の総力を挙げて闘いを強固に展開する。差別キャンペーンを振りまき、解放運動の分裂を策謀する日共を糾弾し権力、マスコミ、一般民一体となった差別事件として糾弾しなければならない。」と発言し、5・30事件をめぐって表面化した新左翼内部の部落解放闘争への関わりの混乱に関し、「部落解放闘争に関しての内ゲバはやめ、解放同盟のもとに党派利害を超えて闘いの戦列と団結を固めてほしい」と提起した。石川一雄青年の姉高松一枝さんが「一日も早く一雄を奪還し共に闘いに参加できるようにして下さい」と訴えた。
更に解同京都府連、奈良県連、三重県連、大阪府連の代表が決意表明し、全国部落研連、関東部落青年友の会、関東部落研連、全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議、全国支持共闘会議の代表から決意表明がなされた。集会後、解同を先頭に荊冠旗を押し立て、全員ゼッケン、鉢巻きをつけて東京高裁へのデモンストレーションを克ち取り、日比谷小公園の集会に合流した。

6月17日沖縄返還協定の締結で小平のストライキは終わり、学内活動は途絶えて、私は反帝学評の全都の部隊に加わり、このころ日にちは特定できないが中核派の拠点である法政大学のキャンパスを朝から制圧して集会を行ったが、中核派は全国動員をかけて拠点奪還のため法政大学になだれ込み、私は命からがら裏門から脱出するとき鉄パイプで顔を殴られ左の顎関節が今も亜脱臼でカクカクする後遺症を残している。
これも日にちを特定できないが、7月ごろ三里塚現地で大雨の中公団の測量隊と機動隊に向かって投石したり、デモを掛けたあと、泊まり込んで翌日数十人の部隊で草深い原っぱや雑木林の中を走り回っていて、機動隊と遭遇し逃げ遅れて逮捕された。護送車で赤羽警察署に送られ、20日以上留置された。前日大雨でずぶぬれで借りた衣類に着替えていたせいか、前日の投石などの証拠写真がなく、大した取り調べもなく起訴猶予になった。赤羽警察署の留置場は土地柄か東北出身者が多く、客に日本刀を振り回した不動産業者や酔っぱらって喧嘩した人とか単純な粗暴犯が多かった。デビューしたての小柳ルミ子の「私の城下町」が繰り返し流れていた。釈放されてからは、父が手術で東京女子医大に入院していたので、付き添いをするように言われて、しばらく自宅から病院に通った。

8・29 第3次砂川闘争 反戦鉄塔立つ
自衛隊進駐へ先制攻撃 叛軍・基地撤去闘争の焦点へ
8月29日、米軍立川基地において、破線塹壕委員会、平和利用市民会議、三多摩反戦などの手で基地の金網スレスレに高さ30メートルの反戦鉄塔が建てられた。7月10日自衛隊立川基地進駐阻止共闘会議結成を経て、長い準備作業と延べ千人に及ぶ労働者・学生の手で完成された。秘密裏に進められていた基礎工事は完成しており、当日の作業は早朝から鉄塔を組み始め、夜までに組み終えた。
米軍立川基地は6月25日の日米合同委員会の決定で、12月に自衛隊に正式に移管されるが、9月中旬より滑走路使用に慣れるためと称して、なし崩しに進駐を強行しようとしている。ヘリ部隊、輸送機を中心に陸上自衛隊東部方面航空隊(宇都宮)350名がまず進駐しようとしている。内乱鎮圧の花形であるヘリコプター部隊が配備される。自衛隊の沖縄派兵による沖縄の日米反革命共同基地化の後方基地として立川基地を突破口に本土基地群が再編されている。内乱鎮圧と対外的人民抑圧という反革命臨戦体制の構築に向け、9・1の防災、治安訓練を通した自治体と地方行政の一体化による地域社会のファッショ的打ち固めを進めている。自衛隊の立川進駐の重大な攻撃に対して、1800メートル滑走路を使用不能にする反戦放送塔。の建設は決定的な先制攻撃となった。

9・1 関東大震災48周年労学総決起集会 
今秋闘争の突破口
 9・1集会実行委員会主催で代々木公園に約1500名の労働者学生が結集した。
日帝が朝鮮人、中国人、社会主義者を大量虐殺する契機とした関東大震災から48年を経た今日、治安訓練という名目で行われているものが内乱鎮圧体制の形成にほかならぬことを明確に把握し、これを粉砕していかなければならない。集会では各地区実行委、各党派の発言の中で注目されたのは、沖縄青年委員会<海邦>の発言で、沖縄での中核派の反革命的テロ行為が暴露された。5・19ゼネスト連帯集会に結集した沖青委<海邦>諸君に沖青委<山城系>は突然「分裂主義者・脱落分子」等の悪口を投げつけ覆面した白ヘル10数人が竹竿で殴り掛かって来たという。しかもその半数以上が沖青委の白ヘルを被った本土の中核派学生であったことが暴露され、激しい中核派批判がなされた。元沖青委<山城系>に参加していた同志からも5・19の事実経過が報告された。さらに各地区実行委、各地区叛軍行動委、各党派から発言があり、日比谷公園までデモが行われた。

9・8~10 新潟小西反軍闘争 反軍戦線の再編へ
9月10日の小西公判闘争の新潟現地での闘いは解放派、ブント(戦旗派)、フロントの三派による中核派、四トロ派の全国反軍デッチ上げ策動粉砕の闘いとともに闘われた。
8・11自衛隊帰郷広報隊派遣阻止闘争の集会発言に、中核派が沖青委(山城代表)を在本土沖縄青年労働者の代表として主張したのに対し、解放派等が現在沖青委は山城代表と沖青委(海邦)に分岐している中で山城代表に発言させることは適切でないと主張した。中核派は集会当日に計画的に武装襲撃―集会破壊を行い、自らの主張をごり押しせんとした。
ところが5・19沖縄全島ゼネスト連帯闘争に本土の中核派学生が沖青委(山城代表)のヘルメットを被り、沖青委(海邦)にテロを行った事実が明らかになり、自らに都合の悪い主張を持つ沖縄人民にはテロで応ずるというスターリニスト顔負けの政治利用主義が暴露された。窮地に追い込まれた中核派は「そのような事実はない」と居直り、突然8・23小西文書が出された。小西誠三曹が中核派の主張を受け入れ沖青委(山城代表)に敵対する者は関東反軍から排除するという内容だった。これは小西三曹の関東反軍における権限を逸脱したものであり、その私物化と分裂策動であった。
この分裂策動が全国反軍へと発展した。中核派、四トロ派は小西三曹を擁し新潟現地で、解放派、ブント戦旗派、フロントを排除した全国反軍連絡会議をでっち上げようとした。8日から現地入りした三派系の反軍行動委(解放派60名戦旗派50名フロント40名)は新潟大学を中心に連日市内を制圧し、中核派・四トロ派は市内に登場できず、8日の新大での反軍討論会も10日公判に対す集会デモもできず、中核派は新大六花寮に閉じこもった。解放派・戦旗派・フロントは中核派の登場を許さず、小西三曹を追求し10日の公判闘争を集会と市内デモで闘い抜いた。
一方、中核派は9日彼らが行った秘密会議をもって全国反軍と称している。

私は8月は父の病院の付き添いをしていたが、このころには戦線に復帰していて、大学にはほとんど行かず、指令があると集会や闘争に参加していた。新潟の小西反軍闘争は新潟大学に泊まり込んで、朝から中核派と追っかけたり追っかけられたり、鬼ごっこのようにして市内を走り回っていた。新潟の往復は無賃ないしキセル乗車で、帰りは東京では新宿駅の地下通路で落ちている切符を拾って改札を出るという反社会ぶりであった。

9・13 三里塚第二次強制代執行実力阻止首都総決起集会
午後6時より清水谷公園で首都圏を中心に労働者、学生、農民、市民約1000名を結集し開かれ、数日後に迫った三里塚決戦に向けて戦闘宣言が発せられた。

9・16 狭山差別裁判糾弾・石川青年即時奪還公判闘争
百万人署名貫徹!
9月公判闘争は16日午前9時から日比谷小公園において、部落解放同盟の主催のもとに、大阪府連、京都府連等の23都府県連の部落大衆、関東部落青年友の会、全都部落研、全国部落研連等に結集する労働者・学生・市民さらに被青同等の約千人が参加して行われた。集会は弾圧体制の中で極めて緊張した雰囲気の中で、退官を目前とした井波裁判長が早期結審=死刑判決を企てていることが明白となり、激しい糾弾のシュプレヒコールの中で始まった。部落解放同盟書記長上杉氏の挨拶のあと、解同各都府県連から各地の闘争、百万人署名をはじめとする公判闘争の報告がなされた。注目されたのは、青年部が公判闘争への決起を訴え圧倒的に結集したこと、同時に三里塚で開始された第二次強制収用阻止闘争を闘う農民・労働者・学生への連帯のアピールがなされたことである。
この後慶応大部落研、一橋大部落研、自治労大阪市職等から百万人署名へ向けた決意表明があり、午前の法廷闘争の報告があった。本日の証人関謙蔵は弁護側の反対尋問にあやふやな答弁をし、言葉が詰まると裁判長井波が助け舟を出す全くでたらめな裁判が進行している。
午後の闘争は「部落解放!」「石川奪還!」のシュプレヒコールを上げつつ弾圧の中デモを開始した。参加者意見交換が行われ、解同中執西岡氏からアッチカ刑務所囚人叛乱支持、虐殺抗議の集会決議が提案され採用された。三里塚現地からの報告もなされ、集会はさらに緊張した。法廷で闘う石川青年に連帯のデモとシュプレヒコールを送り、京都の中学生の力強い決意表明、身障者解放委員会連合、全国被爆者同盟から決意表明を受けた。公判が終了し弁護士から法廷の闘いの報告を受け、解同松井副委員長の総括報告を受け、全員で解放歌「差別裁判打ち砕こう」を斉唱した。

9・16~20三里塚決戦報告
第二次代執行粉砕闘争
砦攻防と呼応しゲリラ戦展開!
三里塚第二次強制代執行実力阻止闘争は9月16日から20日までの5日間にわたって、木の根、天浪、駒井野の3砦における徹底抗戦とそれに呼応する各地のゲリラ戦との結合の下で貫徹された。

【16日】駒井野砦 徹底抗戦を貫徹!
朝7時、機動隊約2000が駒井野砦を包囲する中、公団職員約100が横断幕を広げて砦に近づき、代執行を宣言する。砦の部隊は激しい投石で応える。巨大なユンボが三台、両脇に放水車を従えて登場し、砦の前面(北側)を破壊し始める。砦の他の三方は沼や濠になっていて、前面からしか攻撃できない。攻撃するユンボめがけて火炎瓶が飛ぶ。炎上するユンボの運転席から乗員が転がり出て一目散に逃げる。9時15分、バリケードに使っていた車が取り外され、空隙から機動隊が侵入するが、火炎瓶と竹やりで撃退される。
11時半、公団―機動隊はその攻撃を一時中断する。早朝からのゲリラ戦で、東峰地区で機動隊1個大隊が殲滅され、警官三人が死亡し、その衝撃でこの日の代執行を中止する判断が当事者に生じたためだ。「死んだ三人の遺志を継いで・・・」と機動隊幹部からの突き上げがなされ、作業続行が決定され、12時半ごろ再開された攻撃は明確に<報復>の様相を呈する。
12時40分東側の一角が崩され、機動隊が乱入する。乱闘の果てに学生数十人が砦の南側の沼地に追いやられ、外側のバリケードが次々に崩され、砦内の四つの小屋が炎上する。内側のバリケードを乗り越えて機動隊が全員検挙にかかり、ヤグラが引き倒され、乗っていた学生はすべて地面に叩きつけられる。鉄塔(放送塔)以外の建物は見る間に破壊―撤去され、駒井野砦はそびえたつ鉄塔を残すのみとなった。
3時、鉄塔の撤去作業が開始される。塔の中段にワイヤーを結び付け、クレーンで引く。3時20分、鉄塔は中断から折れ、塔上の10人もろとも地上に激突し、火炎瓶が発火炎上し10人は重傷を負う。3時30分終了宣言。
翌17日は残りの撤去作業が行われた。一方、ゲリラへの追求が開始され、機動隊2000を動員して、天神峰現地闘争本部、戸村一作委員長宅を捜索、東峰地区では通りかかった者を無差別に逮捕する徹底した戒厳令が敷かれ、警察犬を投入して大規模な山狩りも行われた。16日の逮捕者は375人に上った。ほとんどが学生だった。

<Mの証言>
三里塚闘争に何故参加し如何に闘ったのか。
1971年9月17日駒井野砦徹底抗戦
三里塚闘争第二次行政代執行が開始される状況に対し、空港反対同盟と共に戦い、不当な空港建設阻止に向けた活動に如何に取り組むか、当時21歳であった私は、空港建設阻止の重要な拠点である駒井野砦団結小屋で,闘争するために前日から三里塚へ行き、反帝学評および全学連(内城委員長)の前夜の打ち合わせに参加した。一橋大学からは、私以外に3名が参加、私は駒井野団結小屋死守の活動、2名は遊軍としてゲリラ活動、もう一名は一橋新聞記者として参加した。
自分の任務はどの様なものか、三里塚に行く以前から何をするか基本的なその任務について、事前にメンバーと話し合い決定していた。団結小屋の戦いは最終的には逮捕される前提とも言えると自覚していた。
翌日、慶応のN君と二人で団結小屋の闘争拠点の櫓から、相手の動きに対しいて火炎瓶で対峙するものであった。ブルドーザーなどで砦に近づく動きに対し瓶を投げ抵抗したが、相手もなかなか砦に接近するわけではないので瓶が効果を発揮する場面は極めて少ないものであった。
瓶を投げると下から補給され戦いは継続したが、櫓の上も混乱し、瓶から零れたガソリンなどに火が付き、戦いを継続することは困難に陥ってしまった。
厳しくなったのは、そのあとである。砦の一カ所が機動隊により突破され、砦の囲いが破られ、中は混乱状況に陥り、砦の外へ押し出され、接する池(放水などの水が大量に生じ、その水が溜まってできた池に入り、その中を泳いで岸に近づき、機動隊員により、引き上げられ、なかまと共に、逮捕されていったのであった。全身ずぶ濡れになったが、いつの間に、着ているものも乾き、逮捕されたのであった。
逮捕された後は、東京都内の警察署に留置され23日目に釈放された。

【20日】。大木よね宅急襲さる
9月19日、大木よねさん宅の前で反対同盟主催の総決起集会が開かれた。反帝学評300、京学連70、黒ヘル100、叛旗80、怒涛30、赤色戦線20、第四インター250、中核1100、主体と変革20、フロント150、戦旗10、総数2500が集結、5時から開会し、戸村一作委員長は「この地域は成田でも有数の古村で、富農、地主村であった。大木よねは数少ない小作人で、公団は“この貧乏婆あ”と罵った。しかし、旧地主、富農が戦列から悉く脱落していくにも拘わらず大木よねは一貫して闘い続けている。大木よねは貧乏かもしれないが全世界の富、われらがコマンド闘う学生諸君を所有している。
公団の整地作業により大木よねの家の井戸水は出なくなり、田んぼは台風で一面泥水になってしまった。大木よねが談判に行くと公団側はまず水道を引いた。大木よねはこれをぶち割った。田んぼには保障金を払いましょうと札束を積み上げたがこれを一蹴した。友納知事は大木よねの家を“暴力学生の巣窟”と呼び、“これは民家ではない”と言い放った。
われわれはベトナムに行く必要はない。ベトナムのジェノサイドは今ここで行われている。三人の機動隊員の死についてはマスコミ・ジャーナリズムがこぞって大々的に報じながら、あの駒井野砦の鉄塔を機動隊長の号令一下引き倒した殺人行為につては黙して語らない。われわれは沖縄に行く必要がない。われわれは三里塚闘争を闘い抜くことで、沖縄人民と連帯できる。革命的な労学の連帯で大木よねの闘いを支援し、国家権力を粉砕しよう。」と発言し、大木よねさんは「私はブルドーザーの下になっても、どこまでも闘います。皆さんの支援をお願いします」と訴え、老人行動隊、青年行動隊らが支援を呼びかけ、決意表明した。
翌20日、午前11時、公団―機動隊40代執行令状読み上げ、11時57分機動隊私服400周辺に警備網を張る。12時公団職員100到着、座り込んだ反対同盟15を12時20分機動隊がごぼう抜き開始、24分公団測量開始、30分機動隊が庭内に侵入し脱穀中のよねさんを排除。2時40分母家取り壊される。2時55分代執行終了宣言。抜き打ちで強行された代執行への反撃は、支援部隊は各所で機動隊と衝突、夜遅くまで抗議集会、火炎瓶戦、バリケード構築、飯場焼き打ちを繰り返した。

天皇訪欧・訪米阻止闘争闘わる
9・26中央労学総決起集会 清水谷公園
約600名の参加、東京反戦世話人の司会で、三里塚反対同盟、全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議、神奈川入管体制粉砕連絡会議、沖縄青年委員会(海邦)、尖閣列島略奪を阻止する闘争委員会が発言、続いて各党派からの本反帝戦線(戦旗派)、全学連(プロ統派)内城委員長、反帝学生戦線が発言し、芝児童公園までデモを行った。
9・27現地闘争 大田区民広場 約300人で緑地公園までデモ行進

9・27 実刑判決粉砕総決起集会 於 東大教養学部
761教室に反弾圧戦線を闘う約120名が結集し、69年10-11月闘争被告団が基調報告を行い、全学連、社青同、革労協、東大闘争統一被告団、文京救援会、70年6月闘争統一被告団、69年10-11月闘争被告団20グループが発言し、
9月28日 判決予定の自民党本部グループ
10月5日 判決予定の首相官邸グループ
から実刑判決粉砕に向けた決意表明が行われた。

9月に三里塚闘争はクライマックスを迎えて、鉄塔の攻防戦には一橋の仲間も参加して逮捕者もあった。私は東京で新聞記事を書いていた。その後9月28日か10月5日どちらか忘れたが私は東大闘争の判決公判の傍聴に出かけて、裁判長に大声で抗議していたら、退廷拘束と言われて、即決裁判で監置10日を言い渡され、小菅の東京拘置所に収監された。入所時に素っ裸にされて肛門を覗かれるのはびっくりしたが、3畳ぐらいの独房で麦飯、運動と入浴の時間もあり、読書もできる。警察の留置場に比べたら高級ホテル並みの待遇だ。看守が見繕って松本清張の小説を持ってきてくれ、東大裁判の被告からはヘーゲルの「歴史哲学」の差し入れがあった。ニコチン依存は重傷で小説を読んでいて喫煙の場面があるとタバコの臭いをはっきり感じた。離脱症状の幻覚だ。釈放された朝はタバコ屋に直行しハイライトを買ってから新宿に行き映画を観た。

