2020年2月11日(祝)、東京・御茶ノ水の:連合会館大会議室で「高校生が世界を変える!高校闘争から半世紀~私たちは何を残したのか、未来への継承」と題したシンポジウムが開催され、約300名の方が参加した。


(チラシ写真)
【プログラム概要】
Ⅰ部 1968 年は我々に何をもたらしたか ―自己否定を巡って― 山本義隆(東大全共闘)+高校全共闘(都立青山高校・麻布学園高校・教育大付属駒場高校・県立仙台一 高・慶應高校・灘高校・都立日比谷高校・県立掛川西高校・都立竹早高校など)が登壇予定 司会:高橋順一(武蔵高校・早稲田大学教育学部教授)
Ⅱ部 運動の現場から ―香港の学生・日本の高校生の闘い―
香港の闘う学生+日本の闘う高校生+高校全共闘+全中共闘などが登壇予定 司会:初沢亜利(ドキュメンタリー写真家、東北・沖縄・北朝鮮・香港などの現場撮影取材)
Ⅲ部 ぼくたちの失敗 ―僕たちは何を失い何を獲得したのか―
高校全共闘(都立上野高校・都立九段高校・新潟明訓高校・県立旭丘高校・県立千葉高校・都立北高校・ 府立市岡高校・都立立川高校など)+全中共闘(麹町中学・日本女子大付属中学など)が登壇予定 司会:小林哲夫(高校紛争1969‐1970「闘争」の歴史と証言 著者)
【プログラム概要】
Ⅰ部 1968 年は我々に何をもたらしたか ―自己否定を巡って― 山本義隆(東大全共闘)+高校全共闘(都立青山高校・麻布学園高校・教育大付属駒場高校・県立仙台一 高・慶應高校・灘高校・都立日比谷高校・県立掛川西高校・都立竹早高校など)が登壇予定 司会:高橋順一(武蔵高校・早稲田大学教育学部教授)
Ⅱ部 運動の現場から ―香港の学生・日本の高校生の闘い―
香港の闘う学生+日本の闘う高校生+高校全共闘+全中共闘などが登壇予定 司会:初沢亜利(ドキュメンタリー写真家、東北・沖縄・北朝鮮・香港などの現場撮影取材)
Ⅲ部 ぼくたちの失敗 ―僕たちは何を失い何を獲得したのか―
高校全共闘(都立上野高校・都立九段高校・新潟明訓高校・県立旭丘高校・県立千葉高校・都立北高校・ 府立市岡高校・都立立川高校など)+全中共闘(麹町中学・日本女子大付属中学など)が登壇予定 司会:小林哲夫(高校紛争1969‐1970「闘争」の歴史と証言 著者)
【第1部】
総合司会 金廣志氏
金「本日の総合司会をさせていただきます元都立北園高校の金廣志と申します。よろしくお願いいたします。
本日は半世紀前、1970年前後に制服の自由化とか管理教育へ異議を突き付けた高校生たちが50年ぶりに参集しています。これは2012年に発行された小林哲夫さんの『高校紛争 歴史と証言』という本がございますけれども、それがきっかけとなって、その年に出版祝という形で全国の高校生に呼びかけたところ、100名以上が参集して、私たち自身も非常に驚きました。高校生自身は皆それぞれが学内の中で分断されていたんですけれども、手を結びたかった、あるいは他の高校の運動を尊敬していたとか、そういう横のつながりが出来たんですね。それがきっかけになって今回の会は、戦友会とか同窓会とか、そういうものを行うために集まったのではないです。むしろ、現在の若者たちの困難な闘いに連帯したいと、そういう思いで今回の集会を企画していますので、同窓会、戦友会が目的の方は二次会の方でよろしくお願いいたします。

総合司会 金廣志氏
金「本日の総合司会をさせていただきます元都立北園高校の金廣志と申します。よろしくお願いいたします。
本日は半世紀前、1970年前後に制服の自由化とか管理教育へ異議を突き付けた高校生たちが50年ぶりに参集しています。これは2012年に発行された小林哲夫さんの『高校紛争 歴史と証言』という本がございますけれども、それがきっかけとなって、その年に出版祝という形で全国の高校生に呼びかけたところ、100名以上が参集して、私たち自身も非常に驚きました。高校生自身は皆それぞれが学内の中で分断されていたんですけれども、手を結びたかった、あるいは他の高校の運動を尊敬していたとか、そういう横のつながりが出来たんですね。それがきっかけになって今回の会は、戦友会とか同窓会とか、そういうものを行うために集まったのではないです。むしろ、現在の若者たちの困難な闘いに連帯したいと、そういう思いで今回の集会を企画していますので、同窓会、戦友会が目的の方は二次会の方でよろしくお願いいたします。

