このブログでは「1968-1969全国学園闘争の記録」をシリーズとして掲載してきた。また、No646では、ほとんど知られていない国立図書館短期大学の闘争の記録を「知られざる学園闘争」として掲載した。
今回はあまり知られていない青山デザイン専門学校の闘争記録を「知られざる学園闘争」の2回目として掲載することとした。
「あまり知られていない」というのは、青山デザイン専門学校(青デ)の闘争については、当時新聞で取り上げられていたことがあり、知っている人は知っているからである。
また、私の個人的関係としては、当時アルバイト先で青デの学生と一緒に働いていたことがあり、バリケード封鎖をしていることは知っていた。ただ、具体的にどのような闘争であったのかは知らない。
今回の記事は『構造』1971年4月号に掲載されたものである。青デの講師であった方が、各種学校の実態と講師の立場から見た青デ闘争について書いている。
【『構造』1971年4月号 特集・教育】
労働力再生産工場のふきだまり
ー各種学校の実態と青山デザィン専門学校自主管理闘争
安藤紀男
1.各種学校の位置
●法的規程
各種学校とは何か。法的には次のように規定されている。日本の学校教育の基本を定めた教育法によると、その第一条に「この法律で学校とは、小学校・中学校・高等学校・高等専門学校・大学・盲学校・聾学校・養護学校および幼稚園とする」と記されてあり、各種学校は、まずこの範ちゅう外に置かれている。各種学校にふれる部分をさぐると、第八三条に「第一条に掲げるもの以外のもので、学校教育に類する教育(当該教育を行なうにつき、他の法律に特別規定があるものを除く)を行なうものは、これを各種学校とする」
すなわち、各種学校とは、第一条に掲げる学校以外の<学校>の総称である。第八三条の( )中に該当するものとしては、警察学校・防衛大学・気象大学・海上保安大学・海員学校・消防大学・その他労働者・地方自治体などの管轄にある職業訓練所・厚生省の児童福祉法に基づく保育所などがある。
学校教育に類する教育ーという文章からもみてとれるように、法律上からは正規の学校ではなく、類すると見なすことのできるもの、という非常に広範な意味を含んでいる。
ところで、各種学校の設置認可は、各都道府県の知事にその権限がある。
次に、各種学校に関する法的規制についてみてみると、1947年(昭22)の学校教育施行規則では、「学長を定めること/教員数2名以上/生徒数40名以上のもの」は各種学校として認可することができるといった、簡単なものであったが、その後1957年(昭和32)に、各種学校規程が制定され、一応の設置規準が生れた。
その大要を記す。
(中略)
この規準にみあうもので、届出により認可されたものが、いわゆる認可校であるが、一般的に各種学校とよばれるものには、認可を受けていないものも数多くある。それでは、無認可であることで法的に何らかの罰則を受けるかというと、そのようなことは一切ない。
大体、各種学校の基本的な考え方は、前にものべたように、教育法第一条以外の、教育に類するものをすべて含んでいるわけだし、その性格からみて、各種学校とは、その時代の要求に基づいて変化するものであり、むしろ自由な運営に任せるべき性質のものであるから、その規模や内容・対象などを法的に規制することは不可能である。
こうした観点から無認可であることで、法的に処罰されることはない。
これは一面、ずさんなもうけ主義の施設をはびこらせることにもなるが、反面、教育の自由が保障されていることでもある。
このようにみると、認可・無認可ということが、当該校にとっていささかの利益、不利益を生じるものではないのだが、認可制度が制定されたのは、①ある程度以上の規模において行なわれる組織的な教育が、国家・社会に対して有害な影響をおよぼすことのないよう規制すること②国家・社会の発展にとって有意義な教育であることを、公の権威をもって認定し、これを保護育成する(全国各種学校連合会編・各種学校総覧1969より)ということであるらしい。
ところで、認可校であることのお墨付は、結果的には実質的利益をもっている。
たとえば、東京デザイナー学院のパンフレットには、次のように誇らしげに書かれている。
ー東京には数多くのデザイン学校があり、立派な学校もある反面、昨今のデザインブームに便乘して有名学校に非常にまぎらわしい名称を付けた無認可の「モグリ学校」がたくさんありますが、無認可は法律的には学校として認められず、また学生としての取扱いも受けることができません。デザイン学校志望者は、自分の志ざす学校が法律で認可を得た正規の学校かどうか、十二分に注意確認して下さい。
この学校が、1966年に認可申請規準の10倍近い学生を入学させ、ジャーナリズムにとりあげられたことは有名である。
また、各種学校が政治教育を行なうことも教育基本法に違反するものではないが、前掲した資料によると。
ーしかしながら、その教育施設において、国家社会にとって有害な影響をおよぼす教育が行なわれているとき、それを禁止する途がないということでは、認可制の意味が失なわれることになる。法徘もこのことを考慮し、無認可施設に対する教育中止命令について規定を設
けている(法第八四条)。
(中略)
●各種学校の状況
1968年の資料では、企国の各種学校数7,925校、そのうち7,630校が私立である。(全体の96%に当る。)これは当然、届け出のあった認可校であると考えられるから、無許可のものを加えると実に膨大な数にのぼる。(中略)
しかも、その種類たるや!思いつくままに上げてみても、へヤーデザイン、制帽、メークアップ、ドレスデザイン、和裁、編物、料理、バーテンダー養成、マナー、絵画、染物、織物、 アクセサリー、陶芸、フラワー、インテリア、印刷、図案、映像、レタリング、似顔絵、写真、アナウンサー、俳優、タレント、話し方、歌謡、ギター、お茶、お花、お琴、三味線、謡曲、ダンス、バレヱ、珠算、習字、ペン字、人形、秘書、ガィド、語学、ホテル、観光、経理、タイプ、速記、製図、自動車、コンピユーター、テレビ、無線技術、マッサージ、お灸、占い、理容、製菓(芸者学校もあるデヨ)それに予備校、外国人学校等々と膨大である。これら広範な各種学校の統一機関としては、1958年に結成された<全国各種学校連合会会長迫水久常>がある。この各種学校連合会は、目下、各種学校制度の法的改制を目指している。
66年7月、67年6月と二度にわたり上程された「学校教育の一部を改制する法律案」の中の各種学校制度改正法案がそれである。
ねらいとするところは、①制度的な完備による設置規準のレベルアップ ②融資援助 ③各種学校卒業生に何らかの資格(技術認定や、第一条校と同等の資格取得)を与えること、などにあるとみられる。
この法案は、実際には、外国人学校制度の問題で国会が紛糾し、審議未了のまま廃案となってしまったが、当面この成立に力を注いでいる。
その改制案が意図するところは次のように考えられる。①は、各種学校が比較的簡単に設置することができ、乱立をまねいている。このことは企業としての過当競争=共倒れをまねく恐れがあり、企業体としては防衛を計ろうとするものである。②は、不安定な経営基盤からみて当然浮び上ってくる問題である。③は、法的関与をまねく。元来、各種学校は法的規制が少なく、自由な教育が保障されることで、第一条に規定されない独自の教育を行なう可能性を持つ点に、その特色があるが、このことは、その自由を狭めようとするものではないか!
