今回のブログは、「雑誌で読むあの時代」シリーズとして、『朝日ジャーナル』(1971年4月2日号)に掲載された「“学生階級”―その今日的構造 第2回」を掲載する。
「学生階級」ということについての連載記事であるが、第2回目は大学生がマンガを読むことについて調査した記事である。
当時の週刊誌などでは、全共闘の学生がバリケードの中でマンガを読んでいることに注目して、学生運動とマンガとの関係をあれこれと「解釈」するような記事を掲載していた。この『朝日ジャーナル』の記事もその一つだろう。
確かに、当時私もマンガを読んでいた。しかし、自分で買うことはせず、友人宅にあった『ビックコミック』や『ガロ』を読んでいた程度である。学生運動とマンガとの関係など、ほとんど意識していなかったと思う。この記事の中にあるように、小学生の頃から『少年マガジン』や『少年サンデー』を読んでいた世代が大学生になったということではないだろうか。
マンガの影響は確かにあった。
写真は1969年の10・10集会の時の写真である。

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写真中央の赤旗に描かれているのは「ニャロメ」である。「ニャロメ」は赤塚不二夫の『もーれつア太郎』に登場する「ニャコメ!」と叫ぶ反抗的?な猫のキャラクターである。
この旗がどこの大学のものか判別できないが、党派ではなくノンセクトのものであることは間違いないだろう。
それでは『朝日ジャーナル』の分析を見てみよう。

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【“学生階級”その今日的構造 第2回 マルクス とマンガ 読書傾向に見る意識の変化】
編集部
マンガが学生の“必読文献”になってから、もう久しくなりました。まだ世のおとなたちの間では、最近の学生は落ちたもんだーーと嘆く声が多いようです。しかし,けっこうカタイ本も読まれていますし、まず「学生の質」を昔の尺度ではかることに、 無理があるようです。マンガと学生の関係を掘りさげてみれば、そこには “壊死する大学”の姿が、浮びあがってくるような気がしてなりません。

東京・阿佐谷の喫茶店P。ここのマスターは、雑誌に時々マンガ評論を書くほどの“通”。近くに住むマンガ家永島慎二氏は、この店の常連だ。むろん、数種類のマンガ雑誌は、必ずおかれている。
そのせいか、ここの客は、学生が圧倒的に多い。マスターの話によると、3年前、店にマンガ雑誌をおきはじめたころは、かなりの抵抗を感じたが、いまではマンガぬきの店の姿は、想像できないという。
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いまや哲学なみに
一人でコーヒーをのみにくる学生は、必ずといっていいほど、まずマンガ雑誌を手にとる。『少年サンデー』をめくっていたある学生のテーブルの上に、単行本が3冊。書名を見たら大江健三郎の『性的人間』、カミュの『ペスト』、ローゼンベルクの『資本論入門』の第六巻があった。もっとも、はじめからおしまいまでめくっていたのは、マンガ雑誌だけ。この学生も常連の一人で、友人とくるときは、2時間でも3時間でも、競馬の話ばかりしているという。
マスター氏が嘆く。
「いまのマンガは、もう末期的症状ですよ。もともとマンガは、デザートのように軽いものなのに、いまは哲学書や文学と同等なものとしてまかり通っている。
マンガ自体も、貸本屋時代にあった面白さは失われた。そのマンガに展開されているウスッペラな人生論に、感動する学生が多くなったというのは問題ですね」
マンガには造詣が深いマスター氏も、どうやら現代の学生からは、ナンセンスときめつけられる世代のようだ。
そこへふらりと現れた永島慎二氏の話。
「毎年いまごろになると、連日、ボクのところへ、学生が二、三人は訪ねてくるんです。といっても、地方の受験生や浪人が多いですがね。この間も東大の哲学科へいこうか、マンガ家になろうか、どうしようかというのがいました。また、ピアノを7歳からやっていて、相当の腕前らしい学生が訪ねてきて、マンガ家になりたいとかね。ポクはそういう人たちにいってやるんですよ。マンガ家というのは、他になにもする能のない人間がなるんだとね」
町工場からスタートしたマンガが、いまや大企業に成長したことに、マンガ家自身がとまどっている感じだ。
60年代以前の学生と、60年代ーーとくにその後半の学生とを区別する明白な指標の一つは、後者の生活にマンガが定着したということだ。数年前、本誌の投書欄の「読者から」で、学生がマンガを読むことの是非について、論争が展開されたことがあった。いまから見れば、こんな論争があったことさえ夢のように思えるほど、学生がマンガを読むのは当り前のことになっている。それでは、いま、どのくらいの数の学生が、マンガを読んでいるのだろうか。
昨年暮れ、『少年ジャンプ』(集英社)が、電通に依頼して読者構造の調査をしたことがある。同誌は一昨年創刊されたばかりで、しにせの『少年マガジン』(講談社)『少年サンデー』(小学館)にくらべれば、ほんの新顔。しかし、マガジン、サンデーの内容が、ややおとお向きなのに対して、低学年に的をしぼった編集方針が当り、いまやジャンプは先輩両誌をぬいて、発行部数約95万部と、少年週刊マンガ雑誌のトッブを切っている。

