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手元に「関学闘争の記録」(関西学院大学全学共闘会議出版局発行)という冊子がある。この冊子と当時の新聞記事を中心に、何回かに分けて関西学院大学闘争の経過とその内容について掲載してきた。

今回のブログは6回目、10月11日のNo528で掲載した関西学院大学闘争の記録の続き、最終回である。1969年2月の全学追求集会の写真とその後の経緯について掲載する。
まず、1969年2月から4月の闘争の経過を、この冊子に掲載された「闘争日誌」で見てみよう。

今回のブログは6回目、10月11日のNo528で掲載した関西学院大学闘争の記録の続き、最終回である。1969年2月の全学追求集会の写真とその後の経緯について掲載する。
まず、1969年2月から4月の闘争の経過を、この冊子に掲載された「闘争日誌」で見てみよう。
【闘争日誌】(関学闘争の記録より)(抜粋)
1969年
2.26 全学集会粉砕総決起集会に500人。前日深夜、会場にあてられていた新グランドに当局が張りめぐらした柵を、全共闘武装部隊100人で破壊し、当日は早朝から武装デモ。一小宮院長、正午すぎに姿を現わし追求集会に切り変える。院長は、「機動隊の暴力は、法の名によって認める。入試は、社会的責任上実施した」と強硬に言い張る。その後、場を中央講堂に移し、再び追求するが堂々めぐり。
2.27 前日に引き続き追求集会。院長、教授と右翼学生を動員して居直る。5日に対理事会大衆団交を開催することを確約し、解散。
3.1 全共闘50人、京大入試粉砕闘争に出撃。
3.3 小宮院長と26評議員全員が辞任。辞任理由は「健康上重責に耐えることができない。とされていたが、実質には確認書を反古にするための闘争分断工作。
全共闘30人、神大入試粉砕闘争へ。
3.5 全共闘500人、「大衆団交破棄に対する学院当局弾劾集会」を開いた後、図書館、産業研究所、正門守衛室を封鎖し、卒業、後期試験などによる一切の収拾策動粉砕を決議。
3.7 法、教授会大衆団交開かる。教授会、「昨年の処分を白紙撤回し、今後一切の処分権を放棄する」という自己批判書に署名、捺印。
3.10 理学部実力封鎖。理闘委、教授会に対して「学院の入試強行に協力した」など6項目の自己批判を求める大衆団交を要求してきたが、教授会が、これを拒否したため。これで7学部全部を封鎖し、中央講堂、体育館だけを残すことになった。
3.11 教職員組合は職員集会を開き「関西学院の非常事態に際し全教職員に訴える」との大学への要望を採択。
3.13 社、卒業試験に、全共闘50人「試験ボイコット」のデモ。機動隊50待機。(神戸YMCA)
革新評議会学生ら、大阪駅前で「全関学人は紛争解決のため、立ち上がれ」と訴え、48時間のハンストに入る。
3.14 経、卒業試験。(大阪予備校)
この頃から、革新評議会、民主化行動委員会、法学部有志連合など右翼諸団体の組織化進む。
3.17 革新評議会による「事態収拾」集会開かる。全共闘60人、介入し、右翼学生250を追い散らす。
経教授会、全共闘を支持する松下昇講師に、4月からの契約更新をしない ことを一方的に決定。松下講師、これに対して「関学闘争で大学側が機動隊を学内に導入したことについて大学側は自己批判すべきなのに、それをせず、大学側の態度を批判してきた私をやめさせるのは教育者としても絶対許せない。私はどんなことがあってもやめない。一人でたたかう。」(3・18朝日新聞)と語る。
大学評議会、28日の卒業式中止を決定。
3.19 学長代行に小寺武四郎教授決定。「早急に新執行部を決めて正常化のために努力する」と抱負を語り、「廃校か否か」のアンケートを全学生に配布。「学内正常化のため」の商学部集会、200を集めて大阪プールで開かる。
3.22 学長代理代行に城崎進教授就任し新執行部出そろう。