私立の各種学校の収入は、政府・自治体からの援助がないので、そのほとんどを学生の授業料に頼っている。企業として成り立つ学校を考えれば、必然的に、学生数をできるだけ多くする、学校経費はできるだけ節減する、教職員などの人件費を少なくする、という具合になる。そして、このような条件下にある学生の自治活動は、その多くが前近代的な学生管理下に置かれているであろうことも当然予想される。
各種学校が企業としての性格を色濃く持っていることからくるこれらの事態は、様々にとりざたされる各種学校問題の根本に横たわるものである。
しかしながら、こうした経営の困難さを、政府の援助にたよるという法的改制は、各種学校の持つ独自性を著しく弱めるものでしかなく、設備に施設に膨大な資本を要するものは、元来各種学校で教育する性質のものではない。文部省、あるいは業界の肩がわり的教育はやめるべきで、時代の要求(業界の要求)があるからといってその流れにのり、儲けようと考えるから、そこに限界が生じ、インチキな、学生を食い物にする学校が生れてくるのである。
最近問題になった千代田コンピューター学院などはその例である。
●各種学校とは何か
各種学校の種類を整理してみると次の三つに分けられる。
①職業訓練的なもの②教獲的なもの ③①と②の両者の性格をかねているもの ④その他予備校・外国人学校など。(中略)
各種学校は、技術の取得が簡易なものか、あるいは施設設備のあまり必要とされないものとして、①に類するものか②の純粋教養的なものからはじまったが、時代の要求に応じて③に属するものが増加してきた。そこで主に、この③に類するものを中心に現在の各種学校をみてみよう。
各種学枝の入学者学歴は、高卒が約62%、中卒29%となっているが、中卒者のほとんどは家政に類するもの(料理、裁縫、編物など)の学生であり、他の学校は、大部分が高卒者である。したがって、各種学校は高校と実社会との中間に位置し、実社会へ向うための職業教育といった性格をはじめから持っている。
教育ママばかりでなく、学生達でさえ、この社会で出世するにはまず大学を出ることが、必要条件であることぐらいわかっている。正確にいえばわからされている。この悪しき学歴偏重主義の波にのりきれず、点取り競争をいささか不得意とする学生達にとって、このままでは夢も希望もなくなってしまう。(これを放置しておいて、全国浪人連盟など、大挙して結成されてはとんでもない社会問題になりかねないと考えたかどうか)この落ちこぼれた多数の人間に、企業家達が目をつけないわけはない。
そこで<実力主義>だの<就職100%><時代の先端>というキャッチフレーズのもとに夢を与え、大学への出世街道とは別な道を与えようということになる。(中略)
さて、各種学校がこのように広範な分野にわたっていることは、とりもなおさず、現在の社会がいかに細分化、専門化されているか、ということを裏書きするものであろう。しかしながら、この広範な分野が専門性をもつているとはいえ、これらの多くは、元来教養として考えられていたものである。特別に学校などに行かなくても、父母に教えられ、しつけられて、あるいは若者達が相互に工夫し学習し合ったりして学んだものであつた。かつて祖父母から父母へ、そして子供達にと伝えられた教養(たとえば、正月や祭り、生活に密着した行事のしきたりから、簡素な大工仕事、みそ汁の作り方からつけもののつけ方に至るまで)は、いまではひきつがれることもなく、若者は学校と名のつくところで生活とは切り離されて特別にそれを学び、またそれが職業として成立つという具合になってしまっている。いいかえれば、私達は完全な丸裸の消費者になっており、教養さえも金を出して買いそろえなければならない時代に生きているのだ。この驚くベき細分化、専門化は、文部省の教育制度改変のねらいと一体化している。エリートはあくまでエリートとして社会に貢献し(理工系の大学院大学構想)、大学以下の部分では、一般教養より専門的技術を、そして企業に役立つ人間を!という(後期中等教育の拡充)中級技術者を作りあげようとしている。(中略)
いままで幾分皮肉をこめて、各種学校の状況をのべてきたが、<教養としての学技>ということは、各種学校のいい意味での特色でもある。
小・中・高校がひたすら上級校を目指す受験校的役割を担い、一方で文部省の法的規制のもとにあるとき、このユスカレーター教育の中で忘れられた<人間らしさ>を回復することのできる可能性を、各種学校は持っている。それは当然、現在の教育制度への批判と反骨精神に裏うちされた教育者達によってのみ支えられるものであるが。
2.デザイン学校の状況
いままで、各種学校の全体的状況をのべてきたが、かくいう私は、実はデザインの各種学校の非常勤講師である。そこでここでは、主にデザイン系各種学校についてふれてみたい。
私がデザインの大学を受験したのは、ちょうど今から10年前のことである。当時、デザイン系大学は、都内では東京芸術大学、多摩美術大学、女子美術大学の3校。総合大学の中にデザイン科を併設していたものは、東京教育大学、日本大学の11校であり、私が受験した武蔵野美術学校は四年制の各種学校であった。これが大学になったのは翌年からのことである。その当時、各種学校として私が知っていたのは、桑沢デザイン研究所ただ一つであった。その時の状況から較べてみると、最近の各種学校の盛況ぶりに驚く。ちなみに広告の多いことで評判の美術手帖をみてみると、61年4月(私の入学した年)のデザイン美術系各種学校広告掲載数は、15校(数字は都内に関するもののみ、以下同じ)。70年3月の掲戰数はなんと66校である。このうち、美術系のもの、予備校、通信教育をのぞいて、デザイン学校だけをみてみると、61年4月、6校。70年3月、50校となり、およそ10倍の増加である。
