今回のブログは、10月8日に大田区・萩中集会所(萩中公園内)で開催された「10・8山﨑博昭プロジェクト10周年集会」の報告である。
集会では福井紳一さん(予備学校講師/日本近現代史)による「戦後日本史における山﨑博昭プロジェクトとその10年」と、小林哲夫さん(教育ジャーナリスト)による「ウクライナ、パレスチナに連帯する若者からみた10・8ベトナム反戦運動」の2つの講演が行われ、最後に山本義隆さん(発起人:元東大全共闘代表、科学史家)が10・8山﨑博昭プロジェクトの10年を振り返って閉会挨拶を行った。
全体で2時間半近い集会だったので、かなり長い報告になったが、読んでいただきたい。1

佐々木幹郎さん(司会。発起人、詩人)
ただいまから、10・8山﨑博昭プロジェクトの10周年の集いを行います。
予定では、最初に山﨑建夫さん(当プロジェクト代表、山﨑博昭君実兄)からのご挨拶をいただく予定だったんですけれども、山﨑さんが体調不良で、今日こちらに着くことが出来ない、というメールが入りましたので、お許しください。
その代わりに水戸喜世子さん(十・八救援会、「子ども脱被ばく裁判の会」共同代表)から皆さんにメッセージが入っておりますので、それを読ませていただきます。
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『ご参加の皆様へ
10月8日はプロジェクト10周年になるのですね。改めて、その当日、4歳と5歳の子どもと一緒に、明け方まで寝ないで、父親(水戸巌さん)の帰りを待ち侘びた日のことを思い出しています。
ヘルメットもなく無防備な反戦青年委員会の隊列にも、機動隊は狂ったように襲いかかってきて、血を流して倒れていた人を病院に運んでいたから、と朝方血まみれの服装で帰ってきたのを思い出します。
博昭くんの死は、わが子の20年後と重なり、いつの間にか一体化しておりました。彼を忘れ粗末にすることは、わが子の未来を粗末にすることのように思えて、永遠に平和を願う人々の中に生き続けて欲しいと願っていたところに、皆さんのご苦労で墓石に彼の名を刻めた時には、本当に大きな安堵を感じました。
デモごっこの中で、バリケードを遊び場に育った息子たちは、反原発の先頭に立って闘う子に成長してくれました。今も息子たちと博昭くんは、私の中で同じように息づいています。
しかし、今年はなすべきことが重なり弁天橋に参りません。両膝関節の手術も成功し、昨年よりも元気にしておりますので、どうか他事ながらご安心ください。
良き1日となりますように。 水戸喜世子  2024年10月7日』
以上です。(拍手)

では最初に、福井紳一さんと小林哲夫さん、このお二人のお話をお聴きすることから始めたいと思います。
まず最初に、福井さんの方からお願いします。
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【戦後日本史における山﨑博昭プロジェクトとその10年】
福井紳一さん(予備学校講師/日本近現代史)
 福井紳一と申します。駿台予備学校で、40年以上、山本義隆先生と一緒に講師をしています。日本史の講師で、近現代の思想史を専門にしています。
 今日は短い時間ですけれども、「戦後日本史における山﨑博昭プロジェクトとその10年」というテーマで、この10年を振り返って見ていきたいと思います。お手元の資料に「年表」がございます。そして、パワーポイントでその「年表」の短縮版を映しますが、かなりの量がありますので、お持ち帰りいただき、何かの参考にしていただければと思っております。
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 1967年10月8日、山﨑博昭君がここ羽田の弁天橋で虐殺されたわけですけれども、(写真の)一番左にいる学生が、弁天橋で警察機動隊と対峙する山﨑博昭さんです。そして、この写真が生前最後の山﨑さんの姿を残すものとなってしまいました。
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 これは、2017年のベトナム戦争証跡博物館での山﨑博昭プロジェクトによる「日本の反戦闘争とその時代展」にも持って行ったものです。1967年にワシントンポストに「意見広告」として掲載された、「殺すな」と岡本太郎が大きな字で描いた、ベトナム反戦を訴える有名なポスターです。

 拙著『戦後史をよみなおす』(講談社)の「あとがき」にも書いたエピソードでもありますが、2001年の対米同時多発テロ、それに続くアフガニスタン戦争の頃の話です。テレビを観ていましたら、中学校や高校の教員たちが座談会みたいなものをやっておりました。その中で「最近の子どもはどうかしている。道徳心も欠ける」みたいな話がいつものように出てきます。そして、その際、教員たちは、「何で人を殺してはいけないんですか?」と子どもたちが質問をするようになった、と嘆いていました。僕はそれを観ていて、「何ておめでたい連中なんだ」と呆れました。
 もし僕が、学生や生徒や子どもたちから「何で人を殺してはいけないの?」と聞かれたら、「人を殺してはいけない」なんて誰も言っていないよ!と本当のことを答えます。
 そして、君たちは「人を殺してはいけない」なんて世界に生きていなんかいないだよ、と世界とこの国の真実を伝えます。その上で、残念ながら、我々はそんな世の中に生きているんだ、という現実をお互いに確認します。
 ひょっとしたら、その教員たちにとっての「人殺し」とは、路地裏で強盗に刺殺されたり、痴情関係のもつれで恋人に絞め殺されたり、そんな貧困なイメージしかないのかもしれません。
しかし、20世紀はどんな世紀だったか。少なく考える研究者でも1億人以上、多く考える研究者は2億人が、たった1回の生を「殺される」という形で終わった時代だった。それが20世紀だったわけで、人類史上初めての経験でした。
 じゃあ誰が殺したのか。その夥しい死は誰がもたらしたのか。マフィアでもヤクザでもありません。その殺戮のほとんど全てが、「正当性」の名の下に行われた、国家による「合法的殺人」でした。すなわち、戦争、処刑、暴動弾圧、民衆弾圧、などの形態をとって、国家による億単位の大量殺人が行われたのでした。それが20世紀だったわけです。
 だから学生や生徒や子どもたちには、残念ながら我々は「人を殺してはいけない世界」には生きていないという現実を伝えます。そして、人を殺すことが名誉とされるようになり、人を殺すことを強いられたりする時が、君たちにも近いうちに来る可能性がある、ということを正直に話します。
 やはりどんな理由を付けても、人を殺したことのある一生と、人を殺さないで終わる一生というのは、違ったものだと思います。
 ですから、もし「人を殺したくない」と思うのなら、もし「人に人を殺させたくない」と考えるなら、「そのような世界にどう近づけるのか、そのようにどう生きられるのか、共に苦闘していこう」としか言えないと思います。

 今、目の前には、イスラエルによるパレスチナに対する大量の虐殺があり、それを、かつての植民地帝国であった西側の先進国、及び、アジアでただ一つの植民地帝国であった日本が支えているわけです。日本国籍を持っている者であるならば、この国の最高で最終的な決定権は主権者である国民にあるのだから、この現実への責任が問われているのです。
 僕も戦後約10年で生まれましたが、まだ僕の子どもの頃、戦争の影は、街の片隅や人々の心の中などあちらこちらに残り、親しい人や周りの大人たちを見れば、そこには戦争で肉親を失った者が何人もいた。また、空襲で逃げ惑う女・子どもの体験も語り継がれていました。
 そういう状態であったので、あのベトナム戦争の時、報道で伝えられる米軍の空爆にさらされているベトナムの人たちの姿は、体験者のみならず、日本の子どもたちはそれなりの実感を持ち得た。爆撃機の視点ではない、空爆の下の民衆のイメージが、僕らの世代まではまだあったのかと思います。また、その実感と共感が、僕らの世代のベトナム反戦に向かう行動の基盤になったのではないか、そういうように思っています。

 常に戦争を続けてきた近代日本が、どういう国であったかということを考えてみますと、明治以降の日本なんですけれども、これは『日本資本主義発達史講座』に論文を掲載した経済学者を中心とする講座派と、雑誌『労農』の同人を中心とする労農派のどちらも、マルクス主義の側は、明治維新を割と肯定的に捉えてしまっているのです。明治維新については、講座派も労農派も不十分ながらそれなりの近代化の一つというような形で見ているところがあります。はっきり言って本当にそういうものなのかと疑問に思いますが。
 概観すれば、封建社会と近代社会の間に絶対主義の時代がある。マルクス主義の発展主義的な歴史観では、絶対王政を打倒するブルジョア市民革命を経て資本主義の時代になり、そして、その後、資本主義を打倒する社会主義革命を経て社会主義の時代になる。ある意味で「大きな物語」があったわけです。 
 そのような歴史観の中で、講座派は、明治維新はブルジョア市民革命ではない。そこで出来たものは天皇制絶対主義だ。それ故、まずブルジョア市民革命を起こして、その次に連動して社会主義革命を起こす。そういう二段階革命ということを考えていたわけです。
 一方、労農派の方は、明治維新は不十分ながらもブルジョア市民革命である。だから、すぐに社会主義革命を起こすべきだと考える。それ故、労農派の方は即座に社会主義革命を目指すので先進的にも見えるのですが、天皇制との直接的な対決は回避されます。
しかし、講座派では、まず絶対主義である天皇制打倒が掲げられる。そのため、講座派の方が先にコム・アカデミー事件(1936年6月、7月)で弾圧され、労農派はその後の人民戦線事件(1937年12月~翌年2月)で弾圧される。
 津田左右吉という学者がいます。彼は、右翼でも左翼でもない日本古代史の権威です。1940年に「『古事記』の天孫降臨のような神話は、神話であって歴史的事実ではない」という当たり前の事を言ったら弾圧され、「天皇陛下の権威を冒涜した」として出版法で起訴されました。情けないのは早稲田大学で、圧迫に屈して津田左右吉博士を大学から追放しました。「王様は裸だ」と言った子どもは最後には褒められたけれども、『古事記』の神話は神話だと本当のことを言った歴史学者は排除されたわけですね。
 その津田左右吉は、明治維新は薩長土肥の四藩による封建的反動という政権奪取のクーデターだ、という評価をしております。また、大阪大学の名誉教授で日本思想史学会の会長でもあった子安宣邦先生は、江戸幕府というのは古代以来の京都の天皇朝廷的権力体制を崩壊させた。そして天皇を非政治的な祭祀的儀式官として京都に閉じ込めた。しかし明治維新政府は、天皇をもう一度政治的中心に引きずり出し、近代国家を天皇制的国家システムに創り出した、と明治維新に対する見解を示しています。
たしかに江戸幕府は、1615年の禁中並公家諸法度に於いては、「天子諸芸能之事、第一御学問也」と明記して、天皇の存在を幕府の法で規定し、さらには天皇の行動を法によって規制し、天皇の政治への介入を排除しています。
 一方、1889年に制定された大日本帝国憲法では、第1条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とされ、第3条には「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあり、天皇は「現人神」として神格化されて、日本は「神国」と称されるようになります。すなわち、近代日本は、極めて宗教的な国家の様相を呈しているのです。

