2025年10月8日は、1967年の佐藤首相の南ベトナム訪問を阻止するために戦われた10・8羽田闘争から58年目となる。
この58周年に近い10月5日に、10・8山﨑博昭プロジェクト主催により、午前に羽田・弁天橋での山﨑博昭君追悼及び萩中公園近くのお寺にあるお墓のお参り、そして午後には萩中公園集会所での記念集会があった。
今回のブログは、その報告である。写真を中心にドキュメント風に当日の様子を報告する。
2025年10月5日(日)
【献花・黙祷@弁天橋】
午前10時45分
近寄ってみると、阿含宗の「東京湾・多摩川水害犠牲者供養・東京湾地震津波除災」の護摩法要があるとのこと。ここでこのような行事に出会うのは初めてである。
午前11時25分
午前11時30分
参加者は約30名。初めて参加する方もいたので、山﨑プロジェクトの発起人である佐々木幹郎さん(詩人)から説明があった。
「本当は、福島泰樹(発起人:歌人・法昌寺住職)が来ていろいろ(読経など)とやってくれる予定だったんですが、法事が重なって今日は来られません。
説明します。(弁天橋は)当時は木の橋で道幅は現在の2分の1。ちょうど正面のところのあたりですが、(山﨑博昭が)機動隊に撲殺された。我々は毎月8日にここに来て黙祷をしています。黙とうは1分間」
(黙祷)
【五十間鼻無縁仏堂の平和地蔵にお参り・献花】
午前11時40分
五十間鼻無縁仏堂の前に到着。
仏堂に渡る桟橋の前には由来を記した看板がある。
<五十間鼻無縁仏堂の由来>
「創建年代は不明でありますが、多摩川、又関東大震災、先の第二次世界大戦の昭和二十年三月十日の東京大空襲の折には、かなりの数の水難者が漂着いたしました。その方々をお祀りしていると言われております。
元は、多摩川河口寄りの川の中に角塔婆が一本立っているだけでありましたが、初代漁業組合長故伊東久義氏が管理し、毎年お盆には盆棚を作り、有縁無縁の御霊供養をしていました。昭和五十三年、護岸工事に伴い現在地に移転しました。その後、荒廃著しく、仲七町会小峰守之氏、故伊米次郎氏、大東町会故伊東秀雄が私財を持ち寄り復興致しました。(後略)」
水難者をお祀りするために作られたお堂で、地元の方々が護っている。
「五十間鼻」という名前は、大田区観光協会のサイトによると
「水中に長さ50間(約90m)に渡り石を敷き詰め、洪水時の急流から岸辺を守るために作られました。水難事故者を供養する無縁仏堂が建てられています」とある。
佐々木幹郎さんが「平和地蔵」について説明。
参加者は桟橋を順番に渡り「平和地蔵」に手を合わせていた。
「平和地蔵」は雨の日も風の日も弁天橋に向かって立ち、平和への祈りを続けている。
「平和の地蔵」は地元の方が護っていただいており、季節によって衣装が変わる。今年は暑いので、まだ麦わら帽子を被っている。夏の装いだ。
(平和地蔵)
「平和地蔵」へのお参りが終り、参加者は萩中公園に向かった。
萩中公園までは歩けない距離ではないのだが、参加者の皆さんも高齢となり、短い距離ではるがバスに乗車して向かう。辻さんが「全員乗車!」と号令をかける。30名も乗ると、バスは貸切り状態。
萩中公園でバスを降りて、福泉寺へ向かう。
【福泉寺の墓碑と記念碑の前にてお参り・献花】
午前12時25分
参加者は順番に手を合わせていた。
(山﨑博昭君の墓碑)
墓碑の下にある墓誌(記念碑)には、以下の文章が刻まれている。
(墓誌文章)
「反戦の碑」
1967年10月8日 アメリカのベトナム戦争に加担するために日本首相が南ベトナムを訪問 これを阻止するために日本の若者たちは羽田空港に通じる橋や高速道路を渡ろうとし デモ禁止の警察と激しく衝突 重傷者が続出し 弁天橋の上で京都大学1回生 山﨑博昭が斃れる 享年十八歳 再び戦争の危機が高まる50年後の今日 ベトナム反戦十余年の歴史をふり返り 山﨑博昭の名とともに かつても いまも これからも 戦争に反対する というわたしたちの意志を ここに伝える
2017年10月8日
10・8山﨑博昭プロジェクト
午前12時55分
【10・8山﨑博昭プロジェクト秋の東京集会
午後1時15分
午後1時45分
どうも皆さん、今日はようこそお集まりくださいました。幸いにも、健康に恵まれて、朝から多くの人が弁天橋まで来ていただき、福泉寺のお参りにも参加していただけました。まさか高市早苗という人が総裁になるとは思いもかけないという、日本はこれからどうなるんだろうという時代に入っております。そういう時代で、私達は絶対ここから先は引き下がらないという形のものも見せていきたいと思っています。