デザイン学校のこのような盛況はどこから来ているのか、本誌の読者諸氏には、デザインの問題などあまり興味のないことかもしれないので、かいつまんでその要因をのべる。
ひとつには、とくに60年代前半、池田内閣の高度成長経済が<デザイン>の需要を増大させたこと。そうした中でデザインは情報社会の花形産業となり、スターと呼ばれる人達さえ生み出された。とくに広告の世界で働くスターの存在は、人々に作品が触れる機会も多く、若者にはカッコいい商売として映った。次に日本の経済が上昇気流にあっただけではなく、この時期にデザイナーの地位を内部から支えるものとなったのが、60年に東京で開かれた<世界デザイン会議>であった。いままで図案とか意匠とかいう言葉でしか捉えられなかったこの領域は、この時を境にして<デザイン>と呼ばれ、その理論的支えをもつことになった。
その内容を簡堆に要約すると、ーデザインは社会的な存在であり、美術とは異なり、常に創造の対象を持っている。それは消費者=大衆である。デザインは文化的に大衆を先導し、そのレベルを向上する役割を持っている。また作られた製品は、生活に密着し、生活を快適にし、喜びをもたらすものでなくてはならない。消費者と企業との橋渡しをする技術者がデザイナーである。そのために、企業に対しても十分に意見をもち、企業を説得することのできる、幅広い教養と理論を持たなければならないーということである。
この高尚な理論をもつデザインは、現実にはいち早く産業界の中にくみ入れられ、販売促進の飾り職人として機能させられてしまうのだが、理論はいまだ幻想として生きつづけている。このような幻想は、主としてデザイナーとしての エリートを育てる大学にその残骸が見てとれるが、エリートになれない各種学校ではもっと現実的に事態をみている。それは入学案内にはっきりと現われてくる。
ー近年におけるファッション画の市場はすばらしい勢いでひろがりその必要性は著しいものがあります。初級イラストレー夕ーでも月に3万~5万円、一流のイラストレーターになると10万円~30万円以上の月収があります。本校卒業生でバンタンアーティストクラブに所屈しているMさん(案内には本名で記載されている)は、在校中から初級イラストレーターとして3万~5万円の収入を得ていましたし、本校卒業生で現在バンタンデザイン研究所の講師であり、また日本テレビの「日産スター劇場」のタイトルイラストを始め、ポスター、カレンダーその他若者の間に圧倒的に人気のある新井エミさんは、現在月収10万~20万を得ています。その他製菓会社の女工のSさんはバンタンデザイン研究所の通信教育でファッション画を勉強し、仕事のかたわら、2万円~3万円の副収入を得、毎日たのしく働いていることが女性自身誌上で大きく紹介されました。一般的にもファッションデザイナーは、洋裁店、問屋、デパートなどで初任級が3・5万~7万円、2、3年つとめると5万円~15万円位になりますが、特に女性にとっては自分の技術を生かすことができるだけでなく、収入の面からも最高の職業であるといえましょう。スタイル画教室や洋裁のファッション画教師として働いているFさんは週に2、3回働くだけで普通の洋裁教師以上の給料を得ています。ー(バンタンデザイン研究所)
ー今日ほど、デザインの重要性が叫ばれ、デザイナーの地位が高く評価されている時代はありません。デザインが、経済と、技術と、造型との3つのファクターを総合調整し、現代社会をより美しく、より快いものとすることの意義が、つよく認識されてきたからです。デザイナーが、自由に、のびのびと自分の個性を発揮して仕事をし、高い収入が約束されているのも、そのためです。本学院は、美術の森上野に位置し、日本一すぐれた環境で、みなさんの美への眼を開き、時代をリードするすぐれたデザイナーを、責任をもって育てる学校です。無限にひろがるデザイナーへの需要にこたえ、みなさんの、輝かしい未来をひらいてください。ー(千代田デザイナー学院)
入学案内では、就職100%、社会ですぐ役立つデザイナー養成と実利を唱い、さらにそれはデザイナーの花やかな存在と、幻想としての理論に支えられている。
これらを生み出したデザイン幻想に対して、グラフィックデザイン界では、69年夏、日本宣伝美術協会(日宣美)粉砕闘争が起った。
さらにこの年、各種学校においてもいくつかの閊争があった。
●青山デザイン専門学校の闘争
私が青デの学生達と出逢ったのは、69年の2月だったと思う。デザイン系各種学校の中ではじめてバリケードストに入った、ということを閒いて、のこのこと渋谷へ出かけて行った。その日以降、69年の終りまで長いつき合いになった。私が2月から3月にかけてバリケードの中に入りこみ、彼らと語り合っていた当時、毎日夜になると、彼らは全体集会というのを開いた。それは、任務によって分担された各班長の報告ではじまり、全体の討論集会で終るというものである。
各班の報告で、食対は、栄養面、経済面から明日の献立について報告する。なかには、実態暴露隊なる班があって、これは理事者側の動向などを報告する役割をもつが、私が立会った日は「別に変化ナシ」という短い報告だけだった。また、ふとん班の報告は「明日は天気がよいと思われるので、各自ふとんを乾すこと。前夜みかけたことだが、かけぶとんを下に敷く人がいるので注意してください」というもので、なんとなく高校の生徒会の延長のような集会であった。