第1部についてはプログラム通り、第2部については香港の現状を中心に、第3部については現在さまざまな分野で活動している日本の高校生・大学生との対論を行いたいと思います。皆さまのご支援よろしくお願いいたします。」
<連帯のあいさつ>
元大阪府高連OBからのメッセージ
「大阪の60年代後半の高校生を取り巻く空気はまさに混沌としていました。坂本龍一が過去のラジオ番組の対談でいみじくも当時の都立高校文化について指摘していたように、大学生とは違う、一種軽薄に政治、音楽、ファッション、映画等の文化を含めて敏感に取り込んだことは大阪においても同様でした。大学セクトのオルグは、遅くとも66年には一部高校の文化部に入っていたけれど、彼らの言説は半分上の空、『なるほど』もあれば『誇大妄想だろう』もあった。だから組織より自由意志を尊重していた。乱暴に言えばデモの際に紅組か白組かその外か、どこかにいないと隊列が決めない程度、あるいはともかく気の合う友だちと一緒にやる程度の選択だった。大切なのは戦争に加担しないことの強烈な意思表示、管理教育・自由の束縛への反発、世界で巻き起こっているカウンター・カルチャーへの共感でした。ふり返ると、それらは人生の人格形成時期の骨格をなしていたと言えるのではないでしょうか。だからこそ、今回の集まりも開催されるのだろうと考えます。
今、世界激動の時、現在の中高生に伝えられることなど思い付きませんが、少なくとも大学生よりはまともな感性を擁しているように思います。それらのみずみずしくも生きづらさに囲まれているように見える彼らに、何らかの場を提供することが私たちに出来ることではないでしょうか。」
<連帯のあいさつ>
元大阪府高連OBからのメッセージ
「大阪の60年代後半の高校生を取り巻く空気はまさに混沌としていました。坂本龍一が過去のラジオ番組の対談でいみじくも当時の都立高校文化について指摘していたように、大学生とは違う、一種軽薄に政治、音楽、ファッション、映画等の文化を含めて敏感に取り込んだことは大阪においても同様でした。大学セクトのオルグは、遅くとも66年には一部高校の文化部に入っていたけれど、彼らの言説は半分上の空、『なるほど』もあれば『誇大妄想だろう』もあった。だから組織より自由意志を尊重していた。乱暴に言えばデモの際に紅組か白組かその外か、どこかにいないと隊列が決めない程度、あるいはともかく気の合う友だちと一緒にやる程度の選択だった。大切なのは戦争に加担しないことの強烈な意思表示、管理教育・自由の束縛への反発、世界で巻き起こっているカウンター・カルチャーへの共感でした。ふり返ると、それらは人生の人格形成時期の骨格をなしていたと言えるのではないでしょうか。だからこそ、今回の集まりも開催されるのだろうと考えます。
今、世界激動の時、現在の中高生に伝えられることなど思い付きませんが、少なくとも大学生よりはまともな感性を擁しているように思います。それらのみずみずしくも生きづらさに囲まれているように見える彼らに、何らかの場を提供することが私たちに出来ることではないでしょうか。」
大谷「実行委員の大谷行雄です。シンポジウム開始に先立ち、実行委員を代表し、山本義隆さんのご紹介と謝辞を述べさせていただきます。本日はこれだけたくさんの方に集まっていただき、まことにありがとうございます。特に遠方から来ていただいた元仲間たちには深く感謝申し上げます。
山本義隆さんのご紹介といいますと、東大全共闘の議長とか。ここにいる若い人たちにとっては駿台予備学校のカリスマ講師ということで、周知のことかと思います。今日、ここに至るまでの5.6年前からの話をさせていただきます。山本義隆さんは長い沈黙の後、2014年10月に『10・8山﨑博昭プロジェクト』の発起人の一人として、プロジェクトを立ち上げる会で講演をされました。長年政治から離れていた私も、山本さんが語られたということで賛同人になりました。このプロジェクトは1967年10月8日の第一次羽田闘争で命を落とした山﨑博昭君を追悼し、この事件を後世に残す目的で結成されたもので、追悼モニュメントの建立、記念誌の発行、ベトナム・ホーチミン市にある戦争証跡博物館での『日本の反戦運動』展示会を開催するという3つの目的を持っていました。特に三番目のベトナムでの事業は海外生活が長い私が何か貢献できるかと思い、担当者として山本さんとのお付き合いが始まりました。おかげさまでベトナムでの展示はホーチミン市だけでなく、南部カントウ市、中部フエ市でも開催され、大成功に展開され、今現在はハノイ市、先々はアメリカでの展示会を企画検討中です。この縁をきっかけに、山本さんに3つのお願いをしてきました。一つは、一昨年に亡くなった私の義理の兄である情況出版の編集長であった大下敦史の追悼の会に講演をしていただいたこと、第二に、山﨑プロジェクトがアメリカから元SDSの闘士、コロンビア大学闘争のリーダーだったマーク・ラッド氏を日本に招へいした際に対談をお願いしたこと、そして最後にお願いしたのが、今日の集まりに登壇していただきたいということです。山本さんはこれらのお願いに対し全て快諾していただきました。
山本さんがここに参加していただいた経緯、優しく寛容でかつ誠実な姿勢は、ひとえに亡き山﨑博昭君に引き継がれたものと思っています。ちなみに、山﨑さんは亡くなった時は京大の1回生でしたが、出身高である府立大手前高校ではラディカルな高校生活動家だったということも聞いております。そこで私から皆さんにお願いがあります。山本さんに敬意を表し、この場を借りて山﨑博昭君に黙祷を捧げたいと思います。ご協力いただける方はご起立下さい。あちらに山﨑君の遺影がありますので、そちら向かって黙祷をお願いします。
(1分間の黙とう)

山本義隆さんのご紹介といいますと、東大全共闘の議長とか。ここにいる若い人たちにとっては駿台予備学校のカリスマ講師ということで、周知のことかと思います。今日、ここに至るまでの5.6年前からの話をさせていただきます。山本義隆さんは長い沈黙の後、2014年10月に『10・8山﨑博昭プロジェクト』の発起人の一人として、プロジェクトを立ち上げる会で講演をされました。長年政治から離れていた私も、山本さんが語られたということで賛同人になりました。このプロジェクトは1967年10月8日の第一次羽田闘争で命を落とした山﨑博昭君を追悼し、この事件を後世に残す目的で結成されたもので、追悼モニュメントの建立、記念誌の発行、ベトナム・ホーチミン市にある戦争証跡博物館での『日本の反戦運動』展示会を開催するという3つの目的を持っていました。特に三番目のベトナムでの事業は海外生活が長い私が何か貢献できるかと思い、担当者として山本さんとのお付き合いが始まりました。おかげさまでベトナムでの展示はホーチミン市だけでなく、南部カントウ市、中部フエ市でも開催され、大成功に展開され、今現在はハノイ市、先々はアメリカでの展示会を企画検討中です。この縁をきっかけに、山本さんに3つのお願いをしてきました。一つは、一昨年に亡くなった私の義理の兄である情況出版の編集長であった大下敦史の追悼の会に講演をしていただいたこと、第二に、山﨑プロジェクトがアメリカから元SDSの闘士、コロンビア大学闘争のリーダーだったマーク・ラッド氏を日本に招へいした際に対談をお願いしたこと、そして最後にお願いしたのが、今日の集まりに登壇していただきたいということです。山本さんはこれらのお願いに対し全て快諾していただきました。
山本さんがここに参加していただいた経緯、優しく寛容でかつ誠実な姿勢は、ひとえに亡き山﨑博昭君に引き継がれたものと思っています。ちなみに、山﨑さんは亡くなった時は京大の1回生でしたが、出身高である府立大手前高校ではラディカルな高校生活動家だったということも聞いております。そこで私から皆さんにお願いがあります。山本さんに敬意を表し、この場を借りて山﨑博昭君に黙祷を捧げたいと思います。ご協力いただける方はご起立下さい。あちらに山﨑君の遺影がありますので、そちら向かって黙祷をお願いします。
(1分間の黙とう)

