今回のブログは、「雑誌で読むあの時代」シリーズとして、『朝日ジャーナル』(1971年4月30日号)に掲載された「“学生階級”―その今日的構造 第6回」を掲載する。
「学生階級」ということについての連載記事であるが、第6回目は1968年から1969年にかけての全共闘運動や党派の活動家6人について、闘争へかかわり、闘争に何を託し、そしていまいかに生きているかについて、かなり細かく取材した記事である。
この記事が書かれたのは1971年の4月。全国の大学のバリケードも消え、全共闘も解体しつつある時期である。1972年の沖縄返還という政治闘争はあったが、多くの大学では70年安保闘争という政治課題の中で脇に追いやられていた個別大学の課題について、全共闘という形は取らないまでも、全共闘の精神を引き継いだ新たな共闘組織で取り組もうとしていた時期でもある。
この記事の中に、日大のK君の話が出てくる。K君は1970年8月に『全共闘機関紙合同縮刷版』(全共社)を出版して赤字になったという。この『全共闘機関紙合同縮刷版』は、当時、私も日大関係者に買わされた。定価で2,000円もする本なので、最初は断ったのだが、押しつけ販売で買わされて今でも手元にある。当時ラーメン1杯70円の時代なので、今の物価に換算すると2万円くらいの本だろうか。この記事を読んで、昔のことを思い出した。


【学生階級その今日的構造 第6回 カラッとした放浪者 活動家の軌跡②】
編集部
ここでは 68年から69年にかけた全共闘運勤の活動家6人の軌跡を追いながら、学生たちがどんな契機から闘争にかかわり、闘争に何を託し、そしていまいかに生きているかの個別具体例を報告します。ひとくちに全共闘運動といっても学生たちがそこに託したものはまことにさまざま。しかし同時に 共通しているのは<生きがい> を求めた一種の “文学的運動”ではなかったか、ということです。
東京都内中野の木造モルタルの民間アパート。六畳の居室と四畳半の台所。風呂もついた小ぎれいな部屋が、元日大全共闘副議長のK・S君と、同じ日大全共闘の学生だったCさんの新世帯だった。
本棚には、マルクス・エンゲルス全集、レーニン全集が並び、そのまわりにカフカ、ムニヤチコ、梶井基次郎、吉本隆明などの著作が雑多にとりまいている。
K君(24)は日大除籍後いま自称ルンプロ。 Cさん(23)は理工学部をなんとか卒業して昨年から東京都衛生局公衆衛生部に勤めるOL。二人は闘争中に結ばれた。K君の話では、「日大全共闘の中で、闘争中にいっしょになった連中はずいぶんいますよ」という。アンケッカンとした二人の共同生活がうかがえた。
同じ都内の目白にある小さな出版社K社。大通りから狭い路地を入った木造2階の事務室。ガラフンとした部屋の中央で、 元上智大全共闘議長のT君(25)が一人で電話番をしていた。肩までかかる長髪、メガネの奥に、気だるそうな表情があった。
「闘争から離れて3年間、自分のキズをなめなめ生きてるんですよ」と、なげやりな調子でもらすのだった。
大阪市内の大手の化学会社に勤めるA君は、元京大全共闘のメンバー。工学部を卒業して昨春ここに就職。「会社のために働け、働けといわれつづけてますよ。ときどきデモにいってみたりするんだけど、なんとも気が重たい」と、苦笑まじりに話すが、 顔には言葉ほどの屈託はなかった。
同じ京大全共闘(文学部)だったS君(25)には京大西部講堂で開かれたロック集会で会った。数百人の長髪、ジーズンスタイルの若者たちが、ギターやドラムの発するリズムを全身で受けて酔いしれているわきで、これも長髪にヒグをたくわえたS君は、「この集会、ボクたちがおぜんだてしたんですよ」と打ちあけた。ロックに魅せられて、全国各地のロック集会を準備しているとか。生け花の未生(みしょう)流の代理店の社員という仕事をいっぽうで持ち、自由がきくのをさいわいロックに熱を入れている。
東京・御茶ノ水駅前の喫茶店で会った元東大全共闘のM君(24)は布地のカバンをさげていた。「いま、猛烈に本が読みたくなってきたんですよ。表現論、認識論、精神分析論など読んでいます」。
カバンの中には、その種の本が数冊。彼は、昨年春、いったんは拒否していた履修届提出を仲間たち数人とともにすませて、ふたたび東大文学部社会学科にもどった。いま、二度目の3年生。
