野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2026年04月

今回のブログは、『続・全共闘白書』編纂委員会の個人史インタビュープロジェクトにご協力いただいた金杉和夫氏(1969年一橋大学入学)からの投稿である。
1969年から1974年までの『一橋新聞』の記事をベースに、金杉氏他の証言を交えて、一橋大学の闘争と全国的な政治闘争について書かれた記録である。一橋大学の闘争はほとんど知られていない「知られざる学園闘争」なので、貴重な記録である。今までこのブログで紹介してきた「全国学園闘争」シリーズの一つとしてお読みいただきたい。
また、政治闘争の記事については、大学新聞ではあるが、かなり詳細に書かれているので、記録的価値は高い。
原稿の分量が多いため、4回に分けてブログに掲載してきたが、今回は最終回1973年から1974年である。
1

(『一橋新聞』1970.9.16)

『一橋新聞』で読む1969年から1974年~一橋闘争・全国全共闘・安保沖縄闘争・三里塚闘争・立川闘争を振り返る
日本各地で全共闘によって展開された全国学園闘争の一環として一橋大学で闘われた一橋闘争と全国全共闘・安保沖縄闘争・三里塚闘争・立川闘争など諸闘争の経過を『一橋新聞』の1969年1月1日第845号から1974年11月1日第944号の100号分の記事と論説から抜粋・要約して再現し年表形式の経過記録にまとめた。『一橋新聞』は学生新聞で部員はほとんど全共闘の支持者であるから、その主張には偏りがあり、闘争の参加人数や成果を誇張して表現している傾向はあるが、現場に居て取材した者が記事を書くというのが原則なので、その内容は大体は事実に即していると思う。学内の出来事の記事はできるだけ採用し、学外の記事は学内の者が組織的に参加した出来事を中心に採用した。
加えて、1968年入学のO氏と1970年入学のM氏からいくつか証言を頂いたので、経過を追って〈Oの証言〉〈Mの証言〉として「太字」で挿入した。
併せて、1969年入学の金杉個人の当時の体験や感想をできるだけ率直に思い起こして経過を追って「斜字体」で挿入した。経過記録と読み合せると当時の状況が実感してもらえると思う。
当時の一橋大学で、前期とは1,2年生のための教養課程のことで小平キャンパスで行われていた。後期は3,4年生の専門課程で国立キャンパスで行われていた。前期は現在は国立キャンパスの東校舎に移転している。

1973年
1・18 東大安田決戦4周年
学生運動の飛躍をかけ闘わる
プロ統派全学連を中心とする1・18実行委員会は午前中東大当局のロックアウト攻撃を粉砕して安田講堂前集会、午後6時から清水谷公園で総決起集会を行い、対政府・文部省闘争を全国から結集した約300名の部隊で闘い抜いた。

川口君虐殺糾弾!早大解放の闘いは進む
昨年11月8日川口大三郎君が革マル派に虐殺されたことを契機に早大四万学友は早大解放の闘いに着手していた。この日中核派は「カクマル殲滅!早大解放!」の闘いとして、早大近くの公園から早大正門に約1000名で進み突入をめざしたが、官憲の弾圧に阻まれ約60名が逮捕された。早大構内では自治会運動の再生を目指す臨執、新執、全学行動委員会の学生と革マル派が対峙したが、全国動員の革マル派300名の敵対に屈せず、当局の試験攻撃による正常化攻勢を粉砕し、総長団交を勝ち取るための総決起集会が克ち取られた。政経、1文、2文でストライキが決議され、試験を阻止する闘いが全学に波及しつつある。

自衛隊の放逐へ 住民登録・協力業務拒否闘争
1月の立川闘争
1月以降「否の会」「芽の会」「若葉町市民会議」などの市民団体、および労働者、学生らは連日立川市役所に詰め、自衛隊の住民登録を事実上阻止し、阿部立川市長に最低限自衛隊の住民登録を保留させ、更に団交を継続し、募集業務などの協力業務を拒否し、住民登録拒否の闘いに対する弾圧はしないことを要求した。
ところが全国革新市長会は「基地立入調査権」を政府に要求し、阿部市長はそれと引き換えに住民登録保留を解くと言い出した。「基地立入調査権」の政府からの回答がないまま保留解除に踏み切って行った。市長選では「自衛隊が強行移駐してくるならば体を張って阻止する」と言っていた阿部市長は、議会主義に屈服し市民を裏切って行ったのだ。
2・12,15阿部市長の官憲導入
による階級的敵対を弾劾!
2月12日は、立川市議会議長を先頭に政和会、新政会、共産党の議員団が防衛庁関係者と懇談するため貸し切りバスで出かけようとするのを、市民が座り込んで阻止しようとするのを、市議会議長の圧力により阿部市長が官憲-立川署を導入し排除したのだ。防衛庁は一方的に返還後の自衛隊の使用を示唆した。
15日は、庁議で最終的に保留を解除しようとした阿部市長に対し、これを粉砕しようとした市民団体を機動隊を導入して強制排除していった。官憲を導入した「革新」阿部市長の責任は重大である。立川市職労からも批判の声があがっている。今後も立川市職労と共に労学市民が実力で住民登録を阻止することが予想される。

1・24 於東京地裁八王子支部に50名結集す!
北畠君(日野自工)解雇粉砕第4回公判闘争
1・31東京高裁判決
東京タワー決起富村順一氏への
差別実刑判決を弾劾せよ
反軍・反基地闘争の巨大な前進を!

ミッドウェイ母港化阻止 横須賀闘争
1・21現地集会開催 横須賀臨海公園にプロ統派を始め300名の労学市民
2・20現地闘争 勤労会館に青ヘル300を先頭に4百名

内乱鎮圧部隊進駐阻止 立川闘争
2・27 住民登録再開阻止 
市民団体、テント村に結集する労学、全学連現闘団(プロ統派)が早朝から立川市庁舎に結集し登録再開に抗議。全学連(プロ統派)40名、叛旗派、革マル派もそれぞれ集会。
3・7 先遣隊進駐一周年
午後6時過ぎから基地正面ゲート前でテント村呼びかけによる自衛隊放逐、進駐阻止の集会が開かれた。

このころ私は誘われて久しぶりに立川闘争に参加し市庁舎への抗議行動などに参加していたが、日時ははっきりしないが立川の公園の集会で、介入してきた革マル派の部隊と旗竿を構えて衝突し組み合うところを横から鉄パイプで襲われ顔面にけがをした。これが最後の闘争参加だったかもしれない。
新聞部では、1972年4月から6月にかけて部員5人で廣松渉、吉本隆明、梅本克己、黒田寛一、田中吉六を採り上げ「初期マルクス像の再構成に向けて」という連載、1972年10月から73年5月にかけて部員5人で宇野弘蔵の『資本論研究』を採り上げて「マルクス経済学への途」という連載を行った。73年2月と5月には金杉単独で「戦後世界とベトナム」の論考を掲載した。自分たちの不完全な闘いが多少なりともベトナム人民の闘いに連帯していたことを確認したい気持ちがあった。

3・15富村氏をついに奪還す
70年7月8日の東京タワーにおける決起以来、3年にわたり獄中に囚われながら、権力と非妥協的な闘いを続けてきた富村順一氏が3月15日、遂に沖縄人民の、全ての労働者人民の手に奪還された。富村氏は沖青同をはじめとする闘う隊列と共に果敢な公判闘争を展開してきたが、第一審、第二審とも2年半の実刑判決を受けたのだった。そして沖青同三戦士の国会内決起闘争は富村氏の闘いを受け継ぎ発展させるものであった。午前8時、支援団体は富村順一氏を迎えて統一集会を克ち取った。この集会で出獄第一声を戦闘宣言として発した富永氏は同日行われた沖青同国会内決起第14回公判闘争に参加していった。

4月1日号掲載 原子力発電所反対闘争への招待
放射能から命を守る闘い 滝沢潤氏(全国原子力科学技術者連合)

4・26前期学生大会でストを決議
26日午後2時320名の結集で臨時学生大会が開かれた。
前期自治会執行委の議案内容は、筑波法反対と学内諸要求が主なものだった。
狭山差別裁判糾弾闘争委員会からは「来る5月下旬に予想される寺尾新体制の第1回公判に、ストライキで高裁前日比谷小公園に結集せよ」と提案された。
反帝学評・反軍行動委員会から「73年反戦―反合春闘と連帯し、沖縄返還をテコとした帝国主義的国民統合を粉砕し4・28-5・15をストライキで闘い抜け」と提案された。
小平祭共闘会議からは前期評議会によって一方的にでっち上げられた小平祭規約の白紙撤回と評議会の自己批判、公選制による小平祭の設立が訴えられた。
午後6時20分採決が行われ、前期自治会執行委員会案が可決、糾闘委案が可決保留、反帝学評・反軍行動委案が否決、小平祭共闘会議案も否決された。
これによって4月27日28日、5月15日ストライキが行われることになった。

この記事からは3日間のストライキが誰の提案でどのように行われたかよくわからない。

ベトナム、インドシナ人民の進撃と連帯
4・28全国統一行動闘わる
労働者人民中央総決起集会 沖共闘など於・代々木公園
ベトナム人民、沖縄人民の闘いと連帯し、ベトナム革命の圧殺・封殺を許さず、沖縄の手国主義的・反革命的統合粉砕!日米共同反革命基地強化阻止を掲げ、4・28労働者人民中央総決起集会が沖共闘の呼びかけで、6時半から代々木公園で開催され、約1200人(プロ統派550、戦旗派100,糾弾共闘50,沖青同20、プロ青同その他)が結集し、集会後日比谷公園までデモを行った。
この日中核派は芝公園に2000名、革マル派は日比谷公園に1200名を集め、集会、デモを行った。

5・15「屈辱の一周年」
諸戦線を結集し永続的な沖縄解放闘争へ前進を!
沖共闘など於・日比谷野音
 協定批准阻止―5・15返還粉砕―自衛隊派兵阻止闘争を闘い抜いてきた沖共闘をはじめとする労働者人民は、5・15返還の屈辱の一周年を永続的沖縄闘争の飛躍点とすべく5月15日午後6時から日比谷野外音楽堂で総決起集会を開催した。参加者三千名、主な内訳はプロ統派600,戦旗派200,プロ青同150など。この日鶴見の沖縄人居住地区で独自闘争に決起した沖青同から沖縄の現状を告発したアッピールが寄せられた。反戦米兵組織VVAW横須賀支部、三里塚反対同盟の北原事務局長が連帯の挨拶を行った。
労働戦線から決意表明のあと、女性解放をめざし優生保護法改悪阻止を闘う三法案粉砕実行委員会から、この集会と並行して厚生省糾弾闘争をリブ、アジア婦人会議、ベ平連など市民団体と共に闘っていることが報告された。反軍戦線、部落解放戦線、入管戦線、反弾圧戦線の発言のあと、各党派が決意表明し9時ごろ終了し、デモを貫徹した。

再開狭山差別裁判公判闘争勝利へ
5・19部落解放全関東集会
狭山差別裁判糾弾!石川青年奪還!再開公判闘争勝利に向けて、全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議の呼びかけで、5・19部落解放全関東労働者人民集会が400名の結集で午後6時より豊島公会堂で開催された。基調報告では、「部落民、在日中朝人民は相対的過剰人口の帝国主義的利用の流動的労働力の最下層労働者として社外工、臨時工、パートの位置を強制的に迫られている。部落差別、人間の自然的差異、「性」による差別の拡大、推進(差別文書「女性の能力開発」が端的に表している)を通した近代的労務管理が、マル生、合理化を頂点にして労働者階級の団結の解体として推し進められている。企業別、産別、本工の従業員組合を突破してしいたげられた人民を見つめた労働運動の推進が必要である。」と述べられた。

緊迫した情勢下闘いの深化にむけ
5・20優生保護法改悪阻止第2回東京集会開催
5月20日板橋区の産業文化会館で優生保護法改悪阻止第2回東京集会が300名を結集して午後1時半から開催された。昨年の上程策動以来各地域・職場・学園等で闘いを組んできたアジア婦人会議・婦人民主クラブ・リブ?三法案粉砕東京実行委員会等二十数団体と諸個人が「優生保護法改悪阻止実行委員会」に結集し共同討論・共同闘争を推進してきた。5月11日の閣議での再上程決定に対して、政府厚生省に対する断固とした抗議糾弾行動を連続して展開している。
経過報告のあと諸団体から以下の5点が問題提起された。1.改悪の真の狙いは何か 2.産む産まないは女の権利か 3.優生保護法と「障害者」問題 4.ピルの解禁をどう考えるか 5.刑法堕胎罪をどう考えるか。
討論では、府中療育センター在所生有志グループ・青い芝の会等が障害者の立場で発言し、「侵略を内乱へ」などと空語を並べる諸君や「産む産まないは女の権利」という諸君は「障害者の悲惨を助長する差別者だ」と糾弾した。障害者の痛みに健常者はいかに応えていくのか、避妊とは何かといった根源的問題が提起された。

6・3 ミッドウェイ母港化阻止
横須賀現地闘争大衆的に闘わる
昨年の相模原闘争以来、相模原、横須賀、立川、横田を貫いて、労働者、市民、反戦米兵を中心に国道16号線を貫いた強力な反軍・反基地の闘いのうねりが生み出されてきた。6・3集会はその闘いのうねりをミッドウェイ母港化阻止へと集中すべく、母港化阻止連絡会を中心に呼びかけられた。反軍諸団体を始め、プロ統派300,市民団体100,第4インター100,戦旗派50を始め700名が結集した。VVAW横須賀支部の発言、米駆逐艦ガーキー豪乗組員の米兵一同からのアピール、軍需産業労働者である全造船浦賀分会―親組合に反対する会の決意表明があった。

