最近、手元にある本や雑誌の整理を始めた。「終活」というほどのことでもないが、そんな中で、当時の雑誌『現代の眼』や『構造』などに掲載された記事を改めて読む機会があった。
大変興味深い記事も多数あるので、「雑誌で読むあの時代」というシリーズでブログに掲載することにした。
第2回目は、『朝日ジャーナル』1969年9月14日号に掲載された「青学大に劫火(ごうか)よおこれ 教授会の少数意見」という記事である。1969年の青山学院大学闘争について、全共闘側からではなく、教員側から見た闘争の記事である。
※文中の写真は管理人が補足として付け加えている。なお、写真は当時の青学大全共闘Y氏からの提供による。

img20240222_15410958

【青学大に劫火よおこれ 教授会の少数意見 大賀 正喜】
モデル大学第 I 号
8月21日早朝、大平善梧学長は全共闘学生が全学無期限バリケード封鎖でたたかっている青山キャンパスにはじめて大学の手で機動隊を導入した。これと同時に某建設会社の作業員が入り、ロックアウト用の金属塀がまたたくまに大学のまわりに構築された。大学法施行の17日からわずか4日目、青山学院大学は全国にさきがけて「自主解決」のモデル大学=機動隊大学になったわけだ。
六学部のうち、学生との話合いを主張してきた四学部(文・二文・法・経)の学部長はただちに辞表を提出した。機動隊導入という重要事項に関して学部長は一切つんぼさじきに置かれていたのである。3日後の24日、連合教授会において大平学長はつぎのような発言をした。
「私はただ機密を守りたかっただけだ。機動隊導入を教授会にはかれば反対されるおそれがあった」、「今のような異常事態においては、非民主的なやり方もやむをえない。民主主義というのは議論に時間をかけるばかりで、重要な決定を先へ先へとのばすだけだ」、「マージャンでも、うしろに鏡をおいて相手に自分の手の内を見せるバカはいないだろう」、「学部長会ではある程度手の内を見せたはずだが、法学者はともかく文学者にはピンとこなかったようだ。文学者はなぐられないと気がつかないらしい」。このほか、大学立法に関して「悪法も法。どうしても反対したい教師は教師をやめて街頭で政治活動をやればよい」等々、教員を愚弄した大平語録にはこと欠かぬ。それはまさしくファシズムの論理にほかならない。学生の問いかけを正面から受けとめて、ともに解決の道を模索するか、それとも学生を力で排除するか、教育の死活にかかわるこの重大な選択において、大平学長は教授会の意思を一切無視したのである。
機動隊壻入の3日前、全共闘学生と会見した大平学長は、「9月に全学集会をひらいてほしい」との要求にたいし、「学部長会にはかる」と答えている。これを信じて学生は会見を定刻通りに切上げたのである。学部長会ではこの件は継続審議になっていた。機動隊導入は教授会ばかりでなく、学生諸君にたいしても重大な背信行為である。力によって教室・校舎を取戻せても、無残に打ちくだかれた信頼関係はもう取返せないだろう。あとに見えるのは教育と研究の荒廃のみである。
大学法が参議院本会議で強行採決された翌日、関東地区大学教員連絡会議の有志のひとりとして私は、首相官邸前で国家権力の味を肉体的に思い知った。代表を立てて首相との面会を申込んだ私たち素手の大学教員(年配の方もおられた)に完全武装の機動隊がいきなり襲いかかってきたのだ。終始説得をつづけられた東大の西村秀夫助教授は私の目の前で突倒された。腹をけられて人事不省におちいり病院に運ばれた教員もいる。私の同僚のひとりは向うズネをけられていまだに色が変っている。私も、のどわでせめられ、石垣におしつけられて右腕をすりむき、右手首と右足首を捻挫した。私はそのとき、学生諸君がどんな目にあっているか、私の肉体を通しておぼろげながらわかるような気がした。「機動隊と衝突することだけがたたかいではない」と安全な場所にいて小ざかしい口をきく人たちがいるが、正当な権利を主張する者に警察力のほうが好んで挑みかかってくるのだ。門の前に立ちどまっただけでかみついてくる権力の番犬ども。そのような機動隊によって「解放」された大学とはいったい何か?そのような大学で行われる正常化=授業再開とはいったい何か?正常な神経を持った教師ならば、こんな状況のもとでは、とうてい教壇に立つことはできないはずである。
7月19日、あらたに選出された大平善梧学長は、9月までにバリケード封鎖を排除することを「至上命令」と信じ、教授会・学部長会を無視して、理事長、院長・学長からなる「執行部三位一体」論をとなえ、ひたすらに物理的正常化の道を邁進してきたのであった。その大平学長が、8月1日には「大学立法に反対する全国大学学長の会」の声明―「『大学の運営に関する臨時措置法案』は大学が本来あるべきすがたに到達する道を阻むものである。よってわれわれはこの立法に強く反対し、立法阻止の行動をとる」―に署名した101人の大学学長のひとりであったことを付記しておこう。

