今回のブログは、雑誌で読むあの時代シリーズとして、『朝日ジャーナル』(1969年9月28日)に掲載された「造反の中の美術・デザイン 創造と変革の間」を掲載する。
1968年から1970年に至る政治の季節の中で、政治闘争に焦点が当てられがちであるが、文化・芸術面での闘いはあまり知られていない。
今回の記事では、日本宣伝美術会の展覧会に対する「日宣美粉砕共闘」の闘いを軸として多摩美術大学、武蔵野美術大学、青山デザイン専門学校の闘争の様子が語られている。
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美術の秋。だが、ことしはいささか変調である。美術大学にも紛争がひろがり、わが国最大の商業美術団体たる日宣美も、展覧会中止の事態となった。創造を生命とする美術・デザイン界をおおう造反の波ー若い世代の異議申立てにしばし耳を傾けてみよう。

【造反の中の美術・デザイン 創造と変革の間】『朝日ジャーナル』(1969年9月28日)
出席者
小川 小平(青山デザィン専門学校講師、29歳)
佐藤 元洋(日大芸・写真学科、21歳)
A (多摩美術大・油絵科、22歳)
B (多摩芸術学園・写真科、21歳)
司会.本誌編集部 大沢寛三

「日宣美粉砕」とは何か
編集部  美術・デザインの領域でいろいろ問題がおこっています。日宣美がそうであるし、武蔵野美大、多摩美大などをはじめ美術関係の各種学校でも紛争がおこっている。まさに美術・デザインも今や造反の中にあるわけですが、そうした中で美術・デザインというものをどうお考えになるか、それをうかがいたいと思います。まず、日宣美事件のことから・・・。

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日本宣伝美術会 
商業美術ではわが国最大の日宣美(板橋義夫事務局長)は、昭和26年に結成され、現在会員は約390人、そのほとんどがグラフィック・デザイナーで、毎年1回展質会をひらいている。創立3年目からは公募もおこない、新人の発掘につとめてきた。これがグラフィック・デザイン唯一の登竜門とみとめられるようになり、日宣美は同界最髙の権威といわれるまでに発展した。
本年は8月15日から、新宿・京王デパー卜で、恒例の「日宣美展」をひらくはずであったが、8月2日、作品の審査会場の渋谷女子高校へ、多摩美大の「叛デザイン同盟」、武蔵野美大の「商業デザイン闘争委員会」、学生以外の組織する「革命デザイナー同盟」などからなる「日宣美粉砕共闘」がのりこみ、「権力としての日宣美粉砕、デザイン幻想を破壊せよ」などと抗議、亀倉雄策、山城隆一氏ら15人の審査員に審査の中止と、23日には「日宣美問題公開討論会」をひらくことを要求した。もちろん共闘側は、公開討論の終るまで審査は中止することを申入れた。このため京王デパー卜は会場の混乱を予想、展覧会の中止をきめた。
公開討論会は8月23日、渋谷・東京山手教会でひらかれたが、日宣美側が8月19日、荒川・日通倉庫で極秘のうちに審査をおこない130点の入選作をきめていたことから話合いはもつれ、会員の中からも批判が出たり、退会の意向をもらすものも出、造反グルーブの突上げをうけて、日宣美はゆらいだ。
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B  ぼくは写真をやっているので、デザインの諸君のように「自己の内なる日宣美」というように、直接結びつかない。
政治経済的危機がいわれてかなり経つし、いまはまさに危機だと思うわけです。しかしそこにおいて文化の体制や文化権力というものが、実はそうした危機をよびおこしているという認識がまだないように思う。人間が搾取されているのは政治経済だけではない。ぼくたち自身もいまの文化体制に統合されている。だから政治経済の闘争と並行して文化闘争もつよくやっていかない限り、だめじゃないかと思います。いままでも文化運動がおこなわれたが、それをぼくは知りません。けれどもそれは、ほとんど一切がだめだったと思うのです。ひよわな知識人たちが、自己の日常に安定したまま、文化運動をただぶらぶらとやってきただけじゃないか。だから、それ自身、何も権力に突きささるものはない。そういう運動だけであったら、今後も権力を倒すことはできないんじゃないかと思うわけです。こういう基本的な立場の取組み方がいままでの文化運動ではあまりされていなかった。
ぼくら自身は、それを非常に感覚的に突破したと思います。そういうぼくらの学生運動が切りひらいた闘争は、甘ったれた知識人のたわごとという感じの運動ではだめだ、そういう認識がまず初めにあります。
そして、日宣美粉砕ということがおこった。各種学校の共闘機関として創造的学生連合戦線というのがありますが、そこでこの日宣美問題が提起された。ぼくは単純だから、それはいいことだと思って小川さんに「はい、やりましょう」といっちゃったわけです(笑)。それからぼくは日宣美を考えた。8月2日に審査会場へ突込んで抗議した。そして京王デパー卜での展示会も流れてしまったというのは、文化闘争の最初であったし、日宣美自身もガタガタしていたし、近代化されてもいなかったからだと思います。
2日に突込んでいったときには、先方には80人くらい、そのうち、バイトの学生も40人くらいいた。向うは「この野郎、きたな」と笑っていた感じで、腕などをブシプシ嗚らしていたんです(笑)。しかもぼくが初めにアジったところ、マイクが5分くらいで故障しちゃったようなわけで、初めからたいへんみっともなかったんですが、それでも審査ができなくなってしまったんです(笑)。
これは向うの守りが十分できていなかったから、ぼくらの一発がきいたのでしょう。