7・7-8 第13回小平祭終わる~徒労の試み
第13回小平祭は7月6日の国立兼松講堂での前夜祭に続いて7日8日の両日前期小平で開かれた。昨年10月の学生大会決定(実行委の公選制移行決議)を尊重して自主的に解散した前実行委のあとを受けて発足した第13回小平祭実行委は、統一テーマとして「自らの掌に新しい力(と未来)を取り戻そう」を掲げ、次のようなアピールを発した。
小平の現状考察として、学生自治の重要な基礎単位たるクラスの崩壊状態、もう一つの単位であるサークルのサロン的情況を挙げ、大多数の学生は受験教育に象徴される差別と分断の能力主義教育課において、主体性は圧殺され、みずみずしい感性は摩滅している、とする。「大学祭とは各クラス・サークル企画を中心とした、われわれの知的創造の集約の場であり、同時のわれわれの知的創造を未来に向かって前進させる場でもある。」(第8回小平祭アピール)それは大学祭当日だけでなく学内の広範な恒常的な運動の一環として存在する。
祭は歴史的に考察すれば、日常的に抑圧されている一般大衆に非日常的な発散の場を与えることによって支配手段とする側面を持つ。従って我々は、実際の運動の中で虚構性を突破し、上記の理念の内実化を図って行かねばならない、と訴える。
 第9回以降積み重ねてきた理念から、第12回実行委が大学祭の本質を支配階級が与えた「擬制のまつり」と看破し、それを解体し「真正のまつり」へと突き出したことから見れば明らかに後退である。
本番の小平祭では、実行委は河村錠一郎助教授、出口裕弘教授によるシンポジウム「文学と大学」、小川プロ制作の映画「三里塚―辺田部落」などを企画、クラス、サークル企画にも多少は意欲的な企画も行われたが、総じて模擬店の氾濫に終始し実行委の呼びかけも徒労に終わったようだ。

10・5ミッドウェイ入港
10・10全青協関東ブロック横須賀現地闘争
10・21反戦闘争闘わる
早大解放闘争―決戦局面へ
11・5川口君虐殺糾弾全人民追悼集会
11・8早大周辺でバリケード戦を展開

11月一橋祭雑感
俺たちの戦略――寒風吹き荒ぶ 心優しさ
一橋祭運営委員会の商魂たくましい呼び屋根性も徹底して、ローマクラブの創設者から、マッコイ・タイナー、野坂昭如から南沙織まで。大学通りの天下市ではそぞろ歩きの家族連れを巻き込んで。都留学長のしゃちこばった音頭も応援部の身の毛のよだつ口上も聞き流して飲んでたお情けのビールや樽酒、キャンパスを歩くわれわれが払拭できなかった肌寒さは何故。彼らのこれ見よがしの心優しさが鼻持ちならない。

再開公判闘争火蓋切る
狭山差別裁判糾弾闘争
11・27二万人の怒りの叫びで高裁―霞が関を包囲す
12・6青年労働者先頭に多くの労組結集す
12・8第二の狭山事件大阪松原市で発生
糾闘委も連日決起

11・19学内集会 11・26学生大会を軸に組織化
糾闘委は再開公判に向けて11月19日の総決起集会と26日の学生大会を軸にして闘争体制を整えた。19日の総決起集会は糾闘委、新聞部、反帝学評を中心にした実行委員会で組織された。20名が結集し糾闘委から狭山事件の発端から石川氏の別件逮捕、再逮捕、第1審から第2審井波退官に至る経過が明かにされ、新聞部からは日共の部落解放闘争への敵対に対する批判が提起された。最後に反帝学評が「昨年11月に早大文学部で革マル派にリンチ殺人された川口大三郎君は狭山差別裁判の糾弾に決起し、革マル自治会執行部が狭山闘争を放棄している早大で、学友に訴え闘いを組織しようとした。革マル派は彼を狭山闘争を闘おうとしているから中核派のスパイと決めつけ虐殺した。早大解放闘争と結合し狭山闘争を闘い、部落解放闘争に敵対する革マル派を粉砕していく。」と提起した。
糾闘委の開催要求署名によって開催された26日の前期学生大会は百名余の学生しか集まらず流会した。自治会執行部の日共民青は狭山闘争への取り組みを実質的に放棄し、悪質な誹謗のビラを撒いていた。

1973年
早大解放闘争
早稲田祭粉砕闘争を経て一年に及ぶ
11・5川口君追悼全人民集会 日比谷野音に2千人
11・23早稲田祭粉砕闘争 早大十一共闘

1974年
1・7田中アジア歴訪阻止闘争 沖共闘潮流 大田区民公園
2・7、14狭山差別裁判再開第4第5公判闘争 革マル派の介入粉砕し闘わる
3・22再開公判闘争 寺尾、証拠を却下 

 金杉は1973年春から二年生のT子と同棲し、国鉄のディスカバージャパンの宣伝ポスターを都内の街中に貼るアルバイトに精を出し、妊娠がわかって出来ちゃった結婚をしてT子の実家の離れに転居し、74年2月に長女が生まれ、3月に一橋大学を卒業し、4月に多摩地区の市役所に就職した。

4月1日新入生特集号 サークルへの招待
教育研究会 恒常的教育闘争の展開を!
映像文化研究会 映像創造行為の噴出を
狭山差別裁判糾闘委 狭山差別裁判糾弾 石川青年奪還
アナキズム研究会 管理社会との闘い
一橋新聞部 自己宣伝

この5つが当時の全共闘系のサークルだった。

4・28 政府、資本家打倒を掲げ 
社共の参院選集約を突破し、さらなる政治闘争への決起を 日比谷野音で中央集会
プロ統派800名を先頭に戦旗派など200名を結集、沖共闘浜口事務局長が開会宣言、経過報告し、三里塚反対同盟北原事務局長が連帯の挨拶のあと、全金本山、東水労、東京反戦、国労高崎、労共闘、東交労研、三法案粉砕実行委、全都神奈川糾弾共闘、法制審粉砕実行委から決起の呼びかけを受け、集会を終わり、戦闘的デモを貫徹し、総括集会では全学連(北条委員長)の仲間から総括提起を受けた。

5・14法制審議会 最終答申を粉砕せよ! 二百名が結集
5・29法務省構内に突入 刑法改悪―保安処分による人民収奪を許すな

5・15沖縄人民解放に決起!中央労働者人民集会 於・明治公園
プロ統派500名、反帝戦線、プロ青同、中大戦線を含め全体700名を結集し沖共闘統一集会として開催。

狭山闘争 死闘の4か月に突入
5・22糾闘委決起集会を貫徹 於・小平キャンパス
小平学食前で昼過ぎに開かれ、糾闘委のメンバー等10余名が結集し、糾闘委から狭山差別裁判の過去11年間の経過、一橋における狭山闘争の取り組み、行動提起として23日公判闘争への参加が呼びかけられた。
5・23公判闘争に1万8千人が決起
解放同盟完全無罪を要求

5・28前期学生大会は流会
大会は始め三百余名で成立し、糾闘委からの石川氏の無実・無罪・即時釈放の闘いへの決起の呼びかけがあり、自治会執行委からは新大菅法―大学改善問題などについて提案があったが、退場者の続出により学生集会となった。

6・15社共の参院選収約を突き破り
政府打倒へ武装進撃す!
明治公園において沖共闘主催の刑法改悪・小選挙区制粉砕、南朝鮮人民連帯、田中自民党政府打倒、労学中央総決起集会が開催され、プロ統派を先頭に日本反帝戦線も含め約1500名が結集した。

6・28,29第14回小平祭開催
新たに組織された実行委による2回目の小平祭であるが、例年通りのオマツリとして終始した。

前期自治会執行委員長選挙行わる
A君555票S君303票でA君が選ばれた。期日と詳細は不明。

7・7参議院選挙に三里塚反対同盟戸村一作委員長が立候補

狭山差別裁判公判闘争
9-10月決戦の火蓋切る
9・3二会場に二万人が結集
石川青年からのアピール 勝利への不屈の闘志
9・5日共による分断策動を激しく糾弾

9・8刑法改悪阻止討論集会 
文京区民センター 救援連絡会議主催

10・10三里塚闘争 現地に五千が決起!
鉄塔死守、成田決戦の火蓋切る ガタガタの人民抑圧空港

10・21国際反戦中央闘争
―狭山決戦勝利 フォード来日阻止
午後6時から宮下公園で「10・21狭山政治決戦勝利!フォード来日阻止!日朝連帯!
革マル絶滅!帝国主義ブルジョワ政府打倒!中央総決起集会」が社会党社青同解放派(プロレタリア統一戦線潮流)の青ヘル武装部隊を中心に一千余の戦闘的労働者・学生を結集して勝ちとられた。全都神奈川糾弾共闘からの<死刑判決絶対阻止、無実の部落青年石川一雄君実力奪還>の訴えと日本社会主義青年同盟からの「革命的労働者党建設に向けた最大の環―反革命的宗派革マル解体絶滅」の訴えが強調された。

 秋期の反戦反安保反基地沖縄を掲げた政治決戦であるべき10・21闘争が全国全共闘を継承した沖共闘で主催できなくなり、反帝戦線もプロ青同も市民団体も共闘できず解放派単独の集会となり、革命党建設、革マル解体の叫びが悲愴感を帯びている。全国全共闘、新左翼という政治潮流が完全に解体し、諸党派が党派対立と党内抗争の泥沼に陥っていることを示している。

10・31狭山差別裁判第82回公判
石川青年に無期懲役
客観的事実を無視 部落差別には一切触れず
解放同盟 闘いの強化を声明

11・2一橋祭シンポジウム成功
刑法改悪阻止に熱気

以上、全国全共闘と一橋大学全闘委とその流れをくむ者たちが行った運動と闘争を『一橋新聞』の紙面でたどってきたが、全国全共闘を引き継いだ沖共闘が主催した集会は1974年6月15日が最後であり、一橋全闘委の流れをくむ共闘組織「全共闘」が学生大会に議案を出したのは72年10月12日が最後である。その後は反帝学評・反軍行動委員会が73年4月26日の学生大会に議案を出し、狭山差別裁判糾弾闘争委員会(糾闘委)がその後も繰り返し狭山闘争への決起を訴えたが、74年10月31日の石川青年への無期判決で一つの区切りを迎えた。全闘委系が掌握していた小平祭実行委員会は73年から委員の公選制に移行した。この時点では、一橋新聞部、糾闘委を始めいくつかのサークルが残り、優生保護法改悪阻止と刑法改悪-保安処分反対の動きが起こっている。

【お知らせ その1】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。
http://meidai1970.sakura.ne.jp/gakuentousou.html

●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は2026年5月22日(金)に更新予定です。


今回のブログは、2026年3月6日から3月8日にかけて行われた明大土曜会メンバーによる「沖縄訪問」の報告である。今回の訪問は、土屋源太郎さん(伊達判決を生かす会共同代表、元明大中執委員長・都学連委員長)の強い要望により2年ぶりに企画された。参加者は12名。現役学生や若い世代も参加した「老青学」のメンバーで、Yグループ゚とNグループの2つのグループに分かれて行動した。
以下、NグループのN氏による報告である。

土曜会26年春季沖縄ツアー(主にNグループ)の報告                              2026年4月4日 N・T

3月6日(金)
早朝、羽田を出発。40分遅れで那覇に着き、まずレンタカーを借り、うるま市宮城島へ向かう。途中、金武湾を埋め立て、勝連半島と平安座島を繋ぐ海中道路を通る。1974年頃、CTS石油備蓄基地建設に伴い開通した道路だ。この道路により海の流れが遮断され、金武湾の生態系も大きく変化したと聞く。途中、前方に巨大なタンク群が見えた。これが石油備蓄基地だ。当時、東京でもCTS建設反対の運動があり、私自身も明大在学中に参加した。その頃は金もないので沖縄現地に来ることは出来なかったが、初めて巨大タンクを真近かに見て感慨深いものがある。

画像1
宮城島の沖宮鉱山では、辺野古埋立て用土砂を採取しており、地元の「うるま島ぐるみ会議」の皆さんが「ダンプ遅延行動」を行っている。事前に連絡をしてあった同会議の事務局長・伊波さんが迎えてくれ、我々も行動の列に加わる。1日3回の行動で、午前中はまだ10人位は参加するそうだが、午後は人も少ないという。他に東京から来たという数人に加え、我々5名が加わり、10数名で「ムカデ行進」を行い、1時間くらいの行動になった。その間、搬出トラックを阻止したが、行動を終えたら待機していた10トンダンプが列をなして排出ガスをまき散らして積み出し港まで向かった。1日200台くらいが搬出するという。
その後、宿泊先の辺野古、クッションに向かう。いつものように「海の見える家」に荷物を置き、Yグループとの合同交流会の居酒屋に向かった。現地で活動している橋本さんを含め13名で賑やかに交流を深めた。

3月7日(土)
11時からキャンプシュワブテント前で県民大行動に参加。オール沖縄会議推薦の議員が全員落選するとういう衆議院選挙から初めての県民大行動で、550名が参加した。

