今回のブログは、「雑誌で読むあの時代」シリーズとして、『朝日ジャーナル』(1971年5月14日号)に掲載された「“学生階級”―その今日的構造 第7回」を掲載する。
「学生階級」ということについての連載記事であるが、第7回目は60年安保闘争に関わった活動家の「その後」10年の軌跡を追った記事である。
60年安保闘争は70年安保闘争の10年前。当時、60年安保闘争経験者と接する機会はほとんどなかった。
60年安保闘争経験者の話を聴けるようになったのは最近のことであるが、『叛乱論』などの著書がある長崎浩氏は、以下のように語っている。
「樺美智子を国民葬として送葬した国民運動は、安保闘争を通過儀礼として、ではどんな60年代をもたらしたのか。
安保闘争は55年以降の戦後政治過程に特徴的な国民動員方式の頂点でした。つまり、平和と民主主義をめぐって国会では与野党の対決、これに呼応して総評社会党主導の統一行動が組織され国会へ向けてデモが行われます。このモデルがその後ピタリと終わりを告げます。そしてその足元で、御存じの経済高度成長と大衆消費社会が盛りを迎えていました。「所得倍増」などという池田勇人首相の嘘のような約束がどうやら本当らしい。当時私自身、大学助手の月収が2万円、それが6年間に確かに倍増以上になってびっくりした覚えがあります。ここでまた、先の私の著作『1960年代』から引用します。
この年(1960年)の6月から3か月ほど、私は家に帰れない事情に置かれていた。岸内閣が倒れ代わって池田内閣が成立し、私がはじめて深夜家に帰ったとき、家にテレビが入っているのを発見した。それまでは私鉄の駅前広場に据え付けられたテレビの前で、黒山の人だかりにまじってプロレスなどを見ていたのである。だからこの私の帰宅の夜から、「高度消費社会」「所得倍増」の10年がまさに始まったのである。私には、自分たちが期せずして高度消費社会の水門を開いたのだという唖然たる思いが、その後長くつきまとった。
(10・8山﨑博昭プロジェクト東京集会「60年代の死者を考えるーレクイエムを超えて」【長崎浩氏講演 「樺美智子と私の60年代」】)
もう一人。元東大全共闘代表の山本義隆氏。
「実は私自身は、樺さんが殺された6月15日には風邪を引いて寮の部屋で寝ていたのですが、そのこともあってなんとも吹っ切れない想いというか負い目のようなものが気持ちの中に残りました。もしかして、この想いこそがその後10年間の私の歩みの原点なのかもしれません。
このように私は6・15闘争に衝撃を受け、それまでの中途半端な関わりを悔やむことになった次第です。そんなわけで、翌日からはほぼ連日国会に向かいました。そして改定安保条約が参議院の議決を経ることなく自然承認された19日の夜、国会前で徹夜しましたが、翌朝総評の宣伝カーが「10年たったら闘いましょう」と言っているのをぼうっと聞いて「あっ、10年先か」と思いましたが、発言する方もリアリティがないので、聞く方もリアリティがありませんでした。」
(『私の1960年代』 山本義隆著)
60年安保闘争は「高度経済成長社会」の幕開けだったということである。そして、リアリティのない「10年後」の安保闘争。60年安保闘争を戦った活動家たちは10年間、どのような人生を歩んだのだろうか。
【“学生階級”その今日的構造 第7回 屈折のなかの沈黙 活動家の軌跡③】
編集部
60年安保闘争を闘った学生活動のほとんとは、58年、物神崇拝を排し、日共の引力圏から脱して結成された<新しい党> 共産主義者同盟 (ブント) に依拠していました。彼らが安保ブントに託したものは何か、闘争の中で何を得たか、就職にあたってそれをどう継承させようとしたか、そして10年ののち、結果はどうだったでしょうか。
「60年」から11年
「いまのボクには、確信をもっていえることはたった一つしかない。 <自分のこどもがかわいい>ということ。それ以外は、何をいってもウソがまじる。< レボリユーション>ということばや『インターナショナル』のメロディーは、かつてポクを感動でしびれさせたけれど、いまは何も感じさせてくれない」
