今回のブログは、去る2月8日に89歳で逝去された最首悟氏(元東大助手共闘、和光大名誉教授)を追悼して、『朝日ジャーナル』(1971年1月29日号)の最首氏の記事を掲載する。
(講演する最首氏)
この講演の内容は以下のブログに掲載している。
No392 10・8山﨑博昭プロジェクト第二回講演会「いのちを考えるー戦後を生きて」報告 前編
また、『続・全共闘白書』編纂委員会の個人史インタビューにも協力していただき、私を含めて数人で2024年にオンラインで3回インタビューさせていただいている。
そんな縁もあり、今回追悼記事を掲載させていただいた。
【激動の大学・戦後の証言 「60年安保闘争」 最首悟】
安保の年ーー1960年
春を迎えた東大教養学部の構内は、入学試検に合格して歓喜にみちた新入生の群れであふれていた。
しかし、これらノンポリの学生たちも、間もなく安保阻止の隊列に参加し、デモ行進のなかで解放感を満喫するようになる。
やがて運命の6月15日、多数の学生が国会周辺で武装警官隊に襲撃されておびただしい血を流し、東大生・樺美智子さんの命が奪われた。
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これは、あのあいつが、どうしてああなったのか、それにしても、やっぱりどうしようもないと、1960年から61年にかけていわれた一学生の安保闘争始末記(になるか)である。
1959年、東大教養学部理科ー類入学、適度にシニックで、適度にむなしくて、それでいて良識派で、東大生であることに、十分よろこびと満足を覚えている。要するに、わたしは一般学生とひっくくられるなかでも、その代表格みたいな東大生であった。
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1960年3月3日 一次試験の日。去年の事を思うとまさに感概無量。狭い東大前の駅はあふれんばかり。その中を歩いていると、久しぶりに入っていてよかった、誇りとも安心ともつかない何物かを感じる。・・・去年の発表の日、感激を抑えきれず”あ、玉杯"を歌いながら家へ帰った時のことを思い出す。あの夜の家中の喜び、銀杏並木の下で胸をはずませた入学式、時計台の下に咲き誇っていた赤いツツジの花ーーあの頃は全てが歓喜に満ちていた。しかしあれから一年、僕は一体何をしてきたのだろうか。政治、社会に対する目を養った事は一つの進歩だったが、その他は、学問的に特に向上したとも思えない。学生運動でもアウトサイダーであった。受験時代、あれほど読みたいと思った本さえ、ほとんど読まなかった。大学の一年間の生活は確かに楽しいものに違いなかったが、同時に撲の全てをとかしきってしまったようだ。二年こそ・・・。
ノンボリ学生として
これは東大教養部学友会の発行する雑誌『学園』の1960年新人生歓迎号に載った匿名氏の(多分、編集部員の)日記の一節である。当時の一年間の大字生活を経たばかりの、ごくふつうの学生の感慮が、ここに集約されている。わたしも内面記録や日記をつける習慣があったら、これとほとんど同じようなものを、書き残していたかもしれない。
59年12月、わたしは学友会のクラス選出理事になった。サークル間の予算の配分、駒場祭をはじめとする各種行事を主催することなどが、その任務だった。当時、教官理事を含んだ学友会と自治会は、犬猿の仲であった。より正確には、自治会執行部および常任理事会は、政治とかかわらない運動部理事を主軸とした無害な学友会理事会が、クラス活動重視の方針を掲げる方向に移っている事態を、自治会きりくずしの攻勢とみなしていたのである。自治会側から見れば、学友会は端的に大学当局と結びついた右翼であった。
ーー駒場は学生運動のメッカとも言われており、我が教養学部自治会は、誇るに足る活動を展開しておりますが、現在の運動の主眼は飽くまでも、政治活動にあり、日常の学園内の地味な活動は忘れられかねません。一方、学部側からは、学生生活を円滑なものとするために、いわゆるクラス活動を奨励しております。こんな事情から近年クフス関係から会員をまとめて行こうとする動きが、学友会ではますます盛んになってきました。