10・8羽田闘争4周年 三里塚の爆発を秋期批准国会へ
代々木公園、日比谷野音に5000結集
批准国会粉砕へ隊列固める 代々木公園B地区
10月8日代々木公園B地区で「72年沖縄返還粉砕・自衛隊派兵阻止・返還協定粉砕・国会批准阻止・三里塚空港粉砕・羽田闘争4周年中央総決起集会」が開催され、解放派350、ブント戦旗派100、フロント100,赤色戦線20、黒ヘル100等周辺にノンヘル部隊・群衆合わせると2千を超える結集であった。7時過ぎ、三里塚で命を絶った青年行動隊員三ノ宮文男君に対する黙祷で始まり、空港反対同盟婦人行動隊、沖青委(海邦)を代表して那覇中央青年委員会、富永順一氏の裁判闘争連絡会議、尖閣列島の略奪を阻止する闘争委員会の発言があり、全関東叛軍連絡会議のアピール読み上げ、69年10-11月闘争裁判統一被告団貫徹組の決意表明、三里塚・沖縄を闘う70年代戦線高見圭司氏の発言、三里塚空港反対同盟北原事務局長のメッセージ、各党派からの発言があったあと、芝公園までデモがおこなわれた。
中核・第四インター系が結集 日比谷野音
同じ日、日比谷野音では「10・8羽田闘争4周年・山崎博昭君追悼・沖縄『返還』協定批准阻止・入管法国会上程阻止・自衛隊沖縄派兵阻止中央総決起集会」が開かれ、中核派約700、第四インター100をはじめとする結集で野音がほぼ満員になった。1分間の黙とうの後、三里塚から戸村一作氏が三ノ宮文男君の死に触れて、国家権力への怒りをぶちまけた。続いて北富士忍草母の会、べ平連が発言し、獄中の富村順一氏からのメッセージがよみあげられ、全国部落研、全国反戦、東京入管闘、関東叛軍、沖青委(山城代表)、被青同、全学連(松尾)、学生インター、麻布高校全共闘が発言し、終了後デモに移った。

10・9刑法学会介入闘争 保安処分粉砕に決起
一橋大国立校舎で行われた刑法学会に対して、保安処分粉砕関東共闘会議準備会を中心とする青年医師・学生50名が介入し、追及闘争を行った。図書館前で決起集会を持ち、刑法学会が保安処分を背後で推進あるいは支持していることを暴露し、徹底的に追及する、今回学会が取り上げる少年法改正、監獄法改正を粉砕していくことを確認し、50名の隊列で会場の新館に向かい、401教室に突入し、400名の学者があっけにとられる中マイクを掴み追及を開始した。精神医療の実態と保安処分の犯罪性についての鋭い追及の前に、学者たちは「我々だって再検討しているんですよ」と言い逃れを繰り返し、刑法学会として保安処分反対決議を出すことについては全く沈黙した。今後も追及闘争を続けることを確認し外に出て、総括集会を行い、本日の闘いで開始された関東共闘会議を発展させ保安処分粉砕の全国的闘いを起こすことを確認した。最後に「再検討する」という確約をとるため、会場入り口に押し掛け学会代表者と会見した。

10・12 三里塚第一次代執行粉砕闘争
 第1回「統一」公判闘争 於千葉地裁その後
公判闘争の大衆的展開に向けて
三里塚第1回強制土地収用粉砕闘争の第1回「統一」公判闘争が10月12日千葉地方裁判所で闘われた。統一被告団は統一公判を要求したが、地裁の午前部・午後部の分離という最終案を受け入れざるを得なかった。前日の被告団・弁護団合同会議では人定質問の前に被告側の意見表明を獲得することを意志一致した。
当日の午前は午前部の被告が入廷し、午後部の被告と反対同盟の農民が傍聴席に着いた。太中裁判長は被告が名札の席に着いていることで人定質問を終わらせ、被告は抗議して、次々に三里塚闘争の正当性を主張し、地裁の7月土地収用仮処分の決定を弾劾し、統一公判を要求した。午後の公判は人定質問に先立って、被告が立ち上がり意見表明し、裁判所は我々を裁けるのか、統一公判をどう考えるのかと問い詰めた。結局人定質問は行われず閉廷した。
その後裁判所内のデモを展開し、分割公判粉砕・統一公判獲得・三里塚闘争勝利の固い意志を確認した。

10・21沖縄返還協定国会批准阻止闘争 中央総決起集会 
 共同闘争機関の拡大をもって政府打倒に決起!
厳戒態勢の中、返還粉砕派 清水谷公園に一万名結集
三里塚闘争以降一層強化された弾圧攻勢は事前の大学への捜索、党派事務所への手入れの他、明大と駒大が休校措置を取り、当日朝から霞が関一帯の厳戒、検問、パトロールヘリコプターからの監視、集会場では機動隊が三重、四重に配置され、労働者・学生の所持品検査をし、集会の終わりころには電光を浴びせるヘリが登場して、隊列を照らし出す。
返還粉砕派の「10・21 72年沖縄返還粉砕・返還協定国会批准阻止・自衛隊沖縄派兵阻止中央第統一行動」は清水谷公園での総決起集会で開始された。全都全国の労働者・学生・市民が続々と結集し、公園に入りきれず道路上に座り込む部隊を含めると、総数は一万名を超える。主催の実行委員会から「沖青委の提起を受け止め、闘う諸団体へ結集を呼び掛けて、事務局は12団体で構成されるが、今後枠を広げて共同闘争の持続と発展のため結合を深めていきたい」と経過説明があり、各団体の発言に移った。
まず那覇中央反戦の訴え、沖縄反帝労働者共闘会議の檄電、3時間の職場ストライキをもって決起したゼネラル石油精製労組、東水労青婦部、富村裁判闘争連絡会の発言と富村順一氏のアピール読み上げ、沖縄青年同盟(旧沖青委<海邦>)から10月19日国会で佐藤の施政方針演説を中断させ、返還粉砕の雄叫びを上げた沖青同国会批准阻止行動隊のアピールの読み上げ、現在病床にある三里塚空港反対同盟委員長戸村一作氏からのアピール、尖閣列島の略奪を阻止する闘争委員会の発言、全国叛軍代表者会議の発言と全国叛軍連絡会議のアピールの読み上げ、入管闘神奈川連絡会議、全都・神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議の発言、横須賀米軍反戦兵士からのアピール、三里塚・沖縄を闘う70年代戦線の佐藤氏の発言、69年10-11月闘争統一裁判被告団貫徹組の発言と4-6月闘争獄中被告団のアピール、叛乱自衛隊員からのメッセージ、沖青同の発言に次いで諸党派、共産主義者労働党(プロ学同・赤色戦線200)、全学連(内城委員長)プロ統労学800,日本反帝戦線(共産同戦旗派100)、反軍国主義青年学生共闘会議(フロント260)が発言した。東京中部地区5大学共闘会議(法大、中大、日大、電気大、理科大)の発言、さらにこの日坂本町公園に4千名が結集し集会、デモを行ったべ平連の吉川事務局長から連帯の挨拶があり、最後に集会宣言、インター斉唱して9時過ぎ終了した。
赤坂見附・愛宕交差点で機動隊と激突
バリケードを構築し街頭を制圧
まず日大全共闘を主力とする千名の隊列で中部地区5大学連合が公園を出発した。プロ統派は百名の旗竿部隊を先頭に突撃隊形で赤坂見附方面の機動隊の阻止線に向けてゆっくり前進し旗竿を構えて対峙する。出撃する部隊の渦巻きデモは次第に拡大する。規制にかかろうとする機動隊に激しく投石が降りかかり、十数本の火炎瓶が投げつけられる。隊伍を乱す機動隊に旗竿部隊が突撃する。機動隊はガス銃乱射で応戦、この日新登場のピストル式ガス液銃を使う私服警官の援護で規制にかかる。部隊は果敢な十列デモ、ジグザグデモを繰り返し、9時半愛宕交差点に差し掛かって、部隊は再び旗竿を構えて対峙し、投石と火炎瓶十数本で阻止線を寸断し、街路樹を倒し、鉄柵を引き抜き抜いて路上にバリケードを築き、1時間にわたり芝公園に至る街頭を完全に制圧した。しかしガス弾を直撃する機動隊の反撃の前に芝公園に退いた部隊に公園を包囲していた機動隊が襲い掛かり、多数が負傷し逮捕された。
日比谷野音で集会―中核・第四インター系
奪還派の「10・21沖縄返還協定批准阻止・自衛隊沖縄派兵阻止・入管法国会上程阻止中央総決起集会」は全、新橋国反戦・関東叛軍・東京入管闘の主催で日比谷野音に約7000人を結集して午後7時開始された。部隊結集は中核派800名、第4インター150名、主体と変革派80名など。開会冒頭、司会から「日帝のアジア侵略粉砕に向け、総力を挙げ佐藤内閣の最後の留め金たる機動隊を殲滅し、沖縄・入管国会を粉砕しなければならない」と決意表明がされ、以下の発言も機動隊殲滅にすべて集約された。最後に演壇に立った全学連松尾委員長は「日帝の崩壊的危機を食い止めているのが機動隊の暴力的専制支配であり、機動隊を粉砕することなしに沖縄闘争の勝利はありえない。日和見的な態度をとり、われわれの闘いに敵対している革マル派、宮下三派を殲滅し日帝を打倒する。」と発言した。
集会は9時過ぎ終わり、公園内をデモ行進してから200名ほどの旗竿部隊を先頭に公園出口で機動隊と対峙し、石、爆竹、発煙筒を投げつけ、1時間近く対峙した後、旗竿部隊50名が機動隊の阻止線に突っ込み,それをきっかけに機動隊約500が公園内に突入し、学生部隊の多くが逮捕された。さらに部隊は掃除用のリヤカー、材木等でバリケードを作り対峙したが、ガス弾と放水の攻撃で機動隊が再度公園に突入し攻防は終わった。その後約100名が隊列を整え、新橋・数寄屋橋方向にデモを開始した。新橋駅付近では別動隊がべ平連とともに散発的なゲリラ戦を行い、デモは足止めされたが、12時前日本橋本石町で流れ解散した。

11・6 返還粉砕派の飛躍かけて 沖共闘結成さる
批准実力阻止の態勢を確立 於 明大駿河台
11月6日午後6時より明治大学駿河台校舎7号館において60数団体250名の闘う戦線の代表者を結集し、「72年沖縄返還粉砕!自衛隊派兵阻止!返還協定批准実力阻止!共同闘争委員会(沖共闘)」の結成集会が行われた。
沖共闘は、10・8、10・21大統一行動実行委員会及び沖縄青年同盟の呼びかけで結成され、帝国主義ブルジョアジーの72年返還、協定批准の攻撃に真っ向から対決し、沖縄人民と本土労働者人民との連帯を強化する革命的共同闘争機関である。
集会は東京反戦代表からの基調報告と沖共闘結成にいたる経過報告に続いて、沖青同より「10月19日の国会議場内決起三戦士の闘いを受け、沖縄の苦痛の現実と返還の本質を根底に据え、階級的闘いを展開しよう」という提起がなされた。この後諸団体の間で白熱した討論が行われ、結成宣言を確認し、午後10時集会を終えた。
結成宣言では、10・19の沖青同の国会内の闘いと10・21清水谷公園に1万数千人が結集し、集会を貫徹し、国会に向けて進撃した闘いの意義を強調し、「沖共闘は反戦青年委員会、反軍行動委、入管、部落解放闘争更には労働組合、地区救援会、市民組織等々すべての闘う諸組織の自治的な闘いを基礎にその連帯、共同の闘いを推進する。とりわけ沖青同を先頭とした闘う在本土沖縄出身労働者人民の闘う組織との共闘を、沖縄人民と本土労働者人民との形成さるべき共闘、連帯に関わる本質的な共闘として強化する。」としている。

11・10,14,19沖共闘、批准阻止闘争を貫徹!
沖縄返還協定批准をめぐる闘いは沖縄現地と本土を貫いて、戦闘的労働者・学生から社共まで、それぞれに熱気をはらんだ闘いとして高揚した。政府自民党は11月17日の特別委員会での強行採決と公明・民社を引き込んだ本会議審議をもって、11月24日沖縄返還協定の衆議院通過をなし切り、協定批准をめぐる闘いは一段階を画した。
沖縄人民解放闘争の議会内的・国民主義的枠付けを突破する階級的潮流の巨大な形成をかけて、戦闘的潮流内部の人民戦線左派=奪還・復帰派との6月協定調印阻止闘争での分岐を通じて形成された返還粉砕派は、今秋の闘いの中で戦闘的潮流の主流としての位置を確定し、沖青同を先頭とする沖縄人民との連帯・結合、そして諸戦線からの大衆的結集という成果を沖共闘の結成として結実させ、批准阻止闘争を闘い抜いた。

【10日】批准阻止へ突破口開く―沖縄ゼネスト連帯
11月10日返還協定批准阻止の熱い怒りを燃え上がらせ、沖縄は全闘ゼネストに突入した。前日より48時間ストに決起した自治労をはじめ、全軍労による嘉手納基地第二ゲート完全ピケ封鎖を中軸に、10万余が続々とストライキに突入し、米軍基地・琉球政府の機能を完全にマヒさせた。
午後から那覇市の与儀公園で、約6万人の労働者・学生・人民が結集し、協定粉砕・批准阻止の総決起集会が開かれた。その後、浦添市の米民政府まで軍用道路1号線を経由してのデモに出発した。戦闘的労働者・学生は各所で機動隊と激突し白兵戦が展開された。この闘いで交番、発電所等が燃え、機動隊員一名が死亡した。復帰協幹部は午後6時半デモ中止・解散命令を出したが、深夜まで闘いは続けられ軍用1号道路は占拠された。
明治公園では“沖縄返還協定批准阻止、ゼネスト連帯、72年返還粉砕、自衛隊派兵阻止中央総決起集会”が午後6時半過ぎ、5千名の労働者・学生・市民を結集して開かれた。
まず救援連絡会議の水戸氏は本集会の始まる前に機動隊が公園内に乱入し、各隊列に襲い掛かりテロ、身体検査等の弾圧を行ったことを抗議し、一方では刑法改悪に示される法体系の再編として権力の攻撃が進行しており、完黙の貫徹をもって対決しなければならないと述べた。次に主催団体の沖共闘の結成経過を東京反戦連絡会議の浜口氏が報告し、「沖青同を先頭とする闘う在本土沖縄出身労働者人民の闘う諸組織との共闘を、沖縄人民と本土労働者人民との形成されるべき本質的な共闘として強化する」という共同闘争機関としての
性格を明確にした。沖縄青年同盟は「返還過程での米帝、日帝の攻撃は沖縄人民にだけ向けられたものではなく、アジア人民の革命闘争を分断し、日本労働者階級を帝国主義支配秩序の中に組み込むものである。われわれは国民主義、民族主義を乗り越え、国際主義的な返還粉砕、批准阻止闘争に決起する」と決意を表明した。
更に全国叛軍連絡会議からのアピール、三里塚反対同盟からのメッセージが伝えられ、東京入管連絡会議、69年10-11月闘争統一被告団貫徹組、神田地区破防法裁判をさえる会、尖閣列島略奪を阻止する闘争委、富村裁判闘争連絡会議の挨拶があり、11・9の総評青対部集会への介入闘争を闘った東水労研、自治体労研の決意表明、全国一般青年労組の発言、自衛隊立川基地進駐阻止共闘会議のアピール、狭山差別裁判糾弾共闘から慶応大部落研の発言があった。続いて党派発言は全学連(プロ党派)、日本反帝戦線(戦旗派)、反軍国主義共闘(フロント)、赤色戦線(共労党)が行い午後8時45分で集会を終わり、午後8時50分デモに出発した。鉄パイプと火焔瓶で武装したプロ統突撃隊60名と旗竿部隊60名が公園を包囲する機動隊と対峙し、同時に仙寿院交差点には公園の樹木、材木、車等でバリケードが構築され、火が放たれた。部隊がじりじりと前進し火炎瓶を投げ、一時後退した機動隊は放水車を前面に着色液を放水し催涙弾を乱射しながら公園に乱入。9時過ぎ神宮球場前で対峙の突撃隊は機動隊の壁に激突。火炎瓶数十本がさく裂し、放水車1台が炎上。9時10分指揮系統を立て直した機動隊が規制に入る。午後10時半デモは日比谷公園に到着した。
この日代々木公園では社会党、総評が7万人を集め、日比谷公園では革マル派、芝公園では中核派が集会、デモを行った。中核派全学連松尾真委員長が芝公園での集会後、破防法第40条の3の疑いで逮捕された。

【14日】事前弾圧はねのけ、19へ向け更に進撃-沖共闘―
「11・14 72年沖縄返還粉砕・派兵阻止・批准実力阻止中央総決起集会」が沖共闘の主催で午後3時から清水谷公園に2500名を結集して開催された。党派の結集内訳は、プロ党派200名、共産同戦旗派100名、フロント200名、共労党100名など。開会前、べ平連など市民団体の十月市民行動2500名が日比谷野音に出発した。
三里塚反対同盟北原事務局長、日本原反戦、富村裁判闘争支援連絡会議、十月市民行動から発言があり、沖共闘義務局からは「11・10沖縄全島を揺るがすゼネストに、われわれは明治公園からの武装進撃を貫徹することで応えた。19日総力を挙げて国会―政府中枢に向け10日を上回る進撃を克ち取ろう。」と基調報告があった。
全関東叛軍連絡会議、全都・神奈川差別裁判糾弾共闘会議、入管体制粉砕東京連絡会議、神田地区破防法裁判闘争を支える会、全国金属日産車体支部、全水道労研、沖労共、労活評、沖青同の発言が続いた。
党派発言は社青同東京地本、共労党、全都反軍国主義共闘が戦闘宣言を発した。最後に登場した日本反帝戦線は「沖共闘内部にも自決権用語を掲げる民族主義、一国主義的傾向が存在する」とフロント、共労党を批判し、激しいヤジの応酬となったが、内ゲバには至らず、5時に集会を終え、日比谷公園までデモを行った。
中核派 渋谷暴動 ゲリラ戦を展開
中核派が呼号する「11・14渋谷暴動」は集会もデモも禁止され、機動隊による前日からの戒厳令下多くの群衆を渋谷一帯に集め部分的,散発的ゲリラ戦を展開したが、圧倒的な警備体制の前に総体としては不発に終わらざるを得なかった。午後3時半東急本店前で機動隊の幌付きトラックが背広ゲリラの火炎瓶で炎上。神泉駅方面から出撃した部隊200名が到着し東急前で数十本の火炎瓶がさく裂、群衆に紛れて機動隊と一進一退を繰り返し、4時過ぎ渋谷駅前広場に移動した群衆の中から散発的に投石や爆竹。5時渋谷駅南口付近にバリケードを築いて機動隊と対峙。6時前、ガス弾の乱射と強圧的な規制で群衆は次第に解散させられ、6時には渋谷一帯が無人化した。神山派出所付近で火炎瓶の攻撃で火傷を負った機動隊員が翌15日死亡した。