 では、ベトナム反戦闘争について考察する一助として、まず、近世以降の日本について概観していきましょう。僕らが中学生・高校生だったころは、江戸時代に日本が国交を持った国は、中国とオランダだと習いました。けれども、今はそうは教科書には書いてありません。国交があった国は朝鮮と琉球です。両国は「よしみを通じる国」という意味で「通信国」といわれました。一方、国交がなくて貿易だけの付き合いが、中国とオランダということになり、両国は「通商国」といわれました。
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 この「戦前の日本の侵略と東アジア」という図は、明治維新以降の日本のアジア侵略を図示した地図だと思って見ていただきたいんですけれども、近代の日本は、まず、江戸時代に国交を持った朝鮮と琉球に対して侵略の手を伸ばします。すなわち明治政府は、成立間もなく、朝鮮への進出と琉球の併合を図ったということです。まず1879年、明治政府は、琉球処分を断行して、1429年に成立した隣の国である琉球王国を滅亡させ、尚王朝を消滅させ、琉球・沖縄を内国植民地化していきます。
 1894年、日清戦争を引き起こした日本は、翌1895年、日清戦争の講和条約である下関条約により台湾を植民地化しました。台湾は日本初の植民地となり、以後50年の日本帝国主義による植民地支配下に置かれました。
 1897年、李王朝の朝鮮は、清の冊封体制から離脱し、大韓帝国(韓国)という国号を変えます。1904年、韓国・満州を巡る日露の帝国主義戦争である日露戦争が勃発します。日露戦争で日本は何を奪ったかというと、関東州といわれた旅順・大連の租借権、南満州鉄道など、ロシアが清から奪取した権益を奪い、南樺太を植民地にしていきます。そして、1910年、前年の安重根による伊藤博文の射殺を利用して韓国併合条約の締結を強いて、朝鮮を植民地化しました。
 「昭和」戦前期のアジア侵略がまず着目されますが、すでに1868年から1912年の明治天皇の治世において、明治天皇を「神」とあがめた明治政府によって、江戸時代に日本と国交を持つ隣国である、琉球と朝鮮の王朝、すなわち琉球の尚王朝と朝鮮の李王朝という2つの王朝が滅亡させられました。
そして、「大正」期に入り、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、日本はドイツに宣戦布告し、列強が後退した隙に中国に進出していきます。そして、1919年のドイツと連合国の講和条約であるベルサイユ条約に於いて、事実上の植民地である国際連盟委任統治領という形で、サイパン島など広範囲の旧ドイツ領南洋諸島を支配下に置き、日本は南太平洋に進出していきました。
 ワシントン会議によって形成された、第一次世界大戦後の東アジアと太平洋の国際秩序はワシントン体制とよばれます。第一次世界大戦後の日本は、協調外交を行いますが、協調外交とはワシントン体制との協調を意味しました。つまり、欧米帝国主義と協調しながら、中国での権益拡大を図るという帝国主義的な外交政策でした。しかし、1931年、日本帝国主義は、満州事変を起こし、翌1932年に満州国を捏造してワシントン体制を崩壊させます。そして、1937年には日中戦争を引き起こし全面戦争化させました。
 そして次はベトナムに進出していきます。1939年、独ソ不可侵条約を結んだナチス・ドイツはポーランドに侵攻して英仏と戦端を開き、第二次世界大戦を勃発させました。翌1940年にナチス・ドイツはパリを占領し、フランスにヴィシー政権という傀儡政権を作ります。そのヴィシー政権の了承を得て、1940年、日本は、ハノイを中心に北部仏印進駐を行い、1941年にサイゴンを中心に南部仏印進駐を断行して、現在のベトナム・ラオス・カンボジアにあたるフランス領インドシナに入り込んで行くということになります。
 しかし、南部仏印の進駐の報復として、アメリカは対日石油禁輸で臨みます。当時、日本は75%以上石油をアメリカ一国に依存していましたから、これで追い込むか暴発させようとしたか、その辺はいろいろと解釈がありますが、1941年、日本海軍は真珠湾を奇襲攻撃し、日本はアメリカと戦端を開いてアジア太平洋戦争に突入しました。
 南方戦線に派兵された将兵は大量に戦死しましたが、その4分の3、少なくとも3分の2は餓死・戦病死というような死に方をしました。また、南太平洋の島々は激戦地となり、米軍の攻撃の前に日本軍は全滅していきました。しかし、今のアメリカの映画もそうですし、日本の映画もそうですけど、日米の戦闘の中で、大量の南太平洋の島々の人たちが巻き込まれて死んでいるという事実が映像に描かれていない。このことは、現代の日米の映像作家たちには、南太平洋の島々の人たちの死が見えていない、見ようとしていないという実態を示しています。また、そのことには、日米の社会の現実が投影されています。
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 「戦後の日本とアメリカの東アジア政策」という図を見ながら、アジアで唯一の植民地帝国であった日本が戦後どうなっていくかを見ていきましょう。赤く書いてある部分が東側陣営で、黄色く書いてある部分が西側陣営の主要な地域です。
 日本はアメリカの東アジア政策の中で経済を発展させてきました。1945年7月の米英中の「ポツダム宣言」は、1943年の米英中の「カイロ宣言」を踏襲しています。「カイロ宣言」に於いて米英中は「朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ、軈(やが)テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス」と掲げ、戦争終了後に日本の植民地支配の下にあった朝鮮の独立を確約しています。一方、1945年2月の「ヤルタ協定」に於いて、アメリカ大統領ローズヴェルトの懇願により、ドイツ降伏後のソ連の対日参戦が決定されました。
 1945年8月、アメリカ大統領トルーマンは、戦後世界に於けるソ連に対するアメリカの優位のため、広島と長崎に原爆を投下し、降伏寸前の非戦闘員である日本の民衆を大量虐殺しました。そして、日本敗戦後、アメリカは朝鮮半島に上陸して朝鮮南部を占領したので、対抗したソ連は朝鮮北部を占領しました。本来、連合国軍により分割されるはずであったのは日本でありました。しかし、アメリカの原爆投下による米ソの力関係の変化により、解放と独立が約束された朝鮮が米ソによる分割支配を受けることになりました。
 1950年から1953年の朝鮮戦争により発生した軍需は、「特需」と胡麻化した表現で定着していきます。この「朝鮮特需」により、1951年には、日本の鉱工業生産額は戦前最高水準を突破し、日本経済を復興していきます。そして、1950~53年と続く「朝鮮特需」の好景気の後、1954年、一時的に景気は冷え込みますが、1955~57年には、朝鮮復興資材の輸出や大型設備投資などで「神武景気」とよばれる好景気を迎えます。そして、1955年には一人当たりのGNPは戦前最高水準を突破して、そして翌年統計が出ますから、翌1956年、経済企画庁の『経済白書』は「もはや戦後ではない」と謳います。また、1955年は、1973年の第一次石油危機、すなわち、第一次オイルショックまで続く、長期にわたる高度経済成長の起点となりました。すなわち、戦後の日本は、朝鮮戦争によって経済を復興させ、高度経済成長をスタートさせたことになります。
 1965年、北爆とよばれる、アメリカによる北ベトナムに対する空爆が始まりました。ベトナム戦争の始まりをどこと見るかは諸説ありますが、一般的には、1965年の北爆の開始から、1975年のサイゴン陥落までをベトナム戦争といいます。ベトナム戦争は、日本に広範な戦争需要をもたらし、「ベトナム特需」とよばれました。「ベトナム特需」は、1966~70年の「いざなぎ景気」といわれる5年弱の長期の好景気をもたらし、その渦中の1968年、日本は西独を抜いてアメリカに次ぐ資本主義世界第2位の経済大国になりました。
 すなわち、戦後の日本は、戦前の日本がかつて植民地支配をしていた朝鮮、占領していたベトナムに於ける、米軍の大量殺戮に全面的に協力することによって経済発展してきた。戦後の日本人は肥え太ってきた。それが我々の歴史的実感としてもあるし、事実でもあります。
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 戦後の日本の経済発展と「繁栄」を維持したものは何であったのでしょうか。それはアメリカの東アジア政策にあったのです。「戦後の日本とアメリカの東アジア政策」の図を見てみましょう。
 冷戦の中、1947年から1987年まで、台湾には、アメリカの支持する中国国民党政権によって戒厳令が敷かれていました。以前、植民地文化学会でともに会員だった僕と同じ1956年生まれの台北大学の教員と、学会のシンポジウムの際に話したとき、「自分が中学の時に3人の恩師が処刑された。教師たちは読書会をやっただけでした」と語ってくれました。
 そしてまた、アメリカは、あの民衆の中で民主主義の成熟した隣国の韓国には、1980年になっても、「光州事件」のような、軍による大量虐殺によって民主化運動を弾圧するような過酷な軍事政権を維持させていきました。
 ちょうど1980年、僕は新米の高校の教員でした。高校生たちと、わずかな情報ですけれども、入ってくる情報を提示しながら、今、光州で起きていることは一体何なのか、それは今の我々とどうかかわっているのか、話し合いました。そういうことを共に考えながら、僕らの関わったベトナム反戦運動のことも一緒に話して、そういう形で生徒たちと向き合いました。それが1980年の春のことです。
あの時、一番高校生の心にも届くいい記事を書いていたのは『週刊プレイボーイ』でした。あの頃の集英社の『週刊プレイボーイ』の編集部には、全共闘運動を闘った編集者や記者がフリーライターを含めてたくさん入っていたので、非常に分かりやすく「光州事件」のことを書いていました。高校生にコピーして配りました。
 そして沖縄です。1945年の日本敗戦後、日本本土は連合国の間接統治の下に置かれましたが、沖縄は全く異なり、米軍による直接統治の下に置かれました。1951年のサンフランシスコ平和条約により、日本は西側48カ国とのみ講和して戦争を終結させ、翌1952年4月28日、同条約の発効により、日本の本土の主権は回復して日本の占領は終結しました。しかし、沖縄はアメリカの施政権の下に置かれました。2013年、第二次安倍晋三内閣は、4月28日を「主権回復の日」と定め、同年4月28日に憲政記念館に於いて、天皇・皇后も出席する「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」を開催しました。その際、安倍晋三首相は、壇上で「天皇陛下万歳」を三唱したのです。沖縄の主権など回復されていませんでした。4月28日は、沖縄では「屈辱の日」です。沖縄は都合のいい時は「日本」であり、都合が悪い時は「日本」でなくなるのです。
 沖縄県の面積は、日本全体の約0.6%、ざっくり言って200分の1しかありません。その日本の約200分の1しか面積のない沖縄に、今は70.6%に下がっているようですが、新安保体制の下で長期間にわたり、約0.6%の沖縄に、在日米軍の基地の約75%を集中させてきました。
 すなわち、アメリカの東アジア戦略は、あの冷戦中、1987年まで台湾の国民党政権に戒厳令を敷かせ、1980年代まで民衆による民主主義の成熟した韓国に過酷な軍事政権を置かせ、そして、日本の約0.6%しかない沖縄に在日米軍の基地の約75%を集中させる。そういう中で、日本本土には凡庸な親米政権を作らせて高度経済成長をさせていく。
 戦後の日本の「繁栄」とは、このようなアメリカの東アジア戦略の中で作られた、台湾・韓国・沖縄の民衆の犠牲の上に成立した、「幸運」といえるでしょう。もし、朝鮮半島全体が「共産化」していたら、多分アメリカは、日本本土に凡庸な親米政権など作らせず、日本にも、戦後の韓国のような過酷な親米政権を作らせていたかもしれません。戦後の日本は、どうあがこうと、アメリカという「お釈迦様の手の上」にあったのでしょう。