ーー学友会は矢張り、サークルを母体とした領域でしっかりしたものになり、クラス活動は全般的に自治会の下で行われるべきだ。ところが、現実を考えたさい、 残念ながら、果して、自治会が駒場の全学生の真の代表と認められるでしょうか。
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このような主張が学友会の印刷物に載っていることから、自治会側が学友会の能動的な御用組合としての役割を攻撃することは、当然であったろう。しかし、わたしたちノンポリ学生にとっては、それは自治会の理不尽さとしかうけとれなかったのである。
わたしはやがて『学園』の新入生歓迎号で、初の対外的文章を発表するにいたる。
――クラスこそ僕達全駒場生に平等に与えられた場なのであり、僕達のもつ最低の権利ともいえるものなのです。クラスという場を活用出来るか否かは、皆さんがこれからおくる駒場の生活に、多大の影響を与えるだろうということができます。皆さんがマスコミなどから知識を得られている駒場の自治活動にしても、その底辺はクラスにあるのです。クラスから選出される代議員により構成される代議員大会が、自治?動に対し最高の権力を有しているからです。クラスのもつ機能を正しく把握すれは、自治会幹部の浮きあがり等というのが、そもそもナンセンスであり、僕達の責任?避に他なりません。しかし僕達が真剣に取っくまなければならない自治活動を云々する前に、それを盛り上げるクラスの原動力について語るべきだと思います。
――たしかに駒場には幾多の問題があり、それも皆さんがすぐにぶちあたる問題が非常に多いといえます。しかしそれを「乾いた学園」などと一言にかたづけて、我関せずの態度をとる学生こそ問題だといわざるを得ません。自治会、学友会、恊組、学生会館設立凖備学生委員会、学内セミナーなど、表面に表わしている行動形態は異なっても、その目的は、よりよき学園づくりにあることは言うまでもありません。この諸団体に対し、皆さんはクラスを単位としてその意向を表明し、直接にその行動を規制する権利があるのであり、またそうするのが義務であると思います。
第三者的な受けとめ方
学友会の準公式見解とはいえ、それは同時にわたしの意識のありようであり、授業以外には関係のなかったキャンパスに、活動のとっかかりを見出し、倦怠から脱出を図かろうとする表現だった。クラス活動うんぬんについては、また別の側面があった。クラス活動重視をうちだす学友会理事の内部でも、寮生、下宿住い、自宅通学生では意識のちがいは、はっきりしており、クラス活動重視論をもっとも主張するのは、自宅通学生であった。
もともと政治的意識、共同体的意識は、寮生と通学生では比較にならない落差があり、通学生のなかでも下宿と自宅ではまた落差があった。単純化してしまえば、寮生にはクラスは必要でなく、下宿住いは入学当初からなんらかのサークルにはいり、サークルにもはいらず教室と家の往復運動するのが自宅通学生という図式が、クラス活動必要度を反映し、また勉強態度、遊び様式、学生運動へのかかわり方などを規定しているといってもよかった。
わたしは自宅通学生で、千葉県市川市からかよっていた。「あのあいつが・・・」というのは、学生運動活動家の立場からすれば、「あの学友会右翼官僚が ・・・」であり、クラスでいえば、「あのコンパ好きな世話男が・・・」を意味していた。
しかし、わたしは学友会理事になったことによって、別に積極的にクラスで立候補したわけではなかったが、内面では少しずつ地すべりを起しはじめていた。
そのころの安保反対闘争といえば、警職法改悪反対国民会議をひきついだ安保改訂阻止国民会議は、第三次、第八次統一行動をのぞけば、依然として低迷していた。安保は重い、なるほどねえと、第三者的にうけとめながら、安保改訂反対にはかわりないという心情は、どう説明すればよいか。わたしは一般学生の典型でありながら、安保改訂などまたとんでもないと思っていた。安保改訂阻止よりは、安保反対なのである。しかも、どうしてそうなのか展開してみろよといわれれば困ってしまうのである。
デモには何回か出かけた。感激することはなかったわりに、違和感はいつも残った。前出の匿名の日記のうち、5月15日の項も多分に共有するものがある。