【19日】沖共闘実力部隊 山手通り道玄坂を武装進撃
バリケードを構築し制圧
11・19闘争を政府中枢へ向けた文字通りの総力戦として闘い抜かんとする全学連(プロ統派系400名)、反軍国主義共闘(フロント300名)、赤色戦線(共労党100名)中心とした実力部隊1500名は午後5時過ぎ、駒場の東大教養学部正門前広場に結集し、沖共闘主催の「72年沖縄返還粉砕・自衛隊派兵阻止・批准実力阻止沖共闘中央総決起集会」を開催した。沖縄反帝労働者会議、新潟県反戦、東京入管連絡会議、全関東叛軍連絡会議、尖闘委などの諸戦線、バリケードストをもって決起した明大法学部学友会、関西大返還粉砕共闘会議報告・決意表明に続いて、全学連、全国反軍国主義共闘、次いで日本反帝戦線(戦旗派10名)が決意表明したが、反帝戦線が東大駒場からの実力闘争に異を唱え主力部隊を礫川公園に結集させたことに批判とヤジが集中した。共労党の発を最後に6時で集会を終え、鉄パイプ、火炎瓶で完全武装し構内をデモしながら、立て看や建築資材を裏門付近に蓄積した。6時半反軍国主義共闘、全学連の部隊1000が山手通りを渋谷方面へ出撃した。道玄坂上-神泉交差点の機動隊300は百メートルほど後退、沖共闘部隊は火炎瓶数百本で追撃、別の全学連を中心とする部隊は富ヶ谷交差点に構内から持ち出した資材を積み上げ車2台を転倒炎上させ強固なバリケードを構築する。7時神泉―富ヶ谷交差点の三叉路は三基のバリケードで完全にされ、東大構内から各部隊が交互に出撃しては火炎瓶をさく裂させ、機動隊を寄せ付けない。しかし7時を過ぎるや機動隊は機甲部隊の増援を得て、催涙弾の水平打ちと放水で三方向から対峙戦を狭め、7時半総勢2000の機動隊が駒場キャンパスに乱入し三つの寮になだれ込み、無差別逮捕で100名が検挙された。
沖共闘2500 礫川公園からも決起
一方、東大駒場からの武装進撃に呼応して、礫川公園では沖共闘主催の「機動隊撃破-都心制圧中央集会」が約2500名の労働者・学生を結集して開催された。主な部隊は、反戦青年委(プロ統派)300名、反帝戦線300名、沖青同40名全都神奈川狭山差別裁判共闘会議20名、立教大沖闘連100名、中大附高沖闘委50名、沖労共50名、三里塚・沖縄を闘う70年代戦線100名、文京地区連200名。これらの団体に加えて、反軍国主義共闘、共労党、沖縄闘争労働者会議、労働者活動評議会、全東海沖共闘、群馬沖共闘、和泉地区沖共闘(準)、神田地区破防法裁判闘争を支える会、全関東叛軍連絡会議、沖縄反帝労働者共闘会議などが発言し、最後に社青同東京地評から「職場・工場・学園からの反乱をもって政府中枢へ武装進撃し、国会、首相官邸占拠を克ち取り、自民党政府を打倒し、返還京手緒批准強行を粉砕しよう」と発言があり、集会は9時過ぎに終了し、芝公園までのデモコースを警察は日比谷公園の混乱を理由に明治公園に変更し、11時過ぎ明治公園に到着した。
中核派 日比谷・銀座で衝突 松本楼炎上
中核派700名、第4インター200名などを中心とする「11・19『沖縄―入管』国会粉砕・返還協定批准阻止中央総決起集会」は午後6時、日比谷野音にノンヘル大衆1万人を結集し、「集会は許可・デモは禁止」攻撃がかけられ、機動隊が公園周囲を完全包囲する中開催された。発言は、南部入管闘、関東叛軍、神奈川県反戦、三里塚空港反対同盟戸村一作氏、学生インター、全学連(中核派系)などから「我々は11・10の沖縄全島ゼネストに呼応して渋谷大暴動に決起し勝利した。本日再度、銀座―霞が関暴動に断固決起する」との基調でなされた。
7時半閉会後、竹竿・丸太・火炎瓶などで武装した1000名の部隊は公園内をデモンストレーションした後、日比谷口から機動隊の阻止線に突撃し、公園入口にバリケードを築いて対峙した。同時刻、有楽町―銀座周辺でも中核派を中心に群衆を巻き込んでゲリラ戦を展開した。
8時半「明治よりこのかた貴族、ブルジョアジー、政治家、官僚、有閑人士どもの社交場であった松本楼」が炎上し、それと同時に機動隊は催涙弾と放水攻撃でバリケードを破壊して公園内に乱入し全く無差別に1600名を逮捕した。

【20日】沖共闘 於・礫川公園
19闘争方針をめぐり部分的な党派闘争
中核派が集会・デモを禁止され登場できず、革マル派は弾圧に恐怖し集会を取りやめるという状況下、沖共闘のみが、礫川公園に1000名を超える結集をもって中央総決起集会を開催した。
午後7時まず沖縄反帝労共が発言し、その発言の途中に全学連(プロ統派)・反帝学評の部隊400名が到着し日本反帝戦線(戦旗派150名)と反軍国主義共闘(フロント100名)の間に入って座り込んだ。すぐさま11・19闘争の戦術方針をめぐってプロ統派とブントの間で激烈な論争が始まり、殴り合いになり、フロントもプロ統派を支える隊形でブントに向かい、ブントは公園下に押し出された。公園の上下で対峙が続いたが機動隊が規制に入り、集会は再開されぬまま8時半過ぎデモが出発し、10時半日比谷公園に到着した各党派は各個に総括集会を開いたが、棒きれなどで武装したブントがフロントを急襲し、無防備のフロントは散り散りになり多数が負傷した。

【21日】沖共闘 於・大塚公園
「11・21沖縄共闘緊急総決起集会」は大塚公園にプロ統は労学500名、ブント戦旗派150名、フロント150名、共労党100名など1500名を結集し、午後6時過ぎから開始された。
沖共闘事務局から「現在の沖共闘内部の問題を反省しつつ、再度今後の闘争方針を提示して行きたい。連合協議体的結合のもと、諸戦線・諸組織の積極的な質を生かしつつ、それを事務局という形態で保証し、72年返還粉砕をともに闘い抜いていく。24日の強行採決を沖共闘の総決起で粉砕しよう。アピールした。反軍国主義青学共闘はブントの20日の日比谷公園での武装襲撃を糾弾し、自己批判要求を宣言した。

【24日】返還協定衆院通過に炎の反撃
衆院本会議で返還協定が可決された11月24日、沖共闘は「返還協定国会批准実力阻止緊急総決起集会」を常盤公園で開いた。沖青同は「沖縄返還は沖縄人民の生活破壊、反革命的軍事基地化しかもたらさない。我々は国会の暴挙許さない。全人民が帝国主義と対決する闘いを構築せよ」と訴えた。
富村裁判闘争連絡会議からの発言と富村氏のメッセージ、全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議、東京入管連、札幌地区反軍、熊本地区沖縄連帯行動委員会、自治労新潟県青年母千葉県労働者会議の発言のあと党派発言として、全国反軍国主義青学共闘、日本反帝戦線、共労党、全学連が発言し、日比谷公園までのデモに移った。
これに呼応した武装部隊が国会周辺でゲリラ的に鉄パイプ、火炎瓶による闘いを貫徹した。

6月のストライキ解除後は一橋の学内での大衆的な活動や共闘はなく、私は三里塚闘争と東大闘争裁判の逮捕を挟んで、学内にほとんど顔を出さず、新聞部室に行くか、全都の反帝学評からの指令で集会や闘争に参加していた。10-11月の闘争に向けて学生大会を行うこともなく、10・21の礫川公園、11・19の東大駒場の闘いには参加した。私がオルグしたわけではないが、しばらく闘争を離れていた3年生の友人が何人か闘争に参加し、逮捕された者もあり、その家族に説明するため友人の家を訪ねたりした。
全体の状況としては沖縄闘争の奪還か返還粉砕かの論争で全国全共闘=八派共闘が壊れ沖共闘と中核派を中心とする奪還派に分裂し、新左翼の勢力、影響力は衰え、学園から出撃し街頭闘争で人民大衆を巻き込んで秋期政治決戦で政府中枢を脅かすという69年70年71年と3年にわたり繰り返された戦略は警察権力の壁に阻まれて、政府の中枢を脅かすことはできず、人民大衆からも孤立していく結果に終わった。学生の間にはやれることはやった、あとは吉本隆明を気取って生活者に戻って、同棲生活、就職活動、学問研究などに転じようという気分も蔓延し、一方でセクトの指導的な立場の者たちはマルクス・レーニン主義の悪しき組織論に憑りつかれ、党―軍―統一戦線の呪縛から前衛党の建設、軍事の組織化、諸階級との統一戦線などに拘泥し、生命の大切さや人間の尊厳を忘れ、血で血を洗う内ゲバの愚行に陥り、自滅の道を突き進んだ。

12・1 留置人規則改悪を粉砕せよ!
三多摩の各警察署に差し入れを貫徹
批准阻止決戦の只中で警察権力は留置人規則の改悪を決定し、12月1日から強行しようとした。規則改悪の骨子は、第1に留置人への外部からの糧食の差し入れを警察署指定の業者を通じたもののみに限定することであり、第2に鎮声衣、防声具という戒具の留置任意対する止揚を許したことである。
三多摩地区の各救援会は規則改悪の発表後ただちに反撃の態勢を固め、留置人規則改悪粉砕実行委員会を作り、12月1日以降三多摩の各警察署に対して連日差し入れ禁止粉砕闘争を闘い抜いた。午前中は一斉に各警察署に食料の差し入れを要求し、規則改悪の意図を追求した。救援会の一大攻勢に慌てた各警察署は差し入れを受け入れざるを得なかった。救援会のメンバー約40人は三鷹警察署長に会見を申し入れ、2時間以上にわたり抗議闘争を展開した。2日以降も、連日各警察署に攻勢をかけ、ほぼ完全に食料差し入れを貫徹した。
小平救援会でも小平警察署に連日差し入れを貫徹し、この闘いをテコに会の再建を成し遂げた。一橋大全共闘もこの過程に主体的にかかわり闘い抜いた。官憲・勝共連合一体となった朝鮮大学校に対する暴力的弾圧と、デマ宣伝など反革命的地域管理が先行的に進められている小平地区において、大衆的な地区運動の推進軸として、あらゆるファッショ的な弾圧に対して闘う救援会の構築は急務である。
(続く)

【お知らせ その1】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。

●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は2026年4月10日(月)に更新予定です。


今回のブログは前回に引き続き、『続・全共闘白書』編纂委員会の個人史インタビュープロジェクトにご協力いただいた金杉和夫氏(1969年一橋大学入学)からの投稿である。
1969年から1974年までの『一橋新聞』の記事をベースに、金杉氏他の証言を交えて、一橋大学の闘争と全国的な政治闘争について書かれた記録である。一橋大学の闘争はほとんど知られていない「知られざる学園闘争」なので、貴重な記録である。今までこのブログで紹介してきた「全国学園闘争」シリーズの一つとしてお読みいただきたい。
なお、原稿の分量が多いため、何回かに分けてブログに掲載する。今回は1970年である。

1
(『一橋新聞』1970.9.16)
『一橋新聞』で読む1969年から1974年~一橋闘争・全国全共闘・安保沖縄闘争・三里塚闘争・立川闘争を振り返る
日本各地で全共闘によって展開された全国学園闘争の一環として一橋大学で闘われた一橋闘争と全国全共闘・安保沖縄闘争・三里塚闘争・立川闘争など諸闘争の経過を『一橋新聞』の1969年1月1日第845号から1974年11月1日第944号の100号分の記事と論説から抜粋・要約して再現し年表形式の経過記録にまとめた。『一橋新聞』は学生新聞で部員はほとんど全共闘の支持者であるから、その主張には偏りがあり、闘争の参加人数や成果を誇張して表現している傾向はあるが、現場に居て取材した者が記事を書くというのが原則なので、その内容は大体は事実に即していると思う。学内の出来事の記事はできるだけ採用し、学外の記事は学内の者が組織的に参加した出来事を中心に採用した。
加えて、1968年入学のO氏と1970年入学のM氏からいくつか証言を頂いたので、経過を追って〈Oの証言〉として「太字」で挿入した。
併せて、1969年入学の金杉個人の当時の体験や感想をできるだけ率直に思い起こして経過を追って「斜字体」で挿入した。経過記録と読み合せると当時の状況が実感してもらえると思う。
当時の一橋大学で、前期とは1,2年生のための教養課程のことで小平キャンパスで行われていた。後期は3、4年生の専門課程で国立キャンパスで行われていた。前期は現在は国立キャンパスの東校舎に移転している。

1970年
70年安保・沖縄・三里塚闘争へ
1月18日午後1時より水道橋礫川公園に8千人の学生・労働者・市民を結集して「東大闘争1周年労・農・学・市民集会」が開かれた。
中央集会に先立って午前10時に国立兼松講堂に結集し百数十名の隊列で国立駅までジグザグデモを行い中央集会に向かった。
 全国全共闘連合の集会は全国学園闘争と安保決戦の総括、70年安保沖縄闘争への決意表明がなされた後、東大本郷に向けてデモを展開した。全国全共闘連合への敵対を強める革マル派は日比谷野音で別個に集会を開き分裂集会となった。
2月4日 「2・4沖縄全軍労連帯・日米共同声明粉砕・沖縄闘争勝利、労学市民総決起集会」が全国全共闘連合と全国各県反戦代表者会議の共催で午後6時半から明治公園で開かれた。これに向けて、前期闘争委員会は午後3時から小平中庭で前期決起集会を開いた。全闘委代表が「11月佐藤訪米による日米共同声明は政府の一方的な沖縄処理であり、アジア反革命、日帝のアジア進出を企てるものであった。沖縄では全軍労が米軍、右翼による武装弾圧に屈せず、また、幹部の日和見を打破して二波にわたるストを貫徹した。特に第二波の120時間の長期ストは下部労働者が中心となり団結の固さと組織性に支えられて、単なる首切り反対闘争から基地撤去・安保粉砕に発展した。一方我々は昨年4・28以来の街頭闘争では限界を露呈し、10・11月決戦では佐藤訪米を阻止できず、職場ではレッド・パージが行われ、大学の闘いは暴力的に圧殺されている。こうした情況を4・6月決戦を意識しつつ、いかに突破するか、その方向性を模索しなければならない。政治的勝利は軍事的勝利を媒介にせねば勝ち取られないのであり、非妥協的闘いの内容が必要である。安保粉砕、沖縄闘争勝利、帝国主義政府打倒権力闘争へのエネルギーを結集し、全軍労の闘いと連帯し、さらなる反逆を積み重ね、70年代階級闘争を開始しなければならない。」と述べた。この後反帝学評、反帝学生戦線の挨拶があり国立に向かった。4時過ぎから兼松講堂前で全学総決起集会を開いた。全闘委、院生共闘に国立救援会も加わり、数十名が参加した。全闘委代表に続いて三里塚現地行動隊に加わり闘っている学友、反帝学評、院生共闘、反戦会議、反帝学生戦線の代表が挨拶し5時ごろ集会を終え、国立駅までデモ行進し中央会場に向かった。明治公園には労働者、学生、市民などおよそ1万人が結集した。反戦青年委員会代表の後、沖縄県反戦青年委員会を代表して全軍労の反戦労働者が決意を述べ万雷の拍手を浴びた。続いて68年10・21新宿闘争被告団、新宿ベ平連、東京教育大、法政大、神奈川大、東京女子大,芝浦工大、明治大などの全共闘代表から全軍労の闘いを受け継ぎ4-6月安保決戦に向けて闘うと決意表明が行われ集会を終え、東京駅八重洲口までデモを行い、15人が逮捕された。

前期執行委員長選挙
1月28日から30日 前期執行委員長選挙が行われた。開票の結果は、民青系I君338票、全闘委系K君332票、旧クラス連合系F君259票、無効?白票85票、総計1014票となり、選管の原簿総数は1007票で投票総数と7票差で上位2名の6票差は逆転の可能性があるので、2人の間で決戦投票を行うことになった。
2月4日5日の決選投票の結果、I君517票、K君470票、無効白票125票、総計1112票、原簿総数1115票で、I君の当選となった。
一橋新聞2月1日号 何の敗北?!委員長選挙を終えて
(K君を支援した〈哲〉による総括)から抜粋
「K君は何故立候補したか?」(全学連行動委)なるビラには次のように書かれてある。「諸君!わかった!ゲバルトは恐いが「闘う共同性」を有する者にとっては、「死を賭けて」までも「闘う」ことができるのだ。要するに、一皮むけばこういうことになるのだ。「社会性」とは街頭ゲリラであり、「闘う共同性」とは機動隊との衝突に恐怖する者が寄せ集まり、慰め合い、勇気づけ合うものだ」と。民青諸君には難しすぎるかもしれないが、われわれの運動がなぜ社会性なり共同性を問題にしなければならないかと言えば、ブルジョワジーも彼らなりの「社会性」「共同性」を支配原理として持っているのであり、それはわれわれにとっては幻想の疎外態=桎梏でしかなく、その突破をわれわれの社会性、共同性として推し進めていくことなしにはわれわれ自身の解放はありえない。革命はこの疎外されたブルジョア共同体を打倒すると同時に我々の共同体を創り出すのだ。
11・24の前期スト解除以降どこかに消え去ったかにみえる大衆が選挙において、470という数で表現された。そうした大衆の普遍的なエネルギーをどこまで汲みつくしうるかが問われている。