ところで、青デ闘争はどのようなかたちで始まったのか、<学生および市民の皆様にデザィン教育の実状を訴える>という当時のビラからひろってみる。
●現在までの経過
まずこの闘争を全学友の支持のもとに進めている私達が、自治会設立のための仮執行部と名のっていることから話したいと思います。
今まで青山デザィン専門学校には生徒会という学生組織がありましたが、そこでは、旧生徒会長が新生徒会長を指名し、指名された新生徒会長がすべての役員を指名し、これを決定するという、非民主的な方法によって構成されていました。
私達は、学校当局とこのような生徒会とから、二重に圧殺され続け、私達の声は一度として取り上げられたことはありませんでした。こうした中で、去年の7月以来、旧生徒会および学校当局に対し再三抗議を続けてきましたが、私達の抗議はまったく無視され、劣悪な環境の中での勉学を余儀なくされていました。
しかし私逹の正当な抗議は多くの学友の支持を得、去年の12月、旧生徒会長の自己批判により、会長は全学生によって直接選挙することとなり、現在の自治会仮執行部会長が、全生徒の代表として選出されました。そして前年度からの全学生の課題であった自治会設立をめざす仮執行部が1月20日発足し、学生の当然の権利を取りもどすために、次の3項目を要求しました。
①自治会設立と自治会費の要求(月額1人当り50円を300円にすること)
注=全学生は校費(生徒会費・展示会費・清掃費・暖房費)として月額1,000円を納入している。今まで学校当局は校費の内訳を一切発表しなかったが、私達との団交において、はじめて月50円であることをあきらかにした。
②教育設備の充実(図書室・談話室・放送設備・医療室の新設)
誇大広告によってたつ経営中心主義の学校当局は、学校案内のパンフレットに、実際にはないスタジオや設備などを掲載し、学生および受験生をだましています。小学生並みの小さな机、製図版を置けば人が通れない教室。朝・昼・夜の三部制授業によってさえ教室は足りず、満足な授業が行なえる状態ではありません。談話室もなく学生同志の交流も十分に行なえず、放送設備のない状態では学内のコミュニケーションさえできない状況です。教材の不足はいうまでもありません。
③授業内容の充実
バンフレットに名前だけがのっている講師、2、3回形式的にでてくるだけの講師が多すぎます。当然授業内容も散漫で、充実した授業は望むベくもありません。生徒数800名に対し12名という少ない専任講師。
これが私達の学ぶ学園の実状なのです。
その後4回にわたる団交を通じて学校当局の回答を待ったが、なんら具体的な案を示さないばかりか、団交の場で決議した事項を、次の日にはことごとく翻えし、学生をまったく無視してきています。
1月23日には、仮執行部がこの3項目要求の内容と、学校当局の回答日、会場、日時などを明記した立看板を全学生の前に掲示しましたが、学校当局は23日夜半、これを無断で撤去しました。この事件に対して仮執行部は、24日大衆団交を開き、理事長に謝罪文を求め、これを勝ちとりました。
現在学校当局は、問題の根本的原因をなんら解決しようとしないばかりか、全学生の代表である仮執行部と一般学生との分断策動に走っています。
このような中で、1月29日夜半、団交出席のすべての学友の決議により、学園の封鎮に踏み切り、私達の闘争に対する決意のあらわれとしてバリケードを築きました。学生および市民の皆様の熱烈な支援を訴えるものであります。 1969.2.7
バリケードは1月29日から36日間にわたって構築され、その間に学生の要求は3項目から具体化して16項目になった。結局、理事者がこの16項目の要求をのみ、3月6日、バリケードは解除される。この3項目要求から16項目要求へと変化する過程を、自治会委貝長の大西政司君は次のようにのべている。
我々は、全学バリケード封鎖占拠闘争を持続させる中で、学校当局より与えられた中で、改良するという我々自身の受動的意識を否定し、学校とは、教育とは、デザインはどうあるべきか、という問いかけを行ない、デザイナー、写真家志望者として、受動的賃金労働者見習いとしての意識を否定し、資本制社会に対する総体の批判へ前進してきた。資本制社会における企業生産、資本の論理に従順な人間性を圧殺するデザインーデザイン教育ー学校の否定ーこれらの闘いを築きあげるための社会的陣地としての学校へ、我々の変革に対応して学校の変革と、社会の変率を獲ち取ること。
3項目改良要求の前進、転換の結果として、16項目(経営と教育の分離、教育の、学生、教師の管理、経営教育に対する学生拒否権の確立等)の学生主体の自主管理形態の変革要求へと発展した。全学バリケード封鎖占拠の35日間にわたる闘いは、理事者側を動揺させ、金融惡化、銀行取引停止と追い込み、16項目要求は貫徹した。
6月10日付青デ新閒より
この16項目の確認書は、次の5項目に代表される。
①今日までの経営体制を改め、理事者は経営などを担当し、教育に関する事項については、学生・講師が担当する。
②理事長は経理を公開し、その運営の適正を期し、公認会計士による監査を公表する。また学生2名・講師2名によって構成される会計監査を受けなければならない。会計監査は原則として年1度とする。
③教育に関するあらゆる事項は、教育審議会によって決定される。教育審議会は学生4名・講師2名によって構成される。
