今回のブログは、2026年3月6日から3月8日にかけて行われた明大土曜会メンバーによる「沖縄訪問」の報告である。今回の訪問は、土屋源太郎さん(伊達判決を生かす会共同代表、元明大中執委員長・都学連委員長)の強い要望により2年ぶりに企画された。参加者は12名。現役学生や若い世代も参加した「老青学」のメンバーで、Yグループ゚とNグループの2つのグループに分かれて行動した。
以下、NグループのN氏による報告である。

土曜会26年春季沖縄ツアー(主にNグループ)の報告                              2026年4月4日 N・T

3月6日(金)
早朝、羽田を出発。40分遅れで那覇に着き、まずレンタカーを借り、うるま市宮城島へ向かう。途中、金武湾を埋め立て、勝連半島と平安座島を繋ぐ海中道路を通る。1974年頃、CTS石油備蓄基地建設に伴い開通した道路だ。この道路により海の流れが遮断され、金武湾の生態系も大きく変化したと聞く。途中、前方に巨大なタンク群が見えた。これが石油備蓄基地だ。当時、東京でもCTS建設反対の運動があり、私自身も明大在学中に参加した。その頃は金もないので沖縄現地に来ることは出来なかったが、初めて巨大タンクを真近かに見て感慨深いものがある。

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宮城島の沖宮鉱山では、辺野古埋立て用土砂を採取しており、地元の「うるま島ぐるみ会議」の皆さんが「ダンプ遅延行動」を行っている。事前に連絡をしてあった同会議の事務局長・伊波さんが迎えてくれ、我々も行動の列に加わる。1日3回の行動で、午前中はまだ10人位は参加するそうだが、午後は人も少ないという。他に東京から来たという数人に加え、我々5名が加わり、10数名で「ムカデ行進」を行い、1時間くらいの行動になった。その間、搬出トラックを阻止したが、行動を終えたら待機していた10トンダンプが列をなして排出ガスをまき散らして積み出し港まで向かった。1日200台くらいが搬出するという。
その後、宿泊先の辺野古、クッションに向かう。いつものように「海の見える家」に荷物を置き、Yグループとの合同交流会の居酒屋に向かった。現地で活動している橋本さんを含め13名で賑やかに交流を深めた。

3月7日(土)
11時からキャンプシュワブテント前で県民大行動に参加。オール沖縄会議推薦の議員が全員落選するとういう衆議院選挙から初めての県民大行動で、550名が参加した。

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「辺野古新基地が建設されても普天間の代替となる長い滑走路を選定するまで返さない」と米国防省の公式文書に明記されていたことが判明。前日の6日には普天間飛行場に配備されている米軍ヘリが名護市許田の野球場に不時着するという事故も発生していた。
そうした状況を反映して、発言者の多くが「辺野古が唯一の解決策」と言ってきた政府のウソを糾弾し、米軍基地の日常的な危険性を訴える発言が相次いだ。
続いて連帯の挨拶として、我々の団長である土屋源太郎さんが発言に立った。土屋さんは、「私の大学の後輩の若い人たちと沖縄に来た」と土曜会のことを紹介。そして高市政権の軍拡政策を批判し、「沖縄知事選挙は日本全体の問題であり絶対勝たないといけない」と語り、共に闘いましょう訴えた。土屋さんの発言対しては会場から万雷の拍手が起こり、発言後には何人もの人が握手を求めて駆け寄って来るなど、大変な人気だった。
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(土屋源太郎さん写真)
<県民大会での土屋源太郎さんの挨拶>
こんにちは。91歳になりました。でもね、今日久しぶりにこの集会に参加して、沖縄のみなさん方とお会い出きた。もう本当に感激です。ありがとうございます。
今日は私の明治大学の後輩の土曜会の仲間と12名でこの集会に参加しております。(拍手)私は東京に生まれました。そして戦争になって、1920年の4月18日、米軍の空襲によって我が家が焼かれ、そして私は両親・妹と4人で火の中を逃げ回った記憶があります。戦争は絶対に駄目なんです。平和が必要なんです。それが私の信念の根底にはあります。
それは、東京で私は大学に入るとともに学生運動に参加し、全学連のリーダーとして当時の立川米軍基地の反対の闘い、いわゆる砂川闘争を指導しました。そしてその結果、基地内に侵入したということで逮捕・起訴された。そして裁判になりました。伊達裁判長は日本駐留米軍は戦力で憲法9条に違反している。米軍基地の存在そのものが許すべきものでないとして無罪判決を出します。日米両政府はこれに非常に泡食って、最高裁でいろいろ陰謀をした結果、その判決は破棄された。最終的に有罪となります。
しかし私は、あの伊達判決では米軍基地が憲法違反であるというその精神というものは非常に大事だというふうに思って、現在もその運動を続けています。(拍手)今トランプは軍事力を持って(イランに)介入して、トランプの思うような国に変えようとしている。そのようなトランプと高市首相は一層同盟を強めようとして、そして日本を、今まで戦争の出来なかった国を、戦争をできる国に変えようとしている。この辺野古基地についても、実際にできっこない基地、まさにこれを強行するための工事を再開した。こんなこと絶対に許すことはできないと思っています。それと同時に防衛費を大幅に増額して、先ほど言ったように、戦争できない国を戦争のできる国に変えようとしている。そして、人命を実際に殺してもいいような兵器を輸出するとさえ決める。それから安保3文書を改訂して敵基地攻撃が更にできるようにする。非核三原則も変更しようとしている。こんなことは絶対に許すわけにはいかないんですよ。(「そうだー」の声)本当に闘いを我々は一層強めていかなければいけないと思います。しかし残念ながら先般の衆議院議員選挙で野党は大敗しました。沖縄もそうです。私が住んでいる静岡でも、まったく野党が全部負けてしまった。しかし、そんなことでめげる必要はない。(「そうだー」という声)敗因を分析するとともに、再度闘う姿勢が必ず出て来ます。私は確信しています。
9月には大事な沖縄の知事選があります。沖縄は日本の国内で最も米軍基地が集中している県です。ですから、沖縄県知事選というのは単なる沖縄県の問題ではない。日本全国の問題だと私は考えています。絶対に沖縄の知事選は勝ち抜かなければならない。そのためには、やはり沖縄と本土との連帯、これを一層強めていかなければいけない。残念ながら本土は沖縄に対するいろんな形の温度差があります。それを我々は何としても沖縄とともに闘う、連帯を強めるという闘いを続けたいふうに考えております。この知事選を勝ち抜くためにも、あらゆる手段をもって、できる限りの支援をするという決意を持っています。皆さん、連帯を一層強めてともに闘いましょう。がんばりましょう。ありがとうございます。(「ありがとうー」の声)