 このような冷戦下のアジアで起きたベトナム戦争に際し、アメリカは日本・韓国・台湾という「西側陣営」によりベトナムを包囲しようとしました。

 僕らの子どもの頃は、テレビなどの映像でも、ベトナム戦争の惨状が、モザイクなしの映像や写真として、無残な死体も含めて眼前に突き付けられました。そういうものを見る中で、子どもたちまで、肌身でベトナム反戦ということを考えたのだろうと思います。そして、子どもたちさえも、この殺戮に自分の国が加担していることに気付いていました。そして、上の世代の反戦闘争も直視していました。
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 このベトナム反戦闘争について、高校『日本史』の教科書にどう書かれているのでしょうか。写真で示した山川出版社の『詳説 日本史』、これは6割、7割近くの高校で採用されている日本史の教科書ですけれども、2004年版では、ベトナム反戦闘争や全共闘運動について、
「革新政党を批判する学生を中心に組織された新左翼が、ベトナム戦争や大学のあり方などに異議をとなえる運動をくり広げた」と記述しています。
そこから20年経ちまして、同じ山川出版社の『詳説 日本史 探求』2024年版では、
「既成の革新政党を批判する学生を中心に新左翼が組織され、ベトナム戦争や大学のあり方などに異議をとなえる運動を繰り広げた」
とわずかに表現を変えました。
 この2004年版の「学生を中心に組織された新左翼が」と、2024年版の「学生を中心に新左翼が組織され」との表現の違いは、後者に於いては、「新左翼が」という主語を排除し、そのことにより主体を曖昧にして、新左翼だけが「ベトナム戦争や大学のあり方などに異議をとなえる運動を繰り広げた」わけではない、新左翼以外の諸勢力も「ベトナム戦争や大学のあり方などに異議をとなえる運動」を行ったという意味を持たせるために、教科書の表現を変えたんだろうと思います。
 しかし、歴史家として見るとすごくいいかげんな文章で、「新左翼が組織され」というのはおかしい。「新左翼の様々な党派が組織され」ということはあるかもしれないけれど、「右翼が組織され」とか「左翼が組織され」という表記について、歴史学の表記としては非常に拙い表現だと思います。さらに言うならば、日本に於いて、一大勢力として統一して「新左翼が組織され」た歴史的事実など何処にもないからです。
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 そして、今度はこれが新しい『詳説 日本史 探求』の教師用の指導書です。
「ベトナム戦争が長期化・泥沼化する中で日本でもベトナム反戦運動が高揚し、『不正の侵略戦争』のために在日米軍基地が利用され、日本政府がこの戦争を支持することに対して、批判的なムードが濃厚であった。組織的な反戦運動を担ったのは、社会党・総評を中心とする革新勢力及び『新左翼』系の学生運動であったが、それらの中にあって、ベ平連(『ベトナムに平和を!』市民連合)は、哲学者の鶴見俊輔らによって1965年4月に結成され、若い世代に人気のある作家小田実によって領導されて、大きな運動に発展していった。『ベトナムに平和を!』という最低限の共通了解以外にいかなる規約・会員制度も持たず、共に行動する者がすなわちメンバーであるという、柔軟な組織形態をとり、その後の日本の市民運動の原型となった」
と書かれています。この教師用の指導書を見ますと、『1968―若者たちの叛乱とその背景』を書いた小熊英二の影響がかなりある。要するに、ベ平連に対する高い評価と新左翼に対する批判。僕もベ平連は評価していいと思いますけれど、それとは別に、小熊英二的な、ベ平連は良かったけれど、全共闘は少し悪く、既成セクト党派はもっと悪い、というような、不等号があるように主張される。はっきり言って、若い世代の研究者の中にも、こんな歪んだ「認識」が、共通認識としてかなり出てきている。これは教師指導書ですけれども、やがて教科書の本文もこれに沿って少しずつ変わってくるだろうと考えられます。
 そういうような現状を見ながら、映像の「年表」を通して、皆さんと一緒に過ごした「10・8山﨑博昭プロジェクト」の10年について思い出していきたいと思います。
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 2014年に「10・8山﨑博昭プロジェクト」が発足しました。そして第1回の集会で山本義隆先生が「私の1960年代~樺美智子・山﨑博昭追悼~」という講演を行った。これは社会運動史的に見ても大きな影響があったんだろうと思います。非常に大切な講演だったと思っています。
 そして、2015年、第2回集会と第3回集会を春と秋に行うようになり、大阪でも秋に初めての集会を開催。そして山本先生を中心に12月に「60年代研究会」を発足しました。この研究会では、駿台予備校の日本史科の講師も含めて、1960年代の砂川闘争や1972年の相模原闘争やJATEC(反戦脱走米兵援助日本技術委員会)の闘争の当事者に聞き取り調査を行い、そして、あの時期の社会運動に関する年表などを作ったりしました。このことが、2017年のベトナム戦争証跡博物館に於ける「日本のベトナム戦争とその時代展」の展示に向かっての布石となり、大きな土台になったと思います。
 第3回の集会の時ですけれども、ちょっと内輪の話ですけれど、会場で山本先生に呼ばれて「佐々木と辻がベトナムに行って、展示会をやると約束してしまった。これは大変なことになる。俺は腹を括るからお前も手伝ってくれ」と声を掛けていただきまして、そして、このことが「60年代研究会」を作って資料を集めたり、聞き取りを行ったりして、展示の準備を行っていくということに繋がっていきます。

佐々木幹郎さん(司会)
その内輪の話というところを、後でちょっと補足させてください。
(注:福井さんの話の後、佐々木さんからこの件について補足がありました。)