④三者協議会は、学生4名・講師2名と理事長によって構成される協議機関である。尚労使問題に限り、三者協議会は学生4名・教職員3名理事者1名によって構成される。
⑤ 学生は、学生に影響をおよぼす一切の経営、教育はどの事柄に関しても拒否できる。
その他には、紛争に関するあらゆる処分は行なわないこと、反動的教師の追放、自治会設立に関すること、設備などに関すること、などが上げられている。
このようにして青デは、今までとは一転した、学生による自主管理の学校に再生した。3月6日バリケード解除から、4月19日の学生の手による入学式、5月10日の授業開始までの間、学生達はその準備をほとんど相互討論の中で立案し、突現していった。このすさまじいエネルギーは、彼らがバリストまでして闘わねばならなかったものへの厳しい怒りを媒介せずには、生まれなかったであろう。
3月15五日に全学集会がもたれ、カリキュラム編成委員会が設けられた。委員会は、20時間の自主講座をもうけ、自主講座に出席した講師と個々に面接して、青デの講師になることを依頼した。この自主講座の講師は、☆竹中労、木村恒久、☆刀根康尚、☆平岡正明、☆谷川晃一、熱田利明、中村宏、☆石子順造、多木浩二、杉本晶純、武藤一羊、羽仁五郎、プラスタ・チハコバ、市川雅、☆上野昂志、☆片岡啓治、☆松田政男、針生一郎、☆岡部道男、☆相沢義包、☆渡辺武信、☆相倉久人、寺山修司、☆安藤紀男、(☆印は講師となった人逹)の面々であり、そしてこれらの講師がさらに講師を集めて、総勢52名が新たな青デの講師となった。
授業は、今までの実技主義・技能主義が否定され、現代文明論、情報論、表現論、哲学、社会学、などの講義がとり入れられ、講義に重点がおかれるカリキュラムが、学生と講師の手で編成された。前年度まで、午前・午後・夜の三部制、一週18八時間の授業は、昼・夜の二部制となり、昼間部は週26時間の授業を行なうことになった。また、毎週土曜日は徹夜ティーチ・インが企画された。学生は、全ての講義を自分で選択することができる。出席はとらない。試験は行なわない。卒業証書は発行しない。等々が学生と講師の間で決められた。
青デがこのように変ることができたのは、ひとつに理事者の力が弱かったからである。それは、他に手をつけた事業の不振から財政状態の悪化を抱え、4月に入る入学金、授業料目当てに妥結をしたといえる。一方、学生の方は、16項目の確認書によると、経営に関しては理事者一任の形をとっていたのだが、理事者のこうした意図を見抜いて、追求の手をゆるめなかった。
●学生による予算編成
年間予算基準委員会は、本年度収入総額より予算を作成した。16項目確認書によれば、本来予算などは経営者側が主体的にとりくまねばならないはずであるが、われわれ学生は、教育と経営の分離を行なったが、そのことが決定的矛盾として現われることを見ぬく中で、経営者よりも数歩も進んだ中で、学校予算編成に着手し、学生案を三者協議会に提示し、実質的に承認することになった。
このようにして、年間予算の割りふり、理事者・講師.・事務職員の給料まで学生の手で決められた。
この時期、まさに自主管理学校として、青デは存在した。この改革は全国の学園闘争の中でも、きわめて先駆的なものであった。しかし、このことは、経営権まで奪いとられた理事者が、経営を放棄し、最終的に廃校への道を歩むものであった。
早くも6月には、理事者は出校しなくなり、教職員の給料も7月に入るとまったく支払われなくなってしまった。この間、理事長はいち早く入学金・授業料を自からの負債支払いなどに当てていたのである。このことに対する学生の怒りは、彼らの骨の髄までしみこんでいった。講師は対理事者闘争のために、教職員組合を結成し、学生達と共に、数度にわたる団交要求を申し入れた。
しかし理事者は、経営を他者に肩がわりさせ、各種学校の既得権をなんとかして守ろうと、理事者の交替をその条件としてきた。この新しい理事者が、札つきの政治ゴロであったことなどから、学生は要求を拒否し、両者はまったく並行状態のままになった。
このような経済的危機の中で、自主管理を貫徹することは、理事者に対する、徹底的な戦いを貫徹することに他ならない、というのが自治会の考えであった。そのために、経営的実権を握っているとみられる、渡辺幸子(東京ドレメ、順天学園、順天デザィンなどの理事長)に対して抗議文を送り、団交の場に出席することを要諸し、彼女の経営する学校にデモをかけたりした。また、監督官庁である区や都へも実情を訴え、これまたデモまでかけた。
こうした闘争を主体的に担っている学生の意識と、一般学生の意識のズレ、それに私逹講師の中にある意識のズレが、7月30日、学生と講師の内ゲバ事件として表われた。私は現在、これから先を書くことに苦痛をおぼえている。つい今しがたまで、自分が青デの講師であったことで、この項を書けるだろうと思っていた。しかしながら、青デ闘争の資料を読み返し整理しているうちに、私もまた、この7月30日の時点で、大きく彼らとズレていたことを感じざるをえないからである。当時私は、7・30事件がなぜ起きたのか、十分に理解することができなかった。当日そこに居あわせなかったこともあって、翌日の講師会で報告を聞いていたところへ、学生達が現われた。「諸君はきのうのことをどう総括したのか。その総括なしに講師会など開けるわけがない」と、一人一人の講師に迫ったとき、私は、実技を教えることがいかに闘争と係り合っているのかわからないが、物を作る、ということの中で、抑圧され、画一化された既成の<技法>からなんとか解放されることを目的としているにもかかわらず、今だにその方法論は貧しく、貧しいまま教壇に立つという矛盾を犯していることを告白した。その時にあっても、それは矛盾はしているが、なんとか見つけだせるのではないか、という点に執着していたのであり、教師という役割からの発言だった。
