今回のブログは、「雑誌で読むあの時代」シリーズとして、『朝日ジャーナル』(1971年3月26)に掲載された「“学生階級”―その今日的構造 第1回」を掲載する。
「学生階級」ということについての連載記事であるが、第1回は朝日ジャーナル編集部による何人かの学生へのインタビューで構成されている。
70年安保闘争が終わり、各大学からバリケードが姿を消した時代。当時の学生たちの考えや心情はどうだったのか、ある程度読み取れると思う。
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【朝日ジャーナル 1971年3月26日】
“学生階級”―その今日的構造 第1回
廃墟の中の安逸―模索の春、北から南からー

「法と秩序」がキャンパスに回復されて以来、大学問題は治安対策の緊急課題ではなくなったようです。だが“学生階級”に属する青年は、何やら得体の知れないエネルギーを秘めているだけに、相変らず無気味な存在と見られています。今日の大学生が自己を社会的にどう規定しているかをさぐるために、新連載の題をぶっつけ、「あなたは“学生階級”について、どうお考えですか」とたずねてみました。

実に早いものです。"大学革命"の炎が全国的に燃えさかった昭和43年当時、まだ新入生だった学生たちが、この4月から最上級学年に進級します。
年年歳歳花相似 歳歳年年人不同
年度の代り目によく引用される陳腐な文句が、近ごろの大学では一種独特の感懐をこめて受取られていることでしょう。
大学改革の掛声があれほどかまびすしかったのに、実際のところ大学では何事も変らず、ただ年ごとに学生だけが確実に入替ってゆきます。こうして、石と棍棒の記憶を共有する者は、たいていの大学で四分の一の少数勢力となりました。
とくに教養課程のキャンパスが切離されている場合、咋年春からアプレゲール(戦後派)の学生で占められ、大学紛争の経験は歴史と伝説の中に消え去ろうとさえしています。ほとんどの大学にとって、もはや紛争後ではないーーというのが適切でしよう。
しかし、間もなく入学する新人生が、あの腰くだけに終った大学革命の古戦場をたずねようとすれば、あたりを見回すだけで十分です。入学試験を受けたこの教室に、まさしくバリケードが築かれ、その窓から火炎びんが投げつけられたのでした。
もちろん、大学の旧休制をゆさぶった内乱と干渉戦争の痕跡を見つけるのは、今となってはかなり困難かも知れません。壁に落書きされた呪詛の文字は、ベンキを吹きつけられて、ほとんど消えかかっています。
ひところ、大学の自治とは何かと問われた時に、大学は公会堂などの公共施設の管理と同じようなものだとする造営物説がとなえられました。この文部省好みの理論にしたがえば、封鎖を物理的な力で排除し、破壊された建物を修復して、管理が行届くようになれば、瀕死の大学はよみがえって、めでたし、めでたしとなるはずです。
ところが、大学の建物が外観と内装だけは立派に再建されたようでも、アカデミズムの牙城の内実は相変らず廃墟のままで、そこには退廃の空気がみなぎっているといっても、それほど的はずれではないでしょう。邪教の信徒どもを聖なる伽藍から打払ったのに、祭り奉るべき肝心の本尊は、どうやら見失われてしまったようです(従来それをむやみにありがたがっただけで、もともとなかったのかも知れません)。
現在の学生たちーとりわけ紛争のあとで入学してきた層は、知的荒野の真只中にたたずんでいるかに見えます。あの革命に参加した者の中には、みずからを大学の棄民と任じて、学園から蒸発してしまった例も少なくはありません。
これまで学生はとかく "通過集団“と軽くあしらわれて、その分析がおろそかにされてきました。この不可思議な”階級“は、なかなか正体がとらえにくいものですが、外国の例を見るなら、古くは帝政ロシアの革命運動、中国の五四運動によるナショナリズムの目ざめ、この数年のことでは、アメリカのベトナム反戦キャンベーン、フランスの五月危機など、一国の歴史、政治、社会を動かすほどの力をもっています。日本については、この数年を振りかえれば、もぅ十分でしょう。

