今回のブログは、雑誌『現代の眼』(1974年7月号)に掲載された「特集・日本の大学―感性なき虚構の集団か」の中から法政大学の記事を掲載する。
この特集には、1968年から1970年にかけての全国学園闘争が下火となり、各大学でも学生側のバリケードから大学当局による「逆バリ」ロック・アウトが盛んになっていた1974年頃のいくかの大学の情況が描かれている。
法政大学は当時、私もお世話になった。1969年10月、バリケード・ストライキ中の明大大学に機動隊が導入され、大学側は全学ロック・アウトの措置を取った。そのため私は、明治大学に近く、高校時代の友人もいた法政大学に1ケ月ほどお世話になったことがある。
法政大学は「東の法政大、西の広島大」と言われる中核派の拠点校だった。1969年10月から11月は、佐藤訪米阻止闘争「11月決戦」の直前であり、全国から中核派の学生が集まって寝泊まりしていた。街頭闘争の訓練などやっていたように思う。
【特集・日本の大学―感性なき虚構の集団か 法政大学―錯綜する学生運動の中庭】
(『現代の眼』1974年7月号)
虚像をはがされた今、この大学の"正常化“とは”俗流革新“を超える闘争の構築である。
穂坂久仁雄(ルポ・ライター)

(法政大学 1970年頃)

(法政大学 1970年頃)
“平和共存”の中身
いいかげんというかルーズというか、とにかくメリハリもけじめもない学校というイメージと法政大学は、長い間私の頭の中には離れ難い関係にあった。とにかく、法政大学としては、“美食家*"でも"健啖家*でもなく、入学も他大学と比べて容易で授業料も安く、そうした関門をくぐって入って来る学生に至っては、とても”美食家“の舌に耐えられるような存在ではないと思っていた。
昨年だったか、アメリカの消費者運動で肉の不買があり、その余波を受けて肉の代りに魚を与えられて顔をしかめているライオンの写真が、新聞に掲載されたことがある。動物に好き嫌いがあるように、大学にも“好き嫌い”があって入学する新人生にも、それなりに特徴があるものだが、法政にはそれすらない。例えが悪いかもしれないが、“食べる”方に関しては豚みたいなもので、何でも口にしてしまうようなもの。
こうした"偏見“は、別に大し理由があるわけではない。たたひたすら、8年ほど前に筆者自身が法政大学を卒業しており、在学中に前述のようなことを感じていて、その記憶か増幅されたに過ぎない。
だから、法政大学が刊行している季刊誌『ユニヴェルシタス』の小中陽太郎氏のこんな文章をみると、ニンマリとしてしまうのである。これは、小沢遼子著『よそもの連合太平記』の書評であり、書評者小中氏には教養部講師の肩書が記されている。
「去年の秋、法政大学祭の忻、浅田光輝氏や田原総一郎氏と私と氏(小沢氏のこと=筆者注)はティーチインに出席した。宴果てて、五階のスナックでアと大いに飲んだ。秋田明大が網走番外地をうたった。
酔った氏が、私の扇動に乗ったふりをして法政の校?をうたうと、学生たちが大いにしらけた。隣の教室から、応援団でも来たのかと驚いてのぞきに来た学生があきれていた」
小沢氏は法政の社会学部に在学していた頃は構改系の活動家で、同じ頃、法学部の無党派の自治会に関係していた私とは、互いに批判したり批判されたりという関係だった。だから、前出のセンテンスの後に、小中氏が「校歌と『原爆許すまじ』と『インターナショナル』が共存したほんの短い時代に、彼女も育ったのだな、と私は思った」と書いていることに、多少異和感を覚えてしまう。
確かに60年前後の法政にはそうした雰囲気はあった。60年安保闘争の頃、明治大学の部隊は「おーおー、明治いー」と叫んで機動隊に突っ込み、法政大学の部隊は「法政、おお、我が母校―」と歌ってから国会へ向ったという話は本当かもしれない。
恐らく、私の内に抜き難く「いいかげんさ」が記憶されているのはそのためだと思うが、60年代初頭の日韓条約反対闘争や、大管法、原子力潜水艦寄港阻止闘争の法政には校歌とインターが共棲してもおかしくない条件があったのである。
当時の法政の学生運動では、大衆的基盤などという状態とはほど遠く、特別な時を除いて全学集会で40人とか50人、全部の集会でも300人とか500人、という時代である。サークルはほとんどデモの集会には現れないし、学術団体やゼミに巣を持つ者は研究会に熱中し、少数ながら"勉強の虫“もいるという分布図があった。要するに何かモノを考えようとする者が、それぞれ勝手な方向を向き、バラバラなことをやっていたのである。