●講師との対立
7・30全学集会において講師、学生が二分し内ゲバともいえぬ内ゲバが起ったが、すでに個人的感情のもつれとしては総括しえないより本質的な問題を含んでいた。それは青デの自主管理の理念つまり過去自治会、講師双方にあった左翼的幻想共同体意識では総括しきれなかった事実そのものである。われわれに問われているものは形骸化した自主管理形態の貫徹ではなく、学生、講師相互による批判自己批判の上に立った緊張空間の創出であったにもかかわらず、そのことを告発しきれなかったという総括に基づき、この事を青デ総体の問題として発展させるべく7.31講師会にのぞんだ。
その中で講師の青デ闘争への基本的姿勢(おもいあがった指導者的態度)を粉砕した。
<7・30総括>
7・30事件は、青デ闘争において、これまで隠蔽されつづけてきたある本質的矛盾を、はじめて明らかにし、徹底的に告発せしめたことにおいて画期的であったということを、我々講師会総括代表はここに痛苦をもって報告せねばならない。
7・30の告げた青デ闘争における本質的危機とは何か一青デにおける自主管理そのものの形骸化である。「(自治会、講師会双方の)左翼的幻想共同体意識では総括しきれなかった事実そのもの」と、8・1付で学生側は率直に指摘している。空洞化、形骸化はなぜ起ったか。自主管理闘争そのものに本来内在する本質的矛盾をみつめ、明らかにし、激化させつつ克服してゆく志向を結果的にネグレクトしつづけたことによってである。
7・30およびそれにつづく総括の数日間をめぐって、青デにおける自主管理闘争そのものの持つ矛盾は、まず、講師会内部の空洞化の徹底的な暴露告発に集紂化されて現われた。講師会内の空洞は、いまや自主管理闘争を積極的に闘いとろうとしている学生総体と相容れるところのないまで徹底的に押しすすめられてしまっている。だが、講師会内の空洞化の暴露告発は、自主管理闘争そのもののもつ矛盾を追求してやむことがなく、溝師会の危機は、自主管理そのもののもつ矛盾の激化、止揚によってでなければ真に克服されることはないだろう。
自主管理闘争そのもののはらむ矛盾ー常にはらむ形骸化への危機とは何であろうか。
1966?69年をきりひらいた全国百余の学園闘争のなかで、バリストに「勝利」し、自主カリキュラムによる学園の自主管理にまで突き進んだのは、おそらく青デが最初であった。だが、学園の自主管理とは、学園闘争の一形態ではあっても、学園の一形態ではあり得ない。学園の形態でなく闘争の一形態であるということは、絶えざる矛盾、絶えざる苛酷な否定にさらされることによってしか意味を持たないということである。自主管理形態内の自主カリキュラムやそれを担う我々講師たちもまた、本来、自らを否定的媒体として意識することによってのみ意味をもつ。
バリケードの中心部に向おうとすればするほど激化されざるを得ぬ矛盾、講師という客体的な役割を背負わされたことからくる主体的な矛盾は、もともと、この5月、青デ講師会発足の折、問われるべきだった。のみならず、本年3月、バリストが「勝利」し、物理的・空間的バリケードがとかれて闘争が自主カリキュラムによる自主管理という新しい決定的な局面に入った時、問われるべきものではなかったか。
だが、我々講師会は、自らの存在の矛盾をみきわめ、それを激化させつつ学生たちのすぐれた対立者=共闘者となるという志向を怠った。闘う学生たちの「先生」でしかない我々のうちにあったのは、いわゆる 「専門人」としての技術的な優位、あるいは先験的な「左翼性」の上に便乗をしたまま、あり得ベからざる「指導性」が、あたかも自分たちに属しているかのような擬制を自らに許してきたのであった。そして、7・30の事件およびそれにつづく総括の徹底が、我々の前に暴露し告発しつづけたのもほかならぬこのあり得ベからざる「前衛的」な擬制であったのだ。
我々は、我々をとらえている本来的な矛盾の極に不断に下降することによって、この状態を克服していくほかないと考える。
私は、当時この総括(平岡・青山・相沢の三氏が起草)の内容を十分に理解できなかった。私のノートに次のようなことが記されている。
ー青デ自治会はいまひとつのサークルの様相を呈している。闘争とは理事者との条件反射的なものだけではない。自主管理を貫徹するとは何か!それは、自主管理が、各種学校の新たな地平線をみせたということを把握することである。自主宵理という形体や、空間を保持することではない。もちろん場の保障なくしては一切が無であることは十分承知の上であるが、我々が前期の総括をするとき、まさに自主管理という形体の内で行なわれる授業空間そのものが、総体としての敵であるもの(資本)にとって、恐怖をもたらすものでなければならない。我々の闘争の主眼は、今まさに授業そのものだ。そのことから前期カリキュラムへの批判がなげかけられ、後期のカリキュラムが作られなければならない。この内容的な問いかけは、問いの重さの故にその具体化が困難であることはいうまでもない。しかし、まさに<学校>が存在する理由はこのことをおいて他にない。具体的には、2年間で青デを卒業する学生が何を持って社会に出てゆくのか。そこではっきり一人の労働者として、永続的に闘える人間となるために必要なものを持って卒業する人間であることだ!