1

「三公示体制」に抗して
さて、青山学院大学闘争の発端は「学長三公示」にさかのぼる。
1.本大学学生は全学連への加入は禁止する。
1.学内における政治的実践は許されない。学園は各種の政党からは中立でなければならない。
1.学生は授業に出席する学生を妨害したり、欠席を強要する如何なる手段もとってはならない。
1960年6月17日、安保闘争が最高潮に達した、まさにその瞬間にこの「学長三公示」は出されたのである。穏健をもって知られていた青学大の学生と教職員であったが、その一部は高まりゆく国会周辺のデモにやむにやまれず参加したという。「三公示」がこうした動きを弾圧する意図をもって出されたことは何人も否定できまい。
この「三公示」を出したのは当時の大木金次郎学長であるが、かれは今春、この三公示に関して何の反省の意思表示もないまま学長を辞任し、兼任していた学院長の地位に今日なおとどまり三位一体執行部の一翼を担った。
6年前、1963年に私が青学大に赴任してまず感じたことは、自治会さえ持たぬ学生のおとなしさであるが、そのわけはすぐにわかった。ある年の入学式の訓示の中で、大木学長はマルクス主義がいかにまちがったものであり、本学院のキリスト教主義といかに相いれないものであるかを声を大にして叫んだ。別の年の入学式ではまた「学生騒動が起ったら、半年ぐらいは学園を閉鎖することも辞さぬ」と恫喝した。まさに大学立法の先取りである。コレハタィへンナ学長ダワイと私は内心あきれかえった。「三公示体制」が真綿のようにじわじわと学園全体をしめつけていたのだ。
1966年に「三公示体制」を象徴する芝田事件が起った。法政大学助教授芝田進午氏の学生主催による講演会「大学の危機と授業料値上げ問題」が大木学長の裁断で不許可にされたが、学生側はこれを強行し、14人の学生が停学処分をうけたのである。
私はたいへんな大学だと思ったが、自分の研究・教育の自由さえ保障されるならば体制にさからわず、たいていのことはガマンしよう、民主化はなしくずしにやってゆけばよい、という心の構えをとっており、その日その日の安泰を願っていたことを白状しなければならない。
昨年春、三公示体制はそのような微温的・日和見的な私個人に対していきなり凶器をふるってきた。大木学長が学部長を通じて私に「君は共産党員として積極的な政治活動をやっているだろう。こちらには確たる証拠があるのだ」とたずねてきたのである。私はあいた口がふさがらなかった。路上でいきなりヤクザにインネンをつけられたのと同じである。私はそのような事実が全くないことを学部長を通じて学長に返答した。しかしこれはどう考えても不当な仕打ちであり、翌日、学部長に相談して直接学長に会おうとしたが、なだめられて思いとどまった。私は直接学長に抗議すべきであった。そして真相を学内に公表すべきであった。だが私にはそれをする勇気がなかった。
まだ終っていない青学大闘争は私にとっては何よりもまず人権回復の場であり、自己改革の場である。沈黙とエゴイズムによって「三公示体制」を教員の一人として裏から支えてきた自己を否定し、闘う自己をきたえあげる場である。

