今年は2020年。このブログも13年目に入った。いつまで続けられるか分からないが、掲載するネタ(記事)があるうちは続けていきたいと思う。
さて、今年最初のブログは、昨年10月の明大土曜会沖縄ネットワー沖縄・辺野古現地闘争の報告である。沖縄ネットワークのメンバーの一人として現地闘争に参加したM・H氏から寄稿されたものである。
【土曜会沖縄ネットワーク 10月末・辺野古現地闘争に参加する】

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■土曜会沖縄ネットワークの行動■
今年4月に続き2回目の現地連帯行動を展開した。今回の参加は芝工大・明大土曜会を初めとして18名の参加となった。<2回目にしてなんだが新しい顔ぶれも参加した> 沖縄に連帯する関東の会で活動する日大のKさん、30才の法大OBのS君、金沢からはHさんとアメリカウッドストック世代のケビン氏、参加各グループは現地3日から7日間の滞在であった。初めての沖縄行の人もあり、滞在の後半は各々が沖縄戦南部戦跡、史跡見学やうるま市で市民団体との意見交換などを行った。
■2019年12月明大土曜会 報告要旨■
・沖縄現地の人たちとの交流対話は進む
・辺野古持久戦、辺野古の現場はオール沖縄の市町村毎「島ぐるみ会議」ネットワークが守る
・辺野古抗議船に乗ってカヌー隊にエールを送る、海から見えてくるものとは
・普天間―辺野古の流れを知るための略年表

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■現行の辺野古新基地建設が構想されたのは■
『1966年、ベトナム戦争の真っ最中に米国の海兵隊と海軍はキャンプシュワブに接する辺野古の海を埋め立てて、V字滑走路とヘリパッドを持つ飛行場と大浦湾側に巨大な軍港建設を構想した。
戦争による米国の財政悪化は新基地の建設を許容するものではなく長らくお蔵入りしていたものだ。1996年、県内移設の条件付きで普天間基地返還が発表されて以来6年。
結局は日本政府が考えていたとおりの、基本的には、アメリカに占領されていた時代の辺野古埋立―巨大な新基地を日本政府が財政負担して建設する計画に落ち着いた。沖縄返還から30年という節目でもあった』 (七つ森書館 由井晶子『沖縄 アリは像に挑む』より 以上要約)
辺野古新基地はベトナム戦争激化という情勢の中米軍の手によって構想されたが、戦争の終結―米国経済の悪化によって30数年お蔵入りしていたものだった。

■沖縄現地の人たちとの交流促進■
土曜会沖縄ネットワークの目的は、年2回ほど(4月と11月)足並みをそろえて辺野古新基地建設反対の現場に立つこと。我々の身近な人と人の関係から沖縄連帯の輪を広めること。かつまた長く豊かな在沖経験を持つ現地全共闘世代との交流対話を進めることであろう。
首里城の復元や辺野古の家の運営に携わった在沖10年の芝工大OBのNさん、
いつも「辺野古報告」を送ってくれている県中南部八重瀬町島ぐるみ会議事務局長の沖本さん、沖縄平和市民連絡会で辺野古バスの運営担当の大村さん、オール沖縄会議辺野古現闘団のHさん、首里城の石工8代目のやや末裔という元沖縄タイムス論説委員長のNさん、沖縄返還の年1972年沖縄大学自治会委員長だったCさんたちと語り合いの時間を持った。

■辺野古に集う人びとは抗う■
新基地建設の埋立土砂や建設資材を運ぶダンプは平日の毎日3回に分けて(午前10時、午後1時、3時)、シュワブ前と安和桟橋にやってくる(本部港塩川は不定期)。月毎のダンプの総数は約2万5千台となる。
 押し寄せるダンプの波と機動隊の規制を前に、辺野古に集うアリたちの合言葉は<ダンプ一台でも一分でも遅らせる>こと。

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 シュワブ前      安和桟橋前      本部港塩川
【シュワブ前にて】
毎朝8時から抗議行動が行われている。「機動隊は座り込みの邪魔をするな」「機動隊は市民を守る任務につけ」「ワッショイ」のマイクの声が聞こえてくる。
搬入ダンプは午前9時、午後1時、午後3時にまとまってやって来て数珠つなぎになる。
「現場の力で搬入を阻止しよう」「ワッショイ」「ワッショイ」。