ありがとうございました。」
金「本日の登壇者を簡単に説明させていただきます。高橋順一さんです。1966年武蔵高校入学、今は大学教授です。第一部の司会をお願いします。池田実さんです。都立北高校で学校封鎖を敢行して無期停学になり、後に郵便局員になっても組合運動で懲戒免職を受け、約30年にわたる裁判に勝利して復職したという、闘う男です。(拍手)繭山惣吉さんです。麻布高校では、入学生は繭山さんたちが闘った50年前の闘争を学びます。今、麻布は制服もありませんし、自由の象徴のような学校として50年間経ています。繭山さんたちの闘いがあったからこそだと思います。安田宏さんです。都立上野高校67年入学です。高校闘争の中では稀なる勝利をした学校でした。福井紳一さんです。72年慶應高校入学です。駿台予備学校の日本史では、日本でも最も有名な講師です。最後に大谷行雄です。67年教育大附属駒場高校入学です。高三の時に駒場高校でストライキをやって、当時の高校生のいわゆる勇武派学生として有名な男でした。
これから高橋順一さんの進行で会を進めていきたいと思います。よろしくお願いいたします。」

これから高橋順一さんの進行で会を進めていきたいと思います。よろしくお願いいたします。」

司会:高橋「ご紹介いただきました高橋順一です。この後、私の司会で第一部を進行させていただきます。隣に山本さんが座っていますが、私の山本さんの一番の思い出は、1969年2月21日に日比谷公会堂で開かれた『東大・日大闘争支援労学連帯集会』です。この時すでに山本さんは逮捕状が出て潜行中で、亡くなられた塩川さんが司会をされていて、『ただいま山本代表が到着しました』と言うと舞台が暗転して光が点いたら中央に山本さんがいらっしゃって、当日の基調報告をしました。それはすごい報告でした。あたかも空間を言葉の論理の刃が切り裂いていくような鋭いものでした。論理というのは、あるいは言葉というものはこんなに力を持っているかと思わざるを得ないほど素晴らしいものでした。それは、『知性の叛乱』という本の中に収録されています。その時の印象は忘れられないものがあります。
本日の進行は、私と登壇者から山本さんに問題提起をしていただきます。それぞれが高校生として関わった運動・闘争がいかなるものであり、また、そこからどのようなものを感じ、そしてそれを山本さんに対しどうぶつけていくのか、手短にお話いただいて、山本さんの方からお話いただきたいと思います。
私の方から最初にお話しさせていただきます。私の高校は東大への進学率が高い高校の一つで、東大を目指す学生が多い高校でした。そうした中で68年に東大闘争が起きた。さまざまな形で我々はインパクトを受けた。それは69年の東大入試中止だけでなく、東大へ行くものと思っていた我々の存在そのものが問われる事態というのが、68年の東大闘争だったのではないかと思います。そうした中で我々がある意味で一番インパクトを受けたのは『自己否定』という言葉でした。その当時、僕らは『自己否定』という言葉は東大生であることを否定することと受け止めていたわけですが、よく考えていくと、我々がそのインパクトを受けて高校生として活動を始めた時、我々が求めていたものは何だったのか。もちろん各学校の校則の撤廃であるとか、さまざまな具体的な要求を求めた運動があったことは確かです。ただ僕自身『自己否定』の論理という言葉にぶつかった時に、そしてそのインパクトを受けて我々の運動が始まった時に、我々が求めていたものは、むしろ言葉の上では全く逆に、ある種の『自己肯定』だったのではないか。というのは、当時の高校生は、様々な形で自分たちの存在を外側から規制され、外側から抑圧され、いわば半ば我々の存在を否定される状況にあったと言わざるを得ないような気がします。そうした我々の存在が否定される状況の中で、我々はある意味では『自己肯定』を求めて運動を始めたのではないかという気がします。『自己否定』と『自己肯定』というのは、一見すると言葉の意味としては全く逆になります。でも、我々が『自己否定』という言葉から強いインパクトを受けたことも確かです。この『自己否定』と『自己肯定』の欲求というのは全く反対のものなのかというと、よく考えてみるとそうではなかったような気がします。
東大全共闘の『自己否定』と、我々が求めた高校生としての我々の存在を認めろという『自己肯定』の欲求というのは、どこかで一周回って重なるのではないかという気がします。それは同時に、我々の運動というものが表面的には様々な政治的要求というものを抱えつつも、むしろ存在肯定を目指す、ある意味では『存在をめぐる闘争』であったのではないか。そういう意味では政治闘争と一概に片付けられない面を持っているという気がしてならないわけです。この『自己否定』と『自己肯定』との関係は何か?東大全共闘が掲げる『自己否定』というのは、やはり当時の東大の学生たちが外側から枠付けられた様々な条件の下で、いわば自己のレベルで否定を強いられていた学生たちが、否定を強いる東大の現実そのものを否定することを通して、最終的には自分自身の東大でも何でもない、あるがままの存在を認めさせるというところを目指した運動ではなかったのか、という気がしてきたわけです。それはだいぶ後になってからそういうことに気が付くわけです。
改めてここで山本さんに、あの時の『自己否定』という言葉、あるいは山本さんの『知性の叛乱』という本の中で僕が一番気になったというかインパクトを受けた言葉として『自己権力の確立』という言葉、『自己否定』ということと『自己権力の確立』ということが一体どういうふうに関わっているのかということが、さきほど我々が東大闘争の『自己否定』の論理というものからインパクトを受けることによって、表面的には全く逆に『自己肯定』を、自分の存在を認めさせることを求める運動を始めたということ、その関係というものを、改めて今、山本さんにそのあたりをどうお考えか伺ってみたいと思います。東大全共闘が掲げた7項目要求というものも、表面的には一つ一つの個別的な要求かもしれないけれども、これも条件闘争をはるかに超えた『存在をめぐろ闘争』であったのではないか、そのような気がします。
私の話はそれくらいにして、池田さんから順番にお願いします。」

池田「池田と申します。都立北高校はいわゆる進学高ではないです。進学校が高校紛争の中心と言われますけれども、実は東京だけでなく全国的にもそうではありません。高校教育、いい高校、いい大学に入っていい会社に就職するというようなそういう社会に対する否定、そして当時ベトナム反戦闘争がありましたけれど、1969年11月26日からまる1ケ月間、私たちは高校の校長室から教員室、全て封鎖し、全学ストライキ実行委員会ということで定時制、全日制、1年から3年まで1ケ月のバリケードを行いました。