3.23 「学院正常化、全関学人総決起集会」開かれ、学内右翼諸団体、体育会系学生、教授、職員、父兄、OBなど1、200が結集。体育会系学生ら、プラカードを持って、集会を防衛。全共闘150人「右翼粉砕、封鎖貫徹」をシュプレヒコールし、これと対峙。午後3時になると、右翼学生200が、正門バリケード解除にとりかかったため、全共闘武装部隊、これらを完全に粉砕。機動隊200が出動。以後、右翼学生の組織化進まず。
3.28 「卒業ボイコット、6項目要求貫徹、中教審答申粉砕全学総決起集会」開かる。
3.29 小寺学長代行、退去命令出す。
3.31 小寺学長代行、再び退去命令出す。
4.1 休校処置(ロックアウト)解かれる。
4.5 「入学式粉砕、6項目要求貫徹、中教審答申粉砕」集会開かる。機動隊300、正門前周辺で待機。
学院当局、「新しい大学の創造にむかって」の第2回目のアンケートを全学院生に配布。
4.12 新入生歓迎総決起集会。約100名参加。
4.13 松下講師講演。第5別館屋上で文闘委の情況劇。
4.15 理、学外試験中止。レポート形成に切り変わる。他の学部もレポート形式による後期試験実施さる。
4.18 経済学部新入生オリエンテーション。大阪府警機動隊100、大阪城周辺で警戒。全共闘30人が、阻止行動。
4.26 「安保粉砕、沖縄闘争勝利」の国際反戦闘争。京都、神戸、東京で関わる。全共闘100人これに参加。
4.27 社、学外試験が、機動隊100、と右翼学生に守られ、三田市の湊川女子短大で行わる。全共闘50人、試験場に押しかけるが、阻止できず。
4.28 「首都制圧」沖縄闘争。東京、大阪など20万人が決起し、機動隊と激突。銀座、渋谷に「解放区」。関学全共闘からも東京派遣20人。


1969年
2.26 全学集会粉砕総決起集会に500人。前日深夜、会場にあてられていた新グランドに当局が張りめぐらした柵を、全共闘武装部隊100人で破壊し、当日は早朝から武装デモ。一小宮院長、正午すぎに姿を現わし追求集会に切り変える。院長は、「機動隊の暴力は、法の名によって認める。入試は、社会的責任上実施した」と強硬に言い張る。その後、場を中央講堂に移し、再び追求するが堂々めぐり。
2.27 前日に引き続き追求集会。院長、教授と右翼学生を動員して居直る。5日に対理事会大衆団交を開催することを確約し、解散。
3.1 全共闘50人、京大入試粉砕闘争に出撃。
3.3 小宮院長と26評議員全員が辞任。辞任理由は「健康上重責に耐えることができない。とされていたが、実質には確認書を反古にするための闘争分断工作。
全共闘30人、神大入試粉砕闘争へ。
3.5 全共闘500人、「大衆団交破棄に対する学院当局弾劾集会」を開いた後、図書館、産業研究所、正門守衛室を封鎖し、卒業、後期試験などによる一切の収拾策動粉砕を決議。
3.7 法、教授会大衆団交開かる。教授会、「昨年の処分を白紙撤回し、今後一切の処分権を放棄する」という自己批判書に署名、捺印。
3.10 理学部実力封鎖。理闘委、教授会に対して「学院の入試強行に協力した」など6項目の自己批判を求める大衆団交を要求してきたが、教授会が、これを拒否したため。これで7学部全部を封鎖し、中央講堂、体育館だけを残すことになった。
3.11 教職員組合は職員集会を開き「関西学院の非常事態に際し全教職員に訴える」との大学への要望を採択。
3.13 社、卒業試験に、全共闘50人「試験ボイコット」のデモ。機動隊50待機。(神戸YMCA)
革新評議会学生ら、大阪駅前で「全関学人は紛争解決のため、立ち上がれ」と訴え、48時間のハンストに入る。
3.14 経、卒業試験。(大阪予備校)
この頃から、革新評議会、民主化行動委員会、法学部有志連合など右翼諸団体の組織化進む。
3.17 革新評議会による「事態収拾」集会開かる。全共闘60人、介入し、右翼学生250を追い散らす。