今日は山﨑建夫さんが出席できなくてメッセージをいただいております。
「2年続けての欠席をお許しください。最近は腰痛がひどく、最寄りの駅までも歩けなくなっています。捻挫されたままで台湾まで出かけられた水戸喜世子さんのことなどを考えると恥ずかしい限りです。最近接するニュースが世界の規模で、また日本でも心を痛めるものばかりですが、私は座視するだけになっています。残念です。発起人の皆様、賛同人の皆様、集会参加者の皆様にお詫びします。様々な分野でご活躍の皆様のご健闘を祈っております。
10月5日 山﨑建夫」(拍手)
それでは講演を始めさせていただきたいと思います。最初に山本義隆さんの「テクノファシズムと高度成長 戦後80年を顧みて」。それからそれに引き続いて真鍋祐子さんの「トラウマと社会変革 心的外傷後を生きる韓国社会にかんがみて」。これを続けてやった上で休憩、それから水戸喜世子さんと重信房子さんのお話を伺って、最後に関西から新田さんのお話を伺います。という形で今日は進行したいと思います。では、山本義隆さんよろしくお願いします。
※ 山本義隆さんと真鍋祐子さんの講演については、後日ブログに掲載予定ですので、省略します。
午後4時
(休憩)
午後4時13分
休憩終了後、水戸喜世子さんと重信房子さんからの発言、関西からの報告があった。
●水戸喜世子さん(発起人:十八羽田救援会)からの発言
皆さんこんにちは。今日皆さんこうやってたくさん集まってくださって本当にありがとうございます。
これだけたくさんいらっしゃるんだったらば(山﨑)建夫さんも今日いらっしゃらないので、山﨑春子さん(※山﨑君のお母さん)からいただいたコアラの親子の縫いぐるみを持ってくればよかったなと後悔していますけれども、今、真鍋さんおっしゃったように、私達は死者を本当に大切にしてるのかなってことをつくづく思いました。もう何かお話を聞いて、涙がもう本当にこぼれそうになって困りましたけれど、山﨑君のお母様のことを思い出していました。
私は救援の立場ですので、救援をしていて山﨑さんとのお母さんとのお付き合いでしたけれども、本当に大切な息子さんを亡くされて、その後、文通というか救援新聞が出てまして、10・8救援会の救援新聞ですね。(10・8の)犠牲者、そこでたくさんケアをしたり、失明したり、逮捕されたりした人の救援をしようというそういう新聞を作ってたんですけれども、そこに(山﨑君の)お母さんがおは手紙くださって、必ず命日にはカンパを寄せて、「その人たちに使ってください」っていうんで、カンパを寄せてくださって、そのお母さんの家計簿というのを建夫さんが見せてくださったことがあって、本当に細かく大根1本いくらって、労働者の家庭で育った息子ですよね、彼は。その本当に貴重な家計簿にいろんなこと書いてあったんですけれども、やっぱり息子さん亡くされたときは本当に言葉がなかった、そういう中での思いを大阪から、私たちはそのとき東京に住んでたんですけど、東京の東久留米ってところの国家公務員住宅の小さいアパートに住んでましたけれども、そこまで建夫さんとお母さんと2人でそのコアラのぬいぐるみを持って、10・8で逮捕されたり傷ついたり人の役に立ててくださいっていうんで、そのときわざわざ家まだ来てくださったんですね。そんな思いを思い出しています。
今の山本さんのお話と真鍋さんのお話は本当に繋がって、もう本当に心に響く話でした。とりわけ真鍋さんのお話の中で、私は3.11ですね、福島の東京電力の事故の後で、福島の子供たちの被ばくをさせないっていう運動ずっとやってまして、韓国にも何回も行ったことあるんですね。反原発っていうことで行ったことがあって、今もちょっと確認したんですが「東学党の乱」って皆さん習いましたよね。
「東学党の乱」が起きた場所、扶安(プアン)ってところに韓国の原発の核廃棄場を作るっていう計画があって、そこの人たちもものすごい闘いをしたんですね。中心にいたのはやっぱりキリスト教と仏教とが真ん中にいて、市民が本当に町ぐるみ、廃棄場にするのを反対だっていうことで、決めてきたのはどうしようもない町長が1人で決めてきた。「廃棄場うちで引き受けますよ。海がそばにあるし外へ出しやすい」ということで、町長が勝手にお金がもらえるからって、利権絡みで引き受けた話なんです。もう町中反対で、その反対の仕方がそれこそ3歩進んで1歩下がって3歩進む。これをやりながら、ソウルまで行くんですよ。