三里塚 決戦期に突入
1月14日 三里塚闘争支援総決起集会が兼松講堂前で開催された。
2月18日 正午から小平校舎中庭で全闘委主催の三里塚強制測量粉砕闘争総決起集会が開かれた。20名前後が参加し、社学同代表が「三里塚人民抑圧空港は、本土における対アジア反革命侵略の前線基地を意図するものである」と位置づけ、闘う決意表明を行い、反帝学評と反帝学生戦線の代表が連帯のあいさつを行った。そのあと参加者は三里塚に向かい、19日からの現地での測量阻止、団結小屋防衛の闘いに参加した。

この期間一橋新聞には記載がないが、金杉の手帳には「2月23日学生大会」「4月7日第1合併、全闘委政治集会」「4月18日午後2時401(国立新)総決起」と記載がある。
また3月31日には日本赤軍によるよど号ハイジャック事件が起き、世の注目を集めたが一橋新聞にこの事件に関する記事はない。

4・19~28へ向け国立地区共闘結成
4月19日 安保粉砕沖縄闘争勝利労学総決起集会に向け、午前10時から国立地区総決起集会が、一橋大全闘委、院生共闘、アジア史研、国立ベ平連、糾弾する会、入管体制粉砕実行委員会、国立反戦、国立救援会、国高、立高全共闘、桐朋全学行動戦線、大成高全共闘、総計約70名を結集し小雨の中圧倒的に勝ち取られた。司会者(アジア史研)から「日米共同声明以降いかなる情勢が進行しているのかー日米安保からアジア安保への広がりをもって日本帝国主義が飛躍せんとし、同時に朝鮮、東南アジア、沖縄においてこうした帝国主義に対する闘いが沸き起こっている。それに対し帝国主義国内に存在する我々はいかなる闘いをしなければならないのか」と問いかけがあり、続いて各参加団体から決意表明が行われた。最初に一橋大全闘委は、現在アジア・太平洋圏の規模で進行する全社会的規模での帝国主義的再編は全国のプロレタリア人民の闘いによって自らの命が危うくなると見た帝国主義ブルジョワジーが人民の一層の搾取と抑圧の強化をもって延命を図ろうとするものであり、こうした帝国主義的ブルジョワジーに対して我々は断固とした闘いを挑まなければならないと述べた。集会後国立駅までデモ行進を行い、午後1時から明治公園での全国反戦・全国全共闘主催の中央集会に結集した。3000名余が参加し各党派から4-6月安保沖縄闘争、出入国管理法案粉砕闘争方針、70年代階級闘争の戦略を主調に発言がなされた。

4・28安保・沖縄闘争
6月安保決戦の端緒を切り拓くべく位置づけられていた4・28沖縄闘争は部分的な突出を見せながらも、全体としてはカンパニア闘争のまま終結せざるを得なかった。それは単に、闘争形態が地味であったということにとどまらない。昨秋安保攻防戦から6月に至る政治過程の展開が、闘争主体の再編成を進行させつつあるが、いまだにそれは定着するに至っておらず、政治状況の地滑り的進行を許している。かかる限界性の突破口が、下からのソヴィエト運動に基づく武装闘争の方向にしか見出しえないという一般的確認と、現実の運動との乖離を止揚する道は何か―これが全戦線にわたる現下の切実な課題である。主体におけるこうした現状がいま、党派闘争―党派間統一戦線の再編を必然化しているのであり、全国全共闘と革マル派との対立はこういった文脈において問題とされねばならないであろう。

国立地区総決起集会
70年安保粉砕・沖縄闘争勝利4・28国立地区総決起集会は28日午後3時半から兼松講堂前で、全学闘争委員会・院生共闘。国立反戦、国立救援会・入管体制粉砕実行委に結集した約100名の労働者・学生・市民によって勝ち取られた。これに先立ち全学闘争委員会は午後2時から独自の集会を持ち、反帝学戦、旧スト実委員長から連帯の挨拶を受け約40名で学内デモを行い、さらに社学同、反帝学評より連帯の挨拶を受け総決起集会に参加した。これとは別に、桐朋全学行動戦線・国立高校全共闘の高校生約30名は国立キャンパスに結集したのち都立大へ向かった。総決起集会は助手共闘の司会で始まり、現在的な地区共闘の到達点について報告を受けたのち、入管体制粉砕実行委員会、院生共闘の連帯の挨拶と決意表明を受け国立救援会から諸注意を受けた。最後に立った全闘委代表は「本日の闘争を我々自身の結合の強さを突き出すものとして闘い抜き、安保粉砕・沖縄闘争勝利全学無期限バリストへ向けた、一橋秩序に全面的に敵対する公然たる闘争の第一歩として闘い抜く」と決意表明し学内デモ、市内デモに移り、国立駅前で約30名の機動隊が襲い掛かるのを突破して、駅構内で集会を貫徹し明治公園の全国全共闘統一集会に向かった。

4・28沖縄闘争勝利・安保粉砕大統一集会
全国反戦・全国全共闘・六月行動委の主催で午後5時半から、明治公園に3万5千名の労働者・学生・市民を結集して開催された。
大統一集会に先立ち、3時半から全国全共闘統一集会が約1万人の結集で開催された。内訳は、中核派1200、反帝学評650、反帝戦線(社学同)300、学生解放戦線300、フロント200、プロ学同150、学生インター100、共学戦(前衛派)100、安保共闘(怒涛派)60、プロ軍50、共学同40、赤軍派20などのほか各大学全共闘、ベ平連約6000.集会は東大全闘連の鈴木君の司会で以下の8大学の全共闘から各党派を代表する形で発言がなされた。明治学院大全共闘(反帝戦線―社学同)、明大全学闘争委連合(ML派)、法大全共闘(中核派)、立教大全共闘(反帝学生戦線―フロント)、法大社共闘(反帝学生戦線-プロ学同)、教育大全学行動戦線(共学同)、千葉工大全闘委(学生インター)、早大理工スト実(反帝学評)。
引き続き労働者・学生・市民3万5千人が結集して行われた大統一集会では、冒頭に南ベトナム臨時革命政府のメッセージが読み上げられ、次いで6月行動委、全国反戦、全国全共闘、沖縄全軍労・県反戦、三里塚反対同盟の5代表から発言がなされた。一方2時から清水谷公園で集会を開いていた革マル派約2千名が6時すぎ明治公園の統一集会に介入すべく公園入口に接近したが、中核派・反帝学評の部隊が竹竿で阻止戦を張り、革マル派は機動隊の規制により国立競技場側に押し付けられた。統一集会は6時50分に終了し、デモに出発した。青山通りでジグザグデモ、フランスデモを行い、青山1丁目で機動隊の規制を受けたが、赤坂見附付近で反帝学評とML派の部隊は再三国会突入を試みた。機動隊の弾圧で約30名の逮捕者と多数の負傷者を出した。デモ隊は9時ごろ日比谷公園に到着したが、反帝学評とML派は公園内から国会、首相官邸に向けて機動隊の包囲網の突破を試みたが、多数の逮捕者と負傷者を出した。デモ隊が出発した後の明治公園では革マル派が八派に対する弾劾集会を開き、さらに日比谷公園に向かおうとしたが機動隊に規制されデモコースを変更され清水谷公園に戻された。

4・30入学式粉砕闘争
4月30日午前10時より、兼松講堂において45年度入学式が行われたが、全学闘争委員会約30名は午前9時から講堂前で集会を貫徹し入学式粉砕闘争を闘い抜いた。
一橋闘争の一定の後退とその後のテルミドール的反動の下での入学式が、一橋秩序への吸収の一環として行われるセレモニーであり、教育の帝国主義的改編の一環を担うものであることを見据え、新入生に粉砕闘争への決起を呼びかけた。10時過ぎには三多摩反帝学評連合の約20名の学友の連帯を受け、入学式闘争を4・28闘争報告集会、6月安保沖縄闘争勝利総決起集会として貫徹することを確認し、学内デモを敢行した。さらに国立駅まで市内デモを貫徹した。

5・15愛知ジャカルタ訪問現地羽田阻止闘争
5・14前期学生大会 5・15闘争実行委結成
5・15愛知ジャカルタ訪問阻止に向け、全闘委は当日1日ストで現地阻止闘争に決起する方針で前期で200名の学生大会開催要求署名を集め、11日に執行委員長に提出したが、執行部は開催予定日の1週間前までに署名提出を行わなければならないと規約を盾にこの要求を拒否した。全闘委はこれを闘争に対する自主規制、圧殺であると批判し、独自に学生大会開催を実現すべくクラス討論など情宣・組織化を開始した。反安保学生会議(社青同協会派)も全闘委の開催要求の支持を表明した。14日講堂に約250名の学友が結集し、全闘委は方針提起を行い6月安保決戦の一環たる愛知訪ジャカルタ阻止闘争の位置づけ、インドシナ情勢などを明らかにして決起を訴えた。この間執行部はマイクで規約違反、無効と喚きたて集会破壊を続けた。集会は続行したが結集者が定足数の300人に足りず、学生集会となり、5・15闘争実行委員会の結成を宣言し、集会を終了し、全闘委は翌早朝の現地阻止闘争に向け泊まり込み体制に入った。

5・15現地羽田阻止闘争
全国全共闘諸党派の1800人は午前6時半、ガス橋公園に結集した。内訳は反帝学評・大田反戦(青ヘル)400、中核派350、反帝戦線―各大学社学同300、ML派220、フロント200、学生インター50、プロ学同40、共学戦30、共学同20など。米帝国主義のカンボジアへの反革命侵攻と、その共同推進体制を目指す、日本帝国主義を盟主としたアジア諸国の、意思一致の場であるジャカルタ反革命会議粉砕に向けた闘争としてこの日の闘争を位置づけ各派の安保・沖縄闘争への方針提起を行う形で発言がなされた。
革マル派約900はガス橋から1キロ離れた多摩川べりの公園で集会を開き9時ごろデモに出発した。8時ごろから全国全共闘の部隊はデモに移り、六郷橋を経て萩中公園に到着した。公園では反帝学評、フロントとML派の一部がスクラムを強固に打ち固めて、ジェラルミンの盾をかざして規制する機動隊の壁に再三再四突撃を繰り返した。解散後、京浜急行糀谷駅と京浜蒲田駅で反帝学評と革マル派が衝突し、線路沿いにデモで京浜蒲田駅に向かった反帝学評の部隊が機動隊に阻止・包囲され70名前後が逮捕された。

5・22学生大会 民青執行部の新入生思想調査を糾弾す!
5月22日前期執行委員会の提起による臨時学生大会が小平講堂で開催された。執行委員会の主旨は「カンボジアへの米軍の侵略に抗議し6月23日安保自動延長の1か月前5月23日に抗議ストを勝ち取ろう」というものであったが、結集した学生の圧倒的な声が、「思想調査」問題に集中したため、カンボジアや安保のことは問題にならず、執行委員会による思想調査問題のみに討論が終始して流会となった。執行委、8クラス、6クラス、1年のTクラスから議案が提出され、クラスから出された執行部による思想調査に関する議案を先に討議することが決定された。思想調査問題とは、今年度の新入生に対して執行部が行ったアンケートが、次の点において犯罪的であることを全学闘争委員会が暴露したものある。第1に内容が個人の思想信条にかかわるものであること、第2に記名入りであること、第3にクラス担当教官の手を通した調査であったことである。全闘委は5月11日に愛知訪ジャカルタ阻止闘争のための学生大会開催要求の署名を提出すため自治会室を訪れ、問題のアンケートを発見したのだった。アンケートは民青系全学連や全共闘諸派の評価を記名入りで新入生に求めていた。配布と回収は大学当局、担当教官に任せていたのだ。
学生大会はクラス決議を出した8クラス、6クラス、Tクラスの学友と執行委員会の論争のうちに進行し、徐々に退場する学友が増えて定足数を欠き、学生集会となり、前期自治会執行委員会に①思想調査を行ったことを自己批判せよ②総辞職せよと求める6クラス提案決議を可決した。

5・31立川基地闘争
全国一斉基地撤去闘争の一環として闘われた立川基地撤去―自衛隊移管阻止闘争のため、砂川の反戦塹壕わきの広場に結集した労働者学生市民約3千人は、突風に舞う砂塵の中で集会を持ち立川駅までのデモを貫徹した。一橋大全闘委はこの闘いを6月闘争への突破口として国立地区共闘で戦い抜いた。今や常時100を超える労学市民の結集を勝ちとれるようになった国立地区共闘のさらなる前進を成し遂げよう。

70年安保闘争の年になって、全闘委は国立地区の労働者、市民、高校生、大学院生などとの共闘を重視して活動を再開したようだ。私は前期の学園祭である小平祭の実行委員長を任されて、1年生の委員を集めて八王子の大学セミナーハウスで合宿をしたり、「破産せる大学祭を更なる破産へと追い込め」「サークル活動の変革を軸に大学幻想共同体の止揚を」というスローガンの基本方針(一橋新聞1970年5月1日号掲載)を立てて、連続講演会、当日の小川プロの映画全作品の上映会を企画したり忙しく、地区共闘の集会には参加した覚えがない。前期自治会執行部の新入生に対する思想調査の弾劾には熱心に取り組んで、関心の高い新入生たちと知り合うことができた。

小平祭実行委員会企画連続講演会
5月9日 安藤紀典氏(東大教育系大学院)「日本帝国主義の現段階と70年代教育再編」
5月16日滝口弘人氏(前社青同解放派議長)「世界史における6月安保決戦の位置」
5月23日新島淳両氏(早大教授)「アジア革命と日本革命」
5月30日新崎盛暉氏(沖縄問題研究会)「沖縄問題を考える視点」
6月6日神津陽氏(共産同三多摩地区委員会)「70年代と新左翼」
毎週土曜日午後1時から開催された。

安保粉砕・政府打倒の6・3~6・30長期政治スト
6・2前期学生大会で可決
6月2日 全学闘争委員会が提起し開催された前期学生大会で同委員会の提案した「安保粉砕・政府打倒の6月1か月政治ストライキ」が223対70対75の圧倒的多数の指示で可決された。決議文は次の通り(要旨)。1.安保粉砕!沖縄闘争勝利!政府打倒!帝国主義的社会再編粉砕!のスローガンの下、6月安保決戦に向け、6月3日から30日までの前期ストライキを勝ちとる。2.2日スト実準備委を結成し、3日午前クラス討論を行い6月闘争をいかに闘うか討論しスト実クラス代表を1名以上派遣する。午後6月ゼネストに向けて総決起集会を行いスト実結成に関する討論を行う。スト中は自治会執行委のすべての権限をスト実に移譲する。3.スト実の財政は自治会費から出す。4.小平地区における反安保共同行動を、労働者・学生・高校生・市民の結合=団結として追及し、先頭に立ってスト実は闘い抜く。5.6月闘争の総括とその後の闘争方針の確立のための学生大会を7月1日にスト実が招集する。
ストライキの経過
このストライキは、その闘争を前期のみのストに終わらせることなく小平地区一帯のゼネストとして闘い抜くことを追求した。6月4日全逓調布の郵便労働者の要請を受け、闘う労働者の処分撤回闘争を地区共闘の第一歩として取り組む。6月12日武蔵野美術大学の学友あるいは小平ベ平連に結集する人たちとともに8キロにわたる地域デモを貫徹した。デモに先立って国分寺駅でのカンパ、ビラ配り活動も行われた。
大学評議会に対する闘争は団交を通じて闘われた。学生の政治ストは認められないという立場を示す評議会に対し、6月13日第1回目の団交で今回のストに対する見解を述べよと迫ったが、政治的問題に関しては見解を述べることはできない、の一点張りで平行線に終わった。
6月7日大山公園で持たれた「朝鮮高校生への暴行糾弾入管体制粉砕総決起集会」への結集、一橋スト実としての発言、さらに6月14日代々木公園を埋め尽くした安保粉砕労学市民大統一行動への小平―国立を貫く共闘をもっての決起、15日実力闘争への部分的突出があった。しかしながら、その後はスト実あるいは地区共闘として隊列を組み中央集会や街頭闘争に参加することはなくなり、街頭闘争の成果が学内に還流し学内の闘争の高揚をもたらすことがなかった。すなわち学内の闘争推進者と街頭での闘争者が分離していってしまったことは、その両者の不十分性として総括されなければならない。

一橋新聞には記載がないが、金杉の手帳には「6月9日地域デモ」「6月20日地域デモ」と記載がある。

〈Oの証言〉
この時期の前期の活動を主導していたのは、反帝学評系の学生たちだった。学内の対評議会闘争と並行して三多摩地区の他大学との共闘や労働組合員の処分撤回闘争などにも積極的に参加して労学共闘を追求したが、スト実内部ではそうした活動についていけない学生も出てきてやがて学内闘争の空転を招いていったのは否めない。

第10回小平祭
6月11~12日小平キャンパスでサークル活動の変革を軸に「大学幻想共同体の止揚を!」をスローガンにして開催した。三里塚闘争の記録をはじめ、小川プロダクションの全作品を上映した。

6・12後期学生大会 スト可決ならず流会
101名の署名にもとづく全闘委の開催要求書にもとづいて、後期学生大会が兼松講堂で389名(定足数350名)の結集をもって開催された。全闘委は「6月闘争は安保粉砕!沖縄闘争勝利!帝国主義政府打倒!米帝のカンボジア侵攻粉砕のスローガンを掲げた地域共闘の実現と結合をもって闘い抜かれねばならない」という要旨の議案書を提出し、民主化行動委員会は「諸要求実現,大学の自治擁護、安保終了通告を発しうる民族民主連合政府樹立」を内容とする議案書を提出し、双方批判し反駁し合い議案採択の動議が出されたが、定足数に達せず、自然流会した。