経教授会、全共闘を支持する松下昇講師に、4月からの契約更新をしない ことを一方的に決定。松下講師、これに対して「関学闘争で大学側が機動隊を学内に導入したことについて大学側は自己批判すべきなのに、それをせず、大学側の態度を批判してきた私をやめさせるのは教育者としても絶対許せない。私はどんなことがあってもやめない。一人でたたかう。」(3・18朝日新聞)と語る。
大学評議会、28日の卒業式中止を決定。
3.19 学長代行に小寺武四郎教授決定。「早急に新執行部を決めて正常化のために努力する」と抱負を語り、「廃校か否か」のアンケートを全学生に配布。「学内正常化のため」の商学部集会、200を集めて大阪プールで開かる。
3.22 学長代理代行に城崎進教授就任し新執行部出そろう。
3.23 「学院正常化、全関学人総決起集会」開かれ、学内右翼諸団体、体育会系学生、教授、職員、父兄、OBなど1、200が結集。体育会系学生ら、プラカードを持って、集会を防衛。全共闘150人「右翼粉砕、封鎖貫徹」をシュプレヒコールし、これと対峙。午後3時になると、右翼学生200が、正門バリケード解除にとりかかったため、全共闘武装部隊、これらを完全に粉砕。機動隊200が出動。以後、右翼学生の組織化進まず。
3.28 「卒業ボイコット、6項目要求貫徹、中教審答申粉砕全学総決起集会」開かる。
3.29 小寺学長代行、退去命令出す。
3.31 小寺学長代行、再び退去命令出す。
4.1 休校処置(ロックアウト)解かれる。
4.5 「入学式粉砕、6項目要求貫徹、中教審答申粉砕」集会開かる。機動隊300、正門前周辺で待機。
学院当局、「新しい大学の創造にむかって」の第2回目のアンケートを全学院生に配布。
4.12 新入生歓迎総決起集会。約100名参加。
4.13 松下講師講演。第5別館屋上で文闘委の情況劇。
4.15 理、学外試験中止。レポート形成に切り変わる。他の学部もレポート形式による後期試験実施さる。
4.18 経済学部新入生オリエンテーション。大阪府警機動隊100、大阪城周辺で警戒。全共闘30人が、阻止行動。
4.26 「安保粉砕、沖縄闘争勝利」の国際反戦闘争。京都、神戸、東京で関わる。全共闘100人これに参加。
4.27 社、学外試験が、機動隊100、と右翼学生に守られ、三田市の湊川女子短大で行わる。全共闘50人、試験場に押しかけるが、阻止できず。
4.28 「首都制圧」沖縄闘争。東京、大阪など20万人が決起し、機動隊と激突。銀座、渋谷に「解放区」。関学全共闘からも東京派遣20人。


【進級拒否宣言】
<学生)に立脚点を持つ僕が今ここに進級拒否宣言をするのは〈学生〉であることを自主的に放棄するのではなく、より本質的な意味において〈学生〉であることを指向せんとするからだ。
いいかえれば、共同幻想としての大学に対して自己幻想を軸にした形で大学共同幻想を払拭していく作業を存在の地点で開始することを言うのだ。この6項目要求闘争が、個別大学社会内の問題としてかかげられ、その問題が個別大学社会内の問題を内に含みながら、体制そのものに対する政治闘争として形成 されていく現在にあって、当初、闘争の攻撃対象であった教授、良識学生等が闘争に触発され、学園の正常化を何よりも希求し、問題の解決を事態の技術的な処理としての大学内制度改良、変革に収拾を見出す時、この闘争を一貫して担ってきた者と虫のいい収拾者の間には再び敵対が表面的にも現象する。