*「佐々木幹郎氏の発言は、当方の発言への誤解に基づいているので、『付記』として文末に於いて説明します。」

福井紳一さん
 そしてまず、2017年に開催されたホーチミン市(旧サイゴン)にあるベトナム戦争証跡博物館での「日本のベトナム反戦闘争とその時代展」の前段として、2016年、「ベトナム反戦闘争とその時代展」を台東区の谷中で開きました。その際、そこで展示する大量のパネルを山本義隆先生が一人で作っていらっしゃったというびっくりするようなことがありました。山本義隆先生は、「カリスマ」のように扱われ、苦手なその役割も十二分に引き受けましたが、実は「縁の下の力持ち」であり続けたのでした。
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 2017年に山﨑博昭プロジェクトの大きな目的であるモニュメントが完成しました。そして、8月20日から11月15日まで、予定を延長しての長期間にわたる、ベトナムのホーチミン市にあるベトナム戦争証跡博物館における「日本のベトナム反戦闘争とその時代」展が開催されました。
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 ベトナムでは様々な出会いがありましたが、ベトナムの人から、沖縄のことを、ベトナムでは「悪魔の島」と呼んでいる、ということを初めて聞きました、それは、沖縄からは「自分たちを殺しに来る将兵が送られてくる」、沖縄の基地からは「B52が空爆のために飛んでくる」ということからでした。「日本のベトナム反戦闘争とその時代」展の入り口には、ヘルメットの隊列の写真が掲載されていました。ヘルメットには「牧青」と大きく書いてありました。これは沖縄の全軍労の「牧港青年部」のヘルメットでした。このことを説明すると、ベトナムの人たちは、「悪魔の島」である沖縄の米軍基地で働く労働者が、ベトナム反戦運動を担っていたことに「とても心を動かされた」と話してくれました。
この時の動画の映像が山﨑博昭プロジェクトのサイトに出ていますのでご覧ください。「日本のベトナム反戦闘争とその時代」展のイベントに於ける山本義隆先生の発言です。
「ベトナムはフランス帝国主義とアメリカ帝国主義に勝利した唯一の国であります。その意味において、私はベトナムの国を偉大だと思っております。ベトナムは日本を叩き出して、再びやってきたフランスを叩き出して、アメリカを叩き出したわけですね。そして、山﨑博昭君の犠牲という、尊い命を奪った、あの日の全学連の行動は、世界に日本の良心を示したものだと私は思っております」
 心に残るアピールでした。日越関係史上に残るものと思っています。
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 2017年、「10・8羽田闘争50周年」の日に、記念誌『かつて10・8羽田闘争があった/山﨑博昭追悼50周年記念(寄稿篇)』を刊行。そして、翌2018年の10月8日に『かつて10・8羽田闘争があった/山﨑博昭追悼50周年記念(記録資料篇)』が刊行されていきます。
 2019年、「第2ステージ」に向けての趣意書を発表。そういう中で、8月には「糟谷孝幸50周年プロジェクト」の立ち上げがあり、この動きには「山﨑博昭プロジェクト」の影響がありました。
 同年10月には、コロンビア大学の学園闘争のリーダーであったマーク・ラッド氏が来日し、関西集会では、「1960年代から70年代の米国学生運動活動家リーダー、マーク・ラッド氏が語る」というイベントが行われました。また、この年の京大11月祭の企画にも参加し、「京大生 山﨑博昭とベトナム反戦運動」の展示を行いました。
 2020年10月、渋谷で映画『きみが死んだあとで』の上映とトークの会を開催し、翌11月、関西でも同様の会を開きました。
 2021年、映画『きみが死んだあとで』が一般公開されました。秋の東京集会では、田尾陽一さん(「ふくしま再生の会」理事長、元物理研究者)の『東大闘争と福島原発事故?ベトナム反戦・全共闘から』と題する講演があり、東大闘争から福島の原発の関わりについて語られました。また、この時は「高校生と大学生が語る~いまやっていること、やりたいこと」というシンポジウムがあり、山﨑博昭プロジェクトは、高校生たちと大学生たちとの対話を始めました。
 2022年の東京集会では、短編映画『山﨑博昭プロジェクトの歩み』が上映され、山﨑博昭プロジェクトの軌跡を映像で振り返って観ることができました。
 2023年、関西集会は「今、沖縄を考える」をテーマに掲げて開催されました。山﨑博昭プロジェクトが沖縄の問題にどう取り組むのか、東京でもいろいろ議論をかさねながら、現在に至っております。
そして、今年、2024年に至ります。「10・8山﨑博昭プロジェクト」の10年とは何であったのか、どのような意義があったのかと考えた時に、まず、第一に上げられることは、山﨑博昭プロジェクトが掲げた目標が実現できたということです。
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 2017年6月17日、モニュメントの建立が実現し、羽田の弁天橋に近い福泉寺で建碑式が行われました。8月から11月、ベトナムのホーチミン市にある戦争証跡博物館で「日本のベトナム反戦闘争とその時代展」が開催されました。50周年の10月8日、『かつて10・8羽田闘争があった/山﨑博昭追悼50周年記念(寄稿篇)』が刊行され、翌2018年には「記録資料篇」が刊行されました。山﨑博昭追悼50周年の2017年に「三つの目標」が達成されたのです
 第二は、東大全共闘代表であった山本義隆氏の発言と活動です。2014年の第1回東京集会での「私の1960年代~樺美智子・山﨑博昭追悼~」の講演がありました、山本義隆氏が、このような形で社会的発言を半世紀ぶりに再開された。このことが、多くの同世代の人々、山本義隆氏の話を当時聞いた人々、あるいはここで初めて聞いた人々に訴えるものが大きかったんだろうと思われます。そして、山本義隆氏の発言と行動の再開に触発されて、一歩踏む出す者や行動を再開する者が多数生まれたことは事実でありました。これは歴史研究者の立場から客観的に考察しても同じ結論に至ります。
 山本義隆氏の『私の1960年代』が、第1回東京集会の講演をもとに加筆されて刊行されました。また、山本義隆氏の呼びかけで「60年代研究会」が発足し、「日本のベトナム反戦闘争とその時代展」のための記録、資料収集、模原補給廠闘争、砂川闘争、JATECなどの関係者への聞き取りが行われました。そして、その作業をもとに、ベトナム反戦闘争の年表を作成しました。このような山本義隆氏の行動が、1960年代・70年代を生きた人々を触発したことは間違いありません。
 第三は、ベトナム反戦闘争、70年安保闘争の渦中で斃れた活動家たちの顕彰と、それを通した交流の実現です。山﨑博昭プロジェクトの行動は、「糟谷孝幸50周年プロジェクト」の立ち上げの契機となりました。そして、2010年11月には、『語り継ぐ1969 糟谷孝幸その生と死』が社会評論社から刊行されています。また、体育会系の右翼集団に殺害された日大全共闘の中村克己さんの墓参を50年続けて来た、元日大全共闘の方たちとの交流も実現しました。また、その中村克己さんを追悼し続けてきた元日大全共闘のメンバーも山﨑プロジェクトの発起人に入っていただきました。このように、闘争の渦中で斃れた活動家たちの顕彰と、それを通した交流の実現に、山﨑博昭プロジェクトの10年の活動が寄与したことは大きな意義のあることでした。
 第四は、山﨑博昭プロジェクトの活動が、10・8に関わる様々な人々の多様な想いや反戦の意思の再生に大きく貢献したことです。『かつて10・8羽田闘争があった/山﨑博昭追悼50周年記念(寄稿篇)』の寄稿の中に、「反戦、反権力の思いは、隠れキリシタンのように胸にしまっておいたが、自分の生きている間に10・8のこと、反戦への意思を残したいと思っていた」という北村智子さんの言葉がありました。このように様々な個々の人々には、あの時代を生きた故の多様な想いがあり、回顧があり、後悔があり、語れない思いがあり、そこに醸成された現在にいたる反戦の意思があります。山﨑博昭プロジェクトの活動は、このような人々が表現する場を提示し、彼ら、彼女らが自ら行動の場を形成することに寄与したのではないだろうかと思います。
 第五は、若手研究者への影響と交流があります。1960年代・70年代の社会運動や政治闘争を研究する研究者が生まれてきています。そのような研究者との交流は、特に関西に於いて進展しています。1960年代・70年代の活動家たちは多くの言語と経験を持っています。そして、老いたとはいえ、現役の活動家たち、何らかの形で活動に関わり続けた人たち、活動を再開した人たちもいます。社会運動や政治闘争の研究に足を踏み入れたものは、単なる観察者に堕すなら、いずれ、その存在を問われます。その厳しさをもって交流が深化することを期待します。

 1960年代・70年代の行動を担った人々、関わった人々は、1回しかない生の、第3コーナーをかなり回りきっているところに来ている年代になりました。個人的に思い起こせば、いや歴史的に捉えなおしたとしても、あの時期、様々な場所で、様々な局面で豊穣な行動をなし得たことは事実だと思います。しかし、同時に大きな失敗を重ねたとも思っています。
 僕は、ある意味で「大きな物語」は終わったと思っています。しかし、豊穣であったはずの行動も、「大きな物語」の中での「目的」に向かってのどれだけの成果があったのか、どこに限界があったのかという観点から総括され、評価されていった側面がありました。そして、豊穣な行動を痩せた言語でしか意味づけられず、その痩せた言語に囚われ、次の行動が提起され、豊穣な行動の意味が見出せなくなってきた、そんな感覚があります。
 しかし、闘争の非日常の中で経験した共同体験、そして、そこで形成された共同性は、闘争に関わった多くの人のその後の生き方に生かされてきたはずです。また、社会や生活の一局面に於ける重要な判断を迫られた時に、その経験は決断の基軸になっていたはずです。
 そういった闘争の中での共同体験や、闘争の中で形成された共同性の記憶が、ある意味で社会変革の、あるいは社会革命の根っこだろうと感じております。そんなことをつらつら考えながら、まだ行動も続けていきたいと考えております。
ありがとうございました。(拍手)
「付記」(福井紳一)
①福井の講演に於ける「会場で山本先生に呼ばれて『佐々木と辻がベトナムに行って、展示会をやると約束してしまった。これは大変なことになる。俺は腹を括るからお前も手伝ってくれ』と声を掛けていただきまして」という部分に、佐々木幹郎氏から「ちょっと違うな。そういう形で歴史が歪められていく」との発言がありました。これは誤解、或いは曲解に基づく批判であります。
②さらに福井の講演終了後に佐々木幹郎氏は、「今ここで言わないと歴史が偽造されたものに終わりますので、何がどう違うのかということをご説明します」と「解説」を始めました。
③ベトナム戦争証跡博物館の展示に関し、佐々木幹郎氏は、「実は、向こうから提案されたんですね。こちらから提案したんじゃないんです」と発言しています。さらに、「福井さんの説明だと、最初からそういう手をこちら側がやって、その通りに動こうとして、それでずっと来たようになるんです」と続けています。
④しかし、福井は、「会場で山本先生に呼ばれて『佐々木と辻がベトナムに行って、展示会をやると約束してしまった。これは大変なことになる。俺は腹を括るからお前も手伝ってくれ』と声を掛けていただきまして」と知り得る事実を報告したまでです。山本義隆氏も、佐々木幹郎氏の側からベトナムの側に提案したとは言っていません。山本義隆氏の言辞をそのまま紹介した福井も、佐々木幹郎氏の側から提案したなどとは言っていないことは、録音や記録を確認すれば明確なことです。
⑤誤ったことを言っていない山本義隆氏の発言と、それを紹介した福井の講演での発言に対し、「今ここで言わないと歴史が偽造されたものに終わります」という佐々木幹郎氏の発言は、誤解に基づくものでなければ、山本義隆氏と福井への誹謗・中傷にあたります。
⑥歴史家に対して、「歴史を偽造した」と中傷することは、大変な侮辱となりますので、佐々木幹郎氏の発言への抗議の意味を込めて「付記」いたしました。

※「付記」に対する佐々木さんの「謝罪文」は記事の最後に掲載しています。

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佐々木幹郎さん
 先程述べましたように、福井さんの発言にわたしが体験したことを補足させてください。
 年譜のなかに、「8月18日 発起人の辻恵と佐々木幹郎がベトナム・ホーチミン市の戦争証跡博物館を訪問。日本におけるベトナム反戦の記録展示について模索」とありますが、そこに至るまでのプロセスを具体的に説明します。そのプロセスのなかに、「10・8山﨑博昭プロジェクト」の存在意義がある、と思うものですから。

