今回のブログは、「10・8山﨑博昭プロジェクト」のサイトに掲載された三橋俊明氏の文章である。三橋氏と「10・8山﨑博昭プロジェクト」事務局のご厚意により転載させていただいた。
「きみが死んだあとで」というのは、「三里塚のイカロス」の代島監督の最新作となる「10・8山﨑博昭プロジェクト」のドキュエンタリー映画である。8月の明大土曜会で、代島監督がこの映画について語っているので、その発言についても併せて掲載した。
映画を観たい方は、10月4日(日)に渋谷で上映会があるので、文末に掲載した案内をご覧いただきたい。

『きみが死んだあとで』の近くへ――たたかい半ばで斃れた日大全共闘・中村克己君への思いが交差する
三橋俊明(文筆家・『日大闘争の記録―忘れざる日々』編集人、第2ステージ発起人)


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[Ⅰ] 新型コロナウイルスをめぐる「騒動」がひとまず落ち着いた6月末、4ヶ月ぶりに「10・8山﨑博昭プロジェクト」の発起人会議が開かれた。その会議で、今秋、代島治彦監督作品『きみが死んだあとで』の上映会開催について話しあった。
 上映会の開催予定日などは、上映可能な会場の確保とコロナウイルスの感染拡大とをにらみながら、追ってお知らせすることになる。
 当初「10・8山﨑博昭プロジェクト」では、6月に『きみが死んだあとで』上映会のプレ・イベントを計画していた。この集会に樺美智子さん、糟谷孝幸さん、中村克己君をはじめ社会運動の渦中で亡くなられた人々の追悼を続けてきた皆さんにお集まりいただき、これまで取り組まれてきた活動の報告などをお願いすることになっていた。この試みは、「10・8山﨑博昭プロジェクト」の第2ステージが掲げている「戦争に反対することを個々人の意志によって、さまざまな分野で表明し、行動に移す、表現運動の磁場となること」への取り組みの一つでもあった。『きみが死んだあとで』というドキュメンタリー映画をベースとして、それぞれの「死」を抱えながら現在まで活動を継続してきた皆さんに糾合していただく「磁場」としての役割を、「10・8山﨑博昭プロジェクト」が果たすことができればと願っての試みでもあった。
 コロナウイルス「騒動」のあおりを受けて集会の開催は中止となったが、取り組みは決して終わったわけではない。

[Ⅱ] 今秋は、代島治彦監督作品『きみが死んだあとで』の上映会に集中することになる。
 私は代島治彦監督のドキュメンタリー作品のタイトルが、『きみが死んだあとで』だと聴いた瞬間の心臓の疼きを、今も忘れられない。
 代島監督は作品が長編になったと話した後、ゆっくりと『きみが死んだあとで』というタイトルに決まったことを発起人会議の場で告げた。間髪を入れずに佐々木幹郎さんが反応した。『きみが死んだあとで』というタイトルから発信されている「言葉の強度への信頼と敬意」について、佐々木さんは自らの信念を真摯に語った。その語りのなかにあった「きみ」の「死」が、このプロジェクトを立ち上げるきっかけとなった山﨑博昭さんをめぐる出来事であるのは明らかだった。その場に居合わせた山﨑プロジェクトの皆さんの多くが、佐々木さんと思いを一つにしていたに違いない。それは、しごく自然でまっとうな成り行きでもあった。
 だが、私の心臓の疼きは、必ずしもピタリと重なってはいなかった。
 別の思いが、同時に起ち上がっていたからだ。
 『きみが死んだあとで』というタイトルを聴いた瞬間、私の心臓に山﨑博昭さんと並んで去来したのは、1970年に日大闘争のビラを配布している最中、右翼からの突然の襲撃によって亡くなった中村克己君の姿だった。私はその訃報を、収監されていた府中刑務所の独房へと届けられた一通の電報によって知らされた。凡そ10ヶ月に及んだ独房への収監中、私は二度涙を流したが、一度はこの電報を受け取ったあとだった。
 1970年7月10日、「70年安保闘争」の硝煙消えやらぬなか、私は府中刑務所から出獄した。3月2日に「きみが死んだあとで」、社会へと復帰した。