このことは、6項目要求闘争が改良(制度的変革)の契機を内に孕まざるをえない側面より出てくる結果としての大学共同体幻想(特権的知識人=教授、良識学生の〈誠実〉なままごとである制度いじりの上に確立されようとしているより進歩的な、より近代的な外形を持った体制内大学)へのよりラジカルな あるいは、より自由な地点からの永続的な〈否〉の闘争を組むことを示す。そしてそれは同時に僕が意図的により自立した本質的学生を追求することになる。さらにく革命闘争の主体は労働者であり、階級の否定はプロレタリアートの止揚なくしては……〉と言うマルクスの言葉を一面的に認識し、一定大学時代は学生運動をやり、一年程恰好つけて留年でもし、学校を卒業すれば横すべり的に労働者になり生産点につき、組合員になることがあたかも革命闘争を真に担いうる唯一のコースであるかのごときを語る職業革命家、あるいはその卵達の安易に通りすごす問題を掘り下げることとしてもある。現体制では、プチブルの域を出ない学生存在の、そしてその上に立つ学生運動を根底から否定する課題を持つ闘争として進級拒否がある。
今日まで闘争主体の学生期間をプロレタリアートへの移行期間として、運動は本質的にプロレタリアート側に立つ闘争として組まなければ云々、されてきた。それはプロレタリアートが革命の真の主体(このことは十分正しい)であり、学生運動はそれへの一方的な連帯であり、よりかかりでしかない。学生が学生として立脚点において自立してこそ初めて相互の関係のラジカルな連帯を語りうるのだ。それすらできず、自分の学生存在が労働者に対して気はずかしいのだったら、即時学生を止めて労働者になり、労働者として自立して労働運動を推進させる方がましだし、誠実というものだろう。
以上のことは、全社会の中の一部の社会である大学の中にいて大学で革命を起す等ということではない。国家権力を頂として個々の社会が有機的に連結することで国家独占資本主義体制が形成されている中で、個別一社会の中でコンミューンが形成され、革命が起こるなどと夢想しているのではない。
個別社会の中で全体革命、つまり永続革命への視点をすえるなかから、個別社会内での闘争が改良的に転化せざるをえないことを把握し、そのことに永続的な〈否〉の闘争として、変革そのものを不断に革命する闘いとしてあるのだ。当然のことながら、そのように全体的革命を指向することの内には自己の変革も含まれており、ここにおいて自己はそのような革命の主体であると共に、革命を体現する対象でもあることを示している。
このことにおいて始めて全体という言葉を単に対象の概念ではなく、方法の概念でもって用いるのだ。このことより僕が永続的学生であることは、学生であることに立脚点をすえる中から大学共同幻想体へ永続的闘争を組み、本質的学生を体現していくことである。この進級拒否の闘いは、関学でもほんの一握の学生が苦痛をもって語るように、〈体制内学生〉であることが〈労働力商品〉としての学生の〈被害者〉アレルギーから解放される闘争として位置づけられるだけではなく、真に、自らの保証された位置を苦痛をもって確認する中で、ただ単に意識内だけで自分を否定して、将来的には職業革命家になってそのつぐないをするつもりだから、今は労働者におんぶしてもらう闘争であることを暗黙的に自己合理化していくからこそ、原則的には一応労働者との連帯を常に語りながら、現象的には意識的に目覚めた者の先駆的なプチブル急進主義の闘いと転落せざるをえない。
そのような学生戦線の闘争が労働者の中の解る者しか解りえぬ擬似家族幻想的連帯の闘いしかなりえぬのであって、職場共同幻想のなかでなんとかプチブル生活をあこがれている広範な労働者への本質的な語りかけにならない。真に過去のわれわれのそのような限界を持った学生戦線の闘いを鋭く総括する中から、進級拒否者同盟の結成の提起があるのだし、この進級拒否闘争の推進の中にこそ、過去の学生戦線の日本階級闘争を不断に疎外した限界を突破するものがあるのだ。そのことをす通りする形で観念的に自己否定の闘いとか、労働者と連帯した闘い等の空語をふりまくな。
自己の内なる特権的学生の変革否定、これは単に意識そのものがそうであり、それでもって将来的に労働者になっていけばそれですむのではなく、自己の闘争以前の意識ではなく、存在そのものの変革なしには状況への、あるいはこの闘争を真に担っていく変革主体とは決してなりえぬことを知れ!