「ボクはいま、相対的視点に立って大学にもどり、大学院へも進もうかと思っている。どの道を選んでも同程度にくだらないとすれば、大学院に進んだって同じことではないか。どこにいて何をしていても、そのこと自体いいことでも悪いことでもなく、いまの自分を独自的・自立的存在として意識しているかどうかが決定的に重要なんだ―いま、こんなふうに考えているんです」と、多弁に語るのだった。
新たな何かへの期待
M君は高校時代からの短距離走者。東大入学と同時に陸上部に入り、100メートル11・3秒を記録し、67年の第一次羽田闘争の日も、自己の記録更新を目指して記録会に参加していたという。その彼が、活動家の道を歩みはじめたのは、68年4月、東大文学部社会学科に進学したときからだ。
当時をふりかえると、「そのときは、<何でもいいから、自分の世界を少しでも広めたい>と考えていた。<いまは何をおいても、体をきたえ、知性をみがき、自分の力量を貯えておく準備期間だ>と思っていた。自分をもっと成長させたいと考えて、学友会委員に立候補した」。
つまり、学友会委員立候補は、<自分を成長させるため>の数ある選択肢の中の一つだった。陸上部で11秒の壁に挑むことと同じだった。ライバルもなく、委員に当選。医学部処分に端を発した東大闘争は、6月17日の機動隊導入を機にいっきょに広がっていった。
「学友会委員として積極的に誠実に闘争にかかわっていくことが、そのままボクが活動家になっていくブロセスだった」
A君の場合も「誠実さ」の点では同じだ。高校1年で60年安保闘争に参加。京大に入学してからも“左翼的意識”は高からず低からずで、文科系の学生にはひけ目を感じながら、自治委員などになって活動していた。
全共闘として活動をはじめたのは69年になってからだ。A君は67年秋の羽田闘争より、翌秋の東大闘争の中で出された“東大都市工宣言”の方がショックだったという。それまでは、東大で“帝大解体、国大協路線粉砕”のスローガンで長期ストを貫徹できるのが理解できなかった。69年に人って東大の友人との討論などから、また大学闘争にかかわり出したころおこった安田トリデの攻防、つづいて悪名高い京大の逆封鎖によって、大学を直感できたという。理論の構成は雑だったが、そこから自分の存在を見ていこうとしたんです」
A君の場合は、だから党派の影響はそれほどなかった。東大・日大闘争を見る目が、自分たちの大学、自分たちの学問に闘いが向けられていった結果なのである。
京大のノンセクトは全共闘のなかでそれほど大きな勢力でなく、だいたい相似した契機をもっている。
S君も文学部だが、全共闘で活動をはじめたのはA君と同じころ。64年入学、あまり大学には足を向けず、家でぶらぶらしていたという。たまたま学校へ行ったところ、逆バリでとんでもない騒ぎとなっている。「ひどい大学だ。いくらなんでも・・・」と思ったそうだ。
67年の羽田闘争では、「日本の政治もどうにかなるかなあ」という程度だったが、こんどは大学のやり方に反発して全共闘による大学封鎖戦術に積極的に参加した。しかし、S君はただの怒りだけからでなく、「全共闘運動に何かしら新しい幻想共同体の志向を期待して」文学部の中心的な活動家になっていった。
50%支持できれば
T君は64年に上智大に人学すると同時に、サークルは社会思想研究会を選んだ。大学闘争の輝かしい伝統を持つ早大に進学し、「政治問題と正面から取り組みたい」と意欲を燃やしていた彼には、早大入試に落ちたことは大きな誤算だった。だから、平和ムードにつつまれた上智大でもっとも左翼的といわれた社思研に入ったのは、いわば必然だったという。そこには、革マル、社青同解放派、民青が奇妙に共存していた。はじめに革マルからオルグされて、彼はほとんど迷いなくそれをうける。
「いろんな党派の主張をきいても、100%支持できるなんてのは一つもなかった。だとすれば、50%ぐらい支持できればそれでもいい、あとはいきがかりだ、ぐらいに考えてていたんですよ」
革マルシンパだった彼に、さらに強烈な“いきがかり”が見舞った。1年生の夏、三派系と革マル派とが早大構内ではじめて内ゲバを起し、たまたま革マル派の一員としてそこにいた彼も、角材を手に必死でなぐりあった。仲間たちか何人も打ち倒され、血を噴いていた。