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(「沖縄タイムス」記事)
集会後は、予定では大浦湾を一望できる瀬嵩の旧灯台跡に登り、埋立て工事の状況を見る予定だったが、Yグループの高齢者の皆さんが坂を登るにはしんどいというので、予定を変更し、全員で恩納村にある「創価学会・沖縄研修道場」を訪れた。ここはかつて、アメリカ軍の核ミサイル「メースB」の発射基地があった場所だ。 
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沖縄には戦後の1961年から恩納村、読谷村、金武町、うるま市の4カ所に核ミサイルメースBを8基ずつ配備する基地が建設されていた。72年の返還後核基地は撤去され、恩納村の基地跡を創価学会が購入したのだが、「基地の跡は永遠に残そう。『人類は、かつて戦争という愚かなことをしたんだ』、という、ひとつの証として」という池田会長の提案でミサイル発射台が残されたという。そこが現在、平和学習の場として整備されている。

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8カ所の発射口の内1か所はほとんど現状のまま保存されており、内部の天井には同じ大きさのメースの絵が描かれ、中国大陸に向かわんとしていた。ひんやりとした発射台内部は核基地の緊張感を漂わせていた。あまり知られていない施設だが、かつて沖縄に存在していた核基地の実態を知る貴重な場だ。
ここでYグループとは分かれ、我々は嘉手納基地が一望できる「かでな道の駅」に向かった。嘉手納の飛行場では時折爆音を響かせ米軍機が飛び立っていく。展望台には軍用機のファンと思われる人たちがカメラを構え撮影をしていた。

3月8(日)