進級拒否者は、他のいかなる部分(進級して闘っていくという者たち)が意識においてこの矛盾の本質を意識し、口先では如何なることをほざこうとも、彼らの存在の地点では自らの日常性を否定できないことにより結局は立脚点を<被害者〉としての学生として位置づけざるをえなく、運動次元では旧左翼然とした物とり革命路線に転落せざるをえないような運動を突破するものとしてある。
現闘争において過去の学生運動を総括し<加害者〉としての自己意識と、それを実体化することこそ語られるのだし、今回の闘争はそのような自己の否定、変革、幻想の払拭、立脚点の自立を存在に実体化し、〈被害者〉〈加害者〉を止揚していく全体革命、非妥協的〈拒否〉の永続革命としての方向を見出す闘争なのだ。
いいかえれば、共同幻想としての大学に対して自己幻想を軸にした形で大学共同幻想を払拭していく作業を存在の地点で開始することを言うのだ。この6項目要求闘争が、個別大学社会内の問題としてかかげられ、その問題が個別大学社会内の問題を内に含みながら、体制そのものに対する政治闘争として形成 されていく現在にあって、当初、闘争の攻撃対象であった教授、良識学生等が闘争に触発され、学園の正常化を何よりも希求し、問題の解決を事態の技術的な処理としての大学内制度改良、変革に収拾を見出す時、この闘争を一貫して担ってきた者と虫のいい収拾者の間には再び敵対が表面的にも現象する。
このことは、6項目要求闘争が改良(制度的変革)の契機を内に孕まざるをえない側面より出てくる結果としての大学共同体幻想(特権的知識人=教授、良識学生の〈誠実〉なままごとである制度いじりの上に確立されようとしているより進歩的な、より近代的な外形を持った体制内大学)へのよりラジカルな あるいは、より自由な地点からの永続的な〈否〉の闘争を組むことを示す。そしてそれは同時に僕が意図的により自立した本質的学生を追求することになる。さらにく革命闘争の主体は労働者であり、階級の否定はプロレタリアートの止揚なくしては……〉と言うマルクスの言葉を一面的に認識し、一定大学時代は学生運動をやり、一年程恰好つけて留年でもし、学校を卒業すれば横すべり的に労働者になり生産点につき、組合員になることがあたかも革命闘争を真に担いうる唯一のコースであるかのごときを語る職業革命家、あるいはその卵達の安易に通りすごす問題を掘り下げることとしてもある。現体制では、プチブルの域を出ない学生存在の、そしてその上に立つ学生運動を根底から否定する課題を持つ闘争として進級拒否がある。
今日まで闘争主体の学生期間をプロレタリアートへの移行期間として、運動は本質的にプロレタリアート側に立つ闘争として組まなければ云々、されてきた。それはプロレタリアートが革命の真の主体(このことは十分正しい)であり、学生運動はそれへの一方的な連帯であり、よりかかりでしかない。学生が学生として立脚点において自立してこそ初めて相互の関係のラジカルな連帯を語りうるのだ。それすらできず、自分の学生存在が労働者に対して気はずかしいのだったら、即時学生を止めて労働者になり、労働者として自立して労働運動を推進させる方がましだし、誠実というものだろう。
以上のことは、全社会の中の一部の社会である大学の中にいて大学で革命を起す等ということではない。国家権力を頂として個々の社会が有機的に連結することで国家独占資本主義体制が形成されている中で、個別一社会の中でコンミューンが形成され、革命が起こるなどと夢想しているのではない。
個別社会の中で全体革命、つまり永続革命への視点をすえるなかから、個別社会内での闘争が改良的に転化せざるをえないことを把握し、そのことに永続的な〈否〉の闘争として、変革そのものを不断に革命する闘いとしてあるのだ。当然のことながら、そのように全体的革命を指向することの内には自己の変革も含まれており、ここにおいて自己はそのような革命の主体であると共に、革命を体現する対象でもあることを示している。
このことにおいて始めて全体という言葉を単に対象の概念ではなく、方法の概念でもって用いるのだ。このことより僕が永続的学生であることは、学生であることに立脚点をすえる中から大学共同幻想体へ永続的闘争を組み、本質的学生を体現していくことである。この進級拒否の闘いは、関学でもほんの一握の学生が苦痛をもって語るように、〈体制内学生〉であることが〈労働力商品〉としての学生の〈被害者〉アレルギーから解放される闘争として位置づけられるだけではなく、真に、自らの保証された位置を苦痛をもって確認する中で、ただ単に意識内だけで自分を否定して、将来的には職業革命家になってそのつぐないをするつもりだから、今は労働者におんぶしてもらう闘争であることを暗黙的に自己合理化していくからこそ、原則的には一応労働者との連帯を常に語りながら、現象的には意識的に目覚めた者の先駆的なプチブル急進主義の闘いと転落せざるをえない。
そのような学生戦線の闘争が労働者の中の解る者しか解りえぬ擬似家族幻想的連帯の闘いしかなりえぬのであって、職場共同幻想のなかでなんとかプチブル生活をあこがれている広範な労働者への本質的な語りかけにならない。真に過去のわれわれのそのような限界を持った学生戦線の闘いを鋭く総括する中から、進級拒否者同盟の結成の提起があるのだし、この進級拒否闘争の推進の中にこそ、過去の学生戦線の日本階級闘争を不断に疎外した限界を突破するものがあるのだ。そのことをす通りする形で観念的に自己否定の闘いとか、労働者と連帯した闘い等の空語をふりまくな。
自己の内なる特権的学生の変革否定、これは単に意識そのものがそうであり、それでもって将来的に労働者になっていけばそれですむのではなく、自己の闘争以前の意識ではなく、存在そのものの変革なしには状況への、あるいはこの闘争を真に担っていく変革主体とは決してなりえぬことを知れ!