学生部を含めた大学当局はといえば、自治会や、学生運動に対して妙にやさしい。当時の街頭デモは、最高形態でせいぜい外務省前座り込みくらいだったが、それでも警察はけじめをつける必要があるらしく、デモの指導者を少人数だが逮捕した。そういうことは事前に判るから、集会のデモがある時は前日に学生部長が自治会室に電話してきて、翌日の予定を訊ねるのである。
法政の学生が指導者になる、つまり逮捕される予定になっていることが判ると、その当日には学生課職員がデモの後をついて回ったり、逮捕後は弁護士の資格を持つ法学部の教員が接見に行ったりした。卒業間近になれば「学生運動やっていると就戰しにくいだろう」と、活動家に法大に職員として就職しないかと誘いをかけてくる。もちろん学生運動対策なので、さすがに就職した者は私の知る限りいなかったが、万事こういう具合いなのである。
闘いが学外に向いている限り、法政という大学は、学生に対して寛容だった。そうした“平和共存”の図式がはっきり破綻しはじめたのは、67年頃からである。自治会の正統性をめぐる民青系といわゆる三派系のゲバルトに処分者を出したことが契機になっている。10・8羽田闘争も、全共闘も無い頃である。
この時の経緯は、本誌の連載・大学の裏庭「苦悶する法政大学」(68年2月号)に詳しい。筆者は小中陽太郎氏。もっともこの時はルポライターの肩書である。
困ったことが起きると機動隊を導入して学生を排除するという"習癖"がこの大学につき始める事件のきっかけは、67年6月に法学部と第二教養部自治会の“政権”をめぐって二派が暴力的に対立したことがあった。当局がそれに対し処分を加えたが、それを決定する教授会、学生部長会で日共フラクが暗躍し、これに抗議するため大衆団交が開かれ、他大学と同様に総長や関係教校が「監禁」され、機動隊という経過を辿る。前記のレポートで小中氏はこう書いた。
「三木・戸坂の伝役という。
革新の牙城という。とんでもない、というのである。それらはみな虚像にすぎなかった。いや、革新の自覚があるだけに、虚像よりきびしくなった」。
この頃から“我が母校・法政大学”は変質しはじめたのである。「いいかげん」さは後退し、「けじめ」かつき始めた。もっともそれを先行的に実現していったのは学生であっだ。そして、その内実を形成したのが、今年1月までにほぼ終焉した学館闘争である。虚像が白日の下にさらされて、実像が見え始めれば、「いいかげんさ」が闊歩するルーズさは後退する。
学館をめぐる闘争の歴史
国電飯田橋駅から市ヶ谷駅に向かって7、8分歩くと外濠をにらむようにして法政大学本校のキャンパスがある。そして飯田橋駅から市ヶ谷駅までには、いたるところに学生運動の“名所旧跡”がある。68年のエンタープライズ阻止闘争では、法大から飯田橋に向かう中核派の部隊を機動隊が挑発して予防検束したのはこの道だったし、法大正門から市ヶ谷寄りでは、つい先日革マル派が中核派を襲い、一人の死者を出している。この時は、襲撃現場から一キロ以上離れた麹町のNTV付近まで、ヘルメットが散乱していたという。
狭いキャンパスで“有名な学校だが、その一角に8階建ての学生会館が建っていた。正確に記せば、本部横と外濠寄りのホール棟に別れている。刑務所を建設した建築家の手で設計されたという六角校舎も、60年安保闘争の時、ハガチー事件に関連する捜索で扉を破られた社会学部、文学部自治会のあった新館という二つの建物も今は壊され、昔より広々としている。
六角校舎は70年9月に、中核派が革マル派の海老原という活動家をリンチして問題になり、絶好の機会とばかりに取り壊されている。新館もその時運命を共にしているが、この建物に機動隊が踏み込んだ時は、有沢広巳総長(当時)か、「法政大学全学の名において警視庁に厳重抗議」している。
自治会室、サークル部室はこの二つの建物に集中していたので、大学も学館を建設することに自ら拍車をかけたわけだが、具体的な動きはもう少し以前から始まっていた。
65年5月には、総長の諮問にもとづき、厚生補導委員会の中に学館小委員会がつくられ、10月には学生側も学館設立委員会を正式発足させた。この学館委と中村哲総長が68年12月16日に団交、その時総長は「管理・運営を学生にゆだねる」と確約している。後になってこの確約は総長自からが「理想論」だったと反故にするのだが、これが闘争の第一の争点として残ってゆく。
そして70年9月の海老原事件以後、当局は大学「経営」上の三条件を発表する。これを、学館管理にも適用するという当局の方針は、第二の争点となるのである。