Sさん(32)は、63年早大政経学部卒。いま、4人の仲間と東京・渋谷にマーケティング・リサーチの会社を経営する。4人とも重役兼社員という極小の企業だ。二歳半の女児の父。
Nさん(31)も63年に東大文系卒。都内の大手広告代理店に勤める。この3月に結婚したばかりだ。背広にネクタイ、腕元に光る社員バッチを指で押えながら、
「サラリーマンとしての最低の条件である身だしなみ、出勤時間、与えられた仕事の消化などは、厳守する。だが、それ以下でもそれ以上でもない。ボクの会社における基本姿勢は<居直り>。同時に、若い連中のようにそう簡単にはやめないで、あくまで<居残って>いくこと。<挫折>ということばは生理的にきらいだが、いまのボクはそう呼ばれてもやむをえない。安保闘争にエネルギーを燃やしつくしたんだろうか、いまは何も燃えるものがない。賭けマージャンと、競馬には瞬時的に燃えるんだが・・・」と自嘲するのだ。
昨年秋、経営勉強のためにアメリカへ行ってきたというAさん(35)は、61年京大経済学部卒。現在は、京都のある食品会社の専務さんにおさまっている。学生時代から、当時対立していたある革新政党の書記長の顔に似ていたそうだが、今では恰好まで似ている。
「今じゃ宇野弘蔵とか大内兵衛のようなマルクス経済学者の本は読まない。そんな本より経済企画庁の出している経済白書の方がよほどぴったりくるね」というのが本人の弁。しきりと「資本主義は変った」と強調したり、「官庁の中にえらくよく勉強している奴がいる」というのが持論だ。
この会社には、被雇用者に学生運動経験者も少なくないといわれている。が、周囲の話では、もっぱらAさんの経営合理主義の発想からだという説がつよい。Aさんが経営に乗出してから会社もずいぶんと伸びたからだ。
68年から69年にかけて高揚した全共闘運動は、活動家たちがそれぞれ<生きがい>を求めた文学運動としての側面を強く持っていた。彼らは、自分の感性に忠実であり、多様な自己表現を示した。それは、闘争へのかかわり方、闘争の中での生きざま、<その後>の選択の仕方なと、すべての局面にみることができた。では、60年安保闘争の活動家たちはどうだったのか。まず、彼らはどのように闘争にかかわっていったか。
義務課題・マルクス主義
Sさんは東京生まれ、早大付属高校から早大へ進んだ。高校時代に『共産党宣言』『国家と革命』『なにをなすべきか』などマルクス・レーニン主義の古典を数人の仲間と読みあった。「ほとんど理解できなかったが、運動するにはともかく読まねばならぬと思いきめていた」。
マルクス、エンゲルス、レーニンかち黑田寛一、宇野弘蔵、へーゲル、そしてトロツキーへ、さらに谷川雁、吉本隆明の著作へ。「ともかく読まねば」という義務感的な動機とその読書過程は、多少のパリエーションはあっても、60安保の活動家にほとんど共通だったといえる。
この点、全共闘運動の活動家たちが各人各種の読書歴を持ち、その多くがマルクス・レーニン主義の古典も「わかりにくい」「おもしろくない」と、あっさりしりぞけてしまっているのと対照的である。
Sさんは、高校時代に勤評闘争を経験して59年に早大へ。その前年、全学連は代々木の引力圏から脱出し、共産主義者同盟(ブント)を結成していた。しかしSさんが入学早々に選んだ社会主義研究会は、当時はまだ代々木系の全自連の活動家か支配していた。高校時代から「日共の官僚主義への反発をほのかに抱いていた」というSさんは、結成まもないブントに入り、全自連系と対立。「しかし、彼らとの理論的闘争の中で、ボク自身もずいぶん鍛えられたと思う」という。
警職法闘争から安保闘争へ。「安保改定は阻止できる、いや、何がなんでも阻止しなければ、と信じて、全力あげてかかわっていった。まじめさ、真剣さ、ということでは少しのいつわりもなかった」という。
Nさんは、大阪市の南部で生れ、興国高校に通った。高校時代の活動歴はない。だが、級友には、未解放部落や在日朝鮮人の生徒が数多くいて、差別の現実と日常的に直面していた。このころ、「この国の社会の底辺を形づくる差別構造をなくさないかぎり、本当の解放などあるものか」と痛感していた。いっぽうで『きけわだつみのこえ』を読み、あの戦争のさなかにも歴史の行方をみきわめていた学生たちがいたことを知って、「彼らはよほど勉強していたのにちがいない。ボクも勉強しなければならない」と期した。