今の話でソウルに向かったって話をお聞きして、「ああ歴史ってこうやってみんなの心の中で繋がってくんだ」と思って、もう感動して聞いてたんですけども、そこもロウソクデモで毎晩毎晩、みんな仕事を抱えてるから、主に漁業の町なんですけれどもね。漁業、農業やった後で、町の一番大きい広場に舞台を作って、それで歌ったり踊ったりなんですけど、みんなでロウソクを持って、私達みたいなもう寒くて耐えられない人には、もう本当に分厚いオーバーをかけてくれて、私達も住民投票もあったもんですから何回かそこへ支援に行ったんですけれども、その闘い方が今の話と、本当に地域で女の人はみんな坊主にして頭を剃って、ソウルに向かってやめてほしいという訴えに行く。子供たちは同盟休校して教会で待たして、ちょうど三里塚みたいな、そういう子供たちの学習をさせるんですね。子供もお母さんも、本当に町ぐるみで。機動隊が常駐していて、昼間ぶつかり合ったりするんですけれども、だから町にある大きな病院はもう怪我人だらけで、夜の集会が始まると病院から手を振って、みんな頭に包帯巻いたりした人が手を振って私達を応援してくれるっていう、そんな闘いが扶安(プアン)でありました。
ちょうど今日ここにいらっしゃらないからそのことをぜひ報告したいと思うんですけれども、ベトナムに行きましたよね。ベトナムに浴衣を着て参加した女性が覚えてらっしゃる方もおると思いますが、近藤ゆり子さんっていうここのメンバー(賛同人)ですけれども、彼女は大垣に住んでいて、大垣で公安が市民運動を調査してるっていう事がばれた。それはなぜばれたかっていうと、朝日新聞のスクープで、実は関西電力の子会社が、風力発電をしようとしてたんですね。風力発電をするために誰が反対するかっていう、それを調査させたいっていうんで警察に相談に行くんですよ。反対しそうな市民運動やってる人の情報を教えてくれっていうんで、警察に行った。よくある話だと思うんですけど、それは情報がないから私達の耳には届かない。でもそういう事件があって、それを何とご丁寧に会議を開くために議事録を取っていた。場所は警察なんですよ、大垣警察。警察とそれから業者の議事録が毎回残ってた。議事録をスッパ抜いた記者がいた。その記者は本当私はすごいと思うんですけれども、よっぽどみんなの信頼関係がなければすぐ手に入らない。それで、それをもとにして近藤ゆり子さんたちが訴訟を起こした。市民運動の権利を守れという訴訟を起こして、5、6年かかってますね。去年判決が出て全面勝訴した。全面勝訴して、向こうはもう本当にぐうの音も出ない。証拠も全部出たもんですからね。例えば「近藤ゆり子は今、何とか闘争で夢中だからそれが終わったら絶対この問題に駆けつけるはずだ」とかね。そういう言葉が1人1人の市民の事が全部書いてある。「何とかさんは、今は環境問題に熱心だけれども、元は何とか派の活動家であったらしい」とかね、もう事細かに、本人が知らないくらいって近藤さんが言ってました。「私もまだ知らない事まで予測して書いてる」というそういう議事録が出てきて、そしてそれを法廷に出したもんですから、素晴らしい判決文が出て、地裁なんですけれども、大垣ですから岐阜地裁か名古屋地裁ですかね(※岐阜地裁)。本当に私はそのコピーを持ってますけれども、市民運動という一番大切な、民主主義にとって一番根幹である市民運動を、そういう形でもって、もう権力でもって妨害するというのは許せないことだと、憲法の精神から見ても一番基本的な権利を侵してるっていう、そういう判決文、もう本当素晴らしい判決文が出て、それにして対して控訴できなかった(※「大垣警察市民監視事件」。岐阜県大垣市で計画された風力発電施設の建設をめぐり、岐阜県警大垣警察署が市民の個人情報を収集し、建設を計画した業者に提供したのは違法であると、個人情報を収集・提供された市民が訴えた裁判で、警察の行為を違法と認めた名古屋高裁の控訴審判決が2024年10月2日に確定した)。
警察側からもどこからもコメントなしで控訴しないっていうことで完全勝訴しました。その報告を今出してますけれども、もし目に入ったらぜひ、『大垣警察市民監視違憲訴訟勝利をめざす「もの言う」自由を守る会』だったと思いますが、また詳しいことは私のところに聞いてくださればお知らせしますので、ぜひ、私達の仲間です、10・8の仲間でそういう素晴らしい活動をやってる人がいるということをご報告しておきます。(拍手)
午後4時25分
