今回のブログは前回に引き続き、『続・全共闘白書』編纂委員会の個人史インタビュープロジェクトにご協力いただいた金杉和夫氏(1969年一橋大学入学)からの投稿である。
1969年から1974年までの『一橋新聞』の記事をベースに、金杉氏他の証言を交えて、一橋大学の闘争と全国的な政治闘争について書かれた記録である。一橋大学の闘争はほとんど知られていない「知られざる学園闘争」なので、貴重な記録である。今までこのブログで紹介してきた「全国学園闘争」シリーズの一つとしてお読みいただきたい。
なお、原稿の分量が多いため、何回かに分けてブログに掲載する。今回は1970年である。

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(『一橋新聞』1970.9.16)
『一橋新聞』で読む1969年から1974年~一橋闘争・全国全共闘・安保沖縄闘争・三里塚闘争・立川闘争を振り返る
日本各地で全共闘によって展開された全国学園闘争の一環として一橋大学で闘われた一橋闘争と全国全共闘・安保沖縄闘争・三里塚闘争・立川闘争など諸闘争の経過を『一橋新聞』の1969年1月1日第845号から1974年11月1日第944号の100号分の記事と論説から抜粋・要約して再現し年表形式の経過記録にまとめた。『一橋新聞』は学生新聞で部員はほとんど全共闘の支持者であるから、その主張には偏りがあり、闘争の参加人数や成果を誇張して表現している傾向はあるが、現場に居て取材した者が記事を書くというのが原則なので、その内容は大体は事実に即していると思う。学内の出来事の記事はできるだけ採用し、学外の記事は学内の者が組織的に参加した出来事を中心に採用した。
加えて、1968年入学のO氏と1970年入学のM氏からいくつか証言を頂いたので、経過を追って〈Oの証言〉として「太字」で挿入した。
併せて、1969年入学の金杉個人の当時の体験や感想をできるだけ率直に思い起こして経過を追って「斜字体」で挿入した。経過記録と読み合せると当時の状況が実感してもらえると思う。
当時の一橋大学で、前期とは1,2年生のための教養課程のことで小平キャンパスで行われていた。後期は3、4年生の専門課程で国立キャンパスで行われていた。前期は現在は国立キャンパスの東校舎に移転している。

1970年
70年安保・沖縄・三里塚闘争へ
1月18日午後1時より水道橋礫川公園に8千人の学生・労働者・市民を結集して「東大闘争1周年労・農・学・市民集会」が開かれた。
中央集会に先立って午前10時に国立兼松講堂に結集し百数十名の隊列で国立駅までジグザグデモを行い中央集会に向かった。
 全国全共闘連合の集会は全国学園闘争と安保決戦の総括、70年安保沖縄闘争への決意表明がなされた後、東大本郷に向けてデモを展開した。全国全共闘連合への敵対を強める革マル派は日比谷野音で別個に集会を開き分裂集会となった。
2月4日 「2・4沖縄全軍労連帯・日米共同声明粉砕・沖縄闘争勝利、労学市民総決起集会」が全国全共闘連合と全国各県反戦代表者会議の共催で午後6時半から明治公園で開かれた。これに向けて、前期闘争委員会は午後3時から小平中庭で前期決起集会を開いた。全闘委代表が「11月佐藤訪米による日米共同声明は政府の一方的な沖縄処理であり、アジア反革命、日帝のアジア進出を企てるものであった。沖縄では全軍労が米軍、右翼による武装弾圧に屈せず、また、幹部の日和見を打破して二波にわたるストを貫徹した。特に第二波の120時間の長期ストは下部労働者が中心となり団結の固さと組織性に支えられて、単なる首切り反対闘争から基地撤去・安保粉砕に発展した。一方我々は昨年4・28以来の街頭闘争では限界を露呈し、10・11月決戦では佐藤訪米を阻止できず、職場ではレッド・パージが行われ、大学の闘いは暴力的に圧殺されている。こうした情況を4・6月決戦を意識しつつ、いかに突破するか、その方向性を模索しなければならない。政治的勝利は軍事的勝利を媒介にせねば勝ち取られないのであり、非妥協的闘いの内容が必要である。安保粉砕、沖縄闘争勝利、帝国主義政府打倒権力闘争へのエネルギーを結集し、全軍労の闘いと連帯し、さらなる反逆を積み重ね、70年代階級闘争を開始しなければならない。」と述べた。この後反帝学評、反帝学生戦線の挨拶があり国立に向かった。4時過ぎから兼松講堂前で全学総決起集会を開いた。全闘委、院生共闘に国立救援会も加わり、数十名が参加した。全闘委代表に続いて三里塚現地行動隊に加わり闘っている学友、反帝学評、院生共闘、反戦会議、反帝学生戦線の代表が挨拶し5時ごろ集会を終え、国立駅までデモ行進し中央会場に向かった。明治公園には労働者、学生、市民などおよそ1万人が結集した。反戦青年委員会代表の後、沖縄県反戦青年委員会を代表して全軍労の反戦労働者が決意を述べ万雷の拍手を浴びた。続いて68年10・21新宿闘争被告団、新宿ベ平連、東京教育大、法政大、神奈川大、東京女子大,芝浦工大、明治大などの全共闘代表から全軍労の闘いを受け継ぎ4-6月安保決戦に向けて闘うと決意表明が行われ集会を終え、東京駅八重洲口までデモを行い、15人が逮捕された。

前期執行委員長選挙
1月28日から30日 前期執行委員長選挙が行われた。開票の結果は、民青系I君338票、全闘委系K君332票、旧クラス連合系F君259票、無効?白票85票、総計1014票となり、選管の原簿総数は1007票で投票総数と7票差で上位2名の6票差は逆転の可能性があるので、2人の間で決戦投票を行うことになった。
2月4日5日の決選投票の結果、I君517票、K君470票、無効白票125票、総計1112票、原簿総数1115票で、I君の当選となった。
一橋新聞2月1日号 何の敗北?!委員長選挙を終えて
(K君を支援した〈哲〉による総括)から抜粋
「K君は何故立候補したか?」(全学連行動委)なるビラには次のように書かれてある。「諸君!わかった!ゲバルトは恐いが「闘う共同性」を有する者にとっては、「死を賭けて」までも「闘う」ことができるのだ。要するに、一皮むけばこういうことになるのだ。「社会性」とは街頭ゲリラであり、「闘う共同性」とは機動隊との衝突に恐怖する者が寄せ集まり、慰め合い、勇気づけ合うものだ」と。民青諸君には難しすぎるかもしれないが、われわれの運動がなぜ社会性なり共同性を問題にしなければならないかと言えば、ブルジョワジーも彼らなりの「社会性」「共同性」を支配原理として持っているのであり、それはわれわれにとっては幻想の疎外態=桎梏でしかなく、その突破をわれわれの社会性、共同性として推し進めていくことなしにはわれわれ自身の解放はありえない。革命はこの疎外されたブルジョア共同体を打倒すると同時に我々の共同体を創り出すのだ。
11・24の前期スト解除以降どこかに消え去ったかにみえる大衆が選挙において、470という数で表現された。そうした大衆の普遍的なエネルギーをどこまで汲みつくしうるかが問われている。