菓子問屋の父が病死して家計は苦しかったが、アルバイトと奨学金で自活することを条件に59年東大へ。駒場寮での一年間は、Sさんとほぽ似たような読書過程をたどりながら、歴史学研究会、社会主義研究会、新聞会の先輩・同輩とつきあいつつ、マルクス・レーニン主義に接近していった。「この国にも体制を批判する勢力がいたのかと、はじめて知ったようなザマだった」。
高校畤代に抱いた差別構造への激しい怒りは、読書と、警職法闘争に続く、59年の“安保前哨戦”の経験を通して、安保阻止→岸内閣打倒→体制変革という図式に「楽観的に」むすびついていった、という。アルバイトの家庭教師をすませてからデモへ、あるいはデモを終えてから家庭教師へ、という日々もしばしぱだった。
57年に京大に入学したAさんの場合も、学生運動にかかわることは同時にマルキシズムに近づくことであった。
「マルクスの『共産党宣言』から『経哲手稿』を読むことはインテリへの急行券のようなものだった」とAさんは当時の雰囲気を説明している。
むろん、きっかけはそんな単純なものではなかったが、今のAさんにとって、他の要素は「あまり重要ではない」。インテリへの急行券を手に入れて、当時のマルクス主義運動の波にもろにもまれていった。だから、平和擁護闘争などを通じて全学連の党員と共産党主流との対立にも、Aさんは「58年入党したが、脱党するために入ったようなものだ」った。
Aさんは、マルクス主義運動の中に、人間解放に燃える自分を感じとっていたが、「それは大学の日常生活とは全くかかわりのないものだった」と今となって回想している。
60年当時の学生運動がマルクス主義運動と直接結びついていたことが特徴とすれば、Aさんはその典型であった。
帰郷運動のショック
ハンガリー事件が大きな転回要素となって、Aさんたちの世代は反スターリン主義の思想的堅固さを次第に共有してきた。Aさんは結成前のブントに、自分の気持と行動の一致を感じていたという。つまりその時のブントで「きわめて肉感的な経験をした」。
「当時のブントは、いわば全共闘と同じような質をもっていた」と話すAさんはイデオロギーよりも運動に多くかかわっていった。絶対的に勝たねばと思っていた勤評闘争、警職法阻止闘争の敗北の後、59年の12月、Aさんは京大同学会の委員長に推された。そして60年安保をこの立場で闘うことになった。一時、全学連の中央にも関係したが、60年安保での舞台は、3、4回東京へ出ただけでほとんど京都で闘ったという。
60年安保の敗北は、ブントにとっても転機であったように、Aさんにとっても直接的には敗北のショックと、間接的には所属するブントの混乱・解散によって転機となった。
そのうえ、ちょうど同時期に国際共産主義連動に决定的な影響を与えた『モスクワ宣言』で思想的な転機とも重なった。幾重にもある要素で、Aさんは組織とかイデオロギーに不純なものを感じるようになっていったという。
「安保は阻止できる」と確信して安保ブントの活動家として闘争に参加していったSさんにとっては、「安保闘争はまぎれもなく政治闘争だった」。彼も、闘争の過程で「<生きている>というたしかな充実感はあった」と認めるが、全共闘運動の活動家の多くが、なにはともあれ闘争に<生きがい>を求めたのとはやや異なる。そこではあきらかに、「安保阻止」という政治課題が先行してあった。
安保は成立した。が、その時点でも、「10年先の闘争にむけて、草の根の工ネルギーを貯えるべきだ」という主張だった。夏休みを迎えて、地方出身の学生は「帰郷運動」のために続々と帰省していった。「故郷」を持たぬ彼も「地方の人びとに安保闘争の意義を伝えたい」と、母の出身地、群馬県館林市外を訪ねた。ブントが発行したパンフ・ビラなどを用意し、地方の同世代の青年と夜を徹して語りあいたい、という彼の願いは、しかし、みごとにはずれた。