 元々、ホーチミン市に戦争証跡博物館があるということをわたしたちは知りませんでした。わたしが「10・8山﨑博昭プロジェクト」が起ち上った時に、まず最初に考えたのは、かつてベトナム反戦運動という形で行動しながら、その中の人間が、その当時も、そして現在に至るまで、誰一人ベトナムに行っていない。しかも、戦争証跡博物館があるということも知らずに今まできた。とにかくベトナムに行こうと言い出したのは私なんですね。それで辻恵君(当プロジェクト事務局長、弁護士)を誘って、戦争証跡博物館に連絡を取って現地に向かいました。
 その時にやろうとした一番大事なことは、ベ平連の仕事と、それから日本共産党の反対運動、その2つだけがベトナムの戦争証跡博物館に展示されているということが分かったからです。それで、日本で同時期に三派全学連の動きがあって、第一次羽田闘争があって、その中で一人の死者が出た。この死者の遺影と第一次羽田闘争の資料を永久展示して欲しいと、そのことだけを申し入れに行ったのです。
 当時、フィン・ゴック・ヴァンという女性館長がおられたのですが、第一次羽田闘争や死者のことをまったく知らなかった。「そんなことがあったのですか」と驚かれた。わたしたちは、当時の写真や新聞資料を揃えて、要所を英語に翻訳したものも揃えて、説明しました。その時に、僕は高校時代に山﨑の同級生であったということも伝えたんですが、「高校時代の同級生が50年後に仲間を顕彰しようとしてここまで来てくれた。まずそれに感動しました。遺影を掲げる場所を作りましょう」と即座におっしゃった。それと同時に、ヴァン館長のアイディアで、「1954年から75年までのベトナム戦争中の日本の反戦運動の全貌を示す展示会を考えてくれないか」と。「できれば2017年の夏にそれをやれたら嬉しい」と。「その時に、山﨑博昭についての展示も、その中の一環としてやりましょう」と。「それ以降、遺影そのものの場所も確保するようにします」と。
 なぜ、2017年という年が設定されたかというと、この年が「ベトナム日本友好協会」の設立25周年にあたっていたからでした。わたしたちは戦争証跡博物館と連絡を取る前、ベトナム日本友好協会宛に、山﨑博昭のモニュメント建立に際して、コメントが欲しいと手紙を出していました。その返信として2015年に、「尊い犠牲を払った山﨑博昭氏に対して、心から賛辞を捧げます」という旨の英文の手紙をいただいていました。おそらくヴァン館長は、これを読んで、「ベトナム日本友好協会25周年記念」と、「日本のベトナム反戦闘争とその時代展」をドッキングさせようと考え、企画されたようです。
このように、ベトナムでの展示は、向こうから提案されたんですね。こちらから提案したんじゃないんです。これが「山﨑博昭プロジェクト」の存在意義とも言えるのではないでしょうか。
 わたしたちは、一つのことをまずやろうとした。その時に、実際にどうやれば次の動きに繋がるかというのは、いつもこの最初に起ち上げた動きに参加した人たちのアイディアをいただいて、それで次へ回転していく。それをやったらまた次の動きに繋がっていって、その参加者からのアイディアでどんどん転がり広がっていく。これこそが「10・8山﨑博昭プロジェクト」の基本的な動きなんです、現在までの10年間の。それが普通の組織と全然違うところだと思います。福井さんの説明にわたしから補足したいと思ったのは、そのことに尽きます。
 ヴァン館長が提案された「日本のベトナム反戦闘争とその時代展」の企画の件を、発起人会議で報告すると、山本義隆さんは最初は手を叩いて喜び、「よくやった」とおっしゃった。それからしばらく経って、「誰がやるんだ」と、「誰ができるんだ」と。「その展示会の展示物を集めるのは俺しかいないだろう」という形で、山本さんが資料のパネル貼りも一人でやった。「手伝います」と言っても「自分の方がパネル貼りがうまいから」ということでパネルの材料を自分で選んで。「60年代研究会」はその過程で生まれました。山本さんが呼びかけたからこそ集まってきた貴重な資料がたくさんありました。このようなプロセスは歴史のなかからは消えていくものですが、一つの企画が実現するまでのこのプロジェクト独特の動きを、実際に体験した者として補足しておきたかったことでした。以上です。(拍手)

佐々木幹郎さん
次に、小林哲夫さんです。

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【ウクライナ、パレスチナに連帯する若者からみた10・8ベトナム反戦運動】
小林哲夫さん(教育ジャーナリスト)
 みなさん、こんにちは。ジャーナリストの小林哲夫と申します。『ウクライナ、パレスチナに連帯する若者からみた10・8ベトナム反戦運動―「10・8山﨑博昭プロジェクト」発足から10年 学生たちは社会とどう向き合ってきたのか』というのが今回の私のお題になります。
 これは簡単に言いますと、2014年に「山﨑プロジェクト」が発足してから2024年まで、それぞれ年次ごとに、学生は何をしていたんだろうという話を、「山﨑プロジエクト」の集会等と照合しながら説明をしていきたいと考えています。
 2014年3月、「山﨑プロジェクト」が発足をします。この時、大学生というのは、2015年に安保関連法案の反対運動を翌年に控えて、学生たちが少しずつ動き出します。と言っても、極めて少数です。SASPL(サスプル)という「特定秘密保護法に反対する学生有志の会」が、正確に言うと2013年12月に結成されて、14年に国会前でさまざまな活動を起こします。15年に、SASPL(サスプル)から入れ替わった形で、「自由と民主主義のための学生緊急行動」SEALDs(シールズ)というのが結成されます。SEALDsの主要メンバーというのが、明治学院、上智、ICU、関学等比較的、かつての学生運動を担った東大、京大、早稲田というよりは、ミッション系の大学が多かった、それから女子学生がわりと多かったということが特徴として挙げられます。当時、他の学生はどうだったかと言うと、SEALDsとはちょっと違うと思っていた学生さんが「直接行動」というグループを作って、国会前でアクションを起こしております。他に民青の諸君であったり、新左翼党派の諸君であったり、こういった学生さんたち、と言ってもごくごく少数ですけれども、それなりに15年の8月9月というのは、学生さんが本当に何十年ぶりかに集会、デモに集まったということがあります。
 この時、「山﨑プロジェクト」では東京、関西で山﨑さんを語る集会が開かれておりまして、この時は私はそれほど積極的に関わっていなかったので、学生を「山﨑プロジェ」クトの集会に呼んだり、連れて来たり、個人的にはしていました。そこで登壇させるということはお願いはしていないんですけれども、「羽田闘争とは何か」ということを学生さんに理解してもらうために、学生さんを何人か連れて来たことはあります。
 2015年の安保関連法案の反対運動の時、彼らはどういう運動をやったらいいのか悩みます。SEALDsに対しては、いろんな考え方、意見や批判があるかと思いますけれども、SEALDsを一例として言うと、彼らの学生による運動のイメージというのは、僕らによく言っていたのは「60年安保」なんです。60年安保闘争の時に、国会前にあれだけ多くの学生、市民を集めた。それを15年の安保関連法案反対運動でやりたいというのが、彼らの思いでした。全共闘運動でもなく60年安保というのは何でなんだろうと思ったんですけれども、当時からSNSのユーチューブ等動画で観ることはできたと思うんですけれども、一つには、60年安保というのは日本史の教科書に写真で出ていますよね。それはかなり大きいと思います。参考書だと、結構詳しく60年安保の話が出ています。東大生の樺美智子さんが亡くなったということも詳しい教科書に出ていますし、60年安保闘争というのが、教科書として、歴史を学ぶ上で、彼らはインプットされている。したがって、運動するにあたって、たぶん60年安保の時に上空のヘリから撮った国会前に人がいっぱい集まっている写真、それを自分たちでやれないものかということを、彼らが会うたびに話していました。
 一方で、そんなことで安倍政権を打倒できるのかということ、それから安保関連法案が阻止できるのかということを考える学生も当然いました。その学生さんは「直接行動」というSEALDsとは違う、例えばハンストをやったり座り込みをやったりする学生さんがいました。彼らの中には、1960年代の羽田闘争、佐世保闘争、王子闘争を動画で知ることによって、もっと直接的に行動しなければならないんじゃないか。当時、香港、台湾で学生が政府に向けた直接行動をやっていたということにも影響を受けて、SEALDsは生ぬるいんじゃないか。かつて60年安保の時に国会に突入して占拠しようとした、ああいうこともやれないんじゃないかと考える学生さんも極めて少なかったけれど、いたことは確かです。ただ、どうやるのということと、それをどうやって伝えて誘ったらいいの、ということで、彼らは悩んでしまいます。結局、過激派という言い方もちょっと難しいんですけれども、そういう行動は出来なかったし、中には学生さんの逮捕者が出るほどの警察隊との衝突はありましたけれども、そういう運動にはならなかった。
 この時、SEALDsの学生も、そうでない学生も、15年安保の時の運動をしたいという学生は、SNS、ユーチューブ、これは非常に便利なもので、一生懸命彼らを見て学ぼうとしていたということがあります。それで山﨑プロジェクトの集会に行ってみたいという学生もいました。そういうようなことが、2014年、15年、16年くらいです。
 ちょっと話を戻しますと、さきほど福井先生が、教科書に60年代の安保闘争等の歴史がどう書かれているかについてお話があり、僕はすごく勉強になったんですけれども、今年の慶應義塾大学商学部の日本史の入試問題に、「全学連を11文字で正式名称で答えなさい」という、どういう人が出題したのか分からないんですけれども、そういう出題がありました。これは調べればすぐ出てきます。一つ思ったのは、これは完全に歴史、史実だなと。歴史を暗記するように「全日本学生自治会総連合」、確かに11文字です。これを暗記してしまうというような覚え方でいいのかな、というのをその時思いました。日本の近現代史の運動について、本当に自分のこととして、単に暗記的に覚えるではなくて、社会と向き合う上でそれはどういう意味を成したものなのかということをしっかり考えなければならない、ということを思いながら、その出題がいいかどうか疑問には思いますけれど、すごく考えさせられました。15年安保が終わってから、学生さんの動きが若干大人しくなります。というのは、大きなテーマが少し薄らでしまった。
 少し飛びますけれど、2018年に学生が高等教育無償化要求、奨学金拡充を求める運動というのが、少しずつ広がろうとしています。1960年代というと、4年制の大学進学率が10%前半くらいだったと記憶しています。一方、2010年代になると55%を超える時代になって、本当に様々な学生がキャンパスで学ぶようになりました。様々というのは、いろんな意味があります。学力的な様々であったり、経済的に様々であったり、本当にいろんな層が大学に来るようになった中で、「学費が耐えられない」というような意見が学生から起こるようになり、それに対して、文科省の一部の中にも、それから各大学の中にも、「授業料を何とかしないといけないよね」という話が出てきます。ちなみに青山学院大学の文系を調べたんですけれども、もちろん今と比較するのは難しいですが、1967年は184,800円が、1977年に50万円、1996年になると100万円を超して、2024年は141万円になりました。かなり今、学生さんは大変な思いをしながら大学に通っています。
 実は、今日何人か学生さんを呼んだんですが、今の学生さん大変真面目で、「授業をさぼるわけにはいかない」と。これはまた別の言い方があって、大学の授業が非常に厳しくなっている、出欠管理が厳しくなっているということもあって、「難しいよね」という話になって、1人も学生を呼べなくて情けないなという思いをしております。
 2019年、マーク・ラッドさん(元米コロンビア大学闘争リーダー)が「山﨑プロジェクト」の招きで来日して、山本義隆さんなどと鼎談をした年です。実は私は1週間ほど前に、アメリカのニューヨークに仕事で行ってきました。20何年ぶりかにコロンビア大学に行ってきました。パレスチナへの連帯の学生を応援するために、何かできないかと思ってコロンビア大学に行ってきました。今年の春、コロンビア大学では、逮捕者を出したり、学生さんが相当激しい運動を行っていました。それを応援したいと思ったのですが、コロンビア大学というのは、ニューヨークの地下鉄の駅を降りて、すぐ正門なんです。地下鉄を上がって大学に入ろうかなと思ったら、青いテントでニューヨーク市警の制服警官がたくさんいて、「えっつ!」と思ったのは、コロンビア大学に入るために、学生証のチェックを求められる。部外者は入れなかったです。私は「観光客だから入れてくれ」と何度も言ったんだけれど、「今はこういうご時世だから駄目だ」ということで、結局コロンビア大学に入れないという状況で、日本に戻ってきました。
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 話を戻します。マーク・ラッドさんが日本に来られた2019年はコロナの1年前になります。この時、世界的に気候温暖化を抑止する政策を求める運動が広がります。スウェーデンのグレタさんという少女が始めた運動が、世界中に広がります。これは金曜日に行動を起こすということで「Fridays For Future」というグループが出来上がります。すぐに日本にも伝わりました。「Fridays For Future」ジャパン、東京、京都ということで学生に広がっていきます。こちらもミッション系の大学が多かったのと、留学生の多い大学が多かったのと、それから帰国子女が入学する大学が多かったということで、国立大学よりも、どちらかと言うと上智大学とかICUとか青山学院とか、そういう学生さんが、気候変動対策を求める集会、デモに参加するようになります。
 2020年になると、「山﨑プロジェクト」では『きみが死んだあとで』の上映・トークの会を開きます。6月の集会はコロナで中止となっています。2020年のコロナの時の大学の状況というのは、ほぼオンライン授業になったことによって、キャンパスはガラーンとした状態になりました。これに対して、かなり多くの大学の学生が怒ります、「学費を返せ」と。
 「対面授業とオンライン授業は全然違うじゃないか。実習費はどうなんだ」ということで、大学側に授業料の一部返還を求める、そういった署名活動や運動が起こりますが、免除した大学がいくつかあったり、あるいは奨学金を出すという大学がいくつかあったんですけれども、それほど学生の要求に応えるというところまでは大学は出来ませんでした。
 2021年、10月の東京集会で「ベトナム反戦から、福島の今へ」、関西集会で「あらゆる戦争をなくすために」をテーマに開催。この年、名古屋入管でスリランカのウイシュマさんが亡くなったことによって、日本にいる外国人の管理、在留管理の問題が問われ、入管法改正に反対する学生が集会、デモを行います。このあたりから「山﨑プロジェクト」の集会に学生さんをできるだけ多く呼ぶようになって、できれば登壇をしてもらってということを、2021年、22年あたりからお手伝いしました。
2022年、コロナが明けて東京集会、関西集会が行われ、ロシアによるウクライナ侵攻で、大学の学長が学長声明でロシア批判をさかんにするんですよね。これは調べたんですが、ベトナム戦争の時は、アメリカを批判する学長声明というのは聞いたことがなかった。これは何なんだろうと思いながら、これは日本の政権、そしてアメリカとの繋がりなんだろうなと。学生グループの一部がロシア大使館に抗議するという、そんな動きがありました。
 2023年、関西集会では「今、沖縄を考える」というテーマで開催。東京集会では『怒りをうたえ』の上映があり、私が立教大学と明治学院大学、慶応義塾大学の学生さんに声を掛けて前で語ってもらいました。この時の話というのが、「山﨑プロジェクト」、それからベトナム反戦運動と今の戦争反対の運動とどう繋がるのかというトークでした。
 当時の明治学院大学と慶應義塾大学の学生さんの発言ですが、明治学院の学生さんは、当時19、20歳ですが、その立場から「自分は一番山﨑さんと年齢が近い人間だけれども、正直申し上げて、私はまだ生まれていなかったので、本当に歴史的事実という捉え方をしています」。さきほどの日本史の入試問題と割とリンクするような話になります。「僕は日本史で大学を受験したので日本史を勉強していたのですけれども、幕末の志士だとか、そういった中で、19歳とか20歳で亡くなった方を見ると、自分と似たような歳の人が、こんな活躍をして、こういう風に若くして亡くなった人がいるんだという感じを受け、ある意味で衝撃を受けたけれども、山﨑さんの話を初めて聞いた時にもそういう衝撃を受けた」。これはいろんな捉え方が出来ると思いますけれども、19歳の明治学院の学生さんが、『怒りをうたえ』、それから山﨑さんの映画も観てもらったと思います。彼からすると、幕末の志士の10代後半と、山﨑さんの18歳というが、やっぱり重なって見えてしまう。それは日本史の幕末の歴史と、60年代の日本史の歴史、福井さん、羽田闘争って教科書に出ていないよね。