三里塚 決戦期に突入
1月14日 三里塚闘争支援総決起集会が兼松講堂前で開催された。
2月18日 正午から小平校舎中庭で全闘委主催の三里塚強制測量粉砕闘争総決起集会が開かれた。20名前後が参加し、社学同代表が「三里塚人民抑圧空港は、本土における対アジア反革命侵略の前線基地を意図するものである」と位置づけ、闘う決意表明を行い、反帝学評と反帝学生戦線の代表が連帯のあいさつを行った。そのあと参加者は三里塚に向かい、19日からの現地での測量阻止、団結小屋防衛の闘いに参加した。

この期間一橋新聞には記載がないが、金杉の手帳には「2月23日学生大会」「4月7日第1合併、全闘委政治集会」「4月18日午後2時401(国立新)総決起」と記載がある。
また3月31日には日本赤軍によるよど号ハイジャック事件が起き、世の注目を集めたが一橋新聞にこの事件に関する記事はない。

4・19~28へ向け国立地区共闘結成
4月19日 安保粉砕沖縄闘争勝利労学総決起集会に向け、午前10時から国立地区総決起集会が、一橋大全闘委、院生共闘、アジア史研、国立ベ平連、糾弾する会、入管体制粉砕実行委員会、国立反戦、国立救援会、国高、立高全共闘、桐朋全学行動戦線、大成高全共闘、総計約70名を結集し小雨の中圧倒的に勝ち取られた。司会者(アジア史研)から「日米共同声明以降いかなる情勢が進行しているのかー日米安保からアジア安保への広がりをもって日本帝国主義が飛躍せんとし、同時に朝鮮、東南アジア、沖縄においてこうした帝国主義に対する闘いが沸き起こっている。それに対し帝国主義国内に存在する我々はいかなる闘いをしなければならないのか」と問いかけがあり、続いて各参加団体から決意表明が行われた。最初に一橋大全闘委は、現在アジア・太平洋圏の規模で進行する全社会的規模での帝国主義的再編は全国のプロレタリア人民の闘いによって自らの命が危うくなると見た帝国主義ブルジョワジーが人民の一層の搾取と抑圧の強化をもって延命を図ろうとするものであり、こうした帝国主義的ブルジョワジーに対して我々は断固とした闘いを挑まなければならないと述べた。集会後国立駅までデモ行進を行い、午後1時から明治公園での全国反戦・全国全共闘主催の中央集会に結集した。3000名余が参加し各党派から4-6月安保沖縄闘争、出入国管理法案粉砕闘争方針、70年代階級闘争の戦略を主調に発言がなされた。

4・28安保・沖縄闘争
6月安保決戦の端緒を切り拓くべく位置づけられていた4・28沖縄闘争は部分的な突出を見せながらも、全体としてはカンパニア闘争のまま終結せざるを得なかった。それは単に、闘争形態が地味であったということにとどまらない。昨秋安保攻防戦から6月に至る政治過程の展開が、闘争主体の再編成を進行させつつあるが、いまだにそれは定着するに至っておらず、政治状況の地滑り的進行を許している。かかる限界性の突破口が、下からのソヴィエト運動に基づく武装闘争の方向にしか見出しえないという一般的確認と、現実の運動との乖離を止揚する道は何か―これが全戦線にわたる現下の切実な課題である。主体におけるこうした現状がいま、党派闘争―党派間統一戦線の再編を必然化しているのであり、全国全共闘と革マル派との対立はこういった文脈において問題とされねばならないであろう。

国立地区総決起集会
70年安保粉砕・沖縄闘争勝利4・28国立地区総決起集会は28日午後3時半から兼松講堂前で、全学闘争委員会・院生共闘。国立反戦、国立救援会・入管体制粉砕実行委に結集した約100名の労働者・学生・市民によって勝ち取られた。これに先立ち全学闘争委員会は午後2時から独自の集会を持ち、反帝学戦、旧スト実委員長から連帯の挨拶を受け約40名で学内デモを行い、さらに社学同、反帝学評より連帯の挨拶を受け総決起集会に参加した。これとは別に、桐朋全学行動戦線・国立高校全共闘の高校生約30名は国立キャンパスに結集したのち都立大へ向かった。総決起集会は助手共闘の司会で始まり、現在的な地区共闘の到達点について報告を受けたのち、入管体制粉砕実行委員会、院生共闘の連帯の挨拶と決意表明を受け国立救援会から諸注意を受けた。最後に立った全闘委代表は「本日の闘争を我々自身の結合の強さを突き出すものとして闘い抜き、安保粉砕・沖縄闘争勝利全学無期限バリストへ向けた、一橋秩序に全面的に敵対する公然たる闘争の第一歩として闘い抜く」と決意表明し学内デモ、市内デモに移り、国立駅前で約30名の機動隊が襲い掛かるのを突破して、駅構内で集会を貫徹し明治公園の全国全共闘統一集会に向かった。

4・28沖縄闘争勝利・安保粉砕大統一集会
全国反戦・全国全共闘・六月行動委の主催で午後5時半から、明治公園に3万5千名の労働者・学生・市民を結集して開催された。
大統一集会に先立ち、3時半から全国全共闘統一集会が約1万人の結集で開催された。内訳は、中核派1200、反帝学評650、反帝戦線(社学同)300、学生解放戦線300、フロント200、プロ学同150、学生インター100、共学戦(前衛派)100、安保共闘(怒涛派)60、プロ軍50、共学同40、赤軍派20などのほか各大学全共闘、ベ平連約6000.集会は東大全闘連の鈴木君の司会で以下の8大学の全共闘から各党派を代表する形で発言がなされた。明治学院大全共闘(反帝戦線―社学同)、明大全学闘争委連合(ML派)、法大全共闘(中核派)、立教大全共闘(反帝学生戦線―フロント)、法大社共闘(反帝学生戦線-プロ学同)、教育大全学行動戦線(共学同)、千葉工大全闘委(学生インター)、早大理工スト実(反帝学評)。
引き続き労働者・学生・市民3万5千人が結集して行われた大統一集会では、冒頭に南ベトナム臨時革命政府のメッセージが読み上げられ、次いで6月行動委、全国反戦、全国全共闘、沖縄全軍労・県反戦、三里塚反対同盟の5代表から発言がなされた。一方2時から清水谷公園で集会を開いていた革マル派約2千名が6時すぎ明治公園の統一集会に介入すべく公園入口に接近したが、中核派・反帝学評の部隊が竹竿で阻止戦を張り、革マル派は機動隊の規制により国立競技場側に押し付けられた。統一集会は6時50分に終了し、デモに出発した。青山通りでジグザグデモ、フランスデモを行い、青山1丁目で機動隊の規制を受けたが、赤坂見附付近で反帝学評とML派の部隊は再三国会突入を試みた。機動隊の弾圧で約30名の逮捕者と多数の負傷者を出した。デモ隊は9時ごろ日比谷公園に到着したが、反帝学評とML派は公園内から国会、首相官邸に向けて機動隊の包囲網の突破を試みたが、多数の逮捕者と負傷者を出した。デモ隊が出発した後の明治公園では革マル派が八派に対する弾劾集会を開き、さらに日比谷公園に向かおうとしたが機動隊に規制されデモコースを変更され清水谷公園に戻された。