6・14-15安保粉砕・政府打倒闘争
6・14国立・小平地区総決起集会
午前11時から兼松講堂前に約200名の労働者・学生・高校生・市民を結集して勝ちとられた。全闘委並びに助手共闘代表の司会で進行し、助手共闘代表が国立・小平地区の共闘の現段階の報告と6月安保決戦を戦い抜く中から生まれる地区への波及と地区共闘の今後の展望について述べた。全闘委代表は「14~15を断固とした政府中枢攻撃闘争として闘うことなしに6月決戦は闘いえない。政府打倒闘争を70年代階級闘争の主軸として闘う。全闘委はそれを先頭になり担っていく」とのべた。このあと、前期スト実代表、国立救援会、国立反戦、三多摩高校生を代表して桐朋全学行動戦線などから連帯の挨拶と決意表明を受け、市中デモに移り、途中右翼の妨害をはねのけ戦闘的なデモンストレーションを貫徹し代々木公園の中央集会に向かった。

6・14安保粉砕労学市民大統一行動 代々木公園
6月行動委・全国反戦・全国全共闘主催の労学市民大統一行動は7万2千名という空前の結集で代々木公園を埋め尽くした。午後1時から約4万名が結集した全国全共闘集会においては、社学同(反帝戦線)、共学同、全学連(石橋委員長)、全学連(金山委員長)、国際主義共産学生同盟、社会主義学生戦線、プロ学同、東大全共闘から発言があり、東大全共闘を除くと明確に党派代表として発言したことが注目された。結集の内訳は社青同解放派2000、中核派900、反帝戦線600、統社同550、日大全共闘1800、法大全共闘1500、明大全共闘1000、東大全共闘1000等であった。午後1時15分ごろ原宿駅前で、武装実力闘争・機動隊殲滅主張するML派250名の部隊が全員鉄パイプと火焔瓶で武装し機動隊の阻止線に衝突し約100名が逮捕された。共産同内部闘争では反帝戦線〈戦旗派〉と叛旗派が衝突を繰り返した。革マル派3000名は宮下公園で集会の後デモで午後2時ごろ代々木公園サッカー場に入り集会を持った。午後2時40分から6月行動委・全国反戦・全国全共闘主催の労学市民大統一行動は大会宣言を採択した後3時半からデモに移った。この間午後3時ごろには中核派と革マル派の間で緊張関係が続いた。デモは青山通り、赤坂見附、溜池、国会前を経て日比谷公園に向かったが、ML派は表参道、青山三丁目で実力闘争を繰り返し多数の逮捕者を出した。革マル派は午後6時から青山、首相官邸を経て日比谷公園までデモを行った。

6・15 反帝学評・フロント 渋谷から出撃
対政府実力闘争を戦い抜かんとする革労協(反帝学評)、統社同(フロント)は5時渋谷を大衆的結集点に、渋谷→青山通り→赤坂見附→国会・首相官邸へ向けた武装進撃を安保粉砕・政府打倒を掲げ戦い抜いた。反帝学評突撃隊150名とフロント突撃隊70名・実力部隊100名は6時すぎ道玄坂に浮上し、まず阻止線を張っていた機動隊約50を撃破し、次いで反帝学評突撃隊とともに、機動隊の増援部隊約300と激突、道玄坂交番を炎上させ、約30分間にわたって一進一退を繰り返した。
東大駒場において、5時から東大・京大全共闘1000名とともに決起集会を開いていた反帝学評の全共闘部隊250名も、6時半、道玄坂上で先鋒隊と合流、路上にバリケードを構築し、機動隊に激しい投石を加え、対峙した。7時ごろ機動隊が総攻撃を開始し正面と背後から挟撃に移った。このため部隊は四散したが警備網を突破した部分は8時すぎ再度駒場に集結し正門前で機動隊と衝突し、バリケードを築き攻防戦を繰り広げた。一方渋谷に結集した反帝学評の部隊はノンヘル部隊と群衆を巻き込み1000名近くの隊列を作り出し2時間余り果敢なデモンストレーションを展開し、道玄坂で再三スクラムで機動隊と衝突した。
同時に反戦(プロ統派)、反帝高評50名を中心とする約150名の別動隊は楯と竹竿で武装して地下鉄銀座駅付近に浮上して、一気に首相官邸・国会へ進撃を開始した。途中機動隊と衝突し20数名が逮捕されたが、突進を繰り返した。

6・22~23安保闘争最終決戦
安保粉砕・沖縄闘争勝利・日米共同声明粉砕・カンボジア軍事介入粉砕
6・23労学総決起集会
全国全共闘・全国反戦の主催により午後6時から明治公園に5万7千人を結集して開催された。内訳は、党派段階で中核派4500、解放派500、反帝戦線-社学同(戦旗派)200、叛旗派・情況派30、フロント15、学生インター150、ML派100など8000、全共闘段階で東大1000、日大1500,早大2000、法大2000、明大1000、立大700、中大1000など2万5千。全国全共闘(東大)が開会のあいさつ、神奈川県反戦(中核派系)群馬県反戦(解放派系)の司会で、三里塚青年行動隊萩原氏が挨拶の後、各党派代表が発言した。開会前戦旗派が叛旗・情況派を攻撃し放逐した。7時半からデモに入り、ML派は繰り返し火焔瓶で機動隊を攻撃し、麻布警察署を炎上させた。反帝学評、中核派も繰り返し機動隊に衝突し、多数の逮捕者を出した。ベ平連は清水谷公園に3万人を集め、集会、デモをおこなった。

7・1前期学生大会 流会―自動的スト解除
前期ストライキ実行委員会の提起により6月1か月ストの総括のための学生大会が開かれた。一時は3百数十の結集で成立していたが徐々に減り、学生集会となり、ストは自動的に解除になった。まさしくスト実運動が先細りとなりスト実を当初担った学友さえ総括学生大会に顔を見せないという否定的な現実から総括の作業を開始しなければならない。

一橋新聞には記載がないが、金杉の手帳には「6月30日午後6~8時磯研2階小集会室、入管討論会、労働運動における排外主義」「7月3日午後3時スト実総括」「7月4日午後5時半日比谷野音(米日反戦兵士支援)」「7月6日午前9時本郷、日華協力委、午後3時スト実」「7月7日午後6時盧溝橋」と記載がある。

一ヶ月ストは何を突き出したのか
ストに突入した直後のクラスの内部はほぼ3つに分解していた。学生大会に出席せず、そのことを恥じてもいない部分がスト反対派としてヒステリックに登場する。6月安保に漠然と問題意識を抱えていた部分は安保の条文を読んだり、クラス討論したりと動き出した。残った少数の先進的な部分がクラスからスト実を組織していこうとしたが、多数を獲得していくダイナミックな構造は現出せず、当初の分断を固定化する方向で進行した。スト突入の衝撃波は数日後には解消され、安保について勉強するという認識運動の中に上昇的に吸い込まれた。自分自身を見つめることを欠落したいかなる認識が現実の闘争のエネルギーになりうるのか。方向は逆であった。徹底して自らの内部に下降してゆかねばならない。
 全共闘運動が日共民青の貧寒とした運動を蹴散らし、豊かな個々人の可能性の全面開花に向かう運動をしえたのは、その徹底した物質性・肉体性、即ち暴力性の故ではなかったか。下意識の情動地帯に直接語りかけていく、闘争の暴力的な展開の故ではなかったか。そのような暴力がこの1か月のスト実運動に限らず一橋闘争全体を通じて最も欠落していたものだ。

対評議会団交経過
 前期スト期間中に6月13日、19日、24日の3回スト実主催の対評議会団交がおこなわれた。議題は次の3つとなった。①団交の場においては評議会の発言はもとより、評議員個人の発言、一教官としての見解の表明が出席全評議員に義務付けられる。②6月2日前期学生大会で決議されたストライキに対する評議会の見解。③カリキュラム問題、学館問題、新館問題その他諸要求。である。馬場学長代行は①個人発言を求めるなら団交ではなく討論会とすべきである。②大学立法は大学に切迫した問題なので統一見解を出したが、安保は大学に切迫した問題ではない。と答え議論は平行線に終わった。

6月2日の前期学生大会は民青系の執行部が思想調査問題で信頼を失っていたこともあって、全闘委提案の1か月安保政治ストが圧倒的多数で可決され、スト実が結成されたが、後半から活動は停滞し尻しぼみに終わった。一橋新聞は学内闘争と街頭闘争の分離を問題にしているが、14日までは全闘委が地区共闘を作って全国全共闘の統一行動に参加する形が取れていたが、15日以降はセクトごとの行動が優先され、全国全共闘の統一性も崩れてきて全闘委としての行動がとれなくなったことが大きかったと思う。
 そのまま夏休みになって、私は7月27日から30日には妙高の大学寮で反帝学評の合宿に参加した後3人で能登に旅行し、能登島の火祭りに加わって楽しんで、その帰りキセル乗車をして金沢駅でつかまり罰金を取られ金がなくなって困ったり、8月17日から22日には白馬のペンションで一橋新聞部の合宿に参加しペンションに残ってアルバイトしようとしたが寝坊ばかりして首になったり、8月26日から30日には家庭教師先の鵠沼の別荘で海水浴を楽しんでサザエのつぼ焼きを食べたり、楽しく過ごしたのを覚えているが、反帝学評と一橋新聞部の合宿の難しい討論の内容は全く覚えていない。9月からは各サークルにサークル共闘会議への結集を呼び掛ける活動をしながら、神田一ツ橋の一橋講堂の裏にあった一橋新聞部の部室に通い、記事を書いたり、先輩の議論を聴いたりするようになった。

9月16日サークル共闘会議結成に向けた連絡会
国立新館402教室で開催され、新聞部、小平祭、社会科学研究会、青少年友の会、社会思想研究会など十数サークルの代表者が出席し、一橋祭、サークル共闘、一橋闘争などについて討論し、サークル運動の革命的再編、恒常的情宣活動、オルグ活動を行っていくことを確認した。

9月18日入管体制粉砕三多摩総決起集会
国分寺公民館で約500名の労働者学生市民高校生が結集し、亜細亜大入管グループが基調報告し、東学大入管闘から在日朝鮮人の韓国籍から朝鮮籍への書き換え運動を支援し、朝鮮大学校への勝共連合・権力の弾圧を粉砕する方針が提起され、錦城高校入管闘からは朝鮮高校生への集団暴行問題が提起された。八王子地区実行委員会の結成などをめぐって解放派と中核派の間で小競り合いがあった。

9月24日生協労働者への不当弾圧粉砕
大学生協書籍部女性労働者Iさんは不当弾圧・強制的辞職処分に抗して就労宣言し、支援する学友約60人が生協常務理事会と会合し、常務理事会はIさんへの処分を撤回し自己批判した。

前期執行委員長選挙
9月24日立候補受付28日29日立会演説会30日10月1日2日投票、開票で行われ、民青系全学連支持のH君が507票、全闘委支持のOn君387票、無効白票133票、投票総数1027票で、H君が当選した。選挙戦の争点は補講問題、新寮獲得闘争、入管闘争であった。補講問題は6月の長期政治ストライキの間の講義日数の遅れを補講で補わないと全学生が留年すると大学当局が恫喝し、7月16日の対評議会団交でI執行部が補講を受け入れたことの賛否、新寮問題は文部省が新寮建設の条件としている管理規則と受益者負担区分に対決するか否かが問われた。全闘委は入管闘争にうつつを抜かし学内問題を放棄しているという民青諸君は入管闘争をどう闘うのか、小平入管闘の学友を中心にH君を追求した。

全闘委は十共闘結成へ
10月5日の全闘委選挙闘争総括集会においては、選挙闘争の敗北を全闘委の運動及び組織展開の限界性・不十分性の帰結として総括し、課題別闘争委・行動委の共同で構成される十月共同闘争委員会を結成し、秋期の闘争を闘い抜くことが確認された。
 
10・3国立地区共闘
10月3日国立新館402教室において、桐朋11名退学処分粉砕!9・22桐朋官憲導入糾弾!国立音大授業料値上げ白紙撤回!国立地区総決起集会が開催された。約百名の市民・学生・高校生が結集し、折原浩氏が「処分問題と70年代教育再編」と題する講演を行った後、桐朋高校全学行動戦線の代表と国立音大の学友からそれぞれ闘争の報告と決意表明が行われた。集会終了後圧倒的なデモンストレーションを国立駅→国立音大→桐朋高校に展開した。

10・14前期学生大会
自治会執行部は自らの提案が三度にわたる修正案提出の後最後には憤激した学友により否決されるという前代未聞の茶番を演じた。ところが、10月19日バリスト突入後自治会室で発見された千数百枚の民青全学連が10・21に向けて印刷したビラには「一橋大前期、東大農学部のストライキ決定をはじめ云々」と全くでたらめな宣伝文が書かれていた。十共闘は22日原執行委員長に自己批判を要求し、彼らの全学連の機関誌に自己批判書を掲載することを原君は了承した。
この学生大会で全闘委あるいは十共闘がストライキなどの提案をしたかどうかは一橋新聞記事に書かれていない。

十月共同闘争委員会全都唯一の突出した
10・19―21バリストを貫徹!
18佐藤訪米阻止闘争~21国際共同闘争
激動の4日間を闘いぬく
 19日未明、反帝学評・小平入管闘・叛乱準備委員会等を中核とする十共闘の約50名の部隊は小平本館に突入し、バリケードを構築した。午前8時半から屋上から解放放送を開始し、登校する学友にバリストの意義と隊列への結集を訴えた。午後2時日共=民青約20名が封鎖実力解除を叫んで正面玄関に殺到したが、約30名の遊撃隊が実力を持って彼らを学外に放逐した。大学当局は前期学生委員長名で「封鎖の理由を明示せよ」などの質問状を発し、「封鎖は認めない。速やかに解除せよ。」という評議会通告を発した。午後6時説明会と称して寮食に現れた馬場学長事務取扱に対し、十共闘約20名の部隊は「補講粉砕、国立検問ロックアウト粉砕全学追及集会」を宣言し約百名の学友とともに追求し、補講についての大衆団交の開催を要求した。
 20日は登校する学生にクラス討論を提起し、午後から小平入管闘の集会を行った。午後5時から東経大・国立地区共闘の学友とともに正門前で総決起集会を行った。
 21日早朝予想される機動隊導入に備え、バリケードを強化した。正午正面のバリケードを開き、結集した三多摩の闘う学友とともに「10・21国際共同闘争勝利」三多摩総決起集会」を約150名の結集で勝ち取った。桐朋高校全学行動戦線、三鷹大成高校全学解放会議、一橋大ベ平連、武蔵野美術大学全学自治会から連帯の挨拶、十共闘から反帝学評・学生インター・反帝学生戦線・小平入管闘・叛乱準備委員会が決意表明し、一橋学園駅までデモを貫徹し、芝公園の全国全共闘総決起集会にむかった。

〈Oの証言〉
十共闘は一橋全闘委の残党と三多摩地区の反帝学評系学生の混成組織だった。10.19小平バリストを率いたその中心にはO(反帝学評系)はじめ一橋の三回生がいて、彼らは国立本館封鎖時点では前期学生だったので、“封鎖当日”に直接関わることができなかった者たちがほとんどだった。小平バリストの目的としては、「補講粉砕、国立検問ロックアウト粉砕、10・21国際共同闘争へ向けた連帯行動」を掲げていたが、中心メンバーには「自らの手でバリストを!」の想いも強くあったのは事実であろう。
10.20の午後遅くからバリスト内で、「続行か、撤退か」の議論が激しく闘わされ、深夜に及んだが、結局「撤退」の結論に至った。バリストに至ったその背景には、確かに全共闘運動の混迷の中にあって、そこからの一点突破的な衝動が横たわっていたのも事実であり、議論は難航したが、やはり「継続」するには、内部的な意思統一が不十分であり、またその必然性も薄弱だった。

〈無給の殺し屋〉による「闘争ルポ バリケード武断の華」の冒頭
はじまりは例によって散文的だ。
俺は遅れて到着した。
車座の中心から俺に向きなおりざまー
―「やるか?」
「ああ」
きれいさっぱりこれだけである。
「して、手筈は?」
と、こう続くのが自然の成り行きというものだろう。で、じじつそうだった。
・・・・

10.21政府打倒国際共同闘争 沖縄、入管へ巨大な進撃
全国全共闘・全国反戦 全関東労学総決起集会
日比谷野外音楽堂
「入管法国会再上程阻止、入管体制粉砕、72年沖縄返還策動―国政参加選挙反対、自衛隊沖縄派兵阻止、4次防粉砕」のスローガンの下に約3万人の結集をもって開催された。学生はこれに先立って芝公園で総決起集会を持った後、戦闘的なデモを展開し日比谷野音に結集した。
7時から各戦線の挨拶で、先ず東京入管闘が国籍書き換え運動を入管地区実を組織化して推進する、北富士忍草母の会が入会地奪還を闘う、三里塚・芝山連合空港反対同盟が土地収用阻止を最後まで闘う、全国隊友反戦から自衛隊内部からの反乱の開始が宣言された。外人べ平連、68年10・21新宿騒乱被告団・防衛庁闘争被告団・国会突入被告団、埼玉反戦、神奈川県反戦の決意表明のあと、各セクトが発言した。学生インター、全学連(内城委員長)、全国学生解放戦線、全学連(金山委員長)、プロ学同、全国反帝学生戦線、反帝戦線の順であった。インター斉唱後、自由連合・プロ軍他(150)、各大学全共闘(3500、うち日大2000)、東京反戦(500)、東大全共闘(150)、反帝戦線(800)、反帝学評(1000)、東教大・東工大他全共闘(600)、第4インター(150)、ML(150)芝工大(250)、法大(750)立正大(80)横国大(300)中核(2000)等の順に明治公園に向けて出発した。途中、反帝学評、反帝戦線、法大全共闘などが実力闘争を行い数十名が逮捕された。
なお、10・21闘争に向けて、わが一橋大を先頭に埼玉大、小樽商大、北大、明大生田等全国で6校がバリストをうち、武蔵野美大など6校が都内においてストライキを打った。

十共闘 その総括と展望
十共闘が19-21バリストを含む闘争で提起した組織論的、運動論的質は次の3点に要約できる。①学内闘争と政治闘争を結合して闘い抜くための組織的保障と具体的推進。十共闘が課題別(入管・反軍・サークル運動・教育)闘争委の結合体として構成され、課題別のフラクションと全体会議で運動の方針を決定していく。②政治・社会状況の把握から学内闘争課題(補講・ロックアウト・新寮・学館など)の階級的推進。③学生総体の普遍的利害を担う闘争主体の登場。これら3点の凝縮した闘いとして19-21バリストは闘い抜かれ、背景には全共闘運動の混迷の中からの新たな発展への衝動が横たわっていた。全闘委の政治的活動家集団化の突破衝動と1年生を中心とした入管闘争を闘う主体の学内闘争へのかかわりから政治・社会闘争を捉えようとする衝動の結合として闘い抜かれた。
今後の展望としては、学内におけるあらゆる戦線、闘争主体を結合し、全共闘運動の新たな発展の推進軸になってゆかねばならない。