日常性を告発せよ
小川  ぼくらは前々から日宣美はつぶさなくてはいけないといっていた。しかし言葉でいうだけではつぶれない。だから具体的に行動で示さなくちゃいけないと思っていた。
私たちが初め作った呼びかけのビラには「自らの日常性を告発せよ」と書いた。この意味は、現在の体制を支えているのは実は大衆である、要するにわれわれ一人一人の持っている体制内化された価値感である。そこでまず自分を検証するという形で既成の権威とか、文化の価値などを、もう一度ひっくりかえしてみることが必要じゃないか。
そして、現在のデザィン界の権威・価値をあらわしているものとして、日宣美をとり上げたのです。
A  ぼくらといっしょに学内闘争をやっている「反デザィン同盟」というのがありますが、これが主体的に日宣美をとりあげた。そうしたぼくらの仲間たちが、いま一番問題にしているのは、美術なり、芸術なりということばです。そこで最近、芸術という名前をやめようということが、多少の自嘲もふくめていわれている。けれどそうしたことばをいくら廃棄しても、また別の名を体制側から与えられてしまうではないか。それによって文化という場に囲いこまれてしまう。
また現在ぼくらが文化とか表現とかいわれても、なんにも喚起されるものがないとすれば、それは多分文化自体が体制から囲みこまれた場の中で、一つの見世物的なものになっているのではないかと思うわけです。従って、別の名を与えられてしまうということではなく、その名前自体を破壊していくような運動をやらぬ限り、文化状況もふくめて一切の状況は変らないのじゃないかと思います。
日宣美粉砕は、もちろん有効性、必然性はあった。けれども、否定的にみると、日宣美粉砕共闘は相手の日宣美と心中してしまったようなところがあるように思うのです。
日宣美粉砕の行動は、デザィン労働者、あるいは社会的隷属をうち破る行動としてあったが、もう一つデザィンそのものということも考えなくちゃならぬ。
ぼくらの中にあるデザィンはいったい何かという問い、それが希薄だったと思う。そこであの闘い自体は、結局向う側の話し合いペースにもっていかれてしまった。実際には、日宣美側とわれわれの側には価値観の亀裂が、はっきりとある。
その亀裂を、両岸から手をのベあう形で、埋めてしまったような気がする。しかし、実はこの亀裂こそ、ぼくたちの闘いの根拠です。だから、日宣美共闘がそれを突きぬけるには、その亀裂をもっと拡大する形でいかなくてはなるまい。

政治に囲いこまれるな
編集部  いま日宣美側と粉砕共闘の側の価値観の亀裂という問題が、ひじょうに抽象的に語られましたが、たとえば日宣美の会員の中でシンポジゥムに応じた人もいるし、解散論Hを唱えた人もいる。
そういう人も含めて、価値観の亀裂というのをどういうふうに感じたかというのを、もう少し具体的にうかがいたい。
A  たとえば粟津潔さんなどが、内部からいつも「日宣美は死滅した」というようなことをいっている。そこでぼくらが突込んできくと、かれは「わかる、わかる」式にくるわけです。そういうことが納得いかない。
いわゆる文化人運動は、学生の切りひらいた状況を後続部隊として、あるいは学生が一軍とすれば二軍だと規定したり、つねに外部の状況に追随する形をもっていたと思う。したがって政治に文化を追従させてしまう。だから闘いとして考えるならば、いまある文化自体を完全にこわしてしまうーつまり政治に囲いこまれたものとしてしか存在していなかったような文化自体を、もっともアクチュアルなものとして奪還していくような形で闘っていかない限り、文化の奪還も、政治と文化という二元論も絶対に越えられないと思う。亀裂を感じたというのはその点ですね。
編集部  日宣美の問題は、まだいろいろあるでしょうが、要するに、表現と、それを縛っているものからの解放という両面を考えていく、いわば文化闘争というような展望がふくまれている。そういう意味で注目すべき側面があったと思います。
ところで佐藤さんは、今の問題と関連してあなたの写真を進めていく上で何かございませんか。
佐藤  写真には日本写真家協会(JPS)という日宣美に似たものがあります。ぼくらの仲間で、JPSをつぶすんだというスローガンをあげているのもいますが、やはり一番問題になってくるのは、協会の規約の前文に職能団体であると、はっきりうたっているわけですよ。
それに対してどうなのか。要するに写真という職業をどういうふうにとらえるか、そこで明確な決着がついていない限り、やったってしようがないように思います。
だから日宣美の問題ともそのへんでひっかかりがあるんですけれども、要するに一つの職業というのがあるわけですよ。それを選んでいるのはぼくら自身なわけですよ。別にぼく自身写真家にならなくたっていいわけです、他のものになったっていいわけです。しかし、ぼく自身は写真をやっている。そういうところで職業の問題というのを、どっかで決着つけないことにはなんにもできない、それを感ずるわけです。JPSも、日宣美もたしかに権威だと思うけれども、権威だから倒すんだというただかい方では、まさに反乱で終るだろうし、そんなものは倒すどころか、たたかっていた部分をかえって吸収してますます大きくなるだけだと思うし・・・。
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総体としての"文化権力"
A  ただ日宣美の会員も、執拗に自分たちは職能団体であってちっとも権威なんか持っていない、別に国家から補助を受けているわけでもないし、むしろ後進の指導の役割をはたしてきた職能団体でしかない。それをつぶすとは何ごとだということを盛んにいってくる。しかし、職能団体と規定するときに、そこにものすごく危険性がある。そう規定してしまったときに、もうすでに文化内部からのファッショ化みたいなものが始っているんじゃないか。つまり国家権力による、ほとんど統制といっていいようなものに対して、それと呼応する形で文化内部からのフェッショ化みたいなもの、つまり表現なりあるいは職能というものを自明としてしまうところから、そういったファッショ化が始ってきているんじゃないかというふうに思う。だから職能団体であるというふうに規定すること自体、非常に危険でしょうし、自分が職能をもつていることと、職能団体であるということとは、かなり違うのじゃないかと思う。
B  ぼくらの運動の中に初めあったのは、日宣美だけじゃなくて、もつと写真も演劇もふくめた広範な表現者共闘ということを考えた。そしていわゆる権力を一つ一つ打倒してゆけたらすばらしいと思った。しかし、日宣美といってもそれ自体粉砕しつくせるものではないし、やはり結局は政治権力の打倒というものがない限り、一定の限界があるということです。
佐藤さんのいったJPS粉砕が、日宣美粉砕闘争と同じレベルのものでしかないと思うし、ぼく自身は同じ質の闘争をやりたいと思わないから、あまり乗り気じゃない。しかしJPSという職能団体が、それ自体写真界における一大勢力となっている現状は、去年、いくらいい展覧会をやり、田本研三なんかを発掘したところでそれ自身の犯罪性は消えないと思うから、JPS粉砕は正しいと思う。ぼくもカメラマンとしてめしを食いたいと思うけど、ぼくが既成の一切のものを感覚的に否定すると同時に、ぼく自身が否定されやしないか、ぼくがいま立てた論理とその行動自体によって、こんどはぼく自身が批判されるんじゃないか、それが一番こわい。そしてぼくがもう少し年をとったら、ぼくよりかもっと元気のいいやつらに、あいつはだめになったとか、ぼくが多少ましな討論をして、ましなことばを投げかけても、あいつはいまあんな写真なんか撮って、おれたちは撮ってないんだ、あいつは口がうまいから気をつけろみたいに、否定されるのではないか、それが一番こわい。