三条件とは、①夜10時30分より朝8時まで、大学施設を使用しないこと。②建物・部室の不法占拠を解消すること、とくに本学学生以外の者に部室の転貸しをしないこと。③学生諸団体が、自発性において思想・信条または政治的立場の相違、対立を暴力によって決しない旨の内容をもつ声明文を、大学が確認しうる方法で出すこと。(その内容、形式、表明方法については、各団体の自主性を尊重し画一的なものを求めているわけではありません)。
これより以前(4月)に発表されていた六項目の禁止事項も、その後は「三条件・六項目」と一括して呼ばれるようになる。六項目とは、①人身に対して危害を加える行為、②凶器となるべきものの所持と集積、威嚇行為など、暴力行使の準備となる行為、③大学の運営に重大な支障をおよぼす業務、授業、試験の妨害、④大学施設の不法使用、占拠、封鎖、および破壊、⑤許可なき者の大学施設の徹夜使用、宿泊、⑥許可なき学外者の大学構内の立ち入り。
第三の争点は生協の入館についてである。二部の自治会を例外として、法政の学生組織は基本的には反代々木で統一されている。といっても、世評にあるように中核派が主導しているというより中核派は守られているといった方が正確で、第一“党派”は黒ヘル、ノンセクトの学生である。学館闘争も彼らが主導してきた。『法政大学新聞』(73年10月5日)は、こう書いている。
「全国的な学園闘争が機動隊導入や民青支配によって沈静化させられ各大学全共闘がその組織性を維特し得なくなり崩壊していく中で、本学にあっては70年夏の海老原事件を機にロックアウト紛砕闘争、71年の学費値上げ阻止闘争と、他大学から見れば“狂い咲き”のごとく全共闘運動は大衆的盛上りを見せた。とりわけ本学の全共闘運動が特定の党派の影響力から独立した形で、300人、500人のヘルメット姿で集会を開いている姿は他大学生から見れば"異様“にさえ見えるほどである」。
学生側の設立委はその後学生会館学生連盟として発展し、入館後は運営にもあたっているが、この組織は一部、二部のすべての学生組織で構成されている。各学部自治会、サークルの連合体である文化連盟や任意団体連合、学術団体、応援団や体育会、それに生協など29団体。非常に団結力の強い全学組織だが、総会などでは棄権票が出ることもある。ただしそれば5票と決まっていて、そのメンバーは二部の法、文、社会、経済の自治会と生協。この票組織か、彼らの言う「民主陣営」であり、素直に表現すれば民青系なのである。
全共闘運動が盛んな時でも、生協は代々木の勢力圏の内で安泰だった。それだけに政治色も強く、学生たちの批判や反発も強い。だから69年のバリストでは、この時とばかりに、生協の売場や食堂が荒され、「700万円」(生協の発表)の被害を受けたという。
その生恊に学館の売場や食堂を任せるか否かという問題が生じ、73年6月に学生連盟は生協を拒絶して、新たに消費センターを結成することを決定した。この決定は実行され、学館のそのためのスペースは現在は遊んでおり、生協は「第二生協は分裂組織」と非難して対立している。この問題と後に述べる臨時職員の問題と重なって現在の学内の争点になっている。
法政にとっての“正常化”とは何か
学生の単独管理・運営は、どこの大学の学生会館でもかならず争点になる問題である。当局は、学館も大学施設の一部であり、大学が管理する義務があると主張し、同時に当局に管理・運営権が無ければ、学生運動の拠点点になるのではないかと警戒する。東京の大学では、中央大学、明治大学の学館は比較的学生の意向に沿って運営されていたが、現在は両校とも学館は、大学当局の手で「封鎖」されている。
それに加えて、学館建設の遅かった法政は全共闘運動の昂揚の時期と重なり、さらに革マル派と中核派などの党派闘争の影響まで受けてしまった。
67年の処分問題以降、当局はたびたぴ"機動隊を学内に導入して、「何があれば、110番」という他大学並みの運営状態が続くが、法政の特徴は、学生か諦めなかった点にある。とりわけ、夜間の部室使用禁止は、自治会を中心軸に活動している学生だけでなく、サークルや学術色の強い団体、さらには体育会まで巻き込んでゆく上で、恰好の条件だった。
大学当局は、学生の構内における泊り込みを極度に嫌い、夜間ロックアウトを実施していたが、学生たちは泊り込み闘争で対抗した。集団で学内に泊り込むわけである。
68年では、5月31日と6月1日の2日間、6月12日、10月8日(この時には6人が逮捕されている)、11月6日(4名が逮捕されている)、そして11月14日、この日は、構内にいた73人全員と正門前の3人計76人が逮捕されている。
この戦術は100人、200人の規模で、実力で泊り込み、管理・運営権だけでなく、六項目の禁止事項を空洞化してゆこうというのだが、もっとも学生たちの案際の要求は、もっと詳しい。