"階層"からの脱皮を
「ウーン、それは面白い。学生を特別な集団として見ようという着眼点はユニークだし、また有意義でしようね」というのは、清水秀二君。南山大学外国語学部の二年生。学生運動に関心はあっても、とくに積極的に動いたことはなく、新左冀の心情的な支持者といったところでしょう。大学については、期待もしていないし、失望もしていないそうです。
「ぼくは学生と社会人という分け方には反対で、学生も社会人だと思います。ただ社会人から半分はみ出した面を持っており、それがかえって社会に対して一定の影響力を持つ特別な集団として性格づけているのでしよう。いわゆる活動家については、何をやるにしても、先陣としての役剖を果す人たちが必要です。ぼくは先陣にはなれないが、ああいう人たちの運動は有効だと思います。もっとも、現在の新左翼の人たちは、先陣をうけたまわる役としては、ちょっと物足りない気はしますが……」
佐々木学君(名古屋大学理学部一年)は、学生“階層”から"階級"への発展を主張します。昨年春、名大に入学したころは、理学部共闘会議が出していたビラを配るのがもっぱらの仕事でしたが、その理共闘もいつの間にか消滅。しかし、問題はまだ解決していない、他にだれもやらなければ、自分ひとりだけでもやるーという意気込みで、ことしの1月「理学部問題をしつこく追及するグループ」を作りました。
現在は理学部のある教官が、暴力学生に試験を受けさせる必要はないとして、特定の学生に試験を拒否した事件を取上げて、ビラをはりまくっています。もっとも、このビラは公序良俗をみだすカドで、はるかたはしから破り去られていますが、いっこうにへこたれず、せっせとガリを切っているところです。
「浪人時代、あるデモに参加したら『マサニィ、ワレワレ浪人階級ワア、闘ワナケレパナラナィッ』ってアジってたやつがいて、すごくユーモラスな感じでしたが、その時のことを思い出します。もし、この"学生階級"という言葉が市民権を得たら、学生の意識も変るでしょうね。いままで、学生さんは大学にいる時だけあばれて、それでおしまいといわれてきました。でも、全国学園闘争を通じて、大学闘爭が単に学生運動で終らずに、その延長上で永続的に闘える階層が確実に現れてきていると思います。それが労働者階級とならんで、変革の主体として形成されたら、それこそが"学生階級“じゃないでしょうか。学生階層は"学生階級"に成長すべきだと思います。学生には労働者コンプレックスがあり、これを簡単に捨て去るのは、やはり思いあがりだと思います。しかし、逆に学生だからこそできることもあるでしょう。それを確認するのが、ぼくの悲願です」