体制の飾り職人として
A  そんなことはいくらいってもしようがないと思うな。ぼくらは、否定されるのが当然であって、否定されるためにこそたたかっているみたいなものだ。いまぼくらは、もっとも状況をラジカルに切開く者としてみずから設定して、みずからそれを志向してやっていくわけだけれども、いずれは必ず死滅させられるものと思わない限り、ぼくらのたたかいは展開しないと思う。
小川  ぼくがさっきいった日常性の告発というのは、日宣美粉砕闘争を一つやったからといって実現されるようなものじゃないと思う。日宣美が一つの権威、あるいは権力として存在しているということは、日宣美のつくり出しているデザインの価値観、あるいはデザインの幻想性というものがあるわけで、それをふりまいていることへの異議申立てなのです。さっきの話のようにぼくらはどんなことをやっても囲まれてしまっている、体制の回路にとりこまれてしまっているんじゃないか。あるデザイナーの言い方でいえばおれたちはおかかえ芸者だ、もっと冷酷にいえば体制の飾り職人にしかすぎない自分たちというのがある。しかもデザインが産業構造と非常に密着化したものであって、文学とか純粋美術というふうなものとはちょっと性格が違って、産業社会の中でしか生息し得ないような現在の状態の中では文化に先天的に固有の価値があるという考え方では、もう語れない。現実を振返って自分たちの身の回りを見てみれば、そんなことが、いかにうそっぱちであるかということがよくわかる。
いかにうそっぱちかというのは、ぼくなんかがつとめたりしている各種学校では都内だけで1年間に5千人から6千人のグラフィック・デザイナーが卒業する。しかし就職できるのはそのうち15%か、20%でしかない。残った人間はどうなるのかわからない。そういう人たちに対して、デザインというものが一つの価値観があり、現在の社会を変え得るんだという言い方が、いかに無力であるか。そういう人たちは、結局デザインからさえも疎外されている状態にあるわけなんです。そういう人たちは版下屋さんとか、印刷工の下働きというような、デザイン界総体を支える最底辺の労働者になっている。そういう人たちに、お前さんたちは勉強しろ、デザイナーというのは表現で対決するものだから、ガタガタ言わないで表現してみろ、作品を持ってこい。いままでそういう言い方でしか問われていない。そこに文化に対する考え方の相違が現れている。