「ひどいことしやがると思った。同時に、ボクの中にこのときから革マル派の一員としての党派性が定着してしまった。意見の違うヤツは、やっつけるしかない、と思いきめた」
T君は2年生になると、上智大における革マル派キャップに推される。そのとき、「ともかく自分のパトスをこめるものが得られた」と、彼は思ったという。
K君とCさんが出会ったのは、66年春、日大文理学部のサークル、社会科学研究会であった社研は、キャンパスが右翼系学生による日常的な暴力支配下におかれていたなかで、唯一の左翼的サークルだった。 K君は広島県の私立高校新聞部で、しだいに強まってくる管理体制に反発して学校攻撃を続け、反抗の手段として軟派学生の仲間に入り、「素行不良」で退学処分をされた経験を持っていた。 Cさんは浦和市の県立女子高時代から、社会党青年部の仲間といっしょに『共産党宣言』を読む会に参加していた。
サークル活動に社研を選んだ学生たちは、それだけで大学からマークされる状況だったという。中核、プント、ML、社青同解放、フロントから民青まで、ほとんどの党派がここに集まっていた。その中で、中核がやや力が強く、K君もCさんもオルグを受ける。K君がー足先に中核派に入り、Cさんがあとからつづいた。 K君の場合は、「ボクの生来の正義感、悪く言えば単純なところが、中核派の明快な論理と合ったから」。Cさんのオルグは、すでに彼女にひかれはじめていたというK君が、積極的に受け持った。
68年、日大闘争の爆発。 K君はすでに中核派のキャップ。Cさんは「最後までそれほど党派性を持ちえなかった」というが、K君とともに行動していった。
霊感・言葉・試み
「全共闘運動というのは、高揚期でいえば、暗闇の中に満ちているもの、 つまり闇の中の霊感といったものだった」。こう語るのは、ロックをやっているS君だ。S君たちの志向した新しい“幻想共同体”も、一時的にせよバリケ-ドという限られた空間に実際に在在した。「バリケードの中ではみんな何か解放された感じでした。京大ではバリ祭なんかも催して、文化的な闘いでもあった」という。バリ祭は当初新入生オルグのためだったが、主催者の全共闘の活動家が全面的に“のった”わけだ。この新しい試みは、「一部全共闘内での秩序派の抵抗があったけれど。6月ごろまでつづいた」。S君にとって、そこには新しいコミュニィティーが確かに存在していた。
A君にとって暗闇の霊感とは、たとえば、“自己否定”という言葉であった。言葉そのものの意味は多様で定義づけは困難だったが、それだけに「帝大解体など具体に即して理解していくうち、そこで生きている自分の存在をいいあてる言葉」として不思議な魅力をもっていた。
K君、Cさんにとっても、日大闘争は「ボクが<人間らしく生きている>という実感を与えてくれた」(K君)。「親のすすめで選んだ日大だったけど、よそへいかなくてよかったと」(Cさん)という共通の生きがいの場だった。
二人は闘争の過程で、「必然的に」同棲生活に入る。Cさんの両親は、K君を「暴力学生集団のリーダー格」として、なんとか娘を引き離そうとしたが、Cさんは家出してK君の元へ走った。「古田体制と家族帝国主義のどちらにも打ち勝つことが、ボクらにとっての日大闘争だった」という論理で。
社会学科でコミュニケーション論を専攻するM君は、東大闘争の高まりとともに、積極的に多くの人間とかかわりを持ち、闘争の論理を関心の薄い仲間たちに伝える努力を重ねた。「闘争前までのボクは(ボクだけではなかったが)、 一対一ならなんとか語りあえても、二人以上の人間に伝える共通の言語がなかった」という。
M君にとって、東大闘争の過程で次々とかかげられた政治的スローガンはほとんど興味はなく、「自分自身が生き生きと活動できる闘争とは何か、を模索するのか東大闘争だった。その限りでは、闘争の中のさまざまな苦しみも含めてたのしかった」そうだ。
T君は「党派の中心にいて活動することは、“禁欲主義”に耐えていくことを意味した。そして耐えることが、生きかいだった」。彼は68年8月、米タン阻止闘争を指導して川崎市で逮捕されたことがあった。3泊4日で出所したが、「もっと長くぶちこまれていればいい、と願った。不可視の不安の中で、自分をどこまで保てるかを徹底的に試してみたかったのだ」という。