皆さんこんにちは、重信房子です。今日は、山﨑さんのために、私自身が心洗われる思いでここに来ました。パレスチナの話をしたいんですけれども、既にご存知のようにトランプの新しい提案というふうにマスコミは言ってますけど、あれは全然新しくないし、これまでの「ガザをリビエラに」も生きたまんまなんです。パレスチナ人に決断、決定権を持たせない。占領したままにする。国家も認めない。そして抵抗権も認めない。そういうものであって、その中で、ハマスはただただ虐殺を止めたい、この思いの一念で、それが止まるならば、自分たちが犠牲になって構わない。そういう立場からハマスと言われてる政治指導部がですね、人質全員を返すという決断をし、新しい活路を開こうとしています。そういう状態の中で、パレスチナの抵抗権を支持する、抵抗権のために連帯する、そういう活動がちょうど蜂起から2年目になるんですね。10月7日明後日です。明後日、国連大学前からみんなでパレスチナの人に対する虐殺を許さない、そしてパレスチナの抵抗に連帯するというデモを18時ぐらいから18時半出発して渋谷に向けて、2年目の連帯を行いますので、ぜひ来てください。
詩をこれから読み上げようと思ったんですけど、時間オーバーするかもしれないんですけど、途中まででも読ませていただきます。
これは私の友達がナクバの中で、生き延びた、6歳のときにお母さんのスカートの中に隠れて生き延びたという話をしてくれて、それをガザの現実と合わせて、詩を作ったのを朗読させてください。
<詩の朗読>
「ナクバを越えて」
ガザ。
瓦礫が私の体を砕いた!この瓦礫をどけて。起き上がれない。
私の足はどこにあるの?私の抱いていた孫はどこ行ったの?
熱い。痛い。私の足はどこに行ったの?私は起き上がれない。
ここはガザ。どうしてこんな目に遭うの?私が何をしたというの?
私達パレスチナ人が何をしたというの?
ああ、何が始まったの?またナクバが始まったのね・・・・?
あのナクバのとき私は6歳だった。1948年のこと。
ヤーファーの我が家。たわわに実る果樹園のオレンジの実。
豊かで平安に満ちた日々を覚えている。
「シオニストが来る。」「シオニストが襲ってくる。」「シオニストが皆殺しに来る。」
人々の声が聞こえた。みな持てるだけのものをもって鍵をかけて逃げる準備を始めた。
今でもあの77年以上前の我が家の鍵を私は持っている。
この瓦礫に埋もれた中で首飾りにして、後生大事に持っている。
ヤーファーの花の香りの村。大好きなところ。
私たちはここを出ていかなければいけないという。
「お父さんを待とう。まだ戻らないお父さんを待とう」というかあさんの声に、私たちは待つことにした。
そして奴らが来た。イギリス警察が使っていたジープに乗って奴らがやってきた。
「出て行け。殺されたくなければ出て行け。」
庭に入ってきた。母の争う声が聞こえた。そして、銃声が2発した。
胸を真っ赤にして、かあさんが走り込んできて、「逃げなさい!」と言った。
私は足がすくんで逃げられなかった。私はかあさんと一緒にいたかった。
私がかあさんにしがみつくと、かあさんは私をスカートの中に隠して、「隠れなさい、動いちゃ駄目、静かに。」と言った。
しがみつく私に、「しーっ静かに。」かあさんはささやきながら言った。
大声で銃を乱射しながら、奴らは怒鳴りながら、あちこち探して出て行った。
「黙って、黙って。」かあさんはそう言った。動かなくなった。
「かあさん!」絶え絶えに言った。「黙って、奴らがいなくなったら、奴らがいなくなったら・・・・。」
それが何十分だったのか、何時間だったのか。
お母さんは冷たくなって、誰の声も聞こえなくなった。
こうして私の村の人々は殺され、追い立てられ、近所に住むお母さんの兄の家族に連れられて、私は怖い目に遭いながら、このガザにたどり着いた。1948年5月のこと。
私達のように80万人を超えるパレスチナ人が追われ、そして1万5000人が殺され、80万人を超える人々が、家を追われた・・・・。
ああ・・・・ナクバの日々。
また・・・・ナクバが始まったのだろうか。
ガザは美しいところ。地中海は光り輝き、サンセットの祈りのときには空と海のあわいに落暉は消える。
ガザは美しいところ。愛する故郷。ガザ、北からラファ国境までイスラエルは・・・・。イスラエルは私たちを追放し、ガザを併合しようとしている。
ガザ住民230万人のうち既に200万人が家を追われた。
私の娘、息子たちはどこにいるだろうか。
彼らは今ガザの人々を助けて走り回っている。まだ生きているだろうか・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私の足はどこ?