まず、管理・運営に関する規約の自主制定、鍵の学生管理、維持・補修費などの全額大学負担、2000万円以上の運営費、派遣職員の人事拒否権さらには冷暖房まで、かなり論理的、事務的に要求を出している。
こうした要求で学生たちは断続的に闘いを繰り返した。
だが昨年6月21日に予定されていた総長団交が民青・代々木による1000名の学内導入(6月19日)と全共闘とのゲバルトを理由に中止されることで、事態は急速に転回し始める。
日共は生協問題に示されるように完全な少数派だったが、 この日を期して力関係を逆転しようと、民青全学連を“支援”に送った。だが、当局のロックアウト、団交中止という決定は、民青に不利に働き、逆に戦線から脱落する結果となる。
6月21日にロックアウト抗議の構内デモで11人が逮捕。9月21日、沓水理事と団文、全共闘前期試験粉砕闘争。大学当局ロックアウトで対抗。10月8日、夜間ロックアウト粉砕闘争で6人逮捕。10月30日総長団交決裂。11月6日、泊り込み闘争。同14日泊り込み闘争。12月6日、11・14の76人の逮捕者のうち5人が起訴され、抗議のバリスト、当局ロックアウト。12月12日総長団交、決裂。そして13日、学生連盟総会で、理事会提案の暫定入館を、「三条件・六項目体制の空洞化を目ざしていく」ことと合わせて決議。入館は今年の1月9日。
長く激しい闘いではあったが、入館の条件は、必ずしも学生側の「勝利」とはいい難い条件だった。夜間使用については10時30分が11時となり、運営費は、2000万円の要求が授業料収人の0.82パーセント(今年度は約700万円)にとどまった。
約200サークルが入館した学館は、コンクリートを打ち放しにした荒削りな外観である。6階のベランダからは、革マル派に抗議する中核派の垂れ幕が下がり、その近くででは大きなマイクで演説している男がいる。館内はステッカーや落書きが所狭しと貼られ、2台の工レベータは間断なく人を運んでいる。そこには政治も芸術も趣味やセックスまでが、混在していた。
狭山闘争や刑法改悪反対のステッカーに囲まれたホールで、社交ダンスのクラブが練習していたり、マルクスの読書会の隣りで碁の同好会がパチリパチリとやっているのは日常である。
もっともそんな情景は、大学にかぎったことではないかもしれない。どこにでも、だれにでもある日常の凝集の可視的な状態なのだろう。
こうした現状に対して「要するに大学管理体制に組み込まれた」という評価がある(朝日ジャーナル1974.3.29)。長沼記者はこう書いている。
「学生会館が、大学の仕組んだ“学生囲い込み計画”だったとするならば、学生が目先の利益に目がくらんでオリを意識しない限り、結果的には『なしくずし正常化』に加担することになる。戦闘的に闘かったにもかかわらず、だ」。
こうしたモノの書き方はいささか気負い過ぎのように思われる。法政大学が、かつて存在した虚構の次元で“正常化”されることはあるまい。国家権力などという存在は、性悪女みたいなもので、一度なれ合ったらそう簡単には、関係を清算してくれるものではないし、管理構造それ自体が、権力を抜きにしては運営できないように変質してしまっている。
さらに“正常化”は法政に限ったことではあるまい。他大学がそうだ、というのではなく、世の中全部がそうだということである。空洞化を目指しつつ妥協することの是非を問うてみたところで、何ほどの意味があるだろうか。それは「戦闘的に闘った」ことの意味を問うという裏づけがない限り、主体である学生にとっては、それこそ無意味だろう。
「勝利」することに越したことはないだろうが、「勝利」があったからといって“正常化“に加担しないことにならない、とは言えまい。むしろ警戒すべきは、闘争か終ることだろう。
長沼記者に答支るように『法政大学新聞』の記者はこう書いている(5・5)。
「現在、学館闘争を担った多くのサークルにおいて、学館に入ったことによる『落差』を感じている。サークル・ボックスの戸口に書かれた『自主管理中』という落書きは、せめてもの抵抗なのか、表現なのか。(略)73年という情況において高次の闘いを経た我々は、もはや大弾圧―反革命の前になすすべくもなく首をうなだれてしまった。次の方針か出なくなり、無理矢理、秩序へと日常へと押し込められているのだ。そのことの『落差』なのだ。(略)
サークルにおいて、闘うことによって関係を可視化してきた我々に現在はキツイ。今新入生を迎えた日常へと一年前の日常へと回帰せんとする時、それをなんとしても止めねばならないのだ」。
“虚像の花”を摘みとれ!