デザインの腐食状況
表現で勝負しろということは非常にわかるにしても、ぼくたちのいいたいのはそんなことでないんだ。デザイン界総体が産業社会の中でどれだけ腐食されているのか。それは労働力としての問題もさりながら、表現そのものすら腐食されているという現状をくるめて見ていかない限り、表現そのものの問題すらはっきりしないだろうということがあったわけです。
ぼくらは新しいデザイン論というものを立てることで、現在の文化の価値観というものをひっくり返そうというふうに考えるんじゃなくて、いまの自分たちの日常性というものをもっと見つめ直す。
自分の下半身というか、恥部をもっと赤裸々に見つめ直すことからしか、表現のことなど口走ってもらっては困る。要するに、そんなに簡単に表現とか、何とかいうことを、でっかい顔して言いなさんなといったことがある。というのは、実はでっかい顔して言ってしまっているがゆえに、たくさんの未就職者であるとか、デザイン教育を企業として成立たせているような、都内でさえも42校の各種学校を生み出してしまっているという状況があり、そういうものに対して前衛といわれるデザイナーたちが、一切、そんなことはおれたちは関係ないとはもう言わせない。そういう現状を冷静に見たときに、デザインというものはいかに無力であるか、無力なときに自分たちの職能を通じての闘いというものは、そこから新しいたたかい方を生み出さない限り、何の解決にもならないだろうということがそこにあったわけです。
編集部  今のはデザインからも疎外された方々のことですが、企業内で働いているデザイナーたちは、どう考えているでしょうか。
小川  二律背反を感じているのじゃないでしょうか。たとえば、かりにきかない薬をきくかのように広告デザインをしろといわれる。それは仕事としてやらざるをえない。
1960年に世界デザイン会議がひらかれましたが、そこで語られたことは、デザィナーとは、企業と大衆をつなぐかけ橋であるということです。そのために、勉強して、もっとトータルな人間になり、細分化された文化をトータルに把握しなければ企業から大衆へ橋をかけわたすような人間にはなれないというデザィンの論理があったわけです。企業から大衆へというと、何となくすらっといくんだけれども、はっきり言えばこれはブルジョアジーからブロレタリアートへのかけ橋をやるということです。しかしそれがいかにお笑い草の論理かは、現実が証明している。きかないものをきくようにみせる、意味ないものをあるようにみせるということは、一種の幻想をつくり出すことではないか。
そういう当然通用しないような論理が、日宣美などにもある。こういう幻想を打破って、自分自身をみつめ直してみよう。そうしたときに、飾り職人にしかすぎない自分がいるだろう。このことを痛みとして感じている労働者は少数かもしれないけれどもいるわけです。ただその人たちには、そこから発生する方法論がない。その理由は一方において、表現で勝負しろという形で、さらに迫られてくるかれらがいて、それは抜きさしならない、ぜったいに勝負にならない勝負を挑めと言われているだけにすぎない。このへんのことがぼくなどにはいちばんの問題です。
それからぼくがいっているデザイン学校の学生たちが、どんなところに出て行くかといったら、いまいったデザインで表現しろとか勝負しろなどというような地点ではなくて、デザインの会社にさえつとめられない。トルコ風呂につとめたり、電気配線工をやる以外にしょうがないというような人たちをたくさん生み出している。これもやはり幻想が生み出したものではないかという気がする。単なる労働者になりたくないし、サラリーマンにもなりたくない。そこで創造性などという甘いことばのあるところで働きたい。デザインや写真というものは、一方ではひじょうに花やかに、体制に許容された文化として評価されている面がある。それにあこがれてきてしまう。ところが、自分の抱いていた幻想と現実とは、もう明らかに違う。第一、学校自体が企業化し、その幻想を食いものにして一つの企業体になっている。

美術における前衛と既成
編集部  話は変りますが、わが国のいわゆる前衛というものはあるのかないのか、あるとすれば、みなさんは、それをどうお考えになっているかうかがってみたい・・・。
B   ぼくなんか、これまでのことをくわしく知らないんですよ。(笑)
A  たとえば美術におけるアバンギヤルドといった場合、ぼくが思いうかべるのは岡本太郎しかいないんだよね。さらに前衛と日本語でいうと、それで思いうかべるのは前衛美術家、中村宏でしかない。つまり何ものをも喚起しないわけだね、アバンギャルド、前衛ということば自体が。昔はしらないけれども、すくなくとも、ぼくがかかわっている歴史という地点で言えば、アバンギャルド、前衛というのは、けっきよく文化というひじょうに囲いこまれた場でしかあり得なかったというふうに思うわけですね。
いまの新しい動向は何かといえば、それはけっきょく既成のものをできるだけ美しく組立てることでしかなかったり、あるいはできるだけ奇想天外に組立てることでしかなかったり、そういったものとしてしか見えてこないし、そうするとたとえばいま若い作家たちがどんどん一本釣りされていくみたいな形、それは文化というものの中に、みずから身を投じていく。
『日本読書新聞』に日向あき子が書いていたように、原始芸術と現在の芸術の一致点を見出すとすれば、それはもっとも環境化されたものであり、ポップアート以降もっとも環境化され、芸術が原始社会にあったように人間の生活そのものと一体化しているんじゃないかというふうに言うわけです。ポップアー卜以降という発想は正しいと思うのですが、原始芸術といまのポップアート以降と明快に違うのは、名前があるかないかということです。
原始芸術というのは、名前はなかった。もしあったとしても、それはある一つの呪術的な名前であったり、ある一つの価値観をになった名前であって、個別的な名前ではなかったと思うのですね。いまはむしろ一人のある個人の名前というものがないかぎり成立しないみたいな部分がある。そのへんがはっきり違うと思う。
そうするとそれがたとえば現在、前衛とかアバンギャルドとか言われても、けっきょくはある一つの名前をむしろ前面に出すということでしかない。もっとも新しいものとして自分の名前を売込んでいくという行為としてしか見えない。まあ極端に言ってしまえばそういうものとしてあると思うのです。