画像2
「辺野古新基地が建設されても普天間の代替となる長い滑走路を選定するまで返さない」と米国防省の公式文書に明記されていたことが判明。前日の6日には普天間飛行場に配備されている米軍ヘリが名護市許田の野球場に不時着するという事故も発生していた。
そうした状況を反映して、発言者の多くが「辺野古が唯一の解決策」と言ってきた政府のウソを糾弾し、米軍基地の日常的な危険性を訴える発言が相次いだ。
続いて連帯の挨拶として、我々の団長である土屋源太郎さんが発言に立った。土屋さんは、「私の大学の後輩の若い人たちと沖縄に来た」と土曜会のことを紹介。そして高市政権の軍拡政策を批判し、「沖縄知事選挙は日本全体の問題であり絶対勝たないといけない」と語り、共に闘いましょう訴えた。土屋さんの発言対しては会場から万雷の拍手が起こり、発言後には何人もの人が握手を求めて駆け寄って来るなど、大変な人気だった。
IMG_2964
(土屋源太郎さん写真)
<県民大会での土屋源太郎さんの挨拶>
こんにちは。91歳になりました。でもね、今日久しぶりにこの集会に参加して、沖縄のみなさん方とお会い出きた。もう本当に感激です。ありがとうございます。
今日は私の明治大学の後輩の土曜会の仲間と12名でこの集会に参加しております。(拍手)私は東京に生まれました。そして戦争になって、1920年の4月18日、米軍の空襲によって我が家が焼かれ、そして私は両親・妹と4人で火の中を逃げ回った記憶があります。戦争は絶対に駄目なんです。平和が必要なんです。それが私の信念の根底にはあります。
それは、東京で私は大学に入るとともに学生運動に参加し、全学連のリーダーとして当時の立川米軍基地の反対の闘い、いわゆる砂川闘争を指導しました。そしてその結果、基地内に侵入したということで逮捕・起訴された。そして裁判になりました。伊達裁判長は日本駐留米軍は戦力で憲法9条に違反している。米軍基地の存在そのものが許すべきものでないとして無罪判決を出します。日米両政府はこれに非常に泡食って、最高裁でいろいろ陰謀をした結果、その判決は破棄された。最終的に有罪となります。
しかし私は、あの伊達判決では米軍基地が憲法違反であるというその精神というものは非常に大事だというふうに思って、現在もその運動を続けています。(拍手)今トランプは軍事力を持って(イランに)介入して、トランプの思うような国に変えようとしている。そのようなトランプと高市首相は一層同盟を強めようとして、そして日本を、今まで戦争の出来なかった国を、戦争をできる国に変えようとしている。この辺野古基地についても、実際にできっこない基地、まさにこれを強行するための工事を再開した。こんなこと絶対に許すことはできないと思っています。それと同時に防衛費を大幅に増額して、先ほど言ったように、戦争できない国を戦争のできる国に変えようとしている。そして、人命を実際に殺してもいいような兵器を輸出するとさえ決める。それから安保3文書を改訂して敵基地攻撃が更にできるようにする。非核三原則も変更しようとしている。こんなことは絶対に許すわけにはいかないんですよ。(「そうだー」の声)本当に闘いを我々は一層強めていかなければいけないと思います。しかし残念ながら先般の衆議院議員選挙で野党は大敗しました。沖縄もそうです。私が住んでいる静岡でも、まったく野党が全部負けてしまった。しかし、そんなことでめげる必要はない。(「そうだー」という声)敗因を分析するとともに、再度闘う姿勢が必ず出て来ます。私は確信しています。
9月には大事な沖縄の知事選があります。沖縄は日本の国内で最も米軍基地が集中している県です。ですから、沖縄県知事選というのは単なる沖縄県の問題ではない。日本全国の問題だと私は考えています。絶対に沖縄の知事選は勝ち抜かなければならない。そのためには、やはり沖縄と本土との連帯、これを一層強めていかなければいけない。残念ながら本土は沖縄に対するいろんな形の温度差があります。それを我々は何としても沖縄とともに闘う、連帯を強めるという闘いを続けたいふうに考えております。この知事選を勝ち抜くためにも、あらゆる手段をもって、できる限りの支援をするという決意を持っています。皆さん、連帯を一層強めてともに闘いましょう。がんばりましょう。ありがとうございます。(「ありがとうー」の声)

img20260417_05044459
(「沖縄タイムス」記事)
集会後は、予定では大浦湾を一望できる瀬嵩の旧灯台跡に登り、埋立て工事の状況を見る予定だったが、Yグループの高齢者の皆さんが坂を登るにはしんどいというので、予定を変更し、全員で恩納村にある「創価学会・沖縄研修道場」を訪れた。ここはかつて、アメリカ軍の核ミサイル「メースB」の発射基地があった場所だ。 
画像4
沖縄には戦後の1961年から恩納村、読谷村、金武町、うるま市の4カ所に核ミサイルメースBを8基ずつ配備する基地が建設されていた。72年の返還後核基地は撤去され、恩納村の基地跡を創価学会が購入したのだが、「基地の跡は永遠に残そう。『人類は、かつて戦争という愚かなことをしたんだ』、という、ひとつの証として」という池田会長の提案でミサイル発射台が残されたという。そこが現在、平和学習の場として整備されている。

画像5
8カ所の発射口の内1か所はほとんど現状のまま保存されており、内部の天井には同じ大きさのメースの絵が描かれ、中国大陸に向かわんとしていた。ひんやりとした発射台内部は核基地の緊張感を漂わせていた。あまり知られていない施設だが、かつて沖縄に存在していた核基地の実態を知る貴重な場だ。
ここでYグループとは分かれ、我々は嘉手納基地が一望できる「かでな道の駅」に向かった。嘉手納の飛行場では時折爆音を響かせ米軍機が飛び立っていく。展望台には軍用機のファンと思われる人たちがカメラを構え撮影をしていた。

3月8(日)

画像6
朝はまず、昨日行けなかった瀬嵩の旧灯台跡に登った。日曜日で埋立て作業は行っていない様子だったが、6台の砂杭打ち作業船・サンドコンパクションパイル船が配置。高さ80mにもなるという櫓が林立して、他の作業船も併せ、広い大浦湾が狭く感じた。遅れていると言われていた砂杭打ちも1月に入り急増し、1月は月別で最多の1700本だったという。それでも杭打ちだけで今後15年はかかるという。
画像7
続いて我々は、普天間飛行場が一望できる嘉数高台に向かった。「世界一危険な基地」と言われるように、飛行場の周りには住宅地、学校などの教育施設がひしめいており、事故の恐怖と隣り合わせだという日常が実感され場所だ。同地は、沖縄島中部に上陸した米軍との激戦地の一つでもある。高台を占領するために一進一退の攻防戦が展開された。戦死者も多く、慰霊碑も何基か立っている。
画像8
その中に「韓民族出身沖縄戦戦没者慰霊 青丘之塔」がある。これは沖縄戦に駆り出された朝鮮人軍人・軍属386名を追悼する碑で、1973年に建立された。ここにも植民地支配の実態が表れている。
次は、浦添市の浦添西海岸に向かった。ここは、かつて米軍牧港補給基地(キャンプキンザ―)の基地水域があった場所で、2008年に返還された。自然海岸が残っているこの場所に、米軍那覇軍港の移設計画が進んでいる。那覇市の海岸沿い、那覇空港にも近い場所にある米軍那覇軍港は、現在はあまり使われていないとされるが、普天間飛行場返還が盛り込まれたSACO合意で浦添地区への移設を条件として同じく「返還」が決まった。ただ、沖縄県も移設を認めており、辺野古ほどには注目されていない。
画像9
我々は、海岸沿いにある巨大なパルコシティーの展望デッキに登り、海岸を一望した。満潮だったためにサンゴ礁は見えなかったが、干潮時にはサンゴ礁が広がり多彩な水中生物の生息が見られるという。こうした貴重な自然が米軍の身勝手な要望で破壊されていくことは許されない。
画像10
次に訪れたのは豊見城市にある旧海軍司令部壕だ。 同司令部はアジア・太平洋戦争末期の1944年に豊見城市の高台に人力によって掘られた。壕内は良く保存されており、司令官室や幕僚室、医療室などが公開されている。部屋には手榴弾で自決した時の破片の痕が当時のまま残っている。同施設は、1953年元海軍部隊隊員が司令部壕跡を訪れ、800名以上の遺骨を収集し、沖縄海友会によって海軍戦没者慰霊之塔が建立されるようになって以降、1970年に壕内の一部が復元、公開されるようになった。そうした経過から旧日本軍を顕彰する色彩が強く、沖縄民衆に犠牲を強いた反省や責任の視点が乏しい。有名な太田司令官の「沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ 賜ランコトヲ」という電報も展示され、美談として語られている。
ただ、沖縄戦末期の海軍の追い詰められた実状の一端を知る場にもなっている。一見の価値はある。
 最後に、1月22日に亡くなった沖本裕司さんの自宅を弔問に訪れた。沖本さんは、1970年、一橋大学在学中に返還前の沖縄に移住し、基地問題や沖縄での韓国民衆連帯などに取り組んできた。「本土」の左翼活動家として当時最も早く沖縄の重要性を認識し、自ら移住して「本土」-沖縄を繋ぐ活動に精力を傾けた人だ。近年は島ぐるみ八重瀬の会事務局長として辺野古新基地建設反対運動に関わってきた。また、南京大虐殺の歴史を学び、「南京・沖縄をむすぶ会」の発足に関わり、23~25年に沖縄からの南京平和友好訪問団の団長も務めた。何冊もの報告書を出版した。昨年秋にも体調が優れない中訪中し、編集に力を注いでいたという。
我々土曜会のツアーでも何度もお世話になった。3年前のツアーではで南部戦跡を案内していただいた。
画像11
(平和祈念公園で沖本さんの解説を聞く 2023.3)
自宅ではお連れ合いと「本土」から来ていた娘さんのお話をお聞きした。お連れ合いも70年、秋田の大学から沖縄に来て、沖本さんと共に反基地・平和運動に参加されていたという。お話は尽きなかったが飛行機の時間が迫っており、慌ただしくご自宅を後にし、那覇空港に向かった。
 
今回のツアーは土屋さんの強い希望で実現したが、準備期間があまりなく、前回のような学生・若者グループとしての参加は組めなかった。ただ2名の若者、学生が我々のグループに参加、「老青学」のツアーが実現できた。初めて訪れた場所もあり、有意義なツアーとなったと思う。訪問後、「辺野古・大浦湾での平和学習の船転覆による2名死亡」という痛ましい事故があり、辺野古基地反対にとっては厳しい状況が続くが、「諦めずに闘い続ける」という沖縄の人々に学び、今後も基地反対、沖縄との連帯の活動を続けて行きたい。

以上、明大土曜会の沖縄訪問の報告である。
最後に、若手(20代)参加者2名の沖縄訪問の感想を掲載する。
「今回土曜会の皆様と一緒に沖縄の方を訪問させていただきました。人生で初めての沖縄だったので、やっぱり知識としてはいろいろ沖縄の現状であるとか、米軍基地による米軍の重さとかいうものを意識していたんですけども、やっぱり現場を見て改めてとんでもないことになっているなということがよく実感できました。
やっぱり今私にできることというのは、せいぜい沖縄の生の現実を見てきた者として、そういうことを伝えていくのが今はそれしかできないのかなと思いつつも、まだちょっとそれをやりながら今後も何かしらの形で沖縄との連帯の闘いの方に携わっていければなと思っております」

「基地問題の現場に足を運び、実態を把握できたのは得難い機会になった。特に宮城島における土砂搬出現場では、削られて山肌があらわになった自然の様子や無機質な警備員の様子を見て、建設反対の声が大きな力にかき消されそうになっているのを実感し、土砂流出やトラックをめぐる諸問題について地元の方のお話をお聞きして、基地建設の裏側ではこのような問題も引き起こされているのかと驚いた。ダンプの排ガスの臭いにおいは今でも思い出される。つい本島の基地に注目が集まりやすい中で、様々な視点から問題を捉えることができた。また、嘉手納では戦闘機による爆音に遭遇し、日常感じるであろう苦しみのごく一部ではあるが、日常生活に支障が出る騒音とは何かを体感できた。訪問中にヘリ不時着事故が発生し、沖縄の地方紙では1面を飾ったが、後日図書館で全国紙を調べてみると、その扱いは小さく、本土の関心度合いをまたも象徴していた。訪問後、悲惨な事故が発生するなど難しい局面にあるが、基地が日本で一番集中している沖縄に想いを寄せ続けたい」
(終)

【お知らせ その1】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。

●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は2026年4月30日(月)に更新予定です。

今回のブログは前回に引き続き、『続・全共闘白書』編纂委員会の個人史インタビュープロジェクトにご協力いただいた金杉和夫氏(1969年一橋大学入学)からの投稿である。
1969年から1974年までの『一橋新聞』の記事をベースに、金杉氏他の証言を交えて、一橋大学の闘争と全国的な政治闘争について書かれた記録である。一橋大学の闘争はほとんど知られていない「知られざる学園闘争」なので、貴重な記録である。今までこのブログで紹介してきた「全国学園闘争」シリーズの一つとしてお読みいただきたい。
また、政治闘争の記事については、大学新聞ではあるが、かなり詳細に書かれているので、記録的価値は高い。
なお、原稿の分量が多いため、何回かに分けてブログに掲載する。今回は1972年である。

1
(『一橋新聞』1970.9.16)

『一橋新聞』で読む1969年から1974年~一橋闘争・全国全共闘・安保沖縄闘争・三里塚闘争・立川闘争を振り返る
日本各地で全共闘によって展開された全国学園闘争の一環として一橋大学で闘われた一橋闘争と全国全共闘・安保沖縄闘争・三里塚闘争・立川闘争など諸闘争の経過を『一橋新聞』の1969年1月1日第845号から1974年11月1日第944号の100号分の記事と論説から抜粋・要約して再現し年表形式の経過記録にまとめた。『一橋新聞』は学生新聞で部員はほとんど全共闘の支持者であるから、その主張には偏りがあり、闘争の参加人数や成果を誇張して表現している傾向はあるが、現場に居て取材した者が記事を書くというのが原則なので、その内容は大体は事実に即していると思う。学内の出来事の記事はできるだけ採用し、学外の記事は学内の者が組織的に参加した出来事を中心に採用した。
加えて、1968年入学のO氏と1970年入学のM氏からいくつか証言を頂いたので、経過を追って〈Oの証言〉〈Mの証言〉として「太字」で挿入した。
併せて、1969年入学の金杉個人の当時の体験や感想をできるだけ率直に思い起こして経過を追って「斜字体」で挿入した。経過記録と読み合せると当時の状況が実感してもらえると思う。
当時の一橋大学で、前期とは1,2年生のための教養課程のことで小平キャンパスで行われていた。後期は3,4年生の専門課程で国立キャンパスで行われていた。前期は現在は国立キャンパスの東校舎に移転している。