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ここで加藤登紀子「美しき五月のパリ」バージョンのメロディーにのせて{辺野古の海を返せ}の歌が、72年の沖縄返還闘争いらい歌い継がれている{沖縄を返せ}が、替え歌で鬼太郎の替え歌{ゲゲゲのゲート}、リンダの{こまちゃうな機動隊}が歌われていく。
機動隊の排除開始の号令でごぼう抜きが次々と始まる。
ダンプ搬入のちょっとした合間を見て、また隊列が組まれ座り込みが再開される。だから一日5回から6回は強制排除されるのである。
辺野古は、権力という大きな力が小さな力をねじ伏せ押し殺し戦争に傾いていくその歪んだ現場ではないだろうか。シュワブ前のテント村は人間の居場所である。
【安和桟橋前にて】
①国道に数珠つなぎになって右折して入ってくるダンプを遅らせるため横断歩道をゆっくりと青信号から赤に変わる直前までの「牛歩」戦術、②桟橋入り口前国道でのスタンディング、信号を右折したダンプは琉球セメントの敷地に入ってくる、その前で何回も何回もダンプの周りを回る「ぐるぐるデモ」戦術、③桟橋前の国道をゆっくりと走る「エコドライブ」戦術、④土砂積み出し船のまわりにまとわりつくカヌー隊。出港時はカヌー隊がぎりぎり船まで近づいて海保との「いたちごっこ」戦術として展開されている。 

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【本部港塩川地区にて】
本部港は伊江島に渡る沖縄本島の北端部にある。塩川ふ頭は100メートル級の貨物船が接岸できるほどの広さだ。塩川での阻止は、本部町島ぐるみ会議が担っている。塩川から積み出し船出港予定の一報がはいると、最初に駆けつけるのは地元のお母さんや高齢者だ。シュワブ、安和から支援者もだんだんと集まってくる。
塩川港の入り口にダンプが列をなしてくる、機動隊が広いふ頭に散開する。デモ隊はその中に入って個々分散的な抗議行動でダンプを徐行させる。

■辺野古 持久戦■
テント村は海のカヌー隊や辺野古抗議船や陸の座り込み、すなわち市民的不服従の出撃拠点―陣地だ。

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          (辺野古浜テント村)           (シュワブ前テント村)  
  (2019.10.31現在日数)
テント村の調べでは、沖縄内外から辺野古の現場をおとずれた人の数は2010年には10万人をこえ、それ以後は集計不能になっているという。それというのも辺野古に集まる人びとのあり様が変化しているからだ。「沖縄の島ぐるみ」、今の言葉ではオール沖縄と県内外の無名の人々大衆が一緒になってかくも長く現地で闘っているのは、沖縄戦後史において初めてのことではないだろうか。
沖縄内外から駆けつけ個人、グループ、団体が混然一体となっており主義主張も属性も関係なく誰に告げることもなく、すっと戦いの現場に入っていけるものになっているからだ。
現場を守り人々を結びつける舞台を準備する縁の下の人と多様な県内外の支援の広がりが辺野古持久戦を可能にしているのだろう。(国家に抗する、制度に飼いならされない市民が主役の政治と社会運動の形成を意味しているのだろう)
例えば「島ぐるみ会議」だ。
翁長さんの知事選を地域社会で担う住民の選挙母体としてスタートした。翁長知事選の主力は政党や労組に系列化され組織動員されるものではなかった。
超党派オール沖縄としての自発的な個人の集まりの場が地域社会に生まれ、市町村毎の島ぐるみが全県に張りめぐらされている。かくして島ぐるみはオール沖縄会議の手足、すなわち現場の力になっている。
現在では、シュワブ前ー安和桟橋ー本部港塩川地区での座り込み・阻止行動への動員や、島ぐるみ学習会、地元議会の辺野古促進議員の動きに対してストップをかけるなど、沖縄の民意(人権、自治、平和)を守る草の根活動をしている。
 シュワブ前―安和桟橋―本部港塩川地区での座り込み・阻止行動は島ぐるみなどが担当し主催している。
うるま島ぐるみ、南部島ぐるみ、ヤンバル島ぐるみ、本部町島ぐるみ、統一連、沖縄平和市民連絡会、平和運動センター、ヘリ基地反対協が曜日毎の現場を担っている。
組織動員がきかない市民組織だから長丁場のヘバリもあるだろ、島ぐるみは、沖縄のひょこりひょうたん島だ。
オール沖縄会議と島ぐるみ会議の協議で、11月からシュワブ前で毎月第三木曜日の集中行動が新たに決まった。第1回の集中行動は11.21に行われ、約230人が座り込んだ。この規模になると機動隊も容易に排除できない。資材を搬入するダンプは通常の半分以下の100台弱、目に見える成果だ。
木曜日のシュワブ前は、地元名護のヘリ基地反対協議会が担っている。