[Ⅲ] 同じ年の7月27日、高橋和巳氏の編集で1960年の安保闘争以降に亡くなった10人の同志の死と生とを記録した『明日への葬列』(注1)が刊行された。その「序章 死者の視野にあるもの」に高橋和巳氏は山﨑博昭さんなど9人と共に中村克己君の死因について記している。
「七〇年二月、京王線の武蔵野台駅前で学園民主化を訴えるビラを散布していた日大生中村克己が、体育会系の学生に襲われて重傷を負い、数日後、病院で死去した事実は、権威にしがみつく権力附帯者たちの、保身の仕方を象徴的に示している。そして、その際も当局による死因表明は、『京王線の上り特急に接触したための、交通事故』であり『本人の不注意による自損行為である』というのだった」
 中村克己君は、1970年2月25日、日大全共闘文理学部闘争委員会の仲間とともに駅前で日大闘争のビラを配布中に、体育会系右翼集団から襲撃され、頭部の重傷により3月2日に亡くなった。享年22歳だった。
 日大全共闘は日大闘争救援会とともに「中村克己君虐殺糾弾委員会」を結成して襲撃した体育会系右翼学生の特定や接触したとされた特急電車運転手への聞き取り調査などを実施し、真相究明への取り組みを続けた。
 1970年3月11日、日比谷公会堂で中村克己君の「日大全共闘葬」が行われた。
 1971年1月30日には、青医連医師団による検証結果や聞き取り調査の報告などをまとめた冊子『70・2・25中村君虐殺糾弾』が、「中村克己君虐殺糾弾委員会」によって刊行されている。
 そして1971年3月2日の1周忌をむかえた命日、千葉県にある八千代霊園に中村克己君の墓石が完成し、集まった皆さんとともに墓前での墓前祭が開催された。この日から2020年2月23日まで、八千代霊園への墓参が、「中村克己君墓碑委員会」の呼びかけによって休むことなく50年間50回まで継続されてきた。


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[Ⅳ] 日大全共闘の有志たちが集う「日大930の会」では、「10・8山﨑博昭プロジェクト」が6月に計画していた集会にあわせて『日大闘争の記録―忘れざる日々』の第10号「中村克己君特別号」を刊行すべく準備を進めてきた。残念ながら集会は中止となったが、「中村克己君特別号」は、今秋『きみが死んだあとで』の上映会でお披露目できるように編集作業を継続中だ。
 私は日大闘争の「記憶を記録に」と掲げて刊行を続けてきた冊子の特別号を、中村克己君をめぐる痕跡の記録として、何としても残しておきたいと思っている。
 それには、理由がある。
 中村克己君の墓石について、「中村克己君墓碑委員会」が苦渋の決断をしなければならなかったからだ。
 その決断とは、50回目の墓参を最後に、墓石を撤去するという決定だった。
 中村克己君の墓石は、1万5000点もの日大闘争関連資料の収蔵を引き受けてくれた国立歴史民俗博物館でも受け入れてもらえなかった。墓石の拓本だけが、歴史資料として保存されることになった。
 墓石を撤去するという決断が、「中村克己君墓碑委員会」にとってどれほど辛く厳しい決定だったかは、簡単に語り尽くすことなどできないだろう。だが、決断は速やかに実行に移され、2020年4月25日、中村克己君の墓石は八千代霊園から撤去され、粉砕されて石片となり大地へと還っていった。
 私は「中村克己君特別号」の「はじめに」に、『明日への葬列』序章で高橋和巳氏が記した「始めは人々に悼まれた死は、十年の経過のうちに、いつしか、そっぽむかれ、無視され、――ついには、その死すら始めからなかったものとされるようになってしまっている」を引用したあと、こう書き残した。
「としたら『忘れてはならない記憶』を、どうしたらいいのだろう。
 『忘れられない記憶』は、どうなってしまうのだろうか。
 中村克己君の記憶を刻んだ墓石は、50年目に八千代霊園から撤去された。その墓石には『現在における激烈な階級闘争は自己の内的世界をも破壊する闘いとしてある』という、中村克己君が現世に書き残していった言葉が刻まれてあった」
 この、中村克己君が残していった言葉の刻まれた墓石と向きあうことは、もう、できない。