欺瞞的な教授会
教授会において私が罪ぶかい沈黙を破ったのは昨年の10月17日の公示によって三公示が廃止された前後である。すでに咋年6月ごろから三公示撤廃と自治会設立を目標の二本の柱に立てた学生の運動が高まってきていた。このような闘争の高まりを前にして、当局はついに10・17学長公示をもって三公示撤廃にふみきったのである。
以後のすべての学園内の混乱は、この10・17公示の欺瞞性から発していると私は考える。当局はあくまで学生対策として三公示をおろしたのである。教授会での議論をきいていると、関心はもっぱら、いかに学生を欺き、なだめるかに向けられていた。「ノンポリの一般学生でさえも三公示を高圧的であると感じはじめているようだから、このさい三公示はおろして一般学生が活動家学生の扇動にのらないようにしたほうが得策である」という発想である。そこには三公示を支えてきた教員としての反省はひとかけらもなかった。公の席で発言することが病的なほどきらいな私であったが、ここで黙っていてはならないと思い、ついに清水の舞台からとびおりるような気持で、教授会ではじめて発言したのである。「対策のみに明け暮れるのは教育者としてのあり方ではない。三公示の精神を是とするか非とするかの根本的な問題を議論すべきだ」というのが、それ以後たびたび教授会で発言するようになった私の論旨であった。
当然のこととして学生は10・17公示の欺瞞性をすぐに見破り、全学闘争委員会(全学闘、のちの全共闘)はこの公示の明確化を当局に迫ってきた。しかし当局は全学闘を学生の正式の代表として認めずこれを拒否しつづけ、11月26?27日全学闘による八号館(私の研究室を含む)の第一次バリケード封鎖が行われる。11月30日にようやく全学集会が行われたが、ここで大木学長は「青山学院のキリスト教建学精神に反対するイデオロギ-をもつようなマルキスト、トロツキスト学生は学園から出ていけ」とあられもない暴言をはき、集会はヤジと怒号のうちに幕を閉じた。かくて12月12日ふたたび全学闘は八号館をバリケード封鎖する。全学闘はやがて全学共闘会議(全共闘)と改称し、明けて1月5日付で六項目要求(注)を出してきた。

(注)1.昭和43年10月17日付公示(筆者注=三公示廃止の公示)の明確化と三公示体制の自己批判。2.昭和41年芝田事件における14名大量処分白紙撤回。3.自治権の確立。4.一切の表現の自由の獲得。5.昭和43年12月20日夜半の理工学部(筆者注=世田谷区廻沢キャンパス)への官憲機動隊導入(筆者注=全共鬪が攻めてくるとの虚報により理工学部長が機動隊に出動を要請した事実)の自己批判と、今後一切導入しないことの確約。6.今回の一切の事態に関して処分しない。以上六項目を大衆団交(全共闘主催)の場でもって確約し、学長、全理事は総退陣せよ。