孫の泣き声はもう聞こえない。
ガザは破壊され殺され、21世紀のこの世界で再びナクバが起きたのか。
なぜジェノサイドが止められないのか。
なぜ占領が許されるのか。何故?
殺すな、殺すな、殺すな、ガザは死なない。ガザは死なない。
ああ、一つ歌が聞こえる。
オリオンの流星群か洪水か。ガザの憤怒がほとばしる秋。
オリオンの流星群か洪水か。ガザの憤怒がほとばしる秋。
長くなりました。どうもありがとうございました。(拍手)
午後4時35分
皆さんこんにちは関西の事務局の新田です。すごい人ばっかり登場なさった後に出てくるプレッシャーがすごいです。だから事務連絡だけさせていただきたいと思うんですけれども、関西にも山﨑プロジェクトがあるんですよ。ご存じだと思いますけれども、2年前の10月8日に重信さんが東京集会に出てきておられまして、そのときに僕は初めてお目にかかって、これ絶対関西に来て話してもらおうとそのとき決心しました。
「東京より先に関西でやるぞ」って決心しました。それを実現させていただきました。去年の6月の関西集会で、重信さんにパレスチナの闘争の歴史をすごくわかりやすく語っていただきました。
関西では年2回の講演会を企画してるんですけれども、去年の6月が今の重信さん、そして、11月は京都で「ほんやら洞」っていう喫茶店を作られた方なんですけども、甲斐さんという写真家、今は「八文字屋」というバーを経営しておられます。その「ほんやら洞」っていうのが、京都のベ平連とか反戦運動のメッカみたいな位置でした。先ほど重信さんの去年の6月の関西集会の講演で出てきたリッダ闘争ですね。テルアビブの乱射事件って言われてますけれども、あの事件があった日、同じ日に京都で、今言った「ほんやら洞」がオープンした。同じ日だった。そんな繋がりが、講演会を企画している中でみんなが気がついたことでした。
その後今年に入って、大野光明さんという我々の仲間でもある研究者の方にお願いして反博(ハンパク)、70年万博の前の年なんですけどね。1969年に大阪の大阪城の公園広場で、反万博ではなくて、「反戦のための万博」っていうのをべ平連の人たちが中心になって開催された。撲も見に行ったんですけどね。九州大学に落ちた米軍機の破片が展示されたりしていた。その反博を研究されている大野光明さんと植野さんっていう、反博の事務局で実際に実行された方に来ていただいてお話していただいたのが今年の6月でした。


あと今年11月の15日、これはもうさっき皆さんにチラシをお配りしました。メインというか最初の講演が菅野芳秀さん。明治大学の出身で、三里塚闘争なんかも経験されたんですけど、参加された方もあるんじゃないかな、今年の3月30日の『令和の百姓一揆』で東京都内で30台のトラクターを連ねてデモ行進、トラクターデモを成功させた方です。その経験というか、三里塚闘争とか沖縄闘争を経験した後、山形の実家に戻られて、そこで百姓をやりながらいろんな人たちの運動をまとめてこられた。そしてそれが今年の『令和の百姓一揆』に結びついたというその歴史をお話ししてもらうつもりでいます。
そして後半で重信さんにもう1回登場していただいて、『ガザ虐殺を怒る日々』。雑誌連載されているタイトルをそのままいただいたんですけれども、これから1ヶ月経ったときにガザがどうなってるかもわからない状況ですけれども、重信さんにぜひお話をしていただきたいというふうに考えてます。ちなみに、この講演会の菅野さんと重信さんは、同じ明治大学の先輩後輩の関係におられます。そういう繋がりもあります。ということでぜひ大阪へと言いたいですけど、それも大変ですから、お知り合いの方がおられたらぜひおすすめいただくようにお願いいたします。これからもよろしくお願いいたします。
(拍手)
●閉会の挨拶 辻 恵さん(山﨑プロジェクト事務局長:弁護士)

発起人の1人の辻恵です。山﨑博昭とは大阪府立大手前高校で同じ学年同期生、ということがあって、彼の死と寄り添う形でしか生きることはできないというふうに思って、今日まで私なりにやってきています。
