今回のブログは、10・8山﨑博昭プロジェクト・サイトに掲載された山本義隆さんによる最首悟さん(2026.2.8逝去)の追悼文である。
4万字近い長文であるが、読みごたえがある。山本さんと最首さんは、東大在学中から長年に渡って交流があった。その長年にわたる交流の経過を辿りつつ、最首さんの書いた文書を引用しながら、その中に通底する「いのち」というキーワードについて、最首さんに寄り添いながら書いている。
また、山本さん自身も、東大闘争や水俣病をめぐる戦後日本の問題点について言及している。
山﨑プロジェクト事務局のご厚意により転載させていただいた。
(最首さんの文章を引用した文章は、わかりやすくするため、冒頭の1文字を空白にしてあります)
【最首悟さん追悼にかえて~~最首悟さんの語りに学ぶ】
2026年6月/山本義隆
以前、2015年6月13日に私たち10.8山﨑博昭プロジェクトの集会で「焦点なき〈場〉について――〈いのち〉は〈いのち〉」と題した講演をして下さった生物学者・最首悟さんが本年2月8日、亡くなられました。享年89歳でした。
謹んでご冥福を祈らせて頂きます。合掌。


●はじめに
私(山本)は大学に入学した翌1961年以来、とりわけ理学部に進学して以来の60余年、最首さんと親しくさせていただきました。
最首さんは年齢的には私より五歳上で、はじめて対面で話したときのことは、最首さんはもちろん覚えてはおられないでしょうが、私はいまだに強く印象に残っております。学友会の仕事をしておられた最首さんに駒場祭での部屋の使用の件で相談に行った時の事です。最首さんの対応は、実に穏やかで丁寧だったのですが、そのやり取りの間、わたくしは大人と子供くらいの差を感じさせられました。実際、大学に入ったばかりの世間知らずのくせに生意気な18の若者にとって、学年では一年上とはいえ、小児喘息で何年も遅れて大学に入られた五歳年上の人物とは、他人との接し方にしても、実年齢差をはるかに超える差、言うならば「社会的年齢差」を感じさせられたのです。
とはいえその後、とくに親しくなってのちは、年齢差を意識することなく今日にいたるまで、友人付き合いをさせてもらいました。最首さん自身も、ある座談会で「私自身は、小学校が九年かかったものだから、居場所がなくなって、帰属意識はやみがたくてね。ふりかえって見れば、自分の年齢より六年くらい下の人達と同じように振舞ってきた。彼らにはどこかで近親感があります」とも語っておられます。私が長くにわたって友人付き合いができた背景でしょうか。そんな次第なので、最首さんのことを語るのに、年配だからと言ってそれ相応に仰々しい敬語などを使うと、最首さん自身から「よしてくれよと」言われそうなので、失礼を顧みず以下では同輩のごとくに語らせてもらいます。
ところで故人に親しかった知人や友人が公に語る「追悼の辞」は、もちろん、何はさておき故人への思いを故人に語り掛けることにあるのでしょう。だけれども実際には、そのことを通じて多くの人々に故人のことを知ってもらうという意味が大きいのだと思います。
東大闘争以降、最首さんは水俣とのかかわり、そして神奈川県の知的障害者の施設「津久井やまゆり園」の2016年の事件の植松(うえまつ)聖(さとし)死刑囚と交わした書簡等で知られています。
しかしとくに六〇年安保闘争に始まる学生時代から助手として闘われた東大闘争にいたるまでの最首さんの足跡、それから駿台予備学校(以下、駿台)で長期にわたって担当された医系小論文の講師として語ってこられたことには、一般には知られていないことも少なくはありません。他方私は、比較的身近にいて、しばしば議論をし、行動を共にし、その過程で私は最首さんから実に多くのことを学ばせてもらいました。故人への供養の代わりとして、そのいくつかについて語らせていただきたいと思います。
そのさい、最首さんの、水俣をめぐって折に触れ書かれたエッセーや論考を収録した『「痞(つかえ)」と言う病いからの』(どうぶつ社2012、以下『痞』)、植松死刑囚と交わした書簡 『いのちの言の葉』(春秋社2023、以下『命』)、十代の三人の少年・少女と語り合った記録『能力で人を分けなくなる日』(創元社2024、以下『能力』)、そして私(山本)のことを書いてくださった『人々の精神史 第五巻』(岩波書店2015、以下『精神史』)のあちこちに、自身のこと、生い立ちのこと、そして節目節目の回想、そして様々な問題について考えたこと等が語られているので、それらの幾つかを引用することは許してもらえるでしょう(引用に際し、省略は ……、追加は〔 ** 〕で記す)。
なお、最首さんそして私自身も長年にわたって勤めてきた駿台では、講師の論考を発表する場として『駿台フォーラム』(以下『フォーラム』)が発行されています。そして最首さんは長年にわたりその編集委員を勤め、自身で幾度も論考を寄稿し、また座談会を組織しているのですが、『フォーラム』自体、一般にはほとんど知られていない媒体ゆえ、以下では、それらからのものもいくつか援用・引用することにします。なお、先に述べた座談会は『フォーラム』の17号(1999)の座談会「教養教育の行方」からのものです。
●おいたち、そして人となり
「最首」という苗字は大概の人にとって珍しくあり、私も以前、直接聞いたことがありましたが、千葉にだけある名前だそうです。実際、私が駿台の千葉校で教えていたとき、クラスに「最首」姓の子がいました。JR千葉駅にも「最首」という弁護士事務所の看板が出ています。最首さん自身の書に「よぶんなことをいうと」とことわったうえで、「徳川吉宗が死んで名補佐役の大岡越前も死んで、一七五三(宝暦三)年、私の祖先だという最首杢右衛門が、百姓一揆の首謀者として打ち首になっている」とあります(2005「今、水俣について思うとき」『痞』)p.184)。とすれば千葉の最首一族の末裔だということになるのでしょうか。「ほう」という感じです。
昭和11(1936)年に生まれた最首さんは、1959年に東大に入学しています。「1959年に大学一年生になったといっても、そのとき私は二三歳でした」と語られています(1999「水俣と国家」『痞』p.14)。その間に事情については、あちこちに書かれているので、二三引いておきましょう。
私は国民学校に1943 (昭和18)年に入りました。(1995「水俣と国家」『痞』p.15)
小学校5年生の2学期から喘息が激しくなって3年間学校を休みました。横になれず坐ったまま、もたれて苦しむのもしばしばでした。(「カラスの勝手でしょ」『命』p.172)
この、戦中から戦後に到る国民学校の頃については、かなり特異な時代のことゆえ、もう少し引いておくのも意味があるでしょう。
大岡山の国民学校に入って、ぜん息のためすぐに千葉に転校しました。そうしたら艦載機にやられた。学校自体もむちゃくちゃにやられたりして危ないというので、福島県の喜多方へ行った。ここでは毎日黒板をもって山へ行って、フキ採りとワラビ採り、春、雪が消えるのも遅いのですけれども、それをやっている間に夏になってしまうような。そして敗戦を迎えるという学校でしたから、この間、教育で自分に身に付いたというものは残らないんですねえ。(座談会「教育変革と新しい学校像」『フォーラム』20号2002 p.15)
〔敗戦の年〕1945年まで、日本では家や男尊女卑、世間という身動きできないような縛りがありました。…… /学校も怖いところで、先生に言いつけるよも、親の決め言葉でした。国民学校での小国民教育は、校舎は兵舎、校庭は営庭という言い方で表されます。男の子は兵隊さんになる、女の子は銃後の婦人になるのが目的とされました。学校での式典では、校長先生が教育勅語を厳かに読み上げ、直立不動で国歌を斉唱しました。……/校門を入ると、御真影と教育勅語が納められている奉安殿があり、最敬礼するのが一日の始まりでした。私は始業式の直立不動の姿勢のときに貧血でふらふらしゃがみこんだことがあり、学校がいやになる一因になりました。(「自由と規律」『命』p.103f.)
そして昭和20(1945)年8月15日の「玉音放送」について「私は国民学校三年生でした。正座して聞きました。普通の口調でなく、何を言っているのか殆どわかりませんでしたが、戦争が終わったらしいことは母の様子で感じたのだと思います」とあります(「高見順の『敗戦日記』」『命』p.212)。
最首さんは敗戦後の1948年から50年まで小学校を休学したのですが、日本の敗戦から自身の休学直前までの、崩壊した教育現場での特異な経験を語っています。
それまでは、学校に来て何をしていたかというと、本当に先生は何をしていいかわからなかった。その日暮らし。今日は一日何をしようかと言って、何もできないから、じゃ生徒と遊ぶかとか、自分は体がシンドイから生徒に遊ばせておこうかとか、大げさではなくそういうことがあったんです。それはやはりぼくらの学校時代の中では非常にキラキラ輝いておりますね。非常に自由な、大人がダメになってしまったという希有な時代。大人がダメになったということは、国家もダメになっているわけでしょう。社会もダメになっている。(1995「水俣と国家」『痞』p.16)
要するに、1945年に国家が統轄する教育体系が崩れてしまった。教育体系という ソフトの問題だけではなくて、ハードも崩れてしまって、その隙間で僕は連続して三年も小学校へ行かないんですね。喘息で体が弱かったことや、家庭のことなどありましたが、早々と登校拒否した感もある。ところが、親に聞いても、学校が何か言ってきた形跡はないんですね。どうして休んでいるのかとか、年度末に来年は来るのかとか、そういうことを言われていない。そういう時代が戦後にあったんです。(1995「水俣と国家」『痞』p.15)
私自身は1941年(昭和16年)生まれで、1947年に教育基本法の成立とともに制定された新制(六三制)教育の二期生になります。小学校に入った時の担任は、今から思うと大学を出たばかりくらいで、新しい時代だということでやる気があったのだと思います。私が東大に入学した時の教養学部の学生の大半は1940年、41年の生まれで、だから初めから戦後の新制教育で育っているわけですが、その私たちと、戦前の国民学校から学校教育が始まり、それゆえ途中でそれまでの教育のシステムも思想も崩壊し、一八〇度の転換を経験せられた世代とでは、学校や教育について、やはり感じ方や思うところにかなりの違いがあったのでしょうか。
いずれにせよ、当時、小学生や中学校程度の子供は、学校が終わったら日が暮れるまで近所の子供たちと戸外で遊びまわっていたのが普通ですが、同じ世代でありながらそのこともできない体で何年もの休学であり、あまつさえそのような激変をくぐり抜けたということは、最首さんを精神的に人一倍成長させていたのだと思います。もちろん回想には語られていないけれども、おそらくその休学期間中に、質量ともに相当子供離れした書物を読破していたのだと想像されます。その後について「わたしは、中学三年生で一八歳でした」とあり(「安保闘争」『命』p.128)、のちの論考「さしあたり何のために」には、「小学校が九年かかったことが社会的な常識をつくるのに大きく影響した」とも書かれています(『フォーラム』15号1997 p.27、以下「何のため」)。初対面の時に私が感じさせられた大きな差の背景でしょうか。
最首さんと付き合うようになって、その人間としての間口の広さというか、奥行きに深さを、思い知らされることがしばしばありました。最首さんの論考やエッセーに見られる、内外の数多くの思想家や論客の言説への自在で適切な論及には、そして視野の広さと記憶力の確かさには、常々驚かされ圧倒されるのですが、それだけではありません。
じつは最首さんはかなりのグルメだったのです。天麩羅は目の前で揚げてくれる本郷の「天満佐(てんまさ)」が絶品だとか、その他、もう忘れてしまいましたが、学生時代、その方面には関心が薄い私ははじめて聞くような話をいくつも聞かされました。60年代半ばに私は結婚して代々木に住んでいたのですが、深夜に最首さんがグデングデンに酔っぱらって我が家に転げ込んできたことも何回かありました。
他方で最首さんは、教養学部の時代に「かるた」、言うまでもなく競技としての百人一首、のサークルに属し、「かるた」の有段者だったということも、あるとき聞かされました。
そればかりか、大学に入る以前に茶道の師範でもあったのです。
1949年、13歳の時に父親が結核で亡くなります。ひどい食糧危機の頃です。私は長男で、子供六人に母親ひとり、そこで 〔病弱だった〕 私については、知り合いの茶道の先生に将来のことを託されたんです。その家では、私を跡とりにしようということで、私は高校一年の頃にはもう準師範になって、18とか20歳(はたち)とかの娘さんたちを教えてたの。ところが、そこにプレドニゾロンっていう新しい薬が出て、ぜん息の発作が止まった。それでもう、世の中で普通に生きていけるはずだ。このお茶の世界から逃れるのにはどうしたらいいんだろうって思ってね。逃れたいっていってもそれまでの義理があるからねえ。で、「東大に入ったら理由になるかな」と考えて、受験をしました。(『能力』p.12)
なんだか「学問」だとか「思想」だとかのしかめつらしい側面以前の、やわらかな「文化」というのか、むしろ「芸道」に越境するような領域で、すでにキャパシティーが違うというような感じです。これらのことが、初対面の時に圧倒された「社会的年齢差」の根っ子だったのでしょうか。高校時代にマルクスの『資本論』を読破しただとか、高木貞治の『解析概論』をマスターしたとか、ディラックの『量子力学』にチャレンジしたという程度なら、教養学部に毎年一人や二人はいても可笑しくはないでしょう。しかし、教養学部の理科系の学生で、かるたの有段者(二段)で、そのうえ茶道の師範であるというのは、まず稀有の事ではないでしょうか。
なお、ここに、最首さんが喘息から恢復した特効薬として「プレドニゾロン」とありますが、それは商品名で、通常「プレドニン」と呼ばれるステロイド剤のことです。この薬の名をすこし記憶しておいてください。
●六〇年安保闘争とその後
そして「高校は一番近くの千葉の県立高校に行きました。駿台で浪人して、59年に大学に入学したのですが、大学にはいったら学校にはでない」と先にみた2002年の座談会では続けられています。実際、少なくとも当時の教養学部の講義は、つまらなく内容のものが多く、それも面倒臭そうにやるので、魅力のないものが大半だったように、私自身も思います。