いっぽう教授会は独自の立場から学部ごとに6~9人の学部代表委員を選び(私も12月末にこれに加わった)、これが学部代表委員連絡会議をつくり、年末年始の休みを返上して連日深更に及ぶまで会合をかさね問題の解決策を模索した。その結果、1・5全学教授会声明が出たのである。この声明は三公示が「学生をもっぱら強制的な管理・統制の対象とみなす考え方に立ち」、「学生の自治を圧迫し学問研究の自由を侵害する結果をもたらした」としてその誤りをみとめ、反省の意志を表明したものであったが、芝田事件の処分の白紙撤回を出ししぶり、バリケード封鎖を「是認できない」とするなど、私にとってははなはだ不満なものであった。私は、全共闘の要求の正しさと、これに対する当局の不誠実な態度からみて、バリケード封鎖は学生に本来与えられてしかるべき抵抗権の行使として全く正当であると考え、これを支持することを教授会でもはっきり言明していた。
1月初旬、大木学長は病気の理由で3月末までに学長を辞任することを理事会で承認され、田島文学部長・桜井経営学部長が学長代理をつとめることになった。ふたりの学長代理はただちに全共闘を相手に交渉するハラをかため、1月18日大衆団交が開かれ、大木学長の正式の委任状を桜井学長代理(田島学長代理は病気欠席)が白石全共闘議長と六項目にわたる確約書を取交わしたのである。その内容は、学長・全理事総退陣の件を除き、六項目要求をほぼ全面的に受入れるものであった。翌1月19日、ほぼ1カ月ぶりに全共闘は八号館のバリケード封鎖を自主的にといたのである。
学年末試験、入学試験は予定通り実施され、3月に学長はじめ学部長などが入れかわり、新しい執行部が生れた。村上新学長は全共闘との間に交わされた六項目確約書を尊重する路線をとり、大学立法についても全共闘主催の大衆団交に応じて、いちはやく反対声明を出した。いっぽう教授会でも大学立法反対実行委員を選出し、その企画によって他大学にさきがけて国会請願デモを行なった。また教授会レベルで大学問題研究委員会をつくり、大学改革に着手した。

2

装われた民主主義
しかし、反動勢力のまき返しは1・18団交直後にはじまる。全共闘に敵対する一部右翼系学生(青学大では民青の勢力は弱い)は1・18団交が大多数の学生の意見を反映しておらず、六項目確約書もその成立過程において手続き上民主主義のルールを満たしていないという形式論で反撃してきた。この運動の特色は内容を論ずるのではなく、手続きと形式を死活の要とし、多数決原理を絶対視する誤った民主主義を標榜して全共闘を排除しようとするところにある。運動はやがてタカ派教授をバックにして民主化連合と名乗り、六項目確約書とは別に七項目確認書を出してきて、この2つのいずれを選ぶか全学投票にかけようとしたのである。そして豊富な資金源を予想させるような新聞やパンフレットを矢つぎばやに出して、その中で進歩派と目される教授たちにたいする卑劣きわまる個人中傷を公然と行いはじめた。私は、民主主義の装いをとったこのような動きにたいし、はげしい憤りを感じ、私が、一貫した論理をもってたたかってきた全共闘の運動を高く評価していることを明らかにするとともに、反動勢力の策略にのらないように訴える内容の声明文を私個人の署名でタテカンにして出した。
私はすでに教授会のワク内でのみ発言する限界を感じ、教員ひとりひとりが自分の責任において、自分のコトバであらゆる機会をつかんで発言するときがきたと考えたのである。見せかけの統一を求めるのはもうたくさんだ、学院全体が体質改善のためのルツボの中に投入れられなければならないと思ったのである。
いっぽう、学長をやめて学院長の職にとどまった大木氏は表面上「大学のことは学長にまかせてあるから干渉しない」というタテマエをとりながら、事実上、大学の自治にたいし、かずかずの侵害を行なった。その顕著なものは4月21日の文部次官通達(警察の判断を大学の判断に優先させる)について、翌22日の『朝日新聞』紙上に大木院長の賛成意見が公表されたことである。こうした動きについて文学部・法学部教授会はそれぞれ抗議文・要望書を院長あてに出した。それではなまぬるいと感じた私は、私自身が行なった調査結果をふまえて、同志のふたりの教授とともにつぎのような闘争宣言をタテカンにして出したのであ
る。
<教授闘争宣言>
三公示によって学生のみならず教員をも管理統制の対象として思想調査を行ない、あらゆるものに対して批判的であるべき知的営為=学問を圧殺せんとしてきた大木院長は何ら自己批判することなく、いまだに院長の職に居すわっている。しかも表面上は「大学のことは大学にまかせる」といいながら、合法性を楯にとって私立大学連盟においては、いぜんとして青山学院大学の代表としての地位を保持しつつ同連盟の常務理事の地位にとどまっている。(中略)
大木院長は、法人の代表者としての地位を利用して、青山学院大学にいまだに君臨していることをここではっきり確認しなければならない。
このように見てくるとき、去る4月22日の朝日新聞紙上で院長が、大学の事柄に属する文部次官通達にたいし双手をあげて賛成の意を表したことは、むしろ自然の成りゆきといえよう。しかもその意志表明の内容は、警察の判断を大学の判断に優先させるというもので、ひたすら反体制運動の圧殺をはかる性質のものである。(中略)
大学内において権力の弾圧政策を代行せんとする、このような院長を弾劾し追及することなくして、三公示廃止は実体化されないのであり、大学立法反対は空ろなかけ声におわるであろう。
また、われわれ教員のひとりひとりが三公示に対して積極的反抗を示さなかったことによりこれを支えてきたまさに加害者であったこと、また三公示廃止後も大木氏の院長への居すわりに対し、一貫した論理による追及を怠ってきたことを真に自己批判し、学内に陰に陽にはびこる反動勢力に対し、断固たる闘争を遂行しないかぎり、一切の大学革新の企ては始まらないことを確認しなければならない。