12月26日の朝、起きたら外が騒がしくて、機動隊が『君たちは包囲されている。ただちに違法な封鎖をやめて降りてきなさい』というようなことを言われて、いよいよ来たかということで3人で屋上に上がって、機動隊が来たら抵抗せずに逮捕されようと考えていましたが、バリケードを破って教師が屋上に上がってきて、私たち3人を強制排除したということです。まさか教師が私たちを排除するとは全く思っていなかったけれど、教師は王子警察から事情聴取したいと言われて、私たちを裏口からこっそり逃がした。理解ある教師が多かったということで、結果的に1ケ月にわたってバリケードを築けた。私たちのバリケードのスローガンは『永続バリケードを構築せよ』ということで、このままバリケードを続けていれば革命が起こる、そのためにバリケードをずっと続けるという決意で立て籠もっていました。当時の高校生は大学生と違って家族問題、親との関係とか進路の問題だとかありましたけれど、それでもバリケードを築いたということです。結果として私を含めて6名が退学になって、処分撤回闘争をやりましたが撤回できませんでした。50年前の闘争ですが悔いはありません。これが私の原点です。


その後、中卒のまま郵便局に就職して、79年の全逓の闘争で解雇されましたが、2007年に最高裁の判決で28年ぶりに現職復帰して定年まで勤めることが出来ました。私は高校闘争を原点に、行動すれば何かが変わるという思いでやってきました。『高校生に何が分かる』とよく言われましたけれども、分からない、知らないから闘えるということもあると思うんです。今の現役の高校生、大学生の皆さんも、そういうことをヒントに活動を続けていただきたいと思います。
自分が行動することで、社会が変わる、社会を変えるということを訴えて報告とします。ありがとうございました。」

自分が行動することで、社会が変わる、社会を変えるということを訴えて報告とします。ありがとうございました。」

繭山「麻布高校1969年入学で、71年の闘争に関わりました。麻布高校は、元々かなりリベラルな学校で、創立者の江原素六は下級武士の出で、板垣退助と自由民権運動をやっていた人だったので、創立の精神も独立自治の精神ということが謳われています。
70年の初めくらいに、教員たちと話して全校集会で政治活動を含む自主活動の自由を獲得する。これに対する反動として理事会から山内校長代行が送られてくる。処分乱発、集会に出ただけで停学、生徒会は凍結。教員に対しても校長の方針に従えない教員は去ってもらっていい、こういう姿勢で文字通り抑圧的な体制を組むわけです。それに対して僕らは71年10月3日の文化祭の時に、校長たちが事務室に立てこもる中で中庭に座り込みました。かなり用意周到な準備して、討論を重ねた上でやりました。詳しい経緯は省きますが、最終的には11月の全校集会で辞任を勝ち取ることで収束しました。
なぜ僕らは起ち上がったのか?やはり退学処分や警察による暴行や逮捕も想定されたわけです。正直言って、私はかなり悩みました。政治党派という中にはいなかったし、相当悩んだ末に、最終的にはここで目の前の状況から逃げるような生き方をするのはどうかと思いました。自分の存在ということで言えば、当時、麻布から良い大学へ行って良い就職をするというレールに対して、それに乗って受け身になることについて、当時、けだるい日常と言いますか本気になれないというのが一方で強くありまして、周りの友人たちも処分されたり、学外での政治闘争で逮捕された友人たちがいて、次は自分だという思いで闘争に参加しました。ただ、やっぱり楽しいんですね。闘争前後の大学への泊り込みも含めて。そういう中に真実とか価値があることが実感できたし、自分の存在を問う中で踏ん切りをつけたというのが実のところです。ですから、たとえ負けてもそれは変わらなかったなという思いも一方であって、勝ったことによって自信が付いて、後のいろんなことに影響を与えて今日まで来ている、そういうことが大事だと思います。
山本さんに伺いたいのは、今の世の中で若者を含めて非常に不確かな存在、一方で共同体が解体している、そういう時に一つの潮流として『存在からの問い』というものが成立しうるのかということです。私自信考えていますが、時代状況がだいぶ違っていて、そんな問自体が無意味だという風潮もありますが、でも違うなと思っています。」

70年の初めくらいに、教員たちと話して全校集会で政治活動を含む自主活動の自由を獲得する。これに対する反動として理事会から山内校長代行が送られてくる。処分乱発、集会に出ただけで停学、生徒会は凍結。教員に対しても校長の方針に従えない教員は去ってもらっていい、こういう姿勢で文字通り抑圧的な体制を組むわけです。それに対して僕らは71年10月3日の文化祭の時に、校長たちが事務室に立てこもる中で中庭に座り込みました。かなり用意周到な準備して、討論を重ねた上でやりました。詳しい経緯は省きますが、最終的には11月の全校集会で辞任を勝ち取ることで収束しました。
なぜ僕らは起ち上がったのか?やはり退学処分や警察による暴行や逮捕も想定されたわけです。正直言って、私はかなり悩みました。政治党派という中にはいなかったし、相当悩んだ末に、最終的にはここで目の前の状況から逃げるような生き方をするのはどうかと思いました。自分の存在ということで言えば、当時、麻布から良い大学へ行って良い就職をするというレールに対して、それに乗って受け身になることについて、当時、けだるい日常と言いますか本気になれないというのが一方で強くありまして、周りの友人たちも処分されたり、学外での政治闘争で逮捕された友人たちがいて、次は自分だという思いで闘争に参加しました。ただ、やっぱり楽しいんですね。闘争前後の大学への泊り込みも含めて。そういう中に真実とか価値があることが実感できたし、自分の存在を問う中で踏ん切りをつけたというのが実のところです。ですから、たとえ負けてもそれは変わらなかったなという思いも一方であって、勝ったことによって自信が付いて、後のいろんなことに影響を与えて今日まで来ている、そういうことが大事だと思います。
山本さんに伺いたいのは、今の世の中で若者を含めて非常に不確かな存在、一方で共同体が解体している、そういう時に一つの潮流として『存在からの問い』というものが成立しうるのかということです。私自信考えていますが、時代状況がだいぶ違っていて、そんな問自体が無意味だという風潮もありますが、でも違うなと思っています。」