4・30入学式粉砕闘争
4月30日午前10時より、兼松講堂において45年度入学式が行われたが、全学闘争委員会約30名は午前9時から講堂前で集会を貫徹し入学式粉砕闘争を闘い抜いた。
一橋闘争の一定の後退とその後のテルミドール的反動の下での入学式が、一橋秩序への吸収の一環として行われるセレモニーであり、教育の帝国主義的改編の一環を担うものであることを見据え、新入生に粉砕闘争への決起を呼びかけた。10時過ぎには三多摩反帝学評連合の約20名の学友の連帯を受け、入学式闘争を4・28闘争報告集会、6月安保沖縄闘争勝利総決起集会として貫徹することを確認し、学内デモを敢行した。さらに国立駅まで市内デモを貫徹した。

5・15愛知ジャカルタ訪問現地羽田阻止闘争
5・14前期学生大会 5・15闘争実行委結成
5・15愛知ジャカルタ訪問阻止に向け、全闘委は当日1日ストで現地阻止闘争に決起する方針で前期で200名の学生大会開催要求署名を集め、11日に執行委員長に提出したが、執行部は開催予定日の1週間前までに署名提出を行わなければならないと規約を盾にこの要求を拒否した。全闘委はこれを闘争に対する自主規制、圧殺であると批判し、独自に学生大会開催を実現すべくクラス討論など情宣・組織化を開始した。反安保学生会議(社青同協会派)も全闘委の開催要求の支持を表明した。14日講堂に約250名の学友が結集し、全闘委は方針提起を行い6月安保決戦の一環たる愛知訪ジャカルタ阻止闘争の位置づけ、インドシナ情勢などを明らかにして決起を訴えた。この間執行部はマイクで規約違反、無効と喚きたて集会破壊を続けた。集会は続行したが結集者が定足数の300人に足りず、学生集会となり、5・15闘争実行委員会の結成を宣言し、集会を終了し、全闘委は翌早朝の現地阻止闘争に向け泊まり込み体制に入った。

5・15現地羽田阻止闘争
全国全共闘諸党派の1800人は午前6時半、ガス橋公園に結集した。内訳は反帝学評・大田反戦(青ヘル)400、中核派350、反帝戦線―各大学社学同300、ML派220、フロント200、学生インター50、プロ学同40、共学戦30、共学同20など。米帝国主義のカンボジアへの反革命侵攻と、その共同推進体制を目指す、日本帝国主義を盟主としたアジア諸国の、意思一致の場であるジャカルタ反革命会議粉砕に向けた闘争としてこの日の闘争を位置づけ各派の安保・沖縄闘争への方針提起を行う形で発言がなされた。
革マル派約900はガス橋から1キロ離れた多摩川べりの公園で集会を開き9時ごろデモに出発した。8時ごろから全国全共闘の部隊はデモに移り、六郷橋を経て萩中公園に到着した。公園では反帝学評、フロントとML派の一部がスクラムを強固に打ち固めて、ジェラルミンの盾をかざして規制する機動隊の壁に再三再四突撃を繰り返した。解散後、京浜急行糀谷駅と京浜蒲田駅で反帝学評と革マル派が衝突し、線路沿いにデモで京浜蒲田駅に向かった反帝学評の部隊が機動隊に阻止・包囲され70名前後が逮捕された。

5・22学生大会 民青執行部の新入生思想調査を糾弾す!
5月22日前期執行委員会の提起による臨時学生大会が小平講堂で開催された。執行委員会の主旨は「カンボジアへの米軍の侵略に抗議し6月23日安保自動延長の1か月前5月23日に抗議ストを勝ち取ろう」というものであったが、結集した学生の圧倒的な声が、「思想調査」問題に集中したため、カンボジアや安保のことは問題にならず、執行委員会による思想調査問題のみに討論が終始して流会となった。執行委、8クラス、6クラス、1年のTクラスから議案が提出され、クラスから出された執行部による思想調査に関する議案を先に討議することが決定された。思想調査問題とは、今年度の新入生に対して執行部が行ったアンケートが、次の点において犯罪的であることを全学闘争委員会が暴露したものある。第1に内容が個人の思想信条にかかわるものであること、第2に記名入りであること、第3にクラス担当教官の手を通した調査であったことである。全闘委は5月11日に愛知訪ジャカルタ阻止闘争のための学生大会開催要求の署名を提出すため自治会室を訪れ、問題のアンケートを発見したのだった。アンケートは民青系全学連や全共闘諸派の評価を記名入りで新入生に求めていた。配布と回収は大学当局、担当教官に任せていたのだ。
学生大会はクラス決議を出した8クラス、6クラス、Tクラスの学友と執行委員会の論争のうちに進行し、徐々に退場する学友が増えて定足数を欠き、学生集会となり、前期自治会執行委員会に①思想調査を行ったことを自己批判せよ②総辞職せよと求める6クラス提案決議を可決した。

5・31立川基地闘争
全国一斉基地撤去闘争の一環として闘われた立川基地撤去―自衛隊移管阻止闘争のため、砂川の反戦塹壕わきの広場に結集した労働者学生市民約3千人は、突風に舞う砂塵の中で集会を持ち立川駅までのデモを貫徹した。一橋大全闘委はこの闘いを6月闘争への突破口として国立地区共闘で戦い抜いた。今や常時100を超える労学市民の結集を勝ちとれるようになった国立地区共闘のさらなる前進を成し遂げよう。