「彼らは、終始沈黙したままだった。ボクはなんとか彼らの関心を高めたいと、6月15日前後の国会周辺での激突場面の写真を示し、できるだけリアルに説明したりもした。そのときは、彼らも興味を示したが、闘争の意義や全学連の理論などはほとんど反応してくれなかった。<オレは活弁師にすぎないじゃないか>と気づいたとき、どうにもシラケちゃって・・・」
夏休みが統って帰京した仲間たちの感想も、彼と大同小異たった。彼らとの討論の中で「われわれの失敗は、そもそも<闘争の意義を伝える>ということばの背後に、<無知な大衆に教えてやるのだ>という思いあがった啓蒙主義があったからだ」と気づいていったという。
「安保成立のときのショックよりも、帰郷運動とその反省の中で受けたショックの方が、あとあとまでこたえた」
その後は、しばらく「優」の数をふやすことに専念する。学問に期待感があったからではない。不況がうわさされ、活動家への門戸はきびしくなるという風説に、「若干おびえた」。優をとるためだけの勉強は、いわば技術であり、あとには何も残らなかったが、ともかく逮捕歴もなかったから活動家としての痕跡を抹殺でき、中の上ぐらいの成積で卒業した。
きたない手段も
Nさんにとっても、「安保闘争でエネルギーを燃やしつくした」とはいえ、「安保阻止」は絶対命題だった。だが、駒場キャンパスにおける中心的活動家の一人だった彼にとっては、当面の課題は、駒場寮の寮生大会や代議員大会で全自連系をいかに制して多数派をとるか、だった。「ありとあらゆるきたない手段を弄した」。たとえば、全自連系のリーダーのアジ演説が最高潮に達するころ、「あいつは党の地区委員だ。毎月8千円の手当を党からもらってんだ」と、人垣の学生に耳うちしてまわり、「よう!お手当8千円」とやる。爆笑の中で、アジ演説の効果はいっぺんにふっとぶ。
「政治的緊張感の中にも、マヌーパー(うまく操作する)を駆使してゲームを楽しむような気分もあった」
当時のブントを指導した活動家たちは、組織にも理論にもほとんど信仰を抱いていなかった。“ブント雑炊論”といわれたように、黒寛も宇野もマルクスもトロツキーも、利用できるものはなんでも利用しようという姿勢であった。組織もまた、ピラミッド型に確立されていたわけではなく、とくに60年6月に入ってからは、状況の激しい進展に指導部も理論にもとづいた方計決定を出せなくなり、各大学自治会単位で行動した、という。
6月15日深夜、すでに樺美智子さんの死が確認されたあとだった。国会に再突入をはかろうとした全学連の前に、Nさんには思いもかけず、全自連の学生、日共が指導する労働者らがピケを張って立ちふさがった。全学連の隊列は、背後の機動隊とピケラインにはさまれ、分断されて、そこへ機動隊が襲いかかってきた。Nさんも後頭部を強打されて倒れ、あとは2、3度体が宙に浮くのを感じただけで、意識を失った。
「ポクの安保闘争は、あのときで終わったのです。機動隊にぶん投げられているとき、ふっと意識をとりもどしたんだけど、そのとき<オレはなぜここにいるんだろう>と思った。それは実に白々しい感覚だった。絶対的な疎外感だった。おそらく、機動隊への恐怖感、戦列からボロボロ欠けていった連中へ不信感、ピケを張った労働者や学生への怒り、樺さんの死のショックなどがないまぜになった結果だろうけど、あれいらい、すべてのエネルギーが消えていってしまった」
彼も、安保闘争後に起こったブント再建の動きに背をむけて、キャンパスにもどり、「進級に必要なギリギリの勉強」で、留年することなく卒業した。
表面には立つまい
Nさんは「その後」の選択をひかえた四年生の夏、活動家だった仲間たちと、「これからは目立つ存在にはなるまい。社会の表面から消えてしまおう。のたれ死にだけはしないで、まっとうにタタミの上で死のう」と確認しあったという。
いまの広告代理店に縁故就職するとき、社長の前で、口頭ではあったが「組合活動はいっさいやらない」と約束した。約束は、いまも守っている。