シラけちゃうなあ
野村俊幸君(北海道大学経済学部三年)はベ平速の活動家、いっそう管理が強化されて、体制志向の強くなった大学に対する闘いをつづけるのだという意気ごみを失っていません。ただ、この階級論には条件つきです。
「学生階級ですか……。限定された範囲でね。というのは、学生である間は、徹底して"帝国大学"の体質解体を闘い、そのなかで人民としての潜在的闘争能力を身につけていくーーそんな限定つきの存在としてなら、学生階級とは一応いえるんじゃないでしょうかね」
野村君と同級生の匿名君、全共闘シンパですが、徹底したノンポリ、ノンアクション型と自称しています。
「学生階級っていうのは、エリート臭のする言葉だな。ぼくは早く一年たって卒業したいよ。卒業できるかって(笑う)。もうそろそろ、どこも入社試験がはじまるんです。おどかさないでよ。この間、経済学部で学生参加の学部長選挙がありましたが、そんな時に民青のヤツが教室に来て、あの教授はダメだとか、この教授がいいとか叫んでましたね。ぼくは、どっちでもいいんだ。民主的教授とか、民主的XX聞くと、とたんにシラけるんだなあ。ヤツらの心の裏には、まだ北大生の特権意識が残ってるんですね。学生階級なんて、まじめに取りあげるつもりなんですか。学生にはなじまない言葉じゃないかな。学生が自分たちのことを学生階?だなんて考えると"民主的XX"と同じくらいシラけるだろうね。少なくともぼくはそうですね」
宮越雅義君(名大教養部二年)は、ノンセクト・ラジカル。現在はしばらく休学して、どこかへふらっと遊びに行ってきたい心境だそうです。大学に対してはまったく幻想をいだいていないから、落ち着いて勉強する気にもなれず、かといって、いまさら大学を否定しようという運動をする気にもなれないといいます。
「はじめて聞く言葉ですね。学生に対して、そういうカテゴリーを作れるかどうか、ちょっと判断がつかない。それより、安保闘争をわれわれは階級闘争の一環として闘ったといいますが、本当に階級闘争だったかどうかを分析してみる必要があります。いまの高度資本主義社会では、階級という言葉自体がごまかされ、すごくあいまいなものになってしまっているでしょう。学生がプロレタリア階級の立場に立てないということは絶対ないと思うけど、そのプロレタリアー卜階級とはいったい何か、も一度把握してみる必要があります。ぼくら闘争をやっている時、学生はこれだけやっているのだから、労働者はもっとやってくれるだろうーという期待を持ったこともありますからね」
大阪大学工学部三回生のM君は、みずからをノンセクト・ラジカルくずれといい、機動隊による一撃で"階級意識"をいたくゆさぶられたようです。
「高校時代は受験勉強で、せまい世界にとじこもらされる。で、大学にはいってくる、そこには、いろんなヤツがいる。政治を叫んでいるヤツもいれば、芸術を語っているヤツもいる。大学は急に開けた広い世界といえるでしょう。しかし同時に、それまでのあまりにもせまかった世界を通過してきた自分自身の存在への危機感を感じさせられるようになります。疎外感といってもよいかな。その疎外感を、体制による疎外感ととらえるヤツは、感覚的な次元で階級意識をもっているといえるでしょうね。疎外感からの解放を、権力との緊張関係を作り出すことによって得ようとしたヤツは、街頭に出て機動隊と衝突した。オレも、そうだった。しかし、負けてみて、しょせんおれたちは少数派にすぎないということを、つくづく思い知らされたわけです。量的にも質的にも少数派なんです。だから、総体としての学生層が何をなし得るか?などという質問は、まったくナンセンスですね。それほど楽観的にはなれません。学生は一部に階級的に突出した部分を内包しながらも、全体として階級を形成していくことはあり得ないでしょう。どうしようもない状況だけど・・・」

感覚的でマスコミ的ね
もちろん、この"学生階級"論に対して、否定的な意見も少なくありません。10年ほど前に流布された"学生階層“説は、いまも広く信じられて、その影響はかなり浸透しているようです。
名大法学部二年のAさんは、代々木系全学連の支持者。現実的な問題から出発し、学生全体を組織していけるような方針を打出している全学連の運動こそが、もっとも建設的で正しいと主張し、大学解体などのスローガンをかかげた新左翼の運動は、重要な問題提起はしたが、結局、ひとりよがりの運動に終ったと批判します。
「明確な分析なしに、こんな言葉を使うなんて、いわゆる新左翼のカッコつきのラジカルをセンセーショナルな形で強調しようとしているみたいで、すごく感覚的でマスコミ的な言葉ね。たしかに、いまの学生は昔のようなエリー卜とは違って、数は多いし、また、政治的に敏感で状況を先取りする能力がありますから、社会全体の中で果す役割は大きいと思います。でも、先取りした状況を動かしていける基本的な力になるには、弱いですね。なんといっても直接生産にたずさわっていないだけに、プチプル的な要索がたくさんあります。卒業後は、管理者、職制になる人もいれば、ふつうの労働者になる人もいます。ですから、学生はそうしたまだ未分化な層、階層としてとらえるべきでしよう」
阪大法学部二回生Y君は、自称民族派。三島由紀夫の熱心な読者だそうで、代表民主制における学生の比重がとるにたらないことを指摘しています。
「学生がひとつの共通の基盤に立つ層を形成しているとは考えられませんね。まして、階級なんてとてもじゃないよ。現象的には学生の数も100万人を越えているらしいけど、たとえば、有権者数に占める割合なんてのも、まだまだ小さいですよ。選挙がすべてとは決して思わないけど、学生集団の政治有効性は無に等しいと思いますね」
森田徳君(静岡大学教養部二年)は、はじめ代々木系の学生大会にも出ていましたが、代々木系の運動方針に疑問を感じ、また新左翼系のビラを読んでいるうちに、彼らに共感を覚えて、デモなどにも積極的に参加するようになったといいます。しかし、どのセクトも大衆を単に自己の勢力の拡張としてしかとらえていないととを知るにつれて、セクトへの反発感を強め、静大でのセクトが壊滅した現在は、完全なアンチ・セクト主義者を任じています。
「階級?イヤな言葉だなあ。この言葉自体に何か権力的なにおいを感じる。ぼくはすべての権力に対して嫌悪感を抱いていますから『70年代の階級闘争』なんて表現に対しても反発するし、それを否定します。マルキシズムだって、権力思想でしょ。学生が一種特別な集団であることは肯定しますし、あるいは"学生階級"と規定できるかもしれませんが、そう規定してしまったら、そこから一歩も出られないのではないでしょうか。ぼくは学生をもっとアナーキーなものとして、とらえた方がいいと思います。運動のあり方にしても、永続的な欲望に根ざしたものもあるだろうし、パッと突出して、パッとつぶされてしまうものもあってもいい。ところで、ぼく自身の位置がいまどこにあるか、実はよくわからないのですが、それでいて未来を志向しているんです。なんとか69、70年の時とは違った運動、組織を作りたいと思っています。それが、また、ぼくがきらいなセクトと同じものになるかもしれませんが・・・」