1972年
1・9 阻止共闘 緊急闘争を闘い抜く!
1月進駐に緊迫する立川
立川基地への自衛隊進駐は、第4次防と自衛隊沖縄派兵を通じた自衛隊の帝国主義軍隊としての確立の一環として不可欠であり、とりわけ首都圏の内乱鎮圧体制の拠点としてヘリコプター部隊の立川進駐が緊急の課題となっている。当初の予定であった「9月予備進駐、12月正式進駐」は滑走路末端の反戦放送塔の建設を軸とする自衛隊進駐実力阻止闘争の突出と阿部「革新」市長の当選にも表われた立川市民の進駐反対の「世論」(世論調査では82%の市民が進駐反対)の前に破産した。だが自衛隊沖縄派兵と歩調を合わせて行うという戦略的な緊急性のため、今回防衛庁・防衛施設庁は「1月予備進駐、3月正式進駐」を打ち出し、1月中旬に立川市長阿部に最後の説得、「話し合い」を行い、直後に進駐強行を開始することを明らかにした。反戦放送塔の建設で実力阻止闘争の体制を打ち固めた「立川基地自衛隊進駐阻止共闘会議」(阻止共闘)は、進駐を前提にした「話し合い」に唯々諾々と応じようとする立川市長阿部を団交・質問状等で追求し、立川市民に実力阻止闘争への巨大な決起を促した。
阻止共闘が主催する「緊急総決起集会」が1月9日1時から砂川反戦広場で開催された。全都からプロ統派200、叛旗派100、フロント60、赤色戦線20、ベ平連、高共闘など総勢600名が結集した。冒頭、平和利用市民会議の石川さんが阻止共闘を代表し基調報告し、反戦放送塔を支持し闘う者のみが自衛隊進駐を実力で阻止できることを強調し、立川市長阿部の追求・弾劾・暴露の闘いを報告し、自衛隊進駐実力阻止の決意を確認した。続いて、反戦塹壕闘争委員会、全学連中央執行委員会、立短・商短進駐阻止闘争委から決意表明、関東反軍連絡会議と立川への進駐が予定される宇都宮の東部方面隊ヘリコプター部隊に闘いを展開している宇大反軍行動委から連帯の挨拶があった。最後に三多摩反戦青年委員会、全国反軍国主義共闘、首都圏反帝戦線連合、三多摩赤色連合が発言し、集会を終え、4時過ぎ立川市内デモに出発した。
防衛施設庁立川支部=西立川ゲートに向け戦闘的抗議行動を行い、立川駅北口で何千もの市民が見守る中であろう総括集会を行い、自衛隊進駐阻止への結集を呼び掛けた。
当日11時から「鉄塔を引き倒せ」と訴える中核・第4インターも砂川反戦広場で集会を行い、阻止共闘は早朝から反戦放送塔と反戦塹壕の防衛体制を敷いて中核派と対峙した。中核派は阻止共闘と反対同盟A氏M氏との土地をめぐる対立を、土地所有者と対立する者は闘争破壊者であると主張し土地所有の裁判支援と鉄塔、塹壕の撤去を方針化するが、阻止共闘と反対同盟の対立関係は進駐阻止の実力決起の中で労農学の結合として止揚されるべきであろう。
 
立川闘争には、私は反帝学評の親組織である社青同解放派の三多摩地域のオルグであるTさんから声がかかると、反戦塹壕の当直のような泊まり込みや主な闘争や集会に参加していた。一橋大学のある国立市に隣接する立川市で闘われている重要な闘争であり、一橋の学生が取り組むべき課題と思っていた。しかしかつて米軍立川基地の滑走路延長に反対し勝利した砂川闘争が、住民運動と学生運動が大きな役割を果たし、その後の反戦反基地反体制運動の原点となってきた歴史的意義と更に立川基地のもたらす売春や風紀の乱れを嫌って国立市が風致地区を名乗り学園都市と高級住宅地を築いてきた差別の歴史などを思い起こせば、もっと深い考えをもって取り組むべき課題であったと思う。

阻止共闘連日決起す 進駐を未だ許さず
1・9緊急闘争以降、連日の駅頭、団地等での情宣戦を展開した阻止共闘は、1月20日の阿部・江崎会談に鉄槌を加えた。阻止共闘の追求からこそこそと逃げ回って来た阿部市長が江崎と会談すべく市役所の門を出て防衛庁に向かおうとするところを包囲し、約20名の行動隊で市長室での3時間の及ぶ団交で阿部を追求した。自衛隊進駐の地ならしに過ぎない江崎との会談になぜ出るのか。話し合いで進駐が阻止できるのか。阿部は首長としてできることしかやれない、できるだけのことをする、など弱々しく居直り、職制に守られて命からがら防衛庁に逃げ出し、念願の江崎会談を果たし、防衛庁は2月早々の進駐を決意した。
1月30日阻止共闘は500名の結集で総決起集会を克ち取り進駐への本格的対決に突入した。この集会では沖青同の連帯の挨拶と三里塚反対同盟の戸村一作委員長の「反戦放送塔断固支持」の私信(下野氏あて)の紹介と各団体の発言が行われた。
 2・6から基地ゲート前座り込みに突入 連日2時~7時
防衛庁は2月7日早朝に大型ヘリ3台の予備進駐を強行することを決定した。これに対し阻止共闘は2月6日から恒常的座り込みを基地前で貫徹し進駐を阻止し抜く体制を確立し、進駐時にはゲート前を労働者・学生・市民で埋め尽くすことをよびかけている。
2月6日に砂川反戦広場で緊急総決起集会を開催し、行動隊20名をゲート前に派遣し座り込み闘争に突入した。行動隊は3時ごろゲート前に登場し固いスクラムで座り込み、市民に決起を呼びかけた。機動隊は百人余りで行動隊に襲い掛かり、暴行のあと一人一人戦士を放り出したが、行動隊は再度隊列を整え、ゲートの真正面の舗道で座り込みをやり抜き、恒常的座り込み闘争の口火を切った。砂川反戦広場で決起集会を克ち取った阻止共闘400名は市内デモを行い、ゲート前で行動隊と合流し、駅前で総括集会を行って解散した。
2月7日以降も連日座り込みを貫徹し進駐の強行を許していない。

1・9 国立大学の授業料値上げ 現行の3倍(3万6千円)
学費値上げ粉砕へ 全国各大学で闘いに決起
大蔵省は来年度予算原案で国立大学の授業料値上げを要求していたが、1月9日文部省、自民党とも値上げを承認し、昭和47年度の新入生から授業料が現行の3倍(3万6千円)に値上げすることが決定した。
学費値上げの攻撃に対して、九大教養学部、東北大教養学部、上智大、東京造形大、東北学院大などでストライキによる反撃の闘争が巻き起こっている。
本学では戦線の構築が立ち遅れており、かつて大学立法粉砕から三里塚・沖縄闘争を闘い抜いたエネルギーは潜在化したままである。新入生が結集する4月を新たな出発点として再度教育闘争の炎が燃え上がることが期待される。

1・10~13小平祭実行委員会合宿報告
全国教育学園闘争の「戦後」的地平を踏まえて―
小平祭実行委員会は今年6月に予定される第12回小平祭の方針確立に向けて合宿を行った。ここに合宿での討論の概要を報告し当面の行動方針を明らかにしたい。
最近数年間の小平祭の批判的検証、これが出発点である。
全共闘運動(一橋では全闘委―スト実運動)の爆発的高揚と後退、これと対応する学園における帝国主義的教育再編の隠然、公然の進行最近の小平祭と密接な関係を持つ。68年第8回小平祭は戦後民主主義イデオロギーの砦である「知性の共同体」=大学という幻想の最後のあだ花と言える賑やかなオマツリであった。69年第9回小平祭は、実行委員会が戦後民主主義を批判し反体制イデオロギーを対置し、実行委員会の「反体制的思惑」と旧態然たる「大学共同体」的オマツリの併存であった。70年第10回小平祭実行委員会は戦後民主主義対反体制イデオロギーという理念的対置の地平を超えて、実践的運動に定位し「サークル運動の革新」を提起し、71年第11回実行委員会は「クラス運動」を提起した。
その背後には、教育の帝国主義的再編と全国教育学園闘争の問題、「教育」をめぐる空前の攻防戦の「戦後」という状況がある。その中で日本の学生と学生運動は新たな地平を獲得した。ブルジョア社会における学生の運命と大学の役割の徹底した暴露、にもかかわらず冷厳なる「敗北」は学生層の絶望を生み出した。すべての「でたらめさ」が暴露され、しかし何もできない、という無力感の充満。このことが真剣に問題とされねばならない。
ここから我々は始めようと思う。「教育」問題との格闘を当面の課題とする。当面の行動方針としては、毎週木曜日午後実行委員会ミーティングを「教育」問題を軸に行う。村田栄一「国民教育論批判」、読書会、中教審答申批判の学習会、村田栄一氏を囲む討論会などを予定している。

2・8,10,15狭山差別裁判公判闘争
連日高裁に向け決起 2月結審策動を粉砕!
 昨年11月9日の第54回公判の際に、裁判長井波七郎は「そろそろ証拠調べを打ち切りたい。来年11月の退官までに判決したい。春ごろまでには実質上決着をつけたい」と意志表示した。これに対し、全国の部落青年・支援団体の闘う仲間たちが部落解放同盟を中軸として結集し、2月8,9,10,14,15の公判闘争、総決起集会、真相報告集会を闘い抜き、2月結審策動を粉砕し、4月15,18日、6月15,17日に予定される公判闘争へ隊列を打ち固め、狭山差別裁判粉砕・石川青年即時奪還そして部落完全解放をすべての労働者・人民の課題として闘い抜くことが確認された。
2月8日、公判第1日、高裁前日比谷小公園で9時半から、5000名を結集して差別裁判抗議集会が持たれた。10時傍聴団を送り出した後、朝田解同委員長の挨拶、各団体の決意表明があり、11時には高裁前で闘う青年部隊を残して、3000名がデモで中央集会会場の久保講堂に移り、中央集会では、①同和対策審議完全実施②特別措置法即時具体化③狭山差別判決取り消しの3点を中心に議論され、朝田委員長から長期的展望における部落解放闘争の決意が述べられた。4時半から裁判報告会が開かれ6時過ぎ抗議行動を終えた。
2月9日午後5時芝公園に400名が結集し「狭山差別裁判糾弾・石川青年即時奪還・政府―高裁の2月結審策動粉砕」中央総決起集会が開かれ、関東部落青年友の会の連帯のアピール、共催団体の全都高校生部落研連帯の発言、主催団体の全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議の基調報告のあと、日本反帝戦線・埼玉労叛共闘(戦旗派)・全学連・社青同中央・社青同奈良地本などの発言があり、東京高裁に向け戦闘的デモを展開した。
2月15日午前9時より日比谷小公園で狭山差別裁判糾弾公判闘争が4000名の結集で闘われた。解放同盟各県連、関東オルグ団の挨拶、報告、支援団体として狭山差別裁判糾弾支持共闘会議・全国部落研・全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議・被青同が発言した。4時ころ公判報告を受け、2月結審の野望を粉砕したことを確認し、4月の公判に向けた闘いの決意表明を行い、連続闘争を終えた。
2・14狭山差別裁判真相報告集会 部落完全開放に向けて
2月14日午後6時より神田・共立講堂で「狭山差別裁判真相報告講演会」約1000名を結集して行われた。朝田善之助氏(部落解放同盟中央執行委員長)佐々木哲蔵氏(担当弁護士)田英夫氏(国会議員)が出席し、証拠のでっち上げを証明する具体例を挙げ、この裁判の不当性が明らかにされ、警察・裁判所のでたらめさ、マスコミの怠慢が批判された。

月19日から28日連合赤軍による浅間山荘人質銃撃事件が起こり、誰もがテレビ中継に釘付けになった。3月には山岳ベースでのおぞましい大量リンチ殺人事件が明かになり、全共闘や新左翼のシンパたちには大変な衝撃であった。一橋新聞はこれらの事件を全くとりあげていない。とりあげることができていないことがかえってこれらの事件が与えた衝撃の大きさを物語っているといえよう。私には、革マル派、中核派との内ゲバは次第に凶悪化しついて行けないと感じている矢先のことだったので、これらの事件が反帝学評というセクトの運動から遠ざかるきっかけとなった。
 私は残っていた英語の単位を取り、ドイツ語の単位だけ残して4月から3年に進級し、府中のアジトを引き払い、国立に下宿を借りた。反帝学評の活動からも手を引き新聞部の活動に専念するようになっていった。小平キャンパスの活動は反帝学評、小平祭実行委そのほか下の学年の者たちが頑張っていたようだ。
ちょうど学生新聞の企業広告の代理業をしていた日本リクルートセンターが学生新聞を切り捨てて、独自にリクルートブックを作り学生に直接送るようになっていて、新聞部の主な財源である就職特集号の広告集めを自前で行う必要を生じていた。京都大学新聞などと作っていた全国学生新聞連合(全学新)で協力し合うこともしたが、スーツにネクタイで直接企業の一橋の先輩や就職担当者を訪問し広告を集める必要もあった。銀行、証券など大企業を回り、ダークスーツを着て黙々とデスクに向かっている先輩たちの姿を見るとサラリーマンにはなりたくないという思いを改めためて強くした。