1959年5月15日、全学連安保阻止大会5千人結集、駒場は自主的授業放棄で参加。
――駒場からは、千名近くが参加した。日比谷の野外音楽堂での中央集会には失望した。安保改訂反対のスローカンと同列に岸内閣打倒をはじめとする数々のスローガンが10近くもかかげられ、議事の途中に、ハチマキ姿の雑誌社の労働組合の人達がやって来て、 ストライキの報告をし、カンパをたのんだ。学生の安保改訂に反対する集会に雑誌社のストライキが関係あるのか何か嫌な気がした。壇の上に代わりばんこに出て来て演説をブツが良く聞きとれない。そのうち「大会スローガンの採択に拍手して下さい」といって10近くあるスローガンを一つずつ読みはじめた。僕は最初の安保反対のだけ拍手して、あとはしなかった。ふとかたわらをみたら、どっかの大学の幹部らしい奴が、赤旗を膝にはさんで立てて、となりの学生と何か人のうわさをしながら手をたたいていた。また嫌な気がした。
そう、スローガン一つ決めるのに、代議員大会では、ことさららしく議場を閉鎖してまで厳密に採決するのにくらべ、中央大会となると、どんな大会宣言、スローガンも、拍手しようがしまいが、みんな満場一致できまったことになるのだ。これ立派なサギである。
籠城事件がきっかけに
クラス討議は低調だった。活動家のクラスまわりがくると露骨に冷たい空気が流れるようなククスであり、安保賛成をのべたてる奴はいないけれども、条約審議や学習などまっぴらだったから、討論の起りようがないのだ。行動形態についても自主的授業放棄レベルでは、教師に授業をやめてもらうかどうかが最大関心事であり、とどのつまりは、ジグザグデモは是か非かという論議でボソボソとくりかえすことになるのである。
ちょうどその時期に、安保改訂阻止闘争が、というよりは、全学連が一挙に身近になる事件が起った。全学連の清水丈夫・書記長、東大法学部緑会の葉山岳大・委員長に逮捕状が出て、2人が駒場寮に立てこもった“清水・葉山籠城事件”である。
突如、クラス討論がふっとうした。清水丈夫君をかくまうかどうか、警官隊の人構を阻止するのかどうか、問題の重大性よりも、みんな興奮してウキウキしはじめた。11月27日の国会内集会の評価をめぐるモタモタした論争などけしとんだ。
安保闘争といえば、「挑発にのるな!」とすぐ口から飛出してくるほど、"桃発“という,言葉は乱発されたが、 わたしにとっては、11月27日がその言葉を聞きはじめた日であり、清水籠城事件では、むろんその言葉はさかんに飛びかっていた。しかし、その声をつぶすように、興奮の波が寮からはじまって全学に浸透していった。また先の日記を借用する。
12月8日 今日あたり警官隊が来るそうだというウワサ。北寮の前は、報道陣の車が事あれかしと並んでいる。なんとなくワクワクする。もし今、警官隊が来たらスクラムを組んであくまで阻止するかと聞かれたら、はっきり、する、と答えられる。大学に入ってから、これ程学生運動に対してはっきりした考えを持った事は初めてだった。
12月9日 昨日の代議員大会では、清水君を10日まで守るという事になったが、それ以後どうするかについてはうまくごまかしてある。ビラを読んでおかしいと思ったが、やほりこれについては不満の人が多いようだ。こんな情勢になっても、小手先でごまかして、後は成行にまかせようとする自治会側の態度は反省すべきものではないか。
12月10日 清水君を擁してデモ。朝から興奮の一日だった。清水、葉山両君とも逮捕された。何か考えなくてはいけないと思いながらも疲れて、それともまだ気が落ち着かないのか、考えがまとまらない。
12月12日 マスコミの言う良識とは一体何だろうか。10日以後の事をはっきりしなかった代議員大会の決定に反対して署名運動をはじめた事まで“良識派の勝利”などといっている。・・・感情的に同じ大学で学友を守ろうと同情を働かせるのが当然なのではないか。もし、ああいう行き方がマスコミの言う無関心派が転じた良識派であるなら、僕は良識派になりたくないし、なることも出来ない。
プントが与えた驚き