ところで、1959年そして60年大学入学というのは、じつは特異なことなのです。そのひとつは、言うまでもなく教養学部で安保闘争を経験したということです。最首さんはいわゆるクラス活動家のような立場で取り組んでおられたようで、「1960年当時、わたくしは教養学部理科系の二年生であり、クラス決議を経てクラス単位で、6月15日、国会構内に突入した」とあります(『精神史』p.55)。
私自身はと言うと、クラス活動家ですらなく、一般学生に毛の生えた程度ですが、それでも入学後、何回か国会デモに行き、5月19日夜に衆議院で強行採決された改定安保条約が参議院で自然承認される6月19日の夜から翌日朝まで、国会周辺で徹夜した口です。改定された安保条約は10年後に日米のどちらからでも再改定を提起できるとあり、6月20日の朝、国会前で総評の宣伝カーの上から労組の幹部が「10年後に闘いましょう」と、およそ現実感のない感じで語っていたのを、肉体的にも精神的にも疲れきった体で、ぼーっと聞いていました。その10年後、1970年を東京拘置所の独房で迎えるとは、思いもよりませんでした。
最首さんは、東大闘争の直後、1969年に出た拙著『知性の叛乱』の序文を書いてくださったのですが、そこには「1970年は、わたしたちには無限の彼方にあった。…… /わたしたちとは、安中派の最後尾に属し、〔1960年〕六月二十日朝、国会前の頭うなだれた敗北感を原体験的にもちながら、壊滅的に敗北するにふさわしい思想も行動もなかった存在の謂いである」とあります。
問題はそのことではなく、大学がそのまま夏休み状態に入り、4月以来の沸騰状態でアジりまくっていた活動家たちは一斉に姿を消し、そして秋からはあたり前のように「正常な」大学が再開されたことにあります。当時の全学連の安保闘争を指導した共産主義者同盟(ブント)の指導部が総括をめぐって分裂していたといったことを知ったのはずっと後のことです。まじめなクラス活動家は散々ぱらアジられて、いわば励起状態にさせられたまま放り出されたようなもので、表面的にはともかく、心の中では一人一人が自分で着地点を探さなければならなかったのです。その年の秋か翌年に教養学部の自治会委員長選挙で立候補したY君にたいする「それでも壁をたたきつづけねばならない」と題した最首さんの推薦文がそのことを示していました。
そのことに関連して、いまひとつ、どうしても書き留めて置かなければならないことがあります。安保闘争では、一番上の指導部にいたのではないけれどもクラスでの活動家のような諸君が何人もいたのですが、彼らの多くは安保闘争後、1960年の夏から秋にかけて、当時「総資本との全面対決」と語られていた三池闘争の支援に出かけています。
教養学部の時代、最首さんも私も駒場寮に住んでいました。駒場寮はキャンパス内にあり、当時六百人ぐらいが住んでいた大きな寮ですが、最首さんの部屋は、結核その他で療養生活を送った予後の学生のための「クルミ会」と呼ばれた部屋でした。その部屋に、やはり喘息をもっていた昭和10年生まれの茅野寛志さんという最首さんの親友がいて、60年の秋に三池の支援に赴き、帰京直後に死んでいます。死後に残されていた茅野さんの日記をもとにしたその遺稿集『残さるべき死』を中心になって作ったのが最首さんでした。そのことについて、最首さんは回想しています。
私がこだわったのは、安保闘争時の1960年10月に死んだ、茅野寛志という私の駒場寮の同室生のことです。三池から帰ってきて、彼は喘息で死んだのでした。典型的な理系の学生で、地球物理を志していました。共産党から共産主義者同盟員となったのですが、非常に誠実で組織の一番底辺の一員として支えるような人だったのです。安保条約が国会を通った後も、一人で頑張って大衆運動をやっていました。この茅野寛志の遺稿集『残さるべき死』を、僕らは62年に出すのです(1999「水俣を抱き旅立つ」『痞』p.197。『残さるべき死』はその後、青木書店から再版されている)。
先ほど、最首さんが喘息から恢復したのはステロイド剤プレドニンであったとありましたが、私自身、2013年に膠原病の一種、リューマチ性多発筋痛炎が発症し、一時は体がほとんど動かなくなったのです。十年近くかかってそこから完全に脱出できたのは、プレドニンの服用によるものだったのです。その話を最首さんにした時、最首さんは、じつは1960年の夏、茅野はとても三池まで行ける体ではなかったのだが、どうしても行きたいというので自分がプレドニンを勧めたと語っていました。実際、残された茅野さんの日記には「8月11日 喘息は依然としてよくない。夜中に最首が薬局をたたき起こして、プレドニンを買って来てくれる。」「8月12日 風強し。一日中ねて過ごす。プレドニンが効いて、大分楽になった」とあります(青木書店版 p.229)。そして最首さんは、プレドニンを飲ませた結果、茅野が劇的に回復し三池に旅立った、そのことが結果的に彼の早い死をもたらしたのではないかと、その後ずっと悔やんでいると語っていました。
最首さんの生涯をつらぬく思索のテーマは「いのち」だったのです。
●日本と大学の変貌、大学管理法闘争
1959年、60年の大学入学が特異なことであったということの今ひとつの意味は、その年が戦後の日本社会そして大学の大きな曲がり角であったことにあります。先述の2002年の座談会の最首さんの発言に「60年は、いまでも思い出しますけれども、安保条約改定と、これで農業をつぶすんだ、みたいな農業基本法と、科学技術10年計画というのが三位一体みたいで、1960年から70年を黄金の10年と言ったのですね。その間、自分は理系としていろんないい目をみながら、その中で理系から脱落してゆくという10年を送ったわけです。……その前に水俣が68年ごろから浮上してくるわけです」とあります (『フォーラム』20 号p.16)。
その変化の、とくに大学への影響について、これも最首さん自身の語りから引いておきます。
明らかに1959年、1960年は日本の曲がり角だった……。私は1959年に大学一年生になったわけですが、理科系だった。そのころから理科系は国家の加速度的な動きの中に学生といえども巻き込まれていく。そういう時代だったんですね。/たとえば1959年に私が大学に入った年には、東京大学では「造兵学科」反対闘争、茅誠司総長リコール運動というのが起きています。……/これは非常に象徴的で、戦後に東大総長になった南原繁や矢内原忠雄といった人たちは、必ずしも大学と国家を同一視しない。……/それに対して、…… 文科系の総長を排して理科系の総長を東大の総長に据えたいという国の意向を汲んで東北大から来たのが、茅誠司という人なのです。(1995「水俣と国家」『痞』p.21f.)
茅総長は、大学をはっきり国家の中の大学と位置づけ、国家の要請にこたえる大学に鋳直そうとしたのです。つまり1959,60年の戦後復活した日本の資本主義が高度成長に突入する時期に、その国家の変貌に合わせて、大学を大きく変化させていったのです。実際、1959年に工学部に「電子工学科」が、そして私が入学した60年に「生化学科」と「原子力工学科」が新設されています。もちろん電子工学科は新しく生まれた半導体工学のため、生化学科は旧来の生物学にかわる分子生物学のため、そして原子力工学科は言うまでもなく原子力(原発)開発のためです。その新設が変化を象徴しています。
東大は教養学部から専門課程に進学するときに学部・学科を選択できるのですが、特に電子工学科と生化学科は当時の理科系の教養学部生にとって人気の高い「花形学科」だったのです。弱電・強電と言っていた旧来の電気工学から電子工学・半導体工学への発展、あるいは、これまた旧来の分類学的生物学から分子生物学への発展は、原子力工学とあわせて、新しい学問という印象を与え、当時の理科系のやる気のある学生を引き付けていたのです。
そして60年に戦後初めて学生定員が理科系150人増加し、その後、年々増加してゆき、60年代を通して理工系学部学科はみるみる肥大化していったのです。
つまり1959,60年はかつて上級国家官僚養成機関として法経中心だった大学が理工系中心に生まれ変わる節目だったのです。60年代の慶応・早稲田・明治・中央等で闘われた闘争の背景にあったのも、理工系学部の新設・増設であり、そのための資金を学生の親から調達するため学費値上げだったのです。それは日本経済、つまり大企業の発展のためであり、とすれば本来財界が負わなければならないそのための経費を学生の父兄に押し付けたということだったのです。
明治維新以来、日本は三度の「理工系ブーム」を迎えています。最初は明治維新直後、「富国強兵・殖産興業」のスローガンにのっとった、西欧文明諸国へのキャッチ・アップの過程です。二回目は、戦時下の昭和10年代、高度国防国家めざしての「国家総動員・総力戦体制構築」の時代です。そして三度目が「経済成長・国際競争」の1960年代だったのです。現実には戦後復活をとげた日本がさらに高度成長に向かうには、研究者や技術者や上級の労働者が圧倒的に不足していたのです。そして大学はそれに応えて変貌してゆこうとしていたのです。私たちは、まさにその時点で大学に入ったのでした。
ちなみに東大出身でなくてはじめて東大総長になった茅誠司はどういう人物かと言うと、物理学者ではありますが、戦後、占領下においてGHQ(連合軍総司令部)と密接な関係をもって戦後の文教政策に関わっていた人物です。あとで詳しく触れますが、1966年に日本物理学会が半導体国際会議を開催するにあたって米国陸軍極東研究開発局から資金提供を受けていたのですが、その時、日本物理学会を米軍当局と引き合わせたのが茅誠司だったのです。つまり、米軍とのあいだに強いつながりというか太いパイプを有していた人物なのです。物理学者には違いがないのですが、きわめて政治的に動く人物だったようです。
最首さんは私より一年先に大学に入られたのですが、小児喘息はまだ完治していなかったようで、ときどき発作に襲われ、そのため教養学部で一年留年し、私と同じ年、1962年に理学部に進学しました。その年、私たちは本郷キャンパスで大学管理法に直面することになります。それは「〔1960年〕6月15日の国会突入で、警官隊とぶつかった樺美智子の死を含む学生の行動が、1962年の大学管理法案となって表れる」(『精神史』p.56)と最首さんが書いているように、安保闘争で崩壊した岸内閣の後を継いだ池田内閣が、ひとつには、安保闘争でその力量が示された学生運動の取り締まりを強化するべく持ち出した法律だったのです。
しかしそれだけではありません。62年の大学管理法は、今ひとつには、高度成長に向けて大学における研究体制の合理化の狙いがあったのです。
東京大学は1877年に創立ですが、そもそも明治以来の「大学の自治」と言われていたものの実態は、ボス教授の既得権だったのです。そして生まれて百年近く、大学は動脈硬化を起こし、戦前からのボス教授の支配している特に理科系の研究室では、戦後の新しい科学技術の洪水のような発展に対応しきれなくなっていたのであり、その解消は産業界つまり日本の資本主義の緊急の要請だったのです。それゆえその大学合理化案は、ある意味でボス教授たちのその既得権を侵害する面もあったのです。その意味で、若手の助手・助教授クラスにはむしろ法案に賛成の部分もあったようですが、ボス教授たちにとってこの大学管理法は端的に「大学の自治の侵害」なのであり、運動は当初、教授と学生の共闘という面もありました。
運動のピークは11月30日の理学部をはじめいくつかの学部のストライキによる、安田講堂前での全都総決起集会と国会デモでした。全都の学生が東大に結集したのは、東大総長が同時に国立大学協会(国大協)会長でもあったということによりますが、いずれにせよおそらく東大始まって以来のことだったのだと思います。学生運動としては、安保以来の盛り上がりだったわけです。そしてその東大総長にして国大協会長でもある茅誠司は、その学生運動の盛り上がりを背景に、学生運動の取り締まりは大学が責任もって行なうから法案上程を撤回するようにと文部大臣に働きかけ(ボス交です)、それに応じて文部省は法案を取り下げたのです。政治家・茅誠司が政治力を見せつけた場面だったのです。
その「学生運動」取り締まり強化の基本は「学生の自治」を「大学の自治」の枠外に置くことだったのです。のちに東大闘争で私たちが「国大協自主規制路線」と語ったものです。
そして文部省に対するその証しとして、大学は、大学管理法闘争の直後、自治会中央委員会の議長であった今井澄君や理学部自治会委員長等を処分したのです。理学部自治会の委員長が停学処分になったので、最首さんがそのあとの委員長を務めることになりました。そしてその処分にたいする抗議行動の過程で生じたのが、1962年12月の「茅カンヅメ事件」だったのです。この事件はハプニングだったのですが、この件で最首さんも停学処分に処せられることになりました。私も戒告かなんかの一番軽い処分を言われましたが、処分の軽重とは無関係に、最首さんをはじめとする全員に対するその処分にも、その大学のやり口にもどうしても承服することが出来ず、翌年の2月に、理学部山の会から借りたテントを安田講堂前にはって抗議の座り込み行動に入りました。
今顧みると、戦後の東大の学生運動の、法案や条約に対する闘いとしての大学から外に出て国会に向かうそれまでの闘いから、大学に対する大学の内に向かっての闘いへの、質的転換のはじまりであったと思います。停学処分されるとキャンパスに入構できない建前になっているので、処分された最首さんや今井君たちは、夜中になるとテントにやってきた、深夜まで喋りこんでいました。
この安保から大管法にかけての時代の大学の変貌がもたらした結果について、最首さんは2009年に回顧しています。
〔かつて〕 新制(新生)大学の「一般教育」の場として注目されたのが東大教養学部である。……〔それから40数年後の〕 1991年、〈一般教育〉 は廃止された。それに伴って東大教養学部は駒場寮廃寮の方針を打ち出した。五年後大学側は駒場寮廃止を宣言、学生は新寮生募集を続けるが、2001年大学は五七〇名の警備員と教職員で学生を追い出し、寮を打ち壊した。遡れば1962年大学管理法の引き下げの条件として、東大が音頭を取って、学生の自治と大学の自治を切り離したことが、大学崩壊の一歩だった。(2009「〈水俣〉から〈駒場〉へ」『痞』p.323f.)