安田「都立上野高校67年入学の安田です。ちょうど私の上の学年が卒業式闘争をやって自主卒業式をやり、私たちの学年で秋にバリケード封鎖をするということで、2年がらみの闘争になりました。
山本さんに2点ほどお聞きしたいと思います。一つ目は、東大闘争で新左翼のいろいろな党派が入ってきて、なかなかまとまらないであろう各党派の中で、山本さんがどうやってリーダーシップを取られたのか。もう一つは『自己否定』それから『大学解体』ということは我々の中にも大きなインパクトをもって響いてきました。東大闘争は7項目要求を掲げて、私の知る限りでは何度も各学部の学生大会を通して多数の支持を得て、そしてストライキをやったと思います。7項目要求まではそうだったと思いますが、そこから『自己否定』あるいは『大学解体』まではすごく飛躍があると思います。その飛躍というのを、どうやって多くの支持層をその飛躍の下に獲得していったのか。元々『自己否定』というのは個人的なものだと思いますが、どのように全学的な闘いとして組織されたのかということ、この2点についてお聞きしたいと思います。」

山本さんに2点ほどお聞きしたいと思います。一つ目は、東大闘争で新左翼のいろいろな党派が入ってきて、なかなかまとまらないであろう各党派の中で、山本さんがどうやってリーダーシップを取られたのか。もう一つは『自己否定』それから『大学解体』ということは我々の中にも大きなインパクトをもって響いてきました。東大闘争は7項目要求を掲げて、私の知る限りでは何度も各学部の学生大会を通して多数の支持を得て、そしてストライキをやったと思います。7項目要求まではそうだったと思いますが、そこから『自己否定』あるいは『大学解体』まではすごく飛躍があると思います。その飛躍というのを、どうやって多くの支持層をその飛躍の下に獲得していったのか。元々『自己否定』というのは個人的なものだと思いますが、どのように全学的な闘いとして組織されたのかということ、この2点についてお聞きしたいと思います。」

福井「福井です。この中では一番若い世代だと思いますけれど、あの時の衝撃というのは自分の人生で大きなことだったと思います。
僕らの1年先輩、2年先輩が中学生の全中共闘という、全国闘う中学生共闘会議を結成しまして、1970年2月に清水谷公園に部隊が登場して、新聞にもかなり大きく報道されたことを最新知りました。
ベトナム戦争、ハードロック、アンダーグラウンドの演劇、ブラックパンサーの運動、ドラッグなどさまざまなものが一気に噴き出してくるわけです。そういう中で、全共闘の肉体を駆使した行動というものが、閉塞した状況を切り拓く、そういう空気を吸ってしまった。そして、そのことがたぶん自分の生涯に関わり続けているだろう。その時の、社会と自分との関わり方というのは、状況が変わっても政治が変わっても目の前の日常はいろんな形でぶつかるわけですから、その時の行動の基準になっていく。そうすると火花が散る。一人一人の人生を破綻させることもあるけれども、一人一人の人生を真摯に動かす、そして人生を否定するようなものではなかった。しかし、あの全共闘が切り拓いたものがどういうものであったのか。そしてまた社会と自分たちの関わりの中で、そういうものにぶつかり開放感を持つ、あるいは何かしていく。今の子たちより僕らの方がまだ元気で屁理屈を付けて抵抗できた。そういう機会や議論を失い、自分のぶつかるものは一体何なのか、敵なのかも見えない、真綿で首を絞められるような感じで追い込まれていく。そのような状況というのが続いているのではないか。
そういう状況の中で、山本先生には、今の若い世代に何か言葉があれば、自分が社会運動や学生運動に関わり始めた契機みたいなところから、何か語れるものがあったらお聞きしたいと思います。」

僕らの1年先輩、2年先輩が中学生の全中共闘という、全国闘う中学生共闘会議を結成しまして、1970年2月に清水谷公園に部隊が登場して、新聞にもかなり大きく報道されたことを最新知りました。
ベトナム戦争、ハードロック、アンダーグラウンドの演劇、ブラックパンサーの運動、ドラッグなどさまざまなものが一気に噴き出してくるわけです。そういう中で、全共闘の肉体を駆使した行動というものが、閉塞した状況を切り拓く、そういう空気を吸ってしまった。そして、そのことがたぶん自分の生涯に関わり続けているだろう。その時の、社会と自分との関わり方というのは、状況が変わっても政治が変わっても目の前の日常はいろんな形でぶつかるわけですから、その時の行動の基準になっていく。そうすると火花が散る。一人一人の人生を破綻させることもあるけれども、一人一人の人生を真摯に動かす、そして人生を否定するようなものではなかった。しかし、あの全共闘が切り拓いたものがどういうものであったのか。そしてまた社会と自分たちの関わりの中で、そういうものにぶつかり開放感を持つ、あるいは何かしていく。今の子たちより僕らの方がまだ元気で屁理屈を付けて抵抗できた。そういう機会や議論を失い、自分のぶつかるものは一体何なのか、敵なのかも見えない、真綿で首を絞められるような感じで追い込まれていく。そのような状況というのが続いているのではないか。
そういう状況の中で、山本先生には、今の若い世代に何か言葉があれば、自分が社会運動や学生運動に関わり始めた契機みたいなところから、何か語れるものがあったらお聞きしたいと思います。」