読者のトップは大学生
調査方法は東京都内23区を、下町と山の手の7ブロックにわけ、その地域の主要な書店・即売店で、昨年12月7日から9日までの間、ジャンプ46年1月1日号を買った428人に対し、面接調査した。
その結果、大学生が断然トップで27%。以下、高校生・予備校生19%、給与所得者(事務?労務)一九%、商工自営13%、中学生11%、小学生7%、その他5%の順。年齢別では19~21歳が43%を占め、14歳以下はわずか15%。
ジャンプ編集部も、読者層に大学生が多いとは予想していたが、これほどまでとは思っていなかったそうだ。低学年向きのジャンブでさえ、この数字だから、マガジン、サンデーの購買層の中で、大学生が占める位置は、ジャンプ以下であることはまず考えられない。
ところで、少年週刊マンガ誌は、現在どのくらい売れているのか。先の3誌に『少年キング』(少年画報社)『少年チャンピオン』(秋田書店)を加えた5誌の実売部数は、約300万部。このうち、少なくとも3割に相当する約90万部は、学生が買っていることになる。この数字は延べで、一人で2冊以上買う学生も多いことだろうから、実数はもっと少ないかも知れない。
しかし、学生は寮やサークル室などで、まわし読みする機会が多いし、その他のマンガ週刊誌を読んでいる者も加えると、実数においても、大学生のマンガ読者は90万人を下回ることは、まずないであろう。ちなみに、大学生の総数は約160万人。つまり、学生10人のうち6人は、毎週必ずなにかのマンガ雑誌に目を通しているわけだ。
マガジン、サンデーが創刊されたのが昭和34年。その年は東京タワーが完成し、皇太子のご成婚もあって、テレビが爆発的に普及していく時期でもあった。マンガとテレビの相乘作用で、マンガ好きな小学生、中学生が、マンガを“卒業”しないまま、大学へなだれこんでいった。だから、大学生がマンガを読むようになったというより、正しくはマンガを読む世代が学生になったというべきであろう。