●ベトナム反戦の時代 反戦と研究の軋み
その後、私は1964年に物理学科の大学院に進みましたが、処分された最首さんは一年遅れて65年に動物学科の大学院に進学しました。東大では、理学部の生物学科が動物学科と植物学科に分かれていたのです。その分け方自体、一昔前の印象を与えますが、その動物学科の大学院について、最首さんは語っています。
なにが一番大事かというと体力仕事、それから手先が器用に動くか動かないか、です。……大学院で、先生からまず言われた、「本を読んじゃいけない」。本を読んで、あらぬことを考えてはいけない、だから本を読むのは禁止。東大の動物学科は保守的で有名で、授業も必修科目だけだった。選択科目一切なし、それで朝9時から12時までが一つの授業、たまったもんじゃない。(「異文化理解」『フォーラム』23号 2005,p.18)
開国からすでに百年を超え、明治維新から百年近く経た20世紀の中期にまだこんな処が残っていたのかとあきれます。教会が発行する文書以外は読んではいけないという、つねに異端に目を光らせていたヨーロッパ中世のキリスト教教会を彷彿させます。
それはともかく、大学院に進学したその年について最首さんの先ほどの引用の続きには「1965年の日韓条約の締結と米軍の北爆開始」とあります。とくに、沖縄の基地から出撃した米軍機による北ベトナム爆撃は大きな衝撃でした。米軍への出撃基地の提供をベトナム特需とあわせて考えれば、日本は米国によるベトナム戦争における加害者であり、同時に受益者でもあったのです。かつての朝鮮戦争時の「日本が戦争に巻き込まれる」という反戦の論理は、ベトナム戦争では「日本は戦争に加担している」という論理に変貌していたのです。
そして私たちは66年秋の東大ベトナム反戦会議の結成へと至り、そこがあらためて最首さんとの出会いの場になりました。最首さんは書いています。
1966年9月17日、30人ばかりの大学院生が、べ反戦をつくった。つくったというより旗を立てたのである。各人勝手に行動する集まりであることを一つの名称で表す。会議とは手段であるが、言いっぱなしも含む。それ以上の議論などは、己の根拠を探っているような者同士では無理、ということが「会議」という名称に込められていた。議論を始めれば際限ない状態がそのような名称を欲したのかもしれなかった。この年の一月、早大では「学費値上げ反対」の共闘会議が結成され、バリケードが築かれた。強いられた対抗手段としても、バリケードという名称には吸引力があった。(『精神史』p.62f.)
メンバーの誰かが行動を提起し、賛同した者が共動するが、それ以上に強制することはないという、ゆるーい結びつきの運動で、中心にいたのは、もとお茶の水女子大で生物学を学び、しかし生物学の研究を放棄し、その当時は東大新聞研究所の研究生であった所美都子さんでした。ベトナム反戦会議結成から今年で60年、当時のメンバーで現存しているのは数名でしょうか。
ベトナム反戦会議はべトナム反戦を訴えて新宿駅の駅前に立つというような、現在のスタンディングの走りのようなこともやりました。立川の米軍基地が、滑走路を拡張するための基地拡張の動きが出て、地元砂川の農民の反対闘争が起こっていた67年に、学内で反対集会を組織して、地元の反対同盟と三派全学連・反戦青年委員会の集会に何度か出向きました。
私自身は、先ほど触れた1966年に京都で行われた日本物理学会主催・学術会議後援の半導体国際会議に対して米軍極東研究開発局から資金提供がなされていたことが67年6月に発覚したのを受けて、物理学会としてその非を認めさせ、今後は軍とかかわりを持たないことを総会で決議させる運動に、9月の物理学会臨時総会まで没頭していました。
物理学会は大きな学会で、学会員全体の投票で決議をかちとることに成功しましたが、とくにボス教授たちのあいだでは私たちの運動そして決議に反対する部分も少なくはありませんでした。私たちに対する反論には、物理学会は純粋に学問研究を推進するための会であり、この決議のような政治的な内容の運動をする場ではないといった議論から、米軍からの資金援助には色はついていない、つまり「見返り」を求められていないのであり、だから軍に協力しているわけではない、というのまでがありました。いうまでもなく、特定の国の軍隊から資金援助を受けるような関係にあること自体が、それだけできわめて政治的な事柄なのです。それどころか実際は、この国際会議は米軍から資金援助を受けて開催された旨をプログラムのような公式文書に明記することが条件づけられていたのです。そのことは、ベトナム戦争の最中であり、外国からの参加者から見れば、日本物理学会がその戦争の一方の当事者である米軍の北ベトナム爆撃をふくむ戦闘行為を容認していることと受け取られるという大きな政治的意味を有していたのです。
私たちは、物理学者をふくめ自然科学者の多くに見られた驚くほどの政治的な無知、あるいは無知を装った開き直りに直面していたのです。そして私たちは、最先端の物理学の研究、もっと広く、工学はもとより地球物理学や医学等も含む自然科学一般の研究が、たとえ基礎的な研究であれ、軍事と無関係ではありえないことを思い知らされたのです。
結局、私たちの運動に反対した部分の論理をつきつめれば、軍の金を使おうがそれによって物理学の研究が進めばそれは良いことではないか、という論理に尽きるわけで、私たちはその研究至上主義との対決を迫られたのです。そして科学の進歩・発展が絶対的に良いことだという論理はなく、軍の協力・援助を得てまで研究を進めることに道義性も正当性もないというところに行き着いたのです。この議論は、結局、何のための学問かという問いとして、のちにあらためて東大闘争で問われることになります。
さて当時の三派全学連を中心とする闘争は、同年10月8日の京大生・山﨑君が機動隊によって殺害された佐藤首相の南ベトナム訪問阻止にむけた羽田闘争、11月12日の首相訪米阻止・第二次羽田闘争、翌年1月の佐世保での原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争をへて、成田・三里塚における新国際空港建設反対闘争、68年1月から3月にかけての東京の下町・王子米軍野戦病院建設阻止闘争、そして10月の米軍ジェット燃料輸送阻止と続けられました。王子の闘争や新宿でのジェット燃料輸送阻止闘争は、圧倒的な群衆の力で機動隊を寄せつけずに闘われた闘争で、当時の街頭実力闘争のピークを形成しています。
砂川闘争にはじまる成田や王子や新宿の闘争は、地元の反対同盟の運動、あるいは国鉄労働者の戦いに三派全学連と反戦青年委員会が合流することで形成されたと言われていますが、そして基本的にはその通りなのですが、しかしそれとともに、私たち東大ベトナム反戦会議のような小さな反戦集団が、さらには個人参加の反戦意志までが、実際には多数結集していたのです。そのことはやはり記憶され記録されるべきことでしょう。直後の学園闘争で党派的に集約されない多くの学生や大学院生が立ち上がった背景なのです。
それと同時に、その時期、先の最首さんの回想の末尾にあるように、「共闘会議」による「無期限のバリケード・ストライキ」は、60年安保闘争を超える闘争のスタイルとして、浮かび上がってきたのです。70年闘争のヘゲモニーをめぐって政治党派間の抗争がし烈になるとともに、他方では無党派の小集団や個人の闘争参加の拡大が確認されていたのであり、それが無期限バリケードストの形をとることによって、全共闘運動へと結実してゆくことになります。
その当時のことを最首さんは語っています。
いたたまれなさ、うしろめたさ、やましさ、その思いが少しずつ増してゆく状況がありました。1960年の6月15日とか、1962年の、大学から学生の自治を切り離す大学管理法案の頃まではまだよかったのです。その時はこの安田講堂の上で茅総長を一晩缶詰にしたといって 〔処分をくらい〕、大学に来るなと言われました。けれども、65年くらいになるとその思いが本格的になってくる。日韓会談、韓日条約。そこ日韓人民連帯ということをうたうのですが、一体そんなことが可能なのか。/すでに61年からベトナムで枯葉作戦が始まっています。四国全土を枯れつくすだけの枯葉剤が撒かれました。ベトナムの死者は三百万人で、負傷者は四百万人。米兵に死者は五万八千人、それが65年ごろにピークに達しています。その時、べ平連ができ、私たちはべ反戦会議を大学の理工系を中心にして、山本義隆たちと作ったのです。もうその辺はやましさがだいぶしみ通ってきている。これが東大闘争の相当大きなバックグラウンドです。(2008「公害に第三者はいない」『痞』p p.229)
第二次世界大戦勃発の直前、1937年にドイツではオットー・ハーンとオーストリア出身のリーゼ・マイトナーによって核分裂反応が発見され、直後にそれが連鎖反応を起こしうること、したがって巨大なエネルギーが解放されることが明らかになり、他方、アメリカの製薬会社は強力な除草剤を開発しました。そしてすでに翌38年には、その核分裂の連鎖反応を使った超強力爆弾 ?? 原子爆弾(原爆)??の可能性と、猛毒の除草剤のジャングルでの対ゲリラ戦での枯葉剤としての使用が語られていたのです。
科学と技術のどのような発見・発明も即軍事転用が検討される時代になっていたのです。原爆は、米国が戦後世界のヘゲモニーを握るべく総力をあげて開発し、核分裂現象発見の8年後に完成を見て、広島と長崎で使用され、その強大な破壊力を世界に知らしめました。そして戦後の冷戦期には米ソによって、より強力な水素爆弾(水爆)の開発へとエスカレートし、その実験で太平洋の島々の国に多大な被害がもたらされています。他方、枯葉剤はベトナムで大量に使用され、その猛毒の枯葉剤が土中にしみ込んだベトナムでは、戦後半世紀を経た今なお障害をもつ子供たちが生まれています。
実は最首さんは、ベトナム反戦会議結成の年に教養学部の生物学科の助手に採用されています。2006年のエッセー「1968、問われた個人の倫理」には、つぎのように書かれています。
四〇年前〔1967年〕、私は職業的理系研究者のスタートを切った。魚の尻尾にあるホルモン器官の働きというのがテーマで、憂鬱なことといえば研究費申請にからんで作文をすることだった。研究の有用性をどのように謳うか、作文とは往々にしてでっち上げを意味する。ちょうどこの年、米陸軍から日本の大学研究機関に総額三億八千七百万円あまりが出されていることを文部省が認め,一方で岡山大学の小林純は、〔富山県神通川流域の〕イタイイタイ病が 〔神岡鉱山の〕鉱毒によると発表し、新潟水俣病患者三家族が訴訟に踏み切った。…… 国家をめぐる産官学協同か、民衆のための研究か、いずれにしても学問は有用でなければならなかった。/しかし学問は真理を明らかにし、そのことで人類の発展に寄与するはずのもので、それは無用の用というべき営みなのだ。わたしは東京大学教養学部生物教室助手という身分になったのだが、気分は大学院生で、理系の学生が中心になった「ベトナム反戦会議」のメンバーとして、佐藤首相の北爆支持に強く反発していた。そしてどのような理系の研究も根をたどれば戦争に結びつく有用性を持つという原罪意識に苛まされていた。だから産官学共同反対と言ってもそれがすぐに民衆のための学問賛成を意味するわけではなかった。10月佐藤首相訪南ベトナム反対闘争で、学生山﨑博昭が死んだ。(『痞』p.215f.)