だが、周期的に交代する学生と異なり、長年学生運動とつき合わされてきた大学当局は、そのあたりのことについてはベテランである。日常を日常にするためには、まず非日常的な具体物を抹殺せよ、と次々と先手を打ち、新たな虚像を求めて胎動し始めている。
まず、臨時に自治会室やサークル・ボックスに提供されていたプレハブ校舎が、昨年12月にロフクアウトして取り壊した。部屋のないサークルのことなどを考え、強く反対していた学生の反対を押し切っての強行である。そして花壇をつくり、“美しきキャンパス”のために金を投じている。
そしてプレハブ校舎跡には大学院棟を、現在の第二・五十八年館の一部を取り壊し、地上14階、地下2階の研究棟を建設することが50年1月第一期工事完成を目指して進められている。
それだけではない。「法政大学総合計画」というものがあり、町田市にある22万坪の土地に、「国際関係部」「環境学部」を新設し、本校の一部も移転させようとの案も提出されている。
この土地は64年に買収を完了していたが、当時、坪4~7000円だったものが、現在は約15万円に高騰しており、建設・利用の遅れに町田市からも強い苦情が出されている。
いずれにせよ、「総合計画」と銘うつ以上、単純なる学部の創設と移転だけをもちだすものでないことははっきりしている。
ある学生は、「筑波方式の法政版ですよ」と語り、「それに治安対策かな。ここだったら騒いだ効果があるけど、町田の山の中でバリストやっても、ああ、そうですかとなるでしょう」と、はなはだ実際的な感想を語っていた。
こうしたプランの実行はまだ将来のことで「闘争」が組める状態ではない。むしろ学館闘争を担った学生たちが、次の攻撃の対象としようとしているのは、生協である。味も量も劣悪で、民青系、それに折良く臨労組が闘いを組んでいる。法大全共闘にとっては申し分ない相手というわけである。
再び私的なことで気がひけるが、私は生協について抜き難い偏見がある。先月まで埼玉県の所沢に住んでいたのだが、家の近くに中規模の団地があり、生恊の売店があった。生協しかなかったと言った方が正しいかもしれない。駅から歩けば30分以上もかかり周囲は畑が多く、家の前で耕運機とすれ違うという土地柄で、とてもスーパーなど開店してくれない。
その生協がまるでひどいのである。値段が高い上に店員は無愛想、行列はさせられるし、昨年末の“石油危機”の折には、非組合員のわが家など灯油の1カンも売ってもらえなかった。
それだけなら諦めもつくのだが、時々どこかで見たようなスローガンが店内外に?られる。「商社の買占力に抗議しよう」「物価値上げに反対しよう」。-
値段が高いのは諦めたり、車で駅まで行って買うことでごまかしても、そのことを大義名分で合理化しようという根性は許せない。このことは直接には法大と関係ないが、もしかしたら、大学時代の“幼児体験”が悪かったことが偏見に拍車をかけているのかもしれない。
所沢と同じようなことは法大にもあった。
学生たちが生恊を批判するのに必ず持ち出すことに昨年4月の値上げがある。
4月3日の非公開の理事会|でみそ汁5円が10円に、豆腐が15円から25円になど大幅値上げ決定され、9月に実施する予定だった。
このことについて生恊は組合員に対する説明が消極的で、学生たちは7日になって知り、食堂で担当の職員(課長)に抗議した。その職員は学生の追及に「大手商社の買占めなどの社会的情況のため、値上げはやむを得ません」と答弁している。
共産党の買占め暴露が、こういうところで値上げのバックグラウンドとして利用されるわけである。
生協は、学館入館を含めた「中期三ケ年計画」を有しているが、そこにはこんな目標が織り込まれている。
「私たちの生協入館を目ざした闘いは、着実に前進していますが、この闘いの輪を広げ、法政大学の民主的変革をかちとっていくためには、立ち遅れている学内民主勢力の力量を早急に強めていくことが必要となっています」。
「民主的事業体として、組合員の生活に密着しつつ組合員の要求を生き生きと事業活動に反映し、“よりよい商品をより安く”という本来の任務を遂行することに最大の力点を置きます」。
「こうした闘いの中で、今日の法政大学の混乱の根源である暴力学生集団の本質を明きらかにし、大学民主化に貢献することが重要になっています」。