毎年こういう10・8山﨑博昭プロジェクトのイベントで、もう1年頑張ろうというふうに思っている、そういう決意を新たにする意味で、今日は正装をして参りました。昨日の自民党総裁選で高市さんが選ばれたということは、戦後の日本の権力層とか支配層の政治勢力が、もう最終的に行き詰まったと、もう解決能力がなくなったということのある種の現れだと思いますし、逆にこちら側が本気になってどうしてこれを倒せるのかということを、本当に、民衆の力、国民の力、人民の力をどう結集して新しい政治勢力で倒していくのかが問われてるのかな、そういうことを自分なりには自覚をしてやろうと思います。
山﨑博昭プロジェクトは、2014年から発足をした後、こういう形で東京、大阪でそれぞれイベントを毎年1回ないし2回やってきて、2017年に50周年ということで、サイゴンですね、今のホーチミン市で向こうの戦争証跡博物館の館長さんともいろいろお話させていただいて、山崎プロジェクトの50周年記念の展示会をやったというようなことで、記念誌を発行し、今日多くの皆さんがお参りしていただいた福泉寺に墓石を購入し、そして山﨑博昭の遺影をですね、ベトナムの戦争証跡博物館に永続展示をすると、この三つの事業をやったので、私達の思うことを実現した。でも当時の戦いは72年の沖縄返還が続いたので、やはり沖縄問題を含めて、日本の様々な闘争と連携する広がりを山﨑博昭プロジェクトしてしては目指していこうということで、2022年までやって、その後どうするのかということなんですけども、今日の真鍋さんの言葉を借りるわけじゃないけども、やっぱり記憶していることを記録化して、それをやっぱり継承をしていただくという広がりを、そういう意味では僕は当時から言ったのは、韓国の200人に上る烈士の皆さんの、どういう闘いなのかっていうことを国民の皆が本当に刻んでいくっていうか、記憶を記録にしていくっていうこと。生者が死者を蘇らせるということを、まさに今思うと山﨑プロジェクトに僕らはそういう思いを託して活動してきたんだなというふうな思いがあります。
我々の活動の中で樺美智子さんが1960年、実は虐殺されたんだというような事実を発見したし、いろんな事実の中でみんなで検証することができてるということがあります。他にも糟谷君とか様々な方々が、これまで倒れている。そういう人たち、今後もそういう闘いが続くっていうことの中で、山﨑博昭プロジェクトの皆さんと一緒になって、私は継続、永続させるように頑張っていきたいというふうに思います。勝手な個人的な思いですけども、プロジェクトのみんなのある種、共通の思いはその辺にあるんで、具体的にどうしていくのかってまだまだ議論をしていくことになると思いますけれどもぜひ11月15日の関西でのイベント、そして来年も東京でもやるということになると思いますので、ぜひ皆さんいろんな問題意識をお寄せいただいて、議論をし合いながら、山﨑プロジェクトの思いを、次に繋げるようにともに頑張らせていただきたいと思います。
それで私の閉会のご挨拶とさせていただきます。
今日はお忙しいところありがとうございました。(拍手)
(終)
【お知らせ その1】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。
http://meidai1970.sakura.ne.jp/gakuentousou.html
●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。
http://meidai1970.sakura.ne.jp/kikanshi.html
【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は10月31日(金)に更新予定です。

































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