最首さんの研究について、詳しいことはもちろん知りませんが、その研究にはウナギを用いていたのであり、ウナギを買うためときどき浜名湖のほとりまで出かけていたとのことのです。
助手は、講義の義務はありませんが、しかし教養学部の物理や化学や生物等の理系学科の助手は、学生実験・実習の指導を担当させられていました。最首さんの担当は、生物を選択した学生のための蛙の解剖の実習でした。直接最首さんから聞いた話ですが、そのため、霞ケ浦あたりの農家と契約して定期的に生きた何匹もの蛙を届けてもらうわけです。農家では子供たちをアルバイトに使って田んぼで生きた蛙を捕まえさせ、それを箱詰めにして大学に送るのであり、それを受け取った最首さんは、解剖の日までその蛙たちを生かしておくのが仕事だったわけです。毎日蛙たちを見ていると、一匹一匹それなりに個性があって面白いんだなと雑談で聞かされたことがあります。しかしあるとき、生物学の研究や教育はじつに多くの生き物を殺しているんだと、ポロっと口にされたのが印象に残っています。
ここでも、最首さんにとっての問題の中心は「いのち」だったのです。
この話は、後日談があります。
私は『東大闘争資料集』の作成に携わっていたのですが、その「増補・改訂版」を作った時、2019年9月に完成報告集会を行いました。その際、かつて東大闘争時に駒場共闘として活躍された衆議院議員で小児科医でもある阿部知子さんに来ていただき、東大闘争について自身の経験を語っていただきました。阿部さんの講演は、私は蛙の解剖が嫌(いや)で嫌(いや)でたまらなかったのですが、教養学部が無期限ストに突入した直後、いつものように解剖教室に行ったら最首さんがおられて、もうストライキに入ったのだからこんなことはしなくてよいと言われて本当に嬉しかった、というところから始まりました。
阿部さんにしても最首さんにしても、解剖実習による蛙の殺戮からの解放が、東大闘争の現実的な始まりだったのです。
● 助手共闘と東大闘争
かくして最首さんは、助手の身分で東大闘争を迎えます。
東大闘争が始まったのを、医学部全学がストライキに突入した日だとすれば、それは68年1月29日ですが、じつはこの直前、ベトナム反戦会議の中心であった所美都子さんが膠原病で亡くなり、この日が告別式だったのです。藤沢での告別式に集まった最首さんも含め私たちは、ベトナム反戦会議の今後だけではなく、一人一人、そもそもこれからどう生きてゆくのか、心の中で自問していました。東大の大学院のような恵まれたところで研究活動をつづけながら、片手間に反戦闘争に関わるようなことが許されるのか、やがてそのことは、東大闘争の全学化と、その闘争の論理の進化の中で一人一人現実的に問われることになります。
もともとは医学部の卒後研修の問題と医師法の一部改悪・登録医制度導入に反対する運動としてはじまった医学部の闘争が、東大闘争として全学化したのは、第一に、医学部闘争の過程でストライキ側の医学部学生および卒後研修生の組織である青年医師連合(青医連)と教授会側の医局員との2月のトラブルを捉え、係争中であるにかかわらず3月11日に事情聴取もなく一方的に学生・青医連側のみを大量に処分したこと、しかもその被処分者の中に、あろうことか当時九州にいて現場にいなかった学生まで含まれていたことがあります。それだけではなく、当然、その直後より学生・青医連側は処分撤回を要求していたのですが、教授会そして大学側はそれに一切応えようとせず、医学部学生がそのことに抗議して6月15日に総長室座り込みを敢行したところ、問答無用でただちに1200の機動隊を導入して排除にかかったことにあります。
誤認処分について言うならば、医学部の良心的な講師が自発的に九州に赴き、学生側の主張の正しさを確認していたのです。ずっとのち、テレビの東大闘争の回顧番組を見ていたら、アナウンサーが当時の医学部の教授に、処分が誤認であったことは当然、教授会もわかっていたのでしょう、どうして認めなかったのですかと問うたのに対して、その教授は、それを認めたら教授会は責任を問われることになると言下に応えていました。結局、医学部教授会は責任逃れそしてみずからの体面や世間体の維持のために、白を黒と言い張って、学生の人権を踏みにじったのでした。「大学は真理探究の場だ」などというお題目の白々しさは、その後、公害問題等で幾度も直面することになります。
闘争の全学化という点では、このように医学部であからさまな人権侵害が行われ、大学当局がその不正を容認し、さらに強権的な闘争の弾圧を行っていたにもかかわらず、他学部の教授たちはそのことに何も発言することなく、そのことによって結果的に医学部と大学当局の不正を認めていたという点が、他学部の学生や大学院生が自分たちの事としてとらえ、立ち上がったひとつの原因でもあります。
教養学部学生時代の60年安保闘争が「人生の第一の転機」であったと語った最首さんは、その後に表明しています。
私の人生での第二の転機は、冤罪とわかった学生に対する処分の撤回を求めた、学生たちの処分撤回闘争です。大学側が応じないため、闘争は激しくなり、教授たちの倫理が問われることになりました。1968年、私は助手になって1年、学生側にたって闘うことにしました。まだ学生気分が残っているということもありましたし、助手は大学の正式な一員ではなく、あくまで見習いということもあります。でも学生や職員から見れば私は大学側なのです。教授たちを責めることは私を責めることでもありました。自分を問う、自分を責める、自分のあり様を否定する。いかめしく言うと自己否定です。(『命』p.130)
東大でもノンポリの学生が立ち上がりました。学生の革新的政治党派、いわゆる新左翼からは目覚めのない大衆とされてきた一般学生たちでした。わたしはといえば、31歳、助手になって1年という身分でした。/助手はほぼ3年くらいの間の保障のない職種で、学生からみれば学生でなく、職員から見れば仲間ではなく、教授会から見ればメンバーでない、という宙ぶらりんの職種です。奉公する教授の眼鏡に合わなければ、大学とは、おさらばです。つまり生殺与奪の権能を教授に握られているというわけです。/ただ、助手は学問の徒です。その道を外れてしかも学問にしがみつくとなればみじめです。助手も学生にならって、全学助手共闘会議を立ち上げました。でも、ここが限界というか、名前を隠した覆面組織でした。ただスポークスマンがひとり要るというので、なんだかなあ、新米のわたしがなりました。覚悟を決めたというわけではありません。明日はなんとかなるという時世でもあったのです。(『命』p.177)
その全学助手共闘会議(以下、助手共闘)結成のきっかけが、最首さんによる宇井純氏への追悼文に記されています。
1968年6月末、東大の一五〇名くらいの助手が本郷キャンパスの山上会議所になかばおずおずと集まった。最過激の発言があった。宇井純というのだと教えられた。宇井さんはすでに前年新潟水俣病訴訟の弁護補佐人として活躍されていた。そういうことを、少なくともわたしは、全く知らなかった。八月宇井さんは〔ヨーロッパに〕旅立ち、助手になって一年目のわたしは、大学から追い出されるだろうくらいに思って、八・一〇告示批判をうんうん言いながら書いた。(2006「有用へのゆるぎない自負」『痞』p.220)
この山上会議所での集まりの事を私は、最首さんのこの記述ではじめて知りました。宇井純がどのようなことを語ったのかはわからないのですが、相当強烈なアジテーションだったようで、その後、最首さんはこの時の宇井純の発言に繰り返し触れています。最首さんが水俣そして公害問題にまなざしをむける最初のきっかけであったのだと思われます。
「八・一〇告示」というのは、私たちが7月2日に大学本部を封鎖し安田講堂を解放し、7月5日に安田講堂で「東大闘争全学共闘会議」いわゆる「東大全共闘」を結成したのちの8月10日に、大学当局が、処分に対する教授会側の過ちも機動隊導入に対する大学当局の責任も一切認めず、高圧的に「最終決定」として東京大学名で出された「告示」を指します。
ここで最首さんが自身で書いたといわれる助手共闘の「学生不在の大学」と題するかなり長文の「八・一〇告示批判」は、「対決しなければならないだろうと予測した事態が、あまりにもむきだしのまま実現すると、怒りよりも、まずうそ寒い気持ちに襲われるものだ」とはじまり、書かれています。
大学当局が告示という形式で収拾案を発表し、しかもその中で最終決定であることを再三強調したことは、今回の紛争に対する大学当局の姿勢を何より雄弁に物語っている。告示という一方的な申し渡しを行うことによって、大学当局は従来通り学生の権利を認めないことを宣言したのであり、最終決定であることを強調して、学生の異議申し立ての機会を一切封じたのである。
そして医学部学生の6月の総長室座り込みに対する機動隊導入について、明確な批判がなされています。
大学内部から呼応してなされる大学の否定がもっとも直截な形であらわれるのは、警察力の導入であろう。実力行使を伴う学生の批判の矛先が大学外部のみでなく、内部に向けられている以上、その批判に答えることを回避し警察力に訴えて批判そのものを圧殺しようと図る「大学」はすでに大学ではありえない。はっきり言っておかねばならないのは、われわれは機動隊の導入によってそのような「大学」の自治が破壊されたことを抗議しているのではない、ということである。警察力の介入によってそのような「大学」を護ることの当否を問題にしているのだ。
学生の活動家の書く硬直で時に非論理的でさえあるアジビラとは一味違う、明晰な論理を豊かな語彙とこなれた文章で展開しているこの告示批判は、多くの学生に読まれ受け入れられてゆくことになりました。そして、私の記憶ではたしか9月27日の安田講堂内での全学総決起集会で、最首さんは、助手共闘を代表して演壇から共に闘う決意を表明されたのです。学生の激烈なアジ演説と異なり、透き通った声で穏やかに、しかし学生諸君と共に闘うと明確に宣言した決意の表明は、多くの学生に深い感銘を与えました。助手共闘が学生大衆の前にはじめて人格的に登場した時だったのです。
なお、言っておきますと、助手共闘は、学生や院生の闘争に便乗して動いていただけのように見ている向きもありましたが、それは違っています。もちろん、いろんな立場の人がいましたが、研究組織としての大学研究室の末端で何年も働いてきた助手は、そこでの研究に内在する矛盾に対する自分たちの問題意識をもって、学生や大学院生の闘争に合流してきたのです。いずれにせよ、今にして思うに、最首さんにしても、塩川さんにしても、長崎さんにしても、いざというときには相談相手として頼れる心強い存在だったのです。ちなみに、安田講堂入って正面の壁に、
連帯を求めて孤立を恐れず
力及ばずして倒れることを辞さないが
力尽くさずして挫けることを拒否する
という、後に有名になる決意表明を達筆な字で書いたのは、講堂解放の翌日にみずから筆と墨汁をもって単身乗り込んできた東洋文化研究所の助手・山之内さんです。「講堂解放」を象徴する出来事でした。以来、解放された講堂には、連日、学内外から多くの人達が訪れ、私たちと議論を交わし、講堂全体が解放区となっていたのです。なお、早期に機動隊の再導入が懸念されていたので、講堂前の芝生には、機動隊導入監視のテント村ができていました。本郷の運動は解放された安田講堂を中心に広がっていました。
東大闘争は、それぞれの学部でストライキ実行委員会や闘争委員会を形成していたいくつかの(民青以外の)新左翼諸党派そして無党派の活動家の共闘会議として始まりました。各学部のある本郷キャンパスでは、学部の闘争団体以外に青年医師連合(青医連)や私たち大学院生の組織である全学闘争連合(全闘連)が存在し、とくに安田講堂は全闘連が中心になって解放を維持し、そこに無党派の諸君も結集し、全体の会議が開かれていたので、そこを本部とする形で共闘会議が東大全共闘として一体化され、そしていわば実体化されていました。
しかし教養学部のある駒場では、無期限ストライキに入ってはいたものの、現実には各政治党派がばらばらに活動している状態に近く、無党派の活動家が結集し活動できる場が極めて限られていたのです。そこを解決するためには、本郷の安田講堂に相当する結集軸がどうしても必要とされ、12月はじめに駒場第八本館(八本)封鎖に踏み切りました。その八本を軸に、ようやくやっと無党派の諸君や大学院生そして駒場の助手で助手共闘の一員である最首さんをも含めた駒場共闘が形成されたのです。その後、最終局面では、八本をめぐる民青そして当局との攻防が厳しいものになり、その間、最首さんは駒場共闘において、一回り以上も若い学生諸君の精神的支柱として、学生諸君とともに厳寒の八本籠城闘争を闘われたのです。
東大闘争は、医学部教授会と大学当局の不正を糾弾する闘争として全学化しましたが、学生の運動が全学化するに応じて、その矛先は医学部や当局だけではなく、その医学部や当局の不正を黙認することで結果的に擁護している各学部の教授会や教授個々人に向けられてゆきました。日本の学生運動で学生・大学院生・医学部研修生、そして助手が、教授会とガチンコで対決した初めての運動だったと思います。
その議論の過程で、教授たちが究極的にたて籠ったのは、大学は「理性の府」であって「学問・研究の場」であるというステレオタイプだったのです。従って当然、その「学問・研究」自体が問題になり、議論は大学、とりわけ東大で行われている学問批判に煮詰まってゆきます。しかし、助手は勿論のこと、大学院の博士課程と言えば実際には研究者であり、教授たちに向かって投げつけた学問批判は当然のこととして、自分たち自身に跳ね返ってきます。
最首さんは語っています。「1960年代末、大学にいるものは程度の差はあっても、何のための学問かという疑いにとらわれた。それは高校生にも波及したが、もっとも深刻だったのは、位置の不安定な大学院生と助手だった。その原因は、急速に巨大化する科学技術の制度化や考え方から、誰も免れられないことにあった」(1999「全共闘から始まった旅」『痞』p.191)。私たちは、そのことを十分に自覚していました、というか痛いほど自覚させられていました。
当時、私自身も語った「自己否定」という言葉は、今からではいささか気恥ずかしくはありますが、大学で行われている科学研究なるものを対象化し批判するにあたっては、大学や公的な研究機関に足場をもち、しかるべき肩書を有する研究者という「立場性」を離れ、ひとりの人間として、すなわち「ただの人」として、行わなければならないということを意味していました。そのことは、その後の公害問題や原子力行政での中央の大学の教授や研究者たちの、それぞれの「立場性」に居直った大企業や電力会社擁護の発言の犯罪性を知るにおよんで、間違っていなかったという思いを深めております。