■辺野古現地闘争に参加、明大K・Yさんの報告から■
2019.10.29(火)~11.02(土) 沖縄県辺野古ほか
・10月29日(火) 辺野古 民宿クッション宿泊 (辺野古基金による支援事業) 
・10月30日(水) 辺野古 民宿クッション宿泊
午前:シュワブ前 土砂搬入ゲート前座込み 午後:名護市安和、琉球セメント桟橋土砂搬入阻止
午後安和桟橋を後に、本部町塩川岸壁搬入阻止
・10月31日(木) 読谷村波平 知花晶一さんの民宿ヌガーヤー宿泊
 午前:キャンプシュワブ埋め立て状況を、辺野古抗議船上より見る
 午後:辺野古からうるま市を経て読谷村へ移動
 うるまで市民団体と話し合い。ドローンをやっている土木技師のO氏らの話を聞く。
   配布資料「光り続けるドローンの眼」
 基地反対闘争の戦い方には、色々な方法がある。それはまさしく現地の言う通りである。
・11月1日(金) 那覇市船員会館宿泊
 夕方:芝工7名、明大3名、沖縄現地のH、O、N、O、N氏と歓談会
 10月31日未明、首里城が漏電により炎上、現地では号外が出ていた。帰京して読む東京の新聞、その見出しの小ささに、1,500㎞我彼の距離を感じました。また、沖縄の米軍基地に関する報道も同様、海の向こうの話である。
1982年以来、37年振りの訪島であった。行って良かったではなく、行って良く分かった。
 私等ヤマトの怒りは、その場限りの一過性です。けれど、ウチナンチュウにとっては、日常茶飯な事柄で、その意思を継続させるのは、人並みでない意志が必要だと感じた。私が現地に行って、とやかく言える余地は全くなかったです。それは、介護をしていない人が、介護をしている人にとやかく言うのと同じだからです。
結論
① 当面の目標はなんであるか。辺野古新基地を潰す事である。その一点でのみで戦う(スペイン市民戦争(1936年~39年)に、学生時代から興味があった。反ファシズム(フランコ)統一戦線が、内部分裂によって崩壊した二の舞は、繰り返したくない。
②工事車両阻止は、第3木曜が焦点。その時に合わせて、現地入りが最善。
③ヤマトで出来ることは、安倍自民党打倒だ!
・辺野古における反基地闘争の拠点である、民宿クッションに掲げてあった以下の文章を書き留めた。
ファシズムの初期症状(ローレンス・ブリット Lawrence Britt)
1 強情なナショナリズム
2 人権の軽視
3 団結のための敵国つくり
4 軍事優先
5 激しい性差別
6 マスメディアのコントロール
7 国家安全保障に対する執着
8 宗教と政治の癒着
9 企業の保護
10 労働運動の弾圧
11 知識人と芸術への軽蔑感
12 犯罪の厳罰化への執着  
13 身びいきと腐敗の横行  
14 不正選挙

■辺野古抗議船に乗ってカヌー隊にエールを送る、<海から見えてくるもの>■

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突入の機会をうかがうカヌー隊    辺野古抗議船 平和丸に乗る  
 
■辺野古沖は日米合同委員会指定の立入り禁止の、「臨時制限区域」だった■
5人~13人が乗船できる辺野古抗議船は5艘あり、シュワブ沖と安和桟橋で海上抗議とカヌー隊の支援をしている。乗船希望者は多いときは40~50人になる。
日米合同委員会は「日米地位協定」により、具体的な在日米軍の活動や施設運営方針を協議決定するが、国会には全く報告義務のない非公開の機関である。陸海空海兵隊の在日米軍高官と日本政府各省庁の次官や局長クラスで構成され、その下には約32の分科会がある。ざっくりといえば、それらは在日米軍受入れのいたりつくしの、おもてなし奥座敷である。
辺野古新基地の建設予定総面積は205haだが、そのうち埋め立て面積は約150haである(軟弱地盤は75ha)。「臨時制限区域」は本来、米軍の活動のために設定されるものである。日本政府が行っている埋立土木工事のために設定されうるのか、かつまたフロートに囲まれた約150haは写真撮影禁止や進入禁止となりうるのか、国内法で逮捕して刑罰(地位協定に伴う刑事特別法)を科することはできるのか。ちなみに埋め立てられた海域は日本の国有地になるのである。
この日(2019.10.31)、我々の目の前でフロートの間隙から侵入したカヌー1艘が海保のボートに取り囲まれ海に突き落とされて拘束され曳行されていった。抗議船船長の話では、「辺野古浜まで引っ張っていって解放される」。司法判断がやっかいになることを避けての措置だったのだろう。
これまでカヌー隊が芥川賞作家でカヌー隊の一員である目取真俊が逮捕された一件(2016.4.1)を除いて、逮捕されることはなかった。侵入者は海保に力づくで拘束されてから身柄を米軍に引き渡され基地内に一時拘留される。警察は米軍から身柄引き渡し受けて緊急逮捕する。
片っ端から逮捕すれば多数の立川米軍基地侵入―砂川事件裁判ならぬ、臨時制限区域侵入―辺野古沖事件裁判が行われることになる。