70年安保闘争の年になって、全闘委は国立地区の労働者、市民、高校生、大学院生などとの共闘を重視して活動を再開したようだ。私は前期の学園祭である小平祭の実行委員長を任されて、1年生の委員を集めて八王子の大学セミナーハウスで合宿をしたり、「破産せる大学祭を更なる破産へと追い込め」「サークル活動の変革を軸に大学幻想共同体の止揚を」というスローガンの基本方針(一橋新聞1970年5月1日号掲載)を立てて、連続講演会、当日の小川プロの映画全作品の上映会を企画したり忙しく、地区共闘の集会には参加した覚えがない。前期自治会執行部の新入生に対する思想調査の弾劾には熱心に取り組んで、関心の高い新入生たちと知り合うことができた。

小平祭実行委員会企画連続講演会
5月9日 安藤紀典氏(東大教育系大学院)「日本帝国主義の現段階と70年代教育再編」
5月16日滝口弘人氏(前社青同解放派議長)「世界史における6月安保決戦の位置」
5月23日新島淳両氏(早大教授)「アジア革命と日本革命」
5月30日新崎盛暉氏(沖縄問題研究会)「沖縄問題を考える視点」
6月6日神津陽氏(共産同三多摩地区委員会)「70年代と新左翼」
毎週土曜日午後1時から開催された。

安保粉砕・政府打倒の6・3~6・30長期政治スト
6・2前期学生大会で可決
6月2日 全学闘争委員会が提起し開催された前期学生大会で同委員会の提案した「安保粉砕・政府打倒の6月1か月政治ストライキ」が223対70対75の圧倒的多数の指示で可決された。決議文は次の通り(要旨)。1.安保粉砕!沖縄闘争勝利!政府打倒!帝国主義的社会再編粉砕!のスローガンの下、6月安保決戦に向け、6月3日から30日までの前期ストライキを勝ちとる。2.2日スト実準備委を結成し、3日午前クラス討論を行い6月闘争をいかに闘うか討論しスト実クラス代表を1名以上派遣する。午後6月ゼネストに向けて総決起集会を行いスト実結成に関する討論を行う。スト中は自治会執行委のすべての権限をスト実に移譲する。3.スト実の財政は自治会費から出す。4.小平地区における反安保共同行動を、労働者・学生・高校生・市民の結合=団結として追及し、先頭に立ってスト実は闘い抜く。5.6月闘争の総括とその後の闘争方針の確立のための学生大会を7月1日にスト実が招集する。
ストライキの経過
このストライキは、その闘争を前期のみのストに終わらせることなく小平地区一帯のゼネストとして闘い抜くことを追求した。6月4日全逓調布の郵便労働者の要請を受け、闘う労働者の処分撤回闘争を地区共闘の第一歩として取り組む。6月12日武蔵野美術大学の学友あるいは小平ベ平連に結集する人たちとともに8キロにわたる地域デモを貫徹した。デモに先立って国分寺駅でのカンパ、ビラ配り活動も行われた。
大学評議会に対する闘争は団交を通じて闘われた。学生の政治ストは認められないという立場を示す評議会に対し、6月13日第1回目の団交で今回のストに対する見解を述べよと迫ったが、政治的問題に関しては見解を述べることはできない、の一点張りで平行線に終わった。
6月7日大山公園で持たれた「朝鮮高校生への暴行糾弾入管体制粉砕総決起集会」への結集、一橋スト実としての発言、さらに6月14日代々木公園を埋め尽くした安保粉砕労学市民大統一行動への小平―国立を貫く共闘をもっての決起、15日実力闘争への部分的突出があった。しかしながら、その後はスト実あるいは地区共闘として隊列を組み中央集会や街頭闘争に参加することはなくなり、街頭闘争の成果が学内に還流し学内の闘争の高揚をもたらすことがなかった。すなわち学内の闘争推進者と街頭での闘争者が分離していってしまったことは、その両者の不十分性として総括されなければならない。

一橋新聞には記載がないが、金杉の手帳には「6月9日地域デモ」「6月20日地域デモ」と記載がある。

〈Oの証言〉
この時期の前期の活動を主導していたのは、反帝学評系の学生たちだった。学内の対評議会闘争と並行して三多摩地区の他大学との共闘や労働組合員の処分撤回闘争などにも積極的に参加して労学共闘を追求したが、スト実内部ではそうした活動についていけない学生も出てきてやがて学内闘争の空転を招いていったのは否めない。

第10回小平祭
6月11~12日小平キャンパスでサークル活動の変革を軸に「大学幻想共同体の止揚を!」をスローガンにして開催した。三里塚闘争の記録をはじめ、小川プロダクションの全作品を上映した。

6・12後期学生大会 スト可決ならず流会
101名の署名にもとづく全闘委の開催要求書にもとづいて、後期学生大会が兼松講堂で389名(定足数350名)の結集をもって開催された。全闘委は「6月闘争は安保粉砕!沖縄闘争勝利!帝国主義政府打倒!米帝のカンボジア侵攻粉砕のスローガンを掲げた地域共闘の実現と結合をもって闘い抜かれねばならない」という要旨の議案書を提出し、民主化行動委員会は「諸要求実現,大学の自治擁護、安保終了通告を発しうる民族民主連合政府樹立」を内容とする議案書を提出し、双方批判し反駁し合い議案採択の動議が出されたが、定足数に達せず、自然流会した。

6・14-15安保粉砕・政府打倒闘争
6・14国立・小平地区総決起集会
午前11時から兼松講堂前に約200名の労働者・学生・高校生・市民を結集して勝ちとられた。全闘委並びに助手共闘代表の司会で進行し、助手共闘代表が国立・小平地区の共闘の現段階の報告と6月安保決戦を戦い抜く中から生まれる地区への波及と地区共闘の今後の展望について述べた。全闘委代表は「14~15を断固とした政府中枢攻撃闘争として闘うことなしに6月決戦は闘いえない。政府打倒闘争を70年代階級闘争の主軸として闘う。全闘委はそれを先頭になり担っていく」とのべた。このあと、前期スト実代表、国立救援会、国立反戦、三多摩高校生を代表して桐朋全学行動戦線などから連帯の挨拶と決意表明を受け、市中デモに移り、途中右翼の妨害をはねのけ戦闘的なデモンストレーションを貫徹し代々木公園の中央集会に向かった。