福井紳一さん
出ていない。

小林哲夫さん
 僕は羽田闘争は是非教科書に載せるべきだと思っていますけれども、歴史を知る場合は教科書、教育の中でということになりますので、初めて羽田闘争、山﨑さんの存在を知ったということで、10代の若い学生が、大昔の話と50年前の話と、それが重なり合って見てしまったという捉え方を、何でそんな見方をするんだという言い方もできますけれども、それは学生の素直な見方なのかな、という風にも思いました。こうしたところは、今回の「ウクライナ、パレスチナに連帯する若者たちから見た10・8ベトナム反戦運動」、つまり、戦争反対を訴える高校生、大学生から見た10・8羽田闘争を見る、一つの捉え方なのかなという気がしてなりません。
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 もう一つ、慶応義塾大学の女子学生さんが、結構面白いことを言っていました。今の大学生が、政治的、社会的な発言をすると、それに対して、ネットでよく言われている「思想が強い」という言葉で、半ば揶揄されて言われてしまう傾向があります。
 「『思想が強い』背景には、やっぱり政治に何か意見するとなると、ヘルメットやゲバ棒などの力でとか、そういうイメージが漠然とある。ない人はいないと思っていて、実際に学生運動というのを知らない中高生が一定数いて、その人たちの中にもヘルメットのイメージ、力でというイメージがあって、それに対するタブー感とか敬遠する感じがある。なので、この運動の歴史というのを、より細分化して、分かりやすく子どもたちにも理解してもらって、デモという行為自体がそんなに危ないものじゃないんだということを広めたくって、運動の歴史的なものを、本当に野望なんですけれども、岩波ジュニア文庫あたりでまとめて、子どもたちに分かりやすく広めるみたいなことを、いずれはやってみたい」
要するに、羽田闘争等の運動を、岩波ジュニア文庫で分かりやすく解きほぐして、若い人に読んでもらいたいというのが、慶応の学生さんの考え方でした。
 まとめに入ります。僕が「山﨑プロジェクト」をお手伝いするようになって、少し関わるようになって、できる限り学生さんにこのプロジェクトのこと、山﨑さんのことを知って欲しいという思いが強くあり、それが学生さんにこういうことがあったんだよ、それはこれまで小中高、受験でもなかなか教わらなかったことだけど、これは学んでね。もし、今運動に取り組んでいるのであれば、こういう運動があったということについても是非知って欲しい。それが昔のように石や火炎瓶を投げるのかという話になると、また別になってしまいますけれど、何でそういうことになったのか。これも一度「山﨑プロジェクト」の議論の中であったんですけれども、大学生からの質問で、「誰に向かって何で石を投げたのか」ということに対して、石を投げた当事者が、今の学生にどう答えたらいいのか、それは国家権力という暴力装置に対するアクションである。いろんな学生さんに対する答え方があると思います。やはり今の学生さんあるいはこれからの学生さんが、こうした運動を見る時に、何故路上で、街頭でああいう激しい運動になったのかということを、彼らからするとやはり知りたんですよね。怖いんだけれど、すごく知りたくて知りたくてしょうがない。そこを少しでも何か、知りたいということと、伝えたいということが、うまくマッチングできる場が、機会がこれからもあればいいなと思いながら、「戦争反対を訴える若者から見た10・8ベトナム反戦運動」ということについて、これからもどういう風に伝えていったらいいか考えていきたいと思っています。
以上です。ありがとうございました。(拍手)

【質疑応答】
佐々木幹郎さん
どうもありがとうございました。今のお2人の報告に対して、質疑応答の時間を取りたいと思います。
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質問者A
 佐々木さんに対する質問になります。このプロジェクトが、何故そういう成果が出来たのか。佐々木さんから、何故、どういう風にプロジェクトを作ろうとして、その中でどのような問題にぶつかって、どのようにやって来たのか、ということを話してもらいたい。