■埋め立てられているのは「赤い土砂」■
知事は水面埋め立てに関するさまざまな権限を持っている。
知事(翁長)権限による「埋立承認撤回」後、県と国は係争中だが知事権限が無くなったわけではない。係争中であれ、政府―防衛省防衛局が工事内容を具体的に県知事に説明した「設計概要説明書」がある。その中の「環境保全図書」では、「海中に投下する石材は事前に採石場で洗浄する」となっている。

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(2019.10.31辺野古抗議船より撮影)
もはや周知の事実だが、辺野古の海に投下しているのは、砕石と赤土を混ぜた土砂である。
政府―防衛省防衛局は年明け~春には大浦湾側の軟弱地盤改良に伴う「設計概要変更」を県に提出するが、この点も国と県の攻防となる。
 <この赤土はダンプで安和桟橋前と本部港塩川へ→土砂運搬船で辺野古沖へ→運搬船から陸揚げ用台船に積まれ→護岸に待機したダンプへ→辺野古の海に投入>
 辺野古の戦いは持久戦であるが持久戦にも谷間と山場もある。軟弱地盤の改良工事やサンゴ3万群体の移植、赤土、V字滑走路周辺の高さ規制・・・等を織り込まなくてはならない政府(防衛省防衛局)の沖縄県に申請する「設計と工事、環境対策変更書」が、政府がいつ出すかによるが次の大いなる山場となる。

■弱さを武器にした海上の戦い■
2003年4月、ついに政府は辺野古埋立を現実化するため予定地の地形調査に乗りだしてきた。辺野古漁協から調査に出る防衛施設局職員に「いかないでください」と数名が説得を試みたが、毎回相手にされなかった。政党や労組方面はだれもきていない中、毎朝の説得を続けるうち沖縄各地から少しづつ人が集まり、辺野古の海を掃除してから語り合う土曜集会が7月から始まった。
そこで考え出されたのは「力で対決できない」が「おもちゃのようなカヌーに乗って、海の掟を逆に使う」だった。海上で大きな船と小舟が出会った場合、大きな方が避けて通らなければいけない。ぶつかって処罰されるのは大きな方だ。そうだ、「弱さを武器に」できる。 カヌーで作業ポイントを先取りしてしまえば、動力のある作業船はポイントに近づけない。カヌーは小さく、力の弱い存在だが大きな船にスイスイと近づいていける。陸の座り込みがアリなら、海のアメバーになればよい。
カヌーによる阻止行動に向けた練習がはじまった。地元の青年や名護・辺野古のヘリ基地反対協でも船を入手した。2000年に開催された沖縄サミットに反対する個人参加の市民運動から生まれた沖縄平和市民連合も参加する。
「海に乗りだしていく」コラボレーションが動き出し、「ボーリング調査」を遅らせた。
2004年9月、防衛施設局はサンゴの海に杭を打ち込む調査の強行に打って出た。11月末、作業用の鋼管やぐらが四ケ所設置された。夜明け前に船を出してやぐらを先に占拠しまう「海上の座り込み」が始まった。やぐらのボーリング機械の真下に女性メンバーが鎖をしばりつけた。女性のカヌー隊も応援にかけつけた。海上での攻防は熾烈をきわめた。いら立つ業者は暴力による排除をエスカレートさせる。