「もちろん、会社への恩義もクソもない。企業への帰属意識は、いまの若い人より希薄じゃないかな。ただ、始めから体制内改良闘争に賭けてみる気などなかったのです。労働者階級そのものに、強い不信感を抱いていたともいえる。安保以後、労働戦線は急速に右傾化するだろう、と予測していた。右傾化を阻止するのだと、勇んで飛びこんでいった連中もいたが、ボクやまわりの仲間は、ムダなことだと思っていた。しょせん東大出のボクらは、たとえ努めてみても労働者になれない。なまじ安保闘争の中で、代々木との激しい抗争できたならしいマヌーバーを身につけてしまったから、むしろ害毒を流すぐらいが関の山だ、と思ってからです」
労組執行部の会社との駆け引きや、組合員への働きかけをみていると、なんとも幼稚にみえる。つい口を出したくなっては、自制する。「俺が教えられるのは、うすぎたないマヌーバーだけだ」
仕事は、「給料分だけ」をメドに片づける。仲間とくらべても、同じ仕事を半分ぐらいの時間ですませられることにかすかな自負を抱くが、それだけのこと。「上方志向性はまったくないですね」と断言する。
その彼が、「闘いというにはあまりにささやかなものだが」と前置きして、しかし広告代理を依頼するスポンサーが、あきらかに公害企業である場合、その仕事を絶対に引き受けないことにした、という。彼の理由は、
「いまのボクは、個人の自立領域を侵すものは計さない、というのが信条。プライバシーを絶対に侵害させない。たとえば、ボクが結婚したとき、会社と労組が祝金を贈ろうといったがことわった。ボクの結婚は、会社や労組と関係ない。妙な関係を強要されたくない。公害は、自立領域を侵害する最大のものだから、これとは妥協したくない」
そうはいっても、彼の低抗がほとんど無効であることは承知している。彼がことわっても、他人にまわされるだけだ。
「まあ、いまのところ自分の手だけは汚したくないということだけ。でも、ボクのような人間がたくさん出てくればおもしろい。他人にむりにすすめるつもりはないけれども・・・」。
Nさんは卒業後8年にして、かつて見向きもしなかった“有効性の論理”にやや近づこうとしているかに見える。しかしSさんの場合は、その逆だ。
職場改良闘争の結末
Sさんはつい最近まで改良闘争に「賭けてみた」一人である。卒業後、彼はマーケティング・リサーチの中堅会社に就職、昨年11月に脱出していまの会社に参加したのだが、前の会社では、入社の翌年に組合員68人の労組の執行委員長、4年目からは委員長となった。上部団体もなく、運動方針もない、しかも半数が高卒の女性で課長までが組合員という小組織。必死のオルグで、ベア闘争や期末闘争でストライキ権を確立できるまでにはなったが、そのあとは不発。課長の組合員(12人)らの切り崩し工作にしてやられた。
一昨年秋、社長は彼自身を課長補佐に昇格させて、行動を封じにかかってきた。彼はまもなく委員長を辞任。その直後に、彼が育てた労組は25歳の委員長の下に若い組合員が団結し、賃上げ、社長のワンマン経営阻止をスローガンにストに突入したのである。
「痛烈な皮肉でしたね。ボクは彼らに乗り越えられたーーこのことは明確な事実だけれども、過渡的に有効性を持つことができたのかどうか。ひょっとしたらボクなんかいない方がもっと早くストに入れたんじゃないか。こう考えたとたんに、帰郷運動の真似事で経験したと同じようにシラケた気分になって、太宰治の『トカトントン』じゃないが、何もかもいやになってしまった」
まもなく、以前に同じ会社にいて独立した先輩3人が、「お前もこないか」と声をかけてきた。その誘いに飛びついた。4人の共同出資による運転資金100万円だけでは経営は苦しく、給料も前の会社より2万円も低い約5万円。
「こんな小さな会社でも、3ケ月間無収入でやっていけるだけの運転資金が必要だし、たえず拡大していこうと努力して、ようやく現状維持が可能なんですよ。<資本の論理>に振り回されているわけです。でも、学生時代から引きずってきた重苦しい<過去>を、忙しさの中でなんとか断ち切っている状態で、ある種の解放感はありますね」という。