ィンチキでマンガチック
吉田徹君(静大教養部二年)は、北富士の闘争にも参加し、現地での緊張した空気と、大学での死にそぅなほど退屈な日常性との差があまりにも大きいのにアホらしくなり、やはり学内での活動を重視しなければと、昨年5、6月ごろからクラス活動に比重をおきはじめています。
「やっばり労働者階級とか資本家階級とは違って、階級と呼べるものじゃないですねぇ。60年代の全共闘運動を通じて、一つ明らかになったことは、学生だけの闘争だったら何をやっても負けるということでしよう。生産点にいないということが決定的で、頭の中だけはラジカルになりやすく、またすぐ行動と一致させようとする。思想がどこまで自己のものになっているかつかめないままやる。
中には義理と人情の世界でやるのもいます。だから、学生の闘争は学生だけに終って、外への影響力は持てません。これからの運動は、労働者や地域住民と連結することが、絶対に必要でしょうね」
立命館大学産業社会学部三回生のS君は自称ノンポリ。立命館闘争では一貫して全共闘シンパでしたが、金共闘が後退の上に敗北した現在、「残っているのは消耗感だけ」と、いささか自嘲的です。
「ぼく自身、今は負い目にしか感じられないのだけど、学生の生活の基盤は実に甘いんですよね。バイトの口がゴロゴロ転がっているから、食うには困らない。
やりたいときにトーソーに出かけていって、ショーモーしたら、わき目もふらずに後退できるんだからね。ぼくだって、階級意識は待っているつもりです。しかし、それは実に薄っぺらで観念的なものでしかないと、痛感させられるんですよ。書物によって得た知識にしか過ぎないんですね。階級意識ではなくて、階級知識といったほうが良いのかな。友人ともよく話すんだけど、学生はインテリゲンチアではなくて、インチキゲンチアだと思うんですよ。卒業してみなければ、丁と出るか半と出るか、本人にも全然わからないという意味でね」
関西大学法学部二年のT君も、同じように学生の弱点を知りぬいて、愛想づかしをしたようです。
「階級なんていうより、無實任でマンガチックな集団ですね。学園ユートピアを作るために戦うと高唱しながら、闘争前から敗北を予言している。現体制の打破をスローガンにして、傍若無人にあばれ回ったあげく、こわしたものは形あるものだけで、内容的には、何一つ変革し得なかったのですね。そのうえ、紛争中にセクト争いや、全共闘と日和見学生の対立で、真の目的がどこにあるのか忘れてしまう。結局、意識をふりかざしながら、やれることは学生という特権に甘えて、バカさわぎしかできない集りですよ」