6・14安保粉砕労学市民大統一行動 代々木公園
6月行動委・全国反戦・全国全共闘主催の労学市民大統一行動は7万2千名という空前の結集で代々木公園を埋め尽くした。午後1時から約4万名が結集した全国全共闘集会においては、社学同(反帝戦線)、共学同、全学連(石橋委員長)、全学連(金山委員長)、国際主義共産学生同盟、社会主義学生戦線、プロ学同、東大全共闘から発言があり、東大全共闘を除くと明確に党派代表として発言したことが注目された。結集の内訳は社青同解放派2000、中核派900、反帝戦線600、統社同550、日大全共闘1800、法大全共闘1500、明大全共闘1000、東大全共闘1000等であった。午後1時15分ごろ原宿駅前で、武装実力闘争・機動隊殲滅主張するML派250名の部隊が全員鉄パイプと火焔瓶で武装し機動隊の阻止線に衝突し約100名が逮捕された。共産同内部闘争では反帝戦線〈戦旗派〉と叛旗派が衝突を繰り返した。革マル派3000名は宮下公園で集会の後デモで午後2時ごろ代々木公園サッカー場に入り集会を持った。午後2時40分から6月行動委・全国反戦・全国全共闘主催の労学市民大統一行動は大会宣言を採択した後3時半からデモに移った。この間午後3時ごろには中核派と革マル派の間で緊張関係が続いた。デモは青山通り、赤坂見附、溜池、国会前を経て日比谷公園に向かったが、ML派は表参道、青山三丁目で実力闘争を繰り返し多数の逮捕者を出した。革マル派は午後6時から青山、首相官邸を経て日比谷公園までデモを行った。

6・15 反帝学評・フロント 渋谷から出撃
対政府実力闘争を戦い抜かんとする革労協(反帝学評)、統社同(フロント)は5時渋谷を大衆的結集点に、渋谷→青山通り→赤坂見附→国会・首相官邸へ向けた武装進撃を安保粉砕・政府打倒を掲げ戦い抜いた。反帝学評突撃隊150名とフロント突撃隊70名・実力部隊100名は6時すぎ道玄坂に浮上し、まず阻止線を張っていた機動隊約50を撃破し、次いで反帝学評突撃隊とともに、機動隊の増援部隊約300と激突、道玄坂交番を炎上させ、約30分間にわたって一進一退を繰り返した。
東大駒場において、5時から東大・京大全共闘1000名とともに決起集会を開いていた反帝学評の全共闘部隊250名も、6時半、道玄坂上で先鋒隊と合流、路上にバリケードを構築し、機動隊に激しい投石を加え、対峙した。7時ごろ機動隊が総攻撃を開始し正面と背後から挟撃に移った。このため部隊は四散したが警備網を突破した部分は8時すぎ再度駒場に集結し正門前で機動隊と衝突し、バリケードを築き攻防戦を繰り広げた。一方渋谷に結集した反帝学評の部隊はノンヘル部隊と群衆を巻き込み1000名近くの隊列を作り出し2時間余り果敢なデモンストレーションを展開し、道玄坂で再三スクラムで機動隊と衝突した。
同時に反戦(プロ統派)、反帝高評50名を中心とする約150名の別動隊は楯と竹竿で武装して地下鉄銀座駅付近に浮上して、一気に首相官邸・国会へ進撃を開始した。途中機動隊と衝突し20数名が逮捕されたが、突進を繰り返した。

6・22~23安保闘争最終決戦
安保粉砕・沖縄闘争勝利・日米共同声明粉砕・カンボジア軍事介入粉砕
6・23労学総決起集会
全国全共闘・全国反戦の主催により午後6時から明治公園に5万7千人を結集して開催された。内訳は、党派段階で中核派4500、解放派500、反帝戦線-社学同(戦旗派)200、叛旗派・情況派30、フロント15、学生インター150、ML派100など8000、全共闘段階で東大1000、日大1500,早大2000、法大2000、明大1000、立大700、中大1000など2万5千。全国全共闘(東大)が開会のあいさつ、神奈川県反戦(中核派系)群馬県反戦(解放派系)の司会で、三里塚青年行動隊萩原氏が挨拶の後、各党派代表が発言した。開会前戦旗派が叛旗・情況派を攻撃し放逐した。7時半からデモに入り、ML派は繰り返し火焔瓶で機動隊を攻撃し、麻布警察署を炎上させた。反帝学評、中核派も繰り返し機動隊に衝突し、多数の逮捕者を出した。ベ平連は清水谷公園に3万人を集め、集会、デモをおこなった。

7・1前期学生大会 流会―自動的スト解除
前期ストライキ実行委員会の提起により6月1か月ストの総括のための学生大会が開かれた。一時は3百数十の結集で成立していたが徐々に減り、学生集会となり、ストは自動的に解除になった。まさしくスト実運動が先細りとなりスト実を当初担った学友さえ総括学生大会に顔を見せないという否定的な現実から総括の作業を開始しなければならない。

一橋新聞には記載がないが、金杉の手帳には「6月30日午後6~8時磯研2階小集会室、入管討論会、労働運動における排外主義」「7月3日午後3時スト実総括」「7月4日午後5時半日比谷野音(米日反戦兵士支援)」「7月6日午前9時本郷、日華協力委、午後3時スト実」「7月7日午後6時盧溝橋」と記載がある。

一ヶ月ストは何を突き出したのか
ストに突入した直後のクラスの内部はほぼ3つに分解していた。学生大会に出席せず、そのことを恥じてもいない部分がスト反対派としてヒステリックに登場する。6月安保に漠然と問題意識を抱えていた部分は安保の条文を読んだり、クラス討論したりと動き出した。残った少数の先進的な部分がクラスからスト実を組織していこうとしたが、多数を獲得していくダイナミックな構造は現出せず、当初の分断を固定化する方向で進行した。スト突入の衝撃波は数日後には解消され、安保について勉強するという認識運動の中に上昇的に吸い込まれた。自分自身を見つめることを欠落したいかなる認識が現実の闘争のエネルギーになりうるのか。方向は逆であった。徹底して自らの内部に下降してゆかねばならない。
 全共闘運動が日共民青の貧寒とした運動を蹴散らし、豊かな個々人の可能性の全面開花に向かう運動をしえたのは、その徹底した物質性・肉体性、即ち暴力性の故ではなかったか。下意識の情動地帯に直接語りかけていく、闘争の暴力的な展開の故ではなかったか。そのような暴力がこの1か月のスト実運動に限らず一橋闘争全体を通じて最も欠落していたものだ。

対評議会団交経過
 前期スト期間中に6月13日、19日、24日の3回スト実主催の対評議会団交がおこなわれた。議題は次の3つとなった。①団交の場においては評議会の発言はもとより、評議員個人の発言、一教官としての見解の表明が出席全評議員に義務付けられる。②6月2日前期学生大会で決議されたストライキに対する評議会の見解。③カリキュラム問題、学館問題、新館問題その他諸要求。である。馬場学長代行は①個人発言を求めるなら団交ではなく討論会とすべきである。②大学立法は大学に切迫した問題なので統一見解を出したが、安保は大学に切迫した問題ではない。と答え議論は平行線に終わった。