"カメラ武器論"
編集部  写真の方で、たとえば東松照明、中平卓馬、『怒りを日々の糧に』を出した栗原達男などに至る写真家の表現と、自分たちの仕事の差のようなことについて話して下さい。
B   ぼくは日本のカメラマンしかあまり知らないのだけれども、北海道の田本研三というのがいた。これは伝説的になっているんだけれども、かれをぼくが評価するのは、かれが北海道の関拓の地にひじょうに長くかかわり合い続けた。そして残したのが何枚かの記録写真だからこそ、ぼくにとっては迫真性があるわけです。彼がそこにうんと居つづけたということに、非常な重昧が感じられたからです。"カメラ武器論"というのが長い間語られてきたが、それは有効性の段階で語られてきました。また、ぼくが敬愛する中平卓馬という写真家がいる。この人の「カメラ武器論」というのがもっともすぐれていると思うので、それをよませてもらう。
「だがこうなった以上、ぼくたちのできること、やるべきことは、ウイリアム・クラインとともに、このぼうばくとした無限の世界へ向って冷やかな視線を投げ与えること、そして目に見えるもの、形あるものだけを忍耐強く記録し続けていく。一度瓦解してしまった世界を再び統一し直すことであるに違いない。また、それはうれしいとか、悲しいとか、みじめだとか、といった個人的な考えをただめんめんと自白し続けることよりも、それにははるかに適した武器なのだ」(『フォト・クリティカ』68年創刊号)
これは、最初から読んでいくと、かなり説得力ある文章なんです。だけれども、結局行きづまってしまうと思うのは、文化的手段でしか闘えない。でも、東松照明さんが多摩芸を写真で20日間ぐらいルポルタージュしたのが『写真映像』に発表されている。ぼくらはそこで東松さんに、6・15なら6・15にカメラを持たないでぼくらの隊列になって参加すべきだ、そんならいい、そんなふうな討論をしていた中で、ぼくら彼に撮ることを許したといっていいと思うんだけれども、その中で一つ記憶にのこっているのは「写真で闘争はできないけれども、でも組織することはできるね、写真家がね」ということばです。で、東松さんが実際どのようにやっているかぼく知らないけれども、そのことばを信じてぼくは東松さんがはいってもいいじゃないかとみなにいったわけです。写真で闘争はできないけれども、写真家が闘争をつくることはできる、組織することはできると思うわけです。

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武蔵野美術大学(武蔵野市吉祥寺校、小平市鷹ノ台分校)
43年10月、例年の芸術祭に際して、これまで学校側がテーマを出したり、採点し教科単位扱いにしていたことに反発、学生側は自主制作、自由展示、自主管理の三項目を要求して全学ストをうった。この解決後、本年6月警官が鷹ノ台校内に入ったことから、学生は不法侵入だとさわぎ、救援にかけつけた警官が間違って国分寺市の東京経済大へとびこんだため、こんどは東経大生がいきり立ったという一幕もあった。
6月17~18日、大学立法について学生大会をひらき、立法反対無期限ストを可決したが、それも約2週間でやんだ。しかし7月3日、有光次郎学長が中教審に入ったという新聞発表で、4日未明鷹ノ台の本館などを封鎖、学長と学生団交があり、教授会は学長に辞職を勧告した。有光学長は辞任したが、教授会のえらんだ米沢学長代行は学生にみとめられず、かえって教授会の責任が追及された。また20日には通信教育スクーリング粉砕のため、吉祥寺校を封鎖した。代行は辞意を表明。教授会は後任をえらべず、実質上は機能停止。そうし一た中で、田中誠治理事長が学長代行事務取扱となり、29日、吉祥寺、鷹ノ台とも仮処分によるロックアウトをおこなった。現在もロックアウト中である。
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芸術と芸術教育のはざま
編集部  お話をうかがっていると日宣美とか学園とかの個別の闘争と、それからもっと大きい、反戦運動などをふくめた大衆運動というような問題も底流しているように思います。そこで大学立法なり、70年をひかえて、芸術―とくに美術・デザィンとして何をなしうるかということ。それと芸術は教育できるのか、芸術と教育に関する矛盾についてうかがいたい・・・。
B  芸術教育といったときに、多摩芸の講師は、「これが真の芸術教育だ、それをわたしたちはやっているんだ」といった。これには全くびっくりした。
つまりぼくは全く真の芸術教育だとは思っていない。第一に、これまでの教育というものを信じていない。これは青山デザィン専門学校の諸君がいるとわかるのですが、あそこではすっかり学生の自主管理になっている。それはある一つの改良の進んだケースであり、それほど肯定するのではないが。
編集部  青山デザインの自主管理というのは?

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青山デザイン専門学校(東京・渋谷区桜ケ丘)
教育内容の改善、施設の充実、学生自治会の設立といぅ三項目をかかげて闘争に立上がった仮執行部は、ことしの1月29日にバリケードを構築、以来3月6日まで37日間のバリケード闘争をおこなった(当時の学長は植村鷹千代氏)。その結果、学生の教育参加権、教育・経営に関する一切の拒否権をふくむ一六項目の確認書をかちとり、学園の自主管理を、全国の紛争校にさきがけて確立した。
学生自治会は4月の新学期開始までに、120時間の自主講座をもうけ、講演者の中から新学期の授業を担当する講師をえらび、それらの人々を中心に50数人の講師会が結成された。そして現在は、前年度までのカリキュラム批判に立って、学生たちがつくったカリキュラムを中心として授業がおこなわれている。
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小川  青デの場合は、いままでだまされつづけてきたデザイン教育みたいなものがあった。学生がこの4月から自主管理するまでは、デザインの実技が非常に重視されていた。そして結局卒業して出てゆくときには、前にいったような、格安な労働力として売られていった。そのために4月の新学期からは、実技をへらし、レクチュアを多くするようなカリキュラムを、学生たちは立てたわけです。経理面も学生と講師会とで立てた予算案を理事者に承認させるという形で進められた。
ところが前期から後期にうつるとき問題になったのは、実技関係では専門制、デザインというジャンルにこだわりすぎているのではなかったか、という疑問です。そのために、レクチュアの先生と実技の先生とが組になって、2人以上で一つのクラスをうけもつ。つまり多様な個性をもった先生たちが、一つのクラスをうけもったらどうなるかということが 一つあります。またクラスの編成も、ジャンル別のクラス編成だったが、このワクをとり払って、もっとアトランダムに、写真の人もいればグラフィックも、スベース・デザインの人もいるという混成クラスの構想がでている。そこで講師は何を教えられるか、いま煮つめられている状態です。