宙に浮いて動揺する
だが、学生は知識層の卵だけに、やっぱりプチブルなのサと割切る見方も、依然として少なくありません。一方、その対極では学生をプロレタリアー卜、あるいはその予備軍と見なす考えも、相変らず有力です。
九州大学教養部一年のK君は、自分の生活態度から結論を引出しています。
「学生運動をやりながら、親の仕送りを受け、授業をさぼってマージャン屋に出かけるーやはりプチブルの生活としかいえないですよ。何かひとつ闘争を始めるにしても、自分自身の全生活を賭けたわけではないから、運動をやりながらも、欺瞞性をもっていますね。でも、多くの揚合は現実に何事もやらず、体制に流されているままでしよう。しかし、ぼくはプチブルだからこそ、ブルジョアジーの、あるいは体制の矛盾がはっきりとらえられるともいえますね」
同じ九大教養部二年のT君は、学生のプチブル性を認めながらも、だいぶ考えを異にするようです。
「現在の資本性社会のもとでは、学生は経済的基盤がはっきりせず、いわば宙に浮いた存在でしょう。学園闘争の際にも見られたとおり、小ブル独特の動揺性を色濃くそなえていましたね。学外の階級闘争がもっと煮つまって、革命の本体である労働者が立上がってくれば、学生も今ほどは動揺しなくなるでしよう。学生がひとつの階級を形成するかどうかについては、意識層としては感受性の強い独特の層を形づくるでしょう。現在の経済機構に組込まれておらず、宙に浮いた存在だからこそ、損得の計算を抜きにして純粋に闘争に立ち上がることも可能です。それだけにしぼんでしまうのも早いといえるかも知れませんが・・・」
九大教養部一年のN君、小学校人学から高校卒業まで“分断と競争”の中に置かれてきた優等生でした。大学進学までは、もちろんノンポリ、現在も特定の党派に属していません。このおとなしかった学生が、今では試験ボイコットの急先鋒。ある英語教官が五回以上の欠席者には単位を与えぬといったことに対して、クラス共鬪会議を結成し、単位の私物化や大学の権威・処分権の問題などを追及しました。とうとう、その教官の学年末試験はお流れになりました。
「現在の大学は、学生がもし沈黙していたら、今日の社会体制を維持するために、ブルジョア・イデオロギーを植えこむ場所ではないかと疑います。たとえば、工学部で技術を身につけて、社会に出てゆくことは、九大卒というレッテルをはられて、人を差別する役目を担うことになるでしょう。つまり、九大生であり、また九大の課程を通過することが、もう犯罪性をおびてきます。じゃあ、九大を退学すればよいかといえば、それはただの個人的な満足にすぎません。ぼくたちは学生の完全なプロレタリアー卜化をめざした闘争をやらねば、階級的抑圧から解放されないと思います」

学生でメシが食えたら…
大学の大衆化・肥大化が定着した今日、もはや“学生階級”は選良でも何でもなく、同世代の勤労者とくらべても、目立って変る点はありません。両者の相違点を強いてさがせば、学生とは「定職を持っていないことが、社会的に公認された青年の群れ」とでもいえるでしょう。卒業後とくに特権的な地位が約束されるわけでもない半面、いま流行の口調を真似すれば、ガクモンってなあに・・・という具合です。
岡二朗君(岡山大学理学部一年)の発言も、このあたりの空気を反映しているでしょう。
「学生はプチブルでも、プロレタリア予備軍でもないと思います。授業に出なくとも、別に生活に困るわけではないし、たとえばバリ封鎖のように、自分たちのやろうと考えたことを、そのまま行動に移せる特殊な層でしょう。なんといっても、学生は楽ですよ。これでメシが食えたら、いうことないですね。でも、学生の“自由”とは、実は不安なのかも知れません」
広島大学の構内。バリ封鎖の古戦場の本部前で、同人雑誌を売っていた文学部三、四年のグループも、似たようなことを言っていました。
「社会的に見れば、“学生さん”と呼ばれるクラスがいることは確かです。広島ではひところまで"学生さん"といえば信用されて、気持が悪いくらいだったけれども、封鎖以後は全然ダメですね。芝居をやろうとしても、会場を貸してくれないし、入場税のことでも、税務署が信用しませんね。学生ってアイマイで実体がなく、大学とは結局のところ出てゆくだけの所です」
「これが階級かどうかはわからないなァ、大学とはトンネルという気持が強いですね。ただ真っ暗というわけでもなく、ダイダイ色のナトリウム・ランプが輝いているのかも知れないですね」
大学の"正常化"以後、マジメな学生はせっせと勉強にはげんでいるといわれていますが、それは別に「真理の探究」をめざしているのではなく、優の数をそろえるとか、何かの資格を獲得するためで、自動車の免許を取るための勉強と大差はないでしよう。一方、そうでない学生たちは、管理社会のおぞましさを観念の上ではよく知っているので、大学在学の4年間というものを、束の間の自由の季節と見る傾向が強いようです。こうして、大学革命の"恐怖時代“が終ったあと、廃墟の中ではその反動として、安逸がむさぼられています。
(終)