佐々木幹郎さん
 このプロジェクトは1ケ月に1回、発起人会議をやっています。この前の会議で話題になったんですけれども、このプロジェクトを続けてきて、「このプロジェクトは何か」を一言で言えば、「存在している」ということがものすごく大きな意義を持っている、という発言がありました。そういうプロジェクトになったということを、まず確かめておきたいと思います。「ああ、そうだったんだな」と僕も思います。
 このプロジェクトが始まった時の最初のきっかけは、山﨑建夫さんからのお手紙でした。「もう少ししたら50周年になるんだけれども、何かそれを記念するようなことができないだろうか」と。もちろん建夫さんは、かつての三派全学連や、山﨑が属していた中核派、それから大手前高校の同級生や同期生、京大時代の友達とか、直接的な知り合いはありませんでした。ただ、わたしが山﨑の死後、彼を追悼する詩集『死者の鞭』を出して、建夫さんのところに送ったことがありました。そのことを記憶しておられて、僕にまずお手紙をくださったんです。「何かしていただくことはできないだろうか」と。「自分はそのことを誰に言われたかというと、水戸喜世子さんから、山﨑建夫さんから声を掛けて何かをするべきではないか、という風な手紙を貰って、自分もそう思うから、まず佐々木さんに連絡した」。そういう手紙を貰いました。
 わたし自身、山﨑とは高校2年生の時の同級生でしたし、山﨑博昭をデモに誘ったりしたのもわたしでしたので、即座に「何でもします」と答えて引き受けました。
 その時に考えたことで、一番面倒くさかったのは、対中核派対策でした。中核派が潰しにくるかもしれないということでした。中核派は山﨑博昭が死んだ後、そしてその後、羽田闘争の死者を追悼するとか、あるいは顕彰するとか、そういうことは一切していません。それを別の人間たちが中心になって動き出した時に、どのように対応してくるか。潰しに来た場合、これをいかに止めるか、ということをまず考えなくてはいけなかった。最終的には、山﨑建夫さんが代表ということで、何も起こらなかったので良かったのですが。
 それから、弁天橋の近くにモニュメント(追悼碑)を作りたいんだけれども、その土地をどうするのか。これを探すのに、3年ほどの長い時間がかかりました。プロジェクトに集まった人の中で不動産業をしておられる方がいて、熱心に土地探しをしてくださいました。地元の漁業組合のお祭りにも参加し、そしていろんな人と知り合いになって、候補地を10数ケ所探したんです。最後に、全部駄目だったらうちが引き受けるというお寺さんがあったんですが、それが元日大全共闘に関係していた住職さんがおられたお寺だったんですけれども、最後の頼みにしていたんですが、その住職さんが突然亡くなられて、息子の代になってから、そこの総代が大反対。「そんなややこしいものを建ててもらっては困る」という感じで、そのお寺が駄目になりました。
 それで一からまたお寺を回って、まったく奇跡的です、今の福泉寺に決まったのは。福泉寺のご住職、女性の方ですが、10・8の当日、逃げ込んできた学生たちを匿って下さったんですね。そういうことがあるので、特殊な墓のデザインだと駄目だけれど、今日皆さんが参加して下さったように、他の墓石と同じカタチならいい、と言われました。ただ、墓石名は山﨑博昭だけにしました。山﨑と高校時代の同級生の書道家に書いてもらった金文(きんぶん)書体の「山﨑博昭」の名前だけ。そしてその手前に墓誌として「反戦の碑」を造ることにしました。「そういうカタチだったらOKだ」と許可が出たのです。本当に最後の最後、奇跡としか言いようがなかったですね。涙が出るほど嬉しかったです。それが見つからない時は、最後は水戸喜世子さんが「私が弁天橋の近くに移り住む」とまでおっしゃって。「大阪の高槻のいま住んでいるマンションを売って、私が羽田の土地を買って、そこの前にモニュメントを造る」ということまでおっしゃって。そこまで水戸さんにご迷惑をかけることは出来ないと、発起人会の出席者全員で感謝を伝えるとともに思い止まっていただきました。

 動きそのものは、一つ一つの小さなアイディアやそれへの呼応の中から生まれます。わたしたちは何をすべきなのか、どういう風に山﨑博昭を顕彰するか、そして彼が死んだことを忘れない、そして今もあの時のまま全世界の戦争に反対する、この単純なことを言い続ける、そのことだけを続けるためにはどうしたらいいのか、本当にシンプルにシンプルに考え続けました。そのたびに、さきほども言いましたように、外側からアイディアが生まれてきて、それに呼応して動きが広がってきたのです。

 例えばベトナムの問題でも、現在のハノイを中心とするベトナムが、いかにサイゴン(現在のホーチミン)の人たちをイジメているか、そしてホーチミンの人たちは北ベトナムやハノイが大嫌いだと公言していました。戦争証跡博物館のヴァン館長もそうでした。実際に行かないと、そのことは見えてきません。そういう複雑な問題を捉えるために、中野亜里先生(大東文化大学教授)の過去から現在までのベトナムの現状報告会、講演会をやってもらう、ということもやりました。中野亜里先生の場合は、熱心に講演をやって下さったんですけれども、それが最後の講演になって、1ケ月後にお亡くなりになりました。たぶん彼女が一番現在のベトナムについて、公平な見方で考えてこられた唯一の人だと思います。
 早稲田大学のベトナム史学者として有名な教授に、まだホーチミンの戦争証跡博物館とうまくコンタクトが取れなかった時期なんですけれども、山本さん辻さんと3人で一緒にベトナムについていろいろとお話を伺いに行ったことがあります。えげつない人でしたね、「自分に一定の資金をくれたら、向こうに事務所を作って、全部コーディネートしてやる」と。その資金の額は目が飛び出るような額でした。そういう扱い方をされて、疲れて帰ってきたことがあります。この人にはもう頼めない。こういう人が日本の知識人としてベトナムについての権威者となっているようじゃ、もうどうしようもないという感じで。我々は一からやり直そうと思いました。つまり、われわれ自身で実際に行ってみることから始めようと。そのときはそういうふうに思い定めたことを覚えています。

質問者A
はい。この運動は山本さんが参加してくれてこそ、だったと思うんです。山本さんから話してもらいたい。

佐々木幹郎さん
山本さんには閉会の挨拶で話していただきましょう。
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質問者B
 福井さんの話を聴いていて、ちゃんとしたことを言う人がいるんだと感心して聴いていました。日本という国が明治維新以来、戦後に至るまでアジアに対して加害者であったということが基本だと思うんですけれども、東京で市民運動をやっている方々の話を聞いても、そのことをまるで分っていない人がたくさんいる。40代、50代、60代の高齢者です。
その人たちに、どう働きかけていったらいいのか、アイディアを伺いたい。
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福井紳一さん
 結構難しい話だという気がします。この30年くらいは、日本の近現代史は大学の受験でもかなりやっているんですけれども、僕らの世代だと、ほとんどやっていなかったんですね。
 社会の中枢にいるような人たち、同世代であったりするけれども、極めていろんなことを詳しく社会的に発言したりしている人もいるんだけれども、歴史観については、ぎょっとするくらい抜けているというのは事実ですね。そういう人たちは、ネットで見たり、本屋にある歴史修正主義みたいな本をパッパッと読んで喋ってしまうという、そういう傾向があって、ただ、現代においても、戦後の歴史に関しては、今の若い世代も似たような状態かな。
 そういう人たちには、丁寧に言うしかないですよね。基本的事実はどうなのか、相手はどう認識しているのかということを逆に聞いて、「それは歴史的事実とちょっと違うんじゃないですか」と丁寧に話していくしかないんじゃないかな。本当にそう思います。
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質問者C
 僕は学生です。今日は呼ばれてもいないのに、授業をサボッてきました。(拍手)質問というよりは、自分は19歳で山﨑さんが亡くなられた歳より一つ上くらいですけれども、自分は10・8闘争や当時の運動をどう見ているのか、という話です。
 小林さんの話の中で、明治学院大の学生の話がありましたが、山﨑さんが亡くなった、社会運動の中で人が亡くなるというのは、歴史的事実であって身近なものではないということを言っていますが、自分は違うことを思っています。
 昨日、10月7日のパレスチナ蜂起から1年ということで、イスラエル大使館前で抗議行動があって行ったんですけれども、だいぶ離れたところに抗議スペースがあって、大使館の前には直接抗議に行けないような状況でしたが、機動隊に盾で突き飛ばされて、そういう中で死ぬんじゃないか、死ぬまでにいかなくても大怪我を負わされるんじゃないかと感じることがありました。
 慶應義塾大学の学生の話の中で、社会運動が暴力と結びついてしまうのが良くないんじゃないかという話がされていると思うんですけれども、でも、僕は暴力というものを社会運動から消し去ってしまうのは良くないんじゃないかと思って、やっぱり国家というのは暴力を持っているわけじゃないですか。向こうはイスラエル大使館を守るために、怒りの声を上げる人たちを暴力によって離れた場所に持って行く。こちら側が暴力を完全に捨ててしまったら、国家が一方的に持っている暴力を好き放題にできるわけじゃないですか。その扱い方というのは慎重に考えていかなければいけないことだと思うけれど、暴力が社会運動の衰退を招いたと考えるんじゃなくて、国家とかの持っている暴力に対抗するために、私たちの側の暴力のあり方を考えることは必要なんじゃないかと思っています。(拍手)

佐々木幹郎さん
素晴らしい話だと思いました。50何年前の山﨑の話を聞いているみたいでした。山﨑も、貴方みたいに本当に大人しい穏やかな話し方をしていて、懐かしく聴きました。ありがとうございました。

(休憩)

新田克己さん(山﨑プロジェクト関西運営委員会)
10月26日の関西集会「今こそあらゆる戦争をなくすために」の案内がありました。
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佐々木幹郎さん
会場カンパは合計16,880円でした。書籍売り上げからのカンパが19,500円でした。どうもありがとうございました。