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[Ⅴ] 「10・8山﨑博昭プロジェクト」は2014年に始まり、2017年10月8日に「羽田闘争50周年─山﨑博昭追悼─」集会を開催し、萩中公園に隣接する福泉寺本堂において「50周年忌法要」を行った。福泉寺の墓地には、2017年6月に山﨑博昭さんの名前を刻んだ墓石と反戦平和を祈念する文の刻まれた「反戦の碑」が建立され、当初から目標の一つとして掲げてきた「モニュメントの建立」が実現した。
 50年という歳月を積み重ねて、ようやく建立された山﨑博昭さんの墓石。
 一方、50年目の墓参を終えて粉砕され、大地へと還っていった中村克己君の墓石。
 二つの墓石は、50年という時を共にまたぎながら、どのように交差しているのだろうか。
 佐々木幹郎さんは「人間は自らの青春を救うためにその一生を費やす―ドキュメンタリー映画『きみが死んだあとで』に寄せて」でこう語りかけている。
「死んだ人間を追悼すること。追悼し続けること。それぞれの追憶の層を何層も重ねることが、未来に何かをもたらす」
 私は、こうした誠実な「追悼」への語り口を頼りにしながら、『日大闘争の記録―忘れざる日々』を編集し「中村克己君特別号」の制作を続けている。そしてこれからも、山﨑博昭さんや中村克己君をはじめとする今は亡き仲間たちが、精一杯に生き、闘い、逝ってしまった出来事の記録をできうる限り残しておきたいと思っている。そうすることで、『きみが死んだあとで』の近くへと何とかたどり着こうとしているのだ。
 貴方にとって「きみが死んだあとで」の「きみ」とは、誰だろう。
 貴方は、「きみが死んだあとで」何を考え、何をしてきただろうか。
 果たして「きみ」の「死」は、何を貴方へともたらしただろう。
 「きみが死んだあとで」の近くへ、もう一歩近くへと、代島治彦監督のドキュメンタリー作品は私をいつまでも導いてくれようとしている。
(注1) 高橋和巳氏編『明日への葬列―60年代反権力闘争に斃れた10人の遺志』(合同出版)に記録されているのは、樺美智子、所美都子、奥浩平、和井田史朗、山﨑博昭、糟谷孝幸、由比忠之進、榎本重之、津本忠雄、中村克己(敬称略、掲載順)の10人です。



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【2020.8.2明大土曜会
代島監督「きみが死んだあとで」製作について】