【『ただいまリハビリ中 ガザ虐殺を怒る日々』の紹介】
重信房子さんの新刊本です!
『ただいまリハビリ中 ガザ虐殺を怒る日々』(創出版)2024年12月20日刊行
本体:1870円(税込)

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「創出版」のリンクはこちらです。
http://shop.tsukuru.co.jp/shopdetail/000000000203/  

昔、元日本赤軍最高幹部としてパレスチナに渡り、その後の投獄を含めて50年ぶりに市民社会に復帰。見るもの聞くもの初めてで、パッケージの開け方から初体験という著者がこの2年間、どんな生活を送って何を感じたか。50年ぶりに盆踊りに参加したといった話でつづられる読み物として楽しめる本です。しかもこの1年間のガザ虐殺については、著者ならではの記述になっています。元革命家の「今浦島」生活という独特の内容と、今話題になっているガザの問題という、2つのテーマをもったユニークな本です。

目次
はじめに
序章 50年ぶりの市民生活
第1章 出所後の生活
53年ぶりの反戦市民集会/関西での再会と初の歌会/小学校の校庭で/52年ぶりの巷の師走/戦うパレスチナの友人たち/リハビリの春
第2章 パレスチナ情勢
救援連絡センター総会に参加して/再び5月を迎えて/リッダ闘争51周年記念集会/お墓参り/短歌・月光塾合評会で/リビアの洪水
第3章 ガザの虐殺
殺すな!今こそパレスチナ・イスラエル問題の解決を!/これは戦争ではなく第二のナクバ・民族浄化/パレスチナ人民連帯国際デー/新年を迎えて/ネタニヤフ首相のラファ地上攻撃宣言に抗して/国際女性の日に/断食月(ラマダン)に/イスラエルのジェノサイド/パレスチナでの集団虐殺/パレスチナに平和を!
特別篇 獄中日記より
大阪医療刑務所での初めてのがん手術[2008年12月~10年2月]
大腸に新たな腫瘍が見つかった[2016年2月~4月]
約1年前から行われた出所への準備[2021年7月~22年5月]

【『新左翼・過激派全書』の紹介】
ー1968年以降から現在までー
好評につき3刷決定!
有坂賢吾著 定価4,950円(税込み)
作品社 2024年10月31日刊行

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「模索舎」のリンクはこちらです。

(作品社サイトより)
かつて盛んであった学生運動と過激派セクト。
【内容】
中核派、革マル派、ブント、解放派、連合赤軍……って何?
かつて、盛んであった、学生運動と過激な運動。本書は、詳細にもろもろ党派ごとに紹介する書籍である。あるセクトがいつ結成され、どうして分裂し、その後、どう改称し・消滅していったのか。「運動」など全く経験したことがない1991年(平成)生まれの視点から収集された次世代への歴史と記憶(アーカイブ)である。
貴重な資料を駆使し解説する決定版
ココでしか見られない口絵+写真+資料、数百点以上収録
《本書の特徴》
・あくまでも平成生まれの、どの組織ともしがらみがない著者の立場からの記述。
・「総合的、俯瞰的」新左翼党派の基本的な情報を完全収録。
・また著者のこだわりとして、写真や図版を多く用い、機関紙誌についても題字や書影など視覚的な史料を豊富に掲載することにも重きを置いた。
・さらに主要な声明や規約などもなるべく収録し、資料集としての機能も持たせようと試みた。
・もちろん貴重なヘルメット、図版なども大々的に収録!

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在16校の投稿と資料を掲載しています。

http://zenkyoutou.com/gakuen.html

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は6月6日(金)に更新予定です。