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2004年12月、それまで静観姿勢をとっていた近隣漁民たちは10隻以上の漁船を連ねて海上闘争に参加した。漁船はやぐらを取り囲み、「わったーの海を守ろ」と書いたむしろ旗を潮風になびかせた。地元の海に精通した漁民たちの登場で作業船は近づけず、以後ボーリング調査はまったく進まなくなった。
(M・H私記:写真は当時の杭打ち阻止闘争/海の三里塚闘争、我らが砦の上の世界ではないか/10月31日、明大生田のS・H・Yは知花晶一さんの三度目となる民宿に泊まった/米軍が沖縄本島上陸を開始した読谷の海が見下ろせる小高い丘の上に民宿はある/偶然だったが写真の人とは違うが知花さんと一緒に当時体を張った九州の人が家族連れて来ていた/その語りを思い出してこの項を作成した/知花さんから沖縄の学生運動を聞くのもこれまた勉強であろう)
海上の戦いは日々の攻防は持久戦となった。春の休暇になると多くの学生や若者も集まる、世界の環境団体も現場に大型帆船を送り込みジュゴンを描いたポスターとしもに緊急キャンペーンを世界に発信した。
海上保安庁も今までの中立姿勢を打ち捨てて排除に乗り出し負傷者が相次いだ。さらにジュゴンとウミガメの生態に配慮して夜間はしないとの県との作業規定も一方的に破棄された。海上の阻止行動は24時間体制となり知恵くらべ根くらべ体力くらべとなった。カヌー隊の地元長老は海のやぐらで編んだ毛糸の赤いベレー帽がテント村のみんなに配られた。施設局が夜間作業をやめるまでの50日間続けられた。
鉄は意外にもろいものである。
海水につかり潮風にさらされた鋼管やぐらは海草が巻き付き腐食が進み海の生き物たちの漁礁となった。いつ倒壊してもおかしくない老朽化で、2005年9月2日の大型台風の接近で施設局はやむなく撤去を始めざるをえなかった。
地元、沖縄内外のいくつもの境界線を越境する名も無き者たちと自然の力が工事着工を食い止めた。
翌10月、日米政府は辺野古沖「海上」案の撤回を発表する。条件付き辺野古沖移設という基地負担補助金増額を乞い願う保守系の県と地元自治体案は切り捨てられた。
日本政府が考えていたとおりの、基本的には、アメリカに占領されていた時代の辺野古埋立―巨大な新基地を日本政府が財政負担して建設する辺野古「沿岸」に舵を切っていくことになる。
2007年5月18日、防衛省は辺野古沖合での海底調査器具設置のため海上自衛隊の掃海母艦「ぶんご」を派遣し海自隊員による作業が敢行された。