3・7深夜 自衛隊(先遣隊)立川進駐を強行!
闇にまぎれて基地に侵入
阻止共闘、徹夜で抗議闘争
3月7日午後11時46分、防衛庁・自衛隊は先遣隊を立川基地に夜陰に紛れて進駐させた。防衛庁長官江崎が「8日午前3時トラック進駐、ヘリコプター午前10時」と進駐強行を正式に発表した午後11時5分には、すでにトラック21台と47人の先遣隊は陸上自衛隊練馬駐屯地を出発した後であった。しかも正面ゲートを避けて人気のない江の島ゲートから基地に侵入するという秘密主義であった。
7日深夜、ニュースなどで進駐強行を知った市民・労働者などが続々と正面ゲート前に集まり始めた。自衛隊立川基地進駐阻止共闘会議(阻止共闘)は緊急動員で約60名が結集し午前1時から早朝まで抗議行動と後続部隊の進駐を許さない闘いを展開した。早朝駆け付けた労働者・学生・高校生を加えた阻止共闘約100名はゲート前集会と駅頭情宣を7時から開始し、正面ゲートに突撃し機動隊と衝突した。8時ころから反戦市民連合系の「自衛隊立川基地使用阻止共闘」、国立のけやき台団地住民の組織した「否の会」、日共系の「明るい立川を作る会」などもゲート前で抗議行動を行った。9時過ぎから阻止共闘は立川駅北口広場で抗議集会を行い、市民に決起を呼びかけた。10数名の座り込み部隊を残しいったん解散した阻止共闘は、午後5時ゲート前に再度結集し、全逓青年部のヘルメット部隊150を先頭とする労働組合員と大規模な抗議行動をゲート前から駅前にかけて展開した。
8日午前10時頃小型ヘリコプターOH6二機と小型飛行機L19三機も宇都宮の陸上自衛隊東部方面隊から進駐し、前夜進駐した陸上部隊と合流して管制訓練を開始した。

3・12 三里塚と連帯しゲート前闘争を貫徹!
阻止共闘は3月12日午後1時から基地正面ゲート前で抗議集会を開き70年代戦線三多摩をはじめ立川周辺の市民団体なども闘いに加わった。反帝戦線(叛旗派)、全学連(プロ統派)、赤色戦線、反軍国主義共闘、三多摩高共闘が闘う決意表明を行った。

3・19 全国住民運動総決起集会
3月19日立川市の砂川反戦広場で全国各地の住民運動を闘っている農民・市民と中核派など二千名が結集し、全国住民運動総決起集会が行われた。砂川反対同盟の青木さんは「基地撤去まで闘う。私の土地を守る裁判を支援してください。」宮岡さんは「誰でも担いうる闘争として自衛隊移駐に対して闘う。」と発言し、反戦放送塔をはじめとする実力闘争よりも幅広い闘いを主張した。

3・25 立川反軍シンポジウム開催さる
3月25日午後6時から立川労政会館で立川反軍シンポジウムが開催された。進駐阻止闘争を闘っている労働者・学生や立川市民約百名が参加した。進駐阻止共闘の自衛隊オルグ隊として隊員工作や調査活動を行っている学生から活度報告があり、軍事評論家の藤井治夫氏から「四次防と自衛隊」、退役自衛官の山本武則氏から「中から見た自衛隊」について講演があった。

3・26 先遣隊放逐!本隊進駐阻止!立川集会開かる
3月26日進駐阻止共闘主催で先遣隊放逐!本隊進駐阻止!立川集会が砂川反戦広場で行われた。プロ統派労学150名、叛旗派50名、赤色戦線30名、三多摩高共闘50名など350名が結集した。塹壕闘争委員会、反戦・全学連(プロ統派)三里塚現地行動隊、宇都宮大学反軍行動委、商短・立短進駐阻止闘争委員会から決意表明があった。立川駅北口までデモして総括集会をして市民に訴えた。

3・15 批准書交換粉砕闘争 於清水谷公園
沖縄人民と連帯し4・28へ闘いの火蓋切る
「3・15批准書交換粉砕!全軍労スト連帯!返還粉砕―派兵阻止!中央総決起集会」は沖縄共同闘争委員会の主催で午後6時から清水谷公園に全学連(プロ統派=220名)反帝戦線(戦旗派=200名)等の約600名を結集して開かれた。
冒頭、司会が「反軍国主義青学共闘=フロントが沖共闘から公然と脱落を開始しつつある。」と明らかにし、続いて沖共闘事務局の浜口氏が「3・15闘争の準備過程で、われわれは昨年の11・19闘争の敗北の痛苦な総括に踏まえ、今春期政治闘争の爆発に向けた戦列の強化のために討論を重ねてきたが、反軍国主義共闘の諸君は以下の3点で沖共闘を批判し、公然と脱落を意思表示した。①われわれの原則的スローガンである“沖縄の再属領化阻止・沖縄人民の自決権断固支持・日本軍の沖縄上陸阻止”を沖共闘のスローガンとすべきである。②沖共闘は内部に排外主義的部分を抱え込み容認している。沖共闘は死を宣告された。③現在の新左翼は相対的に安易なヒロイズム・経済主義に落ち込んでいる。かかる反軍国主義共闘のナンセンスな提起に我々は断固たる批判を加えた。①沖共闘全体を貫くスローガンは沖縄返還粉砕・自衛隊派兵阻止である。一潮流の戦略的スローガンを沖共闘におっかぶせるのは共同闘争の原則に反する。②“沖共闘は死んだ”なる空虚な捨て台詞は外在的な批判でしかない。」と経過報告した。
沖縄青年同盟、全関東叛軍連絡会議、自衛隊田立川基地進駐阻止共闘、厚木基地解体共闘、の決意表明、獄中からの富村氏のアピール、全都・神奈川狭山差別裁判糾弾共闘、入管体制粉砕慶大実行委、法制審議会答申粉砕実行委、伊達さんを支える会、東水労研から連帯の挨拶のあと、日本反帝戦線、全学連が発言し、日比谷公園までデモを行った。
フロントは同日、常盤公園で150名規模の集会を行った。

4・15~18 狭山差別裁判糾弾連続闘争
予断と偏見に満ちた伊波の結審策動を許すな!
4・19 李承晩政府打倒12周年
入管二法粉砕闘争に決起
4・26 国鉄スト支援闘争 於田町電車区
4月26日午後5時半から大田産業会館で「交通ゼネスト支援!マル生粉砕!鉄労解体!闘う沖縄の労働者人民と連帯し、4・28闘争に勝利せよ!」のスローガンで労学総決起集会が開催された。国労・動労労働者の48時間ストを連帯支援し4・28闘争を闘うべく結集した労働者学生300名(プロ統派200名、戦旗派80名、赤色戦線30名)は午後8時集会を終え、直ちに国鉄蒲田駅から品川駅に向かい、駅構内で国鉄労働者のストライキ闘争と連帯するデモと集会を貫徹した。

4・27 前期学生大会は流会
4・28闘争に向けた前期学生大会は鉄道スト等の影響もあり、定足数に満たず学生集会となり、全共闘、自治会執行委、派兵阻止闘争委から提案が行われ、討論のあと解散した。

4・28 沖縄闘争 5・15返還式典粉砕
―派兵現地実力阻止に向け
労学4000名が結集 沖共闘系 於・日比谷野音
72年春闘勝利、5・15沖縄返還粉砕の基調のもと「全関東労働者総決起集会」とそれに続く「中央総決起集会」が4月28日、日比谷野音で開催された。
「全関東労働者総決起集会」は3時から約500名(プロ統派300名その他)を結集し開催され、国鉄労研から、27・28日の48時間ストを決行し、国労・動労の共闘で革マル派の暴力的・宗派的敵対を踏み越えて、無期限順法闘争が展開されたことが報告された。
続く「中央総決起集会」は6時から約4000名(プロ統派1000名、戦旗派240名、赤色戦線90名、その他各大学部落研、べ平連700名など)を結集し開かれ、沖共闘事務局浜口氏から「社共総評が“沖縄は終わった”と労働組合からの本日の集会提起を拒否する中で、われわれは本土でも真に闘う人民は沖縄人民の闘いに呼応して決起することを示さねばならない。『連合赤軍事件』以降職場・地域・学園で権力の弾圧が強化されているが、一切の弾圧網を粉砕して闘おう。」と述べ、全都救援連絡会議、立川基地平和利用市民会議、三里塚芝山連合空港反対同盟の北原事務局長、全関東叛軍連絡会議、全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議の発言、各党派発言のあとデモに出発した。
なおこの日、沖縄闘争の全国展開で42名が逮捕された。衆院4党共同提案による「火炎瓶使用等処罰法案」が4月21日参院法務委員会で可決され、5月14日から施行されようとしており、今後さらなる弾圧が予想される。
反戦自衛官6名決起 中核派・第4インター系 芝公園
4月28日中核派、第4インター、主体と変革派は約4000名を結集し、芝公園で「中央総決起集会」を開催した。スローガンは沖縄返還、自衛隊沖縄派兵阻止、釣魚台略奪阻止、入管二法粉砕であり、主催は全国反戦、関東反軍、東京入管闘であった。
7時より神奈川反戦の司会で始まり、日帝のアジア侵略の中でわれわれは昨日の自衛隊6兵士の決起に見られるが如く、革命か反革命かが迫られている、と発言があった。
前日4月27日、東京・六本木の防衛庁で、制服制帽に身を固めた自衛隊員5人と小西誠氏は防衛庁長官江崎に会見を求め、正門前で要求書を読み上げ、「自衛隊は秘密に物資を沖縄に搬入するなど沖縄民衆のへの圧迫をしている。自衛隊の侵略軍隊への強化がわれわれの市民としての権利を奪っている」と前置きして①沖縄派兵の即時中止②不当な命令に対する拒否権③幹部、曹、士の差別をなくす等の十項目の要求を突き付けた。
69年4・28被告の藤原慶久氏は「我々は沖縄闘争の永続化を克ち取る。昨日の自衛隊6兵士の決起は内乱=決起の開始だ。」と発言し、東京入管闘の横井氏は「朴軍事独裁下での南朝鮮人民と米帝の追撃戦を闘い抜いているベトナム人民の闘いと連帯し、5・15闘争へ大結集せよ。」と発言した。小西誠氏と5人の自衛官は「昨日の防衛庁闘争は自衛隊兵士が全国の闘う労働者・農民と合流したということだ。あらゆる処分攻撃と闘い、全世界の人民、兵士と連帯し闘う。」と発言した。
その後沖青委、学生インター、全学連(中核派)が発言し、神田常盤公園までデモを行った。
5・12 総評青年協議会 於明治公園
5月12日午後6時から明治公園において、全関東から青年労働者4000名を結集して、総評青年協、関東各県評青年協の主催で「反戦・反安保・反合春闘勝利青年労働者総決起集会」が開催された。
東京地評青年協の出発以来、総評系青年労働者の集会に「革マル派以外は参加させない。」という宗派主義的戒厳令で自派以外の学生・反戦青年委を排除しようとする革マル派と、学生運動・反戦青年委運動との共同闘争を通じて、労組青年部運動の革命的、階級的発展を図ろうとするプロ統派との間で対立が続いてきた。今年4月21日日比谷野音で開催された「4・21春闘勝利青年労働者中央総決起集会」で革マル派学生部隊は3月30日大阪での総評青年協集会におけるプロ統派と革マル派の党派闘争の問題を理由に全水道青年婦人部の隊列を武装襲撃したのだ。労組部隊である全水道青年婦人部に対して公然と意識的に革マル派が襲撃を行うことは労組青年部の共同闘争の原則を踏みにじることである。更には4月28日大阪で行われた「反安保府民共闘」の集会でのプロ統派との衝突で革マル派学生が死亡し、革マル派は「虐殺抗議!解放派粉砕!」を掲げ、全国で学生戦線を中心に両派の激しい衝突が繰り返されている。
集会当日は4時半ごろ350名の革マル派系全学連・反戦が竹やりで武装し戦闘訓練のあと独自集会を行い、公園内でデモを繰り返した。一方、プロ党派全学連・反戦は400名の武装部隊で6時ごろ千駄ヶ谷駅に到着したが、機動隊は駅改札口を封鎖し部隊を駅構内に閉じ込めた。部隊は機動隊の壁に激突したが全員竹竿を没収され、会場への登場を阻まれた。
集会は6時半から開始され、7時ごろ全水道青婦部を先頭に東交、国労高崎地本、群馬県評のプロ統派を主力とする部隊400名が会場に入り、続いて全逓の青ヘル部隊200名が登場し、各団体の発言が開始された。動労青年部の松本氏は、3・30動労部隊への解放派の挑発を糾弾した。全水道青婦部の吹上氏は「4・21闘争において、革マル派はわが全水道部隊に武装襲撃を行い、7人の負傷者を出すという反労働者的敵対を行った。革マル派に自己批判を要求する」と発言した。群馬県評青年部の代表も革マル派の全水道への襲撃を激しく弾劾した。そのあと各県評青年部と東京地評青年協の代表、総評市川議長が発言し、9時ごろ全水道を先頭に宮下公園にデモを行った。
5・13 沖縄討論集会 沖共闘主催 於明大駿河台
5月13日午前11時から明大駿河台校舎本館91番教室で「沖縄討論集会」が開催され共産同(戦旗派)、反帝学評、赤色戦線、沖青同を中心に800人が結集した。
映画「戦艦ポチョムキン」上映のあと、北原沖共闘世話人が開会宣言を行い、主催団体である沖青同の上原氏、沖共闘の浜口世話人が発言し、新崎盛暉氏、いいだもも氏、新里金福氏が講演を行い、3時40分に解散した。
5・13 神田解放区 戦旗派主体に貫徹
沖縄討論集会終了後、明大構内から出撃した反帝戦線(戦旗派)を中心に神田駿河台一帯で、沖縄返還と同時に火炎瓶法に対する闘いとして、解放区闘争が闘い抜かれた。鉄パイプで武装した40名の赤ヘル部隊が駿河台通りに出撃し、二手に分かれた部隊は乗用車を横転させ、駿河台下交差点に近い路上にタテカン、机、いすを積み上げバリケードを構築しガソリンを撒き、火炎瓶を投げ火を放った。更に明大の正面の主婦の友社脇の道路に乗用車2台を横転させ、火を放ちバリケード築いた。一方これと時を同じくして別動隊赤ヘル150名がお茶に水駅前交番急襲し、火炎瓶60本余りを投げつけ、交番は炎に包まれ黒焦げとなった。お茶の水駅前から駿河台下までの通りは解放区となり、学生を中心に4000名で埋め尽くされた。4時15分態勢を取り直した機動隊は3方向からバリケードを突破して乱入し、赤ヘル部隊は鉄パイプで応戦したが、一瞬にして通りは機動隊に制圧された。明大構内に後退した赤ヘル主力部隊は執拗に出撃を繰り返し火炎瓶と投石で抗戦し、投石戦は7時ごろまで続いた。当日の逮捕者は128名だった。
5・15 沖共闘第一波闘争 式典会場武道館に向け進撃!
72年沖縄返還粉砕!自衛隊派兵阻止!沖縄の反革命的統合粉砕!返還式典粉砕!第一波闘争は午前11時半から礫川公園に全学連(プロ統派=400名)を中心に約500名を結集して開催された。返還粉砕全京都労働者実行委員会から畑鉄工会社構内政治集会を克ち取った報告、群馬反戦から5・12総評全青協に介入した報告、日本反帝戦線から5・13神田解放区闘争の報告、全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議(神大部落研)から神奈川大全学バリストの報告があり、全学連から決意表明があり、返還式典会場の武道館に向けてデモを行い、常盤公園で解散した。
沖共闘第二波闘争 礫川から政府中枢へ
沖共闘主催による全国総決起集会は礫川公園に約2000名を結集(プロ統派700名、戦旗派220名、赤色戦線80名、沖青同100名)して午後6時40分より開かれた。
沖共闘事務局からの基調報告及び提起に続いて、東水労・神奈川反戦など労働諸戦線、全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議、全関東叛軍連絡会議等全国諸組織から闘いの報告、決意表明がなされた。続いて沖青同が登場し、「沖縄処分として式典=返還執行への怒りを表明したい」として、富村順一氏のアピールを読み上げ、「日帝米帝による“沖縄軍事監獄づくり”を根底から粉砕していく」と発言するとともに日章旗・星条旗を焼き捨てた。諸党派発言のあと9時過ぎ沖青同を先頭に果敢にデモを展開し、11時過ぎ日比谷公園に到着した。
同日、中核派・第四インター系は日比谷野音に5000名、革マル派は早大本部に2000名を結集して集会とデモを行った。