「敗北感はない」
闘争の高揚か引いた69年から70年にかけてのキャンパスで、活動家たちは新しい選択を迫られていた。
S君が京大全共闘の戦線を離れたのは、69年12月だったという。その年の9月、機動隊の日常的導人によって“大学正常化”が推し進められ、全共闘は授業粉砕闘争にもう一度結集しようとしたが、教室のすぐわきまで機動隊が固める状況の中で、闘争はほとんど無効だった。
彼はそのとき、直接的な反権力闘争の決定的敗北、つまり“政泊の季節”が終っていくのを痛感したという。全共闘ノンセクトの衰退と同時に、彼も全共闘から離反していった。だがそれは、S君にとっては転向でも裏切りでもなかった、と強調する。
「全共闘運動にはもともといろんな要素があって、政治レベルだけではとらえきれないものも多かったはずだ」
バリ祭が彼にとってそうだった。バリケードの中で“新しい幻想共同体”への志向を感じとっていた、という彼は、さらにバリ祭でロックにはじめて出会い、そのリズムの中にアナーキーな“新しい社会”を直感したという。
「ニュー ・ロックには、現在の体制にとっての牙がある」というのが、S君の持論だ。「政治闘争も必要なことはわかるんですか、いまのボクは、このロックが持つ反体制の牙を大切にしていきたい」。
こうした論理がどれだけの共鳴を得るかは別として、ともかくこうしてS君は、全共闘から離れた。しかし全共闘運動のある一面を確実に継承していると信じて、彼はロック集会の計画・準備に奔走する生活を選んだのだという。
K君とCさんの場合は、「ボクらは物理的にやられたか、内面的にはまだまだ日大闘争を継承していく力量はあったと思う。だから、ボクらには離脱、転向、裏切りなどという意識はいまもない」といいきる。
K君もCさんも多くの全共闘メンバーとともに、69年1月から2月にかけて機動隊の力でバリがつぶされていったあとも、明大学館などに“亡命”しながら、70年のはじめまで日大闘争の高揚を再現させるために腐心した。その過程で、二人とも69年春には党派から離反している。
K君はふりかえってこういう。
「ボクははじめからゴリゴリの中核だったけど、68年9月の9・30大衆団交で、ノンセクトのエネルギーに圧倒された。団交はたしかにぼくらが<演出>したが、その結果はボクらが<計算>したよりはるかにすさまじい力となってあらわれた。このときから<党派とか指導部なんてむなしいなあ>と思っちゃった。<大衆の一人になりたい>と、いまも思っている。もっとも、一度党派性を身につけた人間は元へもどれないだろうけど」
中核をはなれ、ルンプロ生活を願うK君にCさんも協力し、さきにふれたように70年4月、「どさくさまぎれに」都庁へ就職。この年、全国の全共闘学生で行き場のない連中が都庁を受験し、逮捕歴の者だけても三ケタに達したという。彼ら全共闘系(いまは反戦系)の職員たちは「70年連絡協議会」を組織しているという。Cさんもそれに加わった。
「代々木系の支配体制の中では、はじめ考えていたほどには動けない。でもわたしたちの場合は、わたしが労働者、K君が学生のままの心の放浪生活。二人あわせると一人で二人分の生活を経験できることになるでしょう」と、たのしそうに笑うのだ。
「闘争を離脱したのではない」という意識はM君にも強くある。M君は69年1月9日、安田闘争の直前に構内で逮捕され、4ケ月拘置された。5月に出所したM君は、東大全共闘の衰退ぶりに驚いたが、それ以上に駒場共闘のリーダーが「敗北宣言」を公表してキャンパスから去ったと聞いて怒りすら覚えたという。
「全共闘運動というのは、ボクの理解としては自己の固有性に基づいた運動だった。固有性が確立していないから敗北宣言が出せる。東大全共闘といっても、いろんな人間がいたんだなあと思った」
M君はいまも、「敗北感はない」。就職した仲間を訪ねて、無力感や罪悪感に悩んでいる姿に接すると、「自分さえ見失わなければ、そう悲観したもんではない」と力づけているという。
「緊張の時」への渇き
大企業に就職したA君の場合は、少しニュアンスが違うようだ。