■普天間から辺野古へ■
住宅地の真ん中にあり老朽化した普天間基地の解決は<辺野古が唯一>なのだという。
普天間基地が市街地住宅地の真ん中あるのは当然ではないか、今もって米軍基地があるのがおかしいのだ。それは米軍事占領―52年の講和条約―72年の日本の主権の回復となっても米軍及び米軍基地には指一本も触れられない。日本の主権は軍事占領時と本質的には変わらないブルー・スカイ・ポジション(平時の疑似的な「戒厳令」)の前にある、日米地位協定はこの別名にすぎない。米軍基地が集中する沖縄に行けば「安保がよく見える」ことになる。
沖縄戦は住民の「約四人に一人」がなくなった戦争として知られる。だがその一方で戦火を生き抜いた「残りの三人―約33万人」にとって、この戦争は<捨て石>の戦争にとどまらず、米軍に郷土が奪われ住む家から追い立てられていく<占領>の進行過程としてあった。
住民は主として東海岸中北部に設立された沖縄本島面積の10%ほどの軍政地域の12の民間人収容所に押し込められた。その数は1945年4月末に11万人、7月末には生存した民間人ほぼ全員にちかい32万人に達した。と、同時に本土攻撃に向けた基地建設が無人の荒野を行くごとく轟然と開始された。普天間地域の集落全体もローラーでつぶされ整地され約480haの基地となった。収容所から帰って来た普天間の住民たちにとっては基地の周辺にしか生き残りの場所は残されていなかった。阿波根さんたち、伊江島の住民たちも3~4ケ所の収容所をたらい回しにされた生活を送り普天間住民と同様になった。
オスプレイが常駐する海兵隊の普天間は、キャンプシュワブと背中合わせの5000haの広大なキャンプハンセンの中にある第3海兵遠征軍司令部が管轄し、朝鮮半島有事の際の前方展開を専門とする部隊だ。米人の救出、北の軍隊をソウル前方でくい止めるくさびの役だけの訓練を受けている。朝鮮半島情勢の変化を普天間返還交渉の糸口などにというのは安倍政権の頭の中には無いのだろう。
辺野古(総称久辺三区/久志村、久志岳、辺野古)は「辺鄙な山村」であった。沖縄戦末期、「辺鄙」なその山襞に約1万5千人が収容される掘っ建て小屋の捕虜収容所が作られた。米軍の配給品と海の畑といわれた引き潮時の辺野古の魚介類に頼る生活が辺野古の沖縄戦後の始まりである。東海岸中北部は、軍政地域の予定地として米軍の艦砲射撃から意図的に外された地域だった。
辺野古の住民は山に依存する薪や木炭業を生業としていたが、「島ぐるみ土地闘争の終わりが始まる頃」の1957年、辺野古では約200haの米軍演習場キャンプ・シュワブの建設が開始された。辺野古地区はそれと引き換えに米軍の余剰電力と水道、地元優先の雇用を要求した。現在のシュワブの面積は2250ha、辺野古弾薬庫150haのモンスター基地となっている。
米軍にとっての沖縄戦は、「勝利を抱きしめて」だけではなかった。沖縄戦で米軍は、太平洋戦争で最大規模の55万人態勢でのぞみ、沖縄第32守備軍兵力は10万人に満たなかった。沖縄戦の全戦没者の半数以上の12万から15万人の沖縄の人(民間人、軍属・県出身軍人)が殺された。
米軍の死者は太平洋戦争最大の1万2千人の死者を出し、負傷者との合計では8万5千人。日本軍の死傷者数の10万人と極端な大差はない。米軍部にとっては大量の若者の「血を流したて得た」他に代えがたい征服地として、ここにながく沖縄の排他的な長期保有にこだわった理由がある。
在沖米軍基地名となっているシュワブ、ハンセン、キンザーなどの地名は、沖縄戦で名誉勲章を受章した戦死米兵の名前にちなんだものである。
現在の辺野古新基地建設に舞台を戻せば、沖縄全島7割の民意と辺野古の自然を踏みにじる何が何でも最新鋭の軍事基地機能を備えた耐用年数200年の新基地を建設することに問題はある。振り返れば<普天間―辺野古問題>の具体的な起点は、1995年10月8万5千人の超党派全住民態勢で開かれた「少女暴行事件を糾弾する」県民大会だ。一般住民(特に女性たち)が自発的に参加したことがこの大会を復帰後最大規模に押し上げた。沖縄社会の内部で進行していた地殻変動が一気に表面化した。この大会の衝撃力は日米両政府を大きく揺さぶって対沖縄米軍基地政策の転換を迫った。沖縄県民の憤りに接して、「沖縄の負担軽減」の目玉として日米合意したはずの普天間返還が、辺野古の海を埋め立てる「移設」問題へとすり替えられ、沖縄の民意を切り捨て何が何でも「新基地建設」を強行姿勢だ。
舞台は辺野古に移る。
ここには、沖縄住民が求めて来た、人権、自治、基地のない平和な島をという戦後意識が脈々と島ぐるみの戦いとして継承されているだろう。