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朝はまず、昨日行けなかった瀬嵩の旧灯台跡に登った。日曜日で埋立て作業は行っていない様子だったが、6台の砂杭打ち作業船・サンドコンパクションパイル船が配置。高さ80mにもなるという櫓が林立して、他の作業船も併せ、広い大浦湾が狭く感じた。遅れていると言われていた砂杭打ちも1月に入り急増し、1月は月別で最多の1700本だったという。それでも杭打ちだけで今後15年はかかるという。
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続いて我々は、普天間飛行場が一望できる嘉数高台に向かった。「世界一危険な基地」と言われるように、飛行場の周りには住宅地、学校などの教育施設がひしめいており、事故の恐怖と隣り合わせだという日常が実感され場所だ。同地は、沖縄島中部に上陸した米軍との激戦地の一つでもある。高台を占領するために一進一退の攻防戦が展開された。戦死者も多く、慰霊碑も何基か立っている。
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その中に「韓民族出身沖縄戦戦没者慰霊 青丘之塔」がある。これは沖縄戦に駆り出された朝鮮人軍人・軍属386名を追悼する碑で、1973年に建立された。ここにも植民地支配の実態が表れている。
次は、浦添市の浦添西海岸に向かった。ここは、かつて米軍牧港補給基地(キャンプキンザ―)の基地水域があった場所で、2008年に返還された。自然海岸が残っているこの場所に、米軍那覇軍港の移設計画が進んでいる。那覇市の海岸沿い、那覇空港にも近い場所にある米軍那覇軍港は、現在はあまり使われていないとされるが、普天間飛行場返還が盛り込まれたSACO合意で浦添地区への移設を条件として同じく「返還」が決まった。ただ、沖縄県も移設を認めており、辺野古ほどには注目されていない。
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我々は、海岸沿いにある巨大なパルコシティーの展望デッキに登り、海岸を一望した。満潮だったためにサンゴ礁は見えなかったが、干潮時にはサンゴ礁が広がり多彩な水中生物の生息が見られるという。こうした貴重な自然が米軍の身勝手な要望で破壊されていくことは許されない。
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次に訪れたのは豊見城市にある旧海軍司令部壕だ。 同司令部はアジア・太平洋戦争末期の1944年に豊見城市の高台に人力によって掘られた。壕内は良く保存されており、司令官室や幕僚室、医療室などが公開されている。部屋には手榴弾で自決した時の破片の痕が当時のまま残っている。同施設は、1953年元海軍部隊隊員が司令部壕跡を訪れ、800名以上の遺骨を収集し、沖縄海友会によって海軍戦没者慰霊之塔が建立されるようになって以降、1970年に壕内の一部が復元、公開されるようになった。そうした経過から旧日本軍を顕彰する色彩が強く、沖縄民衆に犠牲を強いた反省や責任の視点が乏しい。有名な太田司令官の「沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ 賜ランコトヲ」という電報も展示され、美談として語られている。
ただ、沖縄戦末期の海軍の追い詰められた実状の一端を知る場にもなっている。一見の価値はある。
 最後に、1月22日に亡くなった沖本裕司さんの自宅を弔問に訪れた。沖本さんは、1970年、一橋大学在学中に返還前の沖縄に移住し、基地問題や沖縄での韓国民衆連帯などに取り組んできた。「本土」の左翼活動家として当時最も早く沖縄の重要性を認識し、自ら移住して「本土」-沖縄を繋ぐ活動に精力を傾けた人だ。近年は島ぐるみ八重瀬の会事務局長として辺野古新基地建設反対運動に関わってきた。また、南京大虐殺の歴史を学び、「南京・沖縄をむすぶ会」の発足に関わり、23~25年に沖縄からの南京平和友好訪問団の団長も務めた。何冊もの報告書を出版した。昨年秋にも体調が優れない中訪中し、編集に力を注いでいたという。
我々土曜会のツアーでも何度もお世話になった。3年前のツアーではで南部戦跡を案内していただいた。
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(平和祈念公園で沖本さんの解説を聞く 2023.3)
自宅ではお連れ合いと「本土」から来ていた娘さんのお話をお聞きした。お連れ合いも70年、秋田の大学から沖縄に来て、沖本さんと共に反基地・平和運動に参加されていたという。お話は尽きなかったが飛行機の時間が迫っており、慌ただしくご自宅を後にし、那覇空港に向かった。
 
今回のツアーは土屋さんの強い希望で実現したが、準備期間があまりなく、前回のような学生・若者グループとしての参加は組めなかった。ただ2名の若者、学生が我々のグループに参加、「老青学」のツアーが実現できた。初めて訪れた場所もあり、有意義なツアーとなったと思う。訪問後、「辺野古・大浦湾での平和学習の船転覆による2名死亡」という痛ましい事故があり、辺野古基地反対にとっては厳しい状況が続くが、「諦めずに闘い続ける」という沖縄の人々に学び、今後も基地反対、沖縄との連帯の活動を続けて行きたい。

以上、明大土曜会の沖縄訪問の報告である。
最後に、若手(20代)参加者2名の沖縄訪問の感想を掲載する。
「今回土曜会の皆様と一緒に沖縄の方を訪問させていただきました。人生で初めての沖縄だったので、やっぱり知識としてはいろいろ沖縄の現状であるとか、米軍基地による米軍の重さとかいうものを意識していたんですけども、やっぱり現場を見て改めてとんでもないことになっているなということがよく実感できました。
やっぱり今私にできることというのは、せいぜい沖縄の生の現実を見てきた者として、そういうことを伝えていくのが今はそれしかできないのかなと思いつつも、まだちょっとそれをやりながら今後も何かしらの形で沖縄との連帯の闘いの方に携わっていければなと思っております」

「基地問題の現場に足を運び、実態を把握できたのは得難い機会になった。特に宮城島における土砂搬出現場では、削られて山肌があらわになった自然の様子や無機質な警備員の様子を見て、建設反対の声が大きな力にかき消されそうになっているのを実感し、土砂流出やトラックをめぐる諸問題について地元の方のお話をお聞きして、基地建設の裏側ではこのような問題も引き起こされているのかと驚いた。ダンプの排ガスの臭いにおいは今でも思い出される。つい本島の基地に注目が集まりやすい中で、様々な視点から問題を捉えることができた。また、嘉手納では戦闘機による爆音に遭遇し、日常感じるであろう苦しみのごく一部ではあるが、日常生活に支障が出る騒音とは何かを体感できた。訪問中にヘリ不時着事故が発生し、沖縄の地方紙では1面を飾ったが、後日図書館で全国紙を調べてみると、その扱いは小さく、本土の関心度合いをまたも象徴していた。訪問後、悲惨な事故が発生するなど難しい局面にあるが、基地が日本で一番集中している沖縄に想いを寄せ続けたい」
(終)

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