6月2日の前期学生大会は民青系の執行部が思想調査問題で信頼を失っていたこともあって、全闘委提案の1か月安保政治ストが圧倒的多数で可決され、スト実が結成されたが、後半から活動は停滞し尻しぼみに終わった。一橋新聞は学内闘争と街頭闘争の分離を問題にしているが、14日までは全闘委が地区共闘を作って全国全共闘の統一行動に参加する形が取れていたが、15日以降はセクトごとの行動が優先され、全国全共闘の統一性も崩れてきて全闘委としての行動がとれなくなったことが大きかったと思う。
 そのまま夏休みになって、私は7月27日から30日には妙高の大学寮で反帝学評の合宿に参加した後3人で能登に旅行し、能登島の火祭りに加わって楽しんで、その帰りキセル乗車をして金沢駅でつかまり罰金を取られ金がなくなって困ったり、8月17日から22日には白馬のペンションで一橋新聞部の合宿に参加しペンションに残ってアルバイトしようとしたが寝坊ばかりして首になったり、8月26日から30日には家庭教師先の鵠沼の別荘で海水浴を楽しんでサザエのつぼ焼きを食べたり、楽しく過ごしたのを覚えているが、反帝学評と一橋新聞部の合宿の難しい討論の内容は全く覚えていない。9月からは各サークルにサークル共闘会議への結集を呼び掛ける活動をしながら、神田一ツ橋の一橋講堂の裏にあった一橋新聞部の部室に通い、記事を書いたり、先輩の議論を聴いたりするようになった。

9月16日サークル共闘会議結成に向けた連絡会
国立新館402教室で開催され、新聞部、小平祭、社会科学研究会、青少年友の会、社会思想研究会など十数サークルの代表者が出席し、一橋祭、サークル共闘、一橋闘争などについて討論し、サークル運動の革命的再編、恒常的情宣活動、オルグ活動を行っていくことを確認した。

9月18日入管体制粉砕三多摩総決起集会
国分寺公民館で約500名の労働者学生市民高校生が結集し、亜細亜大入管グループが基調報告し、東学大入管闘から在日朝鮮人の韓国籍から朝鮮籍への書き換え運動を支援し、朝鮮大学校への勝共連合・権力の弾圧を粉砕する方針が提起され、錦城高校入管闘からは朝鮮高校生への集団暴行問題が提起された。八王子地区実行委員会の結成などをめぐって解放派と中核派の間で小競り合いがあった。

9月24日生協労働者への不当弾圧粉砕
大学生協書籍部女性労働者Iさんは不当弾圧・強制的辞職処分に抗して就労宣言し、支援する学友約60人が生協常務理事会と会合し、常務理事会はIさんへの処分を撤回し自己批判した。

前期執行委員長選挙
9月24日立候補受付28日29日立会演説会30日10月1日2日投票、開票で行われ、民青系全学連支持のH君が507票、全闘委支持のOn君387票、無効白票133票、投票総数1027票で、H君が当選した。選挙戦の争点は補講問題、新寮獲得闘争、入管闘争であった。補講問題は6月の長期政治ストライキの間の講義日数の遅れを補講で補わないと全学生が留年すると大学当局が恫喝し、7月16日の対評議会団交でI執行部が補講を受け入れたことの賛否、新寮問題は文部省が新寮建設の条件としている管理規則と受益者負担区分に対決するか否かが問われた。全闘委は入管闘争にうつつを抜かし学内問題を放棄しているという民青諸君は入管闘争をどう闘うのか、小平入管闘の学友を中心にH君を追求した。

全闘委は十共闘結成へ
10月5日の全闘委選挙闘争総括集会においては、選挙闘争の敗北を全闘委の運動及び組織展開の限界性・不十分性の帰結として総括し、課題別闘争委・行動委の共同で構成される十月共同闘争委員会を結成し、秋期の闘争を闘い抜くことが確認された。
 
10・3国立地区共闘
10月3日国立新館402教室において、桐朋11名退学処分粉砕!9・22桐朋官憲導入糾弾!国立音大授業料値上げ白紙撤回!国立地区総決起集会が開催された。約百名の市民・学生・高校生が結集し、折原浩氏が「処分問題と70年代教育再編」と題する講演を行った後、桐朋高校全学行動戦線の代表と国立音大の学友からそれぞれ闘争の報告と決意表明が行われた。集会終了後圧倒的なデモンストレーションを国立駅→国立音大→桐朋高校に展開した。

10・14前期学生大会
自治会執行部は自らの提案が三度にわたる修正案提出の後最後には憤激した学友により否決されるという前代未聞の茶番を演じた。ところが、10月19日バリスト突入後自治会室で発見された千数百枚の民青全学連が10・21に向けて印刷したビラには「一橋大前期、東大農学部のストライキ決定をはじめ云々」と全くでたらめな宣伝文が書かれていた。十共闘は22日原執行委員長に自己批判を要求し、彼らの全学連の機関誌に自己批判書を掲載することを原君は了承した。
この学生大会で全闘委あるいは十共闘がストライキなどの提案をしたかどうかは一橋新聞記事に書かれていない。

十月共同闘争委員会全都唯一の突出した
10・19―21バリストを貫徹!
18佐藤訪米阻止闘争~21国際共同闘争
激動の4日間を闘いぬく
 19日未明、反帝学評・小平入管闘・叛乱準備委員会等を中核とする十共闘の約50名の部隊は小平本館に突入し、バリケードを構築した。午前8時半から屋上から解放放送を開始し、登校する学友にバリストの意義と隊列への結集を訴えた。午後2時日共=民青約20名が封鎖実力解除を叫んで正面玄関に殺到したが、約30名の遊撃隊が実力を持って彼らを学外に放逐した。大学当局は前期学生委員長名で「封鎖の理由を明示せよ」などの質問状を発し、「封鎖は認めない。速やかに解除せよ。」という評議会通告を発した。午後6時説明会と称して寮食に現れた馬場学長事務取扱に対し、十共闘約20名の部隊は「補講粉砕、国立検問ロックアウト粉砕全学追及集会」を宣言し約百名の学友とともに追求し、補講についての大衆団交の開催を要求した。
 20日は登校する学生にクラス討論を提起し、午後から小平入管闘の集会を行った。午後5時から東経大・国立地区共闘の学友とともに正門前で総決起集会を行った。
 21日早朝予想される機動隊導入に備え、バリケードを強化した。正午正面のバリケードを開き、結集した三多摩の闘う学友とともに「10・21国際共同闘争勝利」三多摩総決起集会」を約150名の結集で勝ち取った。桐朋高校全学行動戦線、三鷹大成高校全学解放会議、一橋大ベ平連、武蔵野美術大学全学自治会から連帯の挨拶、十共闘から反帝学評・学生インター・反帝学生戦線・小平入管闘・叛乱準備委員会が決意表明し、一橋学園駅までデモを貫徹し、芝公園の全国全共闘総決起集会にむかった。