ヒゲをはやした男が…
そこで、次のような通説が、既成の知識人の間ばかりでなく、一般社会にも根強く流布されるようになった。第一に、現代の学生はマンガばかり読んで、カタイ本は読まない。第二に、学生は論理的に思考する能力、知的水準が低下し、その質が落ちてきていると。
現場で学生と接触する大学教師たちの多くは、これを単に通説としてではなく、実感をもって受止めている。
東大の菊池昌典・教養学部助教授は、マンガ学生について「非理性への自己倒壊だ」と、否定的な意見をもっている。昨年暮れ、学生たちが手にしたマンガを、いろいろ読んでみて、「ヒゲをたくわえた20歳前後の青年が読む本とは、どうしても思えなかった」という。
菊池氏が、昨年9月、授業に出てきた一年生を対象に、入学以後に読み通した歴史書について、アンケートをとったときのこと。回答を集計すると、受験参考書的な世界各国史とか、日本の歴史などがほとんどで、実にガックリしたそうだ。
菊池氏の学生時代の体験からすれば、学生の必読文献ーーたとえば倉田百三の『出家とその弟子』のたぐいの本が、現在の学生にも当然あってしかるべきなのに、本といえば受験参考書程度のものでしかないのではないかという。はては試験答案の最後に「単位をちょうだいよ~ん」と、マンガ口調にかかれてあったりすると、いよいよ中年世代の理解の絶するところとなり、「これでは、かつての必読文献が、マンガにとってかわられたのでは……」と嘆くのである。
「読書への内発性がない。マンガを読む暇があれば、他の本を読めといってるんですが……。ある学生は、その内発性はどうすれば出るんですかと聞くんですよ」と、苦笑い。
だが本当に、学生はマンガばかり読んで、カタイ本は読まなくなったのだろうか。
このことの当否を検討する前に、学生にとってマンガはone of themであるということだけ、はっきりさせておかねばならない。マンガ週刊誌を一冊読むのに、30分とはかからない。5冊読んでも2時間半。新書を一冊読むほどの時間もかからない。学生に「なぜマンガを読むのか」と質問するのは若い女性に「なぜミニスカートをはくのか」ときくのと同じくらい愚問の典型で、ほとんどが「退屈しのぎ」と答える。前に述べたジャンブの調査でも、気分転換のために読むというのが、いちばん多かった。個々の学生にとって、1週間の生活サイクルの中で、マンガの占める地位は微々たるものであることは間違いない。
そうならば、現代の学生は、どのくらい本を読んでいるのか。これについて、全国的に調査した、キチンとした統計はない。しかし、大学生協連合会が行なっている学生調査のうち、書籍の購入データは参考になるだろう。昨年10月に実施した同調査は、4月旬に『第六回学生の消費生活に関する調査』として刊行される予定だが、すでに集計ずみの東京の五大学(法大、慶大、東大、早大、東京理科大)について見れば、昭和42年と比較した学生の月平均総支出は、第1表の通りである。
第1表 学生の月平均支出(単位=円)
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大学によってかなりの差はあるが、この3年間に学生の支出は、どこも物価上昇率を上回るスピードで伸びている。支出のうち、書籍代(雑誌を除く)が第2表である。
第2表書籍 代(単位=円)
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総支出の伸び率にくらべて、書籍代の伸びは鈍化しているが、これだけでは本を読まなくなったかどうかは、はっきりしない。学生生活が多様化しつつあることは、想像できる。
次に最近1ヵ月(45年9月)の書籍購入量を見ると、単純平均では法大4.4冊、慶大4.9冊、東大4.7冊、早大四4.3冊、理大3.4冊となっている。もっとも、この単純平均はあまり意味がなく、たとえば法大では1冊も買わなかった者が12.9%あるが、逆に8冊以上も買った読書家が11.4%もあるというふうに、本を買う者と買わない者の差がはっきり出てきている。この調査はあくまで購入量だから、そのまま読書量にはつながらない。その本も梶山季之の風俗小説かもしれないし、競馬必勝法かもしれない。

5月のベストセラー
そこでカタイ方の代表として、マルクス、エンゲルス両氏の人気はどうか。学生の町・新宿の紀伊国屋書店。ここでは毎週、文学、社会科学などジャンル別ベスト5と、全体のベスト25を集計している。めまぐるしく変るべストセラーズの中で、年間を通じてベスト25の中で見えかくれし、そして5月になると、必ずベスト10前後に姿をあらわしてくる本が2冊??岩波文庫の『共産党宣言』『空想より科学へ』である。
『共産党宣言』は66年5位、67年10位、68年4位、69年9位、70年14位(いずれも5月で、もっとも上位にあったときの週)。5月に売れるのは、そのころが新入生も腰を落着けて本を読み出す時期にあたっているからだろうと、書店では推測している。ことしも、3月3日から9日までの数字で19位、やがて上位にあがってくることは確実。まさにロングセラーの典型だ。
『マルクス=エンゲルス全集』の発行元の一つである大月書店の話によると、1年間の発行部数は毎年ふえており、しかも学生数の上昇を上回っている。
同全集が労働者の問で読まれていることを計算にいれても、学生の潜在読者層は厚く、睹買部数は減るどころか、着実に伸びていることを示すものだろう。また、ここ1、2年の変った現象としては、獄中の学生から、マル・エン全集やレーニン全集の内容目録の申込みが殺到したそうだ。
東京・神田にあるウニタ書房。左翼関係の本、パンフレットのたぐいが、セクトを問わず店頭に並べられている。だが、2、3年前に比較すると、最近ではセクトの機関紙誌よりも、公害闘争などの個別闘争のパンフがめだつ。売れゆきも「この1半ほど前から、トロッキーを含めたマルクス主義の原典が多い」のが、このごろの特徴だそうだ。
むろん、売れゆき上々のマル・エン全集などが、学生たちにどこまで読まれているか、定かではない。ツンドクもかなり多いのではないか。ウニタ書房の社長・藤忠夫氏は「10年ほど前は、マル・エン全集などをセットで買うか、一巻から順に買う学生が多かった。最近では、たとえばレーニン全集の第七巻をくれといって、買っていくんですね。マルクスの著書などを文庫本で買う学生は、だいたい一応は読むと考えていいでしょう。そういう意味で、文庫本を買うように、全集のなかのある巻を指定する今日の学生の方が、目を通す比率は高いんじゃないでしょうか」と経験的なカンに基づいて判断している。
マルクス、レーニン以外では、吉本隆明、埴谷雄高、黒田寛一氏らの著書が比較的コンスタントに売れている。逆に、全共闘運動以後、バッタリ動きのとまった本も少なくないという。その典型が丸山真男・東大教授の著書だ。
これは、一つの小書店での現象とはいえ、戦後の長い期間社会科学の必読書だった『現代政治の思想と行動』『日本の思想』などが、もはや学生の相手にされないことは、現代学生の意識をさぐる上で示唆に富んでいよう。