5・31相模原補給廠包囲・戦車搬出阻止闘争
神奈川県相模原の米軍補給廠からは連日M48戦車がベトナムに送られている。5月31日ベトナム人民虐殺の反革命戦争の補給基地である相模原補給廠を包囲し戦車搬出阻止闘争が闘われた。国鉄相模原駅近くの児童遊園地で4千名の労働者・学生を結集し社会党・総評系の反安保神奈川県民実行委員会の主催で「ベトナム戦略物資補給抗議・基地撤去5・31県民集会」が夕方から開催され、プロ統派100名、革マル派も100名神奈川の労学を中心に参加した。

6・2 立川基地攻撃に向けて学内で戦線構築進む 
6・11一橋大実行委員会開かる
6月2日午後3時から小平本館108番教室において、「6・11立川基地包囲制圧大行動一橋大実行委員会」が開かれ、呼びかけ団体である小平祭実行委員会、一橋新聞部、教育研究会、入管闘、べ平連、反帝学評をはじめ20名の学友が結集した。
この6・11立川基地包囲制圧大行動はベ平連、70年代戦線、ちょうちんデモの会などの市民団体を中心に呼びかけられ、予想される立川基地への自衛隊の本進駐を前に、「ベトナム人民、沖縄人民、すべての闘う人民と連帯し、市民、労働者、農民、学生の創意によって立川基地から自衛隊をたたき出し、基地を没収するまで闘おう」という基調で行われる。この呼びかけに応えて学内諸団体の大衆的結集で本進駐阻止闘争の決起を準備すべく実行委が実現された。
司会の小平祭実行委から6・11集会の主旨と経過、反帝学評から立川闘争の情勢が提起され、べ平連、入管闘、新聞部が発言した。

6・5前期執行委員長選挙終わる
前期執行委員長選挙の投票が6月1,2,3,5の4日間行われ、即日開票の結果、M君(民青系)が544票で当選した。I君(派兵阻止闘争委員会支持)144票、無効及び白票60票、総計745票であった。

6・11 立川基地包囲制圧大行動闘わる
6・11行動実行委員会(呼びかけ=ベトナム反戦ちょうちんデモの会、べ平連、70年代戦線他19団体)の主催による「6・11立川基地包囲制圧大行動」統一集会は砂川反戦広場に約2000名(ベ平連・市民千名、プロ統派700名、共産同叛旗派200名)を結集して、午後1時半から開催された。
最初に三里塚・芝山連合反対同盟の戸村一作委員長からの連帯のアピールが読み上げられ、圧倒的な拍手で確認された後、反戦、べ平連、若葉町市民会議、立川基地平和利用市民会議、沖縄・三里塚を闘う70年代戦線、横田基地解体の会、反戦塹壕闘争委員会、否の会、小金井市民行動委員会、立川ベ平連、沖青同、反戦GI、日野ベ平連、横須賀地区叛軍行動委員会が発言し、次に神奈川大部落研が発言した途中で、反戦市民連合の本集会参加をめぐって対立したプロ統派と叛旗派が衝突し、集会場は一時騒然とした。再開後、全逓労働者会議、三多摩地区労働者連絡会議、東京反戦が発言、ベトナム留学生からのメッセージ紹介、法政大学工学部自治会執行委員会からの発言のあと、一橋大学6・11行動委員会が発言した。首都圏反帝戦線連合、全学連が発言し集会は4時に終了し、デモに移り、6時ごろ立川駅に到着し、圧倒的な隊列で埋め尽くし固い決意を立川市民に表明した。

6・15 中央総決起集会 於代々木公園B地区
沖共闘、更に戦列を強化 派兵阻止決戦に起て!
60年安保闘争の高揚の只中で全学連の若き戦士・樺美智子さんが官憲の手で虐殺されてから12年目の6月15日、七月派兵阻止決戦に向け、更に戦列を強化すべく、沖共闘主催のもと「安保粉砕!沖縄返還粉砕!自衛隊派兵阻止!ベトナム解放勢力連帯!6・15中央総決起集会」が午後7時より代々木公園B地区に約2000名を結集して開催された。
6・11立川基地包囲制圧大行動を闘った立川基地平和利用の会の発言、北熊本現闘団、北富士臨時闘争本部のアピール読み上げのあと沖共闘事務局の浜口氏の基調報告に次いで、横須賀に寄港中の米第七艦隊駆逐艦の乗組員が反戦米兵として発言、この日公判中の石川青年と連帯し日比谷小公園で集会を開いた狭山差別裁判糾弾共闘会議、70年代戦線、東京反戦、東水労などの労働戦線、全関東叛軍、厚木基地解体共闘、相模原基地解体・国道16号線戦車輸送阻止実行委、横須賀地区叛軍行動委など叛軍・反基地戦線、全都救援連絡センター、特殊教育の肥大化・固定化して解雇され三鷹市教育委員会を占拠して闘った高橋さんを支援する会、刑法改正―保安処分新説に抗する法制審議会答申粉砕共闘から発言があり、最後に沖共闘の主軸となる3団体、全学連(内城委員長)、首都圏赤色戦線、日本反帝戦線から決意表明があり、芝公園までの果敢なデモを展開した。

6・15~17 狭山差別裁判糾弾 公判闘争を貫徹!
公判闘争第1日15日は解放同盟を先頭に日比谷小公園に約4000名、第2日17日はそれを上回る結集で公演内の激しい抗議デモで法廷内と連帯した闘いが行われた。

6・20 前期学生大会でストを決議
前期執行委員長M君選任に伴い、6月20日通常学生大会が開かれた。前期自治会執行委員会、全共闘・入管闘、一橋自由連合等々の議案説明があり、出席数462人で採決に入った。学費値上げ反対、学生会館実現等を提案する執行委員会案が賛成314、反対73で可決され、全共闘・入管闘議案は賛成190、反対98で否決された。狭山差別裁判を糾弾する伊波七郎裁判長あての抗議文、一橋自由連合による保安処分反対の議案も共に可決された。執行委員会議案可決により、前期自治会は6月21日より7月10日までスト権を確立し、6月21日より3日間ストに突入した。

全共闘・入管闘の議案の内容は記事にないので不明である。学費値上げ反対への支持は大きく、民青系執行部提案の3日間ストが行われた。

6・24―25第12回小平祭開催さる 
<新聞部シンポジウム>
一橋新聞部は24日午後1時から2号館で廣松渉氏を講師に招き、シンポジウム「戦後マルクス主義と物象化論の地平」を開催した。廣松氏は戦後主体性論争、初期マルクスの疎外論から物象化論への展開などについて講演し、そのあと人間の主体性、自然弁証法、前衛党と階級など様々な領域にわたり、約40名が参加して熱心に討論を行った。
<教育シンポジウム>
25日午前12時から2号館で小平祭実行委員会主催により、映画「朝と夜の中のぼくたち」の上映とシンポジウム「新たなる教育戦線の構築へ向けて」が行われた。小平祭実行委員会から「全国教育学園闘争が、民主教育―公教育がブルジョア支配のための労働力商品の生産・再生産に他ならないことの矛盾を暴露しながらも、国家ゲバルトの弾圧により敗北し、学生がニヒル化し居直るという現状を突破していかなければならない。」と基調提起し、続いて知能テスト・特殊学級制による差別―選別教育と不当処分に抗して闘い抜いている三鷹市の高橋先生、「黙々と働く労働者作り」をモットーに生徒を管理し学校批判をした生徒を不当に処分した昭和一工当局に抗議し不当に解雇され、解雇撤回闘争を闘っている小橋先生、臨時労働者の不当解雇と組合破壊の攻撃に抗し無期限ストと支援体制の強化で闘っている教育者労組から闘争報告と問題提起が行われ、教育と労働をめぐり約50名が討論した。
<叛軍=沖縄集会>
25日午後3時から2号館で小平祭実行委員会主催で叛軍=沖縄集会が開催され、中原一氏の講演「プロレタリア革命における軍事路線」と映画砂川3部作の上映が行われ、約30名が参加した。

7・7 派兵阻止に向けて 沖共闘決起集会 於日比谷野音
沖共闘主催の「自衛隊沖縄派兵実力阻止!北熊本現地闘争決起労働者人民総決起集会」が、盧溝橋35周年を迎えた7月7日、日比谷野音に午後6時半より、沖共闘の中心部隊800名を結集して開催された。結集内訳は、プロ統派350名、共産同戦旗派100名、赤色戦線50名、沖青同50名、労活評40名、部落研50名、保安処分粉砕共闘50名、各大学全共闘100名など。
沖共闘事務局浜口氏の決意表明、ベトナム戦争の新展開についての北沢洋子氏の講演、沖縄返還自衛隊派兵を糾弾する新里金福氏の講演、横須賀の反戦米兵の発言、四次防と日程の70年代戦略についての久保綾三氏の講演のあと、三里塚、北富士、北熊本からのアピールの読み上げ、沖青同はじめ結集部隊からの決意表明があり、10時半に終了した。