60年安保闘争の敗北にいたく挫折感を感じたAさんは、「あれくらい絶対的なもの、神のようなものがなくなった」といういい方をする。それでも同学会幹部として12月まで頑張るわけだが、それはちょうど第一次ブントの崩壊過程でもあった。
「61年春卒業したが、率直にいえば、その状況から、また組織から逃げ出せてうれしかった」というのがAさんの本心だった。
こうしてAさんは貿易会社に就職。「安保闘争の経験は、64年ごろまで余波が残った」というAさんは、しかし、入社して組合活動をやるわけでもなかった。ある友人は商事会社に入って、こつこつと活動をつづけ、組合をつくったという。が、Aさんにしてみると「2,3年ずれて考えてみると、彼の場合あまり意味がない」と思われた。「そんなことは余波の中での精神安定剤みたいなもので、自分の時間をマージャンしているか組合活動をしているかいずれかだ」というぐらいにしか考えなかったという。
経営合理主義者の顔
「共産党の宮本顕治は優秀な“経営者”だ」と感心して話すAさんは、66年、家族が経営する食品会社に移った。その会社の中で、「事態が混沌としている時は非常に政治的に動き、平穏な時はダラ幹だ」という評価を受けているそうだ。そして「俺は組織を維持することは苦手だ」と笑って話す。
「人間社会を解放すべき組織が極めて非人間的で、他の組織体も同じことだ」というわけだ。見方によっては自己弁護でもあるし、逆に言えば60年ブント時代の影響がまだ抜けきれてない証でもあろう。
たとえば、「思想的なもの、組織的なものは2、3年継続すればダメだ」といういい方もするのだ。そしてこれが、今のAさんの生き方でもあり、また経営管理の基本的方針とも理解されるのだ。
学生時代、"きれ者"だったAさんは時代の先取性と待望主義を兼ね合わせたような理論なのだが、そこでおよそマルキシズムは関係ない。Aさんの中国にかけている期特は大きい。が、それは社会主義国としてでは全くないのだ。「中国は20年ぐらい遅れた資本主義国」と考えているほどだ。
最近ではそんな感じと期待を卓球代表団の中で受けたという。「文化的に退廃しているといわれるスウェーデンの選手と中国の選手の目が一番よくかがやいているんですね」。このスウェーデンと中国選手の目の中に、Aさんは時代の先取性を感じて、新しい資本主義を予言するわけだ。
そんなAさんの予言は"遅れた資本主義国“中国に限らない。日本でも、大学で起こった造反が、今度は企業へ、マネジメントの領域にまで及ぶのは避けられないとみている。そういうAさんはその来たるべき造反を乗りきろうとする若手経営合理主義者の先導者のようにみえるのだ。
ただAさんの場合、かつての活動家たちと個人的つながりは切れず、「ボーナスなどすっかりカンパにもっていかれてしまう」とこぼしている。「個人的な免罪符かな」という時、このAさんにも、目に見えない負い目が感じられた。
70年につなぐ努力
Aさんの年代は安保の敗北の時期と、就職試験という人生岐路を決める時期が近い。当時の事情を同じ京大文学部卒のUさんはこう説明する。
「ブントの中で、本気に革命近しと考えていた部分は、少なくとも就職を全く異なった価値のものとしてみていた。そうでなくとも、もう一度高揚がくるんじゃないかという幻想もあって、就職がいくぶんうしろめたく感じられたんじゃないか」という。
Uさんの場合はどうか。彼はブント支持のノンセクトだったが、同学会の中央委員もやった。「敗北のときは挫折というより、行動のエネルギーがまったくなくなった。虚無感ですね。ブントはロマンチシズムだったから挫折したんだと思う」。
就職を決定したのは10月、それまで虚無感からくる根なし草の状態から、もう一度自分自身を再構築しようと思ったという。入ったのはマスコミ関係の会社だ。が、組合への幻想はない。実際、組合は60年秋、完全に御用組合となっていた。「結局、何もやらなかった。しかし出世のチャンスはあったけれど、それも異次元のこととして否定していた」とUさんは話す。
今、Uさんは、「10年かかってやっと日々の日常の中で具体的な再構築ができた」という。 Uさんの会社で、68年ふつふつしていた不満から、「ゲリラ的に闘う戦闘的第二組合」をつくって、Uさんもそれに積極的に参加している。7年間は何か「混沌とした気持で眠りながら、すごしたわけです」。