3

恐るべき管理者感覚
大学立法に反対して、また「大木派」追放をとなえて、全共闘は6月19日から今回の機動隊導入にいたるまで、無期限バリケード封鎖をもって闘ってきた。この間多くの自主講座、ティーチインがひらかれ、私たち一部の教員は積極的にこれに参加し、ともに大学を語り、学問のあり方を考えてきた。ところが6月25日、体育系の一部の学生が中心になって記念館で「バリ・ストに反対する学生集会」を開き、これに対抗して記念館わきの広場で全共闘が集会を開いた。
事前に交渉委員会(教員)のあっせんで双方とも自重することを確認しあっていたことでもあり、だれが見ても双方の衝突が目前に迫っている状況ではなかったにもかかわらず、突如として機動隊が乱入し、千人をこえる一般学生と教職員の見ている前で全共闘学生が暴行を受け、61人の学生が検挙された。学校当局の要請なく一方的に行われたこの警察力の暴挙に、一般学生の怒りは爆発し、「カエレ、カエレ」のシュプレヒコールと投石をもって機動隊を門外に押返した。私も座視するにたえず警察力に物理的にぶつかってはみたものの、簡単にはねとばされ、「公務執行妨害で逮捕するぞ」とおどされた。あのとき教員は成否をかえりみず、スクラムを組んで「公務執行妨害」を行うべきだったと思う。これはまさに文部次官通達による警察力介入方式の先例をなすものであり、通達に賛成した学院長のいる大学が、まずその実験対象に選ばれたと見るのは果してうがち過ぎであろうか?
しかし、この事件を契機にして教員の一部に、警察の暴力を責めるよりも、むしろ「あれはたしかに凶器準備集合罪を構成する。全共闘に対して執行部はもっと毅然たる態度をとれ」と、見当はずれの法万能主義的・管理者的発想に貫かれた声がおこり、これがもとで執行部の中が割れ、7月上旬ついに村上執行部は総退陣に追いこまれた。そして今回の機動隊導入を行なった大平善梧学長が選出されたのである。
「学生ストは営業妨害であるから不法である」という恐るべき感覚の持主である大平学長のもとで、1・5教授会声明の延長線上にある六項目確約書は一片の反古にされようとしており、「三公示体制」も顔負けの超反動体制が構築されつつある。たたかいはますます困難になってきた。それは敵が死ぬか味方が死ぬかの妥協を許さぬたたかいであり、したがって絶対に負けてはならないたたかいである。「力及ばずに倒れることを辞さないが」とは言っておられぬたたかいである。
一切の古く悪しきものを劫火の中に焼きつくさずにはおかないたたかいである。
(おおが まさよし・青山学院大助教授)