進級拒否者は、他のいかなる部分(進級して闘っていくという者たち)が意識においてこの矛盾の本質を意識し、口先では如何なることをほざこうとも、彼らの存在の地点では自らの日常性を否定できないことにより結局は立脚点を<被害者〉としての学生として位置づけざるをえなく、運動次元では旧左翼然とした物とり革命路線に転落せざるをえないような運動を突破するものとしてある。
現闘争において過去の学生運動を総括し<加害者〉としての自己意識と、それを実体化することこそ語られるのだし、今回の闘争はそのような自己の否定、変革、幻想の払拭、立脚点の自立を存在に実体化し、〈被害者〉〈加害者〉を止揚していく全体革命、非妥協的〈拒否〉の永続革命としての方向を見出す闘争なのだ。
5ケ月間に及ぶ関学闘争の烽火は、権力側の集中砲火を浴びせかけられながらも今なお炎々と燃え続けている。当局が、改革案でいくら制度的手直しを試みたとしても、それはわれわれに対する解答にはならないであろう。われわれは「法と秩序」の厚い壁に屈することはできない。ただ、闘争の永続化あるのみである。
【アピール】
主体の参加を媒体とし、主体の喪失は必至となり、その崩壊過程の中で、まさに、“自己否定”を自問してみる。
“NON”“NON”“NON”と繰返されたこの闘争は、日常性から非日常性に、そして、それが日常性へと回帰する不連続線である。“NON”は今後も生き続けるであろうし、創造へ続く、“拒否”の闘いとならねばならない。゛
闘争のなかで、自己が歴史の客体から主体に転化したとき、類々と、“関学80年”の死者の列が現れた。私は、バリケードのなかで人間のはらわたの臭いを知り、バリケードの外の、風化した現実を確認したのである。
第5別館、法学部で闘った学友の姿は、“生”の極限状態であり、全学集会のあの蛇のように長い人の帯は、まさに、幻想でしかないのではないか!
われわれは、いま、あの国家権力との対峙関係のなかで、かいま見た、“生”の意味を再度とらえ返してみるべきではないのか!

主体の参加を媒体とし、主体の喪失は必至となり、その崩壊過程の中で、まさに、“自己否定”を自問してみる。
“NON”“NON”“NON”と繰返されたこの闘争は、日常性から非日常性に、そして、それが日常性へと回帰する不連続線である。“NON”は今後も生き続けるであろうし、創造へ続く、“拒否”の闘いとならねばならない。゛
闘争のなかで、自己が歴史の客体から主体に転化したとき、類々と、“関学80年”の死者の列が現れた。私は、バリケードのなかで人間のはらわたの臭いを知り、バリケードの外の、風化した現実を確認したのである。
第5別館、法学部で闘った学友の姿は、“生”の極限状態であり、全学集会のあの蛇のように長い人の帯は、まさに、幻想でしかないのではないか!
われわれは、いま、あの国家権力との対峙関係のなかで、かいま見た、“生”の意味を再度とらえ返してみるべきではないのか!