彼がその道を選んだとき、心の中では、「全共闘運動をくぐってきて、やりようによっては大企業なら鋭い闘争が組めるのではないか」という期待があったという。だが、直面した管理化社会の壁は厚く、組合は御用組合。いま彼は、1年間の実感として「この会社の中では、もはや全共闘運動を、ボクの原点とすることはできない」ともらす。
A君はこの1年間、街頭デモにときどき参加するほかは何もできなかった自分を、「卑屈な存在」だと自嘲しながら、同時に、「どう生きるかわからないし、展望もいまのところないが、絶望はしていない。労働者としてやれるだけのものは失っていない。ぬるま湯になれてしまわなで、熱くなるか冷たくなるかを決めるような、緊張する場を自分でつくっていかなければ・・・・ 」という。その言葉のあとさきで、「自分でいってることか本当だったりウソだったり・・・」と付け加えながら。
T君の場合は、「闘争を捨てた。仲間を裏切った」という原罪意識を持ち続けている。68年9月、彼は革マル派内の主流派から「大衆闘争至上主義で党派作りをさぼっている」と激しい非難を受け、「ひたすらわずらわしさから逃亡したくなって」大学を去った。8月に退学処分を受けていたことも、逃亡の一因だったという。
上智大闘争はまだ続いていた。 T君が離脱したあと、10月にバリスト、12月には機動隊導人による無期限ロックアウトと状況は激変したが、そのころ彼は、飯能市の自動車工場でプレスを手にして肉体労働する下請工となっていた。
「50%支持できれば」と革マルを選んだ彼は、党派内闘争にたちまちいや気がさしてあっさりと捨てた。彼はいう。
「あんなに簡単に選んだり捨てたりしたということは、ボクの主体が、それほどに軽いものだったということでしょう。最近ある人からそれをいわれて、目が覚める思いだった。いままでのボクは、何事にも<徹する>ことをしなかった。ボクの主体を形成することを怠ってきた。いまはなんでもいいから徹しよう、その中でもう一度、自分を作り直そうと思っています」
労働と精神の彷徨
T君は目下、収入はゼロだという。 K社は一千万円という赤字を累積して、経営は危機状態。3月から勤めはじめたばかりのT君は、まだ一度も給料をもらってない。しかしそれを気にしているふうもない。
「おやじからときどきパクッてるから、なんとか飲み代ぐらいは・・・」と笑う。
父親は、化学系の中流企業の経営者だ。
「当分は結婚も考えたくないし、人とかかわりあうのもできるだけ少なくしたいと思っているから、女の子ともつきあわない。カネが手に入れば、飲むし、なければジッとしてるだけ」
T君は闘争から離脱してK社にいたるまでの3年間に、日産の下請工、芝居の演出と制作、ファッションショーの主催、レジャー雑誌の発刊などを転々としたという。このルンプロ生活を保証してくれたのは、「結局はおやじの資力と、<お前が全力投球できるものがあるなら思いきりやれ>という父親としての許容があったからだ」といま思う。
ルンプロ生活は、彼に100万円という個人的負債を残した。「友だちからの借金はなんとか待ってもらえても、雑誌やってたときの印刷会社の催促がきびしいんで・・・」と、笑顔から深刻な表情へと変るのだ。
K君とCさんの共同生活は、経済的には東京都職員のCさんが支えている。月給4万1600円は、同じ日大全共闘のメンバーだったO君と二人で全共社という名の小出版社を経営し、秋田明大君の『獄中記』と『全共闘機関紙縮刷版』の二冊を発刊したが、その結果100万円の赤字を残した。 K君にいわせれば、「採算ははじめから度外視して、日大闘争に自分なりの決別を告げるための手段だった」。O君はある大学の生協職員として就職し、K君は、「残本をある程度さばいたら、全共社はたたんでしまう」という。そして、「ルンプロ生活をいつまでも続けていきたい」と願う。アルバイトでな食いつなぐことは、「いまの東京ならなんとでもなる」と楽観的である。
Cさんは、「当分は公務員生活をつづけるけれど、食うためだけに働くいまの生活は、できれば早くやめたい。わたしもKといっしょに、ルンプロ生活ができたらなあと思う。いまの食品添加物の毒性検査という仕事は、それなりにおもしろいけれども、代々木系の人たちのように<人民のための仕事>なんて生きがいにすることは絶対できない。いまのわたしは、<遅れず、休まず、働かず>の逆で、<遅れて、休んで、適当に働いて>という毎日。これもそんなに長くは辛抱できそうもないなあ」と笑いながら語るのだ。