ー青デの現状は、まさに物理的にも精神的にも荒廃状態にある。これは何によってもたらされたのか?なによりもまず第一に認識しなくてはならないのは、4月以後自主管理形態の中で、我々講師会がいかなる展望ももちえず(状況を先取りすることができず)状況につき動かされていたということである。このことは、我々自身が<現体制内における自主管埋とは何か>という命題を、はっきりと位置づけることができなかったことに大きな要囚がある。後期の授業を前にして、遅ればせながら総括した<自主管理は学問存在の一形態ではなく、闘争の一形態である>という位置づけが当初に欠けていたのである。第二に、自主管理が闘争の形態であることを確認するとき、現在のような、青デが荒廃している状況は特別な状態ではなく、いわば自主管理というもの(闘争)がもたらす必然的状態だといえるのだ。たとえば主に物理的な圧迫としてある財政的困難は、明らかに理事者の攻勢であり、彼らの戦術なのだ。理事者が兵糧攻めによって自然廃校をねらっているとしたら、我々はこれに屈しないということを見せつけることである。そして再度、我々が16項目の要求を獲得するときに持った情熱が何であったのか。16項目が全国学園闘争にさきがけて自主管理をもたらしたことを、どう評価し位置づけるのか。もし自治会の諸君がいうように、我々が4月5月の緊張した時点にもどる、とすれば、この二点を再度確認することが必要なのだ。そして後期の当初において、その展望として出された講師会総括の基本線を強力に押進めることのできなかったことを、まさに遅ればせながら徹底的に自己批判することから、今後のこの困難な状況をつきぬけなければならない。この決定的な出遅れは、青デ敗北の市一要因となるかもしれない大きなものだ。自治会執行部は9・18の時点で、講師会の展望とまさにピッタリした総括を行なったにもかかわらず、その後の低迷をこの展望の敗北として受けとめ、10・2の順天デザィン突入の方針を突然打ち出してきたのである。彼らのあまりにも緊迫した状態をもたらしたものは、この決定的出遅れなのだ。ー
私のノートにある<自主管理は学園存在の一形態ではなく、闘争の一形態である>という一節は、今思えば、講師会総括の中にある同じ文章と内容を異にしていた。私の考えていたものは、「自主管理というのは、管理が自主的であるという学園の形を意味するのではなく、その中で行なわれる授業そのものが、総体としての敵(資本主義)に対する闘争となるようなものであることによって、はじめて自主管理といえる」ということであり、講師会総括にあらわれている内容は、「自主管理とは、たとえ授業がどんな形をとるにせよ、そのようなものは幻想にすぎず、自主管理を弾圧しようとする者に対する闘いを貫徹することなのだ」と読みとることができる。この解釈の違いは、その後、10・8の行動の時点をむかえると決定的となる。
●理事側に対する闘い
自主管理を形骸化しようとする理事側に対する我々の闘いは、数度におよび大衆団交、都区への抗議、会計監査、カンパニァ集会(順天デザィン、順天女子高校前集会)、幸子自宅前集会、等々闘い抜いてきたが、現在の青デの情況を乗り越える行動は単なるカンパニア集会では絶対に変え得ないであろうと断言する。唯一、対理事者との関係を変え得る行動は、我々の実力をもって切り開く中での、敵対者が誰であるのかを明確化し、そのノドもとに鋭く突きささる闘争形態が、すでに我々に要求されている。そうした行動を抜きにした中でいかに自主管理貫徹を叫んでみても、授業、サークル、等々の空間をこの青デの中に創出してみても絶対にこの情況を打破することはおろか、体制のデザィン拒否(否定)の位置付けすらできないばかりか、青デの学生としての原点を見失うであろう。
注、ここでのべられている行動とは、順天学園突入封鎖のことである。
この10・8行動は、当日に至って、学生間に統一見解がみられず、集会は流会に終った。しかしその直後、一部の学生グループは、雨天をついて行動を決行した(実際には封鎖突入には至らず、抗議集会に終った)。このことが決定的に学生達を二分してしまい、この日を境に、学内には行動を決行したグループ(20名位)だけが残った。私はその後2、3回学校へ足を運んだが、12月に入る頃には青デから遠ざかってしまった。
今までのノートにみられたように、私の考えていたことは、ひとつの幻想だったといえる。しかも私は青デの中で、この幻想を長い時間かけて具体化しようと考えていた。それは、私が講師という身分でこの学校にかかわる以上、いかなる授業を行なうのかが、私達講師に課せられた責務だと考えていたことによる。闘争の主体はあくまで学生であり、私がどんなに彼らに接近しようとしても、週数回しか接することができず、もう一方にある食うということの重みがある以上、彼らとまったく同じように、この闘争にかかわることはできない。所詮、支援するものでしかありえないという具合に、役割としての自分を置いていた。私は、講師会総括の文中に、批判されるべきものとしてある、講師という名の指導性を持っていたといえる。しかし、それではどうあればよかったのか。学生とともに、破産するとわかっている対理事者闘争を実力闘争としてやりぬくことだったのか。対理事者闘争、実は、対権力との実力闘争である。この直接闘争が成功をみるとは私には思われなかった。
全国の学園闘争における初めての快挙<自主管理>は、学生にとっても講師にとっても当然初めての経験である。私達の課題は、不可能に近いこととして考えられていた自主管理を獲ち得たこの地点から、さらに前進し、内容的に結実させることにあると考えていた。しかし、私は資料を読みかえし、これは、闘争を担ってきた学生逹に対する思い上りであることを知らされた。彼らが持ちえた「徹底的な否定」の前に、私は対峙する何ものも持ちえない。いく度となく理事者にだまされ(裏切られ)、デザィナーを夢みて、所詮各種学校の卒業者は下積の版下屋か、下級労働者、半端者にしかなりえないという現実のしくみに裏切られ、そのように人問を位置づけ峻別し、組みこんでしまう、この社会の<しくみ>に怒りをもった彼らにとって、闘争の同伴者であったかにみえた講師すら、デザィンで、あるいは文筆でメシを食っているエリートであり、闘争とメシを食うこととを巧みに使いわけた、まさに彼らのいう指導者ヅラした知識人でしかなかった。繰返し、繰返し状況を分析し討論をたたかわせ、批判を徹底化させていく過程の中で、つみあげられ、次第に明らかな形をともなって表われた、まさに<情念>としか呼びようのないものであった。
その後の青デの経過を、今の私が語ることはできない。
残っていた学生達がまとめた資料を抜粋掲載することで代えたい。
●新たな共同体のテコは何か
青デ闘争について、一人一人がそれを語ることはつらく、苦しいことかもしれない。しかし、自治会執行部が破産した原因が、要するに表現しないという惰性に陥り、総括も出せなくなってしまったことにある以上、今後の闘争を継統し、闘う我々一人一人は、具体的な個人的な総括のぶっつけ合いの中から総括を出すことをやり抜かねばならないであろう。