今度の作品は「三里塚に生きる」と「三里塚のイカロス」に続く三部作の三本目という位置づけになるかと思います。
「きみが死んだあとで」というタイトルにしましたが、1967年の10・8で亡くなった山﨑博昭さんのプロジェクトが継続的に行われていますけれども、そのプロジェクトの記録係で2014年くらいからプロジェクトの方々と関わって、まさかあの時代をテーマにもう1本撮るとは思っていなかったんですが、結局、亡くなった山﨑博昭さんと、その友人、先輩、それから10・8で人生が変わった人、いろんな人が14人くらい出てくる映画になっています。
今、若い人の話を聴いて、若い時は問題意識を持って、時代は違うけれども突き進んでいるという感じがすごくしました。当時はベトナム反戦だったりいろんな問題があって、それぞれが自分の問題意識で社会を良くしようと思って動いた。その結果、死んでしまったり、権力が相手なのに自分たちでやり合って内ゲバまで進んだということがあって、じゃあどうしてそうなったのか。
やっぱり1967年の10・8第一次羽田闘争から佐世保のエンタープライズ寄港阻止とか王子闘争とかそのあたりまではそんな未来ではなかったわけですね。イメージが。もっと自分たちで社会革命を起こして、いい社会をつくろうということで動いていたのが、1968年の東大・日大闘争。その後、安田講堂が陥落して、でもその後も1969年は100を超える国公私立大学で全共闘運動が巻き起こっていくわけです。でも1969年の11月決戦で権力の側に徹底的に敗北する、実質的な70年安保決戦ですが、この大敗北によって70年から内ゲバが本格的に起こっていく。
その辺の一番の証言者は、今回初めてこのようなメディアに登場してくださる山本義隆さんが証言しています。山本義隆さんが映画に出ることで、あの時代を自分がどう見ていて、今どう見返しているのかということをていねいに語ってくれています。山本さんに、今の若い人にどう伝えるかというような話をしましたけれど、山本さんは「確かに否定的な側面ばかりあの時代について語られているけれど、大事なことがたくさんあった時代だったんだよ。そういうことを大事にして伝えていきたい」と言っていました。
この映画には大事な登場人物として、10・8の後にすぐに10・8救援会を立ち上げた、水戸巌さんと水戸喜世子さんの夫婦、巌さんは亡くなりましたので、喜世子さんが出てきます。喜世子さんがどう救援会を立ち上げていって、救援会がなぜ崩れ始めたのか。連赤の事件の後、内ゲバが激しくなって、巌さんが1968年の12月31日に南アルプスの剣岳で息子さんと3人で遭難しますけれども、その遭難に対しても喜世子さんがどんな思いを抱いて今まで生きてきたか、それで2011年の福島原発事故が起きた後、なぜ反原発運動に立ち上がっていったのかということまで、死んだ後の世界、時代が展開しながら映画が終わっていきます。結局、前編後編200分の映画になりました。
もう一つ描きたかったのが、山﨑博昭さんが1947年生まれなんですけれども、そういう団塊の世代がどういう時代を経て成長し、山﨑さんたちは1964年東京オリンピックの年に大阪の大手前高校に入学するんですね。65年に日韓条約に反対するデモが起きていくわけです。それが高校2年生。それでベトナム反戦運動が始まり、反戦高協が作られ、いろんなセクトが活動を活発化していく時代に彼が生きた。そういう時代の渦、高校時代からデモに行ったり、マルクス主義研究会に入ってマルクスの文献を読んだりしていたんですけれども、山﨑博昭さんは高校時代はまだセクトに入っていないんですね。現役で京都大学に入って、1年生の5月に中核派に入るわけですけれども、彼がどんな家庭環境で育ち、どんな思いで運動に飛び込んでいって、18歳11ケ月という若さで亡くなってしまったかということを描くだけで前篇が終わってしまいます。
今、仕上げに入ってきていまして、音楽は大友良英さんという「あまちゃん」とか「いだてん」のテーマ音楽を書いている方ですが、録音はもう終わりました。すごいフリージャズ的レクイエムといいますか、すごい音楽を録音できました。これからいろいろ字幕を付けたり、英語字幕を付けて海外にも持って行きたいと思っています。特に「三里塚のイカロス」は、台湾と香港と韓国の若者がすごくたくさん観てくれたんですね。香港は今難しいですけれども、そういう東アジアの若い人に観て欲しいし、日本の今青春を送っている若い人たちにも、当時どんな思いで若い人たちが石を投げたのか、ゲバ棒を持ったのか、ヘルメットを被ったのか、そこまでやったのか、その心情を理解していただけるような映画になると思っています。
(後略)

【お知らせ その1】
「きみが死んだあとで」上映会のお知らせ

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長編ドキュメンタリー映画
きみが死んだあとで
2021年公開予定
製作・監督・編集 代島治彦
撮影 加藤孝信
音楽 大友良英
制作 スコブル工房
企画・製作 きみが死んだあとで製作委員会
日本/2021年/4K撮影/204分(予定)

2020年山﨑プロジェクト秋の東京集会
長編ドキュメンタリー映画「きみが死んだあとで」上映とトーク
◆日時:2020年10月4日(日)
 ◎午前の部=10:00開場/10:30開始(14:45終了)
 主催者あいさつ/「きみが死んだあとで(上)」上映/休憩/「同(下)」上映/トーク
 ◎午後の部=15:00開場/15:30開始(19:45終了)
 主催者あいさつ/「きみが死んだあとで(上)」上映/休憩/「同(下)」上映/トーク
※ 新型コロナウィルス感染防止のため、会場の定員(178席)を考慮し、同じプログラムを「午前の部」「午後の部」二回に分けて開催します。
◆会場:渋谷ユーロライブ
 http://eurolive.jp/access/
渋谷駅下車、Bunkamura前交差点左折
〒150-0044渋谷区円山町1-5KINOHAUS2F TEL:03-6675-5681
◆入場料金:1500円
◆参加申し込み:下記のフォームから〈午前の部〉〈午後の部〉を選んで、お申し込みください。
 
http://yamazakiproject.com/application

【お知らせ その2】
「続・全共闘白書」好評発売中!

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A5版720ページ
定価3,500円(税別)
情況出版刊

(問い合わせ先)

『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  


【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。



【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。

http://zenkyoutou.com/gakuen.html


【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は9月18日(金)に更新予定です。