4

【4・28反戦シンポジウム 直ちに戦争をやめろ! のお知らせ】

435612684_10225670596896093_7144675630003350966_n

日時:4月28日(日)13時10分~16時50分
会場::銀座ブロッサム・中央会館集会室「マーガレット」
東京メトロ有楽町線新富町駅徒歩1分 東京メトロ日比谷線・都営地下鉄浅草線柬銀座駅徒歩6分
入場料:無料(皆さまのカンパによって運営されます)
主催:反戦シンポジウム実行委員会【mail] kim.kwangji.azabugakuen@gmail.com
●シンポジウム
高橋順一(早稲田大学名誉教授)
鵜飼哲(一橋大学名誉教授)
三宅千晶(弁護士)
ファビアン・カルパントラ(横浜国立大学准教授)
キ厶・ソン八(韓国徴兵拒否者らの亡命立案者)
●ディスカツション
白坂リサ(慶應義塾大学)
田中駿介(東京大学大学院)
山本大貴(慶應義塾大学)
三上治(思想家)
前田和男(ノンフィクション作家)
二木啓孝(ジャーナリスト)ほか 順不同

【『パレスチナ解放闘争史』の紹介】
重信房子さんの新刊本です!好評につき重版決定!
『パレスチナ解放闘争史』(作品社)2024年3月19日刊行
本体:3600円(税別)

image002

「模索舎」のリンクはこちらです。
  
なぜジェノサイドを止められないのか? 
因縁の歴史を丁寧にさかのぼり占領と抵抗の歴史を読み解く。
獄中で綴られた、圧政と抵抗のパレスチナ現代史。
ガザの決起と、全世界注視の中で続くジェノサイド。
【内容目次】
第一部 アラブの目覚め――パレスチナ解放闘争へ(1916年~1994年)
第二部 オスロ合意――ジェノサイドに抗して(1994年~2024年)

【『はたちの時代』の紹介】
重信房子さんの新刊本です。絶賛発売中!
『はたちの時代』(太田出版) 2023年6月16日刊行

はたちの時代

前半は66年から68年までの明大学費闘争を中心とした時期のこと(この部分は私のブログに「1960年代と私」というタイトルで掲載したものです)。
後半は69年から72年までの赤軍派の時期のことが書かれています。
定価 2,860円(税込

本のアマゾンリンクはこちらになります。

「模索舎」のリンクはこちらです。

「あとはき」より
『ここに書かれた記録は、ごく日常的な私自身の身の回りで起こったことを率直に書き記したものです。その分、他の人が書けば全く違った関心角度から違った物語がこの時代のエピソードとして描かれることでしょう。私は獄に在って、何度か癌の手術を繰り返していました。生きて出られないことがあっても、支えてくれる旧友や、見ず知らずの方々にお礼を込めて、私の生き方、どんなふうに生きてきたのかを記録しておきたいと思ったのが、この記録の始まりです。私がどのように育ち、学生運動に関わり、パレスチナ解放闘争に参加しどう生きて来たのか、マスメデイアでステレオタイプに作り上げられた私ではなく、生身の私の思いや実情を説明しておきたくて当時を振り返りつつ記して来ました。獄中と言うのは、集中して文章を書くのに良いところで、ペンをとって自分と向き合うと過去を素直に見つめることが出来ます。楽しかった活動や誇りたいと思う良かった事も、間違いや恥かしい事や苦しかったことも、等しく価値ある人生であり私の財産だと教えられた気がします。(中略)どんなふうに戦い、どんな思いをもって力を尽くし、そして破れたのか、当時の何万という「世の中を良くしたい」と願った変革者の一人として、当時の何万と居た友人たちへの報告として読んでもらえたら嬉しいです。また当時を若い人にも知ってほしいし、この書がきっかけになって身近に実は居る祖父や祖母たちから「石のひとつやふたつ投げたんだよ」と語ってもらい、当時を聴きながら社会を知り変えるきっかけになれば、そんな嬉しいことはありません。
いまの日本は明らかに新しい戦争の道を進んでいます。いつの間にか日本は、核と戦争の最前線を担わされています。そんな日本を変えていきたいと思っています。決して戦争をしない、させない日本の未来をなお訴え続けねばと思っています。なぜなら日本政府が不戦と非戦の国是を貫くならば日本の憲法には戦争を押しとどめる力があるからです。はたちの時代の初心を忘れず日本を良い国にしたい。老若男女がこぞって反戦を訴え支える日本政府を実現したいと思います。』