今では、学生時代以上に解放されたい欲求は強い、というUさんは、どちらかといえば70年新左翼運動の中で、やっと60年を闘った自分を見出したというわけだ。再び、『ドイツ・イデオロギー』などマルクスの文献をよみ直しているともいう。
“第二組合のゲリラ活動の中で60年を再発見した”と話すUさんは、60年と70年をつなごうとする一つの典型でもあろう。
(終)
【「カチューシャ」とウクライナ戦争】の紹介

『「カチューシャ」とウクライナ戦争』(彩流社)定価2,200円 (税込)前田和男 著
日本では青春のラブソング、独ソ戦では戦時愛国歌謡、現在では北朝鮮兵士がロシアで歌うカチューシャの歴史を読み解く歌謡社会学
『昭和街場のはやり歌』(彩流社)の続編で、ロシア歌謡の「カチューシャ」からロシアのウクライナ侵攻の行方を読み解く試みです。
白井聡氏から推薦をしてもらいました。
たとえば、以下のエピソードから、ウクライナ侵攻の決着を占います。
▼「カチューシャ」はスターリン体制下で生まれ、ヒトラーとの壮絶な「大祖国戦争」を鼓舞した「軍歌」であり、「スターリンの死のオルガン」と恐れらたロケット砲の愛称でもあった。
▼2022年2月ロシアのウクライナ侵攻の半年前、東京五輪で「国歌」代わりに要求しIOCから「愛国的」として却下された歌、それは「カチューシャ」だった。
▼ウクライナ侵攻から1年1か月後の2023年3月22日、モスクワ中心部に近いルジニキ競技場に若者や軍人など20万人が参加してウクライナへの軍事行動を鼓舞する大規模集会が開催。その冒頭を飾ったのは兵士たちによる「カチューシャ」の大合唱であった。
▼「中国の人気歌手の王芳がロシアの攻撃で占領されて廃墟となったウクライナ東部のマリウポリ劇場を訪れ、『カチューシャ』を熱唱し、それをインターネットに投稿した」
▼2019年。「如意(ルーイー)」と「丁丁(ディンディン)」のつがいのパンダがモスクワ動物園へ。そして、ウクライナ侵攻がはじまって1年後の2023年に待望の赤子が誕生。翌2024年3月に般公開されたが、ここで着目すべきはその子の名前。なんと「カチューシャ」。これまで日本はもちろんロシアをふくむ世界の 国々に贈られた中国外交のシンボルは、その子供をふくめてすべて中国名。それは贈り主に配慮しての外交的辞令だが、中国政府はこれにクレームをつけるどころか、歓迎して同国メディ アでも報じられた
▼さる6月上旬、ロシア国営テレビの女性レポーターが、現在ウクライナでもっとも戦闘が激しいと伝えられるクルクス州の最前線で訓練中の北朝鮮兵士を取材、戦闘中の意思疎通をはかるために 「朝露の会話 集」が作成されたと報告、ついでボルシチなどのロシア料理にもなれ、スマホで映画を見放題で満 足しているという兵士のコメントを紹介し終わると、北朝鮮兵がいきなり「カチューシャ」を朝鮮語でうたいだした。
【昭和20年生まれからキミたちへ】の紹介

『昭和20年生まれからキミたちへ』(世界書院)定価1,650円(税込み)
終戦の年の昭和20年に生まれた各界で活躍する10人のロングインタビュー。
▼彼らが戦後の復興から高度成長期そして現在までの80年をどう生きてきたのか。彼らの生き方を通して戦後の日本の足跡が見えてくる。
▼そして彼らが若者に託すメッセージは何か。
▼東京新聞の連載企画を大幅に加筆した。
【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校1専門学校の記事を掲載しています。
●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在16校の投稿と資料を掲載しています。
【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は10月3日(金)に更新予定です。


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