一橋新聞10月16日号 サークル共闘会議準備会による
一橋祭運営委員会への公開質問状
昨年の一橋祭運営委員会はビアパーティーに象徴される大政翼賛的オマツリとしての過去の一橋祭を繰り返すことはできないとして、一橋祭を中止し「埋葬」した。それを引き継いだ一橋祭運営委員会はこの「埋葬」をどう考えるのか、などの公開質問状をサークル共闘会議が提示した。
注目すべきは、今回の一橋祭運営委員会に結集している部分は、昨年の国立本館封鎖解除、前期無期限ストライキ解除に狂奔し、闘争圧殺の主役を果たした諸君を中心としていることだ。Get tomorrowなる一見無邪気に見えるスローガンが実はブルジョワジーの先兵として飛躍することを志向する彼らの適確な表現である。ブルジョワジーに全面対決する今秋の闘いの課題として、学内秩序の完成に対決する強力な隊列をもって、一橋祭闘争を闘おう。

在日朝鮮人の国籍書き換え支援
11・2 対小平市長団交闘争
小平市では勝共連合、官憲が一体となって、朝鮮大学校への挑発、弾圧を繰り返し、入管闘争への執拗な妨害が行われている。大島小平市長は勝共連合世界大会に名を連ねる全国唯一の市長である。11月2日80名の学生市民労働者が結集した市庁舎前の集会で、三多摩反戦、安保粉砕地区共闘、一橋大、東学大、津田塾大、錦城高校入管闘から決意表明があり、会議室に乗り込んだが、市長は多忙を理由に出席せず、代理の市民課長は書き換え要求に対し、国からの委任事務であるから法務省通達に従わなければならないと回答した。

補講攻撃粉砕へ進撃
11・9評議会は団交要求を拒否
十共闘は10月下旬三度にわたり学生集会を貫徹し、補講攻撃粉砕に向け大学当局を追求し、11月4日に評議会の団交を要求したが、評議会は9日「学生の正式代表機関としか団交は持てない」と手続き・形式論で回答し、再度の要求にも同様に拒否した。前期学生委員会が間に入り、聴聞会という形での会合を提案したが、評議会はこれも拒否した。

11・9、13 学生大会は流れる
一方、この補講粉砕闘争と沖縄国政参加粉砕闘争を軸とする秋期の闘いをストライキとして勝ち取るべく十共闘の要求で開催された11月9日、13日の前期学生大会はともに定足数に満たず流会した。
しかし、十共闘内部では補講攻撃粉砕を戦略―戦術的に確定できず、当局の説明会から補講のなし崩し的実施の前に補講粉砕闘争は敗北した。この敗北以降十共闘はサークル共闘会議の実践的一橋祭批判、小平連絡会議の国籍書き換え支援闘争等の部分的突出を見ながらも、総体的なダイナミズムを獲得できず、分散化していった。

一橋新聞1971年3月1日号
70年一橋闘争 その追体験的照射(要旨)
(1)一橋闘争終焉後 69年11月24日前期学生大会においてスト実提案が否決され、前期無期限ストが解除されたことによって、一橋闘争は終焉した。嬉々として「平和で秩序ある学園」を取り戻さんと走り回る右翼秩序派と日共=民青とは裏腹に一橋闘争を闘い抜いた諸個人は、ある者は自己の生活に閉じこもり、ある者は痛憤にまみれながらも教室に戻り、またある者は「何かしなければ」と思いつつも何から始めてよいものかわからないといった混迷状態に陥っていった。
虚無主義に陥る部分と組織的自己滅却的運動に転落していく部分を両極とするさまざまな傾向を、実践的に止揚する方向性を見出そうとする運動が徐々に登場してくる。70年1月-2月の前期自治会選挙において、行動委員会運動によるポツダム自治会の止揚と闘う共同性を打ち出した全学闘争委員会は4・28闘争、入学式闘争、5・15愛知訪ジャカルタ阻止闘争を闘い抜く中から地区的結合と自らの組織的再編を模索し始める。
(2)6月安保長期ストライキ 6月2日前期学生大会で圧倒的多数の支持で全闘委提案の「安保粉砕・政府打倒」の1か月ストライキが採択された。スト実は大学当局への断固たる反撃を開始し、小平地区の労学のエネルギーを組みつくし、政治的頂点に向けた闘いに集約するべく、地区共闘の展開に着手したが、今一つ目に見える形で突き出すには至らなかった。6・14-23を頂点とする中央実力闘争を闘い抜いた後、スト実の組織的脆弱性が表面化し、学内闘争を担う部分と政治闘争を積極的に担う部分の分離は最後まで結合できず、ストは7・1総括学生大会の流会によって解除された。
(3)前期自治会執行委員長選挙 70年代における帝国主義的政治・社会再編のもたらす破壊的攻撃に抗し、自立と団結=諸個人の全面的な発展を見つめて共に闘い抜け!のスローガンで闘った全闘委推薦の候補は結果的には敗北した。
(4)十共闘―10.19~21小平バリスト 9月選挙闘争敗北を契機として、全闘委の活動家集団―無党派大衆という組織論的運動論的限界を突破する衝動と、一年生を中心として即時的に入管闘争に関わって来た部分が、学園闘争に関る中から、総体的に政治・社会闘争を捉えようとする衝動との結合として、十月共同闘争委員会(十共闘)が結成された。十共闘の組織論的質は、①帝国主義的政治社会再編に総体的に闘いうる団結の質の保障であり、学内闘争と政治闘争との実践的結合である。十共闘は課題別行動委員会の結合体として構成され各課題別のフラクションと全体会議で運動の方針を決定していく。②補講攻撃・ロックアウト体制を粉砕し、新寮・学館等の学内諸課題を階級的推進と地区的拡がりをもって闘う。③学生総体の普遍的利害を担いうる闘争主体の登場である。
十共闘は補講の意味を政治ストは認めない大学当局の近代化攻撃の一環と捉え、補講攻撃粉砕を掲げて、10月19日から3日間小平本館バリケードストに突入したが、単に補講粉砕に止まらず、政府打倒、国際共同闘争を学園からの反乱として闘い抜いた。
十共闘が19-21バリストを含む闘争で突き出した質は、先の三点と更に<組織された暴力>に尽くされるだろう。われわれの団結の質が問題となる。闘争の過程においていかなる共同性を獲得したのか、<組織された暴力>を孕みつつバリケードという戦術形態で凝縮して表現した政治の幅は<政府打倒>に集約される質から市民社会深部を揺るがす闘いへと拡げられていた。
全共闘運動は極限的展開の中でブルジョア社会の分厚い壁に突き当たりつつ、普遍的解決能力を、地区的共同=ソビエト運動として開示していく。そうした発展を意識的に模索し、4月以来、国立地区共闘として闘う部分を結集し闘争を展開してきたが、秋期一定分散化している。10月下旬、入管体制粉砕小平連絡会議が結成され、入管戦線の地区的結合が図られたが、ソビエト運動への止揚を孕んだ発展が必要である。
(5)最後に 現在、政府ブルジョアジーの土地強制収用代執行に対して闘っている三里塚の革命的農民と連帯し、長期支援闘争を闘い抜く中から、政治・社会闘争を担いうる団結の質が実践的につかみ取られようとしている。

上記の一橋新聞の3月1日号の総括は十共闘の10・19-21バリストを高く評価しようとしているが、私はこの闘いは余りにも唐突で、目的や意義についても説得力の乏しいバリケード封鎖であったと思う。補講攻撃粉砕はバリケード封鎖の名目としては弱すぎる。補講攻撃粉砕の実力行使なら教師に補講拒否・非協力を呼びかける、教室で補講の実施を阻止するなどほかの方法があるはずで、全館バリケード封鎖というのはやむにやまれぬ最後の手段であるべきだ。普段見かけない3回生以上の全闘委のメンバーや他大学の人たちが集まってきて、実に手際よく本館1階の全教室をたちまち机やいすでバリケード封鎖してしまった。「闘争ルポ バリケード武断の華」がそのときの空気を活写している。2回生の私は特に息詰まる議論に加わるわけでもなく、21日の一橋学園駅へのデモの申請を頼まれて、小平警察署に行ったことを覚えている。21日を最後に全闘委、十共闘の部隊としての出陣はなくなった。 11月で補講粉砕闘争も終息し、1970年1月から全闘委が再起し、地区共闘を形成し、6月安保沖縄ストを闘い、10月バリストに至った第二次一橋闘争(70年一橋闘争)は1970年11月で終わった。
1968年10月からまる2年間の全闘委の闘いをもって一橋闘争とすれば記録はここでお終いであるが、71年以降も全闘委の流れをくむ者たちが断続的に決起して、ストライキも繰り返している。以下で、その経過を記録していきたい。
(続く)

【お知らせ その1】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。

●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は2026年3月30日(月)に更新予定です。

今回のブログは、『続・全共闘白書』編纂委員会の個人史インタビュープロジェクトにご協力いただいた金杉和夫氏(1969年一橋大学入学)からの投稿である。
1969年から1974年までの『一橋新聞』の記事をベースに、金杉氏他の証言を交えて、一橋大学の闘争と全国的な政治闘争について書かれた記録である。一橋大学の闘争はほとんど知られていないので、今までこのブログで紹介してきた「全国学園闘争」シリーズの「知られざる学園闘争」としておい読みいただきたい。
なお、原稿の分量が多いため、何回かに分けてブログに掲載する。今回は1968年から1969年である。

1
(『一橋新聞』1970.9.16)
『一橋新聞』で読む1969年から1974年~一橋闘争・全国全共闘・安保沖縄闘争・三里塚闘争・立川闘争を振り返る
日本各地で全共闘によって展開された全国学園闘争の一環として一橋大学で闘われた一橋闘争と全国全共闘・安保沖縄闘争・三里塚闘争・立川闘争など諸闘争の経過を『一橋新聞』の1969年1月1日第845号から1974年11月1日第944号の100号分の記事と論説から抜粋・要約して再現し年表形式の経過記録にまとめた。『一橋新聞』は学生新聞で部員はほとんど全共闘の支持者であるから、その主張には偏りがあり、闘争の参加人数や成果を誇張して表現している傾向はあるが、現場に居て取材した者が記事を書くというのが原則なので、その内容は大体は事実に即していると思う。学内の出来事の記事はできるだけ採用し、学外の記事は学内の者が組織的に参加した出来事を中心に採用した。
加えて、1968年入学のO氏と1970年入学のM氏からいくつか証言を頂いたので、経過を追って〈Oの証言〉として「太字」で挿入した。
併せて、1969年入学の金杉個人の当時の体験や感想をできるだけ率直に思い起こして経過を追って「斜字体」で挿入した。経過記録と読み合せると当時の状況が実感してもらえると思う。また、重要な事項については「太字」で表示した。
当時の一橋大学で、前期とは1,2年生のための教養課程のことで小平キャンパスで行われていた。後期は3,4年生の専門課程で国立キャンパスで行われていた。前期は現在は国立キャンパスの東校舎に移転している。

1968年
バリケードから国際反戦闘争へ
10月18日 前期臨時学生大会で10.21国際反戦統一行動に向けスト実が提案したバリストが可決された。
10月19日 前期自治会執行委(民青系)は「学生大会決議は執行できない」として解散。
10月20日 スト実は前期本館の鍵を要求したが、大学評議会はこれを拒否する。木村学生部長「ストは認めない。授業は平常通り行う」と語る。
10月21日 国際反戦統一行動。スト実は前期バリストを決行し150名が新宿米タンク車輸送阻止闘争へ参加、一橋からも逮捕者があり、騒乱罪が適用された。

〈Oの証言〉
 当時私は1回生で、セクトには加入していなかった。デモには初参加だったが、10.21の新宿米タンク車輸送阻止闘争に参加した。小平で革新会議(第4インター系)主催の反戦集会に参加し、そのまま新宿へと向かった。かなりの人数だったが、正確な数は分からない。国分寺で中央線に乗り換え、新宿方面に向かったが、下車したのは御茶ノ水だった。そして、駿河台の中央大学の大教室で、他大学の学生とも合流し、程なくしてヘルメットと角材が全員に配られた。
その後、御茶ノ水から角材を手に手に電車で新宿へ向かった。途中、新宿駅の手前で電車がストップし、しばらくして「降りろ」との号令が掛かり、みんな一斉に車窓から飛び降りて、線路伝いに駅へ向かおうとしたが、駅方面から機動隊か迫ってきて、それを見て、ほとんどみんな角材を放り投げて、線路脇のフェンスを乗り越えて、外に逃げた。外には大勢の群衆が詰めかけていて、ヘルメットなんか被っていると、すぐそこに機動隊が来てるからやられるぞ、捨てた方がいい、と周りから言われて、自分も思わず、ヘルメットを脱ぎ捨て、一目散にその場から遠ざかった。一緒に来た学生たちの大部分は、散り散りになったが、それでも駅方面へ向かって行った。駅構内からは、催涙弾の発射音や角材で叩きあう音が聞こえてきていた。駅前広場に行くとそこにも沢山の群衆がいたが、催涙ガスが立ち込め、皆、目を赤く腫らしていた。結局、一緒に来た学生たちとは会えず、一人で夜中まで群衆の一人として新宿駅周辺をうろついていた。気が付けば、電車もなくなっていて、なんとかタクシーを拾って横浜の自宅まで帰った。

10月23日 評議会は「10・21闘争に関する官憲導入に対する大学側の態度」を決定。その主な内容は「官憲の立ち入りはできるだけ避ける。立ち入りのやむなき場合の通告を求め、立ち合い、連絡体制をとる。逮捕する場合はできるだけ学外で逮捕するよう要請する」である。
10月28日 連合教授会は前記評議会決定を了承する。木村学生部長は「前期のバリケードを通じて示された大学の基本的あり方を問う姿勢は、あらゆる大学の問題への対処を本質的な次元で真剣に考えていかなければならないという、新しい時代を迎えているということを明らかにしている」と語る。民青系に代わる前期自治会臨時執行委成立。
11月8日  前期自治会臨時執行委主催の大衆団交が開かれ、以前から交渉されていた学生部長拒否権を初めとする6項目公開質問状に対する回答が示された。執行委は新しい団交方式(全評議員の団交出席)を要求する。
11月22日 前期自治会執行委選挙開票され、民青系執行委が復活した。
12月13日 全学団交開催。学生部長拒否権等6議題団交に限り、全評議員出席のもとで団交を行うことを決定。翌朝7時まで徹夜で行われた。
12月16日 再開した全学団交には約5百名の学生が結集し、午後1時から17日午前3時ごろまで行われ、①学生部長候補者についての学生の拒否権(除斥投票)を認める。②除斥は学生数(学部学生、院生)の二分の一以上をもって成立する。③除斥投票の結果(票数)を公表する、などを合意した。増田学長は過労で倒れ欠席した。

1969年
1月18-19日 東大安田講堂攻防戦
1月25日 全学団交で6項目を決定した。
1. 学生部長拒否権については、12月16日の合意に加えて①学生部長候補者除斥権を有する者は全学生・院生であり在籍6か月以上の制限はつけない②投票・選出過程は大学側・学生側の共同管理とする③投票規定等の内規は学生・院生と教官との代表により委員会を構成し決定する④学生部長の再審査請求権に類する問題は12月13日団交の確認書の方式で改めて交渉する。
2. 相模湖艇庫合宿所については、国有財産管理の面を除いては学生の自治に任せる。
3. 小平旧学食については、生協の商品管理に必要な改修を生協と協議して行う。
4. 現行の学生細則は白紙に戻し、これに代わるルールは学生・院生と教官との代表による委員会を構成し決定する。
5. 東大入試中止に絡む定員振り分けに対して反対声明を出すか教授会に諮って検討する。
6. 週刊現代の学長発言記事について、このような事態が再度起きないようにする。
2月6日 増田学長辞意表明(評議会に書簡)
2月12,13,22日 後期学生評議会(後学評、全共闘系)が要求して大学評議会と会合を行う。
2月18日 学生部長拒否権の初回除斥投票(全学生・院生の2分の1以上の除斥票があった候補者は除斥される)開票。候補者3人とも除斥されず。
2月28日 3月1日 全学団交で前期後期自治会執行委(民青系)と大学評議会は全学的な問題に関する団交は各自治会執行委が行うことを確認し、大学評議会は後学評との会合で全学的な問題を報告したことを自己批判した。(2・28確認書、3・1自己批判書)
4月11日 入学式、全学評約50名が自主入学式を呼びかけ会場の兼松講堂へデモンストレーションを行い、阻止しようとする体育会サークル員や自治会執行部系学生と4,5回衝突を繰り返した。講堂内の儀式入学式は予定を30分ほど過ぎた午前10時半から例年に比べて簡略化されたもので11時過ぎに閉会した。