大谷「今日ここにいる方とはちょっと違うところがありまして、バリストも1日で終わっていますし、在学年数も3年のうち1年半くらいしか学校に行っていません。私の場合は高校2年くらいで自己否定に自己否定を重ねて、ただの革命家になりたい、職業革命家になりたいと思って闘ってきました。
山本さんにお聞きしたいのは、あの当時『自己否定』という言葉がありましたが、それはあくまで『帝大解体』とか、自分の所属する体制に対する自己否定だったと思いますが、革命というものをあの時点で考えられなかったのかということをお聞きしたいと思います。あの当時、どれだけの人間が革命ということを真剣にできる、あるいはやりたいと思っていたのかということを『自己否定』にからめてお聞きしたい。」
山本さんにお聞きしたいのは、あの当時『自己否定』という言葉がありましたが、それはあくまで『帝大解体』とか、自分の所属する体制に対する自己否定だったと思いますが、革命というものをあの時点で考えられなかったのかということをお聞きしたいと思います。あの当時、どれだけの人間が革命ということを真剣にできる、あるいはやりたいと思っていたのかということを『自己否定』にからめてお聞きしたい。」
山本「今日の集会ですけれども、高校生の闘争をやった皆さんの集会だからあまり僕なんかが表に出ない方がええと思っとったんだけど、大谷君に引っ張り出されて来たんですけれど、先ほどから3つか4つのことを言われたんですけれども、党派との関係というのを仰ったけども、僕は60年安保の時の入学です。それで東大闘争を闘った僕ら大学院生は全闘連と言っていたんですけれど、その他に助手共闘なんか50年安保の世代です。さっき塩川さんの話が出ましたけれど、塩川さんは58年に全学連委員長をやった、つまり唐牛全学連の前ですよ。そんなのもおるわけで、何ちゅうかオールド・ボルシェビキというのかな。だからそれなりに若い学生諸君も敬意を表してくれたんだと思います。僕は今でも思い出すけれども、塩川さんを初めて大衆の前に出したのは10月の集会で、ちょっと中だるみみたいになっとったんで、インパクトいるなということで塩川さんに喋ってもらおうということで、その時に僕は塩川さんに『元全学連委員長と紹介していいか』と言ったら『よしてくれよ』とか言って、それを聞いていたもう一人の助手共闘の人が『やっちゃえやっちゃえ』と言うから、集会で『元全学連委員長の塩川さんを紹介します』と言ったら目の色が変わったですね。そんなのがおるんかと、記者たちも雰囲気変わったです。そんなんで、若い学生諸君も僕らをそれなりに敬意を持って表してくれたと今から思うと思います。
それともう一つは、東大闘争というのは7月の段階で安田講堂を占拠している。これは本部封鎖と言ってますけれども、本当はオキュペーションなんです、占拠なんですよ。その時、全闘連の中で議論したのを覚えていますが、学生諸君はロックアウトを考えておったみたいで、本部封鎖という時に本部事務を封鎖すると。僕らはそうじゃないんだと、これは講堂開放なんだと。要するに講堂を開放して全部の学生を入れる。それが7月で、それでひと夏我々はそれでやってきて、それを維持したのはノンセクトの諸君なんです、僕ら全闘連と青医連を含めて。それが東大全共闘の中心になっているわけです。だからそれについては敬意を表せざるを得ない状態だったです。初めのうちは本部の職員と、これは本部の職員というのは文部省直属なんですけれども、毎日押しかけてきて、それとの攻防戦ですよ。僕は早いうちに機動隊が入ると思っとったんで、かなり緊張しとったですけれども、そういうことを全部耐え抜いて、雑用を全部やって、そういう意味では党派の諸君は何もやらんですよ。全体の集会の準備とか、全体の会議の設定とか、それを根気強くやったことがそれなりに、いろんな党派がいましたけれども、僕らと一緒にまとまってやれた原因じゃないかと思います。もちろんそれ以前の蓄積もあるんですけどね。それ以前の砂川闘争の時から、本郷で私は東大ベトナム反戦会議というのをやっていたんですけれども、各党派を全部集めて本郷で統一集会をやらせたりしてたから、そういう蓄積があったということもありますから、そういうことだ思います。

それともう一つは、東大闘争というのは7月の段階で安田講堂を占拠している。これは本部封鎖と言ってますけれども、本当はオキュペーションなんです、占拠なんですよ。その時、全闘連の中で議論したのを覚えていますが、学生諸君はロックアウトを考えておったみたいで、本部封鎖という時に本部事務を封鎖すると。僕らはそうじゃないんだと、これは講堂開放なんだと。要するに講堂を開放して全部の学生を入れる。それが7月で、それでひと夏我々はそれでやってきて、それを維持したのはノンセクトの諸君なんです、僕ら全闘連と青医連を含めて。それが東大全共闘の中心になっているわけです。だからそれについては敬意を表せざるを得ない状態だったです。初めのうちは本部の職員と、これは本部の職員というのは文部省直属なんですけれども、毎日押しかけてきて、それとの攻防戦ですよ。僕は早いうちに機動隊が入ると思っとったんで、かなり緊張しとったですけれども、そういうことを全部耐え抜いて、雑用を全部やって、そういう意味では党派の諸君は何もやらんですよ。全体の集会の準備とか、全体の会議の設定とか、それを根気強くやったことがそれなりに、いろんな党派がいましたけれども、僕らと一緒にまとまってやれた原因じゃないかと思います。もちろんそれ以前の蓄積もあるんですけどね。それ以前の砂川闘争の時から、本郷で私は東大ベトナム反戦会議というのをやっていたんですけれども、各党派を全部集めて本郷で統一集会をやらせたりしてたから、そういう蓄積があったということもありますから、そういうことだ思います。

それからさっきの『自己否定』と『大学解体』ですけれども、東大全共闘として闘争の過程で言い出したのは『帝国主義大学解体』。国策大学です、東京大学は。国策大学に対して『大学解体』と言ったんです。『自己否定』ということをスローガンとして言ったことはあまりないんですよね。ほとんどビラにもそんなこと書いていない。言い出したのは安田(講堂攻防戦)の後だったような気がするんですよ。そういうのを個人的に言い出して、ただ僕自身の気分はどうだったかと言うと、当時高校生の諸君からすれば僕は10年くらい年上なので、すでに大学院の博士課程の3年です。それまでに僕は66年に日本物理学会が米軍から資金を援助されていたことを巡って闘争をやっていたんですけれども、その時に教授たちとやり合うわけですよ。そうすると、最終的にはやっぱり『それでも研究が進めばいいことじゃないか』という話にいくわけですよ。僕らは『それはけしからん』と言って、そういうことに対していろんな言い訳をするわけです。『大体物理学会というようなところは研究者の研究のための同好会みたいなもんで、そういうところにそういう政治的な話題を持ち込むのはいかん』とか言ってるので、『何言ってんだあなたたちは』と。米軍は現在のベトナム戦争の一方の当時者です。そこから金をもろっといて、それはものすごい政治的なことなんだ。確かに教授が言うように見返りは要求されていない。つまりそれを直接軍事研究に使うとは言っていないけど、ちゃんと見返りとしては学会の広報物に米軍から資金援助を行ったことを書け、となっている。そうすると学会のプログラムなり何なりにそういうのを書けば、国際会議ですから世界中の物理学者がやってきて、日本の物理学会は米軍とそういう関係にあるんですかとなる。ものすごい政治的なことなんですよ。特に(ベトナム)戦争の最中ですから。『そういうことも分からんのか、お前たちは』という話になるでしょ。そうすると追いつめられて、最後は『それでも研究が進めばいいじゃないか』という話になるわけで、何はともあれ研究が進めばいい。そうすると僕らはいったい何なのか、研究を進めるというのは何なのかという話に最終的にはなるわけです。結局、行きつくのは、確かに研究者個々人にとっては好きでやっとるんだし、好きだけではない、研究で業績上げれば認められてキャリア・アップにつながる、それで自分の地位が上がっていく、そういうもの諸々含めて研究者をやっている。だけど国が何で金を出すんかといったら、それはもちろん直接産業技術の開発につながるということはあっても、それだけではないんですね。