〈Oの証言〉
十共闘は一橋全闘委の残党と三多摩地区の反帝学評系学生の混成組織だった。10.19小平バリストを率いたその中心にはO(反帝学評系)はじめ一橋の三回生がいて、彼らは国立本館封鎖時点では前期学生だったので、“封鎖当日”に直接関わることができなかった者たちがほとんどだった。小平バリストの目的としては、「補講粉砕、国立検問ロックアウト粉砕、10・21国際共同闘争へ向けた連帯行動」を掲げていたが、中心メンバーには「自らの手でバリストを!」の想いも強くあったのは事実であろう。
10.20の午後遅くからバリスト内で、「続行か、撤退か」の議論が激しく闘わされ、深夜に及んだが、結局「撤退」の結論に至った。バリストに至ったその背景には、確かに全共闘運動の混迷の中にあって、そこからの一点突破的な衝動が横たわっていたのも事実であり、議論は難航したが、やはり「継続」するには、内部的な意思統一が不十分であり、またその必然性も薄弱だった。

〈無給の殺し屋〉による「闘争ルポ バリケード武断の華」の冒頭
はじまりは例によって散文的だ。
俺は遅れて到着した。
車座の中心から俺に向きなおりざまー
―「やるか?」
「ああ」
きれいさっぱりこれだけである。
「して、手筈は?」
と、こう続くのが自然の成り行きというものだろう。で、じじつそうだった。
・・・・

10.21政府打倒国際共同闘争 沖縄、入管へ巨大な進撃
全国全共闘・全国反戦 全関東労学総決起集会
日比谷野外音楽堂
「入管法国会再上程阻止、入管体制粉砕、72年沖縄返還策動―国政参加選挙反対、自衛隊沖縄派兵阻止、4次防粉砕」のスローガンの下に約3万人の結集をもって開催された。学生はこれに先立って芝公園で総決起集会を持った後、戦闘的なデモを展開し日比谷野音に結集した。
7時から各戦線の挨拶で、先ず東京入管闘が国籍書き換え運動を入管地区実を組織化して推進する、北富士忍草母の会が入会地奪還を闘う、三里塚・芝山連合空港反対同盟が土地収用阻止を最後まで闘う、全国隊友反戦から自衛隊内部からの反乱の開始が宣言された。外人べ平連、68年10・21新宿騒乱被告団・防衛庁闘争被告団・国会突入被告団、埼玉反戦、神奈川県反戦の決意表明のあと、各セクトが発言した。学生インター、全学連(内城委員長)、全国学生解放戦線、全学連(金山委員長)、プロ学同、全国反帝学生戦線、反帝戦線の順であった。インター斉唱後、自由連合・プロ軍他(150)、各大学全共闘(3500、うち日大2000)、東京反戦(500)、東大全共闘(150)、反帝戦線(800)、反帝学評(1000)、東教大・東工大他全共闘(600)、第4インター(150)、ML(150)芝工大(250)、法大(750)立正大(80)横国大(300)中核(2000)等の順に明治公園に向けて出発した。途中、反帝学評、反帝戦線、法大全共闘などが実力闘争を行い数十名が逮捕された。
なお、10・21闘争に向けて、わが一橋大を先頭に埼玉大、小樽商大、北大、明大生田等全国で6校がバリストをうち、武蔵野美大など6校が都内においてストライキを打った。

十共闘 その総括と展望
十共闘が19-21バリストを含む闘争で提起した組織論的、運動論的質は次の3点に要約できる。①学内闘争と政治闘争を結合して闘い抜くための組織的保障と具体的推進。十共闘が課題別(入管・反軍・サークル運動・教育)闘争委の結合体として構成され、課題別のフラクションと全体会議で運動の方針を決定していく。②政治・社会状況の把握から学内闘争課題(補講・ロックアウト・新寮・学館など)の階級的推進。③学生総体の普遍的利害を担う闘争主体の登場。これら3点の凝縮した闘いとして19-21バリストは闘い抜かれ、背景には全共闘運動の混迷の中からの新たな発展への衝動が横たわっていた。全闘委の政治的活動家集団化の突破衝動と1年生を中心とした入管闘争を闘う主体の学内闘争へのかかわりから政治・社会闘争を捉えようとする衝動の結合として闘い抜かれた。
今後の展望としては、学内におけるあらゆる戦線、闘争主体を結合し、全共闘運動の新たな発展の推進軸になってゆかねばならない。

一橋新聞10月16日号 サークル共闘会議準備会による
一橋祭運営委員会への公開質問状
昨年の一橋祭運営委員会はビアパーティーに象徴される大政翼賛的オマツリとしての過去の一橋祭を繰り返すことはできないとして、一橋祭を中止し「埋葬」した。それを引き継いだ一橋祭運営委員会はこの「埋葬」をどう考えるのか、などの公開質問状をサークル共闘会議が提示した。
注目すべきは、今回の一橋祭運営委員会に結集している部分は、昨年の国立本館封鎖解除、前期無期限ストライキ解除に狂奔し、闘争圧殺の主役を果たした諸君を中心としていることだ。Get tomorrowなる一見無邪気に見えるスローガンが実はブルジョワジーの先兵として飛躍することを志向する彼らの適確な表現である。ブルジョワジーに全面対決する今秋の闘いの課題として、学内秩序の完成に対決する強力な隊列をもって、一橋祭闘争を闘おう。

在日朝鮮人の国籍書き換え支援
11・2 対小平市長団交闘争
小平市では勝共連合、官憲が一体となって、朝鮮大学校への挑発、弾圧を繰り返し、入管闘争への執拗な妨害が行われている。大島小平市長は勝共連合世界大会に名を連ねる全国唯一の市長である。11月2日80名の学生市民労働者が結集した市庁舎前の集会で、三多摩反戦、安保粉砕地区共闘、一橋大、東学大、津田塾大、錦城高校入管闘から決意表明があり、会議室に乗り込んだが、市長は多忙を理由に出席せず、代理の市民課長は書き換え要求に対し、国からの委任事務であるから法務省通達に従わなければならないと回答した。

補講攻撃粉砕へ進撃
11・9評議会は団交要求を拒否
十共闘は10月下旬三度にわたり学生集会を貫徹し、補講攻撃粉砕に向け大学当局を追求し、11月4日に評議会の団交を要求したが、評議会は9日「学生の正式代表機関としか団交は持てない」と手続き・形式論で回答し、再度の要求にも同様に拒否した。前期学生委員会が間に入り、聴聞会という形での会合を提案したが、評議会はこれも拒否した。