この年同期で一橋大学には商学部、経済学部、法学部、社会学部合わせて720人が入学し、そのうち女子はわずか12人であった。同期入学で後年有名になった人はオウム真理教の麻原彰晃や和歌山毒物カレー事件の林真須美被告の弁護人となり「死刑弁護人」と呼ばれた安田好弘、「走れコウタロー」で一世を風靡し後年平和・環境活動家となった故山本厚太郎、新自由主義の元凶となり最近旭日大綬章までもらった竹中平蔵などがいる。安田氏は全闘委の有力メンバー、山本氏はべ平連のリーダーだったが、竹中氏は面識がなく学生時代に何をしていたか知らない。社会学部に入学した私は入学式に参加し、そのあと都内の自宅から小平分校の108番教室に通うことになった。そこが第二外国語にドイツ語を選択した商経法社4学部の男子学生40数名が所属する8クラスのホームルームだった。女子は8クラスにはいなかった。私が6年間過ごした中高一貫の男子校と変わり映えのしない雰囲気であった。オリエンテーションの期間からクラス討論と学生大会の繰り返しで、全共闘びいき、民青派、右寄りノンポリなどが入り乱れて熱のこもった議論をした。
小平分校は、正門を入るとレンガ造り2階建てロの字型に中庭を囲んで配置された本館があり、正面玄関の付近に事務室があり、あとは独仏露中の第二外国語で組み分けされたホームルームが並んでいた。粗末な講堂、体育授業のための体育館とグラウンド、階段式の合併教室と小さな図書室、保健室のある新館、生協の食堂、敷地の奥に学生寮(一橋寮)があるだけで、東大の駒場キャンパスなどに比べるとずいぶんみすぼらしく殺風景だった。グラウンドの向こうには玉川上水沿いに遊歩道があり、その先には津田塾大学、武蔵野美術大学などがあり、女子学生とデートしたいというあこがれをこめてラバーズレーンと呼ばれていた。一橋寮から深夜大挙してラバーズレーンを走り、津田塾大の寮に押し掛けるストームが恒例行事となっていた。教授の研究室やサークルの部室はすべて国立本校にあり、講義する教授は国立から通ってくる、学生はサークル活動やゼミのために国立に通っていた。東大闘争の高揚の結果、東大の入試が中止されたため東大志望を変更して受験し入学した者が多かったが、東大に入れなかった不満や学園闘争への恨み言を言う者は少なかった。といっても、学園闘争に共感し飛び込んでいく者が多かったわけでもなく、受験勉強の重圧から解放されて学生生活を楽しみたい気分が強かったと思う。居酒屋や寮や下宿で集まって酒を飲んだり、人生や恋愛を語り合ったり、徹夜麻雀したり、女子大のクラスと合同ハイキングをしたり、学生らしい、青春らしい付き合いもクラスを中心に出来ていった。
私は入学当初は硬式テニスの同好会と国際問題研究会に入って「世界」を購読しスマートな国際通になることを目指していたようだが、テニスも国問研も活動が止まった状態で思い通りには進展せず、同じクラスの全共闘びいきの友達との付き合いを深めていった。高校の同級生だったT君が民青系で当初熱心にオルグしてくれたが、大学の自治を守れ教育を受ける権利を守れという秩序を守る論調が多く、世界に広がる戦争や資本主義の弊害と闘い変革していく熱意が感じられず魅力がなかった。

4月22日 小平祭連続講演会第1回
 松田政男「沖縄―敗戦後23年目の沖縄民衆の怨念と本土の繁栄」
4月23日 前期自治会・後期学生会両執行委主催による全学討論集会が学生院生等千余名を結集し兼松講堂で開かれた。執行委は中心課題として①中教審答申粉砕②学長選考制度の民主的改革③警察の独自の判断で警察力を学内に導入できるとする4・21文部次官通達に反対せよの3つをあげ、全学評からは①中教審答申粉砕②現行評議会の解散③評議会の公開の3つが提起された。中教審答申=中間報告案について西学長代理は、4月21日に決定された評議会見解を明らかにした。①中教審答申に基づいて文部省が全大学に画一的な枠を与えようとするなら反対である。大学問題は、学生の地位の問題についても、各大学が自主的に学内で必要な改革案を検討し作成し実施することが妥当である。②中教審の草案の一つ一つに論評を加える必要を認めない。自主的に本格的な大学問題検討委員会または大学改革委員会を発足させる。③草案で不適当と認めている点について、本学では学長選考に対する学生の関与が20年来実施されているが、かつて何等の不適当がなかった事実を指摘したい。以上の3点だった。評議会、教授会の公開などについては大学側の回答はなかった。
4月25日 前期臨時学生大会で4・28沖縄闘争について、執行部案(4・28授業放棄・全学集会・中央決起集会)否決、全学評(全共闘系)案(4・26-28バリケードストライキ)否決保留となり、ベ平連修正案(4.26授業放棄、4・28バリケードストライキ)が可決されスト実が結成された。
4月26日 後期学生大会は成立せず、学生集会となり前期バリストへの合流を決議した。
前期では学生大会の決議に基づき授業放棄し、クラス討論、全体討論集会が行われたが、一部のクラスでは連絡不行き届きのためか平常通り授業が行われた。
4月27日 午前5時過ぎから前期中庭でバリ実主催の総決起集会が開かれ、6時45分ごろから約80名の隊列を組み学内デモを行った後バリケード構築に取り掛かり、1時間ほどでバリケードを構築し、総決起集会を続行した。全学評とベ平連から翌日4・28の行動提起があり、救対から諸注意がなされた。その間バリ実委は大学側にバリストに関する討論集会への全評議員の参加を要求したが、大学評議会は回答を拒否した。
4月28日 10時半から中庭で4・28沖縄闘争決起集会が開かれた。Bクラス反戦、Jクラス学評、社研闘争委、現マル研、新聞部、4・25学生大会議長、べ平連、反戦学生会議(革マル派系)、全学評などから決意表明があり、参加した中川助教授から「バリケードを頭から否定する評議会に対し、バリケードの意味を学生に問うよう意見したが、評議会は黙殺した。私はバリケードの意味を知るためにこの集会に来た。近代合理主義が目的合理主義として我々を浸食していくのを我々は否定しなければならない。そうした自己否定の場が現在の一橋に求められている。そのような観点から私は諸君の闘いを、そして4・28沖縄闘争を支持する。」と発言があった。バリケードから約200名が街頭闘争に出発した。
4・28沖縄闘争を戦闘的街頭闘争で闘うべく結集した学生部隊は都内各校で泊まり込み体制をとり、多数の市民・学生を巻き込んで明治大学前通りを中心にカルチェラタン闘争を展開し、破防法による事前弾圧と官憲動員数東京1万2千人、大阪5~6千人による大弾圧体制の中、東京から新橋駅に至る一帯で街頭闘争を行い、銀座などに解放区を作り出した。全学評の部隊約30名は一橋学園駅から巣鴨駅で下車、東洋大で学生インター、社学同などの部隊と合流し新橋方面に向かった。一橋大ベ平連は約70名の隊列で一橋学園から出発し東京駅八重洲口近くの常盤橋公園の中央集会に参加し、学外結集を含め200名以上にふくれあがった。
5月7日 小平祭連続講演会第2回 清水多吉「非日常性の理論とは何か」
5月13日 大学紛争収拾臨時措置法案=大学立法粉砕に向けての対評議会全学団交が小平分校第三合併教室におよそ450名を集めて行われた。自治会執行部は①評議会は反対声明を出せ②2・28確認書不履行を自己批判し学長選考制度を早急に作れ等、評議会に要求した。全学評からは「大学立法化は全国学園闘争によって体制の有機的構成物たる大学の機能がマヒさせられることに対する支配階級の恐怖の表れである。現在の一橋大学秩序に対する告発としての4・28バリストに込められた意味を評議会はどう思うか。」と質問したが、評議員からのまともな回答はごくわずかだった。反対声明は出すことだけが決定された。
5月15日 後学評が評議会に会合要求書を提出した。
5月16,17日 評議会は実質拒否回答だった。

国立本館封鎖から大学立法反対闘争へ
5月17日 午後8時半、後学評、前学評、一橋寮闘争委員会を中心とする全学闘争委員会(全闘委)約40名が国立本館を封鎖し立てこもった。封鎖の直接の理由は評議会の後学評との会合拒否だった。全闘委は十時半ごろから内部討論を行い、①評議会の会合拒否に強く抗議し②評議会に拒否の根拠を与えている2.28確認書の白紙撤回③現評議会の解散④評議会・教授会の公開を要求し、⑤旧商大以来の一橋の歴史的・社会的役割=現代資本主義社会の管理者養成所、一橋リベラリズムの伝統のもとに、商経偏重、前期問題など多様な問題性を隠蔽する現行の学内秩序を否定し、⑥23日からの全国学園ゼネストに呼応して中教審答申・大学立法粉砕闘争に合流する、などの主張を確認した。深夜11時半ごろより、封鎖を聞きつけて、体育会サークル員など約50名が集まり始め、全闘委に対し説明―討論集会を要求した。全闘委はこれに応えて21番教室で集会を開き、先の主張を明らかにした。バリ内討論集会の結集者は午前1時には150名に達した。一方0時過ぎには中和寮(後期の学生寮)などから執行部系学生約60名が集結し、「バリ内に入れろ」と要求したが、全闘委は「封鎖に敵対し、バリを壊すものはいれることはできない」と拒否した。集会は翌朝4時に及び、封鎖を支持する者が残って、再度封鎖体制を固め泊まり込んだ。

Oの証言〉
当初、全学闘争委員会を主導していたのは革新会議に属する第4インター系の活動家たちだった。彼らは前・後期自治会を支配していた民青への対抗勢力として学内で一定の影響力があった。しかし、本館封鎖を契機として、多くの学生が活動に参加するようになると、第4インターの影は薄くなり、次第に三派系全学連などのシンパ活動家も増え、やがてリーダー格となったのは、ブント系のシンパ学生だった。
ただ、第4インターの活動家は穏健な理論家が多く、学内でセクト間の対立はほとんど見られなかった。それは、その後の全闘委の活動において引き継がれ、各セクトのゆるやかな共闘関係が全共闘運動の終息まで続いた。おそらくそれは初期の第4インター系の人々が残してくれた財産だと思われる。まさに一橋の全共闘運動の良き伝統となったのである。

5月19日 前期臨時学生大会は942人の未曽有の参加者を集めて行われた。
中教審答申・大学立法反対闘争の方針と国立本館封鎖の是非が議論された。全闘委の国立本館バリストは支持を得られず、執行委の国立本館封鎖反対の決議が可決された。これを不満として全学評・全闘委は全員退場した。中教審答申・大学立法反対闘争は波状ストを提案した執行委案は否決され、1年生クラスから出された修正案が可決された。
その内容は、①20日より全学スト突入26日再び学生大会を開く②スト実は各クラス1名で構成する③スト中は全員登校し討論集会をする。
5月20日 後期臨時学生大会も700人以上を集めて開催された。
討論は全闘委の本館封鎖に集中し、大学を考える会から自主撤去を要求する動議が出され、全闘委は採決前に退場した。中教審答申・大学立法反対闘争の方針はノンセクト連合案が可決され、1週間ごとのチェックポイントとして学生大会を開きストを続行することになった。

新入生は全国学園闘争と政府・大学による弾圧・東大入試中止の影響を受験生として受けているので大学立法への関心は高かったと思う。一方で一橋大での大学と学生の団交で交渉されている問題への関心は乏しく、5月17日に全闘委が国立本館封鎖を行ったことへの理解と支持は新入生には広がっていなかったようだ。ベトナム反戦、安保沖縄闘争も緊迫した情勢であったが十分に情宣と行動提起が行われず、1年生にはあまり浸透していなかった。前期後期とも学生大会で中教審答申・大学立法反対闘争のストライキが可決されたが、主導したのは民青系執行委でも全闘委でもなく、前期では1年生のクラス、後期ではノンセクト連合であった。

5月23日 中教審答申・大学立法粉砕全国学生中央総決起集会が明大記念館で開催され全闘委50名が参加。
5月24日 28日 30日 前期後期スト実主催による対評議会会合が開かれ、2・28確認書を巡り紛糾が続いた。
5月25日 「大学立法・中教審答申粉砕」全学デモ 前期学生大会決議に基づき前期後期ストライキ実行委員会が行動提起し、整然かつ合法的に行進することを方針に教職員学生1500人が参加し、日比谷公園から大蔵省文部省前を通り八重洲口までデモ行進した。
5月26日 前期臨時学生大会でスト続行 スト実有志の提案で「全員登校、クラス討論を中心に法案の可否が決定するまで長期ストライキを打つ。1週間ごとにチェックポイントを置き、学生大会で反対決議がなされたらスト中止とする」ことを決議した。
5月27日 後期臨時学生大会でスト続行 封鎖自主解除、2・28確認書についても議論
6月2日 前期臨時学生大会でスト続行 ストへの受け身参加=沈滞ムードを反省し、大学改革委員会を設置し、クラスの自主講座を調整することも決議
6月3日 後期臨時学生大会でスト続行
6月6日 全闘委が小平で決起集会を開いた後、学務委員室を封鎖した。
6月7日 第2波全学デモ 全闘委も混じえて約1000名の学生・教職員が参加し、日比谷公園からジグザグデモも展開し学生1名が逮捕された。
6月9日 前期臨時学生大会で5つの議案書が出され議論し、自主ゼミ、読書会、自主講座の増設、ネトライキ組にビラを郵送して登校を呼びかけるなど決議して、スト続行
6月10日 後期臨時学生大会で2・28確認書白紙撤回決議、スト2週間続行
6月15日 反戦反安保沖縄闘争勝利統一集会 日比谷に5万人結集 国立集会に300人、日比谷公園一橋大集会には400人が参加した。2時から日比谷野外音楽堂で開かれた市民集会には入りきれない部隊が続出し、小田実ベ平連代表のあいさつの後次々と各団体の決意表明が行われる中、東大全共闘の山本義隆代表が忽然と現れ安保粉砕に向けて決意表明を行い姿を消した。集会終了後は霞が関、虎の門、新橋、銀座、八重洲口を通るコースを市民団体、反戦青年委員会、全都全共闘連合の順に長蛇の列をなすデモ行進が敢行された。ベ平連など市民団体は道いっぱいのフランスデモを繰り広げた。一橋からの参加者は葬式デモ50人、べ平連250人、全闘委100人に分かれて街頭デモに参加した。デモは東京駅八重洲口で解散になったが、続々と到着する学生、労働者、市民の人の波でぎっしり埋まり、さながら解放区の様相を呈した。
6月16日前期 17日後期学生大会流会
6月20日 第3波全学デモ 「大学立法・中教審答申粉砕」を訴えて、日比谷公園で津田塾大学の学友約500人と合流し、常盤橋公園まで約1000名で合同デモを敢行した。
6月21-22日 小平祭開催 討論「状況と言語表現」(渋沢孝輔、天沢退二郎、金井美恵子)シンポジウム「研究者の主体性と学問」(安藤紀典、海老坂武、清水多吉)講演「エロスと暴力」(足立正生)などが行われた。
6月23日 前期臨時学生大会で7つの提案について活発な討論あり、7月7日までストを続行
6月24日 後期臨時学生大会では8月5日までスト続行
6月26日 スト実主催の前期問題討論会開かれる。前期(小平、教養課程)と後期(国立、専門課程)の間には学生、教官、事務の人員、待遇、設備などに大きな差別、格差があることを明らかにした。
6月27日 大学立法粉砕全都全共闘総決起集会が明治公園で開かれ、東京周辺の約60大学の全共闘が参加し、ベ平連、サークル、クラス単位の参加も目立った。9千人が結集し、一橋大からも数十名が参加した。
7月5日 第4波全学デモ 一橋大250人が国学院大学の学友200人と合同で清水谷公園から日比谷公園までジグザグデモで戦う。
7月7日・14日前期8日・17日15日後期臨時学生大会 は続々流会し、なし崩し的に夏休暇に入っていく。一時の高揚どこ吹く風と一橋新聞の見出しは嘆いている。
7月9日・14日 社会学部問題説明会開催 確認書問題、社会学部運営委員会問題をめぐって討論が行われる。
7月10日 大学立法粉砕全都全共闘集会に4500人が早稲田大に結集し、一橋大からは全闘委約30人が参加し、早大全共闘などの報告を受けた後日比谷公園までデモ行進した。
7月11日 第5波全学デモ 300人が常盤公園から日比谷公園までジグザグデモで闘う。社会学部教授会のデモ参加の評価をめぐって後期スト実と全闘委が対立する。
7月11日・17日 出入国管理法案粉砕シンポジウム 磯研集会所で田上、鈴木(道)、鈴木(秀)、中川、海老坂、山田欣吾等の教官も参加して行われた。
7月18日 後期スト実・商学部闘争委が商学部教授会に会合要求した。
7月18日 第6波全学デモ 清水谷公園に約200人が結集し、集会でノン・ポリ行動委員会、全闘委、院生共闘、8クラス闘争委員会、経済学部闘争委が連帯のあいさつをして、日比谷公園までデモを行い、後期スト実は「大学立法が強行採決されたら即時学生大会を開催し無期限ストで立法粉砕まで闘う」と述べ解散した。
8月3日 大学運営に関する臨時措置法案が参議院本会議で強行採決された。
8月4日5日 対評議会団交で、学生側の2項目要求①大学当局は大学立法を一切認めず、同法に基づく通達等の措置を全面的に拒否せよ②4・21次官通達を拒否し、機動隊を学内に入れるな。を大学当局は拒否し決裂した。

5月下旬からの大学立法反対の闘争は全学的な盛り上がりを見せた。毎週のように学生大会や教職員を含む全学デモが行われ、ストライキが継続し、多くの学生が参加した。5月25日の全学デモが私のデモ初体験になった。スト実は国立本館を封鎖した全闘委とも、それに敵対する民青とも距離を置くノンセクトが主導して、様々な意見や立場の人々が広く参加しやすかった。前期問題、各学部の抱える問題、入管法問題なども取り上げる動きが出てきた。1年生はクラス討論を通じてできた仲間と一緒にデモや集会に参加することが多かった。われわれ8クラスの仲間10人ぐらいで渋谷まで出かけてハチ公前で、勝共連合の反共宣伝に負けずに、大学立法反対の署名集めもした。6月15日はベ平連のデモに加わりwe shall overcome を歌ってフランスデモをした。7月から8月はクラスの仲間と大勢でプールで遊んだりした。その後は前年夏休みに1か月泊まって受験勉強してお世話になった信州の学生村の民宿に泊まりに行ったり、隠岐島に帰省する友人について京都から松江に旅したり1年生の夏休みを楽しく過ごした。