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多摩美大(東京・世田谷区上野毛)
学校側は工費2億8千万円で、八王子市に校舎を建設、44年から芸術学科、建築科の2学科をつくる予定であったが、この2月10日、山脇国利理事長代行と学生の間で、大衆団交がおこなわれ、八王子プランの撤回、全学教授会の定例化、学生、教授からなる2者協議会の設立、闘争処分者を出さないの三項目を、学校側がのみ、封鎖解除。しかし、入試、卒業式後の4月18日、川崎市の多摩芸術学園(松葉良園長)の全闘委によって、本館は再封鎖された。
 多摩芸でも本年1月から全学封鎖がおこなわれていたが、多摩芸の経営にも責任がある多摩美の理事会が誠意をみせぬとし、川向うの多摩美を封鎖したもの。その間曲折はあったが、7月12日から両校とも全学が再封鎖されている。
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自主管理と私塾
A  多摩美の場合、実技教育みたいなものは、多分どの大学よりもいい状態にあったのじゃないかと思います。たとえば斎藤義重の教室というのは典型的にあるんです。しかしそういった教室がどういういい状態にあろうと、ほとんど自由に作品を持ってきて、それを教授が適当に批評するという形で自由にやれる、実質的に単位とか、コンクールとかいうことはほとんど無関係だという形でやっているわけです。しかしどういう形であろうと、結局そこにおける学生の質は、実際変っていない。あるパターンとして、非常にモダンなものをやっていても、たいして変りはない。つまりある波にのっかっているというだけであって、そういった現状があるとすれば、教師がどうであろうと、どういう制度であろうとも、あらゆる意味で反面教師としてやっていかない限り、教育というもの自体は、おそらく全くナンセ ンスなものになるんじゃないかと思う。ぼくらはいま随時入学、自主入学ということをいっていて、いつでも自由に勝手にはいれる。また入試制度粉砕ということもいっている。
そして、同時にいっているのは、私塾―これはあとで説明しますがーと、さらにぼくらの文化破壊会議というものとを有機的に組合わせてゆくということです。こういうと、非常に楽天的なものにみえるでしょうけれど、そうでなければいけないんじゃないかと思っているわけです。その背景としては、日大でおこなわれたように、たとえば反大学なりあるいはフリーダム・ユニオンみたいなことがあったが、結局講座制を崩壊させることができなかった。つまり自生講座といっても、たまたま反体制的な人を呼んできてやる。しかしそれは、やっぱり講座でしかなかった。講座という一つの制度みたいなものは、少しもくずれなかった。そういった現状がある。けれども、しかしそれがそれだけで終ってしまうのでは、常にナショナリスティックな囲いこみ運動となってくるだろう。だからそういった反大学とか、自主講座みたいなものを突抜けるものをはっきり想定していかないで、ただ破壊すればその先に何か生れてくるというのでは、当然運動は展開しえないだろうと思います。
さっきの私塾というのは、必ずしも講師が塾をひらくというのではない。ぼくたち自身が、小さな単位でやりたいことをやっていくという形のものです。

パンと表現からの疎外
編集部  いつか自民、社会両党議員の子どもたちがどこへはいっているかという一覧表を、ある週刊誌でみたんですが、美術大学に非常に多いんですね。つまり芸術関係の大学には、女の子の場合なんか嫁入り前の修業というような感じがある。しかし本来芸術は、ステータス・シンボルとはならないもののように思うのですが・・・。
小川  先ほどの青デの話を補足させていただくと、あそこは最初自主管理をかちとったときに、40数人の講師を自主講座に呼んだわけです。呼んで、そこで話を聞いてこれはと思う講師を自分の学校の講師にオルグしたわけです。それ以前の講師は全部クビにしちゃった。もちろん引きつづいて講師をしている人もいます。が一応はご破算にして、自分たちで講師を選定した。
カリキュラムも、学生と講師が共同でワクをきめる。けれどもどこへ出てもかまわない。学生は自分で何曜日は何というように、自分で出る教室をえらぶ。そうすると、あるときはばかに学生が多かったり、ときにはきわめて少ないという不手際はある。けれども、基本的にはそういうことをやっているわけです。
学生の悩みのようなものは、先ほどから出ていますが、就職もできないし、えらそうに表現とかいうけれど、おれたちは、表現からさえも疎外されている。しかも能力もないんだと、やっていくうちにだんだんわかってくる。そして悩む。
しかも一方に、レクチュアの方では、現在の政治状況だとか、社会構造の矛盾などが語られる。極端にではないが、そういう状況識してくると、学生はどうしていいかわからなくなって、ノイローゼになる者もいる。そんなことで感情の爆発もあり、内部ではいろいろ自己批判を含めた討論があったわけです。
けれども前期の総括のとき、その問題がはっきり出てきて、デザイン労働者である学生の問題を、もっと的確につかみ、長期の展望に立って、カリキュラムを組む必要があるということがでてきた。
編集部  学生が自主的に先生を選ぶ場合、既成の学校システムを拒否すると、何となくジャーナリスティックな評判で講師がえらばれはしないか。自主講座といっても、必ずしも学生の自主的討論の中から必要だという点が希薄のように思われますが・・・。
小川   前期カリキュラムは主に、闘争をになってきた部分が中心になって作られたのですが、後期の方は、ワク組には講師会も積極的に参加していますが、内容の面では、学生の主体的な面が強くとり上げられるような方向に進んでいます。学生自体の討論は、約2週間以上も継続しています。
またこの夏休みには、学生たちは「狂気の空間を構築せよ!」というテーマのもとに、学校の空間全体をデザインするということをやっています。