■普天間―辺野古をめぐる略年表■
1995.10.21―宜野湾海浜公園で「少女暴行事件を糾弾する」8.5万人の県民大会開催。
      県民の一五人に一人が参加する復帰後最大規模の大会となる。
1996.04.12―橋本・モンデール会談で普天間基地の5~7年以内の全面返還を発表。
      安保体制を足元から揺るがす沖縄情勢の沈静化を図る。
1996.04.21―クリントン・橋本「日米安保再定義」宣言。安保を極東からアジア太平洋に拡大し、在 日米軍と自衛隊の軍事一体化を推進する。
1996.09.08―沖縄県民投票、89%が日米協定見直し・基地縮小に賛成。
1996.12.02―SACO最終報告、普天間代替施設として「本島東海岸沖」が盛り込まれる。
      水面下で事実上の辺野古沖が決定、辺野古問題20年の迷走が始まる。
1997.04.17―米軍用地の使用期限を延期するための知事の代理署名権限を内閣に移行させる
     「駐留軍用地特措法」成立させ、米軍基地反対運動と知事権限の分離を図る。
      この頃から「代替え施設」の内容と場所をめぐる迷走が始まる。
1997.12.21―辺野古がある「名護市民投票」、代替施設の是非が基地反対か市政全般化と北部経済振興かにすり替えられる。賛成45%、反対53%で基地反対派が勝利する。
1997.12.24―比嘉名護市長、突然投票結果を覆し海上ヘリ基地受入れ・辞職を表明。
      公有水面使用と埋立権限を持つ大田知事、海上基地反対を表明。
                     移設案は暗礁に乗り上げる
1998.11.15―大田知事、保守と財界が推す稲嶺に敗北。稲嶺知事、撤去可能な海上基地ではなく、埋立による恒久的に基地建設を打ち出していたがそれと矛盾する「15年間の使用期限と軍民共用」を発表。
1998.12.27―名護市長選で岸本氏(保守系)当選。条件付きで移設受け入れ表明。
                      岸本は元早稲田の革マル、一坪反戦地主といわれていた。
1999.12.28―辺野古沖合への移設と10年間で100億の北部経済振興予算を閣議決定。
2002.  ―ベトナム戦争の最中に計画された「辺野古海兵隊基地」建設を、日本政府の財政負担で建設することが政府決定。
2004.08.13―普天間基地隣の沖縄国際大学に米軍大型ヘリ墜落炎上。
2004.09.09―辺野古沖ボーリング調査を阻止する「海上やぐら闘争」始まる。
2005.10  ―日米辺野古沖海上案を断念。キャンプシュワブに隣接する辺野古沿岸案に変更。
      政府による沖縄稲嶺県政の切り捨て、「15年軍民共用」案が白紙化する。
 この頃、日米同盟という「国益」と基地整理縮小という「県益」で沖縄保守県政はほぼ政府との断絶に入る、稲嶺知事ほぼ不眠症となる。
2006.11.19―国との関係リセットで仲井真(保守)が糸賀(革新)を破って知事選に勝利。
      仲井真は当選の勢いで政府との仕切り直しを図るが、政府は微調整にも応じず。
2007.05.18―防衛省、辺野古沖合での海底調査器具設置のために海自の掃海艇を派遣。
      1月に防衛庁は防衛省に昇格していた。
2007.07  ―高江ヘリパット建設工事阻止、住民の座り込み始まる。
2007.09.29.―教科書検定意見の撤回を求める超党派県民大会、過去最大の11.6万人参加で開催される。沖縄戦の歴史認識は、県民が培ってきたアィデンティの根幹である。基地か経済化の問題では保革対立が対立してきたが、沖縄戦認識ではほとんど対立せず、「島ぐるみ」でまとまり団結する。1995年の総決起大会は米軍への抗議であったが、07年の県民大会は「対日本政府」に対して行われた。
      島ぐるみオール沖縄が生まれてくる地殻変動をもたらす歴史的転換であった。
2009.02.27―海兵隊グアム移転とその費用日本負担等の在日米軍再編で日米合意。
      普天間返還―グアム移転―辺野古恒久基地建設が錯綜する。
2009.08.30―民主党への政権交代。
      オバマは「アジア回帰」、鳩山は「対等な日米関係」「東アジア共同体」「常時駐留なき安保」を打ち出し、その先に経済共同体以上の不戦共同体を描いていた節がある。オバマは普天間返還と海兵隊グアム移転の一体化であった。
2009.11.08―辺野古新基地建設と県内移設県民大会、2万1千人参加。
      12月鳩山首相、辺野古以外の移設を本格的に検討すると表明。
岡田外相は県内移設―嘉手納への移設統合、社民党は県外移設であった。
菅直人政権が辺野古回帰の日米合意を踏襲するが、沖縄では県外移設の声が強まっていた。
2010.01.24ー名護市長選で、「海にも陸にも新しい基地はつくらせない」と明言した稲嶺進が前市長の島袋を破って当選。尖閣諸島問題や中国脅威論を主張する右派勢力は、沖縄には海兵隊も自衛隊も必要」とナショナリズを煽り、相手陣営へのヘイト攻撃をする選挙戦の登場ともなった。
2010.04.25.―基地の県内移設に反対し、県外・国外移設を求める超党派9万人県民大会。
2010.05.04―鳩山首相来県し、県内移設を表明。6月辺野古引責で鳩山首相退陣。
2010.10.16―仲井真、知事選出馬会見で「日米合意の見直し・県外移設要求」表明。
      県外移設に踏み切らせたのは、県民世論の変化を呼んだ選対本部長の翁長那覇市長だった。翁長は沖縄の期待を裏切り辺野古に回帰する自民党、民主党への失望も大きかったという。
仲井真のポスターには、「普天間県外移設」「もう、米軍基地はゴメンです」のキャッチコピーが並び、革新の伊波を破って再選された。
2012.09.09―オスプレイ配備に反対する超党派県民大会、宮古・八重島会場と合わせて10.3万人が参加。この大会で着目すべきは、沖縄の保守と経済界の重鎮が大共同代表として名を連ね、県41市町村の反対決議が揃ったことである。
とりわけ経済団体が加わったことは運動に厚みを増すものとなった。
      10月にノー天気な野田政権の下、オスプレイは普天間に強行配備された。
      野田は民放TVで、「配備はアメリカ政府の方針で、(日本)それをどうしろこうしろとは言えない」と発言、沖縄の怒りを増幅させた。
2012.09.27―普天間基地閉鎖、3日間のヒューマンチェーンと座り込み。
沖縄県警は一部強制排除を行う。
2012.12.16―衆院選で自民党第1党、政権に復帰する。
沖縄自民党は官邸から辺野古移設を「説得」され、県外移設公約を放棄―辺野古移設容認となる。沖縄選出自民党国会議員5名全体、沖縄自民党県連議員、普天間がある佐喜眞宜野湾市長。自民党沖縄県連は事実上の分裂状態へ。
2013.01.29―県内41の全市町村長、オスプレイ配備反対と普天間県外移設の「沖縄建白書」を安倍首相に提出。
2013.02.22―日米首脳会談で「普天間飛行場の早期移設」が合意。
2013.12.17―仲井真知事、都内病院に突然の入院。官邸の菅や政府与党と密会していたのは明らかである。
2013.12.27―その後沖縄振興予算増大と引き換えに仲井真知事、辺野古埋立を承認。
2014.08.18―辺野古で海底ボーリング調査開始される。
2014.8   ―辺野古新基地に反対するキャンプシュワブ前座り込み、カヌー隊の海上闘争がスタート。
2014.11.16―翁長(オール沖縄)知事誕生。翌年10月辺野古埋立承認を取り消し。
(以上、明大土曜会 M・H)
(終)