感情が働きだしたことによって、このノンポリ氏にも大きくいって安保闘争へのかかわり方に微妙な変化が生じている。わたしにとって、もっとも感情が動いたのは、寮を出てきた清水の顔を見たときであった。天上人、イデオロギー武装を強固にしているはずの全学連の闘士の顔は、血の気がひき、やつれていた。ああ、彼もおれたちとおんなじだと思ったとたん、わたしは安保闘争に自分を賭ける下地の下地みたいなものをつくったのである。
ブントの誠実な活動家・茅野寛志(のちに寮でわたしと同室となり、彼から大きな影響をうけた。60年10月に病死した)は「寮間の学内集会にも5、6百名が集り、清水も挨拶した。しかし長いろう城生活でかなりやつれ、青白く、また感動が激しく、切れ切れの、力の何となくない挨拶だった。少しみじめに思えたが、止むを得ないのたろう」。
と、遺稿集『残さるべき死』の中にこう書きとめているが、毅然とし闘士ぶりを控え目ながらもとめる心は、やはり大衆を意識してのことだろう。そして、疲れきってしまった闘士を見て、かえってたかぶる大衆がいることに、たぶん、彼は思い及ばなかったのだろう。
1月16日、わたしたち学友会の理事は神奈川県の真鶴で、合宿していた。テレビで羽田ロビー占拠(本誌71年2月26日号参照)の報を見ながら、何を馬鹿な・・・という思いと、たぶん、馬鹿は承知で主力を投人し、体をはってがんはるブントへの驚きが交錯した。何を馬鹿な・・・で終らなくなっただけでも、わたしの内面では地すべりを起しているのである。
その年の3月、学友会がクラス活動重視の方針に基づいて、力を注ぐことにした新人生オリエンテーションの企画ができあがり、寮食堂で文科、理科二回にわけておこなう新人生歓迎会に、自治委員長挨拶がなくてはかなうまいということになった。自治会は難色を示した。すでに臨戦体制にはいっくる自治会は、独自に戦闘的オリエンテーションを考えており、飲み物つきのテレテレした歓迎会などに自治委員長を出すわけにはゆかないのであった。
わたしはオリエンテーション担当として、 自治委員長・西部邁の説得にあたった。自治会と学友会の有機的連携の必要性にはじまって、決め手は自治会主催で全新入生があつまるか、歓迎会の犯罪性をうんぬんするまえに会場にのりこんで、その雰囲気をかえようと、なぜ考えないのかであった。西部は承知した。そして、それは学友会と自治会の対立の雪どけのはじまりであり、わたし個人にとっては、のちにデモで走っているときでも、ぴったりブントのオルガナイザーがつき、共に走りながらオルグるという事態にまで発展する素因となった。
闘いなき理論は無力
新入生歓迎会での西部委員長の挨拶は、語りつがれる名アジテーションになった。この演説と、4月18日におこなわれた清水幾太郎の講演「安保闘争の意義と進め方」と、4月23日、自民党の衆院安保委の中間報告をもとめる動議提出とが、4・26ストライキ闘争をもたらした三大要因であると、分析した活動家もいた。結果として野次、怒号のない西部演説の実現に一役買ったことになったわたしも、時間切れのサインを出したりしながら、身を入れて聞いた。
だいたいデモへ出発する前の集会での演説などは身を入れて聞かないものだし、また野次と怒号にみちた代議員大会での発言は、聞えないことはないにしても、聞こうとする意欲は喪失してしまうものである。また行動提起があらかじめなされており、クラス討議の結果が、代議員一任とならずに、ある行動をとることを選択してしまえば、提案説明やら一般討論やらを聞く必要はないのだ。
たから、ある代議員が緊張しているのは、クラス決議をやぶろうとしている場合か、クラスがまとまらなかったか、もともとクラスが無関心で、討論などされない状態のまま代議員大会に出ている場合か、修正案がその場でどんどん出される場合であって、そのいずれもが代議員制度の崩壊か逸脱を意味しているーーという奇妙な事態が生れるのである。
わたしは、西部演説を身を入れて聞く機会にぶつかって、感動した。それは一種の根性論であった。「根性をもちなさい」というのではなく、「おれは恨性をもってやる」論なのであった。理論なき闘いは盲目であるが、闘いをはなれて理論は無力である、批判の武器は、武器の批判に代ることができぬ。労学同盟をめざしながら、なお別個にたって共に撃つ視点にたつ学生の独自で妥協なき直接的抗議行動なくしては、もはや復活した日帝のあらゆる侵略と抑圧の出発点である安保改訂を阻止するきっかけはつかめぬ。おれはその先頭にたつ・・・。