大衆運動との連帯
A   ぼくらのグループが個別にやっていたときは、講師は一切呼ばずに、ぼくら自身でやっていたときがあるんです。そのへんで問題になるのは、教師と一緒にやっていけるんだといったような幻想が、あまりにも多過ぎるんじゃないかと思う。それは教育みたいなもの、あるいは教師みたいなものは、ついには反面教師でしかないという地点にもう一回立ち戻って、その場合自分の使えるものは何でも使っていくんだというみたいな、ある意味では破廉恥な態度を一方でとる。そしてその裏には、絶対に幻想を持たない、絶対に自分たちでやっていくみたいな決意を持っていない限り、どんなものを組んでいこうと、すごく甘ったるいものになってしまうんじゃないかと思う。
それは単に自主講座だけのことでない。先ほどの花嫁修業的な部分が美術学校に多いのが現状だし、ぼくらの学校でも多い。そこでぼくらが、連帯なり大衆運動を志向するとき、今の幻想のようなもの、またお遊び的な部分を、危険な言い方かもしれないが、切りすててしまう。その地点に立ち戻って、はじめて大衆運動の連帯が考えられるのじゃないかと思っています。
編集部  おもしろいなと思ったのは、山田宗睦氏のいた桃山学院大学ですね。ここの自主講座は、文化人や、大学教授を講師に呼んでこないで、たとえば主婦とか、サラリーマン、大企業の課長クラスとか、そういう人を階層別に呼んでくるんです。そして一つの素材として話をさせて、その人の持っている問題をひき出しながら、学生の問題をぶっつけてゆく。
B  多摩芸の場合でも、たとえば学園プロダクション論もあって、卒業はない、はいりたいときはいって、やりたい時にやる。少し売れたものがそれでめしを食って、はいっているものはそれでやっていく。そんな遊び的な部分からジャーナリズムにのっていない人で、すぐれた人がかなり多い。また各党派内部で、真剣に考えている人たちには、すぐれた人がいる。そんな人を現実に講師に呼んだっていいという意見も出ています。
それから大学を卒業して、しかも現実に就職できないでいるすぐれた人、そういう人を呼んでくる。それは別に何をやるというんでなくて、たとえば一つ作品をつくるというところから始って、そこから出てくる問題をぼくらが個別にやっていく。それは系統立ってはいないけれども、そういう形でやっていこうという考えが出て、しかしそれとて行きつくところはないわけです。
結局のところ問題としてあるのは、いまぼくらの眼前に育っている闘いであるし、非常にありふれたことばになるが、革命になったという仮説を出しても、理想の学園構造があるわけではないのです。
小川  青デの中で、ぼくなんかが立てているのは、デザィンということばは、さっきいったような意味で、固有のジャンルをはずしてもいいと思うんです。しかしはずさなくても、デザィンということばの解釈をかえて、人間の創造性の解放という意味でとらえればいいかもしれない。だけど労働者の学校だという意識が総体の方針として貫かれていなければならないだろう。それが落ちてしまっては、学校も体制の中での一つの幻想共同体でしかありえないのではないか。また学生の悩みをくみとって、しかも永続的に息長く闘えるような部分を送り出せるような学校でなければいけないのじゃないかということなのです。
B   だから破壊と創造といったところで、何もまだ破壊し得てないのに創造は「文化闘争」のできない。しかも何をつくるかみたいなところでいっても、自分自身がようやっと自己検証という形でもって、何かがわかり始めた。それなのに何を表現するかなどというのは、全くもってわからない。

「文化闘争」の位置づけ
編集部   本誌先週号でも扱っていますが、9月5日に全国全共闘がまとまった。新しい面もあるかもしれませんが、セクトごとの系列化というものもあるのじゃないか。その中で、芸術の問題、あるいは文化闘争をどう位置づけるか。
小川   ぼくはいままでベ平連運動とか市民運動みたいなところに参画している。ところがデザイナーなどといわれると、ポスターをつくるとか装飾をやるとか、どうしても役割分担としてはそういうことをやらされてしまうんですね。宣伝を受持てとか、カメラマンだと記録をとっておいてくれということになってしまう。そういうことが総体の運動をはなやかにしたり、色づけたりして、単なる政治行動だけではない、文化人も一役かっているということになるのだけれども、最近そういう時点を通り越して考えなければならないのは、自分たちを支えている価値観そのものが体制によって支配されている価値観であり、そういう日常性の上にぼくらは成立っている。その一方で観念として、政治行動だという形でその運動に参画していくけれども、もうそういったことじゃない。自分の場の中に闘う部分があるはずだ。そういう部分で闘うための組織をしていくというようなことをもって、その中で反乱あるいは異議申立てというようなことをやっていく、それがやっぱり自分の立っている地点からの着実な闘争ではないかと考えてきた。
それがあらゆるジャンルの中から出てくること、そういう意味で日美闘争というのは一つの突破口というふうに考えるし、それはいろいろ波紋を及ぼしていくんじゃないかということを考えたわけです。具体的にいえば、日常性というものは重くて、とても一点を突破したところで、全面展開にはならない。それが現状だと思う。