その背後にあったのは、先にも触れた1960年代の10年間をとおしての大学の変質だったのです。2001年に最首さんが書いています。
日本の大学は富国強兵と象牙の塔というヨーロッパの後進国ドイツの二律背反をそのまま持ち込む形で成立した。特に1940年代初頭の日本の、科学は技術に資する学である という定義は重要で、明治以来の岡倉天心の和魂洋才の俗流解釈とともに、日本の戦後の科学技術立国を支える理工系大学の二大支柱となった。文科系大学は、西欧文化・文明の衝撃にひれ伏しまでふくめて、象牙の塔という神韻縹渺とした雰囲気はずいぶん残った。もっとも理科系もそういう雰囲気はないことはなかったのであって、完全に消えたのは、1960年代末である。(「〈予備〉の持続と変容」『フォーラム』19号2001 p.1、太字強調は山本による)
こうして私たちは「東京帝国主義大学解体」のスローガンに行き着いたのです。しかし、その解体は、どのようなこととして、そしていかにしてなされるのか、1968年末から69年初頭にかけての時点では、その点まで語ることができなかったのが、当時の私たちの運動の限界だったのでしょうか。結局その先は、闘った一人一人に委ねられることになりました。当時のことについて、のちに最首さんは語っています。
私の場合には、「出ていったらおしまいだ、それだと戦後の文化人と同じになってしまいます。大学に籍を置きながら、大学を批判し自分を否定するんだ」と考えていました。半分は「俺は怠惰だから」と思いながら、それでも大学から出ていかない。三里塚へも水俣へも行かない。行ってはいけないんだ。そう決めていました。(1999「水俣を抱き旅立つ」『痞』p.202)
●水俣に向かって
最首さんの新たな転機は、重度の障害をもった星子ちゃんの誕生でした。先に触れた座談会「教育変革と新しい学校像」で、最首さんは語っています。
76年、ロッキード事件のとき、私は40歳です。この年、四人目の子どもに重度の障害をもった子どもが生まれてくる。ここらへんから少し生きる態度が決まってくるようなのです。相変わらず、仕事としては科学技術批判というようなことを結局はやっていくことになる。その大本(おおもと)の根拠が出てきてしまったというのが、その後の私の人生です。つまり障害をもつ子にとって、この近代科学技術文明はブルトーザーみたいになる。それを生きようとすると、どうなってしまうのかという話です。(『フォーラム』20号2002 p.15)
その1976年に歴史学者・色川大吉を団長とする不知火海総合学術調査団が発足し、最首さんは、石牟礼道子さんに乞われてその一員として水俣との関わりをはじめます。のちに最首さんは、語っています。「水俣病には全てが詰まっていると言われる。敗戦後の日本の人々の意識から学問のあり方、国家の政治経済福祉施策にいたるまであらゆる問題が錯綜して因となり果となり、水俣病被害者を棄民のごとく扱ったと言って過言ではない」(1996「水俣病和解にあたって」『痞』p.72)。
最首さんが三人の少年・少女と語り合った記録『能力で人を分けなくなる日』で、「星子さんが生まれて、その翌年の77年に最首さんは水俣に行き始めたんですよね。この二つことは、やはりかかわりがあるのでしょうか」という編集者の質問に、最首さんは明確に答えています。
それはもう、本当にありますね。「星子とともに」というところから「いのち」の捉え方をふくらませていくことは、水俣がなかったらできなかった。自然界のすべてがいのちを持っているという思いは、水俣で、石牟礼さんから受けとったものです。(『能力』p.138)
その石牟礼道子さんの思想について、最首さんはこの『能力で人を分けなくなる日』で語っているので、少し長いが引用させていただきます。
みなさんに考えてほしいのは、明治時代になるまで「自然(しぜん)」という言葉に今のような意味はなかったということ。つまり、自然と人間とを分けて見るような見方がなくて、連続するものとして見ていたということです。/それまでの「自然」は「じねん」とも発言していて、これは「おのずからそうである」という意味だった。森羅万象がおのずから生まれ、あるがままである様子をいう言葉だったの。それが明治期にnatureの訳語として「自然(しぜん)」という言葉が使われるようになって、次第に、自然と人間は断ち切れたものだ、そして人間は自然を管理する義務があるんだという、自然を対象として見る西欧(せいおう)の考え方が入ってくるわけです。/でもやっぱり私はね、私たちの思い方、情のあり方には今もなお、自然と人間はつながっている、連続体だっていう感覚があると思う。すべてのものが魂を、心をもっているっていうアニミズムが根にあると思う。そのアニミズムを回復しましょうというのが、石牟礼道子であるわけですね。……「そこまでいかないと、水俣病というのは本当には解決しませんよ」 というのが石牟礼道子のメッセージだと思うんですね。そう言っている気がする。(『能力』p.140f.、ルビは原典ママ)
この調査団の第二次の団長は最首さん自身が務めることになります。こうして最首さんは、東大闘争の後、水俣を中心とする公害問題に鋭意関わっていかれたのですが、それは自身でしばしば証言しているように、「公害に第三者はいない」、すなわち被害者の側に立たない者はすべて加害者なのだという、宇井純のテーゼに導かれてのことでした。
話を大学入学時、1959-60年の安保闘争から始めましたが、もう一度その入学時に戻ります。
1959年暮れ、私は駒場寮に入った。それは水俣病の第一の幕引きが行われる時と重なっていたが、私はついぞ水俣病は頭になかった。1968年巨大墳墓の石蓋がついに開いて、埋め込まれていた水俣病罹災者が行動を始めた。その時、私は助手という身分で,駒場構内の第八本館に学生七五名と閉じこもっていた。(2009「いのち噴き出す仮面」『痞』p.327)
そして最首さんは1995年に立教大学でのセミナーで語っています。
1960年という日本の大きな曲がり角があったんです。科学技術10年計画、所得倍増、理工系拡充、そして安保条約改定、燃料として石油が石炭を上回り、石炭化学工業から石油化学工業へ転換しながら、自前の発明・発見をして自前の特許をとっていく、特許を外国から買う日本というものから脱皮する、そういう時代なんです。/そこに私が大学一年でいた。結構年を食っているんだけれども、大学一年でいて、大枠において巻き込まれていた。なんとなくウキウキしていた。そして、水俣のことはつゆ一つ思わないということだったのです。/なるほど、安保条約には反対した。これは国家の曲がり角だという意識はあったけれども、その総体に目は行き届かないんですね。水俣がどんなに大事なことなのか全然わかっていない。それを思うと何か心がチクチク刺されて落ち着かないんです。(『痞』p.23)
「国家の大きな曲がり角」の看板の背後の何を知らなかったというのか。最首さんだけではない。都会に暮らしていた私たちの大部分もそうである。この国家において、当時私たちの関心が及ばなかった所で、どのような事態が生まれ何が進められていたのか。上記のセミナーの題は「水俣と国家」ですが、最首さん自身の記述、「水俣と国家」(『痞』pp.14-42)をかいつまんで辿り、時系列に確認しながら、振りかえってみます。
すでに1953年頃から水俣湾周辺の漁村で多数の猫の死が確認されていたのであり、原因不明の中枢神経系疾患としての水俣病は、日本政府が経済白書で「もはや戦後ではない」と謳った1956年の5月に公式確認されていて、その後、爆発的に発症者が増加してゆきます。「驚天動地というか、なすすべを知らず、患者さんは避病院で隔離されながら死んでいく。それも見るも恐ろしい死に方をする。(p.24)」熊本大学の原田正純らの研究班が原因を新日本窒素肥料(1965年「チッソ」に改名、以下「チッソ」と記す)からの廃液中の有機水銀と突き止め発表したのが1959年、その年の11月12日、厚生省食品衛生調査会水俣部会は「水俣病原因は湾周辺の魚介類中のある種の有機水銀化合物による」との答申をおこなった。しかし通産省の圧力で、会社名は出されなかった。翌13日の閣議で、その後の高度成長政策の立役者となる通産大臣・池田勇人は、「有有機水銀が工場から流出の結論は早計、有機水銀の出所については軽々しく口に出してはならない」と釘を刺し、かくして水俣病の原因について閣議決定に至ることはなかった(p.28)。
そして12月30日、窮状を訴えてチッソ工場前に座りこむ90人の患者家族に対して、市と県が間に立つ形で「最後通牒」として見舞金契約が結ばれた、というか結ばされた。それはあくまで「チッソの好意による見舞金」であり、「補償金」ではないばかりか、将来的にチッソが原因であることが判明しても新たな補償は申し立てないこと、と釘がさされていた。実はチッソも、社内の実験で工場の廃液を与えられた猫が発症し狂い死にしていたのを確認していたのだが、このことは外部には伏せられていた。つまりチッソは、直接的な原因が本当は自社の工場からの廃液であることを知っていたのであり、そのうえでの「最後通牒」の押し付けである。
かくして「水俣病は1960年、患者90人をもって終焉したという宣言が発せられることになり」、こうして「1960年初頭で水俣病を終えておいて、6月に安保条約を改定し、もろもろの通産省が展開している技術立国化をやるというのが国家にとっての課題であった」(p.33)。
その過程に、その当時関心が及んでいなかったというのが、最首さんの悔恨だったのです。そしてその悔恨は、60年代を通して大都会で安保やベトナム反戦を語ってきた、そしてとりわけ理工系ブームのただ中で学生生活を営んできた私たちの多くに、多かれ少なかれ共通していたのです。そしてそのことの自覚が、その後の最首さんの歩みを規定してゆくことになります。
チッソは、日本の化学工業のトップランクの企業として、その後の高度成長期に、20世紀後半の文明を代表するプラスティック生産に不可欠な可塑剤としてアセトアルデヒドの大量生産を続行し、その過程で生まれる有機水銀と共に廃液を水俣湾に流し続け、その結果、60年代をとおして水俣病は爆発的に増加し続けたのです。「患者90人という段階で一度は終わらされた水俣病患者が一万名を超える。これは完ぺきな国家犯罪です。」(p.41)
最首さんはその後も繰り返し語り、告発を続けています。
水俣病被害は予見不能な一過性の原因によるものではなく、その原因を12年間にわたって確信犯的に維持拡大させ、少なくとも一万人以上の人々を健康不能にし、その生活を困窮させ死に至らしめている巨大な国家犯罪なのである。その構図は今また非加熱製剤によるエイズ感染で繰り返されている。(1996「水俣事件と法Ⅱ」『痞』p.102)
水俣病は1959年に、汚染源に触れることなく、終わりにされた。1960年から日本は高度成長経済に突入した。大量生産・大量消費が大量廃棄に支えられることになった。経済成長のために水俣病は葬られ、経済成長は大量廃棄を必須とし、大量廃棄によって水俣病はもちろん他の公害を拡大深化するという最悪のサイクルが回り始めたのである。(1998「水俣病の寒気」『痞』p.105)
科学一般は事実を重んじ事実を追求する営みである。〔他方〕技術は何が大切かという価値を具体化する営みである。そして日本では、1940年に「科学と技術」に代わって、有用な「科学技術」という用語が正式に採用された。……〔そのため〕科学はその出自には含まれていた、そのこと自体という独立性を失った。そして技術は価値に従って変動し、価値は支配的な力によって規定される。水俣病事件の犯人たちは技術者なのである。事実は重んじるのだが、価値に従って、猫実験一例では事実と言えず、病状はすべて既知の病気によって説明され、あるいは病状は横並びでなくてはならず、中毒である限り体内毒物最多量がピーク症状になるはずなどという事実に対する態度を決める。そのためにする事実の重んじ方が科学的だと思い込んでいて疑わない、そのことが寒気を覚えさせるのである。(1998「水俣病の寒気」『痞』p.106)
● 汎水俣病症候群
現在、有明海沿岸の多くの水俣病患者は、患者であることの認定を拒まれています。最首さんのその考察は、企業と行政サイドに偏した「学問的厳密化」という名目での水俣病、ひいては公害病一般の矮小化、そしてそれによる多くの現に苦しんでいる患者の切り捨てに対する批判、苦しんでいる患者の立場に立つことの絶対的必要性、そして水俣病のより深い把握へと発展してゆきます。
とくに水俣病の確認からその後の水俣病患者認定にいたる過程での、企業(チッソ)と行政(通産省)とそして学者の関係について、語られています。
水俣病が人類が初めて出会う病気であり、現在進行形であるとすれば、木々を見つめながら森を忘れない姿勢が必要であり。患者の側に立って、少々まちがってもびくともしないで、患者の生活史に通じ、病状の変化を拾い続けて行く医師やケースワーカーや弁護士などが審査委員になるべきなのだ。/他の公害や薬害でもそうだが、特に水俣病ではチッソと行政府(とりわけ通産省)は一貫して学問の厳密さを要求し続けてきた。窒素は企業秘密を盾に熊本大研究班に一切協力せず(工場内では原因を突き止めていた)、上部団体の日本化学工業協会はまったく根拠のない原因を言い立て、熊本県は1700名に及ぶ毛髪水銀調査の個人票を隠し(いまだに隠しっぱなしである)、通産省は名誉棄損で訴えられていいのかと威し(新潟水俣病の昭和電工原因説に対し)、国の予算を使う限りは勝手な公表を許さないと研究班にせまった。外堀を埋立て、あの手この手の妨害の上で、学問の厳密さを言い立てる。何のためかは明白であろう。/厳密さは学者が放棄できない泣き所で、そこを執拗に攻められると学問は次第に死んだものなって行く、つまり生活する人々に無関係か敵対するものになって行くのである。(1992「水俣の痛み」『痞』p.56, 太字強調は山本)
もちろん、企業(チッソ)や行政(通産省)サイドは、水俣病を告発するサイドに対しては過剰に「学問的厳密さ」を要求し言い立てますが、それはかれら体制側の人間にとっては方便で、他方では、水俣病の原因が確定されるまでの過程では、日本化学工業協会の常務理事・大島竹治の水俣病の原因は旧日本軍が投棄した爆弾であるといった荒唐無稽な説だとか、あるいは腐敗した魚介類から生じる有毒な有機アミンが原因だとするおよそ漁民の生活に無知な東京工業大学教授・清浦雷作の説だとかの、学問以前的なたんなる思い付き程度の言説が大手を振って語られ、権威者の発言としてまかり通り、マスコミにも取り上げられ、真の原因としてのチッソ廃液の有機水源説を相対化するのに都合よく利用されていたのです。もちろん、そういう風に突出する人物だけではありません。