このことを抜きにしてきた自治会執行部の性質が、へんな左翼的共同体を作り上げてきたことを認識した一部の学友の問題提起ー個人の青デ闘争のかかわりの明確化ーが9月後半よりなされ、その作業を徹底化する中で、(彼らは)人間的弱さの敗北を残して闘争を放棄して行った。
1月以来われわれが獲ち取ってきた自主管理の学校、自主管理であるが故に芽ばえる左翼共同体としての幻想、こうしたものを我々が7月半ばの講師会との内ゲバ事件を始めとして徹底的に粉砕して行く過程の中で、執行部自身もその幻想性を粉砕し、自己解体せしめた。ある意味で個々人がバラバラになっている時点に、今きていると思うし、それは我々自身の存在の個有性からきているのだと思う。そういう情況の中で新たなる闘争共同体(自主管理貫徹共闘会議)を組織せんとする我々にとって重要なのは、何を共同体としてのテコとして新しい運動を起すかという問題にあると思う。
我々が1月29日以来全学バリケード封鎖を行なったことは、まさに正当な抗議の姿勢であるし、我々の拠点を構築する上でも重要な行為であったと思う。我々のそうした行為は、体制のデザイン体制に奉仕するデザイン教育の徹底的な拒否、否定の現われにほかならない。そうしてデザイン教育の欺瞞性、あるいはそれ自体の現世の利益的存在形態拒否、そういうものは、この闘いの中でしか気付くことはできなかったし、このことは極めて重要であったし、そういった意味で自己否定という言葉は決して観念的なものでなく、必然的にそこに行かざるを得ないものとして在った。
つまり、闘いをやる以上そこへ行かざるを得ないだろう。故に我々は自主管理形態の中での授業の中にもあくまでもデザインをする原理的な態度姿勢を追求してきたし、そうでない限りデザインの変革はあり得ないと考えている。我々は自らそのように生きて自ら行動し失敗の繰り返しをする。そうした原理的態度、姿勢がない限り結局もとの体制デザインという路上につき返されてしまうだろう。
●非合法的存在者として
故にこの青デの中でデザィンをやることが何か革命的な意味を持ち得るというような幻想的な基準を捨てるものでなければならない。
この青デ闘争を担う我々の中から新しいデザィンが生まれるかというようなことはまったく重要でなく、我々にとって問題なのはいかに我々が非合法的な存在として、そういうものとして、どこまで長く居つづけ得るか、自分が非合法的存在であるということをどこまで守れるか、という以外にはあり得ないし、また、そうありたいと思う。
●そして狂人たることを
失なわれたものを求めて我々はこの永い永い闘争に旅立った。はじめはその失なわれたものの何であるかる明確に把握しえないままに・・・。
だが我々自身の内部ではいまだに言語形態を取り得ぬ何やら混とんとした崩壊の予感の中でしっかりと感得しながら、それは徹底的な否定を通じてのみ回復できる態の何ものかであった。・・・否定そのものが全面的に否定されるか、あるいは否定が全面的に貫徹されるか。これは論理と論理の対決ではない。
まったく異った大前提に依存する二つの立場にとって論理はもはやその一切の有効性、現実性を失なっている。体制側の論理をもってすれば、バリケード内の真の解放の可能性を措定せんとする我々は砦の中の狂人だということになるだろう。彼らの論理では、それ以外の把握方法はない。存在するものの全面的否定を志向するものは必為的に狂人の道を辿らざるを得ない。我々は狂人であることに誇りをもつ。体制そのものが存在する限り、我々は狂人として存在し統けるであろう。
そして狂人たることに自らを引き受けることなくして失なわれたものの回復は、決してあり得ないだろう。
電気・ガス・水道が止められつつある中で我々共闘会議は本誌を編集する作業を推し進めてきた。理事側のしめ付けがある中で、闘争を断固継続してくやことは苦しい。苦しいが故の闘いであるからこそ新たな展望を模索してゆかねばならないのだ。
1・29にバリを組んで以来、そろそろ一年になる。理事は現在暗躍しつつ、我々の前にその姿を現わさない。我々の理事に対する怨念はすでに資本総体に対する闘いへと発展してきた。「許さないぞ!」という我々の情念は永久に消えはしない。その意味で青デ自主管理闘争は始まりであっても終りではないのだ。決して!
青デは、「今後再びこの校舎を学校として経営することはしない」という確認のもとに、70年2月債権者に明渡された。
青山デザィン専門学校は、学園闘争の中で唯一廃校となった。
(あんどう・のりお デザィン労働者)
【『新左翼・過激派全書』の紹介】
ー1968年以降から現在までー
有坂賢吾著 定価4,9500円(税込み)
(作品社サイトより)
かつて盛んであった学生運動と過激派セクト。
【内容】
中核派、革マル派、ブント、解放派、連合赤軍……って何?
かつて、盛んであった、学生運動と過激な運動。本書は、詳細にもろもろ党派ごとに紹介する書籍である。あるセクトがいつ結成され、どうして分裂し、その後、どう改称し・消滅していったのか。「運動」など全く経験したことがない1991年(平成)生まれの視点から収集された次世代への歴史と記憶(アーカイブ)である。
貴重な資料を駆使し解説する決定版
ココでしか見られない口絵+写真+資料、数百点以上収録
《本書の特徴》
・あくまでも平成生まれの、どの組織ともしがらみがない著者の立場からの記述。
・「総合的、俯瞰的」新左翼党派の基本的な情報を完全収録。
・また著者のこだわりとして、写真や図版を多く用い、機関紙誌についても題字や書影など視覚的な史料を豊富に掲載することにも重きを置いた。
・さらに主要な声明や規約などもなるべく収録し、資料集としての機能も持たせようと試みた。
・もちろん貴重なヘルメット、図版なども大々的に収録!
「模索舎」のリンクはこちらです。
https://mosakusha.com/?p=9289
【『パレスチナ解放闘争史』の紹介】
重信房子さんの新刊本です!好評につき三刷!
『パレスチナ解放闘争史』(作品社)2024年3月19日刊行
「模索舎」のリンクはこちらです。
なぜジェノサイドを止められないのか?
因縁の歴史を丁寧にさかのぼり占領と抵抗の歴史を読み解く。
獄中で綴られた、圧政と抵抗のパレスチナ現代史。
ガザの決起と、全世界注視の中で続くジェノサイド。
【内容目次】
第一部 アラブの目覚め――パレスチナ解放闘争へ(1916年~1994年)
第二部 オスロ合意――ジェノサイドに抗して(1994年~2024年)
【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。
●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在16校の投稿と資料を掲載しています。
【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は11月29日(金)に更新予定です。
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