11・9、13 学生大会は流れる
一方、この補講粉砕闘争と沖縄国政参加粉砕闘争を軸とする秋期の闘いをストライキとして勝ち取るべく十共闘の要求で開催された11月9日、13日の前期学生大会はともに定足数に満たず流会した。
しかし、十共闘内部では補講攻撃粉砕を戦略―戦術的に確定できず、当局の説明会から補講のなし崩し的実施の前に補講粉砕闘争は敗北した。この敗北以降十共闘はサークル共闘会議の実践的一橋祭批判、小平連絡会議の国籍書き換え支援闘争等の部分的突出を見ながらも、総体的なダイナミズムを獲得できず、分散化していった。

一橋新聞1971年3月1日号
70年一橋闘争 その追体験的照射(要旨)
(1)一橋闘争終焉後 69年11月24日前期学生大会においてスト実提案が否決され、前期無期限ストが解除されたことによって、一橋闘争は終焉した。嬉々として「平和で秩序ある学園」を取り戻さんと走り回る右翼秩序派と日共=民青とは裏腹に一橋闘争を闘い抜いた諸個人は、ある者は自己の生活に閉じこもり、ある者は痛憤にまみれながらも教室に戻り、またある者は「何かしなければ」と思いつつも何から始めてよいものかわからないといった混迷状態に陥っていった。
虚無主義に陥る部分と組織的自己滅却的運動に転落していく部分を両極とするさまざまな傾向を、実践的に止揚する方向性を見出そうとする運動が徐々に登場してくる。70年1月-2月の前期自治会選挙において、行動委員会運動によるポツダム自治会の止揚と闘う共同性を打ち出した全学闘争委員会は4・28闘争、入学式闘争、5・15愛知訪ジャカルタ阻止闘争を闘い抜く中から地区的結合と自らの組織的再編を模索し始める。
(2)6月安保長期ストライキ 6月2日前期学生大会で圧倒的多数の支持で全闘委提案の「安保粉砕・政府打倒」の1か月ストライキが採択された。スト実は大学当局への断固たる反撃を開始し、小平地区の労学のエネルギーを組みつくし、政治的頂点に向けた闘いに集約するべく、地区共闘の展開に着手したが、今一つ目に見える形で突き出すには至らなかった。6・14-23を頂点とする中央実力闘争を闘い抜いた後、スト実の組織的脆弱性が表面化し、学内闘争を担う部分と政治闘争を積極的に担う部分の分離は最後まで結合できず、ストは7・1総括学生大会の流会によって解除された。
(3)前期自治会執行委員長選挙 70年代における帝国主義的政治・社会再編のもたらす破壊的攻撃に抗し、自立と団結=諸個人の全面的な発展を見つめて共に闘い抜け!のスローガンで闘った全闘委推薦の候補は結果的には敗北した。
(4)十共闘―10.19~21小平バリスト 9月選挙闘争敗北を契機として、全闘委の活動家集団―無党派大衆という組織論的運動論的限界を突破する衝動と、一年生を中心として即時的に入管闘争に関わって来た部分が、学園闘争に関る中から、総体的に政治・社会闘争を捉えようとする衝動との結合として、十月共同闘争委員会(十共闘)が結成された。十共闘の組織論的質は、①帝国主義的政治社会再編に総体的に闘いうる団結の質の保障であり、学内闘争と政治闘争との実践的結合である。十共闘は課題別行動委員会の結合体として構成され各課題別のフラクションと全体会議で運動の方針を決定していく。②補講攻撃・ロックアウト体制を粉砕し、新寮・学館等の学内諸課題を階級的推進と地区的拡がりをもって闘う。③学生総体の普遍的利害を担いうる闘争主体の登場である。
十共闘は補講の意味を政治ストは認めない大学当局の近代化攻撃の一環と捉え、補講攻撃粉砕を掲げて、10月19日から3日間小平本館バリケードストに突入したが、単に補講粉砕に止まらず、政府打倒、国際共同闘争を学園からの反乱として闘い抜いた。
十共闘が19-21バリストを含む闘争で突き出した質は、先の三点と更に<組織された暴力>に尽くされるだろう。われわれの団結の質が問題となる。闘争の過程においていかなる共同性を獲得したのか、<組織された暴力>を孕みつつバリケードという戦術形態で凝縮して表現した政治の幅は<政府打倒>に集約される質から市民社会深部を揺るがす闘いへと拡げられていた。
全共闘運動は極限的展開の中でブルジョア社会の分厚い壁に突き当たりつつ、普遍的解決能力を、地区的共同=ソビエト運動として開示していく。そうした発展を意識的に模索し、4月以来、国立地区共闘として闘う部分を結集し闘争を展開してきたが、秋期一定分散化している。10月下旬、入管体制粉砕小平連絡会議が結成され、入管戦線の地区的結合が図られたが、ソビエト運動への止揚を孕んだ発展が必要である。
(5)最後に 現在、政府ブルジョアジーの土地強制収用代執行に対して闘っている三里塚の革命的農民と連帯し、長期支援闘争を闘い抜く中から、政治・社会闘争を担いうる団結の質が実践的につかみ取られようとしている。

上記の一橋新聞の3月1日号の総括は十共闘の10・19-21バリストを高く評価しようとしているが、私はこの闘いは余りにも唐突で、目的や意義についても説得力の乏しいバリケード封鎖であったと思う。補講攻撃粉砕はバリケード封鎖の名目としては弱すぎる。補講攻撃粉砕の実力行使なら教師に補講拒否・非協力を呼びかける、教室で補講の実施を阻止するなどほかの方法があるはずで、全館バリケード封鎖というのはやむにやまれぬ最後の手段であるべきだ。普段見かけない3回生以上の全闘委のメンバーや他大学の人たちが集まってきて、実に手際よく本館1階の全教室をたちまち机やいすでバリケード封鎖してしまった。「闘争ルポ バリケード武断の華」がそのときの空気を活写している。2回生の私は特に息詰まる議論に加わるわけでもなく、21日の一橋学園駅へのデモの申請を頼まれて、小平警察署に行ったことを覚えている。21日を最後に全闘委、十共闘の部隊としての出陣はなくなった。 11月で補講粉砕闘争も終息し、1970年1月から全闘委が再起し、地区共闘を形成し、6月安保沖縄ストを闘い、10月バリストに至った第二次一橋闘争(70年一橋闘争)は1970年11月で終わった。
1968年10月からまる2年間の全闘委の闘いをもって一橋闘争とすれば記録はここでお終いであるが、71年以降も全闘委の流れをくむ者たちが断続的に決起して、ストライキも繰り返している。以下で、その経過を記録していきたい。
(続く)

【お知らせ その1】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。

●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は2026年3月30日(月)に更新予定です。