いずれにせよ「大学と官僚と資本の三本柱が抑圧体系を構成するというのは、大学にいるものとしてはどうにもまぬがれられない突きつけ」(2008「公害に第三者はいない」『痞』p.230)だったのです。
御用学者という言い方は古くなったがけっして過去のことではない。権力やお金を操る側に立つというほかに、地位や研究費と引き換えに、人々の暮らしや安全を危険にさらす可能性を軽視し黙認し、自分の学問上の好奇心を満たそうとする学者たちが行なう学問を指すのである。さらに言えば、19世紀半ばからの月給をもらう学者全員の学問の問題でもある。生活費を稼ぐための倫理なき学問の怖さがだんだん増してきているのだ。/……/公害は企業のなりふり構わぬ利潤追求と急速な科学技術の展開とが相乗して、学問的に原因が解明できないことが多い。専門家は、客観的な裏付けがないとして、企業を免罪する役を演じるのである。(2007「宇井純のテーゼの現在」『痞』pp.22-24)
結局、「学問的厳密さ」の過度の要求は、現実的にはその後の水俣病認定の基準を過度に限定することになり、現に苦しんでいる多くの患者を救済の対象外に締め出す結果をもたらしているのです。最首さんの語りは続きます。
水俣病公式認定の7年後、すなわち1963(昭和38)年に、熊大研究班は重包囲の中で、最終的に水俣病の原因がチッソの製造工程での無機水銀の有機化であることを突き止めた。厳密さの要求をもろにうけとめた学者の良心の証しといってもいいくらいである。しかし実はその解明によって、水俣病は有機水銀中毒であり、それ以外ではないという道だけが残され、厳密な有機水銀中毒像が追究されることになった。そしてタリウム、マンガン、セレン中毒や、それらと有機水銀中毒の相乗・抑制作用は省みられなくなった。/チッソは多種多様の毒物を水俣湾に無処理で大量に放出していた。その影響による発症を総合的に水俣湾病と呼ぶことにすると、現実に人が苦しんでいる水俣病は水俣湾病なのである。そういう意味では、熊大の良心の勝利がすなわち現実の水俣病から遊離した一つの水俣病像をつくりあげたことにもなるといえるのである。(1992「水俣の痛み」『痞』p.56f.、傍点(ここでは下線)は原典ママ)
そのことがもたらしたものは何であったのか。
本来、水俣病とは、有機水銀を抜きん出た主要原因物質としながらも、このような多種の重金属の複合中毒をふくむものとして定義されなければならなかったのである。/実際に、水俣病はメチル水銀が引き起こすという定義によって、合併症や他の重金属中毒に帰せられる症状の患者は排除され、認定審査会から棄却処分に付せられる事態になった。水俣病と水俣病類似被害が厳密に区別されることに患者たちは納得することができない。なぜなら、原因物質がメチル水銀と特定されるものであろうがなかろうが、チッソの排水が引き起こしたすざまじい人体被害に対して、患者たちは補償や救済を求めているからである。/水俣病は水俣湾病であるのに、それが企業や政府の都合で、メチル水銀単独誘発病にすり替えられてしまい、その定義の下で、被害者を切り捨てるために学問的厳密さが発揮される。未救済患者の苦しみと悩みは深いのである。(1990「表現されることのない苦しみ」『痞』p.138f。)
そのことは、公害をめぐる学問研究のあり方への原理的批判と反省につながってゆきます。
40年を経てうやむやに幕が引かれようとしている水俣病について、今これだけはいっておかねばならないという問題としては、やはり学問と社会のかかわり、ついで福祉行政のあり方が挙げられるだろう。/科学技術文明の発展の中で、人類が初めて遭遇する災害・疾患について、その解明にあたる専門家は、何物にも屈しない学問精神がより厳しく求められる。そしてその学問精神は人々の苦しみを直視する中で養われねばならないのだ。水俣病のような、脳血管障害と胎盤障害をこえて脳中枢に侵入する毒物が、生態系に放出される魚介類の摂取により取り込まれる中毒疾患について、学者専門家は学問とそれを支える人々の苦しみを除いて、他の何ものにも左右されてはならず、拙速の結論を出してはならないのである。まこと水俣病は学問の常識を破る疾患であり、その推移の全貌はいまだ見えていないのである。(1996「水俣病和解にあたって」『痞』p.83f.)
この水俣とのかかわりで最首さんが到達した地点は何処だったのでしょうか。
科学的・医学的には、「水俣病は中枢性感覚傷害を中心とする全身病であり、胎児汚染病であって、多重化学物質相関相乗作用病という環境汚染症を代表するものとなってきたのであり、この病気から誰も免れることはできない」(2006「水俣・和光大学展」『痞』p.284f.)のである。そのことのゆえに「水俣病は、有機水銀を原因とする中枢疾患を根底に置きながら、生きものに対する無数の微量化学物質汚染相乗効果作用のシンボル的意味をもつに至っている」(2007「宇井純のテーゼの現代」『痞』p.224)のであり、それゆえ「研究と教育とを掲げる大学は、この現代的な水俣病という課題、拡大された水俣病の問題を抜きにして成り立つはずはない」(2006「いのち・問学」『痞』p.294)のです。そして最首さんは、その見解と立場から、先に触れた「水俣湾病」のさらなる拡大概念としての「水俣病症候群」ないしは「汎水俣病症候群」という概念ーー 現代のとりわけ石油化学文明の中枢的問題を剔抉する概念 ーー の提唱に至ります。
水俣病症候群とは、有機水銀を原因物資とする中枢感覚傷害による多彩な症候を中心として、マンガン、セレン、タリウム、亜鉛などの金属が関わる未だ知られていない、有機水銀との相乗作用によって起こる症候群、さらにはPCBやダイオキシンをはじめとして何万種かに及ぶ微量の多重化学物資の環境ホルモン的相乗的効果による、心身に及ぶ緩慢な症候群を含むことにしたい。水俣病症候群は、温暖化やウイルス、電波傷害や放射能障害も含む現代技術文明病の中に大きな比重を占める。(2007「私たちの自発する義務」『痞』p.331)
そしてその認識は、ストレートに現代の科学技術文明への批判として拡大されてゆきます。その点については、節をあらためて見てゆくことにします。
●予備校での医系小論文講義
私(山本)は、東大闘争のあと、1969年9月に逮捕され拘留され、翌年11月に保釈になって、73年くらいまで東大の臨時職員の闘争に関わっていたのですが、その後1970年代の末期に駿台に物理科の講師として採用されました。そのとき、その直前に最首さんがやはり駿台の生物科の講師になっておられたことを知りました。ふたたび、最首さんと出会ったのです。
その後、大学、とくに医学部で入試に小論文を課する大学がふえ、予備校で小論文の授業が始まり、最首さんは、そのとくに医学系小論文の授業を受け持たれ、水を得た魚という感じで存分に活躍されることになります。小論文の授業について、つぎのような記述がみられます。
自由、責任、義務、権利の四つ組の近代枠を、私たちは、どうやらほとんど消化できないらしい。ここにターゲットをしぼって、若者に手を変え品を変えて、料理を差し出しているのがここ10年ばかりのアルバイト(予備校教師)の中身であるわけだが、いっかな食わないね。「義務をはたせば権利が与えられる」というのが、若者の最大公約数である。権利とはそもそも与えられるものではないのだよ。(1991「責任をとるということ」『痞』p.110)
しかしメインのテーマはやはり医学・医療をめぐってであり、最首さんの授業は医学部志望、医師志望の生徒に大きな感銘と影響を与えることになります。その過程のことについて、実際に行われた授業の再録として『フォーラム』に掲載された「異文化理解」に書かれています。
いろいろあってここ〔駿台〕で生物を教えることになったのです。ところがすぐに医学系の論文が始まった。画期的でした。……/論文関係の授業を引き受けることになった理由は、私が動物分野出身だということが大きい。でももっと大きい理由は、私の四人の子どもの末っ子、その四番目の娘がたいへん重度の複合障害をもっているということです。(『フォーラム』23号2005 p.18)
このあとに「1970年代というのは、いろんな障害をもった子どもたちがいっぱい生まれた時代だったのです」と続いていますが、その背景には、先に見たように「胎児性汚染水俣病、脳中枢を襲う水俣病、全身病として、有機水銀を主たる原因物質とした多重化学物質汚染症として、まさに現代病、あるいは現代病のシンボルとして水俣病を見る必要があり」(2006「水俣・和光大学展」『痞』p.293)という認識があります。実際には、問題はすでに60年代から始まっていたのです。水俣病だけではなく、富山のイタイイタイ病、新潟水俣病、四日市大気・海洋汚染のいわゆる四大公害の訴訟が始まったのは60年代末、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』は1962年に出版されています。
その60年代の初期、私が教養学部にいたとき、化学選択の学生に課せられた実験のテーマに定性分析というのがありました。いろいろな元素の含まれたサンプルが一人一人に与えられ、そこから少量を試験管にとり、そこに試薬を入れその色の変化を見て、その色からサンプルに何と何が含まれる可能性があり、何が含まれないかを判断し、そのうえでその試験管を洗って、あらためてもとのサンプルの少量をとりその試験管にいれ、別の試薬を入れてその色の変化から、含まれるかもしれないもの、含まれないものを判断し、それを繰り返して、与えられたサンプルに含まれている物質が何と何と何であるのかを特定するという課題です。実際には、試験管を洗っても洗っても元の色がなかなか消えなくて、泣かされた実験ですが、今思うと、試験管を洗うたびに試薬で汚れた水をそのまま流しにじゃ―っと捨てていたわけで、その汚染水がそのまま目黒区の下水道に、そして東京湾に流れ込んでいたわけです。当時、そのことに思いも至らなかったし、もちろん注意もしなかった。指導する助手もなにも言わなかった。しかしこれを工場規模でやっていたのが、公害ではなかったのか。つまり、大学教育も含めて私たちは公害の現実にあまりにも鈍感だったのです。
核分裂の連鎖反応による、つまり原爆爆発や原発稼働によって生じる核分裂の生成物(核のゴミ)はもちろんそうですが、戦後、とくに60年代以降急速に発展した石油化学工業のよって新たに生み出されたもろもろの物質も、その大部分はもともと地球上には存在しなかった物質であり、それが人体や自然にどのような影響をもたらすのかは、ほとんどなにもわかっていません。しかしわかった時点ではすでに手遅れで、自然にせよ人体にせよ、回復不能にダメージを受けているのです。その意味では、60年代、70年代の大学と企業が一体となって進めた日本の急速な重化学工業化は、恐るべき人体実験だったのです。作家の有吉佐和子が新聞小説で「複合汚染」を語ったのは、70年代の初期でした。小説家の感性が学者の倫理観を上まわっていたのです。
そしてその地球上の自然の汚染進行の過程は、物理学や化学を爆発的に発展させた17世紀科学革命以来の、結果は原因に比例し、原因が半減すれば結果も半減するという線形法則をもとにした要素還元主義的理解では解明不可能な、きわめて複雑な過程なのです。工場の有限量の廃液を十分に広い海に放出すれば、あるいは排気ガスを広大な大気中に拡散させれば、十分に希釈され、人間への影響はいくらでも小さくなるというのが線形法則であり、そのかぎりで。その廃液中のきわめてわずかな物質が魚の体内に取り入れられ蓄積されてゆくということに、考えが及ばなかったのです。たとえば海水中のカルシウム濃度は極めて低くはあります。しかし、その海水中で生活する貝類は、その海水を長年にわたって吸収しつづけて、カルシウムの塊である貝殻を作り出しているのです。各種のバクテリアからプランクトン、そして貝類や甲殻類、魚類、更には哺乳類をも含む巨大な生態系としての海洋のなかでの物質循環はきわめた複雑な現象であり、単純に線形法則で捉えられるものではなかったのです。その意味では、トリチウム等をふくむ福島原発事故の汚染処理水を海洋に流し続けることが「安全である」などと断定できることでは決してないのです。
いずれにせよ、今、原発の問題、原子力発電推進は、日本では暴走ともいうべき危険な状態になっています。最首さんの議論は、その根本にある「科学技術」に向かってゆきます。
水俣病は究極の「不治の病」のはじまりだった。水俣病自体、不治の病である。しかし、水俣病は、もっと広義には、あるシステムが必然的に生み出す、そのシステム自体の不可逆的な死に至る病を意味している。そのシステムとは、端的に言って、科学技術文明社会である。科学技術文明は20世紀半ばを過ぎて、プラスティックと電子情報という二大技術を実現させて、しかもその到達段階が自らの文明の終焉を刻々と明らかにしていくという特性を帯びた。(1997「「かえってこい」というメッセージ」『痞』p.155)
とくに「科学技術」という言葉に注目しなければなりません。それは「科学」によって導かれ「科学」によって説明される「技術」なのであり、「科学技術」という言葉のアクセントは「技術」にあります。そして技術は、科学と異なり、何が大切かという価値を具体化する営みなのです。井野博満の書にあるように、「技術は、機能性と経済性に加えて、安全性と環境適応性という四つの要素を満たす製品や製造のシステムでなければならない。」しかし、この四つの要素の何れを重視するかは、技術者の置かれている立場によって異なっています。つまり「技術には技術者の立場性や社会の価値観が反映されることになる」(井野『脱原発の技術思想』アグネ技術センター,p.165)のです。
たとえば原発の設計では、どこまで考慮すれば「絶対安全」であるか、というような基準はありません。よくても、せいぜいが「安全性」は相当程度保証されているであろうというようなものです。それをもって安全と判断するか、安全ではないと判断するかは、「立場性」に左右されるわけです。つまり原発を建設して鼓動させる電力会社の「立場」に立つか、近隣で生活を営む住民の「立場」に立つかで、大きく異なってきます。技術において何が重視されるのかは、価値にしたがい、価値は支配的な力によって規定されるのです。
科学技術は思想などという問題ではなくて、思想を変えて行くんだけれども、それよりももっと巨大に、人々の生活を画一的に変えてしまう。…… 科学技術は資本と同じように独立したシステムで、しかも資本と官僚と科学技術がくっついてしまえば、どうしようもないのではないか。その中にいる人間がどんなに思っても変えられない。そのすごさが肌で分かってしまって、どうしていいか分からない。そして、自分のなすこと全てがそれに貢献してしまうのではないか、そういう問題に直面するわけです。(1999「水俣を抱き旅立つ」『痞』p.200)