7・15 沖縄派兵に実力で対決!
沖共闘、北熊本現地闘争を闘い抜く!
社共・革共同両派の闘争放棄を乗り越え
熊本城二の丸公園から断乎として進撃!
7・15から本格的に開始された自衛隊の沖縄派兵は5・15返還式典と沖縄の法的統合に打ち続く反革命的沖縄統合の現実的執行過程の最大の焦点である。社共のみならず各共同両派もこの攻撃に対する対決を放棄していく中で、沖共闘は全国から総力結集し自衛隊の沖縄派兵の出撃拠点である北熊本現地で、派兵に対する痛打を右翼・警察権力の戒厳令を打ち破り勝ち取った。
沖共闘・沖青同・全九州沖共闘・北熊本現地共闘会議の4団体の呼びかけによる「7・15自衛隊派兵阻止・軍都解体・北熊本制圧大統一行動」には全国から2000名の労働者・学生炎天下の熊本城二の丸公園に結集し、午後2時から統一集会を開始した。結集内訳はプロ統派(全学連・反戦・社青同・反帝高評・全水道労研など)800名、日本反帝戦線(戦旗派)130名、赤色戦線150名、関西実行委員会150名・全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘60名、沖青同30名、都立大全共闘、静大沖共闘、九大法共闘、明大実行委、立大阻止共闘、福岡ベ平連など。
沖共闘事務局浜口氏が集会実行委の形成過程の報告と決意表明、北熊本現地共闘の中谷氏、沖青同、沖縄反帝労働者共闘、長沼地区叛軍行動委、返還粉砕全都青学共闘、自衛隊派兵阻止全関西実行委員会、徳島県反戦、全九州沖共闘、熊本地区派兵阻止共闘、3・13自衛隊西部方面隊総監部突入戦士、福岡ベ平連の発言、岩国基地反戦米兵からのアピールの読み上げ、全水道労研、全学連中央執行委員会八十島書記長、高校生叛軍共闘、全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘、社青同中央本部、日本反帝戦線、プロレタリア青年同盟、関西労働者共闘が発言し、4時半ごろデモに出発した。
右翼・機動隊の戒厳令を突破し戦闘を貫徹
プロ統200名に反帝戦線等を加えて300名以上の旗竿部隊が槍衾を作り、熊本城の北大手門口から出撃し阻止線を張る機動隊に突撃を繰り返し、旗竿部隊の後ろに労学のスクラム部隊が続き、機動隊の壁を打ち砕こうとする。官憲は放水車を前面に出し4時50分強力な水圧で放水を開始、後方のスクラム部隊が旗竿部隊を押し出し隊列が乱れたところに機動隊が突入し、道の両脇のグラウンドと濠に200人ぐらいが叩き落され、多くの負傷者が出て、約30名が不当逮捕された。機動隊は四方から公園に乱入し、再度出撃しようとする部隊に襲い掛かり、執拗にテロを行い旗竿を没収し武装解除させる。5時過ぎプロ統派を先頭に隊列を整え、再度出撃を克ち取る。この直後公園内に残っていた赤ヘル部隊に青年愛国党なる右翼20数名が機動隊まがいの乱闘服を着て襲い掛かり、しばらく乱闘になる。
官憲は1週間前から「過激派キャンペーン」を市内に徹底させ、市内の商店はシャッターを下ろし、町中に自警団が見られる戒厳令の中を、デモ隊は5列の機動隊が両側から包んでテロを加えるという弾圧に屈せず「派兵阻止」のシュプレヒコールで市民に連帯を訴えた。午後7時ごろ清水基地方向の入り口に差し掛かると、機動隊が装甲車を並べて阻止線を張り申請されたデモコースなのにデモをさせない暴挙に出て、デモ隊は阻止線突破をめざして突撃したが、ならずやむなく解散地点の八景宮公園に向かい、公園入口手前で突然百名の武装右翼が襲い掛かるのを、投石で反撃し、右翼は散り散りに逃げ去った。

北熊本現地闘争には全学新の現地取材活動としてプレスの腕章をつけて参加した。東京からの行きは台風の大雨で寝台特急が途中立ち往生したり、取材本部に予定した佐賀大学の寮が洪水で浸水して使えず、福岡市箱崎の九州大学に移動したり大変だった。熊本城から北熊本への長い道のりのデモに同行し、警官隊からもデモ隊からも不審がられて苦労した。東京への帰り道は法政大学新聞のA君の故郷について行き、広島で海水浴を楽しんだ。

狭山差別裁判糾弾!石川青年奪還!
7-8月公判闘争闘わる
弁護団6つの鑑定書を提出
高裁井波の9月結審―11月死刑判決の策動を目前に控え、弁護団による石川青年の無実を科学的に立証する6つの新鑑定書の提出によって狭山差別裁判は重大な局面を迎えている。全戦線の総力を結集し、9月16・19日の公判闘争に決起し固この闘いに勝利しなければならない。
7・22 公判闘争 日比谷小公園に3千人が結集。
7・23 東拘包囲出デモ 青砥公園から約2百名が参加。
7・27 公判闘争 日比谷小公園に6千人が結集。
8・15 川越密室裁判 浦和地裁川越支部 3百人が結集し糾弾。
8・26 公判闘争 解放同盟主催で日比谷小公園に結集。
8・27 東拘包囲糾弾闘争 獄中の石川氏に連帯 青戸公園3百人が参加。
8・29 公判闘争 日比谷小公園に5千名が結集。

相模原闘争 装甲車搬出に実力で対決
補給廠解体の闘いを展開
社共を超えた闘争地平を構築
8・4~6 横浜港付近の村雨橋で座り込みによるM48戦車輸送阻止
8・12 相模補給廠前 沖共闘系の集会とデモに200名結集。
8・14~相模補給廠前 装甲兵員輸送車M113搬出阻止
現地闘争本部のテント設営 連日ゲート前に2~3000の群衆
対話の輪、機動隊にヤジ、投石
9・2 戦車搬入阻止、補給廠解体、ベトナム反戦青年労働者総決起集会
約800名搬入阻止闘争に決起す
9・19装甲車搬出阻止闘争 18日夕方から1万人以上が補給廠前を埋め尽くし、集会、デモ、座り込み。機動隊がテント村を襲撃し、座り込み部隊を血まみれのテロルで排除し、19日午前6時過ぎ装甲車の輸送が強行された。

狭山差別裁判糾弾!石川青年奪還!
9月結審を粉砕
9・16 公判闘争 解放同盟を中心に日比谷小公園に4000人が結集。弁護団が出した6つの新証拠に動揺した検察側が新しく提出した26の証拠について、高村鑑定人の筆跡鑑定など非科学的な内容が批判された。
9・17 東拘包囲糾弾闘争 青砥公園に200名が結集。
9・19 公判闘争 解放同盟を先頭に労働者・学生・市民6000名が日比谷小公園を埋め尽くした。井波の9月結審―11月死刑判決の野望を打ち砕き、科学的に論証された6つの新鑑定書を認めさせることを法廷の内外で闘って勝ち取る重大な山場となった。

9・16 三里塚を戦う人民大集会
三里塚青年行動隊に対するでっち上げ自白、傷害致死罪適用、繰り返しの再逮捕という権力の弾圧をはね返し、岩山大鉄塔を押し立てて三里塚空港粉砕を克ち取るべく、昨年の9・16闘争の1周年に、三里塚空港反対同盟・青年行動隊の主催で、午後6時から日比谷公会堂で「三里塚を戦う人民大集会」が行われた。現地から結集した150名の反対同盟、狭山9月公判闘争を闘い抜き結集した労働者・学生など6000名が集まり、雨の降る場外まであふれて演壇に耳を傾けた。戸村委員長は「大鉄塔への攻撃の先手を取り、権力に対して闘争宣言を発する。手に武器をとる者は取れ!武装蜂起せよ!弾圧に対して闘いうるか、貫徹できるか。岩山大鉄塔を防衛し、大勝利を克ち取ろう。」と決意表明した。岩山大鉄塔の10万人共有化運動を軸に空港建設の野望を葬り去ることを意志一致し解散した。

全国一斉基地闘争に決起
10・8相模原闘争
諸戦線を結集し補給廠を包囲
秋期闘争の突破口を切り拓く
沖共闘・市民団体等 於矢部公園
10月8日、10・8実行委員会(呼びかけ=沖共闘・県北反軍連絡会議)主催による「10・8ベトナム人民の革命闘争と連帯し/戦車搬出入実力阻止/相模補給廠解体/全関東労学市民5総決起集会」が相模原・矢部公園にプロ統400名をはじめとする労学市民1000名を結集して午後4時から開催された。沖共闘事務局、県北反軍の挨拶、反戦米兵の連帯のメッセージ、ただの市民が戦車を止める会、横須賀地区反軍行動委、厚木基地解体共闘の決意表明、立川基地闘争を闘っている市民団体の連帯の挨拶、沖縄・三里塚を闘う70年代戦線、70年代を考える町田市民連合、反帝反修学生委員会、現闘団救援連絡会議、東交活動者会議、神奈川県反戦連絡会議、神奈川県高校生反軍行動委員会、高校生叛軍共闘、全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議、法制審議会粉砕実行委員会、全学連(プロ統派)、日本反帝戦線、プロレタリア青年同盟熊本現闘団などが発言し、終了後補給廠ゲート前に向けてデモを行った。
10・10 総評青年協相模原で決起大会
「自衛隊沖縄配備阻止、反基地反安保総評青年協関東ブロック集会」が相模原児童公園に約3000名を結集して午後4時より開始された。総評、社会党相模原現闘本部、来賓の挨拶のあと、川崎動労、全水道など単産、栃木、山梨、千葉各県評、青年協の決意表明を受け、10・28自衛隊派兵阻止の集会アピールを採択し、8時過ぎゲート前に向けデモを行った。
この間緊張関係にあったプロ統派300名、革マル派400名が労学共闘部隊で双方とも旗竿で武装して参加したが、接触はなかった。

10・12 前期学生大会 
小平ストライキに突入
学費闘争を軸に1か月
狭山闘争への決起も決議
10・12前期学生大会において学費闘争を中心とする1か月のストライキが決定され、同時に狭山闘争への決起が決議された。新入生に対する値上げ額での学費の徴収はすでに開始されており、闘いの立ち遅れは否定できないが、ストライキの中からの大衆的な闘いの生みなおしと学費―狭山闘争の結合による全人民的な利害を掛けた闘いで、学費値上げを粉砕しなければならない。
10月12日小平講堂で前期学生大会が開催され、午後1時半には定足数の300名を超え、議長を選出し議事に入った。提出された議案は学費、狭山闘争を中心とする今秋期闘争に関して、狭山差別裁判糾弾闘争委員会(糾闘委)、全共闘・学費値上げ粉砕闘争委員会(学闘委)、自治会執行委、1年生有志から。小平祭問題に関して、A2・D2クラス有志・自治会執行委、小平祭実行委からの6議案であった。今秋期闘争に関する4議案を一括討論したあと、小平祭問題に関する議案を討論することになった。
糾闘委は狭山差別裁判糾弾闘争への決起を訴え、公判日はストライキで日比谷公園に決起することを提案した。全共闘・学闘委は学費闘争を軸に狭山闘争、自衛隊派兵阻止北熊本闘争、10・21闘争などを闘い抜くための無期限ストライキ(チェックポイント方式)を提起した。
A2・D2クラス有志・執行委は現小平祭実行委の即時解散と新小平祭実行委の公選制による選出を提案した。「小平祭問題」の発端は10月5日の昼休み小平学食前の出来事である。学食前で学費闘争への決起を訴える情宣活動を行っていた学闘委諸君の前に、突然20数名の民青系諸君が現れ、「小平祭実行委糾弾集会」なるものを始めた。彼らは小平祭実行委の「裏帳簿」を発見し、合宿費・コンパ代への公金の流用、16万円の使途不明金が明かになったというのだ。小平祭実行委は、「裏帳簿」などは存在せず、彼らの入手したのは小平祭実行委室のロッカーに保管されていた会計ノートであること、合宿費は小平祭運営のための正当な支出であること、コンパ代は実行委以外の協力者への慰労のための支出であること、彼らが昨年度と今年度の会計を混同し操作して使途不明金なるものを作り出し、反帝学評の闘争資金に流用されているというデマをでっち上げたことを明らかにし、自治会執行委に会計ノートの返還とその入手経路の公表と自己批判を要求した。6日には学食の学生に対して小平祭実行委、自治会執行委が双方の見解を明らかにする形で解明が行われ、自治会執行委諸君のデマゴギーが暴かれ、彼らは会計ノートの返還要求に応ぜざるを得ないところまで追い詰められた。11日になって自治会執行委、民青諸君は再び会計ノートの数字を並べなおして、3万円余の使途不明金などを中心に「会計ノートが語る不正の事実」なるものを持ち出してきて、学生大会へ決議案を出した。これに対して、小平祭実行委員会は自治会執行委にデマゴギー策動の自己批判、会計ノートの入手経路の公表などを要求した。学費闘争と学内諸要求を中心とする長期スト権確立による波状ストという自治会執行委提案のあと、一年生有志提案として、学費闘争を1か月(11月11日まで)の長期ストで闘うという提案が行われた。
今秋諸闘争に関する4議案の討論が行われたが、討論はかみ合わず、一年生有志の提案についてほとんど討論がないまま4時30分に討論は打ち切られ休憩に入った。再開した討論は「小平祭問題」を中心に行われ、午後6時から採決に移った。諸闘争に関する4議案の採決は、出席者471名で過半数は236以上で、糾闘委提案は賛成355,反対3,保留45,棄権22で可決。学闘委提案は賛成142,反対168,保留102、棄権28で否決保留。執行委提案は賛成166,反対183,保留87,棄権16で否決保留。一年生有志提案は賛成273,反対108,保留33,棄権22で可決。
この後100人以上が退場し、出席者337名、過半数は169以上で「小平祭問題」について、A2D2有志・執行委提案は賛成243、反対32,保留24、棄権18で可決。この議決について、議長は「小平祭には後期の学生も参加し、実行委は前期後期学生で構成されているので、この議決は前期学生の意思表示の意味を持つ」と言い、一橋祭運営委員長は「全学生の参加する小平祭に関する決定には前期だけでなく後期学生大会の決定が必要だろう」と意見を述べた。このあと退場者が相次ぎ、小平祭実行委の提案の採決には定足数を下回り7時30分ごろ閉会した。この後会場でスト実の結成が行われ、糾闘委、学闘委のメンバー含んで結成が確認され、民青系の諸君の介入の策動は粉砕された。
狭山公判闘争への決起と学費闘争を中心とする長期ストライキが決議されたが、学費闘争について討論が散漫なまま民青系と学闘委が共倒れになり、何の質疑も行われない有志提案が可決されるというこの学生大会の状況は現在の学内大衆運動の困難さを象徴している。

10・12学生大会は学費値上げ反対の機運の中で1年生有志の提案で1か月ストが決まり、全共闘、学闘委も含んでスト実が結成されたが、この期間中のベトナム反戦、沖縄、北熊本、相模原などの反戦反基地闘争へのスト実あるいは全共闘としての参加の記事は見られない。