テレビっ子の鋭い感覚
東京女子大学の副田義也・助教授は、読書の量と質について今と昔の学生を比較検討したことがある(『青少年問題」70年10月号)。一昔前の学生ーーつまり現在の成人世代が、大学生のころにどの程度本を読んでいたかの資料はないため、直接の比較はできない。そこで成人期にはいっても青年期における読書水準を比較的よく維持していると思われるグループを取出し、彼らの現時点における読書と現代学生のそれと比較するという方法をとった。そのグルーブとは、小・中・高校の教師であり、かれらの読書の実態についてかなり詳細な調査が行われていたことがあったので、資料としても信頼できるという利点もあった。
まず読書量では、1カ月の間なにかの書籍を読んだもの教師83%、学生89%。また冊数では教師が3冊以上28%、2冊24%、1冊31 %、学生は3冊以上54%、2冊19%、1冊16%。読書の質では、教師は通俗小説のベストセラーズが圧倒的なのに対して、学生は専門書が過半数を占めている。両者を比較する場合の種々誤差を計算にいれても、副田氏は「現代の学生たちの読書は旧世代にくらべて書籍の量においていくらか、質においてかなりすぐれているとおもわれる」と推論している。使った資料が64、5年のものでやや古いが、基本的傾向は現在でも変っていないだろう。
次に第二の通説、学生たちの論理的な思考能力は低下しているということの当否はどうか。ことしの東大二次試験で、はじめて論理式が採用されたが、採点にあたった教師たちの間で、この方式はいまの学生には荷が重すぎ、論理の展開に無理があるという声すら出たという。
こうした声はまったく感覚的なもので、過去のある時点と比較して、現在の学生の質が低下していると実証することは不可能である。
ただし、いまの学生をかりにマルクス(ヘーゲルでも、西田幾多郎でも、津田左右吉でもいい)だけを読む学生と、マルクスもマンガ(ニューロックでも、ゴ?ゴーでも、オトキチでもいい)も読む学生と、マンガだけを読む学生の三つに分類すれば、第一のグループは少なく、第二・第三のグループが圧倒的に多いことは、想像にかたくない。
旧制の大学生、その中でも帝国大学の学生は、第一グループがもっとも多かった。さらにその中でも、書物を通じて真理に到達することに、無上の生甲斐を感じる者が、大学教師になった。その人たちから見れば、行動先行、フィーリング先行の現代学生は、質が悪くなったと考えるのは無理もないだろう。だが、カタイ本を読みこなせる能力を身につけることによってのみ、真理に到達できるわけでもあるまい。学生運動、創作活動、登山、ゴーゴー、マンガを通してだって可能であろう。第三のグループがあながちダメな奴ともいい切れないのだ。
最近のマンガ学生は、旧世代にはなかった能力を身につけているのかもしれない。あるマンガ週刊誌の編集者は、「最近の子ども(学生を含む)は、ホンモノとニセモノを見分けるのが実に敏感になりましたね」と語っていた。一連の大学闘争を通じ、既成のアカデミズムの虚構が明らかになっだいま、高名の学者の著書だからといって、学生がありがたがったり、とびつかなくなったりしたのも、そのひとつの現れであろう。
また、マンガ家の真崎守氏は次のようにいう。「マンガなら、学生はなんでもいいというわけじゃなさそうだ。自分に合わせてマンガを選ぶ感覚が鋭い。学生というより若者ですがね」