全国全共闘結成から安保沖縄決戦へ
9月3日 早大第2学生会館と大隈講堂が封鎖解除された。早大奪還全都全共闘集会が開かれ、学内でも大学法粉砕、無期限スト貫徹全学総決起集会に70人が結集し、全闘委、院生共闘、Sゼミ代表,商闘委、ノンポリ行動委、入管法粉砕実行委から連帯のあいさつがあり「無期限スト・新館封鎖」が提案された。8クラス闘争委員会からは「わがクラスからは11名が参加している。論理の面ではまだ弱いが最後まで闘う」とあいさつし注目された。
9月5日 全国全共闘連合結成大会が全国178大学から2万6千人が参加し日比谷野音で開かれ、大会スローガンは「70年安保粉砕・沖縄闘争勝利!11月佐藤訪米実力阻止!10・21闘争勝利!破防法・騒乱罪攻撃粉砕!大学法発動粉砕・全国大学闘争勝利!ベトナム人民の解放闘争勝利・全アジア人民と連帯して闘おう!反戦派労働者と連帯して闘おう!全国大学をバリケード占拠せよ!全国全共闘の旗の下、闘う全国学友は安保決戦に総決起せよ!」で特に11月佐藤訪米阻止闘争への決起が強調され、結成宣言、闘争宣言が行われた。官憲は5千名の機動隊員を配置し検問体制を固め、山本義隆議長をはじめ逮捕令状の出ている学友を不当逮捕した。
9月9日 前期自治会執行部(民青系)主催の対評議会団交に全闘委・院生共闘・202行動委員会などが介入し、8.4-5団交の2項目要求を拒否した評議会を追求した。
9月11日 大学当局が兼松講堂で学生教職員2千人を集め一方的な説明会を開催したが、全闘委・院生共闘・202行動委・NON行委など250名が授業再開を図る収拾策動であるとして追及、粉砕した。
9月12日 大学当局は授業再開の声明を出した。
9月24日 前期学生大会 執行部提案は否決、前闘委提案は否決保留となり、8・5行動委(旧スト実)提案の大学法に関する2項目要求が通るまでの無期限ストライキが可決された。
9月24日 後期学生大会 封鎖解除を強く要求する「全国共闘を推進する会」(民青系)と「考える会」(右翼系)が議事進行に抗議し議長団を解任し、大学立法闘争の総括・方針の討議はなされないまま流会した。
10月2日 前期ストライキ実行委員会主催の前期教授協議会追及討論集会開かる。8・4,5団交の経過、2項目要求の内容について認識が極めて不十分な教官が多く、論理的対決にならない。

国立本館封鎖解除の攻防
10月5日 国立本館封鎖が解除された。 午後5時半ごろ白ヘルメットの右翼学生集団約40名が国立本館に突入し占拠した。本館内での講演会を聴きに来ていた市民学生高校生が追い出された。右翼集団はバリケードを強化し逆封鎖した。全闘委は再占拠―再封鎖のため攻撃を加えたが、右翼集団は本館内から石や瓶を投げ放水を行った。教官数十名が双方に暴力をやめるように説得する一方で、当局は機動隊200名を要請し、新館の水をとめた。全闘委の本館奪還闘争に呼応して新館派(202行動委、ノン行動委、院生共闘)約60名は封鎖貫徹を叫んで学内デモを行った。それに対して秩序派あるいは体育会系の学生は敵対しもみ合いを起こした。全闘委は11時ごろ攻撃をいったん休止し、本館奪還の拠点として新館1階を占拠封鎖した。深夜全闘委は散発的に本館奪還を試みたが、本館前で右翼、民青のアジにあおられた「一般学生」によって阻まれ、本館と投石合戦などを繰り返したが、小康状態のまま朝を迎えた。
10月6日 午前10時ごろ全闘委約40名は本館を奪還すべく武装して本館に向かったが武装右翼約100名によって阻止された。午後には右翼学生が新館封鎖解除を唱えて新館前に結集した。野々村教官を挟んで押し問答の末、右翼集団は封鎖解除に移ったが、右翼の実力解除に反対する学生数百名が新館入り口に座り込み抵抗し、右翼集団は座り込んでいる学生を角材で排除しようとしたが失敗した。4時15分「機動隊学内進入」の声が流れ全闘委は急遽撤退した。その時には右翼集団は封鎖解除に着手していた。封鎖解除反対派は総括集会を開き、デモの後解散した。

〈Oの証言〉
 この時期、本館には封鎖派の泊まり込み学生も少なく、昼間は市民にも開放された空間となっていたので、右翼集団が実力で封鎖解除したことにはなっているが、実際には抵抗らしい抵抗はなくあっさりと逆封鎖されてしまったのが実情だ。ただ、当日5日と翌6日には、本館に立て籠もる右翼と外から本館に向けて攻撃する全闘委の間で、激しい闘いが続いた。6日には右翼も本館から飛び出してきて、本館脇のところで白兵戦が演じられ怪我人も出た。結局、全闘委は、本館のすぐ隣にある新館を新たに占拠し、そこを拠点に反撃を試みたが、「機動隊が来るぞ」との声で最終的に新館からも撤退した。

10月7日17日 後期学生大会が続けて流会となる。
10月8日 全国全共闘中央政治集会開かる。午後4時半から日比谷野音に全国・全都全共闘の学生4千人。午後6時から兼松講堂で国立べ平連、国立反戦青年委員会、10・10一橋大学実行委員会主催の10・8全国立反戦集会が開かれ150名が参加した。

月3日に大学立法が成立し、夏休みで学園闘争に緩みが出たのを見計らうように、全国の大学で相次いでバリケードが解除され、国家権力の攻勢が強まった。東大日大を中心に全国の大学の全共闘は8つの新左翼党派をも糾合し、全国全共闘を結成し、11月の佐藤訪米阻止の安保政治決戦に向けて隊列を整えた。私は9月3日の早大全都全共闘集会、5日の日比谷野音の全国全共闘連合結成大会に初めてヘルメットを着けて全闘委の隊列に参加し、国家権力と対峙することになった。
なぜそうなったのか。8月の大学1年生らしいのどかな夏休みの日々は9月から一変して、国家権力との闘いの日々となった。今考えるとここには大きな飛躍がある。この飛躍した決断の背景としては、父親への反抗、社会主義への親和性、ベトナム反戦の世界的なうねりがあったと思う。父のようにはなりたくないという信念は幼いころからあった。家庭ではわがまま勝手にふるまい、ちゃぶ台返しで妻子を脅かし、他人の悪口ばかり言っているが電話口では上司や客にざーます言葉でこびへつらう。巨人大鵬卵焼きと下手なゴルフしか趣味もなく、知的なことに関心がなく、大学時代ボクシングが強かったこと、銀座や浅草でやくざと喧嘩したことばかり自慢する、普通のサラリーマン親父と言えばそれまでだが、ああはなりたくないと思い続けてきた。父親の向こうにサラリーマン社会を見て、社会全体の支配体制に反発した。一橋を出てエリートサラリーマンになることは断じて嫌だというのが1つ目の背景だ。
社会の変化や社会主義には中学生から興味があった。マルクスの共産党宣言や入門書を読んだが、アジテーション調の文章や下部構造が上部構造を規定する機械的唯物論は納得できなかった。ソ連型の前衛党社会主義と違う人間的な社会主義を求めた。加藤周一の「ウズペック・クロアチア・ケララ紀行」「世界漫遊記」を愛読した。社会学部で社会学や社会変動論を勉強しようという考えで志望校を選んだが、入学してみると一橋大学社会学部には社会学の講義がないので驚いた。社会科学の殿堂を自称するこの大学で商経法の3学部に含まれない分野を集めたのが社会学部であるらしい。人間的な社会主義を求めたいのが2つ目の背景だ。
第3の背景はベトナム反戦を主調とする世界的なスチューデント・パワーだ。パリ5月革命やアメリカのベトナム反戦運動がアメリカの侵略を打ち砕こうとするベトナム人民の闘いと連帯して世界の仕組みを変えて行くという期待を感じていた。
全闘委の諸セクト、反帝学評、フロント、第四インターなどの先輩もオルグで我々の背中を押してくれたが、いずれもまじめな活動家あるいは理論家で、決起せよと発破をかけてくれるような闘士はいなかった。反帝学評のFさんはたくさんの本を読んでいる勉強家で党派の理論だけでなく様々な社会理論を紹介してくれた。これ以降は全闘委と行動を共にすることになるが、全闘委には加盟手続きはなく、定例の会議や連絡網があるかどうかも知らなかった。リーダー格は二学年上のOさん(ブント系)らしく、上記の3セクトの他にはノンセクトの人が多いが、中核派、ML派、革マル派を名乗る人がいて、別組織として石川一雄さんの裁判闘争を行う全国部落研、ベ平連で脱走米兵を支援するジャテックをやっている人が周辺にいた。
 
反戦・反安保・佐藤訪米阻止闘争へ
10月10日 ベトナム反戦・安保粉砕・沖縄闘争勝利・佐藤訪米阻止・羽田闘争2周年統一集会が午後3時40分から明治公園で開催され、午前10時半から日比谷公園で独自の青年労働者総決起集会を開いた後デモ行進を行って来た反戦青年委員会1万4千人をはじめ10万人が結集した。東大全共闘、長崎反戦、沖闘委、沖縄反戦、反安保婦人同盟などの決意表明の後「10・21国際反戦デー、佐藤訪米阻止闘争に向けて、この結集をさらに拡大し、巨大なうねりを作ろう」という大会宣言を行い、4時半に集会を終わり、市民団体、全国全共闘、高校生、反戦青年委員会、革マルの順で青山1丁目―赤坂見附―山王下―虎の門―霞が関―日比谷公園をデモ行進した。青山通りを埋め尽くしたデモの隊列は何キロも続き、激しいジグザグ、フランスデモを繰り返した。
10月15日 前期ストライキ実行委員会主催の第2回前期教授協議会追及討論集会開かる。
出席教官の過半数が2項目要求に賛成した。
10月20日 10・21闘争に向けて全学総決起集会が約60名を結集して兼松講堂前で開かれ、集会は権力・マスコミが10・21に向けて作り上げてきた恐怖体系に若干委縮しつつも10・21を闘い抜こうとする気迫とが複雑に入り交じる雰囲気の中で進められ、反帝武装行動委員会、フロント、社学同、反帝学評から決意表明、NON行動委、院生共闘から今までの闘争総括が述べられた。
10月21日 国際反戦デー 全闘委は兼松講堂前で集会の後、各党派、ベ平連に分かれ都内各所の戦いに向かった。都内は史上空前の弾圧体制が敷かれる中で闘いは行われた。前日までに都内の拠点校のほとんどがロックアウトされる状況下では、数百人単位の機動性に富んだ軍団が先鋭部隊となり、それを取り囲む形で全共闘、市民などが闘う闘争にならざるを得ない。午前中に日本生産性本部、日本工業倶楽部、横田・砂川基地、NHK放送センターの少数ゲリラ闘争、午後は同時多発的ゲリラ戦に移行し、新宿、飯田橋、高田馬場などの街頭闘争が闘われた。最終的に新宿での解放区闘争が10・21闘争の凝縮点となった。当日官憲に逮捕された学生・労働者は全国で1400余名で一事件としては最大であった。
11月5日 二項目要求無期限スト貫徹=評議員追及集会が評議員11名、学生400名が出席して開かれた。評議会として二項目要求はのめないと表明した。
11月11日 評議員追及集会は評議員13名学生300名が結集し討議したが議論は平行線をたどった。
11月13日 訪米阻止ゼネスト銀座実力闘争 午後5時半銀座に到着した青ヘルを中心とした400名(一橋からも30名が参加した)の部隊は地下鉄銀座駅構内で集会を行った後、路上で待ち構えていた機動隊に攻撃をかけた。最初の攻撃で機動隊は一時退いた。駅構内の後続部隊は少数に分かれてゲリラ的に闘った。
11月15日 訪米阻止反戦総決起集会が決戦前夜2万5千人の労働者・学生を結集して日比谷野音で行われた。
11月16日 朝8時40分ごろ第7機動隊約200人が小平分校本館に侵入し立ち入り調査を強行し、ヘルメット1個その他を押収し10時過ぎに引き上げた。前期スト実約20人が正門でピケットラインを張り抵抗、抗議した。
新左翼各派は恵比寿、東京駅、蒲田、品川などから首相の訪米を阻止すべく羽田へ向けて進撃した。東京駅には午後2時ごろ反帝学評、フロント、ML派、東大全共闘など千余名が結集し駅構内で集会を開きデモをした。3時半ごろ駅南口から機動隊が襲い掛かり、不意を衝かれた学生は神田方面に引き返したが120名が逮捕された。続々と羽田に向かう部隊は17日朝にかけて機動隊や自警団と対峙し、蒲田一帯を一時制圧した。この2日間の闘争で逮捕者数は全国で2093人、東京で1920人で一橋からもかなりの逮捕者を出した。

前期スト解除・学内秩序旧に復す
11月24日 前期学生大会でストライキ解除される。議事は一貫してクラス連合=右翼秩序派のヘゲモニーの下で運営され、スト解除、臨時執行部の選出が決議された。
12月14日 午後2時から日比谷野外音楽堂で、11・13闘争で大阪扇町公園にて官憲に虐殺された岡山大生糟谷孝幸君を追悼する「糟谷君虐殺抗議人民葬」が全国全共闘連合の主催で開かれた。一橋からの参加は十数名だった。反戦労働者、新左翼各派学生、ベ平連など市民団体、約1万人が結集し日比谷公園を埋め尽くしたが、午後3時ごろ竹竿などで武装した革マル派が人民葬への介入を図り、新左翼各派と衝突を繰り返した。機動隊が介入し187人が逮捕された。
12月19日 全国全共闘連合第2回大会が日比谷野外音楽堂に7千人の学友を集めて開催された。10-11月政治決戦の総括は勝利・敗北と各セクト分かれたが、今後の行動方針は三里塚闘争支援、革マル派の武装敵対粉砕、高校生と連帯した入試粉砕、4~6月の安保決戦をバリストで闘うなどであった。

一橋新聞12月16日号「一橋大闘争総括への視点」(要旨)
5・17封鎖突入は、既存の自治会内左翼反対派が踏襲してきた運動過程に逆行し、自治会運動の合法性を前提とすることなく、全国教育闘争の質を現実の運動として一挙に突き出すことによって闘争の電撃的な一点突破を実現した。5・17の全学的波及力によって成立した5・19、20前・後期学生大会における大学立法反対スト突入以降、全闘委は国立本館を拠点として、闘争を組織化運動へと純化していく。本館封鎖闘争と大学立法反対ストの結合が組織化の課題となるが、全闘委は大学における管理―非管理の否定、学生による大学自主管理=学生権力の樹立=大学解体というサンディカリスティックな幻想に囚われて、個別闘争を普遍的政治闘争へと発展させる方向性を示せず、理論的指導性、方針提起能力を欠如していたため、スト実を領導することができず、自己の内なる加害性の告発=自己否定の説教師として運動したに過ぎなかった。5・17の主体は10・21国際反戦闘争を闘い抜いてきた部分であったから、その衝動の質はわれわれの資本主義社会での社会的隷属からの解放の渇望を秘めたものだったが、一橋闘争の学園政治主義への傾斜によって闘争は空転した。
 個別学園闘争と政治闘争との区別と連関を考えるとき、個別学園闘争はその極限化によって政治闘争へと転化するのではない。個別学園の闘争組織(全共闘)が共通の社会的利害を貫徹するため連合して(全国全共闘)国家権力と対決するに到っても、それは社会闘争の域内にある。しかし全国全共闘が大学立法粉砕闘争を闘うとき、社会闘争である本質は変わらないが、教育の帝国主義的改編に対決するものとして、同時に政治領域にある。このことが全国全共闘に過渡的な二重性を与えている。全国全共闘の任務は、この社会闘争と政治闘争の過渡的な二重性を、統一的=相互媒介的に展開することだ。
 アジア・太平洋圏の中で進行する産業再編成の一環として、教育における帝国主義的改編を捉え、労働力商品として日々生産、再生産されていく我々自身に対するブルジョワジーの攻撃とは何か、全大衆の前に実践的に提示していかなければならない。産学共同路線のよりドラスティックな貫徹は我々一人一人を競争と分断の真只中に落とし込め、資本の下に無条件に奉仕する絶望的な社会的隷属へと送り出していく。我々が何に,何故対決しなければいけないかという視点を欠落したことに一橋闘争の最も大きな欠陥がある。資本の下への絶望的隷属はわれわれの感性=実践の制約と破壊をもたらすという下向的認識=実践の深化が求められる。
 全闘委が掲げた二項目要求(①対評議会会合獲得②2/28確認書3/1自己批判書白紙撤回)は一橋方式=近代化路線に対決するものとして措定されていたにもかかわらず、現実的な衝撃力を持った運動として展開されず、終局的には学生大会決定(6/10後期学生大会での2/28確認書3/1自己批判書白紙撤回)に便乗しての闘争展開となり、無展望に陥った。
 産学協同の制度化、新国土開発に見合った地域社会との結合、これらはすでにモデル大学=新幹線大学として東教大の筑波学園都市への移転で本格的に開始され、その全体像は中教審答申の中で明らかにされ、各大学の自主改革で部分的に開始されている。一橋大では先取りされた形で進行している参加による学生の包摂=支配をテコにして、教育の帝国主義的改編の完成に向けて、来春の中教審答申が用意されている。2/28確認書3/1自己批判書白紙撤回―近代化路線粉砕の闘争を反産学協同のラディカルな持ち込みによって、大学立法、70年安保を射程に入れた闘争を展開しよう。

 反安保・政治決戦・佐藤訪米阻止の実力闘争に参加することはずいぶん真剣に考えて自分に課せられた試練のように受け止めて決断した.生き方、思想的立場としてはやるべきだ。パクられるのは厄介だが何もせず傍観するわけにもいかない。身の回りのものを整理して、当日は緊張して隊列に加わった。11月13日の地下鉄銀座駅構内と16日東京駅のホームに上がる階段、どちらも隊列の前の方が機動隊と接触すると同時にさっさと崩れて居なくなってしまう。逃げ足が速すぎてがっかりした。再集合する場所も知らされていない。ずいぶん悩んだ割には決戦はすぐ終わってしまい、がっかりし拍子抜けした。一方で逮捕されずに済み、決意を強いられた緊張状態から解放されホッとした。
全国全共闘を結成し全国の学園のバリケードから出撃し、佐藤訪米阻止の現地闘争を頂点として、反安保沖縄政治決戦を闘う目論みは国家権力の壁に阻まれ、国民大衆に波及することなく終わった。
1968年10月18日前期学生大会でバリストで10・21国際反戦闘争を闘うことが決議されて始まった第一次一橋闘争は1969年11月24日前期学生大会でストライキが解除されることで終焉した。
スト解除、授業再開の後は学内の集会や活動の呼びかけもなく、再開された授業には出ないでクラスの友人と会ったリ、ブラブラしていたと思う。女子大のシェークスピアの読書会に誘われたり、デパートの歳暮の配送所のアルバイトをしてすぐやめたり、競馬の馬券を買いに行ったり芯のない自堕落な生活をしていたが、学生運動は諦めたわけではなく、クラスの友人で集まって資本論の読書会を始めていた。全闘委の先輩方からのオルグやセクトの集会の誘いもほとんどなく張り合いのない毎日だった。年末にFさんに誘われて全逓の反合理化闘争の支援で夜に東京中央郵便局に行った記憶だけがある。
(続く)

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