大企業にいるA君は、よく署名運動の用紙の職業欄に“労働者”と書くそうだ。
「サラリーマンといった方が自分にはぴったりするんですが」といって彼は笑う。
管理が徹底した会社では、“仕事は仕事、自分は自分”と割切って、自由な時間を活動にあてようとする人が多い。が、A君はそれは否定する。「むしろそう考えるところに、許容範囲の広い大企業での落し穴があるんだと気づいたんです」という。仕事に忠実であることが、会社で政治の話などをできなくさせる日常を生み出していくとすれば、自分の意識が企業を乗りこえられないと考えるからだ。残業なんかやりたくなくとも、断りきれないシステムがあり、一方では「それでも時々仕事が楽しいと感じられるときだってある」という。
A君は、“労働者”とサラリーマンの間を住復しながら「何とか中から闘いを」という初志を貫きたいと、今でも希望は失ってはいない様子であった。
(終)
【「カチューシャ」とウクライナ戦争】の紹介


『「カチューシャ」とウクライナ戦争』(彩流社)定価2,200円 (税込)前田和男 著
日本では青春のラブソング、独ソ戦では戦時愛国歌謡、現在では北朝鮮兵士がロシアで歌うカチューシャの歴史を読み解く歌謡社会学
『昭和街場のはやり歌』(彩流社)の続編で、ロシア歌謡の「カチューシャ」からロシアのウクライナ侵攻の行方を読み解く試みです。
白井聡氏から推薦をしてもらいました。
たとえば、以下のエピソードから、ウクライナ侵攻の決着を占います。
▼「カチューシャ」はスターリン体制下で生まれ、ヒトラーとの壮絶な「大祖国戦争」を鼓舞した「軍歌」であり、「スターリンの死のオルガン」と恐れらたロケット砲の愛称でもあった。
▼2022年2月ロシアのウクライナ侵攻の半年前、東京五輪で「国歌」代わりに要求しIOCから「愛国的」として却下された歌、それは「カチューシャ」だった。
▼ウクライナ侵攻から1年1か月後の2023年3月22日、モスクワ中心部に近いルジニキ競技場に若者や軍人など20万人が参加してウクライナへの軍事行動を鼓舞する大規模集会が開催。その冒頭を飾ったのは兵士たちによる「カチューシャ」の大合唱であった。
▼「中国の人気歌手の王芳がロシアの攻撃で占領されて廃墟となったウクライナ東部のマリウポリ劇場を訪れ、『カチューシャ』を熱唱し、それをインターネットに投稿した」
▼2019年。「如意(ルーイー)」と「丁丁(ディンディン)」のつがいのパンダがモスクワ動物園へ。そして、ウクライナ侵攻がはじまって1年後の2023年に待望の赤子が誕生。翌2024年3月に般公開されたが、ここで着目すべきはその子の名前。なんと「カチューシャ」。これまで日本はもちろんロシアをふくむ世界の 国々に贈られた中国外交のシンボルは、その子供をふくめてすべて中国名。それは贈り主に配慮しての外交的辞令だが、中国政府はこれにクレームをつけるどころか、歓迎して同国メディ アでも報じられた
▼さる6月上旬、ロシア国営テレビの女性レポーターが、現在ウクライナでもっとも戦闘が激しいと伝えられるクルクス州の最前線で訓練中の北朝鮮兵士を取材、戦闘中の意思疎通をはかるために 「朝露の会話 集」が作成されたと報告、ついでボルシチなどのロシア料理にもなれ、スマホで映画を見放題で満 足しているという兵士のコメントを紹介し終わると、北朝鮮兵がいきなり「カチューシャ」を朝鮮語でうたいだした。
【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校1専門学校の記事を掲載しています。
●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在16校の投稿と資料を掲載しています。
【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は9月5日(金)に更新予定です。

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