僕はずっと考えたら、結局明治以降日本はしゃかりきになって近代化をやって科学技術の発展を進めてきたが、もちろん富国強兵、殖産興業だけども、それだけはないんですね。それをやることによって、日本は近代国家になっていくんだと、国際社会で認められていくんだというのがあったと思うんです。それはものすごく大きかったと思うんです。だから直接技術に関係なくても金を出す。特に国際的に評価される研究、特に物理とか数学に金を出すわけです。これは僕らが思っている以上に大きいと思います。たとえば中曽根が日本で最初に原子力開発を言い出したわけですが、僕らがいろいろ調べてみたら中曽根は必ずしもエネルギー問題に関心があったわけでもないと思うんです。それから直接それが核武装につながるというけれど、その段階ではあまり考えていなかったのではないかと思う。そうすると何かというと『一等国』なんです、科学技術を持つということは。これは戦前、『一等国』というのは戦艦何万トン持っているという、あれと同じ発想なんですね。それは世界中どこでもそうです。毛沢東もそうです。毛沢東も原爆を作ったからこんなもの使えるとは思ってないです、使えようがないですから、ミサイルも何もないんだから。何で作るのかというと、それは超大国の証なんですよ。原爆を持っているということは。そうすると原爆を持つ国は超大国、持たないけれども核技術を持っている国はそれに次ぐ一等国なんです。中曽根の発想はそれだったと思うんです。要するに国際社会で認められる、発言権を持っている一等国である、そのためには核技術を持たなければいけない。戦後社会はそうなんです。それをいち早く彼は見抜いたんです。そうだと思います。後になって岸信介は『潜在的核武装路線』という形で核武装の可能性を作るんだという形で路線を引いて、現在の外務省はそうですけれども。
そんな風に、科学技術の発展というのは、国家なりから見ると国のためなんですね。そういう中で学者が研究要求をするということに対して、僕はだんだん自分で疑問を持ってきた。それまでは東大の大学院なんかやっぱり、理科系なんか実質上、研究の底辺を担ってるわけです。大学院生の当然の要求みたいな形でいろいろ言うわけですよ。研究費を上げろとか、奨学金上げろとか、それが当然の権利みたいに言われていたわけです。僕も大学院に入った時、初めのうちはそんなもんかと思っとたけれども、段々それに疑問を感じてきて、そういうことの要求というのは特権的なレベルで分け前をよこせと言っているんとちゃうんか、と思われて『自己否定』というのはそういう研究者としての立場からの要求なんかではあかんのちゃうか、共感を得られないというか、難しく言えば普遍性を持たないんじゃないか。そういうものがあったわけで、だからこれは学生諸君とはずいぶん違う考えを持っていたのではないかと思いますね。例えば『産学共同路線粉砕』とか言うでしょ。後になって分かったんだけれども、学生と言っている意味が全然違っていた。学生諸君は産学共同というのは、労働者の予備軍として学生は教育されているんだから、それと闘うことが労働者と連帯することになる、みたいなことを言ってたけど、僕らはもっと現実的に産学共同というのは大学の中に企業からどんどん金が入ってきているわけですよ。すさまじいですよそれは。特に僕は60年入学ですから、60年に入学した時は原子力工学科、電子工学科が出来ているわけです。そういうところに官産学の一体の推進機構が出来ているわけです。原子力村といいますか、何と言いますか。原子力だけじゃないですよ。工学部、薬学部全部そうです。実際、そういう形で研究が進められているんです。膨大な寄付講座が出来ている、寄付金が入ってきている、だから産学共同(路線粉砕)というのは、そういうものに対するものだと思っとったんです。そういう風な企業と一体となって大学の研究が進められていく、教授の権威というのはそれで持っているわけです。工学部の教授だって大きな企業とつながっていて、毎年企業から委託研究生を引き受けて、それと引き換えに卒業生を企業に押し込むという、それでその企業から金をもらっているという、そういう構造になっているわけですね。だから産学共同というのは、僕ら大学院生というのはそういう風なところで物考えとったわけで、後で分かってきたんですけど、どうも学生諸君と話が合わんなと思っていた。だから東大の大学院生なんて特権なんです、特権階級なんですよ。あまり特権階級という意識がなかったのかもしれないけれども、やっぱりそうなんですね。そういう中で権利の分け前をというのは、民主化闘争でもそういう感じがしてしょうがなかったんですよ。権利を主張してそれなりに権利を認めさせるみたいな、そういう枠内での権利の分け前、大学の自治といっても実際は教授の特権の擁護ですけれども、権力との緊張関係で言っているわけじゃないんだから。大管法の時もつくづく思ったんだけれども、教授たちが大学の自治を守れという時は、その枠内で安定して研究できる自分の権威が守られればそれでいい、ということだったと思うんですね。むしろ学生なんかが言うと教授の自治の侵害になるわけです。特権者の権利の撤廃を要求するするみたいなものがあって、それが『自己否定』というのは今から考えるとかなり気恥ずかしい言葉でなかなか言えないですけれども、あの時は言えたのだからすごいものだと思います。そういう中で、そういうところから離れて自分たちの主張があるんだということを言いたかったようなところがあるんですね。うまく言えんですけれども。
『大学解体』というのは、かなりストレートに言うことができたです。ついにそこまで言ったかという。東大闘争が始まってすぐに出した『東大闘争勝利のために』というパンフレット、僕と3人ほどで作ったんですけれども、その時に、ちょうど1968年は明治維新100年で、明治100年の権力機構を支えてきた東京大学について書いたものですから、その時から思っていたから、闘争半年間でそこまで行けたという思いがあって、『大学解体』というのは僕自身、当時は心から言いたかったことです。