それでは科学は、あるいは学問は、技術と異なって、純粋に科学の論理、学問の論理に貫かれているのでしょうか。立場性にとらわれる技術と異なり、より高い、より普遍的な観点からの判断基準を与えてくれるのでしょうか。19世紀以降、科学研究が資本主義国家において制度的に保障されるに至って、状況は大きく変わってきています。最首さんの考察は続きます。
学問は現実や現象との関わりで本質的に無力な面がある。ところが、19世紀の半ばから、学問の中の自然科学や技術学はナショナリズムと資本の勃興により、国家と企業の制度的資金的後押しのもとに驚異的な発展を遂げた。そこでは迂遠な真よりも直接的に力や効用が、直接のあるいはそれとなしに秘密主義の下に追求されたのである。現代のどんな学者もこの大きな枠から逃れられない。逃れるとすれば、学者で飯を喰うことを止めて、アマチュアになる他ないのだ。(1992「水俣の傷み」『痞』p.55)
かくして科学自体が大きく取り込まれることになります。
知は力である科学は技術と結びつき、さらにお金という力と結びついて、強力な非情な力となって、人を支配するようになったのです。権力というと、いくら非道でもなにか人間くさいところがあると思いますが、科学やお金の力となると透明で憎むという余地がなくなります。それがいまいちばんの問題です。(『命』p.44)
その事態に関連して、水俣をめぐる一連の裁判の過程を精査した最首さんは、怒りをこめて語っています。
「法」はいかようにも使われてしまう。そのような術にたけている者を三百代言という。……そしてさらに、三百代言をいっぱい長期にわたって雇えるのは、金と力がある「法人」なのだ。しかも裁判では、「法人」と、金も力もなく病人であったり障害者であったりする「私人」は全く同格に争うんだそうだ。そんなバカなことがあるか。(1996「水俣事件と法Ⅰ」『痞』p.98)
しかし現在、「そんなバカなこと」が一連の公害裁判において、とりわけ原発裁判においても、大手を振ってまかり通っているのです。科学や技術が体制に取り込まれる、究極の形かもしれません。
● 「問学(もんがく)」の提起
原発もそうですが、昨今のAIにいたるまでの、巨大企業や中央官庁によって進められている科学技術の急激な進歩と発展は、人間から主体性を奪い、人々を科学技術に無批判的に依拠し、ひいては従属するように仕向けているのであり、その潜在的危険性において、人類の未来を左右するまでになっています。結局、事態に向き合う唯一の道は、おのれの無知を自覚すること、わかっていることに比べて、わかっていない事柄が圧倒的であることを知ることからはじめることと言えるでしょう。
これまで『駿台フォーラム』掲載の論考からいくつか引用しましたが、最首さんは長年その編集委員を勤め、自身もしばしば、広い視野で物事を捉え、同時に高密度でシャープな、そして行き届いた論考を寄稿し、そればかりか、座談会をみずから司会する形で何度も組織してこられました。そのなかでは、しばしば本音が語られています。そのある座談会での最首さんの発言です。
僕は予備校が好きなんです。自分を縛る完全な決まりって無いわけです。よけい好きになれたのは、小論文をやりだして、わからないことと不可知なことが言えるようになったからです。それから逆転して、生物の分野でも、いかにわかっていることが少ないかと言えるようになりました。……そのうえに不可知がくっ付いてくるでしょう。生命とはいったい何なのか、というあたりから哲学的な何かが少し言える。系の中にいて系のことがわかるのかというようなことまで踏み込んで言える。高校ではできないし、大学でも実はできないのです。(座談会「新しい予備校像」」『フォーラム』19号2001p.98)
東大闘争の後、東大教養学部の助手を続け、同時に駿台予備学校で医系小論文の授業を受け持ちながらの、長年にわたる最首さんの思索の到達地点は、最首さんの特有の言葉で「問学(もんがく)」と語られています。
私は学問をひっくりかえして、「問学」を志すと称してきました。「問学」とは 「問う」ことにつきているような学問で、問題を解く、答えを出すことについて、容易に答えは得られない、あるいは直感的に答えはないと頭の中で思っているような学問です。あるいは、答えが出せるように、「問い」「問題」を限定してはいけないということです。(2006「水俣、新たな50年へ」『痞』p.270f.)
学問世界、つまりアカデミズムにおいては、「問い」に対して比較的まとまった形で「回答」が得られ、それが同じ分野の研究者つまり同業者の査読により誤謬がないだけではなくオリジナリティーが認定され、論文として学術雑誌に掲載されたとき、それは「業績」として認められ、アカデミズムにおいて生きてゆくに際しての資産となるわけです。それゆえキャリア・アップの途上にある研究者は、往々にして、答えの展望できない問いを避ける、あるいは答えが出やすいように問題を限定し成型する傾向があります。
ということは、もっぱら「問い」を主として安易に答えを求めない「問学」は業績を第一とする現代のアカデミズムへの原理的な批判でもあるのです。
わたしは、結局27年間助手を続けました。そしてなぜ学問するのかという突きつけに対して、学問をするのではなく、問学をするのだ、と答えることとしました。学問とちがって、問学は右肩上がりに究極の問題の解決を図るという姿勢がありません。(「東大闘争」『命』p.178)
そこにあるのは、のちに最首さんが『フォーラム』29号に寄稿された論考「いのちはいのち」に表明されている「人間は不完全な小さい存在である。それを知ったときから人間の苦しみが始まる。その脱却を目指して科学の営みが始まるが、パラドキシカルなことに、科学は人間の苦悩を深めて行く。科学するとわからないことが減って、人間は完全に近づくと思ったら、逆に一つ知ると十わからないことが増えて行くことがわかりつつあるからである」(p.145)という認識だといったら、整理しすぎでしょうか。
その「問学」思考の具体例を、予備校で自身が担当しおられた「医系小論文」をめぐって書かれた、1997年の『フォーラム』15号への寄稿文「さしあたり何のために」に見出すことができます。
小論文は 「何のために」 勉強するのかといえば、もちろん目指す大学に入るためである。ところが 「何のために大学に入るのか」 は、小論文のメインテーマと言ってもよく、しかも連鎖的にさらなる 「何のために」 を惹起するようになっている。例えば医者になれば 「何のために医者になるのか」 が問われ、人の健康を維持したいのであれば 「何のために人は健康でありたいのか、健康であらねばならないのか」 が問われる。/すでにこのあたりで 「目的」 について容易ならぬ境位にさしかかっている。(「何のため」p.23)
これは「医系小論文」について、自身で書かれた論考の冒頭ですが、「「わからない」と痛切に思うことが大切である」と結ばれています。別の処では、次のようにも語られています。
希望は、生きがいを持ちたいというところにあり、そこから自己を律したり、社会を律したりするのだけれど、生きがいはなかなか探せない、わからないのです。この「わからない」ということの希望を、僕は問う学と書いて「問学」と言っています。これは、どんなことを誰が言っても、「どうしてなのよ」って万人が、子供みたいに問えばいいということです。答えはそう簡単に出ないし、わからなさを持ち続けること、結局はどんなことをしてもわからなさが残るのだということ、それを自覚的にしていくのが学問のありかたなのだ、ということです。(「子供のように問うことの大切さ」『命』p.235f.)
予備校での小論文の授業としては、手っ取り早く「小論文対策」なるもののノウハウを求める受験生にとっては不満足なものであったかもしれません。しかし、おそらくそれまでの学校生活で聞かされたことのない、トコトン考え抜くということの重要性を子供たちに教えたものとして、きわめて貴重なものであったでしょう。
駿台が長年にわたって最首さんに小論文の授業を委ねてきたことは、高く評価されるべきことと思います。
ちなみに受験生のために最首さんが書いた、『お医者さんになろう 医学部への小論文』という書があります。2001年に駿台文庫から出版されたいわゆる受験参考書ですが、売れなかったと見えて、ずっと以前に絶版になっていて、今では「幻の書」であり、入手できません。このように「受験参考書」としてはイマイチだったようですが、しかし「受験参考書」という枠をとりはらって、医学と医療をめぐる、そして人の命と病をめぐる最首さんの思索の書として見るならば、きわめてすぐれた書であり、正直、このまま埋もれさせるのはもったいないと思います。
●〈いのち〉への問い
そして問題は先に引用した70年代の問題につながってゆきます。つまり60 年代をとおしての高度成長による、とりわけ石油化学文明を中心とする、大量生産・大量消費・大量廃棄によるその変化は、社会的には、「いのち」にまつわる危機として1970年代にさまざまな側面で顕在化してゆきます。
1970年代、時代は根本的な変化をとげつつあった。無意識的領域での反応というレベルでいえば、それは若者や子供の振る舞いに端的に表現されるのであるが、〈いのち〉の上に立った実存(人生の意義、生きがい)のとまどい、不安から、〈いのち〉の存続そのものへの不安、〈いのち〉を脅かすものに対する、嫌悪、忌避であるといえる。それを誘発した原因・現象は環境危機をはじめとしてさまざまにあげられる。……/〈いのち〉の存続・発展を自明とした人間の生き方、考え方は根本的にゆさぶられ、〈いのち〉を脅かすものにたいする嫌悪・忌避感を共有しえないかぎり、より〈いのち〉に近い者(子ども、若者、未開とされる人々、知的障碍者)とコミュニケートすることはできない。/このテーゼをなにほどか認めるとすれば、産業革命以来の国民国家の公教育は終焉を迎えつつあることがわかるだろう。それを支えた大学、そして大学を前提にした教養も有効性を失うことになる。(「〈予備〉の持続と変容」『フォーラム』19号2001p.8)
最首さんの1997年のエッセー「さしあたり何のため」には「暮らしとはライフであり、ライフとは活・物・人・命である。つまり生活・生物・人生・生命であり、この四つは暮らし(ライフ)の諸側面で、デューイという人の〈生活体〉という考えにつながる。四つを切り離すことはできない(ライフ=活・物・人・命は予備校で習った。それから40年、折にふれて唱える)」とあります(『フォーラム』15号p.34)。
さきほどの原発建設をめぐる「立場性」の問題に立ち返るならば、水俣や福島の歴史に学んだうえで、最終的に依拠すべきは、成長経済でもなければ、ましてや国家の威信でもなく、一人一人の人間の「ライフ」すなわち命と生活ということになるでしょう。
そして「問学」の問いは、「ライフ」とりわけ「生命(いのち)」へと収斂してゆきます。
「〈いのち〉にかけてとか、〈いのち〉にかえてとか、〈いのち〉にまさるとか、いずれも途方もない〈いのち〉の軽視である」と2007年に表明し(「〈いのち〉は〈いのち〉」『痞』p.309)、翌2008年に「私は今、いささか〈いのちはいのち〉であるという言論をしようとしている」と語った最首さんは(「自らを未党派と名付ける」『痞』p.234)、その同じ年に明言しています。
〈水俣の思い〉の根底は「いのちへの思い」で、殺し合う戦争の元である国家や宗教や正義という価値を超えた価値を「いのち」に見る、という思いのひろがりです。……「いのち」を生み出した超越的存在という思いは「いのち」を第一義の価値とはせず、別の第一義の価値のために「いのち」をかける、「いのち」を捨てるという事態を発生させます。そういう第一義の価値はないということをなんとしても広げて行かなければなりません。(2008「ひろがる「水俣」の思い」『痞』p.298)
国家であれ、宗教であれ、思想であれ、そのために「いのち」を懸けるに値するものはないのです。
その「いのち」の問題は、最首さんと「津久井やまゆり園」事件の犯人で死刑囚の植松聖との間に交わされた書簡で、さらに踏み込んで語られます。
同事件は神川県相模原市の県立知的障害者福祉施設 「津久井やまゆり園」で2016年7月26日、元職員の植松聖が、刃物で入所者19人を殺害し、そのうえさらに他の入所者と職員計26人に重軽傷を負わせた大変な事件です。裁判では2020年に植松被告の死刑が確定しています。2年後に植松死刑囚が再審を請求し、棄却されています。再審請求の理由は、自分は精神錯乱ではなく正気であり、死刑になっても構わないが、自分の考えを世間に伝えたいからもう一度裁判を開いてもらいたいという主張だったそうです。
犯人の植松青年は、事件の五か月前に衆議院議長公邸をおとずれ、「障害者は不幸を作ることしかできません」「私の目標は重度障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動がきわめて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる社会です」と書かれた書簡を議長に渡したとのことです。つまり「役に立たない重度の障害者はまわりの人間に不幸を、そして社会的に負担をもたらすゆえ抹殺すべき」との考えにのっとって犯行に及んだ、確信犯です。
事件についての最首さんの『東京新聞』のインタビュー記事を見た獄中の植松青年から2018年に最首さんに届いた手紙が、書簡交換のきっかけだそうです。この最首さんの一連の手紙は春秋社から2023年に出版された『いのちの言の葉』に収録されています。
この書では、ひとつは死刑の問題について、最首さんの明晰な見解が冒頭と末尾に語られています。
私は死刑に反対です。死刑より無期懲役のほうが重いという解釈があります。犯したことのひどさを自覚したら、生きることは死ぬよりつらい、ということだろうと思います。自殺には死への逃避が含まれると言われます。わたしは、〈責任を担って生きる〉ことの強制中断としての死刑に反対するのです。(「犀の角のごとく歩む」『命』p.2)
人間は自分のやったことに責任があります。……/自分がしたことに責任はあるということは、その責任を負い続けることを意味します。前にも述べましたが、私は死刑に反対です。どうしてそうかというと、それは、他者が法の下に、罪を犯した人がその責任を負い続けることを中断させてしまうからです。まして、冤罪の人を死刑にするのは殺人です。さらに言えば、殺人を犯した人が死罪を認めるのは、自分の責任を放棄することだと思います。(「責任を負い続けること」『命』p.253f.)