それ以来、もう10年という歳月のフィルターをかけているから細かな点は忘れたが、西部の演説はそんな趣旨だったろう。わたしは西部の真情あふれる語り口に感激し、そういう奴がもっている理論や思想はきっとそんなに間違ったものではないだろうと考える同路に一歩踏みいったのである。反米愛国など冗談じゃない。おれに祖国なんかあるものかーーという単純な反発をのりこえさせてくれるような、真情のこもった共産党員に出会っていれば、わたしはおのずとちがった自己形成をしたかもしれない。ノンポリがどのようなポリになっていくかの契機には、ある具体的な人物が決定的にかかわっている。
肉体を通して解放感を
わたしは、我を忘れてデモ暮しまで、もうちょっとのところへきてい た。実際、そうなるには、自民党岸政府の安保委強行突破策動への怒りと、ストとはこんなに楽しいものかというおマツリ気分の4・26ストと、焼香請願にたいする反発と機動隊にぶんなぐられる経験が必要だった。学友会の仕事と、少し毛のはえはじめたクラス活動家として、わたしはすっかり忙しくなり、生きがいみたいなものを感じはじめ、忙しくなるにつれて寮に泊りこむ日がふえた。寮に泊るたびに少しずつポリ化し、通学生がもつ日常時間感覚はくずれてゆく。そして、とうとう、結核の既応症と喘息のため、遠距離通学はふさわしくないから寮内の結核予後部屋にはいることは妥当ーーという学生診療所のお墨付きをせしめて、強引に駒場寮にはいりこんだ。
それからは一潟千里で6・15をむかえる。ポリ化したといっても、それは、国家権力なるものが透けて見えてきたような感じをさすのであり(それはそれで、ノンポリにはふたたび帰れない決定的な心のバリケードだったが)、あいかわらす政治用語はつかえず、まして政治的に人を説得することなどできなかった。人を説くことがまだできない自覚は、いかに自分の肉体を酷使するかにつながる。肉体運動を通して、わたしは一つには「生の拡充」を、解放感を満喫し(一口にいって、デモは偉大なレクリエーションだと書いた人もいる)、ひとつには人身御供的な志向をするようになっていった。
6月14日、自治委員会で「国会内抗議集会」提案を可決。前日までの数日間どこかでおこなわれているブントの激論の様子は、寮にいるわたしたちに伝わってきていた。そして、議論もヘチマもあるか、やるほかないじゃないかといきまく、いわゆるブント・シンパの過激な大衆の一人に、わたしもはいっていた。そういう者はみんな、とりたてて能もなくと思い、わが身一つを賭けて最後の機会をと思う連中だったろう。
しかし、わたしたちがブントの決定待ちだったことには、かわりない。この日、当時の太田総評議長は、アイク訪日当日のデモ中止を社共両党に要望して、事実上、安保闘争はしりつぼみとなるお膳立てが、ほとんど完了した。
6月15日、素手の者が、武器をもったむきだしの憎悪に襲われて起した阿鼻叫喚の図。襲撃した者??主として第二、四機動隊、第七方面警官隊、維新行動隊。襲われた者??市民、学生、教授、大学職員団、報道陣。学生の暴動化、機動隊との乱闘なる言葉、日本語の乱用の典型を示す。一方的にうちのめされ、たたきのめされ、わずかな抵抗は、敷石200枚、それさえ投げかえされ、ヘルメットなしの被害甚大。まさに大量の人身御供、人柱であった。
わたし自身は、午前1時、3?目の襲撃にあって、ひたすら遁走できた体力か残っていたために、大きな負い目をしょいこんだ。第1回は国会の南通用門右側、第2回は構内の衆議院側に位置していたわたしが、活動不能の傷を負わなかったのは偶然であり、自分に対してやましいことはない。しかし、最後の催涙ガスに目をつぶされ、恐?のかたまりになって逃げた行為は、おまえは人身御供となるはすじゃなかったのかーーという問いをともなって、わたしを突きさした。わたしはこの次こそ逃げまいなどと体をかわすことができずに、ずっと逃げた事実にむきあっていなければならなかった。