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【閉会挨拶】
山本義隆さん(発起人:元東大全共闘代表、科学史家)
 閉会の挨拶を予定していた辻君は、明日国会が解散するらしくて、とてもここに来られる状態ではないみたいで、代わりに挨拶させていただきます。山本です。
 資料を配りましたが、今までのチラシを全部集めて作りました。あれを見ていただいたら分かるように、この10年間にずいぶん多くの方に講演していただいているわけです。さっき佐々木君の方から、ベトナム研究者の中野亜里先生のことが語られましたけれども、それと関西で日本のかつての朝鮮侵略について講演していただいた中塚明先生(奈良女子大学名誉教授)、それからJATECの高橋武智さん、この方は立教大の先生をしておられたんだけれども、脱走米兵の逃走ルートを作るために大学を辞めて、ヨーロパに渡って、フランスの地下組織と連絡を取って脱走兵を日本から脱出させたという、そういう方です。そのお三方は亡くなられました。改めてご冥福を祈らせていただきます。
 10年長くやってきて、いろんなことがありました。先ほどの質問の件ですが、印象に残るのはたくさんありますけれど、さっきのベトナムでの展示は最も印象に残っています。その件について、佐々木君たちがベトナムに行って、元々はベトナムのホーチミン市の戦争証跡博物館に山﨑君のことについて常設展示をしてもらいたということをお願いしに行ったわけですが、日本にそんな闘争があったのか、知らなかった、それならいっそのこと展示会をしたらどうですか、と博物館の館長さんから言われて、それで僕はその報告を聞いて、「これはすごい」と思ったんですね。それで試みに一つパネルを作ったんですよ。一番初めに作ったのが、京大新聞が出した号外です。それでパネルを作って発起人会議に持ってきて、壁に置いておいて、佐々木君に「国内で展示会できんやろうかな」と言ったら、彼が「日本で先にやる? そんなこと思いもつかなかった」と言ったのを覚えています。僕はその時は出来ないと思っていたんですよ。何故かと言うと場所がないから。ギャラリー借りたら1日10万はかかります。1週間やったら100万近くかかります。「やったらおもしろいな」と思いながら「ギャラリ-がない」と言ったら、救援連絡センターの山中幸男さんが「あるよ」と言うので「えっ!」と思いました。救援連絡センターで時々使っている上野のギャラリ-があったので、オーナーさんのご厚意で、無料で使わせてもらいました。
 そこで1週間やって評判もよかったので、関西でも出来ないかという話になり、いろいろ検討して、京都精華大学で1週間展示会をやることができたのです。こちらはものすごく広い会場でした。これはやりがいがありましたけれど、京都の場合には、その間授業もあったから、1週間に2回ほど東京と往復しました。皆でよってたかって朝から晩までワーワーやる、それで気分が昔バリケードの中でやっていたことを思い出したんですよ。楽しかったです、はっきり言って。僕はその2つのギャラリ-での展示会は、元々はホーチミン市でやる展示会の準備くらいに思っていたんですけれども、やってみて、本当にバリケードの中で皆でよってたかってワーワー言いながら、まる1日かかって、あるいは何日もかかって作業をするという、その当時の気分を思い出して、何十年ぶりかでそういうことを経験し直して、あれは僕にとっては嬉しかったです。それでホーチミン市まで乗りこんで行くことが出来ました。
ホーチミン市には約280点の展示物を持って行きました。ただ、準備過程でこの企画に途中から通訳として参加して現地にいた大谷行雄君から「展示物のリストを送ってくれ」と言われて、準備過程のリストを送って、ホーチミン市人民委員会がそれで許可したわけです。それでそのリストの3倍くらいの展示物を持って行ったら、館長さんがいれば柔軟な対応をしてくれたと思うんですけれども、館長不在でナンバー2の役人が、その許可したものしか展示させないと言うわけです。だから、結局全部は展示できなかった。スペースの関係もあるんですけれども。山﨑君の写真はそのリストに入っていなかったけれども、さすがに最後は入れてくれました。展示会は好評で当初の予定よりかなり延長してくれました。戦争証跡博物館にはものすごい数の人が来ているんですよ。日々平均2,000人。それも西洋人が多いのが目立っていました。たぶんアメリカ人なんだろうな。年間70万人が来ると言うんですよ。そこで2ケ月半展示会をすることが出来て、本当に僕はやりがいがあったと思います。このプロジェクトをやっていて、本当に良かったと思います。それまで日本のベトナム反戦闘争は、日本共産党かベ平連のものくらいしか知られていなかったようで、館の人も認識を改めたと思います。
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 ついでに言っておきますと、さっき早稲田大学教授の話が出てきましたけれど、ベトナムのことについて何か役立つことが聞けるかと思って、事前に相談に行ったわけですよ。彼が何を言ったかというと「ベトナムの人は何もやってくれないぞ。最低1,500万用意しろ」と言ったのです。確かに官僚的でお役所仕事のところもありますけれど、博物館の人たちは私たちに対してものすごく親切にしてくれました。オープニングの時に大勢で行って、全員に昼食を出してくれるんですよ。その上さらに、かつてベトコンの容疑で南ベトナム政府サイゴン政権によって長期に投獄されていた人の談話会まで設定してくれました。予想もしていなかったことです。最大限の歓迎をしてくれたと思います。その早稲田の先生の話に戻ると、民主党の菅直人が3・11の直前までベトナムに原発を売り込んでいるんですが、僕がその過程を追っていたら、何とハノイのベトナム政府と菅直人を繋いだのが彼なんですよ。大学の先生が何をやっているんだか、あきれ果てました。
 僕自身は直接には辻君と佐々木君に誘われてこのプロジェクトに加わりましたが、実はそれ以前に水戸喜世子さんから、ぶ厚い手紙を貰っていたんです。水戸さん御夫妻は、10・8の直後に羽田救援会を作ったというので、僕はすぐ田無の御自宅まで伺ってお手伝いをしていたんです。そういう関係で、その前に水戸巌さんとは物理学会の米軍資金問題で親しくしていたし、尊敬していた人ですけれども、その水戸喜世子さんから、これこれこういう運動をするから是非一緒にやってくれんか、という手紙を貰っていたんです。その手紙を貰ってちょっとしてから、佐々木君と辻君から「やろう」と言われて、一緒にやることになりました。この10年、やってきて本当に良かったと僕は思っています。
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 それで、さっき佐々木君の話にありましたけれど、プロジェクトの基本軸は「戦争に反対する」ということだと思います。そういうことから見て、今の世界というのは、ものすごく危険な状態になっていると思っています。それはもちろん中東情勢もそうです。それから日本もそうなんですよ。南西諸島に自衛隊を派遣して、どんどん増強させて、米軍との共同軍事演習という形で挑発行為をやっているわけですよ。平和憲法を持つ日本は、本来は米国と中国の間に立って緊張緩和の外交努力をしなければならないのに、米国と一体となって緊張を高めているわけです。それで日本国内では、一部のマスメディアは排外的な言動をしている。
 1937年7月7日に、一発の銃声で、8年間にわたる日中戦争が始まっているわけです。始まりは本当にハプニングですよ。それが何であんな大ごとになったかというと、単純なことです。日本が中国大陸に大量の軍隊を派遣していて、演習という形でさかんに挑発行為をやっていて、満州事変からちょっと後で、満州事変の後、中国の中では抗日運動が激しくなっていたのです。それに対して、当時日本のマスメディアなどがすごく排外主義的な言動をしていた。そこで一発の銃声があったら、好戦的な軍が待ち構えていたこともあり、それだけであれだけの大ごとになるわけですよ。そういう風に考えたら、今南西諸島にあれだけ軍隊を派遣して、挑発行為をやって、一部のマスメディアは排外主義的な言動をしているということがあり、本当にアクシデントがあれば、ささいな事でも偶発事故から、何が起こるかわからんです。僕はそういう危機感を持っています。特に日本の国内情勢は危険なことになっています。
 それからもう一つ思ったのは、この間の自民党の総裁選で候補者9人全員が「憲法を改正する」と言っていることです。特にその中の一人、河野太郎が何を言っているかというと「原子力潜水艦を保有したい」と。総裁選に立候補するにあたっての公約ですよ。びっくりした。
 原子力潜水艦は何のためにあるかというと、長期間にわたって潜水して行けるから、敵から所在を突き止められないわけです。だから、あれは最高の核弾頭ミサイルの発射基地なんです。最大の利用価値はそれなんですよ、どこにいるのかわからない。その他の陸上のミサイル発射基地は全部わかっているわけですが、原潜だけは居場所がつかめない。極端なことを言うと、お互いに戦争になって潰し合いをしたら何が残るのかと言うと、原子力潜水艦の発射基地が残るわけです。それがアメリカの核戦略の革命だったわけです。原子力潜水艦が太平洋と大西洋をうろつき回っている。最後は原子力潜水艦を持っている国が勝つという、恐ろしいストーリ-なんですね。そのためのものが原子力潜水艦なんです。それを日本の閣僚で有力政治家が「持ちたい」なんて言ったら、牙を抜かれて政府の広報紙みたいになった日本のマスコミは何も言わないけれど、アジアの国の物事をわかっている政治家なり軍人がその話を聞いたら、「日本はそのうち核武装をする気なんだな」と当然考えます。そうでなければ、あんな高価な玩具を持つわけないですよ。僕は原子力潜水艦というのはそういう風に理解しています。たぶん間違っていないと思います。
 だから、そういう状態に今なっているんだ、すごく危険な状態にあるのだということです。我々「10・8山﨑博昭プロジェクト」を10年やってきて、毎月月命日に集まって、関西でも集会をやっています。さしあたって現在、それ以外のことは決まっていませんけれども、今後とも「戦争に反対する」というメッセージは発信していきたいと思っております。皆さん、今後ともよろしくお願いします。(拍手)

佐々木幹郎さん
どうもありがとうございました。今日の集会はこれで終わります。

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【謝罪文】
本年10月8日に行われた「10・8山﨑博昭プロジェクト10周年集会」に於いて、福井紳一氏の一部の発言に対して、わたしは「補足」するという意図であったにも関わらず「今ここで言わないと歴史が偽造されたものに終わります」とコメントをしました。しかし、「歴史の偽造」とは、歴史家に対しての誹謗中傷に等しく、許されるべきものではありません。福井氏の名誉を毀損したことになります。「歴史の偽造」という言葉を撤回し、福井氏に謝罪いたします。御迷惑をおかけしたことを深く詫びいたします。わたし自身の真意は、福井氏の発言への「補足」という表現で、当該発言を加筆・修正しています。そのことをお含みの上で、「10・8山﨑博昭プロジェクト10周年集会」のテキストをお読みいただけると幸いです。(佐々木幹郎)

(終)

【『新左翼・過激派全書』の紹介】
ー1968年以降から現在までー
好評につき重版決定!
有坂賢吾著 定価4,9500円(税込み)
作品社 2024年10月31日刊行

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(作品社サイトより)
かつて盛んであった学生運動と過激派セクト。
【内容】
中核派、革マル派、ブント、解放派、連合赤軍……って何?
かつて、盛んであった、学生運動と過激な運動。本書は、詳細にもろもろ党派ごとに紹介する書籍である。あるセクトがいつ結成され、どうして分裂し、その後、どう改称し・消滅していったのか。「運動」など全く経験したことがない1991年(平成)生まれの視点から収集された次世代への歴史と記憶(アーカイブ)である。
貴重な資料を駆使し解説する決定版
ココでしか見られない口絵+写真+資料、数百点以上収録
《本書の特徴》
・あくまでも平成生まれの、どの組織ともしがらみがない著者の立場からの記述。
・「総合的、俯瞰的」新左翼党派の基本的な情報を完全収録。
・また著者のこだわりとして、写真や図版を多く用い、機関紙誌についても題字や書影など視覚的な史料を豊富に掲載することにも重きを置いた。
・さらに主要な声明や規約などもなるべく収録し、資料集としての機能も持たせようと試みた。
・もちろん貴重なヘルメット、図版なども大々的に収録!

「模索舎」のリンクはこちらです。
https://mosakusha.com/?p=9289

【『パレスチナ解放闘争史』の紹介】
重信房子さんの新刊本です!好評につき三刷!
『パレスチナ解放闘争史』(作品社)2024年3月19日刊行
本体:3600円(税別)

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「模索舎」のリンクはこちらです。
  
なぜジェノサイドを止められないのか? 
因縁の歴史を丁寧にさかのぼり占領と抵抗の歴史を読み解く。
獄中で綴られた、圧政と抵抗のパレスチナ現代史。
ガザの決起と、全世界注視の中で続くジェノサイド。
【内容目次】
第一部 アラブの目覚め――パレスチナ解放闘争へ(1916年~1994年)
第二部 オスロ合意――ジェノサイドに抗して(1994年~2024年)

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在16校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は12月13日(金)に更新予定です。