目次
第一部 はたちの時代 
第一章 はたちの時代の前史
1 私のうまれてきた時代/2 就職するということ 1964年―18歳/3 新入社員、大学をめざす
第二章 1965年 大学に入学した
1 1965年という時代の熱気/2 他人のための正義に共感/3 マロニエ通り
第三章 大学生活をたのしむ
1 創作活動の夢/2 弁論をやってみる/3 婚約/4 デモに行く/5 初めての学生大会/6 研連執行部として

第二部 明治大学学費値上げ反対闘争
第四章 学費値上げと学生たち
1 当時の牧歌的な学生運動/2 戦後民主主義を体現していた自治会運動/3 話し合いの「七・二協定」/4 田口富久治教授の嘲笑   
第五章 自治会をめぐる攻防
1 スト権確立とバリケード――昼間部の闘い/2 Ⅱ部(夜間部)秋の闘いへ/3多数派工作に奔走する/4 議事を進行する/5 日共執行部案否決 対案採択
第六章 大学当局との対決へ 
1 バリケードの中の自治/2 大学当局との激論/3 学費値上げ正式決定/4 収拾のための裏面工作/5 対立から妥結への模索/6 最後の交渉と機動隊導入  
第七章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書―二・二協定の真相/2 覚え書き(二・二協定)をめぐる学生たちの動き

第三部 実力闘争の時代
第八章 社学同参加と現代思想研究会
1―1967年 一 私が触れた学生運動の時代/2 全学連再建と明大「二・二協定」/3 明大学費闘争から再生へ 
第九章 社学同への加盟
1 社学同加盟と現代思想研究会/2 現思研としての活動を始める/3 67年春、福島県議選の応援/4 今も憲法を問う砂川闘争/5 あれこれの学内党派対立/6 駿河台の文化活動
第十章 激動の戦線
1 角材を先頭に突撃/2 10・8闘争の衝撃/3 三里塚闘争への参加/4 68年 5月革命にふるえる/5 初めての神田カルチェラタン闘争―1968年6月/6 68年国際反戦集会の感動 

第四部 赤軍派の時代 
第十一章 赤軍派への参加と「七・六事件」
1 激しかったあの時代/2 1969九年の政治状況/3 4・28縄闘争/4 赤軍フラクション参加への道/5 藤本さんが拉致された、不思議な事件/6 7月5日までのこと/7 69年7月6日の事件/8 乱闘―7月6日の逆襲/9 過ちからの出発
第十二章 共産主義者同盟赤軍派結成 
1 女で上等!/2 関西への退却/3 塩見さんらの拉致からの脱走/4 共産同赤軍派結成へ
第十三章 赤軍派の登場と戦い
1 葛飾公会堂を訪れた女/2 「大阪戦争」/3 「東京戦争」/4 弾圧の強化の中で/5 支えてくれた人々/6 前段階蜂起と組織再編/7 大敗北―大菩薩峠事件/8 初めての逮捕――党派をこえた女たちの連帯
第十四章 国際根拠地建設へ
1 前段階蜂起失敗のあと/2 よど号ハイジャック作戦/3 ハイジャック闘争と日本委員会/4 深まる弾圧――再逮捕/5 思索の中で

第五部 パレスチナ連帯と赤軍派との乖離(かいり)の中で
第十五章 パレスチナ連帯の夢
1 国際根拠地パレスチナへ/2 赤軍派指導部の崩壊/3 森恒夫さん指導下の赤軍派/4 パレスチナへの道
第十六章 パレスチナから見つめる
1 ベイルートについた私たち/2 統一赤軍結成/3 アラブの私たちー―赤軍派との決別/4 新党結成の破産/5 アラブから連合赤軍事件を見つめて/6 連合赤軍の最後とアラブの私たち/7 新たな変革の道を求めて

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在16校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は4月26日(金)に更新予定です。