死刑についての最首さんの見解はこのようにきわめて明瞭・明確ですが、往復書簡における問題の核心は、そこ、死刑の否定ではなく、植松死刑囚の持つ、社会的に役に立たない障害者の抹殺という思想、端的に優生思想にあります。
最首さんは書簡交換の公表について、「植松聖はわたしの娘の星子は人間ではないと手紙で書いてきました。そうではないと、私は植松青年に手紙を書き始めました。そしてやまゆり園事件や植松聖に関心を寄せる皆さんにも読んで頂ききたいと思いました」と書いています(p.153)。きっかけは、新聞のインタビューで最首さんが「八つ裂きにしてやりたい」と語ったのに対して、それを読んだか聞いた植松被告から手紙が来たことにあったようです。
そして植松被告が死刑囚になって、手紙が届かなくなった時点で、それでもなおかつ手紙を書きつづけ公表しつづける理由が『能力でひとを分けなくなる日』に語られています。
彼〔植松聖〕の応援団がネットの世界にいるんです。「よくやってくれた」って、税金を食いつぶすだけで何の役にも立たない、19人、よくぞ殺してくれたという感じ。そういう植松青年の向こうに透けて見える彼の同調者たちに向けても、話していかなきゃいけない。だから毎月1回、原稿用紙5枚、手紙を書き続けている。/彼への手紙には、もう、ありとあらゆる問題が詰まっています。(『能力』p.61)
その最首さんの手紙のひとつに書かれています。
二度目に植松青年と面会したとき、八つ裂きはひどいと言われました。新聞を読んだか、聞いたのですね。私も自分で言っておいて、ひどいと思います。皆さんもそうお思いでしょう。植松青年と呼んでいるのは、この共通の面を持っている植松聖です。共通の面があるということは、言葉が届くということでもあります。……/植松青年と私たちが共通する面とは、みなさんや私の中に、植松青年がいるということでもあります。ひょっとすると、奥深く植松聖が潜んでいるかもしれません。(「内村鑑三の州立白痴院体験」『命』p.152f.)
この問題については、死刑にたいする批判とは異なり、明確かつ断定的な表現での結論は語られていません。
この問題は、『能力で人を分けなくなる日』にも引き継がれた形で詳しく語られているので、そこからすこし長い目に引用します。
やまゆり園で植松青年も、入所者に声をかけて回って返事がなかった人を刺したらしい。そうやって「意思疎通ができるかどうか」で「人間かどうか」を判別した。〔そして、その意味で「人間」ではないと判別された人を殺した。〕/この考え方は、脳死を人の死とする考え方にもつながります。/つまり「脳死を人の死とする」というのは、脳がだめになってしまった人は、心臓が動いていても「死亡した」っていうことにして、生きている臓器を利用しましょうという考え方なのね。まだ心臓が動いている人の体を、いわば「資源」として見て、その資源を活用するために早く死なせてしまうわけ。これがまず問題です。/もう一つ、「脳がだめになった人間は死亡したとみなしていい」という考え方は、「脳が働かない人間は人間じゃない」という見方につながる。これは、星子の問題です。重度の知的障害の星子は、そういう意味では「人間じゃない」ということになってしまう。(『能力』p.61f., 太字強調は原文ママ)
現実には、日本では死は、呼吸停止、心拍停止、瞳孔散大の三徴候で定義されていますが、1997年制定の臓器移植法で、臓器移植をする場合に限って、「脳死状態になったら臓器を提供します」という本人の意思が書面であらかじめ示されていれば、心臓がまだ動いている体から臓器を取り出しても殺人にならないという例外を認めたのです。しかしそれでも臓器提供が増えないから、本人の意思がわからない場合、家族が同意すれば臓器と取り出してもよいとい、ということにさらに改定されたのです。
最首さんの議論はつづきます。
脳は能力の根源なんですね。でもやっぱり、星子がIQ20以下だとしても、脳が動かなくなっても、私は星子を殺すべきだっていうふうには思わない。植松青年は「殺すべきだ」って思うんです。……/「生きてる」っていうことは、その人にかかわって生きている人には、ものすごい影響力を持っていると思う。(『能力』p.67)
先ほども言ったように、結論は、断定的ではなく、問いかける形で語られています。
「生きている」っていうのは、いったいなんだろうと思うことがある、「命を絶つ」というのは、やっぱり奥深いことだと思うんですよ。それを、社会的なことで決めたりしてはいけないんじゃないか。「社会の都合」っていうのがありますよね。能力のある人や、金がある人や、権力がある人が主になって、社会制度はつくられ、動いている。でも、そういう人たちが、私たちのいのちにかかわるいろんなことを決めていいかっていうと、そうは言えない。その最たることが、脳死のような、あるいは星子のような「無能力」とされる存在をどうするかっていうことなんですね。(『能力』p.68)
最首さんの終わりなき問いかけ、「問学」の基幹的テーマはこの問いに収斂することになるのでしょうか。
最首さんが明確で断定的な結論を語っていないのは、それぞれ自分で考えてもらいたいと、読者一人一人に委ねたのだと思います。その考えるための指針として、あらずもがなかもしれませんが、最首さんの論述をはなれて、あえてひとつの事実を補足的に記しておきたいと思います。
それは結局、優生思想、劣等な人間は淘汰されてゆくべきというナチス・ドイツが信奉した優生思想の問題なのです。
かつて日本は、日中戦争がはじまった直後、1938年に「国家総動員法」を制定しました。
第一次世界大戦以前には、戦争は、日清戦争にしても日露戦争にしても、正規軍同士が前線で戦い、銃後では日常の生活が営まれていたのです。しかし当時「欧州大戦」と言われた第一次大戦は、国の総力をあげた総力戦、つまり正規軍の戦闘能力だけではなく、国の農業生産力・工業生産力・科学技術の研究開発能力、その他をすべて動員して長期にわたって戦われた総力戦だったのです。
その現実を知った日本の軍と国(行政)は、きたるべき再度の帝国主義国家間の戦い、すなわち領土分割戦はさらに大規模な総力戦になるという判断のもとに、もともと資源のとぼしい日本を総力戦に耐えうる体制に作り直さなければと考えていたのであり、そのための法律が「国家総動員法」だったのです。これはナチスに独裁をもたらしたドイツの受権法に匹敵するものと言われ、総力戦としての戦争に於いて、国家は、ということは軍と中央官庁は、人間を鉄やアルミニウムや石炭や石油と同列の「物資」と捉え、戦争に必要な物的資源と人的資源を民間の企業や個人から自由に取り上げ使用できると定めたものです。しかも何が必要とされるものであるのか、その範囲は「勅令」、すなわち天皇の命令として議会を経ることなく決定されるというもので、議会を無力化し、軍と官僚の独裁という形での日本のファシズムを法的に定礎するものだったのです。
ここに語られている「人的資源」とは、人間の肉体的かつ精神的、知的生産能力のすべてを指しています。実際に、この法律により「徴用令」が「天皇の命令」として制定され、日本人は徴兵制により国家の定める期間、国家の指定する戦場に行かされるのと同様に、国家の定める期間、国家の指定する職場で働かされることになったのです。職業選択の自由の否定です。「徴用令」はその後、日本人の多くが兵士として招集され国内の労働力が不足した段階で、植民地にも適用されることになり、当時日本の植民地であった朝鮮等から日本国内の炭鉱や軍需工場で働かせるために多くの労働者が徴用工として連行されてきたのです。いまなお未解決な「徴用工問題」の発端です。
ところで、内外商業新報政治部長・飯澤章治なる人物の手になる1938年出版の『総動員 日本国力の全貌』という書があります。日中戦争が勃発した翌年に出た書物です。
そこには「一国の存栄に資すべき源泉として人的資源は極めて重要な地位を占めている」とあり、その「人的資源」について「人の心身の属性を其の資源たる見地より見る時は、身体の強健なること、技芸力の優れたること、知能の秀でたること等の挙ぐべきは勿論、その道徳の善美であることも、その根本的有用資源であると言はねばならない」とあるのが見出されます(p.9)。人に対する「資源」という見方は、その「有用性」の判定、そしてその判定にもとづく選別 ?? 有用資源と劣等資源の選別 ?? を必然化し、それは端的に障碍者差別の根本にある優生思想に通底し直結しているのです。
日本がナチス・ドイツの断種法に倣って「国民優生法」を制定公布したのは、対英米戦争勃発の1年半前、日中戦争が泥沼化した一九四〇年五月でした。そして太平洋戦争の過程で示されたことは、人間を「人的資源」と見て、その観点から「役に立たない人間」を「劣等資源」として淘汰せよという思想には、それと裏腹に、「有用な資源」であればそれを極限的に働かせよという思想が伴っているということでした。実際、戦争末期に示されたように、健康な男たちは根こそぎ、徴兵令で危険な戦場に送られるか、そうでなければ、徴用令により劣悪な労働条件で極限的に働かされたのです。そんなに昔のことではありません。21世紀の今日になっても「過労死」という言葉が語られているのです。
「脳死」の人間から生きた臓器を「資源」として取り出して使用するというのは、その究極を表しています。
戦後、基本的人権の尊重を掲げた新憲法のもとで1948年に制定された「優生保護法」でさえ、優生上の見地から「不良」な子孫の出生を防止することと、母体の生命・健康を保護することの二つを目的としたものだったのです。そのうちの優生思想に基づく部分を削除し、「母体保護法」と名称が改められたのは、ようやくやっと1996年の事だったのです。
* * *
最首さんの生涯の問いかけは、残された私たちに大きな問題を投げかけています。とはいえ「それに応えることが最大の供養」など、気安く語れることではないでしょう。けれども、最首さんと同じ時代を生き、最首さんの言葉に常づね接していた身としては、少なくともその問題提起を反芻し続けることは約束しなければならないでしょう。
あらためて合掌。
2026年6月 山本義隆
重信房子さんの新刊本です!
『獄に暮らせば』「21年7ケ月の獄中日記から}(作品社)3,520円(税込み)
2026年5月29日刊行
日本も世界も、もっとより良いものに変えたい!
そんな思いで学生運動に身を投じた日から、思い出さずにいられない革命と解放闘争の日常。
連合赤軍事件、レバノン、パレスチナ・ガザ、そして新たに出会った獄中の人々、さらに次々襲い掛かる大腸癌、小腸癌、子宮癌など病魔との闘い。
本書は、著者による2022年5月28日朝、満期出所時までの獄中ドキュメントであり、かつ元日本赤軍リーダーが、一人の人間として、戦争と平和に向き合い、人々の命を思いやった、その心情と葛藤を綴った2000年11月8日から2022年5月28日までの闘いの記録である。
【お知らせ その2】
●1968-70全国学園闘争「図書館」
1968年から1970年を中心とした全国学園闘争の資料を掲載したサイトです。
全共闘機関紙や全国26大学の大学新聞などを掲載しています。
●新左翼党派機関紙・冊子
1968年から1970年を中心とした新左翼党派の機関紙と冊子を掲載したサイトです。
【お知らせ その3】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は2026年8月14日(金)に更新予定です。

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