大谷君の『革命とどうつながるのか』と言われたことは、テーマが大きすぎて、あと5分で言えるものではない。
『今の若い人に対して』ということについて、これは本当にどうしていいのか僕も知りたいですけれども、僕ら本当にちょっと引き籠っとったんで、あかんと思ったのは、福島の事故の後、これは僕は後で人から聞いたんですけれども、東京大学に行った奴が『東京大学の学生は何もしとらん。シーンとしていて、立看一つ出ていない』と。もうひとつ僕の経験を言いますと、昨年、京都大学の学園祭で、京大生の山﨑君が虐殺された、その展示会を私が一緒にやっている『10・8山﨑博昭プロジェクト』の企画で京都大学で展示会をやったんですけれども、そこで数十年ぶりに大学の学園祭というところに行きました。明るくて楽しくていいんですけれども、ちょうど香港の理工大学に機動隊が突入する寸前です。僕はホテルでテレビを見たら、ニュースでその寸前の学生が思い詰めた感じで喋っている。正直、涙が出てきましたよ。京都大学に行ったらいっぱい立看は出ているんですよ、お祭りですから。『香港学生に連帯する』という看板が一つもない。僕の見た感じでは。これはやはり『あかん』と思ったです、正直。皆が皆そうなれとは言わんけれども、せめて看板一つぐらい、そういう看板なければ嘘だろうと思ったわけで、そういう意味では僕は何とか、さっきの福島の時の東京大学は何のレスポンスもないというか、シーンとして普段と変わらん状況があったということを含めて、やっぱり『俺たち間違った』と、『この50年何しとったんや』と、本当悔しいし、自分が情けないです。何で若い人たちに伝えてこれなかったんだと思います。だからそれは本当に何とか、すぐ伝えたからといってすぐレスポンスがあるとは思わんけれども、これは僕らあかんなと思う。お前ら何しとたんやと言われたら返す言葉ないですよ。もう本当にだらしない。情けないと思います。そんなんで、さっきの質問の答えにならんけれども、答えようがないんで、いい知恵があったら出してもらいたい感じです。」
『今の若い人に対して』ということについて、これは本当にどうしていいのか僕も知りたいですけれども、僕ら本当にちょっと引き籠っとったんで、あかんと思ったのは、福島の事故の後、これは僕は後で人から聞いたんですけれども、東京大学に行った奴が『東京大学の学生は何もしとらん。シーンとしていて、立看一つ出ていない』と。もうひとつ僕の経験を言いますと、昨年、京都大学の学園祭で、京大生の山﨑君が虐殺された、その展示会を私が一緒にやっている『10・8山﨑博昭プロジェクト』の企画で京都大学で展示会をやったんですけれども、そこで数十年ぶりに大学の学園祭というところに行きました。明るくて楽しくていいんですけれども、ちょうど香港の理工大学に機動隊が突入する寸前です。僕はホテルでテレビを見たら、ニュースでその寸前の学生が思い詰めた感じで喋っている。正直、涙が出てきましたよ。京都大学に行ったらいっぱい立看は出ているんですよ、お祭りですから。『香港学生に連帯する』という看板が一つもない。僕の見た感じでは。これはやはり『あかん』と思ったです、正直。皆が皆そうなれとは言わんけれども、せめて看板一つぐらい、そういう看板なければ嘘だろうと思ったわけで、そういう意味では僕は何とか、さっきの福島の時の東京大学は何のレスポンスもないというか、シーンとして普段と変わらん状況があったということを含めて、やっぱり『俺たち間違った』と、『この50年何しとったんや』と、本当悔しいし、自分が情けないです。何で若い人たちに伝えてこれなかったんだと思います。だからそれは本当に何とか、すぐ伝えたからといってすぐレスポンスがあるとは思わんけれども、これは僕らあかんなと思う。お前ら何しとたんやと言われたら返す言葉ないですよ。もう本当にだらしない。情けないと思います。そんなんで、さっきの質問の答えにならんけれども、答えようがないんで、いい知恵があったら出してもらいたい感じです。」
司会:高橋「質疑応答をやろうかと思いましたが、その時間がありません。最後の山本さんの言葉、我々自身も痛い言葉だなと思います。金を取ってくる人間が一番偉いみたいな価値観というのは、自分が一体社会的にこの世界の中でどのように位置を与えられ、どういう風に動いていくのかということに全く無自覚であるというような気がします。学生諸君もそうだと思います。そういうことに対して、今、山本さんが最後に仰られたことが切実な問題提起になっているのではないかと思います。これで第一部を締めくらせていただきたいと思います。」
金「最後の山本さんの言葉にもありましたけれども、若者たちに我々がどう答えていいのか、解答を持っていないんですよ。だからこそ、これから一緒に解答を作っていきましょうよ。最後の山本さんのお言葉を受けて、今、前に若い方たちが座っていらっしゃいますけれども、これから山本さんや運動を経験した方々と、新しい交流を結んでくれればいいかなと思います。私たちは必ず支援しますので。これで第一部は終わらせていただきます。」
(つづく)
【山本義隆氏の講演 アーカイブス】
今回の集会での山本義隆氏の発言について理解を深めるために、2年前に掲載した記事がありますので、参考にご覧ください。
今回の集会での山本義隆氏の発言について理解を深めるために、2年前に掲載した記事がありますので、参考にご覧ください。
山本義隆氏講演 1968年という時代と東大闘争を語る
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2018-07-06.html
A5版720ページ
定価3,500円(税別)
情況出版刊
定価3,500円(税別)
情況出版刊
(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com
【お知らせ その2】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」
1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。 2019年8月
●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
呼びかけ人 ・ 賛同人 (いずれかに○で囲んでください)
氏 名 (ペンネーム )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話 086-242-5220 FAX 086-244-7724
メール E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)
呼びかけ人 ・ 賛同人 (いずれかに○で囲んでください)
氏 名 (ペンネーム )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話 086-242-5220 FAX 086-244-7724
メール E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)
●基金振込先
<銀行振込の場合>
みずほ銀行岡山支店(店番号521)
口座番号:3031882
口座名:糟谷プロジェクト
<銀行振込の場合>
みずほ銀行岡山支店(店番号521)
口座番号:3031882
口座名:糟谷プロジェクト
<郵便局からの場合>
記号 15400 番号 39802021
<他金融機関からの場合>
【店名】 五四八
【店番】 548 【預金種目】普通預金
【口座番号】3980202
記号 15400 番号 39802021
<他金融機関からの場合>
【店名】 五四八
【店番】 548 【預金種目】普通預金
【口座番号】3980202
<郵便振替用紙で振込みの場合>
名義:内藤秀之 口座番号:01260-2-34985
名義:内藤秀之 口座番号:01260-2-34985
●管理人注
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html
【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は3月20日(金)に更新予定です。
コメント
コメント一覧 (2)
C:\Users\Owner\Pictures\Saved Pictures\IMG_1306.JPG
meidai1970
が
しました
zenkyoutou@gmail.com
よろしくお願いします。
meidai1970
が
しました