10・15沖縄闘争の飛躍に向けて
沖縄青年大集会勝ち取られる
主催沖共闘・於中央労政会館
沖縄青年同盟は本土在住の沖縄青年を結集して「沖縄青年大集会」を圧倒的に勝ち取った。文京区の中央労政会館に約150名を結集して午後5時30分から開催された。第1部は、沖縄の解放闘争の歴史を綴った映画「うりずん」の上映、第2部は講演で、沖縄の農業を研究する大成嘉永氏は沖縄の解放闘争には農民の地に足のついた闘いが必要だと述べ、新里金福氏からは本土在住の沖縄人民の闘いの歴史が語られ、自衛隊内から派兵拒否を叫んで決起した沖縄出身兵士与那嶺均一等陸士はプロレタリア兵士として闘い抜くと発言した。富永順一氏のアピールのあと、第3部は沖青同による基調報告が述べられ、10・21は沖縄人独自の闘いを貫徹し鶴見へ結集せよと訴えられた。

平和共存を手段とする
ベトナム革命の圧殺を許すな
10・21国際反帝共同闘争
派兵阻止へ前進 沖共闘など 於礫川公園
礫川公園に3500名を結集し、「ベトナム人民革命闘争と連帯し自衛隊本隊の沖縄派兵阻止!狭山差別裁判糾弾!10・21国際反戦大統一行動中央総決起集会」が闘われた。沖共闘事務局の基調報告、沖青同(鶴見で独自集会を展開のため不参加)の連帯のアピール、解放闘争を闘い続ける南ベトナム臨時革命政府外相グェンチピン女史のメッセージ、三里塚青年行動隊のアピール、反戦米兵運動の推進者ビクトリア良潤氏の発言と反戦米兵のアピール、東京地区反戦労働運動活動者委員会の発言、横須賀反軍行動委、厚木基地解体共闘、朝霞反軍・高叛共闘、全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議、埼玉糾弾共闘、全都高校生部落研連帯、法制審粉砕実行委、日本反帝戦線、ベトナム沖縄連帯行動委、全学連(プロ統派)の決意表明を受け、日比谷公園にデモを行った。
このほか中核派が芝公園に3千名、革マル派は日比谷野音に3千名を結集し集会とデモを行った。
沖青同は独自の闘い
鶴見の沖縄人居住地域で
沖縄青年同盟は鶴見の潮田公園で午後6時から30名を結集して「10・21日本軍派兵阻止沖縄人総決起集会」を開催し、参加者全員が発言し自分の職場、学園での闘いの報告や問題提起を行った。沖縄の基地内で米兵が沖縄人労働者栄野川さんを虐殺したことを糾弾した。鶴見の市街に沖縄解放の叫びを轟かせデモを貫徹した。

万余の労学派兵阻止に決起
全国の青年労働者を結集
10・28全青協北熊本闘争
10・28自衛隊沖縄配備阻止、反戦・反基地、反安保全国青年労働者北熊本―沖縄総決起集会は、総評青年協・九州ブロック各県青年協の主催のもとに、現地八景水谷公園に、全国から1万2千名の労働者・学生を結集して午後1時から開催された。
集会は総評青年協のブロック別に参加する形で行われた。全学連・反戦(プロ統系)部隊400は、全水道、全逓、自治労、徳島県評等に結集する青年労働者と連帯を克ち取るべく革マル派、協会派との対峙の中介入を貫徹した。革マル派(500)も動労部隊にぶるさがりつつ集会に参加した。
集会は総評中央本部、熊本県評議長、社会党熊本県本青対部長の挨拶、基調報告のあと、沖縄の代表、全国各ブロックから決意表明を受けた。デモは九州ブロックを先頭に清水基地を弾劾し、一万に及ぶ青年労働者が機動隊の規制、右翼の暴行をはねのけ闘い抜いた。

10・29 沖共闘は連続闘争
自衛隊パレードに対決!
10・29自衛隊沖縄派兵阻止-自衛隊22周年記念パレード粉砕沖共闘現地総決起集会は午前11時から熊本大学館前広場に約500名を結集して行われた。プロ統400(全学連・反戦・東水労研、自治労、西部三大学共闘等)、反帝戦線(戦旗派)20、プロ青同15、京都返還粉砕労働者実行委20、福岡べ平連10の各部隊が参加し、三里塚・沖縄を闘う70年代戦線代表高見圭司氏、沖共闘事務局浜口氏、全九州沖共闘、北熊本現地共闘、全都神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議等が発言した。相模原闘争を闘う反軍・反基地16号沿線住民連絡会議の連帯アピールを受け、清水基地に向けデモを行い基地前で10分間の集会を貫徹し、繁華街の中で市民へのビラ入れを貫徹した。

国道16号を貫いた決起で戦車搬送を阻止
10・24横浜ノースピア
政府・自民党は10月17日米軍車両を車両制限令の適応から外してフリーパスとすべく車両制限令の一部改悪を決定し、10月19日にはフリーパス第1号として車両制限令の基準を超えるトレーラーが、更に10月24日には翌朝までにM42対空戦車、装甲車計60台が補給廠から横浜港米軍専用ふ頭(ノースピア)へ運ばれた。ノースピアにはこの装甲車輸送を阻止するため労働者、学生、市民が続々と結集した。機動隊の厚い壁を突破して道路上に座り込んだ労学市民は機動隊のなぐるけるの暴行に屈せず30分にわたり装甲車をストップさせた。同時にビクトリア良潤氏は横須賀の反戦米兵のアピールをテープで流し米兵に反戦を訴えた。
11・8-9相模原補給廠から横浜ノースピア
そして11月6日の日米合同委車両通行小委員会における「同意」に基づく村雨橋、千鳥橋の補強工事を先駆けとして、11月8日夜、最後まで残されていたM48戦車が補給庫から運び出された。この搬送は8日夜から9日未明にかけて行われ併せて26台がノースピアに向かった。阻止闘争は9月以来最大の盛り上がりを見せ、補給廠ゲート前、国道16号線村雨橋、ノースピアなど搬送ルートの各地点で労学市民による果敢な闘争が展開された。国道16号線保土谷付近ではプロ統派労学部隊約200名が道路上にバリケードを築いて戦車群と対峙し、機動隊と対決し約70名が逮捕されたが、30分間戦車は立ち往生した。ノースピアでも万余の労学市民が決起し、青年労働者を先頭に戦車を止め機動隊と激突し、戦車は何回も立ち往生しながら、ノースピアに入ったのは午前7時半だった。この闘争で合わせて118名が不当逮捕された。

11・3-5一橋祭開催
新聞部は清水多吉氏、山崎カヲル氏を招いて、シンポジウム「ライヒの復権をめぐって」を行った。一橋祭全体の流れは模擬店、コンサート、演劇等の催しの氾濫に終始した。

11・11小平ストライキ終わる
学費闘争の永続化を
スト実は1年生有志を中心に、狭山差別裁判糾弾闘争委員会(糾闘委)、学費値上げ粉砕闘争(学闘委)を含んで成立した。大学当局は、10月25日、26日に予定されていた小平出張授業料徴収業務を中止し、10月23日と11月9日の2回団交が行われた。スト実は①大学当局は学費値上げに反対する態度を明確にせよ②学則の学費条項に関する改定を撤回せよ、などの要求を行ったが、当局は応じず、10月24日、31日の学生大会は学生が集まらず流会した。スト期間中小平には閑古鳥の啼く状態で学費闘争は低迷した。最終日の11月11日は午後1時からストの総括を行うために数十名の参加で学生大会→学生集会が開かれ、スト闘争報告、米軍戦車搬送阻止闘争報告、団交の報告がなされ、スト実は①不払い同盟の結成②学則学費条項撤回まで何回でも団交を開く、の2項を提起した。

狭山闘争の更なる前進へ
10・12弁護団に文書で回答 井波結審=判決を放棄
10・22第5波東拘闘争 さらなる追撃
11・18全都神奈川糾弾共闘会議呼びかけの総決起集
於清水谷公園 井波退官へ徹底追撃 政府高裁へ実力で進撃
11・19第6波東拘包囲デモ 永続的闘いの構築へ
11・19,28 全国部落研・中核派も都内で狭山闘争
井波はついに自らの手による無実の部落青年石川氏への死刑判決を断念せざるを得ず、11月末に退官した。新段階に突入した狭山闘争の完全な勝利へ更なる前進を遂げねばならない。
11・20沖青同主催 富村公判決起集会 第1回控訴審に向けて
11・26三里塚決起集会 大弾圧許さず鉄塔攻防戦へ
12・1在日中国人保母徐翆珍支援闘争へ

一橋大学入管体制粉砕実行委員会アピール
自衛隊本隊立川進駐 防衛庁年内強行を通告
12・7 立川集会 緊迫する立川
予想される本進駐攻撃に対し立川基地自衛隊進駐阻止共闘会議(阻止共闘)は本進駐実力阻止を掲げ12月10日から連続闘争に突入しつつある。12月7日三多摩反戦(プロ統派系)などの呼びかけで立川商工会議所で約200名を結集して「立川・三里塚を闘う労働者市民集会」が開催された。もののべながおき氏の連帯の挨拶、70年代戦線の高見圭司氏の基調報告に続いて、立川から基地をなくす市民の会の下野氏、立川市議の島田清作氏、70年代を考える町田市民連合、三多摩高校生共闘会議、東京造形大自治会、日野自動車労働組合有志の会、社青同三多摩分室、三多摩反戦、70年代戦線の佐藤敏昭氏が発言した。
12月9日には防衛庁幹部が立川市役所を訪れ「年内に絶対に移駐する」旨述べている。
12月10日の労働者・市民団体の闘いに恐怖した防衛庁、公安当局は市民に返還したはずの正面ゲート前の広場を管理者の関東財務局に鉄条網で封鎖させ、集会を禁止したが、立川周辺の市民団体とプロ統派、叛旗派、第4インターを加えた300名の部隊がゲート前の集会を打ち抜き、機動隊の弾圧を許さず、自衛隊駐屯地に抗議のデモを行った。
12月11日から正面ゲート近く滑走路南端の児童公園に市民団体、ベ平連系グループを中心に監視テント村が作られ、泊まり込みで抜き打ちの進駐を許さない監視体制が確立した。このテント村にはあとからプロ統派なども加わり、叛旗派、革マル派も近くにテントを張った。
立川市議会では、71年10月に可決した「移駐反対意見書」を72年1月に撤回していたが、12月13日革新系と一部保守系議員が「立川基地の平和利用と自衛隊移駐反対に関する意見書」を提出可決し再び反対に転じた。同日立川市職員組合は「自衛隊移駐阻止」を掲げて早朝1時間ストライキを行った。12月16日には革新市長会会議で飛鳥田横浜市長が自衛隊員の住民登録を拒否することを提案した。
12月18日立川駅北口広場で午後6時半から「自衛隊移駐反対議会報告集会」が開かれ、総評系の「立川基地自衛隊移駐反対労組共闘会議」の労組員も合流し、市民を含め数千人が駅前を埋めた。ここで阿部市長は「移駐を前提とした会談には応じない」と発言したが、翌19日には一変して防衛庁との「移駐を前提とした会談」を受諾した。12月20日立川市役所で行われようとした阿部市長と防衛庁との会談を労学市民約50名が現場で阻止した。
12月25日自分からノコノコ防衛庁に出かけた阿部市長に、防衛庁は27日に自衛隊本隊進駐を強行すると最後通告した。市民団体などは防衛庁に急行し徹夜で抗議闘争を貫徹した。
12月26日市職労は27日時限ストで決起することを決めた。社共、総評も緊急闘争を決定した。立川市が「営内に居住する自衛隊員の住民登録を停止する」と決定した。

12・27内乱鎮圧部隊本隊
立川基地に進駐を強行
さみだれ進駐を阻止し自衛隊を放逐せよ!
数千労学市民の怒り爆発
12月27日午前10時政府は立川基地への自衛隊本隊進駐を強行した。基地正面ゲート前を埋め尽くした数千の労働者、市民、学生の弾劾の渦の中を空から轟音を響かせながら基地へと進入したヘリコプターの姿は、ベトナム人民に銃火を浴びせ虐殺するヘリボーン作戦さながらであった。
 この日早朝から正面ゲート前には、テント村を拠点に闘って来た市民、労働者、学生など約200名が結集し、機動隊と対峙して歩道に座り込み、進駐強行を弾劾し、実力阻止を訴え続けた。午前8時半ごろから駅前広場で集会を行っていた総評系の移駐反対労組共闘はデモに移り、電通、全逓の青年労働者を先頭に約2000名の隊列で正面ゲートに進撃した。9時半歩道に座り込んでいた市民、学生はゲートに立ちふさがる機動隊にスクラムで激突し、青年労働者、市民、学生が一体となり機動隊を押しまくりゲートの奥深く突き進んだ。時を同じくして、基地北側の反戦放送塔の近くからもうもうと黒煙が上がった。プロ統派、叛旗派などのゲリラ部隊が古タイヤを燃やしヘリコプターの進入を妨げる火の手を上げたのだ。基地南側のテント村ではベ平連などが花火や凧を上げて連帯した。午前10時過ぎにヘリコプターが基地内に着陸した後も労学市民の弾劾の闘いは止まることなく、正面ゲート前の座り込みと機動隊への激突を繰り返した。午後4時ごろ座り込みの市民6人を機動隊が暴行し逮捕する事態が発生し、立川警察署に抗議と同志奪還の戦いが午後11時まで行われた。午前中は機動隊によって部隊丸ごと公園に押し込められていた叛旗派100名は午後6時ごろ駅前で機動隊に突っ込み十数人が逮捕された。中核派は午後6時ごろ約600名で高砂公園で集会のあと市内をデモした。
(続く)

【お知らせ その1】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。

●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は2026年4月20日(月)に更新予定です。

↑このページのトップヘ