【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」出版記念会

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「続・全共闘白書」が、昨年12月25日に刊行されました。
A5版720ページ
定価3,500円(税別)
情況出版刊
(予約注文の方には割引があります。チラシをご覧ください。)

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(チラシ)
それを記念して、以下により出版記念会を開催いたします。
多くの方の参加をお待ちしています。

日時:2020年1月18日(土) 17:00~20:00(16:30開場)
会場:学士会館201号
(東京都千代田区神田錦町3-28 03-3292-5936)地下鉄神保町駅 徒歩1分)
会費:5,000円(立食)(本代別)
記念対談:吉岡忍(ノンフィクション作家、日本ペンクラブ会長)×二木啓孝(ジャーナリスト)
「『続・全共闘白書』を読み解く?全共闘世代に遺された課題とは」
※会場で本の販売があります。
※その後近くにて二次会を予定しています。
※会場の準備の都合上、参加の方は以下までお知らせください。
『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com 

【お知らせ その2】
「高校闘争から半世紀」~私たちは何を残したのか、未来への継承~

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日時:2月11日(祝)13:00~17:00
会場:連合会館 2階大会議室

(千代田区神田駿河台3-2-11 東京メトロ「新御茶ノ水」駅 B3出口すぐ
JR中央線「御茶ノ水」駅 聖橋口徒歩5分
【プログラム概要】
Ⅰ部 1968 年は我々に何をもたらしたか ―自己否定を巡って― 山本義隆(東大全共闘)+高校全共闘(都立青山高校・麻布学園高校・教育大付属駒場高校・県立仙台一 高・慶應高校・灘高校・都立日比谷高校・県立掛川西高校・都立竹早高校など)が登壇予定 司会:高橋順一(武蔵高校・早稲田大学教育学部教授)
Ⅱ部 運動の現場から ―香港の学生・日本の高校生の闘い―
香港の闘う学生+日本の闘う高校生+高校全共闘+全中共闘などが登壇予定 司会:初沢亜利(ドキュメンタリー写真家、東北・沖縄・北朝鮮・香港などの現場撮影取材)
Ⅲ部 ぼくたちの失敗 ―僕たちは何を失い何を獲得したのか―
高校全共闘(都立上野高校・都立九段高校・新潟明訓高校・県立旭丘高校・県立千葉高校・都立北高校・ 府立市岡高校・都立立川高校など)+全中共闘(麹町中学・日本女子大付属中学など)が登壇予定 司会:小林哲夫(高校紛争1969‐1970「闘争」の歴史と証言 著者)

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は1月24日(金)に更新予定です。