一人の人間の行為が
見る者に対して
重くのしかかってくる
見る者に対して
重くのしかかってくる
彼の行為の中に
何を見出し 如何に止揚するのか
それは 決して
きまぐれの有効性のみで語られるべきものではない
何を見出し 如何に止揚するのか
それは 決して
きまぐれの有効性のみで語られるべきものではない
【全共闘も海まではー 関学大で洋上講義】毎日新聞1969.4.30(引用)
30日朝、神戸港中央堤から関西学院大学(西宮市)商学部新1年生500余人と50人の教職員を乗せた関西汽船の客船わかば丸=1,044トン=が午後5時帰港の予定で小豆島一周に出港した。教室の使えない封鎖大学「いくら全共闘でも海上まではこられまい」と、一人千円の実費負担の“洋上講義”に踏み切ったものだが、場違いに“初登校”に新入生たちはさえない表情だった。
タラップでは教職員が身分証明書の提供を求めて船内での“反乱”に目を光らせていた。
一方、兵庫県警は「ヘルメット学生4,50人が関学大を出た」という情報で、約50人の機動隊を待機させたが、午前8時半ごろ隊列を組んで押しかけたヘルメット学生は18人。機動隊に阻止され、わかば丸のそばまで行けず、機動隊と対立したまま「新入生は乗船を拒否でよ」とシュプレヒコール。
船上では西治辰雄学部長が「決して全共闘を避けたわけではない」といいながらも、こわばった表情でデッキに立ちすくみ、わかば丸は神戸海上保安部の“なだかぜ”水上署の“きくすい”両巡視艇に守られて午前8時50分、ものものしく出港していった。

【関学大で封鎖を解除 機動隊出動 百余日ぶり】毎日新聞1969.6.13(引用)
兵庫県警は関西学院大学=西宮市上ケ原、小寺武四郎学長代行=の要請で、13日午前7時、1900人の機動隊を学内に入れ、118日ぶりに実力で封鎖を解除した。同大学が警官を導入したのは、2月9、10日の入試についで2回目だが、全学生と大学職員に「14日に登校するよう」呼びかけ、バリケードに使われたイスや机などを片づけ、来週中には新学期の履修届を終わり、6月30日から正規の授業を始めることにしている。
学内に100人余りたてこもっているとみられていた全共闘学生は機動隊の入る直前の午前5時、学内の通称“時計台放送”で予告して退去したため、機動隊が学内に入った時はもぬけのカラで第一学生会館にいた1人を調べただけ。
このため封鎖解除は抵抗なく進められ、午前7時2分豊倉三子雄教授のマイクによる退去勧告に続いて行われた経済学部校舎を手はじめに法、商、神、社会学部、図書館、第五別館、教授研究室など25の建物の封鎖解除が午前9時ごろ終わり、キャンパス南西側の上ケ原上水道で火炎ビン43本、西側のゴミ焼却場などで鉄パイプ75本、角材69本、石多数を押収した。
大学側が強制封鎖解除に踏み切ったのは、今月9日に提案した同大学改革案が約1万人の学生の支持を得たので、機動隊導入に一般学生に強い反発はないと判断した。
【キャンパス情報 やっと授業を再開】毎日新聞1969.7.1(引用)
<関学大>闘争に終止符をうって新学期が30日に始まった。全共闘学生によって封鎖されていた学舎が4ケ月ぶりに機動隊の手で解除され、16日から一部の学部では新入生や4回生の授業を再開したが、2,3回生を含めた全学(学生数12.500人)の授業再開は初めて。
<関学大>闘争に終止符をうって新学期が30日に始まった。全共闘学生によって封鎖されていた学舎が4ケ月ぶりに機動隊の手で解除され、16日から一部の学部では新入生や4回生の授業を再開したが、2,3回生を含めた全学(学生数12.500人)の授業再開は初めて。
(終)
【全国学園闘争アーカイブス】
このブログでは、1968年から69年にかけての全国学園闘争の記録を掲載しているが、これまでに掲載した中から、いくつかを紹介する。
今回は当時ライトウイング(右派)で知られていた大学である。
1968-69全国学園闘争 拓殖大学編 その4
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2014-06-13.html
【お知らせ その1】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」
1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
(正式口座開設までの振込先:みずほ銀行岡山支店 口座番号:1172489 名義:山田雅美)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。 2019年8月
●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
呼びかけ人 ・ 賛同人 (いずれかに○で囲んでください)
氏 名 (ペンネーム )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話 086-242-5220 FAX 086-244-7724
メール E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)
呼びかけ人 ・ 賛同人 (いずれかに○で囲んでください)
氏 名 (ペンネーム )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話 086-242-5220 FAX 086-244-7724
メール E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)
<管理人注>
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html
【お知らせ その2】
ブログは隔週で更新しています。
次回は11月8日(金)に更新予定です。
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