大学に抵抗する武器
要するに、マンガを読む若者の方にも、主体性が出てきたというわけだろうか。これは情報の洪水の中で泳がされていた10年前と違って、テレビっ子であるがために身についた抵抗力といえるかもしれない。
真崎氏の指摘する若者の感覚からいえば、別に学生たちはマンガでなければならぬという理由はない。ロックにしても文学でも、映画でもよく、他にいくらでも考え出せるものだ。
マンガ学生が出てきたのは数年前のことだが、大学がマンガ学生を普遍化する構造になっているのは、それよりはるかに以前からだった。これが学生の大衆化といわれる現象である。すでに昭和26年、林達夫氏は「十字路に立つ大学」(『共産主義的人間』所収)の中で、次のように指摘している。
「大学の教師でいちばん滑稽なことの一つは、性懲りもなく4月の学期始めになると学生のことごとくが本格的な知識的熱意に燃え学問の蘊奥(うんおう)を極わめようとして教室に集ってくるという錯覚に陥ることである。……
しかし人間のすべてが考える器械ではない。体系的思考や論理的操作には甚だ不得手な別の心の型もある。ところで数としては案外に多い、そういう違った型の心の持ち主は、こういう思考型の支配する大学では、さっぱりその所を得ず、気乗りがせず、その機構の中で己れの能力を磨き出し、鍛え上げるてだてを有せず、多くの場合、その犠牲になってしまうのが、そのほとんどのすべてのものの運命ではなかろうか。……この点大学というところは……制度が人を逆支配し、不具にし、圧殺している一つの生きた実例である」
その「実例」は、いまなお「生き」ている。マンガは、それを読んでいる学生が意識していようがいまいが、現代の大学に抵抗する学生たちの武器のひとつになっているのではないだろうか。
(終)

【「カチューシャ」とウクライナ戦争】の紹介
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『「カチューシャ」とウクライナ戦争』(彩流社)定価2,200円 (税込)前田和男 著
日本では青春のラブソング、独ソ戦では戦時愛国歌謡、現在では北朝鮮兵士がロシアで歌うカチューシャの歴史を読み解く歌謡社会学

『昭和街場のはやり歌』(彩流社)の続編で、ロシア歌謡の「カチューシャ」からロシアのウクライナ侵攻の行方を読み解く試みです。
白井聡氏から推薦をしてもらいました。
たとえば、以下のエピソードから、ウクライナ侵攻の決着を占います。

▼「カチューシャ」はスターリン体制下で生まれ、ヒトラーとの壮絶な「大祖国戦争」を鼓舞した「軍歌」であり、「スターリンの死のオルガン」と恐れらたロケット砲の愛称でもあった。
▼2022年2月ロシアのウクライナ侵攻の半年前、東京五輪で「国歌」代わりに要求しIOCから「愛国的」として却下された歌、それは「カチューシャ」だった。
▼ウクライナ侵攻から1年1か月後の2023年3月22日、モスクワ中心部に近いルジニキ競技場に若者や軍人など20万人が参加してウクライナへの軍事行動を鼓舞する大規模集会が開催。その冒頭を飾ったのは兵士たちによる「カチューシャ」の大合唱であった。
▼「中国の人気歌手の王芳がロシアの攻撃で占領されて廃墟となったウクライナ東部のマリウポリ劇場を訪れ、『カチューシャ』を熱唱し、それをインターネットに投稿した」
▼2019年。「如意(ルーイー)」と「丁丁(ディンディン)」のつがいのパンダがモスクワ動物園へ。そして、ウクライナ侵攻がはじまって1年後の2023年に待望の赤子が誕生。翌2024年3月に般公開されたが、ここで着目すべきはその子の名前。なんと「カチューシャ」。これまで日本はもちろんロシアをふくむ世界の 国々に贈られた中国外交のシンボルは、その子供をふくめてすべて中国名。それは贈り主に配慮しての外交的辞令だが、中国政府はこれにクレームをつけるどころか、歓迎して同国メディ アでも報じられた。
▼さる6月上旬、ロシア国営テレビの女性レポーターが、現在ウクライナでもっとも戦闘が激しいと伝えられるクルクス州の最前線で訓練中の北朝鮮兵士を取材、戦闘中の意思疎通をはかるために 「朝露の会話 集」が作成されたと報告、ついでボルシチなどのロシア料理にもなれ、スマホで映画を見放題で満 足しているという兵士のコメントを紹介し終わると、北朝鮮兵がいきなり「カチューシャ」を朝鮮語でうたいだした。

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校1専門学校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在16校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は8月22日(金)に更新予定です。