一年後の冬、わたしはまだ駒場にいて、どうしようもない奴といわれている。その証左の一つとされた文を長く引用して、その説明にかえたい。引用文は、第25期自治委員長選で、社青同・江田五月に50票の差で敗れた社学同・山崎修太に対するわたしの署名入り推薦ビラである。
満身の力で壁をたたけ
――警官が学生を猛烈にぶんなぐるとき、何も支配者階級の暴力装置の一員としてぶんなぐっているのじゃない。学生という存在、ぬくぬくと生活している存在に対する憎悪だ。労働者の場合も同様である。かしこぶって労働者の中に入って、"ともに闘おう“。労働者の学生に対する本質的な憎悪の念すら気がつかぬおめでたさ。「革命的労働者はわれわれをうけいれる」。何たるたわごと!そんなたわごとを堂々といえるほど、われわれは鉄面皮じゃない。
ーー道化いわく、それはおかどちがいだ、学生運動は学生の利益を守るためにあるのです。大いに結構。だが動かないぜ。せいぜいやってくれ。学生がなりたってゆかないような不利益を支配者が出すものか。こんなことを何時間続けていっても同じことだ。それを半年、一年続けると完全な無表情の仮面が完成するんだ。が、その下にあるのは、グロテスクなドロドロとした苦汁である。それを政治的無関心だとか、幼な子よと呼びかける連中のノッペリした面の皮をひんむいてやりたい。(略)われわれは全くの袋小路のなかにいる。どうしようもない状態だ。では、何故発言するか。どうして自己表現するか、完全な沈黙からぬけだそうとするか。
――われわれが「牢獄と一体になっていることをやめて、牢獄のなかにいること」を意識してしまったからだ。牢獄と一体でいる限り何と幸福であったろう。牢獄自体がもがくなんてことはあり得ぬからだ。しかし、いったん個々別々の牢獄のなかに自分が身をおいていることを気がついたら、壁をたたきつづける以外に道はないのだ。どんなに休み休みであろうとも。出るためにたたくのではない。個室にいれられた各人は、一緒にたたいたらどんな事態がおこるかさえ知らぬ。カクリされた者に組織論などない。ただたたくのだ。疲れはてねころんでも、またいつかたたきだしているんだ。たたかざるを得ないんだ。
ー―ここには、結果を予想できない、純粋な行動だけがある。それ以外はすべて欺瞞である。空想にふけることも、じっとしていることも、全て牢獄から誰かがいつか出してくれるという期待の形態である。そこにとどまれぬ何かがある。理論でも感情でもない何かがある。それによってわれわれはたたきつづける。われわれは、共通の言葉のいかにとぼしいかを自覚する。
――しかし、最後のコミュニケーションはいまだ存続する。それは、全ての幻想をすてた、たたきつづけるという行動である。統一の真の意義、ぎりぎりの線までさがった統一はここにしかありえない。
満身の力をもって壁をたたけ!たたきつづけよ一
(さいしゅ・さとる・東大助手)
【お知らせ その1】
『獄に暮らせば』「21年7ケ月の獄中日記から}(作品社)3,520円(税込み)
2026年5月29日刊行予定。
日本も世界も、もっとより良いものに変えたい!
そんな思いで学生運動に身を投じた日から、思い出さずにいられない革命と解放闘争の日常。
連合赤軍事件、レバノン、パレスチナ・ガザ、そして新たに出会った獄中の人々、さらに次々襲い掛かる大腸癌、小腸癌、子宮癌など病魔との闘い。
本書は、著者による2022年5月28日朝、満期出所時までの獄中ドキュメントであり、かつ元日本赤軍リーダーが、一人の人間として、戦争と平和に向き合い、人々の命を思いやった、その心情と葛藤を綴った2000年11月8日から2022年5月28日までの闘いの記録である。
【お知らせ その2】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。
http://meidai1970.sakura.ne.jp/gakuentousou.html
●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。
【お知らせ その3】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は2026年6月13日(金)に更新予定です。