自身をみつめながら
佐藤  ぼくはやはり写真は全体の中で一つの役割というものを占めるけれども、ぼくにとっては闘争の実体ではない、ほんとうにぼくがやらなければならない場が別にある。小川さんと大体同じような考えですが、ぼくはそれでも必要だと思うから、闘争の写真はこれからも撮っていくし、全体の中でそれがかざりみたいなものであっても、やはりそれをやるだけの必然性というものはあると思うから、ぼくはそれをやっていく。
B   全国全共闘ができたが、やはりそれの限界性があって、当初の全共闘運動が出てきたときの幻想はある程度くずれ去った。それはぼく自身が会場の一番前にすわっていてよくわかった。しかし、この秋の闘争から70年に向う闘争を闘っていく。しかも政治と文化というのは、どちらも人間を抑圧しているものとしてある。だから体制的統合を一切拒否する運動をやっていく。しかしそれは何も党派の上部がいうからじゃない。ぼく自身は表現以前の、それを構成する人間としての喜怒哀楽とか、恨み怨念というふうな感じのもの、情念的なものを非常に大事にしてきた。たとえば政治スローガンとしては、安保粉砕、沖縄解放、アジア革命勝利といって闘っていくんだろうけれども、それはなにも党派がいうからではない。ぼく自身がそれを受入れるからなんで、なにも突撃といわれて突撃するんではない。自分自身が突撃する。それがたまたまそういうデモを指揮する人間とその特定の時間にだけ共有できると思って突き進んでいく。
もっとも大事にしたいのは、党派の政治理念を受入れるぼく自身の下部意識、それを執拗に見つめていきたいと思っています。

(終)

【『ただいまリハビリ中 ガザ虐殺を怒る日々』の紹介】
重信房子さんの新刊本です!
『ただいまリハビリ中 ガザ虐殺を怒る日々』(創出版)2024年12月20日刊行
本体:1870円(税込)

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「創出版」のリンクはこちらです。
http://shop.tsukuru.co.jp/shopdetail/000000000203/  

昔、元日本赤軍最高幹部としてパレスチナに渡り、その後の投獄を含めて50年ぶりに市民社会に復帰。見るもの聞くもの初めてで、パッケージの開け方から初体験という著者がこの2年間、どんな生活を送って何を感じたか。50年ぶりに盆踊りに参加したといった話でつづられる読み物として楽しめる本です。しかもこの1年間のガザ虐殺については、著者ならではの記述になっています。元革命家の「今浦島」生活という独特の内容と、今話題になっているガザの問題という、2つのテーマをもったユニークな本です。

目次
はじめに
序章 50年ぶりの市民生活
第1章 出所後の生活
53年ぶりの反戦市民集会/関西での再会と初の歌会/小学校の校庭で/52年ぶりの巷の師走/戦うパレスチナの友人たち/リハビリの春
第2章 パレスチナ情勢
救援連絡センター総会に参加して/再び5月を迎えて/リッダ闘争51周年記念集会/お墓参り/短歌・月光塾合評会で/リビアの洪水
第3章 ガザの虐殺
殺すな!今こそパレスチナ・イスラエル問題の解決を!/これは戦争ではなく第二のナクバ・民族浄化/パレスチナ人民連帯国際デー/新年を迎えて/ネタニヤフ首相のラファ地上攻撃宣言に抗して/国際女性の日に/断食月(ラマダン)に/イスラエルのジェノサイド/パレスチナでの集団虐殺/パレスチナに平和を!
特別篇 獄中日記より
大阪医療刑務所での初めてのがん手術[2008年12月~10年2月]
大腸に新たな腫瘍が見つかった[2016年2月~4月]
約1年前から行われた出所への準備[2021年7月~22年5月]

【『新左翼・過激派全書』の紹介】
ー1968年以降から現在までー
好評につき3刷!
有坂賢吾著 定価4,950円(税込み)
作品社 2024年10月31日刊行

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「模索舎」のリンクはこちらです。
https://mosakusha.com/?p=9289

(作品社サイトより)
かつて盛んであった学生運動と過激派セクト。
【内容】
中核派、革マル派、ブント、解放派、連合赤軍……って何?
かつて、盛んであった、学生運動と過激な運動。本書は、詳細にもろもろ党派ごとに紹介する書籍である。あるセクトがいつ結成され、どうして分裂し、その後、どう改称し・消滅していったのか。「運動」など全く経験したことがない1991年(平成)生まれの視点から収集された次世代への歴史と記憶(アーカイブ)である。
貴重な資料を駆使し解説する決定版
ココでしか見られない口絵+写真+資料、数百点以上収録
《本書の特徴》
・あくまでも平成生まれの、どの組織ともしがらみがない著者の立場からの記述。
・「総合的、俯瞰的」新左翼党派の基本的な情報を完全収録。
・また著者のこだわりとして、写真や図版を多く用い、機関紙誌についても題字や書影など視覚的な史料を豊富に掲載することにも重きを置いた。
・さらに主要な声明や規約などもなるべく収録し、資料集としての機能も持たせようと試みた。
・もちろん貴重なヘルメット、図版なども大々的に収録!

【お知らせ その1】
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