食堂部門を中心とした生協臨労組は昨年6月に結成されている。その組合員数人に集まってもらい、生活協同組合だからここに他の営利企業と異なるというところはありませんか、と質問してみた。
即答する者、しばらく考える者と樣々だったが、いずれの答も「なんにも変わりありませんね」という。ひいき目にみて、自らを「民主的事業体」と名乗る経営理念と、臨時職員が多いということくらいだろうか。もっともその理念も、生協が企業化に近づくだけでなく、一般企業も消費者運動や労務対策上、「社会のため人のために企業はあります」という宣伝を始めている。企業の生恊化である。要するに現実にはあまり差はないのだ。
臨労組の母体は昨年6月に、パートタイマーやアルバイターが結成した争議団である。本給(時給)に繰り込むことを名目に理事会が2月のボーナスの支給を廃止していたため、その復活要求のためのものだった。その当時、食堂に限ってみれば正職員はコックなどだけで全体の2割、残りは盛り付けや片づけなどすべてをオバチャンたちのパートや若いアルバイトで経営していた。この8割の人が争議団を結成したのだが、これは敗北に終わっている。
そして組合結成後は、大学ロック・アウト中の補償や、労働条件の改善を目指してて闘いを組んでいる。そして今年の3月、新店長が今年9月にはパートの半数を解雇すると予告した。理事会では否定しているが、「三ケ年計画」には食堂の食券の自動販売機やカフェテリア方式を導人する方針があり、臨労組は単なる失言ではありえないとストなどで闘いを組んだ。
食堂は日頃から、労務管理は厳しく、“生恊版マル生”とでも呼べるほどたった。暑いので風に当たるために職場を離れると「サボタージュだ」と、なまじ「民主的」だからむずかしい言葉で詰問し、新人のアルバイトを手伝おうとすると阻止される。勤務時間も、始業までに服を着がえて、すぐに稼動できるようにしろと命令する。
最近は正職員の率を増加させているが、それでも退職率は高く、アルバイトも仕事がきつくて1日でやめる者もいるほどである。これでは「生協絶望食堂」だが、臨労組はこうした労働条件と高価格は劣悪な味と不可分な関係にあるとして、臨労組に加えて学生団体と理事会の団交を要求しているため、団交拒否にあっている。
生協がどんな理念で経営されようとしているかは別にして、「事業」に変わりはなく、学生たちはこれを「悪徳業者」だと非難し、その結果として学館から締め出されている。生恊にかわる消費センターは、まだ営業を始めてていないが、この夏までに喫茶と売店だけは開店する予定になっている。
生協は、大学当局が最大とすれば、学内における次席の権力である。この闘いには自治会やサークルも加わり始めているが、今後どのように展開してゆくか予想はできない。しかし大学という虚像を破壊し、次には「民主的」な「事業体」という幼児に立ち向かっていこうとする法政大学の学生たちには、昔のわれわれと異なり、それなりのケジメができつつあるようだ。
(終)
【お知らせ その1】
『獄に暮らせば』「21年7ケ月の獄中日記から}(作品社)3,520円(税込み)
2026年5月29日刊行
日本も世界も、もっとより良いものに変えたい!
そんな思いで学生運動に身を投じた日から、思い出さずにいられない革命と解放闘争の日常。
連合赤軍事件、レバノン、パレスチナ・ガザ、そして新たに出会った獄中の人々、さらに次々襲い掛かる大腸癌、小腸癌、子宮癌など病魔との闘い。
本書は、著者による2022年5月28日朝、満期出所時までの獄中ドキュメントであり、かつ元日本赤軍リーダーが、一人の人間として、戦争と平和に向き合い、人々の命を思いやった、その心情と葛藤を綴った2000年11月8日から2022年5月28日までの闘いの記録である。
【お知らせ その2】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。
●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。
【お知らせ その3】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は2026年7月3日(金)に更新予定です。


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